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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
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◆シリーズ:“心に引き継ぐ風景”⑤ ◆
◆《歴史歴探ツアー》丹後を訪ねての報告◆
◆シリーズ:“八幡に見る古代植物”①◆
◆シリーズ:“五輪塔あれこれ”⑤◆
◆シリーズ:“詩歌に彩られた八幡の歴史” ②◆
◆シリーズ:“『三宅安兵衛遺志』碑と八幡の歴史創出” ⑤◆



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by y-rekitan | 2016-07-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第74号より-01 鳥羽伏見の戦

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心に引き継ぐ風景・・・⑤
官軍・幕軍が行き交った橋本の
   「八まん宮道」
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    その夜の侍     西條八十 
 宿借せと 縁に刀を投げ出した 吹雪の夜のお侍。
 眉間にすごい 太刀傷の 血さえ乾かぬお侍。
 口数きかず、大鼾(いびき)、暁(あさ)まで眠って行きました。
 鳥羽の戦の 済んだころ、伏見街道の一軒家。
 その夜炉辺で あそんでた 子供はぼくのお祖父さん。
 吹雪する夜は しみじみと 想いだしては話します。
 「うまく逃げたか、斬られたか。」縁に刀を投げだした
 その夜の若いお侍。   (与田準一編『日本童謡集』岩波文庫)

 慶応4年(1868)正月3日、鳥羽「こえだ橋」で始まる鳥羽伏見の戦は八幡・橋本が最後の決戦場となりました。六日午前八時、官軍は全て舟で木津川を渡り、三方面に分れ右翼隊は橋本方面科手へ、中央隊は八幡宮高地、左翼隊は生津付近で木津川を渡り志水方面へ。午前11時頃、山崎関門守備の友軍、津藩から不意に攻撃された幕府軍は大混乱に陥りついに敗走しました。
 45年後の大正2年(1913)5月16日、徳川慶喜は旧幕臣の大森府知事等を伴い淀城址に登り、暫く遠近の風景を眺望しました。「官軍、幕軍が刃、砲火を交えた戦場の跡なれば、将軍の瞼に涙あり、さもありなんと同伴の人々惻隠同情の念に打たれたり」。一行は夫より男山八幡宮に詣でました。
(写真と文 谷村 勉)空白


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by y-rekitan | 2016-07-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第74号より-02 丹後バスツアー

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《6月例会 歴史探訪バスツアー》
丹後を訪ねて
―2016年6月 丹後歴史資料館~ちりめん街道―

藤田 美代子 (歴史探訪担当幹事)


 前回の長岡京から、もう少し足を延ばそうと今回は丹後を計画しました。山城郷土資料館とは兄弟分にあたる丹後郷土資料館を皮切りに籠(この)神社からちりめん街道へと向かうコースとしました。
 4月15日下見を実施致しました。道路状況は渋滞なく快適であることを確認し、途中休憩をはさみ、各所での説明時間を組み込んで充分夕方には(6時頃)八幡に帰着出来る目処をつけ、バス会社との契約、チラシ作成を行い、募集をはじめました。最終的には38名の参加者となりました。
  6月9日、昨年同様ひかりバス停~中央センターバス停~市役所前~石清水八幡宮一の鳥居前と順次バスに乗車の後、一路丹後郷土資料館に向け出発致しました。途中山間部の緑は非常に美しく、下見通り、味夢の里PAにて途中休憩の後、丹後郷土資料館へと向かいました。到着後はバス内で班分けの通り、二班に分かれ学芸員の案内を受けました。一階は古代から近代に至る迄の発掘品、家系図、北前船、クジラ漁や藤の織物と展示が続きました。藤の織物ですが、 見た目は麻の様で、肌ざわりは麻とは又違います。昔は全国的にあったそうですが、次第にすたれ、丹後では、今この織を保存会の方々が守っておられ、年間を通じての講座に全国から泊まりがけで受講者が集まり、7月末、京都市左京区のギャラリーにて作品展が開かれるそうです。二階では文政一揆を中心に古文書が多く展示されておりました。
  私は雪舟の「天橋立図」をゆっくり見て、詳しいご説明を楽しみにしておりました。f0300125_1613596.jpg以前京都国立博物館にてオリジナルを見ており、迫力ある描き方に圧倒された印象が忘れられません。さすが国宝だと思われました。資料館展示の「天橋立図」はレプリカではありますが、見応えのあるものでした。1500年代の景観が描かれているとのこと。雪舟生没年1420~1506年頃からしますと80才を過ぎた禅僧の描いた水墨画になります。三角形の構図がとられている智恩寺、籠神社、成相寺に朱色が入れられております。何故なのか、謎の1つでもありますが。先日京阪・文化フォーラムで田中宮司のご講演で、「明治の神仏判然令は政府の政策であって日本人の心は決して変わっていない」。「神も仏も」であるとおっしゃっていたのを思い出しました。下見で頂いた冊子の中、山折哲雄さんや鳥尾新さんがおっゃっている様に、この天橋立図には神仏習合が生きづいている様に思えます。
  資料館すぐそばに旧永島家住宅(大庄屋の母屋の移築)があり、こちらも見学しました。農具や調度品が展示されており、実際に手に触れることが出来ました。今回のツアーのチラシ右片隅に印刷しました「しりはり」も玄関頭上に見ることが出来(長男が生まれた家に親戚がお祝いで作って送った飾り物。家の魔除けとして玄関につるしたそうです)、八幡では見られない丹後の風習の一つを感じました。資料館前庭は雪舟の画にも見られます国分寺跡が残っており、国の史跡にもなっております。

  同館を後に籠神社へと向かいました。石造りの鳥居をくぐりますと桃山時代の優品である阿吽1対の石造狛犬(国重文)が参拝者を迎えてくれます。神門をくぐった正面拝殿の奥に鎮座する本殿(府有形)は江戸時代後期の造替で伊勢神宮とほぼ同じ唯一神明造りの様式をとっています。f0300125_16191455.jpg
  参拝が終りますと、皆さん思い思いに、バス内でお配りしたお食事処のマップを参考に昼食を取って頂くことと致しました。ちなみに私は海鮮丼を頂きました。新鮮でおいしかったです。食事を終えバスに戻る迄の間、参加費の少しばかりの残余金をゼロにすべく、飲物にという意見もあったのですが、鯵と小鯛の干物を買い、バス内でお配りし、持ち帰って頂くこととしました。帰られましてから炙って、ほんのお酒のお供にでもと。お味は如何でしたでしょうか?

  午後、時間通り集合頂き、次の目的地ちりめん街道に向け出発致しました。到着しますと午前と同様に二班に分かれ(私は第二班でした)、ガイドさんの案内を受けながら重要伝統的建造物をめぐりました。現在ちりめん街道に並ぶ建物約260棟のうち約120棟が江戸・明治・昭和初期のものだそうです。かって郵便局の使命を担っていた街道筋で最も古い建物の下村家住宅。主屋は文化元年(1804)です。旧伊藤家医院診療所はまわりの和風建築の中にあって洋館が目を引きました。木造2階建て、入母屋造り、桟瓦葺き。玄関まわりのしっくいのレリーフは大変美しいものでした。加悦の左官職人萬吉さんが神戸の洋館建築で修行の後、大正6年施工したと伝えられています。丹後に現存する唯一の明治時代のちりめん工場である西山工場へも行きました。老朽化が進み3棟ありましたが現在は1棟のみの稼働で、私達が説明を受けていました時もガラス戸は閉っていましたが、中から機織りの音が絶え間なく聞こえていました。二班のちりめん街道しめくくりは旧尾藤家住宅です。下見に訪れました時は、座敷に幟が展示されていました。驚きましたことに、図柄が石清水八幡宮御祭神であります神功皇后と応神天皇だったのです。私達幹事は興奮し何とか2ケ月後のツアー時に展示して貰えないか、その場で即依頼致しました。「6月になりますと、しつらいが夏様に変わり、幟もしまい込むのですが、遠くから来ていただけるので、当日のみ準備しておきます」との返事でした。
 今回のツアーで訪れますと、お約束通り玄関を入ると座敷に展示していて下さいました。f0300125_16253250.jpgご無理をお願いしましたのに非常に嬉しく思いました。南の八幡と北の丹後の距離感が一瞬にして圧縮された感じがした瞬間でした。町中をバスが走っている時も「男山」という地名があり不思議な気がしましたが、皆さんお気づきになられましたでしょうか? 尾藤家の歴史は、入館時の資料や展示パネルにより、1521年~1546年まで第12代将軍足利義晴の花押のある書状が伝わっていることから中世は武士であったようです。慶長7年(1602)、検地帳にも善右衛門として7丁余りの田畑と家臣の屋敷が記録されており、中世は武士であったことが裏付されているとのことです。17世紀末から18世紀初めにかけ大庄屋善右衛門として加悦の寺社に燈篭や鳥居などを盛んに寄進し、庄蔵家が確立するのは18世紀後半で、その後代々庄蔵を名乗る様になります。7代庄蔵さんは酒造業のかたわら大庄屋として文化3年(1804年)、伊能忠敬にも面会、その頃の庄蔵家は520坪の屋敷を構え、70石を超える石高を上げるまでに成長、9代庄蔵さんは天保11年(1840)8代から家督を相続後、岩滝村の廻船問屋山形屋佐喜蔵方で、およそ10年に及ぶ奉公で商いを学んだ後、安政3年1856)頃加悦に戻り生糸ちりめん商として再出発します。生糸ちりめん業の傍ら北国と大阪を結ぶ北前船「蓬莱丸」を所有し廻船業をも営みます。文久3年(1863)、現在の旧尾藤家住宅の建築に着手し、2年後に建物が完成します。建物全体の配置は中庭を囲んで周囲に座敷や蔵を配置する現在も見られるものです。10代庄蔵さんは縁戚の下村五郎助家(9代の妻ふさの親族)より迎えられ、明治19年加悦で生糸ちりめん問屋を開始しその後、京都市と山田村(現野田川町)に支店を構えます。京都に支店を構えたことは庄蔵自身が常に京都の文化に触れる機会となり、今日10代庄蔵の手によるものとして母屋と奥座敷には明治期の画家達による襖絵群が展開しています。家業にかける情熱と文人画にみられる数寄屋趣味は共に11代に受け継がれます。又丹後で最初の銀行となる柏原銀行加悦支店を開店し、後に丹後銀行の創設に奔走し頭取をも務めます。11代庄蔵さんは生糸ちりめん問屋「合名会社尾藤商店」を設立し、同店経営は順調に推移せるも大正9年の第一次世界大戦後の不況で多大の損害を被り、同11年尾藤商店の経営を親族の下村商店に譲渡し、江戸時代から続いた生糸ちりめん業から撤退します。昭和3年加悦町長に就任、前年の丹後大震災で町の甚大な被害を受けた為、町役場庁舎の建設、加悦駅前道路、府道網野福知山線の新設など復興事業に着手、大きな手腕を発揮し加悦鉄道(株)社長に就任しています。町長に就任した昭和3年、念願の洋館が建てられます。文久3年(1863)の着工以来、昭和初期の洋館や米蔵等々の完成まで、約70年間にわたった旧尾藤家住宅の建築工事は完了し、今日の姿になっております。現在の尾藤家は加悦を離れ、宮津で袋屋醤油店を営んでいるそうです。
  f0300125_16385992.jpg旧尾藤家住宅は近畿北部の大型農家を基本とし、それに丹後の生糸ちりめん商家の要素が加わり、さらに昭和初期の洋風住宅建築が付加され、和と洋の世界が融合した建築と評価され、平成14年3月26日京都府有形文化財に指定。同年11月に尾藤家から与謝野町(旧加悦町)へ建物が寄付され、与謝野町が平成15年9月から翌年9月まで保存修理工事を行い、10月24日から一般公開されています。延床面積924.15㎡。内部を見学しますと欄間や書院窓や床の間など和の美しさがあらゆるところに感じられ、下見時、夏のしつらいになりますとおっしゃっていましたが、各部屋に涼やかさが感じられ、日本家屋の素晴らしさを見る思いが致しました。5月美山かやぶき屋根の放水を見ましたが、始まる少し前、かやぶき屋根の資料館内部でお茶を飲んでいました時、何とも言えない涼しい風が頬及び家の中を通ってゆき、その涼やかさに驚きました。旧尾藤家も美山のかやぶき屋根も、本来日本人は自然の中にあって、自然と共に、涼しさを味わっていた様な気がします。暑ければ冷房、寒ければ暖房と便利な生活に現代の私達は慣れ切ってしまっており、元来の日本人は住まいの中にも、しっかり季節感を取り入れ、それを今よりずっーと楽しんでいたのではないだろうかなどと思いました。尾藤家歴代の歴史の流れと共に、商家としての建築を見ながら、且つ和風建築の素晴らしさを味わった(再認識した)様な気がしました。
  ちりめん街道を後に帰路につきます。皆様のご協力のもと、10分程度の遅れはありましたものの、予定通り無事、八幡に戻りました。

 後日、ご参加の方々から、「とても良かった。次回も参加したいので、是非連絡して欲しい」などのご感想お聞きし、歴史から学ぶ実りあるツアーを今後も企画してゆければなどと思いながら、報告を終えさせていただきます。

参加者の感想記
 
八幡に伝建地区を

 今回のツア-に参加させて頂き、お蔭さまで一日を楽しく過ごさせていただきました。
 丹後は、古代に大陸からの窓口であったことから多くの古い歴史遺産を残していることが印象的でしたが、今回、最も興味のあったのは与謝野町の「ちりめん街道」です。その理由は、ちりめん街道が国の指定する「重要伝統的建造物群保存地区(以下、伝建地区と記載する)」であるからで、八幡市の高野街道も伝建地区に相応しいのではないかと以前から考えているからです。伝建地区は、昭和50年に文化財保護法が改正され、伝建地区の制度が発足し、昨年夏までに43道府県90市町村で110地区が指定されています。3項目の選定基準があって、高野街道を想定した場合、「全体として意匠的に優秀なもの」と言う項目に不具合があるかもしれませんが、他の伝建地区と比較して、現状ならば選定されるように思っています。八幡市が観光を重視するならば必須と思います。問題は、地区住民と市役所の賛同を得ることです。
 八幡に伝建地区を導入するもう一つの理由は、世界遺産の指定です。国宝石清水八幡宮、三川合流、高野街道、橋本地区などを併せれば可能性があると秘かに信じています。
 種々ご意見はあることと思いますが、皆様方の賛同が得られることを願っています。
(伊佐 錠治) 空白
            
文政一揆の百姓たちのエネルギーに感動

 薄曇りの空模様の中、古い街並み歩きの大好きな私は期待感と少しの緊張でバスに乗り込みました。
 今まであまり馴染みのなかった丹後への訪問でしたが、丹後郷土資料館では中国大陸との交流の遺物や、文政一揆の百姓たちのやむにやまれぬ怒りのこもった連判状等を目にして、確かにそこに住んだ先人達の生きるエネルギーに感動しました。
 午後はちりめん街道をガイドさんの流暢な案内で、当時の繁栄に想いをはせながらの楽しい散策でした。
 歴史の教科書で習ったくらいの知識しかありませんが、庶民の暮らしも確かにそこにあったと思うと、歴史は奥深く、ますます興味が涌いてきます。
 役員さんの方々の綿密な下見やご計画のおかげで、私たちは一日楽しく歴史に浸ることが出来ました、ありがとうございました。   
(秋山 幸子) 空白

古民家の街並み保存に思いをいたす

 八幡歴探主催のバスツアーに初めて参加した。
 久し振りに夫婦で早起きし、集合場所へいく。あいにくの雨模様であったが、バスに乗ると参加者の賑やかな声、心は晴天気分となる。
 それまでは、単発的に講演会には参加していたが、バスツアーでの遠出は、初めてのことと聞いた。
 丹後の天の橋立は、中学生時代に臨海学習で、大学生時代も海水浴に出掛け、成人してからも、松本清張の執筆部屋がある木津温泉に泊ったり等と、思い出深い地でもある。
そして、初めて寄る「ちりめん街道」与謝の町は古民家の町並保存が行き届いて美しかった。八幡の町並みもこの様に保存出来ていたらと思うのは私だけだろうか?
 次回のバスツアーも期待しています。ありがとうございました。
(真下 慶子) 空白

籠神社と伊勢神宮

 本年6月9日、バスツアー(丹後を訪ねて)が開催されました。その中で私が注目したのが、籠神社で昼食時の自由時間での参拝でした。石清水八幡宮は「第二の宗廟」と言われております。「第一の宗廟」は、伊勢神宮です。籠神社は「丹後一宮・元伊勢」の表示があります。三重県出身の私には大いに関心があります。
 籠神社御由緒には「昔から奥宮・真名井原に豊受大神をお祭りしていた。第10代崇神天皇の時代に天照大神が大和笠縫邑からお遷りになり、吉(よ)佐宮(よさのみや)で一緒に4年間お祀りした。その後天照大神は第11代垂仁天皇の御代に、又豊受大神は第21代雄略天皇の御代にそれぞれ伊勢にお遷りになった。それで当社は伊勢神宮の内宮・外宮の元宮の意味で「元伊勢」と呼ばれている。後、奥宮真名井神社から現在地へお遷して、社名を籠宮(このみや)と改め、養老3年に、天孫彦火見命を主祭神としてお祭りした」とあります。
 関連して、坂本政道氏著「伊勢神宮に秘められた謎 ベールを脱いだ日本古代史Ⅱ」に面白い事が書かれており紹介します。
内宮外宮の正式名称は、「皇大神宮(内宮・祭神天照大神)」「豊受大神宮(外宮・祭神豊受大神(天照大神の御饌都神)」。「内宮」は元々宮中で祀っていたが、第10代崇神天皇6年、命で大和笠縫邑に遷、皇女豊鋤入姫命が祀る。第11代垂仁天皇25年皇女倭姫が跡を継ぎ、御杖代として伊賀・近江・美濃・尾張諸国を経て伊勢で神託、五十鈴川上流に祠(磯宮)を建てたのが始まり(垂仁26年9月)。崇神天皇は3世紀後半から4世紀初めの人。伊勢遷座は4世紀中頃。外宮は第21代雄略天皇22年(478)、夢に天照大神が現れ「食事が安らかでない。丹波国の比沼真奈井の御饌都神。豊受大神を近くに呼び寄せよ」。同年7月7日度会の山田の地に迎えた。これで内宮外宮が揃う。
 2世紀後半、倭国は乱れ、邪馬台国連合を形成、トップに海部氏の一族卑弥呼が女王になる。海部氏は太陽信仰・男神の天火明命(本来の天照大神)を祀る。卑弥呼は巫女で三輪山で天照を祀る。死後国内大混乱。その隙に天照一族(後のヤマト王権を建てる部族・天皇家)が北部九州に勢力を広げる。卑弥呼の宗女トヨが跡を継ぎ乱が収まる。トヨは天照をそのまま祀る、が次第に分裂する。トヨ晩年(3世紀末)連合弱体化で、天照族の神武(崇神)が北部九州から大和に乗り込み、王権簒奪(神武東征)。天照をそのまま祀る。が、疫病・飢餓で神託により三輪山の大物主をトヨの子孫大田田根子に祀らせ平穏になった。崇神はトヨ・巫女を殺す(箸墓古墳)。天照の祟を恐れトヨ親族女子1人(豊鍬入姫)に天照の祀りを許す(宮中でなく倭国笠縫邑)。跡を継いだ倭姫が伊勢に落ち着く(古くから海の民・度会氏が太陽神を祀っていたから)。
 7世紀後半672年の壬申の乱で、大海人皇子(天武天皇)が尾張氏(海部氏と同族海の民。天照信奉)の支援を受けた。即位後祟神の復活、卑弥呼自身を祀る対象とし太陽の女神とした。天照を天皇家の祖先とし、各地の神と天照の関係を体系化した。
 天照大神は倭国・木乃国・吉備国・大和国・伊賀国・淡海国・美濃国・伊勢国と24の地・宮を巡行しているが、これは稲作を伝授広げる為との意見もあります(井沢元彦氏)。蛇足となりますが、ご本殿神明造りの高欄上に五色(青・黄・赤・白・黒)の座玉(すえたま)がありますが、これは伊勢神宮御正殿と籠神社以外には拝せられないもので、古来のご神徳・御社格を象徴するものだそうです。
(村山 勉) 空白


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by y-rekitan | 2016-07-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第74号より-03 八幡の古代植物①

シリーズ「八幡の古代植物」・・・①
八幡に見る古代植物 (第1回)

古代植物研究会代表 大谷雅彦 (会員) 


 植物は4億7千万年前から、この地球上に存在し、世界には現在25万種~30万種の顕花植物が生育しているといわれています。
 日本で古来より生き続けてきた植物は、①薬草として、②神社仏閣でご神木として守られて、③繁殖力が特に強い植物として、④特に珍しい植物として(独自の生態を確保して)生存できたといえます。薬草として人間に保護されてきた、あるいは、神社の境内では樹木などが伐採されないという理由から生態系が守られてきたというのがその理由の一つではないかと思うのです。
 歴史とは、人間を中心として、その時代や社会構造との関連性の中で成り立つドラマ(物語)だといえます。この歴史物語の中に、少なからず植物が登場することがあります。私は、この脇役にある植物が、どのように伝承されてきたのか、そんなことを探し求めている者です。
 植物学では、学術的・学問的に植物そのものの生態が語られることはあっても、伝承や物語のなかの植物が扱われることはあまりありません。私の調べでは、数多くの伝承物語のある植物や大変珍しい植物が見つかっています。
 今回から3回にわたり、八幡の歴史に関係ある植物を紹介します。第1回は、男山に古来より自生しているヤマアイについて、第2回は天台烏薬(てんだいうやく)(薬草)について、第3回はナギの木について。

第一回 ヤマアイについて

 八幡市教育委員会発行『男山で学ぶ人と森の歴史』のなかで、ヤマアイは次のように紹介されています。
 ヤマアイは薄暗い湿った林床に群生するトウダイグサ科の雌雄異株の多年生草木。4月ごろ葉の脇から細長い花序を出し、穂状に花をつける。藍染料をとるふつうの「アイ(タデアイ)」はタデ科の植物で近世以降に普及した。
 ヤマアイは、大嘗祭・新嘗祭などの神事に着用する小忌衣(おみごろも)の染料として利用された。小忌衣は青摺袍(あおずりのほう)ともいい、清浄な物忌みの斎服のひとつで、白地に草・木・蝶・鳥の文様を型にあててヤマアイで摺り染めした。発酵させる藍染とは違って、褪色しやすい。
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 つぎに、昭和49年10月7日発行『京滋植物風土記』(京都新聞社編)からの抜粋と他の資料によって男山山中のヤマアイについて記してみます。

男山山中に自生しているヤマアイ

ヤマアイ(山藍)はトウダイグサ科のヤマアイ属の植物である。
昔は、布を染める藍色はヤマアイから採っていた。万葉集巻九に「しな照る片足羽河の さ丹塗りの大橋の上ゆ 紅の赤裳裾引き 山藍もち 摺れる衣着て ただ独り い渡す児は……」の歌がある。これは、朱塗り橋の上を藍染めした衣を着て、赤裳裾を引いた娘が渡ってゆく、という歌であるが、この時すでに山藍染めがあったことを示している。
ヤマアイとは
ア、日本最古の青色染料に使われた植物
イ、日本に古来より自生していた種
ウ、日本古来の藍を山藍(ヤマアイ)という
※ 宮中用語では、山靛(ヤマアイ)の字が用いられる。
平安中期、ヤマアイよりはるかに藍分が多いタデ科のタデアイが伝来し、やがてこれが主流となり現在に至る。
 以上のことから、日本古来ではトウダイグサ科のヤマアイを使用していたが、平安中期からはタデ科のタデアイを使うようになったということです。ただし、両者はまったく別種のものです。
宮中で行われる大嘗祭(だいじょうさい)で文部百官が身につける青摺りの小忌(おみ)衣(ごろも)はヤマアイ染めのものと決まっている。現在でも天皇即位の御大典の小忌衣はヤマアイで染めたものを使うことになっている。
宮中で使用するヤマアイは、古来より京都府綴喜郡八幡町の男山八幡宮(現在の八幡市、石清水八幡宮)の山地に自生するヤマアイを使うしきたりになっている。

大嘗祭と男山のヤマアイ 

 6月11日、石清水八幡宮に西中道氏を訪ね、詳しいお話をお伺いした上で、大嘗祭での山靛(ヤマアイ)に関する石清水八幡宮の対応を示す資料(コピー)を頂戴することができました。その資料をもとに、昭和3年と平成2年のそれぞれの大嘗祭の様子を、山靛中心に紹介します。

昭和3年(1928)の御大礼 当宮の主な動き
(上記資料からの抜粋)

1月21日、京都府知事より御大礼の際、大嘗祭御用山靛調達に関して通知あり。
10月15日、大嘗祭御用山靛納入の奉告祭を執行。採取せる六貫五百匁の山靛は京都府庁にて点検を受けた後、大宮御所内に納入
11月14日、御前9時より大嘗祭当日祭を執行。
11月17日、大嘗夜宴の儀行せらるるにつき田中宮司御召の栄を蒙り参列す。
12月8日、宮中御宴会に田中宮司御召に依り上京参列す。

〈解説〉
 天皇陛下が、御即位の後初めて穫れた新穀を天照大神をはじめ天神地祇にお供えし、自らもお召し上がりになって、天皇としての霊統を正しく継承あそばされる儀式。それが御一代一度の大嘗祭である。大嘗祭の際、陛下のお側近くでご奉仕される方々が束帯や十二単等の上につけるのが、小忌衣という神事用の上着である。小忌衣は、白い麻の生地に植物や鳥の模様を薄緑色に摺った素朴で清楚なもので、この薄緑色は、古来、石清水八幡宮の境内、男山で採取された山靛の葉の汁を用いて着色するのが慣例とされている。大正、昭和両天皇の大嘗祭においても当宮境内に自生している山靛、六貫五百匁(約20.4キログラム)が京都御所に上納された。

平成2年(1990)の御大礼の当宮の主な動き

4月6日、大嘗祭に用いられる小忌衣(おみごろも)を今回調製することになった業者の代表が来宮。小忌衣青摺模様の染種として用いる山靛の葉を、先例に倣って当宮境内より採取する件につき打ち合わせを行う。
6月11日、午前10時より山靛献納奉告祭並苅初め式を執行。午後、境内二ヶ所より採取した山靛約30キログラムを小忌衣調整業者に引き渡す。
10月1日、午前11時より大嘗祭青竹献納奉告祭を執行。廻り一尺ほどの青竹14本を宮内庁掌典職宛送付する。
11月12日、午前9時より即位礼当日祭を斎行。
11月23日午前11時より大嘗祭当日祭を斎行。

 以上にてヤマアイの項は終わります。
(次回以降つづく)  空白


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by y-rekitan | 2016-07-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第74号より-04 五輪塔⑤

シリーズ「五輪塔あれこれ」・・・⑤
続 いつできたのか

野間口 秀國 (会員) 


 会報72号に書きました「忌明塔」について、山州地誌の一つ『山州名跡志巻之十三』(*1)の忌明塔(いみあきのとう){”キアケノトウ”との読みもあり}の項に「此塔ハ八幡ノ地人。服者忌明ノ日。詣ヅル所ナリ」とあり、説明の最後には「開基不詳」と書かれています。現場の説明文には「鎌倉時代の作」とあり、五輪塔傍の重要文化財を示す表示には「鎌倉時代」と、八幡市誌第1巻には「鎌倉中期」と、また八幡市の登録文化財が記されたHPには「鎌倉期」との記載があります。いずれにも鎌倉時代の造立であることが記されているも明確な造立年月の記載はありません。

 前章でも少し触れましたが、奈良、平安、そして鎌倉と時代が下ると、いよいよ五輪塔が墓の一形態として多く見られるようになります。河合哲雄氏の『石造五輪塔 紀年順 目次』(*2)には時代と共に237基の五輪塔がまとめられており、記載された時代と基数は以下の通りです。
  平安時代後期  6基、 
  鎌倉時代    153基 (前期・7、中期・43、後期・103)、 
  南北朝時代    47基、 
  室町時代    22基、 
  安土桃山時代  4基、 
  江戸時代    5基 
 上記からも237基のおよそ2/3の153基が鎌倉時代に造立され、その153基の2/3の103基は鎌倉時代後期であることが分かります。このことは石清水八幡宮五輪塔の時代性を考えるヒントとなり、現場の説明に「鎌倉時代の作」とあることも理解できます。
また、栃木県足利市の浄徳寺五輪塔は足利氏の、神奈川県横浜市の称名寺五輪塔は北条氏の墓所とあり、鳥取県倉吉市の大日寺五輪塔は源頼朝の墓と伝えられていることも分かります。会報73号で武家社会での領主の墓と寺院との一体化について触れましたが、そのことはこのような事例からも具体的に理解できるのではないでしょうか。無論、これら237基には石清水八幡宮五輪塔も含まれますが、前述のようなことは記されておらず、現在私たちの住む八幡一帯は武家領地ではなかったことの証左ではないでしょうか。

 「いつできたのか」を考える時に、解説板や市誌などに書かれた個々の出来事の起きた時代や年月を注意深く調べてみることは大切なことと思います。人々が五輪塔に何を求めて詣で、また崇めたのかとも関係がありそうです。加えて造立を可能ならしめる技術的な条件などに当てはめて考える時、石清水八幡宮五輪塔の「いつ」の疑問にも下記のような複数の解が見つかりそうです。
解1:承安年中尼崎の商人交易の為入唐  1171~75年(承安年中)かそれ以降
解2:中国大陸からの石工集団による造立   1200年以降なら可能
解3:亀山上皇が八幡宮社前にて祈願     1281年6月以降となる
解4:承久の乱の武者塚(承應年間に建立)  1652~55年(承應年間)の間か
解5:『山州名跡志巻之十三』が書かれる前  1688~1705(元禄年間)以前


 既に書きました忌明塔説、尼崎の大賈説、武者塚説、亀山上皇祈願説などの年代や状況を考えると、個人的には、解3、亀山上皇祈願説”弘安4年(1281)6月20日に八幡宮社前で祈願されたことに関連して造立された”が年代的に最も近いのではないかと考えます。前述の個人的な解の根拠を補足できるか否かは極めておぼつかないものではありますが、実在するその頃の五輪石塔を訪れました。根拠の一つは奈良市内の西部にある西大寺。その奥院に立つ興正菩薩叡尊五輪石塔がそうです。f0300125_15232370.jpg
 西大寺の建つ位置から北西方向へ10~15分ほど歩くと西大寺奥院に着きます。寺の再興を計り、それを成し遂げた西大寺の高僧、叡尊は正応3年(1290)8月25日に90歳で亡くなっています。同年10月頃に叡尊を慕う多くの弟子たちによって遺骸を焼いた荼毘所に墓所として建てられたのが現存する五輪石塔です。このことは同寺で買い求めることができる小冊子や栞で分かります(*3)。弘安4年と正応3年は共に鎌倉時代で、隣接する2つの年代(弘安:1278~88と正応:1288~93)であることも見逃せないことと思います。

 鎌倉時代に続く南北朝時代に造立されたのではないかと思われる石造五輪塔を今一つ挙げてみたいと思います。仏教の一派、時宗の開祖である一遍が正応2年(1289)に51歳の生涯を閉じた所に建てられた真光寺がその五輪塔のある地です。JR和田岬駅(兵庫県)からほど近い同寺境内に一遍の廟所があり、そこで石造の五輪塔を見ることができます。実際に目にすると、この五輪塔は西大寺奥院の興正菩薩叡尊五輪石塔や石清水八幡宮五輪塔よりわずかに小さいように思えました(*4)。

 ところで、五輪塔の歴史は決して大きさだけで論じられるものではないと思いますので、ここで、時代が下るにつれて墳墓の規模や様式が変化する一例を両墓制の五輪塔に見てみたいと思います。同年齢の俳優の火野正平さんが自転車で日本各地を訪ねるTV番組 「こころ旅」で、ある日放送された番組を見てそのような五輪塔の並ぶ墓の存在を知りました。即刻放送局に問合せ、その地が鳥取県大山町鈩戸であることを知るのにそれほどの時間は要しませんでした。が、訪れるのはかなり後のこととなりました。
f0300125_16245690.jpg
 前号で書きました「名和公一族郎党の墓」の訪問に先立って訪れたのが大山町鈩戸の五輪塔墓地(*5)です。写真でもご覧いただけますように、この墓地は現在でも残る両墓制(または双墓制とも呼ばれる)の実際の姿です。遺体を埋葬(土葬)する墓である「埋め墓(ステバカとも呼ばれる葬地)」と、その後に墓参りの為に造られた墓である「参り墓(祭地)」が隣接する墓地です。特に近畿や中国地方で類似した墓地を見られた経験をお持ちの方はおありと思います。両墓制については宮田登氏の著、『霊魂と旅のフォークロア』(吉川弘文館刊)に民俗学・宗教史の立場から詳しく書かれていますのでここでは割愛しますが、埋葬する墓とお参りする墓を目的に応じて設けるやり方を実際に見ることが初めての私にとって極めて印象的な光景ではありました。しかし葬制が土葬から火葬へ変化していく中で、2つの墓を使用することはここ鈩戸でも終焉を迎えたようです。実際に訪れて分かりましたが、一見したところ参り墓(五輪塔のある部分)は隣接する埋め墓の一割にも満たないほどの面積でした。また、いくつかの埋め墓には今でもお参りに来られるのでしょうか、お花が飾られ、その一つからは線香の香りが漂っておりました。

参考図書・史料・資料など;
(*1)『新修京都聚書』第十六巻 臨川書店刊
(*2)『石造五輪塔 紀年順 目次』 河合哲雄氏のHP(2014/09/12に確認) 
(*3)小冊子 『西大寺の文化』、栞 『西大寺』 共に西大寺刊
(*4)文学・歴史ウオーク主催2015.12.6開催の『兵庫津の道を歩く』配布資料
(*5)『大山町文化財ガイドマップ』鳥取県西伯群大山町教育委員会編
他:『世界文化史年表』 芸心社刊、『日本史年表・地図』 吉川弘文館刊
 
(つづく) 空白


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by y-rekitan | 2016-07-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第74号より-05 詩歌と八幡の歴史②

シリーズ「詩歌に彩られた八幡の歴史」・・・第2回
歌枕 美豆

 土井 三郎 (会員) 


 歌枕(うたまくら)とは、本来、和歌に用いられる歌語、あるいは歌語を説明する書物のことを指していたようですが、現在はもっぱら和歌によまれた地名・名所のことをいいます。f0300125_932321.jpg一般に平安時代の和歌は表現のパターンを一定にし、その一定のパターンをいかに巧みにアレンジするかというところに特色がありました。「逢坂(おうさか)」は人に逢うことを掛けてよみこまれ、「龍(たつ)田川(たがわ)」は紅葉が流れる川としてのみよまれたのです。このように地名は特定のイメージと結びつくことによってのみ形象化されたのです(※1)。 
 山城の歌枕として有名な「みかの原」は、次の歌で有名です。

  みかの原わきて流るるいづみ川
   いつ見きとてか恋しかるらむ
  
           藤原兼輔(新古今和歌集)

 「百人一首」にも採り入れられているこの歌が人々に口ずさまれる中で、「みかの原」とあれば「いづみ川」を思い浮かび、「いづみ」から「(あなたを)いつ見」たことというのか「恋しくて仕方ない」という思いにつながり、恋歌をイメージするようになったのです。
八幡における歌枕といえば「男山」と「石清水」が想起されます。

男山
  今こそあれ我もむかしはおとこ山 
  さかゆく時もありこしものを
 
          よみ人しらず(古今和歌集)

   おみなへし憂しと見つつぞ行(ゆき)すぐる 
   おとこ山にしたてりとおもへば
  

          布留今道(古今和歌集)

 男山は、「男」のイメージで詠まれ、「女」のイメージを持つ「女郎花」を配するのはみなさんご存知の通りです。

石清水
  万代(よろづよ)はまかせたるべし石清水 
  ながき流れを君によそへて
  
          六条右大臣(金葉和歌集)

  石清水きよき流れの絶えせねば 
  やどる月さへくまなかりける
 
  
          能蓮法師(千載和歌集

 石清水は、山中に湧く石清水を神として祀り、清澄な流れの久しさや神の心に寄せた祝意の歌として詠まれることが多いのです。
 さて、本題である「美豆」について話を進めましょう。 
明治初年(1868)に木津川が改修される前まで、美豆(みづ)は、際目(さいめ)、生津(なまつ)とともに八幡の外四郷に属し、地続きでした。とくに平安時代、美豆は、山城の歌枕としてさかんに和歌に詠まれました。

  逢ふ事を淀に有てふみずの森 
  つらしと君を見つる頃かな
  

             よみ人しらず

 「後撰和歌集」(951年に和歌所設置)の恋の部に収められた歌で、「逢いたいものの、よどんで滞(とどこお)る淀にあって、みずの森ではないが見ることができず、つらい思いの今日この頃です」と嘆いたものです。「美豆」と「見ず」を掛けているのは明らかです。返しの歌があります。

  美豆の森もるこの頃のながめには 
   怨みもあへず淀の河浪
  

          よみ人しらず

 「美豆の森では、長雨のため水が漏り、怨むこともできず、ぼんやりと物思いにふけりながら淀の河浪を眺めるばかりです」の意で、森と漏(も)り、眺めと長雨を掛けた技巧的な歌です。
 「美豆の森」というからには森(未開拓地)が広がっていたのでしょう。
 「後拾遺和歌集」(1086年成立)にも美豆が詠まれています。

  さみだれは美豆(みづ)の御牧(みまき)の真菰草(まこもぐさ) 
  刈りほすひまもあらじとぞ思(おもふ) 
 
                       相模

 女流歌人、相模の歌は、「五月雨のころは、降り続く雨のために、美豆の御牧の真菰草を刈り干すひまもないと思います」と詠んだもので、ここでは森ではなく「御牧」が登場します。古代皇室の牧場で、馬の放牧地であったようです(※2)。

  真菰刈(まこもかり)みつの御牧の駒の足の 
  早く楽しき世をも見哉(みるかな)
    
                      兼盛集

「真菰」は池沼や河川のへりに群生する大型のイネ科の多年草で、f0300125_9523047.jpg茎の先に黒穂病菌が寄生すると、茎がタケノコを小さくしたような形に太り、食用になりました。現在、台湾や中国南部ではこれが栽培され、料理で珍重され、缶詰や冷凍にして輸出もされているとのことです。また、葉や茎で盂蘭盆会(うらぼんえ)の時の祭壇に敷くござに編んだとのこと(※3)で、相模の歌にある「刈り干す」のは食用というより、ゴザに用いるためのものかもしれません。
 京阪電車に乗って京都に赴く際、淀の手前で木津川の岸辺に目をやると、イネのような穂を延ばした背の高い草を見ることがあり、それが真菰ではないかと思うのですが、よくわかりません。
梅雨の晴れ間、背割公園まで出かけ、駐車場に車を預けた後、堤防沿いの農道を京阪の鉄橋まで歩いてみました。少々蒸し暑い日でしたが、水田では田植えを終えたばかりの早苗が風に揺れ、木津川の河原には灌木類や背の高いくさむらが繁茂していました。ただし、真菰の姿をしかと捉えることはできません。八幡方面を振り返ると男山が夏空に輝いて見えました。かつての美豆から見た男山は、鉄橋こそないにしても同じような景色(冒頭の写真)なのかと思いをはせたものでした。
 『山州名跡志』は、正徳元年(1711)に刊行された22巻にも及ぶ山城地域の地誌ですが、美豆について次のように記しています。
「(淀)大橋南爪に在て、其所民戸有り。大路東南に行き、東路上に云う如し。南、八幡
に至り、大坂に及ぶ街道なり。但し、古(いにしえ)に云う此処より十町(900m)ばかり艮(うしとら)(北東)方御牧双べり。仍て古歌に美豆御牧を詠む。今の如く御牧廣莫にして、美豆其十ガ一にも及ばず。今の如く木津川の流れを改むを以て変わる所なり。故に古歌に詠む美豆森、美豆野同じく入江等今は定かならず」
 方角などつじつまがあわない個所がありますが、内閣文庫所蔵の「八幡山上山下惣絵図」に地名や神社仏閣などをトレースした絵図があり、それを見ると、淀大橋を渡ると町美豆村と元美豆村とがあり、淀川沿いに西にゆけば大坂道となり、途中、常盤道や御幸道を南に行けば八幡に至ることがわかります。
f0300125_100524.jpg
「古歌に詠む美豆森、美豆野同じく入江等今は定かならず」とありますが、江戸時代の半ばごろの記述ですから、それ以前の太閤堤の築造や江戸初期の堤防工事などで淀や美豆、巨椋池の改修などによりこの辺りの景観は平安期のそれと随分様相を異にしていることでしょう。

 ※1、『和歌大辞典』(明治書院)
 ※2、『京都府の地名』久世郡の項、「美豆牧」
 ※3、『世界大百科事典』(平凡社)
(次回は、「蕪村の眼差しー橋本」の予定)空白


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by y-rekitan | 2016-07-28 08:00 | Comments(0)

◆会報第74号より-06 三宅碑⑤

《続》 1月度の講演会より

『三宅安兵衛遺志』碑と八幡の歴史創出
その5

―松花堂・東高野街道・天皇聖蹟・綴喜郡―


中村 武生  (京都女子大学非常勤講師)


 さて八幡に戻ったのちの芳次郎は定職にはつかず、松花堂昭乗の顕彰に後半生を没頭させます。その直接のきっかけは松花堂昭乗の墓所の荒廃でした。昭乗師弟の墓所は男山東麓の平谷にありましたが、維新期の廃仏毀釈により墓塔は倒され、民家の厨下に横転していました。のちの芳次郎の回想によれば、「明治四十四年五月」、三井合名会社顧問で、茶人・美術品蒐集家としても知られる益田孝(鈍翁)が、同じく三井家の元理事で京阪電気鉄道株式会社の初代社長であった田辺貞吉とともに八幡を来訪、芳次郎方にも立ち寄りました。
 芳次郎は「松花堂で茶を差上げ、御帰途御供して仏師裏なる藪(元の墓所)御里坊跡の井戸等を案内した」。田辺が先に八幡を離れたのち、芳次郎が益田を「貴賓車で京都の宿まで御送りした」ところ、「其車中で墓所の買収改築の事を依頼され、拙者が担当」することになりました。そこで田辺貞吉や戸田猶七にも相談したということです。これは実現いたします。墓所や土地が買収・整備されたのち、元内閣総理大臣松方正義撰の石碑が建立され、その地に中尾山泰勝寺も創建されます。重要なのでその経過に立ち入っておきます。
 1911年(明治44)と推定される12月7日付西村芳太(ママ)郎宛益田孝書翰によれば、これ以前に益田は来幡して西村方に立ち寄りました。関東に戻ったのちは以下のことを友人たちと話し合いました。それが「松ヶ堂之墓所保存」や、松花堂昭乗の居所であった男山の滝本坊跡「に石碑を建る事」、毎年昭乗の祥月命日である「九月十八日ニ祭を営」むことでした。「相当之寄付金を集め」なければならないので、「御厄介相蒙候事ニ付候間、乍御迷惑右之執行ニ付、御助力被成下度」と芳次郎に希望しています。この書翰こそ、この事業の開始を告げるものでしょう。
 旧土地台帳によると、年5月10日、芳次郎が現泰勝寺境内の一部にあたる字平谷(現八幡市八幡平谷)17及び17-2・19合併地を登記しています。昭乗ら墳墓地の買収です。その直後の5月22日には京阪電気鉄道株式会社に譲渡しています。事情は不明ですが、田辺貞吉が社長をつとめる京阪電気鉄道が墳墓整備に積極的に関わっていたことを示します。
 同年7月30 日、天子睦仁(明治天皇)が崩御、同年9月13日、その大葬が洛南伏見で行われた朝、東京で乃木希典夫妻が殉死します。その関連報道が連日新聞紙上をにぎわしていた同年10月8日、松花堂昭乗らの墓石復興が竣工しました。墓石は「八間四方、高さ三尺の花崗石にて地上げをなし、周囲に松を植ゑ、其の後方に高さ三尺、幅三尺、長さ一間半の花崗石を築き、中央に松花堂昭乗惺々翁、右に師匠実乗、左に高足乗円の三基を建立し、墓畔は庭園となし、種々の常盤木を植ゑ、西村氏の意匠にて入り口に松花堂好みの網笠門を設け」られました。
 その10日後、10月18日午前11時、益田鈍翁を発起人・総代として同地で塔供養及び昭乗273回忌が挙行されました。導師は洛北大徳寺の見性宗般で、芳次郎以下、三井八郎右衛門(高棟)、朝吹英二夫妻、田辺貞吉、山中吉郎兵衛、戸田猶七、林新助、富岡鉄斎夫妻ら30余名が参加し焼香し、12時に終了しました。その後、志水の西村邸に移り、茶莚及び昼食会が催されたのち、洞ヶ峠付近で参加者によるマツタケ狩が行われました。当日、富岡鉄斎は所有していた昭乗筆の扁額を網笠門に掲げるため寄贈しています。
 富岡鉄斎と芳次郎は既知でした。西村安子氏蔵の一双の貼り交ぜ屏風には芳次郎宛の鉄斎書翰が6通あり、適宜芳次郎が鉄斎に季節の野菜や果物などを送っていることが知れます。なかには昭乗ら墳墓復興の直後、それを祝う書翰も含まれています。ときには鉄斎は芳次郎を「今松花堂」などと呼んでいます。
 昭乗ら墳墓復興の直後、同年10月31日付西村芳太(ママ)郎宛益田孝書翰によれば、その後の計画が知れます。芳次郎は過日「大徳寺派の寺を売却し、隣地ニ一寺を建立し、此墓地を守り度と申ス僧」の登場を期待したようです。益田は「難得」いとしてこれを保留します。「近日発起人会相催し、逐一報告、将来之事とも相談」する予定で、「石碑を墓地内へ建て、此度之事共記し、且ツ寄贈会員之名をも誌し置」きたいとします。次は昭乗顕彰碑の建立でした。「良き石御見出し置被下。場処ハ手洗石の左手隅之方可然歟と存候」。当時すでに墓標に「手洗石」も設置されていたことが分かります。
 翌1913年(大正2)5月20日付西村芳次郎宛益田孝書翰には、「冨岡鉄斎翁御草稿」が芳次郎から届けられたこと、天然石を石碑に使用すべきこと、「時日も切迫致し」ているので、碑文を刻むため寸法を至急連絡してほしいことなどが記されています。
 同年7月28日付、西村芳次郎宛益田孝書翰によれば、松方正義による「松花堂之碑文」が出来たので、益田が西村に小包郵便で送る、碑石彫刻には「最も熟錬の石屋」を選び出し、10月18日に間に合うように希望します。書体は「随分大師風の字」なので、細い部分にも注意を払うよう松方からも注文が出ました。
 これは予定どおり進められたのか不明ですが、少なくとも泰勝寺境内に現存する松方正義の「松花堂遺蹟碑」には「大正二年十月」の銘があります。

【注:原則、典拠を省略しています。詳細は近刊予定の中村武生「一九二〇年代、京都府南部における建碑と史蹟空間の創出―「三宅安兵衛遺志」碑と城南八幡の郷土史家西村芳次郎―」(『歴史地理史学』第1号、特定非営利活動法人京都歴史地理同考会)をご覧ください。】
(次号につづく) 空白


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by y-rekitan | 2016-07-28 07:00 | Comments(0)

◆会報第74号より-end

この号の記事は終りです。


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by y-rekitan | 2016-07-28 01:00 | Comments(0)