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◆会報第81号より-06 八まん宮道

「石清水八まん宮道」に悠久の歴史がある


 谷村 勉(会員)


【八幡の道と空海】


 高野街道とは嘗て空海が高野山への道をとったという古い街道を指しました。
空海が実際に高野山へと足を運んだと思われる八幡の道は橋本にあります。
大山崎・橋本間の淀川に架かる「山崎橋」(神亀2年・725架橋)を大山崎から橋本に渡り、楠葉、招堤南町の「日置天神社」を通って出屋敷、津田の集落に入る道です。橋本の近く楠葉中之芝の「久親恩寺」に古い地蔵道標がありました。

f0300125_1422085.jpg 鎌倉期の道標でしょうか、両手で宝珠を持つ「地蔵菩薩立像」の崩れた光背の左に「すく 八まん宮」、右には「右 かうや 左 はし本道」と彫られて、橋本から楠葉を通る旧高野道の存在を証明する貴重な地蔵道標だと確認できました。
 空海は石清水八幡宮遷座の25年前に入定しています。八幡宮遷座後、八幡の北の限りである橋本町や科手町は淀川水運と共に早くから道や町々が整備され、その後に男山東麓の南北の道が整備されていきますので、空海が洞ヶ峠に至る男山東麓の道を歩くことはありませんでした。八幡宮が遷座される以前の道路は現京田辺市大住の府道22号関屋橋から内里を通り木津川に沿って伏見区淀美豆(旧八幡神領内)に至る「旧山陰道」と府道22号関屋橋から分岐して志水廃寺跡(八幡月夜田)周辺を通り、丘陵を越え足立寺跡付近から楠葉に入り橋本へ向かう「旧山陽道」の二つの古代官道を中心に発展して行く経緯があります。

【八幡の宝物】


 江戸時代の中頃に描かれた「石清水八幡宮全図」をご存知の方も多いと思いますが、八幡にとりましては「宝物」と云えるような絵図で、八幡の歴史の底力を感じさせる作品です。
八幡市民図書館(八幡菖蒲池)の入口のロビーやふるさと学習館1階展示室(八幡東浦)にも同様の実物大の絵図が展示してあります。ゆっくり見て行くと色んな事が読めてきて楽しくなります。当時の地形や神社仏閣、建物などと共に、幸いにも今も沢山残る各町名や歴史上に出てくる史蹟名勝など八幡の歴史を確認する手引きとしても貴重な絵図で、江戸時代の町の様子を伝えるこの絵図こそ我々の「宝物」といえます。いつかこの絵図から読み取れる数々の物語を解説できる機会があればと思う程です。絵図の北側に「御幸道」と「京街道」が交差する地点に「御幸道立石」と書かれた箇所があります。これが「男山考古録」に記されている「正徳3年(1713)」に「石清水八幡宮検校新善法寺行清」が建立した「石清水八幡宮鳥居通御幸道」の石碑で一の鳥居までの「御幸道」(行幸大路)を指しています。この石碑は現在も残り、御幸橋の付け替え工事で八幡宮の頓宮の中庭に一時保管されていることが分りました。
 明治になって、木津川、宇治川の流域が現在のように変わった為に、「御幸道の石碑」の位置も変わりましたが、年度内には御幸橋の南詰に再び建つと「市の担当者」から聞きましたので、300年前の江戸時代に建立された歴史的文化財として、じっくりこの石碑をご覧ください。
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【やわた道標の調査】


 一昨年から凡そ2年をかけて八幡市内はもちろん近隣自治体を含め、江戸時代の道標調査を行いました。「やわた」の文字や里程が彫られた道標を「やわた道標」と捉えて、その写真撮影とともに自治体別に「やわた道標」の本数を確認しました。総数で76基ありました(八幡の22基を含む)。詳しい内容は別の機会に報告しますが、それぞれが歴史的価値のある重厚な道標群でした。
 京都市内では南区唐橋羅城門の矢取地蔵堂前に「左 やわた八幡宮」と彫られた道標を含めて8基がありましたが、八幡に近い伏見区に7基が残り、長岡京市に1基、大山崎町に1基ありました。
大阪府には枚方市に26基もの道標があって「八まん宮道」、「八まん道」、「八幡街道」などと彫られた見事な道標が残っています。高槻市には3基、茨木市は1基、交野市に2基、寝屋川市に2基、四條畷市に3基、大東市に2基、東大阪市には5基があり「やはた」、「京 やわた」、「やハたみちすじ」などの文字が強く印象に残りました。このように今でも近隣自治体には多くの「やわた道標」が残り、自治体や住民にとって江戸時代の道標は大切な文化財であると自覚して、できる限り現場保存に努力し、大事に扱われている様子がひしひしと伝わってきました。
          
【八幡の道は八まん宮道】


f0300125_14533014.jpg 「八幡」へ案内する道標の数々は主に江戸時代に入って街道が本格的に整備されるに従い、往来する人々も飛躍的に増大しました。それに伴って道標もその地方の住人や有徳人、信仰心のあつい人々によって建立されたようです。「地蔵菩薩像」の道標が大変多く目につきますが、墓石に道案内を刻んだ道標も有りました。
道標には「京・やわた」をセットで案内するケースも目立ちます。現代の様な案内地図や電話もない時代ですから“やわた道 石の地蔵に 聞いて行く”と多くの地蔵道標に道を教えられては、ほっとするような息遣いが感じられ、「京やわた」の文字を見ては、都に近く何となく「みやび」な雰囲気を感じ取っていたかもしれません。
 八幡以外に54基もの道標群が「八幡道標」として現存します。如何に多くの人々が八幡宮参詣道としての「八幡の道」を歩いたものでしょうか。特に河内や大和、摂津の人々の往来が多く、放生会や安居神事の祭には沢山の人々がその役割を担ったり、多くの参詣人で賑わう様子が古文書からも読み取れます。
 「やわた道」あるいは「京やはた道」の道標に導かれた人々が実際に八幡宮の神領に入れば「八幡宮道」と書かれた道標が多く目につき、いよいよ「石清水八幡宮」も間近に迫っているのだ、と実感したものでしょう。
 「京・やわた道」「やはた道」「八まん宮道」の道標は八幡に数多くありますが、これだけの「やわた道標」の数の多さは一体何を物語っているのかはすでに明らかです!それに比べて男山東麓の南北の道に「東高野街道」と書かれた道標は1基もありません。これらからも八幡では決して「東高野街道」と呼ぶような道はなかったことが誰でもすぐ理解できます。江戸時代に、さも「高野道」や「東高野街道」が男山東麓を走っていたとするような文章があればこれは間違いです。歴史を解説する場合はその当時の常識や規範(スタンダード)で語らねばなりません。現在の規範をあてはめて解説するのは間違いのもとになります。ここは歴史を語る者が一番気を付けるところです。
 八幡では「八幡の道」の名称を他の宗教施設を連想するような名称に置き換えるようなことは決してありませんでした。「男山考古録」でも洞ヶ峠辺りから大阪寄りの道を「高野道」と呼んでいたことが明らかです。古来八幡に「東高野街道」という名称の道は無かったという真実を知って「ビックリする人」がなんと多いことでしょうか!
 凡そ90年前、昭和初期に八幡のあちらこちらに「三宅碑」(京都の三宅安兵衛遺志碑)が建てられました。その三宅碑の建立場所については「西村芳次郎」(当時の松花堂所有者)が大きく関わって、男山東麓の南北の道も「高野道」としたかったような気配が感じられますが、住民から受け入れられるものではなく、仕方なく西村芳次郎をしても、現在の月夜田交差点にある「右 高野街道」(昭和2年建立)の三宅碑を建てるのが精一杯だったようです。但し元々この「三宅碑」はここに建ってはいません。現在の「宝青庵」(もみじ寺)と中ノ山墓地の間の旧道(本来の古道)にありました。右に行けば洞が峠の高野道に至るという意味です。志水町(道)のはずれがすぐ洞ヶ峠という認識が当時は在ったのかも知れません。なお、この三宅碑には「文学博士 西田直二郎書」とあって、何とも含蓄のある石碑に見えます。
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【借物では「宝物」になり得ない】


 楠葉中之芝の「久親恩寺」にある両手で宝珠を持つ「地蔵道標」が橋本から楠葉を通る旧高野道の存在を証明する「地蔵道標」であることが判り、これは楠葉はもちろん、八幡の橋本にとっても「宝物」の発見になりました。
 また江戸時代から伝わる「石清水八幡宮全図」も「宝物」です。これ程の絵図を他の地域ではあまり見かけません。しかも江戸時代から繋がる町名や道筋がそのまま残り、いろんな歴史の舞台となった物語がこの絵図から次から次へと浮かび上がります。
f0300125_14584216.jpg 八幡や近隣自治体の「やわた道標」の調査では総数76基もの道標が残っていました。その殆んどが江戸時代に建立されたもので、歴史の重みを感じさせるほどの重量感がありました。京都市内ではやはり八幡の近くの伏見区に集中しており7基が残っていました。一つの自治体では概ね1基あるいは2~3基程度でありましたが、近隣の枚方市では牧野、楠葉を中心に何と26基もの道標があり、昔から同じ八幡宮文化圏であったことが窺い知れます。八幡には22基の江戸時代の「やわた道標」が残っています。「すぐ八幡宮」「やわた道」「八まん宮道」と書かれた道標群はこれらも我々のかけがいのない「宝物」です。
 さて、最近になって「石清水八幡宮参詣道」として「やわた道」、「八幡宮道」などはるか昔から八幡信仰の道として、その役割を果たしてきた男山東麓の道を「東高野街道」などと言い出して、誰が何時建てたか解らない薄っぺらな道標が僅か3kmの距離に13基も建ってしまいました。常識的に2,3基もあれば十分の処に、13基もの道標を建てないと信用してもらえない、との思いからでしょうか、これでもか、これでもかと建つ姿を見て、段々見苦しくなりました。この道標に歴史観を彷彿させるものがあるのでしょうか。
 自ら歴史的な調査も実施せずに、何処かの学者の意見を鵜呑みにするだけで建てたようですから間違いだらけで、理屈に合わない無駄な道標が沢山あるように思われてなりません。聞けば平成に入って、大阪から発信された歴史街道運動に乗っかって、観光集客を目的に建立したようです。我々八幡の住民に殆ど馴染みのない「高野街道」がなぜ八幡に突然に出現するのか?驚きです。この様な高野山ブームに乗っかったような借物の名称では八幡の「宝物」にはなり得ません。先般、八幡のとある協会のネット記事を見ていると、八幡は「東高野街道の宿場町」であったという誤った引用記事を掲載していました。何をかいわんや!事実誤認を誘引させるネットの引用記事は安易に掲載しないのが鉄則です。
       
【男山東麓の道は「石清水八まん宮道」がふさわしい!】


 我々の世代が受け継いできた八幡の歴史は次の世代にもしっかり引き繋いでゆくことこそ歴史や伝統が繋がりをもって活きてきます。男山の東麓を南北に走る道の名称は八幡の住民にとっては歴史的にも、江戸時代の道標の数々の存在を見ても「石清水八まん宮道」とあってこそ本物でネイティブな名称であり、通称「八まん宮道」だとすれば、近隣の八幡道標や八幡市内の道標と結びついて、一気に歴史が繋がり、ここに悠久の歴史を感じるとることができるはずです。現在、日本で一番多い神社は八幡神社で、いたる所に「八幡宮道」や「八まん道」があると想像されますが、「石清水八まん宮道」の名称であれば、ここ八幡にしかない固有の道になります。
 八幡に男山あって高野山なし、八幡に「八まん宮道の道標」あって「高野道の道標」なし、八幡に「石清水八幡宮」あって「八まん宮道」あり、八幡に「石清水八幡宮」あって「宝物」あり。
 八幡の歴史を調べてゆくと、幸いにも八幡にしかない「宝物」が続々とでてきます。一般には殆ど知られていない歴史的事実や文化財などを含めて驚くほどですが、残念なことに自治体には発信力が期待できそうにありません。市井の郷土史家の活躍こそが期待されるところです。八幡の歴史を探究し、自分の目で確かめ、信頼される確かな情報を共に発信してゆきたいと願うところです。  
以上  

by y-rekitan | 2017-09-26 07:00 | Comments(0)

◆会報第81号より-07 本の発刊

『石清水八まん宮道』にいざな道標みちしるべ
―江戸時代の八幡道標―
の発刊にむけて

「八幡の道探究部会」編集委員会


 2015年10月に古道の調査を目的として本会の専門部会「八幡の道探究部会」を立上げて活動しています。その一環として編集委員会を設けて約2年間の道標調査結果を取りまとめて題記の冊子を発刊する準備を進めていましたが、このたび予定通り発刊する運びとなりましたので概要をお知らせします。

出版の趣旨

 八幡の古道を歩いてみると、当時の人々が生活する上で必要、かつ現在も貴重な道標(みちしるべ)が多く残されています。しかし残念ながら壊されたり、倒されたり、あるいは他所に移されたり、意味のない形で放置されているものも見受けられます。一方で八幡市に通じる市外の古道には、石清水八幡宮や八幡を目指す多くの道標が残り、現在も大切に保護されています。 
 本書は150年以上前の「江戸時代」に建立された八幡市内及び市外の「八幡道標」ともいうべき道標群を「昔と今を結ぶ掛替えのない歴史遺産として保護し」、「後世に引き継ぎたい」との強い願いから、現状を会員が自分の足で調査した結果をまとめて出版を企画・実施したものです。

本の主な記事

f0300125_9283025.jpg1.刊行にあたって
2.江戸時代の八まん宮道 エリア
  区分地図
3.道標群の紹介―以下の合計76基
  ・八 幡 市 :22基
  ・京都市内:8基
  ・長岡京市:1基
  ・大山崎町:1基
  ・高 槻 市 :3基
  ・茨 木 市 :1基
  ・枚 方 市 :26基
  ・交 野 市 :2基
  ・寝屋川市:2基
  ・四條畷市:3基
  ・大 東 市 :2基
  ・東大阪市:5基
4,八幡道標の調査を終えて
5.編集後記


お願い(2017年10月12日発行)

 是非、一人でも多くの方が冊子を片手に各地の江戸時代と現在を結ぶ八幡道標を訪ねられる事を願っています。道標に関心をもっていただくことが、道標の保護にもつながると確信し、最後の仕上げをしています。 
掲載している地図は、現地で迷わないように道標設置の場所をピンポイントで示しています。
 本書はA5版フルカラーで96ページになる予定です。本書は“本会で自家編集し、それをそのままネット印刷で本にする”ことで極力廉価で皆様にご提供できることを目指しています。
 発行日は10月12日の予定で、10月例会(講演と交流の集い)会場でもお求めいただけますように準備中です。

※)本書の刊行に関する事前問合せは、編集委員会 高田昌史 宛にお願いします。
  電話 090-2011-7503 または メールtakata@cd6.so-net.ne.jp

by y-rekitan | 2017-09-26 06:00 | Comments(0)

◆会報第80号より-05 京街道

八幡の「京街道」は川底に沈んだ

谷村 勉(会員)



不適切な表現の八幡の「京街道」

 八幡市観光協会が発行している観光散策マップなるものを見て愕然とした。
 「科手道」と古くから呼ばれて来た道を「京街道」と書いてあった。これは大間違いである。歴史的無知もいい加減にしろというような代物である。
 八幡の京街道は大雑把に言って、橋本奥ノ町の楠木、現在、この楠木を伐る、伐らないと物議を醸している「ふるさとの木第1号」の大きな楠木辺りから宇治川に架かる「御幸橋」を結んだ線上にあった道が「京街道」であって、線上の伏見区淀美豆(旧八幡神領)には京街道が今でも残り、淀市街へと続いて、往時の街道の姿を偲ぶことができる。現在は明治初年から始まる木津川付け替え工事等によって、木津川と宇治川の川底を「京街道」が走っていることになる。
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今の三川合流の姿に落ち着いたのは昭和5年になってからで、明治になるまでは木津川、宇治川(淀川)、桂川は淀城付近で合流していた。上記、江戸時代作成の「石清水八幡宮全図」から旧京街道の位置が判る。現在の木津川は「科手道」の直ぐ北側を流れ、府道13号道路が走り、「科手道」の南側を京阪電車(明治43年開通)が走っている。

歴史を刻んだ「科手道」

 「科手道」のシナデ(科手)とは古代より“水辺にあってその目印になるべき処”という意味らしい、桂川、宇治川、木津川が合流して淀川となる、まさにその喉仏に当たる重要地点であった。古くから科手郷に住む住民にとっては特に八幡宮遷座以来、「八幡宮参詣道」として、あるいは「生活道」として「科手道」の歴史を刻んできたのである。秀吉によって「京街道」が整備される遙か以前から「科手道」は存在してきた。観光集客のためと言って、八幡の道を歩いてもらうように仕向けるのは大いに結構であるが、「科手道」と「旧京街道」の名称や位置を記入して、きちっと説明しなければならないのではないか。
なぜ地元本来の名称を堂々と使用しないのか首をかしげる!
 八幡の歴史、「科手道」の歴史を知らない者が八幡の歴史を知らない観光者に間違った案内をするようでは、真の歴史を到底後世に伝えられない。これでは「科手道」の歴史的存在さえ危うくなりかねない。八幡は歴史の「宝庫」と愛着を持つ住民にとって、こういった軽率さには腹立たしく、憂えざるを得ない。八幡の歴史に誇りや愛着がなければ次世代の人は八幡から去るであろう。歴史や文化財を大切にと言うフレーズだけは耳にするが、実態はズレてしまっている。f0300125_20332170.jpg
 戊辰戦争の最終局面で八幡の表玄関の町々が焼かれ、新選組・幕府軍が敗走する道が「科手道」であり、その「科手道」を追走したのが官軍であった。幕府軍の兵士が斃れていった「科手道」の身近な歴史の一例がある。
 ボランティアのガイドが「観光散策マップ」から俄か仕立ての作文を言われるままに説明し、はたして本当の歴史を語れるものか心配である。石清水八幡宮参詣道を「東高野街道」と称して、僅か3kmの間に13基に及ぶ無駄な建碑を行った二の舞の感性や発想の繰り返しはお断りしたい!

「歩く人」増えたが

 石清水八幡宮の国宝指定によって八幡さんにお参りする人は、見た目にも増えている。ケーブル乗り場も以前よりにぎやかだ。しかし一度八幡を歩いた人がリピーターとして来るだろうか。八幡市にリピーターに足を向けさせるような環境整備が進んでいるだろうか。多くの人々に聞いても、疲れた足を休めるところもないと、落胆して帰る人が多いと聞く。
 さて、「京街道」と名がつけば5m前後の道幅が普通だが、橋本奥ノ町の幅2mギリギリの道を街道とは言えない。たまに通りかかった時、ここは「京街道」でしょうか、と聞かれることがある。ここは古来、科手郷の「科手道」であり、「京街道」は川の下ですと、説明する。歩く人も怪しいと感じるのでしょう。
 旧京阪国道(府道13号)である堤防道や河川敷のサイクリングロード?を「京街道」と言った方がむしろ納得できるが、「科手道」を指して歴史上一度も呼称したこともない「京街道」との表示は全く理解不能で、このように実際になかったことを事実のようにでっちあげることを一般に捏造と言う。八幡の歴史を知っている周辺自治体住民からも八幡の歴史や文化財に対する感覚は少し疑問?という噂を耳にするが、まさに肯定せざるを得ない一場面だ。
 最後に狭い道の「科手道」を歩く人にはマナーを守って欲しい。子供の頃に“人は右、車は左”と習った。今は学校では教えないらしいが、右側通行を実施して、道一杯に広がって歩かず、車や自転車が徐行して走れるように願いたい。また、個人の住宅に無断でズカズカ入る人もいるらしいが、これは論外である

主な参考文献
  『男山考古録』 長濵尚次 石清水八幡宮社務所
  『戊申役戦史』 大山 柏 時事通信社
  『京都滋賀 古代地名を歩く』 吉田金彦 京都新聞社 
  『巨椋池干拓誌 池本甚四郎』 巨椋池土地改良区
  『男山で学ぶ人と森の歴史』 八幡市教育委員会
by y-rekitan | 2017-07-24 08:00 | Comments(0)

◆会報第78号より-01 高野道

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心に引き継ぐ風景・・・⑨
橋本から交野山を目指した高野道
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 石清水八幡宮の遷座(貞観元年・859)以前から淀川にかかる山崎橋 (神亀二年・725)を渡り、橋本から南方向にポッコリ膨らんだ交野山を目印に進む高野道があった。
 橋本から楠葉中ノ芝、野田大師堂付近から細い畦道が続き、かすかに古道の雰囲気を残す道を、楠葉朝日町の「やわた・はし本道標」、「七ツ松石碑」、「だるま堂道標」を見て、少し南に行くと八幡金振方面に向かう「八幡道」に合流する。この八幡道をやや西方向から招提元町に入れば、整然とした招堤の屋敷街を通り抜け、招堤南町の「日置天神社」に到る。
 日置天神社由緒に「中世におけるこの付近は、高野街道筋に発達した集落として賑わい、社寺が甍(いらか)を競ったという。しかし、南北朝の動乱に際し、たびたび戦禍に見舞われ、民家・堂塔ともに灰燼(かいじん)に帰したと伝えられる」とあって、古くは高野街道筋として繁栄した集落だったようだ。出屋敷や津田の集落も日置天神社から穂谷川を越えると眼と鼻の先となる。弘法大師空海が高野山への道をとったという古い街道のことを高野街道と云うなら、八幡宮遷座以前から高野山を目指すこのルートこそ弘法大師空海が歩いた道であろう。
(写真と文 谷村 勉) 空白
  
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by y-rekitan | 2017-03-22 12:00 | Comments(0)

◆会報第77号より-07 東高野街道

大阪府下の東高野街道に「やわた道」の
道標を訪ねて


谷村 勉 (会員)


 近年、東高野街道という道の名称が八幡市内に聞かれるようになり、八幡市に住む住民にとっては大変な違和感を持ちました。八幡市内の道を今までに「東高野街道」などと呼んだ記憶がないからです。八幡の道を「東高野街道」と呼ぶのは可笑しい?という立場から以下報告致します。・

 八幡は周知の如く平安時代(貞観元年・859 年)の八幡宮遷座以来、石清水八幡宮を中心に発展し、周辺の街道も八幡宮参詣道として凡そ 1,100 年以上の歴史を紡いできた経緯があります。特に近世江戸時代にはどの大名の支配も受けず、なおかつ検地免除(税金免除)の町として整備され、裕福な蔵の町と称されるほど神領自治組織の地として繁栄してきました。その八幡に他の宗教施設を連想するような街道名が存在するはずもなかったのです。

 なぜ最近「東高野街道」などと言い出したのかと問いますと、観光戦略として観光客を誘致するために言い出したようです。観光客や八幡に越してきた人々や八幡の道を散策する人々が、昔から八幡の道を「東高野街道」と呼んで来たかのように錯覚している現状を見ると、歴史街道と言いながら、歴史を顧みることもなく、八幡の歴史を知らない人々が多すぎて、このような事態になった様です。観光の集客目的に道の名称を付けるなら、固有の歴史的名称である「八幡宮道」で良かったはずですが、八幡の道の歴史調査を怠り、八幡に住んだこともなく、歴史も知らない学者や役人の言葉を借りて、何処かのブームにおもねるかのように、いわゆる「東高野街道」と名付けてしまった感があります。八幡宮参詣道を「東高野街道」と言い換えれば、八幡固有の歴史が歪曲されてしまう事態に繋がらないかと大変な懸念を持ちます。我々が八幡に云う処の高野街道とは洞が峠を起点として、大阪府下に向かう道が歴史としての高野街道です。八幡宮を目指して八幡に入れば「やわた道」、「八幡宮道」となって、大勢の八幡宮参詣者が往来する道でありました。私にとって大阪府下の東高野街道沿いの交野、村野、星田、茄子作などは昔から馴染みの町々でありました。今回、従来気にもしなかった大阪府下の東高野街道を歩き、街道筋に一体どのような「道標」があるのか興味が湧きましたので、「やわた」と記入された道標を中心に踏査しました。東大阪市に初めて「やわた」と記入された道標があり、結局、東大阪市から八幡市に向かって合計 12 基の道標が確認できましたので、現存する道標を紹介し、いかに「やわた道」として認識されてきたかを伝えることができればと思います。いわゆる「東高野街道」が在って「国宝の石清水八幡宮」が存在するのでは本末転倒の話になります。実に固有の歴史が八幡には溢れていますが、やはり現場を歩き、八幡の道の歴史を自分の目で確かめる作業が不可欠だと思いました。

*東大阪市喜里川町の道標

最初の東大阪市喜里川町での「やわた道標」は 2 基あります。

 1基目は近鉄瓢箪山駅から北に向かい「喜里川町南」の信号右側の「瓢箪山安全安心ステーション」横に在りました。
 2基目は 1 基目の道標から斜め北へ凡そ 200m 程の地点にありました。
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*東大阪市箱殿の道標

 暗峠越奈良街道との五叉路の交差点、開業医の銀杏の木が目印。
 大師堂の横に観音像の道標がある。また奈良街道を東にとればやがて小さな公園が右に見え、大坂夏の陣で家康が陣を張った所に出会う。
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*東大阪市日下町の道標

 街道沿いの孔舎衙(くさか)小学校の敷地内にある。
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*大東市中垣内の道標

 阪奈道路を横切って暫く行くと古堤街道交差点の郵便ポストの横に「龍間山不動尊」の道標が目に入る、東に少し入れば「右 大峯山上道」の大きな道標がある。
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*四条畷市中野の道標

 清滝街道との交差点には 3 基の道標が並んでいるが、地蔵道標が「やわた道」の道標である。
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*寝屋川市の道標

 寝屋川市には打上と寝屋に 2 基の道標があり、JR 東寝屋川駅近くの打上の辻に道標が 1 基あり、秋葉山の燈籠もある。さらに北へ進めば傍示川手前に弘法大師像を見て川を越えると、寝屋の大井川万吉の自然石道標があり、JR 星田駅へと向かう。なお江戸時代、星田村は石清水八幡宮の他領神領(148 石余)でした。
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*交野市私部(きさべ)西の道標と本尊掛松

 東高野街道と山根街道の合流点にある「京八幡道」道標、左の道が東高野街道で、坂を下ったところに、本尊掛松の立派な地蔵像がある。南北朝時代、石清水八幡宮神職小川伊高が法明上人と予期せず出会った所で、共に霊夢を受けて融通念仏宗の本尊「十一尊天得如来画像」を小川伊高からここで授かった法明上人は歓喜のあまり、松の木に本尊をかけて踊りだした。融通念仏中興の祖と言われる法明上人と小川伊高はその夜茄子作北の犬井甚兵衛屋敷に泊まり、その後、小川伊高は法明上人に帰依し、大坂平野郷に住んだと伝わっています。
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*交野市松塚の道標

 こちらも地蔵道標、中央の地蔵尊。普通の角柱道標と思いこみ探し回った。
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 なお、交野市は江戸時代まで石清水八幡宮の他領神人が多く住んだところで、石清水放生会の祭祀には「火長」「火燈」「御前払」の役を担いました。

*枚方市郡津の道標

 枚方市村野浄水場南側の郡津墓地内にある。
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*枚方市大嶺の道標

 春日街道と交差する所から 100m 程外れた所に道標がある。
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*枚方市出屋敷の道標

 街道の雰囲気を残す枚方市出屋敷の町筋。
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「京 やわた道」の道標について

 大阪府下の東高野街道を東大阪市から枚方市まで踏査して「やわた道標」ともいうべき江戸時代の道標を見るにつけ、その土地の人々の道標に巡らす思いや、その変化に富んだ形態には豊かな創造性を発見した思いです。ここに報告しました道標は殆ど江戸時代のもので、これらは歴史街道にふさわしいものでありました。枚方市出屋敷の「東高野街道 壱里」の石碑は「洞ヶ峠から壱里」を示す明治の道標です。道標の形態には角柱が圧倒的に多いのですが、江戸時代にはめずらしい「指矢印」の道標を東大阪市喜里川町で見ました。また東大阪市箱殿に在る「観音像」を彫った角柱は見応えのある道標に仕上がっています。四条畷市中野の舟形光背の地蔵道標は他の二つの道標と並んで特異の存在感でありました。交野市松塚の地蔵道標も周辺の地蔵尊が集められて四体とし  一石五輪塔の一基を加えた中央のやや大きな地蔵の舟形光背に「京やわた道」と彫られていました。寝屋川市寝屋の「大井川万吉」の道標には自然石が使用され、力士の力強さが表現されています。比較的八幡に近いこれら周辺地域の人々がこの街道を「京道」、「京街道」とも呼んでいたようです。それは道標群とともに、古文書調査でも報告されています。ともあれ、多くの人々には名所、旧跡に加えて是非「道標」の持つ魅力にも目を止めて欲しいと思います。

八幡宮を目指す歴史としての道標

f0300125_2152265.jpg 「京 やわた道」あるいは「やはた道」の道標に導かれて洞ヶ峠に付いた人々は、ここに来てやっと「やはた道」に入ったと実感し、ほっとしたことでしょう。峠を下れば八幡の風景が眼前に広がります。道は「八まん宮道」となって、石清水八幡宮を目指します。現在、八幡あるいはごく近くの周辺を含めて 7 基の「八幡宮道」と1基の「やわたみち」と彫られた江戸時代の道標を確認しています。古い「高野街道」の道標は道の南北に 1 基もありません。八幡の道は八幡宮参詣道であって、高野道ではないと認識していますから。当然と言えば当然です。

f0300125_22111226.jpg 洞ヶ峠から中ノ山墓地前の旧道を通り過ぎ、八角院に入れば「すく八幡宮」の道標が残っています。 慶応三年丁卯八月(1867)の建立で「役行者像」が彫ってあります。       
 大阪府下の高野街道で見た風格ある道標の形態と同じで、以前は八角院近くの旧道に建っていたものと思われます。
 道標によく書かれている「すく」あるいは「すぐ」、「春具」の意味は「真っすぐ行くと」と云う意味になります。

(左の写真は神戸市/故荒木勉氏の撮影です)




最近建ったばかりの八幡のいわゆる「東高野街道」の道標
 
f0300125_22295142.jpg右は最近俄かに建った八幡のいわゆる「東高野街道」の道標です。大阪府下の一連の個性的な道標を見た後に、この道標を見ると、如何にも俄か仕立てで現代風の薄っぺらな、歴史観の乏しい道標に見えてしまいます。
 道標には建立年月日や建立主体も彫られていません。平成××年建立と彫らない理由は何でしょう。しかも凡そ3km程の間に13基の道標が建つ始末です。
  13 基という数には必ず無駄と間違いがあります。観光集客の目的とはいえ、異様な風景に見えてしまいます。
 八幡には「石清水八幡宮参詣道」としての歴史街道はありますが、いわゆる「東高野街道」と銘打って歴史とするような本末転倒の歴史街道はないと思います。
*次回、現在も八幡周辺に残る歴史的道標群について、詳しく報告します。
by y-rekitan | 2017-01-20 06:00 | Comments(0)

◆会報第76号より-02 八幡の古道

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《講 演 会》
八幡の古代遺跡と道
-古山陽道と古山陰道-
2016年10月 八幡市文化センターにて
 引原 茂治
(公益財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センター調査課)


 10月16日(日)午後l時半より、八幡市文化センター第3会議室にて表題の講演が行われました。概要を報告します。
 なお今回の概要は、講演会で配付された講演資料を編集担当が画像の挿入やルビをれ、講師の引原茂治氏の同意のもとに掲載するものです。参加者33名。

1、はじめに

 道の整備は、いつの時代にも必要な事業でした。その道によって、人や物、情報が行き交いました。日本では、7世紀中頃から8世紀にかけて、中国の政治体制である律令制を取り入れ、中央集権的な国家となりました。戸籍を作って国民個人を掌握し、税を徴収するなどの業務を円滑に行うため、地方行政機関を整備するとともに、それらをむすぶ官道の整備が必要になりました。f0300125_20272213.jpg 国内は、都が所在する畿内を中心に東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道の七道に区分され、都と地方を結ぶ官道が敷設されました。官道は、物資や情報・命令ができるだけ早く伝わるよう、最短距離になるように敷設されました。距離を縮める工夫として、できる限り直線的に計画されました。
 南山城地域には、古代の官道跡と考えられる道路遺構が確認されている遺跡があります。城陽市の芝山遺跡と八幡市の内里八丁遺跡です。
 芝山遺跡は、木津川によって形成された河岸段丘上に、内里八丁遺跡は木津川の沖積平地に位置しています。なお、官道は、起点が都であるため、都が移れば、官道でなくなることもあります。南山城に推定されている官道も、都が平城京から長岡京・平安京へと移転するにつれて官道ではなくなったと考えられますが、それでも主要な道路として機能していたものとみられます。また、官道以外にも、古代の道路遺構とみられるものが確認された遺跡がありますので、それも併せて紹介したいとおもいます。

2、古代道路が見つかった遺跡

(1)芝山遺跡
 城陽市寺田から富野にかけて広がる遺跡です。古墳時代から奈良時代にわたる複合遺跡です。この遺跡では、南東から北西に並行して延びる奈良時代の溝が3条見つかっており、官道の北陸・東山道の側溝と考えられています。溝と溝の間は12mと9.7mで、他地域で確認されている初期と改修時の東山道の道幅と一致するようです。
 この推定北陸・東山道の西側に隣接して、奈良時代前半頃の掘立柱建物群が見つかっています。東西棟の3間×7間の建物が中心建物とみられ、その周囲に大型の掘立柱建物が正方位に沿って整然と配されています。その中には、倉とみられる総柱建物もあります。このような建物群は、一般集落のものとは考えられず、官衙(かんが)的な性格を持つものと考えられます。出土遺物も、瓦や磚(せん)・土馬(どば)・斎串((いぐし)など、一般集落とは様相のちがう遺物が出土しています。
 この建物群の性格については、久世郡衙や駅屋など、様々に考えられています。道路遺構に近接しており、官道と係わりの深い官衙遺跡とみられます。これまでの調査範囲は、遺跡全体からみれば部分的であり、今後の調査で、その性格を物語る資料が見つかる可能性が考えられます。

(2)上狛北遺跡
 木津川市山城町に位置します。この遺跡では、正方位に沿って南北に延びる溝が約100mにわたって見つかっています。調査地の制約上、対となる溝が見つかっていないので、道路遺構と断定はできませんが、北側の里道の延長部分にあたるので、道路遺構の可能性が考えられます。この遺跡では、墨書土器や木簡などが出土しており、官衙的な施設があったと考えられます。

(3)森垣内遺跡
 相楽郡精華町に位置します。ほぼ南北方向に延びる側溝と考えられる溝が2条見つかっています。2条の溝の間隔は4.8mであり、官道ではないものとみられます。

(4)三山木遺跡
 京田辺市三山木に位置します。ややハの字状ではありますが、北西から南東方向に延びる2条の溝が見つかりました。奈良時代の溝と考えられます。間隔は6~8mです。官道の山陰・山陽道を踏襲すると言われる府道八幡木津線の方向に近く、官道の方向に沿った地割の溝の可能性もあります。

3、内里八丁遺跡

 八幡市内里にあります。弥生時代から中世にかけての複合遺跡です。弥生時代の水田跡が見つかったり、古墳時代の竪穴建物や古代の掘立柱建物跡や井戸などが見つかったりして、注目されている遺跡です。
 奈良時代の遺構として注目されるのは、道路側溝と考えられる溝です。奈良時代末頃に設けられた溝で、2条の溝が北西から南東方向に延びています。2条の溝の間隔は12mで、芝山遺跡で見つかった北陸・東山道の側溝と考えられる溝と、ほぼ同様です。9世紀中頃には幅員が5~6mに縮小され、10世紀頃まで存続していたようです。歴史地理学者の足利健亮氏が復元された山陰・山陽道の推定路線付近に位置することも重要な点です。
 平成15年度に行った第20次調査では、奈良時代から平安時代初期の、倉と考えられる掘立柱建物や井籠組の井戸が見つかっています。f0300125_20442568.jpg掘立柱建物は3間×3間の総柱建物で、柱穴は方形で、一辺0.6~1mと大きく、柱は直径0.4m前後とみられます。しっかりした建物と考えられます。井戸は角材に近い板材を井桁状に組み上げたもので、その内部に細い板材をホゾで桶状に組んだ内枠を設けています。宮殿や上級の役所などに設けられる例が多い井戸です。一般集落では設けられることは無いようです。この井戸からは、銅製黒漆塗の帯金具や「水」と書かれた墨書土器、皇朝銭の「承和昌寳(じょうわしょうほう)」(835年初鋳)などが出土しました。
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井戸枠材には、その位置と組み立て順を墨書したものがあります。また、付近の調査地では瓦も出土しています。このような状況から、奈良時代から平安時代初期頃の内里八丁遺跡は、一般集落とは様子が異なることがうかがえます。この遺跡の性格を考える資料となるのが、絞胎陶枕(こうたいとうちん)です。

4、内里八丁遺跡出土の絞胎陶枕

 絞胎は、唐三彩(とうさんさい)と同じく、中国唐時代につくられた焼物で、鉛釉を施した軟質陶器です。白色土と赤褐色土を練り合わせて縞状の模様を表しています。出土した絞胎陶枕は、練り合わせた陶土の塊を板状に切ったものを貼り合わせて箱状に成形しています。外面には黄色味を帯びた透明釉を施しています。内面は無釉です。器壁の厚さは4~5㎜です。小片ですが貼り合わせの痕跡が見られ、その状況から陶枕の側板及び天板の一部とみられます。f0300125_2059990.jpg 出土した遺構は、土師器(はじき)や須恵器((すえき)が多数出土しましたが、破損品が多く、一種の廃棄土坑、いわゆるゴミ捨て穴と考えられます。これらの土器は、古いものでは7世紀頃のものも含みますが、多いのは、8世紀中期頃のものです。この土坑から出土した土器は、その頃に捨てられたものとみられます。
 絞胎陶や唐三彩などの中国唐代に生産された鉛釉(なまりゆう)軟質陶器は、日本の各地から出土していますが、量的にはあまり多くありません。そのような中で、奈良市の史跡大安寺跡からは、三彩や絞胎の陶枕片が多数出土しており、量的には群を抜きます。日本で唐三彩や絞胎陶が出土する遺跡は、古墳、都城跡、寺院跡および宗教関連遺跡、官衙および官衙関連の集落跡などです。一般的な集落跡などからの出土例はほとんどありません。全国的にみて、都城跡や官衙および官衙関連の遺跡から出土する傾向がみられます。

5、奈良時代から平安時代初期の内里八丁遺跡の性格

 内里八丁遺跡の付近に式内社の「奈良御園神社」があります。その周辺に広がる上奈良遺跡は、「延喜式」巻三十九内膳司の条に記載されている「奈良園」の候補地とみられており、則天文字が書かれた墨書土器などが出土しています。園は、天皇家の食材などを生産する国営農場です。内里八丁遺跡の総柱の掘立柱建物や井籠組井戸などは、かなり上級の官衙に伴う可能性が考えられます。園には、それを管理する役所が設けられていたと考えられます。上記の遺構は、まさに宮廷に直結する上級官衙にふさわしいものと言えましょう。具体的に、奈良園に関連する遺物は出土していないので、断定はできませんが、可能性としては充分考えられます。また、この遺跡が、官道の山陰・山陽道と推定される遺構の付近に位置することも重要です。この道は、天皇家の食材をも運ぶ道であったとも考えられます。
6、まとめ

 南山城地域は、南から北に向かって流れる木津川を挟んで東西に分かれています。f0300125_2184174.jpg東側には、平城京から芝山遺跡・久世郡衙と推定される正道遺跡・宇治橋・山科へ至る北陸・東山道が想定されています。西側にはおなじく平城京を起点として山本駅推定地の二股・三山木遺跡・内里八丁遺跡・山崎橋に至る山陰・山陽道が想定されています。
 これらの道路推定地に沿って、今回紹介した遺跡が点在しています。それぞれ、官衙的な遺構・遺物が確認されています。木津川の水運とともに、官道や官衙が円滑な物流に利用され、古代国家の運営に大きく貢献していたものと考えられます。

『一口感想』より
 巾6m以上もの直線道路を整備し、さらに道路を横断する埋没管を施設するなど当時の大胆な計画と土木技術には改めて感心させられました。古代ローマのアッピア街道のように、物流だけでなく軍事行動を迅速に展開できるようにするために建設されたのだと思う。 (中井智久)
 一般の遺跡とは違って埋蔵物が少ない古道は発掘例が少ないと聞いていましたが、芝山遺跡や内里八丁遺跡等の平城京からの官道発掘成果は注目すべきと思います。
 講演では内里八丁遺跡の道路遺構は、古山陰・山陽道と説明されましたが、現在活動中の「八幡の歴史を探究する会」の専門部会『八幡の道探究部会』では、文献や地域研究家に聞き込み調査及び現地確認等により京田辺市大住三野の関屋橋付近で平城京からの古山陰・山陽併用道が分岐し、内里八丁遺跡は古山陰道と推定しています。これからも八幡地域の古道について調査探究を継続する予定ですので、引き続き宜しくお願い致します。 (高田昌史)


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by y-rekitan | 2016-11-20 11:00 | Comments(0)

◆会報第76号より-07 文化祭展示発表

第44回八幡市民文化祭展示発表を終えて
―展示会場:八幡市文化センター3階ロビー―

八幡の歴史を探究する会  「八幡の道探究部会」


 2016年10月29日、30日の二日間、八幡市の文化センターにて例年通り市民文化祭の展示発表がありました。f0300125_9334655.jpg各市民サークルの力作が展示発表される中「八幡の歴史を探究する会」からは昨年発足した専門部会の「八幡の道探究部会」が中心となり『八幡の古道』を展示タイトルとして発表しました。
 展示内容は 1.古地図5枚、 2.古道地図2枚(写真6点)、3.江戸時代の道標地図2枚 (写真27点)で、当日は道部会の担当者や歴探の幹事が中心となって説明にあたりました。

1.古地図5枚の内容を簡単に説明します。

平安時代の地図である「花洛往古図」、平安時代から鎌倉時代の京の都や八幡が描かれ道や川の繋がりがよく判ります。
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『織田豊臣時代の古図』は「古文書の会八幡」から提供されましたが、この古図には織豊時代に復活した「山崎橋」が描かれています。
「山崎橋」附近の拡大図も添えました。
『山城州大絵図』は京田辺市在住の個人から提供されました
安永7年(1778)、江戸時代中期の絵図で彩色が施された古図です。
『山城国南三郡古図』、これも江戸時代のやや大型の古図で手書きで彩色が施されています。
『山上山下惣絵図』は「石清水八幡宮全図」として中井家文書に残る絵図ですが、石清水八幡宮を中心とした江戸時代中期の八幡八郷の全図です。
 地図好きにとっては思わず時間を忘れます。

2.古道地図2枚の内容を簡単に説明します。
(以下の地図はいずれもクリックで二段階に拡大表示されます)
(1)古道ルート図
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 『奈良時代の八幡の古道』と題して古山陰道と古山陽道を地図上に示しました。京田辺市大住の関屋橋分岐点から淀方面に延びる古山陰道では内里八丁遺跡の様子を向日市の「京都府埋蔵文化財調査研究センター」から提供されたパネル写真2枚で展示しました。今では高速道路が走り跡形もなくなりましたが、貴重な2枚の写真パネルでした。
 一方、関屋橋で分岐した古山陽道は美濃山廃寺、志水廃寺、西山廃寺をかすめて楠葉に到り、橋本の山崎橋までのルートを図示しました。
 今回、道部会の全員で京田辺市大住の現地聞き取り調査を行った結果、古山陰道、古山陽道の分岐点が手原川の関屋橋であるという有力な情報を現地の郷土史家から得ることができました。

(2)中世から近世の 男山周辺の道
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 中世、近世当時の比較的大きな道として現存しているルートを図示しましたが、古図や絵図によれば小さな道が沢山あったことが分ります。近隣にお住いの方々からはここにも道があった、この道はこうなっているなど貴重な証言もいただきました。

3.江戸時代の道標について簡単に説明します。

 江戸時代の道標27カ所の写真とその位置を示す地図を2枚展示しました。
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 江戸時代に製作された道標には地蔵像や役行者像の肉彫りされたものも多く、調査をした道部会の会員もそれらの道標の美しさにまず感動しました。
 八幡の道標調査の過程で大阪府下の高野道の道標調査を行ったときは、やはり地蔵像や観音像等素晴らしい個性的な道標の数々を目にしていました。
 八幡には昭和初期に建てられた三宅安兵衛碑が89基確認されていますが、その殆んどが角柱仕様です。八幡及び周辺の江戸期の道標には大阪府下の道標と同じく地蔵像や役行者像が肉彫りされたもの、舟形光背を持つ地蔵道標、墓石に道案内を彫った墓石道標などが多く確認され、道標からも八幡の歴史の奥深さを感じずにはいられません。
 f0300125_11352511.jpg特筆すべきは下奈良井関墓地入口の「往生礼讃道標」で、善導大師の「往生礼讃」の一節が刻まれ、正面には「阿弥陀三尊と僧形4体」が肉彫され、その内、僧形2体は善導大師と法然上人です。
 次に美濃山の「指さし地蔵道標」です。普通、錫杖を持つ右の手が「八はたへこれから」の文字を指さしていました。この様な地蔵道標は初めてです。
 三つめが『石清水八幡宮鳥居通御幸道』の「正徳3年道標」です。平成21年(2009)末頃迄御幸橋南詰にありましたが、「御幸橋」付け替え工事に伴い撤去され、保管先が分らなくなりました。色々捜しましたが結局、八幡宮に保管されてあることが遂に分かりました。早速、西禰宜さん立会いの下、頓宮内裏庭に入り、道標の覆いを取ると、そこには文字の最後に「御幸道(みゆきみち)」の文字が彫られてありました。『男山考古録』に「正徳3年(1713)、石清水八幡宮鳥居通御幸道という標碑を建てられたるは、検校新善法寺行清法印也」とあり、山上山下惣絵図や石清水八幡宮境内全図(重文)に「御幸道」と共に「正徳3年道標」の位置も記載されています。折損の為、御幸道の部分がコンクリートによって塗り固められていた為、御幸道の文字が隠れていましたが、紛れもなく「正徳3年道標」であることが確認されました。

これからの「八幡の道探究部会」の活動について

 文化祭の2日間は沢山の人々に「八幡の古道」に関心を持っていただきました。
中には早速、現場へ道標確認に行かれた方が何人か居られました。展示の道標の位置を表した地図を欲しいと言われる人が数十人もおられ、関心の高さに驚いた次第です。f0300125_116508.jpg
 今回展示した地図に入りきらない「八幡宮」への道標が数基ありますが改めて別の機会に紹介したいと思います。
 なお、「八幡の道探究部会」は、今回1年間の活動成果の古代~江戸時代までを展示発表しましたが、引き続き毎月部会を開催し活動は継続する予定です。  
by y-rekitan | 2016-11-20 06:00 | Comments(0)

◆会報第71号より-07 八幡の道⑤

シリーズ「八幡の道」・・・⑤

八幡の道を「東高野街道」となぜ呼ぶのか?
―その5(最終回)―
 谷村 勉 (会員) 


空海は八幡のいわゆる「東高野街道」を歩いたか

 空海自身は「歩かなかった」が私の答えです。八幡の道は石清水八幡宮が貞観元年(859)に勧請されてから整備されてきたと考えます。それ以前に官道として整備されていた道とは、まず山陰道と山陽道で、奈良から現在の京田辺市大住を通り、淀方面へ向かう山陰道とその大住地区で別れて美濃山廃寺、志水廃寺、足立寺、楠葉中之芝を通り八幡の橋本から山崎橋を渡って対岸の山崎へと入る山陽道でした。この時代、八幡宮の創建以前に現在の八幡の南北の道はまだ整備されていないと考えるのが妥当でしょう。空海が陸路、都から利用した道を考えますに、東寺から鳥羽街道を通り、淀から山陰道に入るか、「山崎橋」を渡って八幡の橋本から大住に向かうか、楠葉から現在の大阪府交野市の交野山を目指した南海道を歩いたろうと思われます。f0300125_10211850.jpg楠葉野田の古い街並みには高野道の面影を残す道が今も残っています。山崎と八幡の橋本を結ぶ「山崎橋」は神亀2年(725)に造営され(八幡宮創建の135年以前に遡る)、何度も洪水による破損を繰り返すも、凡そ200年間は存続したようです。空海の入滅は承和2年(835)とされていますから、それは八幡宮創建の凡そ25年前であり、八幡の道が整備される前に空海は亡くなっています。            
 右の図(注1)は平城京時代、長岡京時代、平安京時代の男山周辺の古代官道図です。石清水八幡宮の創建以前の人の居住は、当然山陰道沿いや山陽道沿い、楠葉、橋本周辺に集中し、古墳や古跡も概ね古代官道沿いにあります。現在の常磐道や志水道など八幡宮創建以前には南北を縦貫する「八幡宮道」として整備されておらず、この辺りの人の居住はまばらであったと思われます。

西村芳次郎と「弘仁時代一里塚跡碑」

 西村芳次郎の実父、井上忠継は現松花堂庭園内にある松花堂及び泉坊等を現在地に移転、居住しました。その父の跡を継いだ西村芳次郎も松花堂昭乗ゆかりの遺蹟を保全して、現在に繋いで貰った我々の大恩人です。それだけでなく
西村芳次郎にはもう一つの業績がありました。八幡に合計88基もあると言われる「三宅安兵衛碑」の建立に大きく関わり(注2)、八幡における建碑活動の最大の協力者が西村芳次郎であったことです。昭和2,3,4年に集中して建立された三宅碑は今でも文化財研究の貴重な郷土遺産として光彩を放っています。しかし中にはどう考えても怪しい建碑があります。f0300125_10283789.jpgその一つが志水にある「弘仁時代一里塚跡」碑です。この碑は歴史家がみれば誰も納得しないようです。「一里塚制度」は徳川幕府が作り上げた制度で平安時代にはありえないからです。弘仁時代といえば概ね嵯峨天皇の在位期間(809~823年)で高野山や東寺が嵯峨天皇によって空海に下賜された時代背景があります。「西村芳次郎がこの道は空海が通った道だと言いたい為に作り上げた物語であったようで、当時、京阪電鉄の観光戦略に乗って八幡を屈指の観光地にしたいとする思いの所産だったようです」(注3)
 今の状況とそっくりの観光戦略です。八幡の道は「八幡宮道」と呼ばれ、石清水八幡宮の参詣道として発展してきたはずなのに、観光客を誘致するために、あたかも「空海が歩いた道」だと言わんばかりに「東高野街道」と呼ばせて、さも「高野山」の参詣道であったかのような印象を与える戦略は“如何なもの”なのでしょう? 先日、90歳の古老に高野道は「何処から」との質問に、またまた「志水のはずれ」との回答がありました。「都名所図会」(安永九(1780)年刊行)に「高野街道」は「志水の南より河内の田口村へ出る道也」の記載と合致します。正確には志水の南とは「洞ヶ峠」の事を指すと思いますが。そもそも明治に入って官僚や陸軍が内部で使用していた「東高野街道」など八幡の住民の頭の中にはなかったと思います。

文化財への取り組みはどうなっている

 日頃、夫々の行政が文化財に対してどういう取り組みをしているのか、あまり深く考えたこともないのが正直なところです。しかし、退職した後に八幡の文化財や歴史に興味を持つと、自然と周辺自治体の文化施設や展覧会、企画展に足を向けることが多くなりました。ついに「東高野街道」の道標を見るにつけ、今居住している八幡と比較してしまう事態になりました。比較の結果はお粗末としか言いようがありません。その辺りにフォーカスしてこなかった住民側にも責任があるかも知れませんが。
 八幡に来る観光客はまず少なくとも京都市内の観光や周辺の自治体の観光も済ませ、厳しいものの見方を学習してから、最後に来るのが八幡で、八幡宮を見たら帰ってしまいます。春の花見シーズンともなれば背割りの桜見物にどっと人が押し寄せますが、桜を見たら直ぐに帰ると言われています。
 徒然草の仁和寺の法師が山上の八幡宮本社を知らずに、山下の立派な極楽寺や高良社を八幡宮本社と勘違いして帰るようなもの、とは思うものの、一方では定年後に八幡に来る観光客は大変よく勉強してから八幡に来るようです。へたをすれば地元住民よりも八幡の事をよく知っていて、舌を巻くこともあります。いくら「高野山」の名にあやかって「東高野街道」と言い出しても借物の名称につられて観光客は来るわけがありません。もっと総合的な取り組みが必要なことも考えたはずです。観光客を受け入れるにはそれなりの環境を準備しなければなりません。
 はて八幡に文化財について審議する「文化財保護審議会」なるものがあるようですが、機能しているのでしょうか。ここ15年程は開かれたこともないのではと危惧しています。しっかりもう一度現状を分析して取り組み方を研究してほしいと願います。直近の問題としてもっと駅前や街道筋の街並みを整備できないでしょうか。1軒の家が壊れたら、その跡には必ず3,4軒の家やプレハブのアパートが建つような街並みにしか出来ないのでしょうか。ここ数年の内にも立派な屋敷や長屋門がどんどんなくなりました。これからも間違いなくどんどんなくなっていくのは目に見えています。立派な観光資源の喪失にがっかりする事が多すぎるように思います。道も観光客にとってふさわしい街道に整備できないでしょうか。最近、20人前後のグループで散策に来る人々を多く見かけますが、八幡に来ても食事をするところがない、喫茶店もないと相変わらず誰もが口にしています。周辺自治体が一体どんな取り組みをしているのか、実際に見学して彼我の違いを認識しては如何でしょうか。何かにつけ見聞すれば解ろうというものですが、解ってやらないとなればお粗末としか言いようがありません。

「御幸橋」南側に新設の案内板

 昨年の9月頃「御幸橋」の南側に設置された案内板です。これを見て何か変だと思うのは私だけかと思っていましたら、これを見て失笑したり、憤慨したりしている方が沢山いらっしゃいました。f0300125_1040832.jpg何がおかしいのか、東高野街道と書かれた看板の位置です。平成の歴史街道運動に乗って俄かに東高野街道などと言って、八幡宮の参詣道を高野山の参詣道だとするような街道名称がある事自体が可笑しいと思うのですが、写真にある「東高野街道」の案内板が必要ならば一番下が定位置だろうと思います。我々はこの辺りの感覚をおかしいと思うのですが。如何でしょうか。何度も言いますがこの道筋は「御幸道」とする八幡にとってかけがいのない固有の歴史的名称の道です。一番下に「石清水八幡宮参詣道」、「飛行神社」とありますが、「石清水八幡宮御幸道」と書くべきで、この看板を真ん中に位置させてください。此処は八幡なのですから。この看板は元々「御幸道」の歴史的存在を全く知らない者によって書かれたものでしょうか?
 前々回にも書きましたが、重要文化財「石清水八幡宮境内全図」にも、「八幡
山上山下惣絵図」、「男山考古録」にもはっきり「御幸道」との記述があります。これこそ我々が後世に引き継ぐ本物の歴史的名称であって、決して消し去ってはならない価値のあるものであり、この歴史を引き継ぐために「境内全図」や「惣絵図」や「男山考古録」が先人達によって残されて来たのです。また「八幡山上山下惣絵図」には「御幸道立石」との標碑の存在が記され、その位置も図示されています。これが正徳3年(1713)に石清水八幡宮検校新善法寺行清により建立された「石清水八幡宮鳥居通御幸道」という標碑と思われます(注4)。八幡市民図書館に掲示されている「八幡山上山下惣絵図」をしっかり見てください。「高野道」、「御幸道」、「御幸道立石」の書かれた位置をしっかり確認してください。以前、御幸橋の南側にあった「石清水八幡宮鳥居通御幸道」の標碑は現在京都府の土木事務所が管理しているそうですが、平成29年3月頃完成予定の「三川合流サービスセンター(仮称)」に合わせて、御幸橋南側の道路整備計画では、その一環として前述の標碑は必ず元の場所近辺に戻して下さい。
 御幸橋から一の鳥居、平谷方面のいわゆる放生川の西側の道は歴史的に「御幸道」であり、この由緒は解説案内板を設置して観光客に分るように説明する方がよっぽど喜ばれると思います。八幡にも市井の郷土史家や歴史愛好家が沢山居られますが、八幡固有の歴史的呼称など消えてなくなっても良いと思う人はいないはずです。しかし、いまの延長線上の考えで行けば次々と大切な建物や道路や呼称などは簡単に消え去ってしまいます。子孫に引き継ぐ歴史は借物の薄っぺらい歴史しか残らないことになるでしょう。繰り返しますが「御幸道」に「東高野街道」の道標はいりません。100歩譲って「東高野街道」の道標を建てるならば常磐道に留めるべきでしょう。

「東高野街道」碑に端を発して
 
 旧市街の道を借物の「東高野街道」などといっても決して愛着はありません。それは決してネイティブな名称ではないからです。連載の形で色々書きましたが最終回となって見直しますと、気分の晴れる連載ではありませんでした。読者はどうでしょうか。歴史を見るとき、現在の生活や制度から来る視点や尺度だけで歴史を見てしまえば、当時の歴史を本当に理解できない薄っぺらいものになってしまいがちですが、それで諾々とするような人を見るにつけ、近視眼的なものの見方のみでは歴史は分からないと日頃から戒めています。
 八幡宮が遷座する以前に八幡を南北に縦貫する道の存在は疑わしく、古代の官道として山陰道、山陽道、南海道は存在していました。空海は八幡宮が遷座される凡そ25年前に入定しています。
 近世以前に八幡の道を「高野道」、ましてや「東高野街道」と呼んだことはありませんし、現在の枚方や寝屋川、東大阪など河内と呼ばれた地方には高野道の石碑が存在しますが、洞ヶ峠から八幡の道には高野道を示す道標は一切存在しませんでした。なぜなら八幡の道は八幡宮への参詣道でありましたから、他の宗教都市を連想するような道標はあり得ません。東寺から京街道を経由して河内の高野道に続く道だから、八幡の道も高野街道だと言い張るのは暴論です。
 明治の神仏分離政策の以前には八幡の山上に四十八坊と言われる数多の坊があり祈祷の取次や宿坊を兼ね、八幡社の運営にも大きく関わった歴史があります。その坊のほとんどが真言宗でありましたから、社僧として高野山に参ったかというと、私の狭い見聞ではその記録を見たことがありません。当時の坊は皆独立採算であって高野山から一切経済的援助を受けることはありませんでした。八幡の社僧がそれぞれの壇越である大名や江戸幕府には参勤していた記録は沢山見ました。
 ある日、知人から聞きましたが! 善法律寺の前の「新道」を古くからある「東高野街道」だとボランティアガイドに「間違った説明」をさせているのでしょうか。善法律寺へ通じる東西の道はありましたが、現在のような南北の道は無かったと前回述べた通りです。
 明治の中期頃になって官僚や陸軍の内部では「東高野街道」と言っていたようですが、昭和の始め松花堂の西村芳次郎が八幡の三宅碑の建立を指導した時に初めて観光戦略に高野街道の名称を使用したとの見方があります。
その後、言論統制の厳しかった戦前に「東高野街道」と書いた刊行物がありますが、作者は役場でその名称を調べたのでしょうか?
 さて「八幡宮道」の立派な石碑が日本最大級の大石塔(神應寺門前横)の前に何十年と横たわって寝ています。八幡宮の国宝指定と同時にそろそろこちらも起きて貰って役立てては如何でしょう。
 文化財保護課にある三宅碑もほったらかしにしないで欲しいものです。なぜ元の場所に設置しないのか、貴重な文化財としての認識の無さを物語ってしまっています。俄か仕立ての「東高野街道」道標もよいのですが、歴史的価値のある「三宅碑」をもっと大事に扱うべきでしょう。
 八幡の歴史の探究を目指している者としましては、今後も大いに文化財の扱い等について大変な興味を持って見つめて行きたいと思います。

[注]
(注1)神 英雄 「古代の地域計画と石清水八幡宮の成立」より 
文化燦々第1号 (石清水崇敬会)
(注2)中村武生氏が現在(2016.1)確認している建碑総数は288基で、その内八幡市に88基の三宅碑を確認し報告している。(京都市内の88基と同数)
(注3)中村武生氏講演会より引用 平成28年1月17日 八幡市文化センター
『三宅安兵衛の遺志』碑と八幡の歴史創出   
     ―松花堂・東高野街道・天皇聖蹟・綴喜郡―
(注4)「八幡山上山下惣絵図」に記された「御幸道立石」が、正徳3年(1713)
に石清水八幡宮検校新善法寺行清により建立された「石清水八幡宮鳥居通御幸道」の標碑とすれば「八幡山上山下惣絵図」の製作年代は1713年以降と推定されます。


この連載記事はここで終りです。       TOPへ戻る>>>

by y-rekitan | 2016-02-28 06:00 | Comments(0)

◆会報第70号より-04 八幡の道④

シリーズ「八幡の道」・・・④

八幡の道を「東高野街道」となぜ呼ぶのか?
―その4―
 谷村 勉 (会員) 


石碑・道標の意味

 八幡市には「三宅安兵衛」碑をはじめ多くの石碑や道標が存在します。
 八幡は主として石清水八幡宮が貞観元年(859)に宇佐八幡宮から勧請されて以来、重層的にその歴史を重ねてきました。そのような八幡にあって、その歴史的な石碑や道標が指し示す「史蹟」は、『あたかもその地域の唯一の歴史のように、旅行者のみならず、住民にさえ認識され出すのである。石碑が後世にこのような影響を与えるものである以上、その建設過程は追及されなくてはならない』(注1) 建設過程とは個々の石碑がいつ、誰によって、何の目的によって建立されたか等を石碑に銘記する事であります。それによって現在の我々にとって郷土の文化財研究の貴重な遺産となっています。また石碑や道標が観光客に役立つのも表だけでなく裏や側面に書かれた意味を理解し、設置の背景をも読み取ろうとするからです(注2)。

f0300125_1895624.jpg 近年俄かに建立された「東高野街道」の道標を観察すれば、建立年月日や建立主体が記されていません。常識では考えられないことかと思いますが、それには何か意図があるのでしょうか。単に考えが及ばなかったのか、費用の節約を考えてなのでしょうか。
 八幡に越してきた多くの知人は残念ながら八幡の歴史的史実をよくご存じではありませんので、「東高野街道」の何々、何処何処とまことしやかに表現している場面に出くわすことがありますが、これは史実を知らないと「東高野街道」が、あたかも八幡の道の唯一の歴史のように認識する人も出てきた事を表しています。観光客にとってはもっと深刻です。さも大昔から「東高野街道」の呼び名を八幡では使用されてきたかのような印象を与えかねません。我々はもっと具体的に志水道の何々、城ノ内の何処何処、神原町の何々と表現しますし、町内の道に関して「東高野街道」と言った呼び方をしたことがありません。
ときわ道、志水道、八幡宮道といったオリジナルな道の名前が昔から存在するのに、歴史ある石清水八幡宮の「八幡宮道」にわざわざ「高野山」や「和歌山」でもないと思います。歴史街道運動に乗って単に観光客を誘致する材料として「東高野街道」と呼ばせることに、郷土愛といったものは全く感じません。
 何時、誰が建てたかわからないような「名無しの権兵衛碑」を見て、道標の意味をよく理解していない者による建立だとすぐ解るようなものです。
 最近「東高野街道」の道標に関して何人かの知人から問い合わせが来ましたので、八幡には「八幡宮道」や「御幸道」などのオリジナルな呼称が歴史的道標とともに存在する事や「八幡宮道」を示す道標は八幡市内だけではなく、近接の枚方市、交野市、寝屋川市等の本来、洞ヶ峠を起点とする大阪府内の「東高野街道」にも多数現存すること (注3)などを丁寧に説明したところです。

八幡の「東高野街道」は複数あるのか

 俄かに建てられた「東高野街道」道標が文化財研究の貴重な郷土遺産として耐えられるものかおおいに疑わしいとする理由は他にもあります。
 以前、「放生川」を挟み「御幸道」と東西並行して通っていた飛行神社側の常盤道(ときわみち)を「東高野街道」であるとしていたものが、突如、歴史的由緒のある「御幸道」(みゆきみち)を「東高野街道」と言い出しました。八幡に住み、八幡の歴史に関心のある我々にとって、これは歴史を塗り替えようとする行為としか映りません。
 また、紅葉の名所として知られる善法律寺前に「東高野街道」と記された道標が最近建てられましたが、この道はご存知の方も多く、昭和30年代に道路が作られた「新道」(しんみち)と住民が呼んでいる道です。それまでは周り一面、田圃や畑でした。昭和54年にやっと「認定道路」になったものです。
 旧道は善法律寺の東側の道、八幡市民図書館沿いの道を南に向かい、今田、馬場、神原を通って「走上り」の坂を西に進み、神原の交差点を南に志水道の正法寺へと進む道です。この道の八幡市民図書館横にも「東高野街道」の道標があり、東西に「東高野街道」が二本通っていることになりますが、「歴史街道?」が同じ所に二本も通っていることなどあり得ないことだと思います。
f0300125_20314870.jpg
 繰り返しになりますが、善法律寺の前を通る道(点線部分)は新道(しんみち)と呼んでいます。この道路は昭和30年代に取付工事を行う以前は、江戸時代の古図と同様南北に通じる道はありませんでした。
 この新道(しんみち)沿いの「善法律寺」にどうして「東高野街道」の道標が建つのか理解に苦しみます。果して、これを昔から在る「東高野街道」の古道と説明できるでしょうか? 無理なこじ付けとしか思えません。古道と呼べるのは東側に位置する道路です。

水月庵石碑(八幡大芝)の右に旧道あり

 f0300125_13262331.jpg志水道から松花堂庭園に向かって南行し、やがて大芝に入ると「水月庵」の
石碑が見えてきます。真っすぐ進めば松花堂ですが、旧道は水月庵石碑から右に入り、八角堂を通り過ごして左に南下し、中ノ山墓地の東入口から宝青庵と旧万称寺跡地の間を通って南下するのが本来の道になります。今では殆ど車の往来もない閑静な道です。
 図で示す点線部分は現在使用されている道路で、「月夜田交差点」に至る新しい道路です。月夜田交差点に「岡の稲荷社」の三宅碑がありますが昭和2年の建立ですから、当時既にこの新しい道路があったのかもしれませんが、現松花堂公園の古い写真を見れば畦道程度の道であったかもしれません。
 f0300125_18505979.jpg志水道を南行し松花堂庭園に向かうと「水月庵」の石碑が見えて、二叉路になり、右に入って八角堂へ向かうと、これが旧道の本来の道になります。
 なお、「水月庵」の石碑も元の旧道から動いていると推定されます。八幡の古道を「東高野街道」と称するならばこちらに「東高野街道」の道標を建てなければなりません。

「東高野街道」道標の矛盾

 放生川の東側に位置する常磐道(ときわ道)を「東高野街道」と言っていたものが、新たに事もあろうに、歴史的由緒名のある「御幸道」(みゆき道)を「東高野街道」と俄かに言い出したり、菖蒲池の八幡市民図書館から神原に至る道が本来の旧道でこちらを「東高野街道」としていたものが、その西側の新道(しんみち)と呼ばれる道路にある「善法律寺」の前に「東高野街道」の道標を建立したり、「水月庵」の石碑を右側に八角堂へ向かう古道を「東高野街道」と呼ばず、松花堂庭園西側の新しい道に「東高野街道」の道標を建てるなど、矛盾だらけの道標の建立や、建立年月日や建立主体の不明など、やっていることが、何かおかしいと思わざるを得ません。
 いま全国の自治体で古道や街道の整備に力を入れていると聞きますが、何処でもこういう事があり得るものでしょうか? 道標建立を推進している当事者は八幡の歴史や文化財の保存など本当に勉強し理解しているのでしょうか? よく理解した当事者であれば八幡の歴史や文化財保存の取り組み方、その仕組み、実際の活動など、他の自治体との比較などを含めて是非教えて欲しいと思う程です。
 少なくとも我々は八幡が好きです。八幡の歴史や文化財を大切にして、次の世代に送りたいと思っています。「和歌山」や「高野山」がメジャーで有名かも知れませんが、決してあやかりません。八幡のオリジナルな歴史を大事にします。そのために八幡の歴史を勉強し探究していきたいものです。
 このシリーズは次回が最終回です。

[注]
(注1)『京都民報』[中村武生 2004.4.11)“「三宅安兵衛遺志」碑と西村芳次郎”において、石碑が後世に影響を与える以上「石碑の建設過程は追及されなくてはならない」と述べている。
 歴史地理史学者の中村武生氏は『花園史学・2001.11』において「京都三宅安兵衛・清治郎父子建立碑とその分布」で八幡の三宅安兵衛碑について報告している。
(注2)『中村武生とあるく洛中洛外』(中村武生監修・2010.10・京都新聞出版センター)に道標・石碑についても詳しい記述がある。
(注3)『高野街道』(大阪府教育委員会、歴史の道調査報告書 第2集 昭和63年)P75 (1)道路等一覧表より、枚方市、交野市、寝屋川市等で「八幡道」、「八はた道」など「道」と記された道標6基、単に「やわた」あるいは「や者た」と記された道標6基、合わせて12基の「八幡宮道」への道標の存在が報告されている。

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by y-rekitan | 2016-01-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第69号より-07 八幡の道③

シリーズ「八幡の道」・・・③

八幡の道を「東高野街道」となぜ呼ぶのか?
―その3―
 谷村 勉 (会員) 


「官」による地図の作製

 『京都府地誌』によりますと、明治八年(1875)六月五日太政官達により「皇国地誌編集例則並ニ着手方法」が各府県にだされ、明治14年から17年に京都府の担当者が調査した、とあります。

 同地誌の「山城国綴喜郡史」「道路」の項に、大阪街道「久世郡淀より本郡に入り、・・・木津川を渡り、八幡荘に至る、此の間を「御幸道」(みゆきみち)と云う、・・・」とここでも「御幸道」と言い表しています。
 文久元年(1861)四月二十四日 皇女和宮が第14代将軍徳川家茂に嫁ぐ直前に石清水八幡宮に参詣された折の記録を見ると淀御小休、堤道南へ、鳥居通御順路、山上、とあります。正徳三年(1713)に建立された「石清水八幡宮鳥居通御幸道」の標碑から「鳥居通」(とりいどおり)の名称を使用しています。
 同地誌の「荘誌 山城国綴喜郡八幡荘」「道路」の項に、高野街道「三等道路に属す、本荘の北界木津新川頭に起り本荘の中央を貫キ委、蛇南行し、河内国招堤村界尽く」とあります。
 『京都府地誌』の中の「山城国綴喜郡史道路」の項に「御幸道」と「高野街道」が出てきます。ここに云う「御幸道」が御幸橋(ごこうばし)から一の鳥居に向かう道路を指していると考えられます。「高野街道」も同じく八幡北辺の「御幸橋」(この時まだ架橋されていません)辺りからの旧道を高野街道と名付けたようです。「御幸橋」南詰から真っすぐ南下する通りは「御幸道」の記載がありますから、高野街道は御幸橋から東へ折れ、京阪電車のガード下を通り、真っすぐ飛行神社へ通じる道、あるいは御幸道から途中東方面に折れて、いわゆる八幡を縦断する常盤道(ときわみち)を高野街道と指しているものと考えられますが。

 次に明治18年頃の陸軍仮製図(参謀本部陸軍部測量局)では淀城下から美豆村、木津川に至る道を京街道とし、八幡に入れば「自京都至和歌山道」と図示(部分図①参照)また、洞ヶ峠からは「高野街道」と図示されています。(部分図②参照)
f0300125_14918100.jpg
 明治41年発行の「山城綴喜郡史」(京都府教育会綴喜郡部会発行)には、和歌山街道は八幡町より洞ヶ峠を経て、北河内郡菅原村字長尾に達す。と記載されています。さらに明治42年の陸地測量部(参謀本部測量局から独立)作成の地図に初めて「東高野街道」と図示されました。

 明治に入り作成された地図はいずれも「官」の担当者によって作られたものであり、機能性や利便性による一方的な官の命名であり、そこに住む住民の呼称などは反映されていないものでありました。一例を挙げれば現在のJR米原駅は官の担当者によって「MAIBARA・まいばら」と命名されましたが、実際は「MAIHARA・まいはら」と呼ぶ地元の呼称を理解していませんでした。
 また、特に陸軍が作成した地図とは当時は軍事機密に当たりますから、一般には流布せず、八幡の一般住民は「東高野街道」の呼称を知らないのは当然のことであったと思います。八幡宮の参詣道は相変わらず八幡宮道であり、志水道であり、山路道であり、常盤大道であったのです。少なくとも「高野街道」とは洞ヶ峠から河内方面の街道を指す呼称であり、戦後も永く八幡地区の「東高野街道」の名称は一般に流布していませんでしたが、いわゆる学者か誰かが明治時代に陸軍の「東高野街道」と書かれた地図を発見し、これを根拠に言い出したものではないでしょうか。八幡の道を「東高野街道」とする根拠は是非教えてほしいものです。

歴史街道運動

 中村直勝氏が昭和十一年に発行した「八幡史蹟」の文中に、山の西麓は河内の楠葉牧等を経て摂河泉の豊穣なる平野を背後に展開し、又洞峠から四条畷、河内東条に通ずる東高野街道を出している。と記載しています。ここでもやはり洞ヶ峠から「東高野街道」と呼称されていたことが示唆されています。
 先日友人からの質問で、南北朝の戦いの時、南朝の後村上天皇の「八幡御退失」の折、「東高野街道」を落ち延びたのではないかとの話になりました。早速「太平記」を読み直せば、「大和路へ向けて落ちさせたまえば、・・・木津川の端を西にそうて、東条(大阪府富田林市)へ落ちさせたまい、・・・賀名生(あのう)の御所へぞ参りける」とあり、「東高野街道」の名詞は何処にも出ませんでした。
 さて平成の世になってその4・5年頃、大阪から発信された「歴史街道運動」にいつの頃か八幡市も参加し、八幡市を南北に縦貫する道を「東高野街道」だとして、いきなり発信するようになったものでしょうか。当時はTVで歴史街道の宣伝番組をよく見ましたが、八幡の「東高野街道」等は全く知りませんでした。今から思えば「東高野街道」とする前にどれだけ八幡の歴史を検証し、実地の調査をし、かつての石清水八幡宮の神領の道に、他の宗教施設を連想するような名称を付けても良いのか等々、熟慮したのでしょうか。

 なぜ地元固有の歴史的名称を大事にして、次の世代に送ろうとしないのでしょうか。さらに、八幡を南北に縦貫する道を「東高野街道」と称して誰が往還したのでしょうか、日記や資料があれば示してほしいものです。実際に高野山に行くには殆どが淀川水系を利用して舟で大阪に出たのが、事実ではないでしょうか。

一の鳥居前の道標に「東高野街道」の名称はいらない

 一の鳥居前の「東高野街道」の道標は地元資料等、歴史的に考えてもあり得ないものと思っています。「御幸橋」(ごこうばし)から一の鳥居に向かう一連の道は歴史的に見て何度も「御幸道」(みゆきみち)と呼称されてきた事実を挙げました。何度も例証を挙げていますので、ご確認頂ければ幸いです。
f0300125_17254856.jpg
どちらかの展示会で「重要文化財 石清水八幡宮境内全図」(石清水八幡宮蔵)をご覧になったことがあるかも知れませんが、ここにも放生川に沿って描かれた松並木の道が「御幸道」であるとはっきり図示されています。放生川から西は清浄の地である八幡宮境内の一部として「御幸道」は描かれているものです。
 以前、八幡の観光案内に京阪八幡市駅から東に進み、f0300125_13314686.jpg京阪電車のガード下近くの交差点を南に、飛行神社前の常盤道(ときわみち)を「東高野街道」とするパンフレットを発行していました。また飛行神社前の常盤道を北行して京阪電車のガードをくぐり、御幸橋を渡って背割堤までのルートを「東高野街道」とする表示もありました。それがいつの間にか一の鳥居前の「御幸道」に「東高野街道」と記された道標が建ちました。これには古くから地元に残った史料や住民意識を無視して、やりたい放題の感があり、唖然とする住民は少なくありません。歴史は言ったもの勝、やったもの勝などと聞くことがありますが、そのような勝手な言い分を安易に認める風土や何でも無批判に引用するような風潮は戒めなくてはならないと思います。

「東高野街道」の道標をよく見ると

 「東高野街道」の道標は平成20年頃から建立されたものでしょうか、数か月前には「御幸道」辺りにも建立されました。しかし、これらの道標には普通は考えられないような欠陥があります。史実に興味のある住民や観光客にはすぐ判ることですが、これらは次回検討して説明いたします。

参考文献
  :京都府立大学文化遺産叢書 第3集 
   京都府立大学文学部歴史学科
    「八幡地域の古文書と石清水八幡宮の絵図」
  :石清水八幡宮史料叢書一「男山考古録」 
  :新潮日本古典集成 「太平記 四」 新潮社
  :その他


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by y-rekitan | 2015-12-28 06:00 | Comments(0)