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◆シリーズ:“わが心の風景” (39)◆
◆《講演会》江戸時代の村の暮らし◆
◆シリーズ:“『歴史たんけん八幡』の刊行によせて”⑥◆
◆シリーズ:“『歴史たんけん八幡』の刊行によせて”⑦◆
◆シリーズ:“松花堂昭乗が詠んだ八幡の町” ④◆


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by y-rekitan | 2015-09-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第66号より-01 円福寺

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わが心の風景・・・(39)
円福寺
所在地 八幡福禄谷


f0300125_8393070.jpg 円福寺は、明智光秀と羽柴秀吉の山崎合戦で、筒井順慶が「日和見」をしたと伝えられる洞ヶ峠に近い八幡福禄谷にあります。
 山門、本堂、禅堂、有栖川宮家旧御殿などが甍を連ねる約三万坪の境内には、豊かな自然が残こり、静寂の世界が広がっています。
  寺は1783年(天明3年)、妙心寺の斯経和尚が八幡宮別当田中家から円福寺の寺号と達磨大師坐像を譲り受け、さらに同年、南山焼の祖、浅井周斎から幣原谷の土地の寄進を受けて、臨済宗最初の専門道場として建立されました。
 日本最古といわれる達磨像(鎌倉時代・重要文化財)は、法衣をまとい、両手を腹の上に重ねて唇を固く結び、目は大きく見開いており、何事にも惑わされることのない虚心坦懐の境地と気迫が漂っています。
 毎年4月20日と10月20日の年2回、「万人講」でこの達磨を拝し、赤膳で提供される精進料理を食べることで、開運、厄除け、中風除けになるといわれ、多くの信者が訪れます。 
  (絵と文: 小山嘉巳)
                                    


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by y-rekitan | 2015-09-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第66号より-02 江戸時代の村

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《講 演 会》
江戸時代の村の暮らし


2015年9月  八幡市ふるさと学習館研修室にて


 2015年9月例会(講演と交流の集い)は、16日(水)ふるさと学習館2階研修室で開催され、「江戸時代の村の暮らし」のテーマで、伊佐錠治さんと出口修さんにお話しいただきました。お二人の同時講演は初めてです。
 これは、9月1日に当会から発行された「歴史たんけん八幡」の第11章「江戸時代の村の暮らし」は、お二人の著述が同じ章にまとめられているためです。江戸時代の村の暮らしについて、上記誌上では書ききれなかった内容について、伊佐家、文化財保護課に残る古文書をもとに講演していただきました。以下要旨のみ記します。参加者は57名。

第Ⅰ部「上津屋の村の暮らし」

伊佐 錠治 (伊佐家当主・「NPO法人 全国重文民家の集い」会員)

1、上津屋村の集落組織

 上津屋村は、野尻、岩田、戸津、上奈良、内里、大住、松井、美濃山新開で構成された九ケ村の一つであり、この九ヶ村は御蔵入りの組合村として一括統治されていた。上津屋村は4株、三方角であり、4株は浜、里、三条家、大炊御門家。三方角は浜方、里方、東向。四株ではその年の代表は年番制になっていた。浜方と東向は親郷と枝郷の関係にあった。これは山間部ではよくあったが、平野部では珍しいことである。木津川が真ん中にあり、庄屋が浜方にあったためと思われる。石高は里、浜は同じくらいで約300石、三条家、大炊家がそれぞれ約200石。家数は181軒で、「歴史たんけん八幡」の数字とは違うが、年度のちがいである。
f0300125_943770.jpg 木津川の船着き場は長さ100メートル弱、橋本、上津屋、木津が三大船着き場であり、上津屋の船着き場は大変盛んであった。船の傷みは激しくて、伏見の船問屋に新しく注文したが、10年かかり代金は、銀1貫200匁だった。船の長さは約10メートル、幅は2メートル弱、板の厚さは3センチという記録が残っている。延宝5年(1677)の地図が残っている。木津川の港に石はねという建造物が描かれているが、これは流れを止めて、船が着きやすくしたものである。(古地図、絵を使っての説明がありました)

2、村の年中行事ときまり-格式日記から

 格式日記とは、村の行事を毎年書き記すもの。伊佐家には1800年頃から明治20年頃までの日記が残っている。長帳で一年に一冊ではないが、天保10年の日記では1月1日の氏神様へのお参りから12月大晦日まで細かく記されている(詳しくは「歴史たんけん八幡」57ページを参照)。左義長は現在上津屋では行われていない。伊勢講は大切な行事で伊勢のおかげ参りに行く行事。日記では23人の男女が18日に出発して翌日にはお伊勢さんに参拝しているが、こんなに早く着けたのか。日待講は現在も続いている。これは豊穣、健康を祈って朝までご馳走を食べながらお祝いし、日の出を待って解散する。現在は夕6時頃集まり夜11時頃には解散。食事も弁当で済ませ、今年からはどこかの料理屋で行うようになるかも知れない。
 愛宕山参りは天保10年の日記では2月11日のことが書かれている。年三回、当番を決め二人ずつで、一軒から5文ずつ集め、正月は浜、五月は上津屋、11月は浜が担当してお札(ふだ)を貰って帰っている。今は山に登るのが大変で、お金を送ってお札を郵送して貰っている。
 年間の休日は、村の決まりとして執り行なわれていた。元旦から始まり年25日あった。閏年があったので年により日数も変わっていた。
 地蔵盆は今でもしっかり行われている。浜上津屋にあるお地蔵さんに、こどもたちはゆかたを着て集まり、村の人が導師になって、数珠くりをしてお祈りをする。

3、庄屋の暮らし-歴代日記から

 (享保19年の屋敷の古図を使って説明がありました。)
 (藪入り、節句、餅つきの日にちについては「歴史たんけん八幡」55ページ参照)。
 藪入りは、正月と七月に行われる。日記には、奉公人「いく」が7月に藪入りしている記録がある。三泊四日の許しで実家に帰り、1月から6月までのお給金として37匁半を貰っている。その他前垂れ、さば代50文、ビードロのかんざし等を貰っている。藪入りは奉公人だけでなく、嫁いできたお嫁さんにも与えられていた。節句は三月の雛飾り、五月人形飾りが盛んに行われた。餅つきは今も残っている冠婚葬祭用の大きな竈で二時間ぐらい蒸して作った。
 また、庄屋が村の行政指導者として近辺のことに目を配っていたと思われる記録が日記にあって、慶應4年の鳥羽伏見の戦い、いわゆる八幡合戦、神領の殺生禁止令、廃仏毀釈、放生会などにも触れられている。

4、村を支えた農産物

 順気作物明細帳、毎年農方立毛取込帳には、年ごとの収穫物、毎年の気候が書かれている。(詳細は省略)多種類の農産物とそれらの収穫高が記録されている。
 島畑というものがある。田んぼの中を一段高くして畑の作物を作った。今は少なくなって、二、三年後にはなくなるかも知れない。「歴史たんけん八幡」に載っている写真は貴重な資料になると思う。

5、暮らしに潤いを求めて

 公儀からの禁止のお達しが多い中、相撲興行、浄瑠璃、芝居、お蔭参り(ええじゃないか)など盛んにおこなわれた。
 最後に一言。夏目漱石は、「木を彫って仏像を作ると言うことは、作像するのではなく、木の中にある仏さんを木を削って取り出すことである」といっている。歴史は既にあるものを探しだすこと。「歴史探究」の「探究」とは「物事の真の姿をさぐって見きわめること」の意であるが、「物事」を「歴史」に置き換えると「八幡の歴史を探究する会」はすばらしい会であり、これからも八幡の歴史をたくさん探し出して、我々に紹介していただきたい。

民具のクイズと解答

 伊佐さんから民具についてのクイズが出題されました。江戸時代の民具の写真を見て答えるもので、正解者には、金賞、銀賞、銅賞が与えられました。次の写真を見て、名前と、何に使う物かお考えください。
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蘭引き・・・アルコールなどを蒸留する装置。
図写器・・・地図の縮尺に用いる道具(使用法は不明)。
香時計・・・写真上部には、格子の下に灰が詰まっており、灰の上に右側写真の箱を載せて線上の筋にお香を詰める。箱を引き上げるとお香が灰の上に線上に残るので先端に火をつける。すると、燃え始め、燃えおわるまでの時間で時計の役目をする。その間、香りを楽しむことができる。
携帯枕
携帯燭台

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第Ⅱ部「美濃山の開発」

出口 修 (八幡市ふるさと学習館)

1、古代遺跡の宝庫

 古代の美濃山は埋蔵文化財の宝庫のような場所で、金右衛門垣内遺跡等があり、八幡に人類が足跡を残した最初の地と見られる。以下、箇条書きで示してみたい。
二上山と同じサヌカイトを使用したナイフ形石器(石破技法)が発見されているので、生駒山系と同じ流れと考えられている。
縄文時代のものと思われる切目石錘(魚などを採る道具か?)が発見されている。
弥生時代の中期の土器と多量の石鏃や石包丁のほかに、磨製石剣の断片が発見されている。
美濃山廃寺の下から弥生時代の住居跡が出てきている。美濃山廃寺下層遺跡として、弥生時代の後期と考えられる34棟の住居跡が確認された。
美濃山大塚古墳は前方後円墳で5世紀半ば頃のものと思われ、甲冑・刀剣類が多く出土している。
荒坂・女谷・狐谷などでは、斜面を利用した横穴群が多く発見されている。いずれも須恵器・土師器、金環等の装飾品、人骨などが発見されている。特に荒坂横穴は、九州南部の大隅隼人と関係があるものと考えられている。

f0300125_1162423.jpg 八幡から美濃山は、どのように見えていたのだろうか。江戸時代に書かれた『男山考古録』によれば、「志水の南のはて、奈良道東南半里許り一村あり」と記されている。また、『石清水八幡宮史』には、美濃山という地名の起源について、鳥羽院に仕えた八幡宮別当・垂井光清の娘・美濃局が移居した地であることからこの名前がついたとも書かれている。
 江戸時代の美濃山は、戸津、岩田、内里、松井の四つの村が共同利用していた。一方、岩田村に残っていた「續記録」には、石田(いわた)、内里、戸津、松井の四ケ村とわかれて「美濃山」となり、もっと古くは「箕野山」と言って、ここは組合持の山である書かれている。

2、元禄年間の計画

 入会とは、特定地域の人々が特定の山・原野などを共同利用すること。肥料、飼料などに草木を利用した。美濃山は「東西参拾五町」「南北拾壱町」に及ぶ大きな山間地である。そのような場所を、江戸時代(元禄8年の記録)に開拓をしようということになった。開発を幕府が推進する中、四ケ村は反対した。理由は牛馬の餌、田畑の肥料となる下草がとれなくなるためだった。また正保2年(1645)と延宝2年(1674)に、四ケ村と石清水八幡宮・善法寺家との間で境界争いが起こった。訴訟の結果、津田道を境として、八幡宮領と四ケ村の共有地となった。美濃山にある溜め池7ケ所のうち、御幸谷・宮谷の2ケ所は戸津村の用水、大谷・東谷の2池は松井村、細谷・女谷は内里村の用水としてきた。さらに、貞享元年(1684)以降、四ケ村は毎年土砂止めの工事を行ってきた。このような理由もあり開発は一時頓挫となった。

3、享保年間の実行

 幕府は享保の改革によって、年貢増徴を目的とした新田開発を全国的に実施した。美濃山開発もその一例である。享保年間には、4度の開発が試みられたようである。内里村に残る『備忘録』には、
美濃山新開差構
 享保四 同七 同十 同十一
 役人玉虫左兵衛
角倉与市  小堀家後見人 
とある。
 享保4年(1719)11月、役人玉虫左兵衛・角倉与一の検分に際し、4ケ村役人のほか志水町・神原町の役人、地主、百姓が新開地境界の杭打ちに立ち会っている。
 「砂止一札」という四ケ村の因幡丹後守様御家・土砂役人宛の文面に、嶋介之進の名前が見える。因幡丹後守は淀藩の藩主であるが、その役人で、「初、ミの部左衛門、後若宮仲蔵、嶋介之進」の名前がでてくる。嶋は藤堂藩の人だったり、淀藩に仕えていたり色々な形でこの開発に関わってきている。美濃山に残っている検地帳では、この土地の所有者の名前はすべて嶋助(介)之進の名前になっている。開発するにはスポンサーが必要になるが、金主は京都の長浜屋長兵衛なる人の名前が記録に残っている。
 しかし、過剰開発によって土砂災害等が頻発するなどの環境破壊が起こった。美濃山も山の木が切られ、はげ山になり大塚古墳が露わに見えるようになったと『續記録』には書かれている。幕府は寛文6年(1666)『諸国山川掟』を出して「草木の根を堀取らないこと。川の両岸の乱伐を禁止し、木の苗を植え付けるように」との触れを出している。

4、宝暦元年の拡大

 宝暦元年(1751)には、荒坂より西の谷まで開発が進んでいく。内里村をはじめ、四ケ村の山年貢は5石から2.5石に減じられた。

5、幕末・明治の様子

 美濃山は美濃山村とは呼ばれず、明治の初めまでは美濃山新開と称された。
 幕末・明治の頃の美濃山は戸数73戸、人口309人 石高157.813石(天保郷帳)、内、田地高は8石余り、畑地高は149石余りとなっている。元文5年(1740)の石高と比べると約2.5倍になっている。物産としては孟宗竹10,700貫目 さつまいも24,000貫目 茶24,320斤 白角豆(ささげ)50石であった。(『京都府地誌』)

6、美濃山の景観

 江戸時代は草肥農業社会であったために、美濃山は樹木伐採や山焼きなど、過剰な土地利用による砂山・草山と化して、土地災害も発生した。明治期の地図によると、松林も増え、幕末から明治にかけて茶栽培が盛んになり、明治15年をピークにアメリカなどへの輸出が活発化した。梨、柑橘類などの果樹栽培もおこなわれ、サツマイモや豆などの商品作物も栽培された。明治41年頃には、茶に代わりタケノコが産出され、昭和35年頃から盛んに始まった。

7、飛地の出現

 町村制施工(明治22年)により、当時の村(大字)所有となっていたものは、新町村に移管されたため現在の大谷飛地ができた。昭和52年、その一部は京田辺市と等価交換された。

8、再びの大規模開発

 現在に目を移すと、昭和57年に第二京阪道路が計画されて現代の美濃山開発が始まった。人口は周辺部も合わせると12,000人。第二名神の建設も進んでいる。享保4年(1719)に始まった開発は宝暦元年あたりに終わるがこの間、約32年。現代になって、昭和57年に始まった計画は平成27年で約32年。偶然のことながら、美濃山地区では300年後に、同じような大規模開発が、同じような期間をかけて行われたことになる。               
【文責=望月充郎】


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by y-rekitan | 2015-09-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第66号より-03  本の刊行

シリーズ:『歴史たんけん八幡』の刊行に寄せて・・・⑥

『歴史たんけん八幡』が発行されました

八幡の歴史を探究する会事務局


f0300125_19172267.jpg 誰もが八幡の歴史と文化に親しみをもってもらいたい。そんな願いから、2014年3月に編集委員会を立ち上げて、大人も子供もこの一冊で、八幡の歴史と文化がよくわかる本、『歴史たんけん八幡』の編集・制作に励んできました。幸い、専門家をふくめ多数の方々のご指導、ご支援をいただき、2015年9月1日に発刊できました。
 発行日の9月1日には、八幡市役所の市長応接室において「歴史たんけん八幡」の本をf0300125_20415716.jpg 八幡市に寄贈する贈呈式がとり行なわれました。贈呈式には堀口市長と谷口教育長が出席され、八幡の歴史を探究する会の土井代表から堀口八幡市長に本を贈呈しました。市長からは「わかりやすいカラフルなよい本を作っていただきました」とのコメントをいただきました。
 贈呈式終了後は市役所の市政記者クラブで共同記者発表 を行い、本の制作に関する説明をし、その後に記者の方からの質疑を受けました。

1.本の概要

▇ 発行者        八幡の歴史を探究する会  
▇ 監修者・執筆者   本の奥付に記載。
▇ 発行部数       2000部
▇ 寄贈・普及について
 八幡市内の小中学校や教員に寄贈。また、八幡市内や京都府下の公共施設等にも寄贈する。一般市民のみなさんには販売・普及をすすめる。八幡市駅前の観光協会や松花堂ミュージアムショップ、石清水八幡宮などで委託販売。歴探の例会でも販売する。但し、限定された部数であるので早めの購入をすすめたい。(増刷は考えていない)
▇ 刊行に至るスケジュール
 2014年3月編集員会を発足させ、以後、毎月、編集会議をもち、制作に励んできた。編集が成ってからは、制作委員会に名称を変えて、京都府の地域力交付金の申請や図版申請に尽力。
▇ 本の特徴など
八幡の歴史と文化を平易な文章とカラフルな画像でまとめる。
子どもも大人も楽しく読めることを通して八幡の歴史や文化の魅力に触れてもらう。
歴史上の研究の成果をふまえる。そのため、監修者に助言をいただきながら編集を進める。
子ども達には体験的な学習に活用できるよう工夫―たんけんマップを載せ、自分の目と足で歴史の現場に立って追体験できるようにした。
以上のことを通して、次代を担う児童・生徒に、郷土に誇りを感じてもらいたい。そんな意図から企画・編集した。

2.本の販売について

 一般市民のみなさんには販売・普及については、八幡市内のショップや施設に委託販売をお願いすると共に、会としても “「歴史たんけん八幡」出版記念の集い”(9月27日)や例会及び市内の行事に参加時に販売をする。11月末までに完売を目標です。


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by y-rekitan | 2015-09-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第66号より-04 本の刊行

シリーズ:『歴史たんけん八幡』の刊行に寄せて・・・⑦
八幡の歴史に
『歴史たんけん八幡』刊行が刻み込まれた


 播磨 義昭 (会員) 


 これ程立派な本が出来るとは、全く予想していませんでした。八幡の歴史を探究する会「歴探」が、八幡の歴史に『歴史たんけん八幡』刊行を刻み込んだという表現は決してオーバーではないと思います。
 『歴史たんけん八幡』を手にして、先ず表紙と裏表紙を見ました(私の読書は外観観察から始めます)。次に、読書の作法通り目次と奥書を見ました。鍛代敏雄先生の「刊行によせて」、伊佐錠治さんの「この本を読むみなさんへ」は、格調の高い文章です。この辺りまでは、「歴探」には「八幡の歴史カルタ」の実績がありましたので、単に予想を超えた本が出来たと思っていました。
 ところが、第1章「大むかしの八幡」の二枚の写真を見て驚きました。西車塚古墳跡(10頁)と女谷荒坂横穴群(11頁)の写真が、あまりにも鮮明で美しかったからです。この種の本では、出版予算の制約から、写真と図版に掛かる費用を惜しみ、それらが不鮮明になることがよくあります。単に予想を超えた本が出来たと思っていたところ、二枚の写真の鮮明さと美しさに驚き、読書を中止しました。中止したと云うより、『歴史たんけん八幡』の出来栄えに圧倒されて、読み進むことが出来なくなったのです。読書を中止して、写真のチェックを始めました。
 高良神社(31頁)、上津屋村の庄屋(54頁)を始めとして、美しい写真の連続でした。『歴史たんけん八幡』中の写真は、構図も優れたものばかりでした。ガイドブック等の写真は、分り易さを優先するため、構図の優れたものが少ないのです(制作委員の何方が写真を選ばれたのでしょうか)。
 私は地図を見るのが好きですので、古墳分布図(10頁)、古代の官道(13頁)を見て、楽しくなりました。
 画像では八幡大菩薩御影(18頁)が特に鮮やかで、絵図では狐渡口(51頁)が魅力的です。(狐渡口に描かれた旅人は、何故、片手を挙げているのでしょうか)。平安時代の門前町と室町時代の門前町の地図(21頁)は、平安期から室町期にかけての門前町の変化がよく分りました。
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 小山嘉巳さんの挿絵、善法律寺(30頁)、正法寺(36頁)を見付けて、嬉しくなりました(小山さんの絵を見るたびに想うのですが、何故、小山さんはあれ程優しい絵を描くことが出来るのでしょうか)。
 『歴史たんけん八幡』を会員価格(1,000円)で購入しましたので、“得をした”と思いました(本来、読書に損も得もありません、心の貧しい者の感慨です)。
 鮮明な写真や美しい図版に圧倒されて、書き忘れそうになりましたが、巻末の「たんけんマップ」(98頁)が好く出来ています。「たんけんマップ 地点番号一覧表」(96頁)を見て、「たんけんマップ」で場所を探すことが簡単に出来ます。好く出来ていると書いたのは、「たんけんマップ」が大きくて見易いことと、石清水八幡宮・飛行神社等が集中する部分を見易く拡大しているからです(『歴史たんけん八幡』は親切満載の本です)。八幡山上山下惣絵図(72頁)は、地名を加筆して頂いたので、非常に分り易くなりました。
また、「なるほど 八幡名物」を読んで、「碾茶」が八幡の名物であることを初めて知りました。
 三宅安兵衛碑が取上げられなかったことは、少し意外でしたが、三宅安兵衛碑以外に書くべきことが沢山あったのだろうと思いました。
 当初、『歴史たんけん八幡』は子ども向けに作ると聞いておりましたので、内容的には期待していなかったのですが、出来上がった本の内容は、大人も十分楽しめるものです。八幡の子ども達が、美しい写真や図版に感動し、知らず識らずのうちに八幡の歴史を学び始める姿が目に浮かびます。
 以前、知り合いの編集者に“読者に読んで貰うためには、書出しの数行が重要”と聞いたことがあります。その意味でも『歴史たんけん八幡』の記述は、非常に好く出来ています。記述レベルが高い割に読み易く、至るところに編集者の心遣いを感じます。最近は、乱れた日本語に眉を顰めることが多いのですが、『歴史たんけん八幡』の記述は、正確で美しい日本語です(これは、子ども達への教育的配慮でしょうか)。
 『歴史たんけん八幡』は色彩感覚が特に優れた本です。「歴探」メンバーが歴史に詳しいことは承知していましたが、これほど色彩感覚が優れているとは考えていませんでした(失礼)。
  『歴史たんけん八幡』の出版に関わられた全ての方々に、御礼申し上げます。  
                     
(平成27年9月1日)


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by y-rekitan | 2015-09-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第66号より-05 松花堂昭乗

シリーズ「松花堂昭乗が詠んだ八幡の町」・・・④

松花堂昭乗が詠んだ八幡の町(その4)

 土井 三郎 (会員) 


田中 冬もかる鎌か田中の三日の月

 松花堂昭乗が八幡の町を句に吟じたのは、元和元年(1615)の冬です。f0300125_1313051.jpg 季節が冬なので、寒々とした光景が広がる八幡の町やその風情を描いたものが多いのですが、その中にも、筆者昭乗の機知やセンス、あふれ出る詩情が感じられ、書や画だけでなく、文芸における才能の高さを思い知ることができるというものです。
 上の句は、「田中」が地名の田中町であるとともに、「田の中」を掛け、水(氷)の張った冬の田面(たおも)に映る三日月を稲刈りの鎌としてとらえているというものです。鎌のごとき三日月はいかにもさえざえとしていて、これを実景としてとらえるならば、田中町は、今でこそ町屋の連なるところですが、昭乗の生きた時代は、周辺が田んぼであったことを示していることになります。 地名の「田中」は、石清水八幡宮の祠官である田中家の住居がその地にあったからで、田中殿(たなかでん)は、正平7年(1352)に勃発した八幡合戦の時に、賀名生(あのう)から京都を目指してやってきた後村上天皇一行が、そこを行宮(あんぐう、仮住まい)にしたことで知られています。

紺座 霜ふりのかうの座寒き夕(ゆうべ)かな

 紺座は、こんざとは読まず「こうのざ」と読むようです。平凡社版『京都府の地名』にある八幡市の地名にも「紺座町」は、「こうのざちょう」とルビが付されています。同書には、町の範囲として、「全昌寺橋より南の高橋筋までの南北五〇間の西片側街並」とありますから、現在の飛行神社の並びの町屋を指すとみられます。また、慶長5年(1600)の指出帳(さしだしちょう)によれば、当町には朱印地79石をもつ社士(しゃし)片岡宗与をはじめ本頭・脇頭神人が多く居住していたとのことです。同時に、職人・商人も多く、町名にある「紺屋」=染物業に関わる商人の存在も考えられます。「指出帳」とは、この場合、八幡に居住する者自らが土地の面積、収穫高、耕作者などの明細を、天下人である徳川家康に報告し、安堵された報告書を指します。
 ここで「霜降り」は「霜のふりかかったような、細かく白い斑点のある模様」ととらえ、「かうの座」を「高座」ととらえ、主賓や身分の高い人、または年輩者などがすわる席と解し、霜の降る高座ではさぞ寒かろうと洒落たもののようです。
 常盤木枯のもちかむせぬは常盤かなこの句も意味がとりにくいものの一つです。
「もちかむ」とは何か。「餅を噛む」? それでは意味をなしません。「も」が「もう」の意味をもつ副詞ととらえる用例が、室町時代の末期から近世初頭に見られるとのことです。そうすると、「木枯らしがもう近づいたとはいえない常磐かな」となり、この場合の常盤は「常葉」=常緑樹と解釈することが自然のようです。句の趣向としては、「木枯らしが吹く季節になっても、落葉したり枯葉が舞ったりしないよ。常葉なのだから」となります。或は、「木枯らし」を文字通り、木が枯れるととらえると、「木が枯れることがもう近いと言うことはない。ここは、常葉(ときわ、常緑樹)の地なのだから」と、単に言葉遊びを楽しむ句であると解せます。
 『京都府の地名』八幡市編は、弘安11年(1288)の史料に、常磐町口に「八幡惣門」があったと記すものがあることを紹介しています。神領である八幡の北の門が「八幡惣門」とすれば、その門=戸の際(きわ)にある町だから「戸際(ときわ)」町という解釈がなりたちます。ちなみに、「八幡惣門」の位置は、現在の木津川の向こう岸(京都市伏見区)に比定されます(『山上山下のまち、八幡』堀内明博著)。
明治初年の木津川の付替によって、八幡は木津川によって北の一部が分断されてしまったのです。
f0300125_1343375.jpg なお、石清水八幡宮が支配する神領八幡は、江戸時代初期に「八幡八郷」と呼ばれました。 石清水八幡宮の鎮座する男山の、北と東に位置する科手(しなで)・常磐(ときわ)・山路(やまじ)・金振(かなぶり)の内四郷と、その東に広がる美豆(みず)・際目(さいめ)・生津(なまづ)・川口(かわぐち)の外四郷です。

高橋 そりぬるはあら高橋の狩場哉(かな)

 これまでの句はやや難解であったかもしれません。それに対して、この句は掛詞(かけことば)さえ理解しておけばそんなに難しいことはないでしょう。「あら」という間投詞と「荒鷹」の「荒」、「鷹」と「高」、「橋」と「觜(はし)」(くちばし)が掛詞になっているのです。
 「高橋」は、現在の太鼓橋=安居橋より50mほど下流にかかっていた橋で、「反橋(そりばし)」と呼ばれることがありました。そりぬる、つまり反っているのは高橋ならぬ「荒鷹(あらたか)」の嘴(はし、くちばし)で、同時に、高橋の上なので、見晴がよく、狩場としては申し分がないと洒落ているのです。
 今は定かではありませんが、当時は、男山(鳩が峰)に鳩ならぬ鷹が生息していたのかもしれません。
右の図は、左が高橋(そりはし)、右が全昌寺橋。ちなみに放生会の際、高橋のたもと放生亭より魚が放生川に放出されていました。


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by y-rekitan | 2015-09-28 08:00 | Comments(0)

◆会報第66号より-end

この号の記事は終りです。


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by y-rekitan | 2015-09-28 01:00 | Comments(0)