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◆会報第70号より-top <スクロールだけで全記事が読めます>

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
このまま下にスクロールして頂くと順次連続してご参照頂けます。

◆シリーズ:“心に引き継ぐ風景” ①◆
《講演会》『三宅安兵衛遺志』碑と八幡の歴史創出 その1
◆シリーズ:“五輪塔あれこれ” ①◆
◆シリーズ:“八幡の道を「東高野街道」となぜ呼ぶのか” ④◆
◆新刊案内「戦国大名の正体」◆



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by y-rekitan | 2016-01-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第70号より-01 男山


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心に引き継ぐ風景・・・①
旧常盤道から望む男山
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 「心に引き継ぐ風景」と題して一年間担当します。

 八幡に悠久の歴史あり

 過去から引き継がれてきた郷土の歴史風景をこれからも繋いでいきたい想いがあります。八幡市は歴史上の数々の風景に彩られていますが、都(京都市)の隣に位置するために、その風景は隠れがちです。八幡の歴史風景の探検にお付き合い下さい。

 江戸時代まで、現在の木津川は淀城付近で淀川、桂川と合流していました。明治元年からの木津川付け替え工事によって、八幡のいわば表玄関であった北東部が大きく削られ、現在の宇治川、木津川が流れ、一部が京都市伏見区に編入されました。
それまでは、京からの帰り道は淀の京街道を通り淀大橋( 長さ200m以上)を渡り、八幡の美豆(現伏見区淀美豆町)から御幸橋の手前、八幡の幹線道路であった常盤道(ときわみち)を目指しました。写真は京街道と常盤道の合流点付近から見る男山です。
「釈迦涅槃像」を見る想いです。男山は東から見ても涅槃像で、西は遠く高槻市役所の最上階展望室からも涅槃像が見えます。(写真と文谷村勉)


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by y-rekitan | 2016-01-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第70号より-02 三宅碑①

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《講 演 会》

『三宅安兵衛遺志』碑と
八幡の歴史創出 その1

―松花堂・東高野街道・天皇聖蹟・綴喜郡―

2016年1月  八幡市文化センターにて
中村 武生  (京都女子大学非常勤講師)

 1月17日(日)午後1時半より、表題のタイトルで八幡市文化センターを会場に1月例会が開催されました。これまで通り、担当した者が概要をまとめ中村先生にお送りしましたところ、加筆訂正されたものが返送されてきました。但し、物理的な条件もあって一回だけで掲載することが叶わなかったようです。中村先生の三宅碑に対する思いの強さの表れでもあると同時に、ドキュメンタリータッチの文章はこれまでの概要報告とは違うもので読み応えがあると思います。そこで、今回と次回とに分けて掲載することにしました。ご承知おきください。  参加者77名。

三宅安兵衛の遺志、長男清治郎による建碑

 三宅安兵衛(1842~1920)は若狭(福井県)小浜の出身で、洛中六角通東洞院に居住し、筑前博多織を営んで財をなしました。当時、京都市内で博多織を営むのは安兵衛だけでした。安兵衛は亡くなる前年の1919年(大正8)元旦に、長男清治郎(1872~1940)に1万円(当時)を託して遺言しました。
 これは父母(母ゆかも同年に死去)の十三回忌(1932年)に刊行した回想録『木の下蔭』によって知れます。
 原文のまま記載すると、「此の金を予が死後、京都の為め公利公益の事に使用せよ。是れ予が幼より故国を出て京都に来り今日迄恩沢を蒙りし御礼の意也。
 但し其用途の方法時期等は汝に一任す。要は克く予が意を体せよ。疎かに用ふるなかれ、云々」です。
 清治郎は凡そ1年間遺言をいかに実現するかに悩みますが、ついに以下の想いに至ります。「つらつら意ふに、旅行観光は考一代の楽みなりき、別して都名所には強き憧憬を有したり。されば嘗て、石清水八幡宮平野神社等に参詣者の栞として、同志と協に標石を建てたる事もあり。惟うに都名所社寺旧跡に標石を建て、名所の栞に道碑を立てなば、必ず、在天の霊、笑って之れ臠し給はん。(中略)大正10年12月27日に起して、昭和5年迄に建碑。無慮四百余基所期以上を了し建設費約金弐万円を之れに要したり。」(『木の下蔭』)

f0300125_16263014.jpg 亡父らが建てたものは「旧官幣大社石清水八幡宮」という巨大標石として現在も一の鳥居前に残っています。三宅安兵衛の名前も刻まれています。亡父の遺言は、その一周忌に当たる大正10年から昭和5年(1930)まで、10年をかけて履行されました。実に400余基を建碑されました。託された1万円だけでなく、清治郎自身も1万円を出して合計2万円、凡そ現在の1億円をこの事業に費やしました。

忘れられた三宅安兵衛・清治郎父子の事業

 清治郎は昭和15年(1940)に熊本で客死しました。急性肺炎でした。当時の新聞に写真入りで報じられています。清治郎は父安兵衛の博多織を継がず(実弟安次郎が継ぎました)、西陣織の帯屋を営んでいました。晩年、物資不足の時期に蓑虫の加工品を開発しました。帽子、財布、靴、ネクタイなどを売り出し、「蓑虫翁」として有名でした。
 清治郎の死後は、その事業も存在も忘れられたようです。八幡の石碑のなかには開発等によって廃棄されたものがありました。のち発見され、現在はふるさと学習館の庭に横たえて、「路上展示」してあります。

岩永蓮代による再評価

 忘れられていた「三宅安兵衛遺志」碑を改めて紹介したのが、岩永蓮代(1916?-?)です。東京都杉並区の一般女性で、1987年(昭和62)2月刊行の著書『文化財保護ありのまま』(六興出版)のなかで父子を取り上げました。岩永は、奈良時代、聖武天皇が全国六十余州にそれぞれ建立した国分寺・国分尼寺跡などの保護に尽力したことで知られます。とくに国分尼寺の啓発を心掛けたようです。国分尼寺跡は、国分寺跡よりも不明な点が多く、旧蹟地があまり分かっていません。
 ただ国分尼寺は正しくは「法華滅罪之寺」といいまして、「法華」などの地名として残ることがあるようです。「尼」のつく地名もそうです。そのようなところには古代の寺院に葺かれた布目瓦や、礎石に使用された立派な石などが落ちていることもあります。必ずしも国分尼寺跡とは言い切れないけれど、もしかしたらそうかも知れない。しかしこのまま放置するならば、将来遺跡は壊滅するであろう、岩永は地域や自治体に対して粘り強く顕彰を勧め、いま実証できなくても、まずは「参考地」などと刻む石碑を建てることを主張しました。自身が費用を提供したことも一度や二度ではありませんでした。播磨、武蔵、上野などの国分尼寺跡の保護に関わったそうです。
 1968年(昭和43)12月、山城国分尼寺跡を求めて、京都府相楽郡加茂町法花寺野(当時)を訪問しました。そこにはすでに「甕原離宮国分尼寺遺趾参考地」と刻んだ碑が建てられていました。自身以前に「参考地」と刻んだ碑のあることに驚き、関心をもって裏面を見ると、「昭和4年(1929)春に京都三宅安兵衛の遺志をうけてこれを建てる」とあった。いったいどのような人だろうと思いつつ、その後も京都府下を歩いていると「三宅安兵衛遺志」と刻んだ石碑の多くある事に気づきだします。自治体などに問い合わせても当時は全く判らなかったそうです。
 それが7年後の夏、当時高倉三条にありました(現在の京都文化博物館の位置)古代学協会運営の平安博物館で、山中裕による「御堂関白記」(藤原道長の日記)の集中講座があり、それに岩永が参加していたときのことです。同館の教員だった大石良材にたまたま「三宅安兵衛遺志」碑について話題をしたところ、なんと大石は三宅家の遠縁に当たる人でして、子孫がこの近所に住んでいると知らされます。その日のうちに六角通東洞院の三宅清三(清治郎の嫡孫)を紹介され、前記『木の下蔭』を示されてようやく事情が分かったということでした。

 なお岩永について、もう少し述べておきます。実は国分尼寺跡にとどまらず、京都府下の複数の史蹟顕彰にも関わっています。鳥羽離宮跡公園(京都市南区)や浄妙寺跡(宇治市木幡)などの標識です。『文化財保護ありのまま』に記載はありますが、現地のそれには一切岩永の名が記されておりませんので、特記しておきます。前者については『京都新聞』1975年5月8日付に報じられていました。後者については、直接窓口になられた吉水利明さん(当時宇治市教育委員会)からうかがいました。なお『京都新聞』には岩永自身の「国分尼寺跡をめぐって―私の保存活動」という一文も寄稿されていましたので紹介しておきます(夕刊1972年6月12日付。上記記事とあわせて萬田朋子さんの教示)。
 最初に岩永を一般の主婦と紹介しましたが、実は大正・昭和戦前期の日蓮主義研究者として高名な仏教哲学者田中智学(1861-1939)の末娘です。なるほど名前の「蓮」も釈迦とゆかりの深いハスや日蓮の一字に通じます。家庭環境が岩永の文化財保護意識を育てたことは間違いありません。というのも、実は田中智学も日蓮宗旧蹟などに多くの揮毫・建碑をしているのです。そのひとつが八幡市にあります。本妙寺(八幡城ノ内)の日門の墓と「景仰之碑」です(高田昌史氏「《歴探ウォーク》八幡の古寺巡礼、第3回男山山麓の寺を巡る(Part2)」、八幡の歴史を探求する会会報69号)。本妙寺門前には「日門上人墓所、本妙寺」と刻んだ三宅碑も建っていて、世の中のつながりの深さに感じ入っています。岩永蓮代の活動も、いつかどなたかが伝記などにまとめて頂きたいと願っています。

「三宅安兵衛遺志」碑との出会い

 さて岩永の『文化財保護ありのまま』を、僕は1989年(平成元)11月16日に、立命館大学東門そばの古書店で購入しました。当時僕は佛教大学史学科の3年生で、その年の4月から枚方市の親元を離れて一人暮らしをしていまして、自活しようと洛東山科や洛北大原、洛西嵯峨、桂で家庭教師をいたしました。そのうちの一人、大原の谷口誠司君に求められて、学習の一環でいっしょに宇治平等院に行きました。同年12月10日のことでした。京阪宇治線の宇治駅を出ると、宇治橋のたもとに「宇治川ライン」と刻まれた石碑が見えたのです。「三宅安兵衛遺志」碑のひとつです。『文化財保護ありのまま』にこの写真が挿入されていたので(185頁)、すぐ気づきました。これが初めて意識して触れた三宅碑です。
 その後、石碑に気づくと必ず裏面を見るようになりました。たとえば実家のある枚方市の史蹟めぐりをしていたとき、楠葉の久修園院の門前で「戊辰役橋本砲台場跡」碑に気づき、ふと裏面を見ますと「三宅安兵衛遺志」とありました。身近なところに三宅碑の存在することも、意識が持続する力になったのかもしれません。
 岩永につづいて三宅碑を紹介されたのが、伊東宗裕さんです。1997年(平成9)7月に刊行された『京の石碑ものがたり』(京都新聞社)のなかで、三宅父子と「西陣碑」を取り上げられました。西陣碑とは、今出川通大宮の旧西陣織会館、現在の京都市考古資料館前にあるもので、ほぼ最後に建立された三宅碑で、最大の規模のものです。
 この書籍は刊行と同時に伊東さんがお送り下さいまして、さっそく拝読しました。このなかで伊東さんは、岩永の『文化財保護ありのまま』ではあきたらず、『木の下蔭』そのものを欲せられたこと、しかし国会図書館や府立総合資料館などにも所蔵されていなかったこと、そのため前述の三宅清三を頼られてようやく入手されたことなどが記されてありました。

f0300125_16374528.jpg これを読み、実は僕も『木の下蔭』を読んでみたかったものですから、伊東さんにお願いしましたところ、快諾されてすぐにコピーを送ってくださいました。感激したのはいうまでもないのですが、最も刺激されたのは「建碑個所」と記された建立地一覧を記した部分でした。これまでは全くの偶然的に三宅碑を見つけることしかできませんでしたが、これさえあれば主体的に探しに行けるのです。伊東さんへの礼状には、自分は岩永や伊東さんのような文章は書けないが、「頂いた一覧を片手に建碑の現在を見て歩く旅を始めようと存じます」と記しました(同年9月10日付)。
 「建碑個所」一覧を見て、まずはっとしたことがありました。中学1年生だった1981年(昭和56)1月15日(祝)、お年玉で初めてカメラを購入しました。3日後の日曜日、香里園駅から京阪電車に乗りまして、初めて単独で京都市内の史蹟めぐりをしました。午前中に寺田屋跡を訪ね、午後から洛中に入りました。最初に目指したのは三条木屋町の池田屋跡碑です。京阪三条駅から三条大橋を渡って西へ進みます。父から借りた観光ガイドブックの地図に池田屋跡が示されていたので、それをたよりに木屋町三条交差点に近づきました。すると左(南側)に目立った背の高い石碑が目に入りました。池田屋跡は交差点の西ですのでこれは違います。しかし何もしらない子どもでしたので、目についた石碑に近づきました。瑞泉寺の門前です。そこには「前関白従一位豊臣秀次公之墓」と刻まれておりました。池田屋跡碑ではありませんでしたが、当時の僕はたまたまでしたが、すでに豊臣秀次を知っていましたので、感じ入ってしまいました。この年のNHK大河ドラマが「おんな太閤記」で、前年秋刊行のガイドブックの配役一覧を読んでいて、秀次を当時のアイドル的な俳優の広岡瞬さんが扮されることを記憶していたからです。
 父から借りた観光ガイドブックの地図には、秀次墓の記載がありませんでした。秀吉の甥で二代目関白であったという重要人物の墓を記さない、でも池田屋跡は記す。なんだろう、この評価はという感じでした。京都の底深さといいますか、得体のしれないようなものを感じた気がしました。京都の魅力にはまる、大きなきっかけの一つだったように思います。
 前置きがながくなりました。『木の下蔭』の「建碑個所」をながめていると、「豊臣秀次公の墓」などと記されていて、はっとしたわけです。これはもしや、あの瑞泉寺前の碑ではないかと思ったわけです。さっそく訪ねて裏面を見ましたら、やはりそうでした。当たっておりました。自身の歴史研究の人生は、ある意味、あの1月18日から始まったと位置付けておりましたので、その日に出会い、京都の底深さを感じさせてくれた碑が三宅碑だったということは、自身のいまは三宅碑がつくったのではないかという気がして参りました。なんだか三宅碑の調査をすることが自分とは何かを知ることにつながるような気がして、それから取りつかれたように三宅碑探しを始めるようになったわけです。
(以下次号)

「一口感想」 より

久しぶりに感動する講演。体がふるえました。大変勉強になり、感謝、感激しました。(A)
興味深いお話有難うございました。宇治と城陽の観光ボランティアガイドを行っています。三宅碑は、ガイドの中で必ず出てきます。彫の深い石碑、分かり易い場所にある安兵衛の碑、その熱い思いにいつも感動しています。京都市内と違い、この地は全国的には知られていないが、重要な歴史が埋もれている場所です。これからも安兵衛氏、清次郎氏の思いを語り続けて行きたい。(酒井源弘〔もとひろ〕)
アッという間の楽しい時間でした。八幡をもっと知りたいと思いました。(B)
八幡の歴史 学びの第一歩にいる私ですが、今日のお話は“ビックリポン”です。研究者というのは、こんな方なんだと、そちらの方を興味深く聞かせていただきました。「三宅―」碑を見て歩くつもりです。(福田信子)
すさまじい分量のご講演でした。有難うございました。会の柔軟さにも驚きました。八幡の皆さんにも是非三宅碑と三宅碑以外の碑や史跡を守っていただきたいと思いました。(倉敷)
中村先生の三宅碑に対する熱い思いを感じさせる熱弁に感動しました。(大澤貴司)
楽しく聞かせて頂きました。八幡の事をますます知りたくなりました。三宅碑のこと、もっと勉強したいと思います。(C)
学問の真髄にふれさせていただきました。いつ、何が(誰が)、どこに、何故などの言葉がたくさん飛び交っていました。(畑美弘)
本日の中村武生先生の講演は大変よかった。本日、入会させていただいた者ですが、これからも参加したいと思います。これからもよろしくお願いします。(大谷雅彦:枚方市在住)
中村先生の講演は常に聴き手にとって収穫が大きいのですが、今日の講演は一段と熱の入った内容で、中村先生のファンとして大満足です。今日は、これまでにお聞きしたことがないことを沢山教えて頂きました。(播磨義昭)
三宅安兵衛、清次郎の事がよくわかった。スライドを使っていただいたので石碑の在り処がよく理解できた。何故八幡周辺に多かったのか、その経由もよくわかった。文献、聞き取り調査の必要性もよく理解できた。八幡市内の石碑とその他の史跡とのつながりが西村芳次郎の存在によってわかった。ありがとうございました。(真下慶子)
松花堂庭園を案内する者として。西村芳次郎氏が内園を整備されたことは知っていましたが、三宅碑建立にこんなに強くかかわっていたことを知り大変勉強になりました。(藤田美代子)

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by y-rekitan | 2016-01-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第70号より-03 五輪塔①

シリーズ「五輪塔あれこれ」・・・①
現場の解説板

野間口 秀國 (会員) 


 2015年10月、「石清水八幡宮上院の本殿や回廊、楼門など計10棟を国の重要文化財から国宝に格上げを答申」のニュース(*1)は多くの関係者の皆様には勿論の事、八幡市民にとりましても喜ばしい限りであり、国宝に指定されるその日を多くの人たちが待ち望んでいます。そのような華やかさはありませんが、八幡宮下院の頓宮殿近くに、これまた国の重要文化財に指定されている大きな五輪塔があります。しかしこの五輪塔はどれほどの人たちに知られているのでしょうか。

 京阪電車の八幡市駅改札口を出て左へ、f0300125_1530262.jpgバス乗り場に沿って反時計回りに進むとほどなく右手に見上げるような高さの一の鳥居が目に飛び込んで来ます。鳥居の手前で進路を右に取り暗渠となった水路沿いに歩を進めると間もなく右手前方に神應寺総門があり、視線を左に転じると前方に大きな五輪塔が視界に入って来ます。石清水八幡宮五輪塔(*2)と呼ばれるこの石塔(*3)について興味を持ち色々と調べてみましたので、分かったことや、分からないこと(殆どそうですが)、五輪石塔(*3)にまつわるあれこれを書かせていただきたいと思います。
 手始めに、きっかけとなった五輪石塔のある現場に立つ「八幡市教育委員会の解説板」に書かれた文章をあえて今一度なぞってみます。理由は、書き進むにつれ一度ならずこの文章に戻ることがあると思うからです。

 以下、解説板(*4)に書かれた文章をそのまま掲載します。
石清水八幡宮五輪塔 (航海記念塔)

 高さ約六m、地輪(球形の石材の下の方形の部分)一辺二・四m、全国最大規模の鎌倉時代の五輪石塔で、国の重要文化財に指定されている。石塔の各部分は、下から地・水・火・風・空の五大要素を表している。地輪は、数個の石を方形に組み、水輪は背が低く安定感のある球形をしており、火輪の笠石は軒が厚く、形の良い反りをしている。摂津尼崎の商人が中国宋との貿易の帰途、石清水八幡宮に祈って海難を逃れ、その恩に報いるため建立されたと伝えられる。航海の安全を祈って参詣され、航海記念塔とも称されている。この大石塔を築く際、石を引くのに火花が出て綱が焼き切れてしまったので、竹で作った綱で引いたという話もある。また、忌明塔ともいわれ、亡き父母の忌明けの日に参り、喪の汚れを清めたという。そのほか、鎌倉時代の武士の霊を慰めるために建立された武者塚であるとか、刻銘がなく、造立の起源が不明であるためか、この大石塔にまつわる伝説は様々である。
     一九九二年三月
八幡市教育委員会
 訪れるたびに書かれた文面を読み返すも、何となく分かったようで、実は分からないことばかりであることが分かりました。この石清水八幡宮五輪塔についての書籍や描かれた絵図などは複数出版されており、新聞でも報じられています。また八幡市誌や当会会報、その他団体の機関誌などにも先輩諸氏によるこの五輪塔を含めた数々の五輪塔・石塔に関わる記述や報告も数多く、そこに書かれたことも参考にさせていただきたいと思います。
 f0300125_1549725.jpg高良神社の鳥居傍にある案内絵図(掲載写真)にも描かれておりますので、機会がございましたら一度探してみられるのも楽しいかと思います。先述の書籍等々にありますいくつかの五輪塔を訪ね、そこで見聞きしたこと、学んだこと、思ったことなど、時代を往き来しながら書きたいと思います。最初から、何をゴールにどこまで、と決めることなく始めてみますがどうなりますか。
 とは言え、分からないなりに解説文を何回も読むうちに、そこには調べるためのヒントもいくつか見えるように思われます。それらは「いつ/When」「だれ/Who」「どこ/Where」「なに/What」「なぜ/Why」などの基本的な5つの不思議(5W)です。これらに「どのように/How」の(1H)も加えてみたいと思います。必ずしもこのように順番どおりとはゆかずに、Wの混在や行ったり来たり、時に H が混ざることもございますことは予めご容赦願います。次章ではいきなりですが上記の順番どおりでは無く、石清水八幡宮五輪塔はいったい「なに/What 」から始めてみたいと思います。

参考図書・史料及び注記等:

(*1):京都新聞(2015年10月17日付)記事など。
(*2):八幡市HPにある八幡市の重要文化財などの一覧に記載されている名称。
(子育て・教育 => 教育要覧「八幡市の教育」 => 27年度ファイル)

(*3):本章を含め、以降、五輪塔、五輪石塔または石塔などとも書きます。
(*4):本章を含め、以降、説明板、説明文、解説などとも書きます。


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by y-rekitan | 2016-01-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第70号より-04 八幡の道④

シリーズ「八幡の道」・・・④

八幡の道を「東高野街道」となぜ呼ぶのか?
―その4―
 谷村 勉 (会員) 


石碑・道標の意味

 八幡市には「三宅安兵衛」碑をはじめ多くの石碑や道標が存在します。
 八幡は主として石清水八幡宮が貞観元年(859)に宇佐八幡宮から勧請されて以来、重層的にその歴史を重ねてきました。そのような八幡にあって、その歴史的な石碑や道標が指し示す「史蹟」は、『あたかもその地域の唯一の歴史のように、旅行者のみならず、住民にさえ認識され出すのである。石碑が後世にこのような影響を与えるものである以上、その建設過程は追及されなくてはならない』(注1) 建設過程とは個々の石碑がいつ、誰によって、何の目的によって建立されたか等を石碑に銘記する事であります。それによって現在の我々にとって郷土の文化財研究の貴重な遺産となっています。また石碑や道標が観光客に役立つのも表だけでなく裏や側面に書かれた意味を理解し、設置の背景をも読み取ろうとするからです(注2)。

f0300125_1895624.jpg 近年俄かに建立された「東高野街道」の道標を観察すれば、建立年月日や建立主体が記されていません。常識では考えられないことかと思いますが、それには何か意図があるのでしょうか。単に考えが及ばなかったのか、費用の節約を考えてなのでしょうか。
 八幡に越してきた多くの知人は残念ながら八幡の歴史的史実をよくご存じではありませんので、「東高野街道」の何々、何処何処とまことしやかに表現している場面に出くわすことがありますが、これは史実を知らないと「東高野街道」が、あたかも八幡の道の唯一の歴史のように認識する人も出てきた事を表しています。観光客にとってはもっと深刻です。さも大昔から「東高野街道」の呼び名を八幡では使用されてきたかのような印象を与えかねません。我々はもっと具体的に志水道の何々、城ノ内の何処何処、神原町の何々と表現しますし、町内の道に関して「東高野街道」と言った呼び方をしたことがありません。
ときわ道、志水道、八幡宮道といったオリジナルな道の名前が昔から存在するのに、歴史ある石清水八幡宮の「八幡宮道」にわざわざ「高野山」や「和歌山」でもないと思います。歴史街道運動に乗って単に観光客を誘致する材料として「東高野街道」と呼ばせることに、郷土愛といったものは全く感じません。
 何時、誰が建てたかわからないような「名無しの権兵衛碑」を見て、道標の意味をよく理解していない者による建立だとすぐ解るようなものです。
 最近「東高野街道」の道標に関して何人かの知人から問い合わせが来ましたので、八幡には「八幡宮道」や「御幸道」などのオリジナルな呼称が歴史的道標とともに存在する事や「八幡宮道」を示す道標は八幡市内だけではなく、近接の枚方市、交野市、寝屋川市等の本来、洞ヶ峠を起点とする大阪府内の「東高野街道」にも多数現存すること (注3)などを丁寧に説明したところです。

八幡の「東高野街道」は複数あるのか

 俄かに建てられた「東高野街道」道標が文化財研究の貴重な郷土遺産として耐えられるものかおおいに疑わしいとする理由は他にもあります。
 以前、「放生川」を挟み「御幸道」と東西並行して通っていた飛行神社側の常盤道(ときわみち)を「東高野街道」であるとしていたものが、突如、歴史的由緒のある「御幸道」(みゆきみち)を「東高野街道」と言い出しました。八幡に住み、八幡の歴史に関心のある我々にとって、これは歴史を塗り替えようとする行為としか映りません。
 また、紅葉の名所として知られる善法律寺前に「東高野街道」と記された道標が最近建てられましたが、この道はご存知の方も多く、昭和30年代に道路が作られた「新道」(しんみち)と住民が呼んでいる道です。それまでは周り一面、田圃や畑でした。昭和54年にやっと「認定道路」になったものです。
 旧道は善法律寺の東側の道、八幡市民図書館沿いの道を南に向かい、今田、馬場、神原を通って「走上り」の坂を西に進み、神原の交差点を南に志水道の正法寺へと進む道です。この道の八幡市民図書館横にも「東高野街道」の道標があり、東西に「東高野街道」が二本通っていることになりますが、「歴史街道?」が同じ所に二本も通っていることなどあり得ないことだと思います。
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 繰り返しになりますが、善法律寺の前を通る道(点線部分)は新道(しんみち)と呼んでいます。この道路は昭和30年代に取付工事を行う以前は、江戸時代の古図と同様南北に通じる道はありませんでした。
 この新道(しんみち)沿いの「善法律寺」にどうして「東高野街道」の道標が建つのか理解に苦しみます。果して、これを昔から在る「東高野街道」の古道と説明できるでしょうか? 無理なこじ付けとしか思えません。古道と呼べるのは東側に位置する道路です。

水月庵石碑(八幡大芝)の右に旧道あり

 f0300125_13262331.jpg志水道から松花堂庭園に向かって南行し、やがて大芝に入ると「水月庵」の
石碑が見えてきます。真っすぐ進めば松花堂ですが、旧道は水月庵石碑から右に入り、八角堂を通り過ごして左に南下し、中ノ山墓地の東入口から宝青庵と旧万称寺跡地の間を通って南下するのが本来の道になります。今では殆ど車の往来もない閑静な道です。
 図で示す点線部分は現在使用されている道路で、「月夜田交差点」に至る新しい道路です。月夜田交差点に「岡の稲荷社」の三宅碑がありますが昭和2年の建立ですから、当時既にこの新しい道路があったのかもしれませんが、現松花堂公園の古い写真を見れば畦道程度の道であったかもしれません。
 f0300125_18505979.jpg志水道を南行し松花堂庭園に向かうと「水月庵」の石碑が見えて、二叉路になり、右に入って八角堂へ向かうと、これが旧道の本来の道になります。
 なお、「水月庵」の石碑も元の旧道から動いていると推定されます。八幡の古道を「東高野街道」と称するならばこちらに「東高野街道」の道標を建てなければなりません。

「東高野街道」道標の矛盾

 放生川の東側に位置する常磐道(ときわ道)を「東高野街道」と言っていたものが、新たに事もあろうに、歴史的由緒名のある「御幸道」(みゆき道)を「東高野街道」と俄かに言い出したり、菖蒲池の八幡市民図書館から神原に至る道が本来の旧道でこちらを「東高野街道」としていたものが、その西側の新道(しんみち)と呼ばれる道路にある「善法律寺」の前に「東高野街道」の道標を建立したり、「水月庵」の石碑を右側に八角堂へ向かう古道を「東高野街道」と呼ばず、松花堂庭園西側の新しい道に「東高野街道」の道標を建てるなど、矛盾だらけの道標の建立や、建立年月日や建立主体の不明など、やっていることが、何かおかしいと思わざるを得ません。
 いま全国の自治体で古道や街道の整備に力を入れていると聞きますが、何処でもこういう事があり得るものでしょうか? 道標建立を推進している当事者は八幡の歴史や文化財の保存など本当に勉強し理解しているのでしょうか? よく理解した当事者であれば八幡の歴史や文化財保存の取り組み方、その仕組み、実際の活動など、他の自治体との比較などを含めて是非教えて欲しいと思う程です。
 少なくとも我々は八幡が好きです。八幡の歴史や文化財を大切にして、次の世代に送りたいと思っています。「和歌山」や「高野山」がメジャーで有名かも知れませんが、決してあやかりません。八幡のオリジナルな歴史を大事にします。そのために八幡の歴史を勉強し探究していきたいものです。
 このシリーズは次回が最終回です。

[注]
(注1)『京都民報』[中村武生 2004.4.11)“「三宅安兵衛遺志」碑と西村芳次郎”において、石碑が後世に影響を与える以上「石碑の建設過程は追及されなくてはならない」と述べている。
 歴史地理史学者の中村武生氏は『花園史学・2001.11』において「京都三宅安兵衛・清治郎父子建立碑とその分布」で八幡の三宅安兵衛碑について報告している。
(注2)『中村武生とあるく洛中洛外』(中村武生監修・2010.10・京都新聞出版センター)に道標・石碑についても詳しい記述がある。
(注3)『高野街道』(大阪府教育委員会、歴史の道調査報告書 第2集 昭和63年)P75 (1)道路等一覧表より、枚方市、交野市、寝屋川市等で「八幡道」、「八はた道」など「道」と記された道標6基、単に「やわた」あるいは「や者た」と記された道標6基、合わせて12基の「八幡宮道」への道標の存在が報告されている。

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by y-rekitan | 2016-01-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第70号より-05 新刊案内


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―鍛代敏雄 著―
『戦国大名の正体』-家中粛清と権威志向-


土井 三郎 (会員)

 戦国時代は、南北朝の争乱と並んで私が好きな日本史のテーマである。1970年代、学生の頃とそれ以降に読んだ「岩波講座 日本歴史」や中央公論社版等で戦国期を扱った論文や著作も思い出される。好きな理由を述べるならば、「群雄割拠」の時代にあって、「雄」たる戦国大名が各自の地域をどのように領有し、勢力を張り得た(「割拠」)のかを探究する喜びに浸れるからに他ならない。制約された時代状況にあって、いかにそれを乗り越えていったのか。或は乗り越えられなかったのか。そんな人間ドラマを読み取ることが愉しいからとも言えるだろう。但し、戦国時代の帰結のように扱われる信長や秀吉、家康の事績には左程の興味を覚えない。NHKの大河ドラマによって手垢が付きすぎた印象が大きいが、関東に覇をとなえた北条氏や東北の雄、伊達氏、そして敗者である尼子氏、信長に果敢に挑み敗れ去った浅井・朝倉氏などに人間臭さを感じるし、敗れた理由を吟味することの方が歴史の楽しさだと思えるからである。
 さて、鍛代さんの同書は、副題に「家中粛清と権威志向」とある。まさに、著者が書きたかった眼目であろう。「家中粛清」とは、武田信玄が父信虎を追放し、嫡男義信(よしのぶ)を切腹させたことであり、伊達晴宗(はるむね)が実父稙宗(たねむね)を城中に幽閉したこと、織田信長が実弟信勝(のぶかつ)を謀殺したことなどを指す。それぞれ家中の事情があり、主従の力関係や「同盟大名・小名、国衆が加わった政治状況」などの要素が複雑に絡まっていることが理由としてあげられる。但し、「家中粛清」は、島津氏、今川氏、毛利氏、六角氏、松平氏、大友氏、大内氏、斎藤氏にも及ぶ。つまり、名だたる大名家が戦国期に、ある意味通過儀礼の如くに経なければならなかったことなのかもしれない。この章を終える中で、著者は次のように述べる。「戦国大名の軍事国家は、主に家中粛清によって構築された。「王殺し」を含めて、粛清は戦国大名の権力や権威の源泉となった。粛清における正当性および正統性が、家中や分国内で評価され認知されてこそ、政権の安定を見ることができた。」

 同書の目次を紹介したい。f0300125_16324270.jpg
 序章、ヨーロッパ人の観た戦国日本/第一章、粛清と王殺し/第二章、大名の条件/第三章、天下と外聞/第四章、亡国の遺産/終章、一六世紀の考え方
 第二章の「大名の条件」は、この間の戦国大名研究で明らかになったことを概説しているようである。印象深かったのが「検地と税制」と「城と城下町」である。
 検地とあれば「太閤検地」が思い浮かぶが、教科書的な知識の延長でしかない雑駁な認識は歴史探究を曇らせるものである。1977年発行の中央公論版「日本の歴史」『戦国大名』(杉山博著)の「大名と農民」の章に「戦国大名の検地」の項目があり、杉山氏は「戦国大名は農民支配のしかたにおいて、それ以前の領主たちとはまったくちがう徹底さを示しはじめている」と既に明記している。
 鍛代さんは、北条氏を例に、「原則、検地に基づいて、家臣にたいし知行高を安堵し、軍役・番役・普請役の奉公の義務を課した。農村には郷役・村高を認め、年貢・公事・夫役を課すための台帳を作成した」としている。何のことはない。近世における幕藩体制下の村落支配がすでに戦国期に施行されていたのである。「城と城下町」も同様である。城と城下町といえば織豊政権下で進められたと思いがちであるが、「戦国大名の城下町集住策は、地域性の強い武士を農村から切り離す兵農分離の課題を克服するためでもあった」という指摘は、戦国時代が中世(室町期)と近世(江戸時代)を画するエポックになったということでもある。いうなれば、270年近い泰平の世を準備するために100年の戦国期が必要であったということであろうか。
 第三章の「天下と外聞」、第四章の「亡国の遺産」は、鍛代さんらしい論理展開だと思う。副題にある「権威志向」の内実を語っているからである。本の帯にこうある。「下剋上の申し子でも、規制秩序の破壊者でもなかった戦国大名たちの精神構造に迫る」
 戦国大名の対極にあるのが、『太平記』の描く高師直や土岐頼遠、佐々木導誉ら規制秩序の破壊者であるバサラ大名である。彼らはバサラではない。「戦国大名は破天荒な成り上がり者ではなく、無秩序な無法者でもない。伝統的な権威を排除して傍若無人な振る舞いをするバサラではなかった。その理由を説明する上で重要な論点が、大名御家や分国を「公儀」と認識する政治思想にある。もちろん公儀は室町幕府および将軍のことを指して呼ぶことが一般的であった。」
 戦国大名の誰もが最初から「権威志向」の持ち主であったとは思わない。「家中粛清」を断行し政権を安定させ、群雄割拠の時代に実力で武力闘争に勝ち上がり、分国法を定めて国内のトラブルを解決する見通しを示し、検地と税制や城下町政策を推進する中で家臣を身分的・経済的に統率する一方、村落支配を確実にした戦国大名のみが、人と土地の支配をさらに強固なものにすべく、官位、偏諱(へんき)(将軍の一字を頂くこと)、相伴衆、白傘袋、毛氈鞍覆などの使用許可を室町将軍に希ったのではないか。このような権威・栄誉をまとうことで自己の正当性・正統性を誇示したものと思われる。
 第四章の「亡国の遺産」は、『神国論の系譜』の著者らしい論述である。敬神・崇仏を心掛けることを説く一条兼良(かねら)や、神道を根源として儒教と仏教が誕生したとする説を披歴する吉田兼俱(かねとも)の言説が将軍家のみならず戦国武将に影響を与えたという。また、戦国期、京都の道者(どうしゃ)(一芸を極めた者)たちが地方の城下町に出現し、それを保護した戦国大名である駿河今川、甲斐武田、越前朝倉、周防大内氏などがいずれもその後滅びてしまったことから、王朝文化が「まさに亡国の王朝遺産となった」と結論付ける。

 最後に、戦国大名や天下人の神国観、天道観を紹介したい。
 織田信長による伊勢神宮内宮の遷宮費用や石清水八幡宮の若宮造営費の寄進、それを受け継いだ秀吉が京都に大仏殿を建立したことなどについて、「戦国大名や天下人にとって、寺社造営は、権力者の武威を飾るための政治的な演出であり、権威を正当化する儀礼であった」という指摘は的を射たものである。問題は、そのことが「亡国の遺産」に成り得るかのように述べる点である。「天道と神国」の項で、「戦国大名や天下人は、公儀を正当化するために、天道を喧伝して権威を裏付けたのである。また、「天」=「神」と解釈して、日本の神々・神仏によって武威を飾ったのである」と述べる。そこまでは成程と思うが、天下人はさらにエスカレートする。それは、今日の日本人の一般的な宗教観とは異質なものであろう。つまり、信長は、自分のことを国王であり内裏であると述べた。自身が神であると宣言したのである。秀吉は、九州征討に赴いた際に、伴天連追放令を発した。その理由が、「日本は神国」だからというものである。神国日本を宣伝してキリスト教国に対峙し、キリスト教の邪悪と仏法の正義を対峙させているのである。キリスト教の罪悪を罵り、イスラム教の優位を説く過激派の主張とどこが違うのか。秀吉は、朝鮮出兵の際に、中国の皇帝のようになりたいと願望していたともいう。家康はどうか。金地院崇伝が編集した『異国日本』の中で、家康は「日本国御主」と讃えられている。
 著者が「亡国の遺産」とネーミングした真意はわからない。京の王朝文化を招来して滅んだ今川や大内などの戦国大名が「亡国の王朝遺産」を受け継いだということだけを指しているとは到底思えない。
(中公新書 定価、本体820円[税別])

by y-rekitan | 2016-01-28 08:00 | Comments(0)

◆会報第70号より-end

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by y-rekitan | 2016-01-28 01:00 | Comments(0)