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◆会報第77号より-01 文殊菩薩像

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心に引き継ぐ風景・・・⑧
八幡の石仏さん・文殊菩薩像
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  石仏と言えば八幡森の「夜泣き地蔵」と呼ばれる等身大の石仏がよく知られるところですが、古くから「八幡宮道」、「志水道」と呼ばれる道から正法寺の南門を抜けて西に登れば、ひと際存在感を放つ石仏があります。高さ1メートルの「文殊菩薩」の石仏です。一瞬、騎乗の「将軍地蔵」かと思いましたが、右手に知恵を象徴する宝剣を、左手に経典を乗せた蓮華を持って、獅子の背の蓮華座に乗って結跏趺坐する姿は正しく文殊菩薩です。
 年月を経て肉彫りの像は摩耗し、どの時代のものか、右肩辺りにかすかに文字の痕跡を残すものの全く判りません。
 文殊菩薩は釈迦如来の脇侍として白象に乗る普賢菩薩と共にお寺では時々見掛けますが、なぜ、ここ清水井(志水)に文殊菩薩の石仏が置かれたのか、はたして対となる普賢菩薩の石仏は今も何処かに存在するのか、想像が膨らんできます。
 石仏から西方向に登ってゆくと、随分と急勾配の崖が現れ、切通しと呼ばれる古い道もこの近辺にあって、男山美桜、楠葉方面に向かいます。
 「昔は子供も老人も沢山居て、土産屋さんが出るほど地蔵盆を盛んに行っていましたが、」とお年寄が語ってくれました。周辺の沢山の石仏と共にみんな地蔵さんとしてお祀りされています。
(写真と文 谷村 勉) 空白
  
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by y-rekitan | 2017-01-20 12:00 | Comments(0)

◆会報第54号より-05 八幡森の地蔵盆

八幡森の石仏(オボトケさん)と地蔵盆

高田 昌史 (会員)


1.はじめに

 地蔵菩薩は庶民信仰のナンバーワンの仏であることは周知のことですが、地域の守り神であり、延命、治病、息災、安産、育児、豊作等の多岐にわたる願望から多くの俗称で呼ばれ、その俗称は全国で248種もあります。江戸時代に道祖神信仰と結びついたため道端に祀られるようになったようです。
 「京都の地蔵信仰と地蔵盆を活かした地域活性化事業」の調査報告書が平成26年3月に発行されました。この報告書では京都市内の「地蔵」の分布調査や近畿の特徴的な「地蔵盆」の実態が明らかにされています。
 また、京都市が自治会長や町内会長を対象に実施したアンケート調査では、8割近くが昨夏に地蔵盆を行ったと回答しています。
f0300125_21301259.jpg 八幡市内にも京都市内と同様に多くの「お地蔵さん」がありますが、石清水八幡宮の門前町として栄えた八幡森の集落中央部の生け垣に囲まれた地蔵堂には多くの石仏が祀られています。中でも等身大の(約150cm)の大きな石仏は、ひときわ目立ち気にかかる存在です。
 毎年8月23日と24日には森の町内会で「地蔵盆」が盛大に行われでいますが、石仏の由来や地蔵盆の様子も含め今まで調べたこと及び地元の方にお聞きしたことを以下にまとめました。

2.森のお地蔵さんのこと

 八幡森の大きな地蔵さんについて、地元の薬薗寺のご住職から紹介していただいた八幡旦所の清林庵のご住職(御歳88歳)にいろいろお話しを伺いました。その中で、このお地蔵さんは昔から夜泣きによく効くので「夜泣き地蔵さんと呼ばれて慕われ、f0300125_21445765.jpg 昔から隠れて信仰されている方も多くお地蔵さんに涎(よだれ)掛けがよくあがる」と話されていました。
 また、今回の調査で約20年前の平成7年の森のお地蔵さんを撮影したビデオを見る事ができましたが、そのビデオでは、お祖母さんがお地蔵さんを「オボトケさん」と親しみを込めて呼び、さらには「森のお地蔵さんは、阿弥陀さんです」ともいわれていました。
 言われてみると確かに、頭に如来特有の肉髻(にっけい、知恵で盛り上がった頭頂)が見てとれます。また、涎掛けで隠れている右手と下ろしている左手を見ると、親指と人差し指の念じる様は、阿弥陀如来でよく見られる来迎印(上品下生)とも見うけられます。 先に述べた調査報告書にも「地蔵堂に祀られている多く石仏の中には、実際は阿弥陀と見られる形態の石像が少なからずあるが、地蔵といわれている場合が多い」と記されています。

3.石仏(オボトケさん)はどこから?

 清林庵のご高齢のご住職からは、昔ご住職のお祖母さんから「森の橋(薬薗寺の前)の際(きわ)にあったお地蔵さんを現在の場所に移動された」と聞いているとの貴重な証言を得ました。
 調べてみると、男山考古録巻十三の「石佛」の項に、“薬園寺前の道を園町に至る十間許東へ入る田の中に、四尺許の石佛立り、土人只オホヾトケと云ふ、傍に樹木繁茂せしか、近来伐佛て叉其在地を田に作りなせり、是者舊法園寺墓所なりしか、今の地に改葬なとして、其跡所に此石佛を立置る也と、此邊の田畑の字を大佛といふ”と書かれています。 この男山考古録の「四尺許の石佛立り」は、現在の森町のお地蔵さんの台座から上の高さとほぼ一致するため、この石佛が現在の森の石仏と推定されます。また、その場所が「法園寺の墓地なりしか」と書かれていることは、現在では検証はできませんが元は墓地の仏像であったのかもしれません。
 さらに「薬園寺前の道を園町に至る十間許東へ入る田の中に、・・・」ともあるので薬薗寺の東へ約20mの田の中に祀られていたようです。
 そして時は下り、明治維新の廃仏毀釈の方針により京都府から明治4~5年に発布された「地蔵取除令」や「盂蘭盆会習俗の禁止令」等の受難に遭いながらも、地元の人々は石仏をお守りし、廃仏毀釈の嵐が治まった後、薬薗寺前の橋のそばに移設し、現在の森町の地蔵堂に安置されたのでしょう。
 また、地蔵堂には他にも多くの石仏が祀られていますが、地蔵堂の北側は墓地だったこともあり、「オボトケさん」よりも古い室町時代の石仏もあるとお伺いしました。

4.何故お地蔵さんは屋根の外に?

f0300125_2231054.jpg この地蔵堂には館(小屋)が2棟あるのに、何故かお地蔵さんは外に祀られており不思議でした。このことは前述のビデオで、昔この場所にお地蔵さんが引越されるときにその方のおばさんに「雨が掛からない館の中に入れて、その雨水は木津川まで流してほしい」お告げがあったが、それはとてもできないので館の外にお祀りしたと証言されています。
 また、地蔵盆でお目にかかった方から、この「お地蔵さん」は、まだ修行中の身であるから地蔵堂の小屋の外に祀られているといった話も伺いました。


5.八幡森の地蔵盆

 今年の地蔵盆も8月23日の朝から森町の1~3班の班長が中心になり、テント2張り設置して多くの提灯が揚げられ飾り付けやお供え等の準備が行われました。
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 f0300125_221447100.jpgまた、地蔵盆の日だけ、別館の地蔵堂奥の御堂(みどう)の前扉が外されて、高さ約30cmの厨子(ずし)中に安置されているお地蔵さん2体を拝むことができます。この小型の2体の地蔵菩薩立像は風雨に曝されていないので大変きれいです。
 昔はこの地蔵尊が御堂から外の広い場所に出されて祀られ、また、他の地区に貸し出もされよく移動されたので別名「あそび地蔵」とも呼ばれていたそうです。
 今年も2日間の地蔵盆には、地域の大勢の皆様がお詣りされ、子供達にはかき氷やお菓子が配られました。ただ、残念ながら2日目の夜7時から予定の子供達による「数珠回し」は、どしゃ降りの悪天候のため今年は中止になりました。(写真の数珠回しは、平成7年に撮影されたものです)
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6.おわりに

 今回の調査で森の地蔵堂の石仏及び地蔵盆について、いろいろな事を知ることができました。地蔵盆は関西中心に行われている伝統行事ですが、最近は少子化の影響で地蔵盆を中止する地区もあるようです。地域をつなぐ文化として残していただきたいと願っています。
 末筆ですが、いろいろお話しをお伺いしました森町の皆様及び平成7年の撮影ビデオを提供していただいた「八幡まちかど博物館協議会」の増田和博様に御礼申し上げます。
 また、八幡市教育委員会文化財保護課の小森主幹殿には、現地で石仏を確認していただいたことを申し添えます。

【参考資料】
 ※1)平成25年度京都の「地蔵」信仰と地蔵盆を活かした地域活性化事業 
    報告書(文化庁文化遺産を活かした地域活性化事業)
 ※2)路傍の信仰―日本のお地蔵さま百選(歴史読本 2009年2月号)
 ※3)男山考古録(石清水八幡宮史料叢書1)
 ※4)山上山下のまち、八幡(堀内明博他)
 ※5)八幡文化のふるさと(八幡市教育委員会)
 ※6)雑誌「一個人」 2014、10月号【保存版特集】仏像と信仰の謎
    (KKベストセラーズ)
by y-rekitan | 2014-09-28 08:00 | Comments(0)

◆会報第45号より-03 地蔵菩薩

八幡の浄土宗寺院にみる地蔵菩薩

石瀬 謙三 (会員) 


 浄土宗寺院には一般に、阿弥陀三尊、宗祖法然、高祖善導大師の尊像が置かれていることは知っていましたが、今回巡った八幡の浄土宗寺院では、それぞれに個性的な「お地蔵さん」も祀られ拝観できました。そこで地蔵菩薩について少し述べてみます。
 私は八幡の観光ガイドをしていて、そのなかで知ったことですが、同じ浄土宗の正法寺(八幡清水井)には千体地蔵を祀る立派な地蔵堂があります。地蔵は浄土宗プロパーの仏と得心しました。西方浄土に住される阿弥陀さまと、あらゆる苦界に出入りして地獄に落ちた衆生をも救おうというお地蔵さまの「コラボ」で、全ての衆生を浄土へ導こうとする「鬼に金棒?」の関係を想像しました。
 地蔵は、石仏も含めると造立数はダントツの身近な仏ですが、僧侶と同じ姿(比丘形)で六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)に出現し、六道抜苦の来世利益を施す仏として、また他の菩薩がいずれは仏陀になるのに対し、永久に菩薩のままで无(無)仏の時代の衆生を救済する仏として信仰されてきました。
 現代にも、地蔵堂あるいは路傍に地蔵を祀り、香花を捧げて現世利益を願う風習があり、関西では地蔵盆(地蔵祭りと盂蘭盆会の習合)として8月24日に京都等、街の辻々で子供を中心に行われています。地域社会の崩壊が進むいま残して欲しい習俗のひとつです。
 八幡での地蔵信仰は、どのように変遷したのでしょうか。江戸時代のご朱印組寺院は浄土宗36寺、律宗、禅宗それぞれ5寺あり、朱印安堵されました。朱印寺以外の寺にも八幡地下寺分として55寺、まとめて300石弱の朱印が発行されていたようです。しかし、地蔵信仰は宗祖がおらず、三宝(仏・法・僧)も整わない俗信?として、他宗と比較すると厳しい立場に立つ寺院も多かったようです。江戸時代初期と中期・末期にかけて、寺の無住化や宗旨変更がみられ、地蔵を本尊とする寺院の経営の難しさが感じられます。
 ところで、山上・山下に寺がひしめく宗教都市八幡の中心「石清水八幡宮寺」の主祭神が僧形八幡(比丘形)として表現されることは周知のことです。
 廃仏毀釈で山上から降ろされたという善法律寺の本尊は八幡大菩薩で僧形です。
いつ頃から八幡神が僧形になったのか、八幡信仰と地蔵信仰はどう位置づけられるのか、松花堂昭乗による「僧形八幡神像」や、僧形による元寇の祈祷図「篝火御影」等あるそうですが、これから勉強しようと思います。この辺りにも八幡の地蔵信仰の特異性があるように思えます。
 石清水八幡宮に至る裏参道の地蔵堂が崩れ、法然院を再興した忍澂(1645~1711)によって地蔵頭部が修補され山下の南三昧堂に移された丈六の地蔵尊は、流転の果て、東大阪市の延命寺に大阪府の指定文化財として伝わっています。もしかすると、男山は山上・山下に無住と競望を繰り返し、神仏習合を発展させてきたのかもしれません。そう思うと歴史のダイナミズムと、他にも地蔵にまつわる伝承がありそうな気がしてきます。
 前置きが長くなりましたが、今回歴史探訪ウォーク(*注)で拝観したそれぞれの地蔵尊を振り返ってみます。
    (*注) 本会では去る12/12、“八幡の古寺巡礼”の第1回として浄土宗の
         寺を巡る歴史探訪 ウォークを実施し、念仏寺、世音寺、安心院を
         訪問しました。 (編集担当者記)


念仏寺

 「勝軍地蔵」は清水寺の秘仏が有名です。本来、馬上の「お地蔵さん」だそうですが、念仏寺のお地蔵様は馬には「お跨がり」になっていなかったように私には見えました。江戸幕府が江戸に勧請し、江戸市中に弘まったそうです。武士には武神として、町人には防火の神として信仰されたようです。ともかく幕末、鳥羽伏見の戦いで佐幕派の潜む寺となったという念仏寺の、その墓地に眠る大垣藩士、銃刀兼用隊で24才という若さで亡くなった名波常蔵の霊を慰めているようで、しばらく幕末の感傷に浸りました。古来多くの戦場の舞台となった八幡を護る地蔵尊として、また防火の神として大切にされてきたのでしょう。

世音寺(せおんじ)

  
 八幡市指定文化財「地蔵菩薩立像」の立派さは、本尊の阿弥陀尊像を「食っている」ように感じました。ただ、胸の「よだれかけ」は母性愛を現していると言うことですが、「しおり」の写真のように正装?した胸飾を見せて頂いたほうがありがたいです。靴を履いている珍しいお地蔵さんだそうですが、足元が地蔵堂の建付の横板に隠れて見えないこと、また「裳裾」を飾る截金模様も隠れて残念でした。しかし、流れる衣紋に藤原様の端正な作風を充分に感じました。鎌倉初期の地蔵尊として八幡市の指定ではもったいなく、「広報やわた」にあるように重文級への昇格を期待したいところです。ところで、世音寺の開基が室町中期(1458年)とすれば、鎌倉初期(1200年初頭)の作風との時差をどう理解すればいいのか。たとえば、近くの無住となった寺から後年退転し、地蔵堂を作って納めたなどと勝手な歴史ロマンを想像しました。

安心院(あんじんいん)

 地蔵菩薩半跏像(厨子入)は近くの無住になった地蔵院から預かられたそうです。小さな掌善・掌悪童子が脇侍していました。暗くて厨子内部が、よく見えなかったのですが、ご住職様に蝋燭を付けていただいて、金箔が輝くありがたい地蔵三尊を拝観させていただきました。二童子は本来、不動明王の脇侍(こんがら、せいたか童子)ですが、何故か地蔵の脇に立つときは子供達に諭しやすくするためか、善悪を掌る脇侍となったようです。八幡では杉山谷の不動尊の脇侍が八幡市指定文化財になっていますが、もとは忍澂が開いた南三昧堂の地蔵尊の脇侍だったものです。
 そして、掛け軸の十三仏図のお地蔵さん(閻魔大王の本地仏)です。お軸の中心に座して、冥界に君臨する十王の代表が地蔵菩薩です。「十王信仰」は、輪廻転生の命、死ぬと冥府において生前の行為により十王の裁きを受けなければならないという勧善懲悪説を根底に中国で始まりました。日本では平安時代から地蔵信仰と結びついて六道を輪廻するうちに賽の河原、三途の川の苦しみ、六地蔵への渡し銭等の俗信が生まれました。冥界を支配する十王の代表が閻魔王で、その本地仏が地蔵菩薩です。亡者への十王による十回の裁きが初七日から始まり参周年にいたる十回の法要となります。
 閻魔王は、重要な五回目の裁きをし、地蔵菩薩がその弁護役です。地獄に赴いて衆生を救済する。そうした信仰が室町時代以降、十三仏に一般化し、十三の忌日になりました。絵図に表現されたり仏像の光背に彫刻されたりして衆生を諭したそうです。なお、十三仏画の最上部は、三十三回忌の虚空蔵菩薩です。
 以下、初七日より三三回忌に至る忌日に祭る十王と十三仏の対応表を下に示してみます。

         (忌日)     (冥府の王)     (十三仏)    
         初七日      秦広王       不動明王
         二七日      初江王       釈迦如来
         三七日      宋帝王       文殊菩薩
         四七日      五官王       普賢菩薩
         五七日      閻魔王      ◎地蔵菩薩
         六七日      変成王       弥勒菩薩
         七七日      太山王       薬師如来  
           (四十九日=満中陰・忌明け)
         百か日      平等王       観音菩薩
         一周年      都市王       勢至菩薩
         三周年      五道転輪王    阿弥陀如来
         七回忌      蓮上王       阿閦如来
         十三回忌     抜苦王       大日如来
         三三回忌     慈恩王       虚空蔵菩薩

  *「吉見誠一郎氏(京都産業大学日本文化研究所)の「地蔵信仰
    概説」より、適宜、引用しました。
by y-rekitan | 2013-12-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第26号より-03 講田寺の地蔵

シリーズ「八幡に残る昔話と伝承」・・・①
講田寺(こうでんじ)の笑い地蔵さん

 丹波 紀美子(会員) 


 昔、難波の地を流れていた淀川は幾つもの流れとなって海に注ぎ、入り江は八十島といわれたほど島が多く、そこに架けられた橋は幾度となく流されていた。
 嵯峨天皇の勅命で北長柄から垂水庄の間に橋を再び架けることになった。「造るからには堅固な橋でなければならない。それには人を柱にして水底に沈めるのが一番ではなかろうか」と一人の翁の進言で、垂水近くに関所を設けて人柱にする者を探しておった。人々はこのことを伝え聞き、誰もここを通るものがいなくなり、ただ月日が経つばかりであった。
 ある日、垂水庄の岩氏(いわじ)長者が関所にやって来て「袴のまちに継ぎのある者を人柱にすればよいではないか」と教えてくれた。ところが言い出した長者自身が袴のまちに継ぎがあったため人柱にされてしまった。
 この岩氏には一人の娘があり、見目うるわしく朝日に輝くようだと「光照前」(てるひのまえ)と呼ばれておった。河内国の禁野の里へ嫁いでいたが、父が人柱になったショックで口がきけなくなってしまい、夫が「光照前」と呼んでも目だけで応えて返事はない。「ああ!かわいそうに何とか口がきけるようにしてやらなくては」と夫は神様や仏様にもすがってみたが何の効き目もなく、仕方なしに母の許に帰すことにした。
 夫と共に垂水に向かう途中一羽の雉子が声高く鳴き、飛び立ったので夫は透かさず雉子を射止めてしまった。その様子を見た光照前は「ものいわじ父は長柄の人柱鳴かずば雉子も射られざらまし」と美しい声で詠みあげた。「あっ!妻が和歌を詠んだ。口がきける!」夫はどんなに喜んだことか。「光照前、光照前」と妻の名を呼びながら、元来た道を河内に向かって帰って行った。
 でも世の虚しさ、悲しさを悟った妻は、夫の反対を押し切って父の菩提を弔うため髪を剃り、山城国山崎の里に草庵を結んで仏の道に入ってしまった。「称名山不言寺(ふごんじ)」という。
 f0300125_17244123.jpgそれからおよそ二百年ほどの後、後一条天皇のとき、かつて人柱を立てた長柄の朽ちた橋杭が水底から見つかったので、天皇にお見せしたところ、天皇はその一片に身の丈二寸六分七厘の、今でいえば九センチにも満たない小さなお地蔵様を彫って、「これを不言寺に持って行き岩氏の追善菩提の法要をするが良い」と勅使に四条大納言公任を遣わされた。
 公任はそのお地蔵様を拝見して「長柄江や藻に埋もれし橋柱また道かえて人渡すらん」と詠んだところ、不思議なことにそのお地蔵様がほほ笑んだという。それからは「橋杭の笑い地蔵尊」といい、水難除けや安産など不思議に御利益があると広まって遠い所からもわざわざお参りに来る人が多くなり、人々の信仰を集めることとなった。
 しかし長い年月の間に不言寺は荒れ果ててお地蔵様もいつしか忘れ去られていった。

 明治三七年、講田寺のお坊様が山崎の不言寺が廃寺になって久しく、お地蔵様は不言寺の本山である宇治の興聖寺に引き取られているのを嘆かれて、同じ曹洞宗の講田寺は興聖寺の末寺でもあることから、「淀川を見渡すこの平野山の地でお祀りすれば、お地蔵様もお喜びになる」と思い、お堂を建ててお迎えした。
 長柄の橋杭から彫られた地蔵尊は今では淀川を見下ろす安住の地を得て、ほほ笑みながら皆の幸福を見守っておられる。


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by y-rekitan | 2012-05-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第15号より-02 八角院地蔵尊

八角院地蔵尊の碑文を読む

会員:望月充郎
          
                                     


 八角堂(八幡大芝)の斜め前に御堂が建っている。中には、大きな石仏が祭られている。お地蔵様だ。台座の高さ95㎝、蓮台に乗ったそれは135㎝の高さだ。
実に穏やかな表情で、 右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠(ほうじゅ)を持っている。
        
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 この御堂については、数年前「八幡ルネ」が中心になって大掃除をして周囲の色あせた円柱を朱色に塗り替えた経緯がある。
姫路在住の一女性が、御堂のあまりの荒れ方に胸を痛めて、たまたま出会った「ルネ」の伊藤さんに塗り替えをお願いしたことがきっかけだった。
女性は八幡に嫁いだ娘さんの安産を祈って、何回もお参りしたところ、無事女児を授かったのでそのことへのお礼を込めて改装を思い立ったという。経費は全額女性が出費された。
 そして今度は八幡市内の女性がお参りしていて、台座(裏)に刻まれた文字が気になっていたが判読できない。そこで伊藤さんに依頼し、私のところへ回ってきた。
何回もお参りし、お祈りするこのお地蔵様には、二人の女性を引きつける何かがあったのだろうか。
 数日前、台座の碑文を見に行ったが、どうもはっきりしない。そこで拓本にとって読めた文字は次のようなものだった。

          建堂願主知教法尼
          出生楠葉俗姓山中
          是圓阿上人之姉也
          薙染嗣法聞阿上人
          聊営小堂以擬報恩
          仰冀
          伽藍安全法種増長
          師僧父母六親眷属
          外護擅信一歩結縁
          現當諸願皆令満足
          乃至法界均登覚岸

 願主は女性だったのだ。圓阿上人のお姉さんと言うことだが、どのような人だったのだろうか。また圓阿上人とはどのような人で、さらに仏門に入り法統の教えを授けてくれた聞阿上人とは?そして恩師、父母、兄弟、親戚の多くの人が結縁(けちえん)に近づくため、また彼岸を悟るために祈った知教法尼は、楠葉のどこかに眠っているのだろうか。
私も文字を読んだだけでまだ調べてはいない。正法寺のお上人に尋ねたら即座に回答を頂けることかも知れない。あるいは楠葉、その周辺の浄土宗、浄土真宗、時宗の寺を訪ねたら解決できそうな気がする。
 八幡のメジャーな歴史事実を探究することは勿論だが、町中に眠っている小さな歴史を探るのも、またおもしろいことだ。 (2011/06/10)
※この地蔵菩薩は、八角堂がこの地に移転してきた際、それを守護するためのものとして近隣の方が寄進したとのこと。また、「安産地蔵」の名がある通り、安産祈願の御利益があるとのことである。地蔵堂は、昭和37年に八角堂の修理がなされた折に建造されたそうである。地蔵菩薩の寄進者が碑文の願主なのかもしれない。
 
by y-rekitan | 2011-06-28 11:00 | Comments(0)