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◆会報第77号より-top <スクロールだけで全記事が読めます>

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
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◆シリーズ:“心に引き継ぐ風景” ⑧◆
◆《歴探ウォーク》八幡の古寺巡礼④◆
◆シリーズ:“八幡の古墳と鏡” ①◆
◆シリーズ:“八幡に見る古代植物” ④◆
◆シリーズ:“五輪塔あれこれ” ⑧◆
◆シリーズ:“詩歌に彩られた八幡の歴史” ⑤◆
◆大阪府下の東高野街道に「やわた道」の道標を訪ねて◆
◆歴探サイト(ホームページ)の現況報告◆



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by y-rekitan | 2017-01-20 15:00 | Comments(0)

◆会報第77号より-01 文殊菩薩像

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心に引き継ぐ風景・・・⑧
八幡の石仏さん・文殊菩薩像
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  石仏と言えば八幡森の「夜泣き地蔵」と呼ばれる等身大の石仏がよく知られるところですが、古くから「八幡宮道」、「志水道」と呼ばれる道から正法寺の南門を抜けて西に登れば、ひと際存在感を放つ石仏があります。高さ1メートルの「文殊菩薩」の石仏です。一瞬、騎乗の「将軍地蔵」かと思いましたが、右手に知恵を象徴する宝剣を、左手に経典を乗せた蓮華を持って、獅子の背の蓮華座に乗って結跏趺坐する姿は正しく文殊菩薩です。
 年月を経て肉彫りの像は摩耗し、どの時代のものか、右肩辺りにかすかに文字の痕跡を残すものの全く判りません。
 文殊菩薩は釈迦如来の脇侍として白象に乗る普賢菩薩と共にお寺では時々見掛けますが、なぜ、ここ清水井(志水)に文殊菩薩の石仏が置かれたのか、はたして対となる普賢菩薩の石仏は今も何処かに存在するのか、想像が膨らんできます。
 石仏から西方向に登ってゆくと、随分と急勾配の崖が現れ、切通しと呼ばれる古い道もこの近辺にあって、男山美桜、楠葉方面に向かいます。
 「昔は子供も老人も沢山居て、土産屋さんが出るほど地蔵盆を盛んに行っていましたが、」とお年寄が語ってくれました。周辺の沢山の石仏と共にみんな地蔵さんとしてお祀りされています。
(写真と文 谷村 勉) 空白
  
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by y-rekitan | 2017-01-20 12:00 | Comments(0)

◆会報第77号より-02 八幡古寺巡礼4

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《歴探ウォーク》
八幡の古寺巡礼
― 第4回 男山山麓の寺を巡る(Part3) ―  

2016年12月 八幡市内 にて
高田 昌史 (会員)

 恒例となった歴史探訪ウォークの古寺巡礼は、昨年に引き続き「男山山麓の寺を巡る」Part3として、12月8日に第4回を実施しました。
 当日は46名と多くの方の参加がありました。その概要を報告します。

第4回古寺巡礼コースの概要

 f0300125_1142218.jpg八幡市駅前で受付をしてから、さざなみ公園の安居橋前に集合し、配布の「しおり」によるコースの概要説明と移動時の注意事項をお話してから出発しました。右図にコース図を示しましたが、今年の巡礼のコースは八幡市駅から近い東南方向の3古寺を巡りました。
全歩行距離は約2.5kmと短く訪問先の寺院での時間を十分確保できる見込みで、最初の訪問寺の法園寺に向かいました。

1.法園寺(律宗)

 f0300125_11594784.jpg安居橋前を出発してから、15分足らずで法園寺に到着です。法園寺では、法類の善法律寺松浦康昭住職が通用口を開けてお待ちいただきました。
 先ず境内で法園寺の概要説明をお聞きしました。
法園寺は鎌倉時代に建立された由緒ある寺院であり、現在境内の整備が行われています。法園寺は唐招提寺の末寺で、現在住職は壬生寺の松浦俊海貫主が兼務されています。現在工事中の表門は壬生寺の北門を移築されたと伺いました。(12月20日に完成)f0300125_1244873.jpg
 松浦住職からは、境内整備が完了しても国の重要文化財に指定されている本尊の「木造釈迦如来坐像」は、今後通常の公開予定はなく今回はあくまでも特別拝観であるとの説明がありました。実は、平成26年実施の第2回古寺巡礼では、法園寺を府道側のフェンス外から、遠くの収蔵庫の外観のみを見学しました。その時から御本尊の拝観をお願いしていたのですが、今回2年越しの念願が叶うことになりました。
 いよいよ、2班に分かれて松浦住職の案内で収蔵庫に入りました。f0300125_1273475.jpg収蔵庫内正面に安置の本尊「木造釈迦如来坐像」は、像の高さが87cmの檜材寄木作りで、大変立派な光背がありました。製作年代は正平16年(1361)ですから、今から650年以上前です。また、昭和9年(1934)の室戸台風で堂宇が倒壊して堂の下敷きになった本尊の胎内から多くの経文などが発見され、京都国立博物館に寄託されています。翌年の昭和10年には本尊と共にそれらの経文などは国の重要文化財に指定されました。
 また、収蔵庫には八幡宮の28代別当田中勝清(田中家初代)からの歴代の田中家の位牌をはじめ、南朝の公卿四条隆資、徳川家の位牌や豊蔵坊孝仍・孝叡など多くの位牌がありました。また、数枚の棟札も保管されていることがわかりました。
 収蔵庫内の拝観が終了後、わざわざ善法律寺から出向いていただいた松浦康昭住職にお礼を申し上げてから、次の訪問寺の正福寺に向かいました。

2.正福寺(浄土宗)

 f0300125_12163792.jpg正福寺では、秦文彦住職に出迎えていただきました。正福寺は「浄土宗三十六カ寺組の一つで、本尊は阿弥陀仏。本堂は科手町の薬師堂をこの地に移す。寺記には神原町に住む一瞬庵という者が、寛文2年(1662)に建立した趣が見える。開山は京都知恩寺の三十二代奉誉上人【慶長15年(1610)寂】である」と男山考古録に記されています。
 先ずは例会幹事が山門を入って右側の元禄3年(1690)に建立の「石清水八幡宮の灯籠」を事前調査した結果を記載したしおりにより説明しました。この灯籠の左面銘文は(護国寺寶前)です。
 次は、本堂左側の集合墓の見学をしましたが、集合墓の頂点近くに「興龍院(大河内秀元)」の墓が確認できます。大河内秀元のことは、男山考古録に詳しく載っています。それによると慶長2年(1597)の朝鮮の役に従軍して武功を上げて『朝鮮軍記』を書いています。その後、大坂夏の陣(元和元年:1615)では井伊家に仕え武功を上げ数年彦根に居住するが、正福寺近くの山路町に移り住み寛文6年(1666)に91歳で死去と記されています。
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 それから、集合墓の横の墓地にある八幡の歴史探究のバイブルといえる「男山考古録」著者長濵尚次の曾祖父(長濵友次)の立派な宝篋印塔(ほうきょういんとう)を見学しました。長濵家の墓は、他に番賀墓地及び神應寺にもあります。
 境内の見学終了後に、秦住職の案内により本堂で御本尊を拝観してから、ご住職の法話を拝聴しました。f0300125_12295944.jpg時々ジョークも交えての法話は大変解りやすくて、時間の経過を忘れるぐらいでした。北極星信仰から始まり、人の命は死んだらおしまいで無くて、後の世にゆくのであるなどの仏教の教えから、桜は散るに対して梅、椿、牡丹、菊、雪柳などの花は散ると表現しない。等々、今でもよく覚えています。法話の余韻を残しながら、最後の訪問寺の単伝寺に向かいました。

3.単伝寺(臨済宗)

 f0300125_1454040.jpg単伝寺では、近道になる北門を開けて石田副住職に出迎えていただきました。単伝寺のしおりには「今から二百年前に京都妙心寺の法類の瑞応単伝和尚が人々の不慮の災難を救うことを発願して、救苦観音を安置し祈祷修繕されたのが単伝寺再興の由来です。」と記されています。境内で石田副住職に単伝寺の概要説明を伺ってから、2班に分かれて本堂と大黒堂の参拝をしました。石田副住職は2箇所を行き来しての説明をされました。単伝寺は通称らくがき寺として広く知れ渡っています、
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 しかし、私はその由来は全く知りませんでした。説明では、単伝寺は、戊辰戦争で山門のみ残る被害にあい、先の大戦後の農地改革では寺領も無くなりましたが、先代住職の尽力により大黒堂を建てられ、その時にご寄付をされた方々に「願いごと」を書くようにと勧められたことが、らくがき(“願いごと”を壁に書くこと)の始まりであると伺いました。
 本堂の本尊「五大釈迦」前では、いろいろな説明をしていただき椅子に座り拝聴しました。f0300125_14182536.jpg
 また、境内の自由見学では山門横の比翼地蔵堂の約400年前に刻まれた縁結び2対の地蔵像(石仏)は、印象に残っています。
 この単伝寺境内で第4回八幡の古寺巡礼は、予定の時刻でもって解散としました。なお、八幡市駅方面に帰宅される参加者のために、近道になる山門を開けていただき有り難うございました。

おわりに

 連続4年になる「第4回八幡の古寺巡礼」は、お陰様で無事終了しました。
 今回巡った3寺は、宗派も違いいろいろなことを知ることができました。ご案内や説明いただいた3寺のご住職の方々には、改めて厚く御礼申し上げます。特に、法園寺の国の重要文化財指定「釈迦如来坐像」の特別拝観に関しては、善法律寺の松浦住職には収蔵庫内の事前確認及び当日の案内と大変お世話になり感謝致します。
 4回開催の八幡の古寺巡礼は、4年間で10寺院を巡りました。次年度も「古寺巡礼」を継続開催して、八幡の歴史を探究して行きたいと思います。これからも八幡の古寺に関する情報等がございましたらお寄せいただきたくお願いします。


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by y-rekitan | 2017-01-20 11:00 | Comments(0)

◆会報第77号より-03 古墳と鏡①

シリーズ八幡の古墳と鏡・・・①
八幡の古墳と鏡(1) 

濵田 博道 (会員) 


はじめに

 鏡は「古来、呪術的なものとして重視され、祭器や権威の象徴・財宝」(『広辞苑』)とされました。近畿では特に3世紀初めから5世紀初めにかけて築造された多くの古墳や墳墓に副葬されています。(もちろんこの時代以外の古墳や墓にも副葬されていますが。)
 八幡市のいくつかの古墳でも30枚ほどの鏡が出土しています。(下表参照)
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 この八幡市内の古墳から出土した鏡が以前、博物館の展示会でとりあげられたことがありました。1995年(平成7年)、大阪府立近つ飛鳥博物館で『鏡の時代-銅鏡百枚』(銅鏡百枚というのは『魏志』倭人伝記事中の、卑弥呼が239年に魏の皇帝から下賜された百枚の鏡のことです)の特別展があったとき、図録中「三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)出土地一覧表」(241古墳)に八幡市の3つの古墳名が載っていました。すなわち西車塚古墳、東車塚古墳、内里古墳がそれです。(注1)
 三角縁神獣鏡という名前は鏡の裏面に神仙思想を表す神獣が描かれ、その縁の断面形が盛り上がり三角形の形をしていることから付けられています。面径が21~25cmぐらいの大型鏡です。当時三角縁神獣鏡は、卑弥呼が貰った鏡の最有力候補でした。
 また一昨年(2015年)春、大阪府立弥生文化博物館(和泉市)で「卑弥呼」の特別展が開催されたとき、八幡石不動古墳出土の鏡が「新たな卑弥呼の鏡の候補か」として展示されました。
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この鏡は普段京都大学総合博物館に所蔵されていてめったに見ることができない鏡であり、さらに「新しい卑弥呼の鏡の候補か」とまで解説され、パンフレットに載っていましたので驚きでした。(この鏡は2016年10月15日から12月4日まで京都府立山城郷土資料館で開催された特別展「山城の二大古墳群-乙訓古墳群と久津川古墳群-」でも展示されました)これら卑弥呼の鏡との関係が“うわさ”される八幡市内古墳出土のいくつかの鏡について、今回考えてみます。

1、三角縁神獣鏡と卑弥呼の鏡

 まず、三角縁神獣鏡がなぜ卑弥呼の鏡と言われるようになったのか、その経過を簡単に振り返ってみます。
 『魏志』倭人伝に、魏の皇帝から卑弥呼に下賜された百枚の銅鏡について書かれています。その鏡の研究を通して日本の古代国家のはじまりの過程や地域間交流、東アジアの中での日本の国家形成の位置づけ、鏡は国家形成過程の中でどのようにして生まれ発展していくか、など明らかになっていくのではないかと考えられました。その鏡が日本のどこかに残っているはずだとして、探す研究・努力が1920年台(大正時代)から続けられてきました。1953年、有力な手がかりが京都府木津川市の椿井大塚山古墳(つばいおおつかやまこふん)でみつかりました。この古墳は3世紀末頃に築造された全長175mの前方後円墳ですが、後円部をJR奈良線が横切っています。その線路拡幅工事の際、偶然古墳の石室が発見され、36枚以上もの鏡と武具が出土しました。32枚以上を占める三角縁神獣鏡の分析もされ、この鏡が各地の古墳に同笵鏡(どうはんきょう・同じ鋳型で鋳造した鏡)として副葬され、多数存在することから次のような解釈がされました。邪馬台国時代に卑弥呼が貰った鏡を次の王権が引き継ぎ、それを各豪族に配布、分有し、伝世、同盟の証しとしたのではないか、と。その説が今日でも有力です。また、その前後から各地で魏の年号が記名された三角縁神獣鏡が次々と発掘されました。最近では1997年、ヤマト王権発祥の地・大和東南部・天理市の黒塚古墳から33枚もの三角縁神獣鏡が発掘され、世間を驚かせました。2009年には桜井市の桜井茶臼山古墳で再発掘が行われ、新たに81枚の鏡片、そのうち三角縁神獣鏡の鏡片が26枚見つかりました。3世紀後半から4世紀初め、大和中央の古墳で大量の三角縁神獣鏡が次々と発見されたのです。三角縁神獣鏡はその他にも、日本国内の各地で発見されており、現在560枚ほどになっています。(注2)
 一方、三角縁神獣鏡は肝心の中国からは一枚も出土していない(一昨年、一枚確認されたという報道がありました。)だから卑弥呼が貰った鏡とはいえない、また魏の皇帝から百枚しかもらっていない鏡が五百枚を超えて出土するのはおかしい、三角縁神獣鏡は倭(日本)で造ったのではないか、という反対の意見が出ました。ですが、その後の研究で魏の鏡製造の特徴が三角縁神獣鏡にあること、魔(ま)鏡(きょう)の性質(鏡に光をあてると裏面の神獣の姿が壁などに映し出されること)などの発見もありました。
 この560枚の三角縁神獣鏡の製作地については、現在も研究者の意見は大きく2つに分かれています。
 中国鏡説 
A、最初、三角縁神獣鏡は中国の魏・徐州(じょしゅう)で造られ(魏鏡説)、楽浪郡を経由してもたらされ、その後、日本(倭)で造られたものもある。(楽浪郡で鋳造されたとの説もあります)
B、すべて中国で造られたものだ
 
 倭鏡説
すべて日本で造られたものだ。(中国の工人が日本に来て造った)
  
 鏡の鋳型などが発見されれば、有力な証拠になりますが、鋳型が土製で、それを壊して鏡を取り出すので残存の可能性は少なく、まだどこからも発見されておらず決着はついていません。

2、銅鏡百枚研究の新しい説

 銅鏡百枚について最近次のような見解が出されています。
 “従来『魏志』倭人伝に出てくる卑弥呼が貰った「銅鏡百面(枚)」は、三角縁神獣鏡であろうといわれていました。こういう考え方がかってはほぼ定説化していました。が、その後、とくに日本でここ30年ぐらいの間に三角縁神獣鏡の研究が飛躍的に進んでき、その結果、240年に卑弥呼の使いが貰って帰ってきた鏡に、三角縁神獣鏡が仮に含まれていたとしても、それはごくわずかであって、ほとんどはそれ以前の鏡であること。少なくとも卑弥呼が貰った「銅鏡百面(枚)」の大部分は三角縁神獣鏡ではないだろう。”(白石太一郎ら『纏向発見と邪馬台国の全貌-卑弥呼と三角縁神獣鏡』ADOKAW,2016から一部抜粋要約)
 今まで卑弥呼の鏡と言われてきた三角縁神獣鏡の大部分は卑弥呼が貰った鏡ではない、これは衝撃的です。なぜ、そう考えられるようになったのか。その理由の一つは、三角縁神獣鏡の古墳での副葬状態にありました。が、このことについては次回触れたいと思います。二つ目の理由は、三角縁神獣鏡そのものの研究が進んだことです。その横断面などの形やレーザー計測での詳しい分析などから編年がだんだんわかってきました。三角縁神獣鏡の鋳造が240年前後から50~60年間ぐらい続いたとして、古さの順にA・B・C・Dのだいたい4段階ぐらいに分けられるらしいのです。(5段階など、他の説もありますが。)このうち卑弥呼が貰ったと考えられる三角縁神獣鏡は最古のA段階ということになります。
 では八幡市内出土の三角縁神獣鏡はどう位置づけられるのでしょうか。西車塚古墳、東車塚古墳出土の三角縁神獣鏡はC段階。265年~300年ごろ鋳造された舶載鏡(=中国鏡)ではないかとされています。(注3)ですから、年代からいって卑弥呼が貰った鏡ではない、ということになります。内里古墳の鏡も舶載鏡です。しかし、卑弥呼の鏡の可能性が弱まったことが、即、八幡出土の三角縁神獣鏡の意義が弱まったことにはなりません。八幡出土の三角縁神獣鏡には銘文が刻まれたり、中国官営の工房名が入っている鏡もあります。長岡京市や奈良・葛城地域の古墳出土鏡などと同笵の鏡もあります。どうやって鏡を手に入れたか、同じ鏡を所持した勢力はどういう関係だったのか、など謎が深まります。さらに、石不動古墳から出土した鏡を含めて「新たな卑弥呼の鏡候補」とされる鏡もあります。なぜそういえるのか。鏡の研究は進行形で、専門家でもはっきりしたことはあまり言えないでしょうが、ちらほら研究報告が出てきました。私たちアマチュアも関心を持っていきたいです。

3、八幡の鏡を学ぶ

 このように八幡の古墳から出土したのはどんな鏡か、興味あるところです。しかし、出土した鏡数、鏡名、所蔵場所、観察場所・方法などわからないことが多いのです。今回調べる中で、少しわかってきました。国立歴史民俗博物館研究報告第56号(1994年)によると、例えば八幡市の美濃山王塚古墳から出土したとされる十数枚の鏡は写真は残っていますが、すべて「現物無し」と報告されています。また、所在がはっきりしている八幡の鏡も東京・広島・京都・奈良など全国各地の博物館に所蔵されており、研究中などのため、常設展示されていません。特別展などがあって展示される場合は見学可能でしょうが、それがいつになるかはわからないのです。鏡に興味があっても、市民が見るにはそういう困難さもあります。私は八幡出土の30枚ほどの鏡のうち、1枚だけ見ることができましたが、これからも主に書籍をもとに少しずつ調べていくことになります。次回は「八幡出土の三角縁神獣鏡-おもに内里古墳の三角縁神獣鏡について」考えます。
(つづく) 空白


(注1) 八幡市の古墳については、歴探会報NO13 大洞真白「八幡の古墳とその特徴を学ぶ!」を参照してください。
(注2) 安本美典『卑弥呼の墓・宮殿を捏造するな!』勉誠出版,2011,P110より
(注3) 田中晋作『筒型銅器と政権交代』学生社,2009,P93~P98

【参考文献】
 大塚初重『卑弥呼の鏡 謎と真実』青春出版社,1998
 『鏡の時代-銅鏡百枚-』大阪府立近つ飛鳥博物館,1995
 『卑弥呼-女王創出の現象学-』大阪府立弥生文化博物館,2015


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by y-rekitan | 2017-01-20 10:00 | Comments(0)

◆会報第77号より-04 八幡の古代植物④

シリーズ「八幡の古代植物」・・・④
八幡に見る古代植物 (第4回)

古代植物研究会代表 大谷雅彦 (会員) 


イチイ

 イチイ科イチイ属、常緑針葉高木樹。日本全国に生育していますが、近年はあまり見られなくなりました。東北地方から北海道に多く見られるようです。f0300125_6561238.jpg雌雄別株で、秋に赤い実を付けるのは雌株です。別名アララギとも呼ばれ、東北地方ではオンコとも呼ばれています。
 イチイの名前の由来は、仁徳天皇が、このイチイの木で笏(しゃく)を作らせ、その功徳をもって正一位を授けたことから、イチイ→一位となり、ここから階級制の名称に取り入れられたとも伝わっています。
 石清水八幡宮の研修センターの昇り階段の左下奥の隅にイチイの幼木があり、木の名前「イチイ」の札が付いているのでみてください。
f0300125_765819.jpg 中国地方の大山(だいせん)の頂上には、野生種のイチイが自生し、天然記念物に指定されています。
 樹としては、以前、床柱に利用されていました。針葉樹の中ではかなり堅い材に属し、強度も十分あります。また、年輪が細かく木肌がなめらかで光沢があり優美な感じがします。さらに、板の反りや割れも少なく、重厚な割に切削などの加工も容易であるとされます。
 木が曲がっていることが多いため製材の歩留りが悪いことや材そのものが少ないことなどを除けば優れた用材で、これほど木工に好適な材はまず見当たらないとさえ言えます。建築材や家具に使える程の量が確保できないので、現在では彫刻など、小さくて高価なものの原材料となっているのです。
 赤くて艶がある材質が珍重がられるので、寄木細工や象眼細工の材料になることが多い。そのため、飛騨高山では「一位一刀彫」という伝統工芸品があり、現在でもたくさんの彫刻師がいます。また、以前では鉛筆の材として多く使われていました。現在でも、鉛筆のB,B1、B2・・・等芯の軟らかい鉛筆の木材はイチイが使われているようです。

知っておきたいこと

(1) イチイには変種があります。キャラボク・オウゴン・キャラ・キミノオンコなどです。そのうちのキャラボクは、その名が香木の伽羅(キャラ)に似ているため付いたのですが、全くの別種である。キャラボクとイチイを比べた場合、全体的にはイチイの方が葉が明らかに大きい。
(2) イチイは東北北部と北海道では、サカキ・ヒサカキを産しないため、代わりにこのイチイが玉串など神事に用いられる。従って、この地域の神社では境内地に植えられている場合が多い。
(3) イチイガシは全くの別物なので要注意。イチイの葉と似た種類の木がたくさんあるのでご注意!


大宝律令における位階制

 イチイ=一位にちなんで、「大宝律令」における位階制について紹介します。大宝律令は、大宝元年(701)に制定されました。f0300125_153083.jpgそれ以前の冠位は48階を基礎にしていますが、大宝律令は、48から30に減じています。
 親王は一品(一位)から四品まで4階の品位(ほんい)に、諸王・諸臣は同じ一品(正一位)から従
五位下の間におかれ、親王と区別されています。外臣に対しては、正五位上から下の位に置かれましたが、朝廷への功績に応じて叙されました。(品はほん、又はぽんと読みます)
 その後、時の天皇が数度にわたり改正(改編)しますが、基本的に大宝律令の位階制が維持され、明治に入って一旦廃止されます。しかし、これに似た位階制が出来、これが延々と続き、現在の我が国の公務員の職階性につながっているとされます。

終わりに

 今回で、八幡に見る古代植物は終わることとなります。今後、八幡市内で歴史的にゆかりのある植物がみつかることを楽しみにしています。そして、八幡に現存しない古代植物も他にはたくさんありますので、今後みなさんにお伝えする機会があればと考えているところです。


この連載記事はここで終りです。       TOPへ戻る>>>

by y-rekitan | 2017-01-20 09:00 | Comments(0)

◆会報第77号より-05 五輪塔⑧

シリーズ「五輪塔あれこれ」・・・⑧
誰の手によって造られたのか

野間口 秀國 (会員) 


 本章では「だれ / Who 」を考えてみたいと思います。現地の説明板に「摂津尼崎の商人が中国宋との貿易の帰途、石清水八幡宮に祈って海難を逃れ、その恩に報いるため建立されたと伝えられる」とありますので、この商人について調べることを避けては通れません。また『八幡市誌 第1巻』には、「その海難を逃れられたお礼として承安年間(1171~4)に建立したものであると伝えられている。」ともあります。

 手始めに 『兵庫県謎解き散歩』(*1)に書かれた人物群にもヒントを求めましたがそれらしきことは見出せず、引き続き 『尼崎市史』 (*2)及び 『図説尼崎の歴史』(*3)に目を通すも、その時代の商人らしき人の記録は見つかりませんでした。尼崎市の担当部門の方にもお聞きしましたが、「石清水八幡宮五輪塔と尼崎の商人のつながりについての記録は無く、伝承は伝わってない」との旨の回答を同市立地域研究史料館よりいただきました。およそ300年にわたる宗の時代(北宋と南宋・10世紀後半から13世紀後半、日本では平安時代後半から鎌倉時代にかけての頃)であり、当時の宋との交易は始まっていたと考えられます。もし説明板にある商人が関係しているのであれば、この後発見されるかも知れない史料などを待たねばならないのでしょう。

 さて、尼崎の商人に続く次なる人物を探したいと思います。そのことに少なからず関すると思われることが『八幡市誌 第1巻』(P242)に以下のように書かれています。曰く「・・蒙古襲来に際して、亀山上皇が弘安四年(1281)六月二十日に八幡宮社前で祈願されており、あるいはそれに関連して造立されたものではないかとも考えられる。」と。また、歴探の土井三郎氏は2013年11月18日に八幡市駅前にて開催された「街角勉強会」の展示史料にて以下のように述べておられるので、少し長いですが引用したいと思います。 以下引用部 ;「この五輪塔、奈良の西大寺にある五輪塔と形がよく似ている。西大寺といえば叡尊が思い出される。元の襲来に際し、朝廷は諸国の社寺に異国調伏を祈願させた。西大寺の叡尊は国家的要請を受けて石清水八幡宮にやってきて祈祷をしたとのこと。その祈祷によって、石清水から飛んだ神矢が神風をもたらし蒙古の軍船を難破させたという伝承を生んだ。伝承はともかく、叡尊は律宗の教団を率いた高僧である。そして、律宗教団と云えば石塔や墓石の築造に長けた石工集団を率いたことで知られる。巨大な石を切り出し、細工をほどこすことに長じた職人を抱えていたとならば、高さ六メートルに達する五輪塔をこしらえたり、設置したりすることは御手の物だったのかも知れない。」; 引用終わり

 また、この史料に見える石工集団に関連することは、歴探会報の第53号(2014.8.25刊)にて、同じく歴探の谷村勉氏による「大乗院の五輪塔と石工集団」と題する寄稿にも見られます。氏の書かれた内容は本章で扱う石清水八幡宮五輪塔そのものについてではありませんが、 “伊派の石工集団” についての概略がとても分かり易くまとめられております。よって、石清水八幡宮五輪塔を造立したと思われる叡尊と石工集団について、改めて紙面を割くことは控えたいと思います。

 先述の『尼崎市史』に商人の名前は見つかりませんでしたが、弘安の役、1281(弘安4)年、の前後のころの叡尊に関する記述はありました。 曰く、「・・・しばしば異国降伏の祈祷を行い、弘安の役に元軍を敗退させた暴風雨は、かれの石清水八幡宮での祈祷による神風だと当時の人々にうわさされた。」 と。このような記載内容からも叡尊が深くかかわっていたであろうことは想像に難くありません。が、これら複数の記述とて叡尊によって造立されたと確定できるものでは無いと思われます。現場の解説板を皮切りに、第1章からここまで石清水八幡宮五輪塔について「何か」、「いつか」、「どこか」などを書きましたが明確な答えは得られずじまいです。しかし、どのような答えであっても、「このように大きな石清水八幡宮五輪塔造立の発願者はいったい誰であったのか」との疑問は個人的にもっとも興味あるところなのです。

 ここまで書き進めても次々と出て来るいろいろな疑問に確実な答え見いだせません。よって、お読みいただいておられる皆様にもあまり楽しくないであろうと思いますので、少し紙面をいただき、これまでに出会ったいくつかの五輪塔に語り継がれていることや、言われなどについても書きたいと思います。
 本章では「文覚上人(もんがくしょうにん)(遠藤盛遠(もりとお))」の墓について書いてみたいと思います。京都市内から国道162号線を北西に進むと1時間余りで神護寺(じんごじ)門前近くに着きます。登り口手前の高尾橋近くに車を預けて橋を渡り、途中にある茶屋などを見ながら、およそ400段を登ると楼門に至ります。門をくぐって更にいくつかのお堂などを左右に見ながら境内を登り金堂へと向かいます。金堂の右手から始まる林の中の道を引き続き10(~15)分ほど登り、たどり着いた所に性仁法親王墓と並んで建てられた文覚上人墓五輪塔を見ることができます。神護寺は平安時代に二度にわたる災害によって堂の多くを失いました。文覚上人はその荒廃を嘆き、1184(寿永3)年、後白河法皇の勅許を得て、また源頼朝の援助もあり寺の復興を見たのです。五輪塔のあるこの場所に立つと、墓塔がこの地に建てられた理由も納得できるようです。
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 さてこの文覚上人、もとの名を遠藤盛遠と言い、城南離宮の北面の武士だったのです。盛遠は大坂の渡辺橋で行われた橋供養に訪れた鳥羽刑部左衛門(注1)の妻の袈裟御前(けさごぜん)を見初めて横恋慕し、その母を脅して夫との縁を切るよう強く迫りました。困り果てた袈裟は悩んだあげくに、「ならば夫を殺すよう」にと盛遠に告げ、「夫の髪を濡らしておく」と伝えます。夜半に忍び込んだ盛遠は、濡れた髪が袈裟自身のものであることを知りません。袈裟は寝ている母と夫を守るために身代わりとなり盛遠に首を斬られて命果てました。殺した相手が夫ではなかったことに気づいた盛遠は自らの愚かさを悔やみ出家したのです。出家した盛遠は冬の寒さの中、凍えるような那智の滝の滝壺で首まで身を沈め、呪文を三十万遍唱える荒行を行いました。厳しい数々の修業を終えた盛遠は文覚と名乗り、こののち後白河法皇の宴席に押し入っては神護寺復興への寄付を何回も迫ります。このような行為を繰り返す文覚は法王の怒りに触れてついに伊豆に流されます。伊豆では既にその地に流されていた源頼朝に言葉巧みに近づき、平家追討の謀略を勧めたのです(以下、略します)。

 ところで、神護寺山上の文覚上人墓五輪塔が向いている方向(京都市伏見区下鳥羽)に袈裟御前の首塚のある恋(戀)塚寺があります。この寺は文覚が袈裟の菩提を弔うために建てたと言われており、f0300125_1554781.jpg寺にある宝篋印塔(ほうきょういんとう)は袈裟御前の墓と言われております。寺のしおりにある縁起には「袈裟御前の物語は古来より貞女の鑑という意味で世に傳えられ、その理想像として世人に知られているところである」と書かれています。寺は建てられた当初は北向きでしたが、鳥羽伏見の戦いで寺が荒れてしまい、その時に神護寺のある北西方向に向きを変えたと言われております。実は、文覚上人が袈裟御前の為に建てた恋塚と言われる五輪塔を有する寺がもう一つ京都市内にあることは多くの人がご存知だと思います。f0300125_15112656.jpg その寺は京の六地蔵の一つ(鳥羽地蔵)でもあり、前述の恋塚寺から北へ2Kmほどのところ(京都市南区上鳥羽)にある浄禅寺です。この寺のしおりにも、恋塚寺のそれと同じく、盛遠が袈裟を弔った墓(首塚)と書かれてあります。『歴史家の案内する京都』(*4)にはいずれとも決め難いと書かれてありますが、私も全く同感です。 歴史の真実はいったいどうなのでしょうか。

 世の東西を問わず、いつの時代にも許されない男と女の悲恋物語はありますが、当会の会報(43号及び51~56号)にもそのような物語が取り上げられております。本章で改めて書くことはいたしませんが、それは私たちが八幡市内で見ることのできる「女郎花塚」と「頼風塚」と呼ばれる二基の五輪塔(墓)にかかわる物語です。これらの五輪塔を訪れて、八幡に古くから語られている悲恋物語に思いをいたすのも歴史を学ぶ手だての一つかも知れません。
(次号につづく) 空白
参考図書;
(*1)『兵庫県謎解き散歩』大国正美編著・日経出版刊 
(*2)『尼崎市史』 第1巻(昭和41年)第4章 
(*3)『図説尼崎の歴史』 (平成19年)中世編 第二節2 「港津の発展と商工業」
(*4)『歴史家の案内する京都』 仁木宏・山田邦和編著・図書出版文理閣刊、

史料・資料など; 
神護寺、浄禅寺、恋塚寺の栞
京都新聞記事(2015.11.26・文覚上人悲劇招いた恋)
文学・歴史ウオーク「兵庫津の道を歩く(2015.12.6)」の配布資料
歴探関連資料
会報43号(2013.10.28)「女郎花」猪飼康夫氏、
街角勉強会(2013.11.18)の展示史料
会報51~56号(2014.6.30~11.26)「女郎花と頼風」土井三郎氏
会報53号(2014.8.25)「大乗院の五輪塔と石工集団」」谷村勉氏

注1;他に 源左右衛門尉渡、渡辺左衛門尉源渡 などの表記あり。


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by y-rekitan | 2017-01-20 08:00 | Comments(0)

◆会報第77号より-06 詩歌と八幡の歴史⑤

シリーズ「詩歌に彩られた八幡の歴史」・・・第5回
八幡庶民の雑俳ブーム

 土井 三郎 (会員) 

1、はじめに

f0300125_1821527.jpg 2007年10月、京都府立山城郷土資料館が『南山城の俳諧-芭蕉・蕪村・樗良-』と題する特別展を開催しました。私は展覧会を見ていませんが、同時に発行された図録を入手しました。

 図録は南山城地域における俳諧の広がりについて紹介したもので、私にとって「八幡八景」との最初の出会いとなりました。もう一つの出会いは、延宝5年(1677)に刊行された『木津乗会船』です。本書は、現在の木津川市周辺の名所旧跡の案内を兼ねた俳諧を中心とした作品集で、まだ翻刻されていないということから、知人の勧めもあってその勉強会に参加し、足しげく通うことになりました。以来6年の歳月が流れ、今では俳諧の魅力にすっかり取りつかれるようになりました。
 勉強会を重ねるうちに、『初桜之巻』と題する、南山城を中心とする雑俳(ざっぱい)集の存在を知りました。これは、享保14年(1729)ごろに合冊されたものですが、何とその中に「奉納八幡谷不動 京知石撰」と称する俳諧集が収まっていたのです。


2、雑俳ブーム

「奉納八幡谷不動京知石撰」は、八幡の神応寺の奥にある杉山谷不動堂に奉納した雑俳集で、京知石とは、京都在住の知石(ちせき 1681~1740)と称する俳諧師です(※1)。その知石が撰者=点者となって70句を撰集したのです。
「雑俳」とは、芭蕉や蕪村に代表される本格的な俳諧に対して、形式・内容ともに雑駁(ざっぱく)で遊戯化された俳諧のことです。当時の南山城地域に起こった雑俳ブームについて、先に紹介した図録の記述を中心に紹介します(※2)。
俳諧が江戸時代の人々に広く親しまれるようになった頃、前句付(まえくづけ)と称する二句の付合を気軽に楽しむ雑俳という文芸が俳諧から派生し、元禄年間(1688~1703年)には広い地域で庶民の人気を集め、人々は進んでこの種の文芸に参加していった。南山城地域もその例に漏れず人々は関心を寄せ、元禄期には雑排ネットワークとも言うべき組織が出来あがった。
点者に出題句を出してもらい、作品を募集し(その際、点料を徴集)、優秀な作品を選んでもらいそれを発表した。このようなシステム全体を「興行」といい、その興行主が会林である。
〇 作品は地域の社寺に奉納されているが、作品奉納の意図には作品の上達を祈念するとともに村落の人達の和を願う意も込められていた。

3、作品の解釈と鑑賞

 「奉納八幡谷不動京知石」は、崩し字で記されています。翻刻には歴探の会員であるOさんに助けてもらい、解読および鑑賞にとりかかりました。今回、何とか理解ができ面白いと思ったものだけを紹介してみます。
最初に出題句を紹介し、それに付けた優秀な句を紹介します。出題句を後句として読むと付句の趣向がよくわかるかもしれません。私の寸評も付してみました。

                     
すりすりすらすらすらりすらすら  
浴(ユアミ)して髪とくような御政道  上津屋・哥林
「御政道」を批判しているのでは無く褒めているのですから、お上からは許容されるか? 雑排には御政道を皮肉ったものもあり、幕府は目を光らせていたとのことです。

こいはくせものこいはくせもの
かなづちの重き異見もぬかに釘  上津屋・芳水
金槌のような重い他者の忠告も恋の熱に浮かされる者には「糠に釘」ということです。

いもせ川中に堤の出来普請      ヨト・羽水
「いもせ」とは親しい男女の関係を指します。その「妹瀬」に堤防ができました。二人の恋路の邪魔をする者が出現したということで、普請ならぬ不審が募るというものです。   

ちかひしはどの松山のなみぞいの    上ナラ 淸井
古歌に歌われる、恋の誓いを立てる「末の松山」ですが、そんな松山はどこにあるのだとうそぶいているようです。(※3)。

たてまつるなりたてまつるなり  
女郎花御目にとまって手向草    山本・連中
八幡名物の女郎花が目に入るや手向草を献じて奉らんとする心は殊勝なものです。
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気をはりけり気をはりけり 
婿の手に渡す日迄は預りもの    八ワタ山・吟梦
親にしてみれば、愛娘を婿に渡すまでは預かりものとして大事に遇しないといけません。まさしく気を張るものです。

もやもやともやもやと
雷に臍くり金が気にかかる    上津屋・芳水
雷は人のへそを狙うといいます。だが、へそはへそでも「へそくり」なのですから防御を怠ってはなりません。もやもやと気になるのはよくわかります。

本妻の心を下女にをきつ浪   平瓦・曲鈎堂
浮気者の亭主は、心を寄せる下女にも本妻の焼もちやきが起こるのではないかとヒヤヒヤものなのです。「おき(沖)つ浪」と歌語をパロディ風にあしらっているのも俳諧的です。

およそ大方およそ大方
谷不動あらた也けり新ひらき     上ツヤ・花遊
「谷不動」はこの作品を奉納した杉山谷不動でしょう。今、修復なって霊験あらたかな不動堂としてよみがえり、寿ぐ気持ちで詠んだもののようです。

談合も小夜の中山道中記     フシミ・大黒組
「談合」は商談? 「小夜の中山」とあれば、西行の「年たけてまたこゆべしと思ひきや命なりけりさよの中山」が思い出されます。であれば、商談も命がけということです。そして、その商談は中山道でのことなのでしょうか。「大方」は「大事」の意?

4、作者や会林のことなど
 「奉納八幡谷不動京知石撰」には70句の作品が収録されています。作者がどこに住む者かわかるので地域ごとの延べ人数を調べてみました。多い順では以下の通りです。
八幡(八幡山もふくむ)14人、上津屋(こうづや)8人、上奈良6人、淀6人、伏見3人、岩田・山本・津田・天神森・大川・市田各2人ずつ。他は、橋本・美豆・佐古・玉水など各1人ずつ。

 杉山谷不動堂に奉納するとあってやはり地元からの出品が多いことがわかります。
 作者はどんな階層の人々なのでしょうか。哥林や芳水、羽水などの雅号だけでは身分や職業がわかりません。また、「大黒組」などのグループ名が見られますが、それらは建設業など同業者のグループを指しているのでしょうか。先に紹介した「木津乗会船」の作者には、郡山藩の家老などの武士や僧侶、廻船業のオーナーと思しき商人も見られ、身分の枠を越えて様々な階層の人々が文芸に興じたということがわかっています。
 ところで、当奉納集は、上津屋の「大集軒」と称する会林(会所)が仲立ちとなって撰集されました。八幡の上津屋に会林があったらしいのです。但し、わからないことだらけです。集められた雑俳はどのように選定されたのか。作者同士が日常的に接し交流する場がなかったのか。撰者である知石と八幡の人々に師弟関係がなかったのか。そして、江戸時代全体を通して、八幡では雑俳をふくめた俳諧の文芸がどのような推移をたどったのか。明らかにしたいことばかりです。
そのようなことを課題にして、これからも八幡における俳諧文芸の実相を探ってゆきたいと思います。

※1、知石 俳諧師。雑排点者。鈴鹿氏。別号、寸花堂のち芦花翁。京都、吉田神社の社家に生まれる。鞭石門で執筆(しゅひつ)を務める。享保期(1716~36)の京都雑排界に重きをなした。
※2、石川真弘「木津川と俳諧文化―「木津乗会船」と雑排―」(山城郷土資料館発行『南山城の俳諧-芭蕉・蕪村・樗良-』所収)
※3、「きみをおきてあだし心をわがもたばすゑの松山浪もこえなん」(古今和歌集)をふまえる。


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by y-rekitan | 2017-01-20 07:00 | Comments(0)

◆会報第77号より-07 東高野街道

大阪府下の東高野街道に「やわた道」の
道標を訪ねて


谷村 勉 (会員)


 近年、東高野街道という道の名称が八幡市内に聞かれるようになり、八幡市に住む住民にとっては大変な違和感を持ちました。八幡市内の道を今までに「東高野街道」などと呼んだ記憶がないからです。八幡の道を「東高野街道」と呼ぶのは可笑しい?という立場から以下報告致します。・

 八幡は周知の如く平安時代(貞観元年・859 年)の八幡宮遷座以来、石清水八幡宮を中心に発展し、周辺の街道も八幡宮参詣道として凡そ 1,100 年以上の歴史を紡いできた経緯があります。特に近世江戸時代にはどの大名の支配も受けず、なおかつ検地免除(税金免除)の町として整備され、裕福な蔵の町と称されるほど神領自治組織の地として繁栄してきました。その八幡に他の宗教施設を連想するような街道名が存在するはずもなかったのです。

 なぜ最近「東高野街道」などと言い出したのかと問いますと、観光戦略として観光客を誘致するために言い出したようです。観光客や八幡に越してきた人々や八幡の道を散策する人々が、昔から八幡の道を「東高野街道」と呼んで来たかのように錯覚している現状を見ると、歴史街道と言いながら、歴史を顧みることもなく、八幡の歴史を知らない人々が多すぎて、このような事態になった様です。観光の集客目的に道の名称を付けるなら、固有の歴史的名称である「八幡宮道」で良かったはずですが、八幡の道の歴史調査を怠り、八幡に住んだこともなく、歴史も知らない学者や役人の言葉を借りて、何処かのブームにおもねるかのように、いわゆる「東高野街道」と名付けてしまった感があります。八幡宮参詣道を「東高野街道」と言い換えれば、八幡固有の歴史が歪曲されてしまう事態に繋がらないかと大変な懸念を持ちます。我々が八幡に云う処の高野街道とは洞が峠を起点として、大阪府下に向かう道が歴史としての高野街道です。八幡宮を目指して八幡に入れば「やわた道」、「八幡宮道」となって、大勢の八幡宮参詣者が往来する道でありました。私にとって大阪府下の東高野街道沿いの交野、村野、星田、茄子作などは昔から馴染みの町々でありました。今回、従来気にもしなかった大阪府下の東高野街道を歩き、街道筋に一体どのような「道標」があるのか興味が湧きましたので、「やわた」と記入された道標を中心に踏査しました。東大阪市に初めて「やわた」と記入された道標があり、結局、東大阪市から八幡市に向かって合計 12 基の道標が確認できましたので、現存する道標を紹介し、いかに「やわた道」として認識されてきたかを伝えることができればと思います。いわゆる「東高野街道」が在って「国宝の石清水八幡宮」が存在するのでは本末転倒の話になります。実に固有の歴史が八幡には溢れていますが、やはり現場を歩き、八幡の道の歴史を自分の目で確かめる作業が不可欠だと思いました。

*東大阪市喜里川町の道標

最初の東大阪市喜里川町での「やわた道標」は 2 基あります。

 1基目は近鉄瓢箪山駅から北に向かい「喜里川町南」の信号右側の「瓢箪山安全安心ステーション」横に在りました。
 2基目は 1 基目の道標から斜め北へ凡そ 200m 程の地点にありました。
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*東大阪市箱殿の道標

 暗峠越奈良街道との五叉路の交差点、開業医の銀杏の木が目印。
 大師堂の横に観音像の道標がある。また奈良街道を東にとればやがて小さな公園が右に見え、大坂夏の陣で家康が陣を張った所に出会う。
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*東大阪市日下町の道標

 街道沿いの孔舎衙(くさか)小学校の敷地内にある。
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*大東市中垣内の道標

 阪奈道路を横切って暫く行くと古堤街道交差点の郵便ポストの横に「龍間山不動尊」の道標が目に入る、東に少し入れば「右 大峯山上道」の大きな道標がある。
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*四条畷市中野の道標

 清滝街道との交差点には 3 基の道標が並んでいるが、地蔵道標が「やわた道」の道標である。
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*寝屋川市の道標

 寝屋川市には打上と寝屋に 2 基の道標があり、JR 東寝屋川駅近くの打上の辻に道標が 1 基あり、秋葉山の燈籠もある。さらに北へ進めば傍示川手前に弘法大師像を見て川を越えると、寝屋の大井川万吉の自然石道標があり、JR 星田駅へと向かう。なお江戸時代、星田村は石清水八幡宮の他領神領(148 石余)でした。
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*交野市私部(きさべ)西の道標と本尊掛松

 東高野街道と山根街道の合流点にある「京八幡道」道標、左の道が東高野街道で、坂を下ったところに、本尊掛松の立派な地蔵像がある。南北朝時代、石清水八幡宮神職小川伊高が法明上人と予期せず出会った所で、共に霊夢を受けて融通念仏宗の本尊「十一尊天得如来画像」を小川伊高からここで授かった法明上人は歓喜のあまり、松の木に本尊をかけて踊りだした。融通念仏中興の祖と言われる法明上人と小川伊高はその夜茄子作北の犬井甚兵衛屋敷に泊まり、その後、小川伊高は法明上人に帰依し、大坂平野郷に住んだと伝わっています。
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*交野市松塚の道標

 こちらも地蔵道標、中央の地蔵尊。普通の角柱道標と思いこみ探し回った。
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 なお、交野市は江戸時代まで石清水八幡宮の他領神人が多く住んだところで、石清水放生会の祭祀には「火長」「火燈」「御前払」の役を担いました。

*枚方市郡津の道標

 枚方市村野浄水場南側の郡津墓地内にある。
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*枚方市大嶺の道標

 春日街道と交差する所から 100m 程外れた所に道標がある。
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*枚方市出屋敷の道標

 街道の雰囲気を残す枚方市出屋敷の町筋。
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「京 やわた道」の道標について

 大阪府下の東高野街道を東大阪市から枚方市まで踏査して「やわた道標」ともいうべき江戸時代の道標を見るにつけ、その土地の人々の道標に巡らす思いや、その変化に富んだ形態には豊かな創造性を発見した思いです。ここに報告しました道標は殆ど江戸時代のもので、これらは歴史街道にふさわしいものでありました。枚方市出屋敷の「東高野街道 壱里」の石碑は「洞ヶ峠から壱里」を示す明治の道標です。道標の形態には角柱が圧倒的に多いのですが、江戸時代にはめずらしい「指矢印」の道標を東大阪市喜里川町で見ました。また東大阪市箱殿に在る「観音像」を彫った角柱は見応えのある道標に仕上がっています。四条畷市中野の舟形光背の地蔵道標は他の二つの道標と並んで特異の存在感でありました。交野市松塚の地蔵道標も周辺の地蔵尊が集められて四体とし  一石五輪塔の一基を加えた中央のやや大きな地蔵の舟形光背に「京やわた道」と彫られていました。寝屋川市寝屋の「大井川万吉」の道標には自然石が使用され、力士の力強さが表現されています。比較的八幡に近いこれら周辺地域の人々がこの街道を「京道」、「京街道」とも呼んでいたようです。それは道標群とともに、古文書調査でも報告されています。ともあれ、多くの人々には名所、旧跡に加えて是非「道標」の持つ魅力にも目を止めて欲しいと思います。

八幡宮を目指す歴史としての道標

f0300125_2152265.jpg 「京 やわた道」あるいは「やはた道」の道標に導かれて洞ヶ峠に付いた人々は、ここに来てやっと「やはた道」に入ったと実感し、ほっとしたことでしょう。峠を下れば八幡の風景が眼前に広がります。道は「八まん宮道」となって、石清水八幡宮を目指します。現在、八幡あるいはごく近くの周辺を含めて 7 基の「八幡宮道」と1基の「やわたみち」と彫られた江戸時代の道標を確認しています。古い「高野街道」の道標は道の南北に 1 基もありません。八幡の道は八幡宮参詣道であって、高野道ではないと認識していますから。当然と言えば当然です。

f0300125_22111226.jpg 洞ヶ峠から中ノ山墓地前の旧道を通り過ぎ、八角院に入れば「すく八幡宮」の道標が残っています。 慶応三年丁卯八月(1867)の建立で「役行者像」が彫ってあります。       
 大阪府下の高野街道で見た風格ある道標の形態と同じで、以前は八角院近くの旧道に建っていたものと思われます。
 道標によく書かれている「すく」あるいは「すぐ」、「春具」の意味は「真っすぐ行くと」と云う意味になります。

(左の写真は神戸市/故荒木勉氏の撮影です)




最近建ったばかりの八幡のいわゆる「東高野街道」の道標
 
f0300125_22295142.jpg右は最近俄かに建った八幡のいわゆる「東高野街道」の道標です。大阪府下の一連の個性的な道標を見た後に、この道標を見ると、如何にも俄か仕立てで現代風の薄っぺらな、歴史観の乏しい道標に見えてしまいます。
 道標には建立年月日や建立主体も彫られていません。平成××年建立と彫らない理由は何でしょう。しかも凡そ3km程の間に13基の道標が建つ始末です。
  13 基という数には必ず無駄と間違いがあります。観光集客の目的とはいえ、異様な風景に見えてしまいます。
 八幡には「石清水八幡宮参詣道」としての歴史街道はありますが、いわゆる「東高野街道」と銘打って歴史とするような本末転倒の歴史街道はないと思います。
*次回、現在も八幡周辺に残る歴史的道標群について、詳しく報告します。
by y-rekitan | 2017-01-20 06:00 | Comments(0)

◆会報第77号より-08 歴探サイト

八幡歴探サイト(ホームページ)の現況報告
――お陰様で閲覧者数がのべ3万人を超えました――

高田 昌史 (八幡の歴史を探究する会事務局)


f0300125_125230.jpg 八幡歴探サイト(ブログ版ホームページ)は、平成25年11月のオープンから3周年が経過しました。この間多くの方に閲覧いただき、合計来訪者数はのべ3万人を超えましたが、これを機会に日頃インターネットになじみのない方々も含めてより多くの方々にご活用いただければと、以下にサイトの現状をとりまとめました。

1.八幡歴探サイトについて
http://yrekitan.exblog.jp/

 当初は会報記事の紹介ブログとして発足しましたがその後いろいろなコーナーを設け、現在では本会の全容をカバーする サイトとして運用しています。
 その主たる役割は①集いの案内等、会員向けの情報を迅速適格に発信する、②貴重な会報記事を読みやすい形でウェブ化しデータベースとして蓄積する、③本会の活動状況を広く世間にご認識いただく一助とする等にあり、そのためこのサイトでは以下のようなコーナーを設けております。

▼集いの案内や本会の活動紹介
 「新しい集いのご案内」、「トピックス」、「出版活動」等のコーナーを設けていますが、特に「新しい集いのご案内」では講演会、歴探ツアー等、本会主催の集いに関する最新の案内が掲載されており、個々の案内のパンフレットも見て頂けます。また「本会の概要」、「入会のご案内」、「会則」、「本会の沿革」等を配置しております。
▼会報記事の紹介とデータベース化
 『会報記事の紹介コーナー』では会報記事を「会報号別」、「連載記事」、「個別記事」等の切り口でアクセスして頂けます。また「講演会記録」、「歴探ウォークの記録」等に特化したアクセスのページも用意しています。 

2.会報記事へのアクセス
 
 現在は会報76号分で342件の記事が収納されており、その内訳は表1に示すとおりです。f0300125_06233.jpg紙会報に比してウェブサイトでは写真がカラーで読みやすくいつでも簡便に見えることが特徴ですが、今後もますます増えていく記事にいかに迅速にアクセスして頂くかがサイトを構成するポイントであり、そのために種々の切り口から記事にアクセスできるインデックスを用意しています。

▼会報号別にアクセス
トップ画面の「会報号別欄」には会報号一覧があり、そこからワンクリックで任意の号報記事に飛ぶことができます。その後はスクロールのみでその号の全記事を一気読みすることができます。
▼連載記事を一気に読む
 トップ画面の「連載記事欄」には連載記事一覧があり、ワンクリックで任意の連載記事の最初の記事に飛ぶことができます。そのあとは記事末尾の『この記事の続きは』をクリックして頂くとその連載記事を連続して読むことができます。
▼講演会の記録を一気に読む
 「講演会の記録」コーナーには当会で開催した全ての講演会の記録の一覧が設けられており、任意の記録にアクセスすることができます。ここでも各記事末尾の「次の講演会記録へ」を辿って行くと歴代の講演会記録のみを連続して読むことができます。
▼歴探ウォークのレポートを一気に読む
 「歴探ウォークの記録」コーナーには当会で開催した全ての歴探ウォークや歴探ツアーの記録の一覧が設けられており、任意の記録にアクセスすることができます。ここでも同じく歴代の歴探ウォークのレポートのみが連続して読める構成としています。
▼個別記事を直接読む
 トップ画面の「個別記事欄」には連載記事や講演会、歴探ウォーク以外の個別記事の一覧があり、任意の記事に飛ぶことができます。
▼キーワード検索で記事を探す
 このサイトでは八幡特有のキーワードを選ぶことで関連記事をまとめてお読みいただく機能を設けております。方式は2つあり、《任意検索》ではサイトトップの右端の『検索』部に任意のキーワードを入れてクリックすると、そのキーワードを含む全ての記事が列挙されます。また《タグ検索》ではサイトトップの右端の『タグ』部でキーワードをクリックして頂くと、それに関連した記事をスクロールのみで一挙にお読みいただけます。なお各タグに収納されている記事数は現在以下の通りです。
石清水八幡宮(61)、八幡の寺院(27)、神社[石清水以外](27)、石碑と由来(26)墓地と墓石(20)、遺跡・古墳(18)、松花堂昭乗(15)、橋本地区(12)、木津川(12)、東高野街道(10)、エジソン(10)、豪商淀屋(9)、古道(9)、八幡八景(7)、八幡宮の神人(6)、地蔵菩薩(4)、二宮忠八(3)
 以上、種々の機能を列記すると画面の操作が複雑なように思えますが、サイトのトップ画面を軸に色々なコーナー間をワンクリックで行き来できる簡便操作の構成としておりますので、サイトの取扱説明のコーナーも参照しながら是非サイト内を散策して頂ければと思います。 http://yrekitan.exblog.jp/20734514

3.アクセス分析から見えること

 このサイトでは、ブログの管理者用機能として種々のアクセス分析ができるようになっており、f0300125_0372792.jpgそこからはいろいろな風景が浮かび上がってきます。表2はその分析データを基に作成したこの3ヵ月間のアクセス状況です。

▼訪問者数と記事閲覧数
 訪問者は今まで毎月1000人程度で推移してきましたが、先月からパソコンからのアクセスに加えてスマホからの訪問者もカウントされ始めたこともあり、今後はのべで月1200人、毎日40人の方が訪れるペースとなりそうです。この訪問者の大半はグーグルやヤフーの検索サイトからの来訪ですが、その際の検索キーワードの集計結果を見ると、八幡ゆかりの地名、人名、歴史スポットや行事といった広範囲なキーワードで全国からアクセスがあることが窺えます。なお、この訪問者数は同じ人が一日に何回アクセスしてもその日は1回としてカウントする方式です。また当サイトが利用しているブログ会社のexcite社では全exciteブログの中でのアクセスランキングを毎日集計していますが、その中で当サイトは概ね4000位近辺にあり、excite社のあまたのブログの中で上位1%以内の位置に付けております。
 閲覧記事数とは訪問者が何ページの記事を閲覧したかを示したものです。訪問者数の3倍程度の値を示していることから、一旦来訪した人はあちらこちらの数ページの記事を散策して頂いていることが窺えます。

▼各記事へのアクセス状況
 このサイトではどの記事にアクセスされたかがカウントされており、毎月のアクセスランキングが100位まで集計されています。表3はそれを基に最新の3ヶ月間の上位20個を抜き取ったものです。f0300125_0222749.jpg
この表からは極めて広範囲な記事が読まれていることが窺えますが、「新しい集いの案内」や「入会の案内」等のコーナーのアクセスが上位を占めていることは、このサイトが入会案内、集いの案内等、広く会員内外への広報の役に立っていていることを示しているものです。それは最近、このサイトを見て集いに参加を希望される会員外の近隣他府県の方が出始めていることにも表れています。
 なおそれに続く会報の個別記事(表中斜体文字で表記)へのアクセスランクは毎月変動しますが、その内最新号の記事を除いた上位の3記事を、サイトのトップページで「前月のアクセスtop3」として紹介しております。毎回思わぬ記事がランク入りしますので、それを懐かしく再読するのも楽しみの一つです。

4.併設掲示板も

 このサイトでは会員の皆様に気軽に使って頂ける掲示板を併設しており、リニューアル版として開設して二周年を経過しました。ただ今お寄せ頂いている記事数は56個、アクセスが3700件にのぼっており、会員の方が参加された種々の行事の紹介等の記事が数多く寄せられています。
 この掲示板の特徴はメッセージを寄せて頂くだけでなく、写真の掲載や外部へのリンクが簡単にできることです。御利用は容易であり、以下のリンクの取説をご参照いただきながらこれからも益々のお気軽なご利用をお待ちしております。

5.おわりに

 以上、お陰様で八幡歴探サイト(ブログ版ホームページ)は、掲載記事数、アクセス数ともに順調に増加しております。記事数がここまで蓄積してきますと講演会記録を始めとして、いずれもが貴重な八幡の歴史のデータベースといった様相を帯びてきていることを実感している次第です。また広く本会の内外からアクセスされていることにも感動しております。今後も引き続きより充実した情報が閲覧しやすいサイトを目指していく所存です。皆様からも情報や提案をお待ちしていますので、どうぞよろしくお願いします。

 なおこのサイトはブログをベースとして制作してはいますが、ブログの範疇を超えるホームページ並みの構成や読みやすさを目指して制作、運用してきました。そのために通常のブログでは使わないホームページ用のソフトウェア言語(html表記)を随所に用いております。従ってそうした技術面を含めて、このサイトは開設から今に至るまで一貫して茨木市在住の田中満男氏の全面的な協力を得ていることを、謝意をこめてここに付記しておきたいと思います。
by y-rekitan | 2017-01-20 05:00 | Comments(0)

◆会報第77号より-end

この号の記事は終りです。


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by y-rekitan | 2017-01-20 01:00 | Comments(0)