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◆会報第59号より-top

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
このまま下にスクロールして頂くと順次連続してご参照頂けます。

◆シリーズ:“わが心の風景”㉜◆
◆《講演会》二宮忠八と八幡◆
◆松井横穴群に学ぶ◆
◆シリーズ:“八幡八景について” ②◆
◆平野山・西山はミステリー◆


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by y-rekitan | 2015-02-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第59号より-01 洞ヶ峠

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わが心の風景・・・(32)
洞ヶ峠
所在地 八幡福禄谷


f0300125_11512597.jpg洞ヶ峠は男山丘陵部の最も高い位置にあり、古くは山城国と河内国との国境で、峠のたたずまいが洞穴に似ていることから、その名が生まれたと伝えられています。
 この峠は、高野山へと続く道として、多くの信者が越えて行きましたが、一方で、摂津、河内、山城の三国を一望できることから、中世には戦略上の拠点となり、陣所が築かれては、争奪戦が繰り広げられたそうです。
 峠の名を一躍天下に知らしめたのは、天正10年(1582)の明智光秀と羽柴秀吉の山崎合戦でした。大和郡山の城主筒井順慶は、光秀に加勢を頼まれて、この峠まで出陣したものの、戦況の有利な方に味方しようと、ここから観望したといいます。この故事から日和見をすることを「洞ヶ峠を決め込む」という言葉が生まれました。しかし、実際には、洞ヶ峠には出陣していないというのが真相のようです。
 順慶は、その2年後、36歳という若さで亡くなりますが、茶の湯、謡曲など教養高い武将だったそうです。    (絵と文: 小山嘉巳)

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by y-rekitan | 2015-02-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第59号より-02 二宮忠八

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《講 演 会》
二宮忠八と八幡

2015年2月  飛行神社3階ホールにて
友田 享 (飛行神社 宮司)

 2015年2月12日、午後1時半より八幡市八幡土井の飛行神社にて、標題のタイトルで講演と交流の集いが開催されました。参加者47名。いつものように概要を紹介します。

生い立ち

 二宮忠八は、慶応2年(1866)6月9日、現在の愛媛県八幡浜市に生まれた。二宮家の先祖は伊予大洲藩の武士であったが、忠八の4代ほど前に禄を離れた。理由は、一家あげて鮎釣りをしている留守中に出火し、藩主から預かっていた藩旗を焼いてしまったからである。以来二宮家では鮎を食べないという。f0300125_14484526.jpg
二宮家は八幡浜に移住して海産物問屋をはじめた。しかし、忠八が12才の時に父は他界。忠八は働きに出た。最初に勤めたのが町の呉服屋、次は印刷所の文選工、写真師の下働きなどした。その後、薬業商を営む伯父に見込まれ、そこで手伝うようになった。その結果、物理や化学に興味を持つようになり、約2年半の修業は薬学の基礎となった。20才の夏、再び八幡浜に戻り、海産物の行商人になったが行商のかたわら私塾で国学、漢学、南画を学んだ。

忠八凧

 忠八少年は大空に舞う凧に異常ともいえるほど興味をもった。彼が考案する凧は人々を驚嘆させるほど奇抜なものであった。そして、そのどれもがよく揚がるので「忠八凧」と呼ばれ、よく売れた。だが、忠八の研究心はもっと高度なものに向けられた。

兵役

 明治20年(1887)、丸亀の歩兵第12連隊付の看護卒として入営。わずかに背丈が足りなかったために本科には不採用になったのである。明治22年、機動演習中に、カラスが滑空する姿に突然興味をもった。カラスは広げた翼に揚力を生じさせ、ふき上げる上昇気流など複雑な力をうまく利用して滑空していることを発見した。それは、彼の空を飛ぶ機械(飛行器)発明のヒントになった。忠八は、カラスのほか、トビウオや甲虫類の飛行のしかたにも興味をもって観察した。

第一号模型器の製作

f0300125_151037.jpg 鳥凧を原型とする飛行器の第一号の模型製作に取りかかった。忠八の第一号の模型飛行器には車輪がついていた。数年後の明治36年に初めて人を乗せて飛んだライト兄弟の飛行機でさえ車輪はなかった。プロペラも装置されたが難問は動力である。看護卒であることから使った聴診器のゴムを動力にした。白い紙を貼ったままの翼や胴体は墨を塗ってカラスらしく仕上げた。頭のところにつけた垂直面には目を描き入れた。この垂直面は、飛行にとって重要な安定翼(垂直翼)になった。
f0300125_156541.jpg 明治24年(1891)4月29日の夕方、丸亀練兵場の広場でテストすることになり、第一号のカラス型飛行器は約30m飛んだ。飛行神社では毎年この日を記念して例祭が行われている。その後、玉虫型飛行器を考案し、それを第2号器とした。



上申書の提出

 明治27年(1894)、日清戦争が布告された。忠八は、大島混成旅団の野戦病院付きの一等調剤手として、韓国に渡った。そして、京城郊外に夜営中、上官に偵察等の利点を説いて飛行器の考えを打ちあけた。その結果、直接の上司である軍医が、玉虫型飛行器の設計図に上申書をそえて、当地に滞在中の長岡外史参謀総長に提出した。だが、即日却下された。彼には先見の明がなかったのである。
 日清戦争中、忠八は赤痢にかかったが奇跡的に治癒に向かい、広島の予備病院に送られた。
 翌28年に日本は大勝し、大島旅団長も広島に凱旋。そこで再び軍医部長を通じて、再度大島閣下に面会し、上申書を提出した。しかし却下。さらに、広島師団長にも上申書を提出したがこれも不発に終わったので、翌年長い軍隊生活にピリオドをうって郷里に帰った。
 当時の忠八の脳裏にあったことは、飛行器を完成させるための資金を調達すること、大臣や大将と自由に面談できる身分を得ること、飛行器を飛ばす発動機の製造工場と試乗場所を獲得することであった。

薬業界へ

 明治31年(1898)、忠八は大阪製薬株式会社に入社した。当時の薬品は粗悪なものが多く、品質のよい薬品作りに没頭した。彼がつくった薬品はどれも好評で、倒産寸前の同社をみごとに立ち直らせた。その後、合併をへて常務取締役に推薦され、ついに大阪実業界の第一人者と肩をならべるようになった。一万円の貯金もできた。

動力試験

 明治33年(1900)、石清水八幡宮に参詣した。忠八は故郷の八幡浜と同じ八幡の名に限りないなつかしさを覚え、木津川の土手を歩き、橋本のあたりは川幅が広く開けて一面の砂原であることを知った。年頭の飛行器の実験場には最適であると判断。また、付近にあった二軒の精米場の石油発動機に着目し、これを動力にして飛行器を飛ばそうと考えて、一軒を買取った。そして、そこを二宮工作所とした。f0300125_15181115.jpg 明治35年(1902)現在の飛行神社がある八幡市八幡土井に本邸を引越し、忠八は毎日ここから京阪電車で大阪の会社へ出勤した。そして、夜、会社から家にもどると設計、製作に取り組んだ。
 丸亀練兵場の広場でカラス型模型器が飛んだ折の興奮がよみがえった。発動機のついた飛行器が、木津川の実験場で地面をはなれて浮きあがる光景を想像しながら忠八の胸は高鳴った。

ライト兄弟の成功

 明治34年(1901)12月17日、アメリカのライト兄弟が動力による人類最初の飛行に成功した。日本ではその情報はすぐには伝わらず2年後に載った新聞記事に忠八の目はくぎ付けになった。次の休日、忠八は奥之町の工作所にある、枠組のできあがった飛行器をハンマーでたたき壊してしまった。

航空殉難者の慰霊

 大正に入ると日本の航空界は飛躍的な発展を示した。忠八には、すでに自分が前半生をかけた飛行器研究を無視された腹立たしさも消え、一人の日本人として航空界の進歩を見守るような心境になっていた。しかし、飛行機熱が高まるにつれ、世界各地でしばしば墜落事故がおこった。飛行機事故による操縦者の死、志を空にたくした人たちの死に、耐えがたい苦痛を感じた忠八は、その御霊を慰める方策を思いめぐらすようになった。
 大正4年(1915)、八幡の邸内に祠を建てて殉難者を祭神とした飛行神社を創建した。

忠八の名誉の回復

 大正10年(1921)、たまたま郷里をともにする白川義則中将と対等に話をする機会に恵まれ、かねて却下された上申書のことに話題に及んだとき、中将はそれを陸軍航空本部に携行した。その上申書を目にした「帝国飛行」の記者、加藤正世が忠八の玉虫型飛行器の設計図に驚いた。日本では明治26年にすでにこうした立派な飛行機が発明されていたのである。加藤は、「二宮式飛行機について」と題する論文を「帝国飛行」第5巻4号に発表した。
 最初の上申書を受取りながら即座に却下した長岡中将は、その論文を読み、素直に非を認めた。そして、機関紙「帝国飛行」11月号に詫び文をのせて忠八の偉業を称賛し、自らの不明を公表して謝ったのである。
釈明を天下に示す高義心
   その潔白に消ゆる長恨
   (忠八翁立志百歌集より)
 こうして忠八が飛行機を考案してから30年の後、初めて彼の飛行機の真価が認められたのである。
 昭和2年(1927年)12月には、勲六等に叙せられ瑞宝章を贈られた。また、国語の国定教科書にのせられて、忠八の名は一躍日本全国に広まったのである。

神社建立

 同年、大正4年に邸内に建てた祠を、本格的に神社として建立することを思い立ち、祭神を定めるために飛行に関係のある神々を調べた。その結果、交野市の磐船神社のご祭神で饒速日命(にぎはやひのみこと)が、天照大神のみことのりをうけて河内国に天下ったと伝えられることを知り、この分霊が贈られることなった。そこで、中央の社殿には饒速日命を祭り、右の社殿には世界航空殉難者先覚者の御霊を合祠し、左の社殿を薬光神社とし、日本薬学の父長井博士をはじめ同僚であった武田長兵衛、田辺五郎、塩野義三郎らをお祀りした。

晩年の忠八

 晩年の忠八は、神職として神社に仕え、幡山と号し、飛行千歌を詠み、幡詞を作り、幡画を描くのが日課であった。そして、昭和11年(1936)4月8日、胃がんのため71歳の生涯を閉じた。墓は、神応寺の墓所に遥か東の空を立っている。ひたすら空の平安を祈っている如くである。

  友田氏の講演の概略を記す際、飛行神社が発行する「二宮忠八小伝」を参考にしました。
                                   【文責=土井三郎】

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「二宮忠八と八幡」に参加して
鳥居 勝久 (世界凧博物館東近江大凧会館)

 2月4日付けの京都新聞に八幡市にある飛行神社で「二宮忠八と八幡」の講演会を知りました。私は現在、凧を展示する博物館「世界凧博物館東近江大凧会館」に勤務しており、「忠八凧」と呼ばれる独創的な凧のこと、そしてカラス型飛行器、玉虫型飛行器と飛行原理を発見したことも知っておりました。しかしながら、詳しいことは知らず、講演者が飛行神社の友田宮司様であることから参加することを決めました。f0300125_1550683.jpg話の中から、生活の中から生まれるヒントとアイデアによる探究心、これは日本の技術力の基のような気がします。また、飛行神社への二宮忠八の思い、そして現在もその思いは受け継がれていることも知ることが出来ました。
 さて、同じ大空を飛ぶということで、東近江市八日市には、江戸時代中期に男子出生を祝って5月の節句に鯉のぼりと同じように揚げられたのがはじまりと言われる伝統文化「東近江大凧」があります。最初は小さかった凧も、村落ごとに競い合って凧揚げをしていたので、凧の大きさもだんだん大きくなり、明治15年には、240畳敷きの大凧が揚げられたという記録が残っています。現在では、100畳サイズの大凧を揚げる「東近江大凧まつり」を毎年5月最終日曜日に開催しています。また、八日市には飛行場があったことはご存知でしょうか。荻田常三郎が大正3年に沖野ケ原上空を翦風号で飛んだことから始まり、沖野ケ原に大正4年、日本初の民間飛行場が出来ています。大正11年には陸軍第三連隊の基地となり、航空機搭乗者の安全を願った沖原神社もありました。その後、飛行場は終戦とともに廃止となっています。むかし大凧を揚げていた場所は沖野ケ原で、飛行場が出来た場所も沖野ケ原でした。八日市の空は、大空へのステーションであった町と言えます。

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「二宮忠八と八幡」 の講演を聞いて
谷村 勉 (会員)

 40年ほど前に仕事の関係で何度も愛媛県八幡浜市を訪問する機会があり、はじめて二宮忠八を詳しく知って、書物を読んだ記憶があります。講演を聞いてぼんやりと覚えていたことが鮮やかによみがえりました。充実した内容とともに結びに、二宮忠八の人生は「何度も何度も挫折を味わった人生であったが、それを乗り越えたところに意味があった」の一節には大きくうなずいて、晩年の忠八翁の写真を拝見するとやっぱり“いい顔”されていました。
 f0300125_1611743.jpg神応寺にある二宮忠八の墓石を改めて紹介したいと思います。神応寺の小高い丘陵の墓地から八幡市内や木津川、京都市内が一望でき、あたかも飛行機から眺めるようなロケーションでした。忠八ご夫妻と次男顕次郎ご夫妻の墓石と航空殉難者を祀る三界万霊塔、元航空幕僚長の白川元春氏の顕彰碑が立つ比較的広い塋域です。資料にありました「写真② 本邸より」の、当時本邸から撮った男山神応寺の写真も印象に残りました。

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by y-rekitan | 2015-02-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第59号より-03 横穴古墳

松井横穴群に学ぶ

野間口 秀國 (会員)


 説明会当日の1月25日は大寒の最中とは思えないような好天気に恵まれました。八幡市駅前からバスに乗り、およそ25分で会場に近い美濃山口バス停に着きました。バスを降り、案内の方の指示に従って歩くこと20分程で茶色の地肌一面の会場受付に着きました。
 ところで、表題にあります横穴とは「斜面に素掘りの穴を水平方向に掘り、埋葬施設としたもの(*1)」です。このような横穴墓は九州、近畿、そして東北地方南部まで広く存在しており、特に畿内で横穴が多く存在する地域は、橿原、天理から柏原、奈良市北部、そして南山城地域(八幡市・京田辺市)であることも説明いただきました。また南山城地域には、今回発掘された松井横穴群及び八幡市域を含んだ直径1.5Kmの範囲内に、美濃山横穴群、狐谷横穴群、女谷・荒坂横穴群(*2)などの存在が既に知られています。f0300125_16262219.jpg 今回の発掘調査では70基もの多くの横穴墓が確認されましたが、事前の報道(*3)では「推定300~400基とも・・」とあり、当日配布の説明資料にも「・・・数百基の横穴が存在するものと想定されます」とあります。現場に立つとそれらの数が決して多すぎるものではないことも実感できました。また、このような墓が造られた時代は古墳時代後期から飛鳥時代で、その一部は飛鳥時代末から奈良時代前半まで長期間に亘って使われていたようです。このことは会報第35号(*2)でも少し触れましたが、同じ墓に一定の期間が過ぎた後に追葬された為であり、発掘された遺体の置かれている数や位置などのから解ることも説明いただきました。
 出土した副葬品には須恵器が多く、鉄製の刀剣類、鏃(やじり)などの武器や装身具類などは少ないことより埋葬された人々は支配者階級では無く地域を束ねた農業に従事していた有力者と考えられているようです。また、この地域の横穴群には現在の八幡市や京田辺市地域に住んだ人々だけでなく、南山城のより広い範囲の人々が埋葬された可能性も考えられるとのことでした。

 さて、「なぜこの地に?」との疑問についても少し触れたいと思います。全体説明が終えようとする頃に、説明員の方から「第4トレンチ(※)の高いところから東側の眺望を是非楽しんでください」との勧めがありました。この地の標高は約54~55mとのこと。勧めに従って尾根部に立つと木津川流域に広がる平野部が見渡せました。北東方向に目を移すと比叡山も望めるとのことでしたが、当日はそこまでは確認できませんでした。この地が選ばれた理由は、
  第1:交通の要衝であったこと、
  第2:眺望が良いこと、
だったようです。3番目の理由は聞きそびれましたが、木津川の氾濫を回避できる高度であることや近くに墓を作る石材が十分になかったことなどではないかと考えております。f0300125_16341986.jpg 発掘現場の第4トレンチ東側には境界ぎりぎりまで工事中の新名神高速道路の橋脚群が迫っていました。この道路工事によって、城陽市・京田辺市・八幡市などの複数の個所で数年間にわたり大小の遺跡発掘調査やそれらに伴う説明会が続きました。説明会にも数回参加させていただきましたが、このような規模や頻度で行われることもおそらく今回が最後ではなかろうかと思います。そう遠くないうちに完成するであろう工事中の高速道路の橋脚群や発掘された横穴墓の数々を眺めながら、改めてこの地は「歴史の交差点」であるとの感を禁じ得ませんでした。

《参考資料等》
(*1)京都府埋蔵文化財調査研究センターによる松井横穴群現地説明会配布資料(2015.1.25開催)
(*2)既発行の会報に掲載の拙稿 「女谷・荒坂横穴群から学んだこと」(第35号/2013.2.25) 及び 「大谷川散策余話第3章 里山区・歴史の交差点」(第40号/2013.7.29)
(*3)京都新聞(2015.1.21)の記事
( ※ ) トレンチ:発掘現場に設定される調査範囲・区域

by y-rekitan | 2015-02-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第59号より-04 八幡八景②

シリーズ「八幡八景について」・・・②
八幡八景について-その2

   安立俊夫 (会員) 


4 江戸時代の八幡八景

 元禄期の「八幡八景」を編集したのは柏村直條(1661~1740)ですが、霊元天皇(1654~1732)によって選定されたと思われる「八幡八景」の漢詩・和歌も残されています。それを紹介します。
 なお、漢詩の読み下し文については、間違いも多々あると思います。ご指摘、ご教授頂ければ幸いです

雄徳山松
                       
公辨法親王余白
  雄徳山頭古廟前  雄徳山頭古廟の前
  蒼宮擎蓋立森然  蒼宮蓋を擎(ささ)げて立ち森然
  到今猶見神明化  今に至りて猶(なお)見ん神明の化
  佳気氤氳幾百年  佳気氤氳(いんうん)幾百年    
   氤氳=気があたりにたちこめているさま

                  
幸仁親王 有栖川兵部卿余白
  おさまれる世にそやすらく男山 
   さかゆく松の 花の光は

極楽寺桜
                  
實種卿 風早中納言余白
  莫伐従来花有神  伐ること莫(なか)れ従来花に神有り
  神人日々揖宮巡  神人日々宮を揖(ゆう)して巡る
  彩霞溶曳紫雲外  彩霞溶曳たり紫雲の外 
  極楽寺中占断春  極楽寺中春を占断す

                  
基福卿 園儀同余白
  色も音もさそな妙なる法の場に 
   木末なからの 花の手向けは

猪鼻坂雨
                  
韶光卿 勘解由小路余白
  午鳩叫罷日朦朧  午鳩叫(よ)び罷(や)んで日朦朧 
  石磴落来蓑笠風  石磴落来る蓑笠の風
  一雨山頭又山脚  一雨山頭又山脚 
  依然畫棟挿晴空  依然として畫棟晴空を挿む
    石磴=石のある坂路。石の段
    山脚=山の裾、麓

                 
資熈卿 中御門権大納言余白
  岩根ふむ猪鼻坂にふる雨は 
   神のみゆきの道や清むる

放生川蛍
                   
真敬法親王 一乗院宮余白
  放川似帯繞神丘  放川帯に似て神丘を繞(めぐ)る
  萬點蛍光照両眸  萬點の蛍光両眸を照らす
  回首水天同一色  首を回せば水天同一色 
  可中直見数星流  可中直に見る数星の流るゝを

實業卿 清水谷大納言余白
  玉と見ていけるを放つ川辺には 
   もえて流るゝ 水の蛍も

安居橋月
                     
持實卿 花山院大納言余白
  月白風清緑水長  月白風清くして緑水長し
  一天晴色満秋光  一天の晴色秋光満つ
  千年勝地不虚美  千年の勝地美を虚(むな)しうせず
  皓々相憐橋上霜  皓々相憐れむ橋上の霜

                    
通躬卿 中院中納言余白
  かけて世に仰く八幡のふもとゝや
   月もくもらぬ 前の川橋

月弓岡雪
                    
道恕 安井前大僧正余白
  天山既白月如弓  天山既に白(あけ)なんとして月弓の如し
  片々六花舞太空  片々たる六花太空に舞う
  巧弄化生神女手  巧みに化生を弄す神女の手
  暁来幻出水晶宮  暁来(ぎょうらい)玄出す水晶宮
   六花=雪の異称

                    
重條卿 庭田中納言余白
  くもりなき名にひかれてや雪も猶 
   光をみかく月弓の岡

橋本行客
                   
豊長卿 高辻大納言余白
  橋本郵程路遠哉  橋本の郵程路遠い哉(かな)
  乗傳冒暁共徘徊  乗傳暁を冒(おかさ)して共に徘徊
  玉虹衆客富多景  玉虹衆客多景に富む
  聚散若雲幾往来  聚散雲の若(ごと)く幾往来
   郵程=宿駅と宿駅との間の道のり
   聚散=集まったり散ったりすること

                   
惟庸卿 竹内三位余白
  きき渡る名のみ朽(くち)せて橋本の
   里はゆきゝの舟を呼ふなり

大乗院鐘
                   
基董 石山羽林中郎将余白
  向暁高楼日初旦  曙に向ひて高楼日初(はじ)めて旦(あした)なり
  緇衣井々寺前鐘  緇衣(しえ)井々寺前の鐘  
  乍従霞外紅音発  乍(たちま)ち霞外従(よ)り紅音発す
  吹下男山第一峯  吹き下る男山第一峯
   緇衣=僧侶

                   
實陰 武者小路中将余白
  寺の名もたかき御法の鐘の音に 
   誰長き夜の夢覚ますらん                        
(つづく)余白

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by y-rekitan | 2015-02-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第59号より-05 橋本

平野山・西山地区はミステリーゾーン?!

土井 三郎 (会員)


 3月16日(月)に予定される歴史探訪ウオーク「橋本の歴史(Ⅱ)平野山・西山を歩く」の実施に向けて、しおりを作成したり下見を試みたりなど準備が進んでいます。平野山・西山地区は古代より、実に謎につつまれたゾーンだといえます。どんな謎が秘められているのか。概略紹介してみます。

(1)塩釜の地名の由来 

 バス停にもなっている「塩釜」の地名について、どんな由来があるかのでしょうか。
 昔、大阪平野の内陸部が、河内湾と称する湾にずい分えぐられていた時代、この地で海水を干して塩を精製していたのだとか。或いは、狩尾(とがのお)神社で行われる湯かけ神事の釜で沸かした塩湯が、この辺りまで飛散してきたのだとか。もっと信憑性の高いもので、淀川を上り下りする参詣者が、橋本から石清水八幡宮をめざして登ろうとする前に身を清めるために塩を身にふりかけて出発したというものです。ところが、身を清めることは当たっているのですが、石清水への一般的な参詣とは目的が違うようです。そのことを、バス停「塩釜」近くに立つ石碑を見て確かめてみましょう!

(2)猿田彦神社創建のいわれ

 橋本小学校の北西に、こんもりとした姿を現す猿田彦神社の杜(もり)。その本殿に、当社の創建のいわれを書いた説明書きがあります。読むと、対岸の大山崎にいったん鎮座した八幡神を男山にお連れしたのが猿田彦の神で、それを祀ったものであると。確かに、猿田彦神は、ニニギノミコトが高千穂の峰にくだったときの道案内をした神として古来説明されています。ところが、男山に鎮座する石清水八幡宮の来歴を記した文献にそのような記載はありません。大事なことは、近代以前において、この社(やしろ)がどのような信仰の対象になったのかということです。
 実は、この神社、平野山村の鎮守であったのです。なぜ、社が村の中央部ではなくて外れにあるのか。その理由を考えてみたいと思います。また、石清水とは何の関係もないのかといえばそうでもありません。宇佐の八幡神を男山に勧請したのは奈良大安寺の僧、行教です。その行教と関連するものがこの境内にあったのです。

(3)講田寺(こうでんじ)にまつわる逸話

 講田寺は、もともと付け替える前の木津川のほとり、生津村に建っていましたが、水害の難を避けてこの地に移されたといいます。門前に、「長柄人柱地蔵尊講田寺」の石柱があります。長柄人柱地蔵とは何のことでしょうか。これにまつわる伝承も面白いのですが、この寺の再建に淀屋辰五郎の娘いほの婿である下村左仲なる人物が関与しているのです。
 「享保15年(1730)下村は、平野山村の別峰を寺地に選び自ら土を運び建築に尽力した。東厳和尚を中興開山として招き、淀下津町の小林忠左衛門尉信政を工匠として、翌享保16年に本堂造立となった」との記録が残されているのです。ところが、この下村左仲という人物、どうも謎めいたところがあります。江戸時代に書かれた『翁草』という書物に「城州八幡妻敵討」と題した話があり、そこに、淀屋が欠所後八幡に移住し改名した経過や、下村家が断絶するに至るまでが著述されているのです。その中で、左仲は元来行跡が悪く、田地・財産をつぎ込んで博打放蕩にふけり出奔したとあります。その後、いほに別の婿養子が入ることとなり、それを聞きつけた佐中は深夜家に忍び込み、いほとその婿を討ち果たしたというのです。これは歌舞伎の題材にもなりました。
 講田寺を再建した徳の深そうな人物が、何ゆえ博打放蕩して逐電することになったのか。そもそも二人は同一人物なのか。謎が残るというものです。(参考文献;「木村家文書の淀屋関係史料と近世石清水神領」竹中友里代、『京都府立大学文化遺産叢書第4集』所収)

(4)楠葉平野山瓦窯はいずこに

 「楠葉の御牧の土器造り、土器は造れど娘の貌(かお)ぞよき。あな美しやな」
 これは、2013年の11月、ふるさと学習館を会場に小森俊寛さんが「八幡の歴史と土器」と題して講演された際に、楠葉平野山瓦窯(がよう)に触れ、その中で紹介した歌です。後白河法皇が編著した『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』にある一節です。
 楠葉の御牧は、北楠葉の青葉幼稚園あたりに比定されています。しかし、その形跡が全く見られません。なぜ、この地が瓦窯の地になったのか。良質の土がとれたこともあるでしょう。四天王寺の伽藍の屋根を葺いた瓦が楠葉平野山瓦窯で焼かれたとありますから、淀川の水運が利用されたのでしょう。そういう意味では地の利があったともいえそうです。

(5)和気神社のなぞ

 八幡の歴史カルタに「足が立ち神社を建てた和気清麻呂」という読み札があります。ところが、ある方から神社ではなく寺を建てたのではないかという質問を受けました。その時は、神仏習合の時代ですから、寺も建てたし、神社も建てたのではないでしょうか、と答えましたが、『男山考古録』の第12巻に足立寺(そくりゅうじ)の項目があり、次の記述が見られます。
 「男山の西尾崎、往昔の所、今小社二宇これ有り、(中略)小社一宇は八幡宮を祭る、南の小社は、和気清麿を勧請と云伝う、土俗は稲荷と申す」。
 足立寺の境内に小さい二つの社があって、一つは八幡神を祭り、もう一つは和気清麻呂を神として祭っていると読み取れます。従って、足立寺には和気神社があったということになります。但し、土地の者は稲荷と呼んでいたようです。
 この足立寺もずい分謎の多い寺です。道鏡によって斬られ宇佐八幡神の加護で清麻呂の足が立ったという伝承はともかく、なぜこの地に和気氏とかかわりのある寺が建ったのか。皇位をねらった道鏡の野望を宇佐の八幡神の判断を仰ぐ目的で清麻呂は奈良から宇佐に派遣されますが、その道中(山陽道?)に建てたということなのか。もともとこの地が和気氏と関わりが深かったのか。
 和気氏と関わりの深い寺に、京都高雄の神護寺があります。北畠親房が著した『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』に神護寺の記載があって、「清麿神威を尊い申して、河内国に寺を立て、(この地河内交野郡との境にて、今、山城)神願寺といふ、後に高雄の山にうつし立、今の神護寺これなり」と記述されています。河内交野郡と山城の境にあることから、この神願寺は足立寺のことを指すとみなせます。すると、足立寺は、神護寺の前身ということなのでしょうか?
 また、和気神社と隣り合う足立寺史跡公園には豊蔵坊信海((ほうぞうぼうしんかい)の墓があります。男山四十八坊の一つであり、徳川家の御願寺とされる豊蔵坊の住職である信海の墓がなぜここにあるのか。豊蔵坊と足立寺をつなぐどんな糸があるのでしょうか。なお、この墓のことについては、会報49号に、谷村勉さんが「足立寺史跡公園(豊蔵坊)の墓をたどる」と題する論考があります。ご参照ください。

(6)継体天皇楠葉宮伝承地にされた根拠

 今回の歴史探訪では「継体天皇楠葉宮跡伝承地」にも足を伸ばします。なぜ、交野天神社(かたのてんじんじゃ)の杜(もり)の一角に楠葉宮伝承地が指定されたのか。そもそも交野天神社とはどんな神社なのか。会報58号に大田友紀子さんが論考していますが、その説もふまえながら交野天神社の来歴や継体天皇の樟葉宮について考えてみましょう。
by y-rekitan | 2015-02-28 08:00 | Comments(0)

◆会報第59号より-end


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by y-rekitan | 2015-02-28 01:00 | Comments(0)