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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
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◆シリーズ:“心に引き継ぐ風景” ⑪◆
◆《歴史探訪バスツアー》伊弉諾神宮と東山寺を訪ねて◆
◆シリーズ:“八幡の古墳と鏡” ④◆
◆シリーズ:“四條隆資卿物語” ②◆
◆八幡の京街道は川底に沈んだ◆
◆消えた踏切道に思う◆
◆今年白寿を迎えました◆



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by y-rekitan | 2017-07-24 15:00 | Comments(0)

◆会報第80号より-01 豊蔵坊信海

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心に引き継ぐ風景・・・⑪

豊蔵坊信海と北村季吟きたむらきぎん


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 豊蔵坊信海(孝雄)は松花堂昭乗の門人であり、藤田友閑、中村久越らと共に
歴史に登場する。後年は狂歌作者として名を馳せ「豊蔵坊信海狂歌集」がある。
豊蔵坊は三河以来の徳川家の祈願所であった為、107石の領地朱印状を有し、年に3度、将軍に拝謁している。他に伏見奉行所より300石を支給されており、壮大な坊舎が絵図から見て取れる。今、跡地には「豊蔵坊跡」の三宅碑が建ち、石垣のみが往時を偲ばせる。
 信海、終生の友として、北村季吟がいる。季吟は現在の滋賀県野洲市の出身で
父宗円が京都に出て医や連歌を学んだ為、季吟も早くから医業を学び、長じて山城長岡藩の藩医であったことが知られている。俳諧は初め安原貞室(やすはらていしつ)に学び、後に松永貞徳の門に入る。貞徳没後「宗匠」として独立後の門人には、かの松尾芭蕉がいる。季吟が八幡豊蔵坊を直接訪れたのは寛文元年(1661)8月28日、季吟38歳、信海36歳の時であった。5日間逗留し、その時の贈答歌が残る。
信海が元禄元年(1688)9月13日に63歳で没した翌年、季吟は幕府歌学方として五代将軍綱吉に仕える。神應寺19世・廓翁鉤然(かくおうこうねん)に帰依する大奥総取締「右衛門佐(えもんのすけ)」はこの時期に多くの上方文化人を江戸に呼び寄せたが、季吟の推挙にも関わった事が容易に想像できる。

(写真と文 谷村 勉)空白



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by y-rekitan | 2017-07-24 12:00 | Comments(0)

◆会報第80号より-02 淡路島バスツアー

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《6月例会 歴史探訪バスツアー》

伊弉諾神宮いざなぎじんぐう東山寺とうさんじを訪ねて~


  藤田 美代子 (歴史探訪担当幹事)



 昨年よりさらに遠く淡路島へと企画いたしました。
 従来通り市内4ケ所の集合場所にお集まりいただき、順次バスに乗車、4番目の一の鳥居を予定より10分早く、総勢39名にて出発致しました。当初見込みの参加人数を越えましたので参加費を8,500円から8,000円に値下げさせて頂きました。
 今年度は当日の不参加者は居られず、遅刻される方もなくスムーズな集合で出発することができました。
 途中名塩でお手洗い休憩を取り、伊弉諾神宮へと向かいました。

 伊弉諾神宮は、古事記・日本書紀に、国生みに始まるすべての神功を果たされた伊弉諾大神が御子神なる天照大神に国家統治の大業を委譲され、最初にお生みになられた淡路島の多賀の地に「幽宮(かくりのみや)」を構えて余生を過ごされた、と記されていることに由来するそうです。f0300125_1194210.jpg
 境内地は約一万五千坪、日本最古の社です。江戸時代の地誌によれば二丁四方の社地を領したこともあり、広大な神域でありました。
 バス到着後、神明鳥居の一の鳥居・二の鳥居をくぐり、神地の反り石造りの神橋を渡り、手水舎を経て、重厚な檜皮葺きの表神門に至ります。

 拝殿にて宮司様に厳粛に祝詞(のりと)を奏上頂き、f0300125_11142154.jpg巫女さんによる雅な神楽を堪能したのち、割り拝殿形式であるため、改めて本殿に向き直し、皆さん一同の二礼二拍手一礼の参拝をさせて頂きました。その後宮司様より、神社のこと、また、石清水八幡宮の別宮であったことがあり、今では当社の宮司様が兼務をされている鳥飼八幡宮の説明を頂きました。鳥飼八幡宮には美福門院から石清水八幡宮へ御造進され、f0300125_1119463.jpg安貞二年(1228)に贈与せられた重要文化財(昔は国宝)御鳳輦が安置されていること。現在も石清水八幡宮の放生会に際し、毎年土地の名産「鶏冠海苔(とさかのり)」が奉納されていること、例祭には勇壮な神輿が出ること等々興味深いお話でした。そして境内に出て二班に別れて末社、樹齢九百年の夫婦大楠、神幸式に召される六角鳳輦型の豪華な御神輿、その格納神輿庫、神馬の銅像や御手植えの松、元禄元年(1688)以前に藩主蜂須賀家の寄進した東西神門等の説明を受けました。面白かったのは、神池のそばに伊弉諾神宮を中心とした太陽の運行図という石碑があったことです。当神社を中心として主要な神社が日本全土に意図的に配置されているというものです。
 「夏至日の出」の方角に「諏訪大社(信濃国一宮)」
 「夏至日の入」の方角に「出雲大社(出雲邦一宮)」
 「冬至日の出」の方角に「熊野那智大社」
 「冬至日の入」の方角に「高千穂神社(天岩戸神社)」f0300125_11255858.jpg
 淡路島を中心につまり、夏至のとき太陽は「諏訪大社」の方角から昇り「出雲大社」の方角へ沈む。冬至のとき太陽は「熊野那智大社」の方角から昇り「高千穂神社」の方角へ沈む。東へまっすぐいったところは「伊勢神宮」となっております。太古の昔天文学・測量技術がそんなにも発達していたのでしょうか?

 伊弉諾神宮を後に昼食会場「きとら」へと向かいます。こちらはツアー下見時案内頂いた伊弉諾神宮権禰宜様より教えて頂いたお店で、海鮮料理がおいしく、団体でも可能とのことで、試食もした上で決めたレストランです。 今までのバスツアーでは昼食は各自の好みで取って頂くことを原則としておりましたが、今回は近くに十分な数の店もなく、たまには交流を兼ての合同の昼食も良いのではということの結果です。皆さんから印象は悪くなかったという感想を頂いており、企画した者として胸をなでおろしているところです。

昼食後は東山寺へと向かいます。
 高速道路を降りた後、東山寺への道はせまく、険しいもので、最後はバスを降りて歩かざるを得ませんでしたが、歩くのはさしたる距離ではありませんでした。
f0300125_11343274.jpg 山門及び本堂は室町時代淡路守護職細川家の寄進とされ、淡路最古の木造建築です。
 石清水八幡宮護国寺にあった薬師如来と十二神将は現在国の重要文化財ですが、かっては国宝に指定されていたものです。
 今回のツアーの大きな目玉であることからも、皆さんは逸るこころで東山寺の階段を駆け上られたのではないでしょうか?私も下見時の気持ちの高鳴りを再び覚えました。
f0300125_1137244.jpg ここでも二班に別れて、本堂と薬師堂を見学させていただきました。
 御本尊は十一面観音で一木三体の名作と伝えられ、常隆寺・千光寺とは木兄弟です。
薬師如来及び十二神将は現在鉄筋コンクリートの近代的建物の薬師堂内に安置されております。これは旧木造薬師堂が昭和40年の秋の台風により倒壊寸前の状態に陥り、津名・一ノ宮両町教育委員会のご尽力により、文部省・県・町のご厚意により建設されたのだそうです。
 尊像が大切に保存されており、有難いことだと思わずにはいられませんでした。
 これ等の仏像が何故に淡路の地に来ることになったのかについて以下のように伺いました。
 1867年幕府は政権を朝廷に返上し、鳥羽伏見の戦いを経て、明治維新を迎えました。明治新政府は王政復古の名のもと、神道を重んじる政策を打ち出し、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れます。石清水八幡宮・護国寺の別当であった道基上人は何年もお祀りしてきた仏像が捨てられることが耐えがたく何とかしたいと思っておられました。幕末動乱の中、密使として働いていた佐伯心随尼僧が東山寺復興を目指していることを聴き、復興の手助けになればと当地に仏像を運ぶことを決意されたようです。険しい山道を仏像を背負ってこの地に持ち込まれたそうです。明治二年六月十二日のことです。
 どのように運ばれたのか質問してみますと、樽に入れて運ばれたとのことでした。
其の後道基上人は淡路島に移り住み、永寿寺という小さな寺の住職となり、明治二十二年心随尼の東山寺復興を見届け、七十四才で生涯を閉じられたそうです。

f0300125_11395768.jpg 別れていた二班が一緒に本堂に入り、高野山尼僧学院で教鞭を執ってこられた住職様より、講話を頂きました。感謝して生きることの大切さを教えられました。
 東山寺に心惹かれながら、帰路に向かいました。ハイウェイオアシスで小休止して、予定通り全員無事八幡に到着しました。

 皆様お疲れ様でした。
 最後になりましたがこの場をかりまして、下見時、当日とご丁寧に御案内並びに御説明頂きました、伊弉諾神宮、東山寺の皆様に心より御礼申し上げます。
 来年もまた、八幡にゆかりのある旅の企画ができればと思っています。


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by y-rekitan | 2017-07-24 11:00 | Comments(0)

◆会報第80号より-03 古墳と鏡④

シリーズ「八幡の古墳と鏡」・・・④
八幡の古墳と鏡 (4)
-東車塚古墳について-

濵田 博道 (会員) 


東車塚古墳とは

 東車塚古墳は国史跡名勝に指定されている松花堂庭園(八幡市大字女郎花)内にある古墳です。というより、もともと古墳があったところを開発、利用して名勝松花堂庭園ができたという方が正確でしょう。この付近は江戸時代の終わりごろから畑地として開拓が始まっています。
『男山考古録』(1848年)巻14「東車塚」に概略次のような記述があります。
f0300125_171013.jpg「女郎(花)塚(おみなえしづか)といふ処の東に、四十間(約73m)ほどの小山のような塚があり、このことである。
(中略)この地は社士神原氏の所領だったが、志水町の民小衛門と儀右衛門という人が40年ほど前、山頂の樹木を切りここを開拓し畑にしようとして、鋤鍬で耕そうとしたが、皆その夜から病に伏して掘り崩すことはやんだ。
儀右衛門の子どもの清兵衛という人が恐れおののいて丘上に小祠を建てて祭った。このようなことは西車塚でもあった」。
 梅原末治氏の『久津川古墳研究』(大正9年(1920年)、水木十五堂発行)には次のような記述があります。
「(東車塚古墳は)北北西面の前方後円墳にして、北西にある西車塚と相去る約一丁(約109m)なり。後円部の西方に女郎花塚なる小円墳を伴ふ。f0300125_1743012.jpg古墳の全部は今全く井上氏の別荘の内に入て、大部分は地均を行ひ庭を形造り、ために原形を明にする能わざる(後略)」。
 古墳は「推定全長90m、後円部径50m、前方部50m、前方部幅30m、葺石・埴輪列、粘土槨(後円部)、木棺直葬か(前方部)」(注1)とされています。前方部は削平されており、現在その痕跡はなく、詳しい墳形や何段築成の古墳であったのか不明です。古墳としてはわずかに後円部が松花堂庭園の築山として残っているのみです。

東車塚古墳の埋葬施設・埋葬状態

 前書で、梅原末治氏は別荘工事を観察していた西村芳次郎氏より話を聞き、次のように記しています。「古墳の外形すでにこの如きを以て内部の構造、遺物の埋葬状態等は既に明瞭にする能わざる点多きも、(中略)この塚においては前方部と後円部との両者に埋葬物存せりが如く、最初前方部の地均の際古鏡一面と剣身一口を発見し、(中略)地表下約二尺(約60cm)にして、土砂に混じ偶然上記の二品を得たるものにして、なんらこれに特殊の造構を認めざり」。
 前方部に於いては「何らこれに特殊の造構を認めざり」とありますから、きちんとした埋葬施設があったのか、不明です。それゆえ、『八幡市遺跡地図』も「木棺直葬か(前方部)」と記述しているのでしょう。この前方部から出土した鏡が三角縁神獣鏡です。
 後円部の埋葬施設については、封土の下、約150~160cmの所に「やや前者(前方部)と様子を異にして、一種の粘土と礫石(れきせき)とより成る槨(かく)の如きものあり」。底に栗石を一列に並べた礫床(れきしょう)があり、次に朱層があってその上に粘土層を置き、「遺物はこの朱層中に存せり」とあります。「西に偏して長宜子孫内行花文鏡(ちょうぎしそんないこうかもんきょう)一面存し、それに隣て東にほぼ相重なれる位置に古鏡二面あり。両者の中間より硬玉製勾玉(こうぎょくせいまがたま)二個を発見せり。刀剣、斧頭、鏃(やじり)の類は鏡よりさらに東に並列し、鏃、甲冑(かっちゅう)の類は刀剣の北側、二面の鏡の東に位置せりと伝へ、鏡は三面共表面を上にして存せり。」(注2)と記されています。
 礫床(れきしょう)・朱層・粘土層を敷いた埋葬施設が一基あり、豪華な副葬品を持つことから、後円部の被葬者がこの古墳の主体であり、遺物も大切に埋葬されていることがわかります。

東車塚古墳出土の副葬品

 さらに「遺物の中にて最も貴重なる鏡にしてその中(中略)長宜子孫内行花文鏡は京都帝国大学に蔵せられその他は個人の有に帰せり」(注3)とあります。現在、鏡4枚のうち京都大学総合博物館(内行花文鏡1枚)と泉屋博古館(三角縁神獣鏡及び仿製六神像鏡の2枚)に分散、所蔵されています。残りの鏡1枚(鼉龍鏡(だりゅうきょ))、碧玉製勾玉(へきぎょくせいまがたま)二個、甲冑などは不明です。甲冑は衝角付冑(しょうかくつきかぶと)及び短甲(たんこう)であることがわかっています。梅原末治氏は大正5年(1916年)にこの古墳を訪れ実見し、「副葬品はその後四散して今行方を失せるもの少なからず。」(注2)と記しています。
 副葬品の刀剣「素環頭大刀」「大刀」(計9本)(注4)の写真が『八幡市誌第1巻』に載っており、松花堂資料館蔵とあります。この「素環頭大刀」とは何か。どのような意味を持った大刀なのか。そのことに関して松木武彦氏の『人はなぜ戦うのか』(講談社選書メチエ)に興味深い記事があります。
 “『魏志』倭人伝によると卑弥呼は晩年、「南」にある狗奴国(くなこく)と仲が悪く交戦していた。狗奴国を攻めあぐねた卑弥呼側は中国・魏の皇帝に援助を求める。皇帝はこれに応え、使者を立て、詔書(しょうしょ)と軍旗をつかわす。武器が供与された可能性がある(京都大学、岡村秀典氏)”(要約)。「その治世の後半頃に卑弥呼を支えたとみられる有力者たちの墓からは、把(は)(=つか)の先をリング状にした大刀が出る。素環頭という中国王朝風の大刀だ。これら素環頭のなかに、247年の軍事支援の折に魏から卑弥呼側にもたらされたものがあると考えている。素環頭は、卑弥呼側の最新兵器として威力を発揮しただろう」。
 東車塚古墳から大刀と共に出土した素環頭大刀(数本)ですが、“古墳の築造は4世紀末~5世紀初頭で、卑弥呼の時代は3世紀前半~半ばだから時代が違うし、関係ないではないか”と思われる方もおられるでしょう。もっともです。しかし、この古墳からは弥生時代後期の鏡(内行花文鏡)も出土していますので、この素環頭大刀が弥生時代後期・卑弥呼の時代のものでないとは断定できません。調査に値すると思います。また、“卑弥呼の側に立たなかった陣営(例えば出雲)の墓からは素環頭大刀は出土せず、そのリング(素環頭)を切り取った大刀が出土しており、陣営により区別していた”(注5)というのです。仮に素環頭大刀が弥生時代のものだとすれば、八幡の地域の勢力は卑弥呼側だったといえると思います。また、4世紀~5世紀の古墳に弥生時代の内行花文鏡と素環頭大刀が埋葬されているとすれば、そのことについてどう考えるか。それらは独自に手に入れたものなのか、伝世したものなのか、伝世したものであるとしても大首長やヤマト王権から配布されたのか、それはいつなのか、など興味深い点が多々あります。
 松花堂美術館で「大刀はどこで見られますか」と尋ねると、現在は所蔵していないとのことです。どこに所蔵されているのかについての最終確認はできていません。所在を市民が個人で訪問して調べたりすることの限界があります。八幡市民としては、市内出土の遺物を見学したいところですが、難しい状況です。

三角縁神獣鏡と甲冑

 東車塚古墳の副葬品の中に三角縁神獣鏡と甲冑(かっちゅう)が同時に存在するのは注目すべきことです。f0300125_9145539.jpg古墳時代前期(3世紀半ば~4世紀末)の有力古墳に共通してみられる三角縁神獣鏡の副葬は中期(5世紀)に入ると近畿を除いてほとんど見られなくなります。替わりに、中期には甲冑を含む多量の武器が河内の百舌鳥(もず)古墳群(堺市)や古市(ふるいち)古墳群(藤井寺市)を中心に出土するようになり、これらの古墳群からは三角縁神獣鏡は出土していません。三角縁神獣鏡が副葬されている古墳には甲冑は副葬されず、逆に甲冑が副葬されている古墳には三角縁神獣鏡は副葬されなくなります。ところが、東車塚古墳では古墳時代前期の三角縁神獣鏡と中期の甲冑、両方が出土しています(埋葬施設は異なりますが)。こういう古墳は珍しく、現在、近畿で7基しか見つかっていません(注6)。すべて前期から中期へ変化していく時期あるいは中期初頭、遅くとも中期中頃までの古墳です。大型古墳群は時代とともに、大和盆地東南部(3世紀半ば~4世紀半ば)→佐紀古墳群西群(4世紀半ば~5世紀半ば)→百舌鳥・古市古墳群(4世紀末~5世紀初頭)へと地域を移動します。それぞれの時期に主導権を握ったヤマト王権中枢の勢力の古墳と考えられています。大古墳群が移動するにつれ、古墳群の構成も複雑になり、副葬品も変化していきます。新時代の要請に対応する組織を作り出す勢力が主導権を握ります。東車塚古墳築造時期はまさに政権の移動の時期にあたります。東車塚古墳の勢力はそのキャスティングボートを握った勢力の一つであり(注7)、その結果、両方の威信財が埋葬されているのではないかと考えられるのです。しかし、そのことがよかったかといえばそうともいえません。八幡市域ではこれ以後古墳築造は衰退し、中期半ばの美濃山王塚古墳を最後に目立った古墳は築造されなくなります。西車塚古墳・東車塚古墳の時代は八幡における古墳時代の頂点の時期、東車塚古墳はその分岐点の古墳ともいえます。田中晋作氏はいいます。「西車塚古墳は、東車塚古墳より先に築造された古墳だが、周辺ではこれより古い古墳が現在のところ確認されておらず、また、東車塚古墳の後続古墳についても知られていない。南山城の古墳編年によると、久津川古墳群で久津川車塚古墳が築造されるころに、この地域(=八幡)の勢力が衰退する。この現象は久津川古墳群との関係によるのか、百舌鳥・古市古墳群を含めた畿内全体の動向の中でとらえるべきか、即断できないが、八幡東車塚古墳を最後に古墳の築造が停止する現象は注意しておく必要がある。」(注7)

三角縁神獣鏡の副葬状態

 東車塚古墳では前方部において「なんらこれに特殊の造構を認めざる」ところから三角縁神獣鏡が発見されました(前出)。このような状態で鏡が発見された例が他にもあります。第2回目でふれた徳島市宮谷古墳の発掘概要(『日本考古学年報42』、P541~P542』1989年)によると、三角縁神獣鏡は「3面分が第2トレンチ(前方部先端)より出土している。いずれも、本来鏡が副葬される内部主体から大きく離れており、後世の盗掘あるいは開墾などによる墳丘削平等によって原位置を移動したと思われる。」とあります。東車塚古墳の出土状況と似ているようにも思います。そのような埋葬状態から、三角縁神獣鏡はそんなに大事に扱われなかったのではないか、葬具、呪具ではなかったのか、という専門家の意見が出ています。

東車塚古墳出土の三角縁神獣鏡の銘文

 三角縁神獣鏡は「三角縁銘帯二神二獣鏡」といいます。『八幡市誌』には「尚方作二神二獣鏡」という名で載っています。次のような銘文があります。
銘文:尚方作竟佳且好 明而日月世少有 刻治今守悉皆右 長保二親宜孫子 富至三公利古市 告後世
 
(この鏡は尚方が作った鏡で立派で良い。明るく日月の世はまれだ。政治を刻み、今を守れば皆右。両親は長寿で子どもや孫に恵まれ 富貴になり出世し商売は繁盛する 後の世まで告げる。[訳:濵田] )
『尚方作竟』(竟=鏡)の「尚方」とは何か。松本清張氏は「漢の宮廷の鋳造所」といいます(注8)。森浩一氏は『考古学と古代日本』(中央公論社)の中で「『尚方作竟』の銘文も多くの三角縁神獣鏡にあるが、『尚方』とは国の官営工場のことで、漢から晋代にかけて中・左・右の三つがあり、魏では右尚方が鏡をつくっていた。」「また『尚方鏡』の銘文の中に『買此鏡者大富』(この鏡を買うものは大いに富む)とあるように、『尚方鏡』は私営工場でつくっていたことを示していて、三角縁神獣鏡の『尚方作竟』銘は尊大な虚詞」と述べています。『尚方作竟』と銘記されていても必ずしも官営工場で作られたものではない、というのです。いずれにしても、中国・魏の官営工房の銘が入った鏡が東車塚古墳から出土していることは事実です。

東車塚古墳出土三角縁神獣鏡の同笵鏡

 東車塚古墳出土三角縁神獣鏡の製作は舶載鏡C段階、260年代といわれています(注9)。同笵鏡は次の3枚が確認されています。  
 ①熊本県芦北郡出土(伝)
 ②奈良県新山(しんやま)古墳出土
 ③出土地不明(福原家所蔵)
 ①の芦北郡は八幡茶臼山古墳石棺・阿蘇溶結凝灰岩の産出地氷川(ひかわ)のすぐ南に位置します。八女市と水俣市の間にあり、八代海に面する南北に長い郡です。「鏡片」が出土したと報告されていますが、その場所の特定はできていません。他の出土品も不明です。
 ②の新山古墳は葛城地方最古・全長126mの前方後方墳です。4世紀前半の築造です。この古墳から鏡34、碧玉製管玉16、車輪石3、石釧1、金銅製帯金具24、鉄刀16、鉄剣16、鉄刀子16など数多くの遺物が出土しています。そのうち鏡は直弧文鏡(ちょっこもんきょう)3、三角縁神獣鏡9、画文帯神獣鏡3、方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)4、内行花文鏡14と貴重な鏡が多いです。

長宜子孫内行花文鏡(ちょうぎしそんないこうかもんきょう)

 東車塚古墳出土の鏡の中で、「最も貴重なる鏡として」(注3)位置づけられ、「全面黒漆色を呈せる美麗なる鏡なり。」「外区は細密精巧なる直線と円の文様により成り、四葉座紐(ちゅう)の間に長宜子孫の銘を印す。」(注2)と記されています。面径22.3cmで大型に近い中型鏡です。内行花文鏡というのは日本独特の呼び名で、鏡の弧の連続模様を花弁と見て付けられましたが、真に花弁を表したものかは疑問とされています。鏡の中には宇宙が描かれていてその宇宙の幕(連弧文はその幕である)を開けたものともいわれています(注12)。中国では連弧文鏡(れんこもんきょう)といいます。(『広辞苑』に鏡の図)
 中国・新(しん)-前漢(紀元前202~紀元8年)と後漢(25~220年)の間に15年ほど存在した国(8~23年)-の“王莽(おうもう)の時代に出現した可能性が強い”(注10)といわれています。主に後漢時代―日本では弥生時代―に作られた鏡で、「もっともオーソドックスな(=正統的な、一般に認められた)鏡」(注11)といわれています。「卑弥呼の鏡」候補の一つです。この時代、倭・中国(楽浪郡)・朝鮮半島南部の間で結構交流がありました。白石太一郎氏は「古墳副葬鏡について、二種類の機能」があり、「一つは(内行花文鏡など)司祭者の象徴として祭器とされていた鏡、もう一つは三角縁神獣鏡など呪具として葬送にともなって使われていた鏡」(注13)であるといいます。
 鏡名のはじめにある「長宜子孫」というのは「長生きし、子孫に恵まれる(子孫繁栄)する」という吉祥句(きっしょうく)で、内行花文鏡をはじめ多くの鏡に記銘されています。上に出てきた三角縁神獣鏡の銘文「長保二親宜孫子」も似たような内容です。
 内行花文鏡をはじめ、舶載鏡(=中国鏡)はまず北部九州に入ってきました。弥生時代の鏡の約300枚中200枚ぐらいが舶載鏡で、そのうち150枚ぐらいの舶載鏡が北部九州から出土しているそうです(注14)。そうだとすると、残りの舶載鏡は50枚ぐらいということになりますが、東車塚古墳の鏡は舶載鏡です。当時の倭の首長たちは「司祭者の象徴としての祭器」であるこの内行花文鏡が欲しかったようで、舶載鏡を真似た小型(5~12cm)の仿製(=倭製)鏡が多数出土しています。京都府下で内行花文鏡をみると26枚出土(注12)していますが、仿製鏡が14枚と過半数です。大きさでは小型、中型がそれぞれ12枚ずつ、大型が1枚(椿井大塚山古墳、3世紀後葉、27.7cm)です。東車塚古墳の内行花文鏡は府下2,3番の大きさです。
 福岡県(伊都国(いとこく))の平原(ひらばる)遺跡(弥生時代末期~古墳時代初期)では内行花文鏡だけでも20枚、うち巨大な(46.5cm)仿製内行花文鏡が5枚(出土40枚の鏡はすべて国宝)出土しており、当時の北九州勢力の強大さがわかります。私は福岡県・伊都国歴史博物館-ここは『魏志』倭人伝にある伊都国のあったところ-を訪問し、これらの鏡を見、その大きさと数に驚き圧倒されました。

半円方形鼉龍鏡(だりゅうきょう)

 鼉龍鏡について、梅原末治氏は「四面の古鏡中最も見る可きものなり」と書いています。「鼉龍鏡:仿製鏡(=倭鏡)の一種。だというのは、わにの一種であるといわれている。首の長い獣形が、半肉彫りに表され、その頸部に棒状のものが出ている。獣と獣の間に神像を配したものもある。山口県柳井市の茶臼山古墳から直径44.5cmの大型のものが出土している」(ブリタニカ国際百科事典)。また「鼉」は「形は蜥蝪(せきえき=トカゲ)に似るとも、龍に似るともいわれる。また横に飛ぶが、上に謄(のぼ)ることはできないともいう。その声は恐ろしくて、気を吐いて雲をつくり、雨をもたらすともいう。」(樋口隆康『古鏡』新潮社)と説明されています。しかし『日本歴史大事典』には「鼉龍とは鰐(わに)の一種をさすが、本鏡の文様とは直接の関係がない。」とあり、なぜ鼉龍鏡という名が付けられたのかはよくわかりません。
 この鏡は「独創的な図像」で「文様の精緻なことと共に古墳時代の仿製鏡の製作技術の高さを示す鏡の一つ」(『日本歴史大事典』)とされています。残念なことに東車塚古墳出土の鼉龍鏡は「現物なし」と報告されています(注15)。なお、鏡名の最初にある「半円方形」というのは鏡の内区に棒をくわえる怪獣がおり、次に半円方形帯があるのでその名が付けられています。
 次回は「石不動古墳出土の鏡について」考えてみたいと思います。 
(つづく)

(注1)『八幡遺跡地図』,八幡市教育委員会,2005
(注2)梅原末治『久津川古墳研究』, 水木十五堂, 1920
(注3)佐藤虎雄「東車塚庭園」『京都府史跡名勝天然記念物調査報告第十三冊』,京都府,1932
(注4)「古く用いられた直刀(ちょくとう)を『大刀』と表記し、平安時代以後のものを『太刀』と書く」(広辞苑)。つまり「大刀」には日本刀のような「そり」がありません。
(注5)松木武彦『人はなぜ戦うのか』,講談社選書メチエ,2001
(注6)三角縁神獣鏡と甲冑が共存する7古墳は室宮山古墳・池ノ内5号墳・円照寺墓山古墳、八幡東車塚古墳・久津川車塚古墳・芝ヶ原11号墳・和泉黄金塚古墳。(注7)のP64参照。
(注7)田中晋作『筒型銅器と政権交替』,学生社,2009
(注8)福永伸哉『三角縁神獣鏡の研究』,大阪大学出版会,2005
(注9)松本清張「三角縁神獣鏡への懐疑」『遊古疑考』,河出文庫,2007
(注10)岡村秀典「後漢鏡の編年」『国立歴史民俗博物館研究報告第55集』,1993
(注11)大塚初重『最新日本考古学用語辞典』,柏書房,1996
(注12)森岡秀人「銅鏡を作り始めた近畿弥生人の捜索」講義ノート,古代学協会,2017
(注13)西川寿勝ら「考古学と暦年代」,ミネルヴァ書房,2003
(注14)西川寿勝「三角縁神獣鏡の研究」,古代学協会佛教大学提携講座,2017
(注15)『国立歴史民俗博物館研究報告第56集』,1994 



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by y-rekitan | 2017-07-24 10:00 | Comments(0)

◆会報第80号より-04 四條隆資②

シリーズ「四條隆資卿」・・・②

四條隆資卿しじょうたかすけきょう物語  その2
~四條隆資卿の出生秘話~

 大田 友紀子(会員) 


 f0300125_2139394.jpg今年も暑い夏、祇園祭のコンチキチンの祇園囃子の聞こえてくる時期になりました。この時期になると、ふと隆資卿の生涯について考えてしまいます。いったい何が、隆資卿の一生を決定づけたのか、今回は、隆資卿の「蟷螂=かまきり」に例えられるほどの一途な愚直さが、どのようにして形成されたのか、後醍醐天皇への忠誠心を育んだのか、考証してみようと思います。『蟷螂の斧』の話は、侮(あなど)る比喩に使われる方が多いようですので。


四条家の歴史(「四条家略系図」参照)

 四條隆資卿の出生についてですが、まずは「四条家」という特殊な家の歴史を知ることから始めなければなりません。院政を始めた白河上皇の乳母子(めのとご)であることから、引き立てられて、いつしか朝廷の中枢へと登りつめた遠祖・藤原顕(あき)季(すえ)が、母である藤原親子が建立した善勝寺を受け継いだことから、四条家の当主は「善勝寺長者」と呼ばれて、庶流を率いて行くようになりました。
 藤原北家の流れをくむ四条家ですが、その地位は決して高くはありませんでした。平安後期の貴族で美福門院得子(びふくもんいんとくこ)を嫌っていた藤原頼長は、その日記『台記』の中で事あるごとに得子を「諸大夫の女(むすめ)」と侮って書いています。確かに四条家流の遠祖である藤原顕季の父隆経も、早世しているとはいえ、美濃守で終わっていますし、生没年不詳です。隆経の父・頼任についても、藤原道長に家司として仕えていますが、その身分は受領です。「諸大夫」とは、受領階級を指しましたので、摂関家の出である頼長から見れば、そんな受領階級の出身の娘に、いくら鳥羽上皇の寵妃であったとしても、摂関家の我々が何故ご機嫌伺いをしなければならないのか、と激しい憤りを何度も吐露しています。
 ここで、公家(貴族が、武家に対して「公家」と称するようになったのは鎌倉時代からですが、総じて平安後期からも解かりやすいので使用します。)の家格について説明しますと、その成立は鎌倉初期です。それ以来、摂政関白に任ぜられる家としての「五摂家」を頂点に、その下に七家の清華家(江戸初期に二家が追加されて九家となる)、次は三大臣家、そしてその下が羽林家(うりんけ)で、約80家がありました。それから、羽林家と同列の名家は、武官の羽林家に対して文官として、朝廷の実務を担当しました。その下には最下位の家柄として、半家がありました。半家とは、「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」以外の出自の家で昇進しても、非参議にしかなれないことが多かったようです。
 f0300125_21483196.jpg四条家は家格としては羽林家で、武官の家柄です。羽林とは「羽根の如く速く、林の如く多い」の意で、中国では北辰(北極星)を守護する星々の名称で、皇帝(日本では天皇)を護る宮中の宿衛の官名となり、日本では、近衛府の別称(唐名)となりました。武官の家である羽林家の男たちは、元服後に近衞府への出仕が決っていたので、幼い頃より武芸をたしなみ、その技をもって天皇に仕えました。行幸の時などには、200人余りの羽林家の者達が供奉することが先例で決められていました。そして、日頃から天皇の傍近くに侍るので、和歌のたしなみも必要とされるので、文武両道の道を究め、学問に勤しみました。
 そして、羽林家の娘たちはというと、御所の女官となり、天皇のお傍近くに侍り、日常生活を支えました。このように、羽林家の者たちは、常に天皇の傍らにいる直属の官人となり、警護を担い、天皇制を維持するために尽くしました。そして、天皇の御子の生母となる女たちも、だいたいが羽林家の出身者たちで占められ、それは江戸時代末まで続き、江戸時代の最後の天皇・孝明天皇の皇子(後の明治天皇)を生んだのも、中山家の娘(慶子)で、羽林家の家柄でした。

四条家を隆昌に導いた3人の娘たち

 そんな四条家(流)の栄達の歴史は、3人の女性を抜きには語れません。まずは美福門院得子、生母は村上源氏の出身です。次に挙げる四条貞子には、不思議な血の縁を感じてしまいます。貞子の父・隆衡(たかひら)の母は平清盛の八女で、彼女には平家の血が流れています。婿となった西園寺実氏の母・全子(またこ)は、坊門姫と呼ばれた源義朝の娘で、もちろん頼朝の実妹です。つまり、かつて相争った源平の血がここで一つになったことになります。その貞子は、関東申次である西園寺家の正室となって二人の娘を生みました。長女の姞子(よしこ)は後嵯峨天皇の中宮・大宮院となります。その姞子が生んだ二人の皇子が共に即位したことから、貞子は「今林准后」または「北山准后」と呼ばれ、その権勢は絶大でした。その縁からか、その弟の隆親は、後嵯峨天皇の乳母である源(足利)能子(よしこ)を妻に迎えました。
 貞子の娘・大宮院は、弟皇子の恒仁(後の亀山天皇)を可愛がり、その利発さを愛して、夫である後嵯峨天皇に働きかけ、恒仁親王の登極を実現させます。兄弟で皇位に就くことは、前帝である後鳥羽天皇が強く禁じ、遺言として残しています。皇統の分裂を防ぐことを目的として、書き残したのでしょう。そして、その恐れが現実のものとなり、兄の後深草天皇の持明院統(北朝)と、亀山天皇の大覚寺統(南朝)とに分かれた皇統の対立から、南北朝の戦乱が引き起こされたのです。ここに、時の申し子・大宮院姞子の中で混じりあった源平の血に災いの種をみるのは、私一人でしょうか。
 そして、三番目の女性こそが隆資卿の実母かも知れないといわれる四条識子(さとこ)です。亡き角田文衛氏の著『平家後抄』の終章に詳しく書かれているので、引用します。
 「『とはずがたり』に浮き彫りにされている通り、四条大納言・隆親は、権力者にありがちな厳しさ、気難しさを備えていた。「承久の乱」後、政略的な意味から彼は、平時政の外孫にあたる足利家の源義氏の娘・能子を本妻に迎えた。二人の間に生まれた隆顕は、父の威勢を背景に迅速な昇進を遂げ、早くも正二位権大納言に至った。しかし建治3年(1277)5月、彼は父・隆親との不和から官を辞し、出家した。このためもあって、隆顕の子孫は同じ四条家でありながら大覚寺統に走り、持明院統に属する同家の主流とは対立するに至った。隆顕の孫で、その養子となった大納言・隆資(1292-1352)とその子息たちの南朝方に対する尽忠は、壮絶を極め、周知されている。この結果、南朝に属した隆資の系統は断絶し、隆親の子で北朝方についた大納言・房名(1230-1288)の四条家と、権中納言・隆良(1296年薨)(鷲尾家)の孫の従三位権中納言・隆職(たかもと・1347年薨)の子孫が存続をみたのである。平清盛は、その絶大な権力を背景に娘の徳子(のりこ)を中宮に納(い)れ、安徳天皇の外祖父となった。しかし彼が強行した計画は稔らなかった。けれども徳子の妹は四条家の隆房の妻となり、その孫の貞子―北山准后―は、平和裡に清盛の血統を皇室に伝え、清盛の宿願を果たしたのであった。」と書かれています。
 要するに、表面上は源義朝の血統は鎌倉幕府3代将軍実朝の暗殺によって断絶するが、平清盛の血統は、『平家後抄』に書かれた如く、清盛の娘たちを堂上公家の家に嫁がせたことで途絶えることなく、現在の公家の末裔にまで受け継がれている、といういわゆる「女人平家」の系譜を語っているのです。私も、この角田説を土台にして考えていますが、そうとばかりいえないと思われるところも多々あります。西園寺実氏(さねうじ)の母系の存在により、源平の血が混じりあって受け継がれたと思われるからです。

権門家(けんもんけ)になった四条家の栄耀の果てに

 四条家4代目の隆親の識子(さとこ)への偏愛により、隆資の祖父で、育ての親である隆顕(たかあき)は早々と出家してしまい、四条家は次男・房名の系統に移ります。父・隆親の識子への思いによって生まれた禍根ですが、隆親の老いが生み出したものであると言えるでしょう。それはひとえに識子の地位の向上を願い、それのみに執着した結果、その後の多くの悲劇を生み出して行きます。そのことについては、またいつか、後深草院二条の生涯を書くことができたら、その時に触れてみたいと思っています。
 四条家の家祖は中御門家成、もしくはその嗣子である隆季というふうにいわれています。
中御門家成の父は藤原家保で、白河上皇の乳母子である顕季の次男で平清盛の乳夫(めのと)を務め、白河院近臣となり、『近習無双』といわれるほどの信頼を勝ち取りました。
 「天皇家では元来中級貴族が乳夫、乳母に充てられていた。但し、皇子女の外戚が権勢家であれば、乳父はその家司や身内であることが多く、落胤や皇位継承が期待出来ない皇子であれば、院近臣であることが多いという相違はある。(中略)天皇家に近習奉仕し、家司、蔵人、院司などとなって、その家政、雑事を奉行する彼ら実務官僚が「執事」たる乳父に最も相応しかったことをよく示している。また末茂流などの有力な院近臣の富福な家にも乳父が少なからずみられるが、これは彼らの豊かな財力による経済的な奉仕が期待されていたからに他ならないだろう。(後略)」(『史学雑誌』99編第7号「乳父について」秋山喜代子著)ここに出ている「末茂流などの有力な院近臣」は、まさに藤原顕季の流れであり、中御門家成の父である家保の立場を言っています。清盛の母は祇園女御の妹とされ、皇位継承の望みはなく、院近臣藤原顕季の次男の家保に白羽の矢が立ったようです。一説によると、祇園女御と顕季、平正盛は旧知の間柄であったとか言われていて、その辺も考慮されたようです。
 藤原顕季は白河上皇の唯一の乳母である藤原親子の息子で、「乳母子」にあたり、親密な繋がりが幼い頃からありました。顕季は白河上皇の近臣中の近臣で、大国の受領(=国司)を息子たち共々に重任して富を蓄え、白河上皇の法勝寺や鳥羽殿の造営などに成功(じょうこう)して官位を上げて行きました。それ故に、次男の家保が平清盛の乳夫となったことは書きました。そして、このような四条家の内情とは、つまり、常に天皇の傍らに仕える近臣となり、天皇の近くに侍る女房や乳母を出し続けたことから、隆資卿御落胤説が現実味を帯びてささやかれるようになった、のではないかと思われ、祖父の隆顕に養育されたことも、「乳父」としての奉仕であった側面があるのではないでしょうか。

四条識子の生んだ御子は隆資か?

 その頃の公家社会の慣例では、天皇の皇子女は男子の場合は元服するまで、女子の場合も裳着(もぎ)の式(婚姻が決まったことを受けてする儀式)を挙げるまでは、乳母の邸で育ちます。一人の皇子には5・6人の乳母が就いたこともありました。最初の乳母は「乳人(ちちうど)」つまり今日(こんにち)いうところの乳母で、自分の乳で「養君」を育てる女性を指します。そして、「養君」の成長の過程での儀式は、それぞれの乳母の元で調(ととの)えられて、元服の時を迎えるのです。
 その頃の子どもは5歳になるまでは男女とも同じ服装、つまり、尼削(振り分け髪)に薄衣(袿仕立ての衣)です。そのことについては、神隠しから男児を守るためとか、いろいろな理由づけがされ、そうすることで子どもを護れる、と強く信じられていました。
今日では理不尽この上ないことのように思われますが、天皇の后や大臣家の正妻などが生んだ子は、出産後すぐに乳母の家に連れて行かれ、生母は赤子の顔も見ず、なんてことが当たり前でした。そんなわけですから、主の邸などに奉公する女房たちの場合も、出産後すぐに決められていた乳母に自分の子を預けて、その女房は仕えている主の子の乳母になりました。その当時、自分で自分の子を育てることは、最も卑しい行為とされていました。
それから、特に正妻などの場合、出産後すぐに赤子を手元から離すのは、次の出産に備えるためでもあった、といわれています。
 f0300125_224327100.jpgさて、本題の隆資の生母についてですが、『祇園祭・蟷螂山由来記』(昭和61年11月改訂)では、四條隆資は「(伏見)天皇の乳母である四条識子(さとこ)が皇統の御子を孕み、出生した男子が四条本流の隆実の子として継承されたことは、後に(識子が)従一位に叙せられていることをみても」とあり、隆資卿は伏見天皇の御落胤である、とする書き方をされています。その証拠として、『常楽記』を取り上げて「観応二年辛卯 五月十一日 八幡宮方没落合戦。四條(一品)資卿他界。六十。今日此類多之」と引用しています。ただ「一品」の語は、常楽記にはありませんでしたが。
 ただし、『平家後抄』には、「貞子の弟で、四条家を継いだ隆親(1202-1279)は、妻が後嵯峨天皇の乳母の典侍であった関係も加わって、政界における実力者の一人となり、これまでの家格を破って大納言まで昇進した。後嵯峨天皇はしばしば彼の鷲尾の山荘(金仙院)に御幸された。また彼の娘の識子は、伏見天皇の乳母になり、後には従一位に叙され、「鷲尾の一品(いっぽん)」と呼ばれた。その関係から金仙院には、持明院統の上皇や女院の御幸が度々みられたのである。」と書かれていて、識子が「鷲尾の一品」と呼ばれていたことが判ります。この「一品」ですが、親王や皇室に関係が深い特別な人に贈られるもので、乳母であることだけで贈られることは考えられません。識子に「一品」が贈られていることは、天皇の御子の生母であるからかも知れません。あくまでも可能性の問題ですが。
 あれほどの権勢を誇った西園寺貞子は准后となっていますが、官位は従一位です。「正一位」は神に贈られる位ですので、人としては従一位が最高位なのです。

四條隆資誕生秘話

 『蟷螂山由来記』の著者は、一人で精力的にいろいろ調べられて書かれているので、その研究姿勢には頭が下がります。けれども、出典書籍などが不明で照らし合わせて考えることも出来ません。後深草院二条が書いた『とはずがたり』に、四条識子が登場するのは、建治3年(1277)3月13日の六条院での女楽の時です。二条が「明石の上の琵琶の役」をつとめるところ、末娘である今参り(=識子)は二条の叔母にあたることから、二条より下座に座るのはおかしい、と祖父の四条大納言・隆親が騒ぎたてました。そのことにより、二条は御所を出奔、行方をくらましてしまいます。
 行方をくらました二条を探し出して、隆顕は後深草上皇に奏上しました。二条の母である大納言典侍と同母弟である隆顕は、後深草上皇の臣下としての引き立てを受けていたことがわかります。父の隆親との不和に関係なく、上皇のお呼びがあれば、殿上人として院御所へ上がることが出来ました。実姉の娘である二条の世話をすることは、善勝寺長者である隆顕にとっては当然のことでした。
 75歳での隆親の大納言への還任は当時としては異例中の異例で、その度を越した振舞いは末娘の識子可愛さであっても、嫡男としてその地位を引き継いだ隆顕にとっては絶対に許せない行為でした。こんな父との衝突から、やがて、隆顕は妻の邸に引き籠りがちになって行き、隆親は次男の房名に四条家を継承させて、三男の隆良(鷲尾家祖)を引き立てて行くようになるのです。
 四條隆資は、父の早世のため、祖父である隆顕に育てられたことになっています。隆顕を頼ってやって来た後深草院二条の腕に抱かれることもあったのでしょうか。識子との因縁を思うと、複雑な気持ちになったのでは、と想像してしまいます。
 その隆顕が引き籠っていた妻女の邸は、出雲路神楽町か、俵町にあったようで、何度も二条が通っています。このことから、私は、隆資が幼児期を過ごしたのはこの辺りではないか、と思っています。六条院の女楽があった同じ年の5月4日に出家した隆顕を、二条は見舞っています。二条が、東二条院公子(後深草中宮)の命により御所を退出させられた弘安6年(1283)の秋、78歳で隆親は死去します。11月2日より石清水八幡宮寺に七日間参籠した二条は、その足で祇園社での千日籠もりを始めました。正元5年(1292)、二条35歳の9月、伏見殿に参り、後深草法皇と一晩中語り明かしたことを書き綴っています。実際は翌年のことですが、この年、隆資が生まれています。『由来記』通りであれば、乳母である識子と、伏見天皇27歳の時の子どもです。識子が14歳で御所に上がったとすると、二条の6歳年下です。
 同じく角田文衛著である『日本の後宮』には、「官女に手をつけるだけで、これを更衣その他の皇妃の列に加えぬやり方は、古くよりなかったわけではない。しかしこの無責任で行儀の悪い風は、『この世は、ただ御心なり』と言われた後三条天皇の時代から、繁く見られるようになった。(後略)」とあり、その子を孕んだまま母子共に、近臣に世話をさせる、という悪習が続いています。それから、『日本の後宮』の中で、私の注意を引いたのは、高倉天皇の乳人であり、天皇に性愛を指南したとある藤原某女の記述です。この女性は、「安元2年に皇女を産み、里第にあって他の男性と密通し、流産のため治承3年正月十日、死没」しています。このように、乳母が成長後の天皇とも関係を持ち続け、その結果、子を孕む、ということが、かなり特殊な出来事であったとしても存在したということに、伏見天皇の乳母であった識子が隆資を生みましたが、いななる訳か認められず、ということも在りえたのでは、と思われて来ます。この認められなかった、ということが、隆顕に持明院統との訣別を決意させたのではないかと思われてなりません。  (つづく)
(京都産業大学日本文化研究所 上席研究員) 空白

【参考文献】
『平家後抄ー落日後の平家』朝日新聞社、1978年、角田文衞著
『日本の後宮』学燈社、1973年、角田文衞著
『中世宮廷女性の日記「とはずがたり」の世界』中公新書、1986年、松本寧至著
『史学雑誌』99編第7号「乳父について」秋山喜代子著
『祇園祭・蟷螂山由来記』昭和61年11月改訂
『太平記絵巻』河出書房新社、1992年、宮次男・佐藤和彦編
                

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by y-rekitan | 2017-07-24 09:00 | Comments(0)

◆会報第80号より-05 京街道

八幡の「京街道」は川底に沈んだ

谷村 勉(会員)



不適切な表現の八幡の「京街道」

 八幡市観光協会が発行している観光散策マップなるものを見て愕然とした。
 「科手道」と古くから呼ばれて来た道を「京街道」と書いてあった。これは大間違いである。歴史的無知もいい加減にしろというような代物である。
 八幡の京街道は大雑把に言って、橋本奥ノ町の楠木、現在、この楠木を伐る、伐らないと物議を醸している「ふるさとの木第1号」の大きな楠木辺りから宇治川に架かる「御幸橋」を結んだ線上にあった道が「京街道」であって、線上の伏見区淀美豆(旧八幡神領)には京街道が今でも残り、淀市街へと続いて、往時の街道の姿を偲ぶことができる。現在は明治初年から始まる木津川付け替え工事等によって、木津川と宇治川の川底を「京街道」が走っていることになる。
 f0300125_1130752.jpg
今の三川合流の姿に落ち着いたのは昭和5年になってからで、明治になるまでは木津川、宇治川(淀川)、桂川は淀城付近で合流していた。上記、江戸時代作成の「石清水八幡宮全図」から旧京街道の位置が判る。現在の木津川は「科手道」の直ぐ北側を流れ、府道13号道路が走り、「科手道」の南側を京阪電車(明治43年開通)が走っている。

歴史を刻んだ「科手道」

 「科手道」のシナデ(科手)とは古代より“水辺にあってその目印になるべき処”という意味らしい、桂川、宇治川、木津川が合流して淀川となる、まさにその喉仏に当たる重要地点であった。古くから科手郷に住む住民にとっては特に八幡宮遷座以来、「八幡宮参詣道」として、あるいは「生活道」として「科手道」の歴史を刻んできたのである。秀吉によって「京街道」が整備される遙か以前から「科手道」は存在してきた。観光集客のためと言って、八幡の道を歩いてもらうように仕向けるのは大いに結構であるが、「科手道」と「旧京街道」の名称や位置を記入して、きちっと説明しなければならないのではないか。
なぜ地元本来の名称を堂々と使用しないのか首をかしげる!
 八幡の歴史、「科手道」の歴史を知らない者が八幡の歴史を知らない観光者に間違った案内をするようでは、真の歴史を到底後世に伝えられない。これでは「科手道」の歴史的存在さえ危うくなりかねない。八幡は歴史の「宝庫」と愛着を持つ住民にとって、こういった軽率さには腹立たしく、憂えざるを得ない。八幡の歴史に誇りや愛着がなければ次世代の人は八幡から去るであろう。歴史や文化財を大切にと言うフレーズだけは耳にするが、実態はズレてしまっている。f0300125_20332170.jpg
 戊辰戦争の最終局面で八幡の表玄関の町々が焼かれ、新選組・幕府軍が敗走する道が「科手道」であり、その「科手道」を追走したのが官軍であった。幕府軍の兵士が斃れていった「科手道」の身近な歴史の一例がある。
 ボランティアのガイドが「観光散策マップ」から俄か仕立ての作文を言われるままに説明し、はたして本当の歴史を語れるものか心配である。石清水八幡宮参詣道を「東高野街道」と称して、僅か3kmの間に13基に及ぶ無駄な建碑を行った二の舞の感性や発想の繰り返しはお断りしたい!

「歩く人」増えたが

 石清水八幡宮の国宝指定によって八幡さんにお参りする人は、見た目にも増えている。ケーブル乗り場も以前よりにぎやかだ。しかし一度八幡を歩いた人がリピーターとして来るだろうか。八幡市にリピーターに足を向けさせるような環境整備が進んでいるだろうか。多くの人々に聞いても、疲れた足を休めるところもないと、落胆して帰る人が多いと聞く。
 さて、「京街道」と名がつけば5m前後の道幅が普通だが、橋本奥ノ町の幅2mギリギリの道を街道とは言えない。たまに通りかかった時、ここは「京街道」でしょうか、と聞かれることがある。ここは古来、科手郷の「科手道」であり、「京街道」は川の下ですと、説明する。歩く人も怪しいと感じるのでしょう。
 旧京阪国道(府道13号)である堤防道や河川敷のサイクリングロード?を「京街道」と言った方がむしろ納得できるが、「科手道」を指して歴史上一度も呼称したこともない「京街道」との表示は全く理解不能で、このように実際になかったことを事実のようにでっちあげることを一般に捏造と言う。八幡の歴史を知っている周辺自治体住民からも八幡の歴史や文化財に対する感覚は少し疑問?という噂を耳にするが、まさに肯定せざるを得ない一場面だ。
 最後に狭い道の「科手道」を歩く人にはマナーを守って欲しい。子供の頃に“人は右、車は左”と習った。今は学校では教えないらしいが、右側通行を実施して、道一杯に広がって歩かず、車や自転車が徐行して走れるように願いたい。また、個人の住宅に無断でズカズカ入る人もいるらしいが、これは論外である

主な参考文献
  『男山考古録』 長濵尚次 石清水八幡宮社務所
  『戊申役戦史』 大山 柏 時事通信社
  『京都滋賀 古代地名を歩く』 吉田金彦 京都新聞社 
  『巨椋池干拓誌 池本甚四郎』 巨椋池土地改良区
  『男山で学ぶ人と森の歴史』 八幡市教育委員会
by y-rekitan | 2017-07-24 08:00 | Comments(0)

◆会報第80号より-06 踏切道

消えた踏切道を思う

野間口 秀國 (会員)


 朝夕の散歩道を歩いている時や、いつもの道で車を運転している時に、「あれ??」と思った経験をお持ちの方は少なからずおられるのではないでしょうか。「いつもと何か違うな」そう思って改めて確認すると、つい最近まであったお店や建物や道が無くなったり、新しくなっていたりと、その変化に気づくことがあります。いつもお世話になっている京阪電車の橋本駅近く、淀屋橋方面に3つあった踏切道のうち最も淀屋橋側の1つがこの3月末に消えてしまいましたのでそのことを記しておきたいと思います。

 拙稿「大谷川散策余話⑫」(会報「八幡の歴史を探る 第49号」2014年4月28日刊)にて、“平成26年(2014)4月10日時点で橋本樋門と小金川樋門近辺で京阪電車の線路と大谷川を一跨ぎする新しい道路橋工事の真只中である”と書き、引き続き翌月の「同第50号」にて“樋門の隣で眠る洪水の足跡”の写真も掲載させていただきました。それから3年を経過して周辺の様子はかなり変わって、同じ場所に立っても当時の様子を正確には思い起こせないほどです。今でも周辺工事は続いておりこの秋ごろまでかかるようですが、前述の「線路と川を一跨ぎする新しい橋」は既に完成して供用され、踏切道もその役目を終えて消えてしまったのです。
f0300125_20552893.jpg 歴史上の出来事などを語る時に「文字や図面などで記されたモノ(文書や地図など)」が最重要視されることは多くの方々に知られておりますが、今年6月の京都新聞の報道だけでも、国内関連では「龍馬最長の手紙あった」(16日・夕刊)、「戊辰の目安箱訴状」(9日、16日)、「東寺百合秘話」(23日)など、また国外関連では「世界最古のシリア古文書・オーロラ観察記」(16日)など枚挙にいとまがありません。
 このように新聞等の報道で取り上げられる事柄と同列に論じられないとは思いますが、橋本の町中に今でも残る「橋本の渡し場道標碑」のある場所の道を挟んだおうちの壁には、かつての町の賑わいを描くかのごとく、お店などが描かれた地図を確認できます。歳月を経て読みづらくなった文字を追うと、先に書きました橋の工事が始まってからこれまでにも、お風呂屋さんが、お医者さんが、そして理髪店さんが店を閉じられました。三店のいずれも地図にはその名は残されたままですが、いずれは町の歴史を物語るこの地図さえも消えてしまうのだろうと思うと複雑な気持ちにはなります。

 ところで、役目を終えた踏切道のことについてもう少し書いてみたいと思います。ご存知のように京阪電車は明治43(1910)年4月に天満橋・京都五条間が開通いたしましたので、既に100年以上を経過しています。開通後42年目の昭和27(1952)年3月にこの「小金川踏切道」は新設されていますので、鉄道を横切る道路がこの年に開通したのであろうことも分ります。幾多の列車を初め、歩行者や自動車などの通行の無事を見届けた「小金川踏切道」は、この平成29(2017)年3月末に65年間(ちなみに筆者はこの7月で68歳ですが・・)の役目を終えて閉鎖されました。「小金川踏切道」の役目は新しく完成した、線路上を横切る橋「橋本高架橋(はしもとこうかきょう)」に引き継がれています。またこの高架橋は線路にほぼ並行して流れる大谷川をも跨いでおり、川を跨ぐ部分は「橋本大谷川橋(はしもとおおたにがわばし)」と名付けられ、男山方面から塩釜を経由して走る多くの自動車などを淀川左岸の道路へと導いています。

 工事が始まってからおよそ3年の後に、京都・大阪府境の橋本のはずれで、役目を終えて閉鎖された踏切道のことはおそらく文章で残されて多くの人の目に触れることはないでしょう。だからこそ、せめて歴探の会報にはこの小さなできごとを書き留めておく意味はあるのではないでしょうか。掲載しました写真を撮っていると、踏切道の閉鎖を知らずに来た1台の車がその場でターンして新しい橋へ向かうのにも気づきました。 最後に「小金川踏切道」の歴史についてご教示いただきました京阪電鉄のご担当者の方には紙面より感謝申し上げます。
(2017.6.30)--
                             
by y-rekitan | 2017-07-24 07:00 | Comments(0)

◆会報第80号より-07 歴探会員ヒストリー

歴探会員ヒストリー
「今年白寿を迎えました」

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1.関通夫さんの履歴
大阪北区の呉服商「銭屋与兵衛(5代目)」の長男として、大正8年(1919)4月27日に母の実家(八幡女郎花)で誕生、幼少期は大阪で過ごしていたが小学校入学の直前に自宅が火災に遭い八幡に移る。
大正14年(1925)八幡小学校に入学。13歳で父親が亡くなり小学校卒業後に八幡郵便局に就職。
昭和15~19年(1944)の5年間は軍役で中国に行き現地満期で帰国し、その後枚方の陸軍造兵廠に入隊し終戦を迎える。
終戦後は八幡郵便局に復職した後、大阪天満の「近畿郵政監察局」に転勤になり、近畿の各府県を転勤して昭和54年(1979年)に定年退職。

在職中は仕事一本槍で忙しく自分の住んでいる土地のことがよくわからなかったので、地域社会のことに奉仕しようと老人会に入り、地元の老人会会長を12~13年務めた。
また、写真クラブにも入り各地での撮影会に出かけ入選作品は専門誌に掲載された。
平成7年(1995)には、長年郵政事業に尽くした功績により「勲4等瑞宝章」を受章した。(伝達式に皇居へ出向き、勲章は郵政省よりいただいた。)
80歳(平成21年-2009)から独学でパソコンを始める、今では離れて住んでいる子供や孫たちと掲示板でやり取りをしている。パソコンは朝昼晩と3回開いてメールを確認している。

2.「八幡の歴史を探究する会」との関わり
会のことは知人から紹介されて、4年前の平成25年(2013)の講演会に参加してすぐに入会した。
現在は高齢のために会の催し物に参加出来ないが、会報や会のホームページを楽しみにしている。また、ホームページは横須賀に居る息子も閲覧しており、共通の話題となり最近は八幡に来たときはホームページに掲載されている記事の場所の訪問をしている。

 以上、ご自宅を訪問して約1時間程度お話を伺いしましたが、白寿を迎えられたご高齢とは思えない素晴らしい記憶力でお話もわかりやすく、確認質問することは殆どありませんでした。 これからもお元気で毎日を過ごされることを願いながらお暇をしました。
◆インタビュー:「八幡の歴史を探究する会」会報編集担当  高田昌史

by y-rekitan | 2017-07-24 05:00 | Comments(0)

◆会報第80号より-end

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by y-rekitan | 2017-07-24 01:00 | Comments(0)