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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
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◆シリーズ:“心に引き継ぐ風景”⑥ ◆
◆《講演会》石清水八幡宮の成立と機能◆
◆御幸橋南詰「石清水八幡宮鳥居通・・・」道標は何処に?◆
◆シリーズ:“八幡に見る古代植物” ②◆
◆シリーズ:“五輪塔あれこれ”⑥◆
◆シリーズ:“詩歌に彩られた八幡の歴史” ③◆
◆シリーズ:“『三宅安兵衛遺志』碑と八幡の歴史創出” ⑥◆



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by y-rekitan | 2016-09-20 15:00 | Comments(0)

◆会報第75号より-01 豊蔵坊信海


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心に引き継ぐ風景・・・⑥
さまよえる豊蔵坊信海
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 松花堂昭乗書流の中興の祖にして「昭乗自画像写」を残す細合半歳(ほそあいはんさい)は、かの木村蒹葭堂(きむらけんかどう)の媒酌人でもあった。蒹葭堂日記によれば、当時彼を訪問する著名人は引きも切らず、八幡の社士、森元回蔵も訪れている。
 さて、大坂の細合半斎は「男山栞」松花堂門人姓名小録の項に中村久越、法童坊孝以、豊蔵坊孝雄(信海)、藤田友閑らの略伝を記している。
 豊蔵坊は家康の三河時代からの祈祷所であった為、大層裕福な坊で、徳川の治世に闕所(けっしょ)となった片岡道二と落合忠右衛門の朱印地を含め百七石の朱印寺領があり、さらに代官小堀家より三百石を給されていた。徳川家祈祷所として、毎年正月には江戸城へ登城し将軍に年頭御礼と共に祈祷札を献上している。神應寺と縁の深い大奥総取締「右衛門佐(えもんのすけ)」の推挙を受けて、後に幕府歌学方となった北村季吟(きたむらきぎん)(松永貞徳門下)とは晩年まで交流が続いた。
 書画や狂歌に名を残す信海の墓石は足立寺史跡公園にて先年確認したが、大坂の由縁斎貞柳(ゆえんさいていりゅう)が信海三十三回忌に神宮寺(廃寺)の墓に詣でた記録がある。中ノ山万称寺(廃寺)や狩尾社の近辺にも墓の伝承があったらしいが、今なぜか八幡市文化財保護課に仮置きされているそうだ。
足立寺跡地「豊蔵坊信海墓」の三宅安兵衛碑が「信海、何処へ」と叫んでいる。                     (写真と文 谷村 勉)


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by y-rekitan | 2016-09-20 12:00 | Comments(0)

◆会報第75号より-02 石清水八幡宮

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《講 演 会》
石清水八幡宮の別宮の成立と機能

2016年8月 八幡市文化センターにて
 鍛代 敏雄
(石清水八幡宮研究所主任研究員 東北福祉大学教育学部教授)

              
  2016年8月27日、八幡市文化センターにて標記の講演と交流の集いが行われました。講師である鍛代敏雄氏は、毎年この時期に所用で石清水八幡宮に来られます。その機会を利用して今回も集いが実現できました。参加者43名。以下、講演の概要を紹介します。

はじめに

 別宮(べつぐう)とは何か。『国史大辞典』では次のように説明されている。「神社の本宮と関係のある神社をいう。特に伊勢・石清水両宮の例が知られており、本末関係で結ばれた神社の称号の一つ。(中略)石清水八幡宮の場合は伊勢の例とは異なり、宮寺領の拡大に伴って荘園内に設けられた鎮守神をいう。なかでも大分(だいぶ)宮をはじめとする九州五所別宮は重視され、ほかに宮寺領の別宮は保元3年(1158)には18ヵ国35ヵ所を数えた。」(岡田荘司)
 私の中世前期までの調査では、長暦2年(1038)の紀伊・伊部の隅田(すだ)別宮に始まり、観応2年(1351)の加賀・能美の多田八幡別宮までの計74カ所ある。その多くは平安後期から鎌倉時代で、石清水がもっとも力を持っていた時代である。その時代、石清水の別宮は全国に存在した。北は佐渡、東は上総・上野など関東にもあったが、但馬・丹後・出雲・伯耆・備前・豊後・肥前・筑前など西国が圧倒的に多かった。

1、石清水の荘園と別宮

 別宮は、本社に対する末社という性格のものではない。つまり、末社が本社の祭神を勧請して成立するだけのものではないということである。別宮は末社と何が違うのか。別宮では、石清水の力が直接及び、人事権を石清水が掌握するのである。荘園の現地管理者は、現地の有力者が担うのが一般的であったが、石清水の別宮では、石清水から直接派遣された人物が支配・管理したり、八幡宮の側が地元の人物を任命(「補任(ぶにん)」)したりするのである。f0300125_16354656.jpg
 石清水八幡宮は、多い時で全国に400ヵ所程度の荘園があった。荘園領主としての土地以外にも、例えば地頭職(じとうしき)が寄進される場合もあった(1338年、足利尊氏が丹後国佐野別宮地頭職を石清水八幡宮に寄進)。先ほど紹介した石清水の別宮74ヵ所の内、55件は地名が確認されず、別宮が荘園と同じような形態であったと想像できる。
 元暦2年(1185)の源頼朝下文(くだしぶみ)では、荘園および別宮を「庄々」と呼んでいる。荘園として認識され、頼朝が地頭御家人に対し、兵粮などの名目で年貢を強奪するなど乱暴・狼藉を働かないように命じたものだ。
荘園ができて別宮ができるのが一般的であるが、別宮ができて荘園ができる場合もあった。いずれにしても、荘園のみあって別宮が無いケース、別宮があって荘園が無いケース、荘園も別宮もあるケースと三つに類型化できる。
但し、史料を見てみると「別宮(べつぐう)」のことを「別院(べついん)」と表記する場合があった(1158年の史料)。天台・真言二宗や浄土真宗に見られるように、本寺と別院の関係は、本寺が別院の人事権を掌握することにより成立する。そのことからも、石清水本宮と別宮の関係は、本寺と別院の関係のように見なされていたのである。事実、石清水は、石清水八幡宮としてではなく、「石清水八幡宮寺」と呼ばれていた。9世紀に創建された石清水八幡宮であるが、10世紀はじめにできた「延喜式内社」に石清水は含まれていない。神社として認定されず、朝廷からは「宮寺(ぐうじ)」として評価されていたのである。

 次に、石清水八幡宮寺の荘園と別宮がどのように成立したのか以下の項目で見てみよう。
(1)延久の荘園整理(1069年、後三条天皇による)
山城6、河内16、和泉3、紀伊7、美濃1、丹波1、計34ヵ所あった宮寺領は、6ヵ国21ヵ所に確定した。
(2)保元の新制(1156~57年、後白河天皇による)
保元3年(1158)の裁許により、38ヵ国、138ヵ所の荘園・別宮が確定した。別当勝清(しょうせい)の時で、勝清は、25代別当光清(こうせい)の息子である。ちなみに、光清は、後白河天皇(法皇)と深く結びつき、石清水の祠官家(長官)を、それまでの宇佐氏の流れをくむ元命(げんみょう)系から、行教以来の紀(き)氏(し)に奪い返したのである。後白河院の支持のもと、紀氏が祠官家を独占する流れが決まったといってよい。いずれにせよ、そのような権力構造の変遷のなかで石清水の荘園と別宮が大量に誕生したのである。
(3)弘安の大田文(おおたふみ)(1285年、但馬国の場合)
郡ごとに、郷・庄・別宮を記載した。但馬国内の八幡宮領は10ヵ所200町弱である。
(4)「石清水八幡宮 社領一覧」(竹内理三『国史大辞典』)
承平6年(936)における河内矢田庄から永禄12年(1569)にかけて42ヵ国・153ヵ所を記す。但し、別宮・別宮領を除く。荘園の東・北限は遠江・信濃・越後で、西・南限は南海・西海(筑前・築後・日向)である。
(5)社家領
それまでの宮寺領・坊領400ヵ所が田中家、善法寺家などの祠官家の社家領として把握されるようになる。
(6)近世の朱印地・社領 
6384石余。その他2300石余があった。

2、別宮の成立

(1)史料上の初見
 「別宮」が史料の上で初めて見られるのが長暦2年(1038)紀伊国隅田別宮である。石清水八幡宮少別当が隅田別宮に宛てた下文(くだしぶみ)で、忠延という在地の人物を俗別当職に任用しないことを述べたもので、神主職の人事権を石清水側が掌握していることを示したものである。
(2)中世前期の所見
 石清水の別宮の存在が確認される時期を類別すると以下のようになる。
保元3年(1158)12月3日以前に成立した別宮が40件あり、後白河院と結んだ石清水の別宮が全国的に成立したことがうかがえる。また、別宮の成立は14世紀までが主で、南北朝の動乱を機に別宮も荘園と同じように在地の有力者(武士)に浸食されていくことが見て取れる。
(3)地域別の分布
 ア、五畿内(4) イ、東海道(5) ウ、東山道(2) エ、北陸道(2) 
 オ、山陰道(30)カ、山陽道(12) キ、南海道(10) ク、西海道(9) 
  計74ヵ所。
 北限は佐渡、東限は相模・下総・上野の関東、南西限は薩摩である。これは、竹内理三氏が『国史大辞典』に掲載している石清水八幡宮社領(荘園)より広範囲にわたっていることを示している。

 3、別宮の機能

(1)特権と権益:土地と人、神人
①不輸租田
 石清水の別宮領は不輸租田である。貢租を国家および地方に納めなくてもよいというもので、「勅免官省符の地」と「国司奉免」という言葉が史料に残っている。国や地方に納めないということは当然、別宮の領主=石清水に年貢が入ることを意味する。
②「一国平均役」の免除
 建久8年(1197)正月に八幡宮公文所から隅田庄への下文(くだしぶみ)に、当宮(石清水八幡宮)御領では、「兵士役大番」(兵粮・造作の労役)、「造東大寺夫役」などの一国平均役(国ごとの労役)は、「先例」「傍例」により「不可勤仕」=免除を命じているのである。
③「但馬国大田文」(1285年))に見る別宮の人的様相
 但馬国大田文(おおたぶみ)は、荘園・公領の田数、領有関係、地頭補任の状況を記録したものである。石清水別宮も等しく田数が記録されている。その記録によれば但馬国内の別宮は、「八幡領」「八幡宮領」として全10ヵ所が記録されていて、内「下司(げし)」「御家人」の名が記録されるのが4件、「地頭」の名が記録されるのが3件である。在地の領有関係のなかで、下司・御家人・地頭などが、どのように役職を担ったのか興味がもたれるところである。
(2)本宮・石清水の「雑役」(社役・神役)
①誉田宗廟別宮の場合
 保延3年(1137)の光清起請文案によれば、誉田別宮に対し、他の別宮に准じ、本宮の「雑役」を勤める必要はないと書かれている。この雑役とは、主に祭祀料と造営料の負担だった。
②安居頭役の事例
 上野国板鼻(いたはな)別宮の預所(あずかりどころ)である安達景盛(あだちかげもり)に安居頭役を命じている文書がある。元久元年(1204)のもので、安達景盛は鎌倉幕府の有力な御家人である。また、翌元久2年(1205)に、上総国市原別宮の預所である中原親能に安居頭役を命じたものがあるが、「称無先例、令対捍給云々」とある。先例が無いと称して、履行を拒否したのである。文永元年(1264)、相模国古(旧)国府別宮の預所、三浦頼盛も同じく「対捍去年安居頭役」の文字が見え、必ずしも石清水側の安居頭役の経済的負担の要請に応じたわけではなかった。
 他に、八幡宮領出雲国赤穴別宮(あか(あなべつぐう)の下司(げし)を担う人物に「宝樹」の頭役を命じている文書が見られる。寿永(じゅえい)元年(1182)と建久(けんきゅう)6年(1196)、寛元4年(1246)、文永4年(1267)の史料である。「宝樹」とは、石清水八幡宮の南楼門の前に松の大木を荘厳した「宝樹」6本を立てるというもので、まさに安居会の神事を指す。そのための経済的な負担を出雲の赤穴別宮の下司に命じているのである。赤穴別宮の下司として「紀宗實」の名がみえるが、石清水の祠官や俗別当の姓を借用する在地の有力者であろう。
③播磨国松原別宮(善法寺坊領)の場合
 文永3年(1266)検校宮清(ぐうせい)が、松原別宮の預所宛に下文を発給している。預所が寺内住僧・神人らへの狼藉を停止させるというものである。どういうことかというと、松原宮の預所が別宮の内部に検断権を振りかざし警察のような行為をなし、また別宮内に税をかける等の違乱を働いたというものである。このように、鎌倉時代の後期にもなると石清水による荘園・別宮の支配・統制に陰りが見え始めるのである。在地の武士から云えば、独自の力を蓄積し、荘園=別宮の領主による人事権から離れ独自の権力基盤を作り始めるのである。
(3)本宮・別宮の人事
 九州には宇佐八幡宮が存在するにも関わらず、戦国期まで石清水八幡宮の勢力が大きかった。その理由を考えてみたい。
 端緒は、宇佐出身の元命(げんみょう)が11世紀に石清水の別当になったことにある。藤原道長がバックアップしたからで、道長が元命を宇佐から呼んで石清水の別当に就任させたのである。その中で、行教以来の紀氏(きし)は抑圧された。だが、藤原の世が終わり、白河上皇、後白河上皇などの院政が始まるにつれ紀氏が復活。元命がそれまで持っていた権限を奪い返し、宇佐に限らず九州全体の八幡宮の権限を石清水のもとに取り込んでいくことになる。筥崎八幡宮も、戦国期まで石清水が支配するのはそんな事情を反映しているのである。

おわりに -別宮の歴史的意味-

(1)別宮は、伊勢神宮(境内別宮が主)や賀茂別雷神社、阿蘇神社、出雲大社などにも確認できるが、石清水八幡宮のように荘園内に分祀・勧請され、神領の核として機能した例は特徴的なものである。また、別宮は別院とも称されたとおり、八幡宮寺の別宮として、祭祀においても仏神事の習合的な役割を担った。
(2)石清水八幡宮は、史料上、12世紀半ば以前に40ヶ所、14世紀半ば以前、中世前期までに74ヵ所確認できる。石清水領荘園の分布範囲を超えて広く認められる。別宮として寄進され、その別宮領は石清水宮寺領として公武に認定され、荘園と同じく不輸・不入の権が保障。官物・雑役、一国平均役などが免除された。別宮には、本社の社役・神役があらためて賦課され、神主・俗別当、別当・検校などは石清水側が掌握し、人事権をもって、祭祀・別宮領を監督した。この点は、寺院の別院と共通している。
(3)神社は寺院にくらべて、本末の関係に拘束されることはなく、地域の事情が優先される。古代、宇佐宮の八幡神・大菩薩・応神天皇が合体し、鎮守神や戦神として分祀・勧請されても、すべてが別宮となったわけではない。平安中期以降、寄進地系荘園の隆盛にくわえて別宮といった方法で石清水に土地が寄進された。とくに、九州の別宮のように石清水側が積極的に関与した場合もあるが、多くは末社・末寺化することで、免税特権を取得しようとする地域の事情があったのである。天下の宗廟にして内裏にもなぞらえた石清水八幡宮と同一の祭祀空間が別宮として地域に設営されたのである。 
【文責=土井】 空白
 
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『一口感想』より
 今回のテーマは少しむつかしかったですが、石清水八幡宮の別宮、別院のことがよくわかりました。古文書を読む力も必要であると感じました。また、次回(11/20)の「石清水八幡宮をめぐる八つのエピソード」の講演も聞いて見聞を広めてゆきたいと思います。ありがとうございます。 (M・K)
 かつて少年時代に詣でた薩摩高城(現、薩摩川内市)の新田八幡宮が石清水八幡宮の別宮であったことを知り、とても興味深くまたなつかしく聴かせていただきました。 (野間口秀國) 
 荘園という意味は、土地又は領地と言うことを指すのかと考えていましたが、別宮と言うことは初めて聞きました。石清水が全国にあったことを教えてもらいました。ありがとうございます。 (長井一詩)
 九州筥崎宮と石清水の関係を特集してください。 (竹内勇)


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by y-rekitan | 2016-09-20 11:00 | Comments(0)

◆会報第75号より-03 御幸橋南詰道標

御幸橋南詰の「石清水八幡宮鳥居通・・・」
道標は何処に?


高田 昌史 (会員)
谷村  勉 (会員)

 2009年まで木津川御幸橋南詰の八幡市駅側緑地帯に設置されていた「石清水八幡宮鳥居通」の大きな道標が、御幸橋の改修工事に伴い撤去されてその後は行方不明でしたので、由緒ある道標がなくなっていると懸念していました。
 私たち八幡の歴史を探究する会の「八幡の道探究部会」活動の一環として、道標の行方確認のために、先ずは、御幸橋改修工事をした京都府山城北土木事務所等を訪問し調査を開始しました。その後の調査により、この道標に関しての貴重な情報を得ると共に新たな発見もありました。私たちは、引き続き道標を元の場所に設置されることを目的に活動をしていますが、今までの経緯をドキュメンタリー風にまとめて報告します。

1.御幸橋改修前までの道標設置状況

 2004年から京都側宇治川の淀川御幸橋の改修工事が着手され、 引き続き木津川御幸橋の改修工事が始まり翌年2010年6月に3代目の木津川御幸橋が開通しました。新御幸橋は旧橋より上流側に設置されたために、南詰の道路は十字路になり京阪八幡市駅には直進で行けるようになりました。
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 しかし、この改修工事に伴い木津川御幸橋南詰前の緑地帯がなくなり、そこに設置された道標や石碑が撤去され行方不明でした。(図1は撤去前の緑地帯)
 また、長年八幡市を訪ねられ2013年に「八幡市の道標を訪ね歩く」(私家版)の冊子を纏められたf0300125_14174598.jpg神戸市在住の荒木勉氏は、同冊子に“亡失「鳥居通の道標」”と記載され、1996年撮影の写真(図2)を掲載して、道標の行方を心配されていました。(注1)
 図3は、現在の木津川御幸橋南詰の交差点です。私たちはこの場所に設置されていた道標の行方調査を開始しました。

2.御幸橋改修工事で撤去された道標の行方調査
 
 2016年7月22日に改修工事を担当された京田辺市の「京都府山城北土木事務所」を訪問して、直接道路計画室のかたに道標の行方の聞き込みをしました。
その結果、探していた「石清水八幡宮鳥居通」の道標は、横に設置されていた「京阪国道改修記念碑」の石碑と共に、河原に保管しているとの説明があり、場所が確認できれば連絡いただけることになり帰宅しました。その後に電話で道標は石清水八幡宮にお渡ししたと連絡がありました。ただ、それに拘わる書類等はわからないとも伺いました。
早速、石清水八幡宮に連絡して道標の現物を預かっておれるか、問合せをしましたところ、頓宮に保管しているはずであるが、当時の担当者は既にいないので、何処に保管しているか確認し、また、その保管状況を調査してから連絡するとの返事でした。翌日の8月5日(金)に石清水八幡宮の西禰宜から、頓宮の中庭にビニールシートに包まって保管しているとの連絡がありましたので、すぐに現物を確認したいと申し入れたところ、8月7日(日)に西禰宜が直接現場に案内していただく運びとなり大変恐縮しました。

3.道標は大切に保管されていました
―そして新たな発見がありました―

 私たちは8月7日(日)10時に頓宮に出向き、現場に案内していただきました。保管場所は一般の方は立ち入れない頓宮中庭の軒下にシートに包まれて大切に保管されていました。f0300125_14374397.jpg早速、西禰宜立会のもとにシートを外して道標を確認しましたが、残念ながら道標の地中に埋もれている箇所は折損していました。(図4)
 高さ2m以上ある大きな道標なので、設置されている時はよく見ることが出来ない先端部は縁取りされた角錐形状であること確認しました。
 引き続き、碑文を確認していくと最下部に【御幸道】の碑文があることを発見し、正直ビックリしました。今までの道標設置時は、図2の写真で判るように、この道標の碑文全文は「石清水八幡宮鳥居通」であると認識していました。
f0300125_1441118.jpgしかし、今回の撤去された道標全体の現物確認により道標下部のコンクリートで固めてられていた部分に【御幸道】が隠れていた事を発見・確認できたことは、大きな驚きでした(図5)。写真では地中部の文字の彫りの中に、コンクリートが一部詰まっているために判りにくいですが、間違いなく碑文全体は「石清水八幡宮鳥居通御幸道」です。

4.道標「碑文」の再確認及び検証

 今回、新たに道標の最下部に碑文【御幸道】を確認できたことは、この道標が正徳3年(1713)石清水八幡宮検校新善法寺行清によって建てられた「石清水八幡宮鳥居通御幸橋」であることを奇しくも御幸橋の改修による道標の撤去により確認できました。
 f0300125_14494921.jpg図6に2009年まで御幸橋南詰に設置されていた「石清水八幡宮鳥居通」の道標の外観写真と、橋改修工事で撤去されて頓宮の中庭にシートに包まれて保管されている状況写真を並べ比較しました。碑文の最下端の下の埋もれていた【御幸道】の碑文が明らかです。
 従って、今回の碑文全文の確認により、嘉永元年(1848)刊行の男山考古録巻第十一の “御幸道“の項に
「一の鳥居を北へ壹條の道路ありて・・・・北堤防に近く、正徳三年癸巳六月十七日、石清水八幡宮鳥居通御幸道といふ標碑を建てられたるハ、新善法寺行清法印也、・・・」と記載されている、その現物であると推定できます(注2)。なお、昭和57年(1982)に八幡市郷土史会から刊行された(やわたの道しるべ)には、“この道標が新善法寺行清によって建てられたものであるかは不明”と記載されています(注3)。今回新たな碑文確認により、新善法寺行清により建立された道標である事を証明されたといえます。  この御幸橋南詰の道標から直進すると一の鳥居に向かう御幸道であることは、内閣府文庫所蔵の「山上山下惣絵図」に描かれています(注4)。

5.道標の再建について

 以上の貴重な確認(発見)により、次期ステップとして1日でも早くこの道標に碑文全体「石清水八幡宮鳥居通御幸道」が見えるように御幸橋南詰に再設置の推進を要望するために、翌日の8月8日(月)八幡市役所「都市整備部都市整備課」を訪問しました。
 なお、大変急いだのは、来年3月に木津川御幸橋北詰に「三川合流施設(展望タワー)」が完成するので、それにあわせて八幡市事業の南詰の空地整備計画が完了したら、間に合わなくなるのではないかと心配したからです。
 当日の懇談で担当の方からは、南詰の緑地帯整備は今年から来年の2ヶ年にかけて実施すると説明を受けました。その上、私たちが道標の行方調査で最初に訪問した「京都府山城北土木事務所」から、数日前、緑地帯へ道標再設置に関する確認電話があったことも伺い、スムースに面談が出来ました。f0300125_14571825.jpgまた、来年整備予定の緑地帯(図7参照)の整備計画図面を見せていただき道標設置の計画や場所も確認できました。
 私たちは、再設置時は現在折損している箇所は接合して碑文が今までのように地中に埋もれることがない設置を依頼し、担当の方からは具体的に設置の詳細計画時は、ご連絡いただけることを約束していただき安堵して帰宅しました。
 以上が記録的な猛暑の中、約1ヶ月間の木津川御幸橋南詰の道標の調査・再建に関する経過報告ですが、私たちはこの道標が現場設置が完了するまで見守りたいと思います。

《御礼と御報告》

 今回の道標の行方調査から再建計画までの調査聞き込みは、多くの方々のご協力により期待していた以上の事が判り、後は希望通りの再設置を待つことになりました。
道標の行方調査では、最初にお世話になり、その後もいろいろと情報をいただいた京都府山城広域振興局建設部「山城北土木事務所」の方々には、この紙面をお借りして御礼申し上げます。
 また、石清水八幡宮の西禰宜には、突然の道標の行方問合せにも拘わらず、すぐに調査されて、数日後には保管場所への案内と現物確認に立会いただきました。厚く御礼申し上げます。
 それから、最初の項で報告しました“石清水八幡宮鳥居通”の道標の行方を心配されていた神戸市在住の荒木勉様にご報告するために、ご自宅にお電話しました。すると奥様から「八幡市の道標を訪ね歩く」(私家版)を平成25年(2013)7月の完成後に体調を崩されて、同年12月にご逝去されたことをお聞きしました、一度お目にかかって懇談したいと思っていましたので、大変残念です、謹んでご冥福をお祈りいたします。なお、奥様からは荒木様の撮影された写真や資料の使用については、ご了承をいただきました。

注記
 
(注1)「八幡の道標を訪ね歩く」(私家版)平成25年7月15日
  八幡市民図書館に寄贈
(注2)男山考古録(長濱尚次著)嘉永元年 
  -石清水八幡宮史料叢書1-
(注3)やわたの道しるべ(八幡市郷土史会)昭和57年10月発行
(注4)山上山下惣絵図(国立公文書館内閣文庫蔵) 江戸時代中期の絵図
※八幡市立図書館1Fロビーに掲示されています。

by y-rekitan | 2016-09-20 10:00 | Comments(0)

◆会報第75号より-04 八幡の古代植物②

シリーズ「八幡の古代植物」・・・②
八幡に見る古代植物 (第2回)

古代植物研究会代表 大谷雅彦 (会員) 


天台烏薬について

 「天台烏薬(てんだいうやく)」とは薬草です。f0300125_16531464.jpg現在でも街中の漢方薬店には、主に健胃剤の「烏薬(うやく)」として売られています。
 和歌山県新宮市発行の『徐福(じょふく)』という小冊子の第1頁に以下のような文章があります。

 徐福は、今から二千二百年ほど前、中国を統一した秦の始皇帝に仕え、その命により東方海上の三神山にあるという不老不死の霊薬を求めて三千人の童男童女を引き連れ、この熊野に渡来したと伝えられています。徐福一行は、この地に自生する「天台烏薬」という薬木を発見しましたが、気候温暖、風光明媚、更には土地の人々の暖かい友情に触れ、ついにこの地を永住の地と定め、土地を拓き、農耕、漁法、捕鯨、紙すき等の技術をこの地に伝えたといわれています。・・・・・・

 新宮市は、市内に徐福公園を造り、徐福像を建てています。また、「徐福上陸の地記念碑」やお墓を作り、同行したという重臣7人の碑、天台烏薬をたくさん植えた立派な菜園を造っています。その菜園では天台烏薬を4千株植えて、各種加工品にして販売しています。このことは、昨年、現地を訪れ確認しました。f0300125_17103052.jpg
 ところで、平成17年12月20日付、徐福友好塾発行の“「徐福さん」――伝承地に見る徐福像と徐福伝説”という本の中には、徐福が到来したという伝承の地は、日本全国で26カ所とあります。ネット検索では、日本全国で31カ所が名乗りをあげており、京都府下では伊根町が有名です。なお、この本の中では、各地の徐福到来地で、徐福が探し求めた不老不死の霊薬(仙薬ともいう)は、天台烏薬の他に、「アシタバ」説、「フロフキ」説、「シャクナゲ(茶)」説、他多数があります。

 一方で、八幡市と枚方市の隣接地にある摂南大学薬学部が所有する山野地には、天台烏薬が自生しています。他にも、枚方の長尾にある菅原神社の境内地にもたくさん自生しています。
 摂南大学薬学部付属薬用植物園が発行している小冊子(邑田裕子先生が編集していると思われる)の最初の頁のなかの概要のなかで、次のような文章があります。
敷地周辺に広がる竹林や落葉広葉樹林中には、自生状態で生育しているテンダイウヤクが見られます。テンダイウヤクは中国原産で、小野蘭山が「本草綱目啓蒙」の中で、「烏薬は城州八幡で多く栽培されている」と記述していることから、これらが野生化したものと考えています。現在も、園内の思わぬ所に実生苗を発見することがあります。

 摂南大学薬学部の邑田裕子先生は、関西の薬草研究者として有名な方です。なお、ご主人の邑田仁氏
は、現東京大学付属小石川植物園園長(教授)で、ご夫妻とも植物学(薬草学)では著名な方です。
 邑田裕子先生にお会いして、テンダイウヤクについてお伺いすることができました。先生は、次のようにお話してくださいました。
テンダイウヤク(天台烏薬)は、日本の中世の頃、中国の天台山から日本の城州八幡(現在の八幡市)に持ち込まれ、繁殖が進み、八幡を中心に枚方の長尾・藤坂あたり一帯の山野に繁茂したと考えられる。
ここから更に、紀伊半島や大阪府池田市あたりに伝播され広まっていったと推測される。
現在でも、その名残として、ここ摂南大学薬学部の山野地に自生している。他にも、この近辺地の長尾から藤坂あたりにも自生地がたくさんあったが、住宅開発で無くなった。唯一、長尾の菅原神社の境内地には今も自生している。他にも、八幡の山野を探せば見つかるかもしれない。

 なお、邑田裕子先生の結論として、徐福と天台烏薬との関係は全く無い! 時代が合わない!!との説を強く主張されています。私も先生の説に賛同するものです。
(追伸)
1、漢方薬となるのは、根にできる留根(ふくれたかたまり)の部分です。
2、和歌山の白浜温泉の千畳敷海岸の駐車場横の売店で、他の幼木に混じって、天台烏薬の幼木が販売されていました。私が昨年買ってきたものが、現在、鉢植で立派に生育しています。
3、天台烏薬は葉の形に特徴があり、葉の葉脈がタテ3本だけなので、山野地で見つけやすいので探してみて下さい。
【次回は、ナギの木について】 空白



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by y-rekitan | 2016-09-20 09:00 | Comments(0)

◆会報第75号より-05 五輪塔⑥

シリーズ「五輪塔あれこれ」・・・⑥
どこで造られたのか

野間口 秀國 (会員) 


 この章では「どこ / Where 」で造られたのか、について考えてみたいと思います。今日、頓宮近くで見ることのできる石清水八幡宮五輪塔は国内でも屈指の大きさを誇り、その重さも相当のものであろうことは容易に推測できます。では、この五輪塔が他の場所で造られてここまで運ばれたのか、それとも石材のみが運ばれてこの地で造られたのか、との素朴な疑問にも正しい答えを見出すことは容易では無いようです。

 「どこ」に関する疑問は、まず五輪塔の材料となる石がいったいどこで採れたのかを知ることが大切であると思うのです。2014年秋、高槻市立今城塚古代歴史館で開催された『古墳時代の舟と水』と冠する展示会にて展示された石棺の説明文の一部に、「・・今城塚古墳では、はるか九州から運ばれた石棺が見つかり・・」と書かれていました。また、市内の男山笹谷で発掘された茶臼山古墳から見つかった石棺は、現在の熊本県の宇土半島から運ばれた阿蘇石(阿蘇溶結凝灰岩)が使われていることも分かっております(*1)。これら淀川両岸の古墳で発掘された石棺が、石材として積み出されたのか、はたまた半製品もしくは完成品で運ばれたのか興味は尽きませんが、石棺の石材は石清水八幡宮五輪塔のそれとは明らかに違うようです。

 ならば、石清水八幡宮五輪塔の石材はどこで産出されたのでしょうか。そのことを考えるには古墳時代にまで遡る必要は無さそうです。が、調べを進めるため参考にすべき事例の一つは、時代を下った大阪城築城の頃かと考えました。大阪城を訪れると、桜門の蛸石や京橋門の肥後石などと呼ばれる、優に畳の広さを超す巨大な石が目に飛び込んできます。築城に使われたこれらの巨大な石は瀬戸内海の島々で切り出された後、石船や筏に積まれ、また二隻の船に吊るされるようにして大阪まで海上を運ばれたとの記録があります(*2)。切り出されたのは瀬戸内海の小豆島や犬島を初め、六甲山系や生駒山系の石切り場など複数の候補地が考えられますが、いずれの地にしても水運を除いた運搬手段は皆無とは言えないまでも極めて困難であると言わざるを得ません。また、石清水八幡宮五輪塔が造立されたであろう時代に、陸上運搬にて現在五輪塔の建つ位置まで運べるような近隣地に塔造りに適した石材供給地も限られていたのではないでしょうか。

 水運での運搬を前提に考えるならば、それは必ずしも海を隔てた遠隔地とは限らず、石材(半完成品や完成品含む)の運搬が出来るほどの大きな川でも可能であったと思われます。そうであれば、今日八幡市を流れる宇治川や桂川、更に木津川の流域にあった石材供給地はその候補に挙げられます。本章では木津川流域について更に考えを進めてみたいと思います。木津川市内で木津川右岸を東西に走る国道163号線を左折し「ふるさとミュージアム山城」(*3)への誘導路の左側に設置された残石を見ることができます。以下は現地の説明板にある全文です。 
 注:大坂城(城の名称)と大阪(地名)の表記は異なります。
大坂城の残石
この石材は、徳川幕府が1620(元和6)年から行った大坂城の改築のときに、津藩の藩主藤堂高虎が、現在の加茂町から切り出した大坂城修築用のもので、貴重な歴史資料として、多くの方々に見学いただけるよう、平成元年11月からこの場所に設置しています。 多くの石材が木津川を下って大阪へ運ばれましたが、なかには、のちの修理に使うために現地に備蓄されたものもありました。その石材は、今でも木津川の中に残されています。

f0300125_92921100.jpg この夏のある日、改めて前述の「大坂城の残石」を訪れて写真に収めました。更に車を東へと進め、かつての伊賀の国、現在の三重県伊賀市島ヶ原の地を訪れました。この島ヶ原の地名については、会報第53号(2014.8.25刊)にて『大乗院の五輪塔と石工集団』の記事を寄せられた歴探仲間の先輩、谷村勉氏より、以前、「京都市内の懇意にしている石材店の主人の調査によると八幡の五輪塔と宇治浮島十三重石塔は島ケ原(木津川上流/現三重県伊賀市)産の花崗岩で川を利用して運んできたと聞いています」と教えていただいたことがありました。また、五輪塔に加えて「宇治浮島十三石塔」の名前が含まれていることもあり信頼性が高いとも思いました。谷村氏の情報に加えて、島ヶ原訪問に先立って伊賀市教育委員会文化財保護課の担当の方より、①島ヶ原でかつて石材を産出していたのは事実であるが、②今から30~40年前に途絶えており過去のことを知る人もおられず、③市にも関係する歴史的史実は見つからない、との情報もいただいておりました(*4)。

 京都府南東端で接する三重県伊賀市島ヶ原は、藤堂藩の時代、大和街道の宿場町として賑わいをみせていた町であり今日でも旧本陣の跡が残されています。JR島ヶ原駅前の観光案内所にて、地元の方よりこの地の石材店を紹介いただきました。紹介いただきました石材店の奥様より、「石の切り出しの話は聞いたことがあるが、今では切り出し地は残っていないな」との話も聞かせていただくことができました。周りを車で走っても切り出し地のような場所は見出せませんでしたが地元案内の島ヶ原観光マップ(*5)には「岩谷峡」、「岩倉峡公園」と呼ばれる木津川流域の自然公園や、「岩屋山」と呼ばれる岩窟や「峰の六地蔵」と名付けられた磨崖仏など、岩にまつわるような見所が複数描かれておりました。

 JR島ヶ原駅から車で北へ5~6分の地に「薬師堂磨崖仏」があり訪ねてみました。f0300125_16512689.jpg島ヶ原観光マップにも描かれており、大きな花崗岩の自然石に彫られた本尊と阿弥陀三尊立像が確認できます。その前に立って島ヶ原から西に向かって流れる木津川を思う時、この地が石清水八幡宮五輪塔の石材の切り出し地であったのだろう、と理解できる訪問ではありました。が、それは同時に確証が得られた訳では無いことも事実ではありました。石材を切り出し、運び、加工し、設置すると言った一連のことがらを、「どこ / Where 」を切り口に考えてみると石清水八幡宮五輪塔の不思議が益々増して来るようです。最後に、紙面に記載の有無に関わらず、情報を提供いただきました全ての皆様方のご親切に紙面をお借りして厚く感謝申し上げます。

参考図書・史料・資料など;

(*1)『図説 発掘が語る日本史 4 近畿編』 水野正好編 新人物往来社刊 及び『埋蔵文化財発掘調査概報 1969』 京都府教育委員会刊
(*2)『歴史群像名城シリーズ 大坂城』 太田雅男著 学習研究社刊
(*3)京都府立山城郷土資料館の愛称(同館より教示いただく・2016.08.08)
(*4)伊賀市教育委員会文化財保護課より教示いただく(2016.02.09)
(*5)『島ヶ原観光マップ』 島ヶ原観光協会刊(次号に続く)

(次号に続く) 空白



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by y-rekitan | 2016-09-20 08:00 | Comments(0)

◆会報第75号より-06 詩歌と八幡の歴史③

シリーズ「詩歌に彩られた八幡の歴史」・・・第3回
蕪村のまなざし―男山そして橋本

 土井 三郎 (会員) 


  やぶ入(いり)や鳩にめでつゝ男山 

 与謝蕪村(1716~83)の作品には、「やぶ入り」を詠み込んだ発句が多数見られます。少し紹介してみましょう。すべて『蕪村全集』第1巻(1992年講談社発行)から採用したもので、成立順に並べました。冒頭に掲げた句は、安永7年(1778)~天明3年(1783)頃の作品で、蕪村晩年の作品で、「やぶ入」で始まる発句の最後の句です。 
  ア、藪入の夢や小豆(あづき)のにえる中(うち) 
  イ、やぶ入や浪花(なには)を出(いで)て長柄川(ながらかは)
  ウ、やぶいりや余所目(よそめ)ながらの愛宕山(あたごさん)
  エ、やぶ入(いり)に曇れる母の鏡かな
  オ、やぶ入(いり)を守る子安の地蔵尊


 「やぶ入り」とは、正月と盆の16日、あるいはその前後に奉公人が主人から暇をもらって実家に帰ること。また、その日やその頃をさします。蕪村の句ではもっぱら正月16日の藪入りを指すようです。(エ)は、「やぶ入り」で久しぶりの再会を喜び合う母と娘の心情をリアルに映し出しているといえます。句意は「藪入りで戻った娘が懐かしそうに母の鏡を見る。母も後ろからのぞき込む。二人とも涙があふれ、鏡中の顔がぼやけている」というもので、『蕪村全集』の評者は「母娘の心情を鏡の曇りに凝縮させた」としています。的確な解釈だと思います。
 (イ)の句は、浪花の奉公先を出て、若い娘が長柄川(新淀川の前身中津川の古称)の岸辺を足取りも軽く故郷を目指すというものです。但し、「長柄」とある如く故郷の家にたどり着くまでの堤防道は長いもので、蕪村の故郷毛馬を暗示しているようです。(オ)にある「子安地蔵」は安産と小児守護の地蔵で、京都市下京区下寺町荘厳寺の地蔵が名高いとか。そんな子安地蔵の傍らを藪入りの子供が帰っていく。お地蔵様が、道中の安全を見守ってくれているようです。
 だが、「藪入り」で奉公人に許された休暇は僅かな日数しかありません。(ア)の句は、藪入りで故郷の家にたどり着いた子供が緊張感から解放され、うたた寝をしますが、その安らかで楽しい夢も、母親の心尽しの小豆が煮え上がるまでのわずかの時間なのです。
 さて、本題の男山を配した冒頭の句ですが、句意からすれば(ウ)が一番近いように思えます。 愛宕山は、京都の北西にそびえ、どこからでも目印になる信仰の山です。その愛宕山をよそ目に見ながら、いそいそと故郷へ急ぐ藪入りの子どもの姿を活写しているのです。
 そして、冒頭の句について、『蕪村全集』の評者は、「帰心矢のような藪入りの途次、男山の鳩に手を振りながら参詣もせず八幡様の前を急いで通り過ぎていく」としています。男山の鳩に免じてお参りもせず通り過ぎてゆくことをお許しくださいと八幡様に詫びているようでもあります。
 いずれにせよ、藪入りで故郷を急ぐ小児への蕪村のリアルで優しい眼差しを感じざるを得ません。
 ところで、八幡宮に鳩はつきものです。石清水八幡宮一の鳥居の額にある「八幡宮」は藤原行成が書いたものを松花堂昭乗が元和5年(1619)に書写したものとされ、「八」の字は向かい合った二羽の鳩を模しています。そもそも鳩が八幡神の使いの鳥とされるのはいつ頃からなのでしょうか。f0300125_10315594.jpg
 13世紀初頭に成立した石清水八幡宮の『宮寺縁事抄』に、同宮の創建者である僧行教(ぎょうきょう)が、宇佐に参拝して読経した時、「我紫鳥と云鳥化也」と託宣があり、その鳥が鳩であったことが述べられているとのことです。また、14世紀初頭に成立した『八幡愚童訓』に、「前九年の役」で源頼義が苦戦していたとき、八幡神に祈願したところ鳩が軍旗の上に降ってきたという逸話があるようです(※1)。 
 さらに、八幡宮と鳩の関係について、宇佐八幡宮に問い合せましたところ、次の情報がもたらされました。
 正和2年(1313)に、宇佐宮弥勒寺の僧神吽(そうじんうん)により編纂され、応永25年(1418)に周防・長門・豊前等の守護であった大内盛見の命により書き写し、宇佐宮へ奉納された「八幡宇佐宮御託宣集」によれば、言い伝えとして、八幡大神様が菱形池に御出現された際、八幡神の化身が金色の鷹となって現れ、大神比義が祈念すると金色の鳩に化したと記されているとのことです。上記の『宮寺縁事抄』の記述と相通じるものがあります。貴重な情報を提供して下さった宇佐八幡宮の関係者に紙面を借りてお礼申し上げます。
 いずれにせよ、13世紀から14世紀を中心に、石清水に限らず、全国の神社・仏閣で、寺社や仏像などの由来、または霊験などの伝承・伝説を記した書物や絵巻が盛んに刊行されました。八幡宮と鳩の関係もその時期に霊験譚(れいけんたん)として人々の間に広まっていったのでしょう。

  若竹やはしもとの遊女ありやなし

 蕪村は俳人として知られますが、盛んに句会を催したり句集を刊行したりしたのは51歳になってからで、生活の資はもっぱら画業によるものでした。また、55歳で亡き師の号である「夜半亭」を継ぎ、俳諧の宗匠(そうしょう)(点者)になったのですが、点料(添削料)を稼ぐことをいさぎよしとせず終生、俳諧を趣味として通したそうです(※2)。
 画家蕪村は、中国の新画法である南画や南宋画、文人画などを積極的に採り入れ、需要に応えました。一方で、俳味のある、略筆の淡彩もしくは墨絵で、発句の賛などが付けてある書画共存形式の俳画を完成したといわれます。次ページに紹介するのがその一つで、賛は冒頭の句です。f0300125_10404479.jpg
 この句を味わってみましょう。「若竹」は季語で夏を表します。文字通り、その年に生え出た竹で、「ことし竹」とも称されます。読者のなかには、「若竹」と「遊女」の取り合わせがミスマッチではないかと指摘する向きがあろうかと思います。この句の鑑賞には、「遊女」をどうとらえるのかがポイントになると思います。
 私は、この句に接したとき、西行の次の和歌を思い浮かべました。

  世の中を厭うまでこそ難(かた)からめ
   仮の宿りを惜しむ君かな


 西行(1118~90)が天王寺に参るとき、江口にて雨にあい、一夜の宿を借りたいと申した時に、断られて詠んだ一首です。遊女妙(たえ)は「家を出づる人とし聞けば仮の宿 心とむなと思ふばかりぞ」の歌で返し、「雨宿りを乞うお方が出家の身だと聞き、故に(遊女の)宿は貸すことできませんと申し上げたのです」と答えたのです。まっとうな理由であり、西行とても遊女の言にぐうの音も出なかったのではないでしょうか。一見卑賎な身と思われがちな遊女ですが、神に仕える巫女に起源を求める説があり、その職能としての芸能も神仏との関わりで説明されています。
 以上のことから、冒頭の句は、「若竹がすくすくと育つ橋本では、(西行と問答をした妙のような)遊女が今もいるのであろうか」と解釈されますが、この句をめぐって、蕪村の母への慕情を読み取るべきという指摘もあります(※3)。
 蕪村は、発句だけでなく、漢詩にも造詣が深く、「俳詩」と呼ばれたジャンルを開拓したとされます。「澱(でん)河歌(がか)」がその一つ。発句と漢詩、和詩を扇面一面に自画と自賛にあしらいました。その発句に「若竹や」ではじまる冒頭句が添えられているのです。 
f0300125_1049441.jpg

    澱河歌(でんがか) 夏
  若たけやはしもとの遊女ありやなし

    澱河歌 春                       
  春水浮梅花 南流兎合澱 
  錦纜(きんらん)君勿解 急瀬舟如雷
  兎水合澱水 交流如一身            
  舟中願同寝 長為浪花人                       
                  
  君ハ江頭の梅のごとし 
  花水に浮て去事すみやか也
  妾ハ岸傍の柳のごとし            
  影水に沈てしたがふことあたハず              

   「兎」は宇治川、「澱」は淀川を指す。「錦纜(きんらん)」は美しいとも綱。 

 この作品には、「春水に浮かぶ梅花のように澱河を流れ下って行く情人を送る(伏見の)妓女の思いに托して、惜別の情と浪花への郷愁を吐露したもの」との指摘があります(※4)。伏見の妓女、そして橋本の遊女に対する蕪村の眼差しに、故郷毛馬にて早くに離別した亡母ないし母性に対する哀切な想いが見え隠れしているようです。
(次回は、「名所図会と八幡讃歌」を予定) 空白

(※1)『八幡信仰事典』(夷光祥出版)
(※2)「翔(か)けめぐるマルティ芸術家の創意(おもい)」辻惟雄(『与謝蕪村-翔けめぐる創意-』)
(※3)「かりに、「哥よむ遊女」に、亡母をなぞらえる発想があるとするならば、「橋本の遊女」もその類想とすることに無理はない。むろんそれが、蕪村じしんの母親を指すと短絡してはならない。遊び女(め)という歌や芸に秀でた女性に、母性を仮託したものにほかならない。亡母幻想といってもいい。作者の想念のうちにできあがった、詩的母神像と解さねばならない。」藤田真一「蕪村二都物語」より(『与謝蕪村-翔けめぐる創意』)
(※4)「澱河歌(でんがか)」(尾方仂)『俳文学大辞典』より


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by y-rekitan | 2016-09-20 07:00 | Comments(0)

◆会報第75号より-07 三宅碑⑥

《続》 1月度の講演会より

『三宅安兵衛遺志』碑と八幡の歴史創出
その6

―松花堂・東高野街道・天皇聖蹟・綴喜郡―


中村 武生  (京都女子大学非常勤講師)


 松花堂昭乗の墓塔復興ののち、「西隣に盗人数人入込んだ為め町内より番人の請求があり致方なく土足庵今厨裡の裏にある茶室)を新築し、幸ひ知友で滝本坊代々の位牌を藪の中に捨ててあったのを拾うて祭ってゐた僧から譲り請けて之を祭り番人を置いた」そうです。
 しかしその後また留守居もなく放置されました。そのため再び松花堂墓地当時は「松花堂遺蹟」と称する草庵に過ぎなかった)が荒廃に帰すことをおそれた関係者は、1919年1月、「境地ヲ拡張シ堂宇ヲ増築シ滝本坊ノ旧称ヲ復興」する、すなわち寺院建立を実現し、「千載不易ノ保存方法ヲ確立」するため松花堂会を組織しました。会長は見性宗般、発起人には神月徹宗八幡円福寺住職)、林山宝鑑田辺一休寺住職)、山本玄実大阪府茨木本源寺住職)、関禅鎧八幡単伝庵住職)、戸田弥七、山中吉郎兵衛、山中与七、春海敏、植村平兵衛、林新助、熊谷直之、土橋嘉兵衛、今井貞次郎、山中定次郎、青木喜太郎が並びました。僧侶をのぞけばすべて大阪市と京都市の有力者メンバーで、益田孝ら関東人は含まれていません。地元への配慮でしょう。本部は松花堂墓地である「松花堂遺蹟」に置かれました。
 松花堂会の組織化と連動するのか不明ですが、芳次郎の回想によれば、それに先立つ1916年春、大徳寺派管長見性宗般が大阪の信徒中尾勝かつ子)を同伴して来訪し、松花堂墓所の譲渡を希望しました。中尾が資金を提供して寺院建立し、祠堂金を付し「将来の維持をはかるといふ依頼」でした。これに対して益田孝は「大徳寺は江月宗玩―中村注)と特別の間柄につき譲っても宜しい、尤も貴殿立換金三千円余は先方で引受ればよし、若し当方で支払ふとならば一応会員と相談の上返事しようと」応じました。結果、「円福寺で引請けると申して貰ひ請け、当方の立換も遂に有志の喜捨に依る事となった」。これにより円福寺の管理となりました。
 本堂方丈)を始めとする建造物がどのような推移をへたのか定かではありませんが、松花堂会が組織された翌年、1920年大正9)6月7日、京都府に対して「寺院復興寺号公称ヲ願出」ています。当時、寺院の創建は認められなかったため、廃絶していた滝本坊の復興という形を取ったのです。これは1922年6月8日、許可が下ります。中尾勝は、「本堂六万円、荘厳費7,000円、司堂金30,000円神月老師渡支の費用に貰ひしと)」を出資したそうです。
 松花堂会も無関係ではなく、1921年4月からまもない時期に小冊子『松花堂昭乗阿闍梨小伝』を刊行し、啓発を図っています。これによればこの段階で正門、方丈本堂)、唐門がすでに建設されています。その後、「松花堂会で出金して土足庵を茶室に変換、厨裡並閑雲軒を新築し」ました。
そして認可が下りた翌々年の1924年4月17日、「滝本坊再興」落成式が行われました。この時期の滝本坊再興願主は松花堂会発起人筆頭だった神月徹宗、信徒総代は中田孝次郎八幡町)、内貴甚三郎初代京都市長)、中尾篤大阪市南区天王寺)、太田光熈京阪電気鉄道常務取締役、翌年社長)で、信徒総数は190名に上りました。住職は堀尾海応がつとめました。
 「滝本坊再興」という形を取りましたが、実際は中尾山泰勝寺の寺号を名乗っています。少なくとも落成式前年の1923年には「泰勝寺」を称していることが確認できます。これは費用の多くを提供した檀越中尾勝あるいは中尾篤)と、当初から「約束」があったといいます。寺号に「中尾勝」の氏名が含まれていることに注意ください。現在泰勝寺は肥後熊本細川家菩提寺の名を移したとされていますが、根拠を知りません。なお当初話題となっていた男山の滝本坊跡への建碑はこの段階では実現していません。
 松花堂会主催の第一回茶会は、落成式の翌月5月)17日・18日の両日に行われました。益田孝が閑雲軒で濃茶を担当し、あわせて書画骨董展が開かれ、芳次郎も「松花堂竹雀画、江月賛」や「同松花堂筆)達磨、遠州讃」を出品していました。益田による「其豊富なる蓄積の数々」をみた参加者高橋箒庵をして、「今回の飾付こそ全くお世辞抜きで翁の一世一代であらうと激賞」させる素晴らしいものでした。
 松花堂会はそののちも継続され、昭乗の命日にあわせて原則毎年5月18日を例歳忌とし、大茶会が開かれました。少なくとも昭乗三百年忌にあたる1938年までは継続されていました。その後は主に関係者の忌日釡が多く行われ、日中戦争の泥沼化、第二次世界大戦参戦及び戦況悪化により、昭乗の例歳忌や大茶会は行われなかったのではないでしょうか。
 さて松花堂会によって、茶道を嗜む縉紳に芳次郎や松花堂旧蹟としてその邸が広く知られるようになり、会とは無関係にたびたび来訪者がありました。芳次郎はそれに好んで応じていたようです。名高い「松花堂弁当」も、その過程で生まれました。
 末廣幸代によれば、1933年昭和8)ごろ、大阪新町吉兆の湯木貞一は、松花堂昭堂の遺跡で、「部屋の片隅に重ねられていた茶色の四角い盆松木地盆)に眼がとまり、料理の器に使えるのではないかと考え、その一つを分けてもらった。その時は煙草盆あるいは薬入れなどに使うものと聞いた」ということです。
 しかし湯木貞一自身は、その著『吉兆味ばなし』1982年)のなかで、
昭和のはじめに、松花堂のあるお寺が、これをおとき入れに使っていた、それを私が見てきて、これはいい、これに点心を入れて出そうとおもったのが、はじめです。それを当時の毎日新聞が〈吉兆前菜〉としてとり上げて、出してくれました。まぁ、自慢するつもりはありませんが、いまどこでもやっている松花堂というものは、じつは私がはじめたのでした。松花堂にあったのは、ちゃんと四隅に金具が打ってあって、それはいいものでした。
とあり、「松花堂のあるお寺」泰勝寺か芳次郎邸のいずれかであろう)で御斎入れ、すなわちすでに料理の器として使用されていたのを湯木がアレンジしたとします。
ところが同じ湯木の『卒寿白吉兆』1991年)には、
八幡で木津宗泉が-中村注)釜をかけていらっしゃいました。私もそこへお招きいただきました。そこは、江戸時代初期の文人数寄者であった松花堂昭乗の庵で、金具つきの箱が五、六個重ねてあり、煙草入れや薬入れ、種入れなどの物入れとして使っているのを見つけました。ああ、これはお弁当に使える、と思い、そのころはまだそうした道具を注文できるころではなかったのでアイディアだけで帰ったのですが、のちにそれを模して作らせ、使い始めたところ、大評判になりました。
とあり、料理の器に使用したのは自らの独創だったように言い換えています。木津宗泉は、松花堂会の主要メンバーで、泰勝寺の茶室閑雲軒の設計者でもありました。
 なお前者引用文にある毎日新聞の記事というのは、1936年昭和11)2月20日付夕刊の「家庭と学術」欄15面)の「洋食・和食を通じてこの頃”前菜つきだし)時代”です―正餐前の粋な変化が喜ばれる」という特集のことで、ここに湯木のコメントが載っています。ここで湯木は、前菜が一品では寂しいときに、趣のある容器を使うと良いと述べるところで、
たとえば松花堂が薬箱に使ったといふ春慶塗の蓋ものなどに、昨今だと小鯛の塩辛、若鮎の黄身ずし、嫁采の浸し蛤田楽などをとり合せて、オードウブルのセットがはりに出すなどといった方法はいゝと思ひます。
と述べています。この段階で湯木は、まだ松花堂昭堂の遺品を弁当には使用していないことが分かります。
 興味深いことは、その3年後の1939年刊行の佐藤虎雄『松花堂』に、「西村家蔵」の「松花堂好膳」と記された写真が掲載されており、それが「四隅に金具が打っ」てあることです。すなわち当時からすでに芳次郎ないしは佐藤)が、これを「膳」=弁当箱と認識していたことを示します。これを湯木が見たということはなかったのでしょうか。
 湯木貞一がいつから「松花堂弁当」を売り出すか不明ですが、それに先行して芳次郎が昭乗の遺品を弁当箱として活用していた可能性を指摘しておきます。

【注:原則、典拠を省略しています。詳細は近刊予定の中村武生「一九二〇年代、京都府南部における建碑と史蹟空間の創出―「三宅安兵衛遺志」碑と城南八幡の郷土史家西村芳次郎―」『歴史地理史学』第1号、特定非営利活動法人京都歴史地理同考会)をご覧ください。】 
(次号に続く)空白


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by y-rekitan | 2016-09-20 06:00 | Comments(0)

◆会報第75号より-end

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by y-rekitan | 2016-09-20 01:00 | Comments(0)