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◆会報第82号より-02 森本家文書

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《講演会》
森本家文書からみた
近世石清水の神人構成と身分


2017年10月 八幡市文化センタ-第3会議室にて 

竹中 友里代(京都府立大学特任講師)

 
 10月15日(日)、午後1時30分より、八幡市文化センター第3会議室にて「講演と交流の集い」が行われました。表題のタイトルで京都府立大学の竹中先生に講演をしていただきました。先生は以前に八幡市教育委員会文化財保護課に勤務され文化財保護行政に当たられましたので、八幡市の文化財には精通されています。
 概要を以下に紹介いたします。当日の参加者は47名でした。


1.森本家文書 六位禰宜

 f0300125_15372114.jpg今日は江戸時代の石清水でどんな神人がいて、どんな仕事をしていたのか身分的なお話をしたいと思います。
 森本家文書については一昨年府立大学の学術報告書に掲載していて、インターネットでも見ることができます。興味のある方はご覧ください。
森本家というのは森という所を本拠地としています。
森町
男山考古録に「山路郷 檀所町の東 当地の一所森にありて、その名負いけん、今も当所の居住の社人に森本・森元なと称せり」とあり、立田牧場があった場所が森本家の屋敷跡と聞いています。
森本信魚については、「尚次若かりし時、当町森本信魚師として神道を学び道開く」と考古録の著者長濵尚次に指南した先生であったと記されています。1700年代の中頃に描かれた石清水八幡宮全図を見ると森町には多くの寺庵があります。徳川家康から朱印状を頂いている、浄土宗36ヶ組寺としては、観音寺、奥庵(大禰宜能村仲民建立)・玉樹院(森本三郎兵衛建立)・薬薗寺・瑞光寺等がみられますが、その内の薬薗寺については森本家と柏村家が寺の経営に関わるなど、江戸時代中期頃までは寺の建立にも多くの神人が関わっていました。
森本家25代信富(のぶあつ)は、自宅を森本蚕桑館とし、養蚕の研究を行い、明治23年養蚕伝習所委員となり、南山城の養蚕導入に尽力しました。なお、信富の養父信德時代に姓を森元から森本に統一しました。
森本家の文書は52点(神道伝授・祝詞・その他)が確認されていて、特筆されるのは石清水八幡宮補任状で16点が残っていて、その殆どが檀紙(縮緬様の皴がある)で格式の高い紙質です。

2.公文所

公文所とは公的文書を保管・処理する役所ですが、石清水では、天慶2年(939)三綱が設置され、それを公文所のはじめ、としています。
公文所は所司の三綱(上座・寺主・都維那)の上座に位置し、室町時代以降は上野家が代々勤めています。
年中行事・遷宮・将軍社参等の奉行を務め、山上山下僧俗諸神人の執頭であり、補任状交付や成文での神人召請、神人装束の管理を行ない、正月には立松飾・注連縄飾を行っています。
宮寺の公印、いわゆる「正印」は行教自作とされ、行教の身体と同じとして神格化され、将軍や尾張家に献上する祈祷神札には正印が使用されています。
正印は頓宮殿厨子内に保管され、祭列では御正印唐櫃として参列します。
補任状に押されている正印の数を見ると天正元年27顆、寛永11年8顆と中世の書式を踏襲したものから、寛文5年頃には正印1顆となり次第に近世的に様式化していく様が窺えます。
公文所は現在の石清水八幡宮五輪塔(重文)の南辺りにその跡地が記されていますが(石清水八幡宮全図)、寛永9年頃に倒壊したため、当時の田中家の東隣辺りに移転し(石清水八幡宮境内図)、そこで政務をとっていたと思われます。
上野家には、院専―院玉―‥‥―院秀―院芳―紀清慶(慶応4年の維新時に復飾)が確認されている。代々「院」を通字にしています。


3.石清水の外他領神人

 近隣自治体からも久御山、交野市、城陽、京田辺(駕輿丁・御綱曳・御前払・火長陣衆・駒形‥)の神人が奉仕しています。
 石清水坊領として内里村横坊30石、寺田村閼伽井坊15石、鴨川村公文所14石の所領があり、中世荘園の神領として古来より奉仕を通して石清水との関係を継続してきました。
勅祭奉仕では、百姓身分では許されない装束を着用し、村社会で特化した地位を示すことができました。
 具体的な一例として松井村の袖旗神人(御旗神人)の場合、祭礼に際して三韓征伐、神功皇后の袖を袖旗神人の長が箱に入れて奉じ、諏訪ケ原(諏訪明神勧請)で採取した榊を持って長の前後に従っています。(交野市教育委員会『石清水八幡宮放生会絵巻調査報告書』)
 松井村には、氏神の宮座(大座・新座)のほかに八幡座があり、御旗神人が石清水の祭礼奉仕後に、八幡座の頭屋の床の間に神饌・掛軸を、庭には「オヤマ」と称する(オハケ)を飾り、祝詞・拝礼をした後に直会となります。勅裁奉仕した後、村方でも祭祀を行う興味深い事例です。

 他領神人の補任状「宮寺符」は以下の時期に交付されます。
放生会(8/11)、安居神事(12/11)、御神楽(11/2)などの祭礼参勤時。
本社遷宮儀式の際。(元禄6年9月26日、安永7年7月22日)
 元禄6年9月19日には儀式の事前に社務新善法寺晃清による正遷宮儀式参勤命令、公儀普請の為検校による命令書として「宮寺政所下文」等が出されています。 
さらに不定期には家督相続の際にも交付されています。

 
4.石清水神領居住神人

 神宝所神人(神庫の管理、菖蒲革献上)・宮工司(大工)・仕丁座・宮守・神楽座・安居百姓等があり、特長としては徳川家康領知朱印状を持つことがあげられます。慶長5年5月25日付けで361通の領知朱印状が安居神事勤仕を条件に大量に発給されましたが、これは全国的にもめずらしい事例です。
 朱印状所持の神人が安居神事の頭役を勤めることになりますが、安居神事頭役には①宮寺符・安居頭役補任、②安居頭役差定「小差符」(命令書)、③堂荘厳宝樹預差定「木差符」(ご神木の許可) の3種の補任状が出されます。
 駕輿丁美豆下司神人の大森家には、家康朱印状6石8斗や補任状(寛文5~文政12年8通)、文化5年美豆村西堤で行倒人届、天保14年諸商人商物値段書(天保改革による諸品の値下げ)、町法度倹約之事等の古文書が伝わっています。
 八幡宮外四郷の内、大坂(京)への街道沿いの淀大橋の橋詰にあった美豆村は、元美豆村から町美豆へと発展しましたが(石清水八幡宮全図)、大森家は村の年寄として、村政に関わる神人でした。

5.六位禰宜

f0300125_16433735.jpg 森本家は、朱印状源左衛門6石9斗8升ですが、別家に朱印状与次郎48石7斗6升があり、役割として神前瑞垣の内で神官を補佐していました。
 同様に神官を補佐する四座神人(他姓・六位・大禰宜・小禰宜)の内、大禰宜の能村氏は「放生会の時、御こしの戸口を符申候御倉の鑰(かぎ)の役」、小禰宜の奥村氏は「御供を宮守より請取、六位他姓へ渡申、神輿をかさり申候御役人にて御座候」とあり、宮守が用意した神供を禰宜から受取り神前に供える役割を担っていました。
 
 神道伝授について、明和9年(1772)白川伯王家神道門人の小川玄蕃より、鳴弦の儀が森本家に伝授されています。
 また寛政4年(1792)武末霊社(社務田中要清)百年忌に際しては、吉田神道家吉田良倶より三壇妙行の神道儀式を伝授された田中養清に森元信良が従っており、森本家が神道祭祀に詳しい家であることが判ります。
 信恵(信魚)は天明8年(1788)新賀差定により神職神人身分を得、翌寛政元(1789)斎服免許を受けました。また文化14年(1817)息信邑へ家督を譲るに当り社務検校善法寺立清・田中家・新善法寺家へ挨拶と進物を行っています。
 公文所・兼官からは公文所安居頭人補任状(宮寺符)、斎服免許状〈裃着用にて受取る〉、社務(長吏)の袖印を受け、検知の紀直養からは新賀差定を受けて、神官としての神人身分の証を得〈狩衣着用にて受取る〉、放生会・御神楽・遷宮では神官系神人として勤仕しています。嘉永6年の放生会においては森本内蔵助・駿河一・二の鳳輦御太刀持ちをしています。

6.検知 

 神官三家(俗別当・神主・検知)は、紀氏が世襲し、鳳輦にそれぞれ供奉します。
 神前での祝詞奏上を三家が行います。
 俗別当家は慶安5年(1652)以降徐々に衰退していったようですが、詳しくは俗別当家の文書が出てきていないのでよく判りません。f0300125_1741196.jpg
 検知家代々としては紀朝臣検知氏家―検知大夫紀宿祢豊親―公豊―土佐守紀季豊―土佐守紀豊高―若狭守紀豊房―従五位下若狭守紀直養(正四位下近江守紀朝臣直養)―従五位上筑後守紀豊興が確認できます。
 補任状交付の謝礼金が収入源であり、豊かな神人からの援助もあったようです。

7.神官系神人の系譜と身分構造

 僧形の社務検校が神領全体を支配しますが、別当が検校補任によって当職となり、三家廻職により将軍代替り毎に交替します。
 石清水の役所としては所司という事務方が存在し、以下の構成となっていました。
 ・公文所:僧官の上野家が担当。
 ・絵所:僧官の藤木家(善法寺家の家臣)が担当。
 ・判官:俗官の片岡家(田中家の家臣)が担当。
 ・御馬所:俗官の今橋家(新善法寺家の家臣)が担当。
 ・巡検勾当:近世には俗官の小笹家、花井家、片岡家などが担当。
 また検校に付属する兼官の職があり、訴訟や幕府からの触れや事務連絡の窓口となり統治の実務を統括していました。藤木・片岡・今橋家が勤めましたが、社務家家臣、判官などの事務方や検校の秘書的役割を兼ね、検校交代と同時に兼官職も交代しています。
8.むすびにかえて

 公文所からは宮寺符の補任状、検知からも新賀差定・補任状等が交付され、神人が勤仕する儀式・補任状の種別によりにより、以下の神仏の身分的分別がありました。
僧侶系:別当・権別当修理別当 四十八坊‥‥承仕
公文所 安居本頭神人・安居脇頭神人・安居百姓‥‥他領神人
神官系:俗別当・神主・検知 四座・宮守…仕丁

 文化9年(1812)長濱尚次が本殿修復作業に着手する儀式で祭文を読み上げましたが、若干19歳の尚次に大工棟梁としての祭文作成や祭儀の次第等の手ほどきをしたのは森本家でした。森本信德は明治に入って神仏分離の困難な時代に主典として八幡宮の再生に尽力し、また森本信富は南山城に養蚕事業を導入するなど、森本家も代々八幡に大きな足跡を残しました。
以上 (文責 谷村勉)一一


『一口感想』より

今日のお話にもとづいて、神幸之図を見てみたいと思います。
(B.K.)
江戸時代八幡森に足跡を残した人がいたことがわかりました。私が住んでいる所が家田町、田中町の東となりです。もしかしたら、公文所のあった場所の上に私の家が建っているかも知れません。勅祭のこともわかりました。今は神人役がいないので大変です。八幡のことを再発見しました。用事が重なり参加出来ないことが多いですが、時間が空けば勉強させていただきます。
(T.M.)
今日のお話はちょっとむつかしい。また、ちがう切口、観点でお話が聞きたい。有り難うございました。
(K.T.)


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by y-rekitan | 2017-11-27 11:00 | Comments(0)

◆会報第56号より-02 中世大山崎

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《講 演 会》
中世大山崎の商業活動について

2014年11月  松花堂美術館講習室にて

福島克彦 (大山崎町歴史資料館館長)

 11月12日(木)、松花堂美術館を会場に、11月例会「標題の講演と交流の集い」が開かれました。歴史教育論をふくむ軽妙洒脱なお話に引き込まれる2時間半でした。そして、史料をもとに具体的にお話され、事実は小説より奇なりを実感する講演会でした。当日配布されたレジュメをもとに、その概要を紹介しますが、今回はできるだけ臨場感を持たせた紹介を試みたいと思います。参加者は33名。

はじめに

 大山崎油売りをめぐって二つの誤解があります。
 その一つは、大山崎には中世より「油座」があったというものです。ところが、鎌倉・室町時代には「油座」という表記がありません。油売りは大山崎神人という身分によって、その特権が守られていたのです。ちなみに、「油座」は豊臣秀吉が初めてそれを使用したことが文書で残っています。
 では「神人」とは何か。大山崎の神人は、離宮八幡宮の神人であるとともに、石清水八幡宮の神人でもありました。油の生産・販売を担っていた人たちですが、たんなる商人ではありません。石清水八幡宮なり離宮八幡宮の神に仕えるという理由で特権を要求する。そして特権を守るために神社に立てこもって(閉籠)、流血も辞さない。神社の側にとってそのような穢れは断じて許されない。それを見越して自らの要求を通そうとするのですから、したたかな存在でもあります。
 大山崎の神人は、名字を名乗り、秦や源、菅原の姓(カバネ)を持つなど身分は高いのが一般的です。そして、離宮八幡の神人であると同時に酒解神社の神職を兼ね、荘園の現地経営にも携わる。また、守護大名の被官でもあるといったように身分を使い分け、自らの暮らしを高めていきました。f0300125_1332586.jpg
 もう一つの誤解は、斎藤道三が大山崎の油売りであったというものです。司馬遼太郎の『国盗り物語』の影響で広がったようですが、岐阜県市編さんにかかる『春日文書』によれば、斎藤道三は美濃出身の武士で、父親が京都出身であったということです。あるいは、道三の父親が商人として油販売に関わっていたのかもしれません。
 以下、油売りに関する史料から、鎌倉・室町時代の大山崎の商業について考えてみたいと思います。

1 『離宮八幡宮文書』という史料

 貞観元年(859)に行教が国家鎮護のため、八幡神を山崎の地に勧請するということで成立したのが離宮八幡宮です。その後、男山にも遷座され石清水八幡宮になりました。それらの記事は『御遷座記録』などに記載されています。
 さて、『離宮八幡宮文書』という史料があります。現在、離宮八幡宮に所蔵されている中世、近世、近代の文書類で、大半が重要文化財です。貞応元年(1222)12月「美濃国司下文」が最古のもので、この頃から文書を収蔵したようです。その数320点強。中世の油販売や祭礼、都市行政、禁制などが収録されており、特に商業史料としては第一級の史料群といえます。

2 油販売の特権を示す史料

 『離宮八幡宮文書』の中で、まず油販売の特権を示す史料を紹介してみましょう。

(1)関所などの通行料を免除する文書
 中世は、交通網、ことに水路におびただしい数の関が設けられ、舟運にたずさわる者は関を通過するたびに関料や津料を支払わされていました。その場で荷を積み上げたり、積み変えたりする場所賃という意味合いもあり、支払わざるを得ない仕組みがあったのです。しかし、舟運関係者としてはできるだけ払わなくて通過したいものです。そこで、権力者の力をもって、通行料を免除する方策を考えたのです。具体的に史料を見てみましょう。

【史料1】足利義詮袖判御教書
   『離宮八幡宮文書』文和元年(1352)
        (足利義詮)
        (花押)

 八幡宮大山崎神人等申す、内殿御燈油荏胡麻(えごま)等諸関津料のこと、
右摂津国兵庫嶋、渡邊、禁野、鵜殿、楠葉、大津、坂本等関務輩、先例に背き、違乱をなす云々、はなはだしかるべからず、早く代々勅裁ならびに正和三年武家御教書に任せ、固く停止せしめるべくの状、下知件の如し、
  文和元年十一月十五日
 「袖判」とは、文書の袖(右側空白部)に花押(サイン)を書いたものです。足利義詮は尊氏の嫡男で室町幕府第2代の将軍です。「八幡宮大山崎神人」は離宮八幡宮の神人であるとともに、石清水八幡宮の神人でもあります。「内殿」は石清水八幡宮を指します。
意訳すれば、以下のようになります。
「石清水八幡宮に献上する御燈油をお運び申し上げるのに、兵庫嶋(神戸市)や渡邊(大阪市)、禁野(枚方市)、鵜殿(高槻市)などの関所の連中が先例に背いて関料・津料を払えといっている。これはけしからんことである。代々の勅裁(天皇からの命)、あるいは正和三年の武家御教書(鎌倉将軍の命)の通り、そういうことは固く停止(ちょうじ)すべきものである」
 ここでおもしろいのは、室町幕府自らの命令であることをストレートにいわず、先例=勅裁(天皇の命令)や鎌倉幕府の命令を持ちだし、そのことで権威づけているということです。室町幕府が出来て間もないころの事情を反映しているのかもしれません。

(2)他の商売敵(かたき)となる商業活動を抑圧するようしむける文書

【史料2】赤松円心書状『離宮八幡宮文書』 
八幡宮大山崎神人等申す、播磨国荏胡麻商買のこと、去んぬる年その沙汰あり、書下をなすのところ、
これを叙用せず、剰(あまつさ)え買い置くところの荏胡麻等、中津川方百姓権守左近二郎・左近三郎以下のため、抑留せられ云々、はなはだもってその謂れなし、所詮抑え置くところの商買物においては、これを返付し、彼百姓等に至っては、不日(ふじつ)召しまいらせらるべきなり、さらに緩怠(かんたい)あるべからず候か、恐々謹言
            (赤松)
 正月卅日       円心(花押)
 (赤松則祐)
 赤松帥律師御房
 意訳すれば以下のようになります。
「八幡宮大山崎の神人が次のようにいっている。播磨国で荏胡麻の商売については、以前文書でもって命じたにもかかわらずそれに従わず、あろうことか、大山崎の神人たちが買い置いたものを中津川の百姓である左近二郎・左近三郎が抑留(不法に自分の手元に置く)という。はなはだもって道理に合わない。これは大山崎の神人たちの商売用の品々なのだからこれを返却させ、これらの百姓達はすぐに召し捕っていただきたい。なおざりにするべきではない。」
 ここでおもしろいのは、差出人が赤松円心で、受け取る側が円心の息子の則祐(のりすけ)であるということです。
 どういうことかといえば、赤松円心は室町幕府の重臣で京都にいることが多かった。だから大山崎の油神人が京都に出向いて幕府の重役である円心に泣きついたわけです。あなたの御子息が統治している播磨の百姓たちが、以前より、荏胡麻を買い取れるのは大山崎の神人だけであるという決まりがあるのにもかかわらずそれを無視して勝手に商いをしている。それだけでなく、私たちの買い取った荏胡麻を横取りしているのです。なんとかして下さい。」 
 訴えられた円心は、(賄賂をもらっていることもあって)大山崎神人のいうことを聞かないといけない。そこで、息子に大山崎の商売敵(しょうばいがたき)を取り締まれと命じたのです。
 もう一つおもしろいのは、これは地方の方々に対して禁止命令がでることの裏返しなのですが、播磨の中津川では、こうした取締りを破って荏胡麻を自由に販売しようとしたことです。禁止されたことをあえて犯す者がいることからたびたび相論が起きる。これは今も昔も同じといってよいでしょう。
 大山崎の神人の活動範囲および荏胡麻集積港があるのは、肥後・伊予・阿波・備前・播磨・摂津・河内・和泉・山城・近江・尾張・美濃と西日本全域に広がっています。ということは、それらの地域で大山崎の油神人と在郷商人とで荏胡麻の販売をめぐっての争いが繰り広げられていたということです。

(3) 大山崎の日使頭祭(ひのとうさい)の役をやってもらうかわりに油販売の特権を譲渡する。

【史料3】室町幕府御教書『離宮八幡宮文書』 応永21年(1414)  
 石清水八幡宮大山崎神人等申す、当宮四月三日神事日使頭役(ひのとうやく)のこと、油商売につき、成吉入道子息を差上せしめるのところ、難渋うんぬん、何様のことか、神事違乱におよぶの上は、厳密にその沙汰いたすべきの旨、あい触れらるべし、もしまた子細あらば、注申せられるべくの由、仰せくださるるところなり、よって執達件のごとし、
                  (細川満元)
  応永廿一年八月九日       沙弥(花押)
  (義範)
  一色兵部少輔殿
 要約すると、 
離宮八幡宮の四月三日の神事である日使頭(ひのとう)祭(さい)を経済的に負担する役を勤める頭役は、油商売を許す引き換えに、成吉入道の子息に指名したのに、しぶっていると聞く。何様のつもりなのか。しっかり勤めるよう命じなさい(以下略)というものです。
「成吉入道」というのは、丹後の武家です。
 ここでいえることは、離宮八幡の大事なお祭りを大山崎から遠く離れた丹後の者も担っているということと、離宮八幡の祭事を引受ける(経済的なスポンサーになる)かわりに、油販売の特権を与えるというギブアンドテイクの関係が見えてくるということです。
 以上三点の史料を吟味することで、次のことがいえます。
大山崎の神人は、朝廷や幕府と強い関わりを持ちながら、彼らの権威にすがって自己主張をしている。
こうした争論が続いている、ということは地方の反発も大きかったということを示している。
大山崎だけでなく、荏胡麻の販売をめぐって地方の動向もわかってくる。地域社会の商業の発達が見えてくる。

3 油をつくる、運ぶ、売る

 ここで、視点をかえて絵画資料から油売りの実態を見てみましょう。 図1から図4は、油神人のもとで働く油売りの姿を当時描かれた絵巻物などから抽出したものです。
どんな共通点があるでしょうか。以下、子ども達との授業を再現するように会場の参加者とやりとりをしました。
「天秤をかついでいるね。おけには何がはいっているの?」
「油だろうな」
「ひしゃくをいくつも持っているのは何故?」
「油を量るのに使うんじゃないかなあ」
「竿や腰に何かぶらさげている。何だろう」
「・・・・・」
「どうも火打石を持っているらしい。油かどうかを疑う客もいたでしょうから、その場で火をつけて証明したのでしょうね。それに現金を扱うのだから財布も持っていたでしょう。」(※)

4 油をつくる人々

【史料4】田端兵衛他請文『松田文書』寛正5年(1464)
丹波国小倉、栗作木本請文のこと、
      中村保人
  壱所    栗作道圓
      中村保人
  壱所    栗作岡源次郎兵衛
      舟橋保人
  壱所    栗作田端兵衛
      中村保人  左兵衛
  壱所    少蔵  道シュン
右此外、新木を立て申すことあるべからず候、次ニ京都へ油ヲ入て売り申すことあるべからず候、もし此旨に背き候わば、日本国中神罰各(おのおの)に罷りこうむるべき者也、殊ニ神方(かみかた)ヲ放し申されるべく候、仍請状件(よってうけじょうくだん)のごとし、
               田畑(略押)
 寛正伍年八月十九日       兵衛 ◯
               栗作
                 道圓 ◯
 上記の史料は、最近みつかったものです。「栗作」とは地名で、もともと丹波のこの地は朝廷に油や栗を奉納する土地であったのです。「木本」とは、油を作る人々や組織のこと。要約すると、
「丹波の小倉、栗作の油を作る者たち(道圓・岡源次郎兵衛・田畑兵衛・少蔵道シュン)の外の者たちが、新たに油をつくることはしない。また、京都に行って油を売ることもしない。そんなことをすれば日本国中の神罰をこうむることになる。以上のことを誓約します。」
ということです。
 ここで、おもしろいのは、「中村(なかむら)保人(ほにん)」「船橋保人」などと書かれていることです。中村保や舟橋保は、実は離宮八幡宮近くの大山崎の地名を指しています。つまり、道圓以下岡源次郎兵衛や田畑兵衛たちは、大山崎の油神人の傘下に収まり、その支配を受けながら油を作っていることを示している史料なのです。
 これを隷属とみなすか否かは意見が別れるところでしょう。都につながる大山崎の油神人と関係を持つことで、丹波の一地方で油生産に関わって暮らしを立てる人々がいたということです。これらの人々がやがて地方の商業を担う中心になることは大いに考えられることです。

 最後に、福島さんは、中世商業の教材化など、関西は歴史教育と地域史の連携が十分でなかったことを反省し、生涯学習や学校教育との連携を進めたいと述べ、今回この講演を引き受けることで、畿内と地方との関わり調べるよい契機となったこと、「事実は小説よりも奇なり」の格言通り、みなさんも史料から具体的な地域の歴史の姿を学びましょうと呼びかけてお話を結ました。  
                              (文責=土井三郎)               
(※)油売りの絵の時には出なかったのですが、講演の後、参加者の間で箒(ほうき)のようなものは何かということが話題になりました。福島さんの軽妙な発問に誘導されたというべきでしょう。ちなみに、『日本国語大辞典』で「油売り」をひくと上記のような絵が紹介され、「油のついた手をふく打ちわらを持っている」と解説されていました。参考までに(編集担当より)

一口感想より
大山崎の商業活動が油神人を中心にして発展していく様子を拝聴いたしました。耳新しい内容で非常に興味をもって聞かせていただきました。と同時に、講師の福島館長が、対象の方々にどう知っていただくか、理解してもらえるかを常に意識して活動されている姿に感動しました。(小林喜美代)
最近の教育現場で、何を教えるかよりどう教えるかばかりが強調されている現状を憂う趣旨の発言は、長年、教職に身を置いていた者として痛感されるものです。教師が歴史を好きにならないで、子どもが好きになる筈がない。わかるから、謎が解けるから面白い。そんな歴史教育を学校現場で追及してほしいし、今現場を離れ生涯学習の場にいて、皆とそれをわかちあいたいと思っている今日この頃です。(土井三郎)

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by y-rekitan | 2014-11-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第55号より-02 安居頭諸事

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《講 演 会(会員発表)》

「安居頭諸事覚」を読む

2014年10月  八幡市ふるさと学習館にて
谷村 勉(会員)


f0300125_9383743.jpg 10月16日(水)午後1時半より、ふるさと学習館において、標題の研究発表が行われました。司会は、安立俊夫さん。谷村さんは、八幡における武家の祭りとされる「安居神事」とその頭役の在り様を古文書をもとに具体的にお話していただきました。参加者は37名でした。以下に、その概要をご自身に紹介していただきました。

江戸時代の安居神事の背景

 江戸時代、八幡八郷は守護不入、検地免除の珍しい地域でありました。検地免除とは税金をかけないということですから、これはかなり裕福な土地柄であったと推定できます。他の寺社領と違って社務をはじめ社士、神人、安居百姓など山上山下惣衆は直接徳川家康から朱印地(三百六十通の朱印状)を与えられ、それぞれ各自が領主のようなものであり、特異な所領形態だったといえます。慶長十五年(1610)九月二十五日付、家康朱印条目は地下人が安居神事を執行し、その役料として朱印地が与えられた事を示すものです。
 安居神事の祭は「寿永元年(1182)源頼朝が、鎌倉に八幡宮を勧請するにあたり、高田蔵人、菅原忠国に代幣使を勤めさせたことに始まるとされる」とも言われ、安居神事の祭は将軍家の命(武家の沙汰)を受けて行われる神事であり、武運長久天下泰平を奉祈しました。

安居神事の概要

 まず安居頭屋に祭壇の御壇が築かれ、山上から招いた御師により神霊が勧請されます。十二月十日、安居頭人は差符の儀によって「安居頭役」と「堂荘厳宝樹預」の二通の差定を受けます。次いで社務、所司をはじめ郷中の町民、百姓などを饗応する。いわゆる「コナシ」というものを順次行います。十四日に「宝樹」と呼ぶ松の大木を頭屋祭壇へ運び入れ、十五日に「ヤーハンヤー」の掛け声とともに宝樹を曳き進めて、猪鼻坂から山上へ曳上げ本殿前に立て、猿と呼ぶ少年が宝樹を駆け上り一ノ枝を切り、頭屋祭壇に納めて神事は終了する。といった次第です。

安居神事の中断

 戦国時代、毎年かどうか判らないものの、安居神事は継続していました。この時代には「荘厳頭」と「僧供頭」と呼ばれる両頭の下に六種類の「宝樹」とそれらの「安居頭役」が置かれました。しかし、江戸時代は「一本の宝樹」と「一人の安居頭役」に略されたようです
f0300125_11162667.jpg
  豊臣政権になって、太閤蔵入地の実施により直轄地になったようで、天正十七年(1589)から慶長四年(1599)まで十年間、安居神事は中断しました。領地召し上げにより経済的な余裕をなくしたからです。

安居神事の復活

 秀吉、前田利家の死後、最大の実力者になっていた徳川家康は関ヶ原合戦直前の慶長五年(1600)五月、八幡神領の朱印地を確定し、検地免除も保証した為、安居神事は復活しました。この家康の決断には、お亀(相応院・尾張藩祖義直の生母)と志水家の奔走も大きく貢献したようです。慶長五年七月に豊臣家奉行衆が家康に突き付けた弾劾状「内府ちがいの条々」によれば、その最後の項目に「内縁之馳走を以、八幡之検地被免候事」とあり、内縁とはお亀を指し、彼女の奔走によって検地免除になったことを示しています。また「安居御神事諸事記」に「慶長五年の冬、志水小八郎忠宗安居を勤めらる、…」とあり、慶長五年に安居神事が復活した事が分ります。

「安居頭諸事覚」の内容

 「安居頭諸事覚」は安永元年(1772)に書かれた安居の頭としての手順書です。
 まず安居頭屋台所諸事覚と書かれ、九月十六日から始まります。
「朝食後達所の一臈来たり、祝儀の式を行う。頭人は玄関まで出迎え、塗膳足打にて料理を出し、酒三献の後大盃を出し、頭人、若頭人、親類中戴く。同日、正明寺より安居田之米納の案内があり、米納の前日に達所、小綱、仕丁、宿坊へ頭人から案内人を出す」とあり、米納の日には頭人裏付上下にて銀掛、升取を連れて正明寺に行っています。f0300125_10365337.jpg郷中からは五十石の安居合力米が支給されました。この合力米五十石は慶長十六年に紺座町・片岡道二、橋本町・落合忠右衛門の闕所により、合わせて八十七石を没収した中から安居料として提供されたものと推測しています。
 折方之覚の項には社務中や所司中などへの進物、饗応料として渡すべき米の量や金銭の額が指示されています。文中の米の量を合計すれば二十一石一斗八升になり、次の銭ニて渡ス折方進物振舞料では公文所への折方銭十五貫文など合計三十七貫六百文、それに歩金五両弐歩、白銀百拾一匁を銭振舞料として各所に渡すように指示されています。そのほか「宝樹」や「飾りつけ」の費用など不明な部分も多々ありました。今回「安居頭諸事覚」を読んで興味深かったことが二つありました。志水家への進物と猪鼻坂の安居木差符所の存在です。
 尾州江遣ス飛脚之事の項に下記のようにあります。f0300125_1048872.jpg
「・進物の品々用意可有事、・御礼並びに升形の箱弐ツ、塩鮭、状、箱等渋紙惣包すへし、絵府付へし、樽弐ツは菰に包へし」と進物の拵を取決め、「御祈祷の札」は杉原紙に包み水引にて結ぶなどと規定している。また「・樽弐ツに入候酒は名護屋(ママ)にて買候て樽に詰候様に可申合、樽一ツに五升入名護屋にて封印をおして酒屋之名を樽に書候事は無用とて可申合事」とあり、酒は名古(護)屋で買い求め、樽は五升入りであり、同時に安居御供物や塩鮭一尺を進上しました。名古屋では「御礼乗せ候台や塩鮭乗せ候台、木具台弐ツ」も調達しています。f0300125_10521464.jpg飛脚の発足は三日か四日頃勝手次第に出発し、発足の前の晩には夕飯を振舞い、また発足の朝飯料として白米壱升五合を渡す。この役を担う飛脚に優遇の姿勢が伺えます。
 志水甲斐守は慶長の末頃、尾州家に入り代々国家老を勤めています。12月、安居神事執行の際、江戸時代を通じて毎年志水家に進物を行い、八幡の惣衆は感謝の意を表したのでした。

 
 次に安居木差符所ですが、猪鼻坂の中間点にあります。f0300125_10595954.jpg寛延四年辛未(1751)に描かれた石清水八幡宮境内全図には猪鼻坂がはっきり描かれています。二ノ鳥居を過ぎて神幸橋の手前からカゲキヨ塚に至る坂道ですが、境内全図の実物を見て「安居木差符所」と書かれた箇所が判りました。ここで宝樹を四、五尺切る神事が行われました。「安居頭諸事覚」には猪鼻坂で神事の道具類や酒樽壱斗などが準備される様子が書かれています。柏村直條によって選定され、八幡八景の第三景「猪鼻坂雨」として詠まれた名所猪鼻坂も今は安居神事と共になくなり、その面影は見当たりません。
最後に安居神事終了の翌十六日、「安居祈祷神札は御箱に入れたまま郷当役中へ返納するが、来春の江戸年頭御礼に下向する其宅に頭人麻上下着用にて持参する」とあります。
江戸年頭御礼では社士惣代が安居祈祷神札を持参して毎年春二月に将軍に拝謁しますが、尾州候と志水家にも年頭御礼の挨拶を行います。

【主な参考文献】
  ・中世神社史料の総合的研究  研究者代表 鍛代敏雄
  ・神社継承の制度史   石清水八幡宮の祭祀と僧俗組織 西 中道
  ・男山考古録        長濱尚次


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by y-rekitan | 2014-10-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第42号より-07 墓石をたどる③

シリーズ「墓石をたどる」・・・③
橋本家(等安)の墓石をたどる

 谷村 勉 (会員)


 「八幡市誌」 第二巻 第六章に「近世八幡の文化人たち」(P320) の冒頭で橋本等安が紹介され、かの里村紹巴に連歌を学び、豊臣秀吉の御連衆として活躍したことが記されています。先般、橋本で他の墓石を確認していたところ、少し離れたところに、偶然にも橋本等安一族の墓石群を発見しました。橋本北ノ町(京阪電車橋本駅京都寄り)の山腹に一族20数基の墓石が祀られてありました。
 
橋本等安一族の墓であることの確認

f0300125_23311785.jpg  まず男山考古録の橋本寺の項に、「今は絶えてなし、橋本町道の南側、今社士落合利經か隣地也と、法華宗にて、橋本當好か先祖等庵という人の一建立にて、彼家の頼み寺なるよし、・・・・・云々」とあります。
ここで判ったことは、まず橋本當好が等庵(等安)の子孫である事です。
 次に八幡市誌 第二巻には「橋本等安は、当好と称し、通称満介、他に不伯斎とも号し、橋本町に安居本頭神人として、朱印地五七石四斗七升を領し、居住していた」とあります。朱印地とは、慶長五年(1600)五月二十五日、徳川家康から五拾七石四斗七升を給付されたことを指し、ここに等安が家康から朱印状を給わっていたことも判りました。
 さて、明治五年(1872)、京都府に提出された橋本家由緒書によりますと橋本等安より数えて十二代目に橋本當好(男山考古録著者・長濵尚次とほぼ同時代)の名前が記され、慶長五年に朱印地五拾七石四斗七升を給わったことも記されていました。これらからこの墓石群が橋本家由緒書とも一致し、橋本等安一族のものと判りました。
 墓碑を読むと延宝・元禄年間(1672~1703)以降の歴代当主等の文字は判別できますが、それ以前は判り辛いところがあります。
 墓石の種類は板碑型、箱型、唐破風付等その変化によって、時代の変遷が判るようにも思えますが、はたして等安の墓石はどれなのか、古い花崗岩の墓碑は、それらしきものはありますが、風雪劣化により文字が判読できません。
 しかし、いつか拓本を取れば特定できるかも知れないと思いました。
今回も偶然発見した墓石群には何か因縁を感じつつ、二礼二拍一礼して、螢域を出ました。
いつか類縁の方にお逢いして、等安の事績等もお伺いしたいと思っています。

場 所

 京阪電車橋本駅から山側を京都方面に向かうと、右の登り坂に黄色の逆U字型の手すりが見えてきます。その手すりの間の民家を左に折れ路地を進みます。白い板壁の民家を右に回り、裏から狭い道を登りますと、道に沿って墓石群が見えます。その少し奥へ進むと右に登る階段があり、6~7m程登ると橋本家の墓石群です。(*他家の螢域に入る場合は余程ご留意願います)

 等安が秀吉の連衆として活躍したという逸話に、「音するはいつこの駒の轡虫」という句の付句に人々が窮した時、等安が「霧の中ゆく逢坂の関」とつけて、秀吉から賞詞を賜った、というのがある(八幡市誌 第二巻p320)  

なぜ秀吉が褒めたのか(私の解釈)

 音するはを「音する羽」と読みますと、秀吉が音羽川の流れを見て、京の地に入ったのはいつの頃であったか。馬上にあって蹄、鐙や馬具の擦れる音がまるで轡虫が羽を擦って音を出す様に似て、水の流れる音は、掻き消されたものだ。「音する羽」とすれば八幡の等安にとって、ごく自然に音羽山が連想できます。秀吉も戦略上の地理には極めて明るい。大津から初めて京に入る山が音羽山。音羽山の裾に逢坂の関があり、古歌に聞く、逢坂の関を再び帰ることができようか、関越えの後も戦の連続で、あの頃は先行き、さも霧の中をゆくようであった。秀吉も青雲の頃が懐かしい。

 ・等安作と伝えられる発句に次のものがある (八幡市誌 第二巻p321) 
        なひきあひて霞にねさす柳かな    
        梅が香や篠ぬけ出し袖の露        
        かりかねは霞にもれて山もなし    
        若草やつなきとめけむ放れ駒     
 ・和歌はわずかに一首伝わるだけである (前掲書)
        五月雨はをのが時ぞとをちかへり
        なくねもあかぬほととぎすかな 


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by y-rekitan | 2013-09-28 06:00 | Comments(0)

◆会報第41号より-02 武家政権と八幡

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《講 演 会》
武家政権と石清水八幡宮
― 安居神事をめぐって ―

2013年8月 松花堂美術館講習室にて
國學院大學栃木短期大学 ・教授 鍛代敏雄


 8月18日(日)、会場を松花堂美術館講習室にして8月例会が聞かれました。標題をタイトルに、講師である鍛代敏雄(きたいとしお)氏が熱っぽく語ってくださいました。参加者は57名。以下、概略を報告します。

 
はじめに

 石清水の安居(あんご)は、4月16日から9旬(90日間)、山上僧が勤め、7月15日に南楼門前に宝樹に布を懸け、社頭を荘厳し、風流灯籠をかけ、高座の導師が菩薩戒を読誦、明年の諸頭役差定し、童舞などを奏した。主に鎌倉期は神領荘官が夏安居の頭料を、江戸期は宮寺近辺の豪家が12月上旬から15日の冬安居を勤めた。(日本思想体系20『寺社縁起』430頁補注)
 本日の報告の課題は、安居はどうして催行され続けたのか、その理由を問うものである。私自身の研究の目的は、安居会の祭祀儀礼としての機能と役割についてにある。

Ⅰ 鎌倉期の安居と頭役

 伝承としては、白河院(1053~1129)が石清水の別当光清と結んで安居神事を進めたとされる。そして、儀礼としては源頼朝の幣礼使に準じ、幕府によって保護された祭祀として位置づけられる。
 古文書での初見は、元久元年(1204)7月安達景盛(あだちかげもり)安居用途請文に見られる。また、13世紀初頭、関東の頭役用途の対捍(たいかん)(命令に従わず逆らうこと)に関する文書に所見される。関東の御家人が石清水の安居神事を行うための経済的負担を拒否する事例が発生しているのである。なお、安居頭料所は東海道・東山道・山陰道・山陽道、畿内(山城・河内)に所在していたが、13世紀以降、消滅している場合が多い。
 安居頭役人の身分としては、祠官(しかん)・所司(しょじ)などの山上役、別宮・神領の荘官・地頭・名主クラス諸所に散在する神人クラス、そして地元八幡の境内神領(内四郷・外四郷)の頭役神人に分類され、それぞれが頭人として課役を担っていた。
15世紀前期の史料では「粗散用分五十貫五十文」の記事も見える。田地1反が5貫文で永代売却されている事例から金額が想像されるが、相当な負担であったことは確かである。なお、頭人の数であるが、鎌倉後期で29人、南北朝の頃で31人、戦国期でも29人いたことが史料からわかる。
 鎌倉期、神領・別宮(遠隔地を含む)の預所や名主、神領の有徳人(金持ち)が「公事」(=税)として勤仕していた。ところが、戦国期になると、神領近郷の放生会神人や近郊の有徳人が主に勤仕するように変化している。石清水の安居を経済的に担う層が鎌倉期から戦国期にかけて地域的に狭まっているということである。

Ⅱ 南北朝・室町期の安居と頭役

 建武4年(1337)6月、足利尊氏が安居頭料の「毎年一頭」の沙汰として伊予国内の闕所(けつしょ)地を新たに寄進したことを示す文書がある。尊氏は、石清水の祠官家である善法寺通清と誼(よしみ)を通じ、通清-昇清を「将軍家御師(おし)職」に補任している。ちなみに通清の娘である紀良子は2代将軍足利義詮(よしあきら)に嫁ぎ義満を生んでいる。
 室町幕府の将軍家が石清水の安居会を支える「荘厳頭」を担ったのである。
 中世の神人は、勅祭である放生会に際し、「神訴」と称し、神威を楯にして幕府や朝廷に対し訴訟や裁許を請求することが多かった。それに対し、安居会を楯とした「神訴」は僅かである。その例が、応永31年(1424)6月に起こった石清水神人らによる石清水の護国寺に閉籠強訴した事件である。これは、14世紀後半以降、安居頭役の負担増がなされたことに対しておこされた。まさに、頭役神人身分(地下侍分・殿原衆)が主導する郷町惣中(神人と郷民)の一揆的連帯=都市共同体の成立と評価できるものである。
 ここで、安居神事を執行する側の論理を考えてみたい。それは、「宮寺無双の大神事・天下泰平の祈祷」の沙汰を大義名分(テコ)とした宮寺領からの収取の論理であり、「朝家第一・宮寺無双の大営」のために、宮寺祠官・所司・神人から神領の荘官以下百姓・住民に至るまで、差定にしたがい巡役としての安居頭を勤仕しようとする論理である。

Ⅲ 戦国・織豊・徳川初期の安居と頭役

 安居頭の実態を天文13年(1547)の安居頭役差符(さしふ)で見てみたい。
そこには、将軍家御沙汰を筆頭に、堂荘厳宝樹預として、金振郷住人、魚市御綱引神人、山路郷住人、駕輿丁神人が、大堂供宝樹預として、楠葉郷住人、内里郷住人御綱引神人、山路郷住人、戸津郷住人がそして、伝戒宝樹預として、科手郷住人、美豆郷住人御綱引神人、際目郷住人御綱引神人、下奈良獅子神人、楠葉郷住人、また、乞戒宝樹預・楽頭宝樹預・十童宝樹預として楠葉郷や河口郷・南生津郷、交野枚方の各住人の名が挙がっている(下線は現八幡市内と一部その周辺<編集担当が付した>)。
安居の頭役が八幡惣郷と近隣の神領の住人によって担われていることがわかる。同時に、安居頭役は、そのほとんどが放生会神人による勤仕であったことも了解できるであろう。
戦国期、安居の「宝樹頭役預」の多くを有徳の放生会神人が勤仕し、国家的な年中行事の費用が賦課されていたともいえる。やがて、放生会は停止され、八幡石清水の神人は安居頭役を奉仕することで神人身分が保障された。境内都市「八幡四郷」や楠葉郷の住人は頭役を勤仕し、安居頭役神人の身分を得ていたことになる。f0300125_9291011.jpg
 そのような経済的負担を引き受けて安居神人になる理由は何か。家伝の信心に加えて、安居頭役神人らの身分的かつ経済的な特権があるからである。
 一つには、「極楽(ごくらく)頼子(たのもし)」の運用ができるというメリットがあった。淀郷の石清水神人らが安居頭役の勤仕を名目に「極楽頼子」を興行し、合銭100貫文をもって利倍(高利貸)を行っていた。幕府は、「神物」「神用」と認定し徳政除外とした。阿弥陀信仰を標榜する石清水の神人が関わるから「極楽」となり、その金融活動を幕府が保障したのである。
 二つ目に、本願寺系の寺内町と石清水神人との関わりが指摘される。例えば、八幡の安居頭役神人(地下侍分)であり土倉の片岡氏や小篠(おざさ)氏が、河内国交野郡の招堤(しょだい)寺内の建設に資金を援助している。ちなみに、元亀(げんき)元年(1570)8月25日、信長は枚方の招堤道場(招堤寺)に陣を張った記録(『信長公記』)がある。本願寺系寺内町に放生会神人が居住し、安居頭役を勤仕、有徳神人による淀川の物流ネットワークが想定されるのである。
 そんな安居会であるが、豊臣期に中断される。
天正12年(15849)~天正17年の太閤検地により、石清水神領および境内は、差出(さしだし)がなされた。慶長4年(1599)、八幡八郷惣中の年寄衆は豊臣家奉行衆に、退転している安居(天下の祈祷)に関し、今後は検地免除の上、興行し天下安全・武運長久の祈祷を言上しているのである(「正法寺文書」)。
 慶長5年5月23日、八幡八郷惣中は、家康に「八幡山上山下知行高帳」を差し出し、祠官以下、神領百姓に至るまで朱印地が確定し、安居頭役神人は、以下のように「侍分」として認定された。
     安居本頭神人(侍分)を「内四郷」町ごとに摘出
       (鍛代著『戦国期の石清水と本願寺』26頁)

 12町60人、名字18(家)、総知行高1410石9斗7升(神領の20,8%)
科手郷;科手町(福田)・橋本町(橋本)
常盤郷;田中町(片岡)・柴座町(喜多村・小谷・片岡・松田・北村・柏村
     ・小寺)・紺座町(片岡・山内・横田)
山路郷;山路町(森元・山岡・小寺)・森之町(森元)
金振郷;薗町(林・小谷)・馬場町(神原)・志水町(志水・小篠・宇野田)
     ・神原町(神原)・城内町(松田)
 このように、八幡の神領が検地免除され、安居神人の身分保障がなされた背景に、お亀(相応院、尾張義直の母)とその出自の志水家が、慶長4年以降、社務廻職などに奔走していたことや検地免除を家康に嘆願していたこと、また都市共同体の主導層の尽力があった(石田三成等の家康弾劾状―中村孝也『徳川家康文書の研究』所収)。
 慶長15年(1610)、家康は田中・新善法寺・壇・善法寺の祠官家に朱印状目を下し、地下人役として安居神事を勤仕させ、将軍家の天下祈祷を命じ、検地免除と守護不入を保障しているのである。これは、中世的アジールの存続を宣言したものと見なされる。

おわりに

 安居神事の機能と役割ついて、三つの側面から以下のように整理できる。

(1) 政治面
  1. 放生会は朝廷主催の「殺生禁断」の平和的な祭祀である。それに対し、安居会は将軍家の武威の保護下に国家安全の祈祷として機能していた。
  2. 安居会は、室町・江戸幕府の武威を荘厳する祭祀として催行された。
  3. 近世の武家祭祀である安居神事役は、「奉公」と「知行安堵」で結ばれた、家康(将軍家)と安居本頭神人(地下侍分、有力者は祠官家の家人)との個別・人身的な契約事項であった。
(2) 経済面
  1. 宮寺を興行する(経済的に支える)ために、武家権門の祭祀を石清水側が創設した。
  2. 安居を大義名分とした収取の論理が貫かれている。例「極楽頼子」「寺内町の経営」
  3. 有徳人の公事の収取と下行(施行の分配)により、石清水八幡宮寺(祠官・山上所司=社僧)への銭と物の還流が図られた。
(3) 社会面
  1. 安居会に参加することで、祠官家(別当家)が血統をつなぐ得度の通過儀礼として位置づけられた。
  2. 安居頭役を負担する荘郷・別宮は神領(土地)の安堵、頭役人は石清水神人(人)という身分、頭役負担者は「有徳」「富貴」の身分が証明された。
  3. 安居会が催行されることを通して、安居頭役と神人身分を紐帯(ちゅうたい)とする郷町および惣中(八幡四郷・八幡八郷)の境内都市共同体が成立し、アジール性(守護不入・検地免除)の継承が図られた。

 以上、鍛代氏のレジュメをもとにしたとはいえ、飽くまでも編集者の主観による取捨選択にて概要がまとめられたことを付記しておきます。  (編集担当 土井三郎)

 講演が終わり、10分間の休憩の後、質疑応答がなされました。f0300125_9312062.jpg
質問は、安居会が江戸時代になって、それまで夏であったものが冬に行われるようになった理由を問うものや、放生会が旧暦の8月15日におこなわれていたことに関わりそれが平和を希求する「終戦記念日」と重なった意味(偶然とだけ律しきれないのでは?)等が出されたほか、以下の質問と返答がありました。質問者に、再度伺い文章を成文化してもらいましたのでそれを紹介します。
《質問》
安居頭差符には6頭の差符があり、それぞれ頭役を勤めたとありましたが、それぞれが屋敷の庭に祭壇を設けて神事を行ったのでしょうか。安居本頭神人等が一生に一度の安居頭役を勤めたときにやはり庭に祭壇を設けて神事を行い、祭りのクライマックスで切り取った松(宝樹)の枝を頭屋に祭祀して神事を終えたと理解しています。要するに全体の神事を代表する頭役の存在があったと思われますが。
《回答》
現時点では安居神事について、近世の由緒書はありますが、中世については判明しないことがまだまだ沢山あり、今後も課題として確かな史料等を探究したいと思います。
《私見》
八幡の資料によく名前の出る片岡、橋本、柏村、能村家等々には安居神事の斎主を勤めるといった記載もあり、それぞれ一代に一度、勤めをしているようです。これが一般にいう安居頭役と理解しています。先の「江戸尾張年頭御礼日記」にもありました通り、翌年、安居頭役から預かった安居祈祷神札を江戸将軍家に持参しています。今回、「宝樹預」にも4つの「預」があることを初めて知り、今後この差符や安居神事についてさらに追求し、理解を深めたいと思います。
 講演に際しご提供頂きました資料は何度も何度も読み直しています。それほど充実した安居参考資料と感じています。 (谷村 勉)

以下に「一口感想」を紹介します。

◎安居会の歴史や変遷が、各時代の政治情況とどのような関わりがあったのかがわかり易く話されて、興味深く聞くことができました。 (M)
◎安居と放生会の意味合いがおぼろげながら解った気がします。予備知識がOでしたが、面白く聞かせて頂きました。 八幡の地の歴史、特に八幡さんと神人に一段と興味をもちました。 (S)
◎中身の濃い講演ありがとうございました。昨年のお話に引き続き、石清水祭杷のことがよくわかりました。また、多くの関係資料を調査研究されていることに感服しました。(T)
◎中世から近世にかけて、神人、特に有徳人(金持ち)層の人たちが与えた影響は大きかったんですね。いつも「お金持ち」が世の中の一部をぎゅうじっているのですね。(H)

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by y-rekitan | 2013-08-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第39号より-02 八幡社士日記

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《講演会》
八幡社士惣代「江戸尾張年頭御礼日記」を読む
― 2013年6月  ふるさと学習館にて ―

 会員 谷村 勉  


年頭御礼とは何か

 「文化六年、江戸尾張年頭御礼日記」(以下「日記」)と題されたものは、次に参府する御礼人に参考となるように書かれた記録で、筆者は谷村市之進光冬である。八幡の社士の惣代として、11代将軍家斉や尾張藩主、家老志水家に年頭御礼するために江戸に出向き、「祈祷神札」・「菖蒲革(しょうぶかわ)」などを献上したことを記したものである。f0300125_2247220.jpg
 江戸城内での儀式の様子、江戸までの往復の道中の様子など克明に記してあるが、プライベートな記述は一切ない。また、かなりの達筆で、八幡に戻ってから清書したものと思われる。
 八幡を出立したのが1月20日、江戸に着いたのが2月2日。江戸まで13日間かかっている。また、江戸を出立したのが2月20日、八幡着が3月朔日なので、帰りは12日間要しているのがわかる(陰暦で文化6年は1、2月とも30日)。行きは、中山道・美濃路・東海道を通り、帰りは甲州道・中山道・東海道を通っている。
 将軍お目見えが2月15日、本丸白書院で、独礼とある。江戸には18日間の逗留となった。
 年頭御礼は、以下の理由で始まったと思われる。
 慶長15年(1610)の9月に徳川家康は、条目を下し、八幡神領を検地免除・守護不入の地とした。翌年8月相応院(お亀)は、検地免除を喜ぶと共に、八幡宮山上山下惣衆より家康に御礼として菖蒲革10枚が送られたことについての礼状を社務三家に送っている。その後、江戸時代を通して毎年年頭御礼のために惣衆が江戸に出向くようになったとみられる。
 献上の菖蒲革は、鹿皮に菖蒲文様の染色を施したもので、殊に武将に贈られることが多く、鎧などの武具の一部に使用された。
 慶長5年(1600)5月、家康より社務家をはじめ、山上山下の惣衆に三百数十通の朱印状が給付され、八幡の神領はその所領を各々に直接朱印地として与えられた。朱印地の給付は安居神事執行のための役料の意味があったようだ。安居神事は多額の費用を要するため、八幡社士はそれぞれ一生に一度のみ安居神事の頭役を勤めて、天下泰平・御武運長久を祈願していた。
 年頭御礼人は、前年の11月には人選が決められ、社士仲間が路銀など出しあっている。

江戸に向けて出立

 文化6年1月4日に、吉書回状、吉書献立が行われ、6日に八幡宮に参っている。吉書とは、めでたいことを記述したもので、それを仲間と廻しあったり、神に捧げたりした後に御神酒を進献、正明寺鎮守社(鳥羽伏見の戦いで焼失か)拝礼の後、京都の糸物商と面会し進物を、神寶所からは菖蒲革をそれぞれ受取っている。
また、社務である善法寺殿、新善法寺殿を廻り、田中殿にて祝盃をあげている。そして1月18日には、親類中を招いて料理を振舞い、同日、淀から品川宿までの先触(さきぶれ)と添状を発信している。
f0300125_22513322.jpg
 1月20日、いよいよ出立である。中山道を経て美濃路を経由。23日には名古屋に宿をとった。翌日、尾張藩家老の成瀬隼人正、竹腰山城守屋敷へ行く。両家老とも江戸出府の為、取次に面会し、江戸での旅宿先を知らせる。
 国家老志水甲斐守の屋敷では菖蒲革を献上した後、料理を振舞われている。
f0300125_2256247.jpg 箱根の関所は輿(かご)に乗ったまま通過。但し、顔が見えるように「乗物左之戸」を開けたとある。
1月30日に小田原宿に到着。江戸には2月2日に着いた。日本橋通三丁目中横丁万屋(よろずや)利右衛門の宿(屋敷)である。竹腰山城守殿より使者が来て口上を述べた。

江戸城での儀礼

 4日には、三井越後屋(三越の前身)に使いを出して、鷹大緒(たかおおお)(鷹の足に括り付ける組紐)を誂るよう指示している。
 6日には寺社奉行に届けを出し、市ヶ谷にある尾張御殿と志水甲斐守屋敷に挨拶に出向いている。
7日、江戸城内での世話役、幕府同朋衆の四人に金子百疋、目釘竹、煙草入れ、南鐐1片等を進呈し、手紙を付けて登城・御暇(おいとま)の際の取り持ちを依頼している。金子百疋は現在の2万から2万5千円程度、南鐐1片は1万円程度だと考えられる。目釘竹とは、刀の刀身と柄(つか)を結び付けるもので、八幡の竹が珍重されたとのことである。
 ここに、「手札」というものを紹介したい。横6㎝、縦16.5㎝のもので、「城州八幡社士、谷村市之進」が何の目的で江戸に参ったのか、どこに宿をとっているか等を記し、名刺代わりに使用し、進物品などに添えられた。(写真)f0300125_22592023.jpg
 10日に、志水甲斐守殿屋敷に赴き、留守居役牧野団之進へ献上品などについて相談している。というのも献上品である「鷹大緒」について前例があるとかないとか、何度もやり取りの記述があるのである。
12日に尾張様御目見え許可の書状が来て返書をしたためている。
13日に、御小書院弐之間にて御礼披露しているが、御礼の前に習礼(しゅうらい)(予行演習)が行われているその後、料理が出された。鷹大緒献上については御公儀倹約中ということで辞退となったようだ。
 14日には将軍家献上品の準備がなされ、公方様には菖蒲革、大納言様(次期将軍家慶)には轡手助(くつわたすき)を贈るよう整えられ、衣装なども準備された。
轡手助とは、馬の口にあてがう轡の部品である。
 いよいよ15日。江戸城白書院にて独礼の形で年頭御礼がなされた。f0300125_2333929.jpg
寅刻(午前4時頃)より支度をいたし、卯刻(午前6時頃)前に登城。大手門は乗與のまま過ぎ、下乗橋の所で輿(かご)を下り御玄関庭苑の上にて長持より献上品を出し、その後は同朋衆の世話を受け、寺社奉行による習礼の後、御目付衆の案内により松の廊下を進み、御白書院にて「御礼首尾好く相済む」、とある。
平伏したままで、顔をあげることなく御礼をするのである。その後、老中、若年寄などに回礼をして宿に戻った。
 その日に八幡へ書状を出す。社士仲間に壱通、家内へ壱通とある。これは早便(江戸-八幡を三日で到着するもの)で出した。当然料金は割高である。
 16日にも本丸と西の丸に登城して、安居神事の神札御祓を献上し、寺社奉行に回礼している。
 17日には浅草観音前へ従者を連れて、浅草海苔を調達している。八幡への土産であろう。
 19日に御暇の挨拶のために登城しているが、この時、五つの寺社関係者が登城している。五つの関係者とは以下の通り。
 壱 八幡、弐 日光、三 熊野、四 京今宮、五 愛宕両人である。

八幡への帰郷

 20日、八幡にむけて出立。甲州道中を経て八王子に宿。21日鳥沢、22日石和、23日金沢。続いて下諏訪から中山道に入り、24日本山、25日上松、26日馬籠、27日御嶽、28日赤坂、29日武佐、30日大津である。
大津には走井餅の店があり、八幡一ノ鳥居近くに有る「走井餅」店の前身である。そして3月朔日に八幡に到着している。3月5日には、社務中等に土産を持参している。

【挿入された資料等の典拠】
  ・街道図;江戸時代&古文書虎の巻(柏書房)
  ・日本橋;歌川広重(二玄社)
  ・手札と日記の一部;ともに個人蔵
  ・大手門; 失われた江戸城( 洋泉社)
  ・白書院(模型) ;江戸東京博物館

 報告が終わり10分程の休憩をはさんで、質疑応答がなされました。主な論点を紹介します。f0300125_2371237.jpg
① 八幡の知行高はどれ位か。一一
 八幡八郷だけで6500石弱。他にも知行地があったので、l万石を超えていたのではないか。
② 八幡宮と神人のかかわりはどうか。一一
 具体的な姿はよくわからないところがあるが、八幡宮を統括する社務の家来が社士(神人)というわけではない。将軍家より、ともに朱印地が与えられるという点で神人等の力の強さが認められる。
③ 明治維新後、社士はどうなったのか。一一
 東京遷都や神仏分離の政策がとられたり、幕藩体制が解体されるなかで、進取の気性を持つ社士達は学校の教師になったり、医者になったり、新しく事業を起こす者もいたが、八幡を離れて行く者も多かった。
④ 江戸には何人ぐらいで行ったのか。一一
 従者は3人程で、鑓持ちゃ人足など現地で調達することが多かった。
⑤ 街道は上部から決められていたのか。一一
 自分達で決めていたと思う。水陸の交通事情を把握しながらコースや行程を自らで決めていたと思われる。
 
「一口感想」

◎イギリス人の写真家(F ベアト )によって撮られた写真が幕末にしてはかなり鮮明で驚きでした。谷村さんのご説明は大変わかりやすく、楽しい講演会でした。有難うございました。(FU)

◎直系の方の古文を読み込んでのお話、大変おもしろく、勉強になりました。また、ベアトの写真や錦絵、図録や系図などを見ることで理解が深まり有難かったです。古文の読み込み、資料の収集、発表レジュメ等などキメ細かい準備と発表でした。(M)

◎八幡一江戸の行程が非常に細かく日記でわかりました。尾張・徳川との関連が非常にあったことがよく理解できました。(F)

◎本日の講演は、画や写真を多く見せて頂き、江戸までの道中や江戸城へ登城したような気分が味わえ、とても興味をもって拝聴できました。(S)

◎市内には、この様に貴重な文書が残っていると思われます。これからも紹介していって下さL、。(I)

◎液晶大画面の迫力もありましたが、谷村さんの資料の周到な準備で、年頭御礼の旅程、出立から八幡帰着までビジュアルな情報体験ができ、よく解り、体感できました。(I )

◎谷村勉様。今日はありがとうございました。幕府体制の中で、八幡の神人・社士の活動と位置付けの一端がわかり勉強になりました。(T)


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by y-rekitan | 2013-06-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第29号より-02 石清水神人

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《講演と交流の会》
石清水祭祀と神人の経済活動

2012年8月 松花堂美術館講習室にて
國學院大學栃木短期大学・教授  鍛代 敏雄

                                             
1、祭祀と神人

 私の関心事は、石清水八幡宮寺のお祭りにあり、それに関連して石清水の組織がどういうものであったのか、神人(じにん)がどのような経済活動を担ってきたのかということを研究してきた。今日はそんなことを話したい。
 そもそも、石清水神人とは、石清水八幡宮の神役や社役に奉仕する身分呼称およびその集団をさす。「神人」という呼称はそれまでの「寄人(よりゅうど)」という言い方から平安時代、10世紀の後半から使われだしたものである。放生会(ほうじょうえ)などでは鳳輦(ほうれん)を担ぐなど様々な奉仕をするわけで、その意味で神様に一番近い人たちでもある。ただし、神人は職業身分ではない。侍もいて、農民や手工業者、商人もいる。むろん、石清水に帰属しているわけで、石清水があって、その祭礼に奉仕する神人がいるという構造をなしている。
 神人は石清水神人だけではない。奈良の春日大社に帰属しているのは春日神人であり、日吉(ひえ)大社であれば日吉神人と呼ばれるのである。平安時代の後期、院政時代には頻繁に強訴がおこるが、その際春日大社の神木をかついで行くのが春日神人で、比叡山延暦寺も訴えを起こす時に日吉神社の神輿を担いでいくわけで、僧と神人の役割は違うということを知っていただきたい。
 石清水の場合、八幡神と大菩薩とがはやくから集合して登場したが、平安末期からは、八幡大菩薩が阿弥陀如来と合体するようになる。さらに、神功皇后のおなかの中で応神天皇として戦うといった神話が生まれたように武神として、また平和をもたらす神として崇められていた。中世においては、阿弥陀信仰が広がる中で、八幡大菩薩と阿弥陀如来とが同体化され、阿弥陀如来として広く信仰されるようになるのである。
 従って、お祭りも中世において変容する。石清水の場合、現世において、阿弥陀が説く西方極楽浄土の世界を再現することが、祭祀の最大の目的になったと言えるのではないか。ちなみに、石清水には護国寺があり、薬師如来を祀っている。この薬師如来は、東方浄瑠璃浄土を演出するという考えがある。すなわち、西方浄土の阿弥陀如来が本宮に鎮座し、護国寺の本尊である薬師如来が東方浄土を創出するという構図である。
 そして、この祭祀(さいし)を支えているのが石清水神人である。

 2、神人の経済活動

 神人の経済活動を考える際に注目すべきは、「神器の論理」ということである。
 天福元年(1233)の石清水の史料に、安居(あんご)祭の経費負担を拒否する荘園の地頭などを石清水が朝廷に訴える訴状がある。そこに「神輿神宝と云い、供役神民と云い、皆是神の器たり」という文言がある。ここで云う「神民」は「神人」に他ならない。つまり、祭礼の経費を拒否する行為は、「神人」=「神の器」を汚す事であり、「神事違例」となり、それは国家に災いをもたらすものであると畏怖しているのである。(天福元年5月「八幡宮未断訴訟可蒙 聖断条々」『宮寺縁事抄』)
 平安末期、保元の乱の頃に全国的に神人が増えた。朝廷も抑制にかかるほどになった。平家等の武士の台頭に対する荘園領主の側が防御策として採った策なのかもしれないが、彼ら神人(じにん)はどうやって神人たる資格を得るのか。
 石清水の場合、本宮をふくめて、その荘園の住人が石清水の神人であることを申請する。その際、「礼銭」なるものを納め、いわば賄賂のような形で申請し、それに対し、石清水が補任状のようなものを出して神人になるのである。
 平安時代に神人はどれだけいたのか。
 本宮に直属していた神人は5、600人ぐらいだと云われる。時代は後代の慶長5年であるから関ヶ原の合戦が行われた時期に、600人程の神人が確定されている。(慶長5年5月「八幡山上山下知行高帳」(『石清水八幡宮史』6)
 もちろん、石清水の荘園は全国に散らばっているわけだからそれらの荘園の神人を含めると1000人は下らないと思われ、本宮に直属する神人は、八幡をはじめ淀や大山崎など淀川筋に多いのが特徴である。
 ここではっきりしておかなければならないのは、神人とは石清水の場合、放生会に奉仕する、例えば「火長陣衆神人」や「御綱引神人役」、「御前払神人」など祭礼に供奉することを担わされていたということである。だが、それは神事の場であって、日常は、大山崎に見られるように、油を商いとして商業活動を展開しているのである。
 重要なのは、放生会の場合、祭礼を担うグループが座として組織化されたということである。同時に、日常の場でも職業を通じてギルドとしての座が組織され、独自に機能しているということである。これは、石清水の神人の特徴的なことといえる。また、神人は様々な階層の人たちで構成されていた。中には金持ちの「有徳人(うとくにん)」もいて、その経済力が祭祀を担ったといえる。

3、安居会と八幡のまち

 今日は、安居(あんご)の祭について深く考えてみたいのでそちらの方に移りたい。安居会は、本来4月から7月まで行われた僧侶の懺悔(ざんげ)の修行である。夏安居というのがそれである。その際、その経費を負担するのが全国に散らばる石清水の荘園の有徳人であった。
 最大のイベントは7月15日(江戸時代は12月15日)で、祭礼が荘厳化されるのである。今行われていないが、江戸時代まで行われた。
由緒によれば、頼朝がその礼幣使節を出したのがきっかけとされている。石清水は、そのことをもとに安居会(あんごえ)は武家の祭礼であると規定したのである。頼朝は、例の大仏再建の東大寺に来た折に、源氏の氏神である石清水にやってきた。その時に、石清水側が頼朝に働きかけて武家祭祀として安居会が始まったのではないか。現に、頼朝が亡くなった後、鎌倉幕府は安居の費用を御家人に賦課している。
 この安居の祭は石清水独自のもので、他の八幡社では行われていない。私の住む平塚には八幡宮があるが、それは鶴岡八幡宮の勧請のものではなく、石清水からの勧請によって成立した。従って、安居の負担を平塚を支配する御家人たちが担わされていた。無論、それは平塚に限らず石清水の神領や別宮がある所なら全て安居会に奉仕しなければならなかったということである。
 鎌倉御家人はその負担を拒否した者もいたが、頼朝亡き後、執権によって、それは一生に一度のことだからと説得されているようだ。具体的には安居の費用として石清水に送金するのである。
 石清水の膝元である地元八幡ではどうか。
八幡の神人は、放生会も奉仕するが、安居会にも奉仕するという。但し、八幡では町ぐるみで安居の祭を支える体制ができた。
 鎌倉時代の末頃に、八幡は四郷(しかごう)(科手・常盤・山路・金振)が成立し、南北朝期から室町期にかけて町の体制が固まる。重要なのは、町の体制が固まってゆく際に安居神事がその紐帯として機能していることである。つまり、町の自治を支える精神的バックボーンとして安居の祭が存在しているのである。
 安居の頭役(とうやく)(安居神人)は前の年の7月15日に任命され(差符((さしふ))、鎌倉時代までは、全国に頭役が掛けられたが、南北朝を経て室町期・戦国期になると石清水の神領は、遠隔地で消滅する関係から、安居の頭役も、山崎や淀、楠葉、交野など八幡周辺の神人に絞られてくるようになる。
 頭役に任命されると、一年間は潔斎し、江戸時代の由緒によれば、なんでも洞ヶ峠の芝を持ってきて家の前に壇(オダン)が造られるらしい。そして、その壇を地鎮のように礼拝する作法もあったとのこと。詳しいことは不明だが、安居の祭のメーンイベントは、数十人で大木(松カ)の大木を石清水の山上に綱で引きあげて行く(いちの鳥居から猪ノ坂へ)というものである。
本殿の前庭に、6本の大木が立てられ、その宝樹大木には装飾(幡・華鬘・灯籠)が施されるという。
 実際にはどれくらいの経費が掛ったかわからないが、大山崎神人が行う日使頭(ひのと)祭(さい)(大山崎神人が4月3日に石清水に奉仕する年に一度の祭礼)で500貫文の費用がかかっていると室町幕府が算定したので、それに匹敵するとして相当な負担であったことがわかる。
 この安居は、石清水にとって、そして神人にとって、また幕府にとってそれぞれ意味があった。
 まず、室町幕府にとって安居会の意味を考えてみたい。
安居会は、頼朝の命によって始まった由縁がある。足利家は尊氏を始め頼朝伝説を信奉しているからそれを遵守したい思いはある。そのため、安居には尊氏自身、阿波の所領を寄進する程に保護している。それは、足利家の安泰を祈願するためでもあった。また、安居会は武家祭祀なのだから将軍家としてそれを遂行する自負もあったと思う。
 石清水側はどうか。祭祀を行う事で財政が潤うというメリットがあった。ことに戦国期になれば全国の神領が武士によって奪われていくのであるから、祭祀は石清水にとって財政上の補填(ほてん)になるのである。
 神人にとって安居頭役を担うということはどういうことなのか。
それは特権を得るということであった。特権の一つが免税特権である。つまり石清水八幡宮に属しているということで、通行特権や土地に対する免税特権を得ることができた。
 八幡は、鎌倉時代以来、守護不入の特権(=アジール)を持っていた。つまり、国家権力が介入できない土地であった。治外法権の場であったのである。だから逃亡者が逃げ込んで来る場でもあった。また、神人でなくても、八幡に住んでいる限り土地に対する税金が掛けられないことになっていた。また、石清水の権威が大きければ大きいほど、石清水神人はどこにいても石清水神人として保護された。乱暴狼藉が加えられれば、石清水として国家に訴えられ、その身分が保護・安堵されたのである。
 つまり石清水の保護下で商売(営業)ができる。石清水の祭祀を担っているということで商売ができる。故に彼ら神人は「神職商売」(神事興隆のための商売)と自称したのである。この言葉は戦国期に生まれたものである。彼らの「商売」が危機的な情況に追いこまれた中で殊更に叫ばれたものであると云うことも見ておかなければならない。
 
 ※ 配布資料から
 資料から確認したい。放生会神人の神役を紹介した中に、「御綱引神人」がいる。鳳輦を引く役ではあるが、言葉のルーツとして淀の船を綱で引く神人という意味があるのではないか。ちなみに、応永13年の放生会の御綱引神人役に淀庄16人があるが、これは淀の廻船業の者たちなのであろう。
 次に、鎌倉時代と戦国時代の安居会頭大差(だいさし)符(ふ)を紹介したい。安居の頭役(有徳人)として誰が任命されたのかというものであるが、どこに住んでいるのかに注目してみたい。
 鎌倉期のもの(正応2年<1289>)で見ると、常盤や科手、金振、楠葉、淀が見られるが、松原(播磨)や萱嶋(阿波)、野上(紀伊)、伊予(玉生)など遠隔地も結構多い。それに対し、戦国期のものは一つだけ史料が残っている(天文13年<1544>)。それによれば金振・山路・科手などや内里・戸津・美豆・際目・下奈良など八幡の地名の他は、交野・楠葉・淀など比較的八幡の近郊が多いことがわかる。

4、安居会の中断と復活

 ところが、安居の神事は秀吉の時代に中断されている。
天正12年(1584)から天正17年まで山城検地(太閤検地)が実施され、八幡の人たちは抵抗しているようだ。抵抗した理由には、検地によって秀吉の代官に石高が掌握され余剰が奪われてしまうということもあったのであろう。そして、検地への抵抗という意思を示すということで、安居会は天正17年から慶長5年(1600)まで中断されたようだ。
 それが復活したのは、志水家から出たお亀さんの働きかけもあるが、徳川幕府の意思だった。石清水八幡宮は源氏の氏神である。家康も崇敬する頼朝の命によってなされた安居会を復活させるのは源氏の末裔の意識のある徳川家であれば当然の措置であった。尤も、これまでの安居のメーンイベントが7月15日の夏であったのに対し、慶長期に復活する安居は12月15日がメーンで冬安居といってよい。
 家康も秀忠も八幡を守護不入の地とする。もちろん、この時代に守護などいない。要は検地をしないということである。秀吉は八幡を直轄地にした。徳川はそうではなく、検地をしないで、中世にあったアジールを存続するのである。そういう意味で、八幡は稀有な所だと言える。それを支えたのは安居会であった。
放生会は戦国期に中断し18世紀まで復活しないが、安居は江戸時代初期に復活する。徳川幕府の厚い保護政策があったからである。
 先程も紹介した慶長5年の「知行高帳」によれば、侍身分の安居本頭神人が内四郷12町に18家、60人いたことが確認できる。以下、各町にどんな安居頭人がいたのか示しておきたい。
 
 科手郷 ・・・ 科手町(福田)・橋本町(橋本)
 常盤町 ・・・ 田中町(片岡)・柴座町(喜多村・小谷・片岡・松田・北村・柏村・小寺)・
          紺座町(片岡・山内・横田)
 山路郷 ・・・ 山路町(森元・山岡・小寺)・森之町(森元)
 金振郷 ・・・ 薗町(林・小谷)・馬場町(神原)・志水町(志水・小篠・宇野田)・
          神原町(神原)・城内町(松田)

 ここで、有名なのは片岡道二である。もともと片岡は祠官家である田中家の政所を勤め、秀吉が台頭してくると、片岡は秀吉と密着し、八幡惣中を統括するまでになる。だが、徳川政権になると片岡道二は追放され、その領地は没収された上に、安居の費用を賄うために使われるという経緯をたどることになる。
 このように、安居頭役を勤める程の神人たちは、祠官家の政所を勤めるなどして力を蓄えてきたという面も見逃せない。
柴座の柏村も注目したい。柏村は山路郷の森家や森元家と結びついて酒や麹で財をなし、土倉(どそう)として金融活動に関与するようになる。
 金融活動と云う点で面白い史料がある。『室町幕府引付史料集成』にあるもので、永禄4年(1561)の「石清水八幡宮神人申状」に「為安居頭役勤、極楽頼子合力之事令興行訖、然者不可有改動之旨」とある。要約すれば、八幡宮の神人が、自分たちは安居頭役を勤めるために、極楽頼子(たのもし)(金融活動)を行っているのだから徳政をかけるのを止めよというものである。本来、徳政令は、利子を生みだす全ての金融活動の債務を破棄するために室町幕府が強制した施作であるが、石清水の神人たちは、自分たちは安居頭役(あんごとうやく)を引き受けることで神職を果たすのだから、徳政令はあてはまらないというのである。そして、幕府は彼らの言い分を認めているのである。
 また、彼ら神人は交通特権として自由通行権(関銭免除)や物流・売買の独占権があった。淀の問丸など廻船業に携わる者は石清水の神人であることでそのことが保障されていたのである。

 
5、境内都市「八幡」が蔵のまちであったこと

 ガスパル・ビレラというポルトガル宣教師(バテレン)が八幡の事を次のように語っている。
「日本人は之(石清水八幡)を戦争の庇護者となす。(略)当所は悪人の潜伏する所にして、予も始めて殺されんとせし時、都より遁れ8日間此所に匿れいたり、(略)都への通路にして又参詣者甚だ多きが故に商売繁盛して、此地の住民は甚だ富み、其家は大きく且つ構造好く立派なり」と。
 また、「(神聖)不可侵の(の地と見なされ)、特権を付与されていて、同所(八幡)に逃亡した者や、そこに隠匿した財産は、従来まったく危害を被ることがなかった」(『フロイス日本史』)とも述べられている。
 私は、石清水八幡宮との関わりで、八幡と淀と大山崎の三都の機能が分担されていたと見ている。大山崎は商売のまち、淀は廻船業の町、そして八幡は蔵の町だと。
 八幡には、蔵がたくさんあった。土倉もその一つ。金銭や米穀だけではない。預かり物が随分あった。
 戦国時代は、預け物の争奪戦が繰り広げられた時代である。八幡は権力者が介入できない守護不入の地であるから、そこに様々な物を隠匿することができた。
 どこに預けるのか。一つは山上の僧坊である。
千利休は茶壷を預けている。茶葉の入った茶壷を、松花堂昭乗の師匠である瀧本坊実乗に預けているのである。実乗は利休とは昵懇の間柄であった。利休が秀吉と小田原に赴いた際、瀧本坊実乗に手紙を書いていることでもそのことがわかる。そのように、どこかへ出かけた際に、大事な物を預ける所が八幡であった。預ける所には土倉もある。神人である片岡は高価な香炉を持っていた。その名物は信長に買収されたという。
 正法寺も大事なものを預かっていた。正法寺の正寿庵が野尻という国人の茶道具や『太平記』を預かっている。その仲介をしたのが、小篠(おざさ)という侍神人であることも付け加えておきたい。

 講演の後、質疑応答がありましたが、いつにもまして質問が多く寄せられ、関心の高さをあらわしていました。質疑の内容は紙面の関係で割愛しますが、安居会のイメージを問うものや山上の僧坊と大名等の師檀関係を聞くもの、神人のあり様を聞くものなど更に研究の成果を聞きたいとするものばかりでした。参加者はKCATなどマスコミ関係者をふくめて59名。 (文責 土井三郎)

以下に「一口感想」と、事務局からの要請に応じて下さった感想を紹介します。

◎ 貴重な資料による講演、ありがとうございます。訴訟の覚書、目録の一つからでも多くのことがわかることはすばらしいことだと思いました。引き続き、鍛代先生の研究成果をお聞きする機会を設けていただくことを期待します。(T)
◎ 蔵の町八幡が、八幡宮寺、神人、祭り、特権など各種の要素があって、非常に栄えたのであろうと思え、貴重な話を聞くことができました。」(S)
◎ 当時の為政者が神人の身分に様々な特権を与えた本当の意図はどこにあったのでしょうか! (H)
◎ 神仏をバックにした特権商売人は昔も今も変わらぬ存在やなあ、と思いました。所属寺社の為になっていることは確かですが。(M)
◎ この春に「片岡家文書の伝来過程から見た男山の国際文化」の講義を受講した。片岡家は武士であったが、常盤郷田中町の神人片岡は同じ武士かどうか疑問が残ったが、学ぶ都度新しい発見があるので楽しいです。( N )
◎ 石清水八幡宮の祭とそれを司る神人の実態を知ることができた。また、それを背景にした権力の強化や経済活動の庇護を受けていたこと等がわかった。( U )
◎ (私の住む)地元では社寺に関する調査・研究がすすんでおりません。関心も低いようですが、今日参加された方々は皆熱心で、レベルの高い質問を繰り広げられる様子におどろき、刺激を頂きました。また、機会があれば参加させて頂きたいです。(個人的に地元の神社文書を研究しています)(A〔綾部市在住〕)
◎ 今回初めて講演を聞いていろんな繋がりが見えてきました。皆様と同様、資料を眺めるよりもライブの講演によって歴史が生き生きとし、微妙なニュアンスも多く感じ取ることができました。神人による安居頭神事については、一生に一度祭主を勤めていたようですが、天正17年から慶長5年までの間は中断されたとの由、中断の直前と再開直後の安居神事の祭主が判りました。神人の公的な役割(奉仕)は谷村家譜などから概ね以下の通りです。
 1.放生会勤仕
 2.安居神事の執行
 3.江戸尾張への年頭御礼/白書院拝謁(江戸時代)
 4.為八郷本頭社士當役(江戸時代)
 研究者の間では八幡の安居神事が興味深い研究対象になっているようですが、講演を聞いて、市井の郷土史家の立場から今後も更に研究したい思いが強くなりました。
  (谷村勉)


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by y-rekitan | 2012-08-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第18号より-03 石清水祭

「俄神人ニ成候」-石清水祭参加記

土井 三郎  (会員)

 9月15日午前0時40分。暗闇の中、白装束をバッグに詰め、近所の方が運転する車で石清水八幡宮に向かう。途中、会のメンバーでもあるOさんやMさんも乗り込む。
 体育研修センターにて神事の衣装に着替える。日頃着つけないものなので時間が少しかかったが、帯を締めると神人(じにん)になった気になる。 本殿前に集合。童子・童女を含め大勢の人々が集まってくる。五百人程の数になるとのこと。
 待つこと1時間余り。ようやく宮司以下の参進がはじまる。f0300125_223359100.jpg
 御前(みさき)神人を先頭に、火長陣衆(かちょうじんしゅう)、火燈(かとう)陣衆等が続き、御弓(おゆみ)・御幡(みはた)・御鉾(みほこ)を携えた神人が厳かに歩み始める。私たち1対の真榊(まさかき)を担ぐ(奉舁)神人は計10名。五色絹をつけた大榊は結構重い。
 ことに、三ノ鳥居を過ぎて石段をそろりそろり降りて行くところは、提灯の灯りだけが頼りなのでよほど注意しないといけない。二ノ鳥居を過ぎたあたりから平坦な道となり、ほっとする。
 篝火に照らされた参道を歩む内に後の方から典雅な雅樂が聞こえてきた。やがて、行列が絹屋殿に到着。真榊を参道脇に降ろし汗を拭う。そして、未明にも拘わらず参集した見物客とともに、里神楽を眺めた。
 頓宮神幸の儀に則して真榊を頓宮本殿の脇に降ろして一日目の供奉(ぐぶ)を終えた。時刻は午前五時。そろそろ夜明けである。
 労いの品を受け、家に帰りシャワーを浴びる。冷えたビールが旨い。そのまま寝入ってしまった。午前八時から始まる放生行事を観に行こうと思っていたが、気がつけば午前九時過ぎ。
 写真はJさんに撮ってもらった。今年は、延暦寺の僧侶が放生行事に参列したとのことである。
 石清水祭に参列するよう勧められたのは数日前であった。百聞は一見に如かずということで、「俄(にわか)神人」を引き受けたのである。
 歴史のある石清水祭。明治以前では「放生会(ほうじょうえ)」と言われた。その名の通り仏教的な色彩の濃い祭礼である。f0300125_22365993.jpg
 『広辞苑』(第四版)には、「石清水八幡宮放生会」を720年(養老4)の創始としている。だが、これは変だ。石清水八幡宮寺が男山に勧請されたのは859年(貞観元)だから、それをさかのぼること140年も前ということになる。尤も、720年という年は、宇佐八幡宮において初めて放生会が行われたとされるので、根拠がないわけではない。
 ところで、宇佐八幡宮における放生会の来歴には諸説ある。宇佐八幡神が隼人征伐に赴き殺生をしたことを悔い、それで放生会を執り行ったというものである(『宮寺縁事抄』)。
 また、この時期(和同~養老年間)、「国家的体制の思想的基礎が固められ」、都に興福寺や法興寺・薬師寺等を遷すなど「政治が仏教の助けを借りようとした」との指摘がなされる(中野幡能著『宇佐宮』)。宇佐八幡の神宮寺としての弥勒禅院が建立したのもこの時期である。

     和銅元年(708) 武蔵国が和銅を献ずる。和同開珎を鋳造。
                伊勢神宮に平城宮造営を告ぐ 
         2年(709) 蝦夷征討。隼人来貢 
         3年(710) 平城遷都
         5年(712) 『古事記』を撰進 
         6年(713) 『風土記』の編纂を諸国に命ず
     養老 4年(720) 『日本書紀』を撰進

 八幡宮が神仏習合の神社であったという歴史的経緯は国家の施策と関わって興味深い。 さて、15日は夕刻より還幸の儀が執り行われる。私たちは白装束姿で頓宮に集合。夕闇の中、御鳳輦(ごほうれん)発御に供奉する。
 今度は登りである。ようやくにして登り切り、本殿前に真榊を納めた時はさすがに安堵したものである。汗びっしょりになったが一仕事成し遂げた爽快感があったこと云うまでもない。

          祭礼の篝火映える参道に 
                 進む鳳輦月も清かに   幸春

by y-rekitan | 2011-09-28 10:00 | Comments(0)