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◆シリーズ:“心に引き継ぐ風景” ⑩◆
◆《講 演 会》三川合流の変遷と周辺都市◆
◆シリーズ:“八幡の古墳と鏡” ③◆
◆シリーズ:“五輪塔あれこれ” ⑩◆
◆『太平記』 八幡合戦の石碑を訪ねる◆
◆シリーズ:“四條隆資卿物語” ①◆
◆シリーズ:“『三宅安兵衛遺志』碑と八幡の歴史創出“ ⑧◆
◆「八幡の歴史を学ぶ連続学習会」2016年◆



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by y-rekitan | 2017-05-20 15:00 | Comments(0)

◆会報第79号より-01 淀川三十石船

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心に引き継ぐ風景・・・➉
三十石船と淀二十石船
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 「都名所図会」淀三十石船は当時の船運隆盛の一端を伝えるが、三十石船の就航は比較的新しく、信長の時代に出現し、秀吉の時代には百艘程となった。伏見と大坂天満間を下り半日、上り一日で航行し、乗客定員が二十八人で四人の船頭が付く。
 しかし淀川で最も活躍したのは、淀の納所・水垂の淀二十石船であった。淀稲葉神社の『過書座二十石船由緒書』には「男山八幡宮に付随し、八幡宮社務支配となり、古くより男山八幡宮の御神役を務め、淀川舟運を専有し長くその伝統を伝えてきた」旨が記されている。淀二十石船と徳川幕府との結びつきは深く大坂の陣でも兵糧米や鉄砲、楯など御陣具の搬送を担っている。
『土佐日記』の一節に「ひんがしの方(かた)に、山の横ほれるをみて、人に問へば、“八幡宮(やはたのみや)”といふ。これを聞きて、喜びて、人々をがみたてまつる。山崎の橋みゆ。嬉しきことかぎりなし《原文はほぼ全てひらがな》」とあり、貫之は淀二十石船から八幡宮と山崎橋を目にしている。
 元禄七年(1694)十月、芭蕉は大坂南御堂前で臨終を迎える。遺言により遺体は膳所の義仲寺に運ばれるが、淀二十石船で淀川を上ったようだ。「遺体を長櫃に入れ、商人の荷物のようにして運んだ」と其角が伝えている。
(文 谷村 勉)



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by y-rekitan | 2017-05-20 12:00 | Comments(0)

◆会報第79号より-02 三川合流

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《講演会》
三川合流の変遷と周辺都市

2017年4月 
さくらであい館(イベント広場)にて
福島 克彦(城郭懇話会会員)

 
 4月23日(日)午後1時半より、淀川三川合流域“さくらであい館イベント広場(淀)”を会場に、年次総会と例会を開催しました。新しくオープンした”さくらであい館”の会場には、多数の方々にお越しいただきました。総会の後、同じ会場で「淀川・三川合流の歴史とその周辺」の講演が行われました。なお講演の概要は、講師の福島克彦氏がご多忙中にも拘わらず新たに本会会報掲載用に首記のタイトルで新たに執筆していただきました。会報編集者として厚く御礼を申し上げます。 当日の参加者58名でした。

はじめに

 馬車が発達しなかった日本の歴史にとって、舟運は物流の歴史を語る上で不可欠な要素である。年貢、物資の運搬には、大小多様な船舶が使われ、生産地と消費地を結びつけていた。特に、淀川は、古代、中世最大の消費都市であった京都と西日本を結びつける重要な物流の幹線となっていた。16世紀以降は、大坂が発達し、その地で集積された物資が運搬され、京都へと届けられた。山崎や淀は、そうした物資を京都へ運ぶ際、中継地点となった都市であった。したがって、三川合流周辺の都市である、山崎、淀、八幡は京都の発展を常に支えていた存在であった。こうした中継地点は17世紀には河川沿岸の渡し場や問屋として展開し、淀川舟運と地域社会を結びつける重要な結節点となっていた。
 しかし、一方で淀川は洪水など、自然災害の元凶にも変わっていく。そのため、この地域の堤防普請や治水対策とも常に大きく関わっていた。ここでは、三川合流周辺の都市の歴史と、治水と河川の付け替えについて取り上げてみたい。

1 三川合流の様相

 淀川の三川合流といえば、桂川、宇治川、木津川の三つの河川の合流を指す。現在、三つの河川は山崎地峡で背割堤を挟んで並走している。左岸は八幡市・枚方市、右岸は大山崎町、島本町が接しており、今も雄大な景観となっている。f0300125_2047308.jpgしかし、これらは自然によって形成された景観ではなく、あくまでも近代以降において人工的に築かれたものであった。では、近代以前の景観はどのような雰囲気であったのだろうか。近世絵図や絵画が描くように、幕末までの三川は淀の町で合流していた。そして、山崎地峡部分は、合流した後の一本の大河が流れる景観となっていた。つまり、幕末まで淀川沿岸を見る場合、現在の地形で判断するのではなく、かつての景観を遡及的に考察して検討する必要がある。
 淀の上流は、16世紀中葉まで、宇治川が直接巨椋池に流れ込んでいた。この池の水がオーバーフローして、淀、そして下流の淀川へと流れていた。後述するように、豊臣秀吉の伏見城下町建設に際して、宇治川が巨椋池と分離することになった。
 以下、合流地点の都市について概観しておきたい。

2 周辺都市の展開

(1)山崎・大山崎

 神亀2年(725)、行基による山崎橋架橋があり、橋のたもとには集落が形成されていたものと推定される。以後、8世紀後半の長岡京、平安京の時代にかけて、山崎橋、山陽道、関所に加え、山崎津、山崎駅、国府、官営瓦窯などが設置されていく。平安中期になると、橋が消滅し、津は史料上登場しなくなる。一方で中世前期からは地縁的共同体たる「保」が街道沿いに配置され、街村状の都市へと生まれ変わった。保には八幡宮の神人が住んでおり、彼らは灯明油を八幡宮へ奉納していた。これを契機に荏胡麻油の製造が認められ、特権商人として君臨するようになる。原料たる荏胡麻も莫大な量が西日本各地から船舶によって運搬された。淀川交通は、こうした原料荏胡麻を運搬する重要なルートとなった。以後、大山崎は荏胡麻油の代名詞となり、中世商業に名を残すことになった。ただし、14世紀には新しい塩商売に手を出そうとしたが、既得権を持っていた淀の抵抗によって、その権限は結果的に返上している。これによって、大山崎は多角的な産業への発展への道が途絶えてしまう。以後、産業の多角化への転換は、うまくいかなかったようである。
 一方、都市の自治権は、朝廷や武家との交渉のなかで、着実に獲得していった。戦国期からは大山崎惣中という自治組織が形成され、近世期にも神人が社家へと転換して「守護不入」権を維持していた。

(2)淀
 古代の淀は「与等津」(延暦23年 804『日本後紀』)という港として登場してくる。永承3年(1048)には 山崎・淀の刀祢、散所が屋形船11艘を建造しており(『宇治関白高野山御参詣記』)、やはり船舶との関わりが見える。中世は、材木の備蓄、塩・塩合物を取り扱う「魚市庭」、 兵庫津と結びつく「淀十一艘」などが見られた。こうした点からわかるように、中世期淀は京都の外港的な役割を果たしていた。f0300125_20501948.jpg
 一方、永徳3年(1383)8月、大山崎が新市開設によって塩商売を進めようとするが、これは淀の強い抗議によって白紙にさせている。つまり、この当時から塩や塩合物に関する既得権を守る立場になっていた。「淀ハ皆以八幡領也、千間(軒)在所也云々、近来減少」(『大乗院寺社雑事記』延徳2年)と記されるごとく、八幡宮領であった。千軒の家があり「淀六郷」と呼ばれる六つの集落が形成された。これらは、桂川、宇治川沿岸の集落であり、やはり港と船舶で、外とつながっていた。
 一方、京都とは陸上交通でつながっており、淀の中心である島之内には納所から淀小橋が架けられ、京都との間を運送業者が中継していた。こうしたルートは、秀吉の時代に太閤堤が成立して、その堤防上に造られた。17世紀に淀城下町が成立すると、この街道は東側に張り出すように移転されていく。

(3)八幡
 石清水八幡宮膝下の都市である。貞観2年(860)、行教が八幡神を勧請した後、石清水八幡宮が成立していく。以後、その周囲に院坊、集落が形成され、発展を遂げていく。中世都市の空間構造としては、山上・山下、宿院、内四郷、外四郷と区分される。内四郷と呼ばれる山麓の町場は東高野街道(常盤大路、志水大道)が南北に走り、やはり街村状になっていた。
 石清水八幡宮寺の組織としては祀官中、山上衆、神官神人中、四郷中などがあり、祠官家(田中・善法寺など)が力を保持していた。
 八幡は直接は河川と接していなかったが、独自の外港橋本を通して舟運が西日本とつながっていた。延文5年(1360)大山崎神人井尻助吉が「橋本津」で八幡宮領播磨国松原荘の年貢を陸揚げしており(『井尻文書』)、対岸の大山崎とも強く関係していた。預物慣行、土倉の存在、徳政免除などの特徴があり、多くの金融業が発展していた。近世期も「守護不入」を存続していたことが知られている。
 このように、三川合流周辺には、大山崎、淀、八幡と、石清水八幡宮と関わりを持つ都市が成立していた。これらは河川交通ともつながる一方で、街村状の町場が続き、陸上交通とも深い関わりを持っていた。特に京都と陸上交通でつながり、運送業者とも関わっていた点は強調されてよい。また、淀川沿岸ともつながっており、古い時代から瀬戸内海の舟運を媒介にして、物資運送のルートとなっていた。

3 三川合流工事の要因

 16世紀後半より、豊臣秀吉の京都改造が進められ、宇治川と巨椋池の分離、それに伴う伏見城下町の建設、太閤堤の普請などが敢行された。この秀吉の改造は、近世期の交通体系と治水方針をほぼ決定づけている。特に堤防と街道が軌を一にしている姿勢は注目される。以後も京都開発は進められたため、流域における大量の樹木伐採も行なわれた。そのため、森林の保水能力が低下し、土砂が河川に流出して、山崎地峡の手前で土砂が川底に堆積した。これによって洪水が起こりやすくなり、江戸時代以降は、山崎地峡周辺はたびたび水害に見舞われた。三川合流地点における逆流現象もたびたび起こったため、地域としては合流地点の変更を求めるようになった。すなわち、洪水対策のため、合流地点を少しでも下流へ求めようと、寛永14年(1637)の木津川付け替え工事、さらに18世紀以降の小泉川、水無瀬川、放生川の付け替えが実施された。なかには、木津川を河内や大和へ付け替えようとする計画も見られたが、近世期段階では実行に移せなかった。

4 淀川改良工事

 明治元年(1868)5月に淀川の大洪水があり、同年12月~3年(1870)正月にようやく木津川付け替え工事が敢行された。これに伴い、周辺も近代における小泉川の付け替えなども行なわれた。以後、土砂堆積の問題を克服するため、オランダ人ヨハネス・デレーケなどの調査、計画による、淀川改良工事が進められ、砂防ダムの設置、水制による低水路の維持が図られた。当時水制には粗朶沈床も設置され、水の浄化作用に意識されていた。明治29~43年頃(1896~1910)の淀川改良工事では、桂川、宇治川の付け替え工事が進められた。このうち、桂川の付け替えでは、大山崎の淀川沿岸部の敷地を喪失した。そのため、当時の大山崎村長松田孝秀は「凡ソ大利ヲ起サントスレハ、小害ノ之ニ伴フハ数ノ免レサル所ニ付、府下公益ノ為メニ犠牲トナルハ甘ンスル所ニ候得共、之ヲ以テ大ニ利益ヲ享クルモノトシ、不均一ノ賦課セラルゝニ至リテハ黙止難致」と京都府に意見を述べている(『役場旧蔵文書』「上司進達綴」明治29年7月)。後に淀川改良増補工事(大正7~昭和5年 1918~1930)によって背割堤が拡張し、現在の景観に至っている。
 当時の村長の言葉のなかに、大山崎村が「府下公益ノ為メニ犠牲トナルハ甘ンスル所ニ候得共」と言っている点は、私たちは噛み締めたいと思う。

おわりに

 平成29年(2017)3月、三川合流の地にさくらであい館が完成した。今後、三川合流地点を考える重要な発信基地になると思われる。それは前述してきたような、周辺にある都市のあり方などを比較検討することを通して、各々の町の特徴を追究することができる。さらに淀川・三川合流を媒介とした自治体・地域の交流もさまざまな形で実施することができると考える。それは、言うまでもなく、淀川の歴史を考えることでもある。現代のように、大型河川を境界と考えるのではなく、物資を運ぶ舟運ルート、あるいは対岸を結ぶ渡し舟などの存在から、むしろ対岸は近い存在だったということを改めて認識すべきだろう。
 その意味でも八幡の歴史を探究する会の役割も大きいと思われる。皆さんの活動に期待したいと思う。

[参考文献]
西川幸治編『淀の歴史と文化』淀観光協会 1994
大山崎町歴史資料館『はるかなる淀川』2000
大山崎町歴史資料館『淀川と水辺の風景』2012
藤本史子「中世八幡境内町の空間復原と都市構造」『年報 都市史研究』7 1999
鍛代敏雄『戦国期の石清水と本願寺』法蔵館2008
福島克彦「近世前期における西国街道と淀川問屋」『山城国大山崎荘の総合的研究』2005
福島克彦「中世大山崎の都市空間と『保』」仁木宏編『日本古代・中世都市論』2016
 

『一口感想』より
三川合流の歴史や推移が、わかりやすく説明されていましたので、よく理解がすすみました。資料もよくまとまっており、大変よかったと思います。(O.S.)
三川合流の歴史を学んで、益々貴重な地域であると思った。八幡市はもっと、もっと三川合流を取り上げてほしいと思う。(I.J.)
八幡市に住んで50年、三川合流の歴史を初めて聞き興味を持ちました。有り難うございました。(K.T.)
三川の様子がよくわかりました。(T.K.)
八幡の土地一部が分断され(美豆、生津)ていたことは聞いていましたが、三川合流の改良工事により、山崎が多くの土地を失ったこと、はじめてお聞きしました。 改良工事の歴史を学ぶことの大切さがわかり、よい機会となりました。(F.N.)
興味ある内容の講座でした。本年も八幡にかかわるテーマでお願いします。昔はどうであったか、昔のものは残っているのか、痕跡、遺品・・(K.S.)
最初会場の天井が高いためか、講師のマイクが聞こえづらかった。しかし、途中からよく聞こえるように配慮していただき、よく聞こえるようになりました。(謝謝)
 講師の方は一生懸命大きな声で講演されました。受講者の一員として深く感謝申し上げます。本当に有り難うございました。受講者も静かに熱心に一心で聞く思いで受講、大へん有意義な講演であり、参加して大へんよく有り難かったです。(H.M.)
本日の講演、大変参考になりまいた。普段、三川合流の話は滅多に聞きませんでしたので、大山崎も八幡も大きな影響を受けていたことを知りました。
 江戸時代の資料の図に八幡の中に東高野街道の名称があって、東高野街道とは最近観光用に俄に言い出したことで、江戸時代の資料に適用するのはどうなのかな?と一つだけ疑問が残りました。(T.S.)

  
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by y-rekitan | 2017-05-20 11:00 | Comments(0)

◆会報第79号より-03 古墳と鏡③

シリーズ「八幡の古墳と鏡」・・・③
八幡の古墳と鏡(3) 
-八幡出土の三角縁神獣鏡(2) 西車塚古墳-

濵田 博道 (会員) 


西車塚古墳とは

 今回取り上げる西車塚古墳は前回の内里古墳とは違い、以前からよく知られた古墳です。『以文會筆記』(文化年間(1804~1818)、京都文人による書)に次のような記事があります。

f0300125_10153298.jpg「おとこ山の麓を南へ河内国に行く道は右にも左にも車塚といふあり。いと平らなる畑の中に物をおきたらんやうに南は円にして広く北は方にして狭く、帝王の陵に似たればとてそのかみ、(中略)不知の異物なり。」(『京都府史蹟名勝天然記念物調査報告 第十三冊』)
 江戸時代の書物において車塚とは前方後円墳のことをいいます。“河内国へ行く道を挟んで西に西車塚古墳(後円部上に八角院[堂]のある古墳)、東に東車塚古墳(現在、後円部の一部は松花堂庭園の築山となっています。前方部は消滅。)があり、陵(みささぎ)に似ているがよくわからない”と述べています。
 『男山考古録』(1848年)巻14にも「西車塚」の項があり、かなり詳しく説明されています。「志水南山道より西にて、小山廻り(後円部)およそ半町(約60m)ばかりもあり、四手原(幣原)村へ行く道の北(中略)これは何れ名だたる人をや葬りたりけむ、未詳。」さらに『山陵志(さんりょうし)』(1808年、蒲生君平(がもうくんぺい)著)を引いて「前方後円、壇三成。溝環り、後円部の頂に葬むる場所あり」「皇后皇子若重臣の墓か」とあります。
 八幡市八幡大芝に所在し、古墳時代を通じ木津川左岸最大、全長120m、後円部径60m、三段築成の古墳です。盾型(たてがた)の周濠(しゅうごう)は現在、埋められて畑になっていますが、発掘調査の結果からも確認されています。円筒埴輪も二個確認されていて、埴輪列があったようですが現在は見当たりません。葺石(ふきいし)は「確認されていない」(『京都府史蹟勝地調査會報告書 第一冊』)、「あったと推定される」(『八幡市遺跡地図』)との見解があります。「古鏡5面、車輪石10個、石釧(いしくしろ)3個、鍬形石(くわがたいし)2個、石製品(合子(ごうす))1個、(瑪瑙(めのう))勾玉(まがたま)11個、管玉(くだたま)120個、小玉72個、木片4個、刀残片27個」が出土し、東京国立博物館に収蔵されています。(鏡は特別展の折、一度展示されましたが、常設展示とはなっていません。)
 報告書で京都大学の梅原末治氏は次のように述べています。「墳墓の構造の偉大なるより推し、またその埋蔵品の種類に考へ、当時の有力者なりは容易に知るを得べく、古鏡の年代推定にして当らむか、以て支那三国(原文のママ、中国の魏呉蜀(ぎごしょく)三国のこと、220年~280年)前後における山城文化の発達の一端をうかがうを得べき貴重なる遺跡なり。」

西車塚古墳の石室

 古墳時代前期(3世紀半ば~4世紀末)において八幡市で石室を有する古墳は茶臼山古墳と西車塚古墳の2基ありました。他の古墳は竪穴式石室の簡易型といえる粘土槨(ねんどかく)(粘土床)です。ですから、この2つの古墳は八幡市の中で格が高くかつ古い古墳といえるでしょう。とはいえ茶臼山古墳はすでに盗掘され石室も破壊された状態で副葬品もほとんど残っていませんでした。ただ石棺(近畿で最初に導入された熊本県氷川(ひかわ)の阿蘇溶結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん)製の石棺)が残されていたのは貴重でした。一方、西車塚古墳の竪穴式石室について、梅原末治氏は石室が破壊された後になって調査し、次のように述べています。「明治35年(1902年)6月18日、(八角堂)境内の土坑に際し遂に石室を掘り当て、遺物を出すに至れり。この時出土の副葬品は東京帝室博物館の所蔵に帰して調査なし得べきも、室は全く破壊され終わりて尋ぬべからず。」「塚の主体をなす石室は後円のほぼ中央にあり。東西に長く塚の主軸とは直角の方向をとれるいわゆる竪壙(たてこう)なりしがごとし。この形状の詳細は全く知る能はざる(後略)」(『京都府史蹟勝地調査會報告書 第一冊』(1919年[大正8年])
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西車塚古墳の被葬者像

 副葬品として古鏡や腕輪型石製品などを多く有していることから被葬者が祭祀を司り宗教的呪術的性格であったことがわかります。また腕輪形石製品の最高品位といわれる鍬形石2個が出土していることから高い威信をもっていること、三段築成の古墳であることからヤマト王権と関係が深かったことがうかがえます。腕輪形石製品について奈良文化財研究所『日本の考古学』(小学館)で次のように述べています。「腕輪形石製品は銅鏡と同様に、所有者の威信を高める重要な物品であった。その背景として、当時の中心的な勢力によってこれらが製作・配布されていたとする説が有力である。しかも一定の格付けがあり、鍬形石、車輪石、石釧の順で重要視されていたようである。」出土品の石製合子(ごうす)と瑪瑙製勾玉(めのうせいまがたま)は東京国立博物館発行『日本の考古ガイドブック』にも掲載されているほど見事なものです。私が東京国立博物館を訪れた時、ちょうど合子が展示されており、八幡市西車塚古墳出土との解説を見て感動したものです。これらを持ち合わせた被葬者とはどのようでしょうか。

西車塚古墳出土の鏡

 出土した5枚の鏡は3枚が舶載鏡(はくさいきょう)(=中国鏡)、2枚が仿製鏡(ぼうせいきょう)(=倭鏡)とされています。舶載鏡は盤龍鏡(ばんりゅうきょう)、三角縁神獣鏡、画文帯神獣鏡(がもんたいしんじゅうきょう)各1枚です。
f0300125_20352491.jpg画文帯神獣鏡については石不動古墳からも出土しており、次々回とりあげます。
 盤龍鏡については、『八幡市誌』に櫛歯文帯龍虎鏡(くしはもんたいりゅうこきょう)という名前で記載されていますが、これは同じ鏡のことです。大塚初重『古墳辞典』(東京堂出版)によると「(龍虎鏡は)盤龍鏡のうち主文様が龍と虎の向き合う構図のもの、後漢(25年~220年から三国期(220年~260年)にかけてのもの」と説明されています。盤龍鏡の一部として龍虎鏡が存在するわけです。そして「各種の神獣鏡や盤龍鏡をもとに試作を重ね、三角縁神獣鏡が生まれた。」(注1)とされていますので、三角縁神獣鏡の母体となった鏡の一つであるといえます。盤龍鏡という三角縁神獣鏡が生まれる前の古い鏡である後漢鏡が三角縁神獣鏡とともに副葬され出土しているのも興味深いです。西車塚古墳の盤龍鏡は舶載鏡とする見解(梅原末治氏、『八幡市誌』、山城郷土資料館『鏡と古墳』)と仿製鏡とする見解(樋口隆康『古鏡』新潮社)がありますが、ここでは舶載鏡として扱いました。

三角縁神獣鏡などの副葬状態

 西車塚古墳の石室については、八角堂境内整備の際、専門家の立ち合いがなかったようで、石室の形や様子、副葬品の位置関係などの図面などが残されないまま、壊されました。そのためどんな石室であったのか、棺(ひつぎ)の外と内に石製品や鏡がどのように副葬されていたのか、とりわけ三角縁神獣鏡はどのように副葬されていたのか、これら威信財のうち被葬者が何を最も大事にしていたのか、などわからない状態です。ただ後年、石室調査に赴いた梅原末治氏は、発掘当時石室を実見した河井うのさんの話を聞いて次のように記述し感想を述べています。
 「室の大さは竪九尺(2.7m)、横二尺(0.6m)、高さ三尺(0.9m)内外にして、壁は積むに扁平なる水成岩を以てせり。今街道より八角堂に登る石階(段)に使用する石材是なりといふ。而して内部に於ける遺物副葬の状態は室の東方に接して鏡鑑類あり、付近より石釧などの石製品を発見し、勾玉小玉管玉の類は室の南辺に点在せりと云へり。然らば以外は頭部を東にして埋葬せるものと見るべきか。」(『京都府史蹟勝地調査會報告書 第一冊』)

西車塚古墳出土の三角縁神獣鏡

 三角縁神獣鏡の正式名は「三角縁天・王・日・月・唐草文帯二神二獣鏡」といいます。二神像・二獣像の外側の四方に「天」「王」「日」「月」という文字が方形枠で一文字ずつ銘記され、その外側に帯状に唐草文が描かれているからです。(注2)「『天王日月』の銘文は三角縁神獣鏡に時々見受けられますが、中国では後漢代の二世紀第三四半期(150年~175年)ごろに作成されたと推定される画文帯同向式神獣鏡に多くみられる」(注3)ようです。『天王日月』銘の起源はそのころまで遡るということになります。「天」は天子、「日」「月」は「太陽と月であるが、陽と陰の二元となり、天子と后をさす。」(注4)とされています。が、諸説あります。また、第一回の「八幡の古墳と鏡」で“西・東車塚古墳の三角縁神獣鏡はC段階の製作だから卑弥呼の鏡ではない”(卑弥呼の時代と合致しない)と述べました。この舶載三角縁神獣鏡の製作ABCDの四段階のうちC段階について、大阪大学の福永伸哉氏は次のように説明しています。「<舶載C段階>内区(ないく)四分割、六分割タイプ共存。捩文座乳(ねじりもんざにゅう)をもつ四神四獣鏡、三神三獣鏡、二神二獣鏡、三神二獣鏡など。外周突線の出土頻度さらに低下。銘帯もみられるがごく少数派。260年代の製作か。」(注5)西車塚古墳の三角縁神獣鏡は内区四分割の二神二獣鏡です。

西車塚古墳の三角縁神獣鏡の同型鏡

 この三角縁神獣鏡と同じ大きさ・文様のものが西車塚古墳のものを含めて9枚見つかっています。9枚もの同じ鏡をどうやって造ったのか。1つの鋳型から複数の鏡を造る同笵鏡による製作法では鋳型が破損していくので5枚が限度といわれています。同笵鏡による製作法で9枚は考えにくいというわけです。そこで原鏡から鋳型を造り、その鋳型から1枚の鏡を造り(踏み返し鏡)、その鏡から多くの鋳型を造って鏡を製作するという同型鏡による製作方法が考えられています。他にも同笵・同型両方の方法を使って製作したのではないか、あるいはさらに別の製作法もあったのではともいわれており、どうやってつくったのか意見がいろいろあります。同じ大きさ・文様のものが9枚見つかったというのは三角縁神獣鏡でも最多の枚数です。どういう古墳で見つかっているか調べてみますと、

ヘボソ塚古墳鏡(兵庫県神戸市東灘区岡本町、前方後円墳、古墳時代前期)
石切神社蔵鏡(大阪府東大阪市)
佐味田宝塚古墳鏡(奈良県北葛城郡河合町、前方後円墳、4世紀末)
長法寺南原古墳鏡A鏡(京都府長岡京市、前方後方墳、4世紀後半)
長法寺南原古墳鏡B鏡(     〃      )
西車塚古墳鏡(京都府八幡市、前方後円墳、4世紀後半)
長塚古墳鏡(岐阜県可児市、前方後円墳、4世紀末~5世紀初頭)
岐阜県円満寺古墳鏡(岐阜県海津市南濃町、前方後円墳、4世紀中~後半)
愛知県東之宮古墳鏡(愛知県犬山市、前方後方墳、3世紀後半~末葉)

 近畿から東海にまで分有が広がっているのです。ヤマト王権と同盟関係を結ぶ広範なネットワークが形成されています。また、長岡京市長法寺南原古墳からはこの鏡が2枚発掘されています。それは何を意味しているか。次のように考える説があります。“中国への遣使(卑弥呼・台与(とよ)の時代、数回の遣使記録がある)ごとに三角縁神獣鏡が輸入されたとすると、それによりヤマト王権は豊富に鏡を有していた。その鏡を同盟関係を結んだ各地の豪族に配布、分有し、特に重要な地域や功労のあった豪族には複数枚配布することもあったのではないか。”と。しかし「三角縁神獣鏡は百を単位に数えるほど多量に輸入されたとはいえ限りがあったから、それを補うかたちで仿製三角縁神獣鏡が日本列島において製作された。」(注6)男山・長岡・乙訓付近は水陸交通の要衝です。ヤマト王権としてはぜひともここを押さえる必要があったと思われます。それゆえ、淀川水系の両岸の勢力と強い同盟関係を結び、その証として三角縁神獣鏡を分有したといえるでしょう。また、椿井大塚山古墳から大量の三角縁神獣鏡が出土していますが、この木津川水系は北の桂川、東の宇治川それに巨椋池、西の淀川を通じて日本各地とつながっています。さらに王権の中枢に近く最重要拠点でした。だからこそ鏡の配布を担当する最高の役を持っていたのではないでしょうか。こうしてヤマト王権は山代(やましろ)や他の各要衝の勢力と同盟関係を結び、それらを押さえ支配を強め勢力を拡大していったと考えられます。

西車塚古墳の築造時期

 西車塚古墳の三角縁神獣鏡が配布されたのは、長岡京市の長法寺南原古墳築造とそれほど離れた時代ではなく、ヤマト王権がまだ鏡を多数保有していた初期のころで、鏡が足りなくなる時代=三角縁神獣鏡の仿製鏡を造る時代、までは下らない時期といえます。とすると西車塚古墳はいつごろ築造されたのか。西車塚古墳には舶載鏡と三角縁神獣鏡ではないですが仿製鏡がともに副葬されています。両方副葬されていたとなると古墳時代前期であっても初期ではないでしょう。そういうことと出土の腕輪型石製品、埴輪の編年、当時の王権中枢の古墳の形との相似性などを調べると、西車塚古墳の築造は4世紀の後半ごろと考えられます。しかし、後述しますがこの年代はまだ確定的ではありません。

ヤマト王権とのかかわり

 八幡に古墳が築造される4世紀後半という時代は、ヤマト王権に大きな変化がおきているときです。卑弥呼の墓といわれる3世紀中葉の箸墓(はしはか)古墳からはじまって、百数十年間大和東南部(天理市・桜井市辺り)に築造され続けていた200mを超す大型前方後円墳は4世紀中葉を最後に造られなくなり、かわりに奈良市北部・曾布(そふ)(添)の地域に大型前方後円墳が築造されるようになります(7基)。大和東南部から奈良市北部の地に移動していくのです(佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群)。「なぜ移動したのか」については、(注7)の書籍が参考になります。今の平城宮跡の北側一帯、近鉄京都線・橿原線と国道24号線の間、その近辺にあります。
 葛城の地域にも大型の前方後円墳が次々と築造されます(馬見(うまみ)古墳群)。この古墳築造の時期が八幡での古墳築造の時期とピタリと重なります。奈良盆地北部は南山城とも近く、八幡の勢力とかなり関わりがあったと思われます。また、この時期は東アジア的にみれば中国の朝鮮半島出先機関だった楽浪郡(らくろうぐん)・帯方郡(たいほうぐん)が高句麗(こうくり)により滅ぼされ(313年)、高句麗の南下により朝鮮半島情勢が不安定になり、「広開土王碑(こうかいどおうひ)」(高句麗王広開土王=好太王(在位391~412年))にみられるように高句麗と百済(くだら)・新羅(しらぎ)・倭(わ)の勢力が盛んに争っていた時期でもあります。『三国史記』『日本書紀』にもその断片が記述されています。

八幡の古墳編年

 1986年に発行された『八幡市誌』の解説では、八幡での古墳築造編年(前後関係)は
茶臼山古墳→石不動古墳→西車塚古墳→東車塚古墳→ヒル塚古墳→王塚古墳

となっており、八幡の古墳築造はだいたいにおいて4世紀後半、ヒル塚と王塚古墳は5世紀前半~半ばと理解したものです。ところが、最近発行された文献をみると、4世紀後半という理解は多数としても、この古墳の編年に変化が生じています。八幡全体の古墳築造編年はまだまだ確定していないように思われます。例えば昨年(2016年)発行・発表された文献から、八幡の部分だけ抜粋してみますと次のようです。
茶臼山古墳→ヒル塚古墳→西車塚古墳→石不動古墳→東車塚古墳→王塚古墳(注8)
西車塚古墳→東車塚古墳→茶臼山古墳→石不動古墳(注9)
ヒル塚古墳→茶臼山古墳→西車塚古墳→石不動古墳→東車塚古墳→王塚古墳(注10)

 八幡で最も早くに築造されたのはどの古墳で、どういう勢力が掌握していたのか。茶臼山古墳だとすれば前方後方墳の勢力、西車塚古墳だとすれば前方後円墳の勢力、ヒル塚古墳だとすれば方墳の勢力ということになり、その勢力の基盤、格付けも変わってきます。全国の築造数は前方後円墳が約6400基に対し、前方後方墳は約500基(注11)といわれていますから、数としては前方後円墳が圧倒的に多いです。
 ちょっと古い資料ですが、1972年に発行された龍谷大学文学部考古学研究室『南山城の前方後円墳』に、男山グループの古墳の特徴がコンパクトにまとめられています。
「始原が前方後方墳であること。茶臼山古墳に引き続いて築造された古墳はいずれも100m前後の大型前方後円墳であり規模の点で南山城の最も大型の前期古墳であること、それに対し中期型の古墳はむしろ若干規模の縮小化を見ること、かつて前方後円墳ないし前方後方墳を築造してきた古墳群にあって、中期型の古墳はむしろ若干規模の縮小化を見ること、(中略)首長墓の系列のみで周辺に小規模な群集墓をもたないことなど、木津川を隔てた対岸の久津川(くつかわ)古墳群の様相と全く異り、むしろ淀川北岸の向日市古墳群に類似性が認められる。なお、首長墓が時期的に近接して築造される現象は、首長権の一系的な世襲制の未確定な様相を示すものとして注目されよう。」(『八幡市誌第一巻P133』)
 最初の古墳築造や古墳の編年をめぐっては、これからの研究を注視していく必要があります。(次回は「東車塚古墳とその三角縁神獣鏡について」考えてみます。)
 
(つづく)  


(注1)大塚初重『古墳辞典』,東京堂出版,1987
(注2)同じ天王日月と書いてあっても、方形枠内に「天王日月」とセットで描かれているもの、「天王」「日月」と2字ずつのものなどの三角縁神獣鏡があります。(小林行雄『古鏡』学生社)実際に鏡を見ると明らかに違いがわかるのですが、文字にすると似ているので注意が必要です。そこで研究者は「天王日月」セットの場合「天王日月」、「天王」「日月」の2字ずつの場合「天王・日月」、「天」「王」「日」「月」の一字ずつの場合「天・王・日・月」と区別して鏡名を表しています。
(注3)安本美典『三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡か』,廣済堂出版,1998
(注4)藤田友治『三角縁神獣鏡の謎をさぐる』,ミネルヴァ書房,1999
(注5)福永伸哉「三角縁神獣鏡と葛城の前期古墳」 『古代葛城とヤマト政権』,学生社,2003
(注6)岡村秀典「三角縁神獣鏡と伝世鏡」『古代を考える 古墳』,吉川弘文館,1988
(注7)白石太一郎「百舌鳥・古市古墳群出現前夜の畿内」『百舌鳥・古市古墳群出現前夜』近つ飛鳥博物館図録,2013
(注8)『平成28年度特別展山城の二大古墳群-乙訓古墳群と久津川古墳群』図録,京都府立山城郷土資料館、2016年10月
(注9)塚口義信『邪馬台国と初期ヤマト政権の謎をさぐる』原書房,2016年11月
(注10)岸本直文「山城の前方後円墳と古墳時代史」『文化講演会山城の王権の実像に迫る!!』,ふるさとミュージアム山城,2016年10月
(注11)大塚初重『「古墳時代」の時間』,学生社,2004


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by y-rekitan | 2017-05-20 10:00 | Comments(0)

◆会報第79号より-04 五輪塔⑩

シリーズ「五輪塔あれこれ」・・・⑩
いかにして

野間口 秀國 (会員) 


 第1章「現場の解説板」を皮切りに五輪塔の不思議を探ってきました。しかしながら、当然と言えるかも知れませんがこれといった明確な回答は得られませんでした。だからと言って決して落胆している訳でもございません。「なぜ」、そう訊かれそうですが「明確な回答はそうそう容易には得られないのだ」と分かったからです。加えて、既に分かっているなら、図書館の書棚から回答が得られるのですから。そう言いつつも残された疑問が消えた訳では無く、「どのようにして造られたのか」、「どのくらいの費用がかかったのか」などに関する答えらしきものが無いのかとあがいてみたいと思います。

f0300125_20375992.jpg 第4章でピラミッドのことに触れましたが、あのような巨大な建造物がどのようにして造られたのか、について改めて書かれたことを読み直し、その一部を引用したいと思います(*1)。
「ピラミッドの建設方法についてもこれまで数多くの推測がなされてきたが、いまだに意見の一致はみられない。様々な仮説が挙げられているが、大きく分けると二つある。ひとつ目は大量の石材を運搬するために長い直線傾斜路を使用したという説、そしてもうひとつがピラミッドの周囲を取り巻くように傾斜路が渦巻形に造られたという説である」 さらに続けると「石材を曳くための道路を建設するのに、国民の苦役は実に十年にわたって続いたという」 とあります。

 また今日でも、大阪城にて見ることの出来る巨大な石が一体どのように積まれたのかを思う時、その作業がいかに困難を極めたかが容易に想像できるようです。瀬戸内の島々や沿岸の石切り場から切り出された石を、海岸まで移動して船で大坂へ運び、淀川を遡り、陸揚げ、さらに移動して積み上げる、そう考えるだけでも当時の最先端の土木建築や運搬技術が駆使されたであろうことが想像できます。石清水八幡宮の五輪塔も、橋本か八幡あたりで陸揚げされた石が大きな修羅(しゅら:運搬するそり状の道具)に載せられ、一ノ鳥居付近を経由して運ばれたのでしょうか。組み上げに際しては、クレーンなどの無かった時代のこと、五輪塔の部材の垂直方向への設置は、個人的には前述の「直線傾斜路を使用したという説」を取りたいのですが・・・・。

 ピラミッドや大坂城などの大規模建造物を造るのには、それぞれの時代に強大な力を持った為政者や集団の存在無しには語れませんが、五輪塔の造立もまた、規模が異なるとは言え中世においての寺社勢力の影響を考えざるを得ません。当時の石清水八幡宮も京の都の一角を護る宗廟として、公家や武家と並ぶ大きな力を有していたであろうことを思うと、五輪塔造立にも少なからぬ影響力があったのではないかとも思えます。

 ところで、この春の「探見 国宝 石清水八幡宮」と題する京都新聞の連載(*2)に五輪塔についての数々の逸話が書かれてあり、その最後にN氏の「どんな土木工事で完成させたのか」との思いも記されていました。私の最後の疑問でもある「いかにして / How」も、まさに氏の思いと同じであり、最大の興味でもありました。この最後の疑問に対して少しでも「回答」らしきものを得たくて、京都市内の滋賀越え道にあります石灯籠や各種石塔・京石工芸品などの創作を生業にされる西村大造氏を訪ねました。氏はご多用な中、私の疑問に専門的な立場でとても親切に教えてくださいました(*3)。

 素材となる原石は比叡山の山塊に存在する花崗岩が地表に出てきたものであり、白川の水流で削られ、洗われて原石が磨かれたものであること、また、不定形の原石は「石回し」と呼ばれる工程によって削られて、その体積のおよそ半分か3/5ほどしか商品には供せられないことなど、石材に関することから話は始まりました。また、原石のまま設置する場所へ運ぶには、重量を考えると不合理であり、石清水八幡宮の五輪塔の場合では、部品(地輪、水輪などの各輪)ごとの完成品もしくは半完成品(粗斫(あらはつ)り品、もしくは中斫(なかはつ)り品)の可能性が考えられること。加えて、完成品の場合には運送期間中に発生する破損のリスクなどを考えると、半完成品で運ばれたことが現実的と考えられる。などなどのことでした。

f0300125_20395890.jpg さらに、現地での組み立ては、現在のように大型重機やクレーンも無かった時代のことなので、それに代わる特別な道具が使われたようです。それは、二本の丸太を組み合わせて作る「フタマタ(ニマタとも呼ばれる)」と呼ばれる石の吊上げ用具であり、今でもクレーンの活躍できない場所での墓立てや記念碑などを建てるのに使用されているようです(*4)。フタマタに加えて、「麻ロープ」や「カッシャ(滑車)」や「ロクロ」などの専門用具を使用しながら、吊るしたり移動したりしてそれぞれの部品が設置されてゆくのです。また、五輪塔の組み立てに使われたフタマタの高さは、街なかの一般的な電柱の高さほどだったのではなかったか、とも、ロクロは人や牛の力で回しただろうことなども話していただけました。

 最後に、「費用はいかほどか」も尋ねましたが、現在でも「商品の大きさや設置場所、また素材の品質などで異なるので・・・」とのことでしたが、石清水八幡宮の五輪塔と同じような大きさ(20尺モノ)であれば、原石の手配が最も難しいこと、組み立てには建設用のクレーンが必要だろう、とのこともお話しいただけました。お話しの内容からは少なくとも8桁の数字ではないかと想像できました。ちなみに氏の手掛けられた最大の五輪塔は10尺モノ(約3.3m)であるとのことでした。

 前述の新聞連載(*2)にも「存在感、数々の逸話生む」と書かれていましたが、それぞれの塔には、それぞれのいわれが語り継がれています。そのことに関して氏は、「すべてが正しいとは言えないだろが、それなりの訳あって語られているのだろうから・・・」と語られました。そして最後に、とても興味深い話をいただき五輪塔のさらなる不思議を感じずにはおられませんでした。それは、「多くの五輪塔には確かに刻銘が見られないが、他の作品(彫像品や鋳造品)などと同じように、その体内に何らかの記録が残されている可能性はあるかもね」と語られたことです。

 最後に数々の貴重なお話をお聞かせいただきました西村大造氏に、そして、最後までお付き合いいただきました皆様に紙面をお借りしてありがたく感謝申し上げます。
 (本章をもってシリーズを終わります)--


参考図書・史料・資料など;
(*1)建築法の仮説例説明及びイラストは『ピラミッドの歴史』大城道則著・河出書房新書刊
(*2)京都新聞連載記事・2017.3.1付け(探見 国宝石清水八幡宮 五輪塔)
(*3)五輪塔関連事項は株式会社西村石灯呂店の西村大造氏に聞く
(*4)「フタマタ」の説明の一部、および写真は『牟礼・庵治の石工用具』香川県牟礼町教育委員会刊より引用


この連載記事はここで終りです。       TOPへ戻る>>>

by y-rekitan | 2017-05-20 09:00 | Comments(0)

◆会報第79号より-05 八幡合戦

『太平記』八幡合戦の石碑を訪ねる

谷村 勉 (会員)


 「八幡合戦」の石碑は京阪八幡市駅から近く、男山山上の御本宮や護国寺跡より中ノ山墓地・正平塚まで凡そ片道4kmの距離にある。途中、歴史的な道標、
石碑を沢山目にするが、今回は「八幡合戦」(正平の役)に関連する道標をピックアップしました。八幡市民図書館横の⑥「園殿口古戦場」石碑を見た後はそのまま南へ旧街道の面影を残す旧道を歩き、突き当りを右に折れて、神原交差点から、さらに南の志水道に入るコースをお薦めします。
 なお、本記事で紹介の石碑等の場所は、下図に矢印と石碑番号を記入しています。
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① 護国寺薬師堂跡碑 (八幡高坊)
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 正平の役で山上における後村上天皇の行宮になったと思われるのが護国寺です。「八幡合戦」の終盤、ここから志水大道に下り、賀名生(あのう)まで多大な犠牲を払いながら脱出に成功した。明治の廃仏毀釈で建物は無くなるが、永く当山根本精舎の役割を担ったところで、八幡宮遷座以前、行基菩薩の開基と伝わる。本宮東門よりケーブル乗り場の道を左にみて、真直ぐ階段を下った左の広場が護国寺跡地になる。
 慶応2年(1866)発行の「八幡山案内絵図」にはほぼ中央に護国寺が描かれ、南側には琴塔や伊勢遥拝所が、西には大西坊へと案内する今も現存の大きな常夜燈が見える。護国寺本尊であった重要文化財の薬師如来や十二神将は廃仏毀釈以降、淡路島の東山寺(とうさんじ)に移され、現在も素晴らしい保存状態で大切に祀られている。

② 八幡行宮跡碑 (八幡市八幡土井)
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 飛行神社から南へ約30mの行宮碑、左に折れると後村上天皇行宮跡碑がある。

③ 後村上天皇行宮跡碑 (八幡垣内山) 
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 当時はこの周辺に石清水八幡宮祠官の田中家の広大な屋敷が在り、正平7年(1352)閏2月19日八幡宮別当田中定清の邸宅を行宮とした。

④ 青林院の正平役供養塔 (八幡旦所)
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 念仏寺の東隣、正福寺の向かいの「青林院」裏の墓地にある。表からは入れず、写真左の横道から南へ抜けると墓地に到る。青林院より東に信号を越えて行くと森堂口、薬園寺に続く道となる。
 この青林院は昭和19年(1944)「中ノ山墓地正平塚」を整備した今中伊兵衛氏が得度・隠居した寺です。

⑤ 正平役城ノ内古跡 (八幡城ノ内) 本妙寺
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 青林院から「八幡宮道」に戻り、更に南に進んで大谷川の「買屋橋」を越えて暫く行くと右手の「本妙寺」に到る。当時の実際の現場は城ノ内の南側からスーパー「コノミヤ」辺り一帯であったらしい。

⑥ 正平役園殿口古戦場 (八幡菖蒲池) 八幡市民図書館横
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 八幡市民図書館横の「園殿口古戦場」の三宅碑は本来の場所から移動している。「園殿口」とは江戸中期の「石清水八幡宮全図」等によると、現在の「法園寺」から東の川口方面に向かった大谷川の辺りを指すが、三宅碑は「小谷食堂」(八幡山本)近くの三叉路東南角付近(八幡菖蒲池)に設置されていた。道路工事等で現在の場所に移転したようだが、園殿口から大きくずれている。(図書館ロビーに江戸時代中期の「八幡宮山上山下惣絵図」あり)

⑦正平役馬塚古跡 (八幡東林)
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 志水道(八幡宮道)を登りきった「志水の四辻」にある内藤精肉店を左に入り、「ありあけ児童公園」を左に見てやや下り、二本目の筋を左に入ったところに「三宅碑」がある。八幡合戦では戦場の主力武器は弓矢であり、その死傷原因も殆んどが矢疵であった。四条隆資卿が斃れたのもこの道筋辺りであろうか。

⑧ 正平役血洗池古蹟 (八幡大芝)
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 志水道(八幡宮道)を松花堂庭園近く、「水月庵」の道標を見て右(旧道)に入り、八角堂を少し越した所に「三宅碑」がある。この古蹟からすぐ左の志水道を行くと中ノ山墓地に出る。血洗池とは古くは西車塚周濠溝の跡。「往古死罪人御成敗の時、太刀取刀をすすぎ候池と申伝え、其池茅原生茂りて名に呼びしか、血アライと称して、あやしき附言のさかしらを云伝えたるものならむ」と『男山考古録』(江戸後期の八幡の詳細な地誌)にあり。

⑨ 正平七年神器奉安所「岡の稲荷社」の道標 (八幡月夜田)
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 血洗池石碑から南に進み、中ノ山墓地を見て道路の坂を下りると、月夜田交差差点の東南の角に「岡の稲荷社」の三宅碑が見える。中ノ山墓地へは西に坂を登り返す。正平七年(1352)五月、八幡合戦に敗れた後村上天皇が賀名生に落ちのびる際、岡の稲荷社に神器を隠し置いたとするが全く不明です。

⑩ 中ノ山墓地東入口     ⑪ 正平塚遠景 (八幡中ノ山)
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 月夜田交差点から西に約50m坂を登ると中ノ山墓地東入口に到り、階段を登りきると、左方向に楠木の大木が目に入る。ここが正平塚です。

⑫ 四条隆資卿塔並びに将卒三百人墓
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 戦時中の昭和19年(1944)に慧俊信海(けいしゅんしんかい)(今中伊兵衛)によって、この正平塚は整備された。城ノ内町の畳商を営む今中伊兵衛は史跡松花堂の前所有者西村芳治郎氏の実弟でもある。今中の整備の20年前に西村芳次郎が東西20間、南北15間の敷地を定め、石柱を四方に立て保存に努めた。東口と北側にある「正平塚古墳」の石碑は昭和2年のいわゆる「三宅碑」である。
 昭和の初めころから塚は荒廃し、放置すれば南朝忠臣の四条隆資らを祀る塚が消滅することを危惧した今中伊兵衛は自費数千円を投じて整備した。
(この項のみ、京都府立大学文化遺産叢書第4集・中ノ山墓地の景観と庶民信仰:竹中友里代著から要約)

⑬ 三古碑      
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 正平の役で斃れた3人の公卿の古碑であるが詳しいことは判っていない。

【歴史を重ねた八幡宮道】

 最近、八幡東麓の道を「東高野街道」という人もいるが、近年観光客誘致の目的で、平成の歴史街道運動に乗って行政が名付けたと聞いています。実はその名称は八幡の洞ヶ峠を起点とする大阪側の道の呼び名であって、八幡の住民はこれまで殆ど「八幡宮道」の歴史的呼称を使用するか、町名を冠した例えば「志水道」、「常盤道」あるいは「新道」、「旧道」などと呼んできました。観光客や八幡の歴史に関心のない人が残念ながら「東高野街道」と呼ぶようです。
 特に近世以前、八幡の歴史上に存在したかのような記述があれば、それは歴史の理解不足であり致命的な錯誤となります。ここでは、「石清水八幡宮参詣道」として発展してきた歴史的経緯を踏まえた名称を使用します。

  主な参考文献:男山考古録 (嘉永元年・1848) 長濵尚次
        :八幡史蹟 (昭和11年・1936) 中村直勝
        :京都府立大学文化遺産叢書第4集(平成23年・2011) 
--------- 中ノ山墓地の景観と庶民信仰:竹中友里代
by y-rekitan | 2017-05-20 08:00 | Comments(0)

◆会報第79号より-06 四條隆資①

シリーズ「四條隆資卿」・・・①
四條隆資卿しじょうたかすけきょう物語  その1
プロローグ「正平の役」

 大田 友紀子(会員) 


 去年の夏の祇園祭に、初めて、八幡の人々に向けてのツアー(やわた観光ガイド協会主催)が実施されましたので、「太平記」の中でも、マイナーな四條隆資卿(しじょうたかすえきょう)についても、ご存じの方もいらっしゃるかな、と思いますが、まだまだこの八幡の地で起こった「八幡合戦」のことも、その戦闘の中で斃(たお)れた一人の公家・四條隆資卿(しじょうたかすえきょう)のことも、知らない方の方が多いのかなぁ、と思っております。

f0300125_2115593.jpg そこで、今回、四條隆資卿のことを、より多くの八幡の方々に知っていただきたい、と思って書かせていただきます。タイトルを「四條隆資卿物語」とさせていただきました。この間、あることから、「物語」とは、「往古(いにしえ)の記憶を語り伝えるもの」だ、と知りました。であるならば、私たちは、正しく伝えて行く努力をしなければならない、と強く思いました。以前から、私は「南北朝期の八幡」についての研究を続けてきました。そして、その中で、最も私が残念に思っていることは、この八幡の地で何百人もの人々が戦い傷つきあった悲惨な戦いがあった、ということを知らない、伝わっていないことなのです。
 平成21年の春、偶然知った「正平塚古跡(しょうへいつかこせき)」の存在が、私の研究の原点です。奇しくも亡き母の墓などがある中ノ山墓地にあり、昭和の初め、それから、昭和19年にその「正平塚古跡」の整備を行った人たちがいた、ということでした。そして、その中ノ山墓地は、江戸時代、志水の壮士などの墓が営まれるようになっていて、正法寺(しょうぼうじ)の末寺である万称寺(まんしょうじ)の裏山にあり、「女郎花墓(おみなえしぼ)」と呼ばれていました。そんな変遷の歴史があったことを、私たちは知らなければいけないのではと強く思いました。中ノ山墓地は、南山城で、いいえ、日本でも古くて大きい共同墓地です。そこには、往古からの歴史が蓄積されているのです。
 
 正平塚で眠っている四條隆資(1292-1352)は、鎌倉―南北朝期の公卿です。公卿とは、三位以上の貴族で、天皇・上皇の元で政治の中枢にいた人たちです。四條家は白河上皇の乳母子であった藤原顕季(ふじわらのあきすえ)にはじまる家系で、そのひ孫にあたる隆季(たかすえ)が大宮四条に邸宅を構えたことから、「四條」を家名とします。藤原氏の北家の流れをくむ家ですから、家名(本姓)は「藤原」ですから、通姓です。そして、貴族の家格では「羽林家(うりんけ)」に属し、家職としては笙(しょう)の家です。「羽林家」は天皇の傍に仕える立場の家で、武官と文官の家があります。武官の家である四條家の男子は近衞府に出仕して、天皇の身辺警護などの任務を負い、行幸などの際には付き従います。そして、娘は女房として御所に出仕し、天皇の身支度やその他すべての世話をするのですから、天皇のお手がつくことがあり、その結果、皇子・皇女を生むこともありました。そして、娘が皇子を生むと、その縁故により政治の中枢を担うことがありました。御所に仕える娘を何人も出してきた四條家なので、隆資にも伏見天皇の御落胤では、という話もあります。このことについては、次回、詳しく書かせていただきます。
 祇園祭の山である蟷螂山(とうろうやま)と、石清水八幡宮本殿の北東の瑞垣(みずがき)にあるカマキリの彫刻と関連は、昔から神職間で語り伝えられていたそうで、そのことからか、明治の初めの火災で燃えた蟷螂山の復興時には、石清水八幡宮本殿の瑞垣のカマキリの彫り物を参考にして、御所車に乗るカマキリ、すなわち蟷螂が復元されます。そのことについて尋ねると、現在の禰宜さんは、そのように聞いている、と答えられます。そして、この話からも、ぼんやりとですが、瑞垣の蟷螂と四條隆資卿との間には、何か深いつながりがあるのでは、思われてくるのですが。
 八幡宮本殿の蟷螂の彫刻と、四條隆資卿のことは、以前、当会の会報・17号に書かせていただきましたので、省略させていただきますが、今日でも不明な点は残っておりますが、そのような口承が伝え続けられてきたという事実は重要です。このことについては、今後の課題として、話を進めていきたいと思います。
 南朝の元号でいえば、正平7年(1352)5月12日夜半、八幡山に籠城を続けていた後村上天皇は、賀名生(あのう)への撤退を決められ、行宮としていた護国寺を去ることを決意されました。そして、石清水八幡宮宝前(今は南総門前の石段の下に隠れてしまった五つ石の所)にて、八幡大菩薩にお暇乞いをされると、八角堂の前を横切り、西谷小門より、山を下りて行かれました。左側に渓流が流れる山道を、先頭の兵が持つ小さなかがり火を頼りに粛々と、隊列は静かに進んで行きました。先頭の軍が志水大道に差し掛かる頃、後村上天皇は興正谷の庵におられ、祈りを捧げてられました。最期の別れの時を迎え、控えていた四條隆資卿は、「何事が起ころうとも決して後ろを見ることのなきよう、ただただ鞭をとり、馳せられるように。」と甲冑姿の25歳の若武者である後村上天皇に約束させて、近侍の法性寺康長(ほっしょうじやすなが)、滋野井實勝(しげのいさねかつ)の手を取って激励し、出発させます。夜の帳(とばり)が垂れこめている間に、志水大道を進み、その四辻を東に駆け抜けさせたかったのですが、志水の町の手前で赤松則祐(あかまつのりすけ)の配下の兵に気づかれ、その軍の大半は洞ヶ峠を目指す第一軍を追いかけたのですが、中には戻ってくる兵もあり、瞬く間に後続の兵との戦闘が始まりました。一刻一刻、戦いの渦が大きくなって行く中、法性寺康長らに護られて、後村上天皇は奈良街道へと向かって馬を走らせたのです。上奈良の村を過ぎ、木津川沿いを突き進んで行き、奈良の唐招提寺に着いた時には、8騎ほどになっていたことや兵の中に紛れて誰が今上帝なのかわからなかった、と唐招提寺の僧がその時の様子を詳しく書いて、京都の洞院公賢(とういんきんたか)の元に送っています。
 その日の申の刻(朝の10時)には西大寺の前を過ぎ、三輪に着いています。八幡の陥落と脱出の困難であった有様がよく伝わってきます。5月13日の朝には、八幡合戦の首級が京に続々と持って来られ、すぐさま六条河原に晒されました。その日、洞院公賢は「随分合戦し遂に取らる、不便(気の毒だ)」と記しています。
 四條隆資卿や滋野井實勝、そして多くの将兵が闘死した場所は、記録にはありません。f0300125_2125260.jpgですが私は、その当時「志水の四辻」と呼ばれていた、現在の内藤精肉店の付近では、と考えています。と言うのも、精肉店の北側に出来た公園の中にあるお社・『荒鈴龍王(あらすずりゅうおう)』の存在が、そんなことを考えさせるのです。それくらい立派な弊額が掛かっているお社です。想像たくましくいえば、その時にその地に埋葬された後、その上には『荒鈴龍王』社が祀られましたが、その後、なんらかの事情で中ノ山墓地に改葬され、それが「正平塚」となったのでは、と想像しています。八幡神領内での戦の後、戦死者たちはきっと手厚く葬られたと私は信じています。
 今年も、もうすぐ7月、京都では町衆の心意気が感じられる祇園祭が始まります。その頃に、今年も蟷螂山町などを訪ねるツァーが予定されています。今年こそ私は、組み立てられたばかりの蟷螂山を舁(か)いでみたい、と思っています。この毎年12日から13日に行われる先祭の山舁(やまかき)初めに参加すると無病息災が約束されると、いわれています。 
(つづく)  

           
(京都産業大学日本文化研究所 上席客員研究員)  


【参考文献】
京都府立大学文化遺産叢書第1集「近世後期八幡神領の病・死・墓」東昇著
京都府立大学文化遺産叢書第4集「中ノ山墓地の景観と庶民信仰」竹中有里代著
角川選書―222「内乱のなかの貴族」林屋辰三郎著



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by y-rekitan | 2017-05-20 07:00 | Comments(0)

◆会報第79号より-07 三宅碑⑧

《続》 2016年1月度の講演会より

『三宅安兵衛遺志』碑と八幡の歴史創出
その8

―松花堂・東高野街道・天皇聖蹟・綴喜郡―

中村 武生  (京都女子大学非常勤講師)



西村芳次郎による史蹟空間の創出と文化財保護

 三宅清治郎の建碑意図についてはすでに論じましたので、つぎは西村芳次郎のそれを論じます。西村には清治郎とは明らかに異なるいくつかの独特な建碑方針がありました。西村の多数の建碑は、これまでの三宅碑の特徴にどんな性格を加味したのでしょうか。以下「日記」や西村の著作、建立碑銘などによって考察を進めます。

(一)芳次郎主導の三宅碑建立地の地理的範囲

 まず西村芳次郎選択による三宅碑が、どの程度の地理的範囲に建設されたのか、おおよそ特定しておきたいと思います。
「日記」によれば、1926年(大正15)秋から翌年(昭和2)春にかけてまとまった建碑依頼を3度しています。すなわち1926年10月23日に20ヵ所、1927年3月12日に40余ヵ所、同年4月3日に68ヶ所、あわせて約130ヵ所です。いずれも「同地ニ」「同地附近ニ」などと記されているため、八幡町やその付近に建てられたことが分かります。
 前述したように、芳次郎には八幡とその周辺の史蹟名勝についていくつかの著作があります。その大半は三宅碑建立の1921年から1929年のさなかか、その直後に書かれたため、碑の建立地選択と密接な関係があると考えられます。とりわけ「八幡史蹟名勝記(誌)」「南山史蹟名勝誌」『昭和三年八幡史蹟名勝誌』(前述)は注目すべきです。このうちまとまっている『昭和三年八幡史蹟名勝誌』の項目を列挙したのが表1です。これを表2と比較してみよう。すると酷似した項目の大変多いことに気づかれます。実に132に及びます。これまでの考察から、一致するものは芳次郎の建てた三宅碑と判断してよいと思います。

表1 『昭和三年八幡史蹟名勝誌』項目一覧
1.石清水八幡宮
2.神宮寺跡
3.引窓南旧跡
4.常昌院
5.航海安全記念塔
6.神応寺
7.鳩ヶ峯国分寺跡
8.天皇潔水
9.豊蔵坊跡
10.泉坊松花堂跡
11.滝本坊跡
12.萩坊跡
13.大西坊跡
14.護国寺薬師堂跡
15.財恩寺跡
16.高橋陣所跡
17.反橋跡放生川
18.安居橋
19.淀屋辰五郎旧邸
20.単伝庵
21.戊辰役史蹟念仏寺
22.大河内秀元墓正福寺
23.国宝薬師像薬薗寺
24.源頼朝公手植ノ枩
25.山ノ井戸
26.松花堂旧跡泰勝寺
27.城之内古跡
28.日門上人塔本妙寺
29.園殿口戦場跡
30.法園寺
31.小野頼風塚
32.金剛律寺故址
33.善法律寺
34.巡検道
35.寝物語国分橋
36.巣林菴
37.忍澂寺昌玉菴
38.興聖谷不動寺
41.正法寺
39.新善法律寺
40.九品寺42.弘仁時代一里塚
43.正平役馬塚跡
44.八角院
45.元三大師堂
46.西車塚
47.女郎花塚
48.月の岡邸
49.泉之坊書院
50.松花堂茶席
51.車寄門
52.東車塚
53.血洗池跡
54.男塚
55.一宮入道塚
56.岡の稲荷之社
57.所天橋
58.佐羅志戦場跡
59.清水合戦跡
60.御幸谷古跡
61.蛇塚古墳
62.蛭塚古墳
63.宇智王子故址
64.岩田社
65.荒阪古戦場跡
66.荒坂横穴古墳
67.松井横穴古墳
68.古寺跡
69.美濃山古墳
70.美濃山横穴古墳
71.王塚古墳跡
72.小塚古墳跡
73.東二子塚古墳跡
74.西二子塚古墳跡
75.筒井順慶陣所跡
76.洞ヶ峠古墳
81.中ノ山古墳跡
77.円福禅寺
78.水月菴
79.太古山古墳
80.涙川旧跡
82.紅葉寺宝青菴
83.万称寺跡
84.正平塚
85.吾妻与五郎墓
86.大芝古墳跡
87.初陣山古墳
88.石城古墳
89.茶臼山古墳
90.樟葉宮
91.和気清麿公旧跡足立寺
92.豊蔵坊信海墓
93.浄瑠璃姫墓
94.長柄人柱地蔵尊講田寺
95.南岩倉跡
96.如法経塚跡
97.塩竃古跡
98.湯沢山茶久蓮寺跡
99.元橋本寺西遊寺
100.八幡橋道標
101.川口渡舟場
102.下奈良浜渡舟場
103.経塚
104.獅子塚
105.岩田渡舟場
106.八幡宮近道標
107.善法寺旧邸
108.東在所道標
109.小野篁作閻魔十王像
110.樟葉橋本近道標
111.水月菴道標
112.神器保安所岡の森稲荷道標


表2 『木の下蔭』所載「建碑個所」一覧
番号は便宜上筆者が付した。なお原則正字は略字に改め、字句の明瞭な誤りは正した。
1.東山名勝の碑
2.栂尾山高山寺の碑
3.西陣の碑
4.金福寺の碑
5.京都七名水の一中川の水の碑
6.嵯峨一帯の碑
7.左々への碑
8.東照宮の碑
9.南院国師塔所の碑
10.松永貞徳翁造庭雪の庭の碑
11.金地院墓所水道の碑
12.仏日山金福寺芭蕉菴の碑其の一
13.金福寺呉春の墓の碑其の二
14.同景文の墓の碑其の三
15.金福寺蕪村の句碑其の四
16.金福寺近道の碑其の五
17.桂宮院の碑
18.長沢蘆雪の碑
19.太秦西門の碑
20.関白豊臣秀次公の碑
21.円光寺の碑
22.豊臣秀次公墓所の石柵幷に碑其の二
23.殉死侍臣の碑其の三
24.局方の碑其の四
25.大悲閣の碑其の一
26.詩仙堂の碑其の一
27.同其の二
28.航海記念大石塔の碑
29.善法律寺の碑
30.水月庵の碑
31.国分寺址の碑
32.八角院の碑
33.滝本坊址の碑
34.涙川の碑
35.正平の役、高橋陣趾の碑
36.大西坊の路の碑
37.豊蔵坊の碑
38.大河内秀元墓碑
39.本妙寺の碑
40.九品寺の碑
41.西遊寺の碑
42.放生川反橋の碑
43.一の宮入道塚の碑
44.山科昆沙門堂の碑其の一
45.同其の二
46.松花堂の碑
47.正法寺の碑
48.円福寺の碑
49.同其の一
50.同其の二
51.泉坊、松花堂址の碑
52.神宮寺址の碑
53.引窓南邸の碑
54.護国寺薬師堂の碑
55.単伝庵の碑
56.薬園寺の碑
57.正平の役城の内古蹟の碑
58.水月菴の碑其の二
59.湯沢山茶久蓮寺の碑
60.万称寺山の碑
61.岡の稲荷社の碑
62.清三宝荒神護浄院の碑
63.神応寺の碑
64.小野頼風塚の碑
65.紅葉寺の碑
66.淀屋辰五郎居宅趾の碑
67.萩の坊址の碑
68.東車塚の碑
69.洞ヶ峠の碑
70.財恩寺の碑
71.源頼朝手植の松の碑
72.安居橋の碑
73.戊辰役史蹟念仏寺の碑
74.山の井戸の碑
75.忍徴寺昌玉菴の碑
76.薪の酬恩菴一休寺の碑
77.正平役園殿古戦場の碑
78.血洗池の碑
79.美濃山横穴の碑
80.東二子塚古墳址の碑
81.巣林庵の碑
82.正平塚の碑
83.同其の一
84.同其の二
85.男塚古墳の碑
86.佐羅志古戦場の碑
87.蛭塚古墳の碑
88.岩田社の碑
89.松井横穴の碑其の一
90.同其の二
91.万福寺址の碑
92.石城古墳の碑
93.和気清麿公旧蹟の碑
94.如法塚の碑
95.橋本分水道の碑
96.新善法寺旧跡の碑
97.中の山古墳の碑
98.西二子塚古墳址の碑
99.吾妻与五郎の墓の碑
100.御幸谷古蹟の碑
101.常昌院地蔵尊の碑
102.法園寺の碑
103.高野及奈良街道の碑
104.清水合戦址の碑
105.宇智王子邸址の碑
106.荒坂古戦場の碑
107.王塚古寺址の碑
108.筒井順慶陣所址の碑
109.大芝古寺の碑
110.茶臼山古墳の碑
111.浄瑠璃姫墓の碑
112.塩竃古跡の碑
113.京街道里程標の碑
114.正平俊馬塚古墳の
(ママ)
115.佐川田喜六昌俊の墓の碑
116.太古山古墳址の碑
117.豊蔵坊信海墓の碑
118.王塚の碑
119.円福寺分岐道の碑
120.弘仁時代一里塚の碑
121.所天橋の碑
122.蛇塚古墳の碑
123.福王寺の碑
124.荒坂横穴の碑
125.小塚古墳の碑
126.洞ヶ峠古墳の碑
127.初陣山古墳の碑
128.樟葉宮の碑
129.南岩倉の碑
130.橋本、樟葉の道の碑
131.八幡宮道の碑
132.寝物語国分橋の碑
133.佐川田墓道の碑
134.黙々寺旧址の碑
135.奈良街道巡検道の碑
136.善法寺旧蹟の碑
137.川口渡舟場の碑
138.小野篁公作十三像の碑
139.日本最初外国蚕飼育旧蹟の碑
140.近衛基道公墓の碑
141.水番遺蹟の碑
142.天王山城蹟の碑
143.祝園神社の碑
144.旧淀橋の碑
145.淀学校天皇御駐輦の碑
146.兆殿司及五条三位藤原俊成卿墓の碑
147.同其道の碑其の二
148.同同其の三
149.同同其の四
150.天武天皇御遺址の碑
151.岩本城址の碑
152.大応国師妙勝寺址の碑
153.金剛律寺故蹟の碑
154.経塚の碑
155.男山八幡宮近道の碑
156.大阪街道の碑
157.継体天皇皇居旧蹟の碑
158.蘭学の泰斗藤林普山先生の碑
159.仁徳天皇、皇后、磐之姫故蹟の碑
160.石舟神社の碑
161.安養寺の碑其の一
162.唐人雁木の旧蹟の碑
163.千両松の旧蹟の碑
164.ケーブルカー上石清水八幡宮の碑
165.淀街道の碑
166.青谷街道の碑
167.信楽街道の碑
168.双栗寺の碑
169.信西入道塚の碑
170.北嵯峨覚勝院の碑
171.常昌禅院の碑
172.獅子塚の碑
173.志水町の碑
174.南山城不動寺の碑
175.近衛基道公遺蹟の碑
176.水取司遺蹟の碑
177.仁徳天皇城旧蹟の碑
178.朱智神社の碑
179.淀大橋の碑
180.戊辰役古戦場の碑
181.松花堂遺蹟の碑
182.洞ヶ峠山上の碑
183.佐山大松寺の碑
184.佐山浄安寺の碑
185.御栗栖園の碑
186.施基皇子故址の碑
187.茶祖永谷翁の碑
188.宇治茶最初園の碑
189.禅定寺の碑
190.武野紹鷗大黒天の碑
191.祇王寺の碑
192.大覚寺道の碑其の一
193.高雄道の碑
194.日像上人の碑
195.道昌大僧正の碑
196.名古曾の滝址の碑
197.遍照寺の碑
198.神魂丘旧墳の碑
199.西方寺袋中上人墓の碑
200.能化院の碑
201.亀山離宮の碑
202.野々宮の碑
203.蓮華峰寺高雄道の碑
204.蟹満寺の碑
205.筒井浄妙塚の碑
206.医王堂址の碑
207.西行菴の碑
208.光琳翁宅址の碑
209.あだし野(仇野)の碑
210.熊谷山の碑
211.嵯峨離宮址の碑
212.車折神社道の碑
213.北嵯峨曲り角の碑
214.小倉山の碑
215.井手飯岡王古墳の碑
216.桜井令穿七井戸の碑其の一
217.同其の二
218.同其の三
219.同其の四
220.同其の五
221.同其の六
222.同其の七
223.和岐座天乃夫岐売神社の碑
224.猿丸太夫故址の碑
225.綜芸種智院の碑
226.三十三間堂の碑
227.御室、北野道の碑
228.嵯峨天皇仙洞址の碑
229.亀山公園道の碑
230.角の倉の碑
231.直指菴の碑
232.歌仙洞の碑
233.朱大王古墳の碑
234.穴山梅雪翁墓の碑
235.日野薬師の碑
236.普賢寺の碑
237.厭離庵の碑
238.嵯峨天皇、宇多天皇陵の碑
239.用水開鑿豊田翁旧蹟の碑
240.高倉宮以仁王旧蹟の碑
241.虚空蔵尊の碑
242.仏母洞の碑
243.泉橋寺の碑
244.高雄道しるべの碑
245.甕ヶ原離宮址の碑
246.恭仁大極殿址の碑
247.橋本砲台址の碑
248.釈迦堂の碑
249.観空寺道の碑
250.九体寺(浄瑠璃寺)の碑
251.西芳寺の碑其の一
252.西芳寺道しるべの碑其の二
253.宇治駅前の里程標の碑
254.志水月の岡前の碑
255.八角堂の碑
256.石清水社の碑
257.興聖谷不動尊の碑
258.古寺の旧蹟の碑
259.十王像焔魔堂
260.落柿舎の碑
261.神童寺の碑
262.長建寺弁財天の碑
263.瓶の原国分尼寺の碑
264.恭仁橋跡の碑
265.嵯峨駅の碑
266.下立売、妙心寺道の碑
267.加茂笠置分岐点の碑
268.鋳司村学校の碑
269.大覚寺の碑其の二
270.同大沢の池の碑其の三
271.同南北朝御講和の碑其の四
272.同其の五
273.同其の六
274.女郎花塚の碑
275.鳩ヶ峰国分寺の碑
276.元三大師堂の碑
277.宇智王子陵墓の碑
278.木津橋の碑
279.高麗寺旧址の碑
280.一言寺の碑
281.国分尼寺道標の碑
282.海住寺の碑
283.嵯峨弁財天道の碑
284.小倉山近道の碑
285.笠置、和束分岐道の碑
286.笠置山上の碑
287.同弥勒石の碑
288.同薬師石の碑
289.笠置山上文殊石の碑
290.同虚空蔵石の碑
291.六本松の碑
292.天皇潔水の碑
293.西車塚の碑
294.長柄人柱地蔵尊講田寺の碑
295.戸津道標の碑
296.岩田渡舟場の碑
297.開運山寿宝寺の碑
298.よし峰寺其の一
299.同其の二
300.同其の三
301.法泉寺の碑
302.薪能金春の芝の碑
303.称名寺の碑
304.光明寺の碑
305.田原天皇旧蹟の碑
306.西芳寺の碑其の三
307.建武役の碑
308.井手の山の碑
309.筒井陣所東二子塚の碑
310.美の山の碑
311.八幡橋の碑
312.正平塚古墳の碑
313.碁道名人第一世本因坊算砂日海上人の旧蹟の碑
314.法皇寺の碑
315.水無瀬神宮其の一
316.同其の二
317.同其の三
318.同其の四
319.専念寺の碑
320.真言宗寿宝寺の碑其の二
321.山滝寺遺址の碑
322.水薬師の碑
323.宇治田原の碑
324.松井蔵人舘址の碑
325.橋本道の碑
326.戻橋跡放生川の碑
327.相楽の里の碑
328.如法経塚の碑
329.大悲閣の碑其の二
330.妙喜菴の碑其の一
331.妙喜菴の碑其の二
332.安養寺の碑其の二
333.同其の三
334.同其の四
335.同其の五
336.華台寺の碑
337.広沢の池の碑
338.梨間の宿址の碑
339.橘諸兄公古蹟寿福院の碑
340.京都街道の碑
341.長池旧跡の碑
342.赤良浜の渡舟場の碑
343.神宮寺址の碑
其他略之


f0300125_23365044.jpg くわえて同年11月11日には「水無瀬宮の碑外数ヶ所建石の事申込」んでいるため、八幡周辺にとどまらず京都府を越えて大阪府下の建碑にも関わっていると知れます。その他、1930年(昭和5)12月5日には清治郎が芳次郎を訪ね、「綴喜郡田原村字荒木区光島市次郎氏(略)の田原親王址、山栗寺址、の石碑訂正ニ付き書状三通を示し取調べ分を依頼」しています。さらに「日記」に記載はありませんが、前述したように佐藤虎雄の回想や当時の新聞記事により笠置町まで出向いたことがわかります。実際笠置山の麓や中腹に三宅碑は現存しております。
 これに対してこの時期の清治郎自身の建碑範囲は、すでに紹介した乙訓郡向日町や同長岡町、葛野郡北嵯峨地域、洛中西陣にくわえて洛東南禅寺などで、京都市域や洛西北嵯峨、乙訓に限られます。洛南地域の建碑にはほとんど関わっていません。例外は一休寺で、1926年(大正15)8月2日に建碑の申し出をして以来(前述)交流があるようで、「日記」1927年(昭和2)12月28日条にも「○早朝、田辺の一休寺住職来、大応国師其地妙勝寺趾、并ニ佐川田昌俊氏の墓道標等の建石竣工の挨拶、感謝状持来来宅、中村石匠も来宅」とあります。ただし妙勝寺や佐川田昌俊は松花堂昭乗に関係の施設・人物であるので芳次郎の意志も含まれていると判断されます。これは後述します。
 以上のことから、西村芳次郎の建碑範囲は、主に八幡町を中心とした旧綴喜郡、及び相楽郡、大阪府下であったと判断されます。
                             (つづく)

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by y-rekitan | 2017-05-20 06:00 | Comments(0)

◆会報第79号より-08 連続学習会

「八幡の歴史を学ぶ連続学習会」
2016年度実施報告

野間口 秀國 (八幡の歴史を探究する会 幹事)


 去る3月16日(木)に2016年度の「八幡の歴史を学ぶ連続学習会」も当初計画の全6回を無事に終えることができました。テキストとして活用しました『歴史たんけん八幡』刊行に至る経過や、学習会開催までの経過を簡単に振り返りながら、ご支援いただきました方々への感謝をお伝えいたし、実施報告をさせていただきます。

 手許のノートに、走り書きですが次のような簡単な3項目のメモが残されていました。
2014.4.28(月) 幹事会の打合せ;
1)「出版事業の推進」、
2)着手準備金は余剰金より捻出する、
3)2016年3月の発刊を目途とする。
 この幹事会メモ以降の、「会報」から拾える発刊に関する記事は、「会報」第51号を皮切りに以下の通りでした。

「会報」51号(2014.6.30刊);
是枝昌一代表幹事(当時)の「会報50号発行の節目を迎え」と題する投稿に、「・・・仮称『親子で学ぶ八幡の歴史』と題する冊子の企画・・・」とありますが、これが会報での刊行関連記事のデビューであり、以降の各号では都度の経過報告などの記事が以下のように掲載されています。

「会報」56号 2014.11.26刊;
『歴史たんけん八幡』の発行に向けてと題した事務局からの報告と伊佐錠治編集委員会委員長の挨拶。

「会報」63号 2015.7. 6刊;
経過報告と連続講座のお知らせ。

「会報」64号 2015.8.10刊;
「発行が迫る」と題した事務局の報告。

「会報」65号 2015.8.31刊;
石清水八幡宮禰宜・西中道氏より期待を込めたお言葉。

「会報」66号 2015.9.28刊;
『歴史たんけん八幡』発行のお知らせと読者の感想。

「会報」67号 2015.10.26刊;
複数の関係者よりの出版へ寄せるお言葉。

 刊行後は市内の小中学校や図書館などへの寄贈をはじめ、その活用方法についても内部で話し合い、本をテキストにした学習会を実施することにしました。学習会には、「担当者によって、担当する章をテキストに沿って読み返したり、不足することを補足説明したりすると共に、参加者との意見や情報の交換を交えて八幡の歴史の学びをより深める機会が得られたら」、との思いを込めました。そして、会報72号(2016.3.28刊)にて「八幡の歴史を学ぶ連続学習会」実施のお知らせ記事を掲載するに至ったのです。
 以下が2016年度の当初計画であり、無事に全日程を終えることができました(担当者名は敬称を略します)。

2016年5月19日(木)
7月14日(木)
9月15日(木)
11月17日(木)
2017年1月19日(木)
3月16日(木)
「大昔の八幡」
「町の成り立ちと神人の活躍」
「松花堂昭乗という人がいた」
「淀屋と八幡」
「河川と歩んだ八幡」
「昭和から平成へ」
中田孝子
土井三郎
奥山邦彦
丹波紀美子
野間口秀國
高井輝雄

f0300125_14272879.jpg 学習会に参加いただきました方々の延べ人数は189名を数え、それぞれの回ごとの参加者数の増減はあるものの平均で32名との結果となりました。改善すべきことはございましたが、当初の思いは一定程度果たせたのではないかと考えております。以下に “2017年3月16日(木)「昭和から平成へ」” へ参加いただきました方々より寄せられた感想の一例を挙げてみたいと思います。
1)男山団地の開発経過や歴史が良くわかった。 
2)八幡の税金10回払いについての疑問が初めて解けた。
3)八幡で起きた風水害の話はとても興味深く聞きました。 
 などなどです。

 最後に、この取り組みにつきましては、企画時点より八幡市教育委員会の後援をいただき、また都度の開催におきましては文化財保護課のご協力をいただきましたことを記し、紙面よりありがたく感謝申し上げます。全6回参加いただきました方々はもとより、ご都合で1回のみの参加に留まられた方まで、参加いただきました全ての皆様に改めてお礼を申し上げ、別途ご案内の2017年度の活動にも変わらぬご支援をお願いいたし、2016年度の実施報告とさせていただきます。
by y-rekitan | 2017-05-20 05:00 | Comments(0)

◆会報第79号より-end

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by y-rekitan | 2017-05-20 01:00 | Comments(0)