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◆会報第58号より-top

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
このまま下にスクロールして頂くと順次連続してご参照頂けます。

◆シリーズ:“わが心の風景” ㉛◆
◆《講演会》 史跡 松花堂庭園の成立◆
◆シリーズ:“御園神社考~その4” ④ 完◆
◆ ず い き 祭 り ◆
◆シリーズ:“八幡八景について” ①◆


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by y-rekitan | 2015-01-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第58号より-01 水月庵

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わが心の風景・・・(31)
水 月 庵
所在地 八幡福禄谷


 f0300125_1651538.jpg水月庵は、八幡福禄谷、通称幣原(しでわら)という、弥生時代後期の遺跡が残る地域にあります。
門前を流れる谷川には、小さな石橋が架かっていて、その右側には庵の由緒が書かれた碑が見えます。
 それによると、元は阿弥陀堂と称し、天明初年(1781年)のころ、越前(現・福井県)から霊宗尼が二人の弟子とともにこの地にやって来て、近くにある円福寺の住職、海門禅師について修行。やがて、尼僧の禅道場を開き、これが全国に流布したことで、全盛時には50~60人もの雲水が集まったとあります。その後、尼僧の修行道場は京都・一乗寺の円光寺へと移され、水月庵はその役割に終止符を打ちました。
 水月庵には、将軍家茂に降嫁した皇女和宮の深い悩みを慮った側女の一人が、彼女の死後、この庵で出家してその菩提を弔ったというエピソードが残っています。側女が和宮から賜ったという愛用の打掛けが寺宝として今も大切に保管されています。        (絵と文小山嘉巳)


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by y-rekitan | 2015-01-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第58号より-02 松花堂庭園

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《講 演 会》
史跡 松花堂庭園の成立

2015年1月  八幡市文化センターにて
竹中 友里代 (京都府立大学)


 2015年1月18日午後1時半より、八幡市文化センター第3会議室において歴探1月例会が開かれました。演題と講師は上記の通り。例によって概略を紹介します。参加者は50名でした。

はじめに

 松花堂とは、男山の瀧本坊住職であった松花堂昭乗(1582~1639年、生年には異説あり)が晩年に泉坊に引退して建立した草庵茶室です。昭乗は、能書家として知られ、「寛永の三筆」と称されました。また、画や茶に通じる文化人でもありました。
 今日は、その草庵茶室「松花堂」と庭園について様々な角度から論じてみたいと思います。

1、描かれた松花堂と泉坊

 寛政11年(1799)に刊行された『都林泉名勝図会』に松花堂と泉坊全体を描いた絵図があります。
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絵師は、奥文鳴(1773~1813)で、円山応挙の十哲の一人といわれます。産科医奥道栄の嫡男で、道栄は石清水八幡宮に石燈籠を寄進したことで知られます。奥勝右衛門家は志水の社士で、安居脇頭神人で、家康から16石6斗3升の領知朱印状を頂いている名家です。道栄は円山応挙と親交があり、その子文鳴は早くに弟子入りしたようです。文鳴には、京の夕涼みを描いた作品が多く残されています。f0300125_16555189.jpg 石清水社士家出身で、京に生まれ、応挙と父の代から親しい文鳴には、祭礼や納涼に集まる群集は身近な画題であったのかもしれません。文鳴の描いた泉坊と松花堂全図を見てみましょう。 庭園の景観や植栽が描かれています。客が庭園を経て松花堂に至り、昭乗が迎える動きを2図に表現しています。文化人を受け入れる交流の場ということがわかるでしょう。この2図が、近代の松花堂庭園を造るときのイメージになったことはまちがいありません。
 例えば、上の図で、僧侶が指さしている方向は、南山城の山並みと川です。この景観は、近代の松花堂が東車塚古墳址に移設された当時の景観と、高度差こそ違うもののほぼ同様なものではなかったでしょうか。

2 明治維新後の変転

 明治維新となり、神仏分離によって男山の仏教施設は破却されました。社僧は還俗(げんぞく)させられ、神人(じにん)等は神事に携わることが免除され生活の基盤を失うことになったのです。困窮に襲われることになったのはいうまでもありません。そこで、男山山内の仏具・金具等が売却されることになりました。
 明治元年(1868)3月から入札会が行われ、古物商にひきとられることになりました。詳細は、『京都府史蹟名勝天然紀念物調査報告』(昭和7年発行)にあります。 
 そんな中、当時の瀧本坊と泉坊を兼務していた住職の乗道が明治7年(1874)、乞われるまま、山麓の大谷治麿(中山忠光の弟?明治天皇生母中山慶子の弟?系図には無い)なる人物に、松花堂と「客殿」を金六百両で譲渡しています。大谷氏は、放生川の買屋橋のたもとの邸内にそれを移築しました。その後、明治13年(1880)に、大谷氏が当地を去る際、佐々木氏が譲り受け、松花堂と書院を志水南端の西車塚古墳址(現在の八角堂が建っている位置)の前方部の東に移築しました。その後、明治24年(1891)に井上忠継氏に買い取られ、現在の八幡女郎花の地に移築されたのです。

3、井上忠継氏について

 井上忠継(伊三郎1835~1908)は、志水町井上市兵衛の長男で、30才で八幡の加藤フサと結婚し五男四女をもうけます。そして、二男西村芳次郎と三男今中伊兵衛が協力して松花堂庭園の整備にいそしむのです。芳次郎は、京都の生糸商の西村家の養子となったので西村姓を名乗り、弟の伊兵衛は八幡の城ノ内の畳屋今中家に養子に入ったので今中姓を名乗ります。一女はときで、この人は、裁縫の師匠として八幡では大変有名だったそうです。
 井上家は、志水町の豊かな商家で、寺子屋の経営でも知られています。そのことは、『八幡尋常小学校沿革史』にある次の文章でも明らかです。
 「本校創立以前二於ケル教育ハ所謂寺子屋又ハ私塾ト称スベキモノニシテ寺子屋ニハ志水ニ井上伊三郎氏アリ」 
 忠継は、能書家でもあり、明治39年(1906)に外孫の今中歌子に自ら習字手本を作成しています。また、国学者としての面もあり、松花堂泉坊書院の主室と次之間にある「腰高明障子」に、月次絵(つきなみえ・十二ヶ月王朝人物図=大和絵 土佐光武筆)を描かせたり、色紙型の和歌(古今・新古今集から12月の季節を選定)を自筆し、古典文学や和歌研究の成果(著作物は不明)を採り入れたりしています。
 松花堂の網代天井に、土佐光武(1844~1917)が描いた「日輪に鳳凰図」があることはみなさんご存知の通りですが、大和絵の絵師との親交が窺われます。
 一方で、八幡の戸長として、明治5年(1872)からの「壬申戸籍」に関わり、困窮した八幡宮の社務等との土地売買や種々紛争の仲裁役として活躍しています。そういう意味では、八幡の「名望家」でもあったのです。

4 建物移築と庭園の原型

 忠継は、明治30年(1897)に東車塚(今の女郎花)に土地を購入しました。そのことは、松花堂横の自然石(写真)f0300125_17151921.jpgに「明治三拾稔十二月九日之日古剣鏡出現之地」と刻まれていることでもわかります。東車塚前方部を地ならししているとき、地下2尺から鏡1面と剣1口が出土したというのです。忠継は、古墳を築山に活用しました。
 明治31年2月には、泉坊の書院が棟上げされています。棟札には、「明治31年2/21施主井上伊三郎、棟梁藤下常吉」とあります。主室と次の間の襖には、土佐光武筆の大和絵をあしらい、次の間から隣室に都路華香筆「楼閣山水図」を採用します。元の書院主室の狩野山雪筆山水図に加えて、移築後に襖絵等の装飾をほどこしたことは、忠継の趣向を反映したものといえそうです。
 草庵茶室松花堂の移築は明治33年(1900)のことです。そのことは、松花堂の宝珠瓦の銘に、「山下佐々木氏より明治33年買受、月の岡に移設、斎主井上伊三郎・西村芳次郎、棟梁藤下常二郎・補助吉村常吉・同吉川新太郎、瓦師吉田粂五郎」とあることでわかります。「月の岡」とは、東車塚古墳に他なりなりません。
 女郎花塚の整備についても、現在ある庭園内の女郎花塚脇にある石碑の碑文でわかります。
「明治40年春「女郎花蹟」石碑落成 発起人井上忠継、有志横浜茂木商店・京都西村商店」と刻まれているのです。「西村商店」とは、西村芳次郎のことです。

5 西村芳次郎の庭園整備と活用

 忠継の次男芳次郎は、京都の生糸商である西村嘉助商店へ養子に行きます。そして、京都製糸会社や山城製糸会社を設立し経営者として活躍します。生糸は、横浜からアメリカへ輸出されました。年間の売上は6万円といわれます。当時の女工の賃銀などから換算すれば10億円に相当します。
 松花堂を購入し、東車塚古墳の地とその周辺の土地を購入しようとすれば莫大な資金が必要です。そういう意味から、西村芳次郎の経済活動なしには松花堂庭園造成の事業は成り立たなかったともいえます。
 芳次郎は、城陽長池の梅村氏から植栽を購入して庭園の整備に尽力します。その一方、経済界の人脈を通じて茶の湯の盛行に努め、骨董・美術品収集にいそしむのです。
 ところが、明治37年に会社は倒産。その後、書院に住み、庭石や石灯籠を配置したり、松花堂関係の書画骨董を収集したりします。
 芳次郎は、草庵松花堂と書院を「文化サロン」として活用しました。そして、京・大坂の賓客をもてなすのです。
 明治42年(1909)には、三井財閥の大番頭といわれた益田孝(鈍翁)を招き、一行を松茸狩りでもてなしています。また、同氏に、松花堂墓所の整備を相談し泰勝寺の創建につながります。これには、「松花堂会」が大きな役割を果たします。
 松花堂会は、大正3年(1914)に発起され、以後毎年5月18日に茶会が開催されています。そんな中、浜田耕作や佐藤虎雄、井川定慶、重森三玲等の学者との交流を深めます。 
 昭和13年(1938)には、徳富蘇峰夫妻を松花堂庭園に招待し、同年12月には、益田鈍翁を主催者として松花堂三百回忌茶会を掃雲台で催しています。
 また、京都の織物商である三宅清次郎の史跡建碑事業に感銘をうけ、八幡地域への道しるべの建設を勧誘しています。三宅安兵衛の遺志を継ぐもので、その道しるべは、八幡地域で100基以上あります。
泉坊書院前の東車塚古墳址に三宅碑がありますが、そこには次の歌が刻まれています。
 「世を捨てし、身はすみわたれ月の岡 心にかかる雲もなかりけり 忠継」
 そこには、史跡や松花堂ゆかりの品を観光や地域振興に活用しようとする芳次郎の意思が表れていると思えます。

6 今中伊兵衛の貢献

 井上忠継の三男、今中伊兵衛についても触れておきたいと思います。伊兵衛は、八幡城ノ内町の畳屋今中家へ養子に入りました。そして、近代石清水八幡宮御畳師神人として放生会の祭列奉仕をしています。一方で、昭和5年畳床製造機を発明し大阪へ販売するなど実業家の面も残しています。
 松花堂を思慕し、城ノ内の自宅に、山上寺院?の部材を利用し、松花堂に似た茶室を作っています。
 庭園整備にも参画し、庭園が道につながる土地や女郎花塚の確保に尽力しました。その意味で、人が集まる庭園としての土地活用の青写真を描き、企画を構想したといえます。
 明治38年頃からは、兄芳次郎の京都製糸工場を引継ぎ、長池で柞蚕製糸の実験的始業に励みます。
 昭和19年(1944)頃には、中ノ山墓地内に「正平塚」や「四条隆資」等供養塔の整備に努め、史跡保
存につとめました。

7 松花堂庭園の国指定

 昭和32年(1957)、「松花堂およびその跡」が国の史跡に指定されました。移築後の庭園内松花堂と男山の遺蹟2か所が同時に史跡指定されることは珍しいことといえます。これには、芳次郎氏没後の西村大成氏の熱意によるものかもしれません。
 戦後、松花堂とその書院は、進駐軍を接待する場として使われました。その後、吉井勇や梅原龍三郎、小野竹喬らとの親交の場としても供されています。
 昭和40年(1965)に、塚本総業が買得し、美術館(旧館)が建築されました。そのかたわら、外苑部分の整備がなされ、梅隠・竹隠・素山庵(松隠)の茶室が建造されたのです。
 昭和52年(1977)、八幡市制移行を記念し、八幡市が庭園土地建物を取得し、平成14年(2002)に、松花堂美術館が開館しました。そして、平成26年(2014)6月20日に、「松花堂及び書院庭園」を国の名勝に新指定するとの答申が出て、同年10月6日には官報で告示されたのです。

むすびにかえて

松花堂庭園の歴史的意義をまとめると以下のようになります。
(1)近世の松花堂庭園は、「都林泉名所図会」で八幡ゆかりの絵師によって描かれた。
(2)男山の坊の建物を廃仏毀釈から救済して移築した。山上坊では、八幡市内に現存する唯一の建物が松花堂と書院である。
(3)古墳を活用し、女郎花塚を整備。独自の美的感性を加味した近代庭園として再現された。
(4)現在まで史跡保存及び文化交流・地域振興の拠点として活用され続けてきた。

<参考文献>
  • 京滋探遊会発行『八幡史蹟』昭和11年
  • 京都府教育員会『京都史蹟天然紀念物調査報告書』昭和7年
  • 福西禅兆『八幡尋常小学校沿革史』(京都府立総合資料館蔵)
  • 文部省編『日本教育史資料』8 雑纂、私塾寺子屋表、明治25年
  • 井川定慶『西村閑夢翁追悼集』昭和14年
  • 中村武生「京都三宅安兵衛・清次郎父子建立碑とその分布」(『花園史学』22、2001年)
  • 拙稿「八幡市の文化遺産と調査の歩み」(『八幡地域の古文書と石清水八幡宮の絵図』京都府立大学文化遺産叢書3集、2010年)
  • 拙稿「南山城における養蚕・製糸業と長池柞蚕製糸工場」(『城陽市域の地域文化遺産』京都府立大学文化遺産叢書6集、2013年)
  • 拙稿「石清水八幡宮門前町における摂社高良社と太鼓祭り」(『洛北史学』14号、2012年)

一 口 感 想

 一口感想を紹介します。
奥文鳴と都林泉名勝図会の紹介を興味深く拝聴。更に、松花堂との関連が深まれば新しい発見がありそう。 (A)
大変詳細な資料と説明に感服しました。絵図の資料をもっといただきたいと思いました。  (竹内勇)
井上忠継、西村芳次郎、今中伊兵衛各氏のなみなみならぬ努力が拝聴でき感激でした。 (藤田美代子)
八幡に40年近く住みながら、八幡の歴史を知らず、少しでも解りたいとの思いで参加させていただいています。竹中講師の講演を聞き、パワーポイントを見て、参加者がウンウンとうなづく中、人名にしても場所にしてもちんぷんかんぷん!歴史を探究する会を入り口にして少しでも理解を深めていきたいと思います。 (小林喜美代)
石清水八幡宮の山麓にある松花堂跡は、松花堂庭園と共に昭和32年に国の史跡に指定されたとのことです。この遺跡は、現在、案内板があるのですが、荒れ放題です。近くには石清水社・石清水井もあり、八幡市で整備なりなにかできるのではないでしょうか。 (滝山光昌)
松花堂庭園の成立にいたる、近世から近代への変遷の歴史を学び、神仏分離の時代の過酷な波とそれに抗う先人の熱い意思が伝わってきて、歴史のだいご味を味わった思いがしました。ありがとうございました。 (B)
                                  【文責=土井三郎】

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by y-rekitan | 2015-01-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第58号より-03 御園神社その4

シリーズ「御園神社考~その4」・・・④

長岡京と御園神社の創祀

 大田 友紀子 (会員) 

長岡遷都にみえる桓武天皇の意図 

 御園神社の創祀時期は不詳で、延暦6年(787)とする説(『続日本紀』、および社伝)もあります。その年は長岡京遷都(784)から3年目に当たります。この年の10月8日に「水陸の便なるをもって都をこの邑(むら)に遷す」との詔(みことのり)があり、同年11月5日には、交野(現河内国の枚方市楠葉一帯)に郊祀壇(こうしだん)を築き、「天神(あまつかみ)」を祀っています。この詔と日本での最初の「郊祀」挙行には、桓武天皇が、皇統の刷新を成し遂げた自身の姿を、理想とする中国皇帝の姿にかさね併(あわ)せて、自身を祖とする新王朝の成立を高らかに宣言する意図がありました。河内国交野郡(現枚方市楠葉)に鎮座する交野天神社(かたのあまつかみのやしろ)の祭神は、この時「天神」として祀られた光仁天皇で、天児屋根命(あめのこやねのみこと)を合祀しています。この地は、後で述べますが、百済王氏(くだらおうし)の根拠地の一つでした。
f0300125_10571450.jpg 郊祀(こうし)とは、毎年冬至の日に挙行され、都の南に天壇(てんだん)を設けて、天帝(てんてい)を祀る中国の皇帝の祭祀です。漢代には儒教によって典礼化されて帝王の特権となり、これを執行して帝王の威厳を示しましたが、わが国で初めて行ったのが桓武天皇です。平城京を造り君臨した天武系の皇統との決別を、天下に示す演出でもあったのではないでしょうか。
 中国では国を治める帝王を天の支配者である天帝が承認するとされ、その天帝への儀式ですが、桓武天皇は中国的祖先祭祀とし、父である光仁天皇を「天神」に見立てて行っています。中国では皇帝の政治がよろしくない場合に、天がそれを裁く意味で災害などが起り、皇帝に対する民意が失われ、それゆえに王朝の交替がおこるとの思想があります。けれども、日本では世襲王朝による統治を可能にするために、「御霊(ごりょう)」のしわざとして天変地異が起こると改められました。その祟りをしずめるための祭祀を執り行うことで収まるとされ、御霊信仰が盛んになって行きます。よく早良親王の祟りが長岡京廃都の理由にされますが、渡来人たちを通じて中国の新思想などを吸収していたと思われる桓武天皇が、祟りそのものを恐れたとは思えません。もし、祟りそのものを恐れる思想が古代日本の社会にあったのであれば、長屋王の一族を無実の罪で落としいれた藤原不比等の息子たちが天然痘により次々と亡くなったその時に、長屋王の祟りがクローズアップされて、王位継承問題や遷都騒ぎなどが起こって大混乱に陥っていたのではないでしょうか。そんなところに私は、桓武天皇の側近であった者たちの実に巧妙な政治力をみるのです。

藤原諸家の人々と長岡遷都

 天応元年(781)4月3日、平城京において桓武天皇が即位し、弟の早良親王が皇太子となります。父光仁天皇の譲位を受けてのことです。渡来人の血を引く母・高野新笠の血筋からして皇位にはむしろ遠い存在でしたが、式家の始祖である宇合(うまかい)の三男である百川(ももかわ)の擁護などにより、皇太子の座を勝ち取ります。それからは発想の転換をされたようで、逆にその渡来人の人々を積極的に登用して2度の遷都を可能にし、今日まで続く王朝を打ち立てた手腕は評価されてもいます。
 古代日本では女系血統を重んじる思想が根強く残り、あの藤原不比等ですら、「貴種の血」として尊ばれた蘇我連子の娘娼子を正妻にして3人の息子を儲けています。3人の息子たちは、嫡男武智麻呂(むちまろ)は南家を、次男房前(ふささき)は北家を、3男宇合(うまかい)は式家をというようにつぎつぎと家を興しています。その中でも、房前には牟漏(むろ)女王(橘諸兄の姉妹)を正妻とし、称徳天皇と道鏡の政権下に左大臣となった温厚な政治家である永手(ながて)が生まれています。しかし、それぞれに蘇我氏の母を持つ不比等の息子3人ともが天然痘の流行により、天平9年(737)に相次いで亡くなります。そのことに起因して、藤原氏の3家による政権争いが繰り広げられることとなって、桓武天皇の登極を画策して実現させた式家が、まずは勝利を手にしました。
 神護景雲2年(768)、称徳天皇の勅命により、大納言藤原永手が春日大社の社殿の造営を開始します。その時、鹿島神宮の武甕槌命(たけみかづちのみこと)、香取神宮の経津主命(ふつぬしのみこと)を、枚岡社から勧請した氏神2神より上位に祀りました。そのことについて、一説には、常陸守として蝦夷を平定した式家の祖宇合が鹿島・香取両神の霊威を感得し、新たな氏神として重んじたためともいわれています。枚岡神社の天児屋根命・比賣御神(ひめつみかみ)の分祀により、枚岡社が「元春日」と呼ばれたことは前に書きました。その頃は、3家の人々の思いが、それぞれ一族の長を失ったという危機意識の中にあり、混沌としていたのかもしれません。

百済王氏と藤原南家

 第50代天皇となった桓武の側近の一人である藤原継縄(つぐただ)は、不比等の嫡男武智麻呂の子息豊成を父とする南家の旗頭です。継縄の妻である百済王理伯の娘明信は桓武天皇の後宮の女官で、明信はことさら桓武の寵遇を受けていました。桓武天皇が篤く信頼を寄せた百済王氏は、皇極天皇2年(643)に百済から来朝した百済国最後の王・義慈王の2人の王子の一人善光(禅広)を祖としています。善光は、百済滅亡後も日本に居住し、天智天皇3年(664)3月条に「百済王善光等を似て難波居らしむ」とあり、最初は難波が根幹地であったようで、持統朝には「百済王」の氏姓を賜与されています。その後、天平勝宝2年(750)5月には、一族の宮内卿敬福が河内守となった時に、水害の多い難波を離れ、河内国交野郡(現枚方市付近に相当)に移ったと考えられています。敬福は善光の孫良虞(りょうぐ)の3男で従五位上陸奥守となり、現地に赴き金鉱を発見して、天平21年(749)2月には、東大寺大仏建立の際に、大仏を荘厳(しょうごん)するための塗金に使用する黄金九百両を貢上しました(『続日本紀』)。そのことは、ことのほか聖武天皇を喜ばせて、敬福への恩寵は他に比して甚だしく、その後に彼は従三位に至っています。継縄の妻である明信は敬福の孫娘にあたり、幼少の頃から利発で美貌の持ち主であったようです。
 桓武天皇は自身の生母である高野新笠を百済王氏の出自に擬し、同氏を「朕之外戚也」(『続日本紀』延暦9年(790)2月甲午条)と言って厚遇しました。そして、天武系から天智系への皇統の交代を易姓革命(えきせいかくめい)(※)と意識していた桓武は、彼らの根幹地である交野の地を郊祀挙行の舞台としたことは、前に書きました。桓武朝では他の渡来系氏族の登用も多くありましたが、百済王氏はたんに百済王族の末裔というにとどまらず、長期間にわたって高位の人物を輩出していて、敬福のような特殊な恩寵を被った人物を得たことなどから、平安初期には多くの后妃を入れるなど、王権との間に特殊な関係を持続することに成功しています。こうした例は、藤原氏以外では極めて少なく、ましてや渡来後の活躍が著しいことで著名な秦氏一族などと比べてみても、その処遇は異例中の異例といえると思われます。
 桓武天皇のたびたびの行幸地となった枚方の南楠葉には、「ケイジョウ屋敷跡」と語り継がれた一角があり、継縄の自邸(または別荘)があったのではといわれています。そして、淀川沿いには「大瀬戸」の船溜(だ)まりがあり河港が形成され、その近辺には天皇家の馬を飼育する広大な牧があり、そしてその傍近くの継縄邸から、淀川越しに長岡の地を見た桓武天皇は遷都を決意したのでは、という逸話があるくらいです。
また、その邸宅から朝夕仰ぎ見る男山に鎮座する狩尾社(とがのおしゃ)に、祭神の天照大神(あまてらすおおかみ)・大己貴命(おおあなむちのみこと)に加えて、氏神である天児屋根命(あめのこやねのみこと)を迎えたのは継縄ではないかと思います。その時、初めて天児屋根命を直接枚岡社より勧請したのではないでしょうか。そして、淀川水運を見守るために狩尾社を、那羅郷の地には御園神社を創建して木津川水運の守護を担う社にし、新都の南東を守護する2社を配置し、それと同時に南家をも守護する2社を構築することに継縄の目的があった、と私は考えました。
 その後の式家は、造長岡宮使藤原種継(たねつぐ)(2男清成の子)暗殺事件の後、桓武皇后乙牟漏(おとむろ)の死や、桓武の妃となった、百川の娘旅子(淳和天皇母)の死などがあり、平城(へいぜい)上皇と嵯峨天皇の争い(薬子(くすこ)の変)で種継の息子仲成が失脚するなどして振るわなくなりました。
南家の方も、百済明信の生んだ乙叡(たかとし)が姪である吉子(麻呂の4男乙麻呂の孫娘)が生んだ伊予親王の変で失脚します。乙叡の孫の保則(825-895)は、国司の中でも「良史の鏡」として名をはせ、院政期の信西まで学問の家として残って行くのです。
 最後に、歴史に「もし」はありませんが、せめて後10数年、長岡京が続いていたとしたら、向こう岸の八幡はどんな役目を担うところになっていたでしょうか。木津川水運の重要な河港になっている那羅郷が発展して、「南春日」とでも呼ばれる御園神社(むろん神宮寺が近くに創建されている)があり、美豆が門前町として賑わって、ひょっとしたら、後からやって来た石清水八幡宮との2大宮寺が存在する宗教都市となっていたかもしれません。少なくとも現在とは違う顔をした地域になっていたことでしょう。
 今年の1月16日の京都新聞の朝刊に、木津川の向こう岸の久御山町佐山の雙栗(さぐり)神社の神事である粥占(かゆうら)神事についての記事が載っていて、興味を惹かれたのでそのまま引用します。
 「15日未明、農作物の豊凶を占う伝統の粥占神事が営まれた。今年は豊作の傾向だが、10月に台風が多いという結果が出た。神事は、地元の米5合、小豆3合を、作物の名前を書いた札をつけた竹筒(内径1センチ、長さ約10センチ)8本とともに大釜で炊き、竹筒には入った粥の量で作物の出来や気候を占う。天気予報がなく、天災になすすべの無かった時代の農民には、一年の指針を決める大切な神事だったという。(略)奥村宮司は「天候はほぼ安定しているが、10月の短期間に台風が集中的に来る」と判定した。結果はすぐに表に手書きされ、氏子に配られた。」
 今、私の心の中には、上奈良の集落の木津川を挟んだ向こう岸の集落の雙栗神社に「粥占神事」が伝わっていることに不思議な思いと、なんとなく嬉しい思いが交差しています。 【完】
平成27年1月18日
(京都産業大学日本文化研究所上席特別客員研究員)

 
※易姓革命(えきせいかくめい)=統治者の姓がかわる(易)のは、天命があらたまった(革)ものだの意。中国古来の政治思想。徳のある者が徳のない君主を倒し、新しい王朝を立てること。(編集担当より)

この連載記事はここで終りです。       TOPへ戻る>>>

by y-rekitan | 2015-01-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第58号より-04 ずいき祭り

ずいき祭り
―大福梅のお茶をいただきながら―
野間口 秀國 (会員)


 会報55号から続く大田友紀子さんの「御薗神社考」は神代(かみよ)の昔にまで遡る労作でありとても興味深く読ませていただいております。氏の幅広く奥深い知識には到底およぶものではありませんが、書かれたことを読みながら御薗神社と北野天満宮との歴史的な繋がりの理解が少しだけ進んだように思っています。
 すでに二年以上過ぎましたが、2012年10月7日は晴天に恵まれ、その前日の新聞記事を読み、御薗神社秋祭りの「ずいき神輿」巡行と舞いの奉納を見学しました。以下は書き留めた見学時メモの一部です。

(略)上奈良の公会堂を目指し、ねり歩くずいき神輿を見つけ、素晴らしい出来栄えにシャッターを数回押す。(略)しばらく府道を引きまわされた後、神輿は御薗神社へと導かれた。神社では主催関係者(?)の発声で笑いの三本締めが行われた。続いてお酒や米、野菜、果物、料理、餅などが奉納され、天狗の面をつけた稚児が左手を三回廻して左手で前を突くようなしぐさをし、右手でも同じ動作をして神に納めた。その後、大人の男性二名による獅子舞が奉納された。稚児の祈りと大人の獅子舞奉納は二回づつ行われた。f0300125_11143866.jpg(略)近くの老齢のご婦人から、ご主人が神輿の飾り付けをされたことをお聞かせいただいた。また、使われたずいき(サトイモの茎)以外の野菜や果物などは何名かの地元の方々が育てられたものを出し合っておられることも教えていただけた。五穀豊穣祈願と収穫への感謝を込めた祭りだけに、ずいきの他にも穀物、野菜、豆類、果物などゆうに二十種類以上は確認できた。-- メモ引用終わり --

 昨年の10月に流れ橋交流プラザに開店した地元野菜の販売所に年末に足を運んでみました。そこには地元で採れたみずみずしい野菜が多く並んでおり、買い求めた小芋が雑煮の椀に登場しました。きっと神輿を飾った野菜を提供なさった方々の手で育てられたのでしょう。
 先月会った宝塚に住む知人のYさんが「最近のマイブームは京都・観光文化検定試験だ」と話してくれました。彼が受験したか否かは聞きそびれましたが、平成26年度の同試験の3級問題(5-46問)に『五穀豊穣を祝い、毎年10月1日から5日に瑞饋(ずいき)祭りが行われる神社はどこか。』との問いがあり(*1)、解答が「北野天満宮」であることが分かったのは小さな喜びでした。これも冒頭の大田さんの連載から得られた知識と自らの体験から学んだものと思っております。書かれたものに出来るだけ目を通し、現場に足を運び、見たり聞いたりしていると歴史への理解が少しづつ深まるような気がしております。他にも、同試験の2級問題、1-4問(解答:尊勝寺)と3-29問(解答:浄瑠璃寺)も関連新聞記事(*1)や現地発掘説明会(*2)での学びが役立ちました。
 ひつじ年の穏やかな正月。師走に北野天満宮に足を運び、買い求めた大福梅のお茶をいただきながら、家族の健康を願うとともに、起源と伝わる村上天皇の天暦の御代(947~957年)の出来事に思いをはせていました(*3)。

 参考資料
(*1):共に2014.12.19の京都新聞記事
(*2):2014.12.20の実施時配布資料「尊勝寺跡・白河街区跡・岡崎遺跡発掘調査現地説明会資料-九体阿弥陀堂の調査成果-」
(*3):北野天満宮の大福梅、福寿園の大福茶に添えられた説明文
by y-rekitan | 2015-01-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第58号より-05 八幡八景①

シリーズ「八幡八景について」・・・①
八幡八景について-その1

   安立俊夫 (会員) 


1 昭和の八幡八景

 八幡市発行の「くらしのガイド」に「八幡八景」が掲載されています。その説明書きには「八幡八景は、昭和57年11月、市制5周年を記念し、広く公募して制定したものです。また、八景の情景を詠んだ短歌は、文化センターのオープンを記念し、公募して昭和58年11月に制定しました。」とあります。以下に紹介します。

<早春>安居橋の朧月
  男山静まるふもと安居橋
  水ふくらみて朧月照る
      (八幡山柴)


<新緑>流れ橋の薫風
  薫風を背にうけつつ流れ橋
  自転車軽く漕ぎて渡るも
     (上津屋浜垣内)


<盛夏>松花堂の緑陰
  人の世の雑事をのがれ一刻を
  苔むす露地の緑樹に立つ
      (八幡女郎花)


<処暑>男山団地の夜景
  働きしひと日の疲れこころよく 
  男山団地の夜景に帰る
       (男山地区)


<新秋>梨狩りの歓声
  野ずら吹く風を浴びつつ梨の実を
  もぐおさなあり肩車して
      (川口地区)


<霜降>有都の穂波
  有都よぎる風に穂波はゆらめきて
  しじまを破り威し銃鳴る
      (東部地区)


<初冬>美濃山の竹林
  美濃山の竹林つづく小春日に
  手入れひたすら鍬振う人
      (美濃山地区)


<小寒>八幡宮の初春
  初春の八幡の社の石畳
  破魔矢ゆれて晴着行き交ふ
     (八幡高坊)

2 八景とは何か

 「八景」とは日本国語大辞典によりますと、「ある地域で、特にすぐれた八か所の景色」と出ています。日本では、「瀟湘八景(しょうしょうはっけい)」に直接影響を受けて考案された「近江八景」が最初の例とされているようです。日本各地には多くの八景があり、全国に亘って八景が選定されています。一説にはその数はゆうに1000を超えています。(『八景小考』田中誠雄著 H25)
 「瀟湘八景」は中国湖南省にあり、洞庭湖に注ぐ瀟水(しょうすい)・湘江(しょうこう)周辺の景色で、蘇軾(そぶ、北宋)の詩に友人の宗迪(そうてき)が図を描いたとされています。この八景が、鎌倉時代から室町時代に日本にもたらされ、日本絵画・詩歌などにも大きな影響をあたえました。瀟湘八景そのものが題として扱われるとともに、近江八景に代表される日本各地での八景の選定と詩歌が詠まれました。この流れが、冒頭の八幡八景にもつながってきているのです。主な八景を以下に紹介します。

瀟湘八景(11世紀の成立)
  遠浦帰帆、山市晴嵐、漁村夕照、瀟湘夜雨、洞庭秋月、平沙落雁、江天墓雪、
  煙寺晩鐘
近江八景(16世紀末の成立)
  矢橋帰帆、粟津晴嵐、勢多夕照、唐崎夜雨、石山秋月、堅田落雁、比良墓雪、
  三井晩鐘
八幡八景(1694年の成立)
  橋本行客、雄徳山松、極楽寺桜、猪鼻坂雨、安居橋月、放生川螢、月弓岡雪、
  大乗院鐘
寺田八景(1819年の成立)
  木津川舟、観音寺清水、寺田里夕、水度坂雨、鴻巣峰月、久世野螢、鷲坂積雪、
  水度社燈

3 柏村直條の活躍

 さて、元禄期の「八幡八景」を編集したのは、柏村直條(かしむらなおえだ、左兵衛・愧哉・柏亭1661~1740年)です。
直條は石清水八幡宮の相撲神人を務めるかたわら、文化人として朝廷にも聞こえるほどの和歌や連歌の道に通じていました。上記のような八景の流れの中で、石清水八幡宮周辺の八景選定と詩歌の収集を企画しました。完成までに前後10年かかったようです(直條から棚倉将監への書簡)。残念なのは、いつ・どのように・なにが権威づけられたのか?あるいは石清水八幡宮へ奉納されたのかは現在のところ史料がありません。わずかに柏村家家譜(かふ、個人蔵)の元禄6年(1693年)の記述に「八幡八景題詠幸仁親王聞也/太上皇定冬十二月歌詩図画共成」の記述が見え、この時に正式に決定されたのではないかと思われます。八景の場所と事象は先に示したとおりと思われますが、漢詩・和歌については不明です。おそらくその後山田直好が正徳6年(1716年)に写したとされる「八幡八景」の最初に掲載された漢詩・和歌が当時決定されたものではないかと思われます。昭和9年に加賀翠溪が写した八幡八景の巻頭の詩歌と一致すること、『男山考古録』(嘉永元年1848年)に収録されている八景和歌とも一致するからです。
 その後も直條は漢詩・和歌及び連歌発句(れんがほっく)の収集に力を注ぎます。
公家・禅僧・儒者を中心に和歌・漢詩を、連歌衆には発句の創作を要請しています。史料によると宝永5年(1708年)にできたものもあり、実に粘り強く長期にわたって収集しています。この間に収集した漢詩は72編、和歌は45首、発句は88句を超えています。漢詩は公家衆のほか京都の主な禅宗の寺(相国寺、天龍寺、大徳寺、妙心寺、万福寺)よりそれぞれ一組依頼収集しています。直條本人も和歌・発句にはすべて出詠し、祖父の遺した句を採用したほか、母の出詠も多くみられます。
 また『男山考古録』によると享保9年(1724年)頃には既に新八幡八景が選定され詩歌も詠まれています。そのうちのいくつかは同書に紹介されてもいますが、この全体像は不明です。
 尚、八という数字は、たとえば「八方」「八紘」「八荒」「八州」というように、空間的に「すべての方角」「すべての土地」といった意味です。


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by y-rekitan | 2015-01-28 08:00 | Comments(0)

◆会報第58号より-end

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by y-rekitan | 2015-01-28 01:00 | Comments(0)