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◆会報第63号より-02 柏村直條

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《講 演 会 (会員発表)》

酒麹造りをビジネスとしていた八幡神人が
なぜ奉納詩歌に熱中したか?


2015年6月  松花堂美術館の講習室にて
柏村直樹 (会員 京都市在住)


 2015年6月24日、表題のテーマで6月例会が行われました。講師は、柏村直樹(かしむらなおき)さん。元禄期に、「八幡八景」を編集したことで知られる柏村直條(なおえだ)のご子孫で、三重大学の名誉教授(生物資源学部)です。退職後は、趣味でハーブの栽培と利用を楽しむために、自宅で分子ハーブ研究所を主宰しておられます。数年前から、八幡の歴史を探究する会や古文書の会八幡の活動にご参加いただき、石清水八幡宮の神人として活躍した柏村家の事績について探究を進め、「柏亭日記」の解読をはじめ、和歌・発句の研究に勤しんでこられました。例会時に、お手製の柏餅を持参なさるというユニークな面もおありの方です。
 2015年6月例会は、この間の柏村さんの研究の概要を発表していただくということで1年前に要請したものです。当日、柏村さんは「講演資料」として全40ページに及ぶ冊子を自費出版なされ、参加者に配布していただきました。今回は、それをもとに概要をまとめたいと思います。
 参加者は56名でした。

英文による講演の要旨とその和訳
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⦅和訳⦆
 何故に石清水八幡宮森村の神人たちは中世において酒麹の生産と販売を独占していたにもかかわらず、江戸期に奉納詩歌の編集に取り組むことになったのであろうか?   柏村直樹(三重大学名誉教授)
<要約>
 本日の講演は、直條の活動と八幡市内外の専門家と市民によってなされた、彼についての最近の研究に焦点があてられている。トピックは八幡八景、厳島コレクション、放生会(捕えられた生き物を放つ宗教的儀式)、そして、家譜および家系図に引用される直條と家族の歴史をふくんでいる。講演はまた、日本の酒造についての文献の写しと共に、40頁の小冊子と参考図書の展示によって補足されるであろう。(和訳は、歴探幹事の藤田美代子さんによる)

直條とその家族

 直條(なおえだ)は寛文元年(1661)に、柏村家39代として生まれた。父は直能(なおよし)。妹の眞は、後に連歌師里村昌純と結婚。直條の和歌・俳諧への接近が示唆される。f0300125_10335740.png寛文5年に、父直能に将軍家綱から朱印状が交付された。石清水に仕える神人として安堵(あんど)されたことを意味する。直能は、延宝(えんぽう)6年(1678)に、再興される石清水の放生会(ほうじょうえ)に参加している。代々柏村家は相撲神人であったが、この時の相撲神事は成らなかった。なお、直能は天和3年(1683)の安居神事(あんごしんじ)にも参加している。安居頭役としての出仕であろうか。
 貞享(ていきょう)元年(1684)、直條は、京都の先生のところへ弟子入りしてその修行から八幡に帰り、家督を継いだ。23歳と思われる。貞享3年には、河内国の王仁遺跡にて和歌奉納を懐紙に残していて、若い頃から和歌に親しんでいたことがわかる。翌年、息男の真直(まな・柏村家第40代)が生まれている。真直の母、つまり直條の妻は谷村新兵衛光利の娘である。
 元禄元年(1688)、隠居の身である父直能が、大納言近衛冬基に牡丹を進呈している。天下泰平のこの時期、内裏ではお花畑で花の栽培や鑑賞がさかんに行われたらしく、それが機縁で柏村家と朝廷との関わりが芽生えた。
 元禄3年、直條は放生会で大納言実業に和歌を献じている。
       石清水流れの末に月影の うつるも神の恵みとぞ知る
 元禄6年(1693)、直條は有栖川親王に千句連歌を贈呈している。これは川口村天満宮で興行されたものである。同年8月、直條は、醍醐冬基卿と有栖川親王に「八幡八景」を選定することを要請。12月に霊元上皇の認知するものとなった。そして元禄7年、直條や里村昌陸らとの「八幡八景連歌発句絵巻」が奉納されることとなった。同絵巻は、石清水八幡宮が所蔵し、平成19年(2007)に、京都府立山城郷土資料館が開館25周年を記念した特別展に出展され、図録「南山城の俳諧」に紹介されたことはつとに知られている。

見果てぬ夢に終わった奉納相撲

 代々柏村家は、相撲神事を司る相撲預禰宜(すもうあずかりねぎ)として奉公してきた家柄である。家康からの朱印状にもそのことが明記されている。直條も、何とか相撲神事を復活すべく奔走した。
 弟である尚誠が5代将軍綱吉の側近、柳沢出羽守吉保(よしやす〉に仕えるようになると、柳沢吉保を仲立ちとして石清水に相撲神事が復活するよう働きかけた。元禄9年(1696)に直條は、尚誠に手紙を送った。相撲復活を懇請するものである。以下に要約する。
奉納相撲はそもそも垂仁天皇の時代に興って今では内裏で7月に行われている。
後三条天皇が親王の時、石清水八幡宮に参宮のおり希望されたが、皇位につかれたときには、放生会での実施が難しくなり行われなかった。
南都春日若宮の祭礼の相撲は我が家系の者が派遣され実施された。
いつの頃からか下行米も減り、運営予算もないので、高祖父宗重の時代から実施されていない。
当八幡宮での相撲は巡検勾が担当するという記録もあり、最近は、この担当が善法寺家となっているが、名ばかりで実行されていない。
我が家系は昔、内裏から来る相撲人を預かり、左右近衛を付けて実施してきたが、放生会も廃(すた)れ相撲節会(すもうせちえ)も長い間行われておらず嘆かわしい。
田中央淸の願いがかなって放生会が再興されたので相撲節会を再興したい。だが、下行米がなくては実施できない。
相撲だけでなく、流鏑馬(やぶさめ)、舞楽、競馬(くらべうま)も絶え残念なことである。
 貴方は権勢著しい方(柳沢吉保)にお仕えしているので、これらの行事を再興できるようにお諮り願いたい。
だが、この手紙でも奏功せず、直條は、元禄13年(1700)に江戸に出向き要請活動を行っている。その後、相撲節会が石清水において行われた記録が見当たらず、復活されたことはなかったのかもしれない。

厳島八景

 正徳(しょうとく)元年(1701)、直條(なおえだ)は家督を眞直(まな)にゆずり隠居している。満年齢では40歳に相当し、現代の感覚からすれば早い隠居であろう。その後、直條は全国各地を巡るようになった。なかでも厳島神社には足しげく参詣し、厳島の光明院恕信なる僧との交友をさかんにし、厳島奉納和歌を興行したり「厳島八景」を定めたりしている。「厳島八景」については、早稲田大学図書館蔵のものがフリーダウンロードできる。題目は、以下の通りである。
 厳島明燈、大元桜花、瀧宮水蛍、鏡池秋月、谷原麇鹿、御笠浜鋪雪、有浦客船、弥山神鴉
 「厳島八景」については先行研究があり、朝倉尚氏の「厳島八景考-正徳年間の動向-」が参考になった。同論文から以下のことがらがわかる。
「厳島八景」は、正徳年間(1711~1716年)にさかんに詠まれ、近世における、宮島のみならず、芸備地方の文化の到達点が示されている。
和歌・漢詩・連歌(発句)、俳諧を内容としているが、作品量や成立事情については一様ではない。
選ばれた名所には、厳島を筆頭に、大元・滝宮・鏡池については神社とその一部で、谷原・御笠浜・有浦・弥山については、神社を中心にしながら、周辺の代表的な景観地として選ばれたと解される。
また、春、夏、秋、冬と羇旅、神祇を整然と配置していることがわかる。
厳島八景の景目の選定等の奉納の経緯については、直條による跋文を読めばわかる。その経緯は以下の通り。
正徳2年(1712)4月13日に、直條は八幡を出発し、20日に、厳島の光明院(恕信が住職)に投宿した。その後、厳島神社に参詣したり地元の名のある人々と交友を深め、連歌を興行したりした。同年6月に八幡に帰った直條は、京都の風早家を訪れたり冷泉家に赴いたりしている。
正徳3年3月、厳島奉納和歌20首題を冷泉家より得、諸卿に勧進。
正徳5年(1717)、厳島八景の和歌成る。同年、直條、宮島に至り、八景和歌を光明院に附す。恕信、八景和歌を神前に奉納す。
 上記のことから、直條が厳島に赴き、厳島八景に関わる和歌や俳諧などを地元の人々と詠み、それらの作品を携えて、京都の高家・堂上家を訪れた。その際、恕信も直條といっしょに上洛したと思われる。その目的は、「厳島奉納和歌」などの作者・協力者に謝意を表し、さらに速やかなる作品製作を督促することである。その作者・協力者のなかに、直條はもちろん、昌純・昌陸・昌築・昌億など連歌師里村家の面々、石清水八幡宮の神職がいた。恕信と直條による、これらの方々への懇願、督促によって「厳島八景」が成立したといえる。
 なお、朝倉尚氏の研究は、「厳島八景」の研究にとどまらす、「八幡八景」の先行研究としても意義がある。さらに深く検討したいものである。

中世八幡の「酒麹専売権」

 柏村氏は、相撲神人であるとともに、八幡森の有力者であった。江戸時代の朱印高によれば、八幡森町は山路郷に属し、320石余の石高を持つ。中世以来、薬園寺のお膝元で森氏や森元氏を中心に酒麹の生産と流通を担ってきたことはよく知られている。柏村家の系図によれば柏村氏も酒麹に関わり財をなしたことが考えられる。ここで、酒麹販売権をめぐる中世八幡の様子をいくつかの資料をもとに紹介してみたい。
 鎌倉時代から室町時代にかけて、京都には「座」という制度があった。これは言ってみれば、専売システムのことである。朝廷や有力な寺社などを本所として一定の利益を上納すると、営業の独占権や課税免除の特権が座商人に与えられるというシステムなのである。その「座」のひとつに、「麹座」というのがあったが、これは、酒に使う麹を独占的に扱う座である。京都の石清水八幡宮の刀禰(有力者)を皮切りとして、北野天満宮の神人らが専売権を設定して「麹座」を開いたとのことである。
 石清水八幡宮の麹座の活躍を示すものとして、次の資料がある。
 「寛元4年(1246) 石清水八幡宮の刀禰(有力者)・住民ら麹の専売権を独占する」というものである。詳しくみてみよう。
 「京都の南郊、石清水八幡宮領内の刀禰や住民たちは、寛元4年(1246)以前から麹の専売権を独占していたが、たまたま文永年間(1264~1275)、続いて徳治年間(1306~1308)の2回にわたり、河内国交野郡楠葉(現、枚方市楠葉)の住人が八幡宮境内四郷で麹を売ったことから騒ぎになったが、八幡宮社家の裁断で特権をそのまま保持することができた。」-『日本の酒の歴史-酒造りの歩みと研究-』(昭和51年1月発行、発行者、高田弘)

「八幡八景」成立の背景と直條の思い

 現在、目にすることができる「八幡八景」は、正徳6年(1716)に山田直好が写本したものと、賀川翠渓が昭和9年(1934)に写本したものが双方ともに、東京都立中央図書館に所蔵されているので、その全貌を窺い知ることができる。それらによれば、和歌・発句・漢詩編がおびただしく作られ、出詠に関わった人は、堂上公家・宮家から地元の歌人、五山・黄檗僧、連歌師、直條家族にまで及ぶ。
 題目はご存知のように以下の通り。
 雄徳山松/極楽寺桜/猪鼻坂雨/放生川蛍/安居橋月/月弓岡雪/橋本行客/大乗院鐘
 すべて石清水八幡宮が鎮座する男山とその周辺で、松、桜、雨、蛍、月、雪、行客、鐘が景物として取り上げられ、春から冬に至る季節と羇旅(きりょ)、釈教がテーマとなっている。
 その中で、直條が好んで詠んだ和歌・発句が「放生川蛍」のようである。放生川に蛍が飛び交う姿をともに想像してみたい。そして、現代の放生川に蛍が舞う日の訪れることを夢想したい。

    そのかみに誰か放ちて此川の たへぬ流れに蛍飛かふ

    うろくつも藻にかくれ得ぬ ほたるかな    「うろくづ」は魚の意。
以上

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f0300125_11435332.png 本講演は、史料が生でしめされており、翻刻がないものもあってわかりにくい面もありましたが、その点では配布された冊子やレジュメを読めばよいように配慮されています。あるいは、「年譜」や「家譜」、「略伝」を示してくださっていて、参加者の今後の勉強の便をはかっています。

 休憩を挟んで質疑応答が交わされました。論点のみを紹介します。
柏村直條は、どのような教養の持ち主であったのか。
相撲節会を実施したかったが叶わず、それで八景や和歌の制作にのめりこんでいったのか。
直條と厳島神社との関わり。直條が恕信と知己になった経緯。
柏村家と瀧本坊との関係はどのようなものだったのか。
直條が「放生川蛍」にどんな思いを重ねたのか。ちなみに、土井は、上記の和歌が、単に当時の情景を歌っているだけでなく、放生会(ほうじょうえ)が復活されたことを思い、放生川の流れを放生会の悠久の歴史になぞらえたものとして受け取った。
放生川蛍の漢詩編の訳について

 なお、柏村直樹さんから次の感想が寄せられました。
「当方の今回の率直な感想は、やはり「身内の話」はやりにくい、しかし、やってみて、また実際に多方面の参加者があり、図らずも「生前葬」の感じがした。それにしても、松花堂だけに魅せられて、あるいは八幡は行ったことがないのに、友人がきたのにはびっくりした。来年から5月12日、「直條サロン」で供養のお祓いと神人のセミナーを開こうとおもいますのでよろしく。」

『一口感想』より

以下に、当日寄せられた一口感想を紹介します。
ありがとうございます。柏村先生は佳いお仕事をなさいましたと感じ入りました。柏村家のご先祖への何よりの御供養と存じます。今日、先生がおすこやかな老年期を生きぬかれ、御自身の為、御家族の為、先生に御縁をいだく方々の為に仕合せな時間を共にさせていただき、有難いことと存じます。 (阿部千恵子)
素晴らしい資料、ありがとうございました。奥深い歴史にますます興味が増しました。じっくり復習します。有難うございました。 (竹内勇)
「八幡八景考」を歴探で制作して下さい。『歴史たんけん八幡』の次の出版の題材として!(伊佐)
いやあ、すごいです。よく研究されたものです。 (坂口守彦)
〔文責=土井三郎〕


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by y-rekitan | 2015-06-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第59号より-04 八幡八景②

シリーズ「八幡八景について」・・・②
八幡八景について-その2

   安立俊夫 (会員) 


4 江戸時代の八幡八景

 元禄期の「八幡八景」を編集したのは柏村直條(1661~1740)ですが、霊元天皇(1654~1732)によって選定されたと思われる「八幡八景」の漢詩・和歌も残されています。それを紹介します。
 なお、漢詩の読み下し文については、間違いも多々あると思います。ご指摘、ご教授頂ければ幸いです

雄徳山松
                       
公辨法親王余白
  雄徳山頭古廟前  雄徳山頭古廟の前
  蒼宮擎蓋立森然  蒼宮蓋を擎(ささ)げて立ち森然
  到今猶見神明化  今に至りて猶(なお)見ん神明の化
  佳気氤氳幾百年  佳気氤氳(いんうん)幾百年    
   氤氳=気があたりにたちこめているさま

                  
幸仁親王 有栖川兵部卿余白
  おさまれる世にそやすらく男山 
   さかゆく松の 花の光は

極楽寺桜
                  
實種卿 風早中納言余白
  莫伐従来花有神  伐ること莫(なか)れ従来花に神有り
  神人日々揖宮巡  神人日々宮を揖(ゆう)して巡る
  彩霞溶曳紫雲外  彩霞溶曳たり紫雲の外 
  極楽寺中占断春  極楽寺中春を占断す

                  
基福卿 園儀同余白
  色も音もさそな妙なる法の場に 
   木末なからの 花の手向けは

猪鼻坂雨
                  
韶光卿 勘解由小路余白
  午鳩叫罷日朦朧  午鳩叫(よ)び罷(や)んで日朦朧 
  石磴落来蓑笠風  石磴落来る蓑笠の風
  一雨山頭又山脚  一雨山頭又山脚 
  依然畫棟挿晴空  依然として畫棟晴空を挿む
    石磴=石のある坂路。石の段
    山脚=山の裾、麓

                 
資熈卿 中御門権大納言余白
  岩根ふむ猪鼻坂にふる雨は 
   神のみゆきの道や清むる

放生川蛍
                   
真敬法親王 一乗院宮余白
  放川似帯繞神丘  放川帯に似て神丘を繞(めぐ)る
  萬點蛍光照両眸  萬點の蛍光両眸を照らす
  回首水天同一色  首を回せば水天同一色 
  可中直見数星流  可中直に見る数星の流るゝを

實業卿 清水谷大納言余白
  玉と見ていけるを放つ川辺には 
   もえて流るゝ 水の蛍も

安居橋月
                     
持實卿 花山院大納言余白
  月白風清緑水長  月白風清くして緑水長し
  一天晴色満秋光  一天の晴色秋光満つ
  千年勝地不虚美  千年の勝地美を虚(むな)しうせず
  皓々相憐橋上霜  皓々相憐れむ橋上の霜

                    
通躬卿 中院中納言余白
  かけて世に仰く八幡のふもとゝや
   月もくもらぬ 前の川橋

月弓岡雪
                    
道恕 安井前大僧正余白
  天山既白月如弓  天山既に白(あけ)なんとして月弓の如し
  片々六花舞太空  片々たる六花太空に舞う
  巧弄化生神女手  巧みに化生を弄す神女の手
  暁来幻出水晶宮  暁来(ぎょうらい)玄出す水晶宮
   六花=雪の異称

                    
重條卿 庭田中納言余白
  くもりなき名にひかれてや雪も猶 
   光をみかく月弓の岡

橋本行客
                   
豊長卿 高辻大納言余白
  橋本郵程路遠哉  橋本の郵程路遠い哉(かな)
  乗傳冒暁共徘徊  乗傳暁を冒(おかさ)して共に徘徊
  玉虹衆客富多景  玉虹衆客多景に富む
  聚散若雲幾往来  聚散雲の若(ごと)く幾往来
   郵程=宿駅と宿駅との間の道のり
   聚散=集まったり散ったりすること

                   
惟庸卿 竹内三位余白
  きき渡る名のみ朽(くち)せて橋本の
   里はゆきゝの舟を呼ふなり

大乗院鐘
                   
基董 石山羽林中郎将余白
  向暁高楼日初旦  曙に向ひて高楼日初(はじ)めて旦(あした)なり
  緇衣井々寺前鐘  緇衣(しえ)井々寺前の鐘  
  乍従霞外紅音発  乍(たちま)ち霞外従(よ)り紅音発す
  吹下男山第一峯  吹き下る男山第一峯
   緇衣=僧侶

                   
實陰 武者小路中将余白
  寺の名もたかき御法の鐘の音に 
   誰長き夜の夢覚ますらん                        
(つづく)余白

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by y-rekitan | 2015-02-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第57号より-03 中村家住宅

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中村家住宅
国登録有形文化財指定
記念講演会の報告

2014年11月  安居橋の袂の大歌堂中村邸にて
( 寄稿 中村富夫 )


 11月9日(日)、午後2時より安居橋の袂の大歌堂中村邸において、国登録有形文化財指定を記念して、講演会を開催させて頂きました。
 講演内容は下記の通りです。
講演Ⅰ 「大広間の絵画(渡邊祥英作)の解説と鑑賞」
          講師 摂南大学 岩間香教授
講演Ⅱ 「中村家住宅の今日までの保存修理・補修経過報告」
          中村恵子(中村家住宅当主)
講演Ⅱ 「中村家住宅の建築的特徴と最近の保存修理工事報告」
          講師 (株)KOGA建築設計室 古賀芳智室長
 34名のご出席をいただき、文化財としてのみならず、八幡の歴史との関わりや景観保存と多岐にわたり興味関心を持っていただけたことに、この記念講演会開催の意義があったのではないかと考えています。
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*** 国登録有形文化財とは ***

 文化庁のパンフによると「平成8年に文化財保護法が改正され、新たに定められた文化財です。従来の文化財指定は、主に近世以前の建造物を中心に築年代の古いものから順次進められていましたが、多種多様かつ多量に残る近代の建築物は、社会的評価を受ける間もなく、近年の土地開発等により取り壊し等の危機を迎えていました。これを受け、一定の価値のある建造物を広く保護し、近代の建築物の有効かつ適切な保護と活用を目的として、登録制度は整備されました。緩やかな規制と保護措置を講じ、所有者の意思を尊重しつつ、保護の網をかける仕組みになっています。
登録基準としては、原則として建築後5 0年を経過したもののうち、

 ① 国土の歴史的景観に寄与しているもの
 ② 造形の模範になっているもの
 ③ 再現することが容易でないもの

の条件に合致するもの」とあります。
 中村家住宅は平成24年8月に登録されました。京都府内には現在449件が登録されています。

*** 中村家大広間の絵画(渡邊祥英作)について ***
(岩間香教授)

◎ 渡邊祥英の画系
 大正13年版の「現代書画家名鑑」によれば、渡邊熊治郎52歳大阪東区内淡路町二丁目渡邊祥益円山派と書かれています。昭和9年の「大日本書画名家大鑑」によれば、
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という画系になります。
祥英は父祥益に、円山派から派生した四条派を学ぶ、とも書かれています。祥英の作品は、一般の美術館にはないのですが、祥益の作品はネット上にいくつか紹介されています。また、同門の兄弟弟子にあたる日本画家上島鳳山や西洋画に転向した小出楢重の作品は高い評価を受けています。

◎ 大広間に残された襖絵「春丘図」を読み解く
 大広間の襖絵には、すみれ、レンゲ、つくし、タンポポの春の草花が描かれ、緑青をふんだんに使って描かれた丘の上には、子松(稚松)が数本描かれています。どうしてこの絵が描かれたのでしょうか。
この絵から連想されるのは「子(ね)の日の遊び」という習わしです。
「平安時代、正月初めの子(ね)の日に、宮廷では郊野に出て小松をとる習わしがあった。松は霜雪にもめげず、千年を経る木である。そこで松を引き、千代を祝ってそのあとで歌宴を張った。春のはじめの優雅な野遊びであった。」
 この襖絵が描かれた経緯はわかりませんが、この建物になぜこの絵があるか、その手がかりは歌に関係があるのではないか。建仁元年12月8日に催された有名な石清水社歌合「社頭松」が思い浮かびます。その中に、藤原定家の子為家作「男山今日の子の日の松にこそ君が千とせのためしをもひけ」と詠まれています。この襖絵が「社頭松」を意識して作られたかどうかは、今の段階ではペンディングです。
もうひとつ、興味深い事があります。襖絵がこの建物の東側に描かれているということです。伝統的な空間にある障壁画は、東側に描かれることがしばしばあります。現在、私の研究課題として調査中の京都御所にある清涼殿には、東側に春の風景が描かれています。
 では、清涼殿の東側にはどんな春の風景が描かれているかというと、作られた当時の絵はありませんが、その下絵が残されていて、そこには「小松引き」の風景が描かれています。同様に金刀比羅宮奥書院においても、東側の部屋に小松の絵が描かれています。
 この建物の襖絵に「小松図」を描かせた経緯はわかりませんので、ここでは指摘するに止めたいと思います。

◎ 上段の間の掛け軸「鯉図」を読み解く
 次に、床の間には巨大な鯉の掛け軸が掛けられています。一般の家では掛けることができない大きな掛け軸です。このような大きな画面におさめるには、相当な力量が必要です。円山派や四条派は好んで鯉の絵を描いています。円山応挙も鯉の作品を多く残しています。
 では、祥英はなぜ鯉の画材を描いたのでしょうか。八幡の皆様にはよくご存じのように、石清水八幡宮の放生会では、魚鳥を放し、天長地久・天下泰平を祈願する祭りが行われます。まさにこの祭りの時に、この掛け軸を飾ったものと思われます。お祭りの時には、掛け軸や屏風を飾る習慣があります。祇園祭の宵山の時の屏風祭が有名です。
 では、なぜこんな大きな掛け軸を描いたのでしょうか。長沢芦雪作の「白象黒牛図屏風」を見ると、巨大な白象と黒牛が描かれています。それぞれ普賢菩薩、天神の乗るり物動物であるので、祭りや儀式を意識して描かれた可能性がうかがえます。巨大な屏風を見せて、鑑賞者を驚かせることを狙ったのではないでしょうか。かつて大阪天神祭でも、家にある自慢の屏風を競って家の入口に飾って見せていました。上段の間に飾られた「鯉図」にも、そんな狙いがあったのではないでしょうか。

◎ 大広間全体がハレ
 尼野氏の別邸は非日常的な特別な空間です。折上げ格天井や上段の間といった造りの中で、襖絵には新春のイメージを描き、ハレの舞台を演出したものと考えられます。そして「石清水八幡」と「中村家の建物」と「2つの絵」を一体としてこの特別な空間は成り立っているのです。

*** 大正時代の数寄屋風書院建築大歌堂 ***
(古賀芳智室長)

 保存修理の設計管理を担当していただきました古賀様より、この建物の建築的特徴と保存修理工事報告をしていただきました。
「大阪道頓堀五座のひとつである弁天座の座主であった尼野貴之氏が大正6年頃から営んだ別邸のひとつです。大広間、西の間、旧主屋、上の蔵、門などで構成されますが、軸組等を詳細に見ていくと建築年代が同一でないことがわかりました。現在に至る経緯はまだ明確にできませんが、上の蔵に大正6年の棟札がかかっており、全体の意匠から見て大正初期から後期にかけて整備されたと考えられます。
大広間は吹寄せ折上格天井に上段と書院の間を備えた格式の高い造りで、男山を借景として、庭側の柱を極力省略した大胆な構造を持つ近代和風建築です。小屋組は太い松丸太を井桁に組んで、束と母屋で屋根を形作る典型的な和小屋形式で、数本の桔木(ハネギ)が広縁を含む深い軒の出を支えています。実質的に大広間全体の屋根の荷重は、室内の柱4本で支持する構成となっていて、この大胆な構造により、眺望を満喫するための開放的な空間を見事に実現しています。
 今回の改修は、①瓦葺きを空葺き工法(葺土なし)に改め、建物自体の荷重を軽減、②部材の腐食及び梁材の亀裂等の改修・補強、③歪みの矯正と床組の更新、④玄関廻りの意匠修復と水回りの整備を中心に、大広間と主屋に限定して、意匠性の修復と保全、構造耐力の向上を目的に改修工事を行いました。」
私自身、今回初めて間近に建物の保存修理の現場を見ることができました。大広間全体を4本の柱で支え、よくも今に残っていることに驚嘆させられました。太い梁が使われている格天井裏側の複雑怪奇な小屋組も見ることができました。床下や屋根に断熱材を敷いてもらいましたので、外部からの寒気や暖気を防ぐことができ、水回りも整備されて、住環境は現代風に改善しました。

*** 繰り返された過去の修理・修復の歴史 ***
(中村恵子当主)

 私の家内の方から、先代達や自分自身の経験を踏まえて、半世紀にもわたり中村家住宅の修理修復を行ってきた経緯を報告しました。(以下は、文責中村恵子)

 過去における主な修理・修復経過報告は、簡潔にまとめますと下記の通りです。ただし、主なおおがかりな工事のみで、ごく小さな修理・修繕は含まれておりません。
f0300125_0375996.jpg
 まず、第1期ですが、約50年間空家状態であった別宅を一般住宅として住むために6年の歳月をかけて順次修理していきました。そして第2期では修理が不可能と判断されました東側半分の建物を取り壊しました。この1期、2期の修理・修復は私の母によって遂行されましたが、その修理・修復内容は、実に幼稚でお粗末でありました。建物全体を調査することなく、無計画な行き当たりばったりで、普段の生活が出来るようにするだけで、現状で使用できるところはなるべく残し、傷んでいる箇所を修理する、といったその場しのぎの作業を何十回と繰り返したため、つぎはぎ的な修理となってしまいました。建物にとって重要な構造上の知識を知らずに行ったためでありました。当時を思いおこせば、とても残念で無駄な出費もかさみ、「もう少しベターな方法はなかったのかな」と後悔な思いでありました。
 したがって、今回の第6期の修理・修復過程においては、過去の失敗を繰り返すことなく、専門家及び学識者による確固たる調査結果に基づいて、私も主人も建築学、環境工学の知識を学び、自ら積極的に保存修理を実施し、構造上も問題のない美しい景観をよみがえらせました。
 今後は日常的な管理や手入れを念頭に、専門家による調査結果をベースに入念な計画書を作成し、またどこから修理すべきかPriority Setting、優先順位を付けて行っていくべきであると考えています。
 また、文化庁発行のパンフレットには『登録有形文化財建造物は、活用を重んずる文化財です』と記載されていますように、その活用方法、利用方法は多種多様です。もちろん一般の個人住宅として普通に生活されているお宅も多くあります。身近なところでは京都府庁のHPから検索していただきますと、聞き覚えのある旅館(俵屋)、料亭(磯松、順正、鮒鶴)、カフェ(フランソワ喫茶店、ノアノア)、記念館(キンシ正宗)、迎賓館(松本酒造)、ギャラリ-(中小路家)として上手に活用されています。
 将来の展望としまして、この大歌堂中村邸を有効に活用しながら、地域の歴史的建造物として、地域に密着して、地域の皆様に愛されながら、後世に継承していきたいと考えています。

*** 文化財を保存・継承していくための今後の課題とは ***

 弁天座の座主であった尼野貴之氏が安居橋の袂に別邸を建てた経緯は明らかではないが、大広間に残された襖絵に描かれている春丘の子松や草花、「大歌堂」と書かれた扁額から推測すると、男山の東山麓を借景とするこの大広間で催される歌会等の催物への招へいが、最高のもてなしとなっていたと想像されます。尼野氏の交友関係について、また祥英の襖絵や鯉の掛軸が残されている経緯については今後の大きな課題で、八幡の歴史とも関係し、またひも解く謎として、今調査の真っただ中です。
 歴史的経過視点に立てば、この八幡地区は石清水八幡宮との関わりで形成されてきたわけで、平安時代後期から平成の現在に至るまでのその時代々の足跡が、この八幡地区に存在しているということです。
したがって、それらをどのように発見・保存・継承していくかは、今私たちに課せられた課題ではないでしょうか。

*** アンケートから ***

興味深いお話を聴け、楽しい時間を過ごさせて頂きました。襖絵一つにしても、深い意味が含まれている。鯉も円山派の重要な要素であるとわかり、これから絵を見たり襖を見たりする楽しみが増えました。
借景が見事。この借景を眺めて研究会ないし酒宴を開けば最高!
修理改修が重ねられ、大変だったと思います。これからも文化財として大切に守っていって頂きたいと思いました。貴重な講演を有難うございました。
八幡の景観を守っていって頂きたいと思います。
八幡に中村邸があることを今日知り、いつまでも残していきたいものと思いました。大変な苦労と思います。市民の一員として、いかに協力出来るかを私達も考えたいと思います。

 皆様方より貴重なご意見を頂き、ありがとうございました。 (寄稿者中村富夫)


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by y-rekitan | 2014-12-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第41号より-01 安居橋

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わが心の風景・・・(14)
安  居  橋
所在地 八幡高坊


 f0300125_22435760.jpg江戸時代の放生川には多<の橋があり、川上から五位橋、安居橋、六位橋、高橋という順に架かっていたと記録に残っています。現在名前が残っているのは、安居橋のみとなっています。
 安居橋という名の由来は、五位橋架橋後だったことから、相五位橋といわれ、これが変化して「安居橋」になったのではないかと『男Ш者古録』は記しています。
 「安居橋の月」は八幡八景のひとつで、歌人柏村直條は「神わさにつかふる雲の上人も月をやめつる秋の川はし」と詠んでいます。
 欄干には十二の葱宝珠がある優美な反り橋安居橋は、その昔は平らな橋でした。今日のような反り橋になったのは、いつの頃か定かではありません。中央の張り出した舞台のようなものは、放生会がこの川で行われていたときの様子を再現しようと、昭和50年9月の架替え時に新たに作られたものです。
 安居橋は、上津屋の流れ橋とともに八幡市の名物橋となっています。
 (絵と文:小山嘉巳 )

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by y-rekitan | 2013-08-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第33号より-03 墓石をたどる①

シリーズ「墓石をたどる」・・・①
墓石をたどる

 谷村 勉 (会員)


 八幡の古文書を見ますと本頭神人や社士という文字が出てきます。八幡宮の放生会や安居祭りに奉仕する人々らしいのですが、僅かな手掛かりから『八幡市誌』や『男山考古録』等を調べてゆくうちに徐々にその意味もわかってきました。八幡宮については、かなり以前から寺社縁起や『古今著聞集』、『梁塵秘抄』、『今昔物語』等を通じて世間一般的なことは理解をしていましたが、時間に余裕ができて以来、もっと身近な歴史を知りたいという欲求からごく最近、「八幡の歴史を探求する会」に入会しました。

 9月例会報告の「八幡歴史カルタ」文字札選定の中で、

    [な] 直條の願いかなって八幡八景

 の読み札がありました。

 直條とは、社士柏村直條のことで、八幡宮の神職の傍ら連歌の道を学び、八幡山上山下の名所八景を選んだ、とあります(『南山城の俳諧』)。「八幡八景連歌発句絵巻」(八幡宮所蔵)によれば、雄徳山松、極楽寺桜、猪鼻坂雨、放生川蛍、安居橋月、月弓岡雪、橋本行客、大乗院鐘の配列になっています。また、「八幡八景連歌発句集」(八幡宮所蔵)では、色紙に金砂子を散らした豪華な料紙に一句ごとに作者が揮毫した一巻が残っています(前掲書)。

 会員の方々との対話や資料を頂く中から多くの理解が進み、会員の皆様には周知のことであっても、私にとりましては新しい発見であり喜びでありました。
f0300125_23113357.jpg 先日、ある人から柏村家の墓が番賀墓地にある由を聞き、早速確認に行きました。柏村家の墓石が整然と並んでいました。最近は奥都城(おくつき)として纏めて祀られることが多くなりましたが、戦前までは神職の墓は一人ずつ、あるいは夫婦ごとに立っていますので直條の緑石の墓石も確認(元文五年庚申五月九日)でき、思わず二礼二拍しました。

f0300125_10777.jpg 松花堂昭乗研究会の中で、昭乗の門人に中村久越なる人物が出てきましたが、久越子孫の久斎記念碑(謡曲の門人達が建立)が神應寺墓地にあるのを思い出しました。久斎自身の墓石は中ノ山墓地にありますが、久越の墓石はありませんでした。おそらく八幡のどこかにあると思いますが、運良く発見でき、碑文でもあれば紹介したいと思います。

 八幡郷土史会の会誌『ふるさと』第27号に、土井三郎氏が「橋本等安と連歌」と題して寄稿されていますが、その中で、橋本にある社士落合氏、橋本氏、山田氏の墓石が紹介されていました。橋本の社士の墓石はこの堂ヶ原墓地とそれより西、中央信用金庫に近い道路沿いの西遊寺焼野墓地にも片岡氏の古い墓石がありました。 私も暫くお墓詣が続きそうです。


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by y-rekitan | 2012-12-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第20号より-01 八幡八景

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《講 演 会》
八幡八景の成立
― 2011年11月  松花堂美術館本館にて ―

京都府立山城郷土資料館   伊藤 太


 11月17日(木)午後1時半より、京都府立山城郷土資料館の伊藤太氏に、上記の演題でご講演いただきました。 編集者の責任で要旨のみにしぼってその概要を報告します。

1、八幡八景とは何か

 日本各地に八景と名のつくものは多数ある。中でも有名なものは近江八景であるが、八幡八景は、近江八景を真似たものではない。八幡は、連歌がさかんな所であった。八幡八景は、連歌が盛んな土地柄であるが故にうまれた文芸であるといえる。

2、八景とはそもそも何か

 近江八景の例で説明したい。安藤(歌川)広重の錦絵に、近江八景がある。矢橋の帰帆、粟津の晴嵐など八つの風景画であるが、絵の端に和歌が書かれている。つまり、昔の八景は詩歌がつきものであったのである。むしろ詩歌が中心であったことをまず認識してほしい。
八景のルーツは中国に在る。瀟湘八景がそれで、中国の長江の中流域の湖南省で、支流である瀟水と湘江が合流して洞庭湖を作るが、その辺りの景色を水墨画にし漢詩に詠んだものである。

3、瀟湘八景と日本への伝播

 瀟湘八景は今から1000年程前に生まれた。これが東アジアに広まり、やがて日本にも伝播する。それは鎌倉時代初頭のことである。鎌倉・室町の武家政権は禅宗文化を積極的に取り込むが、瀟湘八景もその流れの中で入り込んだといえる。
ことに、足利義満の時代、唐物といって当時の中国の第1級の文物が輸入される。そんな中の一つに牧谿の瀟湘八景図である「漁村夕照図」がある。そのテーマは遠浦帰帆、山市晴嵐、漁村夕照、瀟湘夜雨、洞庭秋月、平沙落雁、江天墓雪、煙寺晩鐘である。

4、八幡八景の発句の作者など

 元禄7年(1694)に制作された「八幡八景連歌発句絵巻」の句と作者を紹介したい。
<第一景>雄徳山松 
  みをきかぜ松やかすまぬおとこ山   里村昌陸
<第二景>極楽寺桜 
  かの国とこころさらでも花の庭    里村昌純
<第三景>猪鼻坂雨 
  雲霧もなが坂くだるながめ哉     里村昌憶
<第四景>放生川蛍 
  なつかはもいけるをはなつほたるかな 里村昌築
<第五景>安居橋月 
  河橋やのぞむたぐひもなつの月    里村周旋
<第六景>月弓岡雪 
  つもらせてゆきにこゑなし岡の松   里村玄心
<第七景>橋本行客 
  けさはしもとけし跡ある往来かな  直能(柏村直條の父)
<第八景>大乗院鐘 
  かねのこゑにしよりすずしふもとでら  宗得(直條の祖父)

 里村とは、幕府御用連歌師里村家のことで、柏村は石清水八幡宮の神職にあった者である。その成立の事情は、里村昌陸の序文と里村昌純の跋文(後書き)を読めばわかる。
要約すると、柏村直條の父直能は連歌の外に牡丹作りで有名で、その縁で宮中の霊元上皇に名を覚えられるまでになった。また、直條は「大和・もろこし」の例にならって男山の八景を和歌に詠み、有栖川幸仁親王にそれを見せた。すると、上皇の覚えが大層よく、連歌の発句を撰集することを思い立った。そのことを里村家の者に伝え、それが了承されて発句ができたということである。その際、直條は、自身の父である直能だけでなく故人であった祖父宗得の句も載せたのである。
 f0300125_21212788.jpgつまり、元禄7年に成立した八幡八景発句は、石清水の神職にある柏村直條の呼びかけで柏村家と里村家との合作のもとでできたもので、元は和歌をものしたというのである。その際、「もろこし」=瀟湘八景と「大和」=南京(奈良)八景を見本にしたということである。
和歌と発句ばかりではない。漢詩編もある。八幡市内のある旧家からそれがみつかった。その背景についてはまだ謎の部分があるので、地元の研究会の皆さんで是非解明してほし い。
(記者:土井三郎)
              
※「俳句」と「発句」について

 当日「昭乗北野吟行俳句」と題するチラシを配布しました。これは八景と石清水の文芸との関連を参加者とともに考えてみたいという主催者側の意図で、まちかど博物館に特別に依頼したものです。この「俳句」という言葉について伊藤氏は講演の中で、江戸時代には使われていないもので間違いであると指摘しました。ただし、「昭乗北野吟行俳句」はチラシ作成者の命名ではなく、引用した昭和年に発行された文献の筆者が「俳句」と云う言葉を小論の中で使用しており、そのまま引用したものであることをお断りしておきます。      ――編集担当より

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by y-rekitan | 2011-11-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第20号より-02 八幡八景解読

八幡八景解読奮戦記

安立 俊夫 (会員)



 八幡八景といえば数年前に市主催「八幡ものしり博士」第一回の検定テストに際して、必死に覚えた記憶があるくらいでした。そのときは確かすべて頭の中にあったはずですが、中身はすでに忘却のかなたに・・という状況です。この八景が市制5周年を記念して選定されたことは当時の検定テキストを開いてあらためて確認したことでした。
 例会で八幡八景が伊藤さんによって取り上げられること、それに先立つ会報19号で大田さんが寄稿された八幡八景についての「ルーツを探る-伊藤さんの講演に期待!」を目にしたことにより、おっとり刀で、瀟湘八景、南京八景、近江八景ということを知り、すこしは伊藤さんの講演前に予備知識を得ておこうという意識はありました。
 今回の八幡八景漢詩編との格闘の始まりは、古文書仲間の秋季近江への小旅行における長命寺での「五榜の掲示」ではなかったかと思います。そこではじめてその立て札を見た誰もが珍しいものを発見したという興奮と、現地の方すら未だ読み方も知らないということで、一生懸命解読に取り組んでおられました。私はこの小旅行には参加しませんでしたが、その日のうちにO氏からのメールで立て札の写真をいただき、日付から明治維新の五ケ條のご誓文の直近であること、太政官という名が実際に使われたのはごく短い期間であること、非常に札の保存のよいことなど、知っていることをフル回転させて返信などしたものです。
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 あに図らんやこのO氏より、これは「五榜の掲示」というもので、実は先年訪れた、八幡旧家にもあった。写真もこのとおり撮っていたと指摘されました。“鱗”が落ちました。後で聞くとこの頃は高等学校の教科書にもこのことが記述されているようです。
 かくのごとく、自分にとっては初めてのことでも、殆んどのことは既に先人が調べ、記録、発表しているのが実際です。
 そんなときにD氏から、旧家に八幡八景の漢詩編がある。「五榜の掲示」も再度確認もできると誘われ、O氏と三人で訪れました。
 写真で見せていただいて、まだ解読されていないこと、由来等も明らかでないこと等を告げられ、己の恥と無能力を忘れ、また、O氏以下の強力な助っ人に頼ることを前提として、ぜひ解読したいという興味に駆られたのは、こんどこそはまだ誰もが手をつけていないものに、先鞭を付けられるというもっとも喜ばしい事態におかれているかもしれないという素人の浅ましさからです。
 当日D氏に教えられた、八幡八景に関する記事が載っている、山城郷土資料館発行の『山城の俳諧』という冊子を翌日早速求めました。幸い600円という安価で出されておりました。もっとありがたかったのは、その日資料館で、館員の方に、常設展の説明を私一人でも良いからと懇切丁寧にしていただいたことです。山城全体の歴史を概観する上で非常に有意義でした。
 所持者宅で撮らせていただいた写真で読もうとしましたが、読みづらくてこれは大変だとあきらめかけたところへ、D氏の下に所持者より非常に鮮明な綺麗な写真が届けられ、しぼみかけた挑戦魂をくすぐられました。
 漢詩編という以上いうまでも無く漢詩です。漢詩といえば五言絶句か七言絶句という言葉程度しか知らない状況での挑戦です。まして元禄九年です。使ってある漢字は今まで見たこともないような難しい字で、仮に辞書に似たような字があってもなかなかこれだとは言いきれません。
 そんなおり、たまたま私が参加したNHKの古文書スクーリングで知った上方の江戸積み酒造家が、伊丹の小西家(白雪)でその古文書展が開かれるとのことで、E、D、M、O、T各氏および私は伊丹へでかけました。
 「米の来た道」と題されたで2回目の展示らしかったのですが、古文書“愛好家”にとって内容・文書ともそれはすばらしいものでした。そこで、持参した□(判らない文字を□であらわす習慣)だらけの漢詩の解読会を開かせていただきました。
 皆さんの熱心さに意見百出、時間の経つのも忘れて、気がつけば我々だけが広い食堂を占領していました。想像してみて下さい。大の大人六人が周囲の迷惑をはばかることなくまるで大学祭の出し物について議論百出しているような騒がしさを。
 売店で、古文書記録をもとに“元禄と慶応”の作り方によって仕込まれたという2種類の“白雪”を、望(忘)年会持込用に購入しました。
 その後何度もメールのやり取りを行い解読に挑みましたが、全ての文字が埋まったところで、我々の限界ということで、一応読めたことにして所持者へも報告させてもらいました。
 話はこれでは終わりません。漢詩を読み解く上でも、資料館で求めた『山城の俳諧』の八幡八景の中で概要は記述されているが、釈文が掲載されていない、二つの連歌集及び序・跋文、並びに『柏亭日記』について是非全文を正確に読んでおく必要があると思い至りました。
 和歌で詠まれたイメージと漢詩のイメージとよく似たものが多くあって当然という理由から、漢詩の読み解きに少しでも役立てばということもありました。また、『柏亭日記』は元禄9年のもので、まさに漢詩編が編まれたそのときのものです。直條が日記に記したことは十分あり得ることで、非常に興味のあるところです。
 T氏、O氏に殆どオンブにダッコ状態でこれも相当数のメールの交換の後ようやく今度は漢詩編とは異なり、ほぼ正解に近いものが出来上がったのではと喜んでおります。
途中M氏は目が不自由ななか、細かい印刷物を天眼鏡で覗いていただいて、せっかく快方に向かっている目をいためられなかったか心配です。しかし、指摘事項は的確で助かりました。
 E氏ご指摘の“皃=顔・貌(かんばせ)”には脱帽でした。
その他沢山落ちた“鱗”のいくつかを紹介しておきます。“鰥寡”=年老いて妻の無い男性、夫の無い女性ー(五榜の掲示)。“悳”=徳。“しゅう燿”=蛍の別名。使われている印影も大事に扱い、できる限り解読に努める。“筑波の道”=連歌の異称。“霞の洞”=上皇の御所、仙洞。“もしほ草”=藻塩草、随筆手・紙筆・記などをいう。
 漢詩編の文字の解読は少しは出来たものの、和歌については伊藤さん提示の史料はほぼ理解できましたが、肝心の漢詩の読み方、意味についてはほとんど理解不能の状態です。今後の課題として時間をかけて探求したいと考えております。とりあえず期待1杯の伊藤さんの講演を拝聴する一応の準備はできたものとして私の挑戦は一区切りとさせていただきました。
by y-rekitan | 2011-11-28 11:00 | Comments(0)