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◆会報第77号より-02 八幡古寺巡礼4

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《歴探ウォーク》
八幡の古寺巡礼
― 第4回 男山山麓の寺を巡る(Part3) ―  

2016年12月 八幡市内 にて
高田 昌史 (会員)

 恒例となった歴史探訪ウォークの古寺巡礼は、昨年に引き続き「男山山麓の寺を巡る」Part3として、12月8日に第4回を実施しました。
 当日は46名と多くの方の参加がありました。その概要を報告します。

第4回古寺巡礼コースの概要

 f0300125_1142218.jpg八幡市駅前で受付をしてから、さざなみ公園の安居橋前に集合し、配布の「しおり」によるコースの概要説明と移動時の注意事項をお話してから出発しました。右図にコース図を示しましたが、今年の巡礼のコースは八幡市駅から近い東南方向の3古寺を巡りました。
全歩行距離は約2.5kmと短く訪問先の寺院での時間を十分確保できる見込みで、最初の訪問寺の法園寺に向かいました。

1.法園寺(律宗)

 f0300125_11594784.jpg安居橋前を出発してから、15分足らずで法園寺に到着です。法園寺では、法類の善法律寺松浦康昭住職が通用口を開けてお待ちいただきました。
 先ず境内で法園寺の概要説明をお聞きしました。
法園寺は鎌倉時代に建立された由緒ある寺院であり、現在境内の整備が行われています。法園寺は唐招提寺の末寺で、現在住職は壬生寺の松浦俊海貫主が兼務されています。現在工事中の表門は壬生寺の北門を移築されたと伺いました。(12月20日に完成)f0300125_1244873.jpg
 松浦住職からは、境内整備が完了しても国の重要文化財に指定されている本尊の「木造釈迦如来坐像」は、今後通常の公開予定はなく今回はあくまでも特別拝観であるとの説明がありました。実は、平成26年実施の第2回古寺巡礼では、法園寺を府道側のフェンス外から、遠くの収蔵庫の外観のみを見学しました。その時から御本尊の拝観をお願いしていたのですが、今回2年越しの念願が叶うことになりました。
 いよいよ、2班に分かれて松浦住職の案内で収蔵庫に入りました。f0300125_1273475.jpg収蔵庫内正面に安置の本尊「木造釈迦如来坐像」は、像の高さが87cmの檜材寄木作りで、大変立派な光背がありました。製作年代は正平16年(1361)ですから、今から650年以上前です。また、昭和9年(1934)の室戸台風で堂宇が倒壊して堂の下敷きになった本尊の胎内から多くの経文などが発見され、京都国立博物館に寄託されています。翌年の昭和10年には本尊と共にそれらの経文などは国の重要文化財に指定されました。
 また、収蔵庫には八幡宮の28代別当田中勝清(田中家初代)からの歴代の田中家の位牌をはじめ、南朝の公卿四条隆資、徳川家の位牌や豊蔵坊孝仍・孝叡など多くの位牌がありました。また、数枚の棟札も保管されていることがわかりました。
 収蔵庫内の拝観が終了後、わざわざ善法律寺から出向いていただいた松浦康昭住職にお礼を申し上げてから、次の訪問寺の正福寺に向かいました。

2.正福寺(浄土宗)

 f0300125_12163792.jpg正福寺では、秦文彦住職に出迎えていただきました。正福寺は「浄土宗三十六カ寺組の一つで、本尊は阿弥陀仏。本堂は科手町の薬師堂をこの地に移す。寺記には神原町に住む一瞬庵という者が、寛文2年(1662)に建立した趣が見える。開山は京都知恩寺の三十二代奉誉上人【慶長15年(1610)寂】である」と男山考古録に記されています。
 先ずは例会幹事が山門を入って右側の元禄3年(1690)に建立の「石清水八幡宮の灯籠」を事前調査した結果を記載したしおりにより説明しました。この灯籠の左面銘文は(護国寺寶前)です。
 次は、本堂左側の集合墓の見学をしましたが、集合墓の頂点近くに「興龍院(大河内秀元)」の墓が確認できます。大河内秀元のことは、男山考古録に詳しく載っています。それによると慶長2年(1597)の朝鮮の役に従軍して武功を上げて『朝鮮軍記』を書いています。その後、大坂夏の陣(元和元年:1615)では井伊家に仕え武功を上げ数年彦根に居住するが、正福寺近くの山路町に移り住み寛文6年(1666)に91歳で死去と記されています。
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 それから、集合墓の横の墓地にある八幡の歴史探究のバイブルといえる「男山考古録」著者長濵尚次の曾祖父(長濵友次)の立派な宝篋印塔(ほうきょういんとう)を見学しました。長濵家の墓は、他に番賀墓地及び神應寺にもあります。
 境内の見学終了後に、秦住職の案内により本堂で御本尊を拝観してから、ご住職の法話を拝聴しました。f0300125_12295944.jpg時々ジョークも交えての法話は大変解りやすくて、時間の経過を忘れるぐらいでした。北極星信仰から始まり、人の命は死んだらおしまいで無くて、後の世にゆくのであるなどの仏教の教えから、桜は散るに対して梅、椿、牡丹、菊、雪柳などの花は散ると表現しない。等々、今でもよく覚えています。法話の余韻を残しながら、最後の訪問寺の単伝寺に向かいました。

3.単伝寺(臨済宗)

 f0300125_1454040.jpg単伝寺では、近道になる北門を開けて石田副住職に出迎えていただきました。単伝寺のしおりには「今から二百年前に京都妙心寺の法類の瑞応単伝和尚が人々の不慮の災難を救うことを発願して、救苦観音を安置し祈祷修繕されたのが単伝寺再興の由来です。」と記されています。境内で石田副住職に単伝寺の概要説明を伺ってから、2班に分かれて本堂と大黒堂の参拝をしました。石田副住職は2箇所を行き来しての説明をされました。単伝寺は通称らくがき寺として広く知れ渡っています、
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 しかし、私はその由来は全く知りませんでした。説明では、単伝寺は、戊辰戦争で山門のみ残る被害にあい、先の大戦後の農地改革では寺領も無くなりましたが、先代住職の尽力により大黒堂を建てられ、その時にご寄付をされた方々に「願いごと」を書くようにと勧められたことが、らくがき(“願いごと”を壁に書くこと)の始まりであると伺いました。
 本堂の本尊「五大釈迦」前では、いろいろな説明をしていただき椅子に座り拝聴しました。f0300125_14182536.jpg
 また、境内の自由見学では山門横の比翼地蔵堂の約400年前に刻まれた縁結び2対の地蔵像(石仏)は、印象に残っています。
 この単伝寺境内で第4回八幡の古寺巡礼は、予定の時刻でもって解散としました。なお、八幡市駅方面に帰宅される参加者のために、近道になる山門を開けていただき有り難うございました。

おわりに

 連続4年になる「第4回八幡の古寺巡礼」は、お陰様で無事終了しました。
 今回巡った3寺は、宗派も違いいろいろなことを知ることができました。ご案内や説明いただいた3寺のご住職の方々には、改めて厚く御礼申し上げます。特に、法園寺の国の重要文化財指定「釈迦如来坐像」の特別拝観に関しては、善法律寺の松浦住職には収蔵庫内の事前確認及び当日の案内と大変お世話になり感謝致します。
 4回開催の八幡の古寺巡礼は、4年間で10寺院を巡りました。次年度も「古寺巡礼」を継続開催して、八幡の歴史を探究して行きたいと思います。これからも八幡の古寺に関する情報等がございましたらお寄せいただきたくお願いします。


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by y-rekitan | 2017-01-20 11:00 | Comments(0)

◆会報第72号より-01 正法寺


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心に引き継ぐ風景・・・③
八幡の近世を開く志水家・正法寺
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 志水家の「お亀」は文禄3年(1594)、徳川家康の側室となり、近世の八幡を切り開く大きな足跡を残しました。
 慶長5年(1600)5月、徳川家康は石清水八幡宮を中心とする八幡に361通の「領地朱印状」を発給し、徳川政権構想に取込みました。この年、豊臣政権になって中断していた「安居神事のまつり」が復活し、「安居の頭役」を志水家が担って、武運長久と天下泰平を祈願しています。関ヶ原直前の7月、豊臣奉行衆による家康弾劾状「内府ちがひの条々」の最後には「内縁の馳走を以、八幡之検地被免候事」とあり、お亀の出身地、八幡の「検地免除」を非難しましたが、実際に翌年からは御朱印にそって検地が免除され、それを喜ぶお亀の手紙が残ります。これ以後、八幡は「検地免除」・「守護不入」の地として近世自治組織の体制が整いました。
 お亀の父、志水宗清は上杉征伐に参陣し、兄の志水忠宗はお亀の子である尾張藩祖、徳川義直卿に従い大坂夏の陣に従軍、その後も代々家老として藩政を支えました。志水家の菩提寺として隆盛を極めた「正法寺」は当時の姿を残し、「志水町」、「志水大道」に「志水家」の名残を留めます。 
(写真と文 谷村 勉)空白


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by y-rekitan | 2016-03-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第71号より-01 神應寺


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心に引き継ぐ風景・・・②
秀吉は神應寺に泊まったか
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 近年、その素晴らしい紅葉にリピーターの多い神應寺、この名刹は1156年前僧行教によって貞観(じょうがん)2年(860)、八幡宮社殿造営と同時に創建されました。
 八幡の歴史における神應寺の事跡は圧巻ですが、まず、秀吉の事です。神應寺十二代住職の「弓箴善僵(きゅうしんぜんきょう)」は豊臣秀吉と同郷朋友であり、北政所も深く帰依しました。
 秀吉が朝鮮出兵の首途に八幡宮へ参詣した折、八幡宮に従軍の人を求めましたが、この難題に八幡宮は対応できず、怒りを買いました。その事態を「弓箴善僵」はうまくとりなし、喜んだ秀吉は神應寺で「弓箴善僵」と一献交わしたそうです。「和漢三才図会」ではその時秀吉が神應寺に入衞したとあります。入衞とあれば秀吉が宿泊し、お供の兵士が寺の周りを警護したとも取れます。果して真相は如何に!
 「弓箴善僵」は名護屋(現佐賀県)の陣に随従しました。その後に、陣中見舞いとして贈った「帷子(かたびら)」を喜ぶ秀吉の朱印状が残ります。
 またこれも知られていませんが、「弓箴善僵」は東山「高台寺」の勧請開山で、「高台寺」は元々神應寺の末寺でありました。北政所は秀吉の死後、後陽成天皇から「高台院」の院号を授かると「弓箴善僵」和尚のもとで出家得度しました。
 神應寺は豊臣秀吉と徳川家康から共に百二十石の「領地朱印状」を給わっています。
(写真と文 谷村 勉)空白


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by y-rekitan | 2016-02-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第69号より-02 八幡古寺巡礼3

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《歴探ウォーク》
八幡の古寺巡礼
― 第3回 男山山麓の寺を巡る(Part2) ―  

2015年12月 八幡市内 にて
高田 昌史 (会員)

 今年の歴史探訪ウォーク(古寺巡礼)は、昨年に引き続き「男山山麓の寺を巡る」Part2として、12月1日に2寺院を巡りました。
 その概要を報告します。なお、参加者は35名でした。

1.第3回古寺巡礼コースについて

 f0300125_2281245.jpg当日は八幡市駅前で受付をしてから、さざなみ公園の安居橋前に集合し、今回の世話役紹介や歩行時の注意事項をお話した後に、受付で配布の「しおり」によりコースの概要説明をしました。しおり表紙にはコース図入れましたが、左図はコースの地形図を示しています。巡礼のコースが八幡市駅を中心に男山山麓の東部と北部方面であることがよくわかります。また、今回の八幡市駅近くの2寺院を巡るコースは、歩行距離も約2.5kmと短く訪問先の寺院での時間が取れるので、本妙寺では特別にご住職のご厚意により通常は公開していない京都府指定文化財の「雲版」や八幡市指定文化財の「本妙寺文書」を見せていただくことを予告して、最初の訪問先の本妙寺に向かいました。

2.本妙寺

 さざなみ公園の安居橋前を出発してから、10分足らずで本妙寺に着きました。本妙寺は法華宗真門流本隆寺末寺です。安土宗論で犠牲となった普伝日門に帰依する竹内伊豫守経孝によって永禄7年(1564)頃創立されたそうです。現在山門はありません。境内入口には2基の石碑(三宅碑)があり、手前碑の正面には“日門上人墓所 本妙寺”とあります。先ず境内の「日門上人の墓所」に向かいました。f0300125_22253652.jpg
 この墓所は、田中智学(宗教家)が「安土法難」執筆で、本妙寺に墓参したときに安土宗論(あづちしゅうろん)の犠牲になった、宗門の偉人に相応しい墓を提案して大正11年(1922)4月に除幕式を行ったとのことです。墓所には「墓碑」と「敬称の碑」が建てられていました。
 次に、明治維新の廃仏毀釈の時に八幡宮境内からこの地に移された、本堂横の「妙見堂」を見学してから、本堂に向かいました。
f0300125_22282380.jpg本堂では小島住職のご講話を拝聴しました。講話では本堂内陣の各仏像のこと、法華宗及びお寺の歴史について詳細に説明していただきましたので、いままであまり馴染みがなかった法華宗のことや本妙寺の歴史がよくわかりました。特に、本妙寺の日門上人が犠牲となった「安土宗論」事件の法華宗と浄土宗の法論とその後の事などよくわかりました。また、現在八幡市の寺院は51ヵ寺で、その内法華宗は2ヵ寺あることも伺いました。
 ご講話に引き続き今回本堂に特別に出していただいた、本妙寺所有の以下の文化財の説明がありました。 
雲版
f0300125_975161.jpg 昭和61年に京都府指定文化財に登録されている京都府下で一番古い雲版である。表の銘文は「永徳2年壬戌継宗寺八月 日施主源材」と刻まれている。雲版は永徳2年(1382)に鋳造され、継宗寺に奉納されたが、その後、天文16年(1547)に本妙寺の本山である本隆寺に買い求められた。この雲版が現在の本妙寺に移ったのは明治時代に入ってからといわれる。

竹内伊豫守経孝肖像f0300125_9242287.jpg 
 この肖像は竹内伊豫守の子孫の方の所有であったが、本妙寺に寄贈されてからこのように修理された。今まで何回か修理されていたが、今回はできるだけ最初の状態に戻すように努めたとの説明があった。なお、この肖像は竹内伊豫守の命日5月21日の1日間のみ公開されるようである。
 竹内伊豫守〔?― 天正13年(1585)〕は、もと八幡郷の住人で幼少より八幡山中坊で僧侶をしていたが、織田信長に見出され還俗して信長に仕え、武勇の名をあげたという。その後、八幡に帰り、八幡宮神人として柴座町に居を構え、姓も松田と改めた。
 竹内伊予守は寛永の文化人として名高い松花堂昭乗を養育した人物との説もある。(『男山考古録』)

鐃鈸(みょうはち)
 見せていただいたのは法華宗の葬儀や説法の場で打ち鳴らすシンバルのような鳴り物法具で、実際に小島住職が打ち鳴らすと見事に回転もした。この鐃鈸(みょうばち)が楽器シンバルの原型のようである。

本妙寺文書
 本妙寺に残る古文書142点のうち40点が、平成8年に八幡市指定文化財になった。八幡市指定文化財のなかで古文書指定第1号である。内訳は、沢庵書状1点、土地の転売時に添えられる売券(室町時代後期~江戸時代)が31点、将軍が代わる度に寺領安堵のあかしに発給される朱印状が8点などである。
 今回はそのうち、沢庵の書状と朱印状1点を展示されました。特に沢庵の書状は「紫衣事件」を語る貴重資料として注目です。(注記:沢庵書状の詳細については、別稿で例会担当幹事の丹波さんから報告されます。)
 八幡では、石清水八幡宮や正法寺以外の寺院でこのような貴重な古文書がまとまって残っていることはめずらしいと思います。
 本堂での講話と見学終了後は、本妙寺さんのご厚意により、お茶とういろうをいただいてから次の訪問寺の常昌院に向かいました。

3.常昌院に向かう

 本妙寺からは放生川の右岸の川沿いの歩道を歩き、八幡市駅近くの全昌橋から車道にあがり、常昌院に向かいました。途中の「長宗我部盛親隠れ家」の前では、長宗我部盛親が大坂夏の陣で豊臣方の武将として参戦し敗れ、慶長20年(1615)5月7日、石清水八幡宮の麓の民家に逃れ、f0300125_9521296.jpgこの家から京に赴く徳川家康の通過を伺っていましたが捕えられたとの説明がありました。
 常昌院には午後3時過ぎに着きましたが、山門の左側に樹齢400年といわれている八幡随一の巨椿・日光(じっこう)が目を引きました。ぜひ椿の開花の頃に再訪したいと思います。
 この常昌院は曹洞宗神應寺の末寺です。
 f0300125_9565100.jpg常昌院は神應寺19世住職 廓翁鉤然(かくおうこうねん)が、元禄時代に麓の庵として開かれました。しかし、その後檀家がなく無住になっていましたが、昭和43年に大木祖浄住職(現神應寺住職)が整備されたとお聞きしました。
 境内を見学してから本堂に上がり大木玉昭住職の説明をお聞きしてから、本堂内を見学しました。
ご本尊は「地蔵座像」で、座っておられる地蔵尊は珍しいといえます。この地蔵座像は鎌倉期に作られたといわれています。
 本堂を退出して、本堂右の平成9年に信者から寄進された石に描かれた不動明王が祀られているお堂を見学してから、常昌院山門で解散。 橋本方面と八幡市駅方面それぞれに帰られる方とに別れて本日の古寺巡礼は終了しました。

おわりに

 連続3年になる「第3回八幡の古寺巡礼」は、お陰様で無事終了しました。
特に、本妙寺の小島住職には長時間にわたるご講話と展示物のご説明をしていただき、有り難うございました。それにご住職のご厚意で多くの寺宝である文化財を特別に展示いただいたことに対し厚く御礼申し上げます。
 また、しおり作成段階では常昌院の本山である神應寺の大木祖浄住職ご夫妻からいろいろとお教えいただいたことを申し添えたいと思います。
 八幡には多くの古寺があり、これからも「古寺巡礼」を継続することで、八幡の歴史を探究して行きたいと思います。


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by y-rekitan | 2015-12-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第69号より-03 本妙寺文書

本妙寺文書「沢庵の書状」と紫衣事件について

丹波 紀美子 (会員)


沢庵の手紙

 今回の見学に際し、本妙寺では寺宝の綱吉時代の朱印状、府内最古の雲版、そして、今まで教育委員会にしか見せておられなかった秘蔵の沢庵の書状を拝見させて頂きました。
 竹中友里代氏が1997年春に執筆された『禅文化』164号、八幡市本妙寺の「江月宗玩宛沢庵宗彭(こうげつそうがんあてたくあんそうほう)書状」についての解説文をもとに、沢庵のこと、合わせて紫衣(しえ)事件の事などを書いてみたいと思います。
 沢庵の書状は、八幡の歴史を探究する会の安立さんと奥山さんの労により、文語文を口語文に意訳していただき、私たちでも読むことが出来るようにして貰いました。

  ☆沢庵宗彭(1573~1643)の書状
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尚々(なおなお)、御上京前に面会を期(ご)します。
昨日は貴方のお手紙が堀丹後守(直寄)から届き拝見しました。また
貴方様のところにお伺いしましたが、お留守
でしたので、たって申し置きしました。一両日中に御出発と
聞きましたが、天気は不順ですし
お見合わせになって、一両日
延ばしてご出発なさってもいいのではないでしょうか。永く
江戸に滞在されたので、ご出発準備も
一両日中には出来兼ねることでしょう。
稲葉丹後守(正勝)殿の御煩いも今
少し見届けられて、どちらにしても来月に入って
御出発なされば、雨もまた
快晴の天候になるでしょう。尚また画賛は
書き改めましょうか。烏丸大納言(光広)へは書状を届けました。
委しく書きましたが、貴方様から直接仰せ申すべき
ことですが、なにも口論にはならない様子です。貴方さまの
御出発も色々あるようですので
当月中お延ばしされている間、
参上して御暇乞いを申し上げに行きます。
恐惶謹言(きょうこうきんげん:恐れかしこみ謹んで申し上げます)
       春雨庵(しゅんうあん)
   五月廿七日  宗彭(花押)
拝呈龍光(江月)丈室
  侍局


沢庵と江月宗玩たちとの交友関係

 沢庵宗彭は、紫衣事件で寛永6年(1629)7月、出羽国(山形県)上山(かみのやま)城主、土岐頼行の所へ配流になりました。沢庵56歳の時でした。土岐頼行は沢庵のために庵を建て色々な気配りをして流罪人とは思えないほどの持て成しをしています。頼行が建てて歓待した庵を沢庵は「春雨庵(しゅんうあん)」と名付けて、流罪中の3年間と赦免されて帰洛の許しの出る江戸滞在中の3年間の手紙には「春雨庵」と記しています。
 手紙の主、沢庵は大徳寺の首座となった臨済宗の高僧で、宛先である江月宗玩は、津田宗及の子で、やはり大徳寺住持となった高僧です。二人は、茶の湯や俳諧連歌に興じる間柄であり、後でも触れますが、松花堂昭乗とも関係を結ぶ茶人です。
エピソードとして、遠流の身となった沢庵へ送った昭乗の和歌と、その返歌があるので紹介します。

 松花堂昭乗から配流になった沢庵へ
うらむなよ かりの世なれば さすらふも 旅のやどりを かふるばかりぞ
遠島に 行くやうらみむ うらのなみ 今かえりくる ならひならずば
 沢庵から昭乗へ
ながらえば 君に二たび 会津山 名もたのもしき 寿なりけり
我人の 心の月は 雲霧に さわらぬものと しる人ぞなき

 沢庵は、徳川秀忠の死(寛永9年3月)により恩赦になって寛永9年(1632)7月27日江戸に入り、手紙にある越後村上城主 堀丹後守直寄(1577~1639)の駒込の下屋敷に、冬ごろから寛永11年(1634)5月の帰洛まで世話になっていました。堀丹後守は、沢庵より4歳年下でしたが、事件発生以来、沢庵を何とかして助けようと、幕府高官へ心付けをするなどして赦免に奔走しました。
 この手紙は、沢庵が江月(こうげつ)の書状を掘丹後守から受け、江月の江戸の宿所に赴いたが留守であったため、その返書として出されたもので、沢庵が堀丹後守の駒込下屋敷に寄寓していた時のものです。
 寛永11年(1634)5月、沢庵たちが帰洛した後、堀丹後守は、同年7月、徳川家光に従って上洛しました。その際、沢庵に会って将軍拝謁を勧めるなど、以後も家光と沢庵の取り成しに動いています。
 次に、沢庵の手紙に出てくる稲葉丹後守について紹介します。
 稲葉丹波守は、家光の乳母(うば)春日局(かすがのつぼね)の息子の正勝(1597~1634)で、沢庵は江月に正勝の病気見舞いを勧めているのです。
 紫衣事件によって大徳寺の沢庵や玉室は流罪になりましたが、江月だけは流罪を免れています。世間では、江月に罵倒を浴びせたり、彼の墨蹟を破り捨てたりする人がいましたが、江月は、沢庵らの赦免にひたすら奔走しました。幕府の要職にいた稲葉正勝に接する機会もあったので、江月の人柄から正勝の信頼を得て、正勝の死後もその子息は江月にゆかりの深い大徳寺の法堂を造営しています。
 沢庵の書状にもあるように、京へ帰る江月に対し、梅雨時期の天候を心配し出発を延ばすよう勧めています。来月になると天気も安定し、長く江戸に滞在していたから用事も多くあり一両日中に済ませることは難しいのではないかと心を配り、出発前に一度会って話がしたいとも述べています。
 末尾の発信の日付は沢庵が春雨庵と名乗っている間で、稲葉正勝が病気中であること、江月の江戸滞在期間が永いことを記していることから正勝が亡くなる寛永11年の前年で寛永10年5月27日であると推定されています。

紫衣事件とは何か

 さて文中に出てくる紫衣(しえ)事件とはどんな事件で、どんな結末であったのか記してみます。紫衣とは天皇が宗派を問わず高僧に下賜した紫の袈裟をさします。
 事件の発端は、慶長18年(1613)6月に、『勅許紫衣竝(ならび)に山城大徳寺妙心寺等入院の法度』が制定されたことやその2年後の元和元年(1615)7月に、『禁中竝に公卿諸法度』『諸宗本山本寺諸法度』が制定され、朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁じたことに始まります。
 朝廷では、寛永3年(1626)の、大徳寺・妙心寺の出世(住職になって紫衣を賜わる)厳禁、元和以後の紫衣を取り消す旨の命令にも関わらず、後水尾天皇はこれを無視し従来の慣例通り紫衣を与えました。
 その結果、金地院崇伝(こんちいんすうでん)や土井利勝らは寛永4年(1627)7月、これを法度違反とみなし京都所司代に紫衣を取り上げる様命令しました。寛永5年(1628)、大徳寺沢庵宗彭(たくあんそうほう)、玉室宗珀(ぎょくしつそうはく)、江月宗玩(こうげつそうがん)や妙心寺の単伝士印(たんでんしいん),東源慧((とうげんけい)等らは抗議書を所司代板倉重宗に提出したため、幕府は態度を硬化させ江戸へ召喚しました。幕府内でも厳罰を以て処すべしという金地院崇伝と穏便な処置をのぞむ南光坊天海らの対立はあったものの、崇伝の主張を秀忠は受け入れました。
 江月を除く4人はそれぞれ寛永6年(1629)7月に配流となりました。また、11月には後水尾天皇が抗議のために退位することにも繋がりました。後水尾天皇の退位は、紫衣事件だけでなく同年10月に家光の乳母お福が無位無官(西三條家の娘として藤原福子)で拝謁した事も原因の一つともいわれています。なお、福はこの後、従三位の位階と春日局の名号を頂いています。
 寛永9年(1632)、徳川秀忠の死によって大赦令が出され紫衣事件に連座した人たちは許されました。
 後に、沢庵は家光の帰依を受け慕われます。家光に近侍したことで寺法旧復を訴え、恩赦になって9年目の寛永18年(1641)、沢庵69歳にして事件の発端となった大徳寺、妙心寺の寺法旧復が家光より正式に申し渡されました。そして、両寺の出世入院(住職への復職)が認められ、幕府から剥奪された紫衣も戻されました。
 (なお、沢庵の援助者には堀丹後守の他、柳生宗矩、天海和尚たちがいる。)
 沢庵の書状が、宗派も違う本妙寺に伝わった理由について、竹中さんも不明とされていますが、本妙寺の栞では「手紙がなぜ当山に残っていたかは不明ですが、当時松花堂昭乗の営む『文化サロン』などでの知識人、文化人などの交流の過程で様々な交際の流れを生んでいったと想像される」と書かれています。私もその通りだと思います。
 江月と昭乗はとても仲の良い友人で、昭乗の絵には数多く江月が賛をしており、また昭乗の晩年には2人で奈良吉野の旅もしています。江月は何度となく男山にも登り、また昭乗も江月の寺の大徳寺龍光院(りょうこういんいん)には足しげく通っていたと思われます。龍光院の小襖にも昭乗の描いた絵が有り、他にも昭乗が描いて渡したであろう絵が多く所蔵されています。そんな昭乗と江月の関係を考えると沢庵の手紙が昭乗の所に渡っても不思議ではなく、他にも昭乗のいる男山と山下の僧侶たちの交流もあったことでしょう。江月と昭乗とは、宗派は関係なく、男山での昭乗のサロンには江月も来て本妙寺の住職も呼ばれていたかもしれません。そんな折に直接本妙寺住職が江月から頂いたのかもしれません。そんなロマンを夢みて終わります。
by y-rekitan | 2015-12-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第69号より-04 古寺巡礼

「古寺巡礼」で出会った仏さま

滝山 光昌 (会員)


 今回、「八幡の古寺巡礼」で「法華宗真門流の本妙寺」と「曹洞宗の常昌院」を訪れ、それぞれのお寺に祀られている仏さまにお参りすることが出来ました。
 本妙寺は、日蓮の法華曼荼羅に基づいて、中央に南無妙法蓮華経(題目)を配置し、周囲に種々の仏様を配置した三宝尊でした。そして、仏を漢字や梵字であらわした「文字曼荼羅」も披露してくださいました。
 「曼荼羅」という言葉はよく知られていると思います。今回、「法華曼荼羅」という言葉を本妙寺のご住職から初めて伺いました。曼荼羅については、有名な国宝の東寺の「胎蔵界曼荼羅」と「金剛界曼荼羅」くらいしか知りませんでした。法華宗の祭壇の祀りかたは、東寺や高野山で空海が開いた「立体曼荼羅」の考え方と同じではないでしょうか。
 常昌院のご本尊は、座っていらっしゃる「地蔵菩薩」でした。
 地蔵菩薩を本尊にしている寺院は、京都・西山にある「竹の寺」の愛称がある「地蔵院」や奈良の「矢田寺」など沢山あります。宗派に関係なく、お寺に地蔵菩薩は祀られています。私の岡山の実家は高野山真言宗の古い山寺ですが、ご本尊は愛染明王で、脇に木彫りの地蔵菩薩座像が祀られています。地蔵は古くから、民衆に親しまれ、信仰の対象とされてきました。地蔵盆、六地蔵巡りなど、地蔵を中心とした庶民の行事が今も引き継がれています。
 今回二カ寺の本堂は、過去に訪問した八幡の古寺とは、若干おもむきが異なっているように思えました。八幡に数多くある浄土宗の寺院や高野山の真言宗の寺院は、本尊を中心に、色々な仏を沢山祀ってありますが、今回の二カ寺は比較的少なかったように感じました。
 東洋の仏教においては、西洋のキリスト教と異なり、礼拝所に沢山の仏さまが祀られています。キリスト教の場合は、キリスト像かマリア様だけです。東洋と西洋における宗教への信仰のあり方の違いを感じます。また、西洋の場合は、宗教にまつわる戦いがありましたが、少なくとも日本では、宗教に起因する争いは近代以降には起こっていないのではないでしょうか。これは、仏教が様々な仏像の存在を認めるように、他の宗派や信仰を容認する性格があるからではないでしょうか。
 美術家・美術研究者と宗教家とでは仏の見方、係わり方も違っています。美術家等は、美術工芸品として、宗教家は哲学的・精神的(心)な扱い方をするのではないでしょうか。その点、私たちは、寺の宗派としての成り立ちや信仰の在り方、寺の歴史を先ず学び、その上で美術工芸品としての仏さまの美しさを味わうべきだと改めて思いました。
by y-rekitan | 2015-12-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第69号より-08 茶くれん寺

京の街角にある「湯たく山茶くれん寺」

野間口 秀國 (会員)


 京阪電車の橋本駅の大阪方面改札口前に「湯澤山茶久蓮寺跡」と刻まれた三宅碑があることは既に多くの人たちに良く知られています。同じく道を挟んだ向かい側に西遊寺があり、これまたこの駅で日頃乗り降りする地元の人たちにはお馴染みの寺であり、八幡市の歴史に関心のある人たちには良く知られた寺であると思います。
 改札口を出て寺への石段を数段登り門をくぐると、けっして広いとは言えませんがきれいに手入れされた庭が目に入ります。そこには八幡市郷土史会による寺の起源が書かれた案内板が建てられてあり、案内の最後の部分に「湯澤山茶久蓮寺」についても書かれてありますのでその部分を以下に書いてみたいと思います。曰く“・・・ 秀吉公が天王山で明智光秀と戦った山崎合戦の折この地に立寄りお茶を所望したところ湯ばかり沢山出したので湯澤山茶久蓮寺といったと伝えられている。”と。
 
 ところで、先述の三宅碑に刻まれ、f0300125_22264577.jpg秀吉公に「湯澤山茶久蓮寺跡」と言われた寺は西遊寺では無くて常徳寺であることも知られていることです。他にも、“・・・豊臣秀吉の帰依を受け、ある日寺を訪れた秀吉が茶を所望したのに白湯(さゆ)を進上したので「湯沢山茶くれん寺」と言われたという伝説が残っている。”と書かれたものもあります。常徳寺は曹洞宗の禅寺であり、浄土宗のお寺である西遊寺の西隣にあったことも分かります。(*1)また、常徳寺の跡を印す三宅碑が現在では西遊寺の北東隣りに建てられていることが確認できます。

 ところで、表題に書きました京の街角にある「湯たく山茶くれん寺」について書きたいと思います。既に寺の存在を知っておられる皆様には特に新しいことでは無いと思いますが、私に取りましてはまさに今はやりの「びっくりポン」でした。この寺の近くに住む私の知人がこの秋に石清水八幡宮を訪れ、その際に橋本駅近くに「湯澤山茶久蓮寺跡」碑があることを知り、彼の住む所の近くにも同名の寺が今でもあることを教えてくれたのです。これは実際に足を運んで確認してみようと思い立ち、少し寒かったのも意に介さずに出向きました。京阪電車の出町柳駅からバスに乗って西に向かい、千本今出川で降ります。千本今出川の交差点の西北角にお茶屋さんがあり、そこを起点に今出川通りを西にわずかに歩を進めると二つ目の寺がそれです。バスを降りて注意して見ると、古くからの南北の大通りである千本通りには歩道に「史跡めぐり」と記したおしゃれな表示板を吊るした柱があり、そこにも「茶くれん寺 すぐ」と記されています。
 寺の名は浄土院(湯たく山茶くれん寺)で浄土宗の尼寺です。寺でいただいた案内の栞の表には「豊公ゆかりの史跡 浄土院 湯たく山茶くれん寺」とあり、その謂(いわ)れが裏面に書かれてありますので、そのまま以下に書いてみたいと思います。

秀吉公と湯たく山茶くれん寺

 天正十五年(1587)十月一日、秀吉公が九州征伐の勝利と聚楽第の完成を記念して北野天満宮内の松原で「北野大茶湯」を催されました。その折、秀吉公が北野に向かわれる途中、当院に立ち寄られ、お茶を所望されました。
 住職は一杯目のお茶をお出しした後、秀吉公が、二杯目を所望されたため、世に知られた茶人でもあるお方に、自分の未熟なお茶をお出し続けるのは失礼でもあり、恥ずかしいことであると考え、それならばお寺に湧き出る香ばしい銀水をそのまま味わっていただこうとの想いより、沸かしただけの白湯を出し続けたといいます。
 一方、秀吉公はお茶のお変わりを頼んでいるのに出てくるのは白湯ばかりと、初めのうちは驚かれましたが、そのうちに住職の思いを悟られてお笑いになりながら「この寺では、お茶を頼んでいるのに白湯ばかり出して、お茶をくれん。湯たくさん茶くれん。」と言われました。
このエピソード以降、「湯たく山茶くれん寺」と呼ばれるようになったと伝えられています。(*2)

既にお気づきと思いますが、この浄土院では「九州征伐の勝利と聚楽第の完成を記念した茶会」の際であり、常徳寺では「山崎合戦の折この地に・・」とあり、西遊寺では「ある日寺を訪れた秀吉が・・」とありました。いずれの史実が確かであるか、また実際にあったのかなどを知ることはできませんが、山崎合戦(*3)が天正十年(1582)のことですから、それぞれの寺で秀吉が茶を所望したことがあっても不思議ではありません。歴史に登場する偉い人には複数の場所でいろいろな伝説が語り継がれることを知る一例であると思いました。f0300125_223759100.jpg
 浄土院ではご説明いただいた方に「秀吉公にお出しした銀水を汲み上げた時に使用されていたと伝える井戸は、傷んでいるために覆われてあり今では使用されておりません」とのことや、「同名の寺は姫路にもあるそうですね」(*4)などと教えていただきました。ちなみに、浄土院の門の右側、木の枠で囲まれた石柱に「湯たく山茶くれん寺」と刻まれていることを確認できました。機会を見つけて姫路のお寺にも足を運んでみたいと思っています。親切にご説明いただきました浄土院の方に、また情報を提供してくれた知人にもありがたく感謝申し上げます。

参考資料;
(*1)2014年3月15日(土)歴探の歴史探訪ウオーク 橋本の歴史(1)「京街道を歩く」の配布資料・歴史探訪の見所①②
(*2)浄土院 湯たくさ山くれん寺の案内栞
(*3)『日本史年表・地図』児玉幸多編 吉川弘文館刊 
(*4)Wikipedia 法輪寺(姫路市)、他のブログ

by y-rekitan | 2015-12-28 05:00 | Comments(0)

◆会報第66号より-01 円福寺

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わが心の風景・・・(39)
円福寺
所在地 八幡福禄谷


f0300125_8393070.jpg 円福寺は、明智光秀と羽柴秀吉の山崎合戦で、筒井順慶が「日和見」をしたと伝えられる洞ヶ峠に近い八幡福禄谷にあります。
 山門、本堂、禅堂、有栖川宮家旧御殿などが甍を連ねる約三万坪の境内には、豊かな自然が残こり、静寂の世界が広がっています。
  寺は1783年(天明3年)、妙心寺の斯経和尚が八幡宮別当田中家から円福寺の寺号と達磨大師坐像を譲り受け、さらに同年、南山焼の祖、浅井周斎から幣原谷の土地の寄進を受けて、臨済宗最初の専門道場として建立されました。
 日本最古といわれる達磨像(鎌倉時代・重要文化財)は、法衣をまとい、両手を腹の上に重ねて唇を固く結び、目は大きく見開いており、何事にも惑わされることのない虚心坦懐の境地と気迫が漂っています。
 毎年4月20日と10月20日の年2回、「万人講」でこの達磨を拝し、赤膳で提供される精進料理を食べることで、開運、厄除け、中風除けになるといわれ、多くの信者が訪れます。 
  (絵と文: 小山嘉巳)
                                    


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by y-rekitan | 2015-09-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第64号より-01 講田寺

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わが心の風景・・・(37)
講田寺
所在地 橋本平野山


 f0300125_11541156.png橋本小学校から西へ百メートルほど行くと、橋本平野山という所に講田寺があります。
 古くは生津村(現伏見区)にありましたが、水害を避け、ここに移ったと言われています。
 本尊観世音菩薩を安置する曹洞宗の禅寺で、開山は明らかではありません。
 境内に地蔵堂があり、その中に安置されている「笑地蔵」には、次のような悲劇が伝えられています。
 その昔、淀川に架けられた橋が出水の度に流れるので、ついに人柱が立てられることになりました。人柱を誰にしようかと迷っている時、ある男が進言。その内容が男自らを選ぶことになってしまうのです。男の娘は深く嘆き、ものを言わない人になりました。
 やがて娘は尼となり、対岸の山崎に庵を結ぶのですが、歳月を重ねたある時、朽ちた橋の杭が水底から姿を現しました。娘はそれに地蔵尊を彫って供養。人々はこの地蔵を「笑地蔵」と呼び、水難除け、交通安全、安産などの御利益があるとして信仰を集めるところになりました。  (絵と文: 小山嘉巳)


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by y-rekitan | 2015-07-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第58号より-01 水月庵

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わが心の風景・・・(31)
水 月 庵
所在地 八幡福禄谷


 f0300125_1651538.jpg水月庵は、八幡福禄谷、通称幣原(しでわら)という、弥生時代後期の遺跡が残る地域にあります。
門前を流れる谷川には、小さな石橋が架かっていて、その右側には庵の由緒が書かれた碑が見えます。
 それによると、元は阿弥陀堂と称し、天明初年(1781年)のころ、越前(現・福井県)から霊宗尼が二人の弟子とともにこの地にやって来て、近くにある円福寺の住職、海門禅師について修行。やがて、尼僧の禅道場を開き、これが全国に流布したことで、全盛時には50~60人もの雲水が集まったとあります。その後、尼僧の修行道場は京都・一乗寺の円光寺へと移され、水月庵はその役割に終止符を打ちました。
 水月庵には、将軍家茂に降嫁した皇女和宮の深い悩みを慮った側女の一人が、彼女の死後、この庵で出家してその菩提を弔ったというエピソードが残っています。側女が和宮から賜ったという愛用の打掛けが寺宝として今も大切に保管されています。        (絵と文小山嘉巳)


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by y-rekitan | 2015-01-28 12:00 | Comments(0)