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◆会報第78号より-top <スクロールだけで全記事が読めます>

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
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◆シリーズ:“心に引き継ぐ風景” ⑨◆
◆《講演会》謡曲から見た八幡◆
◆シリーズ:“八幡の古墳と鏡” ②◆
◆シリーズ:“五輪塔あれこれ” ⑨◆
◆石清水八幡宮を指し示す「八幡宮道」の道標の数々◆



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by y-rekitan | 2017-03-22 15:00 | Comments(0)

◆会報第78号より-01 高野道

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心に引き継ぐ風景・・・⑨
橋本から交野山を目指した高野道
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 石清水八幡宮の遷座(貞観元年・859)以前から淀川にかかる山崎橋 (神亀二年・725)を渡り、橋本から南方向にポッコリ膨らんだ交野山を目印に進む高野道があった。
 橋本から楠葉中ノ芝、野田大師堂付近から細い畦道が続き、かすかに古道の雰囲気を残す道を、楠葉朝日町の「やわた・はし本道標」、「七ツ松石碑」、「だるま堂道標」を見て、少し南に行くと八幡金振方面に向かう「八幡道」に合流する。この八幡道をやや西方向から招提元町に入れば、整然とした招堤の屋敷街を通り抜け、招堤南町の「日置天神社」に到る。
 日置天神社由緒に「中世におけるこの付近は、高野街道筋に発達した集落として賑わい、社寺が甍(いらか)を競ったという。しかし、南北朝の動乱に際し、たびたび戦禍に見舞われ、民家・堂塔ともに灰燼(かいじん)に帰したと伝えられる」とあって、古くは高野街道筋として繁栄した集落だったようだ。出屋敷や津田の集落も日置天神社から穂谷川を越えると眼と鼻の先となる。弘法大師空海が高野山への道をとったという古い街道のことを高野街道と云うなら、八幡宮遷座以前から高野山を目指すこのルートこそ弘法大師空海が歩いた道であろう。
(写真と文 谷村 勉) 空白
  
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by y-rekitan | 2017-03-22 12:00 | Comments(0)

◆会報第78号より-02 謡曲

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《会員研究発表》
謡曲から見た八幡

2017年2月  松花堂美術館講習室にて
猪飼 康夫 (会員)


 2月15日(水)、午後1時30分より、松花堂美術館にて表題の会員研究発表がありました。能や謡曲のあらましにはじまり、八幡を舞台にした謡曲の数々、能や謡曲の文化を次の世代に残す取り組みなどが実演を交えて発表されました。 以下に概要を報告します。参加者40名。

1、謡曲とは何か

 謡曲(ようきょく)とは、能楽の脚本のことです。シテ方などが身に着ける装束、能面の種類などが紹介され、登場人物や地謡の台詞、物語などが綴られています。
 続いて、能舞台の様子が語られ、猪飼氏自身が能装束や能面を付ける場面が紹介されました。f0300125_20544728.jpg 能面は通常シテ方が付けますが、面(おもて)をつけない場合もあります。それを直面(ひためん)といいます。直面で台詞を言う場合、面を付けた時と同様に口をパクパク開けないようにすることが求められます。まるで腹話術をするようです。舞台の後ろの演奏者を囃子方(はやしかた)といいます。向かって右から笛、小鼓、大鼓、ばちを持った太鼓と並びますが、この並び方は雛祭りの五人囃子と同じです。
 続いて、謡曲の種類として素謡(すうたい)、連吟(れんぎん)、独吟(どくぎん)の種類があること、謡(うたい)と唄や歌との違いが説明されました。謡は正座して朗詠するものですが、舞は手足を動かしてしぐさや感情を表現するものです。仕舞といいます。舞と踊りは異なります。大きな違いは、舞はほとんど中腰で、腰の位置がいつも一定ですが、踊りは腰の位置が上下します。 
         
2、謡曲のふるさと八幡 

  八幡は謡曲のふるさとと言われるくらい数々の作品があります。「弓八幡」「放生川」「女郎花」がそうです。

弓八幡(ゆみやわた)

 謡曲「弓八幡」の物語は、後宇多天皇から参詣の命を受けた臣下が、石清水八幡宮へやって来ることから始まります。f0300125_21163261.jpg臣下は、多くの参詣者の中に、袋に納めた弓を携えた老人を見つけ、尋ねますと「私は長年この八幡宮に仕えている者ですが、後宇多天皇に弓を捧げようと、貴方が来るのを待っていました」と述べ、さらに「弓は袋に納めて、戦わずして天下を治めるように、これが神の思し召しです。自らは高良の神です」と言って消え失せるのです。その後、どこからともなく音楽が聞こえ、芳香が漂い、高良の神が姿を現し、高良の神は、この世の繁栄を祝い、八幡宮の神徳を讃え、舞を舞うのです。「弓八幡」は、戦わずして世を治めることを説いています。

放生川(ほうじょうがわ)

 謡曲「放生川」は、平安時代から続く石清水八幡宮の行事 放生会(ほうじょうえ)をもとに作られています。
 男山八幡宮の祭りの日に鹿島の神主が参詣すると、魚を桶に入れた老人と出あいます。「神事の日になぜ殺生するのですか」と尋ねると、老人は「今日は生き物を放つ放生会です」と答えます。そして、魚を放生川に放し神事のいわれを語り「私は、石清水八幡宮に仕える武内の神です」と名乗り、山頂に立ち去ります。やがて月が上り、神楽の音と共に武内の神が現れ、平和の御代を讃える舞を舞います。

女郎花(おみなめし)

 謡曲では「女郎花」を「おみなめし」と読ませています。大変人気のある曲で、よく演じられています。肥後の国の僧が都へ上る途中、石清水八幡宮に参詣しようと男山に立ち寄りますと、山麓には女郎花が美しく咲き乱れています。旅僧が土産に一本手折ろうとすると、一人の老人が現れてそれを止めます。二人は古歌を並べ合って問答しますが、旅僧が古歌に詳しく、感心した老人は花を折ることを許します。老人は、八幡宮の社前に案内し、更に男塚・女塚を見せ、これは小野頼風夫婦の墓で、自分が小野頼風であることをほのめかし、消え失せます。旅僧が、土地の人から詳しく頼風夫婦の話を聞き、夜もすがら菩提を弔っていると、頼風夫婦の霊が現れます。頼風の霊は、夫の足が遠のいたことを恨み女が放生川に身を投げたこと、女塚から生えだした女郎花がまるで頼風を避けるように靡きしりぞいたこと、自分もまた身を投げたことを語ります。そして、今はともに地獄に落ち、邪淫の悪鬼に責められ苦しんでいるので、どうか助けてほしいと僧に救いを求めます。女塚は女郎花塚といって、松花堂庭園に立派に保存されていますが、男塚(頼風塚)は、八幡今田の民家に囲まれた狭い空地にひっそりと残されています。生い茂る芦が女塚の方向をむいているので、“片葉のよし”ともいわれ、哀れを誘っています。
 
3、能の生い立ち

 室町時代、足利義満と観阿弥・世阿弥の親子が今熊野神社で出会ったことから、能の演者が時の権力者に寵愛されるようになります。以後、能が大いに発展するのです。それは戦国時代にも引き継がれ、信長、秀吉、家康ら天下人によって能は大いに保護されます。
f0300125_22122720.jpg 一般に武家は公家とことなり文化的アイデンティティを持っておらず、そのことにコンプレックスを持っていたと言われます。能はそのような武家の劣等意識を補ってくれたのです。江戸時代には幕府からの庇護のもと、能楽者は扶持され経済的に自立できました。ところが、明治時代となり、能楽者は独自の運営を余儀なくされ、観世など流派ごとに経営を維持するよう努力するのです。
 そして現代、古典文化財として、ユネスコ世界遺産に登録されるようになりました。
 
4、次世代にむけて

 猪飼さんは、能の文化を次世代につなげるために様々な取り組みを行ってきました。小学校での授業もその一つで、かつて八幡東小学校や東大阪市の子どもたちに能についてじかに指導されてきました。f0300125_21353731.jpg また、企業研修会に呼ばれたり、八幡地域では「謡曲と朗読」と称して夫婦で実演し、謡曲同好会を立ち上げ、毎年発表会を持ったりしています。
 なお、平成5年8月9日に、石清水八幡宮の頓宮にて薪能が催され、かがり火のもと「弓八幡」などが観世流の片山九郎右衛門さん一行によって熱演され、市内外から集まった2000人の観客を魅了したとのことです。
<文責 土井三郎>--

『一口感想』より

八幡の地に因んだお能、謡についての猪飼先生のご講演を拝聴して、八幡が文化的に大切な地と認識しました。古典芸術を次世代に継ぐための猪飼先生のご尽力、ご活躍に感動しました。仕舞の実演、お能のビデオもありがとうございました。(M)
能の歴史や概要を教えていただき、大変参考になりました。機会がありましたら能舞台を鑑賞したく思いました。(A)
能の解説は理解できた。しかし、本題の「謡曲から見た八幡」の説明は物足りなさを感じた。例えば、「放生川」などが生まれた背景、八幡がなぜ「謡曲のふるさと」と呼ばれるのか。その理由が知りたかった。(B)
Bさんの疑問に答えられるかどうかわかりませんが、八幡がなぜ「謡曲のふるさと」になるのか、その理由を考えてみました。一つには、石清水八幡宮の存在があります。謡曲が生まれ、さかんに演じられた中世、人々は現代人以上に信仰心が篤く、石清水八幡宮を崇敬したのでした。そんなことから八幡神の神徳を称える謡曲が生まれたのです。もちろん、八幡宮と朝廷との深い関係が背景にあります。もう一つの理由として、和歌の力が大きかったと思います。鎌倉時代に、「古今和歌集」の序文の解釈本が生まれ、その中から「高砂」や「松虫」などの謡曲が誕生するのです。八幡を舞台にした「女郎花」もその一つです。(土井三郎)

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by y-rekitan | 2017-03-22 11:00 | Comments(0)

◆会報第78号より-03 古墳と鏡②

シリーズ「八幡の古墳と鏡」・・・②
八幡の古墳と鏡(2) 
-八幡出土の三角縁神獣鏡(1) 内里古墳-

濵田 博道 (会員) 


1.三角縁神獣鏡の副葬状態とその意味

三角縁神獣鏡の副葬状態

 1953年、京都府木津川市・椿井大塚山古墳(つばいおおつかやまこふん:国史跡)で三角縁神獣鏡が大量に発見されました。しかし府から依頼を受けた京都大学の研究者たちがかけつけた時、半壊の石室にはわずかに2枚の鏡しか残っていませんでした。鏡は鏡面を石室の側壁に向けて木棺のまわりに立てかけてあったそうです。他の三角縁神獣鏡はバケツ3杯に入れられた状態で、副葬状況はわからなくなっていました。(注1)
 しかし1997年に発掘された天理市・黒塚古墳(国史跡)は未盗掘だったため、副葬の詳しい状況が明らかになりました。発見された33枚の三角縁神獣鏡は棺(ひつぎ)の外に被葬者の頭を取り囲むように立てかけられ、原則として鏡面を木棺側に向けて被葬者を守るため、逆によみがえるのを防ぐために鏡の力が使われたかのように副葬されていたとのことです。棺内の頭の傍には画文帯神獣鏡が1枚立てかけられていました。(注2)このような副葬状態から、次のような疑問が持ち上がりました。“三角縁神獣鏡が魏の皇帝から貰った大切な鏡だとすれば、棺の外に置かれているというのは変ではないか。また、卑弥呼の百枚の鏡は公の鏡で、『魏志』倭人伝には魏の皇帝は銅鏡を「ことごとく以て汝の国中の人に示・・・」と書いてあるが、その約3分の2を椿井大塚山と黒塚・2つの古墳の被葬者が持っている、そういう鏡を個人の古墳に副葬しているというのはどういうことだろうか”など。(注3)そうした中、他の未盗掘古墳の発掘からも三角縁神獣鏡の副葬状態がわかってきました。例えば、滋賀県東近江市・雪野山古墳(前方後円墳、古墳時代前期前半、国史跡)の発掘で、被葬者が葬られた仕切り板の外側と足元に計3枚の三角縁神獣鏡が副葬されていました。被葬者の頭付近に立てかけられていたのは別の鏡《仿製内行花文鏡(ぼうせいないこうかもんきょう)》でした。
副葬状態の意味するもの

 こうしたことから、“三角縁神獣鏡はあまり貴重な鏡ではなかったのではないか”、“葬具としての意味をもっていたのではないか”、“ヤマト王権が葬具用に配布した鏡ではないか”、という見解も出されました。
 しかし、すべての三角縁神獣鏡が最も大事なものとして扱われなかったかというとそうではありません。例えば島根県神原神社古墳(かんばらじんじゃこふん)(古墳時代前期)では、被葬者の頭の横に三角縁神獣鏡が置いてありました。この鏡は魏の年号、「景初三年」(239年)銘の鏡でした。また、高槻市安満宮山古墳(あまみややまこふん)(3世紀後半)から5枚の鏡が出土していますが、2グループに分けて魏の年号・青龍三年(235年)銘をもつ鏡や三角縁神獣鏡が2枚副葬されていました。1号鏡である三角縁神獣鏡は布でくるまれていました。
 これらのことから560枚近くの三角縁神獣鏡の中で、卑弥呼が貰った鏡があるとしてもそれはその中の一部、紀年鏡(中国・魏の年号などが入った鏡)などが候補ではないかという説が出されるようになりました。

2、内里古墳出土の三角縁神獣鏡

 八幡から出土した3枚(内里古墳・西車塚古墳・東車塚古墳から各1枚)の三角縁神獣鏡はどうなのでしょうか。内里古墳出土の鏡からみていきます。

内里古墳の謎

 内里古墳については、出土した「三角縁神獣鏡の副葬を考える以前の問題」があります。その名は文献に時々登場しています。――例えば、国立歴史民俗博物館『研究報告第56号』、京都大学文学部『椿井大塚山古墳と三角縁神獣鏡』、近つ飛鳥博物館図録『銅鏡百枚』、奥野正男『邪馬台国の鏡』新人物往来社、樋口隆康『三角縁神獣鏡綜鑑』新潮社、橿原考古学研究所『黒塚古墳調査概報』、藤田友治『三角縁神獣鏡その謎を解明する』ミネルヴァ書房、京都大学・橿原考古学研究所・東京新聞『大古墳展-ヤマト王権と古墳の鏡』、『サンデー毎日-卑弥呼の鏡-』(1998年3月4日号)など。しかし内里古墳は内里のどこにある(あった)のか。不思議なことに、『八幡市誌』『八幡市遺跡地図』には載っていません。『八幡市遺跡地図』には内里池南古墳というのが載っていますが、築造時期・墳形・内部構造・出土遺物・発掘状況などは明らかにされていませんので、内里古墳と内里池南古墳の関係は不明です。
 一方、内里古墳の名の出どころを調べていくと、一冊の本にたどり着きます。本の名は『梅仙居蔵日本出土漢式鏡圖集』。(注4)この本は倭鏡の収蔵家として有名な高石市の山川七左衛門氏が所蔵の鏡のうち漢式鏡22枚を写真入りで図集として出版(大正12年[1923年])、京都大学の梅原末治氏がその解説を加えたものです。その中の1枚が内里にある古墳出土の三角縁神獣鏡です。梅原氏は解説の中でこう述べています。「本鏡は山城綴喜郡有智郷村字内里の発見に係るを以て、新に一資料加えたるものと云ふ可く、鏡面に今布片の附着し、また背面に粘土及び朱の残存などあるは、同鏡の出土せる墳墓が我が古式の墓制の類例多き粘土槨なりしを推察せしめて、古墳の研究上にも注意を惹く。なほ出土の古墳は丸塚(円墳)にして其の発掘は明治二十五六年(1892~93年)の頃なりしが如し。」[原文はカナ交じり文。()内は筆者追加] “有智郷村字内里”にある(あった)はずの内里古墳ですが、現在確認ができません。ご存知の方は教えてくださるようお願いします。鏡は山川七左衛門氏が亡くなった後、山川家の手を離れ、最後に広島県の耕三寺博物館の所有となりました。博物館では常設展示をされていないので見ることはできませんが、行方不明にならなくて本当に良かったと思います。
内里古墳出土の鏡の副葬状態

 鏡の副葬状態に関しては古墳の確認もできない状態ですので「わからない」のですが、鏡が「布にくるまれて、鏡に背面の粘土と朱が残っている」ことを考えると大切な鏡として副葬されていたと思われます。

内里古墳の鏡とその同笵鏡[同型鏡]

 三角縁神獣鏡の大きな特徴としてその種類の多様性(約200種)、同笵鏡[同型鏡](同じ鋳型⦅これを笵(はん)といいます⦆または原型で造った鏡)の多さがあります。88組275枚の同笵鏡[同型鏡](注5)(1995年現在)があるといいます。内里古墳の三角縁神獣鏡は1980年代終わりころまで、「同笵鏡[同型鏡]なし」と報告されていました。f0300125_11051761.jpgところが、1989年、徳島市教育委員会が国府町の宮谷古墳(前方後円墳、全長37.5m、3世紀後半から4世紀初めの徳島県最古級の古墳、阿波史跡公園内)で三角縁神獣鏡を3枚発掘、そのうちの1枚が内里古墳の鏡と同笵鏡とわかりました。これは驚きであると同時に疑問も湧きました。なぜ、遠い徳島県の古墳で八幡市の内里古墳と同じものが出土したか、両古墳の被葬者はどういう関係にあったのかなど。
 (徳島市国府町矢野遺跡からは突線紐式袈裟襷紋銅鐸(とつせんちゅうしきけさだすきもんどうたく)[97.8cm、重要文化財]が出土。八幡市式部谷からも同式銅鐸[66cm]が出土。状況が似ていて興味深い。)

ヤマト王権とのつながり

 約10年後の1998年、さらに新たな発掘・発見がありました。f0300125_11303048.jpg大和・天理市黒塚古墳(右写真)の発掘です。この発掘は八幡にとって大変重要でした。なぜか。黒塚古墳発掘の三角縁神獣鏡33枚のうち、第1号鏡と内里古墳の鏡が同笵鏡だと判明し、大和中枢の古墳と八幡の古墳の接点が出てきたからです。同笵鏡ということは阿波・宮谷、山代・内里、大和・黒塚の3つの鏡は製作地が同じであること、本来一か所にあったものがそれぞれの地域に分配されていったということを示しています。こうして黒塚・宮谷・内里の三者がネットワークでつながりました。徳島市立考古資料館には三者-黒塚・宮谷・内里-のネットワークを示す地図のパネルが展示されています。(右写真)
f0300125_11382415.jpg『日本考古学年報42(1989年度版)』(吉川弘文館)で三宅良明氏は次のように述べています。
「(宮谷古墳の三角縁神獣鏡と)同笵鏡と思われるものに、京都府・椿井大塚山古墳の北西約12kmに位置する八幡市(旧綴喜郡有智郷村)内里古墳(円墳・粘土槨?)出土といわれる銘帯六神四獣鏡(広島県・耕三寺博物館蔵)が存在する。両者の三角縁神獣鏡を比較してみると、外区の外向鋸歯(きょしもん)文帯などで大部分が一致するが、神像の福神などの文様などに相違点が認められる。」「三角縁神獣鏡が、畿内中枢勢力(初期大和政権)が地方勢力との間に政治的関係を確立した証として分配されたという前提に立てば、宮谷古墳の被葬者ひいては3世紀末から4世紀初頭のこの地域(注6)もまた畿内を中心とする勢力あるいはその傘下の地方勢力と強く結びついたことが物的証拠によって証明されたことになる。」
 大和中枢の黒塚古墳の鏡と同笵鏡を出土する古墳は、西は九州・福岡県から東は関東の群馬県まで全国の古墳に及んでいます。(注7)黒塚古墳の被葬者がいかに多くの豪族と同盟関係を結んでいたかがわかります。その同盟関係の中の一豪族として内里古墳の被葬者もいます。黒塚古墳から出土した多くの鏡と各地の鏡が同笵鏡ということについて大阪大学の都出比呂志名誉教授は次のように言っています。「大和を中心として、大和から各地、九州から関東に至る豪族に鏡を配布していたのではないか。そのことは、大和を中心とした豪族のまとまりが、すでに3世紀後半から4世紀の初めにかけて、できあがっていたという、日本の国家の形成を考える上でも、非常に重要な意義がある」(注8)
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◆本画像には提供写真が含まれており、転載を禁じます。

内里古墳の築造時期

 ここで新たな注目点が浮かび上がります。ネットワークを形成していた三者ですが、黒塚古墳の築造は3世紀後葉、徳島・宮谷古墳は3世紀後半~4世紀初頭です。では内里古墳はいつ築造されたのか?八幡での古墳築造は4世紀後半ころから始まるとされています。茶臼山古墳、ヒル塚、西・東車塚古墳、石不動古墳の築造はいずれも4世紀後半からです。黒塚、宮谷古墳築造の3世紀後半から70~100年近くの時間ギャップをどう考えたらいいか。これは何を意味しているか。普通、築造年代は土器・埴輪・古墳の墳形・埋葬施設・副葬品などを総合して推定されます。しかし、残念なことに内里古墳は古墳自体がどこにあるのかはっきりしないため、根拠とすべきものがほとんどありません。ただ、梅原末治氏が指摘しているように鏡に“粘土が付着”していますので、“埋葬施設は粘土槨ではなかったか”と推察されます。そうだとすると「粘土槨は竪穴式石室の簡略化されたもので、四世紀半ば以降」(注9)となりますので、内里古墳はやはり黒塚、宮谷古墳よりかなり後、築造されたことになります。鏡が大和中枢から三世紀半ばに配布され、同盟関係が結ばれたとすると、伝世(でんせい)されていたのでしょうか。

内里古墳の鏡は古式の三角縁神獣鏡

 また、黒塚古墳出土の三角縁神獣鏡はすべてA・B段階のもの(240~260年ころまでに配布された三角縁神獣鏡の中でも古い鏡)と分析されていますから(注10)その同笵鏡である内里古墳の鏡も当然A・B段階のものということになります。一回目で述べたように西車塚・東車塚古墳の三角縁神獣鏡はC段階のものですから、内里古墳の鏡はそれらより古い鏡ということになります。八幡出土の三角縁神獣鏡中では一番古いと考えられるのです。(このことについてはもちろん、最終的には専門家による厳密な分析・鑑定が必要なことは言うまでもありません。)
 このように内里古墳の所在地・同笵三角縁神獣鏡の関係、大和中枢の豪族との関係、鏡の伝世など考えていくと、謎だらけで実に興味深い古墳であり、鏡であるといえます。
内里古墳鏡の銘文

 最後に内里古墳出土の三角縁神獣鏡の銘文についてみてみましょう。
 鏡名は正確には「三角縁銘帯六神四獣鏡」といいます。三角縁の内側に銘文があり、内区には6体の神像と4獣像が描かれているからです。内里古墳出土の鏡の銘文はところどころ摩滅していて全文は読めませんでしたが、黒塚古墳や宮谷古墳の鏡から、明らかになりました。次のようです。

銘文 張是作竟甚大好上神守及龍虎身有文章口銜巨古有聖人東王父渇飲飢食

(読解:『張氏が作った鏡はたいへん良い。(鏡の)上に神獣および龍虎があり、文章があり、に巨《矩(く)、さしがね。取っ手のついた直角に折れ曲がった定規。》を銜(くわ)えている。古(いにしえ)に聖人の東王父がいる。渇(かわ)けば飲み、飢えれば(棗(なつめ)を食うを省略)』
    は別ワク。君に宜しく、高(い位になる)に宜しい。)――読解は藤田友治『三角縁神獣鏡その謎を解明する』ミネルバ書房、1999
 
 京都大学名誉教授で泉屋博古館館長・橿原考古学研究所所長だった樋口隆康氏は『三角縁神獣鏡綜鑑』の中で、銘文を21種類に分析・分類しています。上の銘文はその中の一つですが、内里古墳の鏡および同笵鏡[同型鏡]は一部を省略しているようです。『三角縁神獣鏡綜鑑』には元のものと考えられる全銘文が載っています。次の通りです。
張是作竟甚大工好、上君神守及龍虎、身有宣文章口銜巨、古有聖高人東王父西王母、渇飲玉泉飢食官棗、[五男二女]長相保吉昌
 「張是」(=張氏)は製作者の名前です。鏡の製作者として陳氏とともに有名です。張氏は2派以上に分かれて製作していたといいますが、詳しいことはわかりません。このような製作者記名鏡は三角縁神獣鏡全体の一割強です。藤田友治氏は「銘文に西王母が省略されているのは発注者が男性であり、黒塚古墳の被葬者を考える一視点を提供している」と指摘しています。
 最近、銘文の韻(いん)から考えて、三角縁神獣鏡は日本国内で鋳造されたと主張する説が出されています。(注11)韻とは決まったところに繰り返す同種類の音をいいますが、韻を踏むことは詩歌を作る時の大原則であるそうです。中国で発掘される鏡の銘文にはそれがあるけれども、三角縁神獣鏡にはそれがない、だからこの鏡は韻を理解できない倭人が造ったもの、つまり日本製だというのです。しかし、卑弥呼の時代に文字を読み書きできる倭の工人がいたかとなると疑問が残ります。中国から工人が渡来してきて造ったとの説が有力ですが、証明するまでには至っていないようです。

おわりに

 いずれにしても、3世紀半ばに鋳造された鏡がヤマト王権から八幡の豪族に配布されていたこと、いつ配布されたかははっきりしないけれどそのころ八幡には鏡を配布される有力豪族がいたこと、その豪族を支える集落があったと考えられること、ヤマト王権から配布・分与される豪族のネットワークが各地に出来上がっていたこと、などは疑いないでしょう。八幡では、2世紀には66cmもの優美な銅鐸を持つ勢力がいました。京都府全体の出土銅鐸について調べてみると、この近畿式突線紐式銅鐸(とっせんちゅうしきどうたく)(注12)は京都府内では丹後・与謝野町比丘尼(びくに)城出土銅鐸(重要文化財)、舞鶴市と八幡市(式部谷)のもの、計3個を確認することができました。つまり“2世紀には少なくとも丹後・舞鶴・八幡に有力な勢力があった”といえるのではないでしょうか。(もちろんこの他にも山科の中臣遺跡などにみられるように有力な勢力はいたことは言うまでもありません。)そして4世紀末頃には天皇に意見をしていた内里の豪族(ごうぞく)甘美内宿禰(うましうちのすくね)(注13)(『日本書紀』応神9年4月条)がいました。(伝承記事になりますが・・・。)こう考えてくると昔の八幡をもっと知りたくなってきますね。
 次回は「西車塚古墳・東車塚古墳の三角縁神獣鏡について」考えてみます。 
(つづく) --

(注1)樋口隆康『シルクロードから黒塚古墳まで』、学生社、1999
(注2)図録『卑弥呼』弥生文化博物館、2015
橿原考古学研究所『黒塚古墳調査概報』学生社、1999
(注3)石野博信ら『三角縁神獣鏡・邪馬台国・倭国』新泉社、2006
(注4)『八幡遺跡地図』には「王塚古墳の文献」の一つとして『梅仙居』が載っています。
(注5)同笵鏡と同型鏡はその製法において違いがあり、同じ形・大きさ・文様の鏡でもそれを同笵鏡と考えるか同型鏡と考えるか研究者によって違います。ここでは同笵鏡[同型鏡]を単に同笵鏡と記すことにします。
(注6)徳島市国府町辺り
(注7)三角縁神獣鏡同笵鏡[同型鏡]分有図(分布図)は次の本に掲載されています。
白石太一郎ら『纏向発見と邪馬台国の全貌』、KADAKAWA、2016、P227
京都大学ら『大古墳展』、2000、P85
藤田友治『三角縁神獣鏡-その謎を解明する』、ミネルヴァ書房、1999、P322
(注8)NHK取材班「鏡が映す古代大和政権/黒塚古墳と三角縁神獣鏡」『堂々日本史第23巻』、KTC出版、1999
(注9)奈良文化財研究所『日本の考古学』小学館、2005
(注10)福永伸哉『三角縁神獣鏡の研究』大阪大学出版会、2005
(注11)森博達「毎日新聞2000年9月12日」付け
島根県神原神社古墳(かんばらじんじゃこふん)出土の鏡の銘文についての記事から
(注12)突線紐式銅鐸は1式~5式に区分されており、八幡・式部谷出土の突線紐式銅鐸は「3式」です。『豊饒をもたらす響き 銅鐸』弥生文化博物館、2011では「3式は紀元2世紀」という年代観を示しています。
(注13)八幡市・内神社の祭神。『古事記』では「味師内宿禰(うましうちのすくね) 《こは、山代の内の臣が祖ぞ》」と記述されています。武内宿禰(たけうちのすくね)とは異母兄弟にあたります。


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by y-rekitan | 2017-03-22 10:00 | Comments(0)

◆会報第78号より-04 五輪塔⑨

シリーズ「五輪塔あれこれ」・・・⑨
なぜこの地に

野間口 秀國 (会員) 


 第1章「現場の解説板」で、現場に建つ解説板に書かれていることを紹介しましたが、その最後には「・・・ 刻銘がなく、造立の起源が不明であるためか、この大石塔にまつわる伝説は様々である。」とあります。現場を訪れるたびに「なぜ?」の疑問が浮かびますが、それらは「なぜこの地に建つのか」「なぜ刻銘が無いのか」などといったとても素朴な疑問なのです。

 2014年秋に、歴探主催による「地誌に見る八幡」と題した伊東宗裕氏の講演会が催されました。その時の配布資料(*1)に、次のように書かれていましたのでその一部を引用したいと思います。 曰く、「八幡を歩いて目につくのは三宅安兵衛碑ですね。実際にはその意志をついで息子清次郎が建立したので三宅安兵衛遺志碑といういいかたもされます。こういった史跡碑というものは、一般的によく知られた、ということは地誌ですでに紹介ずみのところに建てることが多いようです。しかし、三宅安兵衛碑についてはこの原則があてはまらない。八幡で言えば神応寺となりの航海記念塔など。」 引用終わり: ここでは「神応寺となり」と書かれています。
 また、『男山考古録 巻十』(*2)の「大石塔 或曰經塚」の項には、「極楽寺鐘楼の西に在り、谷不動道の北側、舊図にも見えて古在なから、由來不詳とし其實を知人無しといふ、・・・」とあります。 この項には他にも、誰が、何の理由で、いつ、などについての言い伝えが書かれています。しかし、ここでも「なぜこの地に」については具体的に触れることなく「極楽寺鐘楼の西」、「谷不動道の北側」とのみ書かれているのです。

 「なぜこの地に」と考える時、上記に加えて神應寺について書かれた新聞記事(*3)はとても役立ちました。その記事には、神應寺は石清水八幡宮を創建した行教が、平安前期に建てた寺とあります。寺の本堂には重要文化財の「行教律師坐像」がおかれ、境内には行教の墓があると書かれています。今一つは寺宝の「篝火御影(かがりびのみえい)」と称される、僧侶姿の八幡神が剣を手に鎮座し、両側に武具を付けた八神が並んだ掛け軸です。元寇の調伏祈願がなされた当時の原本を江戸時代に模写したと伝えられる掛け軸は、鎌倉時代のことを語っているように思えるのです。さらに、八幡大神が男山に鎮座したとされる4月3日の夕方には、石清水八幡宮から宮司、神職、巫女などがこの寺を訪れて行教の墓参がなされるとも書かれています。寺について分かり易くまとめられた記事を読み返してもなお、「五輪塔がなぜこの場所に」、に関しては何も書かれていませんでした。
 とは言え、これらに加えて『八幡市誌 第一巻』や『山州名跡志巻之十三』に書かれていることがらなども読み進めると、この地は石清水五輪塔が建つに最も相応しいところだったのだろうと思えるのも不思議です。

 2つ目の不思議は「なぜ石清水五輪塔には刻銘が無いのか」ということです。その理由と思われることについて、嘉津山清氏は『石造文化』(*4)に次のような見解を述べられていますので引用してみたいと思います。 曰く、「石造物がある限り、当然それを製作した工人がいるが、遺品にその名を残しているのは稀である。(中略) 層塔・宝塔・宝篋印塔といった建造物的な石造物的な石造物に作者名を記したものが多く、一石刻成の板碑・五輪塔といったものには、板碑の一部を除いて皆無といってよいであろう。仏像や銅鐘、鰐口といった金工品のものにはその多くが堂々と大工名を記しているのに比して、石造物は他の梓人より身分が低かったのか、遠慮したのかその名を残してはいない。」 引用終わり: 氏の見解にもあるように、これまでに見ることのできた数々の五輪塔には刻銘が残されていませんでした。それを思うと、刻銘が残されている五輪塔がいかにありがたいか、と実感できた例を書きたいと思います。

 この1月に訪ねたその五輪塔は木津川市木津清水にある「木津惣墓五輪塔」です。塔の傍に建つ同市教育委員会の解説板(*5)には、塔が重要文化財(昭和32年に指定)で、花崗岩でできた高さ3.6mの典型的な鎌倉時代の五輪塔であり、惣墓とは一般庶民の間に個人墓が普及する以前の葬礼の一形態で共同墓地である、ことなどが書かれています。f0300125_20114993.jpgそして驚くべきことに、この五輪塔には、地輪(最下部の方形部分)の東、北、南の三面に年度を含んだ刻銘が残されているのです。ちなみに、東面には正応5年(1292)とあり、北面には永仁4年(1296)が、そして南面には永禄5年(1562)と異なる3つの年号が刻まれていることも併せて解説板が教えてくれます。前章で、「石清水五輪塔造立の発願者が誰か」に興味あると書きましたが、この木津惣墓五輪塔は、刻銘に「和泉木津僧衆等廿二人の勧進による」とあり、造立時の様子の一端も分りました。今となって叶うことではありませんが「石清水五輪塔にも刻銘を残して欲しかったな」と、つくづくそう思いました。

 さて、前章で文覚上人墓五輪塔などについて書かせていただきましたが、本章では1878(明治11)年に、明治政府の招聘で東京帝国大学(現:東京大学)の政治学教員として着任したアメリカ人、フェノロサの墓(五輪塔墓)について書いてみたいと思います。石清水五輪塔についてあれこれ調べていた2015年の秋、偶然目に入ってきたのが、とある広報誌(*6)に紹介されていた「大津の景勝めぐり・法明院庭園」の記事でした。同地を訪れるのは暫くしてからとなりましたが、記事の内容はとても興味深いものでした。「法明院は、天台寺門宗総本山園城寺(三井寺)北院の一つで、大津市山上町にあり、江戸時代の初めに創建され、一時廃絶の後、1724(享保9)年に義瑞和尚が再興したと伝えられる。また、この寺は明治時代に日本美術を世界に紹介したアメリカ人、アーネスト・フェノロサの墓がある寺としても有名である。」 記事はこのように続きますが、内容もさることながら、掲載された墓の写真が五輪塔であることに目が留まり、更に調べを進めてから現地を訪れました。

 『フェノロサと魔女の町』(*7)と題する本を読むと、彼の経歴や業績、墓の謎などが分りました。アーネスト・フェノロサは1853年に米国マサチューセッツ州(アメリカの北東部の州)ボストン郊外で生まれ、ハーバード大学・神学科を卒業、同大大学院を出て、神学校、ボストン美術学校で学びました。前述のとおり、1878(明治11)年に25歳で来日しましたが、この招聘は彼と同郷の、日本国内でも知られた大森貝塚の発見者、エドワード・モースであったようです。フェノロサ婦人の回想によると、東大就任を決めたのは初代内閣総理大臣の伊藤博文であったようですが、この伊藤によって政府の進める「日本の伝統美術の復興」のために美術行政に引き入れられることになります。
 やがて数々の日本の古名画に触れる中で、フェノロサは天台密宗の言葉に理想を見出し、明治18年秋にキリスト教の信仰を捨てて仏教徒へ帰依します。当時の助手であった岡倉天心とともに、近畿地方の古社寺宝物調査を行い、法隆寺を始めとする京都・奈良の古社寺を訪問した記録が残されているようです。岡倉とのつながりで法明院阿闍梨・桜井啓徳師に師事することになり、ここに同寺とのつながりが見いだせるようです。

 f0300125_2017941.jpg彼の功績は明治天皇により外国人としては最高位の勲三等瑞宝章が与えられ、1886(明治19)年の秋に一度帰国します。しかし、1896(明治29)年に再来日、そして4年後にはボストン美術館東洋部長とし帰国して日本美術の紹介をしました。その後、日本政府の要請による欧州視察旅行のさなか、1908(明治41)年9月21日に訪問先の英国で急逝しました。フェノロサの遺志により、遺体は火葬ののち日本に送られ法明院に葬られました。 訪れる人が決して多いとは言えないようですが、私が訪れた時には五輪塔の墓前にはきれいな花が供えられており、彼のファンや美術関係者には大切な場所となっているのであろうことが分りました。

 最後に、木津川市観光商工課よりいただきましたご親切に紙面をお借りして感謝を申し上げます。
(次号に続く)--

参考図書・史料・資料など;
(*1)歴探講演「地誌に見る八幡」(2014.9.14 伊東宗裕氏)の配布資料
(*2)『男山考古録 巻十』 長濵尚次著
(*3)京都新聞記事・2016.11.16付け(探検国宝 石清水八幡宮 神應寺)
(*4)『石造文化』 日本石造文化学会編 日本習字普及協会刊
(*5)現地にある木津川市教育委員会の解説板
(*6)『ほんまる』 大津市生涯学習センターの広報誌・第275号2015.11.1刊
(*7)『フェノロサと魔女の町』 久我なつみ著 河出書房新社刊


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by y-rekitan | 2017-03-22 09:00 | Comments(0)

◆会報第78号より-05 八幡宮道

石清水八幡宮を指し示す--
-- 「八幡宮道」の道標の数々


谷村 勉 (会員)

 八幡とその周辺の「石清水八幡宮」を目指す道には、江戸時代の個性的な道標が現在も残り、古来「やわた道」、「八幡宮道」と呼ばれた事が判ります。
 八幡の道の歴史は数々の道標に導かれる八幡宮参詣道の歴史です。現在も「八幡宮参詣」の道しるべとして残る主に江戸時代の道標の数々を紹介しますが、時代々々に建立された道標の数から、八幡は道標・石碑の町と言っても過言ではありません。八幡の南北に走る「八幡宮参詣道」を最近俄かに「東高野街道」などと言いだした人々は八幡の歴史や聞き取り調査、綿密なフィールドワークを怠ったと思われます。八幡の道の歴史を学べば分る事ですが、「八幡宮道」や「やわた道」などの道標の数々は、これが本来の八幡の歴史街道であることを雄弁に物語っています。「八幡宮参詣道」は八幡を訪れる道として紛れもなく「八幡宮への信仰の道」として機能してきたのでありました。

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① 楠葉野田一丁目の
江戸時代再建の道標

「左  八 ま ん 宮」
-----------
「右  志 み つ」

(文久二壬戌年四月再建・1862)
縦104㎝ 正面幅30㎝ 横24㎝

右側の道標は再建以前の道標(折損か)   「八まん□□」
   (寛政元己□・1789)
縦54㎝ 正面幅24㎝ 横23㎝
橋本経由の八幡宮道と切通を経て八幡志水に抜ける道を示している。


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② 楠葉中之芝一丁目
「久親恩寺」の地蔵道標

「八まん宮道」

(寛保三亥十一月吉日・1743)
縦111㎝ 正面幅27㎝ 横24㎝
地蔵尊像の形態:座像
持ち物:錫杖、宝珠

久親恩寺には道筋の変更や宅地開発などで行き場を失った道標が集められたようだ。


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③ 楠葉中之芝一丁目
「久親恩寺」地蔵道標

「すく 八まん道」

(年代不詳)
縦89cm 正面幅22cm 横17cm
地蔵尊像の形態:立像
持ち物:両手で宝珠

正面、地蔵尊像下の文字は判読困難。「すく」とは、直ぐ、まっすぐ行くと、の意。「すぐ」、「春具」も同じです。


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④ 楠葉中之芝一丁目
「久親恩寺」の地蔵道標

「すく 八まん宮」
「右 かうや 左 はし本道」


(年代不詳)
縦47cm 正面幅30cm  横10cm
地蔵尊像の形態:立像
持ち物:両手で宝珠

「右かうや」の文字は橋本から楠葉中之芝を通り交野山を目標に招堤方面を指している。
橋本・楠葉に旧高野道の存在を証明する大変貴重な道標です。舟形光背の上部は破損している。


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⑤ 楠葉中之芝一丁目
「久親恩寺」の墓碑道標

「右 やわたみち」
「すく 京 み ち」


(天保四巳年四月十八日・1833)
縦77㎝ 正面幅30㎝ 横29㎝

元は京街道沿いにあったようだが、街道筋の変更により寺院内墓地に移転されたようだ。


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⑥ 橋本中ノ町の道標

「八 ま ん 宮」
左り--------
「いせ京伏見」

    
(明和四年丁亥二月・1767)
縦 116cm 正面幅 28㎝ 横 27㎝



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⑦ 橋本北ノ町の道標

「右 八まん宮山道*** 
***これより十六丁」


(文政二己卯年二月吉日・1819)
縦116cm 正面幅25cm 横21㎝

道標の位置が動いている。狩尾社から八幡宮へ向かう道筋を指している。


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⑧ 伏見区淀際目町の道標

「八まん宮ミち」
----------
「か わ ちミち」

(宝暦三癸酉歳四月・1753)
縦126cm 正面幅21cm 横20cm

旧八幡際目郷、昭和 32 年京都市伏見区淀に編入。
旧木津川堤道(奈良道)近くに建っていたとのこと。横のお堂は近隣寺院の廃寺により、住民によって
お堂が建てられ、大日如来坐像等が安置された。


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⑨ 美濃山井ノ元の
「指さし地蔵」道標

「八はたへこれから」

(年代不詳)
縦60cm 正面幅33cm 横18cm
地蔵の形態:立像
持ち物:左手に宝珠

右手で「八はた」の文字を指している、珍しい「指さし地蔵」です。
元は近くの河原地区道沿いにあった。


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⑩ 八幡旦所「青林院」の道標

「西 八幡宮道」

(年代不詳)
全長123㎝ 正面幅19cm 横15cm

倒置


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⑪ 頓宮西の倒置道標
(巨大五輪塔の向い)

正面「左 八幡宮道」
裏面「是より北荷馬口附の者来へからず」


(年代不詳)
全長 280cm  正面幅24㎝ 横 24㎝

角柱の周りに縁取り加工をした立派な道標
道路工事の際、一旦八幡宮に預け、そのままになってしまったのか?


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⑫ 八幡大芝「八角堂」の
役行者道標

「すく 八幡宮」

(慶応三年丁卯八月日・1867)
縦127cm 正面幅24cm 横22cm
役行者座像 持ち物:錫杖、経巻

元は志水大道沿いにあったが、道路工事により八角堂に入った模様。役行者像が彫られている。八角堂は工事中の為、現在入れません(2017.02.10)
(左の写真は神戸市/故荒木勉氏撮影)


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⑬ 正徳 3 年
「御幸道(みゆきみち)」道標

「石清水八幡宮鳥居通御幸道」

『男山考古録』に「正徳 3 年(1713)石清水八幡宮鳥居通御幸道という標碑を建てられたるは、検校新善法寺行清法印也」とある。
 近年、御幸橋南詰に設置されていたが、平成 21 年以降「御幸橋」付替え工事により八幡宮頓宮敷地内に仮置きされている。
 石清水八幡宮境内全図(重文) や山上山下惣絵図には「御幸道」と共に「御幸道の道標」の存在も記載されていて、京街道分岐点から一の鳥居の道を指している。折損の為、御幸道の部分がコンクリートによって塗り固められていた為、文字が隠れていた。

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⑭ 枚方市上島町の
八幡宮参詣道地蔵道標

参 詣 道
八幡宮----------
橋本へ一里


(安政三丙辰年十一月・1856)
縦200㎝ 正面幅30cm 横22cm
地蔵尊像の形態:座像
持ち物:錫杖 宝珠

枚方市(牧野)の京街道、船橋川の堤にある高さ 2m の重量感のある八幡宮参詣道の道標。
枚方市岡本町の文政九丙戌年(1826)建立の道標には「左 六り やわたニり」とある。


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⑮ 枚方市町楠葉の地蔵道標

右 八幡宮

(天保三年辰年一月吉日・1832)
縦157cm 正面幅31cm 横25cm
地蔵尊像の形態:座像
持ち物:錫杖 宝珠

長福寺内にある地蔵座像道標、保存良好で驚くほど美しいが、再建された道標だろうか


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⑯ 大山崎町の地蔵道標

右 八わたミち
左 よどふしみ


(年代不詳)
縦96cm 正面幅40cm 横20cm
地蔵尊像の形態:立像
持ち物:錫杖 宝珠

離宮八幡宮より西国街道を北へ大山崎小字傍示ノ木辻にある。
大山崎町唯一の「やわた道標」と思われる。



「石清水八幡宮参詣道」にいわゆる「東高野街道」の名称はふさわしいか?

 八幡やその周辺に残る八幡宮参詣道の道標を調査した結果、「八幡宮道」や「やわた道」などと書かれた道標を一部紹介することができました。現在はこれ以外にも驚くほどの数の「八幡道標」が発見されています。これらはいづれ「八幡の道探究部会」の活動成果として紹介したいと思いますが、「文化財」として大切に保全されているこれらの道標を見るにつけ、八幡の悠久の歴史が消される危険性が潜む、殆ど馴染みのない高野山や和歌山の道を八幡に出現させる事などは「勘違いの行為」としか思えません。一体誰の為の八幡でしょうか。

 自分たちが住んでいる町の歴史をもっと大切にして欲しいものです。いわゆる「東高野街道」が在って国宝「石清水八幡宮」が路傍に在るのでは決してありません。石清水八幡宮が遷座(貞観元年・859)した後に八幡の南北の道が整備されましたが、弘法大師空海は八幡宮が遷座される以前に入定(承和2年・835)されています。従って弘法大師空海はいわゆる八幡東麓の東高野街道という名の道を歩くはずもありません。高野道とは嘗(かつ)ては弘法大師空海が高野山への道をとったという古い街道のことを指したものですが、八幡宮の参詣道が洞ヶ峠から河内の高野道に繋がった為、八幡宮参詣道を通って洞ヶ峠から高野道を利用する人が居たに過ぎないのです。津田や交野や八尾から八幡宮を目指す人々にとっては八幡に向かう道は「京道」であり「やわた道」でありました。
 固有の歴史を大事にしてきた八幡ですが、八幡を知らない学者の書いた論文や文献を読むだけの表層の知識の鵜呑みでは八幡の道の歴史は語れません。嘗て東海道五十七次と云われた大坂・京都間の道では、役人はいざ知らず、住民は東海道と呼ばずに、京街道、大坂道などと呼びました。明治時代、八幡の道を嘗て役人が東高野街道と言った時期があるようですが、八幡の住民は誰もその様な呼びかたはせず、今でも八幡宮道、御幸道、常盤道、志水道などと呼んで歴史的呼称を大切にする気概をもち、生活の中に活かしてきました。八幡の道が「石清水八幡宮への信仰の道」であることを住民誰もが知っていたのです。八幡周辺の行政区にある「八幡宮道」などの道標の数々を見れば、八幡の道は八幡宮参詣道として重要な機能を果たし、八幡宮在っての八幡の道であり、高野山在っての八幡の道でないことは明々白々なのです。固有の歴史を大事にし、それを主張してこそ観光客や住民も納得しますが、借物の名称では誰も振り向くものではありません。
以上----

by y-rekitan | 2017-03-22 08:00 | Comments(0)

◆会報第78号より-end

この号の記事は終りです。


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by y-rekitan | 2017-03-22 01:00 | Comments(0)