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◆シリーズ:“わが心の風景” (38)◆
◆シリーズ:“『歴史たんけん八幡』の刊行に寄せて”⑤◆
◆シリーズ:“松花堂昭乗が詠んだ八幡の町”③◆


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by y-rekitan | 2015-08-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第65号より-01 狩尾社

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わが心の風景・・・(38)
狩 尾 社
所在地 橋本狩尾


f0300125_1385537.jpg 狩尾(とがのお)社は男山の西方、橋本狩尾に鎮座しています。
 昭和35年春、希望ヶ丘・栗ケ谷の大規模な宅地開発が始まり、同社の荘厳な社だけが孤立する形で残り、現在に至っています。階段は、手すりを持つ手にジワッと汗を覚えるほど急で、昇るには、少し勇気を絞り出さなくてはならないほどですが、山上の樹木と古社に、ホッとします。
 現在は、狩尾社は石清水八幡宮の摂社ですが、八幡宮鎮座以前からこの地にあったと伝えられています。古図に見る社は、現在と異なっていますが、現社殿は慶長年間(1596~1614)に造営されたものを原型に、三所一棟に三扉斎垣の組戸を外陣に構えて犬防とし、東西に玉垣が設けられています。
 社名のトガノオは、地名に因むようで、貞観年間に著された『行教和尚夢記』に斗我尾と見えるのですが、詳細は不明です。 社は、平成20年12月2日に国指定重要文化財に指定されました。(絵と文: 小山嘉巳)


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by y-rekitan | 2015-08-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第65号より-02 本の刊行

シリーズ:『歴史たんけん八幡』の刊行に寄せて・・・⑤

『歴史たんけん八幡』と私

西  中 道(石清水八幡宮・禰宜)

f0300125_4194811.jpg もしも八幡という町が、この世に存在していなかったなら、我が国の歴史や文化は、かなり異なった様相を呈していたのではないか。それほど日本全体の歩みに重大な影響を及ぼしてきたのが、我が八幡であり、八幡宮ではなかったか。
 今の私たちが、ふだん眺めている「八幡」は、地上に露出したほんの僅かな一部に過ぎず、これを少しずつ掘り起こしてみたら、いつか思いもよらぬ巨大な全体像が姿を現わすのではないか…

 そんな期待を込めて、私も時代を溯り過去の八幡へと「探検」の旅に出てみたのだが、その細やかな成果らしきものを文章という形に落としていくと、どうしても淡々とした無難な言い回しに流れてしまったり、逆に硬直した分かりにくい表現に泥んでしまったりして、これで少年少女の心に響くか、と問われれば、ただもう心許なく、自分の知力筆力の薄弱さに恥じ入るばかりであった。
 何よりも、宗教とか信仰という人間の精神に関わる問題を、独りよがりでもなく押し付けでもなく、どうすれば客観的に、万人に分かり易い形で読者に伝えることができるかという点に、私が担当した第2章における最も難しい課題があったように思う。
 けれども、幸いなことに有能な編集委員の皆様により適切な修正が施され、そのお蔭で非常にスッキリとした平易な文章に整えられたものと、感謝の念とともに確信しているところである。
 本書を通じ、わが町・八幡への愛着と理解、誇らしさの念が、人々の心に深く根を張り、やがて大きく枝を広げることを心から願ってやまない。


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by y-rekitan | 2015-08-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第65号より-03 松花堂昭乗

シリーズ「松花堂昭乗が詠んだ八幡の町」・・・③

松花堂昭乗が詠んだ八幡の町(その3)

 土井 三郎 (会員) 


園 つほのうちは小春や園の梅干

 以前、正法寺蔵の「石清水八幡宮山上山下八郷惣絵図」(18世紀前半~中頃)の実物を拝見したことがありますが、園町のあたりは、法園寺とその周辺に町屋が少し見える程度で周囲は田園が広がるばかりでした。とはいっても、絵図はデフォルメされていると考えれば実際の様相を忠実に反映しているとはいえないかもしれません。
現在、法園寺は、八幡ゴルフの手前に、コンクリートのお堂があるだけですが、元来は石清水八幡宮の祠官家の菩提寺で、現在も変わらないようです。その証拠に、コナミスポーツクラブの北側と薬局キリン堂の東側の一角にある墓苑は、宝篋印塔や五輪塔が建つ古式豊かな雰囲気が漂っており、いつもきれいに整備されています。盛時の法園寺は、コナミやゴルフ場、キリン堂を含む広大な敷地を有する寺院であったのでしょう。また、1352年に始まる男山合戦では、近辺が戦場になりました。法園寺の堂舎には、南朝軍が立て籠もったようです。戦場となったことを示す「園殿古戦場跡碑」が八幡市民図書館の前に建っています。
 「つほ」は「坪」で中庭を指します。法園寺の庭は、小春日よりの園のようであると詠んでいますが、趣向としては、「梅干し」をどう読み、どう解釈するかにあります。ちなみに、梅干(うめぼし)を擬人化した表現に「梅法師(うめぼうし)」があります。先の号で触れた『新撰犬筑波集』に「小町もあまになりてかたらへ」の詞書(ことばがき)を持つ句に「花の色はうつりにけりなむめほうし」というのがあります。「花の色はうつりにけりないたずらに わが身世にふるながめせしまに」(百人一首)と詠んだ小町の歌をパロディ化した俳諧で、梅の花が、時を経て梅干ならぬ梅法師になったと詠み、皺だらけの坊主頭を連想するのは、『新撰犬筑波集』の作品らしいギャグの効いた俳諧のようです。
 「園」は、『男山考古録』によれば、山城国御園に比定されています。つまり、御園神社のある上奈良地区に含まれる時代があったと述べているのです。

 森 かたは月や冬も凍りの薬師堂

 「かたは月」は「片刃月」で三日月を指すと思われますが、それと薬師堂とどんな関係があるのかよくわかりません。

 東山路 北そうな東山路はふゆしぐれ

 東山路は、念仏寺や正福寺界隈の町です。そんな界隈を冬、時雨の降る季節に通れば、東ならぬ北のごとく寒い。寒いから日の差す東ではなく北と洒落てみただけの句なのでしょうか。よくわかりません。

 山路 菊酒にみぞれくわうる山路かな

f0300125_4314492.jpg 山路郷の森町は、中世以来、麹(こうじ)の生産と流通で財をなした人々の住む地域でした。「みぞれ酒」とは、麹の粒が溶けきらないで混じっている酒のことです。まさに、山路郷の森町を詠んだ句にふさわしい気がします。なお、東山路の山路もふくめて、山路は、男山へ上り下りする山路に相違ありません。石清水八幡宮が鎮座する男山に貢納物を納めたり、参詣したりする、人と物の往来する山路で、山上(石清水八幡宮)と山下(八幡の町)とが結ばれていたのです。              

 柴座 寒さをば防がぬ柴の座敷かな

f0300125_4273990.jpg 石清水八幡宮に仕える神人に柴(=薪など燃料)を扱う者たちがいました。神人は、座を形成しました。「座」は、特権的な意味を含んだ同業者の集団を指します。彼らは、朝廷や貴族、寺社などの保護を受けて、特定の商品の生産、販売の独占権をもっていました。ここでいう柴座は、石清水八幡宮にその身分を保障された、柴を扱う同業者です。柴を石清水に納めることが条件で「神人」に認定され、そのことで独占的に柴の販売が許されるのです。この時代、柴座に属していなければ柴の販売・流通に携わることができませんでした。
中世以来、八幡には、他に、紺を染める染物業=紺屋(こうや)の紺座(こうのざ)、麹を扱う麹座などがあったようです。
 昭乗は、そんな座をもじって座敷としてとらえています。(壁や床を)柴で編んだ座敷は、風がすうすう通り、寒くて仕方ないとぼやいているのです。柴は煮炊きするだけでなく暖房用の燃料にもなります。暖房用の柴の名があるのに、柴座は寒いと嘆くことで、柴を皮肉っているともいえるでしょう。  (続く)

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by y-rekitan | 2015-08-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第65号より-end

この号の記事は終りです。


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by y-rekitan | 2015-08-28 01:00 | Comments(0)