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◆会報第73号より-top <スクロールだけで全記事が読めます>

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
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◆シリーズ:“心に引き継ぐ風景” ④◆
◆《講演会》石清水八幡宮の由緒と建築様式◆
◆シリーズ:“五輪塔あれこれ”④◆
◆シリーズ:“詩歌に彩られた八幡の歴史” ①◆
◆『茶揉み歌』を復活◆
◆シリーズ:“『三宅安兵衛遺志』碑と八幡の歴史創出” ④◆



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by y-rekitan | 2016-05-30 15:00 | Comments(0)

◆会報第73号より-01 杉山谷不動


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心に引き継ぐ風景・・・④
杉山谷不動とひきめの滝
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 神應寺の参道、駐車場奥の朱塗りの鳥居をくぐると杉山谷不動に至り、谷に沿って歩くとやがて「ひきめのたき道」の石碑が目に入ります。
 杉山谷不動は厄除け不動として信仰され、不動堂に安置される不動明王従者の衿羯羅童子(こんがらどうじ)、制多迦童子(せいたかどうじ)の等身大の木像は全国でも珍しい。南北朝から室町前期に製作されたと伝わり、その存在感は見事なものです。ご本尊の秘仏不動明王は六十年に一度の開帳です。
 また、杉山谷不動堂は鎌倉時代から江戸時代まで続いた安居神事の祭りでは、安居の頭役と呼ばれた神事の祭主が禊を行う所で、御師や壇所太夫が同道して塩湯掛を行いました。その日は正明寺(戊辰ノ役で焼失)から湯屋が運ばれ、不動堂の後ろ、「ひきめの滝」に設えられたそうです。
 凡そ一生に一度の安居の頭役は「ひきめの滝」で毎年禊を行いましたが、古来涸れることのない滝水の前に立てば、一種独特な空気を感じます。
 橋本から安居の頭役が出た時は、塩釜と呼ばれる所(塩垢離場)で塩湯掛を行ったと伝えられ、落合了円と三宅安兵衛の二基の塩釜石碑が残ります。
(写真と文 谷村 勉)空白


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by y-rekitan | 2016-05-30 12:00 | Comments(0)

◆会報第73号より-02 石清水八幡宮

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《講 演 会》
石清水八幡宮の由緒と建築様式

2016年4月 石清水八幡宮研修センターにて
 神道 尚基 (石清水八幡宮 権禰宜)

              
 4月21日(木)午後1時より、石清水八幡宮研修センターを会場に、今年度はじめてのイベントとして年次総会と例会を開催しました。朝からのあいにくの雨にも拘わらず多数の方々にお越しいただき感謝申し上げます。総会の後、同じ会場で表題の講演が行われました。概要を報告します。なお今回の概要は、神道尚基(じんどうひさもと)氏に直接執筆していただき、編集担当がルビや西暦・画像を挿入し、執筆者の同意のもとに掲載するものです。参加者38名。

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1、由緒と歴史

 男山は平安京の裏鬼門を守護するだけでなく、三川合流や陸路の要として重要な位置にあり、以前から山頂には石清水寺(現在の護国寺跡)が所在していた。
 この男山に貞観元年(859)、八幡大菩薩が勧請(かんじょう)され翌年には社殿が創建された。そして、貞観5年(863)に行教が元々あった石清水寺を護国寺と改め神宮寺としている。行教の甥、安宗(あんじゅ)が初代別当、行教の弟、益信(やくしん)が初代検校(けんぎょう)となりこの宮寺を維持運営していた。ちなみに、別当(べっとう)は山内から選ばれ職務全体を統括監督する役目をもっており、検校は朝廷から任命され就任し別当より上の位として宮寺を管理していた。貞観18年(876)には安宗の弟、紀御豊(きのみとよ)が神主となり、その後、別当と神主は御豊系の紀氏の僧侶が世襲し相続していく。なお、現在の宮司家は紀御豊系の子孫になる。
 神仏習合の宮寺として存続してきた八幡宮寺も、明治元年(1868)の神仏分離令(判然令)によって大きな変革が起きる。明治政府は全国の神社に対して「別当」「社僧」の還俗(げんぞく)【俗人に還る】と仏像を御神体とする神社の廃仏や仏教的施設の排除を命じた。さらに、この八幡宮寺にいた別当・社僧は還俗し、神主・社人の職名に変更となった。このような神仏分離令は古代より神仏習合の形をとってきた八幡宮寺にとっては体制が大きく変わる政策であった。なお、護国寺や大塔などは入札により売却され、護国寺の薬師如来像と十二神将像は尼寺の東山寺(淡路市)に引き取られた。その後、明治2年に八幡宮寺は男山八幡宮と改称し、明治4年に官幣大社、同16年(1883)に勅祭社となった。そして、大正7年(1918)に男山八幡宮は石清水八幡宮と復称され現在に至っている。

2、社殿の変遷・建築様式

 先ず、『石清水遷座略縁起』に「貞観二庚辰、造立寶殿、随則安置云々」[六宇寶殿(ほうでん)、正殿三宇、禮殿三宇]とあり、貞観元年(859)行教によって八幡大菩薩が勧請された翌年に社殿が創建されている。この六宇(う)の宇というのは単位で、寶殿は社殿のことであるので、六つの寶殿が建てられ、その内訳として、正殿(内殿)3つ、礼殿(外殿)3つとなる。この時は社殿が独立していたのか連立していたのかは史料を欠きわかっていない。
 次に『宮寺縁事抄』に「貞観二年六月十五日、行教造神殿、本社右傍、是行教安宗祖先也云々」とあり、社殿が創建されてすぐに、行教・安宗が祖先とする武内社(御祭神:武内宿禰命)を寶殿の右傍(神様から見て右傍)に造られている。
 次に、『石清水八幡宮御修理造営之記』に長元2年(1029)「御殿北高欄、前後犬防、幣殿南楼階日隠等始造」とあり、社殿の北側に高欄が設けられ、社殿の廻りには瑞籬(みずがき)が造られている。さらに、幣殿が建てられ、南楼の階段に階段を覆う屋根が付けられている。
 次に、『八幡宮縁事抄 巻十五』に天喜4年(1056)「寶殿大廻築事清成時、天喜四年作之云々」とあり、社殿の外廻りに築地(ついじ)が造られる。なお、清成(せいせい)は十九代検校元命(げんみょう)の息子になる。
 次に、『宮寺縁事抄』に「康平四年冬、清成取宝前舞殿中柱、渡虹梁造立云々」とあり、舞殿の中央に立つ柱を取り除き虹梁(こうりょう)が架けられる。これは、儀式をするにおいて便宜を図るための改造だと思われる。さらに、應徳3年(1086)「舞殿に石を敷く」とあり、舞殿に石が敷かれ、現在の形となる。この時点、平安時代終わり頃までには社殿を構成する建物のほとんどが整えられている。f0300125_20145743.jpg
 また、『日本三代實録』仁和2年(886)5月に「二十六日甲辰、降雨、天の東南に声有りて、雷の如くなりき。長日、山城国石清水八幡大菩薩の宮自ら鳴りて、鼓を撃つ声の如く、南楼鳴りて、風波の相激して声を成すが如く、数刻を経て停まざりき。」とあり、これは、八幡大菩薩が太鼓を打つように自鳴し、南楼も風波が激突するような音を数刻出し続けた、という怪異を伝えている。ここで注目したいのは南楼で、この南楼が楼門のことであれば楼門が単独で建っているとは考え難く、創建して間もない886年には既に廻廊が造られていたと考えられる。
 社殿が整えられ始めて炎上するのが保延6年(1140)である。正月23日に宝殿以下が炎上し、同年2月29日には宝殿六宇と廻廊の上棟(じょうとう)を行っている。この時は造国制(分担制)の下、再建が行われ、次の造国司が分担している。
 美作国(岡山県北部) 平 忠盛  
   寶殿六宇
 播磨国(兵庫県南部) 藤原忠隆  
   廻廊東三十五間、南楼一宇、馬場屋一宇
 越前国(福井県北部) 藤原顕隆 
   廻廊西三十五間、舞殿、幣殿、馬場廊屏、築垣、鳥居、門
 鎌倉時代に入ると社殿の改造が行われ、先ず、建久6年(1195)に内殿と外殿の間に板が敷かれ、正中元年(1324)には楼門前の石壇と石階に造石が使用される。この時に楼門、東門、西門、北門の前の階段が木階段から石階段になるが、現社殿にはない北門がこの時点で存在していたのは貴重な記事である。
 室町時代に入り二度目の火災が起きる。暦應元年(1338)7月5日に寶殿以下の建物が兵火に依り焼亡するが、11月25日には正殿の柱が立てられ上棟を行っている。この再建は足利直義(ただよし)が造営の責任者となり4カ月程で完成している。
 その後、建徳2年(1371)5月8日に触穢(しょくえ)【けがれ】があり、その触穢があったためか7月6日に正殿が破却され、10月25日には社殿の柱が立ち上棟が行われている。なお、この触穢以外にも元中5年(1388)、永享元年(1429)、文明18年(1486)に穢に触れるが、社殿の取り壊しまでは行われず修理で済ませている。
 戦国時代に入り、三度目の火災が永正5年(1508)に起きる。この火災で寶殿以下の社殿が炎上するが、再建されるのは大永3年(1523)になってからで、保延・暦應の火災時とは異なり15年も経過している。しかも、焼亡した建物の半分程、本殿・幣殿・舞殿くらいしか再建されていない。この時は、足利幕府が再建すべきであったが弱体化した幕府にその力はなく八幡宮寺に任されることになる、しかし、荘園をほとんど失った宮寺にもその力はなかったようである。
 安土桃山時代に入り、天正7年(1572)大山崎にて縁起を聴いた織田信長は早速に社頭の修理と若宮の造替を命じる。その修理内容は、六宇宝殿、幣殿、舞殿等の上葺きとなっており、この時に、築地塀が造られ本殿の樋も木製から銅製に改められている。この修理時に取り替えられた樋が、有名な信長公寄進の黄金の雨樋である。(※史料によっては樋の材料に金銅(銅に金鍍金)、唐銅(銅と錫の合金)、赤銅(銅と金の合金)などがあるため、詳細は今後の調査を要する。)
 次に、天正17年(1589)豊臣秀吉が母の病気平癒を祈り造営料二千石を寄進して社頭四方の廻廊を再興している。これで永正の火災以降の復興はすべて完了となるが、実に80年の月日が経っていた。
 次に、慶長11年(1606)豊臣秀頼によって造替が行われ、その内容は寶殿(内殿・外殿)、幣殿、舞殿、武内社を悉く造替とあり、社殿の中核を成す建物がすべて造り替えられている。しかし、楼門や廻廊の記載がなく造替の対象外であったと思われる。f0300125_15503879.jpg
 江戸時代に入り、徳川家光による造替が行われる。寛永8年(1631)11月に神社仏閣破損の目録が作成され、寛永11年(1634)8月22日には正遷宮が行われている。この時、幕府としては本殿の修理を葺き替えにとどめたい意向であったが、八幡宮寺の強い要望により造替となっている。なお、神社仏閣破損の目録には、造替にするもの、修理を要するもの、再興を願うもの、に別けて申請されており、造替分(本社部分)としては、内殿・外殿、武内社、楼門、廻廊が申請されている。

3、現社殿の修理と特徴

 寛永11年(1634)に現在の社殿が建てられて以降、社殿の建て替えは行われず、今日まで修理で済ませている。近世の主な修理は、寛文5~6年(1665~6)、元禄4~6年(1691~3)、享保11年(1726)、延享2年(1745)、安永7年(1778)、文化元年(1804)、文化9年(1812)、安政6年(1859)に行われており、寛永11年、延享2年、文化9年の棟札が現存している。
 近代になると文化財の保護が図られるようになり、先ず、明治30年(1897)に古社寺保存法が制定され、それまでの文化財は「特別保護建造物」又は「国宝」に指定され、石清水八幡宮は特別保護建造物として指定される。また、昭和4年(1929)の国宝保存法では、古社寺所有以外の文化財も保護する目的から、公有・私有のものも国宝の指定対象とし、その折に「特別保護建造物」を国宝と称することとした。そして、昭和25年(1950)に文化財保護法がだされ、国宝保存法時代の特別保護建造物を重要文化財として指定し、「旧国宝」と称した。
 明治以降の主な修理としては、明治45年、大正9年、昭和11年、昭和44年、平成21年に行われており、昭和11年の修理は第一室戸台風の後、昭和44年の修理は第二室戸台風の後、そして、平成16年に近畿地方を縦断した台風二十三号の後と、近年は大きな台風ごとに修理をしている。なお、明治45年修理時の写真では本殿の側面に雨除け板が取り付けられており、外部からまったく側面が見えない状態であったが、その後の修理で取り外され現在は痕跡を残すのみである。
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 次に現社殿の特徴をあげてみると、先ず、本殿が内殿と外殿を前後に二棟並べた連立の八幡造りであること、そして本殿の両側面に付けた扉(馬道)があり、正面に蔀戸(しとみど)を嵌めその前に幅広い階段を設けたこと、である。この八幡造りの本殿と側面の扉、正面の蔀戸は宇佐神宮で成立したと思われるが、三殿連立の本殿と正面に設けた幅広い階段は石清水八幡宮で成立している。また、石清水八幡宮の社殿は基壇上に建ち四周する廻廊を備えているが、同様の基壇・廻廊を持つ宇佐神宮、伊佐爾波神社、鶴岡八幡宮の基壇よりもずっと高く、他社の廻廊が各一梁間、一棟であるのに対し、石清水八幡宮は二棟廊(複廊)に庇が加わった物で、前の三社とは規模・構成が大きく異なる。さらに、楼門から舞殿・幣殿・本殿まで連続して建ち並び、舞殿の棟だけが縦向きだが、すべての屋根は檜皮(ひわだ)で葺(ふ)かれ(それ以外は瓦屋根)、床面が完全に一体化している。
 まとめてみると、三殿連立の八幡造本殿は側面と正面から出入りでき、正面には幅広い階段が設けられている。そして、本殿を囲む廻廊は二棟廊に庇が付いた大型のもので、廻廊の正面にある楼門から舞殿・幣殿・本殿までが一体化している。これらの複合建築物が高い基壇上に建っている、というのが他の神社にはない特徴である。

4、平成の大修造事業

 平成5年より「平成の大修造事業」として境内摂末社を順次修復している中、平成16年10月に襲来した台風二十三号により本殿の檜皮屋根が剥がれ、急遽翌年から本殿の修理を行い平成24年に完成している。f0300125_168382.jpg
 当宮では平成15年から重要文化財である本殿の国宝昇格、また、未指定建造物の重要文化財追加指定を目途として取り組みを開始し、先ず、平成15年から境内諸建物の調査を行い同19年に「諸建造物群調査報告書」を八幡市と協力して刊行、文化庁へ提出している。この報告書では本殿以外の建物全てを調査しており、平成20年12月2日新たに八棟が重要文化財として追加指定を受けた。
 ・摂社若宮社本殿  一棟(江戸前期)  
 ・摂社若宮殿社本殿 一棟(江戸前期)
 ・摂社水若宮社本殿 一棟(江戸前期) 
 ・摂社住吉社本殿  一棟(江戸前期)
 ・東総門      一棟(江戸前期) 
 ・西総門      一棟(江戸前期)
 ・北総門      一棟(江戸前期) 
 ・摂社狩尾社本殿  一棟(慶長六年)
 当初、本殿の修理は平成18年からを計画していたが、予期せぬ台風被害が発生したため、急遽文化庁の許可を得、平成17年から平成24年まで8年に亘り本殿の全面的な修復工事を行なった。台風被害によって生じた檜皮屋根の葺き替えは「災害復旧事業」として、檜皮屋根以外の瓦屋根や彩色・塗装工事等は一般的な「修復事業」として修理を行なっている。本殿・幣殿・舞殿・楼門の屋根は檜の皮を材料とした檜皮葺き、彩色や塗装などは自然にある物から材料を作る顔料で塗られている。なお、顔料には、鉛丹(鉛を錆びさせたもの)、朱(水銀)、緑青(孔雀石などの鉱石)、黄土(土)、胡粉(貝殻を磨り潰したもの)の粉末が使用され、熱した膠(にかわ)と混ぜて塗布していく。※ 膠(動物の脂を固めたもの)
 この修理期間中に迎えた御鎮座1150年を起点として、有識者各位と京都府及び八幡市を加えた調査委員会を組織し、社殿建築の軸となる木部は年輪年代測定や炭素測定で調べ、社殿を装飾する欄間彫刻や錺金具(かざりかなぐ)は墨書や作風から年代の測定が行われた。そして、平成26年、徳川家光公御造営380年を記念して「本社調査報告書」を刊行している。

5、まとめ(国宝指定までの経緯)

 平成26年、「本社調査報告書」を文化庁へ提出し、翌年、10月16日文部科学大臣が文化審議会へ答申する旨連絡が入る。そして、平成28年2月9日官報告示が出され正式に国宝指定を受けることとなった。
 国宝とは「文部科学大臣は重要文化財のうち、世界文化の見地から価値の高いものでたぐいない国民の宝たるものを指定することができる」とある。
 当宮の本殿が国宝に指定された理由は大きく2つある。先ずは「八幡造本殿が国内の同形式本殿の中では現存最古で最大規模である」ということ、次に「本殿などを廻廊で囲み一体化するという古代に成立した荘厳な社殿形式を保持している」ということである。
 その他の八幡造本殿は主に宇佐神宮、伊佐爾波(いさにわ)神社、柞原(ゆすはら)八幡宮があるが、宇佐神宮本殿は安政2年~文久元年(1855~1861)、伊佐爾波神社本殿は寛文7年(1667)、柞原八幡宮本殿は嘉永3年(1850)であり、石清水八幡宮本殿は寛永11年(1634)と最も古い。また、一遍聖絵(1299)に見られるように平安時代に構成された社殿群が現在までほとんど形を変えずに受け継がれてきた、ということが国宝指定の大きな要因となった。
 また、国宝指定に際し「本殿」と「本社」の用語の統一がされた。それは、「本殿」とは内殿・外殿から構成される八幡造本殿、「本社」とは石垣上に建つ本殿・楼門・舞殿・幣殿・廻廊などの建物の総称として明確に区別された。さらに、八棟だった文化財が十棟に増え一部名称の変更がなされた。それまで附(つけたり)指定であった瑞籬と摂社武内社がそれぞれ本指定となり、新たに附指定として棟札(むなふだ)が三枚、そして、「本殿及び外殿一棟」が「本殿(内殿・外殿)一棟」と改称され、正式な国宝指定名称は「石清水八幡宮本社 十棟 附棟札 三枚」となった。
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『一口感想』より

石清水八幡宮の建築様式がとてもよく解りました。興味深いお話もたくさんお聴きすることが出来、非常に有意義な例会でした。八幡に住む者として国宝石清水八幡宮を誇りに思います。 (藤田美代子)
国宝指定の苦労話、大変興味深かったです。歴史的な経緯を再度勉強する気になりました。ありがとうございました。(竹内勇)
過去からの歴史、年表など詳しい資料を見て感心しました。国宝になるまでのご苦労やいきさつが知れてよかったです。建物の絵図などがわかりやすくて参考になりました。文化財の保存・維持は大変なことと再認識しました。(匿名希望)
神道氏の講演で最も印象深かったのは、国宝指定になった二つの理由です。つまり、「石清水八幡宮の本殿が国内の同形式本殿の中で現存最古で最大規模である」こと、もう一つは「本殿などを廻廊で囲み一体化するという古代に成立した荘厳な社殿形式を保持している」という二点です。前者に関連して、一遍聖絵の存在が大きいと思います。この絵によって現在の社殿が鎌倉時代のものとそう変わらないことがわかります。また、後者については、後の質疑応答で話題になりましたが、石清水八幡宮が「宮寺」つまり神仏習合の様式を残しているということです。そんな特異な様式を持つ社殿が石清水八幡宮本社であるということが再認識されました。ありがとうございました。(土井三郎)
既に存在する国宝(宇佐神宮)との違いを、専門家の視点から調査、整理して申請され、国宝指定へと繋がれた皆様方のご尽力にはたゞたゞ敬意あるのみです。  (野間口秀國)
by y-rekitan | 2016-05-30 11:00 | Comments(0)

◆会報第73号より-03 五輪塔④

シリーズ「五輪塔あれこれ」・・・④
いつできたのか

野間口 秀國 (会員) 

 「・・鎌倉時代の武士の霊を慰めるために建立された武者塚・・」と現地の解説板には書かれておりますので、本章では石清水五輪塔を墓(墓碑・墓石・墓標)として扱い、その造立が「いつ/When」なのかの観点から考えてみたいと思います。平成25年9月に大阪府立近つ飛鳥博物館にて開催された「中世の墓地と石塔」(*1)と題する講演を聴講しました。帰りに聖徳太子の墓所とされる叡福寺北古墳(磯長墓・しながぼ)のある太子町の叡福寺を訪れ、近くの墓地では一般的な墓碑と共に多くの一石五輪塔を見ることができました。講演で学んだ内容などを含めて、大まかではありますが墓を時代に沿って見てみたいと思います。

 墓の歴史を考える時に先ず思いついたのはエジプトのピラミッドです。ピラミッドについて学んだ訳ではありませんので、「ピラミッドが墓である」ことを書いたものは無いかと探しました。何冊目かに、とある書店で『ピラミッドの歴史』(*2)に出合いました。同書では、無論「ピラミッドは墓ではない」と考える人々がおられることも記されてありますが、エピローグに書かれた「ピラミッドは墓である」との著者の一文を読んで意を強くしました。また「・・エジプト最初のピラミッドであるサッカラのネチュリケト王の階段ピラミッド・・(略)」とあり、有名なクフ王のピラミッドも同じく古王国時代(紀元前2500年頃)であることを知りました。一方、アジア地域において注目すべき大規模な墳墓の1つは、隣国・中国西安市にある秦(紀元前770~紀元前206年)の初代皇帝の墓である秦始皇帝陵でしょう。墓の周りの地下からは土で作られた夥しい数の兵士や馬などが発見され日本国内でも大きく報道されたことはすでにご承知の通りです。

 このようにエジプトのピラミッドや中国の秦始皇帝陵と同時代(旧石器文化から弥生文化の時代か)に日本ではこれらに相当する規模の墓や陵は無く、それは数世紀を下った古墳時代(4~6世紀頃)を待たねばなりません。その墓は現在では世界三大墳墓の1つとも呼ばれる、堺市の百舌鳥古墳群にある全長486mを測る仁徳天皇陵古墳です(*3)。f0300125_9525976.jpg地元の人々には大仙古墳とも呼ばれるこの古墳の世界遺産登録への取り組みは既に進められており、「百舌鳥・古市古墳群は、大阪府、堺市、羽曳野市、藤井寺市の4者で世界文化遺産登録をめざして取り組んでおり、平成30年の登録をめざしております。」(2016年3月現在)と堺市・文化観光局・世界文化遺産推進室より教えていただきました。同市博物館から徒歩わずかのところにある古墳を、それに沿って一周するとその規模を実感できます。京都新聞掲載の安部龍太郎氏の現代のことば『ピラミッド型古墳』は墳墓の歴史をより身近に感じさせてくれました(*4)。

 さて、前述の三大墳墓と比較しながら、私達が盆暮れやお彼岸、また命日などで訪れて掌を合わせる現代の墓を思い浮かべてみたいと思います。今日多くの墓で見られる墓碑(石碑型墓標)は200年から300年前(江戸時代中期から後期)頃から一般化したと言われていますので、ピラミッドの時代から思えばつい最近の新しい形と言えるのではないでしょうか。先述の講演で学んだことから五輪塔を含めた墳墓の歴史的な変遷を考えると、世界三大墳墓の時代から現在まで、極めて大まかではありますが以下のように整理できるようです(*1)。
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 このように、石清水五輪塔を墳墓史の一コマとしてとらえて、その形や大きさ、また造立の時代背景などを考えることはとても興味深いことであると思えます。日本では古墳時代後期(6世紀初~中頃)、大化2年(646年)の大化の改新において大型墳墓の増加を抑制するために薄葬令が規定されました。また多くの古墳では追葬が行われたり、墳墓の規模も小型化に向かったりしてしだいに大型古墳の時代が終わりを告げます。その後、飛鳥、白鳳、奈良と時代が下るにつれ墓の様子も変わります。

 特に奈良時代に入ると火葬の導入によって墳墓の規模はさらに小さくなりました。続く平安時代になると墓(または陵)と寺社が近づいてきて、天皇陵や領主の墓と寺院を一体にした墳墓堂の形が現れてきます。その代表的なものが東北地方・平泉の中尊寺金色堂(1124年建立)であると言われていますが、藤原三代を祀るこの堂は武士社会初期を代表する墓の一形態とも言えるのではないでしょうか。石清水五輪塔の造立は鎌倉時代中期とも言われておりますので平泉の中尊寺金色堂よりもう少し時代を下ってからとなるようです。f0300125_9574798.jpg 
 鎌倉時代中期に大規模五輪塔の造立を可能にした理由の一つは、政治的・宗教的に強力な影響力を有する人物の出現とその資金調達力であると考えます。また、今一つは使用される石材の調達や加工を可能にした技術の確立、すなわち今に残るような五輪塔を形にできる人材(または集団)が存在したからと考えます。次章では「いつできたのか」の更なる疑問と、自ら足を運んだ今も残る五輪塔の風景についてもう少し書いてみたいと思います。
 本章の最後に資料や情報提供いただきました堺市・文化観光局・世界文化遺産推進室のご担当者、同市博物館にてご説明いただきましたご担当者に紙面をお借りして感謝申し上げます。

参考図書・史料・資料等:

(*1)平成25年9月1日、大阪府立近つ飛鳥博物館にて元興寺文化財研究所・狭川真一氏による講演 「中世の墓地と石塔」 の配布資料
(*2) 『ピラミッドの歴史』 大城道則著 河出書房新社刊
(*3)『古墳のなぜ?なに?』 百舌鳥古墳群ガイドブック・堺市博物館刊
(*4)平成27年2月3日の京都新聞、安部龍太郎氏の「現代のことば」
(*5)平成26(2014)年8月 百舌鳥・古市古墳群世界文化遺産登録推進会議のパンフレットによる
(*6)石清水八幡宮境内全図(八幡四境図)「山上山下北側部分」 石清水八幡宮蔵
他:『世界文化史年表』 芸心社刊、『日本史年表・地図』 吉川弘文館刊


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by y-rekitan | 2016-05-30 10:00 | Comments(0)

◆会報第73号より-04 詩歌と八幡の歴史①

シリーズ「詩歌に彩られた八幡の歴史」・・・第1回
淀川べりの俳諧二句

 土井 三郎 (会員) 


 八幡は、その歴史と文化の豊かさから、古来より数多くの詩歌が詠まれてきました。和歌あり、俳諧あり、漢詩、狂歌、ざれ歌の類もあります。近代に入ってからも短歌や歌謡が見られます。それらの詩歌の文学的な味わいもさることながら、詩歌を通して八幡とその周辺の歴史の断面が見えてくることがあります。ジャンルや時代を超えて、具体的な作品をもとにそれらについて考察してみたいと思います。
 内容として、一応以下の項目を考えてみました。
淀川沿いの俳諧二句、歌枕-美豆、橋本-蕪村の思い、豊蔵坊信海と狂歌、庶民の俳諧三昧-『奉納八幡谷不動 京知石撰』より、名所図会にみる名歌、松花堂昭乗と和漢連句、吉井勇と八幡残夢

 第一回は、淀川べりの俳諧二句を取り上げました。出典は『淀川両岸一覧』です。『淀川両岸一覧』は、文久年間(1861~63)に、文章を暁晴翁が著し、絵を松川半山が描いて、江戸や京都、大坂で出版されました。淀川の上り船、下り船からみた沿岸の景観を描き、名所・旧跡を紹介しています。当時の淀川の風情を今に伝えるとともに、掲載される俳諧や和歌・漢詩は味わい深いものがあります。大坂の八軒家(現在の天満橋)から京都三条に至る両岸の名所案内記ですが、八幡にちなんだ俳諧二句とその挿画を紹介します。

新月やいつを昔のおとこやま  其角

 f0300125_1464078.jpg右の挿画(※1)は、橋本の夜景を描いたもので、谷崎潤一郎の小説「蘆刈」に登場する絵画としてよく知られています。小説では、水無瀬にやってきた「わたし」が渡し船で対岸の橋本に向かう最中(さなか)に、「淀川両岸の絵本に出てくる橋本の図」つまりこの挿画を見ながら目の前に広がる橋本の実景を眺めるのです。作品が成立した昭和初期の橋本と江戸末期の橋本の風景に、鉄道の開設以外にさほどの違いはなかったのかもしれません。
 宿場町橋本の夜の風情がかもしだされ、三味線や鼓の音、酔客のだみ声や女の嬌声が聞こえてくるようです。ひときわ大きく描かれる甍(いらか)は西遊寺のお堂でしょうか。背後の男山にも堂塔の影が見えます。石清水八幡宮の大塔もしくは琴塔のようにも見えますが定かではありません。
 さて、挿画の左上に掲載されるのは景樹の和歌と其角(きかく)の発句です。
 和歌は、「をとこ山峯さし登る月影にあらはれわたるよどの河ふね」とあります。作者である香川景樹は江戸時代後期の歌人とのこと。月影に淀の川舟が現われたという通り、夜間にも航行する船があったのです。挿図をよく見ると、右側の船のマストから張られた綱を堤の上から引っ張っている人影が見えます。大坂から淀川をさかのぼる場合、このように堤から綱で引きながら航行することがあったのです。大坂の八軒家と伏見を結ぶ旅客船の内、人々に親しまれたのは三十石船です。長さ約15mで定員は28名とのこと。昼船・夜船と間断なく運行されていました。
 さて、其角の句について吟味してみましょう。
 「今見るこの月は、いつも昔からこのように光輝いているのだ」と訳すこともできますが、『古今和歌集』にあるよみ人しらずの「今こそあれ我も昔はおとこ山さかゆく時もありこしものを」の一首が思い出されます。つまり、月を眺めながら、若かりし時代を思いだし、懐旧の念に耽っているかのようです。
 其角(1661~1707)は、父が江戸に住む医師で本多氏に仕えたとのこと。14、5歳のころに芭蕉に師事し、やがて大名・旗本や紀国屋文左衛門らの豪商と交流をするなどして蕉門の高弟としての位置を占めるようになりました。但し、「師芭蕉の枯淡に倣わず、生来の資質と才気によって作意をこらし(中略)独自の表現をめざした」(※2)と評価される一面をもっています。「いつを昔」というフレーズが気にいったものか、元禄期に『いつを昔』と題する俳諧撰集を編集しています。

五月雨何と茶にくむ淀の人  鞭石

 鞭石(べんせき)(1650~1728)は、其角より生まれが早く、其角よりも長寿の俳諧師でした。京都の人で、八幡の谷不動(神応寺から徒歩5分)に奉納する俳諧集の選者である知石(ちせき)は鞭石の弟子に当たります。
 鞭石の句は、五月雨(さつきあめ)を淀の人が何と茶にくむとは!と驚いたというものです。
 「五月雨(さみだれ)を集めてはやし最上川」と詠んだのは芭蕉です。五月雨(梅雨)が降り続けば最上川は増水し流れも速くなります。芭蕉は、梅雨の長雨で水かさが増し、岸辺いっぱいにどっと流れる最上川の情景を瞬時にとらえました。船上から詠んだ句だとすれば、乗客の緊張感も伝わってくるというものです。一方、長雨が降り注げば川水は濁ります。鞭石の句は、そんな濁り水を茶に汲むとは、淀の人はなんと酔狂なことをするものか、というものです。芭蕉の句と比べて調子ものどかです。f0300125_1430023.jpg
 ここでいう「淀の人」とは淀川べりの人のことではなく、八幡に接した淀の住人という意味です。淀の住人はなぜ酔狂なことをするのでしょうか。淀は八幡と接しています。八幡といえば石清水八幡宮のご当地。石清水がこんこんと湧きでる地なのですから梅雨の時期でも川水は濁らないと洒落ているのです。ちなみに、橋に向かって左岸が淀、右岸が八幡の美豆(みず)です。
 挿画の背景にある淀大橋はどっしりとしたもので、大名行列の場面が描かれているようです。
 淀はかつて木津川・宇治川・桂川の三川合流地点であり、巨椋池(おぐらいけ)の下流とも連なり、淀川の起点でした。中世の頃より軍事的な拠点として、納所(のうそ)の辺りに城がありましたが、秀吉は淀城を茶々の産所にあてるために天正16年(1588)から修築にとりかかります。やがて生まれたのが鶴松。まもなく茶々も鶴松も大坂城に移り淀城は衰退し、文禄3年(1594)伏見城建設が決められ、淀城の機能はすべて伏見城に移されてしまいました。
 徳川の世となった元和9年(1623)、今度は伏見城が廃され、江戸幕府は京都守護のために新淀城再建を決定します。同年閏8月に松平定綱に築城と淀への入封が命じられました。城地は納所から宇治川を隔てた対岸の島に移されます。その松平定綱が寛永10年(1633)に転封となり、永井尚政が入部して、特に城内町の拡大と河川整備が進められます。
 永井尚政の木津川改修で、淀城と城内町は、宇治川と木津川の間の三角州におかれることになり、納所との間の宇治川に淀小橋が架けられ、八幡の美豆村との間の木津川に淀大橋が、全面的な幕府の負担による公儀橋として架けられたのです。淀大橋・小橋の架橋は寛永16年(1639)のこととされます(※3)。
 淀大橋は幅4間2尺(約8m)・長さ137間(約250m)とありますから実に立派なものです。幕末、孝明天皇が石清水八幡宮に参詣するためにこの橋を渡り、鳥羽・伏見の戦いを描いた瓦版には、新政府軍がこの大橋を渡って、八幡方面に逃げようとする旧幕府軍を追撃する場面が描かれています(※4)。
 その淀大橋も明治初年の新政府による木津川の改修によってなくなりました。しかし、京都市に編入されたかつての八幡美豆は京都市伏見区淀美豆町としてその名を残しており、淀大橋のあった辺りは、旧淀川の窪地としてかすかにその面影を残しています。その地に住み、醤油業を営むKさんの菩提寺は八幡市内にあり、八幡との縁は切れていないとのことです(※5)。

※1 『淀川両岸一覧』(個人蔵)、見開2枚の挿画を1枚に合成(次の図も)
※2 『俳文学大辞典』
※3 平凡社『京都市の地名』
※4 八幡の歴史を探究する会発行『歴史たんけん八幡』65頁
※5 会報「八幡の歴史を探る」第53号所収「ひょっこり訪問記」


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by y-rekitan | 2016-05-30 09:00 | Comments(0)

◆会報第73号より-05 茶揉み歌

『茶揉み歌』を復活
 ~歴史遺産を探り繋げる~ 

髙井 輝雄 (会員)


 最近、文化庁から日本遺産に認定された「流れ橋と浜茶」の里・上津屋、私のふるさとである。川畔に新緑がまぶしく一帯に芳しい茶の香りが漂うこの季節のふるさとは、特に大好きである。
 その名産・お茶の茶摘みシーズン最中に、昔、八幡の美濃山地域に伝わっていた『茶揉み歌』を復活することができた。

▇ 3地域に伝わった八幡の茶

 私は、茶農家に生まれ育ったこともあって、年寄ってから八幡のお茶はいつ頃から何処で始ったのかなど、調べていた。そんな中、機械で製造する前の時代に手で茶葉を揉み煎茶を造っていた時に焙炉師(ほいろし)が唄う『茶揉み歌』があったことを知った。
 今の八幡の➀美濃山②上津屋・上奈良③志水の3地域に、各々江戸末期にその栽培が伝わっている。うち美濃山地域では『茶揉み歌』が唄われていたと5,6年前に判ってきた。
 以来、どんな歌だったのか、唄っていた人はもういないのかと、探し続けていた。半ば諦めていたが、今年の3月27日、流れ橋改修開通記念式の渡り初めの日、先頭を行く美濃山の西川さん3代夫婦を見て「はっ」と感じた。

▇『茶揉み歌』知る人と出会う

 お爺さんの西川吉三さん(昭和2年生まれ)は知っておられるのでは…。翌日、自宅に訪ね用件を話し、聞いてみた。「そう言うと唄っていたなぁ」と西川さん。なんとか想い出してほしいとお願いし、その日は辞した。
 翌日早速、西川さんから「ちょっとでてきた」と電話があった。想い出そうと翌朝の4時まで寝れなかったと仰られた。そして、4番ほど判ったとのこと、西川さんが身に着けられた記憶力は凄いと感心した。同時に、西川さんに出会うことが叶い「これで繋げる」と熱いものがこみ上げるのを覚えた。
合せて4度訪問する中で11番と少々エロチックな歌5番が甦ったのである。
 半分目的を達したようなもの。しかし、これを実際に唄ってもらい歌詞と共に節回しや身振りも残しておかなければならない。

▇市長さんも立会で復活披露

 今や八幡のお茶は、上津屋・岩田の木津川河川敷内と堤下のみで栽培されている。f0300125_70342.jpgその全ては抹茶の原料である碾茶製法に変っていて、それは、宇治茶ブランドを代表する八幡市の特産となっている。どこにも揉み茶をしている家はない。従って機械もないが、上奈良の「お茶の福翠園」さんの工房に唯一、手揉み製茶の保存と体験用にと設けられている立派な焙炉がある。そこで西川さんに復活披露をしてもらうことした。
 去る5月16日、毎年恒例である市長による市内の「製茶施設視察及び激励」に合わせて行った『茶揉み歌』復活披露の日は感動の一日となった。

▇60年ぶりの茶揉み歌に感動
~お茶や揉め揉め 揉まなきゃ茶ならぬ
     揉めば古葉も粉茶となる~
 西川さん自身にとっては約60年ぶりの手揉みと茶揉み歌が始った。テレビ、新聞各社のカメラの放列の中、昔の手揉みの感触を思い出しながら、歌も滑らかに堂々と唄われ始めた。そして、二番から順番に茶揉み歌が新茶の香りの中で進んだ。 
~しなもみさんは お手手が痛い
     早く二番師になりなされ~
 手で揉む茶の製法は、早くて約5時間はかかる。その工程の中で、最もしんどい「横まくり」に入り、この一番師(「しなもみさん」)の労働のきつさを紛らわす歌へと進む。西川さんの揉み手にも一段と力がこもってきた。昔にかえっているようだ。
~明日はお立ちか お名残り惜しや
     雨の十日も降ればよい~

 歌の終盤、出稼ぎの焙炉師が役目を終えて村を去る時の名残り惜しさを唄われるくだり。その節回しは実に絶妙で、調子に乗って左右に大きな身振り、その迫力にシャッターの音が一段と高くなった。
 88歳の西川さん、市内で手揉み歌を伝承できる唯ひとりの人、心揺さぶられ感動した。

▇歌詞と手揉み技法を次代に

 『茶揉み歌』復活披露で、役目が終わったわけではない。その歌詞と節回し、手揉みの技法を合せ伝承しなければならない。しっかり歌詞も整理し、西川さんから手揉み技法と節回しを引き継ぐ必要がある。
 お茶の施設視察激励に訪問された堀口市長にも、CD・DVD保存化し伝承することについて、支援要請をしておいた。もっとも、茶業関係者や茶揉み歌に関心ある人々に、実際の手揉み茶を引継いでほしいと願っている。

▇地域自慢を「新作編」に

 この種の唄には「地域自慢、お国自慢」の歌詞が何処ともにある。西川さん・手揉み工房を提供して貰った福翠園の福井さんと相談して、地域自慢の歌詞を足してみた。もちろん、平成に作った旨を後世に断ってである。
 ~焙炉師さんは 鼻高々じゃ
      美濃の局(つぼね)の里で揉む~
 ~美濃山・荒坂 ええ茶ができる
      海の向まで名がうれた~
 ~都々城の里は 碾茶に変り
      浜茶・流れ橋日本の遺産~
 ~焙炉師さんは 甘いもんが好きじゃ
      八幡さんの◯◯餅食わそ~

 このたび茶揉み歌を復活するのに節回し、手揉み技法を披露された西川さん、茶揉み工房(焙炉)を提供していただいた福井さんは、共に米寿の88歳です。お2人ともお茶好きで、実にお元気である。八幡の茶の歴史文化遺産を次代に繋げることにご貢献くださり、この稿をお借りしお礼申します。祈長寿
by y-rekitan | 2016-05-30 08:00 | Comments(0)

◆会報第73号より-06 三宅碑④

《続》 1月度の講演会より

『三宅安兵衛遺志』碑と八幡の歴史創出
その4

―松花堂・東高野街道・天皇聖蹟・綴喜郡―


中村 武生  (京都女子大学非常勤講師)


西村芳次郎伝の試み

 西村芳次郎(閑夢)は、明治元年(1868)10月8日、八幡町八幡荘志水(当時)の名望家でした井上伊三郎(忠継、1836~1908)・フサの次男(第2子)として生まれました。父伊三郎は、もと石清水八幡宮宿坊のひとつ井上坊の僧であったとも、商人であったとも伝承されますが、幕末維新期には筆道を中心とした寺子屋を開き、おそくとも1873年(明治6)10月から1879年3月には八幡荘の第一組戸長をつとめ、それ以後は少なくとも1881年3月以前に用掛として御国役金上納や石清水八幡宮の上知問題(後述)などに関わっています。芳次郎は高等教育を受けた形跡がなく、おそらく実父から主たる教養を得たと推定されます。
 次男であったため、幼くして京都市上京区(現中京区)室町通御池下ル円福寺町の生糸商「西村嘉助の店員となった」とされます。西村嘉助は1887年創立の京都第一絹糸紡績会社(現左京区東竹屋町通川端東入ル東竹屋町)の発足メンバーで、支配人の重責をになった実業家でした。船嘉と称したようです。明治初期、鳥羽伏見戦争の被災地であり、神仏分離政策による石清水八幡宮神宮寺群の解体を受け衰微した城南八幡は、養蚕による復興を模索していました。八幡の名望家である井上伊三郎は、洛中の有力な生糸商西村嘉助と何らかの縁をもち、次男芳次郎を送り込んだということでしょう。
 芳次郎の働きぶりは西村嘉助の目にかない、「其の商才を見込まれて西村家の養子となり生糸商を双肩に担ひ家運の隆盛を計」ったとされますが、少し事情は複雑でした。
 当初嘉助・クラ夫婦には実子がいなかったため、芳次郎を養子として迎えて家督や店主を後継させる予定でしたが、まもなく実子嘉市郎が生まれたため実現しなかったと伝承されています。これが事実なら、嘉市郎は1879年6月14日に生まれており、当然芳次郎の西村嘉助への入店・後継内定は、少なくともその半年以上前と判断されます。すると芳次郎は遅くとも数え11歳までに養子・後継が決まっていたことになります。よほど早熟であったのでしょう。
 嘉助が嘉市郎に家督を譲ったのは、その生前で、1883年2月27日です。このとき嘉市郎は数え5歳です(嘉助は数え40歳)。幼すぎる点が気になります。嘉助の死が契機とはいえないので(4年後の京都第一絹糸紡績会社の創立に関わり、死去は10年後の1893年11月29日ですから)、不可解です。しかも芳次郎が西村の養子となるのは、嘉助の死後4年の1897年5月19日で、その直前に嘉市郎から分家した母クラに入籍しています。クラは翌1898年1月31日、芳次郎に相続し、即日嘉市郎の戸籍に戻っています。この戸籍上の混乱は、詳細は不明ながら、伝承通り予期せず嘉市郎が誕生したのち、芳次郎の処遇をめぐる騒動のあったことを想像させます。
 それでも芳次郎・嘉市郎の間に特に紛争はなかったようで、芳次郎は嘉市郎名義の家に本籍を置きつづけ、早い時期に亡くなった2人の妻(なを、タミ)の墓碑も、それぞれ宗仙寺(下京区高倉五条下ル)の本家の墓域に建立しています。
 芳次郎は家督や店主を継承しませんでしたが、「西村分家」として生糸業界に活躍しました。たとえば1901年、上京組吉田町(現左京区吉田)に所在した京都製糸合資会社(1887年4月設立)が、府下綴喜郡富野荘村長池(現城陽市)の山城製糸株式会社を買収したおりの社長であったようです。宗仙寺の西村家墓所に現存する燈篭には、1894年6月、京都製糸合資会社によって建立されたと刻まれており、芳次郎はそれ以前から同社と関わりを持っていたことを示します。ただし1903年4月刊行の『京都商工人名録』によれば、京都製糸(当時は株式会社)は社長不在で、取締役3人の1人として芳次郎の名があります。ちなみにのち芳次郎蹉跌の直接原因となる、第百三十銀行の頭取松本重太郎は、監査役でした。
 その間の1901年2月から4月には「支店設置」(輸出先確保でしょうか)のため渡米し、セオドア・ルーズベルト(当時は副大統領)などに会っています。同じころ京都製糸会社「山城西村」が製造した器械太物の生糸が、横浜の茂木商店(茂木惣兵衛)と売買契約されています。京都製糸会社の生糸は、茂木商店によって横浜からアメリカなどへ輸出されたのでしょう。
 しかし日露戦争にともなう「財界パニックにあひ、盟友松本重太郎の頭取たる第百三十銀行の倒壊によって、痛く損失を身上に蒙り」、1904年10月17日、京都製糸株式会社は倒産しました。百三十銀行はそれ以前に営業再開していましたが、京都製糸株式会社は同行に山城工場の土地を売却するなどし、ついに再生しませんでした。嘉市郎の名義であった、芳次郎の自宅が同行に所有権移転したのも、倒産直前の同年9月29日でした。
 芳次郎が生糸業を廃し、城南八幡に帰郷するのがいつであったのか、明らかではありません。八幡志水の父井上伊三郎の旧隠居所前(現八幡市立松花堂庭園の一部)に現存する、1907年春「落成」の「女郎花蹟」碑によれば、伊三郎が発起し、「有志」である「横浜茂木商店員」と「京都西村商店」が建立しています。京都製糸会社倒産後も、芳次郎は茂木商店と親しく交流しているのです。「京都西村商店」が芳次郎を指すのなら、京都製糸会社倒産後もしばらくは実業家でありつづけたといえますが、あるいは本家嘉市郎の可能性もあります。
 嘉市郎は、1894年10月現在の「京都市商工人名」の生糸商部によれば、室町御池下ルの「生糸並屑物依託販売取扱所」として存在が確認できます。翌年には宮崎県高鍋町川田の竹原祐吉と共同で、日向製糸合資会社を設立するなど手広く経営していたようです。芳次郎の実弟今中弥兵衛も八幡志水の生糸商で、竹原祐吉と交流をもっていました。これらを取り持ったのが芳次郎とすれば、本家の経営にも関わりをもっていたのかもしれません。京都製糸会社倒産後もそうであったとすれば、「女郎花蹟」碑建立の有志「京都西村商店」も、芳次郎でよいのかもしれません。
 その後「実業界を引退して、父祖の故地たる八幡に帰」ります。先述しましたように厳密な時期は不明ですが、1908年8月19日、父伊三郎が亡くなり、それからまもない10月7日に妻タミも死去しており、そののちではないでしょうか。後述しますように、1911年5月(一説に1909年)ごろには鈍翁益田孝を八幡に迎え入れ、その委嘱により松花堂昭乗墓地の復興に関わり始めます。これが下限といえます。

泉坊の解体と客殿・茶室(松花堂)の移築

 帰郷後は父伊三郎の隠居所(八幡町女郎花79)に居住します。その建造物は、近世初頭の能筆家(寛永の三筆の一人)で、茶人としても知られる石清水八幡宮の僧松花堂昭乗の旧宅泉坊客殿・茶室(松花堂)を移築したものでした。以下、京都府の行政文書などによりその経緯を述べます。f0300125_1052815.jpg
 明治初年、新政府の神仏分離方針及び上知令により、男山石清水八幡宮の坊(寺院)建造物が悉く破棄され、土地が摂取されました。1874年(明治7)8月には、男山山上に社人も居住を認めない沙汰がありました。ほとんどの住人が下山したなか、大谷直(治麿、中山忠能四男)は、2年前に泉乗輝旧宅(旧泉坊)の建物を170円(当時)で購入し、普請を加えて居住していたため当惑し京都府へ善処を求めました。この建物が泉坊客殿や松花堂などであったと思われます。
 同年7月(8月もしくは9月の誤りか)21日、府役人と思われる水上燈成が見分した上で、山下への建物移築の補助金の見込みを伝えたようです。府庁の都合でこの返答は遅れます。大谷自身や当時八幡荘第一区戸長でした井上伊三郎(前述した西村芳次郎の父)らの再三の督促を受けて、1876年3月、京都府は大谷の居住地について「乙第四拾九号達ノ内、社人屋敷地所分規則ニ照準シ追テ山下之積り当分拝借地ニ可申付哉」と判断します。1872年以前、旧泉坊敷地のうち9畝22歩(291坪5合)が泉乗輝から嶋村政保へ渡り、大谷はそれを借地していました。これが上知され、将来は山下に転居する見込みでしばらくは居住を許す方針をもちました。
 その後の経過は西村芳次郎の回想に拠ります。まず1888年、「男山麓の買屋橋の東北隅」にあった大谷のあらたな邸地(八幡町字山路、あるいは山柴)に建物を移築しようとしました。しかし建設途上で「川の氾濫の為め浸水二回に及」び、さらなる移築費用が捻出できず、大谷の実家である中山家は、この建物を伊三郎に譲渡したそうです。
 これに対して芳次郎からの伝聞をまとめた佐藤虎雄は、大谷邸への移築作業中の2度の浸水被害にはふれず、大谷の手を離れたのち、一旦泉坊客殿は「八幡町志水の南端即ち西車塚の前方部の東方に移された」。しかしその地が低地のため洪水などの憂いがあり、伊三郎はこれを譲り受け、志水の女郎花79番に移築したとします。
 旧土地台帳によれば、伊三郎が女郎花79番の土地を入手したのは1895年10月9日以後、1897年4月以前で、そののち泉坊客殿や茶室松花堂は移されました。現存する棟札によれば、泉坊客殿が当地に上棟されたのは1898年2月21日でした。施主は伊三郎です。
 さて前述のように、蹉跌後の西村芳次郎はこの邸宅に入ります。ただし芳次郎は、父伊三郎の死後もこの土地と建物を所有しませんでした。1886年5月29日、伊三郎は長男繁蔵に家督相続して隠居し、のち妻フサおよび4女ときとともに女郎花79番地に入りました。伊三郎の死後、これを相続したのは井上とき(1890~1891)です。
 事情は不明ですが、伊三郎の最晩年の1907年11月16日、建物の所有権の10分の1を八幡町925番戸の吉川八十吉に売却しています。残りの所有権10分の9をときが相続しました。ときは乳児期のケガにより生涯を通じて歩行に障害があり、そのため兄姉などによって庇護され、将来の経済的保障のため伊三郎の遺産の多くを引き継いだといいます。のち和裁を習熟し、晩年まで地域に広く指導しました。埋葬地である現八幡市八幡の(三宅安兵衛遺志碑が複数存在する)中ノ山墓地に報恩碑が建立されています。
(次号につづく)  ※写真提供、中村武生氏

【注】原則、典拠を省略しています。詳細は近刊予定の中村武生「一九二〇年代、京都府南部における建碑と史蹟空間の創出―「三宅安兵衛遺志」碑と城南八幡の郷土史家西村芳次郎―」(『歴史地理史学』第1号、特定非営利活動法人京都歴史地理同考会)をご覧ください。


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by y-rekitan | 2016-05-30 07:00 | Comments(0)

◆会報第73号より-end

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by y-rekitan | 2016-05-30 01:00 | Comments(0)