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◆シリーズ:“心に引き継ぐ風景” ③◆
◆《歴探ウォーク》石清水八幡宮 山上伽藍の探訪◆
◆シリーズ:“五輪塔あれこれ” ③◆
◆シリーズ:“宮廷と歌合、そして石清水宮寺” ②◆
◆シリーズ:“『三宅安兵衛遺志』碑と八幡の歴史創出” ③◆



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by y-rekitan | 2016-03-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第72号より-01 正法寺


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心に引き継ぐ風景・・・③
八幡の近世を開く志水家・正法寺
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 志水家の「お亀」は文禄3年(1594)、徳川家康の側室となり、近世の八幡を切り開く大きな足跡を残しました。
 慶長5年(1600)5月、徳川家康は石清水八幡宮を中心とする八幡に361通の「領地朱印状」を発給し、徳川政権構想に取込みました。この年、豊臣政権になって中断していた「安居神事のまつり」が復活し、「安居の頭役」を志水家が担って、武運長久と天下泰平を祈願しています。関ヶ原直前の7月、豊臣奉行衆による家康弾劾状「内府ちがひの条々」の最後には「内縁の馳走を以、八幡之検地被免候事」とあり、お亀の出身地、八幡の「検地免除」を非難しましたが、実際に翌年からは御朱印にそって検地が免除され、それを喜ぶお亀の手紙が残ります。これ以後、八幡は「検地免除」・「守護不入」の地として近世自治組織の体制が整いました。
 お亀の父、志水宗清は上杉征伐に参陣し、兄の志水忠宗はお亀の子である尾張藩祖、徳川義直卿に従い大坂夏の陣に従軍、その後も代々家老として藩政を支えました。志水家の菩提寺として隆盛を極めた「正法寺」は当時の姿を残し、「志水町」、「志水大道」に「志水家」の名残を留めます。 
(写真と文 谷村 勉)空白


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by y-rekitan | 2016-03-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第72号より-02 山上伽藍

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《歴探ウォーク》
石清水八幡宮 山上伽藍の探訪


2016年3月 石清水八幡宮山上 にて
小森 俊寛 (有)京都平安文化財

 3月13日(日)、石清水八幡宮研修センターにて表記のタイトルで講演と山上の歴史探訪ウォークが開催されました。
 レジュメに沿ってその概略を紹介します。参加者52名。

(1)はじめに

 石清水八幡宮は、平安時代前期の貞観元年(859)に男山山上に鎮座されて以来、石清水八幡宮寺と称され発展してきた。男山の山上には、神社の祠や仏教的な堂塔が次々に建設され、平安時代後期頃には神仏習合の「山上伽藍(がらん)」が完成する。また平安時代後期から中世にかけては、伽藍の発展に伴うように、男山の東斜面にはのちに男山四十八坊と称される小寺院群が形成され、山下の頓宮(とんぐう)や極楽寺なども加えて、山上山下には寺と神社が一体化した独特の歴史的景観が成立する。明治時代初頭における神仏分離令の発布と、それに伴う廃仏毀釈運動によって、これらの伽藍のうち仏教施設であった堂塔が破却され、建物部分は全て姿を消すこととなった。これらの痕跡は、大塔(だいとう)跡、護国寺(ごこくじ)跡、瀧本坊跡の発掘調査で明らかになったように、地下の遺構として極めてよく残っていると推測されるが、地下だけでなく、目を凝らしてみると地上にも、石垣や平坦面(テラス)、あるいは柱の基礎である礎石として、石清水八幡宮境内の随所に失われた伽藍の痕跡が残っている。
 今日は「伽藍」の理解からはじめ、石清水八幡宮寺だけに特徴的に見られた神仏習合の山上伽藍の意味を考えていき、現場にたってイメージを深めたい。

(2)伽藍配置について

 伽藍配置とは、堂塔部、即ち塔・金堂・講堂・経蔵・鐘楼・回廊・大門・中門など寺院の中心を形成する堂舎の配置を指すと記されている(『日本考古学辞典』)。朝鮮半島や日本列島では、堂舎が左右対称性を有することや、一直線上に並ぶなどの配列が認められ、定形化したものが確認されている。
 寺とは「仏像を安置し、僧尼が居住し、道を修し、教法を説く殿舎」(『広辞苑』第二版)とされ、日本では古代以来現代に至るまで仏像を拝むことが重んじられる場であると認識されていたと理解される。
 インドにおける仏教の初期段階では、僧が修行する伽藍の中心はストゥーパ(仏塔)であった。それが中国大陸、朝鮮半島、日本列島へと伝わっていく過程で、伽藍の中心は塔から、仏像を安置した金堂へと変化し、金堂は後代には本堂と称される如く寺の中心施設となっていく。

(3)石清水「八幡造」と山上伽藍
 (『石清水八幡宮境内発掘調査報告書』より抜粋)

 本殿は「八幡造」で、本格的なものは4例ともされる遺存例の少ない形式の神社建築とされている。f0300125_1011322.jpg八幡造の始まりは宇佐神宮にあり、八幡三所大神と称される三神を並置して祀るという基本要素は石清水も宇佐と共通している。しかし、宇佐神宮では6宇3殿とされ、それぞれの大神の内院・外院の2屋根からなる独立した3殿が並ぶ分割型であるが、石清水は6宇宝殿とされる長大な前後2屋根からなっており、3殿が完全に連結する一体型形式へと変化している。このような建物構造の変化からは、宇佐神宮八幡造が、三所大神が集合した経過を残す原型となった最初期型であり、それに対して石清水の八幡造は、八幡大神が八幡大菩薩となり三所大神の結合がより進んだ形を示す「発展完成型」と評価できる。
 このような変化については、神社の本殿という一面からだけでは理解が難しく、神仏習合の進展からの視点が必要である。石清水の八幡造の本殿は、八幡宮という神社としての一面からだけで造られたものではなく、八幡宮寺の中心に座る本堂=金堂、あるいは密教系寺院では根本中堂とする意図を持って造られたと理解すべきで、既存の大寺院の金堂に匹敵あるいは凌駕するような威容を持った一体型の本殿を造り上げたものと考えられる。僧・行教が、完璧な青写真を持っていたとは考え難いが、男山の山上一帯に神仏習合の宮寺としての一大伽藍を形成しようとする強い祈念を感じ取ることができる。このことは、護国寺のあり方や宝塔院の位置等にもよく示されている。
 護国寺は、貞観年間の早い内に本殿と連動して建立されたと理解される。しかし護国寺は、創建当初から明治初年の廃絶期まで、一時期観音堂が併設されたりはするが、薬師堂単独の堂宇である。宇佐神宮の弥勒寺のような、塔・金堂・講堂などを備えた独立した伽藍が形成されることはない。護国寺本堂は中世から薬師堂とも称され、主要堂塔の一角を占め続けるが、山上に点在する本殿を始めとする他の堂塔と関連性を持って、全体として一つの伽藍を構成する一堂宇であり続ける。この点からは、創建期から本殿との関係のなかで、本殿の左翼となる東北部に位置付けて建立された、講堂、あるいは、第二金堂的性格を有する堂宇と理解される。
 宝塔院も、初期から存在する主要堂塔のひとつである。側柱の柱間が5間の天台密教系の塔で、真言密教系の大塔に近い規模である。護国寺の南西隣で、本殿の東総門から下る階段のすぐ南側の小テラスに建立されていた。f0300125_10213961.jpg本殿を中心にして、山上全体での位置関係からは、護国寺と共に本殿の東側・左翼に展開した仏塔である。平安時代後期には、宇佐神宮弥勒寺の新宝塔院を西宝塔院と称して、対照的に石清水の宝塔院を東宝塔院と呼称することが史料に見えるが、石清水の山上全体を一つの伽藍と見る観点からも、石清水八幡宮寺の東塔と呼称し得る。
 本殿、護国寺、宝塔院をこのように見ていくと、この三堂宇のあり方も山上全体を一つの伽藍としていく山上伽藍の構想が、初期から存在していたことを示していると考えられる。さらに山頂部と東側からやや北東側にかけて開発が始まる面からは、「国家を守護する」という八幡大菩薩遷座の主題が、東北方にある平安京を最も意識したものであることをよく表している。本堂東側が、谷部の発達した西側(西谷地区)よりも小なりとはいえ、開発が容易であったとも言えるが、決してそうではない。平安時代の護国寺は、北東へ延びる尾根線上に、平坦地を造る方法ではなく、崖面へ張り出す懸け造りという建築技法を駆使して建立に漕ぎ付けたとの推論が、護国寺跡の発掘調査成果から十分に根拠を持つことが明らかとなった。本殿も、当初は懸け造りを一部にでも用いた建造物であった可能性があることをここで指摘しておく。
 男山の山上伽藍の形成は、平安時代前期の創建期から断続は見られるものの、鎌倉時代初め頃にまで継続する。平安時代後期の12世紀代前葉頃に、西谷地区北部に白河法皇による大塔、同南部に待賢門院による小塔が建立され、鎌倉時代に下る八角堂を除くと、山上伽藍の軸となる主要堂塔がほぼ出揃う。院政期でもある平安時代後期が、山上伽藍の一応の完成期と見てよいだろう。この山上伽藍を図上復元した堂塔を入れて俯瞰すると、北奥に南面する本殿を中心とし、南総門から三ノ鳥居までの、尾根線に沿い東に若干振れ南に延びる参道を中軸線と見立てて、その両翼に伽藍を構成する主要堂塔が配される。本堂の東側・左翼に本殿と一連して建立された護国寺・宝塔院が、南西の西谷・右翼側には大塔・小塔、少し遅れてその北に八角堂が展開する。地形からの強い制約により、俯瞰しても全体としては不規則な並びとも見えるが、それぞれの堂塔の南北軸線は本堂とほぼ揃えられており、海抜約120mの山上に、一つのまとまりを持った伽藍が明確な意図を持って造り出されたと理解してよいだろう。
 先行する比叡山延暦寺、高野山金剛峯寺の山上伽藍と比較すると、若干コンパクトではあるが、石清水の場合は、主要堂塔の周辺に大小様々な社、堂塔が建ち並び、多彩な神仏が密集する。f0300125_10281141.jpg現状から想像することは難しいが、神仏習合を具現化した小宇宙を形成していた面に大きな特徴を持っていると考えられる。密教世界の胎蔵・金剛両界の曼荼羅に対して、八幡三所大神を始めとする日本の神々が加わった、神仏習合を基盤とする石清水八幡宮寺的曼荼羅世界が、山上に具現化したと考えている。

本日歩いたルート
三ノ鳥居から参道を経て本社へ。本社から南へ延びる参道は、山上伽藍の中軸線である。
本社で参拝。現在の社殿は、寛永期の造営であるが、豊臣時代の遺構もあるという説もある。 
本社から南面して右翼となる西谷北部へ。狩尾道からの入口となる黒門付近、大塔跡、八角堂跡、その間に三女神社(弁財天社)。大塔跡には通路上に濡れ縁の礎石がひとつ露出。
西谷南部、今の涌峯塔の辺り。小塔、元三大師堂、周辺には奥坊、法童坊、梅坊などが林立。小塔は待賢門院(藤原彰子)御願として1132年に建立されたと伝えられる多宝塔。
社務所北側で表参道を横切り、北東へ参道を下る。本社から南面して左翼となる地区。
本社東門、階段下近く、宝塔院(琴塔)跡礎石群の間を参道がくだる。さらに石段参道をくだると護国寺跡テラスへ。
f0300125_10364145.jpg護国寺を見た後、男山東麓の坊跡群の間をくだりながら山下へ。
護国寺すぐ下には瀧本坊、石清水社の前から入る。瀧本は石清水社横の瀧が語源。石清水社からさらにくだると、次のテラスは泉坊。松花堂昭乗が暮らした辺り。泉坊から下り二ノ鳥居へ。山下にて解散。
 
各遺跡の解説
① 大塔跡  
本殿南西の西谷に位置した。平安時代後期の嘉承元年(1106)に自河法皇の御願により建設が始まり、天永3年(1112)供養される。
建久10年(1199)西谷一帯の火事で、小塔と共に焼失.50余年後の建長5年に(1253)に再建。慶長10年(1605)には豊臣秀頼によって再興される。
中世以降の絵図では下重方形5間、上重円形の真言形式の大塔として描かれる。
江戸時代の指図(さしず)では側柱(がわばしら)一辺14.9m、高さ27.lmで根来寺(ねごろじ)大塔(国宝)とほぼ同規模。
発掘調査で北東・北西の雨落ち溝と礎石および抜き取り穴を検出。指図どおりの規模であつた。

② 宝塔院(ほうとういんー琴塔)跡  
本殿南東に造られた仏塔。遷座以前からの塔とも伝える。当時石清水の別当であつた元命(げんみょう)が、万寿年中(1024-28)に宝塔院領を定め、延久年中(1069-74)に修造したので、このときが成立との見方もある。(飯沼賢司『人幡神とはなにか』角川選書366、2004年)
近世には、軒の四隅に琴がかけられており、「琴塔(こととう)」と呼ばれた。
江戸時代中期の指図(『八幡山上山下惣絵図』)によると、塔の大きさは側柱一辺が10.92m、高さが11.9m。
本殿南東の参道をまたぎ、基壇の痕跡と礎石が残存している。東辺の側柱の両端が元位置を留めており、その長さは10.9m。指図と合致していることを確認した。
本尊は大日如来、供僧12人が法華不断経を修する(「石清水八幡宮堂塔目録」)。
絵図に残された塔の様式(方形二重塔)からみて、天台系の大塔と考えられる。
このことから、宝塔院がはじめて史料に登場する11世紀頃、法華信仰隆盛であった時代背景から、天台宗の開祖・最澄(さいちょう)が建設計画をした六所宝塔院と同じく法華塔であつたと考えられる。
(中安真理「石清水八幡宮寺の宝塔院(琴塔)について」(『美術史研究』第42冊 2004年)

③ 護国寺跡 
本殿に次いで貞観年間に造られた仏堂。真言宗の僧侶・行教が造った寺。
「石清水八幡宮護国寺」として、平安時代は本殿と一体の施設として全山を取り仕切り、八幡宮から発給される文書はすべて護国寺から出された。
本尊は釈迦・薬師。康和5年(1103)大江匡房(おおえのまさふさ)が十二神将を寄進。
嘉暦元年(1326)焼失、建武元年(1334)後醍醐天皇臨席のもと再建供養。
真言宗の東寺長者(とうじちょうじゃ)・道意(どうい)が導師(どうし)を勤め、足利尊氏(あしかがたかうじ)、楠木正成(くすのきまさしげ)、名和長年(なわながねん)などが警護を行う。ちなみに、「石清水八幡宮社頭図」に再建後の姿が描かれる。
明応3年(1494)近接した坊からの失火に類焼。延宝7年(1679)に仮御堂再建。文化13年(1816)本堂が再興される。

◆護国寺跡の発掘調査
-輪宝(りんぽう)と独鈷杵(とっこしょ)の出土-

江戸時代後期の本堂と見られる建物の柱穴を7基確認。柱穴1が側柱の北西角にあたる。柱穴は礎石の据え付け穴で、長径約lmの穴の中央部に礎石の基礎となる根石(ねいし)が残存していたが、その上にあるはずの礎石は取り去られていた。
本堂の柱列内側に、密教の祭祀具が埋納された直径約25 cmの小坑(しょうこう)を6箇所発見。小坑は地層から見て江戸時代後期のもの。
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小坑の底に輪宝(りんぽう)を据え、独鈷杵(とっこしょ)を突き立てた状態で出土。独鈷杵は1本を除き北方向を指していた。(図1)
約9m四方の範囲に規則的な配置。このことから剣頭状の八角形に配されたと推定される。関連して、鎌倉時代の護国寺指図(設計図)からみて、本堂の須弥壇(しゅみだん)を取り囲んだものとみられる。
輪宝と橛(けつ)を用いた地鎮(じちん)・鎮壇(ちんだん)の例は、日本全国で約8箇所12例みられる。
f0300125_12125114.jpg真言宗では、橛を先に置き輪宝を上から突き立てる。天台宗の修法は、先に輸宝を置き、その中央の穴に橛を突き立てるもので、出土状況でどちらの修法によるものかがわかる。護国寺の出土例は、天台宗の修法によるものである。(森郁夫『日本古代寺院造営の研究』1998年)
天台宗の修法は円仁(えんにん)が請来した経典「聖無動尊安鎮家国法」が典拠。護国寺例では橛でなく独鈷杵が用いられており(図2)特異だが、八方に埋葬する修法は「安鎮家国法(あんちんかこくほう)」であった可能性がある。
真言宗寺院として創始された護国寺であったが、江戸時代後期には天台宗との結びつきが強かったことが判明された。これは、江戸幕府との関係によるものか。

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by y-rekitan | 2016-03-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第72号より-03 五輪塔③

シリーズ「五輪塔あれこれ」・・・③
続 これは何なのか

野間口 秀國 (会員) 

 「廟(びょう)は墓では有りません。神として祀る所です。石清水八幡宮は、院政期において天下第二の宗廟といわれるようになりました。天皇の祖先神である応神天皇を神として祀る所であるからそういわれているのです(*1)」。鍛代敏雄氏の講演「神国論の系譜」を報じた歴探の会報第54号にはこのように書かれてあります。書かれた文面からは、石清水八幡宮の五輪塔は墓石や墓標では無いことになるのですが、現地の解説板には、「・・・、鎌倉時代の武士の霊を慰めるために建立された武者塚である・・」との伝説もあることが書かれてあります。本章では「これは何なのか」ついてもう少しこだわってみたいと思います。
 『男山考古録 巻十』(*2)には「・・承久ノ兵乱二軍師数ヲ盡(つく)シテ落命ス、之為承應年中築之、依テ称武者塚云々・・」とありますので、承久の乱(承久3年/1221)の戦死者の為に、承應年間(1652~1655)に建立されたであろう墓塔なのだと分かります。承久3年に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れたこの兵乱で、命を落とした兵士は両軍合わせると当時としてはかなりの数に及んだと考えられます。これら兵士の死を弔うことを決め、当時では最大規模の墓塔建立を発願し、その造立にあたらせたのは誰だったのでしょうか。また、「元寇の犠牲者を供養するために建てられたのでは、との説が近年研究者らに有力視されている」(*3)と報じられていたことも「何なのか」を考えるヒントになりそうなので記しておきたいと思います。

 ところで、戦で倒れた兵士を弔う墓塔を実際に見る機会がありましたので、そのことに触れてみたいと思います。2015年の秋、鳥取県西伯郡大山町の長綱寺と名和神社を訪れました(*4)。f0300125_16243182.jpgこの寺と神社は96代・後醍醐天皇(1318~1339)を主君と仰ぐ名和(なわ)長年(ながとし)の墓所です。長綱寺の裏山には名和公一族郎党の墓所があり、住職さんより「悪意を持って入らない限り問題無いですよ」とのお許しをいただき小高い裏山に登りました。昭和5年(1930)の山林開発中に発見された小型五輪塔など200余基が集められた石塔群は、まさに700年ほど前に起きた船上山の戦い(元弘3年/1333)の様子を彷彿とさせるものでした。これに勝利した名和長年は後醍醐天皇により伯耆守(ほうきのかみ)に任じられましたが、延元元年(建武3年/1336)の湊川の戦いの後に京に入った足利尊氏に敗れ討死しました。また京で討死した名和年長と長男・義高、三男・高光の首塚と伝えられる三人五輪も名和神社からほど近い同町内で見ることができました。名和長年の戦没遺蹟が京都市上京区西陣の名和公園に今も残ること、かつてこの公園のある学校区と大山町との交流があったことはあまり知られていないのではないでしょうか。

 解説板にも書かれてあり『男山考古録 巻十』でも確認できる今一つの「何」が忌明塔(きあけのとう)【注1】です。当時の郷中に一般的にあった習わしとして、父母などの七々日(なななぬか-しじゅうくにち)の忌明け日(50日目)にこの石塔を詣でて賽銭2~3穴(穴のある硬貨を2~3枚)を供え、喪の汚れを清めたという。が、このような慣習さえもその謂れが分らないとも同書には書かれています。石清水八幡宮とともに京都市内には忌明けの信仰を伝える寺として、f0300125_16325267.jpg知恩院五輪塔(東山区)、観音寺五輪塔(上京区)、行願寺五輪塔(中京区)などが知られています(*5)。また解説板にはありませんが「蒙古襲来に際して、亀山上皇が弘安4年(1281)6月20日に八幡宮社前で祈願されたことに関連して造立されたものではないかとも考えられる」との記述もあります(*6)。

 このように「石清水八幡宮五輪塔が何なのか」を知ることは難しいと分かってきましたが、とは言え五輪塔は古くは平安時代後期から造られております。その大きさは鎌倉末期に最高の水準に達し、それ以降は造立者の階層が中級へ、そして市民へとなるにつれて、室町時代頃には小さいものが普遍的に造立されるようになり、今日では墓地のあちこちで見ることができるのです。書籍や史料、その他の刊行物などには、「塔は密教の五つの思想(空・風・火・水・地)を上から団形(空輪)・半円(風輪)・三角(火輪)・円(水輪)・方形(地輪)に表したものと考えられている」と、ほぼ同じような説明が見られますが、塔の宗教的解説は関連する専門書などを参照いただきたいと思います。「石清水八幡宮五輪塔が何か」について確定的なことは分りませんが、『男山考古録 巻十』に書かれていることや言い伝えなどを尊重することは大切であると思います。なぜなら、五輪塔が海難を逃れた報恩の標し、先祖を祀り冥福を祈る供養塔、戦に倒れた兵士を弔う碑、喪の汚れを清める忌明けの塔などと称され、いずれもがその時々を生きた人たちに崇められたものと伝えられているからです。

 本章の最後に資料や情報提供いただきました大山町教育委員会のご担当者、長綱寺御住職様に紙面をお借りして感謝申し上げます。次号では五輪塔の歴史的な時間軸「いつ/When」についてお墓の歴史などと共に考えてみたいと思います。

参考図書・史料・資料等:
(*1)2014(平26).8.31 鍛代敏雄氏の講演「神国論の系譜」(歴探会報54号)より
(*2)『男山考古録 巻十』 長濱尚次著
(*3)日本経済新聞2014(平26).3.27夕刊記事 「武運長久 見守った巨塔」
(*4)『大山町文化財ガイドマップ』鳥取県西伯郡大山町教育委員会編
(*5)『京の石造美術めぐり』竹村俊則・加藤藤信著 京都新聞社刊
(*6)『八幡市誌・第一巻』第3編 古代の八幡
【注1】忌明塔(きあけのとう)は、(いみあけのとう)との読みもあります。


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by y-rekitan | 2016-03-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第72号より-04 宮廷と歌合②

シリーズ「宮廷と歌合」・・・②
宮廷と歌合、そして石清水宮寺
その2

大田 友紀子 (会員) 


石清水若宮と歌合

 ここで石清水宮寺での「石清水若宮」の存在について考えてみたいと思います。
 古来より重要視されてきた「若宮」とは、本宮に祀る神の御子神であると説明されます。本宮(=本殿)に祀る神の御魂は『和御魂(にぎみたま)』で国家を護り安寧に導くとされ、穏やかな魂の働きをします。それに対し、『荒御魂(あらみたま)』は神の荒ぶる魂であり、「若宮」の姿の一つであるとされています。そして、人々は、静の「和御魂」と動の『荒御魂』という二つの神の姿を信仰していたのです。                       
 現在でも、伊勢神宮の本宮では、日本国の平和と安泰を祈り、個人の祈願は摂社の荒祭社にて行うとされています。石清水八幡宮寺の境内にある「細橋(ささやきばし)」の伝説には、伊勢の遥拝所の方向から天照大御神がおみえになり、本殿から来られた八幡神とこの橋の上でお会いになり、この国の行く末や私たち人間のことを話し合われるといわれています。伊勢も石清水も共に天皇を守護する神社です。そのためでしょうか、天皇の政(まつりごと)によからぬことがあれば、石清水の本殿が鳴動して天皇に宣(のたま)うとされ、『太平記』などにも鳴動のことが出てきます。f0300125_1903161.jpgそのような時には、きっと若宮が行動を起こすと信じられたのでしょう。
 そんな強い力で行動する神である若宮に、神を讃える和歌を奉献し、そして自身の誓願も和歌にしたためて祈ったのです。具体的には、若宮社の社殿前、もしくは近くの殿舎などに集まり「歌合(うたあわせ)」が催され、後に、詠まれた歌が奉納されることが流行るようになりました。

神社での歌合

 神社で行われる歌合の始まりは、嘉応2年(1172)10月9日に、住吉社にて道因法師が催したとされています。この時の判者は藤原俊成が勤めます。橘成季(たちばなのなりすえ)が著した『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』には、この「住吉社歌合」とそれを羨やんだ廣田大明神が3人の歌人の夢に現れたので、このことを伝え聞いた道因法師は、ならば広田社でもなそうと出かけ「広田社歌合」を催したことが書かれています。廣田社の祭神は天照大御神(の荒御魂)とされていますが、古代、もしくは中世には神功皇后とされていたのでは、と私は思っています。なぜなら、住吉大社の第四宮には神功皇后が祀られていて、この頃、「住吉の神 和歌の神」とされていて、両社に共通して祀られているのは神功皇后だからです。
 和歌の歴史は、歌合と共にあると言っても過言ではありません。歌合は、日本で発生した独自の文学的遊戯で、それまで模範として尊重されてきた中国にもありません。その始まりについては諸説ありますが、平安貴族の間で流行っていた「物合(ものあわせ)」や宮中儀式、行事に加えられることで徐々に盛んとなっていったようです。「物合」とは、貝合(かいあわせ)や絵合(えあわせ)など、共通する二つの物を比べ合わせてその優劣を決めるという遊びですが、そこに和歌を持ち込むことで、遊戯性と文学性という要素が混じり合い、貴族に好まれるようになったようです。
 歌合は後になるほど複雑な取り決めがなされ、歌人関与のあり方も制約がありましたが、だんだんに勝負を重んじる方向に転じ、歌合に負けたことにより病死するという説話まで語られるようになっていきます。院政期の頃より開催されることが多くなり、それに「和歌の家」の問題がからみ、鎌倉期になると、勝負の結果がことさら大事となり、歌人も判者も独自の創作法や判定法で対処するようになっていきました。院政期の最後の頃の歌合となった「(石清水)若宮社歌合」は、建久2年(1191)3月3日に開催されています。判者は阿闍梨顕昭で、六条籐家の歌人です。その後は、御子左(みこひだり)家の俊成・定家父子が務めるようになっていきます。

和歌に詠まれた石清水宮寺

   ここにては 雲ゐにみえて をとこ山 
   あまの河こそ ふもとなりけれ

 この歌を詠んでいるのは、前僧正隆辨(さきのそうじょうりゅうべん)(1208~1283)です。隆辨自身は、あまり著名ではありませんが、四条家の出身です。兄の隆衡(1192~1255)は、平清盛の娘を母として生まれています。父は後白河上皇の側近として仕えた四条隆房で、建礼門院の世話を妻と共にしたことなど、四条家の財力のほどをうかがい知る逸話を多く残しています。
 隆辨は隆房の息子ですが、生母については不明です。けれども、園城寺の円意に灌頂をうけ僧の一歩を踏み出していること、その後園城寺の最高位である長吏に建治2年(1276)に還任(かんにん)していることが記録されていることから、生母は正室の清盛の娘ではないか、と私は推測しています。というのも、宝治元年(1247)に鶴岡八幡宮寺の別当にも就いているからです。園城寺の長吏の前任に就いた年は不明ですが、還任自体があまりなかったことからも、その才が非凡ではなく、祈祷僧としての業績が伝わっています。また、北条時頼の妻の御産の話、つまり、次期執権時宗が生まれた建長3年(1251)5月15日、出産時間まで予言した話などの霊験譚(れいげんたん)などが著名です。あるいは、隆辨が八幡大菩薩御影像を造立して、鶴岡別当坊に安置したことや、怪異を静めるために29日間、時頼邸に出向いたことなど枚挙にいとまがないほどです。
 「ここにては」の歌を『男山考古録』では、文永8年(1271)、隆辨が熊野詣の後、天河のほとりにさしかかった時、男山の方を見て詠んだとあり「天の川ハ(略)河内国交野私市を過て、枚方驛の北禁野という所にて淀川に注ぐ、前の歌ハ、西の方より遠く望てよめる也」と述べられています。想像ですが、隆辨は奈良へ行く前に石清水宮寺(大乗院?)に立ち寄ったようです。石清水宮寺と園城寺との係わりについてはわかりませんが、平安後期の摂関家の藤原頼長(よりなが)の日記には奈良の興福寺との関係が頻繁に出ています。「何宗にも俗さず」であった石清水宮寺は、裏返せばすべての宗派との交際があったのかもしれません。
 石清水宮寺をイメージさせる「石清水」や「男山」は、数々の和歌に詠みこまれて、八幡の文学碑にある能蓮法師(のうれんほうし)の歌のように、多くの歌合が宮寺の境内で催され、八幡大菩薩の若宮神への「奉納和歌」となりました。『古今和歌集(こきんわかしゅう)』の撰者である紀貫之(きのつらゆき)(?~946)も「松も老いまたも苔むす石清水行く末とほくつかへまつらむ」と詠み奉げています。
 隆辨は「雲ゐ」を天上界と詠み、神の山である男山に坐す八幡大菩薩を重ねて、その威光が今自分 がいる河内国の天の河の畔までも及んでいることを感歎して詠じています。
 石清水若宮への奉納和歌では、水神とされる「石清水」「いはし水」と詠みこんでいるものが最も多く、次に「男山」「をとこ山」「八幡山」「やはた山」と神山への崇敬の心を表す歌が続きます。この頃の風景を彷彿とさせるのが、平成23年(2011)、八幡市教育委員会より発行された『石清水八幡宮境内調査報告書』の資料編に載っている「五街道其外延絵図 東海道巻第十二」で、淀川沿いに築かれた堤(=京街道)に護られるように描かれています。もちろん、隆辨の時代に堤はありません。神の山である男山とその麓には、頓宮や大乗院・高坊が立ち並び、大谷川(=放生川)の東側には田中殿などの屋敷を中心に町並みが連なり、市が開かれてにぎわう門前町が形成されて行きました。
 以前、安芸の宮島・厳島神社に行ったことがあり、「厳島は観音さまの島であり、島の形が観音さまの寝姿に見える」という説明を聞きました。近づいて来る宮島を見ていると、左側の観音さまの頭部、真ん中の低い所は首、そして胸へと続く丘陵が見え、海の波の布団を掛けてゆったりと、眠る観音さまをイメージさせる神の島がありました。
 江戸時代まで宮寺が存在した男山は、そのまわりを海のように広がる田畑に取り囲まれた島のようで、まさに宮島と同じではなかったでしょうか。というのも、東を流れる大谷川を越えたところに墓地が営まれ、中ノ山墓地も南の端万称寺山にあります。それは、神の山である男山も宮島と同様に聖なる地であり、その丘陵の形容は、巨大なお釈迦さまの寝姿といわれていたそうで、まさに「涅槃」そのもの。現在でも、御幸橋の辺りから眺めると、八幡宮本殿がある山が頭部で、横たわった姿に見えます。それゆえに、石清水宮寺が「阿弥陀の浄土」とされていたのかもしれません。
 江戸時代の図会(=観光案内書)には、男山丘陵は鳩が羽を広げたようである、とも書かれています。
 昔の木津川の流路は、久御山から淀に向かう府道15号線上であったとされ、ひょっとすると、淀大橋の辺で見た男山の姿かも知れません。
 ところで、後鳥羽上皇は、三種の神器が無いという特殊な状態で即位されました。それ故に、神仏を深く信仰され、石清水宮寺へは合わせて29回も詣でておられます。けれど、その祈りは届きませんでした。そのことは、後醍醐天皇も同じです。そして、それは奸臣を周辺に侍らせていたことによる、と言われています。それは、時代に選ばれなかっただけではないでしょうか。 (完)
(京都産業大学日本文化研究所上席客員研究員)空白


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by y-rekitan | 2016-03-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第72号より-05 三宅碑③

《続》 1月度の講演会より

『三宅安兵衛遺志』碑と八幡の歴史創出
その3

―松花堂・東高野街道・天皇聖蹟・綴喜郡―

2016年1月  八幡市文化センターにて
中村 武生  (京都女子大学非常勤講師)


「西村閑夢翁追悼集」

 竹本建造さんが述べられた西村芳次郎の追悼録というのは、京都帝国大学の教務嘱託であった井川定慶の編纂による「西村閑夢翁追悼集」というものでした。当時井川定慶は大学に託されていた近衛家蔵の松花堂昭乗文書の整理をしており、その関係で晩年の西村に多く接していた、だから追悼録の編纂に携わったようです。現物を目にして謎がとけました。見つからないはずです。これは単著ではなく、『武者の小路』という茶道雑誌の一部だったのです。これを単著のように竹本さんがおっしゃったのは、抜き刷りがつくられていたからです。抜き刷りが図書館に入れられていない以上、いくら検索してもヒットしません。『武者の小路』というタイトルで検索し、「西村閑夢翁追悼集」の入っている号、すなわち第四年四月号(1939年)を閲覧しなければならなかったのです。
 ここに西田直二郎の弟子、佐藤虎雄の回想「西村翁を偲ぶ」が入っていました。それによれば「此(三宅安兵衛遺志碑―中村注)の建設に就いては予も西村さんと共に見て廻り遠く笠置山までも出かけた」「南山城の名高い史蹟は殆ど西村さんの息がかゝってゐると申してもよい」とありまして、前述の『大阪毎日新聞』1928年8月28日付にあった「次は笠置あたりまで手を伸ばさうとし」ているというのが事実だということ、いえそもそも濱田耕作や西田直二郎が三宅碑に関わったのは三宅清治郎ではなく、西村芳次郎の縁なのだということが実証されたわけです。
 西村安子さんのもとには抜き刷りが複数残されていました。僕はその一つを譲ってくれませんかと安子さんにお願いしました。もちろん私有するためではありません。八幡市立図書館に寄贈するためです。これを同図書館に入れておきたかった。僕の苦労を二度と後継者にさせたくないという思いです。安子さんは快諾下さったので、現在抜き刷りは同館に収められています。ぜひ西村芳次郎研究の基礎資料としてお使いいただきたいと思います。

西村芳次郎の戸籍調査

 「西村閑夢翁追悼集」は西村芳次郎の人物像をイメージするにはとてもありがたいものでしたが、没後急いでつくられため、いくつもの問題がありました。その最たるものは年譜が載せられていなかったことです。これでは西村を歴史研究の対象とするには不十分です。そのため僕が手掛けたのはまずは年譜づくりでした。そもそも西村の生年月日さえ分かっていませんでした。これにも西村安子さんに実に多くのご協力をいただきました。たとえば戸籍(除籍簿)の入手です。八幡市役所に同行願って芳次郎の戸籍を取ってもらいました。ところが八幡市役所のそれは芳次郎死後のものでした。芳次郎は八幡市で亡くなりましたが、生前の本籍地は別でした。京都市中京区でした。さすがにこの先も安子さんに同行を願うのは遠慮しました。委任状を頂き、単独で中京区役所に行きました。運よくまだその戸籍は廃棄されておりませんでしたので、ようやく芳次郎の生年月日など基礎的なデータをいくつも得ることが出来ました。この原本は後世のため安子さんにお渡ししました。

八幡市役所で得た戸籍をみて、もうひとつ驚いたのは、芳次郎の実父の名前です。僕たちは現在の松花堂庭園に残る女郎花蹟碑などにより、「井上忠継」と思っていました。ところが戸籍名は井上伊三郎でした。忠継は戸籍名ではなかったのです。たかが名前ではありません。この情報がその後の芳次郎研究の見落としを防いだと感じています。
 
竹中友里代さんの研究

 三宅碑が八幡市域に多く存在することに気づいたのち、同市教育委員会にお電話を差し上げましたところ、竹中友里代さんがその件に詳しいとうかがいまして、2001年11月8日(木)、当時市立八幡第四小学校にありました、ふるさと学習館にお訪ねし初めてお目にかかりました。そこで6基の未知の三宅碑が同館の倉庫に眠っていることを知り、当時僕が非常勤講師をしていた花園大学の学生を動員して外に出すことをお許しいただいて、翌2002年2月1日(金)に実行しました。これは同月14日(木)に京都新聞に報じられました。f0300125_20132990.jpg
 三宅碑を理解するためには西村を知るべきだと思ったというのはすでに述べたことですが、八幡市域の歴史や地理の情報も不可避です。ちょうどそのころから三宅清治郎日記の輪読会を始めようと思っていましたので、竹中さんのお持ちの濃密な情報を求めてお誘いしましたら快諾下さいました。前述の河村寧子さんなどこれまで調査に協力くださっていた仲間たち(鎌田久美子氏、水上哲治氏など)、それから三宅清治郎と「断金の交」のあった有職故実家、小西大東の研究を進めておられた、京都府立総合資料館の松田万智子さんも加わり、ここから共同で三宅碑や西村芳次郎研究を始めることにしました。
 僕の最初の成果報告の場は、同年10月27日、八幡市文化センターでの八幡市郷土史会主催の講演会でした(タイトル「三宅安兵衛碑と西村芳次郎―忘れられた偉人の発掘」)。当時の会長前川永一さんが招いて下さいました。その後、僕が所属したいくつかの学術研究会でも報告を繰り返したにもかかわらず、現在までこれを活字論文に出来ておりません。今回はよい機会をいただきました。このあとこの場をお借りして、ここまでの西村芳次郎研究の成果をお話させていただきたいと存じております。
 これに対して竹中友里代さんは、八幡市を退職されたのち京都府立大学に移られて、精力的に西村芳次郎や松花堂について論文を発表して来られました。それら成果は逐一お送り下さるので、竹中さんの西村研究の進展はよく理解できました。
 そのなかに父井上伊三郎に関するものがありました。竹中さんも当然これまで西村の実父の名は忠継だと思っておられましたが、戸籍名により初めて伊三郎と知られました。これまで多数の八幡の近代文書に接して来られた竹中さんですが、そのなかに「井上忠継」の名はあまり見かけなかったが、「井上伊三郎」なら登場することに気づかれたのです。これにより芳次郎に多くの影響を与えた実父の素性が明らかにされました。これら竹中さんの成果については、すでに本会の『八幡の歴史を探る』58号(2015年1月26日発行)で紹介されておられますので、そちらを参照願います。
(以下つづく)空白


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by y-rekitan | 2016-03-28 08:00 | Comments(0)

◆会報第72号より-end


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by y-rekitan | 2016-03-28 01:00 | Comments(0)