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◆会報第63号より-top <スクロールだけで全記事が読めます>

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
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◆シリーズ:“わが心の風景” (36)◆
◆《講演会》酒麹作りをビジネスとしていた八幡神人がなぜ奉納詩歌に熱中したか
◆シリーズ:川の旅日記◆
◆シリーズ:“松花堂昭乗が詠んだ八幡の町(その1)” ①◆
◆シリーズ:「歴史たんけん八幡」の発行◆


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by y-rekitan | 2015-06-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第63号より-01 流れ橋

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わが心の風景・・・(36)
流れ橋
所在地 上津屋宮前川端

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 「流れ橋」の愛称で知られる橋は、上津屋橋といい、長さ356メートル、幅3メートルの日本最長級の木橋です。日本一はというと、静岡県島田市・大井川に架かる「蓬莱橋」の896メートルですが、流れることを前提に架けられた橋としては、八幡の流れ橋が日本一といえそうです。
 この橋が架けられる前には、府営の渡船場があったのですが、1951年(昭和26年)3月に廃止され、その2年後にできたのが流れ橋です。このとき、経費節減と増水によって橋が壊れないようにするため、川の水が橋板まで達すると板が浮き上がり、流れる構造となっているのが「流れ橋」と呼ばれる由縁です。また、橋板は、ワイヤーロープで橋脚と結ばれ、水が引けばこれをたぐって橋脚に載せ、再び通行できるようになっています。
 橋は架橋後、現在までに21回流れ、その復旧に費用がかさむことから、被害を最小限に抑える新たな構造にしようと、今、その課題に「平成の知恵」が試されようとしています。 (絵と文小山嘉巳)

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by y-rekitan | 2015-06-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第63号より-02 柏村直條

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《講 演 会 (会員発表)》

酒麹造りをビジネスとしていた八幡神人が
なぜ奉納詩歌に熱中したか?


2015年6月  松花堂美術館の講習室にて
柏村直樹 (会員 京都市在住)


 2015年6月24日、表題のテーマで6月例会が行われました。講師は、柏村直樹(かしむらなおき)さん。元禄期に、「八幡八景」を編集したことで知られる柏村直條(なおえだ)のご子孫で、三重大学の名誉教授(生物資源学部)です。退職後は、趣味でハーブの栽培と利用を楽しむために、自宅で分子ハーブ研究所を主宰しておられます。数年前から、八幡の歴史を探究する会や古文書の会八幡の活動にご参加いただき、石清水八幡宮の神人として活躍した柏村家の事績について探究を進め、「柏亭日記」の解読をはじめ、和歌・発句の研究に勤しんでこられました。例会時に、お手製の柏餅を持参なさるというユニークな面もおありの方です。
 2015年6月例会は、この間の柏村さんの研究の概要を発表していただくということで1年前に要請したものです。当日、柏村さんは「講演資料」として全40ページに及ぶ冊子を自費出版なされ、参加者に配布していただきました。今回は、それをもとに概要をまとめたいと思います。
 参加者は56名でした。

英文による講演の要旨とその和訳
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⦅和訳⦆
 何故に石清水八幡宮森村の神人たちは中世において酒麹の生産と販売を独占していたにもかかわらず、江戸期に奉納詩歌の編集に取り組むことになったのであろうか?   柏村直樹(三重大学名誉教授)
<要約>
 本日の講演は、直條の活動と八幡市内外の専門家と市民によってなされた、彼についての最近の研究に焦点があてられている。トピックは八幡八景、厳島コレクション、放生会(捕えられた生き物を放つ宗教的儀式)、そして、家譜および家系図に引用される直條と家族の歴史をふくんでいる。講演はまた、日本の酒造についての文献の写しと共に、40頁の小冊子と参考図書の展示によって補足されるであろう。(和訳は、歴探幹事の藤田美代子さんによる)

直條とその家族

 直條(なおえだ)は寛文元年(1661)に、柏村家39代として生まれた。父は直能(なおよし)。妹の眞は、後に連歌師里村昌純と結婚。直條の和歌・俳諧への接近が示唆される。f0300125_10335740.png寛文5年に、父直能に将軍家綱から朱印状が交付された。石清水に仕える神人として安堵(あんど)されたことを意味する。直能は、延宝(えんぽう)6年(1678)に、再興される石清水の放生会(ほうじょうえ)に参加している。代々柏村家は相撲神人であったが、この時の相撲神事は成らなかった。なお、直能は天和3年(1683)の安居神事(あんごしんじ)にも参加している。安居頭役としての出仕であろうか。
 貞享(ていきょう)元年(1684)、直條は、京都の先生のところへ弟子入りしてその修行から八幡に帰り、家督を継いだ。23歳と思われる。貞享3年には、河内国の王仁遺跡にて和歌奉納を懐紙に残していて、若い頃から和歌に親しんでいたことがわかる。翌年、息男の真直(まな・柏村家第40代)が生まれている。真直の母、つまり直條の妻は谷村新兵衛光利の娘である。
 元禄元年(1688)、隠居の身である父直能が、大納言近衛冬基に牡丹を進呈している。天下泰平のこの時期、内裏ではお花畑で花の栽培や鑑賞がさかんに行われたらしく、それが機縁で柏村家と朝廷との関わりが芽生えた。
 元禄3年、直條は放生会で大納言実業に和歌を献じている。
       石清水流れの末に月影の うつるも神の恵みとぞ知る
 元禄6年(1693)、直條は有栖川親王に千句連歌を贈呈している。これは川口村天満宮で興行されたものである。同年8月、直條は、醍醐冬基卿と有栖川親王に「八幡八景」を選定することを要請。12月に霊元上皇の認知するものとなった。そして元禄7年、直條や里村昌陸らとの「八幡八景連歌発句絵巻」が奉納されることとなった。同絵巻は、石清水八幡宮が所蔵し、平成19年(2007)に、京都府立山城郷土資料館が開館25周年を記念した特別展に出展され、図録「南山城の俳諧」に紹介されたことはつとに知られている。

見果てぬ夢に終わった奉納相撲

 代々柏村家は、相撲神事を司る相撲預禰宜(すもうあずかりねぎ)として奉公してきた家柄である。家康からの朱印状にもそのことが明記されている。直條も、何とか相撲神事を復活すべく奔走した。
 弟である尚誠が5代将軍綱吉の側近、柳沢出羽守吉保(よしやす〉に仕えるようになると、柳沢吉保を仲立ちとして石清水に相撲神事が復活するよう働きかけた。元禄9年(1696)に直條は、尚誠に手紙を送った。相撲復活を懇請するものである。以下に要約する。
奉納相撲はそもそも垂仁天皇の時代に興って今では内裏で7月に行われている。
後三条天皇が親王の時、石清水八幡宮に参宮のおり希望されたが、皇位につかれたときには、放生会での実施が難しくなり行われなかった。
南都春日若宮の祭礼の相撲は我が家系の者が派遣され実施された。
いつの頃からか下行米も減り、運営予算もないので、高祖父宗重の時代から実施されていない。
当八幡宮での相撲は巡検勾が担当するという記録もあり、最近は、この担当が善法寺家となっているが、名ばかりで実行されていない。
我が家系は昔、内裏から来る相撲人を預かり、左右近衛を付けて実施してきたが、放生会も廃(すた)れ相撲節会(すもうせちえ)も長い間行われておらず嘆かわしい。
田中央淸の願いがかなって放生会が再興されたので相撲節会を再興したい。だが、下行米がなくては実施できない。
相撲だけでなく、流鏑馬(やぶさめ)、舞楽、競馬(くらべうま)も絶え残念なことである。
 貴方は権勢著しい方(柳沢吉保)にお仕えしているので、これらの行事を再興できるようにお諮り願いたい。
だが、この手紙でも奏功せず、直條は、元禄13年(1700)に江戸に出向き要請活動を行っている。その後、相撲節会が石清水において行われた記録が見当たらず、復活されたことはなかったのかもしれない。

厳島八景

 正徳(しょうとく)元年(1701)、直條(なおえだ)は家督を眞直(まな)にゆずり隠居している。満年齢では40歳に相当し、現代の感覚からすれば早い隠居であろう。その後、直條は全国各地を巡るようになった。なかでも厳島神社には足しげく参詣し、厳島の光明院恕信なる僧との交友をさかんにし、厳島奉納和歌を興行したり「厳島八景」を定めたりしている。「厳島八景」については、早稲田大学図書館蔵のものがフリーダウンロードできる。題目は、以下の通りである。
 厳島明燈、大元桜花、瀧宮水蛍、鏡池秋月、谷原麇鹿、御笠浜鋪雪、有浦客船、弥山神鴉
 「厳島八景」については先行研究があり、朝倉尚氏の「厳島八景考-正徳年間の動向-」が参考になった。同論文から以下のことがらがわかる。
「厳島八景」は、正徳年間(1711~1716年)にさかんに詠まれ、近世における、宮島のみならず、芸備地方の文化の到達点が示されている。
和歌・漢詩・連歌(発句)、俳諧を内容としているが、作品量や成立事情については一様ではない。
選ばれた名所には、厳島を筆頭に、大元・滝宮・鏡池については神社とその一部で、谷原・御笠浜・有浦・弥山については、神社を中心にしながら、周辺の代表的な景観地として選ばれたと解される。
また、春、夏、秋、冬と羇旅、神祇を整然と配置していることがわかる。
厳島八景の景目の選定等の奉納の経緯については、直條による跋文を読めばわかる。その経緯は以下の通り。
正徳2年(1712)4月13日に、直條は八幡を出発し、20日に、厳島の光明院(恕信が住職)に投宿した。その後、厳島神社に参詣したり地元の名のある人々と交友を深め、連歌を興行したりした。同年6月に八幡に帰った直條は、京都の風早家を訪れたり冷泉家に赴いたりしている。
正徳3年3月、厳島奉納和歌20首題を冷泉家より得、諸卿に勧進。
正徳5年(1717)、厳島八景の和歌成る。同年、直條、宮島に至り、八景和歌を光明院に附す。恕信、八景和歌を神前に奉納す。
 上記のことから、直條が厳島に赴き、厳島八景に関わる和歌や俳諧などを地元の人々と詠み、それらの作品を携えて、京都の高家・堂上家を訪れた。その際、恕信も直條といっしょに上洛したと思われる。その目的は、「厳島奉納和歌」などの作者・協力者に謝意を表し、さらに速やかなる作品製作を督促することである。その作者・協力者のなかに、直條はもちろん、昌純・昌陸・昌築・昌億など連歌師里村家の面々、石清水八幡宮の神職がいた。恕信と直條による、これらの方々への懇願、督促によって「厳島八景」が成立したといえる。
 なお、朝倉尚氏の研究は、「厳島八景」の研究にとどまらす、「八幡八景」の先行研究としても意義がある。さらに深く検討したいものである。

中世八幡の「酒麹専売権」

 柏村氏は、相撲神人であるとともに、八幡森の有力者であった。江戸時代の朱印高によれば、八幡森町は山路郷に属し、320石余の石高を持つ。中世以来、薬園寺のお膝元で森氏や森元氏を中心に酒麹の生産と流通を担ってきたことはよく知られている。柏村家の系図によれば柏村氏も酒麹に関わり財をなしたことが考えられる。ここで、酒麹販売権をめぐる中世八幡の様子をいくつかの資料をもとに紹介してみたい。
 鎌倉時代から室町時代にかけて、京都には「座」という制度があった。これは言ってみれば、専売システムのことである。朝廷や有力な寺社などを本所として一定の利益を上納すると、営業の独占権や課税免除の特権が座商人に与えられるというシステムなのである。その「座」のひとつに、「麹座」というのがあったが、これは、酒に使う麹を独占的に扱う座である。京都の石清水八幡宮の刀禰(有力者)を皮切りとして、北野天満宮の神人らが専売権を設定して「麹座」を開いたとのことである。
 石清水八幡宮の麹座の活躍を示すものとして、次の資料がある。
 「寛元4年(1246) 石清水八幡宮の刀禰(有力者)・住民ら麹の専売権を独占する」というものである。詳しくみてみよう。
 「京都の南郊、石清水八幡宮領内の刀禰や住民たちは、寛元4年(1246)以前から麹の専売権を独占していたが、たまたま文永年間(1264~1275)、続いて徳治年間(1306~1308)の2回にわたり、河内国交野郡楠葉(現、枚方市楠葉)の住人が八幡宮境内四郷で麹を売ったことから騒ぎになったが、八幡宮社家の裁断で特権をそのまま保持することができた。」-『日本の酒の歴史-酒造りの歩みと研究-』(昭和51年1月発行、発行者、高田弘)

「八幡八景」成立の背景と直條の思い

 現在、目にすることができる「八幡八景」は、正徳6年(1716)に山田直好が写本したものと、賀川翠渓が昭和9年(1934)に写本したものが双方ともに、東京都立中央図書館に所蔵されているので、その全貌を窺い知ることができる。それらによれば、和歌・発句・漢詩編がおびただしく作られ、出詠に関わった人は、堂上公家・宮家から地元の歌人、五山・黄檗僧、連歌師、直條家族にまで及ぶ。
 題目はご存知のように以下の通り。
 雄徳山松/極楽寺桜/猪鼻坂雨/放生川蛍/安居橋月/月弓岡雪/橋本行客/大乗院鐘
 すべて石清水八幡宮が鎮座する男山とその周辺で、松、桜、雨、蛍、月、雪、行客、鐘が景物として取り上げられ、春から冬に至る季節と羇旅(きりょ)、釈教がテーマとなっている。
 その中で、直條が好んで詠んだ和歌・発句が「放生川蛍」のようである。放生川に蛍が飛び交う姿をともに想像してみたい。そして、現代の放生川に蛍が舞う日の訪れることを夢想したい。

    そのかみに誰か放ちて此川の たへぬ流れに蛍飛かふ

    うろくつも藻にかくれ得ぬ ほたるかな    「うろくづ」は魚の意。
以上

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f0300125_11435332.png 本講演は、史料が生でしめされており、翻刻がないものもあってわかりにくい面もありましたが、その点では配布された冊子やレジュメを読めばよいように配慮されています。あるいは、「年譜」や「家譜」、「略伝」を示してくださっていて、参加者の今後の勉強の便をはかっています。

 休憩を挟んで質疑応答が交わされました。論点のみを紹介します。
柏村直條は、どのような教養の持ち主であったのか。
相撲節会を実施したかったが叶わず、それで八景や和歌の制作にのめりこんでいったのか。
直條と厳島神社との関わり。直條が恕信と知己になった経緯。
柏村家と瀧本坊との関係はどのようなものだったのか。
直條が「放生川蛍」にどんな思いを重ねたのか。ちなみに、土井は、上記の和歌が、単に当時の情景を歌っているだけでなく、放生会(ほうじょうえ)が復活されたことを思い、放生川の流れを放生会の悠久の歴史になぞらえたものとして受け取った。
放生川蛍の漢詩編の訳について

 なお、柏村直樹さんから次の感想が寄せられました。
「当方の今回の率直な感想は、やはり「身内の話」はやりにくい、しかし、やってみて、また実際に多方面の参加者があり、図らずも「生前葬」の感じがした。それにしても、松花堂だけに魅せられて、あるいは八幡は行ったことがないのに、友人がきたのにはびっくりした。来年から5月12日、「直條サロン」で供養のお祓いと神人のセミナーを開こうとおもいますのでよろしく。」

『一口感想』より

以下に、当日寄せられた一口感想を紹介します。
ありがとうございます。柏村先生は佳いお仕事をなさいましたと感じ入りました。柏村家のご先祖への何よりの御供養と存じます。今日、先生がおすこやかな老年期を生きぬかれ、御自身の為、御家族の為、先生に御縁をいだく方々の為に仕合せな時間を共にさせていただき、有難いことと存じます。 (阿部千恵子)
素晴らしい資料、ありがとうございました。奥深い歴史にますます興味が増しました。じっくり復習します。有難うございました。 (竹内勇)
「八幡八景考」を歴探で制作して下さい。『歴史たんけん八幡』の次の出版の題材として!(伊佐)
いやあ、すごいです。よく研究されたものです。 (坂口守彦)
〔文責=土井三郎〕


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by y-rekitan | 2015-06-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第63号より-03 川上り

シリーズ「川の旅日記」・・・②

川 上 り 旅 日 記

野間口 秀國 (会員)


 第62号で書きました背割提の桜まつりにおけるお花見船(Eボート)の体験が呼び水になったという訳ではありませんが、もう少し長い時間楽しみたいと思い、穏やかな皐月のある日「淀川歴史探訪の旅」(*1)に参加しました。本号では旅の様子をできるだけ歴史的なことに着目して書いてみたいと思います。

 乗船場は京阪電車の天満橋駅近くです。淀川から分かれて中之島を包むように流れて海へと注ぐ大川の左岸に設けられた八軒家浜船着場は、出航時刻を今かと待つ乗客の皆さんの楽しい雰囲気で満ちていました。午前9時30分、定刻に出航するとガイドのMさんは自己紹介に続いて「この船着場はその昔、熊野へ詣でる多くのお公家さんや偉い方々が伏見から船で下り降りたところ」と、昨日のことのように話してくれました。現在、この船着場は国土交通省の管轄下にあります。阪神淡路大震災の後に、淀川本流において災害時の物資輸送などを目的として緊急用船着場として整備され、八軒家浜と枚方の船着場を含めて9ヶ所(左岸5、右岸4)あります。
 船着場を離れた船は左手に造幣局を見ながら静かに上ってゆきます。明治3年にできた造幣局は翌明治4年に最初の紙幣が印刷され、その紙幣は淀川丸にて伏見まで運ばれ、さらに陸路で東京へと運ばれたそうです。この春も、約560mある南から北への桜の通り抜けでは多くの花見客で賑わいました。船は変化に富んだ複数の橋をくぐりながらやがて毛馬閘門(けまこうもん)に到着します。昭和52年に完成したこの新しい閘門は船が運航できるように淀川と大川間の水位を調節しています。淀川の水位は標高3mほどで、一方の大川は1.8mほどとのことですからその差は1.2mですが、大川は汽水域(塩分を含む水域)の為に潮の干満の影響でその差は多少変動するとのことです。閘門の通り抜けには約30分を要しますが、昔の船旅では経験できなかった貴重な時間と言えるでしょう。
 閘門を通り抜けて大川から淀川に上るとそこは穏やかな堰止湖(せきとめこ)です。昭和59年に完成した淀川大堰(おおぜき)は淀川の水位調節や、海水が上流に流れ込まないようにするための施設です。大堰を境にして上流側は真水、下流側は塩分を含む汽水域で、堰の幅は45mありますがアユなどを上流に導く魚道が設けられているとガイドのMさんは説明してくれました。船の窓から目前に見える川面は花見船(Eボート)で川下りした背割提近くの淀川(宇治川)と同じ川であることを忘れさせてくれる広々とした穏やかな湖面であり、流れを全く感じさせない船内では女性のガイドさんがみごとな喉を披露して「三十石船唄」を聞かせてくれました。f0300125_192225.png 堰止湖の穏やかな水面を眺めていると古い歴史の一コマに生きているような感じになりますが、淀川は歴史に残る被害(堤防破壊)が200回以上あったと説明いただきました。流れる位置も異なり、現在の京阪電車の守口市駅近くを流れていたようです。『日本書紀』仁徳天皇11年10月の記事に、「天皇は、北の河の澇(こみ)を防がむとして茨田堤(まんだのつつみ)を築く(天皇は洪水や高潮を防ぐことを目的として、淀川に茨田堤を築いた)」との記述があり、茨田堤の成立を物語るものとされていることを、船を降りた後訪れた淀川資料館のVTRで学ぶこともできました。時代は下り安土桃山時代、時の天下人秀吉は西国の有力大名の毛利輝元、小早川隆景、吉川弘家に命じて淀川左岸に大規模な堤防の築造を命じました。文禄5年(1596)に行われたので文禄堤と呼ばれるこの堤防を京街道が通じていたことは良く知られていることと思います。
 およそ2時間近くが経つと船は枚方船着場に近づきます。この付近で目にするのは砂取船です。大阪万国博覧会では、会場に建設されたパビリオンの90%に淀川の砂が使われて出来たことの説明もいただきました。朝、毛馬閘門を通り抜けた砂取船は、喫水線ギリギリまで砂を積んで昼頃に閘門近くの砂揚げ場に帰るのだそうです。現在のように橋の殆ど無かった時代には川を渡る為に渡し船が重要な交通手段でした。乗船時にいただいたマップの淀川左右両岸には複数の渡し跡が記されていますが、枚方船着場近くには郵便屋渡し跡の石碑があります。高槻から枚方への渡しは「大塚渡し」と呼ばれ、その逆は「枚方渡し」と呼ばれていたそうです。郵便屋さんが乗った渡し船(*2)が出るとお昼の準備に取り掛かったようですから、現在の砂取船と同じようにお昼を知らせる船だったのでしょう。また船着場近くの「市立枚方宿鍵屋資料館」では宿駅、くらわんか船、船待ち宿、京街道のことなど多くを学ぶことができ、同資料館のある町名が堤町であることも歴史を感じさせてくれます。f0300125_1985349.png 現在、淀川の舟運は八軒家浜船着場から枚方船着場までであり、枚方以北の延長は未定のようです。船の運航には、昔の船で水深が最低でも50cmは必要で、明治初期の蒸気船では2mが必要だったそうですから、観光船も枚方までしか運航出来ないのは以遠の水深確保が容易でない事が理由なのでしょう。京都伏見までの船旅ができる日を夢見ながら今回の旅の終わりといたします。

【参考資料】
(*1)期間限定運行です(乗船時に配布の資料より)。
(*2)郵便屋渡しは、明治10年に淀川右岸に鉄道が開通し左岸の枚方側からの郵便物を高槻駅に届けるために設けられた渡し(乗船時に配布の資料より)です。
(全)記載内容は乗船時に配布の各種資料、ガイドさんの説明、市立枚方宿鍵屋資料館の資料、淀川資料館の展示物等によります。

  
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by y-rekitan | 2015-06-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第63号より-04 松花堂昭乗

シリーズ「松花堂昭乗が詠んだ八幡の町」・・・①

松花堂昭乗が詠んだ八幡の町(その1)

 土井 三郎 (会員) 


はじめに

 2014年3月、松花堂昭乗研究所主催の研究会に、私は、「松花堂昭乗と俳諧の世界」と題して報告した。2013年8月21日付け京都新聞に、「東高野街道(八幡)に昭乗の俳諧」と題する記事が載ったことがきっかけである。八幡を詠んだ昭乗の俳諧(発句)13句が、街道沿いの八幡の古民家などに色紙で掲示されたことを報道したものである。竹製の額に貼られた色紙は今でも街道沿いの元酒店や呉服店、和菓子商の軒下などに掲げられている。
 昭乗が八幡の町を俳諧に詠んだことを知ったのはこれが初めてではない。数年前に、東高野街道八幡まちかど博物館の城ノ内ギャラリーで、昭乗の俳諧が短冊に掲示してあり、出典を同館主宰者である高井輝雄氏に伺ったところ、昭和13年に発行された『武者の小路』第8号に載った佐藤虎雄の小論「松花堂昭乗について」であることを教えてもらった。
 そこで、同書のコピー版を松花堂美術館からお借りして佐藤虎雄の上記論文を読んだ。
 その「はしがき」に、次の一文がある。
「昭乗の諸道に身を處するや、気魄豪快洒脱、しかも幽雅淳厚の情懐に遊んで悠然たるものがあった。之實に昭乗其人の薀蓄ある學問の力と高潔なる人格の表現である。されば國史に將又美術文蓺、殊に茶道の歴史に松花堂昭乗の名は没する事が出来ない。」
 印象深いのは、昭乗の「諸道」を紹介するのに、書道や茶道、画業とともにその文芸をも称賛していることである。そこで、「昭乗の風流數寄」の章に目を移すと、昭乗が八幡の街並みを俳諧に詠んだくだりが綴られている。
 「昭乗の風流數寄の思想は彼の和歌に詠ぜられ、交友と連歌を興行せしめ、或は紀行の詩歌に表れてゐる。彼は元来宗祇(そうぎ)を尊び、其の羇旅(きりょ)の吟行(ぎんこう)を慕ったものであろう。瀧本坊には江月(こうげつ)、澤庵(たくあん)の讃をした淡彩の宗祇像の立幅がある。昭乗は元和元年(げんながんねん)初冬八幡南畝より吟行して北野に至った。此時東方朔(とうぼうさく)が詞(ことば)をとって各地の光景を次の如く俳句に吟じたのである。」(ルビは土井が付す)
 上記の文章は吟味すべきことがらがあふれているが、後半部に立ち入って検討してみたい。
 元和元年(1615)は、その年の夏、大坂の陣で豊臣氏が滅んだことで知られる。豊臣氏お抱えの絵師、狩野山楽は難を逃れ、昭乗を慕って男山に逃れた。その時、昭乗は山楽をかばい、徳川幕府から詮議されたとのエピソードが残る。それはともかく、その時、昭乗は33歳(生年1584年では35歳)である。
 「八幡南畝」は八幡の地名を指すのであろうか。だが「南畝」なる地名は八幡に見当たらない。であれば、「畝」は耕地の単位であり、うねの意から南の田畑ととらえ、「北野」は、文字通り北の野原でよいのではないか。昭乗の生きた江戸時代、木津川の付替え前であり、八幡は北部が広く、野原が広がっていたことが想像される。また、北と南、畝と野の対句的表現なのかもしれない。要するに、八幡の南から北に吟行し八幡の各地を詠んだと解してよい、と私は思う。
 その際、「東方朔が詞」をとって詠んだのである。
 「東方朔」とは何か。 東方朔(とうぼうさく)は、中国、前漢の文人で、俳諧、風刺の才にすぐれて武帝に寵愛
されたという。すると、「東方朔が詞」とは、東方朔がよくした俳諧や風刺の利いた言葉を使ってという意味である。但し、昭乗の生きた時代に「俳句」という言葉はない。佐藤虎雄は、明治期に生まれた「俳句」を使用しているが、昭乗の生きた時代を思えば、俳諧ないし発句という言葉を使うべきであろう。

一、昭乗の俳諧の出典はいずこに

 前置きが長くなったが、昭乗の俳諧を解釈するうえでさらに吟味しなければならないことがある。その一つは、そもそも、佐藤虎雄がここで紹介する、昭乗の八幡を詠んだ俳諧が何を出典としているのか不明であるということである。
 今でこそ、俳諧といえば松尾芭蕉や与謝蕪村が想起されるが、昭乗の生きた時代の俳諧は、文学性の高い芭蕉や蕪村の作品が登場するはるか前の時代であり、「言い捨て」の文芸とされ、記録されることが殆どなかったといってよい。なのに、なぜ佐藤虎雄が昭乗の俳諧を紹介することができたのか。それが不思議である。せめて、佐藤が何を出典として昭乗の句を紹介したのかを明らかにしておいてくれれば、昭乗の俳諧について、今よりもっと明らかにすることができたものと思う。そのことが悔やまれてならない。
 では、昭乗の俳諧の作品は全く残されていないのか。松花堂美術館学芸員である川畑氏をはじめ、何人かの専門家に昭乗の俳諧の存在を伺った。その結果、以下の作品に巡り会うことができた。
   かげうつる きしのやまぶき 川の底
      (佐倉笑種『続古今俳諧手鑑』、元禄13年)
 ここでいう「やまぶき」は、山吹色の黄金の譬(たと)えなのであろう。
 もう一つは、寛文12年(1672)に出版されたとされる『俳諧塵塚』なる連句集である。その中に、「和漢」と称して、小堀遠州や大徳寺沢庵、江月、淀屋言当(二代目)など男山文化圏を担うメンバーに肩を並べ松花堂昭乗の句が見える。いずれ機会を得てこの作品集の背景や作品そのものの鑑賞を試みたいものであるが、今はこれ以上立ち入らないことにする。
 三つめが『男山考古録』である。考古録に昭乗の句が何点か残されているのである。しかもその作品は佐藤虎雄が紹介する八幡を詠んだ句と同じなのである。

二、作品の鑑賞と当時の八幡の景観

 昭乗の時代の俳諧についてもっと吟味したいところであるが、ここではそれを割愛して、さっそく八幡を詠んだ昭乗の作品の一つ一つを取り上げ吟味してゆきたい。昭乗の生きた時代の八幡の景観を明らかにすることが目的であるが、その中で、昭乗の俳諧の特徴を考えてみたい。

   淸水  夏ひえし淸水に冬は夏もかな
 清水(町)は、志水とも清水井とも呼ばれた。町の中心に正法寺がある。鎌倉幕府御家人である高田忠国が、石清水八幡宮の幣礼使(へいれいし)としてこの地に来住し、源頼朝から下知をうけて建久2年(1191)に正法寺を開いたという。のち高田氏は、清水に居住する縁で「しみず」に改称し、石清水八幡宮をはばかり志水を名乗った。そんな歴史的背景のある地であるが、清水という名があるように、清水が湧き出る土地であったようである。江戸時代に制作されたもので、f0300125_2145541.png
正法寺の境内にわざわざ「清水井」なる井戸が描かれている古図を見たことがある。
 発句を解釈すると、夏冷たい清水は、冬は夏のように暖かい、ととれる。電気冷蔵庫のない時代のことを記憶している方は、西瓜やビールは井戸水で冷やしたことを覚えているだろう。地下水は夏涼しく爽やかなものであった。そんな井戸水が、冬にはそれほどの冷たさを感じさせないものであった。但し、以上の解釈に自信がない。別の解釈があるのかもしれない。

   神原  酔て人かはら走るや千鳥あし
 これは、比較的解釈しやすい。河原に千鳥はつきものである。だが、千鳥は千鳥でも千鳥足なのである。酔っ払いを登場させるのは雑作がない。だが、神原なのになぜ「かはら」(河原)なのか。しかも、この酔客は走っているのである。なぜ走らないといけないのか。この辺りの地名にその謎が隠されているようである。「神原」は、現在、交差点の名前にある。そして、その交差点の近くにあるバス停は「走上り」である。「神原」と「走上り」の地名のいわれを探ってみた。
 『男山考古録』14巻をひもとく。まず神原であるが、神原は「かみはら」とは呼ばれず、「カワラ」と呼ばれていた。すなわち、「神原と書ても今里俗常にカハラというそ、却て正しかりける」。河原とあるからには、この近くに川が流れ、河原が存在していたことになる。f0300125_21193316.png
 同じく『考古録』14巻に、「谷川」の項があり、「水源は西山腰折谷より来りて、志水町と神原町堺也、俗に馳上(ハセアガ)りといふ所に出て、東田の中を流れて前にいふ泪川の筋へ注入也」とある。ここでいう谷川は、八幡市が「ひだまりルート」と名付けたハイキングコースに沿って流れる、川幅2mほどの小川に相違ない。
 「西山腰折谷」は、昭文社「都市地図-八幡市」(1:15000)の地図で確かめると、男山リクレーションセンターの南側に当たる。そして、その谷川が流れつく、今の交差点のあたり(志水町と神原町の堺あたり)が「馳上り」と呼ばれていたのである。
想像するに、この谷川は、今ある小川のような印象の川ではなく、河原もあり、川幅もそこそこあった川なのではなかろうか。もちろん今のようにコンクリートで覆われていない。
(続く)

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by y-rekitan | 2015-06-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第63号より-05 「歴史たんけん八幡」

シリーズ:『歴史たんけん八幡』の発行に向けて・・・②

本紹介の「特別連続講座」を開設 (第1回)

 「歴史たんけん八幡」 制作委員会 


 『歴史たんけん八幡』は、すべての原稿と図版を整え、印刷所に入稿を済ませました。全99ページに達するものです。そこで、制作委員会は、この出版の意義と内容を広く市民内外の方にご理解いただきたく「特別連続講座」を開催することにしました。

第一回講座は6月10日(水)に八幡市市民協働活動センターを会場に行われました。f0300125_20241527.png
 最初に、同制作委員長の伊佐錠治氏より、出版の意義が語られました。その中で、次代を担う子ども達に八幡の歴史と文化を伝えることに大切さが強調されました。
 次に、「天下人と八幡」と題して田村敬次さんが、「鳥羽伏見の戦いと八幡・橋本」と題して田坂喜彦さんが、スクリーンに映される画像を紹介しながらお話しました。
 当日用意されたレジュメをもとに、概要をお知らせします。

第1回特別連続講座

テーマ1 - 「天下人と八幡」 -
 講師 : 田村敬次 (会員)
 
 織田信長と八幡・・・尾張を統一、天下布武、楽市楽座など。石清水八幡宮の
            黄金の樋、築地塀
 洞ヶ峠に来た明智光秀・・・本能寺の変、山崎の合戦、八幡の洞ヶ峠で筒井
            順慶の援軍を待つ。
 豊臣秀吉と八幡・・・貧農の子どもから関白太政大臣に。戦国乱世を統一し
            天下人になる。橋本の常徳寺が「湯沢山茶久蓮寺」と
            呼ばれた理由。神応寺との関わり。
 徳川家康と八幡・・・石清水八幡宮の社務を輪番制に。神人の知行を認める。
            家康からの朱印状が八幡に360通も残された。
            八幡を検知免除と「守護不入」に。
 お亀の方と正法寺・・・志水宗清の娘が家康の側室に。相応院(お亀)が
            正法寺 の伽藍を整備
 安居のまつり・・・放生会や臨時祭は朝廷や公家のまつり。安居会は将軍家の
            命による武家のまつり。
           八幡市の地名に残る安居のまつり(安居塚、檀所、塩釜)

テーマ2 - 「鳥羽・伏見の戦いと八幡・橋本」 -
 講師 : 田坂喜彦 (会員)

1、「鳥羽伏見の戦いと八幡・橋本」で伝えたかったこと」
淀や八幡・橋本でも激しい戦い。幕藩体制を崩壊させた戦い。旧幕府軍の敗戦決定づけた八幡・橋本の戦い。
2、戦いの背景
黒船来航、開国と通商による急激な物価上昇と経済の混乱。尊王・攘夷運動の高まり。薩英戦争や下関戦争。世直し一揆の勃発。大政奉還と王政復古。旧幕府側の強い不満。
3、八幡・橋本での戦いと人々の被害
橋本・山崎の整備。橋本陣屋と楠葉台場の設置。最後の戦場となった八幡・橋本。八幡全域で1280軒中焼失した家屋が612軒におよび、頓宮・極楽寺・高良社など八幡宮山下の中心部が被害。高浜の船番所からの砲撃などで、橋本では120軒のうち82軒が焼かれた。

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by y-rekitan | 2015-06-28 08:00 | Comments(0)

◆会報第63号より-end

この号の記事は終りです。


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by y-rekitan | 2015-06-28 01:00 | Comments(0)