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◆会報第45号より-06 エジソン碑⑩

シリーズ「石清水八幡宮覚書」・・・⑩
御文庫とエジソン碑⑩

 石清水八幡宮 禰宜  西 中道 


 進駐軍将校からの勧奨を受け、荒廃していたエジソン碑も見違えるように整備され、戦後の復興も少しずつ緒に就き始めていた、そんな矢先の昭和22年2月12日、社務所が失火により炎上、国宝6点を含む貴重な社宝の多くが失われてしまった。この年はまた、皇太子殿下(現在の天皇陛下)の御参拝や、田中俊清前宮司の逝去など、まさに悲喜交々、多事多端の年であったが、同年12月、前宮司の長男で梅宮神社宮司であった当時42歳の田中文清氏(現宮司の父)が、権宮司として赴任してきた。翌23年5月、京阪神急行の担当者と数日前に打ち合わせを行った田中権宮司が、5月12日、自ら斎主となり、新世界新聞社主催によるエヂソン生誕百年祭を展望台の記念碑前で挙行した。因みに京阪神急行とは、昭和18年に京阪電鉄と阪神急行(阪急)が合併した後の社名(昭和24年再び分離)、新世界新聞社とは、大阪生野のコリアタウンに本拠を置く新聞社で、戦後急成長を遂げ、当時は相当羽振りが良かったらしい。しかし、それから程なくして経営が悪化、姿を消してしまった。田中権宮司も社務所再建のため奔走していた時期であり、その資金集めの呼び水として期待を掛けたのが、言わば「エジソン効果」であったが、大阪での募財活動が暗礁に乗り上げた頃、それに入れ替わるようにして浮上してきたのが、エジソン彰徳会設立の動きと、エジソン記念碑の八幡宮境内移設計画であった。この計画の実行委員長には松田長三郎氏が就任、米国のトーマス・アルバ・エジソン財団にも働きかけた結果、社務所再建費用として多額の資金が同財団から提供されたという。そのお蔭で、社務所は昭和27年に再建され、また同30年12月には京阪電鉄により復活した男山鋼索線(ケーブル)が営業を開始。翌31年11月には、各電力会社はじめ松下幸之助氏らの協力も得て、エジソン彰徳会が発足、翌年副島宮司の後を継いだ田中文清宮司が、33年1月にエジソン碑移設地の地鎮祭を斎行し、同年4月24日に現在地への移転整備工事を完了したのである。
 数奇な運命をたどった御文庫とエジソン碑の物語は、この後もまだまだ続くが、まずはこの辺りで一応の締め括りとさせて頂きたい。今回、取材にご協力頂いた皆様、また長らくお付き合い下さった本誌関係者および読者各位に深く感謝申し上げます。  
(おわり) 
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本連載は今回で終了ですが、本記事の連載中に鳩茶屋 山上亨氏より貴重な「旧エヂソン記念碑」の写真をご提供頂きましたので、ここに掲載させて頂きます。(編集担当)
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この連載記事はここで終りです。       TOPへ戻る>>>

by y-rekitan | 2013-12-28 07:00 | Comments(0)

◆会報第44号より-03 エジソン碑⑨

シリーズ「石清水八幡宮覚書」・・・⑨
御文庫とエジソン碑⑨

石清水八幡宮 禰宜   西 中道  


 昭和20年9月2日、我が国はミズーリ艦上において正式に降伏文書に調印し、連合国軍の占領下に入った。八幡宮の『社務日誌』によると、早くも同年10月8日午後4時頃、進駐軍司令部より中佐2名、少佐1名、通訳1名が、京都府警務課の警部1名を伴い、八幡宮にやってきたという。これを出迎えた佐々木主典以下3名の神職は、数日前に副島宮司から与えられた訓示の通り、進駐軍に対し相応の敬意をはらい、丁重な応対に努めた。

 その折、境内に群れる生きた鳩や、本殿に彫られた鳩の彫刻などを示しつつ、神職が以下のように力説したという話が伝わっている。即ち、世間では八幡大神を「武の神」というが、決して好戦的な神ではない、武の字が「戈を止める」と書くように、元来は平和を希求する神である、それ故に八幡神の御使いは昔から平和の象徴たる「鳩」なのだ・・・、云々。

 絶対の権限を握る進駐軍将校を前に、神社側も必死であった。石清水八幡宮に限らず全国の官国幣社が、今次の戦争に協力・加担したという罪状-それは、ほぼ事実と言ってよかったが-の下に裁かれ、有無を言わさず「潰される」可能性もあったのである。

 しかし、青い目の将校たちは、神社の思惑とは別のところに関心を寄せていた。彼らは本殿裏手の展望台に向かい、蔓草や落ち葉に半ば覆われた石碑の前に立った。そこに嵌め込まれた石膏製のレリーフは、まさしく発明王トーマス・エジソンの横顔に相違なかった。

 アメリカ合衆国に敵対し、カミカゼ攻撃を仕掛けてくるような狂信的軍国主義者たちの行き交う神殿のすぐ近くに、なぜアメリカ人を称えるモニュメントが存在するのか? それは実に不思議な取り合わせであった。彼らは、偉大な米国人の顕彰碑が、斯様に荒廃した状態にあることは甚だ残念であると言い、今後の善処を求めて立ち去ったという。

 これ以後、エジソン碑は日米双方にとって重要な架け橋の役割を担うことになる。彼らは占領政策を円滑に進めるために。我々は神社の存続を図り国体を護持するために。彼我ともに日米両国の和解を促し、友好の絆をより確かなものとするために・・・。 (つづく)

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by y-rekitan | 2013-11-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第43号より-07 エジソン碑⑧

シリーズ「石清水八幡宮覚書」・・・⑧
御文庫とエジソン碑⑧

石清水八幡宮 禰宜 : 西 中道  


 宮司交替の直前、昭和12年7月7日には「盧溝橋事件」が勃発、いよいよ大陸での戦争が本格化する中、新宮司を迎えた八幡宮では、いきおい戦時下の時流に棹さす形となり、同年11月から19年末頃まで、近衛文麿首相をはじめ、寺内寿一元陸相(陸軍大将)、杉山元元参謀総長(同)、阿部信行元首相(同)、小磯國昭首相(同)といった政府高官や軍首脳の参拝を連年受け入れ、また皇軍将兵の武運長久祈願祭を度々執行したりした。

 この間、副島宮司は強い指導力を発揮し、先の室戸台風で大きな損害を被った境内各所の修復を進めつつ、それと並行して南総門を建て替え、社頭全体を南へ拡張し、神楽殿も新築するなど、次々に積極策を実行に移していく。足掛け5年にわたった本殿修復工事も昭和14年秋に竣功、11月14日夜には勅使を迎えて本殿遷座祭が厳粛に執り行われた。

 翌15年8月には、境内大楠下に造成された元祖エヂソン碑の土台部分に、上から覆い被せるような形で、それまで三ノ鳥居の東北側に建っていた「御文庫」を移転・増築する工事が完成した。こうして、前宮司が境内地にエヂソン碑を建設しようとした痕跡も、これ以後65年の長きにわたって、人々の目から完全に覆い隠されることとなったのである。展望台のエヂソン碑はどうか。昭和16年12月8日の「真珠湾攻撃」以降、米国はまさしく日本の主敵となった。いかに偉人とはいえ、エヂソンは米国人である。その敵国人の顕彰碑を、護国の神たる石清水八幡宮の間近に居座らせておいてよいのかと、自称愛国者たちの発する異議申し立ても喧しくなってきたが、神社としては「神域外のことゆえ関知せず」と、非難の声も記念碑の存在そのものも有って無きが如く、無視し続けた。

 昭和19年に入ると、日本は深刻な物資不足に陥り、民間にも金物類の提供が広く求められる中、男山ケーブルは同年2月10日に営業を停止し、橋脚等の鉄材を軍需物資として供出した。かくして、今や訪れる者とてない展望台のエヂソン碑は、雑草や蔓草に半ば埋もれたまま、昭和20年8月15日、ひっそりと終戦の日を迎えるのである。  (つづく)

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by y-rekitan | 2013-10-28 06:00 | Comments(0)

◆会報第42号より-05 エジソン碑⑦

シリーズ「石清水八幡宮覚書」・・・⑦
御文庫とエジソン碑⑦

 石清水八幡宮 禰宜  西  中 道


 エヂソン記念碑の除幕式から、ほぼ4ヶ月が過ぎた昭和9年9月21日金曜の朝、後に「室戸台風」と名付けられた超大型台風が、近畿地方を直撃した。四国の室戸岬に上陸した時の911.6 hPa という気圧は、参考記録ながら日本本土への上陸時としては史上最低、即ち史上最強の台風であったことを示し、その記録は今も破られていないそうである。
 特に最大瞬間風速60㍍(毎秒)以上とされる想定外の暴風が、京阪神の人口稠密地帯に、しかもちょうど職場や学校の始業時と重なる午前8時~9時頃に襲いかかったから、被害は一層拡大した。この台風による死者・行方不明者は3千人を超え、当地でも八幡尋常高等小学校の校舎が強風により全壊し、犠牲となった校長・訓導・児童合わせて34人の名前が、今も善法律寺境内の慰霊碑に刻まれているのは、周知の通りである。
 石清水八幡宮をはじめ神社仏閣にも相当の被害があり、当時の境内被害状況を記録した写真などを見ると、あまりに破壊の跡が凄まじく、一見しただけでは何処を撮影したものか見当もつかない。倒れたり折れたりした樹木の幹や枝、吹き飛ばされた建物の残骸らしきものが散乱し折り重なって、それこそ無茶苦茶な状態になっている。本殿の損壊も甚だしく、部分的修理で間に合うような程度のものでないことは、誰の目にも明らかだった。
 男山展望台のエヂソン記念碑も、台風通過後は木々の枝葉に覆われ、半ば埋もれた状態になっていたのだが、今やエヂソン碑の話など、どこかへ吹き飛んでしまっていた。田中宮司は、本殿以下諸建物の修復のため、最後の御奉公という覚悟をもって粉骨砕身、ようやく翌年5月13日、本殿半解体修理のため仮遷座祭を執り行うところまで漕ぎつけた。
 しかし、工事半ばの昭和12年8月27日、数え70歳、古希の年を迎えた田中宮司は、もはや精も根も尽き果てたということか、遂に石清水八幡宮宮司の任を退く。振り返れば、明治34年12月の宮司就任以来、35年余りの歳月が流れていた。翌日赴任してきたのは、佐賀県出身、明治7年生まれの前橿原神宮宮司・副島知一氏である。    (つづく)

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by y-rekitan | 2013-09-28 08:00 | Comments(0)

◆会報第41号より-04 エジソン碑⑥

シリーズ「石清水八幡宮覚書」・・・⑥
御文庫とエジソン碑⑥

 石清水八幡宮 禰宜  西  中 道


 田中宮司がエヂソン碑建設をいささか強引ともいえる手法で推し進めた背景には、大正15年、数え24で結婚した長女・教子(のりこ)の存在があった。その結婚相手こそ、新進気鋭の電気工学者で、彼女より10歳年長の松田長三郎氏、媒酌人は青柳栄司博士である。その後、文部省在外研究員に選ばれた松田氏は、昭和6年5月からドイツ、英国、米国に滞在し、帰国して間もないこの年、昭和9年2月に40歳の若さで京都帝大教授に任ぜられていた。
 この頃、内務省神社局の横槍に対して、田中宮司が発したという「科学に国境はない」という言葉にも、松田氏の海外での実体験が色濃く反映していたように思われる。「科学は人類共通の財産です。国境によってそれを遮ってしまえば、日本は世界からどんどん取り残されてしまう」と、時に松田氏が義父に熱く語りかけることがあったかもしれない。
 田中宮司にしてみれば、エヂソン碑建設に立ちはだかった石田神社局長より、さらに若い世代に属し、最新の欧米事情にも精通していて、しかも現代の日本で最も優れた電気工学者の一人が、我が愛する娘の夫なのだ。これほど心強い味方はなかった。彼が帰国して帝大教授となった暁に、義父が宮司を務める官幣大社の境内で、エヂソン記念碑の除幕式を盛大に挙行しようではないか、というのが田中宮司の思い描いた道筋であったろう。
 しかしその記念碑は、昨秋自ら斎主となって地鎮祭を行い、基礎工事も終えたところで中断を余儀なくされ、今も放置されたままだ。そして、今度は別の記念碑が、別の場所に現れて除幕の時を待っているという。自分としては極めて不本意な展開だったが、多くの関係者に迷惑を掛けてしまったことも事実だ…、そうした様々な思いが交錯する中、田中宮司は5月20日から10日間、東京出張の旅に出る。拠所ない事情による上京だろうが、そこには「除幕式をやるなら、儂のいない時にしてくれ」、という暗黙の了解もあったに違いない。除幕式の主役を演じ、満場の喝采を浴びる孫の晴れ姿を、娘夫婦と一緒に見ることは遂に叶わなかったが、田中宮司の矜持は貫かれたというべきであろう。 (つづく)

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by y-rekitan | 2013-08-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第40号より-05 エジソン碑⑤

シリーズ「石清水八幡宮覚書」・・・⑤
御文庫とエジソン碑⑤

 石清水八幡宮 禰宜  西  中 道


 「大寅」の創業者・小谷寅吉氏は、大正4年頃から男山一帯の土地を購入して開発を進めていたが特に八幡宮本殿北側に位置する平地 ― 明治維新前はここに門口坊という宿坊が存在した ― からの眺めは絶景であったから、ここを展望台として重点的に整備することとなり、その結果、人々はこの辺りを「大寅遊園地」と呼ぶようになった。

 大正15年6月に開業した男山ケーブルの経営主体は、男山索道株式会社であるが、その当初の代表者は小谷寅吉氏であり、昭和2年から同5年まで社長の任にあったのは寅吉氏の養子で後に大寅2代目社長となる小谷権六氏である。つまり男山ケーブルは、そもそも「大寅遊園地の乗り物」という性格が強かったというべきであろう。

 ただ小谷氏ら「大寅」関係者は、資金提供や名義上の面では男山索道に関与していたものの、実務面は別の人物に任せていたらしく、その周囲には不動産関連の会社や土建業者など、さまざまな利権が絡んでいて、どうも一筋縄では行かなかったようだ。それやこれやで、開業当初から経営不振が続いていた同社は、昭和3年に男山鉄道と社名を変更、翌4年8月には京阪電気鉄道の子会社となることで、何とかその存続が図られることとなった。そうした状況下、当時は八幡宮駅と呼ばれていたケーブル山上駅のすぐ近くに、ヱヂソン記念碑が建設されることは、男山鉄道とその親会社である京阪電気鉄道にとっても、それなりの集客効果が期待でき、いわば「渡りに船」であったろうことは想像に難くない。

 昭和9年3月15日、金津禰宜以下奉仕によりヱヂソン記念碑敷地清祓式が執行され、同年5月23日には完成した記念碑の除幕式が、同じく金津禰宜以下神職4名の奉仕により華々しく挙行された当時の社務日誌によると、松田長三郎京都帝大教授の長女・静子嬢(当時11歳)が除幕し記念碑建設会実行委員長の青柳栄司博士が事業報告、同会長清浦奎吾伯爵、米国領事ホワード・ドナバン氏、京都府の斉藤宗宜知事らが祝辞を述べたとある。しかし、その晴れの舞台に田中俊清宮司の姿はなかった。   (つづく)

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by y-rekitan | 2013-07-28 08:00 | Comments(0)

◆会報第39号より-04 エジソン碑④

シリーズ「石清水八幡宮覚書」・・・④
御文庫とエジソン碑④

 石清水八幡宮 禰宜  西  中 道


 エジソン翁は、昭和4年(1929)に世界各国で開催された電灯発明50年祭の時点では健在であったが、実はその記念パーティーの席で倒れ、2年後の昭和6年に満84歳で亡くなっている。つまり、この時期のエジソンは遠い過去の人ではなく、つい最近亡くなったばかりの、いわば生臭さの残る同時代人であり、彼の名声を貶めるような芳しからざる人物評も、米国内では密かに囁かれ始めていたらしい。皮肉なことに、電灯50年祭が催された同じ年の秋、アメリカに端を発した大恐慌は、一朝にして世界を暗転させ、我が国では昭和6年に満州事変、同7年に五一五事件が起こり、翌8年(1933)、欧州ではヒットラーが政権を掌握、世界はいよいよ戦時一色に塗りつぶされていくこととなる中央官僚の嗅覚は、すでにこの時、エジソンの米国内における評価が未だ流動的であったという問題ばかりでなく、日米関係の 急速な悪化という近未来の国際情勢をも敏感に嗅ぎ取っていたのかもしれない。実際、それから僅か8年後には、真珠湾攻撃で日米決戦の火蓋が切って落とされるのであり、もしも戦時下において、石清水八幡宮の境内に米国人の顕彰碑が在ったとしたら、宮司以下神職は非国民だの国賊だのと罵られ、身の危険さえ覚えずにおられなかったであろう。そういう意味で、石田局長にしてみれば、石清水八幡宮を救って差し上げたのは自分だと、むしろ自負するところがあったのではあるまいか。

f0300125_13404193.jpg 昭和8年10月28日に地鎮祭を執行し、建設工事が始まったヱヂソン記念碑は、基礎部分のコンクリート打設工事を終えた時点で、完全にストップしてしまっていた。内務省からの許可が下りぬ以上、このまま工事を進めるわけにはいかない。そこで関係者一同が鳩首協議を重ね、境内地以外の場所に代替地を見つけだし、そこに記念碑を建設するのであれば、何処からも文句は出ないであろう、というあたりで事態の収拾が図られることとなった。明けて昭和9年春、新たなヱヂソン記念碑建設地として白羽の矢が立ったのが、蒲鉾の「大寅」経営者、小谷寅吉氏の所有する男山展望台の一角であった。 (つづく)
 

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by y-rekitan | 2013-06-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第38号より-05 エジソン碑③

シリーズ「石清水八幡宮覚書」・・・③
御文庫とエジソン碑③

 石清水八幡宮 禰宜  西  中 道


 ヱヂソン碑の基礎工事を早々と進めてしまったのは、やはり少し勇み足だったというべきか。京都府から許可が下りたというが、それは府の社寺課レベルの話で、中央から正式の許可通知が届いたわけではなかった。聞けば東京の本局、内務省神社局長辺りが、本件に難色を示しているという。当時の神社局長は、昭和6年から10年までその任に在った山口県出身、東京帝大法科卒というバリバリの内務官僚・石田馨である。「官国幣社の境内に個人の、それも外国人の顕彰碑を建てるのは不相応」という見解のようで、しかも正式な許可を待たず、勝手に建設工事を始めてしまったことが、当局の心証をよけい悪化させてしまったらしい。自分も勅任官たる官幣大社の宮司である、との強い自負心をもつ田中俊清宮司にすれば、この話が頓挫すれば大誤算、まさにメンツ丸潰れである。
 石田馨といえば、数年前まで京都府内務部長の要職にあった人物。昭和3年に京都で行われた昭和天皇の即位礼では、御大礼事務委員長として存分に手腕を発揮し、田中宮司とも旧知の間柄である。しかも、明治元年生まれの自分より17も若い明治18年生まれ、まだ50歳にも届いていない。その辺りに、いささか油断もあったのだろうが、おそらく田中宮司にしてみれば、石田に裏切られたという思いが強かったのではあるまいか。

  昭和8年に「ヱヂソン記念碑建設会」という組織が作られ、会長に電気普及会の会長でもあった元首相の清浦奎吾伯爵が就任、顧問には鳩山一郎文部大臣、徳川家達公爵、金子堅太郎子爵など、錚々たる顔ぶれが名を連ねた。前回も述べたとおり、その会から依頼を受けて田中宮司が一肌脱ぐことになったのだが、それはあくまで表向きの話で、実は田中宮司本人こそ、「ヱヂソン記念碑誘致運動」の影の仕掛け人だったと見られなくもない。そういう、いわば事業家肌の宮司だったから、多分それなりの勝算もあり、すぐ認可が下りるものと高を括っていたのだろうが、筋金入りの内務官僚には、爵位も官社の威光も通じない。誰に何を言われようが駄目なものは駄目と、全く埒が明かない。  (つづく)

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by y-rekitan | 2013-05-28 08:00 | Comments(0)

◆会報第37号より-07 エジソン碑②

シリーズ「石清水八幡宮覚書」・・・②
御文庫とエジソン碑②

 石清水八幡宮 禰宜  西  中 道


 平成7年1月17日に発生した阪神淡路大震災では、参道の石灯籠48基が倒壊し、一の鳥居の貫(ぬき)と呼ばれる石材に亀裂が生じるなど、当宮にも相当の被害が出た。それ以前から傷みが進んでいた御文庫は、この地震でさらにダメージを受け、このまま放置しておけば参拝者に危害が及ぶ虞もあるとして、遂に平成17年夏までの取り壊しが決まった。その前に重要な古文書・古典籍類は収蔵庫に移し、さほど重要とも思われないが一応保管しておいた方がよいと判断されたものは、数十箱もの段ボール箱に容れ、石翠亭(参拝者休憩所)の一室に移した(昨年、それをまた社務所地下2階の一室へ移動)。
 こうして空っぽになった御文庫の解体工事が始められたのは、平成17年7月15日である。上部の木造建物は簡単に解体・撤去することができたが、その下から姿を現した鉄筋コンクリート製の巨大な構造物に工事関係者は目を見張った。それは、まるで頑丈な要塞のようであり、古代都市の廃墟が一部露出したもののようにも見えた。実は、これこそが、昭和8年に建設された元祖「ヱヂソン翁記念碑」の基礎部分だったのである。

f0300125_15194932.jpg そもそも、ヱヂソン記念碑の境内建設について、日本電気協会から当時の田中俊清宮司(現恆清宮司の祖父)に申請があったのは、昭和8年8月12日のことであった。田中宮司は、早速翌日から記念碑建設に向け動き出す。

 当時、一定の格式を有する神社は、内務省神社局の管理下にあり、宮司といえども自己の裁量で全てを決することはできなかったが、国の出先機関である京都府に働きかけた結果、清浦奎吾会長(元首相・伯爵)名で出願されていたヱヂソン記念碑建設の件に対し、9月29日に京都府より許可通知が届いた。10月3日には京阪電鉄からも記念碑建設の許可が下りたことについて祝意が寄せられ、いよいよ境内の一角、大楠樹下に全国電気関係者からの浄財を集め、立派な記念碑を建設することとなり、同月22日には田中宮司自ら斎主となりヱヂソン翁記念碑建設地地鎮祭を執行、土台部分の建設工事に取り掛かった、―までは良かったのだが・・・。    (つづく)


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by y-rekitan | 2013-04-28 06:00 | Comments(0)

◆会報第36号より-05 エジソン碑①

シリーズ「石清水八幡宮覚書」・・・①
御文庫とエジソン碑①

 石清水八幡宮 禰宜  西  中 道


 今から10年程前まで八幡宮の広報担当者は、1・2月を除く毎月、各報道関係者に近々の行事予定を告知する手紙を郵送していた。これに併せ、当時の担当者は「石清水アラカルト」と称する広報チラシを作成していたが、その中の一シリーズとして「一ノ鳥居から御本殿まで」と題する境内案内の小文執筆を私が引き受けることとなった。平成6年末から開始して、途中1年ほどの中断を挟み、連載約10年、通算89回に及んだが、担当者が替って「アラカルト」企画そのものが廃止され、その結果「御本殿まで」と銘打ちながら、平成15年末で遂に三ノ鳥居付近の記述を最後に打ち切りとなってしまったのである。そこで今回、この欄を与えられたことを好機と捉え、以前途中で終わってしまったシリーズの補遺編として、これから数回にわたり筆を進めてまいりたいと考えた次第である。

 さて、男山の山上には様々な建物があるが、ごく最近になって消滅してしまったものもある。その一つが、研修センター本館北側、大楠の直下にあった「御文庫」である。この建物は、片仮名のコの字形に造られた土蔵で、コの字の縦棒の右側中央に重い引戸があって、ここを開けて中に入ると、二本の横棒に相当する南北の棟それぞれの四周壁際と中央に木製の棚があり、そこに膨大な量の古文書・古記録・古書籍類が収納されていた。私が奉職した昭和52年当時、この建物は既に相当老朽化が進んでいて、入口の扉を開けて薄暗く黴臭い屋内に入ると、すぐ目の前の床に大きな穴が開いており、懐中電灯で床下を照らすと、かなり下の方、おそらく1.5メートル程はあろうかと思われる所にセメント様の平面が見えた。先輩神職によれば、この穴は何年か前に当時のT禰宜が誤って床板を踏み破り下に転落した、その跡だとの話であった。どうやらT禰宜に大きな怪我はなかったようで、そのため笑い話で終わり、床は修理もされず、放置されるままとなってしまったものらしい。当時、床下の根太は腐り、床は歩くたびにブヨブヨと揺れた。屋根を支える梁や柱にも亀裂が入り、建物全体が傾いで今にも倒壊しそうであった。   (つづく)

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by y-rekitan | 2013-03-28 08:00 | Comments(0)