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◆会報第79号より-02 三川合流

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《講演会》
三川合流の変遷と周辺都市

2017年4月 
さくらであい館(イベント広場)にて
福島 克彦(城郭懇話会会員)

 
 4月23日(日)午後1時半より、淀川三川合流域“さくらであい館イベント広場(淀)”を会場に、年次総会と例会を開催しました。新しくオープンした”さくらであい館”の会場には、多数の方々にお越しいただきました。総会の後、同じ会場で「淀川・三川合流の歴史とその周辺」の講演が行われました。なお講演の概要は、講師の福島克彦氏がご多忙中にも拘わらず新たに本会会報掲載用に首記のタイトルで新たに執筆していただきました。会報編集者として厚く御礼を申し上げます。 当日の参加者58名でした。

はじめに

 馬車が発達しなかった日本の歴史にとって、舟運は物流の歴史を語る上で不可欠な要素である。年貢、物資の運搬には、大小多様な船舶が使われ、生産地と消費地を結びつけていた。特に、淀川は、古代、中世最大の消費都市であった京都と西日本を結びつける重要な物流の幹線となっていた。16世紀以降は、大坂が発達し、その地で集積された物資が運搬され、京都へと届けられた。山崎や淀は、そうした物資を京都へ運ぶ際、中継地点となった都市であった。したがって、三川合流周辺の都市である、山崎、淀、八幡は京都の発展を常に支えていた存在であった。こうした中継地点は17世紀には河川沿岸の渡し場や問屋として展開し、淀川舟運と地域社会を結びつける重要な結節点となっていた。
 しかし、一方で淀川は洪水など、自然災害の元凶にも変わっていく。そのため、この地域の堤防普請や治水対策とも常に大きく関わっていた。ここでは、三川合流周辺の都市の歴史と、治水と河川の付け替えについて取り上げてみたい。

1 三川合流の様相

 淀川の三川合流といえば、桂川、宇治川、木津川の三つの河川の合流を指す。現在、三つの河川は山崎地峡で背割堤を挟んで並走している。左岸は八幡市・枚方市、右岸は大山崎町、島本町が接しており、今も雄大な景観となっている。f0300125_2047308.jpgしかし、これらは自然によって形成された景観ではなく、あくまでも近代以降において人工的に築かれたものであった。では、近代以前の景観はどのような雰囲気であったのだろうか。近世絵図や絵画が描くように、幕末までの三川は淀の町で合流していた。そして、山崎地峡部分は、合流した後の一本の大河が流れる景観となっていた。つまり、幕末まで淀川沿岸を見る場合、現在の地形で判断するのではなく、かつての景観を遡及的に考察して検討する必要がある。
 淀の上流は、16世紀中葉まで、宇治川が直接巨椋池に流れ込んでいた。この池の水がオーバーフローして、淀、そして下流の淀川へと流れていた。後述するように、豊臣秀吉の伏見城下町建設に際して、宇治川が巨椋池と分離することになった。
 以下、合流地点の都市について概観しておきたい。

2 周辺都市の展開

(1)山崎・大山崎

 神亀2年(725)、行基による山崎橋架橋があり、橋のたもとには集落が形成されていたものと推定される。以後、8世紀後半の長岡京、平安京の時代にかけて、山崎橋、山陽道、関所に加え、山崎津、山崎駅、国府、官営瓦窯などが設置されていく。平安中期になると、橋が消滅し、津は史料上登場しなくなる。一方で中世前期からは地縁的共同体たる「保」が街道沿いに配置され、街村状の都市へと生まれ変わった。保には八幡宮の神人が住んでおり、彼らは灯明油を八幡宮へ奉納していた。これを契機に荏胡麻油の製造が認められ、特権商人として君臨するようになる。原料たる荏胡麻も莫大な量が西日本各地から船舶によって運搬された。淀川交通は、こうした原料荏胡麻を運搬する重要なルートとなった。以後、大山崎は荏胡麻油の代名詞となり、中世商業に名を残すことになった。ただし、14世紀には新しい塩商売に手を出そうとしたが、既得権を持っていた淀の抵抗によって、その権限は結果的に返上している。これによって、大山崎は多角的な産業への発展への道が途絶えてしまう。以後、産業の多角化への転換は、うまくいかなかったようである。
 一方、都市の自治権は、朝廷や武家との交渉のなかで、着実に獲得していった。戦国期からは大山崎惣中という自治組織が形成され、近世期にも神人が社家へと転換して「守護不入」権を維持していた。

(2)淀
 古代の淀は「与等津」(延暦23年 804『日本後紀』)という港として登場してくる。永承3年(1048)には 山崎・淀の刀祢、散所が屋形船11艘を建造しており(『宇治関白高野山御参詣記』)、やはり船舶との関わりが見える。中世は、材木の備蓄、塩・塩合物を取り扱う「魚市庭」、 兵庫津と結びつく「淀十一艘」などが見られた。こうした点からわかるように、中世期淀は京都の外港的な役割を果たしていた。f0300125_20501948.jpg
 一方、永徳3年(1383)8月、大山崎が新市開設によって塩商売を進めようとするが、これは淀の強い抗議によって白紙にさせている。つまり、この当時から塩や塩合物に関する既得権を守る立場になっていた。「淀ハ皆以八幡領也、千間(軒)在所也云々、近来減少」(『大乗院寺社雑事記』延徳2年)と記されるごとく、八幡宮領であった。千軒の家があり「淀六郷」と呼ばれる六つの集落が形成された。これらは、桂川、宇治川沿岸の集落であり、やはり港と船舶で、外とつながっていた。
 一方、京都とは陸上交通でつながっており、淀の中心である島之内には納所から淀小橋が架けられ、京都との間を運送業者が中継していた。こうしたルートは、秀吉の時代に太閤堤が成立して、その堤防上に造られた。17世紀に淀城下町が成立すると、この街道は東側に張り出すように移転されていく。

(3)八幡
 石清水八幡宮膝下の都市である。貞観2年(860)、行教が八幡神を勧請した後、石清水八幡宮が成立していく。以後、その周囲に院坊、集落が形成され、発展を遂げていく。中世都市の空間構造としては、山上・山下、宿院、内四郷、外四郷と区分される。内四郷と呼ばれる山麓の町場は東高野街道(常盤大路、志水大道)が南北に走り、やはり街村状になっていた。
 石清水八幡宮寺の組織としては祀官中、山上衆、神官神人中、四郷中などがあり、祠官家(田中・善法寺など)が力を保持していた。
 八幡は直接は河川と接していなかったが、独自の外港橋本を通して舟運が西日本とつながっていた。延文5年(1360)大山崎神人井尻助吉が「橋本津」で八幡宮領播磨国松原荘の年貢を陸揚げしており(『井尻文書』)、対岸の大山崎とも強く関係していた。預物慣行、土倉の存在、徳政免除などの特徴があり、多くの金融業が発展していた。近世期も「守護不入」を存続していたことが知られている。
 このように、三川合流周辺には、大山崎、淀、八幡と、石清水八幡宮と関わりを持つ都市が成立していた。これらは河川交通ともつながる一方で、街村状の町場が続き、陸上交通とも深い関わりを持っていた。特に京都と陸上交通でつながり、運送業者とも関わっていた点は強調されてよい。また、淀川沿岸ともつながっており、古い時代から瀬戸内海の舟運を媒介にして、物資運送のルートとなっていた。

3 三川合流工事の要因

 16世紀後半より、豊臣秀吉の京都改造が進められ、宇治川と巨椋池の分離、それに伴う伏見城下町の建設、太閤堤の普請などが敢行された。この秀吉の改造は、近世期の交通体系と治水方針をほぼ決定づけている。特に堤防と街道が軌を一にしている姿勢は注目される。以後も京都開発は進められたため、流域における大量の樹木伐採も行なわれた。そのため、森林の保水能力が低下し、土砂が河川に流出して、山崎地峡の手前で土砂が川底に堆積した。これによって洪水が起こりやすくなり、江戸時代以降は、山崎地峡周辺はたびたび水害に見舞われた。三川合流地点における逆流現象もたびたび起こったため、地域としては合流地点の変更を求めるようになった。すなわち、洪水対策のため、合流地点を少しでも下流へ求めようと、寛永14年(1637)の木津川付け替え工事、さらに18世紀以降の小泉川、水無瀬川、放生川の付け替えが実施された。なかには、木津川を河内や大和へ付け替えようとする計画も見られたが、近世期段階では実行に移せなかった。

4 淀川改良工事

 明治元年(1868)5月に淀川の大洪水があり、同年12月~3年(1870)正月にようやく木津川付け替え工事が敢行された。これに伴い、周辺も近代における小泉川の付け替えなども行なわれた。以後、土砂堆積の問題を克服するため、オランダ人ヨハネス・デレーケなどの調査、計画による、淀川改良工事が進められ、砂防ダムの設置、水制による低水路の維持が図られた。当時水制には粗朶沈床も設置され、水の浄化作用に意識されていた。明治29~43年頃(1896~1910)の淀川改良工事では、桂川、宇治川の付け替え工事が進められた。このうち、桂川の付け替えでは、大山崎の淀川沿岸部の敷地を喪失した。そのため、当時の大山崎村長松田孝秀は「凡ソ大利ヲ起サントスレハ、小害ノ之ニ伴フハ数ノ免レサル所ニ付、府下公益ノ為メニ犠牲トナルハ甘ンスル所ニ候得共、之ヲ以テ大ニ利益ヲ享クルモノトシ、不均一ノ賦課セラルゝニ至リテハ黙止難致」と京都府に意見を述べている(『役場旧蔵文書』「上司進達綴」明治29年7月)。後に淀川改良増補工事(大正7~昭和5年 1918~1930)によって背割堤が拡張し、現在の景観に至っている。
 当時の村長の言葉のなかに、大山崎村が「府下公益ノ為メニ犠牲トナルハ甘ンスル所ニ候得共」と言っている点は、私たちは噛み締めたいと思う。

おわりに

 平成29年(2017)3月、三川合流の地にさくらであい館が完成した。今後、三川合流地点を考える重要な発信基地になると思われる。それは前述してきたような、周辺にある都市のあり方などを比較検討することを通して、各々の町の特徴を追究することができる。さらに淀川・三川合流を媒介とした自治体・地域の交流もさまざまな形で実施することができると考える。それは、言うまでもなく、淀川の歴史を考えることでもある。現代のように、大型河川を境界と考えるのではなく、物資を運ぶ舟運ルート、あるいは対岸を結ぶ渡し舟などの存在から、むしろ対岸は近い存在だったということを改めて認識すべきだろう。
 その意味でも八幡の歴史を探究する会の役割も大きいと思われる。皆さんの活動に期待したいと思う。

[参考文献]
西川幸治編『淀の歴史と文化』淀観光協会 1994
大山崎町歴史資料館『はるかなる淀川』2000
大山崎町歴史資料館『淀川と水辺の風景』2012
藤本史子「中世八幡境内町の空間復原と都市構造」『年報 都市史研究』7 1999
鍛代敏雄『戦国期の石清水と本願寺』法蔵館2008
福島克彦「近世前期における西国街道と淀川問屋」『山城国大山崎荘の総合的研究』2005
福島克彦「中世大山崎の都市空間と『保』」仁木宏編『日本古代・中世都市論』2016
 

『一口感想』より
三川合流の歴史や推移が、わかりやすく説明されていましたので、よく理解がすすみました。資料もよくまとまっており、大変よかったと思います。(O.S.)
三川合流の歴史を学んで、益々貴重な地域であると思った。八幡市はもっと、もっと三川合流を取り上げてほしいと思う。(I.J.)
八幡市に住んで50年、三川合流の歴史を初めて聞き興味を持ちました。有り難うございました。(K.T.)
三川の様子がよくわかりました。(T.K.)
八幡の土地一部が分断され(美豆、生津)ていたことは聞いていましたが、三川合流の改良工事により、山崎が多くの土地を失ったこと、はじめてお聞きしました。 改良工事の歴史を学ぶことの大切さがわかり、よい機会となりました。(F.N.)
興味ある内容の講座でした。本年も八幡にかかわるテーマでお願いします。昔はどうであったか、昔のものは残っているのか、痕跡、遺品・・(K.S.)
最初会場の天井が高いためか、講師のマイクが聞こえづらかった。しかし、途中からよく聞こえるように配慮していただき、よく聞こえるようになりました。(謝謝)
 講師の方は一生懸命大きな声で講演されました。受講者の一員として深く感謝申し上げます。本当に有り難うございました。受講者も静かに熱心に一心で聞く思いで受講、大へん有意義な講演であり、参加して大へんよく有り難かったです。(H.M.)
本日の講演、大変参考になりまいた。普段、三川合流の話は滅多に聞きませんでしたので、大山崎も八幡も大きな影響を受けていたことを知りました。
 江戸時代の資料の図に八幡の中に東高野街道の名称があって、東高野街道とは最近観光用に俄に言い出したことで、江戸時代の資料に適用するのはどうなのかな?と一つだけ疑問が残りました。(T.S.)

  
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by y-rekitan | 2017-05-20 11:00 | Comments(0)

◆会報第71号より-05 流れ橋

上津屋橋(流れ橋)の復旧に向けて

高田 昌史 (会員)


はじめに

 通称「流れ橋」の名で広く親しまれている上津屋橋は、1953年(昭和28)3月に、それまでの渡し船に変わり木橋の府道として完成しました。
 流れ橋は完成以来、通称通り約60年間に何回も流出しましたが、2014年(平成26)8月、4年連続で通算21回目の流出の直後から、毎回の復旧費用が嵩むことを理由に存廃の可否の論議が開始されました。同年9月に、京都府による『上津屋橋(流れ橋)あり方検討委員会』が設置され検討された結果、流出から1年2ヶ月経過した昨年11月にようやく復旧工事が着工され、この3月末に完成する予定です。
 今回は、今までの流れ橋と異なり、流れにくい「新流れ橋」として大きく構造が変わるということですので、これまでの経緯と現時点での流れ橋の復旧状況をまとめることにしました。

1.完成当時の上津屋橋(流れ橋)

 橋が完成した1953年は終戦間もない時期であり、安価でしかも洪水による被害が少なく自然に逆らわない橋としての「流れ橋」の構造を採用したと推察できます。f0300125_2149211.jpg
 流れ橋とは、川幅の狭い所に木板を渡し、最初から流れることを前提にしつつも、その木板が流失しないようにロープ等で結んでおく造りですが、上津屋橋は全長365.5m(幅3m)もあり、日本一長い流れ橋として完成したのです。
 この流れ橋の周辺には茶畑が広がり、河原と清流の風景とがマッチした、自然と共存した橋として長い間親しまれ、時代劇全盛時には年に10回以上も撮影に使われていたとのことです。 
 今では、八幡の重要な観光スポットとなり、観光客来場者数は年間13~14万人で、八幡市内では石清水八幡宮、背割り堤についで第3位を占めています。

2.最近の流れ橋と流出状況

 次の左の写真は、2014年5月(21回目の流出前)に写したもので、右の写真は同年8月の台風による大雨での流出直後に写したものです(ともに八幡市側から撮影)。
 上流からの漂流物が多く橋の傷みは甚大で、流出防止に固定していた一部のワイヤーロープが切れ、橋板はかなり下流の京阪電車の陸橋に大きな漂流物として留まっていました。
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 また、橋の部材の損傷もかなりひどい状況で、毎年の復旧工事にはかなりの費用がかかることから橋の存廃論議になったのです。
 1年以上にわたる検討委員会での審議の結果、復旧は決定しましたが、流れ橋の構造が大きく変わります(3項参照)。従って、左の写真は60数年間の流れ橋の原型の最後の姿になります。
 今までの流れ橋の【流出の記録】を確認すると、完成してから30年間の流出回数は8回のみですが、最近は異常気象の影響で毎年のように流出しています。そのことから、橋の存続には今回の構造変更が必要条件であることは理解できます。

【流出記録】―“やわた流れ橋交流プラザ四季彩館”パンフレットによる 
   1回―1953年(昭和28) 8月15日:豪雨
   2回―1959年(昭和34) 5月15日:伊勢湾台風
   3回―1961年(昭和36) 6月24日:梅雨の豪雨
   4回―1972年(昭和47) 7月10日~17日:豪雨
   5回―1974年(昭和49) 7月10日:豪雨
   6回―1976年(昭和51) 9月 8日~13日:台風17号
   7回―1982年(昭和57) 8月 1日~3日:台風15号
   8回―1985年(昭和60) 6月21日~7月7日:豪雨及び台風
   9回―1986年(昭和61) 7月20日~22日:豪雨及び台風
  10回―1990年(平成 2) 7月19日~20日:台風19号
  11回―1992年(平成 4) 8月19日:台風11号
  12回―1993年(平成 5) 7月 5日:豪雨
  13回―1994年(平成 6) 9月30日:台風26号
  14回―1995年(平成 7) 5月12日:豪雨
  15回―1997年(平成 9) 7月26日:台風9号
  16回―2004年(平成16) 8月 5日:台風11号
  17回―2009年(平成21)10月 8日:台風18号
  18回―2011年(平成23) 9月 3日:台風12号
  19回―2012年(平成24)10月 1日:台風17号
  20回―2013年(平成25) 9月16日:台風18号
  21回―2014年(平成26) 8月 9日:台風11号  

3.流れ橋復旧についての検討

 今回の流れ橋の復旧に関して、流出直後から『上津屋橋(流れ橋)あり方検討委員会』が設置され、6回開催されたとのことです。委員会の審議の状況は、京都府のホームページで公開していますので、流れ橋のこと及び今回の復旧決定に至る詳細を確認することができます。(※1)
 その報告書から、以下の内容が確認されました。
地元から流れ橋の復旧についての要望書と4,933名分の署名が提出され、その後、新たに7,894名分の署名が提出されている。
住民からの意見募集には、総数98通の提出があり、その内の80通(82 %)が「復旧すべき」、10通(10%)が「撤去すべき」、8通(8%)が「どちらとも言えない」という結果であった。なお、八幡の歴史を探究する会の恩村政雄さんが「存続すべきである」との意見具申をされています。(※2)

 議事録の中には、技術的な検討と共に、「安全性」・「景観性」・「流れにくさ」の評価に「経済性」も加えるべきとあります。特に、各案を茶畑との景観で比較検討されている絵図が目を引きました。この「流れ橋周辺に広がる浜茶の景観」が2015年1月に京都府景観資産に登録されたこと(※3)は、流れ橋復旧の大きな後押しになったともいえます。
 以上、各面からの要望もふまえ、昨年11月9日から復旧工事が着工されたのです。
 また、流れ橋の復旧工事の状況を多くの人に知ってもらい、この橋をより身近に感じてもらいたいという狙いから「上津屋橋(流れ橋)工事通信」が毎月発行されていて、工事の進捗状況は現場に出向かなくても京都府のホームページで確認できます。

 
4.新しい上津屋橋(流れ橋)の構造について

 f0300125_1744616.jpg流れ橋は1953年(昭和28)に完成以来、1972年(昭和47)に橋脚73基のうち17基がコンクリートパイルに変更されましたが、他はすべて木製でした。最近、復旧工事現場に「洪水に強い橋にしています」との看板が設置され、復旧前と復旧後の構造比較図があります。

主な構造変更箇所
橋脚をすべてコンクリート製で、直径300㎜、長さ12mとする。(以前は直径220㎜の杭木、長さ8m)
橋脚は40(以前は73)――橋脚間の長さを拡大して、洪水時に流木等のゴミが引っ掛かりにくくする。
橋面を75cmかさ上げする。
木部は北山杉を使用し、コンクリートは目立たないように彩色を落として外観を重視する。

 以上が現場に設置された看板から判る変更個所です。高さが75cmも高くなったことは気になりますが、流れにくい「流れ橋」にするためには仕方がない決定と思います。その他にも、これまでの景観を維持することに工夫されている事がうかがえます。

これからの「流れ橋」について

 今は、「流れ橋」60年の歴史が変わり、新「流れ橋」が誕生する3月末が待ち遠しい思いです。f0300125_171059100.jpg反面、今までの流れ橋の良さや周囲の景観とのバランスが維持されているかが心配です。特に75cmのかさ上げの影響については、完成時に出向いてしっかりと確認したいと思います。
 なお、最近の記録では流出すると被害状況を調査してから復旧まで平均7ヶ月要していますので、毎年流出すると渡れる期間は5ヶ月間しかなく、渡れない期間の方が長いのが現状でした。しかも毎回3000~5000万円の修復費用がかかりました。これからは「流れ橋」の名称は残るものの、今までのように流れすぎない「流れ橋」に生まれ変わることを期待しています。

参考資料・情報
(※1)京都府ホームページ(建設交通部 道路建設課) 「上津屋橋(流れ橋)あり方検討委員会」参照
(※2)流れ橋存廃の意見表明(八幡の歴史を探究する会 会報第56号―恩村政雄)
(※3)京都府景観資産(登録番号21):「高品質てん茶の産地・八幡市~流れ橋周辺に広がる浜茶の景観~」―平成27年1月22日登録。

by y-rekitan | 2016-02-28 08:00 | Comments(0)

◆会報第63号より-01 流れ橋

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わが心の風景・・・(36)
流れ橋
所在地 上津屋宮前川端

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 「流れ橋」の愛称で知られる橋は、上津屋橋といい、長さ356メートル、幅3メートルの日本最長級の木橋です。日本一はというと、静岡県島田市・大井川に架かる「蓬莱橋」の896メートルですが、流れることを前提に架けられた橋としては、八幡の流れ橋が日本一といえそうです。
 この橋が架けられる前には、府営の渡船場があったのですが、1951年(昭和26年)3月に廃止され、その2年後にできたのが流れ橋です。このとき、経費節減と増水によって橋が壊れないようにするため、川の水が橋板まで達すると板が浮き上がり、流れる構造となっているのが「流れ橋」と呼ばれる由縁です。また、橋板は、ワイヤーロープで橋脚と結ばれ、水が引けばこれをたぐって橋脚に載せ、再び通行できるようになっています。
 橋は架橋後、現在までに21回流れ、その復旧に費用がかさむことから、被害を最小限に抑える新たな構造にしようと、今、その課題に「平成の知恵」が試されようとしています。 (絵と文小山嘉巳)

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by y-rekitan | 2015-06-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第62号より-03 川下り

シリーズ「川の旅日記」・・・①

川下り旅日記

野間口 秀國 (会員)


 この春、4月3日の昼過ぎに桜まつり開催中の背割提に出かけ、お花見船(Eボート)で川面からの桜を楽しみました。これはその時の短い川下り旅日記です。昨年は急な天気悪化で運行が中止されましたので今年は楽しみに待っていたのです。出航予定時刻が近づくと係の方から救命胴衣の装着が命じられ、乗客14名全員が装着を終えて順に乗船を始めました。川岸から決して大きいとは言えないゴムボートへ乗船するのは少し緊張しましたが全員が乗船を終えるといざ出航です。

 このまま流されてしまいそうな気持ちも束の間、船頭さんの巧みな櫂さばきでボートが岸を離れるとほどなく案内が始まりました。挨拶に続いてこの八幡の地で合流する木津・宇治(淀)・桂の3本の川の概要を話していただきました。実際に下る川は宇治川でしたが、当日は水量も豊富で中央部の流れは思ったよりも力強くて早く、岸の近くでは複雑な流れが生み出す大小複数の渦が見られました。流れの様子は川底の状態を反映することも教えていただきました。

 およそ5分ほど下る頃に右手前方に見える導流堤(どうりゅうてい)について説明がありました。導流堤とは(この地点の場合は桂川と宇治川の間にある)堤の一定区間の高さが周りより少し低く造られている堤防の部分のことです。導流堤はその最上部が水で流されないよう石などで覆われていますので注意して観ると分かります。f0300125_20143266.jpg桂川と宇治川の合流地点で流れの方向や速度を一定に保つために設けられた堤で、いずれか一方の水位が導流堤を超すと超えた分は低い方に流れるように工夫されているのです。導流堤というあまりなじみのない言葉でしたが船頭さんの説明に皆さん頷きながら耳を傾けていました。また、最近では昨年の台風11号時に桂川から宇治川へ越流していることを教えていただきました(*1)

 船頭さんの話は川から導流堤へと続きましたが、最大の目的は進行方向の左手に続く川面からの桜見物です。背割提の桜の楽しみ方は、ピンクのトンネルを歩く、河川敷の芝から見上げる、御幸橋から全景を眺めるなど、人それぞれでしょう。しかし、やわらかい春の風を受けてボートから眺める堤に咲く満開の桜と、それらが水面に映る光景はとても趣のある鑑賞法ではないでしょうか。f0300125_20165987.jpg
 船頭さんはボートを安全に進めながら、引き続き背割堤の歴史を語られました。背割提は明治以降の木津川付け替え工事で生まれたものであり、木津川と宇治川(淀川)を別ける細長い堤防のことです。昭和の50年代初めまでは松並木であり、時代劇の撮影にも使われたことを話されました。その松並木も害虫被害でほとんどが枯れて昭和53年3月に当時の建設省(現在の国土交通省)によって250本のソメイヨシノや52本のハナミズキが植えられ、今日では近畿圏でも有名は桜の名所の1つに数えられるようになりました。背割提公園の正式な名称は「国営公園 淀川河川公園背割堤地区」であり国営の公園として平成元年4月に開園されました。桜の他にも河川敷にはヨシをはじめ多くの草木や野鳥や昆虫が見られる自然の宝庫であるとともに、運動やレクリエーションなど、憩いの場として多くの人々に愛されています。

 船頭さんのお話はまだまだ続きそうでしたが、ボートはそろそろ背割提の先端にある三川合流点観測所局舎を見上げる川岸に設けられた船着き場に到着です。もう少し、いや、このまま枚方宿あたりまでと思いつつも、船頭さんは、これまた桟橋も無い川岸へと巧みにボートを寄せて全員を安全に降ろしてくださいました。わずか20分の短い川下りでしたが、川や堤のこと、公園の歴史などを学び、少しだけスリルを味わい、川面からの桜を満喫できた貴重なひと時でした。なお、桜まつり開催期間中(運航日数は7日)に約500名の乗船客を数えたとのことでした(*2)。来年も運行されたら皆様是非一度試されたらいかがでしょうか。         (2015.5.9)

【参考資料】
  1. 船頭さんのお話、及び八幡市観光協会発行の平成24年と25年の「八幡桜まつり」案内チラシより。
  2. 導流堤の越流情報(*1)は近畿地方整備局淀川河川事務所および八幡市役所都市管理部道路河川課のご協力を、期間中の乗船客数(*2)は八幡市観光協会のご協力をいただきました。 紙面をお借りしてご協力にありがたく感謝申し上げます。

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by y-rekitan | 2015-05-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第56号より-06 流れ橋存廃

流れ橋存廃の意見表明

―読売新聞・朝刊9/23の記事をみて―

恩村 政雄(会員)


現在、八幡市各地で流れ橋の存続を要望する署名が取り組まれています。また、京都府が改修の方法について広く意見を求めたとのことです。恩村さんが以下に意見具申なさいました。ご本人の了解を得て誌上に再現いたします。

●流れ橋の存廃について
意見の主旨  存続すべきである
その根拠 
流れ橋は、地域自然環境に溶け込んでおり、京都だけでなく日本の原風景を表現しており、景観価値は高い。
流れ橋は、京都映画村施設の一部を構成していると広く周知されている。
流れ場は、映画ファンにとってノスタルジーを感じさせる構造物であり、かつ全国的にも希少な遺産で、京都観光の一翼を担っている。

●修復費用について
メディア報道によると、回復修理に数千万円を要するとあるが、その金額が理解できない。
元々、流れ橋は江戸時代の一般的な橋を表したものであるだけに、頑丈で立派な橋板ではなく、質素な材質の方が訴える力や共感を呼ぶ力は強いと思われる。
例えば、橋板は間伐材(径10-15cm)の丸太を半分に切ったものを橋板として使用し、資材費の節約を図る。 (橋板は上が平面で下が丸面のお椀型形状となる)
間伐材の使用は、同時に山林業界の活性化をも促す効果が生じる。

●流出・破損対策について
橋げた
  • 水切り、流木や枝・ゴミ等の流出物対策として、50メートル又は100メートル上流に、杭を設置し、水流・圧の軽減を図る。
    (形状は嵐山・渡月橋の橋げたを参照する) (杭の距離は景観を考慮する)
  • 同じく、流れ橋の橋げたにも同様の対策を講じる。
橋板
  • 間伐材を2分した材木を1間幅の大きさに束ね、かすがい、ワイヤー等で留めた筏様とする。
  • 橋げたには仮止めとし、流れやすいようにしておく。
  • 橋板流出回収対策としては、1間幅単位ごとに回収用ワイヤーを取り付け、その一端は、別途水中に打ち込んだ杭、または両岸の繋留物に取りつける。
    (ワイヤーの一端を橋げたに取り付けると、端げたの損壊の恐れがあるので厳禁とする)
●通行の法定規制措置について
通行は徒歩通行専用にすべく法定規制措置を講じる。(自転車、バイクは押して歩く)

以上、私の考えを述べさせていただきました。
    
by y-rekitan | 2014-11-28 07:00 | Comments(0)

◆会報第51号より-02 八幡の発掘調査

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《講 演 会》
八 幡 を 掘 る
― 上山下の発掘調査から -

2014年6月  松花堂美術館講習室にて
大洞 真白 (前八幡市 文化財保護課)


 6月例会は、長年にわたり八幡市文化財保護に携わられた大洞真白さんに、表題テーマで松花堂美術館講習室にて講演をしていただきました。
 大洞さんには今までに何回も講棋や発掘現場での現地説明会でお世話になりましたが、今回は石清水八幡宮の山上山下発掘調査の状況とこれからの事について皆様と一緒に考えていきたいと話され講演が始まりました。
10ページの詳細なレジュメに沿った講演でしたが、この講演の概要報告も大洞さんご自身に作成いただきました。 参加者54名。

1.八幡市域の発掘調査の歩み

(1)昭和40年代(1965)~
 八幡市内で行われたはじめての発掘調査は西山廃寺(足立寺跡)で、京都府が実施した。外部研究者によって西山廃寺の建物跡や西山瓦窯が調査され、続けて古代寺院の志水廃寺・美濃山廃寺、さらに須恵器窯跡の松井交野ヶ原窯跡、石清水八幡宮の西谷などが調査された。中には報告書がでてないものがある。1984年には京都府が楠葉平野山窯跡の調査を行った。

(2)昭和60 年(1985)~
 八幡市に埋蔵文化財担当者が配属され、開発に先立つ重要遺跡の調査が実施された。
 特に1989年調査のヒル塚遺跡は、粘土槨(かく)がとりわけ大きい古墳時代前期末の方墳で、副葬品の渦巻き飾り付き鉄剣は国内で2例しか出土していない。当時アサヒグラフの古代史発掘総まくりに、森浩一氏による「なぜ起こる重要度と注目度の差」と題したコラムに、ヒル塚の新聞発表が宇野内閣誕生と重なり、地域版にしか取上げられない不公平な事態になったことを書かれている。

(3)平成5年(1993)~
 建物建設に先立つ緊急発掘調査(大芝古墳、上奈良遺跡、橋本奥ノ町遺跡、清水井遺跡等)で成果を得た。また、京都府の第2京阪道路建設による内里八丁遺跡等の調査が実施された。

(4)平成11年(1999)~
 文化庁による発掘取扱変更により、建物建設に先立つ調査が減少し、反して区画整理やミニ開発など新設道路に先立つ緊急発掘調査で成果が多く得られた。f0300125_1115660.jpg
 (上津屋遺跡、上奈良遺跡、女郎花遺跡、木津川河床遺跡”八幡宮門前町跡”調査等)
 また、国庫補助事業による重要遺跡の範囲確認調査が定着し、計画的に遺跡内容の把握に努め、開発との調整をはかった。
 (美濃山廃寺、美濃山遺跡、王塚古墳、石清水八幡宮、女谷・荒坂横穴群等)

(5)平成21~24年(2009~2012)
 平成20年に始めた石清水八幡宮境内の調査をもとに歴史シンポジウム開催、平行して調査を進め、平成24年1月に国史跡に指定された。
 最初の調査から約半世紀を経て、失われる遺跡に対する対応から、遺跡保存を目指した計画的調査を行うよう進化した。

2.山上山下の空間構造の解明に向けて

(1)門前町跡(「内四鄕」中心)の発掘調査
 「門前町の発展過程」の今後の調査課題を皆さんに託すにあたり、門前町跡(「内四郷(うちしかごう)」中心)の発掘調査成果をまとめる。木津川河川敷から多くの土器類が見つかり設定された「木津川河床遺跡」は、男山周辺門前町の内四鄕北部を含む広範囲に渡る。府と市の調査で、既に第25次までの発掘調査報告書を発行している。さらに、祠官家邸宅跡の馬場遺跡・清水井遺跡も調査している。
 図1の地層断面模式図では、内四郷北部での各調査地の各時代の地層を比較できる。
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全体に室町時代でも3m、平安時代まで至るには4mあり、とにかく深い。発掘技術で深さを克服するのが課題。各時期の遺構面に数メートルの差があり、御幸橋北詰の中世墓が出土した辺りの最北部が最も低く、山柴や森が高い。山柴や森はもともと自然堤防の上にあったと考えられる。相対的に低い北部は江戸時代以降耕作地化していく。
 地層の年代は土器で判定する。土器からは遺跡性格もわかることがある。河川敷の木津川河床遺跡20次で出土した土器は、八幡宮が遷座前後の頃の、貴族が使用するような高級遺物が出土している。
 森にも古い土器があるが、八幡宮遷座以前から人々が住んでいる。まとまって遺物がみえてくるのは平安時代後期頃で、山路でも12世紀頃の遺物が一番多くなる。
 下が掘りきれてないものがあるので断定的にはいえないが、平安時代後期以降の遺物はまとまって広範囲から出土するので、山路郷以北は同時代には多くの人々が居住していたことを示している。また、地形的に低い現在の河川敷で出土した平安時代前期の高級遺物は、高貴な人物に関係する施設が存在した可能性を示している。

(2)祠官家邸宅の位置解明
 次に、文献史料を手掛かりに門前町の開発推移について考える。それには、文献に記録が残りやすい祠官家邸宅の位置を見ていくのが有効である。邸宅はまとまった面積を要するので、未開の地に選地することが多いと考えられるためである。
 図2は祠官家邸宅の推定位置を示したものである。
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 以前の当会での講演で、5枚セットで門前町の発展過程を時代ごとに示しした図をひとつにまとめたもの。平成21年のシンポジウム「三大八幡宮―その町と歴史」のために作ったものだが、その根拠のほとんどは『男山考古録』の記述である。『男山考古録』は江戸時代末に残っていた様々な資料を見て書かれたもので、他の市町村にはほぼ存在しない奇跡的な地誌だが、それら資料の多くが現存しないので、どこまで史実なのかは検証されなければならなず、その記述は一旦は伝承として取り扱う必要がある。よって、これらの図はあくまで仮説であるが、その文献的典拠を明らかにしておきたいと思った。以下特に記さないものは『男山考古録』の記述による。
 最も古いのは元命の高坊(ア)で宿院内にあった。元命は宇佐からやってきて藤原道長と結び石清水のトップに登りつめた僧である。常盤町の北に元命孫の頼清邸宅。その子・垂井光清は娘を鳥羽上皇の後宮に入れた。この2人の邸宅が、科手よりさらに北にあったとの文献の記述と、木津川河床20次の調査成果との関係が注目される。
 光清五男の「河合屋敷」(エ)も、科手以北に12世紀前半に邸宅をつくれる条件があったことを示している。発掘成果では、平安時代中~後期に洪水が起こって砂が1m程堆積し、その後耕作地化した可能性が指摘されている。同じく光清の子で田中家の祖となる勝清は、科手北から園に邸宅を移す(オ)が、邸宅の移動がこの洪水によるものなのか、今後注目したい。さらに田中家の慶清は邸宅「家田殿」(カ)は、木津川河床19次の成果と関連する。『男山考古録』には非常に豪華な御殿であったことが書かれている。木津殿(キ)は八幡市域でないが、このような邸宅の存在を頭に留めておく必要がある。
 鎌倉時代に入り、馬場町の東南に宮清邸が造られ善法律寺となる(ク)ことは「石清水祠官家系図」にも書かれているが、『男山考古録』には現在地と別の場所と読める。遺跡範囲にも入っていない可能性が高く、地名調査や分布調査が必要であろう。
 科手では、洪水被害からの復興を示すものか不明だが、13世紀頃には壇家が営まれる(ケ)。
 室町時代に至り、善法寺家が馬場町へ移る(コ)記述は、馬場遺跡での発掘成果に符合する。調査ではそれ以前から人の居住が伺える。新善法寺家邸宅跡である清水井遺跡(サ)の発掘調査では、江戸初期の高級な遺物が多く出土している。居住が始まった頃を推定するには、膨大な発掘資料を再度分析するとわかってくる。

(3)門前町跡周辺の発掘調査
 内四郷の外側での調査は、平成9年度の橋本奥ノ町遺跡のほか、八幡八郷の成立過程をより明確にするには、平成25年度に調査された下奈良遺跡、今里遺跡の成果等が重要である。
 さらに、平成24年度に八幡市に隣接する枚方市 中之芝遺跡で大規模な発掘調査が行われ、12~13世紀の大きな区画溝が見つかり、有力土豪の居館の可能性、と発表されたが、淀川沿いにあった津の管理に関係する施設の可能性も考え得る。

(4)古代から中世の都市遺跡との比較視点
 古代からの都市遺跡といえば、平城京・平安京・三重県の斎宮跡・多賀城・平泉・大宰府などがあるが、平安時代にはじまり現在までつながっている都市遺跡は、平安京と八幡に限られるといっても過言ではない。八幡は規模こそ小さいが、人工的な整地層がこれほど連綿と積み重なって人が住み続けたところは、ごく少ない。まだあまり意識されていないが、日本の歴史にとってそれほど重要なところである。f0300125_18284725.jpg
 平安時代の貴族邸宅跡は京都市内でいくつも発掘されており、寝殿造の建物配置と園池の存在が特徴。祠官家の邸宅も、同じように立派なものがたくさんあったはずで、私たちの足元にそのような邸宅跡がいくつも眠っていると考えるだけでワクワクするではないか。また、三川合流地点の住みにくいところに努力して都市形成を進めていく点も重要で、歴史研究には現在の防災やまちづくりの観点からも学ぶところが多いはずである。
 八幡市は絵図や文献も多く、誰にでも歴史研究がはじめられる。今後もみなさんの研究の進展を期待しています。

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 続いて質疑応答がなされました。紙数の関係から論点のみ紹介します。応答するのは、講師の大洞さんの他に文化財保護課の小森俊寛主幹、石清水八幡宮研究所の鍛代敏雄氏も交えたものでした。

①江戸時代の神領絵図などを見れば、大谷川の下流がぐねぐねと蛇行し、いかにも低湿地帯と思われる科手であるが、中世期には祠官家の邸宅があった。その一つの理由として、木津川等の水運を利用する際に科手は都合がよかったことがあげられる。

②八幡の都市空間では、南北に延びる街道沿いに町場が形成され、男山の東麓においては、大和・河内など他地域との流通という点から東西にも街道と町の形成が図られたことが考えられる。

③出土された土器など遺物からは、土器の編年だけでなく、使用した階層もわかる。八幡の場合、白色土器など天皇家や摂関家などが使用する土器も出土されていることに特徴がある。
「一口感想」より
  • これまでの発掘調査の成果から普段歩きまわっている八幡市内に豊富に史跡が眠っていたことがわかり驚きました。また、八幡市(教育委員会)がどのように発掘調査にとりくみ、山上山下の空間構造の解明に向かおうとしているかがわかり、大変勉強になりました。 (Y)

  • 発掘された埋蔵品を分類し、資料館による展示によって一般に公開し、説明会を実施するなどしてほしい。ふるさと学習館についてももっと周知されるようにしてほしい。(一部割愛) (T)

  • 今回は、発掘の成果を古文書と対比させて考えると共に、それを八幡の地図にプロットして話されたことに新鮮さを覚えた。これまで参加させていただいた現地説明会の内容が更に深まったと思います。ありがとうございました。 (N)   

  • たまたま今日は仕事がないので参加できうれしいです。とても楽しみにしていました。ありがとうございます。夫はこれが終わると宿直の勤務にでかけます。一緒に先生のお話をきくことができ本当に幸せです。 (京田辺のTさん)


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by y-rekitan | 2014-06-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第49号より-05 大谷川余話⑫

シリーズ「シリーズ「大谷川散策余話」」・・・⑫
第12章 大谷区・流れは河内の國へ

 野間口 秀国 (会員) 

 メモ帳とデジカメを手に、季節を問わずに大谷川の流れに沿って何回も繰り返し歩いて1年余りを過ぎ、今やっと住まいのある橋本の地に戻った感があります。過ぎれば短いと思える時間的経過の中ですが、出発点近くの京田辺市松井の「今池」付近と終着点近くの八幡市橋本の「橋本樋門」周辺の変わりようにはただ驚くばかりです。
 大谷川の最下流部の第5区、八幡大谷の地を流れることより「大谷区」と呼びたいと思います。起点は京阪電車の八幡市駅に近い鹿野(かの)橋です。石清水八幡宮の玄関口「一の鳥居」に向かう御幸道に架かり風格ある橋と言えます。平成5年(1993)9月に架設されたこの橋の親柱は石を使った太い四角柱状で、上部には灯籠が飾られ、欄干にも石が使われています。前章で公儀橋と町橋に触れましたが、鹿野橋がかつて町橋であったらしいことを知りました。その様子などを詳しく知りたくて地元の人にもお聞きしましたが、その思いは完全には果たせておりません。しかし以前の橋が石橋だったこと、近辺は桜の名所だったこと、河畔には料理屋があったことなどを教えていただきました。なお、現在の鹿野橋は無論町橋ではなく府道に架かる橋であり山城北土木事務所で管理されています。 
 男山の東の麓を北へ流れた大谷川(放生川)は、この鹿野橋から明治43年(1910)4月15日に開業(*1)の京阪電車の線路に沿うように西へと向きを変えて流れ下ります。現在の流れはほぼまっすぐですが『八幡市誌・第3巻』の表紙裏の絵図には「四十八曲りと云」との注釈が添えられており、かなり曲りくねった川であったことが分かります。
 『男山考古録・第11巻』にも「・・南北へ縄打はへし如く曲りて、土人は常に四十八廻りと云、・・」と書かれているように、傾斜が殆ど無くて平坦な土地ゆえに流れはくねくねとして緩く、澱み気味になるのもいたしかたなかったのかも知れません。f0300125_12354158.jpgまた「四十八曲り」や「四十八廻り」は流れの曲り数の多さの形容ではありますが「四十八坊」や「四十八願」(*2)にも何かしら通じるものとも言えそうです。
 地元に住む人達に「四十八廻り」と呼ばれた川の流れる科手の地は、放生川が淀川に流れ下っていた地で、古くは淀川の氾濫原であり現在の鹿野橋あたりには池もあったようです。排水の悪い低湿地帯であった様子は古い時代の絵図などにも見えます。男山の北側、御幸道の西側に位置する「科手」の地名は古く、久世郡科手上里(カミサト)と呼ばれ『八幡市誌・第1巻』の第2章と巻末の年表にも見えるように八幡神の男山遷座に先立つ八世紀後半、条里制の地割が成立する頃にまで遡ることができるようです。また地名の由来はこの地が「山の片下がり(=シナ)の所(=テ)である」こと及び「洪水によって流出し堆積した砂礫地、スナ(=砂)・テ(=所)が転じた」ことのようです(*3)。
 明治維新の直後、明治元年(1868)の年末に始まった当時の政府による木津川付替え工事によって、淀で宇治川と合流していた木津川の流れが八幡の科手近くへと大きく変わったことは既にご存じのことと思います。この付替え工事に伴って、かつて男山の山側から尾無瀬川を経て淀川に流れ込んでいた数多くの小さな流れが遮断されてしまいました。また科手地区の北側には明治2年(1869)11月に完成を見た新しい木津川の堤防が科手の北側に築かれた為に堤防の南側に降った雨水も行き場を失い、結果的には科手から橋本にかけて現在の京阪電車の線路に沿うように細長い湿地帯が生じることになりました。
 このように水はけの悪くなった状態を改善するために広い範囲に盛り土がなされると共に、淀川への排水を一手に引き受ける、内水排出河川としての大谷川が整備され現在に至っているようです。これによって流れは真っすぐになって四十八曲りも解消されましたが、傾斜が殆ど無い状態が大きく改善されることは望めず堆積する砂や茂った水草などで渇水期に流れが澱む状態は現在でも発生します。同時に、新しい流れの出現に因りそれまであった科手地区の墓地も他の地への移転を余儀なくされてしまったことも話していただけました(*4)。この春(2014.03.15)に八幡市・文化財保護課によって行われた「今里遺跡発掘調査現地説明会」の資料に見える「八幡八郷と墓地の分布」地図はまさにそのことを語っているかのようです。
 大幅に改善され今ではほぼ真っすぐになった大谷川は京阪電車の線路に沿って横町橋、奥谷橋をくぐり西へと流れ下ります。奥谷橋の山手側に踏切があり、踏切近くに常昌禅院があります。この寺は曹洞宗の寺院で300年ほど前に創建されたと言われており、門をくぐると左側に幹回りが約1.5mもある大きな椿「日光(じっこう)」があり、八幡の歴史カルタにも「めじろ呼ぶ常昌院の紅椿」と詠われて花の時期には咲き誇る紅椿がめじろのみならず訪れる多くの人々の目を楽しませてくれます。
 流れは木津川の堤防を右に見て科手から橋本へと下ります。この堤防は府道13号線として大阪府枚方市へと繋がります。堤防を科手から橋本に向かって車で走ると、道の左側を覆うような楠の大木が出迎えてくれます。明治23年(1891)生まれで既に他界された祖父を持つ、そう話していただいた楠の近くに住まれる男性から「堤防ができた時には楠は敷地内にあった。家だけが敷地の南方向に移って楠だけが今の場所に残ったんだ。その時は木はまだひょろひょろだったと、祖父がそうゆうてたから樹齢は100年を超していることは間違いなかろう。」と話していただきました。お話の内容からも樹齢が確かに100年を超すことは間違いないと言えますし、目通りは461cm(直径は約146cm)でまさに大木です(*5)。f0300125_13221453.jpg
 この楠の近くに、現在は街中の飛行神社に祀られている二宮忠八翁が飛行器(機)の試作を行った工場(工作所)があったことは案外と知られていないことかも知れません。当時の建物などは残されていませんが、この地に史実を記した表示板の設置も検討がなされているとも聞き及んだことがあります。楠を過ぎて程なくの信号を左に折れると、かつては宿場町・門前町であった橋本の地に入ります。橋本住区への玄関口には「はしもとばし」があり、橋を境に流れは木津川左岸堤防(府道13号)の法面(のりめん)直下を流れ、かつての宿場の建物群を裏側から見上げるように流れ下ります。橋本の歴史について書くべきことはかなり多いですから、本章ではできる限り川や橋や水に関係する事柄に留めたいと思います。
 その第一が「渡し場跡」の道標です。京街道の町並みの風情がまだ残された橋本に足を踏み入れて間もなく、道の左側には共に小さいながら、先ず稲荷神社(豊影稲荷・石橋稲荷)があり、歩を進めると金刀比羅大権現の末社(?)があります。これを過ぎると少し大きめの道標があり、そこを右折し直進した場所に橋本で二本目の「栄橋」があります。橋の袂に「渡し場の案内石標」があり「大坂下り舟の里場(舟乗り場)」「山ざき・あたごわたし場」「柳谷わたし場」「津の国そうじ寺(総持寺)」などと読めます。京・大坂への上り下り、離宮八幡宮から石清水八幡宮へ油輸送、愛宕参詣や柳谷観音参り等、多くの客で賑わったであろう様子が想像できます。
 f0300125_1323494.jpg渡し舟は時代が下って昭和37年(1962)まで運行されていたようです。京阪電車の橋本駅京都方面行き改札口前にある洋食の店「やをりき」さんで珈琲を飲みながら、お店のファンを自認される近所のご婦人から「私も父に連れてもらって何回も山崎へ渡ったこともあるよ…」と当時を懐かしむように話していただきました。また「かつて京阪電車のストライキで大阪への勤務ができないため、渡し舟で山崎へ渡り、当時の国鉄山崎駅から列車を乗り継いで会社へ行ったことも…」との話も知り合いの会員から聞き、駅近くにお住まいのご婦人から「山崎に渡り西京極に野球の試合を見に連れて行ってもらったよ」と教えていただきました。そんなことを物語るかのように、栄橋を渡り堤防の法面の階段を上って府道を横切ると、堤防の反対側を斜め左に降りる人一人が通れるほどの小路が残されております。この冬、催し物の一つとして「渡し舟復活」が計画され、舟乗り場も造られましたが生憎の荒天で行事は中止となり楽しみにしていた渡し舟には乗れずじまいでした。渡し舟にロマンを感じるのは私だけでしょうか。
 八幡市を写す航空写真を見ると、町は地形的にも水と向きあうことが避けられない場所であることが一目瞭然です。淀川水系の上流部で降った雪や雨は、向かいの天王山と男山に挟まれたこの地で一本の流れになり海へ下ります。同じ水系の大谷川もまた美濃山と男山の山裾を巻くように流れて橋本の地で淀川へと注がれます。八幡町誌や八幡市誌、また関連する資料・書籍などに目を通す時、水害、浸水、洪水、内水などの言葉が頻繁に目に止まります。大谷川に沿って現存する複数の大字・小字の地名が水や水害などに由来するものであることは綱本逸雄氏著・勉誠出版刊の『京都盆地の災害地名』からも良く分かりますし『八幡市誌・第二巻』『同・第三巻』の年表には水との闘いが繰り返された史実が数多く見られ、今日に至る様子が良く理解できます。
 このように長い年月にわたる水との戦いに対し、人々が「神仏にもすがりたい」と思うのは自然なことでしょう。そのような思いが橋本小金川の一角にあって地元の皆様に大切に祀られている「水嫌(みずきらい)地蔵」と呼ばれるお地蔵様に表れているようです。祠の右手前にある棚には寄進された人々のお名前があり、地元のみならず木津町、姫路市、遠くは神奈川県の地名も見られます。棚の前にはご利益の「地蔵十益」が飾られ、その六番目には「火と水の難にあわない」とあります。近所にお住まいの年配のご婦人からは「お地蔵様は私が生まれた頃からあるよ」と教えて頂き、また昭和40年代から近くで「理髪店・犬飼(いぬかい)」を営まれる同店のご主人は「ここに来てから水難には遭っていないよ」とも話していただきました。お地蔵様が鎮座されている祠は平成5年8月に建て替えられたようです。祠の左側にはお地蔵様の由来を伝える説明板があります。ここではその内容は割愛しますが、先の理髪店のご主人からお祀りは地蔵盆の時期とお聞きしました。
 大谷川の流れがまさに淀川の河川域内に入る直前に「橋本樋門」があります。増水時に本流の水位が高くなると水が逆流する可能性があり、それを防いでくれるのがこの樋門なのです。かつては木製観音開きの構造であった樋門も、本流からの水圧に抗して構造的により強い垂直に昇降する構造(鉄製の電動スルーゲート)に改善されています。前述の『八幡市誌・第三巻』の年表にも昭和41年(1966)5月に「橋本樋門改築完成」との記述があります。昨年、平成25年(2013)秋の豪雨の際にも閉じられた樋門が水の逆流を止めている様子を実際に目にし、その重要性を再認識できました。隣には少し小ぶりですが「小金川樋門」もその存在を誇示しています。
 f0300125_13275321.jpg現在、平成26年(2014)4月10日時点、これら両樋門の近辺では京阪電車の線路と大谷川を一跨ぎする新しい道路橋工事の真っ只中です。既に土に隠れて見ることは出来ませんが、橋脚部には古くからの浸水や洪水の歴史を語るかのように堆積した砂の地層が静かに眠っていることも記しておきたいと思います。樋門を過ぎると本シリーズで最後の橋となる「小金井橋」です。橋の所在地は大阪府枚方市ですから、大谷川の流れはここで山城の國に別れを告げて河内の國へと入ります。
 昨年の春から書き続けてきました「大谷川散策余話」のシリーズも次号の「第13章、終わりに」を残すのみです。最後までのお付き合いをお願いいたします。

(*1)京阪電車お客さまセンターのご協力をいただきました。感謝申し上げます。
(*2)平成25年(2013)10月10日の歴探10月例会の講演にて、本庄良文氏が話された「八幡における浄土信仰」より。
(*3)綱本逸雄氏著・勉誠出版刊の『京都盆地の災害地名』より。
(*4)平成26年(2014)1月24日、科手にお住まいの井上隆夫氏宅にて氏より、科手の歴史やかつての様子などをお聞かせいただきました。紙面にてお礼申し上げます。
(*5)目通りは3回測定した結果の平均値です。直径は461を3.14で除して算出。


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by y-rekitan | 2014-04-28 08:00 | Comments(0)

◆会報第48号より-06 大谷川散策⑪

シリーズ「シリーズ「大谷川散策余話」」・・・⑪
第11章 橋の管理者は誰?

 野間口 秀国 (会員) 

 橋を渡りながら橋の所有者や管理者が誰かなどと考える人はあまりおられないと思いますが、この章ではこのことについて考えたいと思います。ご存じのように多くの市民が過去に幾度となく大谷川の溢水や洪水で苦しめられた事は町誌や市誌にも書かれています。近年では宇治市・福知山市・京都市内の嵐山などで集中豪雨に因る被害が発生していますが、洪水で橋が壊されたら誰に修復の依頼をすれば良いのでしょうか。一例ですが、2013年10月19日付の京都新聞夕刊の「流れ橋の流失」に関する記事からは「流れ橋」は京都府の管轄であることが分かります。
 現代のことを考える前に江戸時代の公儀橋と町橋について見てみたいと思います。江戸時代には公儀(幕府や藩・大名を指す)の費用で架設・維持・修復がなされた橋は「公儀橋」と呼ばれ、江戸の町では大半の橋が公儀橋だったようでその多くは「御入用橋」呼ばれていました。大坂では大川に架かる代表的な天満橋、天神橋、難波橋を初め公儀橋は12本(*1)と記録されており京では洛中洛外に107本(享保2/1717年頃)あったと伝えられています(*2)。f0300125_21153253.jpg当時の主要街道に架かる橋もまた公儀橋として幕府が直轄していたものが多く、瀬田の唐橋や宇治橋、淀大橋もそうであったようです。また『男山考古録・巻第十一』「高橋」の項には「…今も安居橋と共に、破損の時に将軍家より修造を加えらるる例也、…」とある事から高橋と安居橋もかつては公儀橋であったと思われます。
 一方、公儀橋に対して町人が経費を負担して架けたり管理を任された橋は「町橋」と呼ばれ、商人の町大坂には町橋が多かったようです。大阪市の土佐堀川に架かる淀屋橋も代表的な町橋であったことを現在の淀屋橋の左岸下流近傍に建つ「淀屋の碑」の碑文や『元正間記・巻之壱六』(国立国会図書館蔵)(*3)から知ることができます。f0300125_21195710.jpg水の都、商売の都大坂では橋の数も多く、儲けを逸することのないように橋の修復などにも素早い対応が必要だったことも町橋の多い理由ではないのかとも思われます。今で言う「スピード感をもって」対応するためだったのではないでしょうか。
 ではより古い時代はどうかと見ると、当初は国家によって管理されていた橋がやがてその管理ができなくなった事例が「宿場町枚方を考える会」編の『近代の史跡を歩く会』(2012.6.6)の栞に以下のように書かれていました。曰く-橋本から山崎をつなぐ山崎橋があったと推定されているが、この橋も史料によると複数回洪水で破損されているようです(841年・848年・874年・918年など)。橋は何回か架け替えられたが平安中期には国家による維持も困難になり水運(渡し船)に移行していった…。-さらに山崎橋に関しては、「…11世紀には橋がなくなりその後、豊臣秀吉が天正20/1592年に橋を架けなおし…その後は架けられることなく渡しを利用…」と書かれた資料(*4)からも山崎橋のように公儀でも手に余る橋もあった様子もうかがえて興味深いです。
 話を現代に戻しましょう。このシリーズを書き進める中で橋は管理面からは高速道路、国道、府道、市町村道など、道路の一部であることを学びました。しかし大谷川に架かる何本かの小さな橋は田畑への作業道路、住居への進入路、両岸を渡る近道などであることも分かりました。それではこれら全ての橋の修復などは一体誰に依頼すれば良いのか、管理者は誰なのかを管轄する役所の担当部門にお聞きしたところ以下のように教えていただきました。
― 以下、抜粋(* 5) ―  
1)高速道路(第二京阪道・京滋BP)はNEXCO西日本茨木管理事務所が、2)国道(1号線・478号線)は国土交通省近畿地方整備局京都道事務所が、3)府道は京都府山城北土木事務所管理室第二担当が、4)八幡市道は八幡市敏管理部道路河川課がそれぞれ道路管理者です。5)その他はそれぞれ架設された原因者(行為者)が管理者となっております。
― 抜粋終わり ― 
この区分によると前述のように流れ橋(上津屋橋)は府道八幡城陽線(281号)ですから管理者は京都府です。
 さて、第3章で書きました疑問についてここで今一度取り上げてみたいと思います。それは「同一河川(大谷川)に同名の橋(大谷橋)が複数(京田辺市松井栂谷と八幡市八幡舞台に各1本)あっても問題は生じないのか」でしたが「道路管理者が管理する橋は橋梁台帳が整備されており同名の橋でも道路名や地名などで識別される(*5)」とのことでした。f0300125_21294859.jpg同名の橋の管理については分かりましたが、調べてみると全国には実に多くの「大谷川」があることには驚きを隠せませんでした。PCで「都道府県名(例:京都府)大谷川」と入力して全国を検索すると「おおたに川」はなんと32の道府県で11 3本、他に「おおだに川」1本「おおや川」11本「だいや川」2本などがある事が分かりました。京都府では河川名、竣工年月、漢字橋名、ひらがな橋名を表示した橋歴板の取り付け義務がある事を第8章で書きましたが、改めてその必要性や重要性が理解できるようです。
 ところで、水にまつわる争いは古くより日本のいたる所であったようです。狭い範囲ではその地に住む人たちの生活や財産を守る為、世界的な範囲では一国の興亡をも賭けたものまであったことでしょう。多くの場合は不足する水の奪い合いが原因でしょうが、八幡では溢れる水を下流に流して自村の田畑を水から守る為に起きた争いでもありました。『八幡の歴史カルタ』にもその昔の蜻蛉尻川(現在の防賀川)の水管理の困難さが「寝ずの番水に悩んだ防賀川」と詠まれ『八幡市誌・第二巻』にも「八幡住民の水との闘い」と題する章が設けられその様子も書かれています。
 大谷川が淀川水系の支流の一つであり「一級河川」であることは第2章にて書きました。淀川は木津川、宇治川、桂川の三川でなっており、単独の府や県のみでは解決できない課題も存在します。近年の集中豪雨時などではいづれかの川の水量が極端に増えると、湖やダム湖などを含む他の中小河川が溢れる危険性も有り、相互の利害対立がいつ起きてもおかしくない状況であると言えると思います。
 2013年12月1日の京都新聞の記事「淀川水系の治水議論へ」の記事は、淀川水系の拡がりとそのために何が求められているのかを具体的に理解できる記事であったと思います。淀川に合流するいずれかの川の水位が高くなるとその影響は最後には大谷川にも及ぶでしょう。f0300125_21372268.jpg瀬田川洗堰に隣接する水のめぐみ館「アクア琵琶」では琵琶湖の水位1㎝あたりの水量が約680万立方メートル(大阪ドーム6個分)である事や琵琶湖・淀川の治水と利水の事などを教えてくれます。治山治水が大きな社会的課題である事は時代を超えて八幡市に限らず全国で100を超すいずれの大谷川にも言える事ではないでしょうか。
 記憶が正しければ「橋の平均寿命は35.4年である」と、あるTV番組で報じられたことがあり「意外と短いな」と思ったことがあります。無論、橋もいつかは朽ちるでしょうし、新規架設、維持、修復に相応の費用が必要なことは理解できます。以下の各数値から(橋のみに要した費用がいくらかは正確に分かりませんが)土木関連の歳出額の推移を一例として見てみたいと思います。
f0300125_2142220.jpg
 明治45年度の占有率が高い理由を、町誌には「…相当多きを認むるも、(中略)尾無瀬川下流樟葉地内の悪水路拝借料が大部分(中略)…比率改善には、奥繁三郎、山田直竹両氏の尽力にて敷地を国に買い上げてもらい予算の良化を見る」とあり、先人の労苦がうかがわれる一例でしょう。

 橋や川の管理者はかつては公儀であり、また現代では国を始めとする管轄の役所ではあるのでしょうが、やはり第一義的にはその流域で生活する住民であり、活動する企業であると思います。大きな事は出来ないにしても一人一人が出来る小さな心がけや活動の積み重ねが橋や川を守る事に繋がると思います。八幡市内にも架設後かなりの年月を経過している橋も有ります。限られた予算の範囲で多くの困難な課題もあると思われますが「八幡市では長寿命化修繕計画に沿って計画的に橋の長寿命化工事が行われている(*5)」との言葉をご紹介するとともに、日々多くの道や川や橋の管理に携わっておられる関係部門の皆様方に感謝をしつつ「橋の管理者は誰?」を終わります。次章は最下流部、5区の「大谷区」について書きます。

参考図書・資料等;
(*1)『K-Press 2013年3月号』若一光司氏の「京阪沿線の名橋を渡る」。
(*2)『京の加茂川と橋』門脇禎二・朝尾直弘共著思文閣出版刊。
(*3)八幡市郷土史会主催の歴史講座(2014.2.16)の蒲田建三氏による講演資料。
(*4)京都府埋蔵文化財調査研究センターの公開講座(2013.10.19)の中川和哉氏による講演資料「考古学でみる淀川流域の治水」。
(*5)京都府山城広域振興局企画部・山城北土木事務所/八幡市都市管理部道路管理課のご協力を頂きました。紙面にて感謝申し上げます。
(*6)「八幡町誌第二編第四章財政」に記載の各年度の土木費歳出額(単位:円)。
(*7)平成24年11月号の「広報やわた」に記載の歳出額(単位:円)。


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by y-rekitan | 2014-03-28 07:00 | Comments(0)

◆会報第43号より-09 大谷川散策⑥

シリーズ「大谷川散策余話」・・・⑥
 第6章 戸津(とうづ)の地名考察

 野間口 秀国 (会員)


 八幡市図書館で出会った一冊の本に下記の一文を見つけたことが表記の題名で書くことを後押ししてくれました。曰く、「・・・むかしの水害のまえそのまた水害のまえは 川はべつの姿をし べつの場所を流れていた 水の交通整理をしながら人間がつくりかえてきたのが今の川」と(*1)。他にも当会の複数の会報や諸資料からも、木津川の流れは長い年月の間には変化していた、であろうと思えてきます。とは言え、「どの時代にどのような流路であったか」を正確に把握して書いたもので無いことを最初にお断りさせて頂きたいと思います。
 f0300125_2138835.jpg平成25年7月9日の京都新聞山城版に「木津の文化財と緑を守る会」の岩井照芳氏が「木津川は奈良時代から都に近い河川港として発展した。木材を扱う港(津)という意味で、江戸時代には木津と呼ばれるようになった。」と述べておられます。戸津の「津」が港を意味する事は上記からも理解頂けると思います。残りの一文字、「戸」は江戸や水戸を参考にしてみたいと思います。江戸はご存じの通り東京の旧称で、地名の由来は諸説があると言われており「江」は川あるいは入江であり、「戸」は入口を意味することより「入江(川)の入り口」に由来したと考える説が有力なようです。同様に水戸の「戸」も出入り口を意味し、水戸は大海(水)への出入り口と解することができることより、「戸津」は「木津川の入り口の港」との理解が可能と考えます。

 先ず文字で戸津を考えてみましたが、次に八幡市の地図を見てみましょう。木津川大橋の架かる木津川左岸上流側に上奈良、下流側に下奈良の地名があり、両地区の中ほどには奈良元、奈良里の名があります。同様に新木津川大橋の南北に上津屋(八幡市域)と下津屋(久御山町)の地名があり、「津屋」の地名を考える時、私は大阪府寝屋川市の「寝屋」と類似した意味合いを持つと考えます。その理由は、寝屋川市にはかって官営の牧場があり、そこで働く人達の宿舎(建物=寝屋)があったこと、そこに源を発する川が寝屋川と名付けられた、と書かれているものを読んだことがあったからです。

 他にも屋を含む番屋(バンヤ)、上屋(ウワヤ)、苫屋(トマヤ)なども建物であり、そう考えると「上津屋」は津の上流の建屋集落で、「下津屋」は下流側の、と理解出来るようです。更に、川上と川下の「津屋」の間に港(津)が有り、その地名こそ「戸津」であったのではと考えてみたのですが、少なくとも現在の地図では三者の位置関係はそうでは無く、この考えは少し無理でしょうか。

 さて、現在の地図上では多少無理でも話を前に進めましょう。古代より港(津)は重要な社会基盤の一つであり、当会の土井三郎事務局長は自らの著書『百花繚乱 私のうた紀行』で、孝徳天皇(645-654年)が飛鳥から難波の地へ遷都された理由の一つに「難波の地が大陸と海でつながる港津であったからに他ならない」と述べておられ、桓武天皇(781-806年)による長岡への遷都の理由も「水陸交通の要衝が一要因」と『京都府の歴史』に見えます。

 戸津の港としての機能を考える時、北隣の「川口」の地にも触れておきたいと思います。文字通り川の入り口を意味する地名と理解できますが、川口の集落は港とは少し異なり、周囲に堀をめぐらせた環濠集落であっただろうことです。現在の川口に今も残る「堀之内」の地名は、周囲が堀であったことの証しと思えますし、また環濠集落には防御と拠点の機能を有する特色も見られることより、木津川と蜻蛉尻川の接点でもあった地なのでしょう。川口は河内、摂津との国境も近いこの地域での重要な交流の拠点的集落の一つであったと思われます。
f0300125_21312063.jpg このように、戸津は環濠集落の川口に北側を守られた港であり、安全な環境下でその機能を十分に発揮していたのではないのでしょうか。木津川を僅かに下れば淀津に至り、淀川を下れば瀬戸内海に、一方、木津川、宇治川、桂川を上ればそれぞれ大和、近江、丹波へと繋がっており三川合流地に近いこの地は淀川舟運の要衝の地であります。このように考えてみると、戸津は経済的にも政治的にも重要であり、橋本、山崎、淀、一口(イモアライ)(大池 = 巨椋池の入り口)などと共に周辺の複数の津と共に港の機能の一翼を担っていたと考えられるのではないでしょうか。

 さて、ここで木津川の現在の流れを地図で確認いただくと、やっぱり「戸津の位置の説明が付かない」と思われるのが当然のような気がします。そこで少しでも納得いただける資料を、と探した結果の1つが冒頭の一文です。著者の富山氏の考えを補強するように、当会会報にも先輩諸氏の活動報告が複数あり、最初の一つが出口修氏の「地名で学ぶ八幡の歴史」講演記録(*2)です。内容は多岐にわたり、時代は大宝律令の頃(702年)にまで遡りとても分かり易く、戸津に水害と移転の歴史があることがわかりました。富山氏のことばをさらに視覚的に著わしたものが、大洞真白氏の講演資料「八幡市域の古代地図」に描かれた木津川の流路の図に(*3)、また中川学氏の講演資料に残る旧木津川の流路の図に(*4)、更に第124回埋蔵文化財セミナー講演(2013.5.25)での小森俊寛氏の資料に見える「木津川の古代~中世の流路跡」の図などに見出すことが出来ました。
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古くは奈良時代前半(715~750年)頃に創建されたと考えられる美濃山廃寺など、その時代の社寺建立に使用された諸資材の運搬にも舟が活躍したのかも知れません。『類聚雑要抄』や『延喜式』に那羅郷(前述の奈良元、奈良里か?)で採れた「雑菜」が川船によって與等津(淀津)まで運ばれた・・・と大洞氏は述べておられます(*3)。木津川沿いには島畑(しまばた)も多く有り(*5)、武家領と非武家領がジグソウパズルのように複雑に存在する山城の地の浜出し荷物は先の雑菜類の他にも、年貢米、菜種、綿の実、さつま芋等々が考えられます。一方、浜揚げ荷物は都や他国からの珍しい産物のみならず、今では想像できないでしょうが下肥などの肥料類や塩などがあったようです(*5)(*6)。

 戸津の港としての機能について考える時、木津川を上り下りした舟の大きさを考えても港の規模は決して大きなものではなかったと思われますが、それは瀬戸内海から上って来た大型船の積み荷は一旦大池(巨椋池)で小型の舟に積み替えられた様子からも窺えます。また、これは淀津より上流の大型船の航路の問題に加えて船荷の扱いに関する権益の問題もあったようです。江戸時代の淀には507艘の20石船が存在し、「淀二十石船株札」をいただいた船のみが営業を許されたことを、この春、山城郷土資料館の常設展示から学び、『けいはんな風土記』(関西文化学術研究都市推進機構編・門脇禎二氏監修)からも近世の淀川・木津川水運について多くを学べました。戸津の規模は決して大きくは無かったかも知れませんが重要な港であっただろうことは想像できます。
f0300125_2224915.jpg 木津川沿いでは無く、川から離れた市のほぼ中央に津の付く戸津の地名を見つけて、「なぜ?」と疑問を持ち、少しづつ調べ始めてやっとここまでたどり着きました。「人間が造り変えてきたのが今の川」との富山氏の言葉の意味を思う時、戸津は現在の木津川の流れから少し離れ、正確な時代も流路も特定は出来ませんが、かっては木津川の流れと共にあった地名と言えるのではないのでしょうか。戸津がいつ、どこに、規模は、流路は、などの疑問には、この10月6日に開催された出垣内遺跡の説明会や今後も続くであろう木津川河床関連の遺跡発掘の成果や流れを示す古文書の出現を待ちたいと思います。

 改めて八幡市の地図に目を向けてみると、美濃山の北西部にとても気になる「戸津奥谷」の飛び地(パズルの1片)があることに気づきました。この飛び地はかっての港の有力者の持ち山か別荘地だったのでしょうか。三重県桑名市にも戸津の地名があり、ここはトヅと読むと桑名市観光協会の方から学びました。江戸も水戸も、長崎の平戸も、桑名の戸津(トヅ)も、ここ山城の戸津(トウヅ)も昔から川や海で繋がっていた、そう思うと戸津という地名に親しみが湧いてくるのですが、国道1号線の八幡戸津交差点の標識の戸津(トウヅ)に相当する部分の英文表記が TOTSU であるのは今でも気になっています。

次章は「田園区・流れに四季を感じて」を書きます。

【参考図書、会報、資料、写真など】
 (※1) 『川はいきている』富山和子氏著(講談社刊)
 (※2) 『会報』16号(2011.8.2発行)
 (※3) 『会報』27号(2012.6.24発行)
 (※4) 『会報』28号(2012.7.25発行)
 (※5) 下水主遺跡・水主神社東遺跡現地説明会(2013.8.3)資料
 (※6) 『会報』42号(2013.9.25発行) 三桝佳世氏の講演記録
     他に 『八幡市誌 第2巻』
   ※写真2と写真4は、久美浜町の栃谷川河口付近にて撮影。

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by y-rekitan | 2013-10-28 04:00 | Comments(0)

◆会報第28号より-02 良いまち良い川

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《講 演 会》
良いまちには良い川がある
―2012年7月  八幡市生涯学習センターにて―

国土問題研究会  中川 学


 7月例会は、表記のタイトルで中川学さんにご講演頂きました。河川計画の専門家の立場から、よりよい河川のあり方を地域住民とともに考え行動している方です。以下、概略を紹介します。なお、見出しとルビは、編集担当によるものです。地形図は、講演で示されたものと別のものを使用しています。

近年の川づくりのうごき

 高度経済成長時代、川は埋められ収奪された。川は三面張りに改修され暗渠(あんきょ)化された。また、工場や家庭からの排水によって水質汚濁の問題が起こった。人々の暮らしから河川が遠ざけられたのである。
 その反省から「親水」の河川整備が進められた。都市環境の劣悪化への反省から、水辺の価値が見直されたのである。ただし、河川や水辺の「効率的」活用がさけばれ、河川空間が遊園地化されたり不自然な改修が施されたりした。
 そんな中、多自然型(近自然型)川づくりが提唱され、河川や水辺に特有の自然環境の保全や復元がなされてきた。だが、例えば石や木などの自然素材を使えば等の素材至上主義がはびこった。技術者の未熟という問題もある。
 今、そのような問題を克服すべく、「都市と川をめぐるトータルデザインへ」の動きが見られるようになった。キーワードは、「暮らしとの関わりの緊密化」と「必然性のある河川デザイン」である。

今日求められる公共事業の質とは

 河川デザインの考え方とは何か。
  • 地域性や固有性、場所性から必然性のあるデザインを試みるということである。
  • 歴史性・・・・・舟運や神事などの歴史をふまえる。
  • 自然性・・・・・河川のダイナミズムを知る。
  • 親水性・・・・・幼い時から川で遊び、川に親しむ。そうすれば、大人になっても川に関心が持てる。
  • 河川利用・・・・・生活感あるデザインでありたい。
 河川のあり様は公共事業の質に規定される。高度経済成長期では、「需要追随型」に、バブル後遺症期にあっては「需要喚起型」に、そして少子高齢化の現代にあっては「成熟型社会」にあった公共事業の質が問われる。
 今日求められる公共事業の質は、以下のように図式化される。
早い  →   じっくりと
安い  →  質の良いものを
剛い  →   柔(しなやかに)
 要するに、「エネルギー浪費型社会」から「持続可能型社会」への転換こそ求められる。

放生川の清流復活をめざして

 以上が「総論」ならば、以下に述べる事は「各論」である。
 各論を述べるためには、いくつかふまえておかなければならない事項がある。

(1) 木津川周辺の地形・地質の特徴
 木津川は、現在の伏見から淀辺りで桂川と宇治川が合流し、その合流した地点に広大な巨椋池(おぐらいけ)が広がっていた。また、木津川を包むおぐらいけ地質として大阪層群・丹波古生層・花崗岩があり、上流部からの土砂流出が盛んである。
 そのため木津川はその支流も含めて川床が高くなった。大谷川の上流の防賀川(ぼうががわ)では、マンボと呼ばれる煉瓦づくりのトンネルがあってf0300125_11454821.jpg、防賀川がJR学研都市線の上を流れている箇所がある。大変危険な箇所であり、現在防賀川の切り下げ工事が進んでいる。

(2) 舟運など木津川利用の歴史
 木津川には、両岸を結ぶ渡し舟が多く往来していた。「流れ橋」は上津屋の渡しがあったところに、1953年(昭和28)に架設された。通称「流れ橋」であるが、正式には府道八幡城陽線「上津屋(こうづや)橋」という。「府道」として京都府が管理していて、流されると、「災害復旧事業」により全額国庫負担で復旧される。

(3) 洪水の歴史
 木津川とその支流はたびたび洪水に見舞われた。『八幡市誌』第2巻に詳述さているように、正徳4年(1714)、現在の防賀川筋の上奈良・内里両村と下奈良村との領境にあたる蜻蛉尻(とんぼじり)堤を、上流にあたる上奈良・内里両村が多人数で切り取るという事件が起こった。洪悪水処理をめぐる争論である。
f0300125_1152111.jpg
 秀吉は、伏見築城に際して、伏見と大坂の舟運事業を進めるために、巨椋池から宇治川の分離を図った。しかし、巨椋池より高い位置にある槙島に築堤するなど、かなり無理な工事であり、今そのツケが来ていると言える。
 明治初年の木津川の川筋を替える工事は、木津川の洪水を押さえるだけでなく、宇治川の水の流れを良くするためのものでもあった。合流する三川が相互に逆流したりしないように、背割り堤を造って、合流部を下流に移す工事であった。

(4) 現在の河川改修事業の概要
 昔から比べると木津川の河床が下がり、大谷川の水を樋門を通して木津川に排水しやすくなった。現在の大谷川改修計画では、新たな樋門を造って流域を6分割するよう計画されている。従来からある橋本樋門以外に3つが完成し、あと2カ所で計画されている。

(5) 暮らしに身近な放生川を考える
 石清水祭で放生会の神事が行われる放生川であるが、水量が少ないこととその汚れに悩まされている。水量が少ないのは、八幡地域は傾斜が極端になく、そもそも水が流れない地形であることによる。
 水の汚れについては、水質浄化装置が設置され一定の効果をあげているが、例えば、地下水のくみ上げによって清流を取り戻すなど更なる改善の余地がある。
 何よりも重要なことは、周辺住民が大谷川・放生川に関心をもって行政とともに、どうやって清流を取り戻すのか話し合い合意形成をはかることである。その際のキーワードは「暮らしに身近な河川」ということである。

 講演の後、水害対策としてのダムの問題や放生川浄化の取り組みなど質疑応答がありました。以下、一口感想を紹介します。

f0300125_11554019.jpg ◎ たまにしか参加していないが、大谷川の清掃活動に参加して気になるのは、川に投げられるゴミの量である。川を人から遠ざけた永年の政策の結果とはいえ寂しい。住民参加で大谷川・放生川に清流を取り戻したい。(S)
◎ 3 6 5日毎日の小さな取組みの積み重ねが長いスパンで見れば人々の生活に潤いをもたらすのでは……。人と自然、いつになったら「対話」ができるのでしょうか。(H)
◎ 人と川とのつきあい方を知り、生き物としての川とどのように関わっていくか、考えさせられた。お願い:参加費が高くなってかまいません。資料の活字や地図などを大きくしてほしい。(U)
 ※ 参加費は上げませんが要望はしかと受けとめました。(事務局)
◎ 八幡の川、八幡の泉、今は名前だけが残って、何の役することもない。自然のために、子どもが楽しめるための水利用を考えたい。(S)

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by y-rekitan | 2012-07-28 11:00 | Comments(0)