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◆会報第60号より-top <スクロールだけで全記事が読めます>

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
このまま下にスクロールして頂くと順次連続してご参照頂けます。

◆シリーズ:“わが心の風景” ㉝◆
◆《歴探ウォーク》橋本の歴史Ⅱ◆
◆シリーズ:“八幡八景について” ③◆
◆九州の横穴・近畿の横穴◆
◆シリーズ:“墓石をめぐる” ⑧◆
◆二宮忠八掌話◆
◆会の旗が出来ました◆


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by y-rekitan | 2015-03-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第60号より-01 川口天満宮

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わが心の風景・・・(33)
川口天満宮
所在地 川口堀之内


f0300125_13134811.jpg 天満宮のある川口堀ノ内は、文字通り村の周囲を濠で囲まれた環濠集落で、敵の襲撃に備えるとともに、河川の氾濫や洪水を防ぐ機能を持ったいわゆる中世の面影を残す村です。そこに鎮座する川口天満宮は、その縁起に次のように創建のいきさつを伝えています。
 宇治に住む公卿が、男山付近から現れた光が空を照らしたのを見て、その原因を調べていくと川口村に至った。その村の南東三百メートルほどのところに池があり、夜中に池の中から光を発して天神六体の像を形作った。これを聞いた一条天皇は深く感銘を受けて大社創建の命を下し、長徳元年(995年)に社殿を建立した。
 天保11年(1840年)社殿修造の際に発見された棟札には、文禄3年(1594年)4月16日に造営したと記載されていました。また、光を発したという「天神池」はすでになく、今は「天神崎」の地名だけが残っています。川口村の地名は、奈良川(木津川)の口にあるためと『男山考古録』は記しています。  (絵と文: 小山嘉巳)


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by y-rekitan | 2015-03-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第60号より-02 橋本ウォークⅡ

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《歴探ウォーク》
橋本の歴史(Ⅱ)
「平野山・西山を歩く」

― 2015年3月  八幡市橋本地区にて ―


 3月16日(月)、少し歩けば汗ばむほどの陽気にめぐまれ、標題の歴史探訪ウオークが開催されました。
 昨年も、この時期に、橋本の京街道をふくむ北側をめぐる見学会を実施しましたが、その時の参加者70名とほぼ匹敵する64名の参加者がありました。
 当初、グループ分けせずに実施する予定にしていましたが、参加希望者が増えていくので、二つにグループ分けすることにしました。
午後1時に、京阪橋本駅前のバスターミナルに集合。かんたんなオリエンテーションを済ませて出発。

  塩釜
 先ずは、「塩釜(しおがま)」碑に向かいます。
『男山考古録』では、江戸時代、安居(あんご)の祭に赴く社士(しゃし)が、この地で塩垢離(しおごり)をした場所であるとか。その「塩ごり」が訛って「塩釜」になったとのことです。安居の祭とは、江戸時代までに行われていた祭りで、放生会が公家の祭りであれば、「安居会」は、天下泰平を祈願する武家の祭であったとされます。

 猿田彦神社
 次に訪れたのが、「猿田彦神社」。猿田彦は、日本神話で、ニニギノミコトが日向国にくだったときに、その道案内をしたといわれる神です。そのことから、宇佐からやってきた八幡神が山崎の地に留まってから男山に遷座する際に、その道案内をしたとの伝承が生まれました。しかし、石清水八幡宮の歴史にそのような記述はありません。猿田彦は、道祖神(=村境、峠などの路傍にあって外来の疫病や悪霊を防ぐ神)と同一視されることもあることから、平野山村に災厄が入るのを防ぐ鎮守社であったと考えた方
がわかりやすいかもしれません。

 講田寺
 次に、講田寺(こうでんじ)に入り、住職の話を聞きました。
 住職さんは、講田寺の来歴と「長柄人柱伝説」に関わるお話をしてくださいました。f0300125_16564865.jpgその人柱伝説と関わりのふかい「笑(えみ)地蔵」を拝んで講田寺を後にしました。
 講田寺の境内には、油掛け地蔵尊が祀られています。住職さんは対岸の大山崎の油との関わりを指摘されましたが、法華経の経文には、「油を以て身を塗る」云々があって、油で仏体を供養すると絶大な功徳があるとのことです。
 講田寺の前は、柿の畑が広がっています。平野山地域は、古くから講田寺周辺に農家が点在する農業地帯でしたが、太平洋戦争後の食糧難の時代、平野山をふくむ西山地域の山林を開拓する計画が立てられ、用地が確保されたそうです。昭和23年(1948)、戦地からの引揚者や地元農家20世帯が入植しました。土地は水田に適さなかったので、畑作が行われ、麦・芋・筍や柿などの果物が生産されたとのことです。今でも、その名残をとどめるかのように、柿などの果実の木が多く植えられており、「生産緑地地区」に指定されているそうです。

 楠葉平野山瓦窯跡
 楠葉平野山瓦窯跡(がようあと)は、飛鳥時代の7世紀前半から営まれた日本最古級、最大の瓦窯跡で、四天王寺に使用された瓦を焼成したことで知られます。
 今回、跡地周辺に建てられた民家の庭が、持ち主の好意から公開されました。瓦窯跡は今、埋め直されていますが、かつては登窯(のぼりがま)があったと想像されるような傾斜が広がり、楠葉・枚方方面の住宅街が遠望できました。
 ここで、四天王寺の屋根も葺いた瓦が焼けたということは、良質な土がとれたということと、淀川の水運が利用できたということなのでしょう。

 継体天皇樟葉宮跡伝承地
 続いて、枚方市楠葉丘にある樟葉宮伝承地を訪れました。f0300125_1754021.jpg鬱蒼とした灌木の鎮守は、おもむきのある雰囲気を残しています。石段を登ると、貴船神社の小さな社が建っています。貴船神社は穂積神社とも称し、当地の氏神でした。
 この地が、継体天皇の樟葉宮とされる物的証拠はなく、多分に地元民の要望を受けたものと思われます。

 交野天神社
 続いて、同じく自然林に覆われた一角にある交野天神社を訪れました。f0300125_17111411.jpg祭神は、桓武天皇の父帝にあたる第49代光仁天皇です。桓武天皇は、それまでの天武系の皇統と一線を画し、遷都しただけでなく、郊祀壇(こうしだん 都の郊外で行う祭天のための土壇)を設け先帝を称えたといわれます。
先帝を称えることで、自らの皇統の繁栄を祈願したのかもしれません。
 一行は、西山地区の住宅街を抜け、足立寺史跡公園に向かいました。

 西山廃寺(足立寺)史跡公園
 西山廃寺は、和気氏との関わりが指摘される古代寺院です。ただし、もともとこの地にあったのではなく、ここより南西約100mの地点にありましたが、住宅開発により、廃寺の礎石や瓦窯跡の移築がなされたものです。
 ここには、豊蔵坊信海の墓があります。豊蔵坊信海は、松花堂昭乗の門人で、能筆であるとともに狂歌の名手としても知られます。
近年、墓石が転倒されていましたが、会員であるT氏がふるさと学習館に文化財保護の手だてを講ずるよう要請し、掲示板が立つようになりました。    
                               (土井三郎 記)


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by y-rekitan | 2015-03-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第60号より-03 八幡八景③

シリーズ「八幡八景について」・・・③
八幡八景について-その3

   安立俊夫 (会員) 


 今回は八幡八景連歌発句絵巻を紹介します。柏村直條(かしむらなおえだ)が八景題詠を霊元上皇(れいげんじょうこう)に上奏して約1年後の元禄7年(1694)、連歌衆の里村家に依頼して詠みこまれたものが、八幡八景連歌発句絵巻や八幡八景連歌発句集(いずれも石清水八幡宮蔵)として残されています。これらは、山城郷土資料館発行の図録『南山城の俳諧』に解説されており、私が八幡八景に興味をもつきっかけとなったものです。以下に発句を載させていただきます。

第1景 雄徳山松
  みをきかぜ松やかすまぬおとこ山     昌陸

第2景 極楽寺桜
  かの国とこゝをさらでも花の庭      昌純

第3景 猪鼻坂雨
  雲霧もなが坂くだるながめ哉     法眼昌億

第4景 放生川螢
  なつかはもいけるをはなつほたるかな   昌築

第5景 安居橋月
  河橋やのぞむたぐひもなつの月      周旋

 
第6景 月弓岡雪
  つもらせてゆきにこゑなし岡の松     玄心

第7景 橋本行客
  けさはしもとけし跡ある往来(ゆきき)かな 直能

第8景 大乗院鐘
  かねのこゑにしよりすずしふもとでら   宗得

 以上が、今回の八幡八景の稿に準備した内容ですが、この連載の第一回目を読んでいただいた、東高野街道まちかど博物館「城ノ内」の高井輝雄様より、以下に紹介する狂歌が詠まれていた史料のご呈示をいただきました。雲紙の料紙を巻子に仕立てたもので、その序では「師父嶋村大徳栄昌先生のもとで八幡八景を詠もうとしていたのに先生がなくなったので、弟子が詠んだ八景を枕元に捧げる」としています。書いたのは暁露斉珍々翁、最後の署名は柴山将監、源信好で、文政9年(1826)7月望(15日)となっています。人物や創られた背景などこの史料以上のものは現在不明ですが、今後の参考になればと思い、以下の狂歌とともに紹介させていただきます。
雄徳山松
  神かけて千世とちぎれる男山の 
  太夫の操雲をつゝみ遊

放生川螢
  川つらてあしな恋するあの螢
  なつかしいやら灯に隠れ行く

安居橋月
  ますら男が安居の橋に待つ宵は
  月の最中か十六時分

月弓岡雪
  月弓や八まんさんの岡の雪
  豊年つゝく吉兆にふる

猪鼻坂雨
  しょほしょほと濡れかきたの男やま
  猪のはな坂を往来(ゆきき)するかも

極楽寺桜
  南無あみた願い是切徳と云時は
  すぐに御はなかあたまえそ降

橋本行客
  親の目を忍ふもちつり誰彼も
  行かふ人ハ色のみにして

大乗院鐘
  人々ハかねがかたきといふ世なり
  親のゆるしし大乗夫とも

連載終了にあたって

 この稿の連載は、当会の土井三郎様の全面的なご指導とご助力になるものであることをご報告し、かつ感謝申し上げます。また、多くの方々にご教示、ご指導あるいは史料の提供をいただきました。記して感謝申し上げます。八幡市、石清水八幡宮、山城郷土資料館、江本東一様、柏村直樹様、高井輝雄様、奥山邦彦様(順不同)。
※先の号に、現在の安居橋が載せられていましたが、今回掲載しました安居橋の発句絵にありますように、当時の安居橋は反り橋ではなくフラットな平橋でした。蛇足ながら紹介しておきます。

この連載記事はここで終りです。       TOPへ戻る>>>

by y-rekitan | 2015-03-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第60号より-04 横穴古墳

「九州の横穴・近畿の横穴」

野間口秀國 (会員)


 前月の第59号で報告しました松井横穴群発掘の現地説明会開催と同日に、遠く離れた宮崎県えびの市でも横穴墓発掘の現地説明会が実施されていました。この説明会には少なからず興味が有り、事前にえびの市教育委員会に依頼して説明会資料をいただくことができました。九州に横穴墓があることは前号で触れましたが、両開催地の現地説明会資料を基に両者の違いなどを見てみたいと思います。

 さて、松井横穴群の地から東を見下ろす地区は京田辺市大住(おおすみ)ですが、同じく”おおすみ”の呼び名で異なる表記の地名が鹿児島県にあります。大隅と表記するこの旧国名(大隅国)の名は古く『続日本紀』に見られるようです。日向国の肝属(きもつき)、贈於(そお)、大隅、姶羅(あいら)の4郡にて成り、其の後の変遷で1871年(明治4)の廃藩置県で鹿児島県に属し、同年に都城県に編入され、1873年に再び鹿児島県に属しました。えびの市は現在は宮崎県に属しますが、古くは、まさに隣接する大阪府・枚方市と八幡市・京田辺市のような、地理的・歴史的には県境を挟んだ極めて類似する文化圏内であったと言えそうです。

 古代日本において薩摩・大隅(現鹿児島県)には隼人(はやと)と呼ばれる人々(以降、隼人と省略)が居住していたことは既に広く知られているところです。しばしば当時の大和政権に反抗するも、しだいにその支配下に組み込まれて畿内に移住させられ宮中の守護などに当たるようになりました。移住者の多くが山城国南部に定住し、現京田辺市大住の名もその名残として今に続いております。八幡市の女谷・荒坂横穴群の被葬者もこのような隼人であると言われておりますし、八幡市内里内にあります内神社の祭神はこの内里の地の始祖である味師内宿禰(うましうちすくね)とされており、その人こそ奈良時代前期に南九州に勢力を得ていた隼人のようです。

 このような二つの”おおすみ(大隅と大住)”の歴史的な繋がりに思いをはせながら両遺跡の報告内容を比べてみると、同じ横穴墓にもそこには少なからず違いが見られるようです。無論、今回の両報告内容のみで全体を論じられないことは言うまでもありませんが、いみじくも同日に開催された両報告会から学ぶべき何かがあるように思えました。比較の項目が適切か否かには異論も有ると思いますが、両報告書から分かる範囲でまとめましたのでご参照ください。
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 八幡や京田辺で水平方向の素掘りの横穴様式の墓を見慣れていた私にとりましては、えびの市の地下式横穴墓の写真を見た時にこの様式の違いが何に起因しているのかが興味ある点でした。それは、造られた年代か、被葬者の社会的地位か、地形や自然条件か、はたまた盗掘防止目的なのか、などなど考えるときりがありませんが、いつか答えらしきものに出合うかもと思いながら比較表にまとめました。
 ところで、この原稿にも先月同様「横穴」の文字にあえてルビを付しませんでしたがどう読むのでしょうか。ちなみに京田辺市の「松井横穴群」の報告資料には「おうけつ」と、えびの市の「島内139号地下式横穴墓」のそれには「よこあな」とルビが付されておりましたことを記しておきたいと思います。最後にこの紙面をお借りして、えびの市教育員会のご親切に感謝申し上げます。

参考図書・資料等;
  • 京都府埋蔵文化財調査研究センターの「松井横穴群」 現地説明会配布資料、及び宮崎県えびの市教育委員会の「えびの市島内139号地下式横穴墓」現地説明会配 布資料(共に2015.1.25開催)
  • 『発掘調査成果展-- 内里八丁遺跡を中心として--』八幡市教育委員会刊
  • 八幡市誌第1巻 P148
  • 日本地名地図館 小学館刊  P206
  • 『隼人の実像』中村明蔵著 南方新社刊
  • 『隼人と古代日本』永山修一著 同成社刊
  • 検索サイト ウィキペディア
  • 八幡歴史探訪ウォーク(2013.3.17開催)の栞

by y-rekitan | 2015-03-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第60号より-05 墓石をたどる⑧

シリーズ「墓石をたどる」・・・⑧
万称寺跡地の常念仏回向(じょうねんぶつえこう)
記念碑について


谷村 勉  (会員) 


万称寺跡地墓石群

 万称寺跡地に元禄16年(1703)建立の巨大な「常念仏回向」記念碑が見つかりました。
 松花堂庭園・美術館近くの月夜田交差点を西に樟葉方面へ50m程登って、二つ目の角を左に回れば、中ノ山墓地東入口左側に「万称寺跡」の三宅安兵衛碑があります。f0300125_1843550.jpg古く志水道と言われた旧街道をこの入口から南へ約100m、西側のわずかに残る竹林等の緑が生い茂るやや高みの所に万称寺跡地墓石群がありました。
 「万称寺跡」三宅安兵衛碑に「左中ノ山一丁」の記述がありますが、記述通り約100mの位置に不思議に符合しました。普段は住人以外この道を利用する人も少なく、また何気なく通ると木々の緑に隠れて見過ごしてしまうような所です。
 江戸時代、万称寺の裏山一帯を中ノ山と称したようですが、凡そこの墓石群のあたりまでが万称寺で、山裾一帯の現在の住宅地は万称寺の寺域であったと推定されます。男山考古録“万称寺”の項によれば「志水道(河内国街道也)西側、東面にあり、・・・無心庵の南少く小髙き処に隣る、・・・」の記述にも一致します。但し無心庵も現在ありません。また同じく男山考古録“万称寺”の次の項“宝青庵”では、「万称寺に対して道の東側也・・・」の記述から、道を挟んで二つの寺が向かい合っていたようで、実際に万称寺跡地墓地から道と駐車場を挟んだ向かい側に宝青庵のお堂の屋根が大きく見えました。

無縫塔と常念仏回向記念碑

 万称寺跡地墓石群の中に、歴代住職と思われる無縫塔(卵型)の墓石が10基程あり、墓地入口近くには万称寺中興開基の憶念和尚など6基の同形の無縫塔が整然と並んでいます。f0300125_1992431.jpgさらにその奥へ進めば、ひと際大きな「常念仏回向」の記念碑が目に入り、まず元禄16癸未夭(1703)の年号が見えました。早速、記念碑を計測すれば塔高180cm、横65cm、蓮華台31cm、上台35cmで芝台20cmを含めた総高は266cmになりました。「常念仏回向」記念碑には「阿弥陀三尊の梵字」に「常念仏」・「施主大坂」の文字が彫られ、また、仏事を勤めた人々12人の名前が彫られていますが、その中に万称寺住職の「憶念大徳」や弟子の「願故大徳」、「入證大徳」の名前も見られました。
 f0300125_1912441.jpg「常念仏回向」とは一定の期間を決めて毎日昼夜欠かさず念仏を唱えることで、常念仏、不断年仏ともいわれ追善供養や極楽往生の祈りを行うことです。資料にあたると正法寺古文書に記録された通り元禄16年(1703)に行われた「二万日回向」の記念碑である事が判り、当時、「常念仏回向」が盛大に行われていたという証にもなりました。
 万称寺は正法寺(八幡清水井)の第17代住職「本誉即童和尚」が開山(承応3年・1654)した為、正法寺の末寺でもありました。他に石清水八幡宮検知職(※1)の紀氏一族や藤木某、無縫塔墓石など凡そ40基が現存しています。中には永く倒れたままに放置された様子の墓石が10基程ありました。又、記念碑北側にある藪中にも更に16基程の墓石がかろうじて見えましたが詳細は不明です。

 (※1) 検知職とは石清水八幡宮における神官系の役職で紀氏の世襲であった。

明治5年(1872)の廃寺

この巨大な常念仏回向記念碑を見ると、当時の万称寺は「常念仏回向」の仏事を行う道場として多くの民衆の支持を得て、八幡周辺や奈良、京都、大阪からも多数の信者を集め、寺勢を拡大していった様子が伺えます。しかし江戸時代後期になると「常念仏回向」の記録もなくなり、その勢は衰えていったようです。その後は庶民の集会所として何度か歴史に登場します。文化4年(1807)には橋本町や八幡領内の百姓が打ち壊しを行った際に「万称寺」はその集会場として使用されました。しかし明治維新後多くの寺が衰退する中、万称寺も明治5年に破却されたようです。

 今回、「万称寺の墓石群」についてフォーカスしましたが、「万称寺」や「常念仏回向」に関する内容は『京都府立大学文化遺産叢書 第4集』 竹中友里代氏の論文に詳しく報告されていますので是非ご一読ください。

<参考文献>
 ◯『京都府立大学文化遺産叢書 第4集』 (京都府立大学文学部歴史学科)所収
          中ノ山墓地の景観と庶民信仰  竹中友里代
 ◯『正法寺古文書目録』 京都府教育委員会
 ◯『八幡市誌 第二巻』 八幡市


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by y-rekitan | 2015-03-28 08:00 | Comments(0)

◆会報第60号より-06 二宮忠八

    《南山城ちょっとばなし》

 二 宮 忠 八 掌 話

古川 章 (エッセイスト)


 吉井勇研究家であり郷土史家でもある京田辺市在住の古川章氏より、二宮忠八に関する記事が送られてきました。「洛南タイムス」2009年(平成21年)4月15日に掲載された「南山城ちょっと話(68)」という連載記事です。御本人の承諾を得てここに再録いたします。

 白いスーツのよく似合うダンディな作家だった。もう20年も前になろうか。八幡市の講演会に招かれた吉村昭先生の二宮忠八の話がはじまる少し前の控室だった。私は風呂敷に先生の10冊ばかりの著作をもって訪ねた。一冊一冊に、ていねいにサインをしていただいた。吉村文学ファンだった私は、小説といいエッセイといい綿密な考証のもと密度の濃い文章のとりこになっていた。その人が七十九歳という今ではその若さが惜しまれる死であった。平成18年7月31日だった。
 多くの名作の中でも「戦艦武蔵」や「高熱隊道」「神々の沈黙」「陸奥爆沈」等の記録文学。「ふぉん・しいほるとの娘」「長英逃亡」「天狗争乱」「彰義隊」等の歴史小説にも取り組まれた。そこに描かれる人間ドラマの迫力感。「破獄」や「冷たい夏、熱い夏」等も心に残った。

 その吉村昭が、飛行機の創造に生涯をかけた二宮忠八の生涯を描いた。二宮忠八は晩年を八幡市に住み、神応寺に墓地を求め、さらに飛行神社を自宅内に建てたのであった。
 吉村は、京都新聞に昭和35年の3月5日からその年の12月31日まで小説「茜色の雲」を連載した。後に一冊の本となったのが「虹の翼」であり、昭和55年9月に文芸春秋社から刊行された。
 そこで二宮忠八の生涯を要約すると、忠八は、慶応2年(1866)に愛媛県八幡浜市の海産物問屋に生まれた。今も航空界の歴史を語るとき、必ずそのパイオニア(先覚者)として登場する。忠八は陸軍にいた明治22年(1889)のある日、昼食時の残飯に群がったカラスが滑空する状態を見て、翼をバタバタしなくても飛べるという飛行の原理を思いついた。その2年後に「カラス型模型飛行器」を飛ばすのに成功したという。それは有名なライト兄弟より12年も早い飛行だったといわれる。しかしライト兄弟の成功(1903)を知ったあとは、忠八は八幡の木津川浜で行っていた実験を中止したのだった。追い越された忠八にとっては大きなショックだったにちがいない。しかし晩年は、飛行機事故で亡くなられた多くの人たちの慰霊に努めた。私はその崇高な忠八の心に深く感動する。その慰霊の数は14万人を超えるという。その神社が八幡市の飛行神社なのである。

 さて私はこのたび新井清太郎発行の「山城」を読みあさっていて、忠八に関する資料を発見したのであった。「山城」の大正14年(1925)12月20日の紙面であった。見出しは「世界航空史上に特筆すべき、飛行機原理の発明者、二宮忠八翁の講演」とある。忠八が同年11月26日八幡校で行われた「綴喜郡戦死病没軍人招魂祭」に招かれたときの記事であった。その折「山城」紙は、八幡町住人である忠八に国が同年9月17日に表彰状と賞品を贈ったことを報じ、紹介している。さらにこれに準じて八幡町も11月26日に表彰状を出している。長い表彰状の一部にこんな表現がある。「ああ偉大なりと云うべし、そして今やその栄誉やひとり一身一郷に止まらず世界航空史上に一大光彩を放ちたる」として町議会とも協議し功績を表彰するとある。

 作家吉村昭は「虹の翼」の中で、丘陵の上にある石清水八幡宮に参詣してのち、「・・・・・・いかにも春らしいのどかさで、彼は川沿いに少し上流にむかって歩いた。碑があって、そこに思いがけぬ文字が刻まれていた。それは彼の故郷と同じ八幡浜という地名であった。忠八は思わず周辺を見まわした。その地は八幡町(現在は八幡市)に属し、川沿いの場所であることから八幡浜と名づけられているのに不思議はないが、故郷と同名であることに、自分と深い関係がある土地のように思えてきた」と書いている。忠八にとって、ふるさと四国の八幡浜を常に心に宿していたのであろう。その後も吉村は小説だけでなく、エッセイにも忠八のことを書き残している。きっと忠八の生涯が好きな作家の一人であったのだろう。  (京田辺市草内在住)
by y-rekitan | 2015-03-28 07:00 | Comments(0)

◆会報第60号より-07 会旗

「八幡の歴史を探究する会」発足5年周年記念

会の旗 ができました!

高田 昌史 (会員)


 本会は2010年4月6日に発足し今年4月に満5年を迎えます。この記念すべき節目の年に念願の会の旗ができあがりましたので、旗のデザインの狙いや制作までの経緯をご報告します。
この旗はこれから例会等の受付の目印や屋外例会の案内に使用します。また、他のイベント参加時には会のシンボルとして掲げ活用する予定です。

「八幡の歴史を探究する会」 是枝代表のメッセージ

会員の皆様へ
 待望の春を迎える季節となりました。花見の予定はいかがですか。会の旗揚げ(発足)も春、5年前の志水公民館での第1回目、16名の会合でした。「光陰矢の如し」この間、皆様方のご協力と、ご提案に守られ紆余曲折の活動でしたが満5年の節目を迎え、会員数も130余名の方々に広まり成長することが出来ました。会員皆様方の御蔭です。この度、幹事会にてかねてよりの懸案でした会の旗の作成が、石瀬さん、谷村さんの素晴らしい提案を中心に幹事の総意を反映し、八幡宮の御神矢を中心にした作品の製作が実現しました。
 節目の五年目の数字は成長に繋がる縁起の良い時と言われます。四捨五入、10年先につながるからです。この良き節目に、鏑矢の風を切る音をバックに会員皆様共々、更に探究を深め未来に繋げたいと思います。今後ともご参加、ご指導をよろしくお願い申し上げます。                           
幹事代表 是枝昌一空白

1.旗のデザイン

f0300125_23353569.jpg 旗は会員の石瀬謙三さんがデザインされた中から、中央に石清水八幡宮の御神矢の鏑矢(かぶらや)を入れた旗(写真参照)に決定しました。
そして旗の色は、八幡名産の筍が若竹になりそのまま真っ直ぐに天に向かって成長していく様をイメージして緑色としました。


2.旗のデザイン決定の経緯

(1) 旗中央の図柄(鏑矢)
 当初は石清水八幡宮で授かる御神矢(破魔矢)と的がデザインされていましたが、矢の形状を戦闘等の合図に放たれる一番矢である鏑矢に変更して的はなくすることになりました。
f0300125_23371393.jpgしかし、放つと音が出る先端の鏑の形状が解りませんでしたが、会員の谷村勉さんから鏑矢のイラスト(上図)の提供がありましたので、このイラストの図を参考に石瀬さんが最終仕上げをされました。
先端の鏑の形状は長円形で、中を空洞にして数個の穴があけられており、矢を射ると穴が風を切って音が出ます。

(2) 鏑矢について
 鏑矢のイラストを提供された谷村さんに鏑矢と八幡についての説明及びコメントをいただきましたので、以下に掲載します。
鏑矢とはその形が蕪(かぶら)に似ていることから名付けられたようです。
鏑矢は合戦の合図で射るほか、流鏑馬(やぶさめ)や神事に用いられる儀礼的、呪術(じゅじゅつ)的な矢です。射ると「ヒュー」という大きな音を出して飛び、この音が邪気や魔性を祓うと云われます。八幡では石清水八幡宮本殿前に毎年新年になると大きな御神矢が飾られますが、これは弘安4年蒙古襲来の折、鏑矢が西に飛んでいき蒙古軍を撃退したという故事にちなんでいます。また源平屋島の合戦で源氏の那須与一が扇の的を射たのも鏑矢と言われています。
 この様に八幡と鏑矢は切り離せないものとなっています。「八幡の歴史を探究する会」でも鏑矢の音の如く大きな音で発信していきたいという思いを持っています。 谷村 勉

(3) 旗の色
 当初は八幡紫にする予定でしたが、他の会が既にこの色を使用した旗を持っておられることが判りましたので、他の八幡に縁がある色合いを検討しました。その結果、八幡名産の筍が成長して若竹になることをイメージ及びエジソンが発明した白熱電球のフィラメントに八幡の竹が使われていた事から、竹の鮮やかな緑色としました。
 また、「緑」は若竹の緑として力強いですが、「緑の黒髪」や「みどり児」など生命の起源の色として昔から信じられ畏れ敬われる色です。
旗の色に触発されて「八幡の歴史を探究する会」が、力強く発展しますようにとの願いも込めています。

3.制作完了と使用報告

f0300125_23391850.jpg 3月14日に旗サイズA3(297×420㎜)及びB3(365×515㎜)を各2枚制作完了しました。早速3月16日の「橋本の歴史」探訪ウォークの(参加者64名で2班に別れる)集合場所への案内に使用し、また、ウォーキング中には先頭と後衛の方が移動中の目印として旗を掲げました。当日の足立寺史跡公園での写真を添付します。

最期に

会の発足5周年記念に制作した会旗が「八幡の歴史を探究する会」のシンボルとして、会員の皆様に愛されて、広く活用されることを願っております。
末筆ですが、今回の会旗のデザインをしていただいた石瀬謙三さんに厚く御礼申し上げます。


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by y-rekitan | 2015-03-28 06:00 | Comments(0)

◆会報第60号より-end

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by y-rekitan | 2015-03-28 01:00 | Comments(0)