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◆会報第76号より-top <スクロールだけで全記事が読めます>

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
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◆シリーズ:“心に引き継ぐ風景”⑦◆
◆《講 演 会》八幡の古代遺跡と道◆
◆シリーズ:“八幡に見る古代植物” ③◆
◆シリーズ:“五輪塔あれこれ” ⑦◆
◆シリーズ:“詩歌に彩られた八幡の歴史” ④◆
◆シリーズ:“『三宅安兵衛遺志』碑と八幡の歴史創出” ⑦◆
◆第44回八幡市民文化祭展示発表を終えて◆



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by y-rekitan | 2016-11-20 15:00 | Comments(0)

◆会報第76号より-01 長濵尚次


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心に引き継ぐ風景・・・⑦
戊辰の戦火を逃れた
   「男山考古録」・長濵尚次
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 長濵尚次(ながはまひさつぐ)は石清水八幡宮の宮大工で「男山考古録」の著者としても知られるところです。寛政9年(1797)9月24日生~明治11年(1878)1月30日没、八十二年の生涯でした。
 「男山考古録」は八幡の歴史探索には必須の史料として現在も生き続けていますが、本業である建築はもちろん絵画、詩歌、天文学、神楽、茶・華道等多彩な才能を磨くなど、総合的な教養の蓄積を持った人物像が浮かび上がります。
 慶応4年(1868)正月6日「鳥羽伏見の戦」で、柴座町の長濵家屋敷も全焼し、所蔵した万巻の書は灰燼に帰しました。わずかに難を逃れたのは徳川家朱印状と男山考古録、神楽本、算数の書数部であったと記されています。この日は戦火を逃れるため八幡宮三社御鳳輦を、尚次を含む二百五拾人が供奉して大住の月読(つきよみ)神社(現京田辺市)に遷座の最中でした。
 松花堂昭乗が得意とした布袋図を、尚次の軽妙なタッチで描く作品が松花堂美術館に残っています。また石清水八幡宮には奉納の掛軸が在り、神應寺には寒山拾得図が、念仏寺には最晩年の雪月花の額装が残っています。
 いつか作品が一堂に会する機会でもあれば、近世八幡の文化レベルの高さ・広がりの一端に、尚次を通して刮目してみたいものです。
(写真と文 谷村 勉) 空白
  

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by y-rekitan | 2016-11-20 12:00 | Comments(0)

◆会報第76号より-02 八幡の古道

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《講 演 会》
八幡の古代遺跡と道
-古山陽道と古山陰道-
2016年10月 八幡市文化センターにて
 引原 茂治
(公益財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センター調査課)


 10月16日(日)午後l時半より、八幡市文化センター第3会議室にて表題の講演が行われました。概要を報告します。
 なお今回の概要は、講演会で配付された講演資料を編集担当が画像の挿入やルビをれ、講師の引原茂治氏の同意のもとに掲載するものです。参加者33名。

1、はじめに

 道の整備は、いつの時代にも必要な事業でした。その道によって、人や物、情報が行き交いました。日本では、7世紀中頃から8世紀にかけて、中国の政治体制である律令制を取り入れ、中央集権的な国家となりました。戸籍を作って国民個人を掌握し、税を徴収するなどの業務を円滑に行うため、地方行政機関を整備するとともに、それらをむすぶ官道の整備が必要になりました。f0300125_20272213.jpg 国内は、都が所在する畿内を中心に東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道の七道に区分され、都と地方を結ぶ官道が敷設されました。官道は、物資や情報・命令ができるだけ早く伝わるよう、最短距離になるように敷設されました。距離を縮める工夫として、できる限り直線的に計画されました。
 南山城地域には、古代の官道跡と考えられる道路遺構が確認されている遺跡があります。城陽市の芝山遺跡と八幡市の内里八丁遺跡です。
 芝山遺跡は、木津川によって形成された河岸段丘上に、内里八丁遺跡は木津川の沖積平地に位置しています。なお、官道は、起点が都であるため、都が移れば、官道でなくなることもあります。南山城に推定されている官道も、都が平城京から長岡京・平安京へと移転するにつれて官道ではなくなったと考えられますが、それでも主要な道路として機能していたものとみられます。また、官道以外にも、古代の道路遺構とみられるものが確認された遺跡がありますので、それも併せて紹介したいとおもいます。

2、古代道路が見つかった遺跡

(1)芝山遺跡
 城陽市寺田から富野にかけて広がる遺跡です。古墳時代から奈良時代にわたる複合遺跡です。この遺跡では、南東から北西に並行して延びる奈良時代の溝が3条見つかっており、官道の北陸・東山道の側溝と考えられています。溝と溝の間は12mと9.7mで、他地域で確認されている初期と改修時の東山道の道幅と一致するようです。
 この推定北陸・東山道の西側に隣接して、奈良時代前半頃の掘立柱建物群が見つかっています。東西棟の3間×7間の建物が中心建物とみられ、その周囲に大型の掘立柱建物が正方位に沿って整然と配されています。その中には、倉とみられる総柱建物もあります。このような建物群は、一般集落のものとは考えられず、官衙(かんが)的な性格を持つものと考えられます。出土遺物も、瓦や磚(せん)・土馬(どば)・斎串((いぐし)など、一般集落とは様相のちがう遺物が出土しています。
 この建物群の性格については、久世郡衙や駅屋など、様々に考えられています。道路遺構に近接しており、官道と係わりの深い官衙遺跡とみられます。これまでの調査範囲は、遺跡全体からみれば部分的であり、今後の調査で、その性格を物語る資料が見つかる可能性が考えられます。

(2)上狛北遺跡
 木津川市山城町に位置します。この遺跡では、正方位に沿って南北に延びる溝が約100mにわたって見つかっています。調査地の制約上、対となる溝が見つかっていないので、道路遺構と断定はできませんが、北側の里道の延長部分にあたるので、道路遺構の可能性が考えられます。この遺跡では、墨書土器や木簡などが出土しており、官衙的な施設があったと考えられます。

(3)森垣内遺跡
 相楽郡精華町に位置します。ほぼ南北方向に延びる側溝と考えられる溝が2条見つかっています。2条の溝の間隔は4.8mであり、官道ではないものとみられます。

(4)三山木遺跡
 京田辺市三山木に位置します。ややハの字状ではありますが、北西から南東方向に延びる2条の溝が見つかりました。奈良時代の溝と考えられます。間隔は6~8mです。官道の山陰・山陽道を踏襲すると言われる府道八幡木津線の方向に近く、官道の方向に沿った地割の溝の可能性もあります。

3、内里八丁遺跡

 八幡市内里にあります。弥生時代から中世にかけての複合遺跡です。弥生時代の水田跡が見つかったり、古墳時代の竪穴建物や古代の掘立柱建物跡や井戸などが見つかったりして、注目されている遺跡です。
 奈良時代の遺構として注目されるのは、道路側溝と考えられる溝です。奈良時代末頃に設けられた溝で、2条の溝が北西から南東方向に延びています。2条の溝の間隔は12mで、芝山遺跡で見つかった北陸・東山道の側溝と考えられる溝と、ほぼ同様です。9世紀中頃には幅員が5~6mに縮小され、10世紀頃まで存続していたようです。歴史地理学者の足利健亮氏が復元された山陰・山陽道の推定路線付近に位置することも重要な点です。
 平成15年度に行った第20次調査では、奈良時代から平安時代初期の、倉と考えられる掘立柱建物や井籠組の井戸が見つかっています。f0300125_20442568.jpg掘立柱建物は3間×3間の総柱建物で、柱穴は方形で、一辺0.6~1mと大きく、柱は直径0.4m前後とみられます。しっかりした建物と考えられます。井戸は角材に近い板材を井桁状に組み上げたもので、その内部に細い板材をホゾで桶状に組んだ内枠を設けています。宮殿や上級の役所などに設けられる例が多い井戸です。一般集落では設けられることは無いようです。この井戸からは、銅製黒漆塗の帯金具や「水」と書かれた墨書土器、皇朝銭の「承和昌寳(じょうわしょうほう)」(835年初鋳)などが出土しました。
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井戸枠材には、その位置と組み立て順を墨書したものがあります。また、付近の調査地では瓦も出土しています。このような状況から、奈良時代から平安時代初期頃の内里八丁遺跡は、一般集落とは様子が異なることがうかがえます。この遺跡の性格を考える資料となるのが、絞胎陶枕(こうたいとうちん)です。

4、内里八丁遺跡出土の絞胎陶枕

 絞胎は、唐三彩(とうさんさい)と同じく、中国唐時代につくられた焼物で、鉛釉を施した軟質陶器です。白色土と赤褐色土を練り合わせて縞状の模様を表しています。出土した絞胎陶枕は、練り合わせた陶土の塊を板状に切ったものを貼り合わせて箱状に成形しています。外面には黄色味を帯びた透明釉を施しています。内面は無釉です。器壁の厚さは4~5㎜です。小片ですが貼り合わせの痕跡が見られ、その状況から陶枕の側板及び天板の一部とみられます。f0300125_2059990.jpg 出土した遺構は、土師器(はじき)や須恵器((すえき)が多数出土しましたが、破損品が多く、一種の廃棄土坑、いわゆるゴミ捨て穴と考えられます。これらの土器は、古いものでは7世紀頃のものも含みますが、多いのは、8世紀中期頃のものです。この土坑から出土した土器は、その頃に捨てられたものとみられます。
 絞胎陶や唐三彩などの中国唐代に生産された鉛釉(なまりゆう)軟質陶器は、日本の各地から出土していますが、量的にはあまり多くありません。そのような中で、奈良市の史跡大安寺跡からは、三彩や絞胎の陶枕片が多数出土しており、量的には群を抜きます。日本で唐三彩や絞胎陶が出土する遺跡は、古墳、都城跡、寺院跡および宗教関連遺跡、官衙および官衙関連の集落跡などです。一般的な集落跡などからの出土例はほとんどありません。全国的にみて、都城跡や官衙および官衙関連の遺跡から出土する傾向がみられます。

5、奈良時代から平安時代初期の内里八丁遺跡の性格

 内里八丁遺跡の付近に式内社の「奈良御園神社」があります。その周辺に広がる上奈良遺跡は、「延喜式」巻三十九内膳司の条に記載されている「奈良園」の候補地とみられており、則天文字が書かれた墨書土器などが出土しています。園は、天皇家の食材などを生産する国営農場です。内里八丁遺跡の総柱の掘立柱建物や井籠組井戸などは、かなり上級の官衙に伴う可能性が考えられます。園には、それを管理する役所が設けられていたと考えられます。上記の遺構は、まさに宮廷に直結する上級官衙にふさわしいものと言えましょう。具体的に、奈良園に関連する遺物は出土していないので、断定はできませんが、可能性としては充分考えられます。また、この遺跡が、官道の山陰・山陽道と推定される遺構の付近に位置することも重要です。この道は、天皇家の食材をも運ぶ道であったとも考えられます。
6、まとめ

 南山城地域は、南から北に向かって流れる木津川を挟んで東西に分かれています。f0300125_2184174.jpg東側には、平城京から芝山遺跡・久世郡衙と推定される正道遺跡・宇治橋・山科へ至る北陸・東山道が想定されています。西側にはおなじく平城京を起点として山本駅推定地の二股・三山木遺跡・内里八丁遺跡・山崎橋に至る山陰・山陽道が想定されています。
 これらの道路推定地に沿って、今回紹介した遺跡が点在しています。それぞれ、官衙的な遺構・遺物が確認されています。木津川の水運とともに、官道や官衙が円滑な物流に利用され、古代国家の運営に大きく貢献していたものと考えられます。

『一口感想』より
 巾6m以上もの直線道路を整備し、さらに道路を横断する埋没管を施設するなど当時の大胆な計画と土木技術には改めて感心させられました。古代ローマのアッピア街道のように、物流だけでなく軍事行動を迅速に展開できるようにするために建設されたのだと思う。 (中井智久)
 一般の遺跡とは違って埋蔵物が少ない古道は発掘例が少ないと聞いていましたが、芝山遺跡や内里八丁遺跡等の平城京からの官道発掘成果は注目すべきと思います。
 講演では内里八丁遺跡の道路遺構は、古山陰・山陽道と説明されましたが、現在活動中の「八幡の歴史を探究する会」の専門部会『八幡の道探究部会』では、文献や地域研究家に聞き込み調査及び現地確認等により京田辺市大住三野の関屋橋付近で平城京からの古山陰・山陽併用道が分岐し、内里八丁遺跡は古山陰道と推定しています。これからも八幡地域の古道について調査探究を継続する予定ですので、引き続き宜しくお願い致します。 (高田昌史)


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by y-rekitan | 2016-11-20 11:00 | Comments(0)

◆会報第76号より-03 八幡の古代植物③

シリーズ「八幡の古代植物」・・・③
八幡に見る古代植物 (第3回)

古代植物研究会代表 大谷雅彦 (会員) 


ナギの木
漢字表記=梛、梛木、竹柏、椥、榊 他多数)
マキ科ナギ属の常緑高木、雌雄異株。針葉樹でありながら、広葉樹のような幅の広い葉をもつ。
 石清水八幡宮の正面(本殿)に向かって左側にある高木が「ナギの木」です。他にも境内で、樹木名の表示板の付いた「ナギの木」を見ることができます。f0300125_10465995.jpg
 わが国では、古来より、山、岩、森、大木等を信仰の対象としてきた歴史があります。現在でも各地にその名残を見ることができます。今回は、その中の一つとして神木として扱われてきたナギについて、民俗学的見地よりの調査・考察を記します。 
 ナギ(当初は榊と記した)は、日本の古神道や神話における信仰の場所に関わる樹木で、神にかかわる名称に、その名前が残されています。以下にその例を記します。
(ア)日本の神話に登場する古来神
  いざなぎのみこと  あわなぎのみこと
  つらなぎのみこと  なぎなみのみこと
等が登場するが、このなかで共通の「なぎ」の漢字表記に蕩・諾・名杵・那岐・那芸などがあてられている。
(イ)三種の神器の一つに「草薙の剣」があるが、この「なぎ」も関係があるとの説がある。
(ウ)全国には「なぎ」を表示する神社がたくさんある。
梛神社、諾神社、那岐神社、南木神社(ここは本来は楠のこと。なのに、ナギを神木としている)  
(エ)地名として「なぎ」が使われているところ(一例)
奈義、奈癸、奈岐、名義、椥(京都市山科区に椥辻の地名あり。山科区役所の道路側に椥は梛と同義語とする表示板がある)
(オ)他に、「なぎ川」「なぎ山」がある
 ナギの木は、特に平安時代あたりから人々の信仰を集めたようで、熊野詣でのときに、多く散見されます。

 梛の木は、紀伊半島、熊野の御神木とされ、その葉は、金剛童子(仏教徒の守護神で、阿弥陀如来の化身とされる)の変化身と考えられ、熊野三山(速玉大社・那智大社・熊野本宮大社)参りの帰途の安全を願い、ナギの葉を護符として袖や笠などに付けました。また、武士は戦場の兜や鎧に付けたといわれます。ナギの葉は、災厄避けのお守りとして使われたのです。
 熊野詣が盛んであった中世、参詣者は熊野三山それぞれにて先達(せんだつ)(熊野詣の案内人、山伏が務めた)から、ナギの葉を手渡されたそうです。これは、行程の安全祈願のためだそうです。当時は、一枚の葉に熊野の神様が宿ると信じられていたようです。
 一方で、古来よりナギ(梛)は凪(なぎ)に通じるとして、海の安全を司る木としても信仰されてきました。特に、漁師や船乗り達はナギの葉を災難除けのお守りとして身につけていたようです。f0300125_10503486.jpg
 また、ナギの葉の葉脈が縦方向のみにあるため、横方向に引っ張っても容易に切れないことから「縁が切れない」として夫婦円満、開運、縁結び等のお守りとしてあがめられてきました。昔、女性たちはナギの葉を鏡の裏に入れる風習があったようです。このようなことから京都や奈良の風習として娘を嫁に出すときは、親が密かにナギの木の葉をとってきて、嫁入り道具(主にタンスの中らしい)の中に、そっと忍ばせて嫁に出したと伝えられています。
 ナギは主に紀伊半島や伊豆半島に生育しますが、これらは紀元前に持ち込まれたものと考えられ、「史前帰化植物」とされています。
 熊野の速玉大社のナギの木は樹齢千年を超えるとされ、国の天然記念物に指定されています。奈良の春日大社にはナギの木の原生林があり、約千年以上前に植栽されたものと考えられています。なお、春日大社では「竹柏」と書いてナギと呼びます。春日大社では現在でも神事には榊(さかき)ではなく、このナギ(竹柏)を使っています。ちなみに、万葉植物園では竹柏(ナギ)の幼木が販売されています。
 滋賀県坂本にある日吉大社ではナギの大木が2本あり(雌木1本・雄木1本)、雌葉1枚と雄葉1枚をノシ袋に入れて夫婦円満、良縁祈願のしるしとして、幼木同様に販売されています。
 ナギの木は多くの神社で古来より神の宿る木=御神木として、境内に植えられたものです。現在までに私が見つけたのは以下の通りです。石清水八幡宮、春日大社、日吉大社、山科区役所、織物神社(交野市)、杉ヶ本神社(枚方市)、京都市内の熊野と名の付く神社3社全て。
 現在でも、熊野本宮大社から全国の熊野社へナギの木が送られているとのことです。他にも訪れた各地の神社でナギの木を見ることができると思います。

  ちはやぶる熊野の宮のなぎの葉を 
   変らぬ千代のためしにぞ折る 
  藤原定家
 
 以上のように、ナギの木は古来より多くの伝承物語のある樹木なのです。

【次回は、イチイの木について】 空白



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by y-rekitan | 2016-11-20 10:00 | Comments(0)

◆会報第76号より-04 五輪塔⑦

シリーズ「五輪塔あれこれ」・・・⑦
続 どこで造られたのか

野間口 秀國 (会員) 


 石清水八幡宮五輪塔が “どこで造られたのか” について前章に引き続きもう少し考えてみたいと思います。前章では、石材がどこから運ばれたのだろうか、について三重県伊賀市島ヶ原を一つの候補地として挙げましたが、他の地の可能性も考えてみる価値はあると思い調べを進めてみました。
 ところで、日本国内のどこに五輪塔が多くあるのか知ることも、どこで造られたのかを知る手掛かりになると思い、第5章で紹介しました河合哲雄氏のHP 『石造五輪塔紀年順 目次』(*1)を今一度確認してみたいと思います。このHPには237基の五輪塔が記載されていることを既に紹介いたしましたが、記載されている五輪塔がそれぞれの都道府県に何基あるのか、以下に整理してみました。(なお、地域区分とその地域に属する県名等は筆者の判断とさせていただきました。)

<地域区分>
北海道・東北地方
北陸・中部地方

関 東 地 方

近 畿 地 方

中国・四国地方

九州・沖縄地方

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<記載された基数>
青森・岩手・福島⇒各1、北海道・秋田・宮城・山形⇒0
静岡 ⇒ 5、 愛知 ⇒ 1
新潟・山梨・長野・富山・石川・福井・岐阜 ⇒ 0
神奈川⇒ 6、茨城⇒ 5、埼玉⇒ 3、栃木・千葉⇒ 各1
群馬・東京 ⇒ 0
兵庫 ⇒ 39、奈良 ⇒ 36、和歌山 ⇒ 33、京都 ⇒ 30、
大阪 ⇒ 20、 滋賀 ⇒ 9、 三重 ⇒ 2
広島・愛媛 ⇒ 各6、 山口 ⇒ 4、 鳥取・岡山 ⇒ 各2、
島根・香川 ⇒ 各1、 徳島・高知 ⇒ 0
大分 ⇒ 10、 熊本 ⇒ 6、 鹿児島 ⇒ 5、
福岡・長崎・佐賀・宮崎・沖縄 ⇒ 0

 上記の結果の要因はいろいろあると考えられますが、少なくとも以下のような事柄が分かります。更なる分析は今後機会が有れば進めてみたいとは思います。
1)27の府県(約60%)に存在し、残りの都道県には存在しない。
2)全体の70%超(169/237)が近畿地方に存在する。その他の地域では大分県の10基が目立つ。
3)北海道及び日本海側の各県(秋田・山形・新潟・富山・石川・福井)、内陸部の各県(岐阜・長野・山梨・群馬)に存在しない。
4)北部九州3県(福岡・佐賀・長崎)、および鹿児島・熊本を除く沖縄・九州・四国の黒潮流沿いの県(沖縄・宮崎・高知・徳島)に存在しない。

 さて、本題の石清水五輪塔に戻って考えてみたいと思います。f0300125_1154218.jpg前述のように近畿地方でこれほど多くの五輪塔が造られ、今でも数多くが見られる状況から、「どこで造られたか」にとどまらず、石材の調達や製作する石工集団の存在、発願者や資金提供者の存在などなど、近畿地方にはこれだけの五輪塔の造立を可能ならしめた複数の要因があったことは考えられると思います。また九州では、福岡・宮崎の両県では見られず、両県に挟まれた大分県では10基が確認できます。同県では今でも石仏や地蔵仏などが多く見られること、また宇佐八幡宮があることなども要因なのかと個人的に勝手な想像をしているところです。また、前章で石材の切り出し地候補として三重県伊賀市を挙げましたが、同県では2基しか確認できず石材供給地としてのみと考えることが妥当なのか、それとも石材供給地はここではないのかとも思われます。なお、私見ですが、「20都道県に見られませんが、これらの都道県に現在でも全く無いことを言っている訳ではない」と考えます。
 さて、石清水五輪塔は「どこで造られたか」を思う時、個人的には「これは石材供給地の近くで、五輪塔の各部位ごと(地輪、水輪など)に完成させたもの、もしくはそれに近い状態に仕上げられたものが運ばれた」のではないだろうかとの考えに至りました。そう考える理由は以下の通りです。
1つ目は; 運送効率が良いこと。
 水運利用であれ陸送であれ、大きくて重い素材のような状態での長距離運送は一般的に考えても労力(費用)がかかり、事故などの発生確率が高まると考えられること。
2つ目は; 量産性が高くて精度(品質)が確保し易いこと。
 大型の五輪塔造立の時代は比較的集中しており、類似した形状が多く見られます。このことからも、造る立場から考えた時にも、可能な限り同じ場所でまとめて造る方が効率面でも品質確保の面でも合理性が高いと思われること。
3つ目は; 近畿圏での人材確保が容易であったと考えられること。
 製造する技術者集団(石工)の確保は必須要件であり、初期段階では限りある人材の分散は避けるべきであったと思われること。なお時代が下ると、製造技術も各地に伝搬され、それに伴って人材確保も比較的容易になったことは考えられます。
4つ目は; 調べている中での歴史的な具体事例の記述との出会いです。
 史跡 “江戸城石垣石丁場跡” に関して、「江戸城の石垣に用いられた硬質安山岩の産地が西相模から伊豆半島であり、ここの石材が選ばれた理由は、石垣に適した材であり、比較的江戸に近く、船で石材を運べること」と書かれてありました(*2)。この記述を読むと、まさに前述の1から3までの理由を具体的事例に当てはめて書かれたように思えたのです。 また、理由を示す具体事例には適合しないかもしれませんが、古くは、市内の茶臼山古墳より発見された石棺に関して「九州の石材(熊本県宇土半島から八代平野の産)であり、宇土で製作され、瀬戸内海を東上し、橋本の地に至って・・・」と書かれている事例もありました(*3)。f0300125_11593849.jpg
 それでは「近くの石材供給地は一体どこだったのだろう」が次なる問題ですが、距離的な観点では現在の「京都市東山の白川近辺から」が最も近いと思われます。白川は風化した花崗岩が流れ下る水によって運ばれ、川底に白砂を敷きつめたかのような様からその名前がついたとも言われているようです。比叡山の麓にある修学院離宮近くから比叡山山頂をめざす登山道でもある「雲母(きらら)坂」の名称も、そのいわれは比叡山の花崗岩の雲母であるようです(*4)。このように、雲母坂沿いの音羽川や白川の上流地域はかつて花崗岩の岩山(石切り場)があった地域なのです。石材供給地は、この京都白川、山城南部の加茂(木津川市加茂町)、三重県伊賀市島ヶ原、香川県高松市庵治など複数の説があるようですが、現在まで石清水八幡宮五輪塔が造られた場所を証明する史料に出会うことはできず、場所の特定にも至っておりません。これからも何らかの史料の発見されることを待ちたいと思います。

参考図書・史料・資料など;
(*1) 『石造五輪塔 紀年順 目次』 河合哲雄氏のHP(2014/09/25に確認)
(*2)『発掘された日本列島 新発見考古速報 2016』 文化庁編 共同通信社刊
(*3)『図説 発掘が語る日本史4 近畿編』 水野正好編 新人物往来社刊
(*4)2016.8.23日付け 京都新聞記事
(次号につづく) 空白



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by y-rekitan | 2016-11-20 09:00 | Comments(0)

◆会報第76号より-05 詩歌と八幡の歴史④

シリーズ「詩歌に彩られた八幡の歴史」・・・第4回
都名所図会と八幡讃歌

 土井 三郎 (会員) 


画期的なガイドブック

 『都名所図会』は、安永9年(1780)に京都の吉野家為八という書林(出版者)から刊行されました。著者は秋里籬島(あきさとりとう)、さし絵は竹原春朝斎です。大本(おおほん)というゆったりした判形で、鳥瞰図という新鮮なさし絵が人気をよび、名所図会のはじまりを告げるものとなりました。平易な文章に和歌や発句を適宜挿入し、有名社寺の紹介をはじめ、名所旧跡にまつわる伝説や風俗習慣、年中行事まで細かく説明されています。特に、社寺の鳥瞰図や風俗・祭礼図を多数掲げていることは、当時の京都を知るうえで手掛かりになるばかりでなく、娯楽性に富んだ地誌案内記として高く評価されています。
 批判すべき点が少なくないことも事実です。例えば、庭園や社寺の由緒縁起等の説明について誤りがあり、引用和歌中にもしばしば間違いがあるのです。しかし、前者について、社伝や寺説を批判・検討しないまま記述されているのは、当時において絶大な権力をもつ門跡寺院や大きな社寺の説を無視し、自説を述べることはきわめてむずかしかったことを考慮すべきであり、後者については、写本のごとき多くの人手によってできた書物から、写しあやまりがあるのは当然のことであり、絶対正確を期待する方が無理というべきであるとの指摘がされています(※1)。
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松と月

 『都名所図会』は六巻・六冊で構成されており、八幡は、第五巻の冒頭から収められています。まず、八幡宮参詣の折の土産の紹介に始まり、神宮寺、御旅所(おたびしょ)(頓宮)など山下の概要、石清水八幡宮本社(山上)の景観を見開きにして計7頁の挿絵で示し、後は本文にて八幡宮の成立や堂宇・僧坊の概説をし、放生会について再び2頁とって挿絵と添え文にて解説するというものです。そして、それらの中に和歌がちりばめられているのです。          
 
     
       能連法師・千載和歌集
  石清水きよき流れの絶えせね
   宿る月さえ隈(くま)なかりける

       摂政太政大臣・新後撰和歌集
  やわた山さか行く神のめぐみとて
   千代ともさゝし峯の松が枝
                   ※2
       後鳥羽院・新続古今和歌集
  やわた山跡垂れ初めししめの内に
   なお万代(よろずよ)と松風ぞふ
            
       後久我太政大臣・続後撰和歌集
  なお照らせ代ゝに変らず男山
   仰ぐ峯より出づる月影
     
       貫之・続古今和歌集
  松も生(お)ひ又も苺(こけ)むす石清水
   行末とおく仕へまつらん
  
 石清水に関連する和歌は9首掲載されていますが、その内、上記の和歌はすべて「松」と「月」が詠み込まれています。元禄期以降、俳諧や和歌、漢詩に詠まれた「八幡八景」は、男山・極楽寺・猪鼻坂・放生川・安居橋・月弓岡・橋本・大乗院の8つの景勝地が選ばれていますが、男山は松を読み込むのが決まりになっています。また、文久年間(1861~63)に発行された『淀川両岸一覧』には其角(きかく)の発句「新月やいつを昔の男山」が掲載されている(※3)のはご承知の通りです。まさに、男山は松と月が似合う景勝地であったのです。

跡垂れて

 石清水八幡宮の神徳を讃える歌として印象深い和歌があります。先に示した後鳥羽院(1180~1239)の歌です。
  やわた山跡垂(あとた)れ初(そめ)ししめの内に
   なお万代(よろずよ)と松風ぞ吹く

 この和歌には詞書(ことばがき)があり、「建仁元年(1201)十二月石清水社歌会に」とあります。後鳥羽院が石清水に行幸し、12月の歌会にこの歌を詠んだというのです。
「跡垂る」とは何でしょうか。『広辞苑』によれば、「垂迹(すいじゃく)の訓読語とし、仏・菩薩が神となって我が国に現れる。玉葉集「一つにぞ世をまもるらし跡垂るるよもの社の神の心は」」と用例まで示されています。要するに、本地垂迹(ほんちすいじゃく)を指すことばなのです。従って、上記の和歌を意訳すれば、「八幡山では、仏の仮の姿である神が初めて神域(注連 しめ)に現れ、なお、万世に讃えられるように松風の吹いていることだ」となるでしょう。なお、「迹」は「跡」と同意です。
 周知の通り、石清水八幡宮は、江戸時代までに「八幡宮寺」と呼ばれた宮寺です。つまり、神であり、仏である八幡大菩薩が鎮座する神社であり寺院であることを高らかに歌い上げた和歌なのです。
 ちなみに、「跡垂る」を読み込んだ歌を調べてみました。

      法印行清・続拾遺和歌集
  をとこ山あとたれそめし袖の上の
   ひかりとみえてうつる月かげく

      入道二品親王道助・新続古今和歌集
  跡たれて千世ともさらにいはし水
   ちかひし末ぞ今はかはらぬ
 
 「法印行清」は石清水八幡宮第39代別当行清その人なのでしょう。それにしても、「跡垂れ」「跡垂る」神社として石清水八幡宮寺が鎌倉期以降の歌人によって認識されていたことは特筆すべきことでしょう。朱塗りの社として知られる春日大社以上に、石清水八幡宮は神仏習合=本地垂迹の神社として人々の目に映っていたのです。

祭礼を詠う

『都名所図会』「八幡編」に詠まれている歌に、石清水の祭礼を讃える歌があります。

       知家・新六帖
  男山秋の今日(けふ)とや契りけん
   河瀬に放つ四方(よも)の鱗(うろくず)
          
 「河瀬に放つ鱗」でおわかりの通り、これは放生会を詠んだ歌です。もちろん、「秋の今日」は旧暦の8月15日です。ちなみに、放生会の挿絵に添えられた文章を紹介してみましょう。
f0300125_20231472.jpg
 「八幡の放生会は毎年八月十五日の未明より下院神幸ありて同日七ツ時還幸し給ふ也 十六日には放生川の汀(みぎわ)へ社僧出(いで)てもろもろの魚鳥を放ちたまふ 此両日は遠近(おちこち)より詣人群集す 宿院のほとりには芝居放下師いろいろの物売出て尺地もなく市となすハ神慮のめぐみなるべし」
 「放下(ほうか)師」とは、「放下僧」のことで、「放下(ほうか)」とは、中世・近世に行われた芸能の一つ、小切子(こきりこ)を打ちながら行う歌舞・手品・曲芸などの芸、また、それを専門に行う者。多くは僧形であったが、中には頭巾の上に烏帽子をかぶり、笹を背負った姿などで演ずるものもあったとのことです。
 添え文に、「十六日には放生川の汀へ社僧出てもろもろの魚鳥を放ちたまふ」と放生会が2日間にわたって行われたとあります。文政3年(1856)発行の『男山放生会図録』にも、「翌十六日は山上の僧衆ことごとく集会して放生川に魚鳥を放ち供養執行あり」と述べていることでも確認できます。現在は、9月15日の深夜3時ごろに神幸があり、放生川にて魚鳥を放つ祭事は、同日の午前8時ごろから始まります。そしてその日の夕刻に還幸の儀があり、石清水祭(放生会)は一日で終了します。ところが、江戸時代には、15日・16日の両日にまたがって祭事が行われたようです。
 祭礼を詠んだものには、次の歌があります。

      石清水りんじのまつり
      (定家・新勅撰和歌集)
  河瀬に放つ四方(よも)の鱗(うろくず)
   大宮人のかざすさくらは

 詞書に「石清水りんじのまつり」とあるように、これは臨時祭を詠ったものです。石清水八幡宮の臨時祭は、天慶5年(942)の平将門・藤原純友の乱を平定する祈願が成就したお礼として天禄2年(971)より恒例化され、3月中の午(うま)の日に勅使(ちょくし)(天皇の名代)の臨席のもとに行われました。藤原定家の歌にある「大宮人」(朝廷の役人)も「かざす桜」もそのことを意味しています。通例、祭幣・歌舞・走馬などが奉納されるとのこと。12歳で元服したばかりの平清盛が石清水臨時祭で舞を奉納したことが知られています。

疫神詣(やくじんもうで)

 『都名所図会』は、「ゆったりとした大本(おおほん)の見開きいっぱいに広がった鳥瞰図」が人目をひき、八幡編では、「数丁にわたるパノラマ画面」を使って石清水八幡宮を3丁(6頁分)の一連の絵に紹介しています(※4)。f0300125_20292945.jpg
 中でも、下院の図を見ると、頓宮殿の名称が「疫神堂(やくじんどう)」(御旅所疫神堂)とあり、その隣の、今は斎館と呼ばれているところに立派な極楽寺(阿弥陀堂)が建っています。まさに神仏習合を象徴しているようです。            
 「疫神(やくじん)」とは何でしょうか。名所図会の当該の文章を読めばわかります。
「一鳥居の南廊下の内にあり 此所八幡宮御旅所也 疫神ハ正月十九日一日の勧請也 延喜式に曰 山城と摂津の疫難を払ふなり 土産には蘇民将来(そみんしょうらい)の札(※5)・目釘竹(※6)・破魔弓(はまゆみ)・毛鑓(けやり)(※7)等を求めて家に納め邪鬼(じゃき)を退くなり」
 この文章から次のことがわかります。
ここは、八幡宮の御旅所(=頓宮)である。
疫神は、正月19日に(本殿から)勧請(かんじょう)される。
(石清水に疫神が祀られるのは、)山城と摂津の国境にあり、ゆえに疫難を払う場所だからである。
土産である蘇民将来の札、目釘竹(めくぎたけ)、毛鑓等は各家々に納められ、邪鬼を払ってくれる。
 注目すべきは、③だと思います。石清水八幡宮は、山城と摂津の国境に建てられたということ。しかも、山城は平安京の名の通り、王宮の聖地です。何としても「疫難」の侵入を阻まなければなりません。そこで、疫難を払(祓)うことが、殊に近世において盛んになったということなのでしょう。
 今でこそ、どこの神社でも疫を祓うことが行われていますが、山城・摂津の国境にある石清水こそ、疫難を払うにふさわしい神社であったというのです。ちなみに、『日本国語大辞典』で「疫神詣(やくじんもうで)」を調べると、次の文章が現われます。「その年の厄を払うため、疫神をまつった疫神社に参詣すること。特に、京都石清水八幡宮の境内に勧請した疫神に、正月十九日に参詣するものは古来名高い。」
 今でこそ、正月19日に厄を祓いに石清水を参詣することは少なくなりましたが、この日、頓宮殿の前庭にて「青山祭」と称する神事が毎年行われています(※8)。まさしく、疫神信仰のメッカが石清水八幡宮であり、在り続けているのです。
 (次回は、「近世八幡庶民の雑排ブーム」を予定)空白

(※1)『日本名所風俗図会』第7巻(角川書店)、解説「秋里籬島と『都名所図会』」
(※2)摂政太政大臣(藤原良経)のこの歌は、『新後撰和歌集』に収録されていません。『国歌大観』の勅撰和歌集編を調べればわかります。おそらく、転記した際に間違えたものと思われます。
(※3)拙稿「淀川べりの俳諧二句」(会報73号)
(※4)伊東宗裕「地誌に見る八幡」(会報54号)
(※5)疫病除けのための護符。家々の門口に「蘇民将来子孫の宿」と書いて貼ったり、木製六角形の棒に「蘇民将来」などと書いて、社寺で小正月に分与したりする。
(※6)目釘としている竹。乾くと緩み刀身が抜けることがあるため、太刀打ちの前に湿す。
(※7)先端のさやを鳥の羽毛でかざった槍。大名行列の先頭などで槍持ちが振るもの。
(※8)青山祭については、竹中友里代「島村家神札・護符等の版木と青山祭祭壇図」(京都府立大学文化遺産叢書第3集『八幡地域の古文書と石清水八幡宮の絵図-地域文化遺産の情報化-』に詳しい。
                



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by y-rekitan | 2016-11-20 08:00 | Comments(0)

◆会報第76号より-06 三宅碑⑦

《続》 1月度の講演会より

『三宅安兵衛遺志』碑と八幡の歴史創出
その7

―松花堂・東高野街道・天皇聖蹟・綴喜郡―

中村 武生  (京都女子大学非常勤講師)



京都帝国大学考古学教室、及び国史教室との接触

 なお西村邸内には古墳が存在していました。東車塚古墳です(前期古墳、前方後円墳)。1897年(明治30)12月9日などに、前方部および後円部のそれぞれの主体部が発掘され、舶載鏡及び仿製鏡四面、硬玉製勾玉二個、刀身及び剣身数口、斧頭、鉄鏃、甲冑などの遺物が出土しました。西村は発掘当時、「此工事を親しく監」したようで、それがきっかけかと思いますが、その後も古墳やその出土品には強い関心をもち、八幡やその近郊の古墳が発掘されると、現地へ赴き、さまざまな手段を講じて遺物の収集を行っています。
 例えば1915年5月に偶然発見された茶臼山古墳(消失)出土の舟形石棺をのち入手し、自宅前に陳列していたことがあるほか、「美濃山ノ古墳」の円筒埴輪片なども採集しており、1919年ごろ京都府史蹟勝地調査会調査委員として八幡やその周辺の調査を行った京都帝国大学考古学教室の梅原末治によって「嘗て八幡町の西村芳次郎氏ノ其破片ヲ蔵セルヲ実見セル」と報告されています。
 また荒坂横穴の遺物収集も行い、1926年9月26日、来日中のスウェーデン皇太子で考古学者のグスターヴ・アードルフへ「土器二十余点」の寄贈を申し出たため、濱田耕作の計らいで当人に拝謁したことがありました。そのような縁で、京都帝国大学の国史学教室及び考古学教室と浅からぬ関係をもつことになりました。その後の両教室関係者の八幡史蹟調査には自宅を提供したほか、西田直二郎ら一部の教員や教室員たちとは私的にも交流したといいます。

西村芳次郎の著作

 西村が発表した郷土史の著作には、『八幡松花堂栞』(1929年、私家版)や、当時京阪電鉄の観光用の定期刊行物『京阪新聞』に連載した「八幡史蹟名勝記(誌)」「南山史蹟名勝誌」のほか、未定稿の「昭和三年八幡史蹟名勝誌」「八幡松花堂記」(1935年6月)などがあります。これら著作についてはのちに改めて述べます。

西村芳次郎への建碑委託

 西村芳次郎と三宅碑の関わりは、「日記」に散見されます。以下「日記」によって、具体的に述べて行きます。初見は、1926年(大正15)8月2日条である。少し長いですが全文引用します。
八月弐日、快晴、故父上遺言ニ依る、京都市の為めニ有益なる、事業の資ニ寄附すべき、建石の設置の場所を探すべく自動車ニて午前七時三十分出発す、同行者小西大東氏、北岡米次郎氏、石匠、中村善一氏、及ヒ余の四人也、路、師団道路を伏見ニ出で、観月橋を経て、巨椋池を過ぐ、時ニ蓮花の盛りなり 新田、長池、玉水を経て木津の大橋打渡り、綴喜郡田辺、字薪の酬恩菴(一休寺)ニ到り和尚ニ面会、建石の事を告げ、一休和尚の廟を拝し寺内を観覧、更ニ、志水の西村芳三(ママ)郎氏邸ニ松花堂の遺跡を見、小憩、建石の事ニ付き同氏の東道ニて円福寺、昌法寺、男、女塚、女郎花塚、頼風塚、涙川、紅葉寺、八角堂、男山神応寺、忍徴寺、律寺、洞ヶ峠、経塔、ヒキメの滝等を見て、今般新設の石清水、ケーブルをも見て、午後五時三十分、鳥羽街道を経て錦丹栄ニ着、晩餐を振舞、決別、午後八時帰宅す 
但し中飯ハ車中、サンドイッチを食す
 三宅清治郎が小西大東(歌屋翁)らともに「建石の設置の場所を探す」ための小旅行を行った日の記事です。綴喜郡薪村の酬恩菴(一休寺、現京田辺市)に建碑を決めたのち八幡の西村邸を訪れ、「建石」を前提として、八幡と近郊の史蹟(社寺をふくむ)約一五ヵ所を西村に案内されています。これ以前の条には全く西村が登場しないため、これまでの清治郎と三宅の交流の具体をはじめ、どういう経緯でこの日の西村邸訪問が実現したのかなど詳細は不明です。
 次に西村と建碑に関する記事が現れるのは、同年10月23日条です。「午後、舎弟井上万蔵と倶に城南八幡町、西村芳三(ママ)郎氏方ニ赴き、此地方の建石ニ付き曩に取調らべたる内、第壱期として、廿ケ所ニ標石を建つる様ニ決定す」とあり、八幡付近の二〇碑の建立を西村に任せたことがわかります。これまで建碑のスタイルからすれば、一度に二〇基もの建立が決定したことはもちろん、第三者に建碑を一任した例もありません。全く異例のことです。しかしこの新スタイルはその後も継続します。
 半年後の翌1927年(昭和2)3月12日条にも、「城南八幡志水の西村芳次郎氏来宅、石匠中村善市同道、同地附近曩ニ廿ヶ処の建石を為せしが、更ニ四十余ヶ所の建石を申来らる」とあり、新たに四〇余基の追加建立が西村より提案されています。
 さらに同年4月3日条にも「午前、城南八幡、西村芳太(ママ)郎氏来、曩日建設せし名所古蹟の建石の分同地ニ六十八ヶ所の、新建設を調査し、依頼ニ来らる」とある。これがどの程度現実に反映されたのか、すなわち清治郎がすべて承諾したのかは「日記」からは見出せません。が、現存碑の状況から勘案して、おそらくほとんど現実化したものと思われます。f0300125_189476.jpg
 以上の事実から、前述した疑問、すなわち1927年以後、突然建碑が増える理由は明らかにされます。西村に建碑の委託をしたためです。
 西村は同年11月11日にも清治郎を訪れ、「水無瀬宮の碑外数ヶ所建石の事申込」んでいます。水無瀬神宮は1873年(明治6)の創建(前近代には寺院として存在)の、後鳥羽上皇を祭る神社です。これは京都府ではなく、大阪府に位置します(三島郡島本町)。父の望んだ京都府から外れているのです。しかし『木の下蔭』所収「建碑個所」表に記載されているため、これは実現したと思われます(3基)。碑そのものは全く行方不明であるため、対象地のある大阪府下であったのか、道標の形を採って京都府下に建設したのかは分かりません。この点は重要なので後述します。
 八幡を中心とする綴喜郡域に、その後も多数の建碑がなされたことは現存碑によって明らかですが、「日記」からはあまりその経過を知ることができません。西村主導による建碑の逐一には、清治郎は関心を示さなかったのでしょうか。
 西村に委託したとはいえ、清治郎自身が建碑をしなくなったわけではありません。「日記」によれば、清治郎自身による建碑も変わらず続けられていました。同じく1927年の8月16日、清治郎は石工中村寿山を随えて京都府乙訓郡へ向かいます。同郡向日町字森本の小山源三郎の同道で、「長岡京ノ大極殿遺趾、并ニ向日大明神、向日町、善峯寺の分岐道の数ヶ所、粟生、光明寺、并ニ長岡天神、大原野神社、等の石碑、道標を建設すべき箇所を探査」しています。
 そののち嵯峨へ移動し、大覚寺門前に住む小西大東の同道で、同じく同門前に住む名望家で嵯峨町長の小林吉明を訪問しました。そして「仇(ママ)し野念仏寺、祇王寺、落柿舎、野々宮、等の建石を要すべき所を視察」しています。小林吉明は町長などとして地方行政に携わる傍ら、地域振興のため史蹟名勝などを啓発し、共同で嵐山温泉や嵯峨遊園などを営みました。近年は「嵯峨・嵐山の観光先駆者」などとして評価されています。また桂陰と号する俳人でもあり、実は嵯峨には小林揮毫の一九二八年建立銘のある三宅碑が存在しています。このときの訪問がそれにかかわる可能性があります。三宅碑銘が当初より多く名士の揮毫に拠っていることは、すでに述べました。名士の揮毫を受けることは事業の箔付けだったのでしょう。古墳を含む史蹟に、濱田青陵や西田直二郎という、京都帝国大学の考古学および国史学教室の教員の揮毫があるのは、彼らと親しい西村が清治郎の希望を叶えたのかも知れません。
 当該事業の最後にして最大の建碑が「西陣」碑です。西陣碑はほとんど唯一といってよい銘文をもったものでした。
西陣織業界にいる清治郎にとって、これは特別意味のある事業であったようです。すでに碑銘などによって京都帝国大学総長荒木寅三郎が揮毫し、同大国史学教授三浦周行が文章を撰んだことが明らかですが、その経緯について「日記」に詳しい記載があります。
 1928年11月4日、陶工宮永東山の斡旋で、清治郎は西村芳次郎をともない、相楽郡瓶原村(現木津川市加茂町)へ隠居していた、元京都帝国大学教授内藤虎次郎(湖南)を訪ね、揮毫の依頼をしました。しかし「先生曰ク漢文ナレバトモ角、仮名交リナラバト」内藤に断られ、同月六日、その紹介で前記荒木寅三郎のもとに出向き、さらにその紹介で三浦周行が文章を書くことになりました。三浦の脱稿が大変遅れたため、実際に建碑され除幕をしたのがまる一年後の1929年11月です。
 後述しますが「日記」にはこの年の上半期に建碑終了とあります。それは西陣碑をもって終幕するという意識があったためと思われます。あるいはこれで亡父から託された資金を使い果たしたのかも知れません。f0300125_18201424.jpg
 不思議なことですが、西村は事業終了の連絡を受けていなかったようです。12月13日、西村は清治郎のもとを訪れ、「同家の石碑、弐千年前の塚の分三本建立依頼」をしました。これに対して清治郎は「既ニ故父上の遺志たる分は上半期ニて〆切りたる」が、「同氏が城南附近之建石ニ尽力不□る廉を以て余の私費を以て建立す」ることを約束しています。
 ただし「日記」や現存碑を見ると、その後も宇治田原町の田原親王社(大宮神社)や山滝寺跡など、一部の建碑は続いたようです。しかしそれはむしろ例外で、1932年6月、13回忌に関係者に配布した両親の追悼録『木の下蔭』の刊行をもって全くこの事業は終わりを告げました。
(つづく)空白

【注:原則、典拠を省略しています。詳細は近刊予定の中村武生「一九二〇年代、京都府南部における建碑と史蹟空間の創出―「三宅安兵衛遺志」碑と城南八幡の郷土史家西村芳次郎―」(『歴史地理史学』第1号、特定非営利活動法人京都歴史地理同考会)をご覧ください。】

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by y-rekitan | 2016-11-20 07:00 | Comments(0)

◆会報第76号より-07 文化祭展示発表

第44回八幡市民文化祭展示発表を終えて
―展示会場:八幡市文化センター3階ロビー―

八幡の歴史を探究する会  「八幡の道探究部会」


 2016年10月29日、30日の二日間、八幡市の文化センターにて例年通り市民文化祭の展示発表がありました。f0300125_9334655.jpg各市民サークルの力作が展示発表される中「八幡の歴史を探究する会」からは昨年発足した専門部会の「八幡の道探究部会」が中心となり『八幡の古道』を展示タイトルとして発表しました。
 展示内容は 1.古地図5枚、 2.古道地図2枚(写真6点)、3.江戸時代の道標地図2枚 (写真27点)で、当日は道部会の担当者や歴探の幹事が中心となって説明にあたりました。

1.古地図5枚の内容を簡単に説明します。

平安時代の地図である「花洛往古図」、平安時代から鎌倉時代の京の都や八幡が描かれ道や川の繋がりがよく判ります。
f0300125_9434399.jpg
『織田豊臣時代の古図』は「古文書の会八幡」から提供されましたが、この古図には織豊時代に復活した「山崎橋」が描かれています。
「山崎橋」附近の拡大図も添えました。
『山城州大絵図』は京田辺市在住の個人から提供されました
安永7年(1778)、江戸時代中期の絵図で彩色が施された古図です。
『山城国南三郡古図』、これも江戸時代のやや大型の古図で手書きで彩色が施されています。
『山上山下惣絵図』は「石清水八幡宮全図」として中井家文書に残る絵図ですが、石清水八幡宮を中心とした江戸時代中期の八幡八郷の全図です。
 地図好きにとっては思わず時間を忘れます。

2.古道地図2枚の内容を簡単に説明します。
(以下の地図はいずれもクリックで二段階に拡大表示されます)
(1)古道ルート図
f0300125_2148535.jpg
 『奈良時代の八幡の古道』と題して古山陰道と古山陽道を地図上に示しました。京田辺市大住の関屋橋分岐点から淀方面に延びる古山陰道では内里八丁遺跡の様子を向日市の「京都府埋蔵文化財調査研究センター」から提供されたパネル写真2枚で展示しました。今では高速道路が走り跡形もなくなりましたが、貴重な2枚の写真パネルでした。
 一方、関屋橋で分岐した古山陽道は美濃山廃寺、志水廃寺、西山廃寺をかすめて楠葉に到り、橋本の山崎橋までのルートを図示しました。
 今回、道部会の全員で京田辺市大住の現地聞き取り調査を行った結果、古山陰道、古山陽道の分岐点が手原川の関屋橋であるという有力な情報を現地の郷土史家から得ることができました。

(2)中世から近世の 男山周辺の道
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 中世、近世当時の比較的大きな道として現存しているルートを図示しましたが、古図や絵図によれば小さな道が沢山あったことが分ります。近隣にお住いの方々からはここにも道があった、この道はこうなっているなど貴重な証言もいただきました。

3.江戸時代の道標について簡単に説明します。

 江戸時代の道標27カ所の写真とその位置を示す地図を2枚展示しました。
f0300125_21545333.jpg
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 江戸時代に製作された道標には地蔵像や役行者像の肉彫りされたものも多く、調査をした道部会の会員もそれらの道標の美しさにまず感動しました。
 八幡の道標調査の過程で大阪府下の高野道の道標調査を行ったときは、やはり地蔵像や観音像等素晴らしい個性的な道標の数々を目にしていました。
 八幡には昭和初期に建てられた三宅安兵衛碑が89基確認されていますが、その殆んどが角柱仕様です。八幡及び周辺の江戸期の道標には大阪府下の道標と同じく地蔵像や役行者像が肉彫りされたもの、舟形光背を持つ地蔵道標、墓石に道案内を彫った墓石道標などが多く確認され、道標からも八幡の歴史の奥深さを感じずにはいられません。
 f0300125_11352511.jpg特筆すべきは下奈良井関墓地入口の「往生礼讃道標」で、善導大師の「往生礼讃」の一節が刻まれ、正面には「阿弥陀三尊と僧形4体」が肉彫され、その内、僧形2体は善導大師と法然上人です。
 次に美濃山の「指さし地蔵道標」です。普通、錫杖を持つ右の手が「八はたへこれから」の文字を指さしていました。この様な地蔵道標は初めてです。
 三つめが『石清水八幡宮鳥居通御幸道』の「正徳3年道標」です。平成21年(2009)末頃迄御幸橋南詰にありましたが、「御幸橋」付け替え工事に伴い撤去され、保管先が分らなくなりました。色々捜しましたが結局、八幡宮に保管されてあることが遂に分かりました。早速、西禰宜さん立会いの下、頓宮内裏庭に入り、道標の覆いを取ると、そこには文字の最後に「御幸道(みゆきみち)」の文字が彫られてありました。『男山考古録』に「正徳3年(1713)、石清水八幡宮鳥居通御幸道という標碑を建てられたるは、検校新善法寺行清法印也」とあり、山上山下惣絵図や石清水八幡宮境内全図(重文)に「御幸道」と共に「正徳3年道標」の位置も記載されています。折損の為、御幸道の部分がコンクリートによって塗り固められていた為、御幸道の文字が隠れていましたが、紛れもなく「正徳3年道標」であることが確認されました。

これからの「八幡の道探究部会」の活動について

 文化祭の2日間は沢山の人々に「八幡の古道」に関心を持っていただきました。
中には早速、現場へ道標確認に行かれた方が何人か居られました。展示の道標の位置を表した地図を欲しいと言われる人が数十人もおられ、関心の高さに驚いた次第です。f0300125_116508.jpg
 今回展示した地図に入りきらない「八幡宮」への道標が数基ありますが改めて別の機会に紹介したいと思います。
 なお、「八幡の道探究部会」は、今回1年間の活動成果の古代~江戸時代までを展示発表しましたが、引き続き毎月部会を開催し活動は継続する予定です。  
by y-rekitan | 2016-11-20 06:00 | Comments(0)

◆会報第76号より-end

この号の記事は終りです。


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by y-rekitan | 2016-11-20 01:00 | Comments(0)