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◆シリーズ:“わが心の風景” (34)◆
◆《講演会》幕末政治と攘夷◆
◆西国三十三所観音石仏群の墓所◆
◆陸橋の名前◆
◆シリーズ:“墓石をたどる” ⑨◆
◆総会が開かれました◆
◆発足からの5年を振り返る◆


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by y-rekitan | 2015-04-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第61号より-01 御園神社

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わが心の風景・・・(34)
御園神社
所在地 上奈良御園


f0300125_1134715.jpg 上奈良の里から東へ少し行くと御園神社の碑と鳥居が左手に見えてきます。
 碑に刻まれた「古字」に思いを馳せつつ、鳥居をくぐって本殿までの参道をゆくと、大きな常夜灯が目に飛び込んできます。その高さは3.75メートルもあります。本殿両側でにらみを効かせている狛犬は、寛政8年(1769)丙辰(ひのえたつ)九月の寄進で、八幡市内で最も古く、府内では九番目といわれています。
 さて、御園神社の創建は「延暦6年(787)桓武天皇が河内国交野へ行幸の途中、この里に立ち寄り鷹狩りを行った時、神託を蒙って、同年11月、大納言藤原継縄(つぐただ)に命じて社を建立させ、奈良春日社から三神を移座したと伝えられています。本殿は、南北朝の合戦や応仁の乱によって炎上しましたが、「明応3年(1494)9月、新殿を造営した」と御園神社の縁起は伝えています。
 古代の上奈良は、瓜・茄子、大根など、朝廷に献上する野菜を栽培するところで、社名にそれを偲ぶことができます。        (絵と文: 小山嘉巳)


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by y-rekitan | 2015-04-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第61号より-02 幕末

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《講 演 会》
幕末政治と攘夷―長州・京都・八幡

2015年4月  松花堂美術館の講習室にて
中村武生 (歴史地理史学、幕末政治史)

 2015年4月19日、松花堂美術館の講習室を会場にて、八幡の歴史を探究する会の2015年度4月例会が開催され、講演と交流の集いとして、冒頭に掲げた演題で中村氏にご講演いただきました。いつものように、その概要を紹介し、みなさんからの感想を掲載させていただきます。参加者は77名でした。

1、大きく変わった幕末史の理解

 幕末の政治状況を示す言葉として、これまで「開国派VS攘夷派」、「尊王攘夷派VS公武合体派」、「幕末志士はみな倒幕を目指していた」などが飛び交っていて、暗黙の了解がなされていたように思います。ところが、それらの「常識」が今や通用しなくなっています。つまり、開国と攘夷、あるいは尊王攘夷派と公武合体派は対立する用語ではないということが明らかになったのです。f0300125_103637.jpg
 例えば、「開国派」といえば、井伊直弼を筆頭に、諸外国と通商条約を締結した徳川幕僚部などを指し、「攘夷派」といえば、開国に反対した長州とそれに同調する公家のグループなどを指すと解釈されてきました。しかし、そのような解釈が意味をなさず、事実をも示してもいないのです。

▇ 攘夷とは何か
 まず、「攘夷」ですが、攘夷とは、「夷敵を撃ち、外国人を排斥する」ということですが、マナーの悪い無礼な外国から国を守るという程度の言葉であり、当時の状況から適切な言葉を選ぶとすれば、「国防」にあたります。そうすると、当時、自国を守らなくてよいとする人は誰もいません。つまり、攘夷は特殊な人間の発想ではなく、列島住民の殆ど全員の意識であるといえます。

▇ 尊王とは何か
 また、「尊王」という言葉ですが、当時、天皇を大事にしない人はいません。将軍家はもとより一般庶民まで、尊王は日本人全体の意識だと言えます。ですから、「尊王攘夷」というのは、当時の国民の全体的な意識なのです。

▇ 公武合体とは何か
 但し、この時期、通商条約を持ち続けるのか、それとも一回捨て去るべきなのかを巡って議論が起こりました。江戸城(徳川公儀)と京都朝廷の意見が分かれたのです。
 後で触れますが、長州が下関を通る外国船に大砲を撃ち放ちました(文久3年=1863年)。この時、朝廷は素晴らしいことをしたと褒め、徳川公儀はなんと馬鹿げたことをしたのかと怒りました。京都がYES!といい、江戸がNO!といったのです。どちらが正しいのか。どちらも正しいのです。当時、日本には政府が二つあるような状態だったのです。だが、それでは困ります。どちらの側のいうことに従ったらいいかわからなくなるからです。つまり、「政令二途」ではなく「政令一途」でないと困るのです。そこで、何とかして一途にしてほしいと願う。京都の朝廷(公家)と江戸の公儀(武家)の言っていることを一つにしてほしいと願う。それが「公武合体」ということです。公武合体とは、列島の意志統一を意味するに他なりません。政令一途となって、日本の突き進む方向が一つになることは誰もが願うことでした。
 要するに、「尊王攘夷」と「公武合体」は対立用語ではなく、一人の人間のなかに両立できる考え方といえます。

▇ 開国とは何か
 次に、「開国」とは何かについて考えてみましょう。井伊直弼がなぜ通商条約を結んだ(安政5年〈1858〉)のか。その理由を考えるとよくわかります。ほんらい井伊などはこの条約を結びたくなかった。これまでどおりの「鎖国」体制でいたかった。だが拒否したら戦争になる。勝てるのか。勝てない。戦って我が国が焦土と化してよいなどとは思わない。だから取りあえず条約を結び、列強と対抗できる軍艦や大砲などをもち実力をつける。そのような見込みが立った時に通商条約を破棄すればよいという発想です。つまり、開国した後に力を蓄え、そのうえで攘夷を決行するという考えです。当時の徳川幕僚部の考えはおおよそそのようなものです。勝海舟なども基本的には同じ考えです。将来の攘夷のために当面開国をするのだと。ですから開国と攘夷とは対立用語ではないのです。

▇ 薩長は討幕など目指していなかった
 尊王攘夷運動とは討幕運動の別名のように信じられてきましたが、安政・万延・文久・元治(1854年~1865年)のころ、人々の意識にはほとんど討幕(倒幕)や王政復古はありません。革命など政府転覆ではなく、いわば政治改革、政界再編を望んだのです。平野国臣や真木和泉などはたしかに将軍を討つような言動をしていますが、珍奇な事例で、実際具体的な戦略はなく、幻想・夢想の世界といえます。
 国防をしっかりする政府であってほしいと願ったのです。徳川公儀はそれをしてくれない。外国になめられている。それは徳川の幕僚部が能無しだからだ。それに代わって長州毛利や薩摩島津など有力大名を政治参加させて、強い政府にしたいという発想です。
 ではそのような政治改革、政界再編ではなく、はっきりと革命を目指しだしたのはいつのことなのか。それは慶応3年(1867)の6月ごろです。大政奉還の4か月前です。つまり、その時期になって初めて徳川将軍(当時は慶喜)に戦争をいどみ、彼を滅ぼしてでも新しい国家体制に移行したいと考えるようになったのです。

2、西洋の接近から八月十八日政変まで

▇ 「鎖国」をしていたのか?
 「鎖国」とは国を閉ざすという意味ですが、徳川時代の日本は決して国を閉ざしてはおりません。なぜなら、日本は五つの異国・異民族に窓を開いていたからです。対馬の宗氏を介して朝鮮と、薩摩の島津氏が琉球、蝦夷地(現北海道)の松前氏がアイヌと、そして長崎の出島で清・オランダとそれぞれ交流がありました。
 徳川公儀は、オランダ商館長(カピタン)からもたらされる「オランダ風説書」によって西洋の事情に通じていました。例えばアメリカのペリー来航も事前に知っていたのです。 「鎖国」というより、国外渡航を禁じた海禁時代、また徳川公儀による「貿易統制」の時代であったと見てみるべきかもしれません。そういう意味では、幕末期の有力大名の政界参加要求は、自らも対外貿易に参加したいという主張だったともいえます。
 たとえば下関は、首都京都の窓口である大坂湾に通ずる瀬戸内海の西の入り口にあたります。が、そのような要衝を持っているのに、長州毛利家は自由に対外貿易ができない。口惜しかったと思いますよ。

▇ 通商条約締結の何を問題としたのか
 長州毛利家は西洋を嫌っていたとか、外国と交わりをもちたくなかったというわけではありません。たとえば吉田松陰の門下久坂玄瑞らが問題にしたのは、通商条約締結の手続きなのです。一つは外国からの暴力的な要求に屈したということ。もう一つは、天皇の勅許なし(大名の合意なし)で調印したことです。ということは、それらの二つの条件をクリアすればOKなのです。西洋と交流した方が軍事力を高めることができますし、経済的にも教養上にも豊かになります。それを阻む何の理由もありません。

▇ ロシアの動き
 日本が五つの異国・異民族と交わりを持つという海禁政策が変化する最初の動き、それがロシアの接近です。寛政4年(1792)、ロシア使節ラックスマンが蝦夷地の根室に現れました。日本の漂流民(大黒屋光太夫ら)を連れ、通商条約を結びたいと言ってきます。蝦夷地は松前領であったため、江戸との二重交渉になったため、漂流民の引き渡しを含む交渉に約1年かかってしまいました。当時の江戸城の実力者は松平定信です。松前氏の蝦夷地ではなく、清やオランダが入港許可を与えられている長崎なら、今後ロシアも通商交渉を求めてもよいと長崎入港許可書を渡したのです。ラックスマンはこれを成果と判断し、一旦帰国しますがまもなく死去します。つづいてレザノフが長崎に派遣されますが、すでに松平定信は失脚しており、新政権は定信の判断を引き継がずこれを拒否しました。その後もロシアは通商交渉を求め続けますが、その都度長崎に現れます。徳川公儀の要求にしたがっての行動です。

▇ ペリーの浦賀来航
 これに対して、嘉永6年(1853)、アメリカのペリーが浦賀沖に現れます。当然徳川公儀は長崎への寄港要求をしますが無視し、空砲を撃つなどして威嚇しながら国交を結ぶよう要求したのです。この無礼な態度に多くの日本人は激昂するのです。
 同じ年、ロシア使節プチャーチンも来航しますが、彼らはルールに従って長崎に現れるのです。ペリーとは雲泥の差です。ペリーに怒る日本人がなぜプチャーチンに怒らないのか、おわかりだと思います。

▇ 和親条約
 ペリーとの間に結ばれた条約を一般に和親条約と呼んでいます。その後も3か国と結び、計4か国です(米・露・英・蘭)。下田と箱館を開港場と決めました。但し、この条約を結ぶに至る手続きの上に問題があったものの、この和親条約の内容には当時の政府も朝廷も問題にすることがなかったのです。 

▇ 華夷秩序(かいちつじょ)
 和親条約を問題視されることは少なかったですが、その2年後にアメリカのハリスが求めた通商条約締結については問題視されました。なぜか。その問題を解き明かすためには、当時の日本人にあった中華思想について触れなければなりません。当時の日本人は、日本を世界の中心と見なし他国を野蛮で劣った国と見なす考えを持つものが多かった。このような世界観を「華夷秩序」と呼びます。ですから、外国が対等な態度で近づいてくることを許せなかった。華夷秩序を乱すからです。先ほど述べた五つの異国・異民族も日本に朝貢する夷狄という扱いをしていました。
 なおこの時期に、列強が多く日本と国交を結びたがった理由の背景に、日本の近海にクジラが現れるようになったという事情があります。西洋は、当時クジラがほしかった。クジラから採れる鯨油を燃料としていたからです。捕鯨船が日本の近海で難破したり食料や水・燃料が足らなくなったりすると避難したり補給したりするための港が必要だったのです。日本は、その要望に応じたにすぎない。つまり和親条約は、困っている夷狄を日本が助けてあげるためのものであったという解釈が成り立つのです。これは長崎の出島にのみ居住してもよいという、これまでオランダに認めていた権利より低い扱いというわけです。和親条約締結が天皇からもほとんど問題視されなかったのは当然といえます。

▇ 通商条約 
 ところが、2年後の安政3年(1856)、アメリカのハリスが下田にやってきて通商を求める事態となると国内が沸騰します。一体、通商条約は和親条約と何が違うのでしょうか。
 一つは、西洋人が複数の開港場に日本に常駐できるということ(しかもそれは武家の首都江戸近郊の神奈川や、ミヤコである京都の外港摂海の一部兵庫である)、二つ目には、自由貿易ですので対等の関係となる。まさに、「華夷秩序」が崩れてしまうのです。
 幕府の中枢はもちろんこんな条約を受け入れたくない。だが、受け入れないと戦になる。勝てるか。勝てない。国土が焦土となる。だから、この際まず受け入れる。その上で国力を増強して、その上で条約を破棄しようと考えた。それが、政府の考えです。ところが、徳川将軍の縁戚から猛反発する者が現れた。水戸斉昭です。何としても条約を結ぶな!当時の老中首座堀田正睦らに切腹を命ぜよ、ハリスは殺せと江戸城内で激昂したのです。 これには堀田も閉口し、みずから上洛、天皇の勅許を得ようとした。天皇が条約締結を認めたなら水戸斉昭は黙るだろうと考えた。
 ところがそうはならなかった。公家88人が関白九条尚忠邸へ列参し、反対を表明した。そのため関白は堀田を支持できなくなった。孝明天皇は勅許を出さなかった。ただし何が何でも反対なのではなく、武家全体の合意があれば認める、だから合意を得て出直せと述べたのです。ともあれこの段階では堀田の勅許獲得は失敗しました。

▇ 条約締結までの経緯
 江戸へ戻った堀田はまもなく失脚し、大老井伊直弼が登場します。井伊は反対する大名をねじ伏せ、意見をまとめて再び勅許を求めようとした。そのことに自信があったのです。ところが、予想しないできごとが起こりました。アロー号事件です。英・仏が清国と戦い勝利しました。そののち英・仏の軍艦が日本に向かいます。その動きをハリスは利用するのです。勝利に乗じた英・仏が厳しい条件で日本に条約締結を求めてくるだろう、今のうちにアメリカと穏当な条件で条約を結んでおくべきだ、そうすれば英・仏にそれを受け入れさせることは可能だ、ハリス自身が英・仏を説得する役目を受け入れてもよいとまで言ったのです。これに井伊は乗ってしまった。水戸斉昭ら反対する大名の同意を取り付けることなく、ハリスの提案を受け入れ、岩瀬忠震(外国奉行)や井上清直(下田奉行)を下田に派遣するのです。ただしできるだけ時間かせぎをすることを指示した。どうしてもダメなら結んでもよいと。
 しかし、岩瀬も井上も通商条約を結ぶことが日本にとって最善の道だと確信していましたから、すぐ調印してしまう。その結果、米のみならず、英・露・仏・蘭との間でも締結しました。安政の五か国条約と呼んでいます。和親条約以来の箱館(函館)と、神奈川・長崎・新潟・兵庫を開港させるというものでした。

▇ 安政の大獄
 怒ったのは孝明天皇です。自身の許しを得ず勝手に条約を結んでしまったからです。
 怒りにかられた天皇は、水戸徳川家に勅書(戊午の密勅)を送り、井伊政権への反発をあからさまにした。そして現状の国事の問題についてすべての大名で話し合うように命じ、その勅書を有力西国大名への伝達を指示した。こんなことが現実化すると徳川家は政権担当者ではなくなってしまいます。当然井伊は憤慨します。だが、天皇を責めるわけではありません。水戸斉昭の陰謀として水戸徳川家、天皇の周りにいる公家、そして背後にいると見込んだ在京の儒学者たちが処罰対象になりました(安政5年〈1858〉~安政6年、「安政の大獄」)。
 この弾圧のさなか、井伊の意を受けた老中間部詮勝が上洛し条約締結にいたる過程を説明し、開戦を避けるための一時の方便で、将来条約を破棄することを主張した。あまり知られていないことなのですが、孝明天皇はこれを受け入れ、疑問は氷解したと返事をしています。つまりいわば条約勅許を与えているのです。安政5年(1858)の年末のことです。ただこれが外国にばれてはまずいので、徳川公儀は公表を避けました。

▇ 桜田門外の変以降の動き
 安政7年(万延元年、1860)、桜田門外の変が起きます。井伊直弼が水戸浪士らに暗殺されたのです。その後を引き継いだのが久世広周(ひろちか)と安藤信正の政権です。井伊政権が企画した、京都と江戸の融和を図るための将軍家茂への和宮降嫁が進められるのです。天皇は当初は反発しますが、最終的に降嫁を許す条件として、徳川公儀に10年以内の条約破棄を約束させています。
 なお和宮は降嫁決定後の文久元年4月24日(1861)、ご当地の石清水八幡宮に参詣をしています。これは和宮にとっての初めての洛外への外出で、江戸への長旅訓練の一環でした。八幡宮は武神ですし、和宮としては条約破棄を条件として関東に下るわけですから、国防を祈願するには石清水八幡宮はもっともふさわしい神社だったともいえます。毎年8月15日に行われる石清水放生会でも、とくに攘夷祈願がなされることもしばしばありました。 

▇ 将軍家茂の上洛と天皇の攘夷祈願
 和宮降嫁問題ののち、文久2年(1862)、安政の大獄を失政とみなす風潮が高まりました。それにともなって井伊政権に処罰された勢力が復権を始めます。たとえば一橋慶喜や松平慶永(春嶽)たちです。
 彼らの政権に対して、孝明天皇は条約破棄(攘夷)の具体的な日程を調整するために将軍家茂の上洛を求めます。文久3年(1863)3月、将軍家茂は3代将軍家光以来の実に約230年ぶりの上洛をはたします。同年3月11日、孝明天皇は上・下賀茂社に攘夷祈願のために行幸します。その時、将軍と在京大名も随従しています。そして、4月11日、天皇は石清水にも行幸しています。しかし、その日の体調は思わしくなかったようです。直後に出された尊融親王宛の孝明天皇宸翰(書翰)によれば、「持病の眩暈(めまい)がおこり、とても遠路の乗輿は困難である、だから延引したいと関白に述べると、それを聞いた三条実美がダメだと言って許してもらえなかった」「島津久光を招いて暴論の堂上(三条実美)を何とかしてほしい」と訴えているのです。それに対する尊融親王の返事も辛辣です。「三条らは長州を背景に悪行を積んでいるがいつか必ずや天罰が下る」と述べているのですから。この4か月後の八月十八日の政変で長州は追い払われるのです。 ここで強調したいのは、この政変は薩摩や会津のクーデターだと理解される向きがあるのですが、決してそうではなく孝明天皇が主体者であるということです。
 孝明天皇は条約破棄を願っていますが、だからと言って戦争をしてほしいと言っているのではありません。戦になって国土が焦土となることを最も恐れているのです。先祖の天皇に申し訳ないからです。 

▇ 攘夷決行日? 
 最後に、文久4年(元治元年)の正月の将軍家茂宛の宸翰(書翰)に孝明天皇の真意が示されています。
 「藤原(三条)実美等鄙野(ひなや)ノ匹夫(ひっぷ)ノ暴説ヲ信用シ宇内ノ形勢ヲ察セス国家ノ危殆ヲ思ハス朕カ命ヲ矯(いつわ)テ軽率ニ攘夷ノ命を布告シ妄ニ討幕ノ師ヲ興サントシ長門宰相ノ暴臣ノ如キ其王を愚弄シ故ナキに夷船ヲ砲撃シ・・・・此ノ如キ狂暴ノ輩必罰セスンハアル可ラス」
 「長門宰相ノ暴臣」とは久坂玄瑞らを意味します。そして、ここで問題になるのは、彼ら「暴臣」が前年の文久3年(1863)5月10日などに、下関で外国船に対し砲撃したことです。 
 実は、今まで触れずじまいでしたが、石清水行幸の10日後の4月20日に、5月10日から通商条約を破棄する話し合いを外国との間で始めると将軍家茂は天皇に約束したのです。ここで重要なのは、5月10日が攘夷決行日だとか戦争開始日なのではないということです。ところが、5月10日、久坂玄瑞らは上司の反対意見を無視してサア開戦だとアメリカの商船に砲撃したのです。これを聞いた三条実美らはほめたたえるのでした。孝明天皇は不快であったにちがいありません。徳川公儀は当然怒ります。
 ここで、もう一つ問題なのは、毛利家と関門海峡をはさんで対峙する小倉小笠原家の対応です。下関での攘夷戦のおり、小倉は動かなかったのです。毛利家からはなぜ一緒に戦わないのかとクレームをつけられ、同じく三条実美らが事実上牛耳る朝廷から叱責されたのです。小笠原家は、5月10日は話し合い開始をする日だと聞いていると反論します。これに対して徳川公儀からはほめられました。ここで、先に述べた「政令二途」の問題が浮き彫りになるのです。

▇ 慶応元年(1865)の条約勅許
 通商条約が健全に行使されないと、列強は困ります。八月十八日の政変のあとは、朝廷も少し軟化し、徳川公儀の方針に従い、条約全面破棄ではなく、横浜港のみの閉鎖を目指します。が、当時京都に近い兵庫は天皇の猛反発で開港しておらず、横浜まで閉鎖したなら、列強の損失ははかりしれません。それを主張するため、元治元年8月、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの連合艦隊が下関を攻撃し短時間で砲台などを破壊し、占拠します。これは長州を屈服させることが目的なのではなく、横浜鎖港を主張する天皇などへの威嚇でした。その後、3度目の将軍家茂の上洛にあわせて、列強は大坂湾に軍艦を進め、将軍を威圧しました。f0300125_1094179.jpg
 これに窮した家茂は条約勅許を得られないのならと、将軍職を投げ出して江戸へ戻ろうとしました。ここにいってようやく天皇は、条約を勅許するのです。慶応元年10月5日(1865)でした。
 一般に、長州などは長く攘夷を主張してきたのに、維新で政権側にたつと西洋と積極的に外交を展開する。結局攘夷は徳川公儀を批判するための方便に過ぎなかったのだ、長州は卑怯だ、嘘つきだといわれることが多いと思いますが、それは非事実です。慶応元年10月以後は天皇が条約を認めたわけですから、この段階で攘夷はなくなったのです。そこに何らの矛盾もないのです。 
                          【文責;土井三郎】

<参考文献> ※中村武生氏のレジュメから
  • 町田明広『攘夷の幕末史』、講談社、2010年
  • 青山忠正『明治維新』、吉川弘文館、2012年
  • 中村武生『池田屋事件の研究』、講談社、2011年

=一 口 感 想より=
通商条約の勅許が1865年(慶応元)と長い間認識していたが、実は1858年(安政5)には勅許が下されていたと聞き、これまで抱いていた幕末史に対する考え方や見方が大きく変わった。さらに詳しいお話を聞きたいので、これからも中村先生の講演をお願いしたい。  A
初参加でしたが、目からウロコでした。講師の中村さんの話はとても新鮮でした。   B
幕末の思想(開国-尊王攘夷、幕府-御所の関係)や孝明天皇の思いが理解できた。      恩村政雄
非常に面白かった。幕末のややこしいことが、この話でかなり納得、整理されました。通商条約に対する幕府側、公家の考えがとくによくわかりました。ありがとうございました。  高橋元子
学ぶということは破壊することだとの言葉に感銘を受けました。  
     畑美弘
今日の講演はとてもいろいろな発見がありました。孝明天皇が慶応元年の10月に条約を勅許し、その前に家茂が将軍職をやめようとしていたのもあまり知らなかったのでよかったです。東禅寺事件について少し話して欲しかったです・・・。         宮崎航平
脱線もあったとのことですが、楽しく聞かせていただきました。ありがとうございました。華夷秩序という言葉も初めて聞きました。また理解もでき嬉しく思います。松花堂美術館の庭園も見ましたがすてきな所ですね。  D 


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by y-rekitan | 2015-04-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第61号より-03 中ノ山墓地

西国三十三所観音石仏群の墓所

大田 友紀子 (会員)

 1月18日(日)、「八幡の歴史を探究する会」の例会で、久しぶりに竹中友里代さんの講演を聞きました。竹中さんは、元八幡市教育委員会文化財保護課に勤務されていて、現在は京都府立大学特任講師です。八幡市の古文書などを研究されています。
 今回の講演『史跡松花堂庭園の成立』において、西村芳次郎氏の実父である井上忠継のことについて話され「志水町は自治能力が高くて、井上家は豊かな商家であり、石清水の仕丁座神人を勤める家であった」ことや、「中ノ山墓地の西国巡礼三十三所観音石仏十二番の墓所を、天保3年(1832)に区画分譲とセットで購入し、その代金は3坪33匁(江戸時代の貨幣の単位で、小判1両の60分の1)であった」ことなどを話してくださいました。そして、忠継氏の一人娘のときさんは和裁の先生として、八幡では有名であったことを紹介してくださいました。
 私の母のおばさん(祖母の妹)はいつも和裁をしていて、母もその指導を受けていたようで、私たちの浴衣や訪問着も自分で縫っていました。そのおばさんのお師匠さんは、間違いなく井上ときさんだったと思います。彼女を慕う人々による「報恩碑」が中ノ山墓地の奥に建てられています。その評判からか、曽祖母も娘たち3人に和裁を習わせていたようで、その間の逸話を母はよく話していました。それから、農作業の合い間には、母はよくそのおばさんの家に行って一緒に着物を縫っていました。そこの家の庭には、大きなイチジクの木があり、その実を分けてもらって食べていたので、亡き母はイチジクが好きでした。
 その頃の志水はすっかり農村の町になっていて、その昔は商いを主にして繁栄していたことから、豊な商家を中心に自治をしていたことは、幼い頃に聞いたこともあり、ひそかに誇りにしていました。曽祖母の話の裏づけを得られたことが本当に嬉しくて、同時に曽祖母と過ごした日々を懐かしく思い出していました。
 さて、三十三所の地所の代金である33匁は、いくらぐらいになるのでしょうか。1両については、江戸初期は約10万円、中期には約8万円となり、後期には約5万円にまで目減りしています。天保3年は後期なので、1両=150匁、1匁は60分の1なので、2.5匁となり、33匁は約82匁です。よく言われる(時代劇などでは)ように、1両で1ヶ月は遊んで暮らせたとあり、その1両は後期には5万円なので、60で割ると833.3となり、それに33をかけると27、500円となりますが、物価の違いもありはっきりといえませんが少し高額な買い物だったのではと思われます。
 以前にある人から、「(中ノ山墓地の石仏群のある墓地は)いつ出きたん?」と尋ねられたことがあります。石仏が墓所に置かれた時期については、江戸中期頃と安直に考えていました。奈良にある喜光寺の石仏群はだいたい江戸中期頃の建立との住職の話から、こちらも同じと思っていたのです。 
  『京都府立大学文化遺産叢書』第4集を読み返してみると、「後ろの山を万称寺山と称し、文政3年町中ノ乞二任せ共同墓地トナス」とあり、墓域は万称寺山に造られました。その山の名から付けられた万称寺は、正法寺17世本誉即童が開山で、その後は正法寺の末寺の一つとなりました。龕前堂については、「文政5年(1822)春に龕前堂は、八幡志水の田町や勘ケ由垣内・神原町谷畑の百姓町人らが世話人となって建設された」とあり、その龕前堂を中心に北側に十三仏の石仏群をおく区域が、南に伸びる道の両側に二十五菩薩の石仏群が並んで建ち、その後ろには4坪づつの墓所が造られています。十三仏群の方は龕前堂と同時期に造られ、二十五菩薩群は翌年に石仏と共に分譲されています。西国三十三所石仏の墓所群は、遅れて10年後の天保3年に成立しました。
 中ノ山墓地の奥深い歴史が、八幡ルネが清掃する場所の広がりと同時に確認され、無縁墓となってしまった数基の墓石が少しずつ顔をのぞかせています。生い茂る雑草を取り除くと現れる墓石の声を聞いて行きたい、と思っています。

平成27年1月30日  やわた観光ガイド協会ボランティア
 


 上記の記事は、22世紀八幡ルネッサンス運動が発行する「ひろば」119号から、発行者と筆者の承諾の上で、一部割愛して再録するものです。 ―編集担当ー
by y-rekitan | 2015-04-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第61号より-04 陸橋

陸橋の名前

望月 充郎 (会員)

 西山和気にある足立寺史跡公園の前に陸橋が架かっています。下は男山泉の方から橋本まで延びる幹線道路が走っています。
 3月16日、歴史探訪ウオーク「平野山、西山を歩く」がありましたがその時、欄干の親柱に写真の文字を見つけました。f0300125_11195541.jpg
 橋の東詰、西詰めの二カ所につけられた銅板製の立派なプレートです。おおぜいの人の間で、二文字目は何と読むのかと、話が盛り上がっていました。
 私も、「言偏」のこの文字は何だろうと思いながら、帰ってから住宅地図で見ると「光法通橋」とありましたので、なるほど、二文字目は「さんずい」の「法」の異体字「㳒」。それにしても「さんずい」にはみえにくいなーと思っていました。
 すると、当日京都市内から参加していたTさんから、これは「跨」ではないかとメールがありました。くずし字辞典を見ても「足偏」の「跨」の文字です。確かに道路を渡るのは「跨道橋」であり、線路を渡るのは「跨線橋」です。「ひかり(光)地区」にあるから「ひかりこどうきょう」。となると「通」の文字も「道」の方がぴったりくる、すぐに市役所の「都市計画課」に電話で尋ねました。やはり「光法通橋」であるとの返事でした。
 そこで、「八幡の地名」について例会で講演(2011年7月)をしていただいた、文化財保護課の出口さんに見ていただきました。やはり文字は「跨」です。旁は「誇」「袴」の旁になっているとのことです。
 後日また、市役所勤務時代に男山団地の開発に関わった「まちかど博物館・城ノ内」の高井さんに伺いました。高井さんにも、例会で男山団地開発についての講演をしていただいています。
 高井さんに調べていただき、次のようなご返事をいただきました
  • 男山地区の町名については、「町名地番住居表示審議会」(市設置)が原案を決め市へ提言、市が議会に諮り決定しています。
  • 京阪が開発した西山地区の町名も、同様の手続きで決められました。
  • その地区の中の「陸橋」などの名称は、いったん開発者が呼称を決め市へ引継ぎ、市は内部決裁を済ませ問題がなければ、それを橋の名称にすることになっています。
  • このケース、現在の市の担当者は「光跨道橋」と言っていますが、プレートを見る限り跨道橋の「道」は「通」しか読めません。
  • 私も架っている場所、意味合いから「光跨道橋」が正解だと思います。プレートに文字を書いた人が間違い、市のチェックが不十分だったのか...。
  • 従って、市の考えと現場のプレートの文字の違いについて、市が良く経過を調べられ正しい名称を表示されるよう要請しておきました。
 地名などの固有名詞は、読む人、書く人によって、また時代によって変化し、それが受け継がれ後世に残っていくものなのでしょうか。例えば「雄徳山」「男山」、「川原」「神原」、「飼屋橋」「買屋橋」「カイヤ橋」などです。私は地名を見るとき、それを命名した(あるいはおおぜいの人が自然発生的に呼び合った)名称に、先人たちはどのような思いを込めていたのかと、ふと思いを馳せることが時々あります。
by y-rekitan | 2015-04-28 09:51 | Comments(0)

◆会報第61号より-05 墓石をたどる⑨

シリーズ「墓石をたどる」・・・⑨
新山通江氏の
「鴻鵠(こうこく)の系譜(淀屋歴代記)」から

谷村 勉  (会員) 


神應寺に新山通江氏の墓石建立
 平成27年2月、淀屋研究で知られる新山通江氏が逝去されました。豪商淀屋の研究に半生をかけられた氏は、末期は“淀屋ゆかりの神應寺に”との強い要望があって、5月19日、神應寺にて追悼法要と建碑開眼法要が予定されているようです(新山通江氏の墓石は神應寺墓地淀屋五代目辰五郎の隣に建立されるとのこと)。 
 昨年4月来、新山通江氏の著書「鴻鵠の系譜(淀屋歴代記)」を基に伏見区淀新町の天神社周辺の聞き取り調査を行い、この機会に旧淀屋邸跡地等について改めて報告いたします。

淀の旧淀屋邸跡
f0300125_192834100.jpgf0300125_20314715.jpg 京阪電車(新)淀駅から京街道を八幡方面に向かって孫橋(最近は河津桜で有名)、旧淀大橋跡をめざすと、途中の淀新町に小さな天神社が左側に見えてきます。
 この天神社の右隣が旧淀屋邸跡地で「鴻鵠の系譜」の中で、筋向いの煙草屋の女主人が語った、旧淀屋邸跡の旅館「伊勢市」があった場所です(写真1)。現在鳥居右隣の建物は新町自治会館「新町倶楽部」となっています。

 天神社の奥へ進むと神殿の右に社務所があって、「鴻鵠の系譜」文中に社務所の老婆の言で「この弁天さんは元、隣の邸(即ち淀屋邸)の後池畔に面して…」と記されていることからも旧淀屋邸の位置が確認できます。平成6年(1994)に発行された「淀の歴史と文化」の中に天神社の右隣に「旅館伊勢市」の面影を残す写真が掲載されています(写真2)。残念ながら天神社筋向いの老女の「煙草店」は現在営業されておらず、シャッターが閉まったままになっていました(写真3)。

f0300125_19114567.jpgf0300125_2052431.jpg 旧淀屋邸の弁財天や池の話がで てきましたが、後ろの池とは天神 社裏側の低地を指し、神殿奥の階段を下がれば眼下に住宅街が広がっています。その地形から昔は池であった事がよく判ります。
その池に面して淀屋の守護神の弁財天(写真4)が祀られていました。弁財天は元々インドの河神でありましたので、海、湖、川に関係する所に祀られます。

 淀屋初代の常安は材木商からスタートし、伏見街道築堤工事や大坂中之島開発を行うなど常に川や水に関わりを持ったことから弁財天を守護神としたようです。

與杼(淀)神社にある大坂淀屋高灯籠
f0300125_214585.jpg 與杼(よど)神社内にある大坂淀屋と刻された2基の高灯籠ですが(写真5)、寄進時期としては宝暦己卯仲春日とあり、宝暦九年(1759)二月の事でありました。淀屋の再興が宝暦十三年(1763)ですから、淀屋再興の4年前に片岡正英、同政冬によって寄進されたようです。また、高灯籠横に「淀屋研究会」の案内板がありますのでご参照ください。

久修園院の片岡正英・政冬の墓石
 淀屋ゆかりの片岡正英・政冬の詳しいことは分かりませんが、二人の墓石は橋本の近く楠葉の久修園院にあります(写真6)。
f0300125_19142790.jpg

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by y-rekitan | 2015-04-28 08:00 | Comments(0)

◆会報第61号より-06 総会

2015年度の総会が開かれました!


 4月例会に先立ち、午後1時から松花堂美術館の講習室において2015年度の総会が開かれました。
 総会には、八幡市教育委員会より教育長の祝辞が届けられました。紙上にて紹介します。

平成27年度八幡の歴史を探究する会総会 祝辞
 本日、八幡の歴史を探究する会の総会が多くの方々の参加のもと、盛会のうちに開催されますこと心よりお慶び申し上げます。
 平素は、是枝顧問をはじめ会員の皆様方には、本市の歴史を熱心に探究され、その成果を文化祭や報告会などで発表されるなど、歴史文化の向上にご尽力いただいておりますことに、心から敬意を表する次第でございます。
 さて、貴会が発足して5年が経過し、毎月いただく会報を通して、会員の皆様の活動がより一層活発に行われているようお見受けいたします。
 地域史の探究は、まちづくりの重要な要素のひとつであると思います。
 そのためにも、皆様方の手によって、八幡の歴史が解明され、市民がそれを知ることによって、自分自身の故郷に愛着が生まれ、それがまちの発展につながるものと確信いたしております。
 皆様方におかれましては、今後とも地域史研究の発展にご尽力いただきますことを願っております。
 結びにあたりまして、本日の総会が実り多いものとなりますことを、そして八幡の歴史を探究する会のますますのご発展と、本日お集まりの皆様方のご活躍・ご健勝を祈念申し上げまして、ご挨拶とさせていただきます。
平成27年4月19日
      八幡市教育委員会 教育長  谷口 正弘

 議長は安立俊夫さん。まず、前年度の活動報告がなされました。 2014年度の例会は以下の通り。

(1)例会活動
f0300125_18553698.jpg
〇4月例会【講演と交流の集い】
   「石清水八幡宮の年中行事と庶民信仰」
   講師 西中道氏   参加者66名。
〇5月例会【シンポジウム】
   「門前町の八幡今・昔」 飛行神社資料室にて
      (東高野街道八幡まちかど博物館と共催)
   シンポ「門前町の八幡の今と昔」
      堀尾行覚氏(単伝庵住職)・吉岡久江さん・柏村昌男さん
      参加者46名。
〇6月例会【講演と交流の集い】
   「八幡を掘る-山上山下の発掘調査から-」
   講師;大洞真白氏  参加者52名。
〇7月例会【歴史探訪ウオーク】
   「対岸のまち山崎・大山崎をめぐる」 参加者37名。
〇8月例会【講演と交流の集い】
   「神国論の系譜-石清水八幡宮と天下人-」
   講師 鍛代敏雄氏  参加者50名。
〇9月例会【講演と交流の集い】
   講演 「地誌に見る八幡」
   講師 伊東宗裕氏  参加者63名。
〇10月例会 【会員研究発表】
   「『安居頭諸事覚』を読む」
   報告者 谷村勉氏 参加者37名
〇11月例会 【講演と交流の集い】
   「中世大山崎の商業活動について」
   講師 福島克彦氏   参加者33名
〇12月例会 【歴史探訪ウオーク】
   コース;泰勝寺→善法律寺→法園寺 参加者29名
〇1月例会 【講演と交流の集い】
   「史跡 松花堂庭園の成立」
   講師 竹中友里代氏  参加者50名
〇2月例会 【講演と交流の集い】
   「二宮忠八と八幡」
   講師 友田享氏  参加者47名
〇3月例会 【歴史探訪ウオーク】 
   「橋本の歴史(Ⅱ)平野山・西山を歩く」
   コース; 猿田彦神社→講田寺→交野天神社→足立寺史跡公園
   参加者64名

(2)例会以外の活動
 今年度は、「自転車で巡る八幡の名所」や「お気軽歴史講座」にとりくみ、それなりの成果を上げた。但し、参加者は予想に反して少なかった。
 団体として登録している公民館のフェスティバル、あるいは八幡市文化協会が主催する「市民文化祭」に参加して、「八幡の歴史人物クイズ」に取り組んだ。f0300125_17313398.jpg八幡にちなんだ歴史上の人物をとりあげ、クイズ形式で取り組んでもらうものである。市民文化祭では、100名以上の市民の参加が見られ、会員を増やすなどの成果をあげた。また、年末に開催された「やましろ地域交流フェスティバル」に初めて参加し、山城地域のNPOの団体と交流をもつことができた。
 八幡市生涯学習センターとの共催で、「『男山考古録』を読む会」を開催して2年が過ぎ、八幡の歴史に関する知見を広めることがでできた。

(3)会報の充実
 今年度も毎月会報を発行し続け、連載記事など充実した内容を会員内外に届けることができた。会員および読者より、会報が面白い、ためになるという声に励まされてのことである。
 主な連載は以下の通り。
    「わが心のまち」;小山嘉巳氏
    「伊佐家の暮らしとしきたり」;伊佐錠治氏
    「墓石をたどる」;谷村勉氏
    「石清水八幡宮の歴史Q&A」;西中道氏(石清水八幡宮禰宜)
    「女郎花と頼風―物語はどのように生まれたか」;土井三郎氏
    「松井横穴群関連」;野間口秀國氏
    「御園神社関連」;大田友紀子氏
    「八幡八景について」;安立俊夫氏

(4)出版活動への取り組み
 2014年3月より、出版事業に着手した。八幡の子どもたちや若い世代に八幡の歴史や文化の魅力を伝えることが目的である。制作委員会を中心に、八幡市や石清水八幡宮、松花堂庭園・美術館などにも働きかけ推進してきた。八幡市や教育委員会などのバックアップもあり、数多くの会員内外の有志の方々に支えられ、今秋には上梓するめどがたった。会の活動の節目を飾るものとして銘記したい。
 例会参加者は延べ574名で、会員数は133名に達した。(昨年実績105名)

続いて、以下の通り、2015年度の活動方針が提案されました。
  1. これまで同様に、三本柱の活動(会員の研究発表・現地見学・研究者の講演)を進める。出版事業を成功させ、普及活動に取り組む。
  2. 会報は、これまで通り、例会の概要だけでなく、広く八幡の歴史や文化の発信をする媒介となるよう努力する。そのために、例えば「ひょっこり訪問記」をシリーズ化して、八幡の歴史や文化に深く関わっている方に登場していただく。一方で、広く会員相互の交流を深めるなど親しみやすいものにしていく。
  3. 最近、ネット予約やネットを通じた問い合わせが増え、ネットによって貴重な情報がもたらされるなど、貴重な媒体になっている。それをふまえ、更に活用を推進するとともに、その落とし穴にも留意する。
  4. ふるさと学習館(文化財保護課)をはじめ、生涯学習センターや文化協会、まちかど博物館協議会、郷土史会などと連携し、様々な企画や催しもの等に協力する。また、山城郷土資料館や市外の団体・諸施設と交流を深める。
 その後、2014年度の会計報告と2015年度の予算案が示され、出口修さんが会計監査報告をなさいました。
 続いて、高田昌史さんから会則の一部改定が提案されました。幹事のほかに顧問を置くというものです。質疑応答の後、採択がなされました。その後、是枝昌一さんが退任の挨拶をなさいました。新役員は次号にお知らせします。


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by y-rekitan | 2015-04-28 07:00 | Comments(0)

◆会報第61号より-07 八幡歴探

発足からの5年を振り返る

是枝 昌一 (顧問 前代表幹事)


 今年も桜の時期が終わり、四季はもう夏の手前、旧暦では穀雨の候、これから青葉の美しい季節を迎えます。次はヤクヤクとした躍動的な夏に繋がります。   
 「光陰矢の如し」時の流れは速く、市民の同好者16人でスタートした会の発足より5年が経過しました。この間、会員皆様の御指導を頂き、八幡の歴史を通じ交流、専門家の方々、関係部門からのご教示を頂き、幹事会にて討議、基本のレールを作る作業が続きました。今後はこのレールを基礎にした新しい探究の展開が期待されます。

発足5年目の総会

 4月19日、当会の5年生の終了式である総会を開催、教育委員長の祝辞を頂き、平成26年度の活動報告、続けて平成27年度の活動並びに予算、規則人事案件の採決を頂き有難うございました。会としても大事な節目、迎える6年生を意義ある活動の年として、位置付けたいと思います。
 本年3月には、会報60号を作成、第1号より5年目、毎月発行の約束を会員皆様のご協力のもと、発行することが出来ました。
 手作りながら、会員の交流の広場として、又ホームページに取り込みデーターベースの構築に繋げ、外部への発信力にも成果が出てきております。加えて発信のみでなく返信の流れが形成され会員の対話の場にも発展しております。
 これから大事な6年生、新しい風も加え、皆様と共に大事な節目の芽を育てたいと思います。共に探究学習を進めましょう。

これからの進め方について

 総会議題の活動方針に記載の通り、月別計画を事務局長を中心に幹事会にて起案し、必要な案件はすでに実施計画に入っており、共に学習をお楽しみたいと思います。3年前からの懸案の出版事業について、予定通りの進行状態で、秋には八幡カルタに次ぐ第2の作品として刊行予定です。会員並びに市内の専門家、学識経験者、行政の方々も交え委員会を構成、会の第2条 目的「地域文化の進展と次世代への継承に貢献する」にふさわしい作品が期待されます。
 「継続は力なり」の言葉で基本路線を守り、夢多き世代の中学生らしく「不易流行」の流行の言葉、新しい風ヘの挑戦が求められます。会員の方々共々、夢を題材に集い討論会、懇親会の開催も楽しい会合になると思います。(発足の時のNO1会報を参考にしつつ)次のキーワードに思いを込めたいと思います。
「三位一体の推進」
 3年前八幡文化センターにて奈良大学の坂井先生より、地域歴史の充実には三位(専門家、行政、市民)一体の協力が大事との講義があり、会員の方々も注目され会報にて感想記が掲載されております。(会報NO25市民参加の街作り 望月さん 参照) 今回の出版事業は、このキーワードが実現化への道につながったのではないでしょうか。大事な事はその主役は市民あることです。今後は謙虚に主役としての役割を念頭に、相互の接点をますます深める調整力が求められます。
「進歩と調和」
 関西の経済発展にとって忘れる事の出来ない節目となった千里万博、その時のテーマは「進歩と調和」でした。新しきを求めチャレンジし、そして調和を念頭に、アクセルとブレーキを使い分け、新しい夢の実現を進めたい。
「分業による協業」
 会員の拡大、業務の幅、専門的深さ等々 タスクと情報は数限りなく増加します。分業を進め集中化を防ぎ、協働意識を持って常に知識の共有への工夫が必要でしょう。

顧問への就任について

 この度、私事都合により顧問に就任することを承認頂きました。運営は幹事会を中心に代表幹事 土井三郎さん、事務局長 高田昌史さんが、ご担当です。会員の皆様には発足より5年間、各種ご提言、ご指導を頂き会を育てて頂いたことに感謝し、紙面を借りて御礼申しあげます。今後も顧問の立場としての変わらないご交友とご指導をよろしくお願いいたします。      以上
 

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by y-rekitan | 2015-04-28 06:00 | Comments(0)

◆会報第61号より-end

この号の記事は終りです。


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by y-rekitan | 2015-04-28 01:00 | Comments(0)