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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
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◆シリーズ:“わが心の風景” ㊲◆
◆《歴史歴探ツアー》長岡宮を訪ねての報告◆
◆長岡宮を訪ねて◆
◆シリーズ:“川の旅日記” ③◆
◆第119代光格天皇と大江磐代君とその母◆
◆シリーズ:“松花堂昭乗が詠んだ八幡の町”②◆
◆シリーズ:“『歴史たんけん八幡』の発行に向けて”③◆
◆“『歴史たんけん八幡』の発行が迫る”◆


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by y-rekitan | 2015-07-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第64号より-01 講田寺

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わが心の風景・・・(37)
講田寺
所在地 橋本平野山


 f0300125_11541156.png橋本小学校から西へ百メートルほど行くと、橋本平野山という所に講田寺があります。
 古くは生津村(現伏見区)にありましたが、水害を避け、ここに移ったと言われています。
 本尊観世音菩薩を安置する曹洞宗の禅寺で、開山は明らかではありません。
 境内に地蔵堂があり、その中に安置されている「笑地蔵」には、次のような悲劇が伝えられています。
 その昔、淀川に架けられた橋が出水の度に流れるので、ついに人柱が立てられることになりました。人柱を誰にしようかと迷っている時、ある男が進言。その内容が男自らを選ぶことになってしまうのです。男の娘は深く嘆き、ものを言わない人になりました。
 やがて娘は尼となり、対岸の山崎に庵を結ぶのですが、歳月を重ねたある時、朽ちた橋の杭が水底から姿を現しました。娘はそれに地蔵尊を彫って供養。人々はこの地蔵を「笑地蔵」と呼び、水難除け、交通安全、安産などの御利益があるとして信仰を集めるところになりました。  (絵と文: 小山嘉巳)


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by y-rekitan | 2015-07-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第64号より-02  長岡宮

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《7月例会 歴史探訪ツアー》
長岡”宮”を訪ねて
   
― 2015年7月  向日市 長岡京市にて ―


歴史探訪『長岡“宮”訪ねて』バスツアー報告

藤田 美代子 (歴史探訪担当幹事)

 7月30日(木)快晴のもと、バス会社さんとの事前打合わせの通り、参加者は、四ケ所の集合場所より順次バスへと乗り込み、総勢30名にて、定刻通り9時30分に向日市へと向かいました。
 最初の見学地向日市文化資料館は、長岡京遷都1200年を記念して昭和59年(1984年)に開館され、長岡京をテーマに考古資料が分かり易く展示されています。
 資料館前の通り及び同館玄関前にてボランティアガイドさんが出迎えて下さり、本日の参加者の受付、会費徴収を済ませた後、3班に分かれ(事前にバス内にて、くじにより班分けしておりましたので、各自スムーズに班ごとに分かれ)、資料館内での説明を受けました。f0300125_11285943.jpg
 まず、ホールにてガラス内の大型模型により、古代から長岡京に至る迄の各時代の古墳の位置等ボタン押下げにより電光掲示され、素早く見られ、現在の阪急電車やJRとの位置関係を見据えながら、立体感のある表示で、地形の中での都の位置がよく解りました。
 長岡京は東西約4.3km、南北約5.3kmの広さです。中心に朱雀大路を通し、東を左京、西を右京と呼び、条坊制がとられています。約533mの方眼で区切られ、これを坊とし、各坊はさらに小路によって16に分けた町が設けられ、道路の幅は大路で24~15mあったとのことです。
 長岡宮は北に位置し、東西約1km、南北約1.6km。まわりは築地をめぐらし、各辺に朱雀門などの門を開いていたとのことです。また、タッチパネル対応の大型ディスプレイでは、都の大きさを大阪環状線内にほぼ収まる大きさであるとか、甲子園球場は幾つはいるかなど、非常に具体性のある説明映写でした。
館内に入りますと、都づくりに携わり半強制的に集められた農民たちの生活や、下級役人の仕事や勤務風景、貴族の暮らしぶりなどが丁寧に展示されています。食事内容からカロリー計算までなされており、貴族に比し農民たちがいかに過酷な労働を強いられていたのかもよく分かりました。又、木簡や筆記用具の出土により、役人の仕事ぶりも窺い知ること出来ました。
 資料館を出て、古墳時代前期(3世紀末)の全長92m、乙訓地域最古の全国的にも数の少ない前方後方墳である元稲荷古墳での説明を受け、向日神社へと向かいました。
 創建は長岡京遷都より古い養老2年(奈良時代)の718年で式内社です。本殿は室町時代の応永25年(1418)に造営が始まり、同29年(1422)に上棟されました。三間社流造の建物で国の重要文化財に指定されています。f0300125_11444057.jpg
 参道を下る前、ガイドさんが、“八幡市さんが見える場所がありますよ”とのことで案内頂いた所からは、町並みの向こうに、今朝一の鳥居を出発した八幡さんの山がふんわりと見えました。(個人的な感覚かも知れませんが、)ガイドさんのこのような配慮は何だかとても嬉しく、暖かい気持ちにさせられ、近隣に住むものとして友好的な関係が保たれればいいな、などと思えた次第です。
 次に“巻々”の合図を受けながら、大極殿や朝堂院の説明を聴き、「復元画家早川和子さんの描く長岡京」の助けも借り、しばし想像たくましく古き都に思いを馳せるも、時間が迫っているとの声に現実に戻されました。元旦には前庭にのぼり旗(宝幢)が立てられ、その柱が復元されていますとの説明を受けながら足早に駅へと向かいました。f0300125_11491178.jpg
 ボランティアガイドさんへのお礼もそこそこに失礼致しました。とてもご丁寧にご説明いただきまして、この場をお借りして御礼申し上げたいと思います。
 一駅先の長岡天神駅で下車、バス車内でお配りした資料内のレストランマップを参考にし、参加者の皆さん夫々に好きな昼食をとって頂きました。食後の集合場所にはどなたも遅れることなく、午後の部をスタートできました。
 中山修一記念館のスペースの関係で、以下のように2班に分かれました。A:中山修一記念館から恵解山古墳そして勝竜寺城公園とその逆B。(この午後の班分けも朝のバス内での説明で、 f0300125_11511440.jpg座席左右に分けて、スムーズにいきました。)私はB班でしたので勝竜寺公園からスタートとなりました。
勝竜寺城は、細川ガラシャ(明智光秀の三女で本名玉)が16才で細川忠興のもとに嫁ぎ、宮津に移るまでの3年間を過ごしたところです。今回は時間の都合で2階の資料館には入れませんでしたが、下見時に見ました38才での若さで自害したときの辞世の句
  「ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」
なる句が、堀や石垣や土塁の説明聞きながらも私の頭から離れず、戦乱の時代に生きた一人の女性の死を思い浮かべずにはいられませんでした。
 f0300125_11594569.jpgその後徒歩にて、恵解山(いげのやま)古墳へと向かいました。全長128mで乙訓地域最大の前方後円墳です。周濠を含めた全長は180mに達し、後円部には死者を埋葬した竪穴式石室があったそうです。刀剣など鉄製武器700点が納められた前方部中央の埋納施設は、全国的にも珍しいものだそうです。約600本の埴輪が基壇に立ち並ぶ様は壮観でした。5世紀前半頃の桂川右岸での乙訓地域を治めた支配者の墓と考えられているそうです。
 その後最終の見学地、中山修一記念館へと向かいます。冷房の効いている室内に入り、皆さん生きた心地がしたのではなかったでしょうか? 床の間に作られた中山先生手作りの長岡京条坊復元図を見ながら説明を受けました。私財を投げ打って、幻の都の解明に生涯を捧げられた先生の情熱と業績は、高く評価されるべきだと思いました。書庫内も見せて頂きましたが、蔵書数は図書館並みでした。f0300125_1235424.jpg
 今回のツアーの最後の楽しみであるサントリー京都ビール工場へと向かいました。大麦をカリカリと噛みしめて味わい、ホップ独特の香りを嗅ぎ、講習室を出て工場内のガラス越しに見る缶、ビン詰めのあまりの速さに、試飲前なのに目が回りました。やっと試飲会場へ到着し、ぐうぃ~いぐうぃ~いと頂いて皆さんいい気持になり、お土産を買って、ビール工場を後に、一路八幡へと帰りました。
 八幡市駅には予定通り16時30分着、出発と反対コースにて帰途につきました。
暑い中でしたが大変実りある歴史探訪ツアーであったと思います。下見の時点で興味が次々と沸き上がりややテンコ盛の感があり、欲張りすぎたでしょうか? 皆様さぞお疲れになった事と思います。
 私にとりましては、長岡京を知る良い機会でありました。これからも、まさに「歴史を探究する」ツアー企画の一員として参加できればなどと思っています。

歴史探訪『長岡“宮”訪ねて』を終えて

 非常に短い期間の都ではありましたが、参加者とお話していると、この長岡京を機会があれば訪れてみたいと思っていたとおっしゃる方が何人かいらっしゃいました。参加者でなくとも、意外に多くいらっしゃるのではないでしょうか。
 下記、担当幹事の一人として、経緯、反省点等記します。

〈行程について〉
 担当幹事四名にて、二度現地に下見を行い、行程表を作成致しました。向日市文化資料館をスタートし、史跡長岡宮跡そして中山修一記念館を軸とし、その間に元稲荷古墳、向日神社、勝竜寺公園、恵解山古墳を入れ、最終サントリービール工場にて、お疲れ様とすることを考えました。少々盛り沢山過ぎたかも知れません。
〈交通手段について〉
 前回山崎を訪れました時、往復タクシー利用とし、行きの八幡市駅出発時は待機タクシーが多く、スムーズに行きましたものの、帰りは予約不可とのことで、待ち時間を心配し、結果的にはスムーズに行き胸をなでおろしましたが、今回はその様な心配を解消すること及び参加者皆さんの懇親の場として、バスをチャーターすることと致しました。行程の説明や連絡事項等、バス内で一度に取れますし、大変便利だと思いました。参加人数が前日及び当日で5名減員となり赤字となってしまいましたが…。
〈暑さ対策について〉
 連日の猛暑により、熱中症対策を考えないわけにはいかず、体調については無理のない様、何度も再確認させて頂き、クーラーボックスを用意し、おしぼり、冷水を準備しておりました。又、お守り程度ですが塩飴をも資料に添えました。
〈反省点等〉
 歴史探訪はやはり古い時代に思いを馳せ、ゆっくり行きたいものだと思います。バス代は高騰しますが、春又は秋の季節の良い時に行くべきではないかと個人的には思いました。
〈最後に〉
 この暑さの中、ご参加の皆様には、お元気に、1人の落伍者も無く、無事八幡に戻れましたことをご報告し、締め括りたいと思います。

続けてこの下に関連記事が1件あります。空白


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長岡“宮”を訪ねて

小林 喜美代 (会員)


 7月30日、八幡の歴史を探究する会主催の「長岡“宮”を訪ねて」のツアーは、予想気温35度の中、30名が参加!
 9時30分、バスは、大きな期待を乗せて石清水八幡一の鳥居をスタートした! 向かうは向日市文化資料館、元稲荷古墳、向日神社、史跡長岡宮跡、勝龍寺城公園、恵解山古墳(いげのやまこふん)、中山修一記念館、サントリー京都ビール工場と多岐にわたる。
 車中で渡されたのは タイムスケジュール表、訪れる先々の地図、新聞記事からの紹介内容、リーフレット、昼食店の案内図、そして塩飴と細かな配慮満載の透明袋。
最初の目的地は、向日市文化資料館! 数名の案内の方が笑顔で迎えて下さった。この文化資料館は、長岡京が平城京から遷都されて丁度1200年後の1984年にオープンしたと言う。
 案内いただく方々全員が熱心に語って下さり、館を出て訪れる史跡は皆美しく手入れされていて向日市の長岡京に傾ける熱意の表れと受け止める。f0300125_053138.jpg
 長岡の中山修一記念館では、「長岡京は僅か10年で終わったので都があったか否か不明で幻の都と言われていたが、中山修一氏が朝堂院南門(ちょうどういんなんもん)跡を発見して以後、重要な遺構を次々と発掘し、長岡京中枢部の全容が明らかになった」と、午前より向日市で説明を受けていた内容を復習させてくださるかのようにまとめをして下さった。
 帰宅後、透明袋の資料に再度目を通すとポイントを抽出したような資料で訪れた史跡の理解が更に深まり嬉しい!
 次回JR東海道線を大阪から京都に向かって走る際には大きく目立つサントリー工場を目印に、数百メートル京都側にある今日読めるようになった恵解山古墳(いげのやまこふん)、そして勝龍寺城はあのあたりと今回のツアーの足跡をなぞろうと決めた。

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by y-rekitan | 2015-07-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第64号より-04 伏見港

シリーズ「川の旅日記」・・・③

伏見港 旅日記

野間口 秀國 (会員)


 会報63号にて大阪・天満橋の八軒家浜から枚方までの旅日記を書かせていただきましたが、枚方以遠は運航に必要な水深確保が容易では無いためでしょうか、現在舟運はございません。そこで今回は、梅雨の合間、6月末の晴れた日曜日に、京都の玄関口で旅の最終地となる伏見港で十石舟の舟旅を楽しみました。京阪電車を中書島駅で下車。京都方面行き改札口を出て右手の商店街を少し進むと「十石舟乗り場」の案内標識があります。指示に従い右折し、歩を進めてほどなく左手に長建寺(ちょうけんじ)の山門が見えると宇治川派流(うじがわはりゅう)に至り、流れに架かる弁天橋を渡り川岸に下ったところが乗り場です。所要時間は折返し地点での見学を含めて約55分とちょうど良い長さでした。

 ところで、伏見港を語るには時の天下人・豊臣秀吉によって建てられた伏見城を外すことはできません。舟旅に先立つこと約1週間前の6月20日に「伏見城跡{指月城(しげつじょう)}発掘調査現地説明会」が行われたので出向きました。1592(天正20)年に秀吉によって隠居屋敷の建設を始め、間もなく屋敷は指月城にと姿を変えます。しかしこの城は1596(文禄5)年の伏見地震にて倒壊しました。このたび発掘された石垣や堀はその指月城のものと推定されています。倒壊の直後には再建が命じられ、現在の明治天皇陵を含む木幡の山上に、後に伏見城と呼ばれる壮大な城が造られました(*1)。

 十石舟は出航5分前には乗船を開始し、即時満席となりました。乗った舟の名は「秀吉号」。舟の底は平らで安定性はあまり良くありません。そこで船長さんは舟の傾き加減を見ながら、一部の客の席を移動させ舟の安定を十分に確保してから発進させます。進み始めると間もなく、右手に見えるのが明治39年に建てられ、新京都百景の第1号に指定された大手酒造会社の建物群です。

f0300125_1434232.jpg 波静かな川面を進む舟が大きく左折すると、右手上方に明治維新の立役者の坂本龍馬が身を寄せた船宿の寺田屋が見えます。さらに進むと左手には龍馬とお龍さんのブロンズ像があります。寺田屋騒動で傷を負って薩摩屋敷にかくまわれた龍馬は、慶応2年の春にお龍さんを伴い、後に日本で最初の新婚旅行と言われている鹿児島への旅をしています。3月17日から3日間、塩浸(しおひたり)温泉で傷をいやし、29日には高千穂の峰に登り、4月1日には再び同温泉を訪れて1週間を過ごしたようです。ブロンズ像を後にして舟が進むと、右手より疎水から運ばれる豊富な水量をたたえた濠川の流れが合流します。この濠川は、かつて豊臣秀吉が掘らせた伏見城の外堀であったとの説明がありました。前述の現地説明会の資料に収められた周辺遺跡地図でもそのことが伺えるようです。

 城下町であった様子は今に残る伏見の町名によく表れています。ほどなく舟がその下を進む肥後橋近くには、かつて加藤清正の屋敷があったと言われており、他にも当時の国名や領主名、また町の役割(塩屋町、風呂屋町、両替町など)を冠した複数の町名が確認できます。伏見は城下町であるとともに物流拠点でもありました。大坂から上って来る多くの船が、伏見で米を始めとするあらゆる物資を荷揚げし、積み出してゆきました。その荷揚げ場(浜)は複数あり、現在でも北浜町、西浜町、南浜町、東浜南町など町名として残されています。

f0300125_14405331.jpg 時代は下り、八幡の三川合流地点に背割提が造られた頃と時を前後して、この伏見・三栖(みす)の地に閘門(こうもん)と洗堰(あらいぜき)が建設されました。大正時代に行われた淀川の改修工事や宇治川右岸の築堤工事によって宇治川と濠川とに流域面の高度差が生じ、船の通行が出来なくなったことを解消する目的でこの三栖(みす)閘門が建設されたのです。これらの施設は船の通行に留まらず治水施設としても大きな役目を果たしたのです。2010年に土木學會選奨土木遺産に選ばれたこの施設(*2)は、閘門の役目は終えていますが今も堤防として重要な役目を果たしているのです。舟は閘門の中の桟橋に着けられ、乗客は舟を降り資料館の見学へと向かいました。資料館では係員の方から閘門の歴史や働きの説明をしていただけます。ジオラマ(*3)による展示では、まさに実際に閘門を通過しているかのごとく模型の船で再現されるのを見ることができ、閘門の働きがとても良く理解できました。資料館を出て閘門の上から宇治川の流れに目を向け、そして振り返って今来た濠川を見ると、改めて伏見港の果たした役割が実感できるのでした。

 三栖閘門の周辺は「伏見港公園・伏見みなと広場」として整備されており、親水性の考慮された広々とした空間です。伏見の町の歴史に触れ、港や船や閘門について学んだあとにも楽しみが待っていました。それは伏見の誇る美味しい日本酒や地ビール、(たしなまれない人たちには)酒饅頭です。是非、車を降りての訪問をお勧めして伏見港・旅日記を閉じたいと思います。

 【参考資料】
(*1)「伏見城跡{指月城(しげつじょう)}発掘調査現地説明会」にて配布の説明資料。
(*2)三栖閘門の本体に取り付けられた表示記載内容による。
(*3)展示物とその周辺環境・背景を立体的に表現する方法(資料館の展示は船が動く)。
 その他は中書島駅で入手した「散策マップ」、「十石舟・三十石船の旅」のパンフレット、舟および資料館のガイドさんの説明などによる。


この連載記事はここで終りです。       TOPへ戻る>>>

by y-rekitan | 2015-07-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第64号より-05 光格天皇の生母

第119代光格天皇(明治天皇の曽祖父)

大江磐代君(おおえいわしろのきみ)とその母



丹波紀美子(会員)


 八幡の歴史とは直接関係は無い光格天皇の生母とその母を取り上げたのは、私の故郷の鳥取県琴浦町にその源があり、数奇な運命を辿った母子の存在を知って欲しかったからです。強いていえば、その事実について、特に、光格天皇の祖母といわれる大鉄屋お竟(きょう)こと「りん」の存在が、公式では認められていないこと(倉吉市博物館ホームページなどを見ると、氏素性が分からないとか“焼き餅屋のおりんさん”との伝承がある等と書いてある)に、一種の苛立ちを覚え、当時の時代的背景を含めて是非知って頂きたかったからです。
 この資料の存在を知ったのは、お竟(きょう)の実家である大鉄屋が、倉吉淀屋や大阪淀屋〈後期淀屋〉こと淀屋清兵衛家とは廻りまわって親戚関係にあることからです。
(倉吉淀屋の事をご存知ない方の為に・・前期淀屋といわれる大坂淀屋の4代淀屋重当は財産分割の為、腹心の番頭・倉吉出身の牧田仁右衛門に倉吉に店を持たせた。そこから発したのが倉吉淀屋で59年後、倉吉淀屋の3代目の子どもが大坂に出て淀屋清兵衛と名のり、前期淀屋と同じ場所に店を構えた。これが後期淀屋です。)
 なお、光格天皇は、その在位中に石清水八幡宮の臨時祭を約380年ぶりに再興させたり(文化10年3月)、加茂神社の臨時祭を翌年11月に約350年ぶりに挙行させたりしています。(臨時祭は 明治3年通達により廃止)

f0300125_2102488.jpg 光格天皇の生母、大江磐代君の生まれは今の鳥取県倉吉市です。
 磐代君の母「りん」の存在は長い間、伏せられていました。ましてや磐代君でさえ光格天皇の生母だと正式に系図に載ったのは磐代君没後65年経った明治10年のことでした。
 磐代君の母「竟(きょう)(りん)」は伯耆国(ほうきのくに)倉吉(くらよし)の大鉄屋こと堀尾與左衛門(よざえもん)の妹です。堀尾與左衛門というのは松江城主であった堀尾吉晴から数えて六代目に当たります。堀尾家は吉晴の孫の忠晴に嗣子が無く三代でお家断絶になりましたが、吉晴の孫にあたる菊姫が家臣と共に今の鳥取県琴浦町箆津(のつ)の大庄屋・河本家へ引き取られ、成長した後、河本長兵衛と結婚しました。その嗣子・與左衛門(堀尾家初代)は、鉄山経営者の娘と結婚し、寛文10年(1670)春に旧家臣と共に倉吉鍛冶町に移り、鉄の卸商売を始めました。(鍛冶町は、足踏み稲こきが出来るまでは“稲こき千刃”をつくる多くの鍛冶屋があり賑わっていた)
 大江磐代君の父、岩室常右衛門〈宗賢〉は鳥取藩主池田家の家老・荒尾氏の家臣で、禄高150石の侍でした。大鉄屋の「竟(きょう)」と恋愛の末、結婚し名前を「りん」と改めました。「りん」は鉄屋小町といわれるほどの美人で、武士と裕福な商人の結婚であったため、色々取り沙汰されたといいます。裕福な商家の娘が経済的にゆとりもなく、自由のない武士へ嫁がせることに心配した両親や兄たちの反対があったともいわれています。今まで伝えられているように武士と町人の身分の隔たりで岩室家の反対のように記されていましたが実際は大違いであった旨を堀尾家の子孫は伝えています。
 岩室常右衛門〈宗賢)は医者になるため実母と身重の「りん」を残して寛保3年(1743) 31歳の時に京に上りました。延亨元年(1744)に生まれた「鶴」は、母「りん」・大鉄屋の祖父母・岩室の祖母に愛情一杯、何不自由なく大切に育てられました。その頃、大鉄屋の人々によって鶴の為に書いた百人一首のお手本などが残っています。
 宗賢はそれから9年後、倉吉に帰って来ましたが、宗賢の母が年老いて上京することを拒み、「りん」も義母の世話をするということで、やむなく宗賢は母と妻を大鉄屋に頼み不本意ながら娘・鶴一人を伴って宝暦2年(1752)再度 京に上りました。
 父は娘の養育を友人で禁中御使番の伊駒守意(本姓大江)の妻・壽仙に託し、礼儀作法、教養全般の教えを受けました。この頃から名前を「鶴」から「大江とめ」に替えたのかも知れません。(彼女は安永元年(1772)29歳の頃まで「とめ」といい、安永4年(1775)32歳まで「かく」、安永5年(1776)33歳まで「交野(かたの)」、安永6年(1777)34歳より寛政6年(1794)剃髪するまで「磐代」、剃髪以後は「蓮上院」と称した。)一時は乞われて、小田右衛の養女になっていたこともありましたが、3年ほどで「自分の子としてはもったいない。身分違い」と不縁となったという逸話も残っています。京に上って7年後の宝暦9年(1759)16歳の時、元、宮中の最高女官であった即心院(藤原保子)に仕えるようになりました。その才能や美貌、教養が中御門(なかみかど)天皇(114代)の皇女で籌宮(かずのみや)成子(ふさこ)内親王の目にとまり、即心院が亡くなった明和3年(1766) 23歳の時侍女となり、成子(ふさこ)内親王が閑院宮(かんいんのみや)典仁(すけひと)親王に嫁ぐと、「とめ」も成子(ふさこ)内親王と共に閑院宮家に出仕しました。
 その後、閑院宮(かんいんのみや)典仁(すけひと)親王の側室となり、「とめ」が仕えるようになって5年後の明和8年(1771)5月、成子(ふさこ)内親王は亡くなり、その3ケ月後の8月15日に、 「とめ」は男の子を出産しました。とめの第1子で閑院宮(かんいんのみや)典仁(すけひと)親王の第6皇子ですが、後に119代光格天皇となる祐宮兼仁(さちのみやともひと)親王の誕生です。翌年(明和9年)には第2子寛宮盁仁(ひろみやえいにん)親王をもうけ、その後に3人の皇子をもうけましたが、その3皇子はいずれも夭折しました。(安永3年(1774)第3子精宮(きよのみや)、安永5年(1776)鏗宮(かたのみや)、安永7年(1778)には第5子健宮(たけのみや))

 安永8年(1779)大江磐代にとって思いがけないことが起こりました。118代後桃園天皇が22歳の若さで急逝され、残された欣子(よしこ)内親王はまだ1歳でした。皇女に見合う相手探しとなり、典仁(すけひと)親王と大江磐代のお子・祐宮(さちのみや)が後桃園天皇の養子とされ、安永9年(1780) 12月に 9歳で祐宮(さちのみや)の天皇即位の大礼が行われ、晴れて119代光格天皇となられました。その後、現天皇まで直系で続いています。
 光格天皇(孝明天皇の祖父)は、その後、幕府の松平定信に対し、父の閑院宮(かんいんのみや)典仁(すけひと)親王に太上(だじょう)天皇の尊号を与えて欲しいとの『※尊号事件』を起こして却下されますが、この事件は尊王倒幕運動の下地を作ったといわれています。在位は1780年~1817年。(1771年生~1840年没)

f0300125_2174843.jpg 磐代の第2子・寛宮(ひろみや)盈仁(えいじん)親王は天明2年(1782)聖護院門跡となります。
 寛政6年(1794)、閑院宮典仁親王が亡くなると磐代は出家して[蓮上院]と名乗り、聖護院門跡の屋敷の近くで静かに余生を送りますが、文化9年(1812)年12月9日波乱に満ちた人生を閉じました。享年69歳。亡骸は蘆山寺に葬られています。

 安永4年(1775) 秋、磐代君32歳の時,祐宮兼仁(さちのみやともひと)親王(後の光格天皇)七五三のお祝いに招かれて、堀尾一家5名(母・きょう53歳、伯父・與左衛門59歳、いとこ・喜兵衛、同妻、喜兵衛の娘)が、「りん」の夫・岩室宗賢と共に閑院宮家で親王にお目通りが許された時の『覚』(目録)が堀尾家に秘蔵されています。
それによると
金百疋、御樽さかな・・・御旦那様(伯父與左衛門)
御扇子・・・若旦那様(いとこ喜兵衛)
金 百疋・・・御奥様
草履・・・御じょう様
銀 壱包・・・御竟さま(母 きょう)
銀札 壱封・・・御家来衆
同 壱封・・・御女中
同 壱封・・・御女中
 とあります。目録も結婚前のお竟(きょう)と書き、その他の人は名前を記されていません。この覚え書きは磐代君の直筆と伝えられています。
f0300125_21104088.jpg 拝謁の様子は、祐宮(さちのみや)は御簾(おみす)の中で、磐代君は緋(ひ)の袴(はかま)に白い上着を着られ、「遠路わざわざご苦労さまでした.道中くれぐれも気をつけて・・・・」とおっしゃったと伝えられています。
 年老いた宗賢の母がいるため、心ならずも九歳の「鶴」を夫に託し、倉吉に残って姑の世話をし、ついに京には上らないままの余りにもかけ離れた二十余ぶりの親子の対面でした。我が子の鶴は磐代君となり、懐かしい言葉を交わすこともなく、孫は恐れおおくも雲の上の兼仁(ともひと)親王であり、想像することすら出来ない身分の違い、環境の違いを身近に体験し、倉吉で夢にまでみて片時も忘れる事の出来なかった娘の姿を目の当たりにした時,総ての思いは飛び去り大変な衝撃を受けたことでしょう。一同もおなじ思いだったことでしょう。

f0300125_21145928.jpg 一行は京都を去る前、お寺まいりをして帰ったと伝えられています。そのお寺は堀尾家改易後、亀山6万石の城主の石川家が堀尾一族をお祀りした京都妙心寺の塔頭・春光院です。(※堀尾吉晴の長子が亡くなった時、吉晴が天正18年(1590)建立した寺で息子の戒名をとり「俊巖院」であったが、堀尾家3代忠晴が寛永10年(1633)病死し断絶。忠晴の息女が石川廉勝に嫁していて、子の石川憲之が寛永13年(1633)に春光院とした)
 兄・與左衛門は翌年(安永5年・・1776)60歳でこの世を去り、「りん」は7年後に同じく60歳で旅立ちました。「りん」が亡くなった時、甥の喜兵衛が葬式をして堀尾家の菩提寺に埋葬しました。「貞誉遊林信女。俗名、きょう。六十歳。天明卯年八月初八日。與左衛門妹。」これが大蓮寺の過去帳に記されている内容で、墓石もあり、堀尾家では今もお祀りをしています。
磐代君が「りん」に贈られた歌の中に
くもらくも みな夢の世を いたづらに
何をうらやみ 何をなげかん
れんたいに をりてやゆかん 西の空
そのたらちねとおなじ蓮(はちす)に
 真実を知る人もなく、「りん」は大蓮寺の両親の墓の傍らに静かに眠っています。

 伝えによると、死後まもなく京都の岩室宗賢の希望で「秋室貞光信女 天明三年八月二十三日」と戒名命日も変え、歳すら記されず、両家とも関係のない宗派である大岳院に墓が移され、それきりとなりました。当時、大岳院や大蓮寺にはことの経緯を何も話をしていませんでした。

f0300125_21203125.jpg 一方、大岳院では誰も顧みなくなり埋もれていたのを、後に大江磐代君の生母と分かって、大岳院は「照月院」と「大姉」号を付け、「照月院秋室貞光大姉」と戒名変更がされました。
 その後、うち捨てられ草深く埋もれていたのを、昭和7年(1932)に町の有志によって掘り出され、大岳院の山門脇に安置し、昭和7年9月23日、りんの百五十回忌供養法要が盛大に行われました。
 「大江磐代君御誕生碑」は倉吉市港町337番地に建っていますが、これは岩室家の住居のあった所で、“実際は「りん」の両親のいた鍛冶町の大鉄屋の家で生まれた”と松山氏はその著書に記しています。
 江戸時代、磐代君の母は庶民の出ということで痕跡のないほど隠されてしまいました。大鉄屋こと堀尾家も一切この件に関しては口を閉ざしてきたといわれていて、近代になっても色々の憶測で書かれ、筆者(松山治美氏)がそれらを払拭し、隠された「りん」の名誉のため書いたと、その著書で語っています。

 最後に冊子の著者 (松山治美氏)が「りん」の心情を思い、公表を決意された文章を転載して終わります。
 『光格天皇(祐宮兼仁(ひろのみやともひと)親王)を閑院宮(かんいんのみや)典仁(すけひと)親王妃であらせられる籌宮(かずのみや)成子(ふさこ)内親王の御子にするために亡くなられた明和八年五月十二日より以前の三月十二日生まれに繰り上げられ、八月十五日誕生日と御生母の磐代君を[公]の面より隠してしまったのであります。そういう関係の時期に堀尾一家は内々に拝謁を賜わりました。「りん」との関係も[公]に出来ず、「りん」の素性も世間に全く分からないようにしてしまったのであります。宗賢、りん、磐代君、堀尾一家は総てを心得て、ひた隠しに隠し、絶対に口外してはならないという厳粛なものがありました。 その間 故郷で夫と別居し、姑の最期をみとり、堀尾家の当主の甥 喜兵衛(当時 目代)から目立たぬように何かと経済的な援助を受けつつ、孤独で一生をおえた「りん」の心情は察するに余りあるものがあります。万感の思いをこめた磐代君より「りん」に宛てたお手紙を読むにつれ、子孫の私達もこの事情を隠しきれなくなりました』
 
※参考文献は、堀尾家子孫にあたる松山治美氏の『蓮上院(大江磐代)と大鉄屋〈掘尾〉』の冊子及び倉吉博物館のホームページ。
― 終 ― 空白いっぱい

                                 

※尊号事件・・・
 光格天皇は即位早々から、実父の閑院宮典仁(すけひと)親王に『太上天皇』の尊号を宣下したいと考えていた。親王の地位は公卿より下の為、天皇の父でありながら公卿に頭を下げる立場であることが忍びがたく、寛政元年(1789)に太上天皇の尊号を贈りたい旨を幕府に申し入れた。しかし松平定信ら幕府閣僚は先例が無いと反対し、先例は2件あると反論するも、松平定信は戦国時代の非常事態の例だと再び拒否。業を煮やした光格天皇は寛政4年(1792)尊号を贈ることを強行しようとした。しかし幕府との関係を憂慮した前関白鷹司輔平(典仁の弟)らの説得で閑院宮典仁親王に一千石加増と引き換えに尊号を断念させた。この件(尊号を贈ることを強行しようとしたこと)に激怒した松平定信は、天皇側近の中山愛親(なるちか)、正親町(おおぎまち)公明(きんあき)を江戸に召喚 尋問し、閉門 蟄居処分にした。
 同じ時期、幕府内でも11代徳川家斉が実父の一橋(ひとつばし)治済(はるさだ)に対し『大御所』の尊号を贈ろうとしたが、定信は朝廷に対し尊号を拒否している手前、将軍に対しても拒否せざるを得なくなり、家斉の機嫌を損ね、事件後に松平定信は失脚、辞職する原因の一つとなった。
 尚、光格天皇の父の閑院宮典仁親王には、明治17年、明治天皇から直接の祖先に当たるとして、慶光(ぎょうこう)天皇の諡号(しごう)と太上天皇の称号が贈られている。
 尊号事件の後、中山愛親(なるちか)、正親町公明(きんあき)、光格天皇の結びつきは強くなり、尊王攘夷運動に走っていく。又3人の結びつきは正親町公明の孫の正親町雅子が光格天皇の子・仁孝天皇の典侍に入って孝明天皇を産み、中山愛親(なるちか)の曾孫(ひまご)の中山忠能(ただやす)は明治天皇の生母である慶子(よしこ)の父に当たる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
天皇、正親町家、中山家の系図は下記の通り
f0300125_214863.jpg

by y-rekitan | 2015-07-28 08:00 | Comments(0)

◆会報第64号より-06 松花堂昭乗

シリーズ「松花堂昭乗が詠んだ八幡の町」・・・②

松花堂昭乗が詠んだ八幡の町(その2)

 土井 三郎 (会員) 


  馬場 木々の葉や脱けて現す馬場の町
 八幡馬場は、男山の東麓に建つ善法律寺を中心として、その北側に広がる馬場グランドまで含む地域です。江戸時代までは、石清水八幡宮の祠官家の一つである善法寺家の屋敷を中心とする閑静なたたずまいを見せる門前町であったと思われます。現在、住宅開発が進められ、様相がかなり変わりつつあります。 f0300125_20301770.jpg   
 さて、上記の作品ですが、ユーモアをたたえた俳諧といえるでしょう。
 和歌や連歌では、葉は落ちるものか散るものです。抜けるとあれば物を噛む歯しか考えられません。しかも、馬場と婆(ばば)が掛詞(かけことば)となっているのは一目亮然です。私は更に、「木々」が「木樹」=「喜寿」を掛けているのではないかと考えます。(女優、樹木希林さんは、きききりんと読む)
つまり、次のように解せるのです。
  喜寿の歯や抜けて現す婆の町
 喜寿すなわち77歳のお婆さんが登場するのです。但し、昭乗のことです。婆は「ばばあ」などと乱暴に読まず、「ばば」と愛らしく読みたいものです。
 ちなみに、昨年の夏、当時ふるさと学習館におられた小森俊寛氏から、現在、宅地開発が進められている発掘現場(馬場遺跡)を案内されました。旧善法寺家の邸宅の荘厳さが思い浮かぶような区画です。印象深かったのは、男山を借景のごとく取り入れた庭の景観です。樹木がうっそうと繁る中に南方系のソテツの木を見つけました。男山に自生する樹木には見えません。善法寺家の当主が植えさせたものではないでしょうか。
 いずれにせよ、八幡馬場は、晩秋ともなれば木樹(きぎ)の枯葉の舞う土地柄であったということです。

  今田 日のうちは未だ氷らぬ汀かな
 現在の今田は、善法律寺と馬場グランドの道路をはさんで東側の地区で、和菓子商「じばんそう」から南の一角です。昭乗の生きた時代とほとんど変わらない区域と考えてよいのでしょう。
 この句は、今田という地名と「未だ」という副詞を掛けたものであるというのはすぐにわかります。問題は、ここに汀(みぎわ)の文字が使われていることです。汀とは水際に他なりません。池もしくは河川の存在が考えられます。弥生時代、男山の東裾は湿地が広がっていたという指摘があります。近年、大雨によりこの辺りは水に浸かったことも記憶に新しいところです。

  菖蒲池 名ばかりは枯れず残るや菖蒲池
 名前だけが枯れずに残っている菖蒲池の地名を詠んだ句です。その昔は菖蒲が自生する池があったのかもしれません。
 菖蒲池は、現在の市民図書館のある辺りですが、一昨年9月の大水の時、この辺り一帯が水につかりました。菖蒲池の句もその前の句の今田も、そこが低地ないしは湿地帯であったということを表しています。

  城内 神無月ほそくにかくや状の中(うち)
 私は、この句の解釈で半年間悩みました。神無月の期間、なぜ手紙を細く書かないといけないのか。あるいは、「神無月」になにか特別な意味が隠されているのか。f0300125_2039112.jpg
 「神無月」は、俗説では、全国の神々が出雲大社に集まって、諸国が「神無しになる月」といわれます。陰暦の10月のことですが、今の11月ごろを指すのでしょうか。しかし、その神無月に、なぜ手紙を書くのに、字を細く書かないといけないのか不明です。ただし、句にある「状」は書状の状で、城ノ内の「城」を掛けていることはわかります。
 謎は解明されないまま悶々とした日々を過ごしました。
 半年間悩んだ末に、「新撰犬筑波集」に行きつきました。
 「新選犬筑波集」とは、天文元年(1532)頃に、山崎宗鑑が編集した俳諧集で、卑俗でこっけいな表現を打ち出し、俳諧が連歌から独立する機運を作ったといわれます。なぜ、この俳諧集に注目したかといえば、昭乗が八幡の町を俳諧に詠んだ元和元年(1615)頃は、京都を中心に一世を風靡した貞門俳諧の隆盛には未だ時期が早く、昭乗が興じた俳諧は、山崎宗鑑の犬筑波集からの影響が強いと思ったからです。
新潮日本古典集成『竹馬狂吟集 新撰犬筑波集』から次の句をみつけて思わす膝を叩きました。
  西城(せいじょう)へ行かんとすればかみな月
 「西城」とは便所のこと。便所に行こうとしたら紙がなかった。つまり神(かみ)はペーパーのことです。従って、「神無月ほそくに書くや状の中(うち)」は、紙があまり無いので、筆で太く書くと紙が足らなくなり、だから細く書いたとの解釈に落ち着きます。しかも、「かんなつき」は「紙が無いに付き」となり、無理なく読み取ることができます。
 「新撰犬筑波集」にある「西城へ」の次の句は、
  連歌はてて
  御座敷を見れば大略神な月

です。この場合の神は髪(ヘアー)、つまり坊主頭ばかりであったという句です。
 ところで、この句の前書きが示唆的です。「連歌果てて」とあります。つまり、正統な連歌の会が終わって、砕けた俳諧で寛(くつろ)ごうという趣旨です。能に狂言がある如く、連歌に俳諧があるということでしょう。ついでに、犬筑波集に八幡を詠んだ句としてどんなものがあるのか紹介しておきましょう。
 八幡にて千句果てて (千句は連歌のこと)
  撫子(なでしこ)もかしらかたかれ岩の坊
 岩の坊は、石清水八幡宮周辺にあった四十八坊のひとつ。岩だから堅い。新潮社版の解説文の中に、「石清水八幡には坊が多く連歌の盛んな土地柄」と記しています。連歌が盛んであれば俳諧も盛んであったことが想像されます。昭乗が特に俳諧をよくしていたということではなく、誰もがやっていたということでしょう。
  鳴けや鹿鳴かずば皮をはぎの坊
 萩の坊の萩が皮をはぐということになったものですが、この句の注釈によれば、「八幡では鹿の皮を藍で染め、草花の紋を置いた菖蒲皮と言われる皮を特産した。菖蒲を「尚武」ととって縁起を担ぎ、武器に多く用いた。この句は八幡で皮を扱っていることを知っていてはじめて意味のわかる句である。」とあります。将軍家にも献上した八幡の菖蒲皮は有名な特産品でした。

ところで、「城ノ内」の名の謂れとして『男山考古録』は、「楽家(がくけ)に山井(やまのい)・城内(じょうのうち)両家在(あり)し由(よし)」と記しています。「楽家」とは、御神楽を演奏する奏者のことでしょうか。城内という名の御神楽奏者が住んでいたからその地が城ノ内と呼ばれたというのはありうる説のようです。ちなみに、馬場も、安居当役を担う頭人の名から来ているとのことです。(ルビは筆者による。以下のルビも)

  平谷 平谷の寒さとおすな丈ふせぎ
 「丈ふせぎ」がよくわかりません。竹林を「たけふ」というらしいので、その堰だから丈(たけ)ふせきと解釈できることも可能です。男山から吹き降ろす風を平谷(びょうだに)の竹林で防いでほしいという句でしょうか。
 なお、平谷の地名を『考古録』は、「御山より山路といふ辺(あたり)迄の間に、いささか打ひらけた谷ふところ成(なり)し故(ゆえ)此名ありけむ」と述べています。「ありけむ」はあるのだろうかと推量しているのであって断定ではありません。いずれにせよ、f0300125_20562137.jpg平谷は、男山から山路方面(念仏寺や正福寺を経て薬園寺に至る道)に向かう地点 (今の八幡橋周辺)で、山すそがいくぶん開けたように見える地なので平谷と呼ばれたということでしょう。なお、現在は放生川に架かる安居橋周辺に人家がありませんが、その昔は、安居橋の近くまで家が建てこみ、応永12年(1405)9月12日に焼亡しました。以来、そこに在家(人家)を建てることが室町幕府により禁じられたとのことです。現在の「さざなみ公園」はその名残かもしれません。    (つづく)

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by y-rekitan | 2015-07-28 07:00 | Comments(0)

◆会報第64号より-07 本の刊行

シリーズ:『歴史たんけん八幡』の発行に向けて・・・③

第2回特別連続講座が開催されました!

 「歴史たんけん八幡」 制作委員会 

 さる7月15日、八幡市市民共働活動センターを会場に、表題の講座が開かれました。今回の報告は、二つのテーマを取り上げました。概略を紹介します。参加者30名

大むかしの八幡 
     
中田孝子さん (ふるさと学習館ボランティア会会員 
             ・元八幡市立有都小学校教諭)

1、旧石器時代~縄文時代(約2万年前~約3000年前)

 金右衛門遺跡から、旧石器時代~縄文時代の石器がみつかった。石匙(携帯用の石のナイフ)・石錘(釣りに使用する石のおもり)・石鏃(石で作った矢じり)である。このことから獣や鳥を弓で射て、湖や川に生息する魚を捕り、石のナイフで切り裂いて食事していた人々がいたことがわかる。

2、弥生時代(約3000年前~3世紀ころ)

 内里八丁遺跡から、田んぼのあぜの跡や稲の根の跡などがみつかった。他にも、木の鍬や田下駄、稲の穂を刈る石包丁、つぼやかめの土器、いくつかの竪穴住居跡がみつかっている。このことから、米作りが集団で行われていたことが推測できる。また、このような遺跡は全国的にも珍しい貴重な発見である。

3、古墳時代(4世紀~7世紀ころ)

 前期から後期にかけて以下のような古墳が存在した。
〈前期〉
茶臼山古墳(男山第三中学校南側)、前方後円墳。全長50m。竪穴式石室(舟型石棺;京大博物館が所蔵)。
石不動古墳(後円部に男山電波塔が建っている)、前方後円墳。全長88m。画文帯神獣鏡や石釧(いしくしろ)などが出土。
ヒル塚古墳(美濃山ヒル塚、1号線三田屋付近)、方墳。一辺52mの2段築。2基の巨大な粘土郭。鏡、渦巻き状の飾りのついた鉄剣が出土。
〈中期〉
東車塚古墳(八幡女郎花、松花堂庭園内)、前方後円墳。全長90m。三角縁二神二獣鏡などが出土。
王塚古墳(美濃山大塚)、前方後円墳。全長76m以上。粘土郭。鏡、甲冑、鉄製武具、刀剣など。
〈後期〉
横穴群(おうけつぐん)・・・・・美濃山横穴群、女谷・新坂横穴群、狐谷横穴群などが存在。それらから、金環、切子玉、須恵器、土師器、馬具、鉄製武具、人骨などが出土。

 八幡における古墳の変遷をみると、前期は西車塚古墳など大型の古墳が造られ、大きな勢力をもった支配層がいたと思われる。副葬品をみても鏡や勾玉、管玉、石釧などの装身具が多い。中期になると規模が小さくなり、東車塚古墳と王塚古墳の副葬品は、鉄製品の武器や甲冑など武具が多くなる。後期になると、小さな単位の群集墳に変わっていく。そのころ、仏教の伝来により、皆山廃寺などにみられる寺の建立が行われ、埋葬のしかたに変化が見られるようになる。

4、廃寺は語る 飛鳥~奈良時代(7~8世紀)

 楠葉平野山窯跡が発見。四天王寺の瓦が焼かれた。素弁蓮華文軒丸瓦が出土。
 この時期、八幡では3つのお寺が建てられた。
西山廃寺(足立寺、西山和気の交差点南)。塔の跡、塔心礎、金堂跡、瓦窯跡などが出土。これらは、安立寺史跡公園に移築、保存される。奈良三彩(二彩)やせん仏なども発掘。和気清麻呂が建てたという伝承あり。
志水廃寺(八幡月夜田)。約10m四方、高さ50~60cmの瓦積み基壇が出土。鬼面文軒丸瓦、土師器、須恵器などが出土。
美濃山廃寺(美濃山古寺)。掘立柱建物、寺院らしき遺構、瓦窯跡、瓦類、奈良三彩壺などが出土。また、覆鉢型土製品、ひさご型土製品も発見された。これらは何に使われたのかよくわかっていない。

5、他にもある奈良時代の遺跡

 御園神社の周辺に、天皇家の「御園」「奈良園」と呼ばれる菜園があった。ウリ・ナス・ダイコンなど朝廷に納める菜園であったと思われる。また、役所(官衙)の跡らしいものが現われ、掘立柱の建物や墨で文字を書いた土器、ベルトの飾り(石帯)なども出土された。
 また、古代の官道として、山陰道に内里八丁遺跡が重なり、山陽道に、美濃山廃寺・志水廃寺・西山廃寺がそれぞれ建立されていた。但し、山陰道は木津川の氾濫により官道として機能しなかったこともあるとのことである。



河川と歩んだ八幡 
     
野間口 秀國さん (八幡の歴史を探究する会幹事)

1、水の道、木津川・淀川

 淀川水系の流域関係府県は2府4県にまたがり、佐々里峠(京都府)を水源地とする桂川、栃の木峠(滋賀県)を水源地とする宇治川、青山高原を水源地とする木津川が八幡で合流し淀川となって大阪湾に注いでいる。八幡市内を流れる大谷川も淀川水系に属する。
 約2200年前~1700年前の弥生時代から水を有効に使える場所で遺跡が分布されるようになった。川沿いに住むことで、稲の耕作が可能となり、飲料水など生活用水が確保でき、船の利用を通して運搬手段が確保できるようになった。一方で、洪水や内水被害の危険性、敵の侵入などに備えなければならなくなった。

2、蜻蛉尻川の水争い

 1714年(正徳2)5月28日、蜻蛉尻川(現在の防賀川)筋の上奈良・内里両村と下奈良村の境の地点で堤防が切られ、あふれた水は下流域に押し寄せた。
 堤切りにいたる要因として考えられることがらは以下の通り。
①慢性的に水が滞留しやすい地形であった。
②上流からの土砂で川底が上がり、両岸の樹木も水流の妨げになっていた。               
③川幅が狭かった。
④当該事件の発生年は大雨続きで、すでに田畑は水の飽和状態であった。
⑤過去にも洪水が多く発生していた。f0300125_2211435.jpg
 被害をこうむった村の代表は、八幡宮当職に堤を切った犯人を詮議するよう訴えたが詮議が進
まず、同年6月18日には京都町奉行所に訴状が提出された。審理は長引いた。その理由として、当該の村々が八幡神領、淀藩領、皇室・公家領、幕府領などと錯綜していたこともある。一応の解決をみたのが10か月後であった。この争いの経験と知恵が、明治維新直後の木津川付け替えを推進する要因となったのではないか。

3、木津川と淀川の渡し船

 八幡には、木津川・淀川にそれぞれ以下の渡し場があった。
  木津川・・・・岩田、上津屋、下奈良、川口・生津
  淀 川・・・・狐川、橋本、三国
 船は長さ約11.7mで幅は約1.8mである。         
 渡し船には往来人の通行のための有料の渡し船と、両岸に耕作地を有する農民が農作業するために利用する無料の渡し船があった。
 船頭は、村から募集されたが、彼らは仕事に関わる決まり事を守るための契約書を村役人に提出した。
 橋本の渡し船の場合、運賃は、普通の水位のときで一人3文、水位が4~5尺(1.2~1.5m)で12文、6尺(1.6m)になると30文に跳ね上がった。 
 橋本の渡しを渡って大阪市内へ通勤したり、高槻駅に鉄道小荷物を預けたりするなどの思い出を残し、1962年(昭和37)、鉄道や道路に役目を引き継ぎ、橋本の渡しは廃止された。

4、木津川の付替え

 長い年月の間、通運、灌漑、農作、漁労など生活全般にわたって多くの恩恵が得られた木津川であるが、上流からの土砂がたまり洪水、浸水、堤切れなど被害も甚大であった。
 明治新政府は、財源不足を抱えつつも、洪水問題の解決と鳥羽・伏見の戦災復興による民意高揚を期待して木津川の付替えを打ち出した。治水政策を新政府の目玉とすることで民衆の支持を確保しておく必要もあったのである。
 そこで、1868年(明治元)10月に川ざらえを布告。11月には、現地事務所や管轄する部署の設置がなされた。しかし、常盤、美豆、川口、生津、際目の村々から付替え計画の中止を求める嘆願書が出された。工事を推進する京都府は、代替え耕作地の確保や飛び地の発生による不利益や不便性などを解決するための具体案を提示するなどして説得を続けた。その結果、翌年から工事が推進され、新堤防が完成。明治2年11月には下奈良堤防で水神祭が行われ、旧木津川を堰き止め、翌3年1月にはすべての工事が完成した。


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by y-rekitan | 2015-07-28 06:00 | Comments(0)

◆会報第64号より-08 本の刊行Ⅱ

シリーズ:『歴史たんけん八幡』の発行に向けて・・・④

歴史たんけん八幡』の発行が迫る


制作委員会事務局

 昨年の3月から始まった『歴史たんけん八幡』の編集作業が今年4月に一応完結し、その後、図版の取り寄せや交付金申請の手続きを進めました。その結果、制作委員会が作成したものをふくめ全体で160点余り図版が集まり、交付金申請では2度ほどのヒヤリングを済ませました。
 一方で、「八幡の歴史人物事典」や「関連年表」、表紙のデザインも手がけ、この6月から7月にかけて二度にわたる校正作業を展開。このほど第3刷(最終刷)の校正がおわり、8月3日に印刷会社に原稿の責了として渡しました。
 また、6月と7月には、特別連続講座を実施し、執筆者の方が担当した章について、その概要を発表していただいたところです。いよいよ発行は9月1日です(予定)。
 今回、第1章「大むかしの八幡」を共同執筆していただいた中田孝子(なかたこうこ)さんに、執筆の動機や思いを語っていただきました。

八幡の歴史に目を開かせる本に!
中田 孝子

 八幡に住むようになって40数年間、幸い教師として八幡小学校を皮切りに退職まで市内で勤めさせていただきました。私にとっては大変愛着のある街です。最後の学校に勤めている頃、かねてから八幡の歴史に興味を抱き、調べたり、講演会に参加したりするなど学習を進める中で、八幡の歴史の深さを知り、ぜひ八幡の子どもたちに自分たちの地域の歴史を知ってもらいたいと思うようになり、八幡の歴史の授業を始めました。退職後も社会人講師(ゲストティーチャー)として 6年生に授業として年間数時間、八幡の歴史を教える機会をいただいています。
f0300125_0474879.jpg 授業をすると、自分たちの身近なところに遺跡や史跡があり、それが全国でも有名で貴重なものであることを知ると子ども達が一様に驚き、目を輝かせます。特に八幡の歴史にとって古代の時期は、わからないことも多いですが、とても興味深い時代です。発掘された遺跡や遺物から子ども達と一緒に想像することは楽しいですね。
 今回第1章を共同で執筆させていただき、お互いに、できるだけ子ども達にわかりやすく、正しい情報を提供するという視点を心がけました。この本が子ども達に八幡の歴史に対する目を開かせ、興味・関心を持ってくれることを願っています。
(タイトルは編集担当による)空白


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by y-rekitan | 2015-07-28 05:00 | Comments(0)

◆会報第64号より-end

この号の記事は終りです。


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by y-rekitan | 2015-07-28 01:00 | Comments(0)