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◆シリーズ:“わが心の風景” (41)◆
◆《講演会》継体大王の謎を追う◆
◆シリーズ:“八幡の道を「高野街道」となぜ呼ぶのか?” ②◆
◆シリーズ:“松花堂昭乗が詠んだ八幡の町” (余話)◆
◆シリーズ:“『歴史たんけん八幡』の刊行によせて”⑨◆


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by y-rekitan | 2015-11-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第68号より-01 道標

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わが心の風景・・・(41)
三宅安兵衛の道標



f0300125_9574326.jpg 街を歴史散策するとき、今も昔も変わらない強い味方が「道標」です。
 八幡市内には、多くの「道標」が見られます。碑裏を見ると、そのほとんどが「京都三宅安兵衛依遺志建之」と刻まれています。
 この三宅安兵衛氏は、天保13年 (1842)若狭小浜で生れ、京都で帯織物業を営み、財を築きました。79歳で亡くなる前年、長男清治郎氏を呼び、1万円(現価値にして5,000万円)を渡して「公利公益に使え。用途は一任する」と遺言したと伝えられています。
 清治郎氏は、父が旅好きであったことから旧蹟案内と道標の建碑を決め、大正12年(1913)から8年間にわたって、南山城一帯を中心に、京都帝国大学考古学講座担当教授、浜田青陵博士の協力を得、400基に及ぶ建碑を実行しました。費用の総額は2万円(同、約1億円)に達したといいます。
 八幡市内に建てられた三宅氏の道標は70基近く、旧蹟碑を含めると120余基にも及び、これには八幡の郷土史家西村芳次郎氏の協力がありました。 
(絵と文: 小山嘉巳)空白
       

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by y-rekitan | 2015-11-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第68号より-02 継体大王

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《会員研究発表》
継体大王の謎を追う
―6世紀前半の日本と朝鮮半島―

2015年11月  松花堂美術館講習室にて
濱田博道、濱田英子  (会員)

 11月18日(水)、松花堂美術館講習室で会員研究発表が行われました。講師は、濱田博道さん、英子さんご夫婦です。
 博道さんは中学校の数学の先生、英子さんは小学校の先生でした。退職後ご夫婦で歴史、特に古代史、古墳に興味を持たれ、全国各地の古墳を訪ね歩かれ、今回の岐阜県本巣市根尾の「継体天皇お手植えの薄墨桜」を見て感激されたとのことです。当日上映したパワーポイントの映像にその写真を掲載して頂きました。
 以下、報告の概要を記します。参加者42名。

(1)継体大王の謎を探る
濱田英子

継体大王の出自

 “継体”は奈良時代の漢風諡号(しごう)で、生前は“オホド大王”と呼ばれていました。ここで、継体天皇と書かないのは、天皇の称号が成立したのが天武朝の頃とされ、継体の時代には天皇の称号が生まれていなかったからです。古代史の研究者は、継体大王(だいおう)と呼ぶことが多いのでそれに倣います。
 小火床(オホド)=鍛冶集団に関わる豪族との説がありますが、『日本書紀』によると、応神天皇の五世孫で、近江の高島で生まれ、越前・三国で成長活躍したとのことです。第25代の武烈天皇に子がなく、大王家が断絶したため、大伴金村らが擁立・即位させました。507年のことで、新王朝との見方がされることがあります。皇統を継ぐ天皇との認識が継体の名となったのではないかというものです。なお、『古事記』では、近江より招いて即位させたことになっています。いずれにせよ、出自の謎といえるものです。また、応神の倭名である“ホムタワケ”と“ホムツワケ”の論点もあります。
 『古事記』、『日本書紀』ともに、日本海に近い豪族から選ばれていることから、当時の朝廷が、東アジア情勢に詳しい人、外交知識を有している人を求めたのではないかとの説があります。

四宮の謎

 『日本書紀』によると、以下の記述が見られます。
 継体は507年57歳で樟葉宮にて即位し、4年後の511年、筒城宮に遷都し、7年後の518年、弟国宮に遷り、大和に入ったのは即位20年目の526年でした。地方豪族出身の継体がヤマト王権を掌握することに対して強力な反対勢力がいたのでしょうか。また、継体の力の源である淀川水運の経営にあたるため、あえて、三川合流地の都に留まったのでしょうか。
 f0300125_1034056.jpg樟葉は、継体に助言をした河内馬飼首の渡来系集団の地域でした。また、いずれの宮も巨椋池(いけ)の傍にあります。巨椋池(おぐらいけ)は大型船舶の碇泊が可能で、水運の中心でした。ここまで大型舟が来たのです。三川合流の地点・男山丘稜から淀川を見下ろす継体天皇の絵が『くずは物語』(楠葉地域学習教材制作委員会編)にあります。とても興味深い絵です。
 木津川は南山背(やましろ)・伊賀・三重・尾張と東国や太平洋に繋がり、宇治川は巨椋池(おぐらいけ)・琵琶湖(水運の要地)・若狭や北陸、日本海・朝鮮半島へ繋がります。桂川は丹波・丹後・山陰から日本海・朝鮮半島へ繋がり、下ると淀川から難波津・瀬戸内海・九州・朝鮮半島へと繋がっています。継体は、国際都市が大河の傍に有ることを知っていたのではないでしょうか。

支援勢力 その1

 継体大王が応神5世の孫かどうかはっきりしませんが、即位前は地方の豪族であったのに、ヤマト王権を掌握できたのは強力な支援勢力がいたからだと考えられます。
 支援勢力として妃の出身地の豪族が考えられます。そのことで、同盟関係がわかるのです。日本書紀で9人、古事記で7人の妃がいたことになっています。9人説でみると、地方豪族出身6人、畿内から2人、皇統から1人。妃の出身地としての越前では、朝鮮との交流が考えられ、美濃、尾張(断夫山古墳・円筒埴輪)を押さえることで東国と結びつくことが考えられます。また、近江や若狭の息長・三尾・坂田の豪族との結びつきや、河内の茨田氏(淀川水系)との関係も指摘されます。
 3つの宮のうち、樟葉宮は河内の馬飼集団の勢力下にあり、筒城宮は百済系・高麗系が多く住んだ地です。そして、弟国宮は渡来人の最大の豪族である秦氏の拠点の地です。その他、生誕の地の近江高島、成長・活躍の地である越前は渡来文化伝播の地です。このように、継体大王は多様で、強力な渡来集団のネットワークを持っていたと考えられます。

支援勢力 その2 と反対勢力

 支援勢力としての大和の豪族には三氏が考えられます。蘇我氏と和邇(わに)氏と大伴氏です。
 蘇我氏では、蘇我稲目の時、突然台頭して継体大王の大和入りに際し、継体の息子である安閑・宣化大王に宮地を提供しました。そして宣化大王により大臣に任じられています。また、二人の娘をやはり継体の子である欽明大王の妃としました。
 和邇氏は大和の伝統的な豪族で8代の大王に妃を入れています。大和盆地の北東部(天理市)が拠点ですが、山背の南北から琵琶湖へ勢力を拡大し、継体一族と繋がりができたと考えられます。筒城宮がある南山城は和邇氏の勢力下の地です。
 大伴氏の場合はどうでしょうか。大王の群臣には臣(おみ)グループと連(むらじ)グループがあり、大伴氏は、連グループのトップであり、5世紀後半から大きな権力を持ってきました。即位の地である樟葉宮は馬飼集団の勢力下の地ですが、大伴氏は河内に勢力の基盤があり、大伴氏の勢力の地であるともいえます。
 反対勢力を見てみましょう。継体には強力な支援勢力がいたと考えられますが、それでも大和入りに20年もかかったのは、さらに強力な反対勢力がいたからだと考えられます。但し、この研究についてはまだ定説がないようで、あえて大和に入らなかったと考える研究者も多くいます。
 反対勢力を以下に列挙します。
〇 25代武烈大王はまだ亡くなっておらず反対した。
〇 大連(おおむらじ)の物部氏が反対した(途中から支持にまわる)
〇 葛城氏や中臣氏が反対した。
〇 葛城・中臣氏だけでなく中央豪族が連合して反対した。

継体大王の死の謎と王陵

 継体は、九州で起きた磐井の乱(527年)平定後に亡くなったといわれますが、527年、531年、534年死亡説があります。「王・太子・皇子」3人が同時に殺されたのではともいわれています。
 王陵は最近まで太田茶臼山(おおたちゃうすやま)古墳(茨木市)と今城塚(いましろづか)古墳(高槻市)があり、謎とされてきました。太田茶臼山古墳は、宮内庁が継体大王の陵墓と指定していました。しかし、学者間では、古墳周辺の埴輪の編年分析から、5世紀半ばの築造と判断されました。また、摂津国嶋下郡にあたり、延喜式の記述とも一致していません。
 今城塚古墳は、かつて少数の研究者が真の陵墓と指摘していましたが、江戸・明治期は古墳が荒れていたこともあって、王陵候補から外されていました。そのため却って徹底した発掘調査・研究が進み、その結果、6世紀前半の築造であることが判明されました。摂津国三島藍野・島上郡にあり、6世紀前半最大の古墳(全長190m)です。三段築成、二重周濠、葺石(ふきいし)の存在、多数の埴輪を持っているなど王陵の資格をすべて持っています。また、3つの家型石棺の破片がみつかりました。それは、阿蘇のピンク石、兵庫・竜山の黒石、奈良二条山の白石です。そして、大王墓としてはじめての渡来系の石室である横穴式石室であり、外堤に壮大な形象埴輪列を持ち、円筒埴輪にランドマークのように船の文様が刻み込まれています。
 以上のことから、今城塚古墳が真の御陵とほぼ確定しました。日本で唯一の王陵研究ができた古墳といえます。しかし、宮内庁は指定を変えていません。その太田茶臼山古墳は、埴輪の分析などから継体一族の墓と考えられています。つまり、継体一族は、今城塚古墳築造以前から三島地方に勢力を持っていたと考えられるのです。

山背の大王、淀川の大王

 継体大王は、在位25年の内、2つの山背の宮(筒城宮・弟国宮)で15年間を過ごしました。その意味では山背の大王といえます。山背は三川合流の地で、後には千年の都、平安京が置かれました。継体の先見性といえるかもしれません。山背の支援勢力が残した古墳や遺跡に、八幡市の荒坂五号墳、新田遺跡、内里八丁遺跡があります。
 また、淀川の大王という見方もできます。即位の宮が樟葉宮で、大王陵が今城塚古墳です。その今城塚古墳の後円部の円筒埴輪に2本のマストの舟のマークが刻まれています。これも淀川水運との関係なしには考えられません。

継体王朝は新王朝か

 継体王朝を考える上で、一番重要なテーマかもしれません。継体王朝がそれまでの王権と違う政策があるのかを検討していくことが重要でしょう。
 新王朝といえるという説には、①地方豪族を基盤としていること、②古墳築造の動向が新しくなった、③今までの王陵の地ではなく、淀川流域で即位し、王陵もそこに築いた、というものがあります。反対に、新王朝でない説には、①大伴金村など前王の重臣を採用している、②最後は大和で治世を行った、③外交相手が百済中心でそれまでのヤマト王権と変わらない、という説があります。


(2)継体大王と朝鮮半島
濱田博道

はじめに

 『日本書紀』をひも解いてみると、継体紀の半分以上は国内でなく、朝鮮半島の記述で占められています。なぜか。そこには、東アジアや朝鮮半島と切っても切れない日本(倭)の存在があったし、緊張した情勢があったからです。特に、百済は475年、高句麗の侵攻を受け、王は殺され、都の漢城は陥落し、存亡の危機に陥りました。日本(倭)は、百済と同盟関係を結んでおり、支援に向かいます。
 しかし、その過程で、弥生時代からの通交のあった朝鮮半島南部の加那諸国は百済・新羅双方から侵攻され、衰退してゆくのです。そのさなか、新羅とよしみを通じていた筑紫の国造、磐井の乱がおこります。日本(倭)の受けた打撃は大きいものがありましたが、百済との通交で先進的な文物・文化の摂取に努め、倭は体制を固め、古代律令国家形成へと向かいます。継体期はその激動の渦中であったといえます。

5、6世紀の朝鮮半島

 朝鮮半島は、北に高句麗、西に百済、東に新羅、南に加耶諸国がありました。百済は475年高句麗の侵攻を受け、王は殺され、都・漢城は陥落し、熊津に都を遷します。百済は領土拡大を目指し南下。馬韓や加耶諸国に圧力をかけます。「日本書紀」には、任那4県を百済に割譲との記載がありますが、そのことを指しているものでしょう。また、新羅も領土拡大のため百済・加耶諸国に圧力を掛けました。加耶滅亡の危機に際し、日本は加耶諸国の支援を始めましたが、その渦中に、新羅とよしみのあった磐井の乱が起こったのです。北九州とヤマトとの戦いになりましたが、北九州は大きな勢力で出雲・伯耆にも繋がりがありました。九州の独立とヤマトによる統一への戦いでしたが、1年半でヤマトの勝利に終わりました。

百済の武寧王と武寧王陵

 南下した百済では2、3代続いた王も殺され、新しい王である25代の武寧(ぶねい)王が内乱を鎮め平定しました。武寧王は継体大王と同時期の百済王で、王陵は1971年、公州、宋山里古墳群で発見され、墓誌が出土し確定しました。棺は日本産の高野槇で作られていて、金箔の枕・足座・宝冠・銅鏡など出土品が多数出ました。環頭大刀・鏡など日本との繋がりを見ることができます。
 武寧王は、日本の筑紫・加唐島で生まれシマ(嶋君・斯麻)王と呼ばれました。北九州との関連性はこの事実でもわかります。
 1983年、朝鮮半島に前方後円墳があるとの主張が起こりました。韓国・嶺南大学の教授が主張したものです。韓国・栄山江流域に前方後円墳が14基あり、いずれも6世紀前半の築造で、継体大王の時代のものです。百済の武寧王時期と重なるもので、突如として現れ、突然消えていきました。被葬者を巡って論争がありますが、これまでのところ、①馬韓在地首長説、②派遣・移住倭人説、③百済官僚説と諸説があるようです。

隅田八幡人物画像鏡について

 隅田八幡(すだはちまん)人物画像鏡は、青銅鏡で国宝に指定されています。江戸時代に現在の橋本市妻で発見されました。503年の銘文があります。以下に紹介します。
「癸未(きび)年(503年)八月、日十(おし)大王の年、孚弟(ふと)王(継体)意紫沙加(おしさか 押坂)の宮に在(いま)す時、斯麻(しま)(武寧王)、長く奉(つか)えんと念(おも)い、開中費(かわちの)直(あたい)・穢人(わいじん)の今州(こんつ)利(り)、二人の尊(たかきひと)(重臣)を遣わして白(もう)す所なり。同(銅)二百旱(かん)を上(すす)め此の竟(かがみ 鏡)を作る所なり」(福永伸哉、山尾幸久氏らの解読から)
 
 「斯麻(武寧王)が孚弟王(継体)に長く奉えんと念い」とあり、継体と武寧王の繋がりが見えます。また、出土された場所は和歌山県橋本市で紀の川沿いにあり、多くの倉庫群や近くの古墳から阿蘇凝灰石の石棺や馬の兜(かぶと)(韓国加耶地方からのものと同種)が出土している。そこは、紀氏の領域であり、紀氏関連氏族を通じての朝鮮半島との繋がりも見えてきます。

韓国の前方後円墳

 f0300125_11343493.jpg韓国、栄山江流域の前方後円墳は、5世紀末~6世紀半ばにかけて築造されたもので、そのほとんどが継体天皇の時代(百済王でいえば武寧の時代)のものであることがわかってきました。古墳の大きさは全長70mを超えるものがあり、円墳の百済王武寧王の墓(径20m)よりもはるかに大きいものです。また、そのような前方後円墳は朝鮮の歴史を通じて、この時期に突如として現われ、突然消えてゆくということもわかってきました。なぜでしょうか。そして、「日本独特のもの」といわれた前方後円墳はなぜ朝鮮半島において築造されたのでしょうか。そもそも誰の墓なのでしょうか。
 継体大王の時期の遺跡を山城地域で考えてみると、近年の発掘で、精華町の森垣外遺跡から朝鮮半島独特の大壁建物跡や馬の骨、鉄さいなどがみつかり、当時、渡来人の集落があったことがわかりました。一方、韓国の古墳発掘は現在も続いています。一昨年は、「14基目の前方後円墳か?」のニュースが報道されたし、昨年の暮れには咸平(ハンピョン)郡、長鼓山(チャンコサン)古墳東方の方台形古墳から「馬や鶏形の形象埴輪が見つかった」という新聞記事が各社から発表されました。今まで、円筒埴輪は発掘されていましたが、形象埴輪がみつかったことは初めてのことです。被葬者論にまた新たな一石が投じられました。このように、栄山江流域では、毎年のように新しい発見が報告され、ホットな論争が続いています。

 博道さん、英子さんは、先生をなさっておられ、明瞭な言葉使いと優しくわかりやすい講演でした。受講した人を代表して御礼を申し上げます。     〈文責=村山勉〉


「一口感想」 より

やわた便りを偶然見ての参加です。八幡の歴史を探究する会の活動は全く存じませんでしたが、大学時代に、「継体大王の支持勢力に関する一考察」というテーマで卒論を書いた者で、興味をもって聴講させていただきました。朝鮮半島の前方後円墳については知らないことも多かったのでたいへん勉強になりました。ありがとうございました。 (N)
大変深く研究されていて、聴きごたえのある例会でした。ありがとうございました。 (F)
先日、茶臼山古墳と今城塚古墳を観てきたので、興味深く聞きました。短い時間で沢山の内容、ありがとうございました。
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よく研究なさっています。大変勉強になりました。今後の新しい研究の進展を期待しています。 (栗山功)
継体大王と淀川水系とのかかわりや大王の先見性がよく理解できて、継体大王と朝鮮半島とのつながりが大変興味深く、またわかりやすい説明でよく理解できました。ありがとうございました。 (N)
30年程前に、朝日新聞に「朝鮮半島にも前方後円墳」と云う見出しを見たとき、胸が高鳴った。今日のお話で百済の武寧王の時代のみのものであり、それも継体大王と同時期の人とか。(武寧の)親子なのか?兄弟なのか?同一人物なのか?ナゾがますます深まった。古代を調べるのは大変難しいかもしれないが、両国は利権や政治に関係なしに研究を深めてほしい。 (M) 

 
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by y-rekitan | 2015-11-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第68号より-03 八幡の道②

シリーズ「八幡の道」・・・②

八幡の道を「東高野街道」となぜ呼ぶのか?
―その2―
 谷村 勉 (会員) 


八幡に越してきた人からの質問

「東高野街道」の道標を何度か見ていましたが、昔から「東高野街道」と呼んでいたのではなかったのですか。
あの「道標」は最近できたもので、決して昔から在ったものではありません。
なぜ「東高野街道」などと和歌山を連想するような名前が付くのでしょうか?
八幡の事をよく知ってか知らずか、軽く思い付きで言ったものが結果的に「道標」にまでなってしまったのではないでしょうか。
八幡の道なのになぜ昔からの地元の名称を付けないんでしょうか?
地元の調査や検証をせず、八幡の歴史を知らない学者の論文を鵜呑みにした結果では!
それでは八幡に越してきた住民や観光に訪れた人は「東高野街道」という古道が大昔から存在したと勘違いするかも知れませんね!
多分勘違いしてしまいます。石清水八幡宮創建以来の八幡宮参詣の古道はありますが、「東高野街道」と名の付く古道は八幡の町に存在しませんでした。
では事実はどうなのでしょうか?

八幡の道には「八幡宮道」の
           歴史的呼称がある

 神亀二年(725)楠葉の久修園院が建立されると同時に、山崎と橋本の間に山崎橋が架けられました(行基年譜)
 山崎橋は古代の山陽道やその後の南海道を結ぶ重要な橋になります。平安時代に入り山崎橋から橋本を抜けて楠葉中ノ芝から交野山(枚方市交野)を結ぶ線上に高野道があったようです『神 英雄(文化燦々第一号)石清水崇敬会』楠葉野田の大師堂や僅かに残る畦道にその面影が残っています。
 貞観元年(859)に石清水八幡宮が勧請されて以来、八幡の道は八幡宮参詣道として徐々に周辺道路が整備されたと思われますが、その道は近世に建立された道標によって「八幡宮道」と呼称され、参詣者の目印とされてきたことが解ります。現在も「八幡宮道」の道標は以下の六基が現存します。(その内1基は三宅安兵衛碑です)
1.橋本中ノ町の道標「左リ 八まん宮道」(明和四年丁亥二月・1767)
2.橋本北ノ町の道標「右 八まん宮山道」(文政二己卯年二月吉日・1819)
3.八幡神原の道標「八幡宮道」(昭和二年十月・1927 三宅安兵衛碑)
4.伏見区淀際目町の道標「右 八まん宮ミち」(宝暦三癸酉歳四月・1753)
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5.楠葉野田一丁目の道標「左 八まん宮道」(文久二壬戌年四月再建・1862)
6.頓宮西の石材置場(巨大五輪塔の向かい)にf0300125_1621962.jpg横たわる道標「左 八幡宮道」とあり、凡そ2.8mの大きな道標で、後ろ側に「是より北荷馬口附の者来へからず」と彫られていますが、測面の建立年月日は残念ながら見ることができません。元は平谷町付近にあったとも考えられますが、定かではありません。

 京都市内に「是より洛中碑」とよばれる石碑が10本余り現存し、「是より洛中荷馬口付のもの乗へからず」と彫られています。馬に乗って洛中に入ってはならない、という意味ですが、八幡の「是より八幡宮碑」とでも言いましょうか、洛中碑とよく似た道標です。
 八幡の町には近世の「八幡宮道」の道標は残っていますが、「高野道」の道標は殆どないと言っても過言ではありません。八幡菖蒲池にある「市立八幡図書館」1階ロビーに江戸時代中期の大型絵図「八幡山上山下惣絵図」が掲示されています。大変面白いので一度ご一瞥下さい。惣絵図の左、洞ヶ峠付近に「高野道」と記され、河内名所図会(享和元年・1801刊)や「男山考古録」(嘉永元年・1848)に記された通り、洞ヶ峠が八幡の高野道の起点であることが解ります。
 八幡宮三の鳥居の神馬舎近くに「かうやみち」の石碑があります。これは志水道を抜けて洞ヶ峠の高野道に誘導する唯一の道標と考えられますが、建立年月が彫られていません。 

八幡は石清水八幡宮を中心とする宗教都市

 石清水八幡宮は神仏混淆の神社として歴史を重ねてきました。男山四十八坊と云われる坊舎があって僧侶が住み、祈祷の取次や宿坊を兼ね、八幡宮の運営組織として、明治維新まで重要な役割を果たしました。明治初年(慶応四年・1868)から矢継ぎばやに出された「神仏分離令」(神仏判然例)によって、神社と寺院の分離が行われ、八幡宮山上から寺院関係のものが出されてしまいました。
 それ以前の江戸時代までは神仏混淆の宗教都市として大いに繁栄した経緯があります。慶長五年五月(1600)、関ヶ原合戦の4か月前、徳川家康によって八幡に361通の朱印状が発せられ、その後慶長十五年(1610)徳川家康から「右、八幡八郷の事、検地令免許、守護不入之上者・・・」の御条目の発給によって、大名は置かれず、石清水八幡宮を中心とした自治組織となった。検地免許の神領とは税金を取らない事を言ったものです。
 要するにこの様な重要な宗教都市の参詣道には八幡宮の名称が付くのが常識で、八幡宮の参詣が終わり、次の目的地を目指す分岐点で初めて、八幡以外の宗教拠点の名称を付けるもので、八幡以外から八幡宮へ参詣に来る場合も同様、その分岐点が洞ヶ峠であり、河内国(枚方市)の高野道でありました。

何時から文献上に「東高野街道」が現れるか

 初出は『京都府地誌』。明治八年(1875)六月五日太政官により「皇国地誌編集例則並ニ着手方法」が各府県にだされ、明治14年から17年に京都府の担当者が調査した、とあります。 
 「山城国綴喜郡史」「道路」の項に、大阪街道「久世郡淀より本郡に入り、・・・木津川を渡り、八幡荘に至る、此の間を「御幸道」と云う、・・・「荘誌 山城国綴喜郡八幡荘」「道路」の項に、高野街道「三等道路に属す、本荘の北界木津新川頭に起り本荘の中央を貫キ委、蛇南行し、河内国招堤村界尽く」とあります。

 なお、紙面の都合上明治からは次回、―その3―にて本格的に「東高野街道」を検証します。 

参考文献
京都府立大学文化遺産叢書 第3集 京都府立大学文学部歴史学科
「八幡地域の古文書と石清水八幡宮の絵図」
文化燦燦 第1号、第2号 石清水崇敬会
石清水八幡宮史 第六輯 社領編 続群書類聚完成會
その他


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by y-rekitan | 2015-11-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第68号より-04 松花堂昭乗

シリーズ「松花堂昭乗が詠んだ八幡の町」・・・(余話)

松花堂昭乗が詠んだ八幡の町(余話)

 土井 三郎 (会員) 


 表題の論考は前号で終えることにしていましたが、会員であるT氏から貴重なご意見を頂戴しました。
 「大谷 狩人の追う谷深ししかの皮」の解釈で、私は、「「深し」は「蒸(ふか)す」にも通じ、鹿の革を蒸して柔らかくする(=なめす)にも通じます」と述べたことに対し、「鹿の皮を蒸せば却って固くなって使い物にならない」とするご意見が寄せられたのです。そのことに対し、調べたことや考えたことを述べ、また、元和元年(1615)の冬に八幡の町を詠んだ昭乗の句が掲載されている文献についていささか言及すべきことがありますのでそのことについても触れたいと思います。

深(ふか)しは蒸(ふか)しなのか?

 昭乗の、八幡大谷を詠んだ句は、菖蒲革についてのものです。「菖蒲革」とは、藍染の白革下地に菖蒲の花や草木・駒などの紋様を白抜きで型染めしたものです。そこで、そもそも獣の革を染める「染革」とはいかなるものか。『世界大百科事典』(平凡社)で調べてみました。以下に引用します。
 「そめかわ 染韋(革) 皮革工芸の一種。韋はウシ、シカ、サルなどのかわをなめした〈なめしがわ(鞣韋)〉のことで、トラ、クマ、イノシシなどの毛のある生皮を意味する〈皮〉、毛を取りあぶらを抜いて堅くした〈つくりがわ(理革)〉を意味する〈革〉とは区別される。f0300125_20204436.jpg染色するには主として〈韋〉を用い、なかでもシカの韋が多く、文様を染めるには、文様を切り抜いた型紙を当てて染料を引く。(後略)」
 また、『國史大辭典』(吉川弘文館)でも調べてみました。
染韋 獣皮の被毛を除去した生革(きがわ)を柔軟に揉みやわらげて熟韋(つくりがわ)として染色加工をした韋。染韋に広く使用されたのは、強靭で感触のよい鹿の揉韋(もみかわ)である。白地の洗韋(あらいがわ)を雨湿炎乾による固形化から防ぐために、藁の噴煙で軽くふすべるのを例としたが、特にこんがりと香色(こういろ)にふすべたり、さらに濃い茶色にふすべたりしたものを薫(ふすべ)の染韋・濃薫の染韋などと称した。また、韋地に糊で画様や小文の型を置いてふすべると、糊の部分が白抜きとなるので、これを画文の薫韋・小文の薫韋などとよんで、武具や馬具・装身具の類に使用した。(後略)」
   いずれにせよ、なめす段階で蒸すという工程は見られません。T氏の指摘通り、「鹿の革を蒸せば却って固くなってしまう」ようです。また、染める段階でも藍汁に浸したり、藍汁を引いたりすることはあっても蒸すことはなさそうです。きちんと調べもせず論述した不明をお詫びし、貴重な指摘をしていただいたT氏に感謝したいと思います。但し、現代の革製品には、革を蒸すことでごわごわ感が出て、そのことで価値を高めている商品があることがネット検索をしていると出てきましたのでお知らせしておきます。f0300125_20332945.jpg
 それでは、昭乗が「深し」としたのは単に大谷が深いことだけを詠んだものなのでしょうか。深しは或は菖蒲革の色が深いと吟じたものなのかもしれません。といいますのも、八幡の菖蒲革は「八幡黒」と呼ばれるくらい、染色の藍色が濃く、濃いことを深いと表現したことが考えられのです。
 『國史大辭典』で調べますと次のように解説されています。
くろかわ 黒韋 黒く染めた揉韋(もみかわ)・滑韋(なめしがわ)の類を総称する。濃い藍染、付子鉄漿染(ふしがねぞめ)、墨染などの漬染、引染の各種がある。時代により、用途によって、同じ黒韋の名称であっても、染材・加工の内容を相違する。中世に普通にいう黒韋は、深く染めた藍韋であり、(中略)近世以来、石清水の山藍染にちなむ付子鉄漿染の黒韋が石清水八幡宮の下大谷村の神人によって染出され、八幡黒(やわたぐろ)とよばれて各地に流布して愛好され、武具はもとより、履物の鼻緒や装身具類に用いられた。(後略)。」

昭乗の八幡発句集は何処に

 昭乗が八幡の町を発句に詠んだことは、『男山考古録』にもいくつかの作品が掲載されていることで分かります。例えば、次の作品がそうです。
 科出郷
 元和元年初冬     ちる紅葉手しなてとむるよしもかな  昭乗
 鯉ヶ池
 町名を物の名にて  ちる紅葉ぬれいろや猶こいかいけ  松花堂昭乗

 昭乗が八幡の町を発句に詠んだことは、昭和13年に発行された『武者の小路』第8号所載の佐藤虎雄氏の小論に掲載されていることを紹介しました(会報63号)ので、読者の皆さんには記憶にあるでしょう。そこでは「昭乗は元和元年初冬南畝より北野に至った。此時東方朔が詞をとって各地の光景を次の如く俳句に吟じたのである」と前書きし、清水にはじまる20句を羅列しているのです。会報63号で、私は、佐藤氏が何を典拠にしてこの発句を取り上げたのか。そのことを明らかにしてくれれば、昭乗の発句の謎が解明できるものなのにと残念がっています。
 ところが、謎を解明する手掛かりが身近なところでみつかりました。八幡市民図書館の郷土コーナーに、明治41年11月刊の『山城綴喜郡誌』があり、その人物篇(317頁~)に、「瀧本坊阿闍梨昭乗」が紹介されているのです。読むと、「翁、元和元年初冬、八幡南畝より吟行して、北野に至る、總て東方朔か詞を採り、其光景を俳句に咏す。」と前書きした上で清水からの20句そっくり掲載されているのです。傍線の語句も同じであることから、佐藤虎雄氏の先の小論は、同誌を出典とすることが考えられます。或は、『山城綴喜郡誌』の編集者は、郷土の名士なり蒐集家から松花堂昭乗が八幡を詠んだ句集の提供を受けたのかもしれません。
 『男山考古録』にある昭乗の句の存在といい、『山城綴喜郡誌』に昭乗の作品が紹介されていることといい、八幡の町の古民家の蔵などに未だ昭乗の八幡発句集が埋もれているような気がしてなりません。
(完)

 挿入した絵図は、ともに『八幡菖蒲革と石清水神人』(竹中友里代著)より



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by y-rekitan | 2015-11-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第68号より-05 本の刊行

シリーズ:『歴史たんけん八幡』の刊行に寄せて・・・⑨

『歴史たんけん八幡』の普及と活用

 髙井 輝雄 (会員) 


先ずは、今回『歴史たんけん八幡』の執筆、編集に関わらせていただいたことを大変光栄に思っています。

近代・現代の部分を執筆

 私は『歴史たんけん八幡』(以下「たんけん本」と呼ぶ)の13章「京阪電車の開通」「男山ケーブルの開業」、14章「戦時下の集団疎開」の取材、そして15章の「昭和の風水害」「忘れられない室戸台風」や1954(昭和29)年の「1つの町と2つの村の合併」、以降の疲弊した苦難の時代と、そして昭和30年代半ばからの高度経済成長期の特に、人口25,000人の町が32,000人を誘致した「男山団地の誕生」等といった、かつてない一大変革期の出来事や「今後のまちづくりの展望」について、執筆を担当しました。
 f0300125_21213385.jpg執筆にあたり、京阪電車の開通、室戸台風の惨事の記事では、実際に遭遇された90歳を超えるお二方を取材し、当時の状況を生で聴くことができ、内容に真実味を高めることができました。
 これには読者やマスコミの記者さん、そして、この「たんけん本」の監修者・鍛代敏雄先生からも歴史探究のために関係者から直接話を聴くこと・「オーラルヒストリー」が大事であり、臨場感が良く伝わって来て読む人に感動を与えると評価をいただいたところです。

好調の頒布・普及状況

 発刊後3カ月が経過し、この「たんけん本」の普及・活用の状況について、気になるので聞いてみました。
 先ず八幡の歴史を探究する会の事務局は、この「たんけん本」、「大変な人気で好調に販売されていて、販売用の在庫が底をついた」とのことです。私も、ふるさとを八幡にもつ横浜や鎌倉の人、観音寺市・東近江市の人、発行を知った府下一円の人たちから多くの注文を受けました。
 次いで、市内での状況について、市民図書館に利用状況を聞いてみました。市内2館の図書館では「寄贈された複数冊の蔵書はずっと貸し出しが続いていて、次を待たれるリクエスト状態であります。」とのことです。人気上々で市民の愛読書になっていて嬉しい限りです。
 また、特に活用を期待している各小・中学校の状況についても、教育委員会に聞いてみました。「先生や各校に配置されている司書の先生方が関心をもって読まれていて、大変好評です」、「各学校では、図書室や児童・生徒の目につき易い場所に配置するなど、利用しやすいようにしています」と、読みやすい状況をつくる工夫をしていただいているとのことでした。
 年度半ばの去る9月に発刊したばかりであり、その成果を急ぐわけではありません。まず、市民の皆さんを始め教育現場の関係者の皆さんが、「たんけん本」を手に取りじっくり熟読いただき、大いにご活用いただくことを心から願うところです。
 将来の八幡を担う子供たちが「たんけん本」に学ぶことを通して、自分のふるさとの魅力を良く知り関心を深め、ふるさと八幡の歴史・文化を後世に継承すると共に、誇りをもってまちづくりに参加してくれることを期待したいと思います。

子供たちと歴史の舞台へ

 さて、『たんけん本』の編集に参画することが決まったとき、八幡町役場に勤務していた40年前に当時八幡小学校に在籍の浜根先生から要請を受けて『わたしたちの八幡町(市)』創刊の編集に対し全面的に協力したことを想い起しました。
 各校11人の先生方が自主的に編さん委員会を組織され、約2年間かかり1974(昭和49)年に創刊され、その年の5月から学校現場で教材(副読本・B5版81頁)として、小学3、4年生の授業で使われました。
 子供たちには、自分の住んでいるまちのことが書いてあり、親しみ易く興味をもって勉強できると好評でした。また、他市町から八幡へ勤務される先生が増える中、八幡の姿を良く知ることができ課題も見つけやすい教材となりました。
 また、当時その一環として、人口急増で町への転入者も多かったので、早くまちを知りまちの歴史や魅力に触れてもらいたいと町がマイクロバスを仕立てて、町内を案内し巡る『まちを知る会』を始めたのです。小学3、4年生の親子を対象にして夏休み同じように実施され、何時も満員の盛況で、副読本に載っている現場を見て回り、成果をあげたことを覚えています。
 「たんけん本」の普及活動として「講演会」等を歴探で実施されています。今後いろいろと計画されると思いますが、一例として「副読本」の発刊後の取組みのように、「たんけん本」に載っている歴史の舞台を子供たち及び親子対象に関係機関・団体と連携して先ず見て回る企画をされるのも一考と考えます。

有難い市の新補助制度

 なお、今回の「たんけん本」の発刊にあたり京都府の補助制度<地域力再生プロゼクト支援事業交付金>と共に八幡市からも助成を受け、発行元になっていただいた歴探の会の自己負担は少なくて済んだと思います。
八幡市の制度は、地域住民が主体的に参画する事業を対象に補助金を交付するため、本年7月に新しく設けられました。今回の「たんけん本」発行に対して、その新制度を適用した旨「出版記念の集い」で八幡市から明らかにされました。
 行政が財政面で積極的に事業支援していただくことになり、今後、市民が協働して行う地域課題や文化振興の事業の取組みに明るい展望が開けたと言えます。         
 なお、このたびの「たんけん本」の編集から発刊までの間、石清水八幡宮を始めとする多くの関係社寺・機関・団体・市民の皆さんの並々ならぬご支援は大きな力となりましたし、各手続き、資料提供に関しても八幡市の各組織を挙げて惜しまぬ協力を指示くださり実行していただいた要路の計らいを忘れてはならないと思います。

「良い本をつくる」で結束

 内にあっても、この素晴らしい「たんけん本」の誕生までに、制作委員会・歴探の会とも喧々諤々の協議の連続で、財源の工面等のことも心配し苦労が絶えないと聞き及んでいます。
 しかし「良い本をつくろう」と、みんなの気持ちを一つにして乗り越え、発刊にこぎつけられたところです。
 この種の発刊は府下では類例がなく、民間の団体が自主編纂することも全国的には数少ないと聞いております。高く評価されて良いのではないでしょうか。


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「歴史たんけん八幡」読書感想

 Y.I 氏(伊佐錠治さんの知人)より 

 歴史たんけん八幡 すばらしい冊子完成、おめでとうございます。
標題、たんけんがいい。あなた自身の足で歩き、自分の目で確かめ、そして考えてごらん。本の中からも探してみたら 何が見つかるでしょう。読者とりわけ小学生に話しかける姿勢で貫かれています。
 私は福沢諭吉が著した「学問ノススメ」を思い出しました。この本は明治の青年達に希望と勇気を与えました。「歴史たんけん八幡」は平成の「学問ノススメ」です。後世に残る貴重な本です。
 表紙がいい。色彩・写真・レイアウト「お見事」。制作委員の方々の熱意、知恵、苦心の結晶です。表紙を始め、すべての写真が鮮明で的確です。そして地図上にどこにあるか示されています。年代をおって記述され、更に年表にまとめられています。人物らん、松花堂昭乗さんなどとてもおもしろく、大人も子どももこれを読んだら会って見たいな、こんな生き方をしてみたいなと思うのではないでしょうか。
 監修の鍛代敏雄先生、ご立派な先生ですね。この本の主旨がすべて尽くされています。
 「この本を読むみなさんへ」にある「みなさんは将来を開いてゆく宝です」は、この中に制作委員の皆さんの思いがこもっています。
 第11章では、火をおこす、水をくむ、何を食べ、何で生計を立てたか、当時の人々の喜び、楽しみは何か、神や仏に感謝し喜びを表現する。そんな人々の姿を自ら見つけるように工夫されています。わかりやすく説明され、写真を見れば一目でわかります。更に現物を自分の目で見たいと思う人もいるでしょう。f0300125_21585358.jpg
 年表には山城の国一揆(1485)以後八年間自治を行う。80ペ-ジでは、1961年にわれわれの土地を守ろうと町民が立ちあがり男山のガラス原料を掘り出す計画は断念されました。五百年も前から自分の土地は自分たちで守ろうという自治の精神が強く根づいていたからでしょう。
 79ペ-ジ、1977年に男山団地が完成。当時の町の人口が22、000人、男山団地の人32、000人とあります。地元の人が団地の人、いわばよそ者を受け入れた。これはすごいことです。八幡の人たちがおおらかで寛容、やさしく柔軟な心であるからでしょう。
 6ペ-ジの鳥になって・・・・・で、私は思います。石清水八幡宮の高台から見おろすとすばらしい景観です。視点を変えて自分の住んでいる所を見ると、人それぞれに何か考え、何か気づくのではないでしょうか。大所高所から見る八幡の風土は人々に発想をうながす土地柄と私は思います。二宮忠八さんもこの土地で育まれたからだと思います。
 
 今まで歴史上のできごとを一箇所のことと点のように考えていましたが、空から全貌を眺めるとまた全然違った見方、考え方があることに気づきました。歴史たんけん八幡は視点を変える広く、大きく考えることをうながすと・・・・・・・。制作委員の方はそこを期待していらっしゃると気づきました。
中略
 画期的な大事業お疲れ様でした。私の見たところ制作委員のメンバ-は歴史が何より好きで、またいろんな面で趣味が豊かな人が多いようです。反響を話しあったり、今後の夢を目ざしたり、今まで以上に親交が深まったりするようになると私は思います。
後略
以上


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by y-rekitan | 2015-11-28 08:00 | Comments(0)

◆会報第68号より-end

この号の記事は終りです。


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by y-rekitan | 2015-11-28 01:00 | Comments(0)