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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
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◆シリーズ:“心に引き継ぐ風景” ②◆
◆《講演会》 中世都市 八幡 ◆
◆「八幡大縁起」に参加して◆
◆シリーズ:“五輪塔あれこれ” ②◆
◆上津屋橋(流れ橋)の復旧に向けて◆
◆シリーズ:“宮廷と歌合、そして石清水宮寺” ①◆
《シリーズ:“八幡の道を「東高野街道」となぜ呼ぶのか?” ⑤
《続1月講演会》「三宅安兵衛遺志」碑と八幡の歴史創出 その2



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by y-rekitan | 2016-02-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第71号より-01 神應寺


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心に引き継ぐ風景・・・②
秀吉は神應寺に泊まったか
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 近年、その素晴らしい紅葉にリピーターの多い神應寺、この名刹は1156年前僧行教によって貞観(じょうがん)2年(860)、八幡宮社殿造営と同時に創建されました。
 八幡の歴史における神應寺の事跡は圧巻ですが、まず、秀吉の事です。神應寺十二代住職の「弓箴善僵(きゅうしんぜんきょう)」は豊臣秀吉と同郷朋友であり、北政所も深く帰依しました。
 秀吉が朝鮮出兵の首途に八幡宮へ参詣した折、八幡宮に従軍の人を求めましたが、この難題に八幡宮は対応できず、怒りを買いました。その事態を「弓箴善僵」はうまくとりなし、喜んだ秀吉は神應寺で「弓箴善僵」と一献交わしたそうです。「和漢三才図会」ではその時秀吉が神應寺に入衞したとあります。入衞とあれば秀吉が宿泊し、お供の兵士が寺の周りを警護したとも取れます。果して真相は如何に!
 「弓箴善僵」は名護屋(現佐賀県)の陣に随従しました。その後に、陣中見舞いとして贈った「帷子(かたびら)」を喜ぶ秀吉の朱印状が残ります。
 またこれも知られていませんが、「弓箴善僵」は東山「高台寺」の勧請開山で、「高台寺」は元々神應寺の末寺でありました。北政所は秀吉の死後、後陽成天皇から「高台院」の院号を授かると「弓箴善僵」和尚のもとで出家得度しました。
 神應寺は豊臣秀吉と徳川家康から共に百二十石の「領地朱印状」を給わっています。
(写真と文 谷村 勉)空白


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by y-rekitan | 2016-02-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第71号より-02 中世都市八幡

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《講 演 会》
中世都市 八幡

2016年2月  松花堂美術館講習室にて
 藤本 史子 (武庫川女子大学非常勤講師)

               
 2月14日(日)午後1時半より松花堂美術館講習室にて2月例会が表題のテーマで開かれました。講師である藤本史子(あやこ)さんは、歴史考古学が専攻で、現在は武庫川女子大学の非常勤講師を務めておられます。大坂城三の丸跡遺跡や兵庫県伊丹市の有岡城跡・伊丹郷町遺跡の発掘調査、淀川河床遺跡の整理作業に従事した関係で、とくに中世の都市と流通に関心をお持ちとのことです。
以下に講演の概要をまとめます。なお文章中のルビは編集者が付しました。参加者58名。


はじめに

 中世都市としての八幡を「八幡境内町」という名称でとらえたいと思います。八幡境内町とは、山上の社殿・各坊院や山下・宿院といった鳥居内の狭義の境内、あるいは鳥居前に発展した町場を指す門前町といった狭い範囲の都市的な場を示すのではなく、石清水八幡宮の成立、発展とともに形成された石清水八幡宮本殿を中心とする山上、山下・宿院そして「八幡八郷」とよばれた内四郷(科手・常盤・山路・金振)と外四郷(美豆・際目・生津・川口)を含む「場(空間)」全体を指す用語として使用します。なお、鍛代敏雄氏は石清水八幡宮寺と境内郷町をとらえる概念として「境内都市 八幡」という名称を提唱しています。

1、石清水八幡宮について

 石清水八幡宮は京都府八幡市の男山(標高142.5m)山頂から南側尾根筋そして東側山裾にかけて境内域が広がっています。交通路として、水路では木津川・桂川・宇治川三川が合流し、対岸の大山崎との間を淀川が流れ、陸路では東側山裾を東高野街道が南北に走り、途中で奈良方面へ向かう奈良街道と分岐しています。このように石清水八幡宮は水陸交通の要衝に位置し、男山山麓の西側は山城と河内の国境、対岸の大山崎は山城と摂津の国境に位置する重要な地理的環境にあるといえます。(第1図)
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 その歴史は、貞観元(859)年に南都大安寺の僧行教が大分県の宇佐八幡宮において神託を受け、翌年八幡神を男山に勧請したことに始まります。男山は都からみて裏鬼門(南西)に位置するため都の守護、国家鎮護の社として、そして伊勢神宮に次ぐ国家第二の宗廟としての地位を獲得しました。遷座の頃より神仏習合の宮寺であり、石清水八幡宮の組織の中での要職は僧侶が占め、神官は従属的で本殿の祭祀も仏式でおこなわれていました。
 平安時代後半には荘園などで構成された所領も増え、軍神としての性格から武士の勢力が増すにともない代々の武家の棟梁に優遇され、守護・地頭として全国に配された武士が八幡宮を勧請したこともあり全国に八幡宮が造営されました。

2、空間復原のための基礎資料

(1)中世の八幡を復原するための基礎資料
主な資料として、以下の文献や絵図があります。
A、地誌 「男山考古録」 嘉永元(1848)年 石清水八幡宮宮大工職 藤原尚次
B、記録 「石清水尋源鈔附録」下 享保10(1725)年 神宝預禰宜 藤原(谷村)光信
C、売券 (表1)
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D、絵図
「男山八幡宮境内古図」(原本行方不明)…元禄11年の記載があるが絵図の制作年とは言えない。
「八幡山上山下惣絵図」(内閣文庫、幕府旧蔵資料)…山上の本殿周辺、山下に至る坊舎、宿院および境内全域、外四郷と各村の概略的な景観まで描き、境内町域の描写がもっとも詳細なもので八幡市立図書館に複製図展示してあるので常時見ることができる。
また、字限図(実地丈量一筆限下調帳、明治十一年市街成一筆限反別・収穫・地価調帳 明治四年新調土地図面綴)や地籍図(公図)も中世の八幡を復元する上で重要なものである。(地籍図による空間復原は第2図)
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地籍復原図を検討する中で以下のことがらが明らかになりました。
内四郷の中心南北道、東高野街道(常盤大路、志水大道)、および南北道から派生した東西道沿いに整然とした短冊形地割がみられる。
街路に面した土地は、屋地および畑地として利用される場合が多い。
常盤郷から山路郷の三叉路付近〔B・C〕まで、南北街路は比較的直線的に通るがそのほかの南北道、東西道共に微妙に屈曲する。
内四郷の南端について、東高野街道沿いの短冊形地割が「東林」近くで途切れる〔H〕
また、この地点すぐ南西の西車塚あたりに伝承では「市庭無常講」の碑があったとされ、このあたりで市が開かれていた可能性がある。その結果、「東林」あたりが内四郷の南端であるといえる。

E、考古学の成果
 中世の八幡境内町を復原するにあたり、次の四つの遺跡についてまとめてみます。
木津川河床遺跡(内四郷・外四郷)
科手郷・常盤郷・美豆・際目・生津の比定地では平安前期頃(10~11世紀)の遺物が出土した。
内四郷北西部は耕作地、常盤郷北の行幸橋付近では井戸が点在し生活痕が確認でき、牛馬骨も出土していることから牛馬飼育も考えられる。
山路郷の比定地では平安時代前期の遺物出土、後期以降出土量増加。この頃より町場として成立したと推定される。

清水井遺跡(内四郷-金振郷)
新善法寺家屋敷跡北側にあたるこの地点では、中世から近世の遺物出土が出土していることから、この地点の成立年代を推察。
女郎花遺跡
平安時代末から鎌倉時代(12~13世紀)にかけて谷(自然河川)を埋めて溝を造成(東高野街道の側溝)。このことから、遺跡周辺がこの頃に整備された可能性。正法寺〔建久2(1191)年成立〕の建立との関係が推察される。
木津川河床採集資料
平安時代末から鎌倉時代の土器・陶磁器が多く、大量の白磁・青磁などの貿易陶磁器、遠隔地の土器が含まれるなど周辺の集落遺跡とは異なった様相を示す。これらの状況は、八幡が流通拠点であったことを示している。

(2)空間復原をするための基礎資料比較検討の結果  
 以上、中世の八幡を復原するための基礎資料を比較検討した結果、次のことがいえます。
近世絵図の道筋・町並み表現が正確である。
地籍図が近世絵図と同様に近世に遡る景観復原の資料として利用が可能である。
田中家が位置する近辺の発掘調査(木津川河床遺跡第19次:山路)で平安時代から鎌倉時代の遺物が出土していることから、この景観を中世に遡らせることも可能である。

3、中世における都市構造の復原と変遷

 中世における八幡の都市構造を考えたとき、山上、山下、内四郷、外四郷の同心円的広がりととらえることができます。それぞれの在り様についてみましょう。別掲、第2図「八幡境内町地籍復原図」を参照ください。
 山 上
三の鳥居から八幡宮本殿までの一帯と各坊舎を含む二の鳥居より上の男山の範囲
 山 下
空間を限るものは次の通り。東;放生川、西;男山山際、南;二の鳥居、北;一の鳥居
極楽寺・頓宮・高良社を含む宿院一帯

内 四 郷(常盤郷・科手郷・山路郷・金振郷)
 内四郷(うちしかごう)の名称の初出は、正安3(1301)年の「菩薩戒会頭事」である。 
西端は科手郷、北端は常盤郷、東端は山路郷、南端は金振郷
郷に属する町名は『石清水尋源鈔附録』(江戸時代中期)によるが、中世史料にみえる町名も多い(表2 中世史料にみえる内四郷の町名 参照)。
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(1)常盤郷(ときわごう)(常盤・紺座・高橋・土橋・田中・市場・家田)
 四至は次の通り。東;柴座町内東端、西;放生川、南;安居橋から南へ延びる柴座町筋、北;大門
近世後期までの字名「門の口」。門に近い「戸際」から常盤の名が成り立ったか。
寛治5(1087)年23代別当頼清「別名、常盤」から、11世紀後半に成立していた可能性もあり。
常盤大路の名が、弘安2(1279)年『神輿入洛記』に「大御鉾一本、自常盤大路進発 (後略)」として記述されている。このことから、13世紀後半には成立。惣絵図に常盤大路に間口をひらいた街区が描かれる。
市場町が放生川東岸に形成される。市場町・柴座町・紺座町などの地名の出現から、中世末期には商業空間が広がったといえる。
八幡境内町における市の初見は、康平6(1063)年『宝殿并末社等建立記』に見られる「康平六年三月晦日甲午、社務別当清秀、於宿院河原始立午市、経両三年之後、立副子市」という記述である。当時、宿院域において午と子の日に定期市が開かれたようである。
八幡における市の常設化は、嘉禄3(1227)年『石清水皇年代記 上』にある「市庭被居新在家西向北近来売上等、先五宇作之」から読み取れる。このことにより、市庭在家(恒常的な市屋)=市が宿院と放生川をはさむ対岸のあたりにおかれた可能性があり、13世紀の初めころに常設店舗の成立が考えられる。
田中町・家田町……永暦元(1160)年 慶清法印(第29代別当)金振郷園町から田中町に移転、家田町に公文所職上野屋敷。絵図には家田町北側に公文所
田中屋敷…「応永永享年中ニ(14世紀末から15世紀前半)(中略)坊者(舎)一棟百坪之  檜皮屋也。日本一家也云々。」(田中融清「石清水祠官系図」)

(2)科手郷(橋本・大谷・科手・高坊)
 四至は、東;放生川、西;橋本、南;男山山麓、北;淀川の南岸
郷西北の垂井に光清(第25代別当)居住、科手町の檀に棟清法印(檀)(第35代別当)が坊舎を構える。
橋本…14世紀、森町人(山路郷)にのみ認められていた境内四郷内での麹売買権を犯した罪により楠葉郷内刀祢(とね)は橋本に追放となると記述する文献が見られる。このことから、境内町の境界が橋本であったことがわかる。
図師垣内(ずしかいと)…近世には図師茂左衛門道秀が居住。図師とは売券紛失の際の権利認定および保証をする者である。
大谷町…中世後期から八幡革之座の中心「大谷衆菖蒲革(しょうぶかわ)座」。これは、神宝用菖蒲革を納める神人集団の居住地を示している。

(3)山路郷(山路・東山路・奥・檀所・森・柴座)
 四至は、東;森町東端薬園寺、西;放生川、南;飼屋橋(カイヤ橋)北詰、北;安居橋
より東の東西街路(柴座町)。
地籍復原図における旦所町と森町(=杜郷)街路方向にずれが見られる。
これは、町の形成過程の相違を示していると見られる。杜(もり)郷(ごう)は八幡宮勧請前より薬園寺の門前に町並み形成されたが、旦所町以西は山路郷の形成と連動し町場化されたことによる。
森における麹相論(こうじそうろん)からどんなことがいえるのか。森町は薬園寺(天神社)を紐帯(ちゅうたい)とする共同体組織を構成し麹業を営んできた。そして、13世紀前半にはすでに専売区域独占(内四郷域を販売域とする)していたと見られる。

(4)金振郷(園・平谷・今田・馬場・茶畠・神原・志水・平田)
 四至は、東;園町東端、西;男山山麓、南;志水町南端、北;平谷北端
安元2(1176)年、祐清(第32代別当)が初めて大善法寺と称す。この頃馬場町に社家屋敷成立か。
園…志水大道から東へ派生した東西道に形成される。金振郷の「本郷」であり、園町東端の春日社は金振郷の総社であった。
勝清(第28代別当)は園町に居住して園殿と呼ばれた。
平谷(びょうだに)…『宮寺見聞私記』応永12(1405)年、北平谷在家失火により焼失とある。八幡宮側は北平谷地区が御馬屋や宿院に近接していることを理由に撤去を企て北平谷の私屋を境内郷人や諸神領・牧・交野の人夫に破却させ、放生川を拡張した。 
近世絵図では二の鳥居前まで家が描かれ、聖域を守ろうとする八幡宮側と町域を拡大しようとする平谷町人の攻防が読み取れる。
御馬所…御馬所御殿人(八幡宮関係者)が奪った麹を御馬所へ抑留した際、森町人は手出しできなかった。このことから、郷内八幡宮関係施設が聖域であったととらえられる。同時に、八幡宮側と内四郷住人とのちから関係を示すものである。
平田村(ひらたむら)…陰陽師居住が確認される。長禄年間(1457~60)『宮寺旧記』に、「平田ウシロ百姓仕丁源二郎太夫」(八幡宮下僕)が文明13(1481)年、森町人宅を壊す際、「内四郷邑老」は「両平田」の住人を実働部隊に命ずとの記載が見られる。このことから、芸能者や八幡宮に隷属する人々が居住していたことが推定される。
志水…建久2(1191)年、鎌倉幕府御家人高田忠国次男円誓が開基の正法寺が中心。高田氏は清水町に居住した縁で「清水」と改姓。後に八幡宮に憚って「志水」と称す。このことから12世紀末には志水町の成立が考えられる。 
長禄2(1458)年、『公方様御社参之時 執行可申付條々』に「一、北谷塔 坊ヨリ下地蔵堂辺マテハ、清水ノホウリ(祝ヵ)九郎ソウチ」とあり、将軍社参の際の宿院地区の掃除に志水の住人がかり出されている。このことから、キヨメに従事する住人の居住が考えられる。
東高野街道と奈良街道の分岐点に発達していた志水町と金振郷の総社である春日社が位置する園町は、郷中央に位置する馬場町に社家屋敷が成立したことを契機に一体化したのではないか。
内四郷の中で独自の郷社(春日社)を有するのは金振郷のみである。このことは、金振郷の独立性、自己完結性を示している。

外 四 郷(美豆・際目・生津・川口)
美豆(みず)・河口…応永9(1402)年「山城国守護代遊佐某遵行状」、文明2(1470)年「(田中)妙禅奉書」の存在から、室町時代にはすでに同所の地名が史料にみえる
美豆…京都から来た道が淀大橋を渡り常盤大路へと入る内四郷の北入口に位置する。
際目(さいめ)・生津(なまづ)…常盤大路から派生した東西道の延長上に位置する木津川沿いの集落であった。弘安11(1288)年、西園寺実兼・公衡親子が石清水八幡宮から春日大社へ向かう際には生津から乗船したと記述する文献あり。
川口…金振郷園町の東延長上にあたり、外四郷の中では八幡から南山城へと向かう玄関口であったといえる。
外四郷の村々は、内四郷から東へ延びる道筋の延長上に位置し、京・南山城・大和へ通じる交通の要路に立地していたことがわかる。

4、中世都市八幡境内町の特徴

 石清水八幡宮本殿を中核とし、山中に各坊院が点在する山上、その外側の男山の麓には頓宮・極楽寺を中心とする宿院(山下)がありました。それらは「聖域」と呼べるもので、その外側に境内町域(内四郷)が広がり、境内町域の周縁部にはキヨメや行刑に従事する隷属の居住空間を含んでいます。そして、さらにその外側には境内村落(外四郷)が広がるという構造を示しています。
一見すると近世城下町のようであるが、社家や図師など八幡宮に仕える人々の居住空間、御馬所などの八幡宮施設は山上・宿院にまとまってはおらず境内内四郷内にも散在。掃除などの労働や検断の際には境内住民とともに牧・交野など周辺の八幡宮領からも人を動員するなど周辺村落(後の外四郷も含む)とも八幡宮の領主権を媒介に密接な関係を結んでいる。
八幡境内町は宗教都市であり、経済都市でもある。石清水八幡宮関係の神職や参詣人で賑わっているという都市のイメージだけではなく、境内町内には職商人、陰陽師や芸能者、八幡宮に隷属する人々、事あれば周辺神領から動員される傭兵など多種多様な人々が活動している都市のイメージであった。
絵図・地籍図で復原した景観は考古学の成果によって時代を追って描くことができる。 
橋本や生津など淀川・木津川に面した湊、舟運によって集められた物資、東高野街道など陸路を通り運ばれた物資が集まる流通拠点であったという認識が必要である。このことは、木津川河床遺跡、淀川・木津川河床採集資料、石清水八幡宮遺跡、楠葉中之芝遺跡などの出土・採集資料から今後さらに解明できるのではないか。

おわりに

 中世都市八幡は、12世紀中葉から後半を画期として都市として発展したと考えられます。この時期、第29代別当慶清法印が金振郷園町から常盤郷田中町に移転し、第32代別当祐清が初めて大善法寺と称し馬場町に社家屋敷を構えたことにより(未詳)、内四郷の都市の骨格が整ったと推測されます。これは、山路郷内にあたる木津川河床遺跡第19次調査の12世紀中頃に出土遺物が増加し、木津川河床遺跡採集資料も12世紀から13世紀の貿易陶磁器や東海系の土器・陶器、防長系・吉備系土器が含まれ流通拠点としての様相が色濃くみられるという考古学の成果とも合致します。
 さらに、山上部における考古学の調査成果から12世紀前半には本殿、護国寺、宝塔院など主要堂塔がほぼ完成していたことが明らかになっており、山上部と境内町の都市プランが連動して進められていたことがうかがえます。
 12世紀前半以前は森の集落が「森(杜)郷」と呼ばれていたように個別集落が分散していた時期、12世紀中葉以降山上部・境内町域が連動し八幡宮主導で都市化していった時期、そして15世紀以降は境内四郷の住民が地縁共同体として住民結合を強め八幡宮に対抗してゆく時期であり、16世紀後半から17世紀初頭にかけて豊臣秀吉、徳川家康という統一政権による八幡宮領の召し上げ、安居神事への関与、神人身分の規定により八幡宮と住民との中世的な支配関係が解体され、中世の八幡は終焉を迎えたと考えられます。
【文責=土井三郎】 空白

参考文献(主な文献のみ)
鍛代敏雄 2008 『戦国期の石清水と本願寺』 法蔵館
藤本史子 1999 「中世八幡境内町の空間復原と都市構造」『年報都市史研究』7 山川出版社 
八幡市教育委員会編集・発行 2011 『石清水八幡宮境内調査報告書』


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by y-rekitan | 2016-02-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第71より-03 八幡大縁起

「八幡大縁起」に参加して

織田 俊一 (会員)


 今年 1月31日、八幡市文化センターに於 いて「八幡大縁起」の世界初演が催行されました。
 平将門・源純友の乱平定直後の天慶8(945)年7月末、八幡神の一異相・志多羅(しだら)神を載せた数基の神輿が、熱狂する無数の民衆によって石清水八幡宮に担ぎ込まれました。その時の解き放たれた民衆の目覚めと神への帰依を清らかな憧憬と深い共感もって「いにしえ」と今を結ぶ、借り物ではない私達の「新たなる生命賛歌」として作りあげたと作曲家の平野一郎氏は語っておられます。
 平野氏は各地に伝わる祭礼を取材し、古文書に眠る失われた歌を蘇らせて、この作品の中で響かせようと試みられたとのことです。そこには、苦難を乗り越える逞しい民の息吹と大いなるものへの祈りの心が溢れています。いにしえと今を結ぶ、私達の風土が宿した新たなる生命賛歌、その誕生の瞬間に是非お立ち会いください、と呼びかけます。そして更に「この八幡大縁起は本番で完成する」と予言しています。
 私は混声合唱団の一員として八月から半年間、練習に参加してきました。今までいくつかの合唱曲を経験してきたつもりでありましたが、西洋音楽にない日本古来のリズムと和声を取り入れたこの曲の練習は困難を極めました。しかしその曲想はなつかしい日本の響きに満ちており、歌う私たちを捕らえて放さない魅力に溢れていました。
 曲の構成は四人の独唱、混声合唱とオーケストラという、ベートーベンやマーラーの大曲に匹敵する大規模な作りになっており実際にこの日ステージに上がったのはオーケストラ90名、混声合唱132名、ソリスト4名の総勢226名でした。
 曲が完成するという予感も保障もないまま、合唱団の皆さんはただひたすら「成功するはず」という一筋の希望もって練習を続けたように思います。今から思えばそれは平野氏の「呪文」であったように思われます。f0300125_9104761.jpg
 そして当日、我々の合唱団とオーケストラ、四人のソリストが藏野氏の指揮の下、一つに
なるという奇跡を体験することになるのです。その時、我々は確かに民衆となって石清水に向かっていました。
 演奏が終わり、一週間になりますがまだその余韻は続いています。いったいあの経験は何だったのか。曲の持つパワーなのか。我々の心の中に潜む煮えたぎるような民族の叫びなのか。
 折れそうになる気持ちをしっかり受け止めて全体をまとめていただいた指揮者の藏野氏。すばらしい声で我々を導いてくれたソリストの皆さん。そしてピアニストやボディパーカッションの皆さん。合唱指導の先生方。すばらしい方々とこのような希有の経験ができ、「八幡大縁起」の誕生に立ち会えたことを誇りに思っています。

参考 志多羅の神
 平安時代、疫病流行の時、九州から上洛し民衆の信仰をうけた御霊神(ごりょうしん)。八幡と同系か、あるいは八幡の眷属神(けんぞくしん)。八面の仮面をつけ、小さな藺笠(いがさ)を冠っていたという。楽所を設け、手を打ち、鼓などを打ち鳴らしてまつったという。[本朝世紀‐天慶八年(945)七月二八日]
  
  
by y-rekitan | 2016-02-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第71号より-04 五輪塔②

シリーズ「五輪塔あれこれ」・・・②
これは何なのか

野間口 秀國 (会員) 


 「鎌倉初期の在銘遺品はまだ知られていないが、将来発見の可能性はある」(*1)と書かれているように、鎌倉時代の初期、中期の五輪塔には銘を見ることは少ないようです。私がこれまでに訪れた五輪塔にも、大きさに関係なく多くは銘が刻まれておりませんでした。一方、それらの近くで見られた墓碑や記念碑、道標などの多くには建立目的やその年(月・日)、建立者名や団体名などを確認できました。このように銘が有るか無いかで五輪塔に対する人々の興味が薄れたりも、逆にまた深まったりもするのではないでしょうか。

 対象物の「何」「いつ」「誰」「どこ」などが不明な時には、解決の入り口として先ず「何なのか」から考えてみることも一方法であると『兵庫県謎解き散歩』(*2)に書かれてありました。f0300125_9485339.jpg同書には兵庫県高砂市の竜山山塊の宝殿山にある日本三奇の一つである生石(おうしこ)神社のご神体について書かれてあり、それは岩山から刳り貫かれた一辺が約6メートルを測る巨大な石造物です。しかし、これがいつ、誰によって、何の目的で造られたかは複数の説があり正しくはわかっていないようです。本章では、同じように諸説ある(*3)石清水八幡宮五輪塔の、これはいったい「何/What」なのか、を前述の図書(*2)からの学びに従い私見も含めて書きたいと思います。

さて、前章で紹介しました現地の解説板には航海記念塔とも記されてあり、「摂津尼崎の商人が・・(略) 海難を逃れた恩に報いる為に建立された・・(略)」ものともあります。このことは、八幡の歴史カルタの 「う」 の読み札の裏に書かれた解説文からも、中国・宋からの帰途にシケを逃れて帰国できたことに感謝して建立されたことが分かります。また、船乗りたちが航海の無事を祈願に訪れるようになったことから「航海記念塔」と呼ばれるようにもなったようです。ここで、八幡の歴史や出来事などを学ぶ時に避けて通れない、長濱尚次によって書かれた『男山考古録』(*4)をひも解いてみたいと思います。その巻十にある「大石塔 或曰経塚」の項には「・・石清水ノ方ヲ伏拝ミテ、此危難ヲ救ワセ給へト祈請シテ本土二帰ル事ヲ得タリ、其後報賽二一基ノ如法塔ヲ建立ス、・・」と書かれてあります。この記述からも、「航海記念塔」もしくは「如法塔」と、呼称は違えども海難から逃れられたことへの石清水八幡宮への感謝の印しであることには相違ないことが解ります。

 続いて「石清水八幡宮のご利益は何か」について調べてみました。八幡宮を参詣すると入手できる案内書には複数の御神徳が記されてあります。また京阪電車八幡市駅の大阪方面行きホーム中ほどにも、厄除開運、必勝祈願など複数項目が書かれた案内がありましたが、共に先に書きました「航海の安全」もしくは「海難除け」の項目はなぜか見当たりません。海上交通安全の神様は、多くの人に知られる香川県琴平町の金刀比羅宮なのかも、また、災難除(さいなんよけ)、旅行安全、交通安全などの祈願のいずれかに該当するのかも知れません。

f0300125_10241447.jpg ご利益については少なからず気になっていましたので、ある日の夕ぐれ時、高良神社の鳥居傍にて日章旗を降納されていた同世代とおぼしき方に、「石清水八幡宮において、五輪塔のある場所、若しくは上院にて航海安全祈願や関係者の安全操業祈願などの行事が執り行われているのでしょうか」とお伺いしました漁業ところ、「個人的にその目的で来られる方もおられるとは思いますが、神社として特別な航海安全祈願は行っておりません」とのお答えでした。ちなみに前述の案内書の「主な祭典行事」にも11月19日に執り行われる「交通安全大祭」の他にはそれらしき項目は見当たりませんでした。

ここで今一度、解説板に書かれた「摂津尼崎の商人が・・(略)海難を逃れた恩に報いる為に建立された・・(略)」に戻ってみたいと思います。『男山考古録 巻十』にはまた「・・(略)叉或説云、承安年中尼ヶ崎富優(有)ノ大賈(たいか)アリ、交易ノ爲二入唐シ・・(略)」と書かれてあります。そこで、尼崎の歴史が書かれた史料に、石清水八幡宮五輪塔と尼崎の商人とのつながりを見いだせないかと考え尼崎市立図書館に足を運びました。が、 『尼崎市史』にも同市立地域研究史料館にて紹介いただいた史料、『図説尼崎の歴史』にも、承安年間(1171~1175)にそのような記録や伝承らしきものは見出せませんでした(*5)。また同書には「・・承久ノ兵乱ニ軍師数ヲ盡(つく)シテ落命ス、之為承応年中築之、依テ称武者塚・・」と書かれてあり、この記述からは承久の乱(承久3年/1221)の戦死者の墓であると理解できます。

 これら「承安年間の摂津尼崎商人説」と「承久の乱の武者塚説」の二つの史実には50年ほどの開きがあります。また五輪塔の造立年代が鎌倉時代と考えられている(現地の解説板にもあり、後の章でも書きますが)ことからも、個人的には承安年間の尼崎商人説には少なからずの疑問は残ります。本章ではここまでとして次章でももう少し「何/What」にこだわって考えてみたいと思います。

参考図書・史料等

(*1)『石造美術入門 歴史と鑑賞』 川勝政太郎著・社会思想社刊
(*2)『兵庫県謎解き散歩』大国正美編著・日経出版刊
(*3)日本経済新聞2014(平26).3.27夕刊記事 「武運長久 見守った巨塔」
(*4)『男山考古録 巻十』 長濱尚次著
(*5)『尼崎市史』第1巻・第4章、及び『図説尼崎の歴史』中世編第1・第2節


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by y-rekitan | 2016-02-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第71号より-05 流れ橋

上津屋橋(流れ橋)の復旧に向けて

高田 昌史 (会員)


はじめに

 通称「流れ橋」の名で広く親しまれている上津屋橋は、1953年(昭和28)3月に、それまでの渡し船に変わり木橋の府道として完成しました。
 流れ橋は完成以来、通称通り約60年間に何回も流出しましたが、2014年(平成26)8月、4年連続で通算21回目の流出の直後から、毎回の復旧費用が嵩むことを理由に存廃の可否の論議が開始されました。同年9月に、京都府による『上津屋橋(流れ橋)あり方検討委員会』が設置され検討された結果、流出から1年2ヶ月経過した昨年11月にようやく復旧工事が着工され、この3月末に完成する予定です。
 今回は、今までの流れ橋と異なり、流れにくい「新流れ橋」として大きく構造が変わるということですので、これまでの経緯と現時点での流れ橋の復旧状況をまとめることにしました。

1.完成当時の上津屋橋(流れ橋)

 橋が完成した1953年は終戦間もない時期であり、安価でしかも洪水による被害が少なく自然に逆らわない橋としての「流れ橋」の構造を採用したと推察できます。f0300125_2149211.jpg
 流れ橋とは、川幅の狭い所に木板を渡し、最初から流れることを前提にしつつも、その木板が流失しないようにロープ等で結んでおく造りですが、上津屋橋は全長365.5m(幅3m)もあり、日本一長い流れ橋として完成したのです。
 この流れ橋の周辺には茶畑が広がり、河原と清流の風景とがマッチした、自然と共存した橋として長い間親しまれ、時代劇全盛時には年に10回以上も撮影に使われていたとのことです。 
 今では、八幡の重要な観光スポットとなり、観光客来場者数は年間13~14万人で、八幡市内では石清水八幡宮、背割り堤についで第3位を占めています。

2.最近の流れ橋と流出状況

 次の左の写真は、2014年5月(21回目の流出前)に写したもので、右の写真は同年8月の台風による大雨での流出直後に写したものです(ともに八幡市側から撮影)。
 上流からの漂流物が多く橋の傷みは甚大で、流出防止に固定していた一部のワイヤーロープが切れ、橋板はかなり下流の京阪電車の陸橋に大きな漂流物として留まっていました。
f0300125_16591388.jpg
 また、橋の部材の損傷もかなりひどい状況で、毎年の復旧工事にはかなりの費用がかかることから橋の存廃論議になったのです。
 1年以上にわたる検討委員会での審議の結果、復旧は決定しましたが、流れ橋の構造が大きく変わります(3項参照)。従って、左の写真は60数年間の流れ橋の原型の最後の姿になります。
 今までの流れ橋の【流出の記録】を確認すると、完成してから30年間の流出回数は8回のみですが、最近は異常気象の影響で毎年のように流出しています。そのことから、橋の存続には今回の構造変更が必要条件であることは理解できます。

【流出記録】―“やわた流れ橋交流プラザ四季彩館”パンフレットによる 
   1回―1953年(昭和28) 8月15日:豪雨
   2回―1959年(昭和34) 5月15日:伊勢湾台風
   3回―1961年(昭和36) 6月24日:梅雨の豪雨
   4回―1972年(昭和47) 7月10日~17日:豪雨
   5回―1974年(昭和49) 7月10日:豪雨
   6回―1976年(昭和51) 9月 8日~13日:台風17号
   7回―1982年(昭和57) 8月 1日~3日:台風15号
   8回―1985年(昭和60) 6月21日~7月7日:豪雨及び台風
   9回―1986年(昭和61) 7月20日~22日:豪雨及び台風
  10回―1990年(平成 2) 7月19日~20日:台風19号
  11回―1992年(平成 4) 8月19日:台風11号
  12回―1993年(平成 5) 7月 5日:豪雨
  13回―1994年(平成 6) 9月30日:台風26号
  14回―1995年(平成 7) 5月12日:豪雨
  15回―1997年(平成 9) 7月26日:台風9号
  16回―2004年(平成16) 8月 5日:台風11号
  17回―2009年(平成21)10月 8日:台風18号
  18回―2011年(平成23) 9月 3日:台風12号
  19回―2012年(平成24)10月 1日:台風17号
  20回―2013年(平成25) 9月16日:台風18号
  21回―2014年(平成26) 8月 9日:台風11号  

3.流れ橋復旧についての検討

 今回の流れ橋の復旧に関して、流出直後から『上津屋橋(流れ橋)あり方検討委員会』が設置され、6回開催されたとのことです。委員会の審議の状況は、京都府のホームページで公開していますので、流れ橋のこと及び今回の復旧決定に至る詳細を確認することができます。(※1)
 その報告書から、以下の内容が確認されました。
地元から流れ橋の復旧についての要望書と4,933名分の署名が提出され、その後、新たに7,894名分の署名が提出されている。
住民からの意見募集には、総数98通の提出があり、その内の80通(82 %)が「復旧すべき」、10通(10%)が「撤去すべき」、8通(8%)が「どちらとも言えない」という結果であった。なお、八幡の歴史を探究する会の恩村政雄さんが「存続すべきである」との意見具申をされています。(※2)

 議事録の中には、技術的な検討と共に、「安全性」・「景観性」・「流れにくさ」の評価に「経済性」も加えるべきとあります。特に、各案を茶畑との景観で比較検討されている絵図が目を引きました。この「流れ橋周辺に広がる浜茶の景観」が2015年1月に京都府景観資産に登録されたこと(※3)は、流れ橋復旧の大きな後押しになったともいえます。
 以上、各面からの要望もふまえ、昨年11月9日から復旧工事が着工されたのです。
 また、流れ橋の復旧工事の状況を多くの人に知ってもらい、この橋をより身近に感じてもらいたいという狙いから「上津屋橋(流れ橋)工事通信」が毎月発行されていて、工事の進捗状況は現場に出向かなくても京都府のホームページで確認できます。

 
4.新しい上津屋橋(流れ橋)の構造について

 f0300125_1744616.jpg流れ橋は1953年(昭和28)に完成以来、1972年(昭和47)に橋脚73基のうち17基がコンクリートパイルに変更されましたが、他はすべて木製でした。最近、復旧工事現場に「洪水に強い橋にしています」との看板が設置され、復旧前と復旧後の構造比較図があります。

主な構造変更箇所
橋脚をすべてコンクリート製で、直径300㎜、長さ12mとする。(以前は直径220㎜の杭木、長さ8m)
橋脚は40(以前は73)――橋脚間の長さを拡大して、洪水時に流木等のゴミが引っ掛かりにくくする。
橋面を75cmかさ上げする。
木部は北山杉を使用し、コンクリートは目立たないように彩色を落として外観を重視する。

 以上が現場に設置された看板から判る変更個所です。高さが75cmも高くなったことは気になりますが、流れにくい「流れ橋」にするためには仕方がない決定と思います。その他にも、これまでの景観を維持することに工夫されている事がうかがえます。

これからの「流れ橋」について

 今は、「流れ橋」60年の歴史が変わり、新「流れ橋」が誕生する3月末が待ち遠しい思いです。f0300125_171059100.jpg反面、今までの流れ橋の良さや周囲の景観とのバランスが維持されているかが心配です。特に75cmのかさ上げの影響については、完成時に出向いてしっかりと確認したいと思います。
 なお、最近の記録では流出すると被害状況を調査してから復旧まで平均7ヶ月要していますので、毎年流出すると渡れる期間は5ヶ月間しかなく、渡れない期間の方が長いのが現状でした。しかも毎回3000~5000万円の修復費用がかかりました。これからは「流れ橋」の名称は残るものの、今までのように流れすぎない「流れ橋」に生まれ変わることを期待しています。

参考資料・情報
(※1)京都府ホームページ(建設交通部 道路建設課) 「上津屋橋(流れ橋)あり方検討委員会」参照
(※2)流れ橋存廃の意見表明(八幡の歴史を探究する会 会報第56号―恩村政雄)
(※3)京都府景観資産(登録番号21):「高品質てん茶の産地・八幡市~流れ橋周辺に広がる浜茶の景観~」―平成27年1月22日登録。

by y-rekitan | 2016-02-28 08:00 | Comments(0)

◆会報第71 号より-06 宮廷と歌合①

シリーズ「宮廷と歌合」・・・①
宮廷と歌合、そして石清水宮寺
その1
大田 友紀子 (会員) 


はじめに

 今年も新春恒例の「歌会始(うたかいはじめ)の儀」が14日、皇居・宮殿「松の間」で開かれました。題は「人」で、天皇、皇后両陛下のほか、皇族や一般の入選者らの歌17首が、伝統的な節回しで披露されたとのことです(京都新聞、夕刊)。この方式は、あらかじめ出題しておく兼題歌合(けんだいうたあわせ)であり、歌合の実施形態の一つです。その他に、当日出題される当座歌合などがあります。このように、現在でも、「歌合(うたあわせ)」は名称を変えて、皇室の行事として受け継がれています。f0300125_2154782.jpg
 歌合の主体である「和歌」とはなにか。一般的には漢詩に対して、「漢字」と「かな」を使って詠まれた歌が「和歌」であるとされています。その時代、「漢字」は男手、「かな」は女手とされて、女性も歌を詠みその歌を書きつけることを安易に行えるようにと「かな」が発明されたともいわれています。最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』の「仮名序」では、「やまとうたは、ひとのこゝろをたねとして、よろづのことの葉とぞなれる。(略) 花になくうぐいす、みづにすむかはづのこゑきけば、いきとしいけるもの、いずれかうたをよまざりける。ちからをもいれずして、あめつちをうごかし、めに見えぬ鬼神をも、あはれとおもはせ、をとこ女のなかをもやはらげ、たけきもののふのこゝろをも、なぐさむは歌なり。」と、撰者・紀貫之(きのつらゆき)は書いています。
「勅撰和歌集」とは、天皇の宣旨または院宣によって、選ばれた撰者が編集した歌集をいいます。勅撰和歌集の編纂をすることは、歴代の天皇の業績の一つで、最も輝かしいものでした。そして、この頃の貴族の栄誉は、この勅撰和歌集に自作の歌が採られることであり、逆に撰に漏れたことを知ると大いなる悲嘆を味わいました。それほど、貴族社会での影響力が高いもので、勿論、漢詩の勅撰集も編纂され、教養の有る無しが個人の栄達にも関与するので、貴族のテキストにもなり、今日の私たちには耳慣れない話や情景でも、当時の人々には、一つの言葉、一つの情景が、共有されていて、それが歌に詠まれることとなりました。

勅撰和歌集と天皇
  
 『古今和歌集』をはじめとする「八代集」が勅撰和歌集として著名ですが、『新勅撰和歌集』から『新続古今和歌集』までの「十三代集」という勅撰和歌集の存在は、今日さほど知れてはいませんが、それらを編集することに込められた歴代の天皇の思いから、和歌の歴史について書いていこうと思います。
 和歌の歴史が「かな」の発明により始まったと書きましたが、私は、ひょっとするとあの有名な菅原道真の左遷事件も、「かな」で作られる和歌が盛んになったことと多少は関わっていたのではと推測しています。というのも、女房たちと「あそび」感覚でかな混りの和歌を作っていた藤原時平たち若者と、厳格な漢学者であった道真の思いが微妙な対立を生んだのでは、と思っているからです。今日でも若い人達の間で流っている風俗や言葉があり、それが「流行語」としてもてはやされてもいて、あまりに度が過ぎると批判の的にもなったりすることがあります。時平たちの遊びから、「和歌」が盛んになり、それまでは「男子たるもの漢籍を読まずして云々」と感じていた道真は、「漢籍」などの衰退イコール風紀を乱す、と思えたのかもしれません。その後、和歌熱の高まりが文学的な地位を獲得したことは、歴代の天皇の功績の一つとして勅撰集の編纂事業が挙げられるようになったことからも伺い知ることができます。
 そうした和歌の隆盛をもたらしたものの一つに、「歌合(うたあわせ)」があります。歌合とは、歌人を左右二方に分けて、出し合った歌を番(つが)わせてその優劣を比較して勝負を判定した一種の文学的遊戯で、平安初期(880年代)に発生し、平安末期から鎌倉初期にかけて最も流行しました。その方法・様式は、それが行われた時代と場所によって流行の変遷があり、必ずしも一定ではありません。
 勝負の決定をする審判役を判者(はんじゃ)といい、1人ないし2人があたりました。判者が優劣の決定について理由などを述べることばを判詞といいとても大事にされました。そのほかに、衆議判といって、一座の人々の相談によって決められることもありました。最初は高位の近臣が判者を務めたりしましたが、しだいに歌壇の実力者が務めるようになり、その実力者は「歌道の家」の当主となり、その当主が先導するようになっていきました。そんな歌道家の当主は、歌の修練に関わるようになってゆき、歌の上達は貴族の必須項目となってゆきました。当時の貴族社会において、社交上欠かせないものでもあり、その文学的意義は大きいとされています。

 『聖王』として名高い醍醐・村上両天皇の最も輝かしい業績として、「古今」「後撰」両和歌集の編纂があります。その撰者としては、それまでは藤原氏に後れをとっていた紀氏などからその道の達人として、紀貫之(きのつらゆき)や壬生忠岑(みぶのただみね)らが出てきました。その後も、白河天皇が編纂を命じた「後拾遺(ごしゅうい)和歌集」などが作られていきます。その後拾遺和歌集のあたりからは、これまでの王朝和歌だけでなく、口語や俗語による世俗社会の情景を詠んだ連歌が多く見られるようになってゆき、勅撰和歌集の転換の一画期を迎えました。
 「後拾遺和歌集」の撰者は藤原通俊(ふじわらのみちとし)。また、白河院となってからも源俊頼(みなもとのとしより)を撰者に「金葉(きんよう)和歌集」を編纂しています。白河院孫の崇徳院(すとくいん)は、「詞花和歌集」を編纂させ、その後、後鳥羽院の下命によって、『新古今和歌集』が藤原定家などを撰者に成立します。
 後鳥羽院の石清水への御幸は27回にもおよび、天皇の時の2回を加えると生涯29回来られています。そして、その頃、石清水八幡若宮での奉納歌合が頻繁に催されていたことは案外知られていないのではないでしょうか。『和歌大辞典』などによると、「石清水」を冠した歌合は何度も開かれており、石清水で開かれていた歌合が、新古今和歌集の成立に寄与しました。つまり、歌人たちの修練の場として開かれたことを省みると、石清水宮寺の歴史の一端が見えてきます。
 また、天皇の時に1度の行幸と、上皇・法皇の時には29回、そして親王時代の1度以上の参詣を含めると断トツの一位は後嵯峨院(1220~1272)です。後嵯峨院には、親王の時に参篭された時に、その翌朝に八幡神の神託を受け出家を思い留まった逸話が『古今著聞集』にあり、石清水宮寺と皇室との深い縁が偲ばれます。

「歌道の家」の変遷
  
 今日、「歌道の家」といえば冷泉家(れいぜいけ)ですが、院政の始まりの頃は、『後拾遺(ごしゅうい)和歌集』の撰者である藤原通俊などの白河院の近臣などが歌壇の中心でした。その後、『金葉(きんよう)和歌集』を編集する源俊頼(みなもとのとしより)が出てきて、その家系を「六条源家(げんけ)」と呼びました。六条に家があったことからで、同じく、白河院の乳母子(めのとご)で近臣であった藤原顕季(あきすえ)の家も六条にあり、顕季-顕輔―清輔‥‥と歌人が続いたので、この家系を「六条籐家」と呼びます。
 六条家は末茂流藤原氏で、平安中期は受領(ずりょう)や弁官などを勤める中流貴族でしたが、7代目の隆経(たかつね)が後三条院に目をかけられ、隆経の正室親子が白河院の乳母になったことから、その乳母子である顕季(あきすえ)は、院の愛顧により大国の受領を歴任し、富を蓄えて近臣として時めき、莫大な経済力と隠然たる権力を持ち正三位に昇りました。
 公卿(くぎょう)と呼ばれるのは、従三位(じゅさんみ)からです。官位がすべてであった貴族の中でも、異例の出世です。顕季は、父母や妻の兄通俊の影響を受けて、若い頃から和歌を好み、娘婿の藤原(三条)実行・源雅定、子の長実邸で歌合を催しては判者となり、初めて「人麻呂(ひとまろ)影供(えいぐ)」(※1)を行い、12世紀の歌壇に大きな影響力を持ちました。顕季の長男(八条)長実には2人の息子と娘がおり、寵愛の末娘は鳥羽院に入内して近衛天皇を生んだ美福門院得子で、従兄弟の藤原家成と共に鳥羽院政後期に勢力を持ちました。彼女の女房には女流歌人として名高い美福門院加賀がいて、後に藤原俊成(しゅんぜい)の妻となり、定家を生みます。顕季の次男(三条)家保の嫡男・隆季は、平清盛と結び、親王以外で初めて太宰帥(だざいのそち)となりました。
 隆季の嫡男の隆房(1148~1209)は、清盛の八女を正室に迎え、雅な平家文化に親しみ、『千載和歌集』以下に34首載る歌人で、平家滅亡後も順調に官位を進め、正二位権大納言となります。壇ノ浦から帰洛した建礼門院(けんれいもんいん)らの世話も妻と共に行いました。後白河院を経済力で補佐し、幾人かの裕福な廷臣の娘を妻とし、洛内に7箇所ほどの邸宅を持つに至りました。現在の東山の高台寺の地にも別荘を持ち、桜の花見の名所で、院や天皇が立ち寄ることが多かった理由は四条家(※2)の娘が皇子女の乳母になることが続いたことからでもありました。

 政権の中枢にいた四条家の姿を伝える史料が「石清水八幡宮史料叢書三 臨放記」にあります。「臨放記」は、放生会に関する記録で、会式を担当した貴族などの名が記されています。嘉応(かおう)元年(1169)9月15日の八幡放生会に、上卿(しょうけい)以下参向した者の名が書かれ、権大納言隆季、参議(藤原)親範卿、実務官僚である左少辨為親、右少将隆房朝臣、左近衛少将通資などの名があります。「上卿」は大納言などが務める責任職で、この時の奉行は隆季で、諸事万端から費用も賄ったものと思われます。
 賀茂社や石清水社などの臨時祭の上卿になることは、財力のある者を中心に、年頭などの「陣定」で決められます。それ故に、その役を逃れたいときなどはその場に列席する参議などに公然と賄賂が贈られていました。特に石清水の会式には莫大な費用が係り、近臣受領の懐に頼ることが平然と行われていました。平清盛が石清水臨時祭の舞人を務めた時も、白河院は顕季の次男家保夫妻が乳母であったことから、贅を尽くした装いが話題になったのでしょう。
他の社寺の行事に比べて、石清水の場合は船の手配とそのための人力、当日の夜の宿泊など、余計な出費が係りました。ちなみに、今日、京の二大祭とされる賀茂祭も当時は「臨時祭」を指しました。臨時祭は天皇が主宰しますから、華やかに執り行われ、裕福な近臣の力量を見せ付けることが競われました。こうしたことから、天皇や院は、彼らの富に甘んじて、大伽藍を建立させたりし、さまざまな形の「成功(奉仕)」によって官位を授けました。天皇の多くの皇子女たちを養育することもそうした近臣たちで、その養君が皇位に就くことにより、政権を左右する事態が生まれることもありました。
 歌道の家となった六条籐家は、顕季の三男顕輔(あきすけ)から始まります。顕季の邸の一つが六条南東洞院東にあり、顕輔の邸が六条大宮にあったことからこの家筋を六条家というようになったといわれます。顕季から和歌に関するすべてを引き継いだ顕輔は、崇徳院の下名で『詞花和歌集』を編纂します。また、その子である清輔も二条天皇の信任を得て『続詞花和歌集』の撰者となり、編纂に勤(いそ)しみますが、天皇崩御に会い、勅撰集にはなりませんでした。しかし、清輔は多くの歌会の判者となり、御子左家(※3)の俊成の台頭を押さえて、歌壇の第一人者たる地位を守り続けました。
 多様で優れた歌人であった清輔の没後は、後鳥羽院が御子左家(みこひだりけ)を支持するに及んで、歌壇の中心は、俊成が務めることとなりました。清輔の弟である重家が六条家を継ぎ、その息子である有家は『新古今和歌集』の撰者の一人となり、その子である知家(1182~1258)は藤原定家の弟子となりました。知家の歌に次の一首があります。
    男山秋のけふとや誓ひけむ 
    川瀬に放つよものいろくづ   (新六帖)
 石清水の放生会に参向した時に詠んだものです。「よも」とは多くの、「いろくづ」は魚です。放生川に魚などが放たれる光景を切り取って詠まれた歌です。
 御子左家の祖である俊成(しゅんぜい)は、91歳の天命を全うするほど長生きで、建仁3年(1203)11月23日、後鳥羽上皇より、二条御所で「九十賀」を賜り鳩の杖を戴きます。鳩の杖は、80歳になった功臣が宮中へ出務する時に杖をつく事が許された証として授与されたものです。この杖を王杖といい、後にその形状から鳩杖というようになりました。最初から鳩の飾りがついており、中国の漢時代から長寿の功臣が賜る儀礼がありました。この儀礼の日本での初見が俊成の時で、お祝いに戴いたこの杖は冷泉家に遺されています。
 鳩は陽の最大数字「九」を付ける鳥として、「鳩に三枝の礼あり」といわれ、小鳩は育ててくれた親鳥に敬意を表して、親鳥より三本下の枝に留まる、とされていることによるなどの諸説があります。それ故、日本では長寿を愛でる吉祥の鳥とされて、200歳の長寿を全とうしたという伝説の大臣・武内宿禰にあやかって鳩の彫刻のついた杖が贈られるようになり、また、八幡神である応神天皇のお使いが鳩であるとされ、臣下の「長寿を願う」天皇の思いから鳩杖が贈られる儀礼が続いて来たのでしょう。ちなみに、最後に下賜されたのは吉田茂元首相で、以後は廃止されました。
 こうして今日まで続く「歌道の家」、冷泉家(れいぜいけ)の時代が始まったのです。
(京都産業大学日本文化研究所 上席客員研究員)
 

(※1)人麻呂(ひとまろ)影供(えいぐ);藤原顕季がはじめた人麻呂影供は、その後、六条家恒例の行事として代々伝えられた。顕季から顕輔→清輔→経家・・・と伝えられ、画像の伝承者が六条家歌学の正統を継ぐ者とみなされたようである。その後、人麻呂影共は歌壇全般の流行となり近世にいたるまで続けられてゆく。(『和歌大辞典』より)
(※2)四条家;藤原氏北家末志茂の嫡流。平安末期の家成の子隆季に始まる。代々院の近臣として活躍し、天皇の乳父・乳母が多く出た。後醍醐天皇の近臣として知られる隆資(たかすけ)が八幡合戦にて戦死し、この一流は途絶えたが、別流で、幕末・維新期に活躍した隆謌(たかうた)は七卿落ちの一人。(『日本史広辞典』一部加筆)
(※3)御子左家(みこひだりけ);ふつう藤原長家―忠家―俊忠―俊成―定家という流を御子左家と称し、和歌の家としては大きな存在であった。但し、例えば俊成は五條、定家は京極に住み、六条家のように邸宅が一定というわけではなく、六条家などに対する総称の意味で使われた。(『和歌大辞典より)


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by y-rekitan | 2016-02-28 07:00 | Comments(0)

◆会報第71号より-07 八幡の道⑤

シリーズ「八幡の道」・・・⑤

八幡の道を「東高野街道」となぜ呼ぶのか?
―その5(最終回)―
 谷村 勉 (会員) 


空海は八幡のいわゆる「東高野街道」を歩いたか

 空海自身は「歩かなかった」が私の答えです。八幡の道は石清水八幡宮が貞観元年(859)に勧請されてから整備されてきたと考えます。それ以前に官道として整備されていた道とは、まず山陰道と山陽道で、奈良から現在の京田辺市大住を通り、淀方面へ向かう山陰道とその大住地区で別れて美濃山廃寺、志水廃寺、足立寺、楠葉中之芝を通り八幡の橋本から山崎橋を渡って対岸の山崎へと入る山陽道でした。この時代、八幡宮の創建以前に現在の八幡の南北の道はまだ整備されていないと考えるのが妥当でしょう。空海が陸路、都から利用した道を考えますに、東寺から鳥羽街道を通り、淀から山陰道に入るか、「山崎橋」を渡って八幡の橋本から大住に向かうか、楠葉から現在の大阪府交野市の交野山を目指した南海道を歩いたろうと思われます。f0300125_10211850.jpg楠葉野田の古い街並みには高野道の面影を残す道が今も残っています。山崎と八幡の橋本を結ぶ「山崎橋」は神亀2年(725)に造営され(八幡宮創建の135年以前に遡る)、何度も洪水による破損を繰り返すも、凡そ200年間は存続したようです。空海の入滅は承和2年(835)とされていますから、それは八幡宮創建の凡そ25年前であり、八幡の道が整備される前に空海は亡くなっています。            
 右の図(注1)は平城京時代、長岡京時代、平安京時代の男山周辺の古代官道図です。石清水八幡宮の創建以前の人の居住は、当然山陰道沿いや山陽道沿い、楠葉、橋本周辺に集中し、古墳や古跡も概ね古代官道沿いにあります。現在の常磐道や志水道など八幡宮創建以前には南北を縦貫する「八幡宮道」として整備されておらず、この辺りの人の居住はまばらであったと思われます。

西村芳次郎と「弘仁時代一里塚跡碑」

 西村芳次郎の実父、井上忠継は現松花堂庭園内にある松花堂及び泉坊等を現在地に移転、居住しました。その父の跡を継いだ西村芳次郎も松花堂昭乗ゆかりの遺蹟を保全して、現在に繋いで貰った我々の大恩人です。それだけでなく
西村芳次郎にはもう一つの業績がありました。八幡に合計88基もあると言われる「三宅安兵衛碑」の建立に大きく関わり(注2)、八幡における建碑活動の最大の協力者が西村芳次郎であったことです。昭和2,3,4年に集中して建立された三宅碑は今でも文化財研究の貴重な郷土遺産として光彩を放っています。しかし中にはどう考えても怪しい建碑があります。f0300125_10283789.jpgその一つが志水にある「弘仁時代一里塚跡」碑です。この碑は歴史家がみれば誰も納得しないようです。「一里塚制度」は徳川幕府が作り上げた制度で平安時代にはありえないからです。弘仁時代といえば概ね嵯峨天皇の在位期間(809~823年)で高野山や東寺が嵯峨天皇によって空海に下賜された時代背景があります。「西村芳次郎がこの道は空海が通った道だと言いたい為に作り上げた物語であったようで、当時、京阪電鉄の観光戦略に乗って八幡を屈指の観光地にしたいとする思いの所産だったようです」(注3)
 今の状況とそっくりの観光戦略です。八幡の道は「八幡宮道」と呼ばれ、石清水八幡宮の参詣道として発展してきたはずなのに、観光客を誘致するために、あたかも「空海が歩いた道」だと言わんばかりに「東高野街道」と呼ばせて、さも「高野山」の参詣道であったかのような印象を与える戦略は“如何なもの”なのでしょう? 先日、90歳の古老に高野道は「何処から」との質問に、またまた「志水のはずれ」との回答がありました。「都名所図会」(安永九(1780)年刊行)に「高野街道」は「志水の南より河内の田口村へ出る道也」の記載と合致します。正確には志水の南とは「洞ヶ峠」の事を指すと思いますが。そもそも明治に入って官僚や陸軍が内部で使用していた「東高野街道」など八幡の住民の頭の中にはなかったと思います。

文化財への取り組みはどうなっている

 日頃、夫々の行政が文化財に対してどういう取り組みをしているのか、あまり深く考えたこともないのが正直なところです。しかし、退職した後に八幡の文化財や歴史に興味を持つと、自然と周辺自治体の文化施設や展覧会、企画展に足を向けることが多くなりました。ついに「東高野街道」の道標を見るにつけ、今居住している八幡と比較してしまう事態になりました。比較の結果はお粗末としか言いようがありません。その辺りにフォーカスしてこなかった住民側にも責任があるかも知れませんが。
 八幡に来る観光客はまず少なくとも京都市内の観光や周辺の自治体の観光も済ませ、厳しいものの見方を学習してから、最後に来るのが八幡で、八幡宮を見たら帰ってしまいます。春の花見シーズンともなれば背割りの桜見物にどっと人が押し寄せますが、桜を見たら直ぐに帰ると言われています。
 徒然草の仁和寺の法師が山上の八幡宮本社を知らずに、山下の立派な極楽寺や高良社を八幡宮本社と勘違いして帰るようなもの、とは思うものの、一方では定年後に八幡に来る観光客は大変よく勉強してから八幡に来るようです。へたをすれば地元住民よりも八幡の事をよく知っていて、舌を巻くこともあります。いくら「高野山」の名にあやかって「東高野街道」と言い出しても借物の名称につられて観光客は来るわけがありません。もっと総合的な取り組みが必要なことも考えたはずです。観光客を受け入れるにはそれなりの環境を準備しなければなりません。
 はて八幡に文化財について審議する「文化財保護審議会」なるものがあるようですが、機能しているのでしょうか。ここ15年程は開かれたこともないのではと危惧しています。しっかりもう一度現状を分析して取り組み方を研究してほしいと願います。直近の問題としてもっと駅前や街道筋の街並みを整備できないでしょうか。1軒の家が壊れたら、その跡には必ず3,4軒の家やプレハブのアパートが建つような街並みにしか出来ないのでしょうか。ここ数年の内にも立派な屋敷や長屋門がどんどんなくなりました。これからも間違いなくどんどんなくなっていくのは目に見えています。立派な観光資源の喪失にがっかりする事が多すぎるように思います。道も観光客にとってふさわしい街道に整備できないでしょうか。最近、20人前後のグループで散策に来る人々を多く見かけますが、八幡に来ても食事をするところがない、喫茶店もないと相変わらず誰もが口にしています。周辺自治体が一体どんな取り組みをしているのか、実際に見学して彼我の違いを認識しては如何でしょうか。何かにつけ見聞すれば解ろうというものですが、解ってやらないとなればお粗末としか言いようがありません。

「御幸橋」南側に新設の案内板

 昨年の9月頃「御幸橋」の南側に設置された案内板です。これを見て何か変だと思うのは私だけかと思っていましたら、これを見て失笑したり、憤慨したりしている方が沢山いらっしゃいました。f0300125_1040832.jpg何がおかしいのか、東高野街道と書かれた看板の位置です。平成の歴史街道運動に乗って俄かに東高野街道などと言って、八幡宮の参詣道を高野山の参詣道だとするような街道名称がある事自体が可笑しいと思うのですが、写真にある「東高野街道」の案内板が必要ならば一番下が定位置だろうと思います。我々はこの辺りの感覚をおかしいと思うのですが。如何でしょうか。何度も言いますがこの道筋は「御幸道」とする八幡にとってかけがいのない固有の歴史的名称の道です。一番下に「石清水八幡宮参詣道」、「飛行神社」とありますが、「石清水八幡宮御幸道」と書くべきで、この看板を真ん中に位置させてください。此処は八幡なのですから。この看板は元々「御幸道」の歴史的存在を全く知らない者によって書かれたものでしょうか?
 前々回にも書きましたが、重要文化財「石清水八幡宮境内全図」にも、「八幡
山上山下惣絵図」、「男山考古録」にもはっきり「御幸道」との記述があります。これこそ我々が後世に引き継ぐ本物の歴史的名称であって、決して消し去ってはならない価値のあるものであり、この歴史を引き継ぐために「境内全図」や「惣絵図」や「男山考古録」が先人達によって残されて来たのです。また「八幡山上山下惣絵図」には「御幸道立石」との標碑の存在が記され、その位置も図示されています。これが正徳3年(1713)に石清水八幡宮検校新善法寺行清により建立された「石清水八幡宮鳥居通御幸道」という標碑と思われます(注4)。八幡市民図書館に掲示されている「八幡山上山下惣絵図」をしっかり見てください。「高野道」、「御幸道」、「御幸道立石」の書かれた位置をしっかり確認してください。以前、御幸橋の南側にあった「石清水八幡宮鳥居通御幸道」の標碑は現在京都府の土木事務所が管理しているそうですが、平成29年3月頃完成予定の「三川合流サービスセンター(仮称)」に合わせて、御幸橋南側の道路整備計画では、その一環として前述の標碑は必ず元の場所近辺に戻して下さい。
 御幸橋から一の鳥居、平谷方面のいわゆる放生川の西側の道は歴史的に「御幸道」であり、この由緒は解説案内板を設置して観光客に分るように説明する方がよっぽど喜ばれると思います。八幡にも市井の郷土史家や歴史愛好家が沢山居られますが、八幡固有の歴史的呼称など消えてなくなっても良いと思う人はいないはずです。しかし、いまの延長線上の考えで行けば次々と大切な建物や道路や呼称などは簡単に消え去ってしまいます。子孫に引き継ぐ歴史は借物の薄っぺらい歴史しか残らないことになるでしょう。繰り返しますが「御幸道」に「東高野街道」の道標はいりません。100歩譲って「東高野街道」の道標を建てるならば常磐道に留めるべきでしょう。

「東高野街道」碑に端を発して
 
 旧市街の道を借物の「東高野街道」などといっても決して愛着はありません。それは決してネイティブな名称ではないからです。連載の形で色々書きましたが最終回となって見直しますと、気分の晴れる連載ではありませんでした。読者はどうでしょうか。歴史を見るとき、現在の生活や制度から来る視点や尺度だけで歴史を見てしまえば、当時の歴史を本当に理解できない薄っぺらいものになってしまいがちですが、それで諾々とするような人を見るにつけ、近視眼的なものの見方のみでは歴史は分からないと日頃から戒めています。
 八幡宮が遷座する以前に八幡を南北に縦貫する道の存在は疑わしく、古代の官道として山陰道、山陽道、南海道は存在していました。空海は八幡宮が遷座される凡そ25年前に入定しています。
 近世以前に八幡の道を「高野道」、ましてや「東高野街道」と呼んだことはありませんし、現在の枚方や寝屋川、東大阪など河内と呼ばれた地方には高野道の石碑が存在しますが、洞ヶ峠から八幡の道には高野道を示す道標は一切存在しませんでした。なぜなら八幡の道は八幡宮への参詣道でありましたから、他の宗教都市を連想するような道標はあり得ません。東寺から京街道を経由して河内の高野道に続く道だから、八幡の道も高野街道だと言い張るのは暴論です。
 明治の神仏分離政策の以前には八幡の山上に四十八坊と言われる数多の坊があり祈祷の取次や宿坊を兼ね、八幡社の運営にも大きく関わった歴史があります。その坊のほとんどが真言宗でありましたから、社僧として高野山に参ったかというと、私の狭い見聞ではその記録を見たことがありません。当時の坊は皆独立採算であって高野山から一切経済的援助を受けることはありませんでした。八幡の社僧がそれぞれの壇越である大名や江戸幕府には参勤していた記録は沢山見ました。
 ある日、知人から聞きましたが! 善法律寺の前の「新道」を古くからある「東高野街道」だとボランティアガイドに「間違った説明」をさせているのでしょうか。善法律寺へ通じる東西の道はありましたが、現在のような南北の道は無かったと前回述べた通りです。
 明治の中期頃になって官僚や陸軍の内部では「東高野街道」と言っていたようですが、昭和の始め松花堂の西村芳次郎が八幡の三宅碑の建立を指導した時に初めて観光戦略に高野街道の名称を使用したとの見方があります。
その後、言論統制の厳しかった戦前に「東高野街道」と書いた刊行物がありますが、作者は役場でその名称を調べたのでしょうか?
 さて「八幡宮道」の立派な石碑が日本最大級の大石塔(神應寺門前横)の前に何十年と横たわって寝ています。八幡宮の国宝指定と同時にそろそろこちらも起きて貰って役立てては如何でしょう。
 文化財保護課にある三宅碑もほったらかしにしないで欲しいものです。なぜ元の場所に設置しないのか、貴重な文化財としての認識の無さを物語ってしまっています。俄か仕立ての「東高野街道」道標もよいのですが、歴史的価値のある「三宅碑」をもっと大事に扱うべきでしょう。
 八幡の歴史の探究を目指している者としましては、今後も大いに文化財の扱い等について大変な興味を持って見つめて行きたいと思います。

[注]
(注1)神 英雄 「古代の地域計画と石清水八幡宮の成立」より 
文化燦々第1号 (石清水崇敬会)
(注2)中村武生氏が現在(2016.1)確認している建碑総数は288基で、その内八幡市に88基の三宅碑を確認し報告している。(京都市内の88基と同数)
(注3)中村武生氏講演会より引用 平成28年1月17日 八幡市文化センター
『三宅安兵衛の遺志』碑と八幡の歴史創出   
     ―松花堂・東高野街道・天皇聖蹟・綴喜郡―
(注4)「八幡山上山下惣絵図」に記された「御幸道立石」が、正徳3年(1713)
に石清水八幡宮検校新善法寺行清により建立された「石清水八幡宮鳥居通御幸道」の標碑とすれば「八幡山上山下惣絵図」の製作年代は1713年以降と推定されます。


この連載記事はここで終りです。       TOPへ戻る>>>

by y-rekitan | 2016-02-28 06:00 | Comments(0)

◆会報第71号より-08-1/2 三宅碑②

《続》 1月度の講演会より

『三宅安兵衛遺志』碑と八幡の歴史創出
その2

―松花堂・東高野街道・天皇聖蹟・綴喜郡―

2016年1月  八幡市文化センターにて
中村 武生  (京都女子大学非常勤講師)


亡父の遺言をなぜ建碑にしたのか

 瑞泉寺には6基の石碑が現存しています。1カ寺の建碑にしてはトップクラスの多さです。これは母ゆかの菩提寺だということが大きい。のちには清治郎とその家族・子孫も埋葬されます。ちなみに安兵衛の菩提寺は南禅寺金地院です。こちらは父の筑前博多織を継いだ次弟安次郎家が受け継ぎました。
 安次郎は洋画家浅井忠と交流がありました。たとえば中澤岩太は、1903年(明治36)のこととして、安次郎を浅井と「共ニ工芸品製作ヲ研究セル者」として回想しています(「故浅井教授ト図案」黙語会編『黙語図案集』所収)。金地院は浅井の墓所でもあります。そこにのちに安兵衛・安次郎父子が埋葬されるというのは興味深い。安兵衛は自身の埋葬地について、「市中の狭き寺に葬るべからず。」「勝地名刹。誰人にても詣てよく、亦好んで詣で、詣でゝ心持よき寺に墓所を営めよ」と遺言していたそうです(『木の下蔭』)。浅井の縁で安次郎が亡父の思いをくみ、金地院を選んだということではないでしょうか。その金地院をふくむ南禅寺には、5基の亡父の遺志碑が現存しています。当然かもしれませんが、縁のあるところへは厚くなるようです。f0300125_1234469.jpg
 木屋町の瑞泉寺に戻ります。瑞泉寺には石碑以外の寄付もしていました。同寺の什宝には、文禄4年8月2日(1595年)、三条河原で惨殺された豊臣秀次妻妾の衣装の一部でその辞世の句を軸装したものがあります。瑞泉寺裂(瑞泉寺伝来表具裂)と呼ばれ、2002年(平成14)3月26日付で、京都府の文化財(工芸品)に指定されています。1922年(大正11)、清治郎はこれをそれぞれ納める木の小箱20個、外箱1個を寄贈しました。2005年(平成17)9月、市立長浜城歴史博物館の「秀吉を支えた武将、田中吉政」展で瑞泉寺裂が出展されたとき、担当の学芸員で敬愛してやまない太田浩司さんが木箱に墨書のあることを確認されました。たとえば小箱の1つには「為先祖代々菩提/三宅清治郎箱寄贈」などとあったそうです。太田さんから教えて頂きました。
 先祖供養のために寄付を行うというのは、徳川時代以来の路傍の道標建立の目的に通じるではないかと、これを知って気づきました。たとえば現京都市東山区の三条通白川の交差点に、延宝6年3月(1678年)建立の道標が建っています。これは京都市内における現存最古の道標です。「是よりひだり(左)、ちおんゐん(知恩院)・ぎおん(祇園)・きよ(清)水みち(道)」という主文のほか、側面に「京都不案内旅人のためにこれを立つ」という目的とあわせて、「施主、為二世安楽」と刻まれております。そうです、この道標は二世、おそらく先祖の供養のために建てられているのです。道標は道に迷った人の役に立ちます。仏教の世界では人の役にたつことを多く行うと功徳が得られます。功徳が得られると極楽に往生できる、つまりあの世で安楽に暮らせると信じられていました。
 清治郎が亡父安兵衛の遺言を建碑として履行した、とりわけ道標の体裁をもたせたというのは同じ目的ではないのか。すなわち清治郎は、単に亡父の好みにあうというのみではなく、功徳が得られ、あの世で亡父が安楽に暮らせることを願って石碑建立を選んだのだと考えられるのです。
 そのように理解すると、「安兵衛遺志」と刻むものとは別に、清治郎が興味深い建碑をしていることに気づかれます。京都市下京区西七条の水薬師寺にある碑です。表には「真言宗塩通山水薬師寺」とあり、その裏面に「為恵光院照空妙智大姉」とあります。恵光院照空妙智大姉は、1927年(昭和2)4月9日、つまり亡父の遺言の建碑を行っているさなかに病没した清治郎の妻智恵の戒名です。この碑ははっきりと亡妻のために建碑したことを刻んでいるわけです。しかもこの碑は、「安兵衛遺志」と刻んでいないにもかかわらず、前述の『木の下蔭』の「建碑個所」一覧に「水薬師の碑」として載せられています。亡父の遺言によるこの事業ですが、亡父にとどまらず広く先祖供養を目的としていることが推定できます。

八幡市をふくむ旧綴喜郡に過半数存在するのはなぜか

 2016年2月現在、確認できた「三宅安兵衛遺志」碑は、291基です。全体を400基としますと、73パーセントにあたります。全体の特徴を検討するだけの量を把握していると思います。すでに消失したものでも、写真や拓本などで実態を知れるものがあります。それは含めております。多くの方にご教示をいただきました。この場を借りて改めてお礼を申し上げます。
 なお自身の名前「清治郎」やその雅号である「洛園」を刻んだもの、つまり亡父の遺言によると刻まれていないものは含めておりません。「清治郎」「洛園」と刻まれたものでも本件を考えるうえで切り離せない、意味のあるものもありますが、時期や地域が大きく外れているものもあり、とりあえずここでは外しておきます。さきほどの水薬師寺の碑は含めております。『木の下蔭』の一覧に載っているためです。
 これを地域ごとに分類しますと、現京都市域が90基ともっとも多いのです。これにつぐ、というよりほぼ同数なのが現八幡市域で89基です。以下は京田辺市38、綴喜郡宇治田原町13、木津川市13(旧相楽郡加茂町8、旧同郡山城町5)、久世郡久御山町11、城陽市9、綴喜郡井手町8、同郡精華町7、同郡笠置町4、長岡京市3、宇治市2、乙訓郡大山崎町2、大阪府枚方市の2基です。
 京都市内は、安兵衛・清治郎の居所ですので当然として、八幡の多さが目につきます。全体の31%に及びます。建碑当時、八幡は市制をひいておらず、綴喜郡八幡町でした。現八幡市ではなく、八幡を含む綴喜郡全体に建碑範囲を広げると、宇治田原町や井手町、現京田辺市なども含めることになります。そうすると計148基となり、全体の51%、つまり過半数が綴喜郡に建てられていることがわかります。これはこの事業の実態を考えるうえで無視できないデータです。
 あわせて建碑の数を年代ごとに述べていきますと、大正10年(1921)は2基、大正11年3基、大正12年2基と少数だったのが、大正13年は14基、大正14年は12基と少し量が増えます。それが大正15年(昭和元年)は4基と、またひとケタに戻りました。ここまで建立地はすべて現京都市域でした。
 ところが昭和2年に突然72基に増加します。建立地も京都市には全くなされず、現八幡市68基、京田辺市3基、大阪府枚方市1基です。昭和3年は114基とさらに増加し、昭和4年は半減しましたが58基です。そのあと昭和5年に激減して1基、昭和6年1基、以後は見つかっておりません。のこりの8基は建立年次不明です。これによれば、1927年(昭和2)に分量、及び建立地域にも画期のあったことが想像できます。この時期に京都市域から八幡町を中心とした綴喜郡に建碑の中心が移る、何らかの事情があったと読み取れます。

建碑の協力者、西村芳次郎とは何者か

 岩永蓮代の『文化財保護ありのまま』(1987年)には、八幡市郷土史会による1982年(昭和57)の調査というのが紹介され、同市の三宅清治郎遺志碑は道標約70基、旧蹟碑を含めると120余基が確認されているとあります(227頁)。
 そんなまとまった成果があるならぜひ拝見したいと思いましたが、これはどういう形で存在するのか。報告書の形で刊行されているものなのか。まだ入手ができるものか。
 しばらく放置していましたが、あるとき気になり出しまして、思い立って八幡市郷土史会にお電話をしました。1998年(平成10)8月31日(月)のことでした。当時の会長の前川永一さんが応じて下さり、初めて刊行物だと知りました。それが『やわたの道しるべ』です。しかも残部があると聞きまして、その日のうちに八幡市立松花堂庭園で前川さんと待ち合わせをしまして、入手いたしました。
 お目にかかった前川さんから予期せぬことをうかがいました。それが西村芳次郎の存在です。その名も初めて聞きました。「西村芳次郎が三宅清治郎をスポンサーにして八幡に石碑を建てた」とおっしゃったのです。驚きました。三宅清治郎の建碑に協力者がいたなんて思ってもみませんでしたから。
 『やわたの道しるべ』(1990年再版のもの)の巻末にも同様の記載がありました。八幡市誌編纂委員であった杦浦勝(故人、当時摂南大学講師、国語学)が、「八幡市域の道標について」という一文を寄稿していました。さきほど岩永が記していた、同市の三宅安兵衛遺志による道標は約70基、旧蹟碑を含めると120余基云々という情報はこれによるものでしょう。そこに「当市での協力者(略)西村芳次郎氏(略)の適切な言行が功を奏したといえる」とありました。しかし典拠が記されておらず、これは事実と判断してよいのか、西村芳次郎とはいかなる人物なのか、どのような協力をしたのかなど、知りたいことが山のようにわきましたが、杦浦の一文では何も分かりません。前川さんにも日を改めて尋ねましたら、典拠は示されず、「それは八幡では誰でも知っている伝説です」と答えられました。当時、インターネットのヤフージャパンの検索エンジンはすでに登場しておりましたが、「西村芳次郎」は全くヒットしませんでした。
 なお『やわたの道しるべ』には実に多くの三宅碑が、写真はもちろん、銘文まで丁寧に記してありまして、このおかげで八幡市内の現存する三宅碑の大半は労苦なく知りえました。
 ちなみに八幡市域の三宅碑には、前川さんにお目にかかったこの日に初めて接しました。主に所謂「東高野街道」、この道は古く志水道などと申しました。この呼称の問題については、谷村勉さんが本会会報で論じておられますし、本稿でも後述します。話をもとに戻します。所謂「東高野街道」沿いにある三宅碑が、八幡市域で僕が初めて接したものでした。こんなに至近におびただしく存在するのだと、ほんとうに驚きました。なお男山などを含めてつぎにまとまって観覧したのは、その年末、12月20日(日)で、大阪市立大の仁木宏博士の中世史ゼミの八幡巡検に参加したときでした。このとき主に案内下さったのが、次回に本会で講演される藤本史子さんでした。僕は藤本さんの最新の中世八幡町復元のお話をうかがいつつも、次々と現れる三宅碑に心を奪われておりました。

西村芳次郎と会った人、竹本建造さんとの出会い

 当時、僕に協力下さって各所の三宅碑を独力で見つられたのが、京都市北区にお住いの河村寧子さんでした。洛中洛外、さまざまな場にミニバイクでお仕事に行かれ、そのかたわら毎日のように発見されるのでした。嵯峨野などの三宅碑はほとんど河村さんに所在地を教えてもらいました。
 八幡市域のものは、『やわたの道しるべ』によって僕が先に確認し、河村さんに伝えておりました。ですので、あるとき時間をみつけて、河村さんも三宅碑確認のため八幡市中心部に入ってこられました。1999年10月11日のことです。自転車で多くの三宅碑を散策されながら、たまたま見つけた石屋さんを訪問し、三宅碑のことを訪ねたそうです。するとそのお店の奥様が、「私はきいたことがあるだけだが知っている人がいる。紹介するからすぐ連絡するので、ちょっと待ってて」といわれ、電話で聞いて下さり、そのままその方の家へお連れ下さったそうです。ちなみにその石屋さんとは、西村正男元八幡市長のお宅だったそうです。
 訪問先は、八幡大芝の竹本健造という1924年(大正13)生まれの方で、驚くべきことを語られた。

 その人の家はろうそく屋だったのだが、「井上芳太郎」という人が13才のときに京都の室町に奉公に出た。呉服屋の「西村某」のところで仕事をしたが、その家系が絶えたからか分からないが、その西村の養子になり「西村芳太郎」となった。そのころ三宅安兵衛氏に大変お世話になったそうだ。息子の清治郎氏とも付き合いが当然あっただろう。八幡などの「四里四方」の碑をこの西村芳太郎が石屋につくらせた。八幡、田辺、三山木、井手、宇治田原などだと聞いている。今あなたが座っているところで安兵衛碑はつくられたのです。この家は元々芳太郎さんがいたところで、ここに石屋を呼んで碑文を刻んでいたのです。すっかり家屋が建っているが、掘れば今でもざくざく石の破片が出てくるはずです。(略)わしは西村家とは米を借りたりするくらい隣どうしで仲がよかったので、芳太郎大おじいさんにはよく可愛がられた。

 「西村芳太郎」は、西村芳次郎のことです。全く予期せず三宅碑の濃密な情報を得て、河村さんは驚嘆されました。すぐに僕に連絡を下さり、日程調整をしたうえで、9日後の10月20日、竹本さんのもとに僕を同伴してくれました。
 竹本さんからは実にさまざまなお話をうかがえたのですが、当時の僕は西村芳次郎のことはもちろん、八幡地域のことも何も知りません。戴いた情報を適切に処理するには、その質や量はレベルが高すぎました。僕の力量を超えていました。たとえば竹本さんは「西村芳太郎」と言われるが、先に紹介した前川永一さんや杦浦勝は「芳次郎」とされます。どちらが正しいのですかと問うと、「芳太郎が正しい。直接接した自分が言うのだから間違いない」と言われた。ところが竹本さんから至近の円福寺が西村の菩提寺だと教えてもらえたので、翌日掃苔(墓参)にうかがいましたら、「閑夢塔」という墓標の裏面に、「西村芳次郎」と刻まれていました。「芳次郎」が正しいと判断するほかありません。つまり竹本さんからの聞き取り情報を全く理解不能の状態で、失敬ながら竹本さんのお話を信じてよいかどうか疑わしくなってきたわけです。
ただ西村について、亡くなってまもなくまとめられた追悼集の存在したことを教えていただきました。残念ながら竹本さんのもとにはすでにありませんでした。ふらっとやってきた人にあげてしまった由でした。書名は不明でしたが、これは吉報だと思いました。これさえ読めば西村という人物のおおよそが分かるでしょう。そのうえで改めて聞き取りをさせていただこうと思って竹本さんを辞去いたしました。
 ところがこの追悼集をながく見つけることができませんでした。竹本さんのもとを辞去したその足で、河村さんと八幡市立図書館に行きましたが確認できません。そもそも書名が分からないので、いろいろなキーワードを見込んで探しましたがダメでした。その後、京都府立総合資料館、国会図書館など所蔵していそうな図書館・資料館を悉皆的に調べたつもりですが、それらしいものに全く出会えませんでした。前川永一さんも「見たことがない」というお返事でした。それゆえそのまま竹本さんのもとに再度うかがう機会を逸してしまいました。
 西村芳次郎をあるていど知り得るようになった現在、当時のメモを見なおしますと、かなりレベルの高いお話をしてくださっていることが良く分かります。いま改めてこのメモをもとにお尋ねをしたい思いが強いですが、竹本さんは翌々年(2001年)に亡くなられてしまいました。聞き取りは1回きりで終わってしまいました。自身の非力を嘆いております。なおのちに西村芳次郎宛の書翰などを実見できるようになり、「芳太郎」や「芳三郎」などと書かれたものを複数見ました。当時は固有名詞にこだわりが薄かったのか、もしかしたら「芳太郎」と自称した時期があったのではないかとさえ思っています。竹本さんが非事実を述べられたわけではなかったと確信しております。

三宅清三さんをお訪ねする

 その後も三宅碑調査は継続しまして、2000年(平成12)の年末ぐらいには、200基以上を確認できていました。始めたころはこれを研究対象とするつもりはありませんでしたが、研究者の性と申しますか、おそらくこれだけの量の三宅碑を系統的に調査した人間は稀少だろうと思えまして、論文を書きたくなりました。文献史料は『木の下蔭』のみで、信用できる同時代史料は一切ないという状態でしたが、先にもふれましたような建設年代や地域の偏り、どのようなものが選択されたかなどの特徴を示すだけでも世に問う意義はあるだろうと思えました。
 もう一つは敬愛してやまない山田邦和博士(現同志社女子大学、考古学)の強い後押しでした。当時「三宅安兵衛遺志碑調査表」というものをつくって毎日持ち歩いていたのですが、ある研究会の懇親会でお見せしたところ、山田博士らしからぬ大きな声を出され(「中村さん、すごいじゃないですか!」)、そばにいたある中世史研究者に「これみて下さい、いかにも中村さん(の仕事)らしいじゃないですか」といわれたうえで、「中村さん、これ絶対発表しないといけませんよ」と激賞してくださいました。そこまでおっしゃってくださるならと、図に乗りまして、当時山田博士のお勤めだった花園大学、僕も推薦いただいて非常勤講師だったのですが、その史学科の雑誌『花園史学』に寄稿させていただくことにしました。
 このことをさきほどの河村寧子さんにお伝えしたところ、先に三宅さんへご挨拶にうかがうべきだと勧めてくれました。前述しました三宅清三さんは安兵衛・清治郎のころから変わらず六角通東洞院にお住まいで、清治郎以来の西陣織帯地問屋をしておいででした。これまで全くご挨拶をしたことがありません。たんに石碑調査をしているだけではなく、金地院では同寺住職さんの許可をいただいて安兵衛の掃苔をしたこともあります。他人が自身の先祖の事を挨拶もなく調べているというのは気持ちのよいことではない、むしろ失礼にあたるかもしれないと、恥ずかしながらこの段階で気づきました。
 そこで花園史学会に寄稿する原稿の構想がほぼ出来上がったころ、2001年3月6日でした。三宅清三さんにお便りをお送りいたしました。すると快諾を頂きまして、3月19日に初めて六角のおたくにうかがいました。実はその前日が清治郎の祥月命日で、お便りがとどいたときちょうど祥忌法要を話題にしておられたそうです。それで何かの縁だと思われて快諾して下さったと、あとでうかがいました。
 ご挨拶にうかがうにあたって、特別な欲はもっておりませんでした。たとえば清治郎の日記や手紙などを探そうとは思っていなかった。もし存在するなら、伊東宗裕さんが見逃すわけがありません。伊東さんの『京の石碑ものがたり』にそういった記載はありませんでした。当然ないだろうと思っていた。あわせて聞き取り調査も考えていませんでした。清治郎には実子が無く、清三さんはご養子さん(善三郎)の息子さんと聞いていました。清治郎の死後、すでに60年以上をへています。清治郎を深くご存じとは思えなかったのです。
だから清治郎のことを知りたいという思いではなく、世間話ていどの雑談のつもりで、いくつか三宅碑を見て気づいたことなどを話題にしました。ところが、自身の判断が浅はかだったとすぐに気づかされました。たとえば三宅碑には松尾芭蕉や与謝蕪村などに関するものがいくつか存在します。「清治郎さんは俳句にご関心がおありのように感じます。俳句をされていたということはありませんか」と申しますと、「ああ、鈴鹿野風呂氏のグループ(に所属していた)と聞いています」と即答されました。鈴鹿野風呂は大正・昭和の京都を代表する俳人です。清三さんは清治郎の嗜好や生活をご存じなのです。のちに野風呂の日記が刊行されていることを知りまして、丹念に見ていますと、1936年(昭和11)3月24日条に「洛園」が初めて来たという記載を見つけました(『俳諧日誌』巻1)。

 ほかにはさきほどの水薬師寺の碑です。裏面の「恵光院照空妙智大姉」を当時の僕は何者か分かっておりません。そこで尋ねましたら、清治郎の先妻の戒名ですとやはり即答され、でも清三さんはその碑を見ておられないので、「そんなものが建っていますか」と逆に興味を示してくださいました。
 もしかして何でもご存じなのではないかと感じだして、まさかと思い西村芳次郎を話題にしました。いまだ竹本さんから示された西村の追悼集は未確認でした。西村のことは何も分かっていなかった。そこで前述の『やわたの道しるべ』に西村が建碑の協力者だと記されているが、何かご存じないでしょうかと尋ねたのでした。すると遠い目をなさいました。何かを思い出そうとしておられる感じでした。さすがにこれは無理かなと思いました。「その人のことは記憶にない」というお返事だと思っておりましたら、発せられた言葉が「小学生のときに祖父に連れられて行ったことがある。持っていった弁当を庭で食べた。一度きりだったが」というようなものだったのです。驚嘆しました。清治郎は西村邸に行ったことがあったのだ。初めて前川さんのお話と『やわたの道しるべ』以外で清治郎と西村の接点を見出したのです。西村が建碑を援助したというのは事実かもしれない。いえ、それ以前に清三さんは本当に清治郎のことは何でも知っていると気づきました。あとから知ったのですが、養子とはいえ清三さんの父善三郎は清治郎の姉の子、つまり甥だったのです。清三さんも生まれてからずっと嫡孫として遇され、清治郎が亡くなったのも高校生のときですので、種々ご存じで当然でした。

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by y-rekitan | 2016-02-28 05:00 | Comments(0)

◆会報第71号より-08-2/2 三宅碑②


 《続》・・・『三宅安兵衛遺志』碑と八幡の歴史創出 その2


予期せぬ出現、三宅清治郎日記

 これは清三さんから清治郎の聞き取りをすべきだ。文献史料がない現状で、石碑確認では足りないことを聞き取りで解明できることはあるはずだと思いました。ですが、もう当日はそれなりの時間が過ぎていました。また改めてさせてくださいと次回のお願いをして辞去しようとしたときに、思わず出た言葉がありました。
「清治郎さんの書かれたものってありませんでしょうか」。
すると予期せず、「日誌があったな」と言われたのです。「洛園日誌」と書いてあるもので、馬代町にあるから今度もってきておくといわれました。馬代町というのは洛西花園(現京都市右京区)の地名で、清治郎の別荘「洛園荘」のことです。その後解体されましたが、このときは建物が維持されていました。
 「日誌」とはいかなるものであろうか、辞去してからもずっと気にしつづけました。学級日誌のようなものであろうか、何でもいいです、とにかく初めての当事者が記したであろう文献史料の登場です。一行でも建碑について記載があればうれしいが、と思いました。ご連絡を一日千秋の思いで待ちました。お返事を頂いたのは数日後でした。お電話でした。「何で(どういう手段でやって)来られるか」と問われましたので、車でうかがうことをお伝えすると、「それならいい、持てないからな」とおっしゃいました。これで分かったことは、持てないほどの規模であること、お貸しいただけるということでした。

f0300125_14503399.jpg つよい期待をもって、3月24日に伺ってみれば、大きな箱に入った、亡くなる直前まで記された50年にわたる、50余冊の日記でした。室内に通されますと、嗣子裕志さんと日記をご覧になっておられ、私も初めて読んだ、自分が生まれた日をみたら、記されていましたよと微笑まれました。「あなたが望んでおられる内容が載っているか分かりませんが、お役に立つならお持ち下さい」といわれました。一日ごとの記載は実に克明でしたので、載っていないわけがないと直感しました。
 帰宅するなり、建碑期間である1920年代のものをアトランダムに取り出し、開いてみると、予想通りすぐ見つかりました。いえ建碑の記事だらけだったといってもよいでしょう。そのなかに、西村芳次郎の名も多数見いだせたのです。
 たとえば、1927年(昭和2)3月12日条に、
(略)城南八幡志水の西村芳次郎氏来宅。石匠中村善市同道。同地附近、曩ニ廿ヶ処の建石を為せしが、更ニ四十余ヶ所の建石を申来らる(略)
とありました。八幡付近にすでに20基の建碑をしたが、さらに40余基の追加を希望したというのです。石屋の記載まであります。これによって、西村芳次郎が三宅碑建立の協力者であることは実証されました。1927年から29年にかけて、建碑の量、とりわけ綴喜郡に増大する理由も理解できます。西村の参加が大きな原因だといえましょう。
 のちに入手するのですが、『大阪毎日新聞』の1928年8月28日付に「山また山」という連載があり、そこに三宅碑が取り上げられていました。
路傍に建つ立派な遺言の道しるべ
京は三宅氏の社会奉仕 洞ヶ峠-嶽坊

(前略)その考へに一番が共鳴した八幡の西村芳次郎さんは自分のことのやうに奔走し石柱の文字は史跡の方は京大の西田博士、古墳の方は濱田博士とそれぞれの権威者に揮毫を乞ひ、すでに八幡附近の百二十六本を初めとしその他、淀御牧附近に三十本を立て、次は笠置あたりまで手を伸ばさうとし京都市の附近は清次郎さんに歩き廻つてすでに百余本を建てた(中略)清次郎さんはいふ「古跡の在所を知らせて貰ひさへすれば何時でも出かけて石柱を立てます」と。
 これによれば、西村は八幡付近に126本、淀や御牧(現久御山町)付近に30本の建碑をなし、今後は笠置あたりにも建碑予定である。すでに京都市付近にも清治郎とともに100余を建てたとあります。一般に新聞記事は誤りが少なくなく、裏付けをとらず鵜呑みにするのは危険です。たとえば建碑期間にあたる1921年以後で、三宅清治郎の日記(以下「日記」と略します)に西村が初めて登場するのは、1926年(大正15)8月2日条です。それ以前の建碑記事に全く西村は現れません。京都市付近の100余基にも関わったというのは誤りだろうと思います。とはいえ、新聞記事と同じ日の「日記」にも掲載のことは書かれており、特に誤りを指摘したような記載はありませんので、あるていどは事実を伝えているものと思います。西村が三宅碑最大の協力者であるというのは間違いないと思います。

京都帝国大学の教員たちの関与-濱田耕作(青陵)、西田直二郎

 石碑の揮毫を京都帝国大学の濱田耕作(青陵)や西田直二郎が行っているのは、石碑銘や『木の下蔭』の記載により分かっておりました。両人は考古学や歴史学の教員であると同時に、当時の京都府史蹟勝地調査会の評議員及び調査委員でもありました。つまり京都府の史蹟調査・顕彰の最前線にいた人たちです。
石碑が建つことにより、その地は由緒のある場所だと感じられてきます。そこがガソリンスタンドやマンションであったとしても、戦死者がころがっていなくても、たとえば「関ヶ原古戦場」というような碑が建っていると、過去がイメージされ、大事な土地のように思えてきます。不思議な装置です。
 そういう装置が古墳の前に建つと、それまではただの土の塊としか思えなかったのに貴重なもののように感じられてきます。開発計画がおき、これを壊そうというとき、すえられた石碑により意識のある人は壊すことにためらいをもつことがあります。その結果、残された事例もあったはずです。石碑は広い意味で文化財保護の役割を果たしたといえます。
八幡を含む旧綴喜郡にはいまも多くの古墳が存在します。それらの多くに三宅碑が建てられています。あるいは三宅碑によって守られたといえるかもしれません。それらは現在でも有名なものばかりではありません。当時ならもっと知られたものではなかったでしょう。そんな無名古墳や遺跡をどうして一民間人の建碑事業で選ぶことができたのでしょうか。
そこで西田直二郎や濱田青陵です。もし彼らが単に揮毫しただけではなく、石碑の建設地決定にあたって一定の助言があったとすれば、当事業は在野の非研究者の行為でありながら、当時の学術成果の影響(学問的裏づけ)を指摘できることになります。それだけに彼らの存在は三宅碑にとって重要だといえます。
 当然、濱田や西田は三宅清治郎の交友関係者だと思っていました。ところがそうではなく、この新聞記事は西村との縁だと述べるわけです。このように見てきますと、西村芳次郎が何者であるか、これを明らかにしなければ三宅碑事業を理解したことにならないと気づいたのです。

西村芳次郎の孫、安子さんを訪問―解明はじまる

 同年9月10日(月)、前述の初の三宅碑論文の原稿を花園史学会に提出しました。「京都三宅安兵衛・清治郎父子建立碑とその分布」というタイトルです。「日記」の出現により三宅碑に関する情報は充実してまいりましたが、これを活かすにはまだ時間がかかりそうでしたので、その報告は先送りにすることにし、本論文では「日記」の内容に立ち入ることは避けました。発見を述べただけにとどめました。なにより西村芳次郎の情報が皆無だったからです。
 西村の孫にあたる安子さんが八幡市月夜田の宝青庵(紅葉寺)にお住まいであることは承知していましたが、おうかがいすることにためらいがありました。一つにはこちらの調査がもっと進んでからにしたいという思いです。せめて西村の追悼集を確認したのちにしたかった。竹本建造さんの聞き取りのような失敗を避けたかったというのがあります。もう一つは、当時僕が信用していたある方から「宝青庵には何もない」と聞かされていたということもありました。「何もない」の「何」はいったい何を指しているのか、深く考えてみるべきだったのですが、当時の僕には力及びませんでした。
 この時期にインターネットで検索しましたら、唯一「西村芳次郎」でヒットするものがありました。それが大阪市にある大阪毎日新聞の販売店「株式会社大毎上町販売店」の社長(初代)の名前でした。八幡の人物が大阪市内で新聞販売をしているとはどういうことか、疑問はあるのですが、とはいえ同姓同名で漢字も同じですし、活動期間も同時期のようでしたので、同年9月20日(木)、わらをもつかむ思いで同店に電話をしてみました。当時の社長(6代目)の廣岡一雄さんが対応くださり、丁寧にご教示を頂いたうえ、ありがたいことに『大毎上町八〇年のあゆみ』という記念誌まで送ってくださいました。「ご参考になるかどうか判りませんが先生の研究の一助になれば幸甚です。ご笑納下さい」という一文が入っていました。この場を借りまして当時のお礼を申し上げさせてください。結局、別人と分かるのですが、実は生没年も同一だったとのちに知りました。いまでも不思議な出会いだったと思います。
 廣岡さんと電話でお話をさせていただき、正直じれったくなってきました。大阪市内で新聞販売に関わっていたかどうかぐらいはお孫さんならご存じではないか。こんな根本的なところで悩んでいる方が無駄だという気持ちになれたと思います。「何」もなくてもよいので、とにかくご挨拶にあがろう、そんな気持ちでその日のうちに西村安子さんにお電話を差し上げました。ぶしつけだったと思いますが、安子さんはご理解を下さり、訪問をお許し下さいました。翌々日の9月22日(土)、初めて宝青庵をお訪ねしたのです。うかがってびっくりでした。当然ですが、安子さんは何でもご存じでした。「何もない」どころではありません。情報の宝庫でした。「おばあさんが生きておればもっといろいろお話しできたのに」、おばあさんとは芳次郎の娘静子さん、安子さんのお母さんです。そんなことを何度かおっしゃって下さいましたが、いえいえ、安子さんの記憶しておられることも貴重なことだらけでした。そうです。探しに探していた追悼録も所蔵しておられました。全く愚かなことで、なぜ最初にこちらにうかがわなかったのだろうか、己の不明を恥じました。
(次会報につづく) 空白


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by y-rekitan | 2016-02-28 04:32 | Comments(0)