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◆会報第69号より-top <スクロールだけで全記事が読めます>

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
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◆シリーズ:“わが心の風景” (42)最終回◆
◆《歴探ウォーク》八幡の古寺巡礼③◆
◆本妙寺文章「沢庵の書状」と紫衣事件について◆
◆「古寺巡礼」で出会った仏さま◆
◆八幡の文化財(国宝指定)について◆
◆国宝指定の答申に思う◆
◆シリーズ:“八幡の道を「東高野街道」となぜ呼ぶのか” ③◆
◆京の街角にある「湯たく山茶くれん寺」◆


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by y-rekitan | 2015-12-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第69号より-01 男山

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わが心の風景・・・最終回(42)
男山と涅槃仏



f0300125_211523.jpg 男山は、淀川を挟んで天王山と対峙し、桂川・宇治川・木津川の三河川が合流して隘路となっていて、古くから京都への関門をなす戦略上の要害の地でした。その昔、雄徳山とも言われたその呼称は、大同年間(806〜810)の頃より存在したといいます。
 貞観元年(859)、奈良大安寺の僧、行教が、豊前国の宇佐八幡で「吾れ近都に移座し国家を鎮護せん」との八幡大菩薩の神託をうけ、その帰路、逗留した山崎離宮(大山崎町)で、男山に光が差すと再び「男山に祀るように」との神託があったといいます。
 八幡大神の鎮座が山崎ではなく、なぜ男山だったのか。ここからは私の持論なのですが、行教は男山に「涅槃仏」( 釈迦が入滅する様子を仏像にあらわしたもの)を見たのではないかと。御幸橋から見る男山は、まさにその姿で、八幡宮の鎮座する位置は仏の揮毫にあたるというのは考えすぎでしょうか。
 「歴史に持論など持ち込む余地はない」という考えを捨てると、歴史はさらに面白くなってきます。
(絵と文: 小山嘉巳)
 


「わが心の風景」の連載を終えて

 八幡市内の名所旧蹟を簡単な紹介文をつけてお届けする「わが心の風景」が42回をもって終えることになりました。
 連載の依頼をいただいたとき、かねてから多くの「引き出し」を持ってることを自負していましたのでお引き受けしたのですが、今思うと、それがとても小さかったことを思い知らされています。それは、ひとえに多くの文化財に恵まれた八幡という町の大きさを物語っていると言えます。
 「歴史が面白いのは当然。なぜなら、歴史は人類の業績の中で特に興味深いものを選りすぐって綴られ、話題は各地の博学によって選ばれ、記述は歴代の名文家によって練り上げられているのだから」と堺屋太一さんが語っておられます。その歴史がいっぱいの八幡という町に生きている幸せを、今回の連載を通じて多くの皆さんと共有することができたのではないかと思っています。
 歴史の中には、まだまだ解き明かされていない謎があります。この謎解きも歴史を学ぶ面白さでもあります。近い将来、よりバージョンアップして、再びこの紙面に戻ってきたいと願っています。

ご愛読いただいた皆さんに心から感謝申しあげます。 (小山嘉巳)



この連載記事はここで終りです。       TOPへ戻る>>>

by y-rekitan | 2015-12-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第69号より-02 八幡古寺巡礼3

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《歴探ウォーク》
八幡の古寺巡礼
― 第3回 男山山麓の寺を巡る(Part2) ―  

2015年12月 八幡市内 にて
高田 昌史 (会員)

 今年の歴史探訪ウォーク(古寺巡礼)は、昨年に引き続き「男山山麓の寺を巡る」Part2として、12月1日に2寺院を巡りました。
 その概要を報告します。なお、参加者は35名でした。

1.第3回古寺巡礼コースについて

 f0300125_2281245.jpg当日は八幡市駅前で受付をしてから、さざなみ公園の安居橋前に集合し、今回の世話役紹介や歩行時の注意事項をお話した後に、受付で配布の「しおり」によりコースの概要説明をしました。しおり表紙にはコース図入れましたが、左図はコースの地形図を示しています。巡礼のコースが八幡市駅を中心に男山山麓の東部と北部方面であることがよくわかります。また、今回の八幡市駅近くの2寺院を巡るコースは、歩行距離も約2.5kmと短く訪問先の寺院での時間が取れるので、本妙寺では特別にご住職のご厚意により通常は公開していない京都府指定文化財の「雲版」や八幡市指定文化財の「本妙寺文書」を見せていただくことを予告して、最初の訪問先の本妙寺に向かいました。

2.本妙寺

 さざなみ公園の安居橋前を出発してから、10分足らずで本妙寺に着きました。本妙寺は法華宗真門流本隆寺末寺です。安土宗論で犠牲となった普伝日門に帰依する竹内伊豫守経孝によって永禄7年(1564)頃創立されたそうです。現在山門はありません。境内入口には2基の石碑(三宅碑)があり、手前碑の正面には“日門上人墓所 本妙寺”とあります。先ず境内の「日門上人の墓所」に向かいました。f0300125_22253652.jpg
 この墓所は、田中智学(宗教家)が「安土法難」執筆で、本妙寺に墓参したときに安土宗論(あづちしゅうろん)の犠牲になった、宗門の偉人に相応しい墓を提案して大正11年(1922)4月に除幕式を行ったとのことです。墓所には「墓碑」と「敬称の碑」が建てられていました。
 次に、明治維新の廃仏毀釈の時に八幡宮境内からこの地に移された、本堂横の「妙見堂」を見学してから、本堂に向かいました。
f0300125_22282380.jpg本堂では小島住職のご講話を拝聴しました。講話では本堂内陣の各仏像のこと、法華宗及びお寺の歴史について詳細に説明していただきましたので、いままであまり馴染みがなかった法華宗のことや本妙寺の歴史がよくわかりました。特に、本妙寺の日門上人が犠牲となった「安土宗論」事件の法華宗と浄土宗の法論とその後の事などよくわかりました。また、現在八幡市の寺院は51ヵ寺で、その内法華宗は2ヵ寺あることも伺いました。
 ご講話に引き続き今回本堂に特別に出していただいた、本妙寺所有の以下の文化財の説明がありました。 
雲版
f0300125_975161.jpg 昭和61年に京都府指定文化財に登録されている京都府下で一番古い雲版である。表の銘文は「永徳2年壬戌継宗寺八月 日施主源材」と刻まれている。雲版は永徳2年(1382)に鋳造され、継宗寺に奉納されたが、その後、天文16年(1547)に本妙寺の本山である本隆寺に買い求められた。この雲版が現在の本妙寺に移ったのは明治時代に入ってからといわれる。

竹内伊豫守経孝肖像f0300125_9242287.jpg 
 この肖像は竹内伊豫守の子孫の方の所有であったが、本妙寺に寄贈されてからこのように修理された。今まで何回か修理されていたが、今回はできるだけ最初の状態に戻すように努めたとの説明があった。なお、この肖像は竹内伊豫守の命日5月21日の1日間のみ公開されるようである。
 竹内伊豫守〔?― 天正13年(1585)〕は、もと八幡郷の住人で幼少より八幡山中坊で僧侶をしていたが、織田信長に見出され還俗して信長に仕え、武勇の名をあげたという。その後、八幡に帰り、八幡宮神人として柴座町に居を構え、姓も松田と改めた。
 竹内伊予守は寛永の文化人として名高い松花堂昭乗を養育した人物との説もある。(『男山考古録』)

鐃鈸(みょうはち)
 見せていただいたのは法華宗の葬儀や説法の場で打ち鳴らすシンバルのような鳴り物法具で、実際に小島住職が打ち鳴らすと見事に回転もした。この鐃鈸(みょうばち)が楽器シンバルの原型のようである。

本妙寺文書
 本妙寺に残る古文書142点のうち40点が、平成8年に八幡市指定文化財になった。八幡市指定文化財のなかで古文書指定第1号である。内訳は、沢庵書状1点、土地の転売時に添えられる売券(室町時代後期~江戸時代)が31点、将軍が代わる度に寺領安堵のあかしに発給される朱印状が8点などである。
 今回はそのうち、沢庵の書状と朱印状1点を展示されました。特に沢庵の書状は「紫衣事件」を語る貴重資料として注目です。(注記:沢庵書状の詳細については、別稿で例会担当幹事の丹波さんから報告されます。)
 八幡では、石清水八幡宮や正法寺以外の寺院でこのような貴重な古文書がまとまって残っていることはめずらしいと思います。
 本堂での講話と見学終了後は、本妙寺さんのご厚意により、お茶とういろうをいただいてから次の訪問寺の常昌院に向かいました。

3.常昌院に向かう

 本妙寺からは放生川の右岸の川沿いの歩道を歩き、八幡市駅近くの全昌橋から車道にあがり、常昌院に向かいました。途中の「長宗我部盛親隠れ家」の前では、長宗我部盛親が大坂夏の陣で豊臣方の武将として参戦し敗れ、慶長20年(1615)5月7日、石清水八幡宮の麓の民家に逃れ、f0300125_9521296.jpgこの家から京に赴く徳川家康の通過を伺っていましたが捕えられたとの説明がありました。
 常昌院には午後3時過ぎに着きましたが、山門の左側に樹齢400年といわれている八幡随一の巨椿・日光(じっこう)が目を引きました。ぜひ椿の開花の頃に再訪したいと思います。
 この常昌院は曹洞宗神應寺の末寺です。
 f0300125_9565100.jpg常昌院は神應寺19世住職 廓翁鉤然(かくおうこうねん)が、元禄時代に麓の庵として開かれました。しかし、その後檀家がなく無住になっていましたが、昭和43年に大木祖浄住職(現神應寺住職)が整備されたとお聞きしました。
 境内を見学してから本堂に上がり大木玉昭住職の説明をお聞きしてから、本堂内を見学しました。
ご本尊は「地蔵座像」で、座っておられる地蔵尊は珍しいといえます。この地蔵座像は鎌倉期に作られたといわれています。
 本堂を退出して、本堂右の平成9年に信者から寄進された石に描かれた不動明王が祀られているお堂を見学してから、常昌院山門で解散。 橋本方面と八幡市駅方面それぞれに帰られる方とに別れて本日の古寺巡礼は終了しました。

おわりに

 連続3年になる「第3回八幡の古寺巡礼」は、お陰様で無事終了しました。
特に、本妙寺の小島住職には長時間にわたるご講話と展示物のご説明をしていただき、有り難うございました。それにご住職のご厚意で多くの寺宝である文化財を特別に展示いただいたことに対し厚く御礼申し上げます。
 また、しおり作成段階では常昌院の本山である神應寺の大木祖浄住職ご夫妻からいろいろとお教えいただいたことを申し添えたいと思います。
 八幡には多くの古寺があり、これからも「古寺巡礼」を継続することで、八幡の歴史を探究して行きたいと思います。


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by y-rekitan | 2015-12-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第69号より-03 本妙寺文書

本妙寺文書「沢庵の書状」と紫衣事件について

丹波 紀美子 (会員)


沢庵の手紙

 今回の見学に際し、本妙寺では寺宝の綱吉時代の朱印状、府内最古の雲版、そして、今まで教育委員会にしか見せておられなかった秘蔵の沢庵の書状を拝見させて頂きました。
 竹中友里代氏が1997年春に執筆された『禅文化』164号、八幡市本妙寺の「江月宗玩宛沢庵宗彭(こうげつそうがんあてたくあんそうほう)書状」についての解説文をもとに、沢庵のこと、合わせて紫衣(しえ)事件の事などを書いてみたいと思います。
 沢庵の書状は、八幡の歴史を探究する会の安立さんと奥山さんの労により、文語文を口語文に意訳していただき、私たちでも読むことが出来るようにして貰いました。

  ☆沢庵宗彭(1573~1643)の書状
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尚々(なおなお)、御上京前に面会を期(ご)します。
昨日は貴方のお手紙が堀丹後守(直寄)から届き拝見しました。また
貴方様のところにお伺いしましたが、お留守
でしたので、たって申し置きしました。一両日中に御出発と
聞きましたが、天気は不順ですし
お見合わせになって、一両日
延ばしてご出発なさってもいいのではないでしょうか。永く
江戸に滞在されたので、ご出発準備も
一両日中には出来兼ねることでしょう。
稲葉丹後守(正勝)殿の御煩いも今
少し見届けられて、どちらにしても来月に入って
御出発なされば、雨もまた
快晴の天候になるでしょう。尚また画賛は
書き改めましょうか。烏丸大納言(光広)へは書状を届けました。
委しく書きましたが、貴方様から直接仰せ申すべき
ことですが、なにも口論にはならない様子です。貴方さまの
御出発も色々あるようですので
当月中お延ばしされている間、
参上して御暇乞いを申し上げに行きます。
恐惶謹言(きょうこうきんげん:恐れかしこみ謹んで申し上げます)
       春雨庵(しゅんうあん)
   五月廿七日  宗彭(花押)
拝呈龍光(江月)丈室
  侍局


沢庵と江月宗玩たちとの交友関係

 沢庵宗彭は、紫衣事件で寛永6年(1629)7月、出羽国(山形県)上山(かみのやま)城主、土岐頼行の所へ配流になりました。沢庵56歳の時でした。土岐頼行は沢庵のために庵を建て色々な気配りをして流罪人とは思えないほどの持て成しをしています。頼行が建てて歓待した庵を沢庵は「春雨庵(しゅんうあん)」と名付けて、流罪中の3年間と赦免されて帰洛の許しの出る江戸滞在中の3年間の手紙には「春雨庵」と記しています。
 手紙の主、沢庵は大徳寺の首座となった臨済宗の高僧で、宛先である江月宗玩は、津田宗及の子で、やはり大徳寺住持となった高僧です。二人は、茶の湯や俳諧連歌に興じる間柄であり、後でも触れますが、松花堂昭乗とも関係を結ぶ茶人です。
エピソードとして、遠流の身となった沢庵へ送った昭乗の和歌と、その返歌があるので紹介します。

 松花堂昭乗から配流になった沢庵へ
うらむなよ かりの世なれば さすらふも 旅のやどりを かふるばかりぞ
遠島に 行くやうらみむ うらのなみ 今かえりくる ならひならずば
 沢庵から昭乗へ
ながらえば 君に二たび 会津山 名もたのもしき 寿なりけり
我人の 心の月は 雲霧に さわらぬものと しる人ぞなき

 沢庵は、徳川秀忠の死(寛永9年3月)により恩赦になって寛永9年(1632)7月27日江戸に入り、手紙にある越後村上城主 堀丹後守直寄(1577~1639)の駒込の下屋敷に、冬ごろから寛永11年(1634)5月の帰洛まで世話になっていました。堀丹後守は、沢庵より4歳年下でしたが、事件発生以来、沢庵を何とかして助けようと、幕府高官へ心付けをするなどして赦免に奔走しました。
 この手紙は、沢庵が江月(こうげつ)の書状を掘丹後守から受け、江月の江戸の宿所に赴いたが留守であったため、その返書として出されたもので、沢庵が堀丹後守の駒込下屋敷に寄寓していた時のものです。
 寛永11年(1634)5月、沢庵たちが帰洛した後、堀丹後守は、同年7月、徳川家光に従って上洛しました。その際、沢庵に会って将軍拝謁を勧めるなど、以後も家光と沢庵の取り成しに動いています。
 次に、沢庵の手紙に出てくる稲葉丹後守について紹介します。
 稲葉丹波守は、家光の乳母(うば)春日局(かすがのつぼね)の息子の正勝(1597~1634)で、沢庵は江月に正勝の病気見舞いを勧めているのです。
 紫衣事件によって大徳寺の沢庵や玉室は流罪になりましたが、江月だけは流罪を免れています。世間では、江月に罵倒を浴びせたり、彼の墨蹟を破り捨てたりする人がいましたが、江月は、沢庵らの赦免にひたすら奔走しました。幕府の要職にいた稲葉正勝に接する機会もあったので、江月の人柄から正勝の信頼を得て、正勝の死後もその子息は江月にゆかりの深い大徳寺の法堂を造営しています。
 沢庵の書状にもあるように、京へ帰る江月に対し、梅雨時期の天候を心配し出発を延ばすよう勧めています。来月になると天気も安定し、長く江戸に滞在していたから用事も多くあり一両日中に済ませることは難しいのではないかと心を配り、出発前に一度会って話がしたいとも述べています。
 末尾の発信の日付は沢庵が春雨庵と名乗っている間で、稲葉正勝が病気中であること、江月の江戸滞在期間が永いことを記していることから正勝が亡くなる寛永11年の前年で寛永10年5月27日であると推定されています。

紫衣事件とは何か

 さて文中に出てくる紫衣(しえ)事件とはどんな事件で、どんな結末であったのか記してみます。紫衣とは天皇が宗派を問わず高僧に下賜した紫の袈裟をさします。
 事件の発端は、慶長18年(1613)6月に、『勅許紫衣竝(ならび)に山城大徳寺妙心寺等入院の法度』が制定されたことやその2年後の元和元年(1615)7月に、『禁中竝に公卿諸法度』『諸宗本山本寺諸法度』が制定され、朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁じたことに始まります。
 朝廷では、寛永3年(1626)の、大徳寺・妙心寺の出世(住職になって紫衣を賜わる)厳禁、元和以後の紫衣を取り消す旨の命令にも関わらず、後水尾天皇はこれを無視し従来の慣例通り紫衣を与えました。
 その結果、金地院崇伝(こんちいんすうでん)や土井利勝らは寛永4年(1627)7月、これを法度違反とみなし京都所司代に紫衣を取り上げる様命令しました。寛永5年(1628)、大徳寺沢庵宗彭(たくあんそうほう)、玉室宗珀(ぎょくしつそうはく)、江月宗玩(こうげつそうがん)や妙心寺の単伝士印(たんでんしいん),東源慧((とうげんけい)等らは抗議書を所司代板倉重宗に提出したため、幕府は態度を硬化させ江戸へ召喚しました。幕府内でも厳罰を以て処すべしという金地院崇伝と穏便な処置をのぞむ南光坊天海らの対立はあったものの、崇伝の主張を秀忠は受け入れました。
 江月を除く4人はそれぞれ寛永6年(1629)7月に配流となりました。また、11月には後水尾天皇が抗議のために退位することにも繋がりました。後水尾天皇の退位は、紫衣事件だけでなく同年10月に家光の乳母お福が無位無官(西三條家の娘として藤原福子)で拝謁した事も原因の一つともいわれています。なお、福はこの後、従三位の位階と春日局の名号を頂いています。
 寛永9年(1632)、徳川秀忠の死によって大赦令が出され紫衣事件に連座した人たちは許されました。
 後に、沢庵は家光の帰依を受け慕われます。家光に近侍したことで寺法旧復を訴え、恩赦になって9年目の寛永18年(1641)、沢庵69歳にして事件の発端となった大徳寺、妙心寺の寺法旧復が家光より正式に申し渡されました。そして、両寺の出世入院(住職への復職)が認められ、幕府から剥奪された紫衣も戻されました。
 (なお、沢庵の援助者には堀丹後守の他、柳生宗矩、天海和尚たちがいる。)
 沢庵の書状が、宗派も違う本妙寺に伝わった理由について、竹中さんも不明とされていますが、本妙寺の栞では「手紙がなぜ当山に残っていたかは不明ですが、当時松花堂昭乗の営む『文化サロン』などでの知識人、文化人などの交流の過程で様々な交際の流れを生んでいったと想像される」と書かれています。私もその通りだと思います。
 江月と昭乗はとても仲の良い友人で、昭乗の絵には数多く江月が賛をしており、また昭乗の晩年には2人で奈良吉野の旅もしています。江月は何度となく男山にも登り、また昭乗も江月の寺の大徳寺龍光院(りょうこういんいん)には足しげく通っていたと思われます。龍光院の小襖にも昭乗の描いた絵が有り、他にも昭乗が描いて渡したであろう絵が多く所蔵されています。そんな昭乗と江月の関係を考えると沢庵の手紙が昭乗の所に渡っても不思議ではなく、他にも昭乗のいる男山と山下の僧侶たちの交流もあったことでしょう。江月と昭乗とは、宗派は関係なく、男山での昭乗のサロンには江月も来て本妙寺の住職も呼ばれていたかもしれません。そんな折に直接本妙寺住職が江月から頂いたのかもしれません。そんなロマンを夢みて終わります。
by y-rekitan | 2015-12-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第69号より-04 古寺巡礼

「古寺巡礼」で出会った仏さま

滝山 光昌 (会員)


 今回、「八幡の古寺巡礼」で「法華宗真門流の本妙寺」と「曹洞宗の常昌院」を訪れ、それぞれのお寺に祀られている仏さまにお参りすることが出来ました。
 本妙寺は、日蓮の法華曼荼羅に基づいて、中央に南無妙法蓮華経(題目)を配置し、周囲に種々の仏様を配置した三宝尊でした。そして、仏を漢字や梵字であらわした「文字曼荼羅」も披露してくださいました。
 「曼荼羅」という言葉はよく知られていると思います。今回、「法華曼荼羅」という言葉を本妙寺のご住職から初めて伺いました。曼荼羅については、有名な国宝の東寺の「胎蔵界曼荼羅」と「金剛界曼荼羅」くらいしか知りませんでした。法華宗の祭壇の祀りかたは、東寺や高野山で空海が開いた「立体曼荼羅」の考え方と同じではないでしょうか。
 常昌院のご本尊は、座っていらっしゃる「地蔵菩薩」でした。
 地蔵菩薩を本尊にしている寺院は、京都・西山にある「竹の寺」の愛称がある「地蔵院」や奈良の「矢田寺」など沢山あります。宗派に関係なく、お寺に地蔵菩薩は祀られています。私の岡山の実家は高野山真言宗の古い山寺ですが、ご本尊は愛染明王で、脇に木彫りの地蔵菩薩座像が祀られています。地蔵は古くから、民衆に親しまれ、信仰の対象とされてきました。地蔵盆、六地蔵巡りなど、地蔵を中心とした庶民の行事が今も引き継がれています。
 今回二カ寺の本堂は、過去に訪問した八幡の古寺とは、若干おもむきが異なっているように思えました。八幡に数多くある浄土宗の寺院や高野山の真言宗の寺院は、本尊を中心に、色々な仏を沢山祀ってありますが、今回の二カ寺は比較的少なかったように感じました。
 東洋の仏教においては、西洋のキリスト教と異なり、礼拝所に沢山の仏さまが祀られています。キリスト教の場合は、キリスト像かマリア様だけです。東洋と西洋における宗教への信仰のあり方の違いを感じます。また、西洋の場合は、宗教にまつわる戦いがありましたが、少なくとも日本では、宗教に起因する争いは近代以降には起こっていないのではないでしょうか。これは、仏教が様々な仏像の存在を認めるように、他の宗派や信仰を容認する性格があるからではないでしょうか。
 美術家・美術研究者と宗教家とでは仏の見方、係わり方も違っています。美術家等は、美術工芸品として、宗教家は哲学的・精神的(心)な扱い方をするのではないでしょうか。その点、私たちは、寺の宗派としての成り立ちや信仰の在り方、寺の歴史を先ず学び、その上で美術工芸品としての仏さまの美しさを味わうべきだと改めて思いました。
by y-rekitan | 2015-12-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第69号より-05 国宝

八幡の文化財(国宝指定)について

高田 昌史 (会員)

1.はじめに

 10月16日に「石清水八幡宮本殿など10棟」が国宝に昇格の答申があり、正式に官報に告示されると、いよいよ八幡市で初めての国宝誕生です。このことは11月の「公報やわた」に“市で初めての国宝誕生へ”と大きく紹介されました。
国宝昇格については既に10月発行の会報67号で速報として掲載しましたが、この機会に国の文化財行政と、八幡市の文化財の現状を調べましたのでその概要を報告します。

2.文化財とは

 文化財は、文化財保護法という法律の第一章第一条(この法律の目的)に、以下のように定義されています。 
第一条 この法律は、文化財を保存し、且つ、その活用を図り、もつて国民の文化的向上に資するとともに、世界文化の進歩に貢献することを目的とする。
文化財保護法は本文だけで第二百三条まで制定されています。
この法律によると文化財は6区分もあり解りにくいので、その概要を下図にまとめました。
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 文化財のうちで、一番種類が多い有形文化財は、【建造物】及び【美術工芸品(絵画・彫刻・工芸品・書籍・典籍・古文書・考古資料・歴史資料等)】があり、その中で(重要なもの)が重要文化財の指定をうけます。他の文化財も同様です。
 平成26年10月6日には「松花堂及び書院庭園」が八幡市で初めて国の名勝に指定されましたが、文化財の区分では記念物です。また、有形文化財で(保存と活用が特に必要なもの)は、登録有形文化財に登録されます、八幡市では平成24年に中村家住宅が登録されました。

3.国宝とは

 文化財のうち特に優れたものを保護するために与えられた資格です。明治30年(1897)に古社寺保存法が制定されて初めて国宝の規程がなされ、その後社寺以外の文化財にも拡大適用されている。なお、今回国宝の昇格の答申された石清水八幡宮の本殿等は、主に最初の明治30年に重要文化財に指定されています。
  国宝について、「文化財保護法第三章有形文化財 第一節重要文化財」の条例では、
第二十七条   文部科学大臣は、有形文化財のうち重要なものを重要文化財に指定することができる。
2 文部科学大臣は、重要文化財のうち世界文化の見地から価値の高いもので、たぐいない国民の宝たるものを国宝に指定することができる。
 と制定されているので、国宝になるのは有形文化財のなかの重要文化財から指定されます。 また、一般には重要無形文化財保持者は、人間国宝と呼ばれています。
 文化庁のHPによると平成27年12月1日現在で、全国に重要文化財は13,049件指定されており、その中から国宝に指定されている文化財は1,096件です。このうち関西には重要文化財が4割、国宝は5割あります。また、この文化財を所管する文部科学省の文化庁が京都移転を検討されている時期に八幡に国宝誕生は喜ばしい事です。
現在八幡市の国指定重要文化財は合計で45件ですが、今回はそのうち石清水八幡宮本社(本殿など10棟)が国宝に昇格します。

4.国宝指定を受ける文化財

 八幡市の国指定重要文化財の建造物は、下表にまとめたように4件です。
f0300125_15343355.jpg
 このたび文化庁の文化審議会から文部科学大臣に、石清水八幡宮の員数16棟(附(つけたり)2棟)の中からの10棟をまとめて今回国宝に昇格する答申がありました。  
 国宝に昇格の10棟は表中に着色で示したが、現在重要文化財の本殿及び外殿の附(つけたり)の摂社武内社本殿及び瑞籬(みずがき)の2棟も個別登録されて国宝に昇格です。今回のように10棟がまとめて国宝指定は異例のことと思います。なお、今回国宝には棟札(むなふだ)3枚も附(つけたり)として登録されます。この棟札の1枚は寛永11年(1634)に徳川家光が現在の本殿を造営したときのものと伺いました。
 また、表にまとめたように重要文化財として「石清水八幡宮」1件として登録さていますが、今回の国宝指定の10棟は「石清水八幡宮本社」と名称変更されます。f0300125_15374150.jpgこの本社の上方からの写真を石清水八幡宮から提供頂きました。その写真の各屋根の箇所に国宝名称を記入したので各棟の位置が確認できます。
 なお、石清水八幡宮社殿の調査報告書によると『八幡造本殿は、国内の同形式本殿の中では現存最古で最大規模であり、本殿などを廻廊で囲み一体化するという古代に成立した社殿形式を保持している』と報告されています。

5.おわりに

 官報告示で正式に八幡市で初の国宝誕生が待たれますが、現在、石清水八幡宮では午前と午後に各1回の本社に昇殿参拝ができます。参拝では神官により約40分間で10棟すべて案内があり詳細に説明していただけます。私も先日大勢の仲間と一緒に昇殿参拝をしましたが、皆さん大変満足されました。参拝は2月4日~12月31日の期間で、お薦めです。
 また、石清水八幡宮の西禰宜には、写真の提供や国宝昇格の文化財に関するご教授をいただきました。厚く御礼申し上げます。
 今回は国指定(登録)文化財のみを紹介しましたが、その他に八幡市には京都府の指定文化財、登録文化財、登録無形民俗文化財、府文化財保全地区などがあり、また、八幡市指定文化財としては、絵画、彫刻、古文書、考古資料などがあります。
(※)文化財の詳細は八幡市HP-「子育て・教育」-教育便覧「平成27年度八幡市の教育」-にアクセスしてファイルを開き「文化財の概要」ページの一覧表で確認下さい。
 なお、八幡市内には、まだ多くの文化財があります。これからの調査により保護・保全・登録を実施し後世に引き継がれていくことを願っています。そのためには現在制定されている八幡市文化財保護条例(昭和60年から施行)にある「八幡市文化財保護審議会」の常設が望まれます。 
by y-rekitan | 2015-12-28 08:00 | Comments(0)

◆会報第69号より-06 国宝

国宝指定の答申に思う

この度の国宝指定答申について寄せられたいくつかの“思い”を紹介させて頂きます。


八幡宮、国宝指定に想う

是枝 昌一 (会員)

 今年も12月を迎え、1年を巡る24節気では今は大雪の候、20日を過ぎると早くも冬至を迎えます。年の瀬を迎え、今年の日記も残り少なくなりましたが、1年の時の流れの速さを感じつつ、新しい年が巡ってきます。
 今年は待ちに待った、八幡宮10棟についての国宝指定が10月に答申され、官報告示が近づきました。長い歴史の時の流れの中で1つの大きな節目を迎え、その美しさと守られた歴史で、磨かれた荘厳なたたずまいは、八幡市全体の誇りであり一層の光が輝くことでしょう。男山は竹でも有名ですが、竹はその節目に次の成長、夢がこもっております。長い歴史の流れの中で、先人の神社関係者の積み上げた努力の結晶が、八幡市初の国宝指定に結びつき「継続は力なり」に通じる成果と言えます。
 京都新聞によると、今回の国宝指定に合わせた、観光ならびに環境団体の市民活動に動きが見られるとのことです。
 来年3月には、当会が現地史跡をふくめた探究研修の会を予定しております。是非ご参加ください。
 次の節目は世界遺産です。神社、官民並びに専門家の協働作戦で、次の節目を目指したいと思います。良いお年をお迎えください。



石清水八幡宮と共に

穐月 哲 (会員)

 枚方の自宅から八幡さんまでは8.3㎞です。お正月は自転車で東高野街道を辿って初詣に出掛けました。突然雪が降り一面の雪景色の中帰ったのも楽しいお参りでした。又、夏に自宅横の山田池公園を横切り出屋敷の円通寺に立寄、国道一号線とほぼ平行に東高野街道を八幡さん迄歩きました。
 遺構を僅かに残す道の高まりや竹薮の茂みに思いを馳せ、旅人気分で「洞が峠」で一服、円福寺、八角堂、男山散策路経由でお参りした時は感激も一入です。
 なかでもご本殿との印象深い出会いは朱漆塗りの改修に立ち会えた時です。眩い朱塗りの荘厳に目を見張る感動は今でも忘れません。
 又、折に付け石清水八幡宮の歴史を学ぶ機会に恵まれ、先生方の講座から多くの事を教えて頂きました。神仏習合の神社として、山城郷土資料館特別展「南山城の神社と祈り」の展示は特に興味深いものでした。ご本殿が国宝指定され、これからも私達と共にある身近な神社として大切に守って行きたいと思います。



京阪八幡市駅前に「観光情報ハウス」オープン!

中嶋 進 (会員)

 11月1日から常時2名のボランティアが駐在して、八幡市及び近隣市町村の観光パンフレットを数多く取り揃えて情報発信を行っています。
 今のところ観光に来られた方にはおおむね好評で、朝おすすめしたルートで観光された方々が、帰りに「ありがとう、良かったよ」と声掛けしていただいた時は大きな喜びを感じます。
 石清水八幡宮の国宝指定が観光活性化への追い風となり、八幡宮門前町として栄えた「八幡の賑わい」を復活させることを願い、「国宝の石清水八幡宮」や「日本遺産の流れ橋・浜茶」など「八幡の自慢」を地元の方々と共にアピールしていきたいと思っています。
 今、駐在スタッフを募集しています。1か月に数日で結構です。ご協力よろしくお願いいたします。
by y-rekitan | 2015-12-28 07:00 | Comments(0)

◆会報第69号より-07 八幡の道③

シリーズ「八幡の道」・・・③

八幡の道を「東高野街道」となぜ呼ぶのか?
―その3―
 谷村 勉 (会員) 


「官」による地図の作製

 『京都府地誌』によりますと、明治八年(1875)六月五日太政官達により「皇国地誌編集例則並ニ着手方法」が各府県にだされ、明治14年から17年に京都府の担当者が調査した、とあります。

 同地誌の「山城国綴喜郡史」「道路」の項に、大阪街道「久世郡淀より本郡に入り、・・・木津川を渡り、八幡荘に至る、此の間を「御幸道」(みゆきみち)と云う、・・・」とここでも「御幸道」と言い表しています。
 文久元年(1861)四月二十四日 皇女和宮が第14代将軍徳川家茂に嫁ぐ直前に石清水八幡宮に参詣された折の記録を見ると淀御小休、堤道南へ、鳥居通御順路、山上、とあります。正徳三年(1713)に建立された「石清水八幡宮鳥居通御幸道」の標碑から「鳥居通」(とりいどおり)の名称を使用しています。
 同地誌の「荘誌 山城国綴喜郡八幡荘」「道路」の項に、高野街道「三等道路に属す、本荘の北界木津新川頭に起り本荘の中央を貫キ委、蛇南行し、河内国招堤村界尽く」とあります。
 『京都府地誌』の中の「山城国綴喜郡史道路」の項に「御幸道」と「高野街道」が出てきます。ここに云う「御幸道」が御幸橋(ごこうばし)から一の鳥居に向かう道路を指していると考えられます。「高野街道」も同じく八幡北辺の「御幸橋」(この時まだ架橋されていません)辺りからの旧道を高野街道と名付けたようです。「御幸橋」南詰から真っすぐ南下する通りは「御幸道」の記載がありますから、高野街道は御幸橋から東へ折れ、京阪電車のガード下を通り、真っすぐ飛行神社へ通じる道、あるいは御幸道から途中東方面に折れて、いわゆる八幡を縦断する常盤道(ときわみち)を高野街道と指しているものと考えられますが。

 次に明治18年頃の陸軍仮製図(参謀本部陸軍部測量局)では淀城下から美豆村、木津川に至る道を京街道とし、八幡に入れば「自京都至和歌山道」と図示(部分図①参照)また、洞ヶ峠からは「高野街道」と図示されています。(部分図②参照)
f0300125_14918100.jpg
 明治41年発行の「山城綴喜郡史」(京都府教育会綴喜郡部会発行)には、和歌山街道は八幡町より洞ヶ峠を経て、北河内郡菅原村字長尾に達す。と記載されています。さらに明治42年の陸地測量部(参謀本部測量局から独立)作成の地図に初めて「東高野街道」と図示されました。

 明治に入り作成された地図はいずれも「官」の担当者によって作られたものであり、機能性や利便性による一方的な官の命名であり、そこに住む住民の呼称などは反映されていないものでありました。一例を挙げれば現在のJR米原駅は官の担当者によって「MAIBARA・まいばら」と命名されましたが、実際は「MAIHARA・まいはら」と呼ぶ地元の呼称を理解していませんでした。
 また、特に陸軍が作成した地図とは当時は軍事機密に当たりますから、一般には流布せず、八幡の一般住民は「東高野街道」の呼称を知らないのは当然のことであったと思います。八幡宮の参詣道は相変わらず八幡宮道であり、志水道であり、山路道であり、常盤大道であったのです。少なくとも「高野街道」とは洞ヶ峠から河内方面の街道を指す呼称であり、戦後も永く八幡地区の「東高野街道」の名称は一般に流布していませんでしたが、いわゆる学者か誰かが明治時代に陸軍の「東高野街道」と書かれた地図を発見し、これを根拠に言い出したものではないでしょうか。八幡の道を「東高野街道」とする根拠は是非教えてほしいものです。

歴史街道運動

 中村直勝氏が昭和十一年に発行した「八幡史蹟」の文中に、山の西麓は河内の楠葉牧等を経て摂河泉の豊穣なる平野を背後に展開し、又洞峠から四条畷、河内東条に通ずる東高野街道を出している。と記載しています。ここでもやはり洞ヶ峠から「東高野街道」と呼称されていたことが示唆されています。
 先日友人からの質問で、南北朝の戦いの時、南朝の後村上天皇の「八幡御退失」の折、「東高野街道」を落ち延びたのではないかとの話になりました。早速「太平記」を読み直せば、「大和路へ向けて落ちさせたまえば、・・・木津川の端を西にそうて、東条(大阪府富田林市)へ落ちさせたまい、・・・賀名生(あのう)の御所へぞ参りける」とあり、「東高野街道」の名詞は何処にも出ませんでした。
 さて平成の世になってその4・5年頃、大阪から発信された「歴史街道運動」にいつの頃か八幡市も参加し、八幡市を南北に縦貫する道を「東高野街道」だとして、いきなり発信するようになったものでしょうか。当時はTVで歴史街道の宣伝番組をよく見ましたが、八幡の「東高野街道」等は全く知りませんでした。今から思えば「東高野街道」とする前にどれだけ八幡の歴史を検証し、実地の調査をし、かつての石清水八幡宮の神領の道に、他の宗教施設を連想するような名称を付けても良いのか等々、熟慮したのでしょうか。

 なぜ地元固有の歴史的名称を大事にして、次の世代に送ろうとしないのでしょうか。さらに、八幡を南北に縦貫する道を「東高野街道」と称して誰が往還したのでしょうか、日記や資料があれば示してほしいものです。実際に高野山に行くには殆どが淀川水系を利用して舟で大阪に出たのが、事実ではないでしょうか。

一の鳥居前の道標に「東高野街道」の名称はいらない

 一の鳥居前の「東高野街道」の道標は地元資料等、歴史的に考えてもあり得ないものと思っています。「御幸橋」(ごこうばし)から一の鳥居に向かう一連の道は歴史的に見て何度も「御幸道」(みゆきみち)と呼称されてきた事実を挙げました。何度も例証を挙げていますので、ご確認頂ければ幸いです。
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どちらかの展示会で「重要文化財 石清水八幡宮境内全図」(石清水八幡宮蔵)をご覧になったことがあるかも知れませんが、ここにも放生川に沿って描かれた松並木の道が「御幸道」であるとはっきり図示されています。放生川から西は清浄の地である八幡宮境内の一部として「御幸道」は描かれているものです。
 以前、八幡の観光案内に京阪八幡市駅から東に進み、f0300125_13314686.jpg京阪電車のガード下近くの交差点を南に、飛行神社前の常盤道(ときわみち)を「東高野街道」とするパンフレットを発行していました。また飛行神社前の常盤道を北行して京阪電車のガードをくぐり、御幸橋を渡って背割堤までのルートを「東高野街道」とする表示もありました。それがいつの間にか一の鳥居前の「御幸道」に「東高野街道」と記された道標が建ちました。これには古くから地元に残った史料や住民意識を無視して、やりたい放題の感があり、唖然とする住民は少なくありません。歴史は言ったもの勝、やったもの勝などと聞くことがありますが、そのような勝手な言い分を安易に認める風土や何でも無批判に引用するような風潮は戒めなくてはならないと思います。

「東高野街道」の道標をよく見ると

 「東高野街道」の道標は平成20年頃から建立されたものでしょうか、数か月前には「御幸道」辺りにも建立されました。しかし、これらの道標には普通は考えられないような欠陥があります。史実に興味のある住民や観光客にはすぐ判ることですが、これらは次回検討して説明いたします。

参考文献
  :京都府立大学文化遺産叢書 第3集 
   京都府立大学文学部歴史学科
    「八幡地域の古文書と石清水八幡宮の絵図」
  :石清水八幡宮史料叢書一「男山考古録」 
  :新潮日本古典集成 「太平記 四」 新潮社
  :その他


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by y-rekitan | 2015-12-28 06:00 | Comments(0)

◆会報第69号より-08 茶くれん寺

京の街角にある「湯たく山茶くれん寺」

野間口 秀國 (会員)


 京阪電車の橋本駅の大阪方面改札口前に「湯澤山茶久蓮寺跡」と刻まれた三宅碑があることは既に多くの人たちに良く知られています。同じく道を挟んだ向かい側に西遊寺があり、これまたこの駅で日頃乗り降りする地元の人たちにはお馴染みの寺であり、八幡市の歴史に関心のある人たちには良く知られた寺であると思います。
 改札口を出て寺への石段を数段登り門をくぐると、けっして広いとは言えませんがきれいに手入れされた庭が目に入ります。そこには八幡市郷土史会による寺の起源が書かれた案内板が建てられてあり、案内の最後の部分に「湯澤山茶久蓮寺」についても書かれてありますのでその部分を以下に書いてみたいと思います。曰く“・・・ 秀吉公が天王山で明智光秀と戦った山崎合戦の折この地に立寄りお茶を所望したところ湯ばかり沢山出したので湯澤山茶久蓮寺といったと伝えられている。”と。
 
 ところで、先述の三宅碑に刻まれ、f0300125_22264577.jpg秀吉公に「湯澤山茶久蓮寺跡」と言われた寺は西遊寺では無くて常徳寺であることも知られていることです。他にも、“・・・豊臣秀吉の帰依を受け、ある日寺を訪れた秀吉が茶を所望したのに白湯(さゆ)を進上したので「湯沢山茶くれん寺」と言われたという伝説が残っている。”と書かれたものもあります。常徳寺は曹洞宗の禅寺であり、浄土宗のお寺である西遊寺の西隣にあったことも分かります。(*1)また、常徳寺の跡を印す三宅碑が現在では西遊寺の北東隣りに建てられていることが確認できます。

 ところで、表題に書きました京の街角にある「湯たく山茶くれん寺」について書きたいと思います。既に寺の存在を知っておられる皆様には特に新しいことでは無いと思いますが、私に取りましてはまさに今はやりの「びっくりポン」でした。この寺の近くに住む私の知人がこの秋に石清水八幡宮を訪れ、その際に橋本駅近くに「湯澤山茶久蓮寺跡」碑があることを知り、彼の住む所の近くにも同名の寺が今でもあることを教えてくれたのです。これは実際に足を運んで確認してみようと思い立ち、少し寒かったのも意に介さずに出向きました。京阪電車の出町柳駅からバスに乗って西に向かい、千本今出川で降ります。千本今出川の交差点の西北角にお茶屋さんがあり、そこを起点に今出川通りを西にわずかに歩を進めると二つ目の寺がそれです。バスを降りて注意して見ると、古くからの南北の大通りである千本通りには歩道に「史跡めぐり」と記したおしゃれな表示板を吊るした柱があり、そこにも「茶くれん寺 すぐ」と記されています。
 寺の名は浄土院(湯たく山茶くれん寺)で浄土宗の尼寺です。寺でいただいた案内の栞の表には「豊公ゆかりの史跡 浄土院 湯たく山茶くれん寺」とあり、その謂(いわ)れが裏面に書かれてありますので、そのまま以下に書いてみたいと思います。

秀吉公と湯たく山茶くれん寺

 天正十五年(1587)十月一日、秀吉公が九州征伐の勝利と聚楽第の完成を記念して北野天満宮内の松原で「北野大茶湯」を催されました。その折、秀吉公が北野に向かわれる途中、当院に立ち寄られ、お茶を所望されました。
 住職は一杯目のお茶をお出しした後、秀吉公が、二杯目を所望されたため、世に知られた茶人でもあるお方に、自分の未熟なお茶をお出し続けるのは失礼でもあり、恥ずかしいことであると考え、それならばお寺に湧き出る香ばしい銀水をそのまま味わっていただこうとの想いより、沸かしただけの白湯を出し続けたといいます。
 一方、秀吉公はお茶のお変わりを頼んでいるのに出てくるのは白湯ばかりと、初めのうちは驚かれましたが、そのうちに住職の思いを悟られてお笑いになりながら「この寺では、お茶を頼んでいるのに白湯ばかり出して、お茶をくれん。湯たくさん茶くれん。」と言われました。
このエピソード以降、「湯たく山茶くれん寺」と呼ばれるようになったと伝えられています。(*2)

既にお気づきと思いますが、この浄土院では「九州征伐の勝利と聚楽第の完成を記念した茶会」の際であり、常徳寺では「山崎合戦の折この地に・・」とあり、西遊寺では「ある日寺を訪れた秀吉が・・」とありました。いずれの史実が確かであるか、また実際にあったのかなどを知ることはできませんが、山崎合戦(*3)が天正十年(1582)のことですから、それぞれの寺で秀吉が茶を所望したことがあっても不思議ではありません。歴史に登場する偉い人には複数の場所でいろいろな伝説が語り継がれることを知る一例であると思いました。f0300125_223759100.jpg
 浄土院ではご説明いただいた方に「秀吉公にお出しした銀水を汲み上げた時に使用されていたと伝える井戸は、傷んでいるために覆われてあり今では使用されておりません」とのことや、「同名の寺は姫路にもあるそうですね」(*4)などと教えていただきました。ちなみに、浄土院の門の右側、木の枠で囲まれた石柱に「湯たく山茶くれん寺」と刻まれていることを確認できました。機会を見つけて姫路のお寺にも足を運んでみたいと思っています。親切にご説明いただきました浄土院の方に、また情報を提供してくれた知人にもありがたく感謝申し上げます。

参考資料;
(*1)2014年3月15日(土)歴探の歴史探訪ウオーク 橋本の歴史(1)「京街道を歩く」の配布資料・歴史探訪の見所①②
(*2)浄土院 湯たくさ山くれん寺の案内栞
(*3)『日本史年表・地図』児玉幸多編 吉川弘文館刊 
(*4)Wikipedia 法輪寺(姫路市)、他のブログ

by y-rekitan | 2015-12-28 05:00 | Comments(0)

◆会報第69号より-end

この号の記事は終りです。


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by y-rekitan | 2015-12-28 01:00 | Comments(0)