<   2014年 12月 ( 8 )   > この月の画像一覧

◆会報第57号より-top

f0300125_12281710.jpg
この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
このまま下にスクロールして頂くと順次連続してご参照頂けます。

◆シリーズ:“わが心の風景”(30)◆
◆《歴探ウォーク》八幡の古寺巡礼 第2回◆
◆《講演会》中村家住宅の国登録有形文化財指定◆
◆小特集: わがまち 八幡◆
◆シリーズ:“御園神社考~その3”③◆
◆シリーズ:“石清水八幡宮の歴史Q&A”⑧完◆


<< ひとつ新しい号へ   < TOPに戻る >   ひとつ古い号へ >>

ご意見は各記事下端のcomments欄をクリックしてお寄せください。

by y-rekitan | 2014-12-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第57号より-01 淀屋の手水鉢

f0300125_1123281.jpg
わが心の風景・・・(30)
淀屋遺愛の手水鉢
所在地 八幡女郎花


f0300125_0182580.jpg 松花堂庭園書院の西にある小さな庭に「砧(きぬた=洗濯後の生乾きの布を棒や槌でたたいて柔らかくしたり、シワをのばす道具)」と呼ばれる手水鉢(ちょうずばち)があります。

 これは、天下の台所「大坂」の礎を築いた江戸時代の豪商淀屋辰五郎遺愛の品と伝えられています。
 男山の麓、柴座(現八幡山柴)の淀屋辰五郎邸にあった頃、神應寺に近い谷不動から地下に伏樋し、安居橋はその裏に筧(かけい)を添わせ、居宅の庭の手水鉢に水が引かれていました。その手水鉢には、下部側面に五センチ程度の穴が空いていて、手水鉢上部、中央の二センチ程の開口部に繋がっています。
 辰五郎は、取水地との落差で生まれる水圧を利用し、手水鉢内で踊るこぶし大の石が奏でる「砧のような音」を楽しんだと考えられます。(一説には噴水を二階から楽しんだともいわれる)また、筧が伏せられた小路は、管内を流れる水の音から「ドンドの辻」と呼ばれていました。(絵と文小山嘉巳)

<<< 連載を抜けてTOPへ        この連載記事の続きは⇒⇒

by y-rekitan | 2014-12-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第57号より-02 八幡古寺巡礼2

f0300125_273775.jpg
《歴探ウォーク》
八幡の古寺巡礼
― 第2回 男山山麓の寺を巡る ―  

2014年12月 八幡市内 にて
高田 昌史 (会員)
 

 石清水八幡宮(八幡大神)が鎮座する男山の山麓には、多くの寺院があります。
今年の「第2回八幡の古寺巡礼」は、それらの寺を訪問すること(男山山麓の寺を巡る)を計画しました。当初はよく知られている泰勝寺と善法律寺の2寺院を訪問する予定でしたが、現在は無住ですが、鎌倉時代に開山された由緒ある法園寺(ほうおんじ)を追加し、3寺院を巡る計画とし、コース図を作り参加募集のチラシを作成しました。f0300125_18222845.jpg
 また、当日のガイドブックとして「しおり」を作成することとし、各寺院を訪問して、しおりに入れる写真を撮影したりご住職さんにお話を伺ったりしました。
 情報量の少ない法園寺については、善法律寺のご住職や地元の方から話をお聞きしました。また、昭和13年刊行の『八幡史跡』(京滋探遊會)に詳しく載っていることがわかり大変参考になりました。
 なお、以前の法園寺の境内は、道路際の観音堂と奥の収蔵庫のみで、草木が生い茂り荒れ放題の感じがしていましたが、最近は境内の整備が進んでおり大変気になっていました。
今回の事前調査でこのお寺は、奈良の律宗本山唐招提寺の末寺であり現在の住職は、京都壬生寺の「松浦俊海」貫主が兼務されている事を知りました。見学の約2週間前には収蔵庫に松浦住職が書かれた「釈迦如来」の額が掲げられました。

f0300125_1827438.jpg 「しおり」は前回と同様にウォーキング中でも立ち止って気軽に見ることができるA5サイズの携帯版とし、各寺院の説明は見開き2ページとさせていただきました。
 古寺巡礼の当日は八幡市駅前で受付をしてから、さざなみ公園の安居橋前に集合して例会幹事の紹介や歩行時の注意事項をお話した後に、受付で配布の「しおり」によりコースの概要説明をしてから、最初の訪問寺の泰勝寺に向かいました。参加者28名。途中から29名。
 見学の概要については、参加者である岡本さんの感想記にゆずります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
古寺巡礼 参加記
岡本 智子 (会員)

 
 京阪八幡市駅に午後1時に集合。まずは、八幡市平谷の松花堂泰勝寺へ。泰勝寺は、松花堂昭乗のお墓が男山山麓にひっそりと風雨にさらされて荒れているのを憂い、財界人の益田孝(ますだたかし)氏が墓地修築の賛同者を求めて奔走し、当時、円福寺の住職であった神月撤宗(こうづきてっしゅう)老師(後、妙心寺の管長)の発願で松花堂保存会を結成し建立されたとのことである。         
 松花堂昭乗は桃山時代に生まれ、石清水八幡宮の社僧として、瀧本坊(たきもとぼう)の住職を継いだ。和歌・書・画・茶道・作庭などの才に長じ、書では近衛信尹(このえのぶただ)・本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)とともに「寛永の三筆」として名高い。昭乗が自ら作った瀧本坊の茶席が庭内に復元されていた。f0300125_1859162.jpg
 住職さんが皆にお茶を煎れて下さり茶菓子をいただいた。そのお菓子は、茶席「閑雲軒(かんうんけん)」にちなんで「閑雲」と記されたお菓子であった。また、松花堂弁当とは、昭乗愛用の八寸四分のタバコ盆、または絵具箱を点心の器として使用され、当寺でも精進料理で使うとのことである。
 泰勝寺のお庭を住職さんが案内して下さった。南天(難転)招福の庭は、時の権力から逃れた昭乗が男山に入山し、難を転じて文化面で大成し悠々自適の生涯を送ったことにあやかり本堂の正面と南面には各種の南天が配されていた。石庭は、三途の川を渡って浄土へ船出する図が美しく、住職さんはお庭の説明をしながら、「そろそろ近い年令の方々で」と言ったので皆は笑ってしまった。f0300125_194648.jpg
 松花堂昭乗ゆかりの寺と知ってはいたが、外から見るだけだったこの寺の中に入らせてもらい、お庭を拝見し、昭乗のお墓に手を合わせ、住職さんのお話を伺いながら、お茶とお菓子もいただき、写経もさせていただき、よい経験をしたと清々しい気持ちになった。

 泰勝寺から歩いて数分。善法律寺へ着いた。
 善法律寺は、通称「もみじ寺」といわれている。f0300125_1994229.jpgこの寺は足利氏とゆかりがあり、特に石清水八幡宮の検校であった善法寺通清の娘、良子が足利義詮(あしかがよしあきら)に嫁ぎ三代将軍足利義満を産んだため義満は八幡宮を崇敬し、二十数回も八幡を訪れているという。義教(よしのり)・義政(よしまさ)もよく往来し、寺は将軍家の庇護を得て隆盛を極めた。良子は寺に多くの紅葉を寄進したとのことから別名「紅葉寺」と呼ばれたという。今年は雨がよく降り、紅葉はきれいにならないまま、すでに散ってしまったと住職さんはなげいておられました。
 f0300125_19152652.jpg本尊は八幡大菩薩。平安時代末の作。もとは、石清水八幡宮の本尊であったが、明治の神仏分離の際、この寺に安置された。八幡市指定の文化財である。その神々しさに感動した。ご本尊の八幡大菩薩のほかには、愛染明王像(あいぜんみょうおうぞう)、不動明王像があり、結髪、冠、胸飾りなど通常の阿弥陀如来とは異なる宝冠阿弥陀如来像、十一面千手観音像、地蔵菩薩像などが安置されている。

 続いて法園寺へ。
 以前、この前を通ると、木々が生い茂り荒れていたが、現在整備が進んでいる。現在は無住だが、鎌倉時代に建立された由緒ある寺院だそうだ。f0300125_19171619.jpg八幡宮の28代別当、田中勝清(田中家初代)が坊舎をつくり多年居住して園殿と号したことに始まる。八幡の法園寺が歴史上再び脚光を浴びるのは、南北朝時代の頃である。正平(しょうへい)7年(1352)、後村上天皇を擁する南朝軍が八幡に立て籠もって幕府軍と対峙する。その時、法園寺周辺が戦場になり、南朝軍の北畠顕能(きたばたけあきよし)がこの地に陣を取り戦ったと『太平記』に記されている。
 昭和9年、室戸台風で堂宇が倒壊して、堂の下敷きとなった本尊、釈迦如来像(しゃかにょらいぞう)の胎内より多くの経文が発見され仏像とともに国の重要文化財に指定されている。経文などは京都国立博物館に寄託されているが、釈迦如来像は法園寺境内の収蔵庫に安置されている。拝観できる日を楽しみにしたい。

<<< レポート一覧へ        次の《歴探ウォーク》レポートは⇒⇒

by y-rekitan | 2014-12-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第57号より-03 中村家住宅

f0300125_273775.jpg
中村家住宅
国登録有形文化財指定
記念講演会の報告

2014年11月  安居橋の袂の大歌堂中村邸にて
( 寄稿 中村富夫 )


 11月9日(日)、午後2時より安居橋の袂の大歌堂中村邸において、国登録有形文化財指定を記念して、講演会を開催させて頂きました。
 講演内容は下記の通りです。
講演Ⅰ 「大広間の絵画(渡邊祥英作)の解説と鑑賞」
          講師 摂南大学 岩間香教授
講演Ⅱ 「中村家住宅の今日までの保存修理・補修経過報告」
          中村恵子(中村家住宅当主)
講演Ⅱ 「中村家住宅の建築的特徴と最近の保存修理工事報告」
          講師 (株)KOGA建築設計室 古賀芳智室長
 34名のご出席をいただき、文化財としてのみならず、八幡の歴史との関わりや景観保存と多岐にわたり興味関心を持っていただけたことに、この記念講演会開催の意義があったのではないかと考えています。
f0300125_2311689.jpg

*** 国登録有形文化財とは ***

 文化庁のパンフによると「平成8年に文化財保護法が改正され、新たに定められた文化財です。従来の文化財指定は、主に近世以前の建造物を中心に築年代の古いものから順次進められていましたが、多種多様かつ多量に残る近代の建築物は、社会的評価を受ける間もなく、近年の土地開発等により取り壊し等の危機を迎えていました。これを受け、一定の価値のある建造物を広く保護し、近代の建築物の有効かつ適切な保護と活用を目的として、登録制度は整備されました。緩やかな規制と保護措置を講じ、所有者の意思を尊重しつつ、保護の網をかける仕組みになっています。
登録基準としては、原則として建築後5 0年を経過したもののうち、

 ① 国土の歴史的景観に寄与しているもの
 ② 造形の模範になっているもの
 ③ 再現することが容易でないもの

の条件に合致するもの」とあります。
 中村家住宅は平成24年8月に登録されました。京都府内には現在449件が登録されています。

*** 中村家大広間の絵画(渡邊祥英作)について ***
(岩間香教授)

◎ 渡邊祥英の画系
 大正13年版の「現代書画家名鑑」によれば、渡邊熊治郎52歳大阪東区内淡路町二丁目渡邊祥益円山派と書かれています。昭和9年の「大日本書画名家大鑑」によれば、
f0300125_233547.jpg
という画系になります。
祥英は父祥益に、円山派から派生した四条派を学ぶ、とも書かれています。祥英の作品は、一般の美術館にはないのですが、祥益の作品はネット上にいくつか紹介されています。また、同門の兄弟弟子にあたる日本画家上島鳳山や西洋画に転向した小出楢重の作品は高い評価を受けています。

◎ 大広間に残された襖絵「春丘図」を読み解く
 大広間の襖絵には、すみれ、レンゲ、つくし、タンポポの春の草花が描かれ、緑青をふんだんに使って描かれた丘の上には、子松(稚松)が数本描かれています。どうしてこの絵が描かれたのでしょうか。
この絵から連想されるのは「子(ね)の日の遊び」という習わしです。
「平安時代、正月初めの子(ね)の日に、宮廷では郊野に出て小松をとる習わしがあった。松は霜雪にもめげず、千年を経る木である。そこで松を引き、千代を祝ってそのあとで歌宴を張った。春のはじめの優雅な野遊びであった。」
 この襖絵が描かれた経緯はわかりませんが、この建物になぜこの絵があるか、その手がかりは歌に関係があるのではないか。建仁元年12月8日に催された有名な石清水社歌合「社頭松」が思い浮かびます。その中に、藤原定家の子為家作「男山今日の子の日の松にこそ君が千とせのためしをもひけ」と詠まれています。この襖絵が「社頭松」を意識して作られたかどうかは、今の段階ではペンディングです。
もうひとつ、興味深い事があります。襖絵がこの建物の東側に描かれているということです。伝統的な空間にある障壁画は、東側に描かれることがしばしばあります。現在、私の研究課題として調査中の京都御所にある清涼殿には、東側に春の風景が描かれています。
 では、清涼殿の東側にはどんな春の風景が描かれているかというと、作られた当時の絵はありませんが、その下絵が残されていて、そこには「小松引き」の風景が描かれています。同様に金刀比羅宮奥書院においても、東側の部屋に小松の絵が描かれています。
 この建物の襖絵に「小松図」を描かせた経緯はわかりませんので、ここでは指摘するに止めたいと思います。

◎ 上段の間の掛け軸「鯉図」を読み解く
 次に、床の間には巨大な鯉の掛け軸が掛けられています。一般の家では掛けることができない大きな掛け軸です。このような大きな画面におさめるには、相当な力量が必要です。円山派や四条派は好んで鯉の絵を描いています。円山応挙も鯉の作品を多く残しています。
 では、祥英はなぜ鯉の画材を描いたのでしょうか。八幡の皆様にはよくご存じのように、石清水八幡宮の放生会では、魚鳥を放し、天長地久・天下泰平を祈願する祭りが行われます。まさにこの祭りの時に、この掛け軸を飾ったものと思われます。お祭りの時には、掛け軸や屏風を飾る習慣があります。祇園祭の宵山の時の屏風祭が有名です。
 では、なぜこんな大きな掛け軸を描いたのでしょうか。長沢芦雪作の「白象黒牛図屏風」を見ると、巨大な白象と黒牛が描かれています。それぞれ普賢菩薩、天神の乗るり物動物であるので、祭りや儀式を意識して描かれた可能性がうかがえます。巨大な屏風を見せて、鑑賞者を驚かせることを狙ったのではないでしょうか。かつて大阪天神祭でも、家にある自慢の屏風を競って家の入口に飾って見せていました。上段の間に飾られた「鯉図」にも、そんな狙いがあったのではないでしょうか。

◎ 大広間全体がハレ
 尼野氏の別邸は非日常的な特別な空間です。折上げ格天井や上段の間といった造りの中で、襖絵には新春のイメージを描き、ハレの舞台を演出したものと考えられます。そして「石清水八幡」と「中村家の建物」と「2つの絵」を一体としてこの特別な空間は成り立っているのです。

*** 大正時代の数寄屋風書院建築大歌堂 ***
(古賀芳智室長)

 保存修理の設計管理を担当していただきました古賀様より、この建物の建築的特徴と保存修理工事報告をしていただきました。
「大阪道頓堀五座のひとつである弁天座の座主であった尼野貴之氏が大正6年頃から営んだ別邸のひとつです。大広間、西の間、旧主屋、上の蔵、門などで構成されますが、軸組等を詳細に見ていくと建築年代が同一でないことがわかりました。現在に至る経緯はまだ明確にできませんが、上の蔵に大正6年の棟札がかかっており、全体の意匠から見て大正初期から後期にかけて整備されたと考えられます。
大広間は吹寄せ折上格天井に上段と書院の間を備えた格式の高い造りで、男山を借景として、庭側の柱を極力省略した大胆な構造を持つ近代和風建築です。小屋組は太い松丸太を井桁に組んで、束と母屋で屋根を形作る典型的な和小屋形式で、数本の桔木(ハネギ)が広縁を含む深い軒の出を支えています。実質的に大広間全体の屋根の荷重は、室内の柱4本で支持する構成となっていて、この大胆な構造により、眺望を満喫するための開放的な空間を見事に実現しています。
 今回の改修は、①瓦葺きを空葺き工法(葺土なし)に改め、建物自体の荷重を軽減、②部材の腐食及び梁材の亀裂等の改修・補強、③歪みの矯正と床組の更新、④玄関廻りの意匠修復と水回りの整備を中心に、大広間と主屋に限定して、意匠性の修復と保全、構造耐力の向上を目的に改修工事を行いました。」
私自身、今回初めて間近に建物の保存修理の現場を見ることができました。大広間全体を4本の柱で支え、よくも今に残っていることに驚嘆させられました。太い梁が使われている格天井裏側の複雑怪奇な小屋組も見ることができました。床下や屋根に断熱材を敷いてもらいましたので、外部からの寒気や暖気を防ぐことができ、水回りも整備されて、住環境は現代風に改善しました。

*** 繰り返された過去の修理・修復の歴史 ***
(中村恵子当主)

 私の家内の方から、先代達や自分自身の経験を踏まえて、半世紀にもわたり中村家住宅の修理修復を行ってきた経緯を報告しました。(以下は、文責中村恵子)

 過去における主な修理・修復経過報告は、簡潔にまとめますと下記の通りです。ただし、主なおおがかりな工事のみで、ごく小さな修理・修繕は含まれておりません。
f0300125_0375996.jpg
 まず、第1期ですが、約50年間空家状態であった別宅を一般住宅として住むために6年の歳月をかけて順次修理していきました。そして第2期では修理が不可能と判断されました東側半分の建物を取り壊しました。この1期、2期の修理・修復は私の母によって遂行されましたが、その修理・修復内容は、実に幼稚でお粗末でありました。建物全体を調査することなく、無計画な行き当たりばったりで、普段の生活が出来るようにするだけで、現状で使用できるところはなるべく残し、傷んでいる箇所を修理する、といったその場しのぎの作業を何十回と繰り返したため、つぎはぎ的な修理となってしまいました。建物にとって重要な構造上の知識を知らずに行ったためでありました。当時を思いおこせば、とても残念で無駄な出費もかさみ、「もう少しベターな方法はなかったのかな」と後悔な思いでありました。
 したがって、今回の第6期の修理・修復過程においては、過去の失敗を繰り返すことなく、専門家及び学識者による確固たる調査結果に基づいて、私も主人も建築学、環境工学の知識を学び、自ら積極的に保存修理を実施し、構造上も問題のない美しい景観をよみがえらせました。
 今後は日常的な管理や手入れを念頭に、専門家による調査結果をベースに入念な計画書を作成し、またどこから修理すべきかPriority Setting、優先順位を付けて行っていくべきであると考えています。
 また、文化庁発行のパンフレットには『登録有形文化財建造物は、活用を重んずる文化財です』と記載されていますように、その活用方法、利用方法は多種多様です。もちろん一般の個人住宅として普通に生活されているお宅も多くあります。身近なところでは京都府庁のHPから検索していただきますと、聞き覚えのある旅館(俵屋)、料亭(磯松、順正、鮒鶴)、カフェ(フランソワ喫茶店、ノアノア)、記念館(キンシ正宗)、迎賓館(松本酒造)、ギャラリ-(中小路家)として上手に活用されています。
 将来の展望としまして、この大歌堂中村邸を有効に活用しながら、地域の歴史的建造物として、地域に密着して、地域の皆様に愛されながら、後世に継承していきたいと考えています。

*** 文化財を保存・継承していくための今後の課題とは ***

 弁天座の座主であった尼野貴之氏が安居橋の袂に別邸を建てた経緯は明らかではないが、大広間に残された襖絵に描かれている春丘の子松や草花、「大歌堂」と書かれた扁額から推測すると、男山の東山麓を借景とするこの大広間で催される歌会等の催物への招へいが、最高のもてなしとなっていたと想像されます。尼野氏の交友関係について、また祥英の襖絵や鯉の掛軸が残されている経緯については今後の大きな課題で、八幡の歴史とも関係し、またひも解く謎として、今調査の真っただ中です。
 歴史的経過視点に立てば、この八幡地区は石清水八幡宮との関わりで形成されてきたわけで、平安時代後期から平成の現在に至るまでのその時代々の足跡が、この八幡地区に存在しているということです。
したがって、それらをどのように発見・保存・継承していくかは、今私たちに課せられた課題ではないでしょうか。

*** アンケートから ***

興味深いお話を聴け、楽しい時間を過ごさせて頂きました。襖絵一つにしても、深い意味が含まれている。鯉も円山派の重要な要素であるとわかり、これから絵を見たり襖を見たりする楽しみが増えました。
借景が見事。この借景を眺めて研究会ないし酒宴を開けば最高!
修理改修が重ねられ、大変だったと思います。これからも文化財として大切に守っていって頂きたいと思いました。貴重な講演を有難うございました。
八幡の景観を守っていって頂きたいと思います。
八幡に中村邸があることを今日知り、いつまでも残していきたいものと思いました。大変な苦労と思います。市民の一員として、いかに協力出来るかを私達も考えたいと思います。

 皆様方より貴重なご意見を頂き、ありがとうございました。 (寄稿者中村富夫)


<<< レポート一覧へ        次の《講演会》レポートは⇒⇒

by y-rekitan | 2014-12-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第57号より-04 わが町八幡

 《小特集》 
わ が ま ち 八 幡


日頃感じている八幡の歴史や文化に対する思いを何人かの方に書いてもらいました。

他所からみた八幡の魅力
戸崎 進(会員)

 「他所からみた八幡の魅力」と聞かれて、そんな簡単にあるもんじゃーありませんよネ。それはいつも何となく気に入って八幡へ遊びに行っている具合ですからね。
 強いて言えば矢張り一番は人や仲間が気に入っているのでしょうか。そして誘われる?ままに八幡についての話を伺いに寄せて貰っている間に情報に触れているという事なのでしょうか。なにも偉そうに言うことでは無く、いつもですが話の尻から忘れてしまっている始末ですから情けないことです。何かご質問は?と聞かれますがアレッと驚くほど覚えていませんからネ。自慢じゃありません。それでも自分勝手なことだけは僅かですが残っていることもあります。この歳になると余程の感動やショックを受けた時だけなんでしょうネ覚えているのは・・・。
 そんな不自由な私が感じる「八幡の魅力」は、よく紹介される『日本永代蔵第六巻第四章身代かたまる淀川のうるし』をはじめ井原西鶴作品に登場する八幡関係のことです。と言っても専門家ではないので限られた範囲のことですよ。ごく最近に「崩し字」を忘れないために目を通した『好色一代男はずかしながら文(ふみ)ことば』の中にも「瀧本流」と言う言葉が出てきます。このように広く読まれた版本にも触れられるということは、その当時は八幡と言う所を誰でも知っていたということなのでしょう。交通の要所、京との位置関係それに関わる商いと文化人の交流など諸々が作用していたのでしようネ。勿論、八幡(はちまん)さんの存在はその環境には切っても切り離せない存在なんでしょう。まだまだミステリーがあるでしょう。
 八幡とは?他都市とは違う、独自な魅力を追及して欲しいと願っています。
八幡の魅力・八幡の自慢 「八幡ブランド」を紹介します

 自然では…
① 三川合流② 男山(里山)③ 流れ橋④ 八幡八景
 建造物・庭園では…
① 石清水八幡宮(航海記念塔-五輪) ② 松花堂庭園(茶室・美術館)③ 正法寺④ 円福寺⑤ 伊佐家住宅⑥ 村の社寺多数
 祭りでは…
① 石清水祭② 太鼓祭③ ずいき祭④ 円福寺万人講
 特産品では…
① ナシ② タケノコ③ 竹筆④ 農産物(ふれあい市) ⑤ 宇治茶
 施設では…
① 文化ホ-ル② 生涯学習センタ- ③ ふる里学習館④ スポ-ツ公園⑤ リクリエ-ションセンタ-⑥ 流れ橋交流センタ-(四季彩館)

八幡の歴史の面白い逸話
竹内 勇(会員)

 都の守り神として宇佐八幡宮より勧請して創建された「石清水八幡宮」を筆頭に多数の名所・旧跡が残されている八幡市ですが、「洞ヶ峠」と「正法寺」の逸話をご紹介します。
 石清水八幡宮の建つ男山から続く男山丘陵の端、南山の洞ヶ峠は、摂津・河内・山城を見下ろせる要衝の地ですが、明智光秀と羽柴秀吉が山﨑の合戦で対峙したとき、筒井順慶は双方から加勢を依頼されました。
 大和郡山城主筒井順慶が戦況の有利な方に味方すべく「洞ヶ峠を決め込んだ日和見主義の順慶」伝説で有名です。しかし、光秀からの助勢の要請を断り、郡山城からは出陣せず、秀吉に味方し国を守ったと地元では言われています。
 大和信貴山城の松永久秀の台頭に苦慮していた順慶は、織田信長の支援で久秀を打ち破り大和一国を授かり大和郡山城主となりました。故に、光秀に加勢するとは思われませんが、先遣隊を出していたのであれば、戦国の世ですから強い方に味方するとの考えはあったかもしれません。
 梟雄松永久秀は、信長も一目おく優れものといわれ、四層の信貴山城は安土城のモデルと伝わります。信長は郡山城を除く大和の諸城を全て破壊し尽くしました。そんな信長を順慶が悪く思う筈はありません。そういう意味では、主君信長を討った明智光秀を順慶は恨みに思っていたかもしれません。
 現在の洞ヶ峠には、萱葺の茶屋(竹林庵)が健在で美味しいいなかぼたもちが名物となっています。南山洞ヶ峠から東へ美濃山丘陵が続きますが、山手幹線が開通して大きく開発され発展しています。
 正法寺と徳川家康との関係は、正法寺・志水宗清の娘亀女が息子の正信をタライに入れて行水させているとき徳川家康の一行が通りかかり、息子をタライに入れたまま運び去った力持ちの亀女を家康が見初めて側室に迎えられたとのことです。
 慶長5年(1600)に五郎太が生まれ尾張藩主義直となりました。そこで宗清も八幡宮の神職を辞し亀女の先夫の子竹越正信とともに尾張藩に仕えました。また、正法寺・八幡宮の隆盛には、尾張藩が庇護したことが大きいようです。
 相応院の千両の寄進で、寛永7年(1630)に七堂伽藍が整いましたが、現在、本堂・大方丈・唐門と「絹本着色釈迦如来像」が重要文化財に指定されています。
 亀女(相応院)を見初めた家康の一行は東高野海道を何処に向かっていたのでしょうか。秀吉全盛時期の家康の行動は大変興味深いことです。又、正法寺は東高野街道とどの様に接していたのでしょうか。現在の正法寺の入り口は東高野街道からかなり奥にあります。
 家康は、大坂から京街道を上り、東高野街道を男山山上の「豊蔵坊」に向かっていたのではないでしょうか。「豊蔵坊」は徳川家康が三河岡崎城にいたときからの祈祷所です。そして、源氏の氏神である八幡神を参詣し、京から駿府へ帰ったのではと想像の翼を広げてみました。
 どこの街にも歴史があり、現代の私達の生活に繋がっています。子供から大人まで少し歴史に興味を持ってもらい話し合える場ができればいいなと思います。地域の中での人の繋がりが、現在抱えている社会問題の解決の糸口になるのではと確信しています。(京都府民児協会報に出稿したものを一部修正して転載させていただきました)

わがまち八幡
滝山 光昌(会員)

 昭和46年枚方市中小企業団地にあった製薬会社に就職し、すぐ隣が綴喜郡八幡町であることを初めて知った。その時は男山団地が開発中で、樟葉駅は無人駅だった。入社の翌年頃、くずはモール街が完成し、会社の寮は企業団地の中にあり、その管理人の子供を連れて歩いて見にいったことを覚えている。
 結婚して、暫らく箕面に住んだ後、昭和50年に男山団地に移住し、八幡の町民になった。昭和52年11月1日の八幡市制への施行は、偶然にも次男の誕生と同じ日となった。当時は男山団地も子供達がいっぱいで小学校も第五小学校まであった。少年野球チームも第五小学区は2チームでグランドを使っていた。
 現在、学校数は半減し、自宅近く(橋本) でも、子供の声はほとんど聞こえてこない。寂しい限りである。
 石清水八幡宮は、次男の御宮参りが初めての内殿参拝だった。御本殿の近隣には、松花堂跡、滝の坊跡、泉坊跡などの遺跡や石清水水社があり、適当な散策コースであった。残念ながら、説明板は薄汚れていて、清水社の井戸水は飲料に耐えるほどの水質ではないようである。
 円福寺は、男山団地時代、子供の乳母車を押して境内へ入ったところ、修業中は入山禁止とのことで追い出されたのを覚えている。最近、報恩講の際に、堂内の仏様を参拝することができ、鐘の音も聴くことができた。禅宗の寺院らしく威厳が感じられた。今後、八幡の文化財が適切に保存され、史料が活用されるよう願う。
by y-rekitan | 2014-12-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第57号より-05 御園神社その3

シリーズ「御園神社考~その3」・・・③

枚岡・御園神社の祭祀の比較 

 大田 友紀子 (会員) 

天岩屋戸神話 

 枚岡神社の祭祀の中で最も重要な神事は、天児屋根命(あめのこやねのみこと)が活躍した「天岩屋戸(あめのいわやど)神話」を起源とする注連縄掛(しめなわかけ)神事です。現在は12月25日に行われています。その神事は古代から行われている特殊なもので、東大阪市の無形文化財に指定されています。また「お笑い神事」という通称でも親しまれていて、その日の枚岡神社は多くの参拝者で賑わいます。その詳細は後に触れるとして、「天岩屋戸神話」を簡単に紹介します。
記紀神話によれば、高天原(たかまがはら)で乱暴狼藉を繰り返す弟スサノオの度の過ぎた悪戯をかばい切れなくなったことから、アマテラスは天岩屋戸に身を隠してしまい、世界は闇に包まれ夜が明けなくなってしまいました。困った神々は、アマテラスに岩屋から出て来ていただくために、八百万(やおよろず)の神々が知恵の神である思金神(おもいかねのかみ)に相談します。
まず、アマテラスの心をなごませる祝詞(のりと)を天児屋根命が奏上した後に、天宇受売命(あめのうずめのみこと)が伏せた桶の上で神楽を舞い踊り、神々が囃(はや)し立てて声を合わせて笑い出したりして、大いに騒ぎました。不思議に思ったアマテラスが、岩屋の戸を少しだけ開いて声をかけました。すると、神々は「あなたより貴い神がおいでになったのです」と答えました。それを聞いたアマテラスが外を見ようとした時に、岩屋の陰に隠れていた天手力男神(あめのたぢからおのかみ)がアマテラスの手を取り、岩屋の外へと引き出し、それと同時に布刀玉命(ぬとたまのみこと)が岩屋戸に注連縄をかけて戻れないようにしたのです。
こうして世界に光が戻り、もとの平和な社会になったとあります。アマテラスからその祝詞を賞された天児屋根命は、古代の祭祀を司り、神と人との間をとりなした中臣氏の祖先神とされ、その中臣氏の子孫として栄えた藤原氏の氏神として篤(あつ)く祀られることとなったのです。
天岩屋戸神話については、冬至に弱くなる太陽の力を再生する祭を反映するものと見る説や、日蝕での太陽の死と再生をあらわすものと見る説などがあり、よく似た神話が世界中にあるといわれています。

神剣が奪われる話 

 また、枚岡神社にまつわる伝承・説話を数多く記している『御神徳記(ごしんとくき)』1巻(室町時代の制作)に、神剣にまつわる話があります。それは、盗まれた太刀が霊験(光)をあらわし、驚いた盗賊が誤ってその太刀で手を傷つけ、畏(おそ)れて投げ捨てて逃げ去ったというものです。盗まれた太刀二振りは、源義経が奉納したものであったとか。
同じような話は、霊妙なる神剣・草薙剣(くさなぎのつるぎ)(=天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ))が祀られている熱田神宮にもあり、不思議なことに、熱田神宮にもご神体の草薙神剣が同神宮に還った故事を慶び伝える神事「酔笑人(えようど)神事」があり、その高笑いの声から「オホホ祭」ともいわれています。この神事は奇祭として名高く、5月4日の夜に行われています。それは天智天皇7年(668)に起こった外国の賊徒による草薙神剣の盗難事件を反映しています。事件は未遂に終わりますが、しばらく、神剣は一時、宮中に留め置かれることとなります。そして、熱田神宮に戻ったのは、朱鳥元年(686)。その時に「酔笑人神事」が始まったとされ、神剣が無事に帰還したことを喜んで「おほほほ‥‥」と笑う祭事となったのです。
枚岡神社の神事と異なっているのは、夜にこっそり神職だけで行われている点です。けれども両方とも、神剣が盗まれて後に還ってきて、それを喜び笑うと言う点が共通しています。無論、枚岡神社の「注連縄掛神事(しめなわかけしんじ)」の始まりが、神剣の帰還を喜んで始まったかどうかは不明です。けれども、笑うという行為で喜びをあらわしているという類似点があるのは事実です。 

注連縄掛神事 

 枚岡神社の「注連縄掛神事」では、その日の早朝から氏子総代らによって作られた注連縄を、参道広場に立つ注連柱に張り替えた後、宮司・神職・氏子らが真新しい注連縄の正面に居並び、お祓いの後、宮司が本殿に向かって「ワッハッハー」と高笑いをすると、後に続いて一同も和して笑います。これを3度繰り返して神事は終了します。
この神事の由来が「天の岩屋戸神話」にあることは、さきほど説明しました。アマテラスを呼び出すために、その御心を和らげる祝詞を挙げたとされる祭神・天児屋根命は、このことからまさに神事の根源を司る神であり、その祭神の神徳を偲んで行われています。なんともユニークなこの神事は、祭の場にうち揃い出て一緒に高笑いをすることで、太陽を元気づけ、一日も早い春の訪れと豊かな実りを祈るもので、農耕民族らしい一面があるともいわれています。一同うち揃って3度繰り返して笑うところは、御園神社に伝わる「三笑」とよく似ていますが、御園では本殿に背を向けて行われるという相違点もあり、それが長い年月の中で少しずつ変形してきた結果だとしたら、それはそれで面白いと思います。
枚岡神社が東大阪市の日下(くさか)に創建されたのは、「出雲の国譲り神話」と同様に、大和を譲った出雲系の饒速日尊を祀る石切劍箭(みつるや)神社が近くにあることによるのでは、と前回に書きました。石切神社にも、枚岡と同じく拝殿前に注連柱があり、注連縄が張られています。初詣の時に見受けられますが、この地方独特の様式かもしれません。同じものがあることは、とても不思議に思えます。

御園神社の「三笑」と樫の枝 

 御園神社に伝承されている神事の一つである「三笑」は、秋の例祭の中で行われています。本殿の前までやって来た一行は着くなり、くるりと本殿に背を向けて、今さっき歩いて来た方向、鳥居の方へ向かって居並び、「一ペン笑え」の掛け声の後、大声で笑います。続けて「二ヘン笑え」「三ベン笑え」と同じく掛け声の後で笑い合います。このように、一同が向く方向が違っているなど相違点もありますが、一同で笑い合うところなどに類似する点もあります。季節的にも、冬至の日に行う枚岡社と、御園社では10月の収穫後の秋祭りに行われるなどの時期的な違いがあり、大変興味深いところでもあります。
前回の御園社の「王の舞」のところで述べたように、もう一つ、共通する点があります。それは、神事に使用する樫の枝のことです。地に振り下ろす(現在の所作は変わってきていますが)棒に、何故、樫の枝を使うのでしょうか。他の樹木でもかまわないと思われますが、樫を使うことは暗黙の了解のもと、粛々と続けられています。 
そのことについては、枚岡神社の正月行事である粥占(かゆうら)神事に少し関連するところがあります。その神事は、小豆粥(あずきがゆ)を炊く大釜の中に53本の占竹(せんちく)を沈めて、中に詰まった粥の量でその年の農産物の豊凶を占い、また同時に、粥が炊き上がる前に、熾火(おきび)の上に載せておいた12本の樫の小枝の焦(こ)げ具合で一年の天候を占うという二つの占いをするのですが、枚岡社でも、なぜかこの神事に樫の小枝を用いていて、何らかのこだわりを感じます。
以前は、粥占報賽(かゆうらほうさい)祭として、1月15日に行われていましたが、占いの結果を告知する占記の制作のために今日では11日に早められています。この粥占神事は大阪府無形文化財に指定されています。
以上のことから、私は、御園神社の秋祭りの神事の形態から、社伝では春日社から祭神を勧請したとありますが、前回同様に枚岡社から直接祭神とその神事を迎えたのではないかと思っています。
ちなみに、現在行われている春日社の祭祀に、枚岡神社の「注連縄掛神事」「粥占神事」はおろか「平国祭」のような剣に関する祭祀はありません。そうすると、御園神社へは、枚岡神社より直接祭神とそのゆかりの神事が伝えられたとしか思えません。
なお、御園神社の草創時期は不詳ですが、『続日本紀』には延暦6年(787)とあります。明治期の祭礼には、楽人が行列に加わっていたとあり、「王の舞」に用いられる天狗面も大人用で、かつてはそれをかぶって舞を披露していたのではと地域の方も話しておられます。
伝わっている獅子頭も古い形で、伊勢太神楽(だいかぐら)で用いるものよりも歯のところに厚みがあります。現在の天狗・獅子ともに奉納芸能と呼べるような内容は見られませんが、天狗や獅子が登場する芸能は、中世、都を中心に流行した祭礼芸能とされています。そして、「明治43年に記された『御園神社年中祭典行事記』の記述内容と同様の所作を天狗・獅子ともに伝承されている。」と、京都府教育庁指導部文化財保護課の向田氏の講演で聞きました。
最後に特筆したいことは、「獅子蔵」のことです。他の地域では、御輿など祭礼に用いるものを保管するところを「御輿蔵」などと呼ぶのが一般的ですが、上奈良地域ではそれを「獅子蔵」と呼んでいます。そのことからも、古くから伝わる獅子面に対する思いが強かったことがわかります。

ずいき祭りについて 

 現在は「ずいき御輿」の方がつとに有名ですが、それは、応永6年(1399)、足利義満が戦勝祈願のために奈良郷を北野社に寄進したことに関わっているのかもしれません。北野天満宮の「瑞饋(ずいき)祭」では明治期に取り入れられた神幸祭の日に、華やかな稚児列などが付き従ってお旅所へと向かいます。そして、お旅所に着くと着御祭の後、八乙女による「田舞・鈴舞」奉納が行われていて、そこに、中世の祭礼芸能の一端を垣間見ることができます。
平成26年12月11日
(京都産業大学日本文化研究所上席特別客員研究員)
 


<<< 連載を抜けてTOPへ        この連載記事の続きは⇒⇒

by y-rekitan | 2014-12-28 08:00 | Comments(0)

◆会報第57号より-06 八幡宮Q&A⑧

シリーズ「石清水八幡宮の歴史Q&A」・・・⑧
第8回(最終回)


Q: 明治になって神仏分離がなされた際、田中家以外の祠官家はどうなりましたか。特に菊大路家(善法寺家)にかかわることがあればどんな小さなことでもいいので教えてください。

A: 明治になって祠官家といわれる家々は、一たん祠官という立場を離れ、還俗した上で改めて奉職するという形をとりました。善法寺家では幕末期の当主であった善法寺弘清という方が菊大路纓清(きくおおじふさきよ)と名を変え、男山八幡宮の禰宜となり(明治5~10年)、退職後は八幡町の町長に任ぜられるなど、地元の名士として活躍されたと聞いています。新善法寺澄清という方は、維新後に南武胤(みなみたけたね)と改名し、今は林姓の方が後を継いでおられます。
また田中家では、幕末期の検校であった田中昇清という方が、維新後に田中有年と名を改め、菊大路纓清氏と入れ替わるようにして明治11年から主典として奉職されました(明治19年死去)。そこへ田中家の親戚筋である大阪天満宮の神官・滋岡家から養子に入られたのが、現宮司の祖父にあたる滋岡豊丸、後の田中俊清氏です。その後、副島知一宮司の時代(昭和12~32年)が間に挟まりますが、以後は文清→弘清→恆清と、代々田中家の系統が宮司職を継いでいるのはご承知の通りです。田中家の菩提寺は八幡源氏垣外にある律宗の法園寺で、その近くに田中家代々の墓地があります。一方、菊大路纓清の後には基清という方がおられ、石清水八幡宮の常傭(後に雇)として職員名簿に記載があります(大正9~13年)が、それ以後は当宮の公的な記録から見えなくなります。聞くところでは、戦時中に菊大路基清氏は消息不明となり、後嗣もおられなかったため、ついに絶家となってしまったとのことです。但し、菩提寺の善法律寺(律宗)には、善法寺家(菊大路家)代々のお墓があり、同寺の関係者にお聞きしたところでは、今も親戚筋の方が、時おり大阪の方からお参りに来られるとの由です。
(回答者:石清水八幡宮禰宜、西中道氏) 


この連載記事はここで終りです。       TOPへ戻る>>>

by y-rekitan | 2014-12-28 07:00 | Comments(0)

◆会報第57号より-end


この号の記事は終りです。


<<< TOPに戻る       ひとつ古い次の号へ >>>

by y-rekitan | 2014-12-28 01:00 | Comments(0)