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◆会報第67号より-top <スクロールだけで全記事が読めます>

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
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◆シリーズ:“わが心の風景” (40)◆
◆《講演会》弥生時代の八幡市とその周辺◆
◆シリーズ:“松花堂昭乗が詠んだ八幡の町” ⑤◆
◆旅人は何故片手を挙げているのか◆
◆シリーズ:“『歴史たんけん八幡』の刊行によせて”⑧◆
◆シリーズ”八幡の道を「高野街道」となぜ呼ぶのか?”①◆
◆「八幡の道 探究部会」が発足しました◆
◆石清水八幡宮が国宝に!◆


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by y-rekitan | 2015-10-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第67号より-01 石田神社

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わが心の風景・・・(40)
石田神社
所在地 八幡市上津屋里垣内


f0300125_6411566.jpg 上津屋里垣内にある社は、里・浜・東の三集落の氏神で牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)と称し、明治になって「石田神社」と改称されました。祭神は素戔嗚(すさのお)神で牛頭天王と同体で、この地が度々木津川の水害に見舞われたためか、疫病に対する守護神として信仰されました。現本殿は嘉永4年(1851)の造営です。
 社の『天王神社記』によると、起源は大宝2年(702)内里の山中に現れた素戔嗚神を上津屋の地に祀ったことに始まると伝えています。治承4年(1180)源頼政の兵乱で社殿は焼失、復興のために文治4年(1188)源頼朝により神事料として52貫文の地が寄進されました。
 元弘の乱では、笠置山参陣の際に楠正成が社に立寄り、願文を奉納したと記されています。
 拝殿には、明和2年(1765)に上津屋村庄屋の伊佐政徽氏奉納の算額があり、和算問題が示されています。これは、京都では八坂神社に次ぎ、全国では9番目に古いものです。    (絵と文: 小山嘉巳)


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by y-rekitan | 2015-10-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第67号より-02 弥生の八幡

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《講 演 会》

弥生時代の八幡市とその周辺
―住居・墓・水田―
2015年10月  八幡市文化センターにて
藤井 整  (京都府教育庁指導部)

 10月18日(日)、午後1時30分より、八幡市文化センター第3会議室にて「講演と交流の集い」が行われました。表題のタイトルで、地元八幡市に詳しい藤井整さんにお話しいただき、分かり易くとても有意義な内容となりました。概要を以下に紹介いたします。参加者は36名。

1,はじめに

 私達が教科書で学んだ弥生時代は、最新の学説によって、かつて理解していた内容のところどころで微調整が必要なことがあります。その一例をあげると、稲作が縄文時代から行われていたとの説や、年代の問題などです。
 弥生時代の八幡は、かつての巨椋池や周辺の低湿地帯が大山崎あたりまで広がっていた湖畔のムラだったようです。巨椋池は昭和になって干拓されましたが、その結果、多くの弥生遺跡が地中に埋まってしまいました。現在八幡市には弥生時代の遺物が出土する遺跡が22カ所ありますが、弥生前期の人が住むのに適した低湿地帯のものは見つかっていません。
 弥生中期以降の遺跡は弥生人が好んだとされる丘陵地で比較的多く見つかっていますが、生活の場を移した諸事情(居住域、墓域、生産域、祭祀など)を考えてみましょう。

2、竪穴建物とその生活(居住域の状況)

 八幡市の弥生遺跡で最も古いものは、内里八丁遺跡です。そこには弥生時代前期の終わりから殆ど中期の時期の竪穴建物が見つかっています。竪穴式の建物が必ずしも住居では無いと判って、最近では“竪穴住居(たてあなじゅうきょ)”とは呼ばず“竪穴建物(たてあなたてもの)”と呼ばれています。発掘された建物の一例ですが、その直径は6mほどの円形で、中央に直径1m、深さ50cmほどの穴があり、中から多量の炭化物と灰が検出され、炉であったと考えられています。炉の存在から、建物は住居として使われ、そこで石器類【石鏃(せきぞく)、石錘(せきすい)、砥石、石包丁など】の修理が行われていたようです。遺物の発掘位置から、作業は住居の北西の位置で行われ、そこは男性の占める空間であった可能性があるといった、他では見られない素晴らしい調査結果が明らかになったのです。f0300125_1871192.jpg
 中期の終わりごろの備前遺跡では、眺望に優れた丘陵斜面に建物を作っていました。以前は、このころ、倭国が大いに乱れていた(倭国大乱:2世紀後半の出来事)ので、見晴らしの良い丘陵を選び、環濠を巡らせた防御的な集落が営まれたと言われていましたが、今では後期中頃のことだと考えられています。しかし弥生時代後期の中頃の遺跡である、西ノ口遺跡、宮ノ背遺跡、美濃山廃寺下層遺跡などにも環濠は見つかりません。焼失住居も無く、軍事色は薄いと報告されています。
 弥生時代中期末から後期にかけて、八幡市を初めとする山城や乙訓地域では居住域が高い所にある傾向があります。このことは、洪水が要因の可能性もありますがそれだけではないようです。

3、方形周溝墓と被葬者(墓域の状況)

 次に、弥生時代の人々はどのような形で埋葬されたのか、誰と埋葬されるのか、墓参りをしたのか、などについて話を進めたいと思います。とは言え、この問題は八幡市では幸水遺跡の事例しかなく、ここでは18基の方形周溝墓が検出されています。
 調査されたそれらの墓の一部から、墳丘の上に置かれていた土器が溝の中から見つかっています。最近の研究では、これは墳丘が崩壊して転落したものではなくて、墓地外で行われた葬式に使用された土器が捨てられたものであることが判ってきました。八幡市にほど近い下植野南遺跡や大阪市の長原遺跡でも同様にお葬式に伴う儀礼行為の後、割られた土器が持ち込まれたことがわかっています。弥生時代のお墓として有名なのは甕棺ですが、この甕による埋葬は北部九州の限られた範囲だけのようです。
 では、近畿ではどうだったのでしょうか。一例ですが、現在の棺と同じく木製の四角い棺が複数の個所で見つかっています。使用された材木は高野槇(コウヤマキ)ですが、このような棺は低湿地帯で長い歳月に亘って地下水位が変化しない場合に見つかるようです。しかし、みんなが木棺に埋葬されたわけではなく、土壙墓と言われる、墓穴を掘ってそのままそこに土葬されていたようです。
 近畿地方の弥生時代のもうひとつの埋葬施設に土器棺墓があります。これは1歳児以下の乳児や胎児に限らえて使われており、成人にも使われる北部九州の甕棺とはその大きさも異なります。
 八幡市域では幸水遺跡以外のお墓の状況は分りませんが、近隣の発掘例からは、集落と同時に墓も丘陵地へと移動していることも分かります。しかしその理由はまだ判っていないのです。また、墓参りについての最新の研究では、現代と違い家長になるのは男女の性別を問われない、いわゆる双系社会だったと考えられ、自分の系譜を追う必要がなかった可能性が高く、今のような墓参りもなされていないようです。

4、水田を経営する人々(生産域の状況)

 八幡市域で水田が検出されているのは、弥生時代の終わりの頃の内里八丁遺跡です。これは登呂遺跡と同じ時期のものです。稲作が始まった早い時期には低湿地にモミを直播してコメ作りをおこなっていました。専門家にとっても水田の畦畔(あぜみち)をきっちりと検出するのはかなり難しいものであり、最近では高槻市の安満(あま)遺跡での検出結果が高く評価されているようです。
 内里八丁遺跡からは、全国でも数例しかないと言われる、貴重な稲株の痕跡が見つかりましたが、これは夏から秋にかけての収穫前に洪水に見舞われたことが判るものでした。このように、何度も起こる洪水との弥生時代のひとたちの戦いの歴史が刻まれているのですね。

5、銅鐸の祭祀と共同体(祭祀の状況)

 京都府の南部では3カ所で銅鐸が見つかっています。そのうち最も新しい時代のものが八幡市の式部谷遺跡で見つかったものです。男山第3中学校の近くで出土した銅鐸は、その高さが66cm、幅が35cmの大きさのものです。出土位置の最近の眺望分析ではかつての巨椋池や現在の京都市伏見区あたりを見渡す場所に埋められていたことが判っています。銅鐸埋設地近くの山頂からは、京都市内も一望できるような場所であったことは需要な視点でもあります。
 最近の研究では、銅鐸が出土することは、社会の発展があまり進んでいないと考えられるようになっているようです。それは、集落のみんなのための銅鐸を手放す、といったことが社会の階層化の進度が高い、すなわち、古墳時代の成立に近づいていると考えられているからのようです。このような研究結果も最初に述べた微調整が必要なことの1つと言えるのではないでしょうか。

6、まとめ

 ここまで話しましたように、八幡市の遺跡では実に様々なことが明らかにされてきました。それらは、内里八丁遺跡の建物跡で確認された石器製作の実際であるとか、宮ノ背遺跡での住居の焼却に際しての儀礼行為、幸水遺跡での溝の中に埋葬された人、洪水に苦しみながら何度も水田を造営した弥生人の努力、いずれも非常に重要な成果です。
 しかしながら、人々が高地に移動した理由のこと、集落と共に墓も高地に移動したこと、また水田も高い所に上がっていると考えられることなど、今後の発掘でこれら多くの謎の解明の可能性が残されているのです。楽しみに待ちたいですね。 
文責  野間口秀國

「一口感想」 より

弥生時代の研究の最新成果がわかりやすく聞けてよかった。八幡市の発掘調査の結果もくわしく教えていただき、スライドも理解を助けてくれたといえます。 (H)
講演内容のレベルが高く、分かり易い説明で楽しめました。最新の考古学の考え方がよく分かりました。先生の高地性集落の説明に納得しました。 (播磨義昭)
八幡に遺跡がある事は知って居ましたが、今日はじめてくわしい事が分かり、とても興味深く聞かせて頂きました。楽しかったです。有難うございました。
ふるさと学習館で、幸水遺跡出土の甕の復旧作業をさせていただいたので、(その時のことを)思い出しながら聞かせていただきました。質疑応答は大変おもしろく聞きました。 (宰川淳一)
討議の時間、弥生時代の人々の宗教観についての議論がなされた。方形周溝墓の溝から粉々に砕けた土器が出てくることがある。意識的に粉々に割ったとしか思えないのである。藤井氏は、黄泉の国に行った死者が生前愛用していた土器を愛でるために、この世に戻ってくることがないようにとのまじないだとおっしゃる。成程と思う。また、弥生時代の人は墓参りをしないとのこと。この世とあの世の断絶は、弥生時代の人々の、死への恐怖と同時に、人が死ぬことへの冷めた認識を示しているのかもしれない。 (土井)

 
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by y-rekitan | 2015-10-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第67号より-03 松花堂昭乗

シリーズ「松花堂昭乗が詠んだ八幡の町」・・・⑤

松花堂昭乗が詠んだ八幡の町(その5)

 土井 三郎 (会員) 


科手 ちる紅葉(もみじ)手品で止まるよしも哉(かな)

 「科手(しなで)」から「手品」を導き、手品で散りゆく紅葉が止まるはずもないと吟じた句です。
 科手は、石清水の神領である内四郷の一つで、男山・鳩ヶ峰のほゞ北に位置し、東は常盤郷、北は淀川堤道、西は河内国楠葉村(現大阪府枚方市)で、鳩ヶ峰の西斜面をふくみます。郷内には科手町・大谷町・橋本町が属していました。(※1)
 『男山考古録』で筆者の長濱尚次(ながはまひさつぐ)は、科手に関して次のようなことを述べています。
 「科手」の「科」(しな)はアテ字で、「信」「品」でも同じことである。山などの片下(さが)りのことで、山の一方が下がっていることをいう。「手」は方や所と同じ。要するに男山の片側の斜面及びその周辺を指すとのことです。(※2)

 明治初年の木津川の改修によって科手郷の北側は相当に広い範囲が削り取られ川床(かわどこ)になってしまいました。現在の木津川の川床は木津川河床(かしょう)遺跡として知られていますが、その遺跡の中に、垂井光清(たるいこうせい)の邸跡があります。「垂井」は姓というより地名を指します。紀氏の出なので紀光清が本来の姓名でしょう。
 垂井光清は、石清水八幡宮の第25代別当(長官)です。光清は、白河院・鳥羽院とのつながりを密にし、石清水八幡宮は朝廷との関わりを深くしました。ちなみに、垂井光清の別当就任が1103年。4年後に本殿が修理され、1110年には大塔の造営が始まっています。そして、大塔の造営を担ったのが清盛の祖父、平正盛です。(※3) これらのことから石清水-平氏-朝廷の補完関係が見えてくるというものです。また、石清水と皇族との間をつなぐのが光清の二人の娘、美濃局(みののつぼね)と小侍従(こじじゅう)でした。
f0300125_18294760.jpg 光清が朝廷との関わりを深めた理由として、祠官家の紀氏による独占であるとする指摘があります。(※4)実際、それ以前は宇佐氏など他氏が別当職に就いたこともあるのに、その後、田中・善法寺・新善法寺などと家の分立は見られるものの、紀氏による独占が続いているのは周知の事実です。
 それにしても、石清水の祠官家が何故木津川に近い科手に邸を構えたのでしょうか。考えられる一つの理由に木津川の水運があります。物資の輸送、人々の往来にとって川岸の利便性はいうまでもないことです。ちなみに、「垂井」という地名について、『男山考古録』は、「按(あんずる)に、古(いにしえ)放生川下流此邊(このあたり)より淀川に落て其所に此名有けん」としています。今でこそ、科手は合流する前の木津川の沿岸ですが、当時、三川は淀で合流し、科手では合流した後の淀川に面していました。

大谷 狩人の追う谷深ししかの皮
 
 「大谷」と「追う谷」とを掛けた句で、「深(ふか)し」は「蒸(ふか)す」にも通じ、鹿の革を蒸(む)して柔らかくする(=なめす)にも通じます。八幡は、江戸将軍家にも献上された「菖蒲革(しょうぶかわ)」の生産地だったのです。
 菖蒲革とは、藍染めの白革下地に菖蒲の花や草木・駒などの紋様を白抜きで型染めしたもので、古くから鎧(よろい)兜(かぶと)の化粧板や胸板などの縁取り、弓を射る時に手を保護する手袋などの武具や馬具などに使われました。下地の白革とは、鹿の皮をなめしたものをいい、牛馬の皮より軽くて通気性があり、雨に濡れても重くならない特徴があるそうです。(※5)
 この句から、直ちに大谷で鹿狩りが行われたと結論付けることは早計ですが、八幡の菖蒲革は昭乗の念頭に十分あったことでしょう。そういえば、昭乗がこれらの句を作った元和元年(1615)をさかのぼる4年前の慶長16年(1611)に、正法寺の創建者、志水家の娘亀女が社務三家(田中家・善法寺家・新善法寺家)へ出した書状に、八幡の神領が検知免除されたことを喜ぶとともに、八幡宮山上山下惣衆より家康に菖蒲革10枚が贈られたことについて礼を述べています。その後、毎年正月に、八幡宮社士が将軍家へ年頭のあいさつに出向く際、菖蒲革を献上することが慣例化されたとのことです。(※6)

橋本 鵲(かささぎ)のはしもとふゞく身の毛哉
 
 鵲(カササギ)は、七夕説話にある織女星と牽牛星の仲立ちをする鳥です。旧暦7月7日の夜、天の川の両岸に現われる牽牛星と織女星が、カササギの翼を延べて橋とし、織女が橋を渡って相会うという中国の伝説が広く行われました。枚方市を流れる天の川にかかる府道13号線の橋の名が「かささぎ橋」であることをご存知の方も多いでしょう。
 f0300125_11431284.jpg橋本は遊郭がある地でした。したがって男女の仲を取り持つ鳥としてここに登場させたものでしょうか。但し、橋本の地名にひっかけて、くちばしの嘴(はし)のもとが寒風にふぶいていると洒落たもののようです。また、「身の毛」という語感からくるイメージとして、遊郭で散々あそんだ挙句、有り金すべてをむしり取られ、寒空の下に放り出された男の哀れな姿が想像できるというものです。
 遊女が厳しい身分制社会の犠牲者であるという認識は必要です。同時に、遊郭を否定的にばかりとらえることはないと思います。西鶴の遊郭噺に見られるように、日本の近世文学の象徴的存在でもあったのです。そういう文学の思潮の延長として谷崎の「芦刈」をとらえることができます。

鯉か池 ちる紅葉ぬれ色や猶こひか池
 
 散った落ち葉が池の水に濡れて色が濃くなったことと魚の鯉を掛けている句です。この「鯉ヶ池」について、『考古録』では「古者(いにしえは)程(ほど)ある池也」とし、「金(こがね)川橋へ其下流の注出(そそぎいで)たる由」としています。「程ある池」というのですからある程度広い池だったのでしょう。ちなみに、橋本は今でこそ住宅開発が進みましたが、かつては窪地が多く、橋本小学校の北側は15年前まで一面の水田が広がっていました。

おわりに

 以上、松花堂昭乗が八幡を詠んだ俳諧を紹介してきましたが、石清水八幡宮周辺には連歌や俳諧の文芸サロンが存在していたことがわかりました。(※7)このサロンが、元禄期、柏村直條(かしむらなおえだ)が中心になって編まれる「八幡八景」が誕生する母体になったことは明らかです。「八幡八景」は、朝廷との関わりが指摘されるものですが、その後、庶民の文芸が興ります。折句や前句付けなどゲーム的な俳諧がブームとなるのです。それら「雑排」と称される文芸サロンが存在し、例えば杉山谷不動に奉納された句集も存在しました。(※8) 「奉納八幡谷不動 京知石撰」と称するものがそれで、句の面白さもさることながら句作りに参加しているメンバーを見てみると、八幡荘内だけでなく、戸津や上津屋、伏見、藤坂などの住人が参加していることがわかります。或は、商人や庄屋クラスの農民だけでなく武士や僧侶など階層の枠を超えて俳諧に興じている姿が垣間見られるのかもしれません。豊蔵坊信海がうちこんだ狂歌をふくめ、それらの在り様を今後の私自身の研究テーマとしたいと考えています。

※1 『京都府の地名』(平凡社版)八幡市編、167頁
※2 『男山考古録』巻第12(石清水八幡宮史料叢書1)、422~423頁
※3 『石清水八幡宮調査報告書』(八幡市教育委員会編)所収「略年表」
※4 京都府立大学文化遺産叢書第4集
   『八幡地域の古文書・石造物・景観』所収
   「中世の石清水八幡宮における祠官「家」の成立」(刑部香奈)
※5 『八幡菖蒲革と石清水神人』(竹中友里代、花書院)
※6 『八幡市誌』第2巻、176~177頁
※7 本誌「八幡の歴史を探る」64号、
    拙稿「松花堂昭乗が詠んだ八幡の町」②
※8 『南山城の俳諧』(山城郷土資料館編)所収
   「庶民の俳諧-雑排の流行」、19~23頁


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by y-rekitan | 2015-10-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第67号より-04 狐渡口

旅人は何故片手を挙げているのか

野間口 秀國 (会員)


 9月27日に行われた “「歴史たんけん八幡」出版記念の集い” にお寄せいただきました多くのメッセージは、作成に携わった一人として嬉しい限りでありました。それらの言葉の中には祝いやお褒めのみならず、今後の活動への叱咤激励もあったように思います。歴探の会報66号(2015年9月28日発行)に掲載されました、“「狐渡口」の絵図(第10章3項、51頁に掲載の図番97)についての、「狐渡口に描かれた旅人は何故片手を挙げているのでしょうか」” との疑問もその一つと受け取り、ありがたく読ませていただきました。f0300125_2103794.jpg
 答えの一つは51頁に、「・・・旅人が岸をはなれた櫓こぎ船を見送っているよう・・・」と書かれてあります。しかしながら「更なる答え探しが求められているのであろう」、そう考えて答え探しを試みてみました。
 そのために最初に取り組んだことは、初稿を書く時に参考にさせてもらった、谷崎潤一郎によって書かれた『蘆刈』(*1)を改めて読んでみることでした。そこには、「(略)上流に狐の渡しといふ渡船場があった事を記して長さ百十間(*2)と書いているから(略)」とあり、初稿当時、狐の渡しのあった場所やその大きさの理解に役立ったことを思い起こしていました。
 次は、何と言っても描かれたその現場に身を置くことでした。狐の渡し跡は小泉川の河口にあったとされていますが、現地(*3)には別の目的でも一度ならず足を運んだこともあるとは言え、描かれてから長い年月が経っており、その名残は見つかりません。f0300125_218596.jpgそんな時には大山崎町教育委員会によって建てられた説明板は大きな手助けになってくれました。その場に立ち、前方の男山を見る時、百十間の長さや渡る風も体感でき、答えに近づけたような気がしました。 しかし、ここでは見つかりませんでした。
 次なる試みは、改めて描かれた絵を見ることでした。すると、そこには絵と共に文字が書かれていることに気づきました。そこで、ここに何が書かれているのかを考えてみました。書かれた内容が何なのかと、無い知恵を絞っていると、ふと『蘆刈』に書かれた文章を書き留めたメモに、「(略)長いこと想ひ出すをりもなかった耳ざわりのいい漢文のことばがおのずから朗々たるひびきを以て唇にのぼって来る。」とあることに気づきました。絵に書かれた漢字は七言絶句の漢詩であるとの思いに至り、即刻先輩会員のAさんに書かれた文章についてご教示いただきました。
 遥天中断一川浮 白水青空日夜流 
 風急扁帆追去鳥 何人千里向滄洲

ようてんちゅうだんして いっせんうかぶ 
はくすいせいくう にちやながる 
かぜきゅうにして へんほきょちょうをおふ 
なんぴとかせんり そうしゅうにむかう 
 『歴史たんけん八幡』に掲載された『淀川両岸一覧』の「狐渡口」絵図を改めて見ながら、先にあったものは、絵なのか、それとも漢詩なのかと考えながら前述の漢詩を何回も読み返してみました。ここで言う漢詩の「何人」は絵の中にある「旅人」であり、「去鳥」は左上に描かれた(渡り鳥のような・・)鳥なのだろう、などと。旅人が左手を挙げているのは、「飛んでゆく鳥を明るい光を避けながら眼で追っている動作」ではないでしょうか。旅人の目指す滄洲と鳥の向かう方向が同じ(なのだろう?)ことをこの絵と詩で表現しているのでしょうか。いただいた小さな疑問、「旅人は何故、片手を挙げているのでしょうか」に対する私なりの答えです。
 9月下旬に京都東山の将軍塚青龍殿へタカの渡りを観察に出かけました。その日は生憎の曇天で上昇気流も起きずに目的を達することはかないませんでしたが、私たちの頭上を滑るように飛翔するトンビを眺める人たちの動作は、旅人のそれと似ていたことがとても印象的でした。

(*1)『蘆刈』 谷崎潤一郎集(一) 現代日本文学大系30 筑摩書房
(*2)百十間: 1間を1.818mとして計算するとほぼ200m
(*3)大山崎町の桂川河川敷公園(小泉川河口付近)
by y-rekitan | 2015-10-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第67号より-05 本の刊行

シリーズ:『歴史たんけん八幡』の刊行に寄せて・・・⑧

『歴史たんけん八幡』の
出版記念の集いが開かれました!


 高田 昌史 (八幡の歴史を探究する会事務局) 

f0300125_193468.jpg 9月27(日)に松花堂庭園・美術館別館で行い42名が参加されました。八幡市の堀口市長、佐野副市長、横須賀市議会議長や石清水八幡宮の西禰宜も参加いただきました。安立副代表の司会進行で、第Ⅰ部“記念講演”及び第Ⅱ部“交流の集い”が行われました。
 監修者である鍛代敏雄氏(東北福祉大学教育学部教授)の記念講演「出版の意義について」でお話しされたことは、大変感銘しました。(先生の当日のレジュメから以下転記します)

              《出版の意義》
      ●市民による、市民のための「新八幡風土記」
        ◇本書は八幡市民にとっての羅針盤
      ●「歴史文化遺産」の再発見
        ◇八幡市民が認め合う歴史と文化、
          そして八幡の民俗・戦争や災害からの復興
        ◇たくましき先人たちへの敬意
      ●八幡の歴史を活かす教育、伝え遺す教育
        ◇未来を生きる子どもたちへの遺産

f0300125_19164526.jpg第Ⅱ部“交流の集い”はパーティ方式でおこなわれ、祝辞、謡「弓八幡」の後、参加者の皆さんからスピーチをいただき2時間半の集いは、盛況の内に終了しました。





新聞各紙で『歴史たんけん八幡』が掲載
 9月1日の八幡市への贈呈式の後、市役所の市政記者クラブで共同記者発表をしましたが、毎日、産経、京都の各新聞(地域版)には、比較的大きく紹介記事を掲載されました。
 また、月刊の京阪タイムリーや週刊の京都民報にも掲載されています。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 これまで探究する会にお世話いただいた方々から、『歴史たんけん八幡』の出版について有難いお言葉を頂戴しております。その何人かの方に同意を得て、お便りを掲載させていただくことにしました。以下に紹介します。

『歴史たんけん八幡』出版に思う

 大洞 真白 (会員) 

 『歴史たんけん八幡』出版の「夢」が本当になりました。
思い返せばあれは2年程前、八幡市教育委員会文化財保護課にいた私は、八幡の歴史を探究する会の当時事務局長でいらした土井三郎さんから、子どもたちのための八幡の歴史読本の構想を伺いました。非常に大事なことを伺っているとすぐわかり、きっと実現されると直感し、忘れっぽい私がそのときのことはよく覚えているのです。ただ、同時にそう簡単にいかないだろうことも想像できました。最も懸念されることのひとつは出版費用です。これを解消できる公的な補助事業がないものかと気にしておりました。
 そんなことで土井さんに、「本はどうなりましたか?」と伺うこともあり、それがよい(?)プレッシャーになった、と後で言っていただけました。
 私がこの素晴らしい出版事業にできたことといえばこれぐらいで、市民の皆様の力を結集され、夢を実現されたことは、大変な偉業であると思います。伊佐錠治さんが制作委員長を務めてくださったことも素晴らしく、非常に奥深い八幡の歴史を要領よく章節立てされ、図版がまた良い味を出しています。特に近代の歴史に丁寧に紙面を割かれた点が印象深く、八幡市が歩んできた道とその意味を改めて考えさせられました。
 執筆者に名を連ねていながら、執筆させていただいたのは、序章「鳥になって八幡をながめる」だけです。これは「1頁で八幡の地形の概説を書いて欲しい」という、無理難題に対しひねり出した苦肉の策で、冒頭にくることから親しみやすいものになるよう努めました。
 校正が返ってきたときは、土井さんの若干の修正により、オリジナルよりいいものになっていました。これが両者の信頼のなせる業で、本来なら執筆者に断りなく文章に手を入れることはタブーなのでしょうが、土井さんの熱意と果敢な努力と、その結果積み重ねてこられたことを拝見していて、よりよいものを造ろうとされる姿勢に、細かいことはどうでもよくなります。この出版事業では、制作委員の皆様で喧々諤々の議論が行われ大変なご苦労を重ねられたものと推察しますが、最後は皆様の「よいものを造ろう」との思いが、ことの成就につながったのでしょう。
 積み重ねられたお仕事でいつも驚かされたのは、「八幡の歴史を探究する会」会報の発行です。講義の内容をすばやくまとめられ、活字にして配布されるということを地道に継続されてきました。今回の本で、前述のように私は1頁しか書いていませんが、これまで何度か皆様の前でお話しさせていただいた内容が、第1章、第3章にでてきます。このことは、自分が研究し歴史ストーリーを組み立てお話ししてきたことが、皆様の手により育てられたさまを見ているようで、これまでの仕事の中でも最も嬉しいことでした。
 ただ同時に申し訳なく思うこともあります。第3章の2「門前町の形成」は平成21年の三大八幡宮シンポジウムでの発表後、八幡の歴史を探究する会での講演で肉付けしたものですが、八幡のまちの発展形態をどのように解釈するかについては既研究を踏まえた論文として発表しなければならない内容をもっているものであるにも関わらず、論文として世に出せていません。よって皆様がこれについて何が根拠でこんなことがいえるのか?と問われた時に困らせてしまうことになります。
 本を造って世に出すというのは、そうした責任を背負うことになります。『歴史たんけん八幡』は鍛代敏雄先生の監修であり、歴史的内容はごくしっかりしたものです。しかし、色んな立場の人が読む本です。伝承と歴史的事象が区別して書かれているのか、そこまで断定的に言い切れるのか、など、気になる箇所がなかったとは言えません。異なる立場の人にも、すべての人に納得いただけるものであってほしいと思います。
 こんな素晴らしい偉業を前に、苦言を申し上げたようで恐れ入りますが、この大きな成果で終わりでなく、鍛代先生がおっしゃったように、また「はじめの一歩」として研究を深めていただくための激励と捉えていただき、まだまだ深い八幡の歴史の世界を探検していただきたいと思います。

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『歴史たんけん八幡』発刊に寄せて

 中津川敬朗 (城南郷土史研究会代表)

 清秋の候となりました。その後もご健闘のことと存じます。夏には多くの方々で力を合わせてすばらしい一冊をおつくりになり、ご恵贈いただきありがとうございました。すっかりごぶさたにしてしまい、大変失礼しました。何よりも、眺めて読んで具体的にわかる、大人にも子供にも楽しく地域を発見できる貴重な一冊をおつくりになったことに心からの敬意をささげます。地域で育つ子ども達への贈り物としても、歴史学と歴史教育を統一してとらえることにも思い至りました。
 私どもの研究会(城南郷土史研究会)の目標“地域から学んだことは地域に返さなければならない”も受け取ってくださって感謝を申しあげます。この目標は、「高麗寺守り」だった父の体験と会発足のきっかけとなった「国民的歴史学運動」の教訓が重なって生まれたものでした。大事にしていきたいと考えています。「探究する会」の益々のご発展をお祈りします。ありがとうございました。

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いままでにないレイアウトで
歴史と文化を浮かびあがらせた!


 古川 章 (洛南艸舎主宰)

 やっと涼しくなりました。いつもお世話様です。このたび、『歴史たんけん八幡』を私方までご恵贈賜りありがたく厚くお礼申しあげます。
まず、綿密にみなさんでご協議され編さんされました内容がよくわかります。
子どもから大人まで、とくに若い人には興味の少ない歴史の中身をわかりやすく表現されていると思いました。
「です」「います」「ました」調の表現がよかったこと
「なるほど」というコラムが新鮮で、「なるほど」という表現、アイデアがよかった。
写真や絵図が美しかったこと。
紙質がよいこと。
他の市町村のいままでにないレイアウトで歴史と文化を浮かび上げられた。 
・・・・・・・・・などなど

 今後の郷土史本の編さんに考えさせられました。ありがとうございました。とりあえずお礼申し上げます。


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by y-rekitan | 2015-10-28 08:00 | Comments(0)

◆会報第67号より-06 八幡の道①

シリーズ「八幡の道」・・・①

八幡の道を「東高野街道」となぜ呼ぶのか?
―その1―
 谷村 勉 (会員) 


京阪八幡市駅前

 京阪八幡市駅前には軽いリュックを背負ったグループをよく見かけます。会社をリタイアした人達がウォーキングを兼ねて八幡の名所旧跡を歩いて楽しんでいるように見えます。いつも世話役らしき人が事前に調べた市内各所の案内図や寺院、旧跡の来歴などを書いた資料を配布されている姿を見かけます。かつての仲間や知り合いが参加した折には、時々後日談を聞きますが、残念なことに、相変わらず駅前開発の遅れや食事や喫茶場所の少なさを指摘されます。
 約40年近く前、当時の郷土史会の方々や近所の古老から八幡の色んな話を聞きながら、おぼろげに理解していた八幡の歴史を、定年後、改めて大変興味を持つようになりました。平成27年(2015)10月16日(金)に石清水八幡宮の国宝昇格が答申されたニュースを聞き、これまで発信力が弱いと常々言われて来た八幡が、これを機会に、八幡の住民目線で地元の歴史や文化の驚くべき奥深さを発信し、誰にでも歴史を感じられる町に出来れば、という思いから、八幡住民や観光客に向け、今回、八幡の東高野街道について報告します。

東高野街道は「洞ヶ峠が起点であり、終点である」

 今でも八幡の地元住民は「洞ヶ峠」が東高野街道の起点であり、終点であると理解している人が多いように思います。私が聞いた範囲でも洞ヶ峠とする人が多く、以前、旧吉井バス停(八幡南部洞ヶ峠付近)の八幡安居塚T字路角にあった「円福寺の道標」が目印となっていました。f0300125_8341358.jpg次に「志水の離れ」でしょう、という古老達がいました。これは月夜田交差点(現松花堂庭園)にある三宅碑「岡の稲荷社」の道標を指していると思います。昭和二年に建立したこの三宅安兵衛碑には文学博士西田直二郎氏によって「右 高野街道」、「従是 高野山至ㇽ」と書かれています。
 かの歌人「吉井勇」が終戦後の3年余りを近くの「宝青庵」に過ごし、「月を見てかなしげに鳴く犬のほか夜の高野みちゆく人もなし」とここを高野道として読んでいます。しかし、これより北側、京阪八幡市駅に向かって高野街道と称する道標はかつて一つも存在しませんでした。もちろん八幡に生まれてこの年になるまで東高野街道などと聞いたこともない、という人もいました。

なぜ「洞ヶ峠」と認識しているか

 石清水八幡宮が貞観元年(859)僧行教によって宇佐八幡宮(大分県)より勧請されて以来、八幡の道は八幡宮への参詣道として発展し、大いに賑わってきた歴史があります。そこで「洞ヶ峠だ」と認識する記録を調べました。
嘉永元年(1848)江戸時代の八幡地誌「男山考古録」が長濱尚次(石清水八幡宮宮大工)によって脱稿されました。江戸時代の八幡の様子を知るうえで、無くてはならない書物です。

「男山考古録」に高野街道の記述を見ると、(高野道の項目はなし)
・「安居塚」の項に、万称寺より五町許南、高野道という道の・・・とあります。  
万称寺とは現在の「松花堂庭園」近く月夜田交差点の西南方向にあった寺。
五町許とは凡そ545m、洞ヶ峠付近の「円福寺の道標」辺りを指します。
・「洞ヶ峠」の項に、志水町より南半里許、里俗の高野道と云所・・この所
  山城・河内国界也、・・とあります。  
志水町とは現在の「走上り」の坂道から南、旧新善法寺周辺から、正法寺の前を走る志水大道と呼ばれる一帯を指します。 南半里許とは凡そ南へ2km弱の距離で、「円福寺の道標」辺りを指します。
里俗の高野道とは俗称として高野道と称していたとの意味です。
f0300125_810632.jpg「円福寺の道標」は現在八幡市の文化財保護課の敷地内に横たわっています。
   
「河内名所図会」享和元年(1801)刊
・「城州洞ヶ峠より、河州紀伊見峠へ十五里三町」とあり高野街道の行程を示し、洞ヶ峠を起点としている。

「やわたの道しるべ」八幡市郷土史会発行 昭和57年(1982)
・月夜田交差点(松花堂庭園)にある「岡の稲荷社」の三宅碑の解説に「八幡宮門前の人家ようやく離れ、・・・洞ヶ峠まで十五丁、河内を縦断する東高野街道の起点である」とあります。

東高野街道は枚方市から交野、倉治、津田などを経て、八幡から京街道に繋がっているが、近世に八幡の道を「東高野街道」とする資料は見当りません。

最近「東高野街道」と記された道標が八幡に出現した

 八幡における高野道とは洞ヶ峠付近や志水道のはずれと八幡の住民の殆どが認識していたと思っていましたが、数年前でしたか志水道や常盤道、八幡宮道などと、はるか江戸時代以前より、古くから親しまれてきた八幡宮の参詣道に「東高野街道」と記された道標が10基ほども建立されていることをご存知でしょうかf0300125_16595333.jpg。時に松花堂や樟葉方面に自転車で出かけては時々この道標を見ていましたが、つい最近になって駅前のスーパーの横や石清水八幡宮一の鳥居の前に堂々と建立された「東高野街道」と記された道標が建立されていたのには仰天し、驚きました。
 なぜ、仰天したかを説明しなければなりません。
 江戸時代、八幡から京都方面に出る道には北に向かって二本の道がありました。
 その一本が八幡宮一の鳥居から真っすぐ北に向かって御幸橋を目指す「御幸道(みゆきみち)」でした。もう一つの道はこの「御幸道」から大谷川(放生川)を挟んで東側に位置する「常盤道」と呼ばれた道です。この「常盤道」こそ日常の本道、幹線道路であり、八幡の南北を貫く道路として殆どの人々が利用しました。江戸時代の地図には「常盤道」のみを記した地図も多いようです。「御幸道」は天皇や勅使、大名等が利用し、どちらかと言えば日常的にはあまり使用されなかった道だったと聞いています。しかしそれでも大変由緒ある立派な道であったのです。

「御幸道」の歴史的記述として先述の「男山考古録」から紹介します。
 「御幸道」の項に、一の鳥居を北へ壱条の道路ありて、・・・北堤に近く正徳三年(1713)癸巳六月十七日、「石清水八幡宮鳥居通御幸道」という標碑を建てられたるは、検校新善法寺行清法印なり、・・・とあります。
今もこの標碑は存在しますが、現在新御幸橋等の建設につき、今は取り外して保管されています。

「京都府の地名」(昭和56年(1981)平凡社発行)にも「男山考古録」から引用し、
「石清水八幡宮鳥居通御幸道」という標碑が淀川提近くに建立された。と記載されています。
 八幡宮の表参道ともいうべき「御幸道」の、一の鳥居前に「東高野街道」と称する道標が建つとはだれも考えなかったのではないでしょうか。それでは「御幸道」の歴史的名称はどうするのか、歴史から消そうとするのでしょうか。今、各地方でその地に伝わる歴史的な事象を血眼になって探しあて、地域を盛り上げる材料としていますが、八幡はあまりに歴史が深く多く有りすぎて、かえって大事なものを、遂には消してしまうのではないかと心配します。

明治元年の木津川付け替え大工事

 明治元年から明治3年にかけて木津川付け替えの大工事が実施され、それまでは淀城の近くで桂川、宇治川、木津川の三川が合流していましたが、この付け替え大工事によって、八幡の北部が大きく削られました。古図を見れば、それ以前は今の淀城の近くまで八幡の範囲であったことが解ります。
  この工事によって八幡から北の方面に通じる幹線道路であった「常盤道」が現在の木津川によって分断されて、今は買屋橋から山柴交差点を北に、飛行神社の前を通り、京阪電車の高架下を抜けて西にカーブし御幸橋の南詰に通じる道になって、そこで「御幸道」と合流してしまいました。

 かつて石清水八幡宮の神域であった八幡の道に他の宗教施設を連想するような名称がつけられることはありませんでしたが、駅を降りて東高野街道の道標を見れば、八幡は高野山信仰によって支えられてきたような印象を与えないでしょうか。実際は八幡信仰によって人々が八幡宮に参詣し、八幡の町が繁栄してきたはずと思いますが。八幡に入り、石清水八幡宮を目指すには「八幡宮道」の道標によって案内されたものでありました。今でもはっきりその痕跡が残っています。八幡独自の歴史、文化の形成を考えた時、その歴史、文化の特異性はむしろ誇りになると思います。郷土愛もそこから育つものと考えますが!

 市役所に「東高野街道道標」の事を尋ねましたところ、要領を得ませんでした。しかしどうも平成4,5年頃でしたか、大阪から発信された歴史街道運動に関わりがあるとのことでした。
 次回は改めて「八幡の道標」に関連した報告をいたします。
(つづく)


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by y-rekitan | 2015-10-28 07:00 | Comments(0)

◆会報第67号より-07 八幡の道探究部会

「八幡の道 探究部会」が発足しました

高田 昌史 (会員)


 f0300125_20352818.jpg八幡の歴史を探究する会に初めて発足した本部会は、参加者7人で立ち上げました。第1回の会合は10月16日に開催し、現時点での情報交換及びこれからの部会の進め方について協議をしました。その概要は以下の通りです。
古代から現代までの八幡の道に関する年表を作成し、時代ごとの道について調査をして行き現在につなげる。
本年度は主に関連資料や古地図等の資料調査をしてから、現地調査/確認をする。(現地調査は次年度から本格的に実施する。)
部会の幹事は部会長のみとして、当面は髙田が担当する。
部会は原則として月1回開催とする。次回の11月の部会では、「原始~古代(~奈良・平安時代)の道」に関する情報を持ち寄る。

 会員の皆様から、八幡の道に関する情報提供をお待ちしています。また、この部会の入会/脱会はいつでも自由ですので気軽に参加下さい。なお、次回(11月度)の部会は以下の通りです。
  ◇ 日時  11月13日(金)13時半~
  ◇ 会場  八幡市民協働活動センター

◆部会に関する問合せは、下記宛てにお願いします。
髙田 昌史  携帯tel:090-2011-7503
メールアドレス:takata@cd6.so-net.ne.jp

by y-rekitan | 2015-10-28 06:00 | Comments(0)

◆会報第67号より-08 国宝指定

石清水八幡宮が国宝指定に!

八幡の歴史を探究する会 事務局 


 国の文化審議会は、10月16日、石清水八幡宮の本殿と楼門、回廊など10棟の社殿群を国宝に指定するよう答申しました。新聞報道によれば、調査に携わってきた永井規男関西大学名誉教授の談として「本社は平安王朝が造り上げた神社建築の形式を伝え、十数棟からなる例を見ない緊密に構成された優れた複合建築体だ。f0300125_18322839.jpg徳川家光の公儀普請だが、織田信長や豊臣秀吉・秀頼など、時々の武家棟梁による仕事が残され、近世初期の最上級の工芸、技術が用いられている」と評価されるとのことです。(京都新聞2015・10・17)  
 そこで、探究する会事務局は、八幡市の建造物に限って国指定の重要文化財に指定されているものを調べてみました。以下に紹介します。今回国宝に指定するよう答申された石清水八幡宮本殿など10棟は除きます。
f0300125_191862.jpg
 文化財には、他に国指定史跡、京都府指定文化財、京都府登録文化財、京都府登録無形民俗文化財、京都府文化財環境保全地区、京都府歴史的自然環境保全地域、八幡市指定文化財の区分があり、また、有形文化財は建造物のほか、史跡・絵画・彫刻・工芸品・書籍典籍・古文書・名勝などの種別があります。
by y-rekitan | 2015-10-28 05:00 | Comments(0)

◆会報第67号より-end

この号の記事は終りです。


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by y-rekitan | 2015-10-28 01:00 | Comments(0)