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◆会報第79号より-04 五輪塔⑩

シリーズ「五輪塔あれこれ」・・・⑩
いかにして

野間口 秀國 (会員) 


 第1章「現場の解説板」を皮切りに五輪塔の不思議を探ってきました。しかしながら、当然と言えるかも知れませんがこれといった明確な回答は得られませんでした。だからと言って決して落胆している訳でもございません。「なぜ」、そう訊かれそうですが「明確な回答はそうそう容易には得られないのだ」と分かったからです。加えて、既に分かっているなら、図書館の書棚から回答が得られるのですから。そう言いつつも残された疑問が消えた訳では無く、「どのようにして造られたのか」、「どのくらいの費用がかかったのか」などに関する答えらしきものが無いのかとあがいてみたいと思います。

f0300125_20375992.jpg 第4章でピラミッドのことに触れましたが、あのような巨大な建造物がどのようにして造られたのか、について改めて書かれたことを読み直し、その一部を引用したいと思います(*1)。
「ピラミッドの建設方法についてもこれまで数多くの推測がなされてきたが、いまだに意見の一致はみられない。様々な仮説が挙げられているが、大きく分けると二つある。ひとつ目は大量の石材を運搬するために長い直線傾斜路を使用したという説、そしてもうひとつがピラミッドの周囲を取り巻くように傾斜路が渦巻形に造られたという説である」 さらに続けると「石材を曳くための道路を建設するのに、国民の苦役は実に十年にわたって続いたという」 とあります。

 また今日でも、大阪城にて見ることの出来る巨大な石が一体どのように積まれたのかを思う時、その作業がいかに困難を極めたかが容易に想像できるようです。瀬戸内の島々や沿岸の石切り場から切り出された石を、海岸まで移動して船で大坂へ運び、淀川を遡り、陸揚げ、さらに移動して積み上げる、そう考えるだけでも当時の最先端の土木建築や運搬技術が駆使されたであろうことが想像できます。石清水八幡宮の五輪塔も、橋本か八幡あたりで陸揚げされた石が大きな修羅(しゅら:運搬するそり状の道具)に載せられ、一ノ鳥居付近を経由して運ばれたのでしょうか。組み上げに際しては、クレーンなどの無かった時代のこと、五輪塔の部材の垂直方向への設置は、個人的には前述の「直線傾斜路を使用したという説」を取りたいのですが・・・・。

 ピラミッドや大坂城などの大規模建造物を造るのには、それぞれの時代に強大な力を持った為政者や集団の存在無しには語れませんが、五輪塔の造立もまた、規模が異なるとは言え中世においての寺社勢力の影響を考えざるを得ません。当時の石清水八幡宮も京の都の一角を護る宗廟として、公家や武家と並ぶ大きな力を有していたであろうことを思うと、五輪塔造立にも少なからぬ影響力があったのではないかとも思えます。

 ところで、この春の「探見 国宝 石清水八幡宮」と題する京都新聞の連載(*2)に五輪塔についての数々の逸話が書かれてあり、その最後にN氏の「どんな土木工事で完成させたのか」との思いも記されていました。私の最後の疑問でもある「いかにして / How」も、まさに氏の思いと同じであり、最大の興味でもありました。この最後の疑問に対して少しでも「回答」らしきものを得たくて、京都市内の滋賀越え道にあります石灯籠や各種石塔・京石工芸品などの創作を生業にされる西村大造氏を訪ねました。氏はご多用な中、私の疑問に専門的な立場でとても親切に教えてくださいました(*3)。

 素材となる原石は比叡山の山塊に存在する花崗岩が地表に出てきたものであり、白川の水流で削られ、洗われて原石が磨かれたものであること、また、不定形の原石は「石回し」と呼ばれる工程によって削られて、その体積のおよそ半分か3/5ほどしか商品には供せられないことなど、石材に関することから話は始まりました。また、原石のまま設置する場所へ運ぶには、重量を考えると不合理であり、石清水八幡宮の五輪塔の場合では、部品(地輪、水輪などの各輪)ごとの完成品もしくは半完成品(粗斫(あらはつ)り品、もしくは中斫(なかはつ)り品)の可能性が考えられること。加えて、完成品の場合には運送期間中に発生する破損のリスクなどを考えると、半完成品で運ばれたことが現実的と考えられる。などなどのことでした。

f0300125_20395890.jpg さらに、現地での組み立ては、現在のように大型重機やクレーンも無かった時代のことなので、それに代わる特別な道具が使われたようです。それは、二本の丸太を組み合わせて作る「フタマタ(ニマタとも呼ばれる)」と呼ばれる石の吊上げ用具であり、今でもクレーンの活躍できない場所での墓立てや記念碑などを建てるのに使用されているようです(*4)。フタマタに加えて、「麻ロープ」や「カッシャ(滑車)」や「ロクロ」などの専門用具を使用しながら、吊るしたり移動したりしてそれぞれの部品が設置されてゆくのです。また、五輪塔の組み立てに使われたフタマタの高さは、街なかの一般的な電柱の高さほどだったのではなかったか、とも、ロクロは人や牛の力で回しただろうことなども話していただけました。

 最後に、「費用はいかほどか」も尋ねましたが、現在でも「商品の大きさや設置場所、また素材の品質などで異なるので・・・」とのことでしたが、石清水八幡宮の五輪塔と同じような大きさ(20尺モノ)であれば、原石の手配が最も難しいこと、組み立てには建設用のクレーンが必要だろう、とのこともお話しいただけました。お話しの内容からは少なくとも8桁の数字ではないかと想像できました。ちなみに氏の手掛けられた最大の五輪塔は10尺モノ(約3.3m)であるとのことでした。

 前述の新聞連載(*2)にも「存在感、数々の逸話生む」と書かれていましたが、それぞれの塔には、それぞれのいわれが語り継がれています。そのことに関して氏は、「すべてが正しいとは言えないだろが、それなりの訳あって語られているのだろうから・・・」と語られました。そして最後に、とても興味深い話をいただき五輪塔のさらなる不思議を感じずにはおられませんでした。それは、「多くの五輪塔には確かに刻銘が見られないが、他の作品(彫像品や鋳造品)などと同じように、その体内に何らかの記録が残されている可能性はあるかもね」と語られたことです。

 最後に数々の貴重なお話をお聞かせいただきました西村大造氏に、そして、最後までお付き合いいただきました皆様に紙面をお借りしてありがたく感謝申し上げます。
 (本章をもってシリーズを終わります)--


参考図書・史料・資料など;
(*1)建築法の仮説例説明及びイラストは『ピラミッドの歴史』大城道則著・河出書房新書刊
(*2)京都新聞連載記事・2017.3.1付け(探見 国宝石清水八幡宮 五輪塔)
(*3)五輪塔関連事項は株式会社西村石灯呂店の西村大造氏に聞く
(*4)「フタマタ」の説明の一部、および写真は『牟礼・庵治の石工用具』香川県牟礼町教育委員会刊より引用


この連載記事はここで終りです。       TOPへ戻る>>>

by y-rekitan | 2017-05-20 09:00 | Comments(0)

◆会報第79号より-05 八幡合戦

『太平記』八幡合戦の石碑を訪ねる

谷村 勉 (会員)


 「八幡合戦」の石碑は京阪八幡市駅から近く、男山山上の御本宮や護国寺跡より中ノ山墓地・正平塚まで凡そ片道4kmの距離にある。途中、歴史的な道標、
石碑を沢山目にするが、今回は「八幡合戦」(正平の役)に関連する道標をピックアップしました。八幡市民図書館横の⑥「園殿口古戦場」石碑を見た後はそのまま南へ旧街道の面影を残す旧道を歩き、突き当りを右に折れて、神原交差点から、さらに南の志水道に入るコースをお薦めします。
 なお、本記事で紹介の石碑等の場所は、下図に矢印と石碑番号を記入しています。
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① 護国寺薬師堂跡碑 (八幡高坊)
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 正平の役で山上における後村上天皇の行宮になったと思われるのが護国寺です。「八幡合戦」の終盤、ここから志水大道に下り、賀名生(あのう)まで多大な犠牲を払いながら脱出に成功した。明治の廃仏毀釈で建物は無くなるが、永く当山根本精舎の役割を担ったところで、八幡宮遷座以前、行基菩薩の開基と伝わる。本宮東門よりケーブル乗り場の道を左にみて、真直ぐ階段を下った左の広場が護国寺跡地になる。
 慶応2年(1866)発行の「八幡山案内絵図」にはほぼ中央に護国寺が描かれ、南側には琴塔や伊勢遥拝所が、西には大西坊へと案内する今も現存の大きな常夜燈が見える。護国寺本尊であった重要文化財の薬師如来や十二神将は廃仏毀釈以降、淡路島の東山寺(とうさんじ)に移され、現在も素晴らしい保存状態で大切に祀られている。

② 八幡行宮跡碑 (八幡市八幡土井)
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 飛行神社から南へ約30mの行宮碑、左に折れると後村上天皇行宮跡碑がある。

③ 後村上天皇行宮跡碑 (八幡垣内山) 
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 当時はこの周辺に石清水八幡宮祠官の田中家の広大な屋敷が在り、正平7年(1352)閏2月19日八幡宮別当田中定清の邸宅を行宮とした。

④ 青林院の正平役供養塔 (八幡旦所)
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 念仏寺の東隣、正福寺の向かいの「青林院」裏の墓地にある。表からは入れず、写真左の横道から南へ抜けると墓地に到る。青林院より東に信号を越えて行くと森堂口、薬園寺に続く道となる。
 この青林院は昭和19年(1944)「中ノ山墓地正平塚」を整備した今中伊兵衛氏が得度・隠居した寺です。

⑤ 正平役城ノ内古跡 (八幡城ノ内) 本妙寺
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 青林院から「八幡宮道」に戻り、更に南に進んで大谷川の「買屋橋」を越えて暫く行くと右手の「本妙寺」に到る。当時の実際の現場は城ノ内の南側からスーパー「コノミヤ」辺り一帯であったらしい。

⑥ 正平役園殿口古戦場 (八幡菖蒲池) 八幡市民図書館横
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 八幡市民図書館横の「園殿口古戦場」の三宅碑は本来の場所から移動している。「園殿口」とは江戸中期の「石清水八幡宮全図」等によると、現在の「法園寺」から東の川口方面に向かった大谷川の辺りを指すが、三宅碑は「小谷食堂」(八幡山本)近くの三叉路東南角付近(八幡菖蒲池)に設置されていた。道路工事等で現在の場所に移転したようだが、園殿口から大きくずれている。(図書館ロビーに江戸時代中期の「八幡宮山上山下惣絵図」あり)

⑦正平役馬塚古跡 (八幡東林)
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 志水道(八幡宮道)を登りきった「志水の四辻」にある内藤精肉店を左に入り、「ありあけ児童公園」を左に見てやや下り、二本目の筋を左に入ったところに「三宅碑」がある。八幡合戦では戦場の主力武器は弓矢であり、その死傷原因も殆んどが矢疵であった。四条隆資卿が斃れたのもこの道筋辺りであろうか。

⑧ 正平役血洗池古蹟 (八幡大芝)
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 志水道(八幡宮道)を松花堂庭園近く、「水月庵」の道標を見て右(旧道)に入り、八角堂を少し越した所に「三宅碑」がある。この古蹟からすぐ左の志水道を行くと中ノ山墓地に出る。血洗池とは古くは西車塚周濠溝の跡。「往古死罪人御成敗の時、太刀取刀をすすぎ候池と申伝え、其池茅原生茂りて名に呼びしか、血アライと称して、あやしき附言のさかしらを云伝えたるものならむ」と『男山考古録』(江戸後期の八幡の詳細な地誌)にあり。

⑨ 正平七年神器奉安所「岡の稲荷社」の道標 (八幡月夜田)
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 血洗池石碑から南に進み、中ノ山墓地を見て道路の坂を下りると、月夜田交差差点の東南の角に「岡の稲荷社」の三宅碑が見える。中ノ山墓地へは西に坂を登り返す。正平七年(1352)五月、八幡合戦に敗れた後村上天皇が賀名生に落ちのびる際、岡の稲荷社に神器を隠し置いたとするが全く不明です。

⑩ 中ノ山墓地東入口     ⑪ 正平塚遠景 (八幡中ノ山)
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 月夜田交差点から西に約50m坂を登ると中ノ山墓地東入口に到り、階段を登りきると、左方向に楠木の大木が目に入る。ここが正平塚です。

⑫ 四条隆資卿塔並びに将卒三百人墓
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 戦時中の昭和19年(1944)に慧俊信海(けいしゅんしんかい)(今中伊兵衛)によって、この正平塚は整備された。城ノ内町の畳商を営む今中伊兵衛は史跡松花堂の前所有者西村芳治郎氏の実弟でもある。今中の整備の20年前に西村芳次郎が東西20間、南北15間の敷地を定め、石柱を四方に立て保存に努めた。東口と北側にある「正平塚古墳」の石碑は昭和2年のいわゆる「三宅碑」である。
 昭和の初めころから塚は荒廃し、放置すれば南朝忠臣の四条隆資らを祀る塚が消滅することを危惧した今中伊兵衛は自費数千円を投じて整備した。
(この項のみ、京都府立大学文化遺産叢書第4集・中ノ山墓地の景観と庶民信仰:竹中友里代著から要約)

⑬ 三古碑      
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 正平の役で斃れた3人の公卿の古碑であるが詳しいことは判っていない。

【歴史を重ねた八幡宮道】

 最近、八幡東麓の道を「東高野街道」という人もいるが、近年観光客誘致の目的で、平成の歴史街道運動に乗って行政が名付けたと聞いています。実はその名称は八幡の洞ヶ峠を起点とする大阪側の道の呼び名であって、八幡の住民はこれまで殆ど「八幡宮道」の歴史的呼称を使用するか、町名を冠した例えば「志水道」、「常盤道」あるいは「新道」、「旧道」などと呼んできました。観光客や八幡の歴史に関心のない人が残念ながら「東高野街道」と呼ぶようです。
 特に近世以前、八幡の歴史上に存在したかのような記述があれば、それは歴史の理解不足であり致命的な錯誤となります。ここでは、「石清水八幡宮参詣道」として発展してきた歴史的経緯を踏まえた名称を使用します。

  主な参考文献:男山考古録 (嘉永元年・1848) 長濵尚次
        :八幡史蹟 (昭和11年・1936) 中村直勝
        :京都府立大学文化遺産叢書第4集(平成23年・2011) 
--------- 中ノ山墓地の景観と庶民信仰:竹中友里代
by y-rekitan | 2017-05-20 08:00 | Comments(0)

◆会報第79号より-06 四條隆資①

シリーズ「四條隆資卿」・・・①
四條隆資卿しじょうたかすけきょう物語  その1
プロローグ「正平の役」

 大田 友紀子(会員) 


 去年の夏の祇園祭に、初めて、八幡の人々に向けてのツアー(やわた観光ガイド協会主催)が実施されましたので、「太平記」の中でも、マイナーな四條隆資卿(しじょうたかすえきょう)についても、ご存じの方もいらっしゃるかな、と思いますが、まだまだこの八幡の地で起こった「八幡合戦」のことも、その戦闘の中で斃(たお)れた一人の公家・四條隆資卿(しじょうたかすえきょう)のことも、知らない方の方が多いのかなぁ、と思っております。

f0300125_2115593.jpg そこで、今回、四條隆資卿のことを、より多くの八幡の方々に知っていただきたい、と思って書かせていただきます。タイトルを「四條隆資卿物語」とさせていただきました。この間、あることから、「物語」とは、「往古(いにしえ)の記憶を語り伝えるもの」だ、と知りました。であるならば、私たちは、正しく伝えて行く努力をしなければならない、と強く思いました。以前から、私は「南北朝期の八幡」についての研究を続けてきました。そして、その中で、最も私が残念に思っていることは、この八幡の地で何百人もの人々が戦い傷つきあった悲惨な戦いがあった、ということを知らない、伝わっていないことなのです。
 平成21年の春、偶然知った「正平塚古跡(しょうへいつかこせき)」の存在が、私の研究の原点です。奇しくも亡き母の墓などがある中ノ山墓地にあり、昭和の初め、それから、昭和19年にその「正平塚古跡」の整備を行った人たちがいた、ということでした。そして、その中ノ山墓地は、江戸時代、志水の壮士などの墓が営まれるようになっていて、正法寺(しょうぼうじ)の末寺である万称寺(まんしょうじ)の裏山にあり、「女郎花墓(おみなえしぼ)」と呼ばれていました。そんな変遷の歴史があったことを、私たちは知らなければいけないのではと強く思いました。中ノ山墓地は、南山城で、いいえ、日本でも古くて大きい共同墓地です。そこには、往古からの歴史が蓄積されているのです。
 
 正平塚で眠っている四條隆資(1292-1352)は、鎌倉―南北朝期の公卿です。公卿とは、三位以上の貴族で、天皇・上皇の元で政治の中枢にいた人たちです。四條家は白河上皇の乳母子であった藤原顕季(ふじわらのあきすえ)にはじまる家系で、そのひ孫にあたる隆季(たかすえ)が大宮四条に邸宅を構えたことから、「四條」を家名とします。藤原氏の北家の流れをくむ家ですから、家名(本姓)は「藤原」ですから、通姓です。そして、貴族の家格では「羽林家(うりんけ)」に属し、家職としては笙(しょう)の家です。「羽林家」は天皇の傍に仕える立場の家で、武官と文官の家があります。武官の家である四條家の男子は近衞府に出仕して、天皇の身辺警護などの任務を負い、行幸などの際には付き従います。そして、娘は女房として御所に出仕し、天皇の身支度やその他すべての世話をするのですから、天皇のお手がつくことがあり、その結果、皇子・皇女を生むこともありました。そして、娘が皇子を生むと、その縁故により政治の中枢を担うことがありました。御所に仕える娘を何人も出してきた四條家なので、隆資にも伏見天皇の御落胤では、という話もあります。このことについては、次回、詳しく書かせていただきます。
 祇園祭の山である蟷螂山(とうろうやま)と、石清水八幡宮本殿の北東の瑞垣(みずがき)にあるカマキリの彫刻と関連は、昔から神職間で語り伝えられていたそうで、そのことからか、明治の初めの火災で燃えた蟷螂山の復興時には、石清水八幡宮本殿の瑞垣のカマキリの彫り物を参考にして、御所車に乗るカマキリ、すなわち蟷螂が復元されます。そのことについて尋ねると、現在の禰宜さんは、そのように聞いている、と答えられます。そして、この話からも、ぼんやりとですが、瑞垣の蟷螂と四條隆資卿との間には、何か深いつながりがあるのでは、思われてくるのですが。
 八幡宮本殿の蟷螂の彫刻と、四條隆資卿のことは、以前、当会の会報・17号に書かせていただきましたので、省略させていただきますが、今日でも不明な点は残っておりますが、そのような口承が伝え続けられてきたという事実は重要です。このことについては、今後の課題として、話を進めていきたいと思います。
 南朝の元号でいえば、正平7年(1352)5月12日夜半、八幡山に籠城を続けていた後村上天皇は、賀名生(あのう)への撤退を決められ、行宮としていた護国寺を去ることを決意されました。そして、石清水八幡宮宝前(今は南総門前の石段の下に隠れてしまった五つ石の所)にて、八幡大菩薩にお暇乞いをされると、八角堂の前を横切り、西谷小門より、山を下りて行かれました。左側に渓流が流れる山道を、先頭の兵が持つ小さなかがり火を頼りに粛々と、隊列は静かに進んで行きました。先頭の軍が志水大道に差し掛かる頃、後村上天皇は興正谷の庵におられ、祈りを捧げてられました。最期の別れの時を迎え、控えていた四條隆資卿は、「何事が起ころうとも決して後ろを見ることのなきよう、ただただ鞭をとり、馳せられるように。」と甲冑姿の25歳の若武者である後村上天皇に約束させて、近侍の法性寺康長(ほっしょうじやすなが)、滋野井實勝(しげのいさねかつ)の手を取って激励し、出発させます。夜の帳(とばり)が垂れこめている間に、志水大道を進み、その四辻を東に駆け抜けさせたかったのですが、志水の町の手前で赤松則祐(あかまつのりすけ)の配下の兵に気づかれ、その軍の大半は洞ヶ峠を目指す第一軍を追いかけたのですが、中には戻ってくる兵もあり、瞬く間に後続の兵との戦闘が始まりました。一刻一刻、戦いの渦が大きくなって行く中、法性寺康長らに護られて、後村上天皇は奈良街道へと向かって馬を走らせたのです。上奈良の村を過ぎ、木津川沿いを突き進んで行き、奈良の唐招提寺に着いた時には、8騎ほどになっていたことや兵の中に紛れて誰が今上帝なのかわからなかった、と唐招提寺の僧がその時の様子を詳しく書いて、京都の洞院公賢(とういんきんたか)の元に送っています。
 その日の申の刻(朝の10時)には西大寺の前を過ぎ、三輪に着いています。八幡の陥落と脱出の困難であった有様がよく伝わってきます。5月13日の朝には、八幡合戦の首級が京に続々と持って来られ、すぐさま六条河原に晒されました。その日、洞院公賢は「随分合戦し遂に取らる、不便(気の毒だ)」と記しています。
 四條隆資卿や滋野井實勝、そして多くの将兵が闘死した場所は、記録にはありません。f0300125_2125260.jpgですが私は、その当時「志水の四辻」と呼ばれていた、現在の内藤精肉店の付近では、と考えています。と言うのも、精肉店の北側に出来た公園の中にあるお社・『荒鈴龍王(あらすずりゅうおう)』の存在が、そんなことを考えさせるのです。それくらい立派な弊額が掛かっているお社です。想像たくましくいえば、その時にその地に埋葬された後、その上には『荒鈴龍王』社が祀られましたが、その後、なんらかの事情で中ノ山墓地に改葬され、それが「正平塚」となったのでは、と想像しています。八幡神領内での戦の後、戦死者たちはきっと手厚く葬られたと私は信じています。
 今年も、もうすぐ7月、京都では町衆の心意気が感じられる祇園祭が始まります。その頃に、今年も蟷螂山町などを訪ねるツァーが予定されています。今年こそ私は、組み立てられたばかりの蟷螂山を舁(か)いでみたい、と思っています。この毎年12日から13日に行われる先祭の山舁(やまかき)初めに参加すると無病息災が約束されると、いわれています。 
(つづく)  

           
(京都産業大学日本文化研究所 上席客員研究員)  


【参考文献】
京都府立大学文化遺産叢書第1集「近世後期八幡神領の病・死・墓」東昇著
京都府立大学文化遺産叢書第4集「中ノ山墓地の景観と庶民信仰」竹中有里代著
角川選書―222「内乱のなかの貴族」林屋辰三郎著



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by y-rekitan | 2017-05-20 07:00 | Comments(0)

◆会報第78号より-04 五輪塔⑨

シリーズ「五輪塔あれこれ」・・・⑨
なぜこの地に

野間口 秀國 (会員) 


 第1章「現場の解説板」で、現場に建つ解説板に書かれていることを紹介しましたが、その最後には「・・・ 刻銘がなく、造立の起源が不明であるためか、この大石塔にまつわる伝説は様々である。」とあります。現場を訪れるたびに「なぜ?」の疑問が浮かびますが、それらは「なぜこの地に建つのか」「なぜ刻銘が無いのか」などといったとても素朴な疑問なのです。

 2014年秋に、歴探主催による「地誌に見る八幡」と題した伊東宗裕氏の講演会が催されました。その時の配布資料(*1)に、次のように書かれていましたのでその一部を引用したいと思います。 曰く、「八幡を歩いて目につくのは三宅安兵衛碑ですね。実際にはその意志をついで息子清次郎が建立したので三宅安兵衛遺志碑といういいかたもされます。こういった史跡碑というものは、一般的によく知られた、ということは地誌ですでに紹介ずみのところに建てることが多いようです。しかし、三宅安兵衛碑についてはこの原則があてはまらない。八幡で言えば神応寺となりの航海記念塔など。」 引用終わり: ここでは「神応寺となり」と書かれています。
 また、『男山考古録 巻十』(*2)の「大石塔 或曰經塚」の項には、「極楽寺鐘楼の西に在り、谷不動道の北側、舊図にも見えて古在なから、由來不詳とし其實を知人無しといふ、・・・」とあります。 この項には他にも、誰が、何の理由で、いつ、などについての言い伝えが書かれています。しかし、ここでも「なぜこの地に」については具体的に触れることなく「極楽寺鐘楼の西」、「谷不動道の北側」とのみ書かれているのです。

 「なぜこの地に」と考える時、上記に加えて神應寺について書かれた新聞記事(*3)はとても役立ちました。その記事には、神應寺は石清水八幡宮を創建した行教が、平安前期に建てた寺とあります。寺の本堂には重要文化財の「行教律師坐像」がおかれ、境内には行教の墓があると書かれています。今一つは寺宝の「篝火御影(かがりびのみえい)」と称される、僧侶姿の八幡神が剣を手に鎮座し、両側に武具を付けた八神が並んだ掛け軸です。元寇の調伏祈願がなされた当時の原本を江戸時代に模写したと伝えられる掛け軸は、鎌倉時代のことを語っているように思えるのです。さらに、八幡大神が男山に鎮座したとされる4月3日の夕方には、石清水八幡宮から宮司、神職、巫女などがこの寺を訪れて行教の墓参がなされるとも書かれています。寺について分かり易くまとめられた記事を読み返してもなお、「五輪塔がなぜこの場所に」、に関しては何も書かれていませんでした。
 とは言え、これらに加えて『八幡市誌 第一巻』や『山州名跡志巻之十三』に書かれていることがらなども読み進めると、この地は石清水五輪塔が建つに最も相応しいところだったのだろうと思えるのも不思議です。

 2つ目の不思議は「なぜ石清水五輪塔には刻銘が無いのか」ということです。その理由と思われることについて、嘉津山清氏は『石造文化』(*4)に次のような見解を述べられていますので引用してみたいと思います。 曰く、「石造物がある限り、当然それを製作した工人がいるが、遺品にその名を残しているのは稀である。(中略) 層塔・宝塔・宝篋印塔といった建造物的な石造物的な石造物に作者名を記したものが多く、一石刻成の板碑・五輪塔といったものには、板碑の一部を除いて皆無といってよいであろう。仏像や銅鐘、鰐口といった金工品のものにはその多くが堂々と大工名を記しているのに比して、石造物は他の梓人より身分が低かったのか、遠慮したのかその名を残してはいない。」 引用終わり: 氏の見解にもあるように、これまでに見ることのできた数々の五輪塔には刻銘が残されていませんでした。それを思うと、刻銘が残されている五輪塔がいかにありがたいか、と実感できた例を書きたいと思います。

 この1月に訪ねたその五輪塔は木津川市木津清水にある「木津惣墓五輪塔」です。塔の傍に建つ同市教育委員会の解説板(*5)には、塔が重要文化財(昭和32年に指定)で、花崗岩でできた高さ3.6mの典型的な鎌倉時代の五輪塔であり、惣墓とは一般庶民の間に個人墓が普及する以前の葬礼の一形態で共同墓地である、ことなどが書かれています。f0300125_20114993.jpgそして驚くべきことに、この五輪塔には、地輪(最下部の方形部分)の東、北、南の三面に年度を含んだ刻銘が残されているのです。ちなみに、東面には正応5年(1292)とあり、北面には永仁4年(1296)が、そして南面には永禄5年(1562)と異なる3つの年号が刻まれていることも併せて解説板が教えてくれます。前章で、「石清水五輪塔造立の発願者が誰か」に興味あると書きましたが、この木津惣墓五輪塔は、刻銘に「和泉木津僧衆等廿二人の勧進による」とあり、造立時の様子の一端も分りました。今となって叶うことではありませんが「石清水五輪塔にも刻銘を残して欲しかったな」と、つくづくそう思いました。

 さて、前章で文覚上人墓五輪塔などについて書かせていただきましたが、本章では1878(明治11)年に、明治政府の招聘で東京帝国大学(現:東京大学)の政治学教員として着任したアメリカ人、フェノロサの墓(五輪塔墓)について書いてみたいと思います。石清水五輪塔についてあれこれ調べていた2015年の秋、偶然目に入ってきたのが、とある広報誌(*6)に紹介されていた「大津の景勝めぐり・法明院庭園」の記事でした。同地を訪れるのは暫くしてからとなりましたが、記事の内容はとても興味深いものでした。「法明院は、天台寺門宗総本山園城寺(三井寺)北院の一つで、大津市山上町にあり、江戸時代の初めに創建され、一時廃絶の後、1724(享保9)年に義瑞和尚が再興したと伝えられる。また、この寺は明治時代に日本美術を世界に紹介したアメリカ人、アーネスト・フェノロサの墓がある寺としても有名である。」 記事はこのように続きますが、内容もさることながら、掲載された墓の写真が五輪塔であることに目が留まり、更に調べを進めてから現地を訪れました。

 『フェノロサと魔女の町』(*7)と題する本を読むと、彼の経歴や業績、墓の謎などが分りました。アーネスト・フェノロサは1853年に米国マサチューセッツ州(アメリカの北東部の州)ボストン郊外で生まれ、ハーバード大学・神学科を卒業、同大大学院を出て、神学校、ボストン美術学校で学びました。前述のとおり、1878(明治11)年に25歳で来日しましたが、この招聘は彼と同郷の、日本国内でも知られた大森貝塚の発見者、エドワード・モースであったようです。フェノロサ婦人の回想によると、東大就任を決めたのは初代内閣総理大臣の伊藤博文であったようですが、この伊藤によって政府の進める「日本の伝統美術の復興」のために美術行政に引き入れられることになります。
 やがて数々の日本の古名画に触れる中で、フェノロサは天台密宗の言葉に理想を見出し、明治18年秋にキリスト教の信仰を捨てて仏教徒へ帰依します。当時の助手であった岡倉天心とともに、近畿地方の古社寺宝物調査を行い、法隆寺を始めとする京都・奈良の古社寺を訪問した記録が残されているようです。岡倉とのつながりで法明院阿闍梨・桜井啓徳師に師事することになり、ここに同寺とのつながりが見いだせるようです。

 f0300125_2017941.jpg彼の功績は明治天皇により外国人としては最高位の勲三等瑞宝章が与えられ、1886(明治19)年の秋に一度帰国します。しかし、1896(明治29)年に再来日、そして4年後にはボストン美術館東洋部長とし帰国して日本美術の紹介をしました。その後、日本政府の要請による欧州視察旅行のさなか、1908(明治41)年9月21日に訪問先の英国で急逝しました。フェノロサの遺志により、遺体は火葬ののち日本に送られ法明院に葬られました。 訪れる人が決して多いとは言えないようですが、私が訪れた時には五輪塔の墓前にはきれいな花が供えられており、彼のファンや美術関係者には大切な場所となっているのであろうことが分りました。

 最後に、木津川市観光商工課よりいただきましたご親切に紙面をお借りして感謝を申し上げます。
(次号に続く)--

参考図書・史料・資料など;
(*1)歴探講演「地誌に見る八幡」(2014.9.14 伊東宗裕氏)の配布資料
(*2)『男山考古録 巻十』 長濵尚次著
(*3)京都新聞記事・2016.11.16付け(探検国宝 石清水八幡宮 神應寺)
(*4)『石造文化』 日本石造文化学会編 日本習字普及協会刊
(*5)現地にある木津川市教育委員会の解説板
(*6)『ほんまる』 大津市生涯学習センターの広報誌・第275号2015.11.1刊
(*7)『フェノロサと魔女の町』 久我なつみ著 河出書房新社刊


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by y-rekitan | 2017-03-22 09:00 | Comments(0)

◆会報第77号より-01 文殊菩薩像

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心に引き継ぐ風景・・・⑧
八幡の石仏さん・文殊菩薩像
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  石仏と言えば八幡森の「夜泣き地蔵」と呼ばれる等身大の石仏がよく知られるところですが、古くから「八幡宮道」、「志水道」と呼ばれる道から正法寺の南門を抜けて西に登れば、ひと際存在感を放つ石仏があります。高さ1メートルの「文殊菩薩」の石仏です。一瞬、騎乗の「将軍地蔵」かと思いましたが、右手に知恵を象徴する宝剣を、左手に経典を乗せた蓮華を持って、獅子の背の蓮華座に乗って結跏趺坐する姿は正しく文殊菩薩です。
 年月を経て肉彫りの像は摩耗し、どの時代のものか、右肩辺りにかすかに文字の痕跡を残すものの全く判りません。
 文殊菩薩は釈迦如来の脇侍として白象に乗る普賢菩薩と共にお寺では時々見掛けますが、なぜ、ここ清水井(志水)に文殊菩薩の石仏が置かれたのか、はたして対となる普賢菩薩の石仏は今も何処かに存在するのか、想像が膨らんできます。
 石仏から西方向に登ってゆくと、随分と急勾配の崖が現れ、切通しと呼ばれる古い道もこの近辺にあって、男山美桜、楠葉方面に向かいます。
 「昔は子供も老人も沢山居て、土産屋さんが出るほど地蔵盆を盛んに行っていましたが、」とお年寄が語ってくれました。周辺の沢山の石仏と共にみんな地蔵さんとしてお祀りされています。
(写真と文 谷村 勉) 空白
  
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by y-rekitan | 2017-01-20 12:00 | Comments(0)

◆会報第77号より-05 五輪塔⑧

シリーズ「五輪塔あれこれ」・・・⑧
誰の手によって造られたのか

野間口 秀國 (会員) 


 本章では「だれ / Who 」を考えてみたいと思います。現地の説明板に「摂津尼崎の商人が中国宋との貿易の帰途、石清水八幡宮に祈って海難を逃れ、その恩に報いるため建立されたと伝えられる」とありますので、この商人について調べることを避けては通れません。また『八幡市誌 第1巻』には、「その海難を逃れられたお礼として承安年間(1171~4)に建立したものであると伝えられている。」ともあります。

 手始めに 『兵庫県謎解き散歩』(*1)に書かれた人物群にもヒントを求めましたがそれらしきことは見出せず、引き続き 『尼崎市史』 (*2)及び 『図説尼崎の歴史』(*3)に目を通すも、その時代の商人らしき人の記録は見つかりませんでした。尼崎市の担当部門の方にもお聞きしましたが、「石清水八幡宮五輪塔と尼崎の商人のつながりについての記録は無く、伝承は伝わってない」との旨の回答を同市立地域研究史料館よりいただきました。およそ300年にわたる宗の時代(北宋と南宋・10世紀後半から13世紀後半、日本では平安時代後半から鎌倉時代にかけての頃)であり、当時の宋との交易は始まっていたと考えられます。もし説明板にある商人が関係しているのであれば、この後発見されるかも知れない史料などを待たねばならないのでしょう。

 さて、尼崎の商人に続く次なる人物を探したいと思います。そのことに少なからず関すると思われることが『八幡市誌 第1巻』(P242)に以下のように書かれています。曰く「・・蒙古襲来に際して、亀山上皇が弘安四年(1281)六月二十日に八幡宮社前で祈願されており、あるいはそれに関連して造立されたものではないかとも考えられる。」と。また、歴探の土井三郎氏は2013年11月18日に八幡市駅前にて開催された「街角勉強会」の展示史料にて以下のように述べておられるので、少し長いですが引用したいと思います。 以下引用部 ;「この五輪塔、奈良の西大寺にある五輪塔と形がよく似ている。西大寺といえば叡尊が思い出される。元の襲来に際し、朝廷は諸国の社寺に異国調伏を祈願させた。西大寺の叡尊は国家的要請を受けて石清水八幡宮にやってきて祈祷をしたとのこと。その祈祷によって、石清水から飛んだ神矢が神風をもたらし蒙古の軍船を難破させたという伝承を生んだ。伝承はともかく、叡尊は律宗の教団を率いた高僧である。そして、律宗教団と云えば石塔や墓石の築造に長けた石工集団を率いたことで知られる。巨大な石を切り出し、細工をほどこすことに長じた職人を抱えていたとならば、高さ六メートルに達する五輪塔をこしらえたり、設置したりすることは御手の物だったのかも知れない。」; 引用終わり

 また、この史料に見える石工集団に関連することは、歴探会報の第53号(2014.8.25刊)にて、同じく歴探の谷村勉氏による「大乗院の五輪塔と石工集団」と題する寄稿にも見られます。氏の書かれた内容は本章で扱う石清水八幡宮五輪塔そのものについてではありませんが、 “伊派の石工集団” についての概略がとても分かり易くまとめられております。よって、石清水八幡宮五輪塔を造立したと思われる叡尊と石工集団について、改めて紙面を割くことは控えたいと思います。

 先述の『尼崎市史』に商人の名前は見つかりませんでしたが、弘安の役、1281(弘安4)年、の前後のころの叡尊に関する記述はありました。 曰く、「・・・しばしば異国降伏の祈祷を行い、弘安の役に元軍を敗退させた暴風雨は、かれの石清水八幡宮での祈祷による神風だと当時の人々にうわさされた。」 と。このような記載内容からも叡尊が深くかかわっていたであろうことは想像に難くありません。が、これら複数の記述とて叡尊によって造立されたと確定できるものでは無いと思われます。現場の解説板を皮切りに、第1章からここまで石清水八幡宮五輪塔について「何か」、「いつか」、「どこか」などを書きましたが明確な答えは得られずじまいです。しかし、どのような答えであっても、「このように大きな石清水八幡宮五輪塔造立の発願者はいったい誰であったのか」との疑問は個人的にもっとも興味あるところなのです。

 ここまで書き進めても次々と出て来るいろいろな疑問に確実な答え見いだせません。よって、お読みいただいておられる皆様にもあまり楽しくないであろうと思いますので、少し紙面をいただき、これまでに出会ったいくつかの五輪塔に語り継がれていることや、言われなどについても書きたいと思います。
 本章では「文覚上人(もんがくしょうにん)(遠藤盛遠(もりとお))」の墓について書いてみたいと思います。京都市内から国道162号線を北西に進むと1時間余りで神護寺(じんごじ)門前近くに着きます。登り口手前の高尾橋近くに車を預けて橋を渡り、途中にある茶屋などを見ながら、およそ400段を登ると楼門に至ります。門をくぐって更にいくつかのお堂などを左右に見ながら境内を登り金堂へと向かいます。金堂の右手から始まる林の中の道を引き続き10(~15)分ほど登り、たどり着いた所に性仁法親王墓と並んで建てられた文覚上人墓五輪塔を見ることができます。神護寺は平安時代に二度にわたる災害によって堂の多くを失いました。文覚上人はその荒廃を嘆き、1184(寿永3)年、後白河法皇の勅許を得て、また源頼朝の援助もあり寺の復興を見たのです。五輪塔のあるこの場所に立つと、墓塔がこの地に建てられた理由も納得できるようです。
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 さてこの文覚上人、もとの名を遠藤盛遠と言い、城南離宮の北面の武士だったのです。盛遠は大坂の渡辺橋で行われた橋供養に訪れた鳥羽刑部左衛門(注1)の妻の袈裟御前(けさごぜん)を見初めて横恋慕し、その母を脅して夫との縁を切るよう強く迫りました。困り果てた袈裟は悩んだあげくに、「ならば夫を殺すよう」にと盛遠に告げ、「夫の髪を濡らしておく」と伝えます。夜半に忍び込んだ盛遠は、濡れた髪が袈裟自身のものであることを知りません。袈裟は寝ている母と夫を守るために身代わりとなり盛遠に首を斬られて命果てました。殺した相手が夫ではなかったことに気づいた盛遠は自らの愚かさを悔やみ出家したのです。出家した盛遠は冬の寒さの中、凍えるような那智の滝の滝壺で首まで身を沈め、呪文を三十万遍唱える荒行を行いました。厳しい数々の修業を終えた盛遠は文覚と名乗り、こののち後白河法皇の宴席に押し入っては神護寺復興への寄付を何回も迫ります。このような行為を繰り返す文覚は法王の怒りに触れてついに伊豆に流されます。伊豆では既にその地に流されていた源頼朝に言葉巧みに近づき、平家追討の謀略を勧めたのです(以下、略します)。

 ところで、神護寺山上の文覚上人墓五輪塔が向いている方向(京都市伏見区下鳥羽)に袈裟御前の首塚のある恋(戀)塚寺があります。この寺は文覚が袈裟の菩提を弔うために建てたと言われており、f0300125_1554781.jpg寺にある宝篋印塔(ほうきょういんとう)は袈裟御前の墓と言われております。寺のしおりにある縁起には「袈裟御前の物語は古来より貞女の鑑という意味で世に傳えられ、その理想像として世人に知られているところである」と書かれています。寺は建てられた当初は北向きでしたが、鳥羽伏見の戦いで寺が荒れてしまい、その時に神護寺のある北西方向に向きを変えたと言われております。実は、文覚上人が袈裟御前の為に建てた恋塚と言われる五輪塔を有する寺がもう一つ京都市内にあることは多くの人がご存知だと思います。f0300125_15112656.jpg その寺は京の六地蔵の一つ(鳥羽地蔵)でもあり、前述の恋塚寺から北へ2Kmほどのところ(京都市南区上鳥羽)にある浄禅寺です。この寺のしおりにも、恋塚寺のそれと同じく、盛遠が袈裟を弔った墓(首塚)と書かれてあります。『歴史家の案内する京都』(*4)にはいずれとも決め難いと書かれてありますが、私も全く同感です。 歴史の真実はいったいどうなのでしょうか。

 世の東西を問わず、いつの時代にも許されない男と女の悲恋物語はありますが、当会の会報(43号及び51~56号)にもそのような物語が取り上げられております。本章で改めて書くことはいたしませんが、それは私たちが八幡市内で見ることのできる「女郎花塚」と「頼風塚」と呼ばれる二基の五輪塔(墓)にかかわる物語です。これらの五輪塔を訪れて、八幡に古くから語られている悲恋物語に思いをいたすのも歴史を学ぶ手だての一つかも知れません。
(次号につづく) 空白
参考図書;
(*1)『兵庫県謎解き散歩』大国正美編著・日経出版刊 
(*2)『尼崎市史』 第1巻(昭和41年)第4章 
(*3)『図説尼崎の歴史』 (平成19年)中世編 第二節2 「港津の発展と商工業」
(*4)『歴史家の案内する京都』 仁木宏・山田邦和編著・図書出版文理閣刊、

史料・資料など; 
神護寺、浄禅寺、恋塚寺の栞
京都新聞記事(2015.11.26・文覚上人悲劇招いた恋)
文学・歴史ウオーク「兵庫津の道を歩く(2015.12.6)」の配布資料
歴探関連資料
会報43号(2013.10.28)「女郎花」猪飼康夫氏、
街角勉強会(2013.11.18)の展示史料
会報51~56号(2014.6.30~11.26)「女郎花と頼風」土井三郎氏
会報53号(2014.8.25)「大乗院の五輪塔と石工集団」」谷村勉氏

注1;他に 源左右衛門尉渡、渡辺左衛門尉源渡 などの表記あり。


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by y-rekitan | 2017-01-20 08:00 | Comments(0)

◆会報第76号より-04 五輪塔⑦

シリーズ「五輪塔あれこれ」・・・⑦
続 どこで造られたのか

野間口 秀國 (会員) 


 石清水八幡宮五輪塔が “どこで造られたのか” について前章に引き続きもう少し考えてみたいと思います。前章では、石材がどこから運ばれたのだろうか、について三重県伊賀市島ヶ原を一つの候補地として挙げましたが、他の地の可能性も考えてみる価値はあると思い調べを進めてみました。
 ところで、日本国内のどこに五輪塔が多くあるのか知ることも、どこで造られたのかを知る手掛かりになると思い、第5章で紹介しました河合哲雄氏のHP 『石造五輪塔紀年順 目次』(*1)を今一度確認してみたいと思います。このHPには237基の五輪塔が記載されていることを既に紹介いたしましたが、記載されている五輪塔がそれぞれの都道府県に何基あるのか、以下に整理してみました。(なお、地域区分とその地域に属する県名等は筆者の判断とさせていただきました。)

<地域区分>
北海道・東北地方
北陸・中部地方

関 東 地 方

近 畿 地 方

中国・四国地方

九州・沖縄地方

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<記載された基数>
青森・岩手・福島 ⇒ 各1、北海道・秋田・宮城・山形 ⇒ 0
静岡 ⇒ 5、 愛知 ⇒ 1
新潟・山梨・長野・富山・石川・福井・岐阜 ⇒ 0
神奈川 ⇒ 6、茨城 ⇒ 5、埼玉 ⇒ 3、栃木・千葉 ⇒ 各1
群馬・東京 ⇒ 0
兵庫 ⇒ 39、奈良 ⇒ 36、和歌山 ⇒ 33、京都 ⇒ 30、
大阪 ⇒ 20、 滋賀 ⇒ 9、 三重 ⇒ 2
広島・愛媛 ⇒ 各6、 山口 ⇒ 4、 鳥取・岡山 ⇒ 各2、
島根・香川 ⇒ 各1、 徳島・高知 ⇒ 0
大分 ⇒ 10、 熊本 ⇒ 6、 鹿児島 ⇒ 5、
福岡・長崎・佐賀・宮崎・沖縄 ⇒ 0

 上記の結果の要因はいろいろあると考えられますが、少なくとも以下のような事柄が分かります。更なる分析は今後機会が有れば進めてみたいとは思います。
1)27の府県(約60%)に存在し、残りの都道県には存在しない。
2)全体の70%超(169/237)が近畿地方に存在する。その他の地域では大分県の10基が目立つ。
3)北海道及び日本海側の各県(秋田・山形・新潟・富山・石川・福井)、内陸部の各県(岐阜・長野・山梨・群馬)に存在しない。
4)北部九州3県(福岡・佐賀・長崎)、および鹿児島・熊本を除く沖縄・九州・四国の黒潮流沿いの県(沖縄・宮崎・高知・徳島)に存在しない。

 さて、本題の石清水五輪塔に戻って考えてみたいと思います。f0300125_1154218.jpg前述のように近畿地方でこれほど多くの五輪塔が造られ、今でも数多くが見られる状況から、「どこで造られたか」にとどまらず、石材の調達や製作する石工集団の存在、発願者や資金提供者の存在などなど、近畿地方にはこれだけの五輪塔の造立を可能ならしめた複数の要因があったことは考えられると思います。また九州では、福岡・宮崎の両県では見られず、両県に挟まれた大分県では10基が確認できます。同県では今でも石仏や地蔵仏などが多く見られること、また宇佐八幡宮があることなども要因なのかと個人的に勝手な想像をしているところです。また、前章で石材の切り出し地候補として三重県伊賀市を挙げましたが、同県では2基しか確認できず石材供給地としてのみと考えることが妥当なのか、それとも石材供給地はここではないのかとも思われます。なお、私見ですが、「20都道県に見られませんが、これらの都道県に現在でも全く無いことを言っている訳ではない」と考えます。
 さて、石清水五輪塔は「どこで造られたか」を思う時、個人的には「これは石材供給地の近くで、五輪塔の各部位ごと(地輪、水輪など)に完成させたもの、もしくはそれに近い状態に仕上げられたものが運ばれた」のではないだろうかとの考えに至りました。そう考える理由は以下の通りです。
1つ目は; 運送効率が良いこと。
 水運利用であれ陸送であれ、大きくて重い素材のような状態での長距離運送は一般的に考えても労力(費用)がかかり、事故などの発生確率が高まると考えられること。
2つ目は; 量産性が高くて精度(品質)が確保し易いこと。
 大型の五輪塔造立の時代は比較的集中しており、類似した形状が多く見られます。このことからも、造る立場から考えた時にも、可能な限り同じ場所でまとめて造る方が効率面でも品質確保の面でも合理性が高いと思われること。
3つ目は; 近畿圏での人材確保が容易であったと考えられること。
 製造する技術者集団(石工)の確保は必須要件であり、初期段階では限りある人材の分散は避けるべきであったと思われること。なお時代が下ると、製造技術も各地に伝搬され、それに伴って人材確保も比較的容易になったことは考えられます。
4つ目は; 調べている中での歴史的な具体事例の記述との出会いです。
 史跡 “江戸城石垣石丁場跡” に関して、「江戸城の石垣に用いられた硬質安山岩の産地が西相模から伊豆半島であり、ここの石材が選ばれた理由は、石垣に適した材であり、比較的江戸に近く、船で石材を運べること」と書かれてありました(*2)。この記述を読むと、まさに前述の1から3までの理由を具体的事例に当てはめて書かれたように思えたのです。 また、理由を示す具体事例には適合しないかもしれませんが、古くは、市内の茶臼山古墳より発見された石棺に関して「九州の石材(熊本県宇土半島から八代平野の産)であり、宇土で製作され、瀬戸内海を東上し、橋本の地に至って・・・」と書かれている事例もありました(*3)。f0300125_11593849.jpg
 それでは「近くの石材供給地は一体どこだったのだろう」が次なる問題ですが、距離的な観点では現在の「京都市東山の白川近辺から」が最も近いと思われます。白川は風化した花崗岩が流れ下る水によって運ばれ、川底に白砂を敷きつめたかのような様からその名前がついたとも言われているようです。比叡山の麓にある修学院離宮近くから比叡山山頂をめざす登山道でもある「雲母(きらら)坂」の名称も、そのいわれは比叡山の花崗岩の雲母であるようです(*4)。このように、雲母坂沿いの音羽川や白川の上流地域はかつて花崗岩の岩山(石切り場)があった地域なのです。石材供給地は、この京都白川、山城南部の加茂(木津川市加茂町)、三重県伊賀市島ヶ原、香川県高松市庵治など複数の説があるようですが、現在まで石清水八幡宮五輪塔が造られた場所を証明する史料に出会うことはできず、場所の特定にも至っておりません。これからも何らかの史料の発見されることを待ちたいと思います。

参考図書・史料・資料など;
(*1) 『石造五輪塔 紀年順 目次』 河合哲雄氏のHP(2014/09/25に確認)
(*2)『発掘された日本列島 新発見考古速報 2016』 文化庁編 共同通信社刊
(*3)『図説 発掘が語る日本史4 近畿編』 水野正好編 新人物往来社刊
(*4)2016.8.23日付け 京都新聞記事
(次号につづく) 空白



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by y-rekitan | 2016-11-20 09:00 | Comments(0)

◆会報第76号より-07 文化祭展示発表

第44回八幡市民文化祭展示発表を終えて
―展示会場:八幡市文化センター3階ロビー―

八幡の歴史を探究する会  「八幡の道探究部会」


 2016年10月29日、30日の二日間、八幡市の文化センターにて例年通り市民文化祭の展示発表がありました。f0300125_9334655.jpg各市民サークルの力作が展示発表される中「八幡の歴史を探究する会」からは昨年発足した専門部会の「八幡の道探究部会」が中心となり『八幡の古道』を展示タイトルとして発表しました。
 展示内容は 1.古地図5枚、 2.古道地図2枚(写真6点)、3.江戸時代の道標地図2枚 (写真27点)で、当日は道部会の担当者や歴探の幹事が中心となって説明にあたりました。

1.古地図5枚の内容を簡単に説明します。

平安時代の地図である「花洛往古図」、平安時代から鎌倉時代の京の都や八幡が描かれ道や川の繋がりがよく判ります。
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『織田豊臣時代の古図』は「古文書の会八幡」から提供されましたが、この古図には織豊時代に復活した「山崎橋」が描かれています。
「山崎橋」附近の拡大図も添えました。
『山城州大絵図』は京田辺市在住の個人から提供されました
安永7年(1778)、江戸時代中期の絵図で彩色が施された古図です。
『山城国南三郡古図』、これも江戸時代のやや大型の古図で手書きで彩色が施されています。
『山上山下惣絵図』は「石清水八幡宮全図」として中井家文書に残る絵図ですが、石清水八幡宮を中心とした江戸時代中期の八幡八郷の全図です。
 地図好きにとっては思わず時間を忘れます。

2.古道地図2枚の内容を簡単に説明します。
(以下の地図はいずれもクリックで二段階に拡大表示されます)
(1)古道ルート図
f0300125_2148535.jpg
 『奈良時代の八幡の古道』と題して古山陰道と古山陽道を地図上に示しました。京田辺市大住の関屋橋分岐点から淀方面に延びる古山陰道では内里八丁遺跡の様子を向日市の「京都府埋蔵文化財調査研究センター」から提供されたパネル写真2枚で展示しました。今では高速道路が走り跡形もなくなりましたが、貴重な2枚の写真パネルでした。
 一方、関屋橋で分岐した古山陽道は美濃山廃寺、志水廃寺、西山廃寺をかすめて楠葉に到り、橋本の山崎橋までのルートを図示しました。
 今回、道部会の全員で京田辺市大住の現地聞き取り調査を行った結果、古山陰道、古山陽道の分岐点が手原川の関屋橋であるという有力な情報を現地の郷土史家から得ることができました。

(2)中世から近世の 男山周辺の道
f0300125_21283911.jpg
 中世、近世当時の比較的大きな道として現存しているルートを図示しましたが、古図や絵図によれば小さな道が沢山あったことが分ります。近隣にお住いの方々からはここにも道があった、この道はこうなっているなど貴重な証言もいただきました。

3.江戸時代の道標について簡単に説明します。

 江戸時代の道標27カ所の写真とその位置を示す地図を2枚展示しました。
f0300125_21545333.jpg
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 江戸時代に製作された道標には地蔵像や役行者像の肉彫りされたものも多く、調査をした道部会の会員もそれらの道標の美しさにまず感動しました。
 八幡の道標調査の過程で大阪府下の高野道の道標調査を行ったときは、やはり地蔵像や観音像等素晴らしい個性的な道標の数々を目にしていました。
 八幡には昭和初期に建てられた三宅安兵衛碑が89基確認されていますが、その殆んどが角柱仕様です。八幡及び周辺の江戸期の道標には大阪府下の道標と同じく地蔵像や役行者像が肉彫りされたもの、舟形光背を持つ地蔵道標、墓石に道案内を彫った墓石道標などが多く確認され、道標からも八幡の歴史の奥深さを感じずにはいられません。
 f0300125_11352511.jpg特筆すべきは下奈良井関墓地入口の「往生礼讃道標」で、善導大師の「往生礼讃」の一節が刻まれ、正面には「阿弥陀三尊と僧形4体」が肉彫され、その内、僧形2体は善導大師と法然上人です。
 次に美濃山の「指さし地蔵道標」です。普通、錫杖を持つ右の手が「八はたへこれから」の文字を指さしていました。この様な地蔵道標は初めてです。
 三つめが『石清水八幡宮鳥居通御幸道』の「正徳3年道標」です。平成21年(2009)末頃迄御幸橋南詰にありましたが、「御幸橋」付け替え工事に伴い撤去され、保管先が分らなくなりました。色々捜しましたが結局、八幡宮に保管されてあることが遂に分かりました。早速、西禰宜さん立会いの下、頓宮内裏庭に入り、道標の覆いを取ると、そこには文字の最後に「御幸道(みゆきみち)」の文字が彫られてありました。『男山考古録』に「正徳3年(1713)、石清水八幡宮鳥居通御幸道という標碑を建てられたるは、検校新善法寺行清法印也」とあり、山上山下惣絵図や石清水八幡宮境内全図(重文)に「御幸道」と共に「正徳3年道標」の位置も記載されています。折損の為、御幸道の部分がコンクリートによって塗り固められていた為、御幸道の文字が隠れていましたが、紛れもなく「正徳3年道標」であることが確認されました。

これからの「八幡の道探究部会」の活動について

 文化祭の2日間は沢山の人々に「八幡の古道」に関心を持っていただきました。
中には早速、現場へ道標確認に行かれた方が何人か居られました。展示の道標の位置を表した地図を欲しいと言われる人が数十人もおられ、関心の高さに驚いた次第です。f0300125_116508.jpg
 今回展示した地図に入りきらない「八幡宮」への道標が数基ありますが改めて別の機会に紹介したいと思います。
 なお、「八幡の道探究部会」は、今回1年間の活動成果の古代~江戸時代までを展示発表しましたが、引き続き毎月部会を開催し活動は継続する予定です。  
by y-rekitan | 2016-11-20 06:00 | Comments(0)

◆会報第75号より-01 豊蔵坊信海


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心に引き継ぐ風景・・・⑥
さまよえる豊蔵坊信海
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 松花堂昭乗書流の中興の祖にして「昭乗自画像写」を残す細合半歳(ほそあいはんさい)は、かの木村蒹葭堂(きむらけんかどう)の媒酌人でもあった。蒹葭堂日記によれば、当時彼を訪問する著名人は引きも切らず、八幡の社士、森元回蔵も訪れている。
 さて、大坂の細合半斎は「男山栞」松花堂門人姓名小録の項に中村久越、法童坊孝以、豊蔵坊孝雄(信海)、藤田友閑らの略伝を記している。
 豊蔵坊は家康の三河時代からの祈祷所であった為、大層裕福な坊で、徳川の治世に闕所(けっしょ)となった片岡道二と落合忠右衛門の朱印地を含め百七石の朱印寺領があり、さらに代官小堀家より三百石を給されていた。徳川家祈祷所として、毎年正月には江戸城へ登城し将軍に年頭御礼と共に祈祷札を献上している。神應寺と縁の深い大奥総取締「右衛門佐(えもんのすけ)」の推挙を受けて、後に幕府歌学方となった北村季吟(きたむらきぎん)(松永貞徳門下)とは晩年まで交流が続いた。
 書画や狂歌に名を残す信海の墓石は足立寺史跡公園にて先年確認したが、大坂の由縁斎貞柳(ゆえんさいていりゅう)が信海三十三回忌に神宮寺(廃寺)の墓に詣でた記録がある。中ノ山万称寺(廃寺)や狩尾社の近辺にも墓の伝承があったらしいが、今なぜか八幡市文化財保護課に仮置きされているそうだ。
足立寺跡地「豊蔵坊信海墓」の三宅安兵衛碑が「信海、何処へ」と叫んでいる。                     (写真と文 谷村 勉)


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by y-rekitan | 2016-09-20 12:00 | Comments(0)

◆会報第75号より-05 五輪塔⑥

シリーズ「五輪塔あれこれ」・・・⑥
どこで造られたのか

野間口 秀國 (会員) 


 この章では「どこ / Where 」で造られたのか、について考えてみたいと思います。今日、頓宮近くで見ることのできる石清水八幡宮五輪塔は国内でも屈指の大きさを誇り、その重さも相当のものであろうことは容易に推測できます。では、この五輪塔が他の場所で造られてここまで運ばれたのか、それとも石材のみが運ばれてこの地で造られたのか、との素朴な疑問にも正しい答えを見出すことは容易では無いようです。

 「どこ」に関する疑問は、まず五輪塔の材料となる石がいったいどこで採れたのかを知ることが大切であると思うのです。2014年秋、高槻市立今城塚古代歴史館で開催された『古墳時代の舟と水』と冠する展示会にて展示された石棺の説明文の一部に、「・・今城塚古墳では、はるか九州から運ばれた石棺が見つかり・・」と書かれていました。また、市内の男山笹谷で発掘された茶臼山古墳から見つかった石棺は、現在の熊本県の宇土半島から運ばれた阿蘇石(阿蘇溶結凝灰岩)が使われていることも分かっております(*1)。これら淀川両岸の古墳で発掘された石棺が、石材として積み出されたのか、はたまた半製品もしくは完成品で運ばれたのか興味は尽きませんが、石棺の石材は石清水八幡宮五輪塔のそれとは明らかに違うようです。

 ならば、石清水八幡宮五輪塔の石材はどこで産出されたのでしょうか。そのことを考えるには古墳時代にまで遡る必要は無さそうです。が、調べを進めるため参考にすべき事例の一つは、時代を下った大阪城築城の頃かと考えました。大阪城を訪れると、桜門の蛸石や京橋門の肥後石などと呼ばれる、優に畳の広さを超す巨大な石が目に飛び込んできます。築城に使われたこれらの巨大な石は瀬戸内海の島々で切り出された後、石船や筏に積まれ、また二隻の船に吊るされるようにして大阪まで海上を運ばれたとの記録があります(*2)。切り出されたのは瀬戸内海の小豆島や犬島を初め、六甲山系や生駒山系の石切り場など複数の候補地が考えられますが、いずれの地にしても水運を除いた運搬手段は皆無とは言えないまでも極めて困難であると言わざるを得ません。また、石清水八幡宮五輪塔が造立されたであろう時代に、陸上運搬にて現在五輪塔の建つ位置まで運べるような近隣地に塔造りに適した石材供給地も限られていたのではないでしょうか。

 水運での運搬を前提に考えるならば、それは必ずしも海を隔てた遠隔地とは限らず、石材(半完成品や完成品含む)の運搬が出来るほどの大きな川でも可能であったと思われます。そうであれば、今日八幡市を流れる宇治川や桂川、更に木津川の流域にあった石材供給地はその候補に挙げられます。本章では木津川流域について更に考えを進めてみたいと思います。木津川市内で木津川右岸を東西に走る国道163号線を左折し「ふるさとミュージアム山城」(*3)への誘導路の左側に設置された残石を見ることができます。以下は現地の説明板にある全文です。 
 注:大坂城(城の名称)と大阪(地名)の表記は異なります。
大坂城の残石
この石材は、徳川幕府が1620(元和6)年から行った大坂城の改築のときに、津藩の藩主藤堂高虎が、現在の加茂町から切り出した大坂城修築用のもので、貴重な歴史資料として、多くの方々に見学いただけるよう、平成元年11月からこの場所に設置しています。 多くの石材が木津川を下って大阪へ運ばれましたが、なかには、のちの修理に使うために現地に備蓄されたものもありました。その石材は、今でも木津川の中に残されています。

f0300125_92921100.jpg この夏のある日、改めて前述の「大坂城の残石」を訪れて写真に収めました。更に車を東へと進め、かつての伊賀の国、現在の三重県伊賀市島ヶ原の地を訪れました。この島ヶ原の地名については、会報第53号(2014.8.25刊)にて『大乗院の五輪塔と石工集団』の記事を寄せられた歴探仲間の先輩、谷村勉氏より、以前、「京都市内の懇意にしている石材店の主人の調査によると八幡の五輪塔と宇治浮島十三重石塔は島ケ原(木津川上流/現三重県伊賀市)産の花崗岩で川を利用して運んできたと聞いています」と教えていただいたことがありました。また、五輪塔に加えて「宇治浮島十三石塔」の名前が含まれていることもあり信頼性が高いとも思いました。谷村氏の情報に加えて、島ヶ原訪問に先立って伊賀市教育委員会文化財保護課の担当の方より、①島ヶ原でかつて石材を産出していたのは事実であるが、②今から30~40年前に途絶えており過去のことを知る人もおられず、③市にも関係する歴史的史実は見つからない、との情報もいただいておりました(*4)。

 京都府南東端で接する三重県伊賀市島ヶ原は、藤堂藩の時代、大和街道の宿場町として賑わいをみせていた町であり今日でも旧本陣の跡が残されています。JR島ヶ原駅前の観光案内所にて、地元の方よりこの地の石材店を紹介いただきました。紹介いただきました石材店の奥様より、「石の切り出しの話は聞いたことがあるが、今では切り出し地は残っていないな」との話も聞かせていただくことができました。周りを車で走っても切り出し地のような場所は見出せませんでしたが地元案内の島ヶ原観光マップ(*5)には「岩谷峡」、「岩倉峡公園」と呼ばれる木津川流域の自然公園や、「岩屋山」と呼ばれる岩窟や「峰の六地蔵」と名付けられた磨崖仏など、岩にまつわるような見所が複数描かれておりました。

 JR島ヶ原駅から車で北へ5~6分の地に「薬師堂磨崖仏」があり訪ねてみました。f0300125_16512689.jpg島ヶ原観光マップにも描かれており、大きな花崗岩の自然石に彫られた本尊と阿弥陀三尊立像が確認できます。その前に立って島ヶ原から西に向かって流れる木津川を思う時、この地が石清水八幡宮五輪塔の石材の切り出し地であったのだろう、と理解できる訪問ではありました。が、それは同時に確証が得られた訳では無いことも事実ではありました。石材を切り出し、運び、加工し、設置すると言った一連のことがらを、「どこ / Where 」を切り口に考えてみると石清水八幡宮五輪塔の不思議が益々増して来るようです。最後に、紙面に記載の有無に関わらず、情報を提供いただきました全ての皆様方のご親切に紙面をお借りして厚く感謝申し上げます。

参考図書・史料・資料など;

(*1)『図説 発掘が語る日本史 4 近畿編』 水野正好編 新人物往来社刊 及び『埋蔵文化財発掘調査概報 1969』 京都府教育委員会刊
(*2)『歴史群像名城シリーズ 大坂城』 太田雅男著 学習研究社刊
(*3)京都府立山城郷土資料館の愛称(同館より教示いただく・2016.08.08)
(*4)伊賀市教育委員会文化財保護課より教示いただく(2016.02.09)
(*5)『島ヶ原観光マップ』 島ヶ原観光協会刊(次号に続く)

(次号に続く) 空白



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by y-rekitan | 2016-09-20 08:00 | Comments(0)