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◆会報第77号より-07 東高野街道

大阪府下の東高野街道に「やわた道」の
道標を訪ねて


谷村 勉 (会員)


 近年、東高野街道という道の名称が八幡市内に聞かれるようになり、八幡市に住む住民にとっては大変な違和感を持ちました。八幡市内の道を今までに「東高野街道」などと呼んだ記憶がないからです。八幡の道を「東高野街道」と呼ぶのは可笑しい?という立場から以下報告致します。・

 八幡は周知の如く平安時代(貞観元年・859 年)の八幡宮遷座以来、石清水八幡宮を中心に発展し、周辺の街道も八幡宮参詣道として凡そ 1,100 年以上の歴史を紡いできた経緯があります。特に近世江戸時代にはどの大名の支配も受けず、なおかつ検地免除(税金免除)の町として整備され、裕福な蔵の町と称されるほど神領自治組織の地として繁栄してきました。その八幡に他の宗教施設を連想するような街道名が存在するはずもなかったのです。

 なぜ最近「東高野街道」などと言い出したのかと問いますと、観光戦略として観光客を誘致するために言い出したようです。観光客や八幡に越してきた人々や八幡の道を散策する人々が、昔から八幡の道を「東高野街道」と呼んで来たかのように錯覚している現状を見ると、歴史街道と言いながら、歴史を顧みることもなく、八幡の歴史を知らない人々が多すぎて、このような事態になった様です。観光の集客目的に道の名称を付けるなら、固有の歴史的名称である「八幡宮道」で良かったはずですが、八幡の道の歴史調査を怠り、八幡に住んだこともなく、歴史も知らない学者や役人の言葉を借りて、何処かのブームにおもねるかのように、いわゆる「東高野街道」と名付けてしまった感があります。八幡宮参詣道を「東高野街道」と言い換えれば、八幡固有の歴史が歪曲されてしまう事態に繋がらないかと大変な懸念を持ちます。我々が八幡に云う処の高野街道とは洞が峠を起点として、大阪府下に向かう道が歴史としての高野街道です。八幡宮を目指して八幡に入れば「やわた道」、「八幡宮道」となって、大勢の八幡宮参詣者が往来する道でありました。私にとって大阪府下の東高野街道沿いの交野、村野、星田、茄子作などは昔から馴染みの町々でありました。今回、従来気にもしなかった大阪府下の東高野街道を歩き、街道筋に一体どのような「道標」があるのか興味が湧きましたので、「やわた」と記入された道標を中心に踏査しました。東大阪市に初めて「やわた」と記入された道標があり、結局、東大阪市から八幡市に向かって合計 12 基の道標が確認できましたので、現存する道標を紹介し、いかに「やわた道」として認識されてきたかを伝えることができればと思います。いわゆる「東高野街道」が在って「国宝の石清水八幡宮」が存在するのでは本末転倒の話になります。実に固有の歴史が八幡には溢れていますが、やはり現場を歩き、八幡の道の歴史を自分の目で確かめる作業が不可欠だと思いました。

*東大阪市喜里川町の道標

最初の東大阪市喜里川町での「やわた道標」は 2 基あります。

 1基目は近鉄瓢箪山駅から北に向かい「喜里川町南」の信号右側の「瓢箪山安全安心ステーション」横に在りました。
 2基目は 1 基目の道標から斜め北へ凡そ 200m 程の地点にありました。
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*東大阪市箱殿の道標

 暗峠越奈良街道との五叉路の交差点、開業医の銀杏の木が目印。
 大師堂の横に観音像の道標がある。また奈良街道を東にとればやがて小さな公園が右に見え、大坂夏の陣で家康が陣を張った所に出会う。
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*東大阪市日下町の道標

 街道沿いの孔舎衙(くさか)小学校の敷地内にある。
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*大東市中垣内の道標

 阪奈道路を横切って暫く行くと古堤街道交差点の郵便ポストの横に「龍間山不動尊」の道標が目に入る、東に少し入れば「右 大峯山上道」の大きな道標がある。
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*四条畷市中野の道標

 清滝街道との交差点には 3 基の道標が並んでいるが、地蔵道標が「やわた道」の道標である。
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*寝屋川市の道標

 寝屋川市には打上と寝屋に 2 基の道標があり、JR 東寝屋川駅近くの打上の辻に道標が 1 基あり、秋葉山の燈籠もある。さらに北へ進めば傍示川手前に弘法大師像を見て川を越えると、寝屋の大井川万吉の自然石道標があり、JR 星田駅へと向かう。なお江戸時代、星田村は石清水八幡宮の他領神領(148 石余)でした。
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*交野市私部(きさべ)西の道標と本尊掛松

 東高野街道と山根街道の合流点にある「京八幡道」道標、左の道が東高野街道で、坂を下ったところに、本尊掛松の立派な地蔵像がある。南北朝時代、石清水八幡宮神職小川伊高が法明上人と予期せず出会った所で、共に霊夢を受けて融通念仏宗の本尊「十一尊天得如来画像」を小川伊高からここで授かった法明上人は歓喜のあまり、松の木に本尊をかけて踊りだした。融通念仏中興の祖と言われる法明上人と小川伊高はその夜茄子作北の犬井甚兵衛屋敷に泊まり、その後、小川伊高は法明上人に帰依し、大坂平野郷に住んだと伝わっています。
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*交野市松塚の道標

 こちらも地蔵道標、中央の地蔵尊。普通の角柱道標と思いこみ探し回った。
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 なお、交野市は江戸時代まで石清水八幡宮の他領神人が多く住んだところで、石清水放生会の祭祀には「火長」「火燈」「御前払」の役を担いました。

*枚方市郡津の道標

 枚方市村野浄水場南側の郡津墓地内にある。
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*枚方市大嶺の道標

 春日街道と交差する所から 100m 程外れた所に道標がある。
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*枚方市出屋敷の道標

 街道の雰囲気を残す枚方市出屋敷の町筋。
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「京 やわた道」の道標について

 大阪府下の東高野街道を東大阪市から枚方市まで踏査して「やわた道標」ともいうべき江戸時代の道標を見るにつけ、その土地の人々の道標に巡らす思いや、その変化に富んだ形態には豊かな創造性を発見した思いです。ここに報告しました道標は殆ど江戸時代のもので、これらは歴史街道にふさわしいものでありました。枚方市出屋敷の「東高野街道 壱里」の石碑は「洞ヶ峠から壱里」を示す明治の道標です。道標の形態には角柱が圧倒的に多いのですが、江戸時代にはめずらしい「指矢印」の道標を東大阪市喜里川町で見ました。また東大阪市箱殿に在る「観音像」を彫った角柱は見応えのある道標に仕上がっています。四条畷市中野の舟形光背の地蔵道標は他の二つの道標と並んで特異の存在感でありました。交野市松塚の地蔵道標も周辺の地蔵尊が集められて四体とし  一石五輪塔の一基を加えた中央のやや大きな地蔵の舟形光背に「京やわた道」と彫られていました。寝屋川市寝屋の「大井川万吉」の道標には自然石が使用され、力士の力強さが表現されています。比較的八幡に近いこれら周辺地域の人々がこの街道を「京道」、「京街道」とも呼んでいたようです。それは道標群とともに、古文書調査でも報告されています。ともあれ、多くの人々には名所、旧跡に加えて是非「道標」の持つ魅力にも目を止めて欲しいと思います。

八幡宮を目指す歴史としての道標

f0300125_2152265.jpg 「京 やわた道」あるいは「やはた道」の道標に導かれて洞ヶ峠に付いた人々は、ここに来てやっと「やはた道」に入ったと実感し、ほっとしたことでしょう。峠を下れば八幡の風景が眼前に広がります。道は「八まん宮道」となって、石清水八幡宮を目指します。現在、八幡あるいはごく近くの周辺を含めて 7 基の「八幡宮道」と1基の「やわたみち」と彫られた江戸時代の道標を確認しています。古い「高野街道」の道標は道の南北に 1 基もありません。八幡の道は八幡宮参詣道であって、高野道ではないと認識していますから。当然と言えば当然です。

f0300125_22111226.jpg 洞ヶ峠から中ノ山墓地前の旧道を通り過ぎ、八角院に入れば「すく八幡宮」の道標が残っています。 慶応三年丁卯八月(1867)の建立で「役行者像」が彫ってあります。       
 大阪府下の高野街道で見た風格ある道標の形態と同じで、以前は八角院近くの旧道に建っていたものと思われます。
 道標によく書かれている「すく」あるいは「すぐ」、「春具」の意味は「真っすぐ行くと」と云う意味になります。

(左の写真は神戸市/故荒木勉氏の撮影です)




最近建ったばかりの八幡のいわゆる「東高野街道」の道標
 
f0300125_22295142.jpg右は最近俄かに建った八幡のいわゆる「東高野街道」の道標です。大阪府下の一連の個性的な道標を見た後に、この道標を見ると、如何にも俄か仕立てで現代風の薄っぺらな、歴史観の乏しい道標に見えてしまいます。
 道標には建立年月日や建立主体も彫られていません。平成××年建立と彫らない理由は何でしょう。しかも凡そ3km程の間に13基の道標が建つ始末です。
  13 基という数には必ず無駄と間違いがあります。観光集客の目的とはいえ、異様な風景に見えてしまいます。
 八幡には「石清水八幡宮参詣道」としての歴史街道はありますが、いわゆる「東高野街道」と銘打って歴史とするような本末転倒の歴史街道はないと思います。
*次回、現在も八幡周辺に残る歴史的道標群について、詳しく報告します。
by y-rekitan | 2017-01-20 06:00 | Comments(0)

◆会報第71号より-07 八幡の道⑤

シリーズ「八幡の道」・・・⑤

八幡の道を「東高野街道」となぜ呼ぶのか?
―その5(最終回)―
 谷村 勉 (会員) 


空海は八幡のいわゆる「東高野街道」を歩いたか

 空海自身は「歩かなかった」が私の答えです。八幡の道は石清水八幡宮が貞観元年(859)に勧請されてから整備されてきたと考えます。それ以前に官道として整備されていた道とは、まず山陰道と山陽道で、奈良から現在の京田辺市大住を通り、淀方面へ向かう山陰道とその大住地区で別れて美濃山廃寺、志水廃寺、足立寺、楠葉中之芝を通り八幡の橋本から山崎橋を渡って対岸の山崎へと入る山陽道でした。この時代、八幡宮の創建以前に現在の八幡の南北の道はまだ整備されていないと考えるのが妥当でしょう。空海が陸路、都から利用した道を考えますに、東寺から鳥羽街道を通り、淀から山陰道に入るか、「山崎橋」を渡って八幡の橋本から大住に向かうか、楠葉から現在の大阪府交野市の交野山を目指した南海道を歩いたろうと思われます。f0300125_10211850.jpg楠葉野田の古い街並みには高野道の面影を残す道が今も残っています。山崎と八幡の橋本を結ぶ「山崎橋」は神亀2年(725)に造営され(八幡宮創建の135年以前に遡る)、何度も洪水による破損を繰り返すも、凡そ200年間は存続したようです。空海の入滅は承和2年(835)とされていますから、それは八幡宮創建の凡そ25年前であり、八幡の道が整備される前に空海は亡くなっています。            
 右の図(注1)は平城京時代、長岡京時代、平安京時代の男山周辺の古代官道図です。石清水八幡宮の創建以前の人の居住は、当然山陰道沿いや山陽道沿い、楠葉、橋本周辺に集中し、古墳や古跡も概ね古代官道沿いにあります。現在の常磐道や志水道など八幡宮創建以前には南北を縦貫する「八幡宮道」として整備されておらず、この辺りの人の居住はまばらであったと思われます。

西村芳次郎と「弘仁時代一里塚跡碑」

 西村芳次郎の実父、井上忠継は現松花堂庭園内にある松花堂及び泉坊等を現在地に移転、居住しました。その父の跡を継いだ西村芳次郎も松花堂昭乗ゆかりの遺蹟を保全して、現在に繋いで貰った我々の大恩人です。それだけでなく
西村芳次郎にはもう一つの業績がありました。八幡に合計88基もあると言われる「三宅安兵衛碑」の建立に大きく関わり(注2)、八幡における建碑活動の最大の協力者が西村芳次郎であったことです。昭和2,3,4年に集中して建立された三宅碑は今でも文化財研究の貴重な郷土遺産として光彩を放っています。しかし中にはどう考えても怪しい建碑があります。f0300125_10283789.jpgその一つが志水にある「弘仁時代一里塚跡」碑です。この碑は歴史家がみれば誰も納得しないようです。「一里塚制度」は徳川幕府が作り上げた制度で平安時代にはありえないからです。弘仁時代といえば概ね嵯峨天皇の在位期間(809~823年)で高野山や東寺が嵯峨天皇によって空海に下賜された時代背景があります。「西村芳次郎がこの道は空海が通った道だと言いたい為に作り上げた物語であったようで、当時、京阪電鉄の観光戦略に乗って八幡を屈指の観光地にしたいとする思いの所産だったようです」(注3)
 今の状況とそっくりの観光戦略です。八幡の道は「八幡宮道」と呼ばれ、石清水八幡宮の参詣道として発展してきたはずなのに、観光客を誘致するために、あたかも「空海が歩いた道」だと言わんばかりに「東高野街道」と呼ばせて、さも「高野山」の参詣道であったかのような印象を与える戦略は“如何なもの”なのでしょう? 先日、90歳の古老に高野道は「何処から」との質問に、またまた「志水のはずれ」との回答がありました。「都名所図会」(安永九(1780)年刊行)に「高野街道」は「志水の南より河内の田口村へ出る道也」の記載と合致します。正確には志水の南とは「洞ヶ峠」の事を指すと思いますが。そもそも明治に入って官僚や陸軍が内部で使用していた「東高野街道」など八幡の住民の頭の中にはなかったと思います。

文化財への取り組みはどうなっている

 日頃、夫々の行政が文化財に対してどういう取り組みをしているのか、あまり深く考えたこともないのが正直なところです。しかし、退職した後に八幡の文化財や歴史に興味を持つと、自然と周辺自治体の文化施設や展覧会、企画展に足を向けることが多くなりました。ついに「東高野街道」の道標を見るにつけ、今居住している八幡と比較してしまう事態になりました。比較の結果はお粗末としか言いようがありません。その辺りにフォーカスしてこなかった住民側にも責任があるかも知れませんが。
 八幡に来る観光客はまず少なくとも京都市内の観光や周辺の自治体の観光も済ませ、厳しいものの見方を学習してから、最後に来るのが八幡で、八幡宮を見たら帰ってしまいます。春の花見シーズンともなれば背割りの桜見物にどっと人が押し寄せますが、桜を見たら直ぐに帰ると言われています。
 徒然草の仁和寺の法師が山上の八幡宮本社を知らずに、山下の立派な極楽寺や高良社を八幡宮本社と勘違いして帰るようなもの、とは思うものの、一方では定年後に八幡に来る観光客は大変よく勉強してから八幡に来るようです。へたをすれば地元住民よりも八幡の事をよく知っていて、舌を巻くこともあります。いくら「高野山」の名にあやかって「東高野街道」と言い出しても借物の名称につられて観光客は来るわけがありません。もっと総合的な取り組みが必要なことも考えたはずです。観光客を受け入れるにはそれなりの環境を準備しなければなりません。
 はて八幡に文化財について審議する「文化財保護審議会」なるものがあるようですが、機能しているのでしょうか。ここ15年程は開かれたこともないのではと危惧しています。しっかりもう一度現状を分析して取り組み方を研究してほしいと願います。直近の問題としてもっと駅前や街道筋の街並みを整備できないでしょうか。1軒の家が壊れたら、その跡には必ず3,4軒の家やプレハブのアパートが建つような街並みにしか出来ないのでしょうか。ここ数年の内にも立派な屋敷や長屋門がどんどんなくなりました。これからも間違いなくどんどんなくなっていくのは目に見えています。立派な観光資源の喪失にがっかりする事が多すぎるように思います。道も観光客にとってふさわしい街道に整備できないでしょうか。最近、20人前後のグループで散策に来る人々を多く見かけますが、八幡に来ても食事をするところがない、喫茶店もないと相変わらず誰もが口にしています。周辺自治体が一体どんな取り組みをしているのか、実際に見学して彼我の違いを認識しては如何でしょうか。何かにつけ見聞すれば解ろうというものですが、解ってやらないとなればお粗末としか言いようがありません。

「御幸橋」南側に新設の案内板

 昨年の9月頃「御幸橋」の南側に設置された案内板です。これを見て何か変だと思うのは私だけかと思っていましたら、これを見て失笑したり、憤慨したりしている方が沢山いらっしゃいました。f0300125_1040832.jpg何がおかしいのか、東高野街道と書かれた看板の位置です。平成の歴史街道運動に乗って俄かに東高野街道などと言って、八幡宮の参詣道を高野山の参詣道だとするような街道名称がある事自体が可笑しいと思うのですが、写真にある「東高野街道」の案内板が必要ならば一番下が定位置だろうと思います。我々はこの辺りの感覚をおかしいと思うのですが。如何でしょうか。何度も言いますがこの道筋は「御幸道」とする八幡にとってかけがいのない固有の歴史的名称の道です。一番下に「石清水八幡宮参詣道」、「飛行神社」とありますが、「石清水八幡宮御幸道」と書くべきで、この看板を真ん中に位置させてください。此処は八幡なのですから。この看板は元々「御幸道」の歴史的存在を全く知らない者によって書かれたものでしょうか?
 前々回にも書きましたが、重要文化財「石清水八幡宮境内全図」にも、「八幡
山上山下惣絵図」、「男山考古録」にもはっきり「御幸道」との記述があります。これこそ我々が後世に引き継ぐ本物の歴史的名称であって、決して消し去ってはならない価値のあるものであり、この歴史を引き継ぐために「境内全図」や「惣絵図」や「男山考古録」が先人達によって残されて来たのです。また「八幡山上山下惣絵図」には「御幸道立石」との標碑の存在が記され、その位置も図示されています。これが正徳3年(1713)に石清水八幡宮検校新善法寺行清により建立された「石清水八幡宮鳥居通御幸道」という標碑と思われます(注4)。八幡市民図書館に掲示されている「八幡山上山下惣絵図」をしっかり見てください。「高野道」、「御幸道」、「御幸道立石」の書かれた位置をしっかり確認してください。以前、御幸橋の南側にあった「石清水八幡宮鳥居通御幸道」の標碑は現在京都府の土木事務所が管理しているそうですが、平成29年3月頃完成予定の「三川合流サービスセンター(仮称)」に合わせて、御幸橋南側の道路整備計画では、その一環として前述の標碑は必ず元の場所近辺に戻して下さい。
 御幸橋から一の鳥居、平谷方面のいわゆる放生川の西側の道は歴史的に「御幸道」であり、この由緒は解説案内板を設置して観光客に分るように説明する方がよっぽど喜ばれると思います。八幡にも市井の郷土史家や歴史愛好家が沢山居られますが、八幡固有の歴史的呼称など消えてなくなっても良いと思う人はいないはずです。しかし、いまの延長線上の考えで行けば次々と大切な建物や道路や呼称などは簡単に消え去ってしまいます。子孫に引き継ぐ歴史は借物の薄っぺらい歴史しか残らないことになるでしょう。繰り返しますが「御幸道」に「東高野街道」の道標はいりません。100歩譲って「東高野街道」の道標を建てるならば常磐道に留めるべきでしょう。

「東高野街道」碑に端を発して
 
 旧市街の道を借物の「東高野街道」などといっても決して愛着はありません。それは決してネイティブな名称ではないからです。連載の形で色々書きましたが最終回となって見直しますと、気分の晴れる連載ではありませんでした。読者はどうでしょうか。歴史を見るとき、現在の生活や制度から来る視点や尺度だけで歴史を見てしまえば、当時の歴史を本当に理解できない薄っぺらいものになってしまいがちですが、それで諾々とするような人を見るにつけ、近視眼的なものの見方のみでは歴史は分からないと日頃から戒めています。
 八幡宮が遷座する以前に八幡を南北に縦貫する道の存在は疑わしく、古代の官道として山陰道、山陽道、南海道は存在していました。空海は八幡宮が遷座される凡そ25年前に入定しています。
 近世以前に八幡の道を「高野道」、ましてや「東高野街道」と呼んだことはありませんし、現在の枚方や寝屋川、東大阪など河内と呼ばれた地方には高野道の石碑が存在しますが、洞ヶ峠から八幡の道には高野道を示す道標は一切存在しませんでした。なぜなら八幡の道は八幡宮への参詣道でありましたから、他の宗教都市を連想するような道標はあり得ません。東寺から京街道を経由して河内の高野道に続く道だから、八幡の道も高野街道だと言い張るのは暴論です。
 明治の神仏分離政策の以前には八幡の山上に四十八坊と言われる数多の坊があり祈祷の取次や宿坊を兼ね、八幡社の運営にも大きく関わった歴史があります。その坊のほとんどが真言宗でありましたから、社僧として高野山に参ったかというと、私の狭い見聞ではその記録を見たことがありません。当時の坊は皆独立採算であって高野山から一切経済的援助を受けることはありませんでした。八幡の社僧がそれぞれの壇越である大名や江戸幕府には参勤していた記録は沢山見ました。
 ある日、知人から聞きましたが! 善法律寺の前の「新道」を古くからある「東高野街道」だとボランティアガイドに「間違った説明」をさせているのでしょうか。善法律寺へ通じる東西の道はありましたが、現在のような南北の道は無かったと前回述べた通りです。
 明治の中期頃になって官僚や陸軍の内部では「東高野街道」と言っていたようですが、昭和の始め松花堂の西村芳次郎が八幡の三宅碑の建立を指導した時に初めて観光戦略に高野街道の名称を使用したとの見方があります。
その後、言論統制の厳しかった戦前に「東高野街道」と書いた刊行物がありますが、作者は役場でその名称を調べたのでしょうか?
 さて「八幡宮道」の立派な石碑が日本最大級の大石塔(神應寺門前横)の前に何十年と横たわって寝ています。八幡宮の国宝指定と同時にそろそろこちらも起きて貰って役立てては如何でしょう。
 文化財保護課にある三宅碑もほったらかしにしないで欲しいものです。なぜ元の場所に設置しないのか、貴重な文化財としての認識の無さを物語ってしまっています。俄か仕立ての「東高野街道」道標もよいのですが、歴史的価値のある「三宅碑」をもっと大事に扱うべきでしょう。
 八幡の歴史の探究を目指している者としましては、今後も大いに文化財の扱い等について大変な興味を持って見つめて行きたいと思います。

[注]
(注1)神 英雄 「古代の地域計画と石清水八幡宮の成立」より 
文化燦々第1号 (石清水崇敬会)
(注2)中村武生氏が現在(2016.1)確認している建碑総数は288基で、その内八幡市に88基の三宅碑を確認し報告している。(京都市内の88基と同数)
(注3)中村武生氏講演会より引用 平成28年1月17日 八幡市文化センター
『三宅安兵衛の遺志』碑と八幡の歴史創出   
     ―松花堂・東高野街道・天皇聖蹟・綴喜郡―
(注4)「八幡山上山下惣絵図」に記された「御幸道立石」が、正徳3年(1713)
に石清水八幡宮検校新善法寺行清により建立された「石清水八幡宮鳥居通御幸道」の標碑とすれば「八幡山上山下惣絵図」の製作年代は1713年以降と推定されます。


この連載記事はここで終りです。       TOPへ戻る>>>

by y-rekitan | 2016-02-28 06:00 | Comments(0)

◆会報第70号より-04 八幡の道④

シリーズ「八幡の道」・・・④

八幡の道を「東高野街道」となぜ呼ぶのか?
―その4―
 谷村 勉 (会員) 


石碑・道標の意味

 八幡市には「三宅安兵衛」碑をはじめ多くの石碑や道標が存在します。
 八幡は主として石清水八幡宮が貞観元年(859)に宇佐八幡宮から勧請されて以来、重層的にその歴史を重ねてきました。そのような八幡にあって、その歴史的な石碑や道標が指し示す「史蹟」は、『あたかもその地域の唯一の歴史のように、旅行者のみならず、住民にさえ認識され出すのである。石碑が後世にこのような影響を与えるものである以上、その建設過程は追及されなくてはならない』(注1) 建設過程とは個々の石碑がいつ、誰によって、何の目的によって建立されたか等を石碑に銘記する事であります。それによって現在の我々にとって郷土の文化財研究の貴重な遺産となっています。また石碑や道標が観光客に役立つのも表だけでなく裏や側面に書かれた意味を理解し、設置の背景をも読み取ろうとするからです(注2)。

f0300125_1895624.jpg 近年俄かに建立された「東高野街道」の道標を観察すれば、建立年月日や建立主体が記されていません。常識では考えられないことかと思いますが、それには何か意図があるのでしょうか。単に考えが及ばなかったのか、費用の節約を考えてなのでしょうか。
 八幡に越してきた多くの知人は残念ながら八幡の歴史的史実をよくご存じではありませんので、「東高野街道」の何々、何処何処とまことしやかに表現している場面に出くわすことがありますが、これは史実を知らないと「東高野街道」が、あたかも八幡の道の唯一の歴史のように認識する人も出てきた事を表しています。観光客にとってはもっと深刻です。さも大昔から「東高野街道」の呼び名を八幡では使用されてきたかのような印象を与えかねません。我々はもっと具体的に志水道の何々、城ノ内の何処何処、神原町の何々と表現しますし、町内の道に関して「東高野街道」と言った呼び方をしたことがありません。
ときわ道、志水道、八幡宮道といったオリジナルな道の名前が昔から存在するのに、歴史ある石清水八幡宮の「八幡宮道」にわざわざ「高野山」や「和歌山」でもないと思います。歴史街道運動に乗って単に観光客を誘致する材料として「東高野街道」と呼ばせることに、郷土愛といったものは全く感じません。
 何時、誰が建てたかわからないような「名無しの権兵衛碑」を見て、道標の意味をよく理解していない者による建立だとすぐ解るようなものです。
 最近「東高野街道」の道標に関して何人かの知人から問い合わせが来ましたので、八幡には「八幡宮道」や「御幸道」などのオリジナルな呼称が歴史的道標とともに存在する事や「八幡宮道」を示す道標は八幡市内だけではなく、近接の枚方市、交野市、寝屋川市等の本来、洞ヶ峠を起点とする大阪府内の「東高野街道」にも多数現存すること (注3)などを丁寧に説明したところです。

八幡の「東高野街道」は複数あるのか

 俄かに建てられた「東高野街道」道標が文化財研究の貴重な郷土遺産として耐えられるものかおおいに疑わしいとする理由は他にもあります。
 以前、「放生川」を挟み「御幸道」と東西並行して通っていた飛行神社側の常盤道(ときわみち)を「東高野街道」であるとしていたものが、突如、歴史的由緒のある「御幸道」(みゆきみち)を「東高野街道」と言い出しました。八幡に住み、八幡の歴史に関心のある我々にとって、これは歴史を塗り替えようとする行為としか映りません。
 また、紅葉の名所として知られる善法律寺前に「東高野街道」と記された道標が最近建てられましたが、この道はご存知の方も多く、昭和30年代に道路が作られた「新道」(しんみち)と住民が呼んでいる道です。それまでは周り一面、田圃や畑でした。昭和54年にやっと「認定道路」になったものです。
 旧道は善法律寺の東側の道、八幡市民図書館沿いの道を南に向かい、今田、馬場、神原を通って「走上り」の坂を西に進み、神原の交差点を南に志水道の正法寺へと進む道です。この道の八幡市民図書館横にも「東高野街道」の道標があり、東西に「東高野街道」が二本通っていることになりますが、「歴史街道?」が同じ所に二本も通っていることなどあり得ないことだと思います。
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 繰り返しになりますが、善法律寺の前を通る道(点線部分)は新道(しんみち)と呼んでいます。この道路は昭和30年代に取付工事を行う以前は、江戸時代の古図と同様南北に通じる道はありませんでした。
 この新道(しんみち)沿いの「善法律寺」にどうして「東高野街道」の道標が建つのか理解に苦しみます。果して、これを昔から在る「東高野街道」の古道と説明できるでしょうか? 無理なこじ付けとしか思えません。古道と呼べるのは東側に位置する道路です。

水月庵石碑(八幡大芝)の右に旧道あり

 f0300125_13262331.jpg志水道から松花堂庭園に向かって南行し、やがて大芝に入ると「水月庵」の
石碑が見えてきます。真っすぐ進めば松花堂ですが、旧道は水月庵石碑から右に入り、八角堂を通り過ごして左に南下し、中ノ山墓地の東入口から宝青庵と旧万称寺跡地の間を通って南下するのが本来の道になります。今では殆ど車の往来もない閑静な道です。
 図で示す点線部分は現在使用されている道路で、「月夜田交差点」に至る新しい道路です。月夜田交差点に「岡の稲荷社」の三宅碑がありますが昭和2年の建立ですから、当時既にこの新しい道路があったのかもしれませんが、現松花堂公園の古い写真を見れば畦道程度の道であったかもしれません。
 f0300125_18505979.jpg志水道を南行し松花堂庭園に向かうと「水月庵」の石碑が見えて、二叉路になり、右に入って八角堂へ向かうと、これが旧道の本来の道になります。
 なお、「水月庵」の石碑も元の旧道から動いていると推定されます。八幡の古道を「東高野街道」と称するならばこちらに「東高野街道」の道標を建てなければなりません。

「東高野街道」道標の矛盾

 放生川の東側に位置する常磐道(ときわ道)を「東高野街道」と言っていたものが、新たに事もあろうに、歴史的由緒名のある「御幸道」(みゆき道)を「東高野街道」と俄かに言い出したり、菖蒲池の八幡市民図書館から神原に至る道が本来の旧道でこちらを「東高野街道」としていたものが、その西側の新道(しんみち)と呼ばれる道路にある「善法律寺」の前に「東高野街道」の道標を建立したり、「水月庵」の石碑を右側に八角堂へ向かう古道を「東高野街道」と呼ばず、松花堂庭園西側の新しい道に「東高野街道」の道標を建てるなど、矛盾だらけの道標の建立や、建立年月日や建立主体の不明など、やっていることが、何かおかしいと思わざるを得ません。
 いま全国の自治体で古道や街道の整備に力を入れていると聞きますが、何処でもこういう事があり得るものでしょうか? 道標建立を推進している当事者は八幡の歴史や文化財の保存など本当に勉強し理解しているのでしょうか? よく理解した当事者であれば八幡の歴史や文化財保存の取り組み方、その仕組み、実際の活動など、他の自治体との比較などを含めて是非教えて欲しいと思う程です。
 少なくとも我々は八幡が好きです。八幡の歴史や文化財を大切にして、次の世代に送りたいと思っています。「和歌山」や「高野山」がメジャーで有名かも知れませんが、決してあやかりません。八幡のオリジナルな歴史を大事にします。そのために八幡の歴史を勉強し探究していきたいものです。
 このシリーズは次回が最終回です。

[注]
(注1)『京都民報』[中村武生 2004.4.11)“「三宅安兵衛遺志」碑と西村芳次郎”において、石碑が後世に影響を与える以上「石碑の建設過程は追及されなくてはならない」と述べている。
 歴史地理史学者の中村武生氏は『花園史学・2001.11』において「京都三宅安兵衛・清治郎父子建立碑とその分布」で八幡の三宅安兵衛碑について報告している。
(注2)『中村武生とあるく洛中洛外』(中村武生監修・2010.10・京都新聞出版センター)に道標・石碑についても詳しい記述がある。
(注3)『高野街道』(大阪府教育委員会、歴史の道調査報告書 第2集 昭和63年)P75 (1)道路等一覧表より、枚方市、交野市、寝屋川市等で「八幡道」、「八はた道」など「道」と記された道標6基、単に「やわた」あるいは「や者た」と記された道標6基、合わせて12基の「八幡宮道」への道標の存在が報告されている。

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by y-rekitan | 2016-01-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第69号より-07 八幡の道③

シリーズ「八幡の道」・・・③

八幡の道を「東高野街道」となぜ呼ぶのか?
―その3―
 谷村 勉 (会員) 


「官」による地図の作製

 『京都府地誌』によりますと、明治八年(1875)六月五日太政官達により「皇国地誌編集例則並ニ着手方法」が各府県にだされ、明治14年から17年に京都府の担当者が調査した、とあります。

 同地誌の「山城国綴喜郡史」「道路」の項に、大阪街道「久世郡淀より本郡に入り、・・・木津川を渡り、八幡荘に至る、此の間を「御幸道」(みゆきみち)と云う、・・・」とここでも「御幸道」と言い表しています。
 文久元年(1861)四月二十四日 皇女和宮が第14代将軍徳川家茂に嫁ぐ直前に石清水八幡宮に参詣された折の記録を見ると淀御小休、堤道南へ、鳥居通御順路、山上、とあります。正徳三年(1713)に建立された「石清水八幡宮鳥居通御幸道」の標碑から「鳥居通」(とりいどおり)の名称を使用しています。
 同地誌の「荘誌 山城国綴喜郡八幡荘」「道路」の項に、高野街道「三等道路に属す、本荘の北界木津新川頭に起り本荘の中央を貫キ委、蛇南行し、河内国招堤村界尽く」とあります。
 『京都府地誌』の中の「山城国綴喜郡史道路」の項に「御幸道」と「高野街道」が出てきます。ここに云う「御幸道」が御幸橋(ごこうばし)から一の鳥居に向かう道路を指していると考えられます。「高野街道」も同じく八幡北辺の「御幸橋」(この時まだ架橋されていません)辺りからの旧道を高野街道と名付けたようです。「御幸橋」南詰から真っすぐ南下する通りは「御幸道」の記載がありますから、高野街道は御幸橋から東へ折れ、京阪電車のガード下を通り、真っすぐ飛行神社へ通じる道、あるいは御幸道から途中東方面に折れて、いわゆる八幡を縦断する常盤道(ときわみち)を高野街道と指しているものと考えられますが。

 次に明治18年頃の陸軍仮製図(参謀本部陸軍部測量局)では淀城下から美豆村、木津川に至る道を京街道とし、八幡に入れば「自京都至和歌山道」と図示(部分図①参照)また、洞ヶ峠からは「高野街道」と図示されています。(部分図②参照)
f0300125_14918100.jpg
 明治41年発行の「山城綴喜郡史」(京都府教育会綴喜郡部会発行)には、和歌山街道は八幡町より洞ヶ峠を経て、北河内郡菅原村字長尾に達す。と記載されています。さらに明治42年の陸地測量部(参謀本部測量局から独立)作成の地図に初めて「東高野街道」と図示されました。

 明治に入り作成された地図はいずれも「官」の担当者によって作られたものであり、機能性や利便性による一方的な官の命名であり、そこに住む住民の呼称などは反映されていないものでありました。一例を挙げれば現在のJR米原駅は官の担当者によって「MAIBARA・まいばら」と命名されましたが、実際は「MAIHARA・まいはら」と呼ぶ地元の呼称を理解していませんでした。
 また、特に陸軍が作成した地図とは当時は軍事機密に当たりますから、一般には流布せず、八幡の一般住民は「東高野街道」の呼称を知らないのは当然のことであったと思います。八幡宮の参詣道は相変わらず八幡宮道であり、志水道であり、山路道であり、常盤大道であったのです。少なくとも「高野街道」とは洞ヶ峠から河内方面の街道を指す呼称であり、戦後も永く八幡地区の「東高野街道」の名称は一般に流布していませんでしたが、いわゆる学者か誰かが明治時代に陸軍の「東高野街道」と書かれた地図を発見し、これを根拠に言い出したものではないでしょうか。八幡の道を「東高野街道」とする根拠は是非教えてほしいものです。

歴史街道運動

 中村直勝氏が昭和十一年に発行した「八幡史蹟」の文中に、山の西麓は河内の楠葉牧等を経て摂河泉の豊穣なる平野を背後に展開し、又洞峠から四条畷、河内東条に通ずる東高野街道を出している。と記載しています。ここでもやはり洞ヶ峠から「東高野街道」と呼称されていたことが示唆されています。
 先日友人からの質問で、南北朝の戦いの時、南朝の後村上天皇の「八幡御退失」の折、「東高野街道」を落ち延びたのではないかとの話になりました。早速「太平記」を読み直せば、「大和路へ向けて落ちさせたまえば、・・・木津川の端を西にそうて、東条(大阪府富田林市)へ落ちさせたまい、・・・賀名生(あのう)の御所へぞ参りける」とあり、「東高野街道」の名詞は何処にも出ませんでした。
 さて平成の世になってその4・5年頃、大阪から発信された「歴史街道運動」にいつの頃か八幡市も参加し、八幡市を南北に縦貫する道を「東高野街道」だとして、いきなり発信するようになったものでしょうか。当時はTVで歴史街道の宣伝番組をよく見ましたが、八幡の「東高野街道」等は全く知りませんでした。今から思えば「東高野街道」とする前にどれだけ八幡の歴史を検証し、実地の調査をし、かつての石清水八幡宮の神領の道に、他の宗教施設を連想するような名称を付けても良いのか等々、熟慮したのでしょうか。

 なぜ地元固有の歴史的名称を大事にして、次の世代に送ろうとしないのでしょうか。さらに、八幡を南北に縦貫する道を「東高野街道」と称して誰が往還したのでしょうか、日記や資料があれば示してほしいものです。実際に高野山に行くには殆どが淀川水系を利用して舟で大阪に出たのが、事実ではないでしょうか。

一の鳥居前の道標に「東高野街道」の名称はいらない

 一の鳥居前の「東高野街道」の道標は地元資料等、歴史的に考えてもあり得ないものと思っています。「御幸橋」(ごこうばし)から一の鳥居に向かう一連の道は歴史的に見て何度も「御幸道」(みゆきみち)と呼称されてきた事実を挙げました。何度も例証を挙げていますので、ご確認頂ければ幸いです。
f0300125_17254856.jpg
どちらかの展示会で「重要文化財 石清水八幡宮境内全図」(石清水八幡宮蔵)をご覧になったことがあるかも知れませんが、ここにも放生川に沿って描かれた松並木の道が「御幸道」であるとはっきり図示されています。放生川から西は清浄の地である八幡宮境内の一部として「御幸道」は描かれているものです。
 以前、八幡の観光案内に京阪八幡市駅から東に進み、f0300125_13314686.jpg京阪電車のガード下近くの交差点を南に、飛行神社前の常盤道(ときわみち)を「東高野街道」とするパンフレットを発行していました。また飛行神社前の常盤道を北行して京阪電車のガードをくぐり、御幸橋を渡って背割堤までのルートを「東高野街道」とする表示もありました。それがいつの間にか一の鳥居前の「御幸道」に「東高野街道」と記された道標が建ちました。これには古くから地元に残った史料や住民意識を無視して、やりたい放題の感があり、唖然とする住民は少なくありません。歴史は言ったもの勝、やったもの勝などと聞くことがありますが、そのような勝手な言い分を安易に認める風土や何でも無批判に引用するような風潮は戒めなくてはならないと思います。

「東高野街道」の道標をよく見ると

 「東高野街道」の道標は平成20年頃から建立されたものでしょうか、数か月前には「御幸道」辺りにも建立されました。しかし、これらの道標には普通は考えられないような欠陥があります。史実に興味のある住民や観光客にはすぐ判ることですが、これらは次回検討して説明いたします。

参考文献
  :京都府立大学文化遺産叢書 第3集 
   京都府立大学文学部歴史学科
    「八幡地域の古文書と石清水八幡宮の絵図」
  :石清水八幡宮史料叢書一「男山考古録」 
  :新潮日本古典集成 「太平記 四」 新潮社
  :その他


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by y-rekitan | 2015-12-28 06:00 | Comments(0)

◆会報第68号より-03 八幡の道②

シリーズ「八幡の道」・・・②

八幡の道を「東高野街道」となぜ呼ぶのか?
―その2―
 谷村 勉 (会員) 


八幡に越してきた人からの質問

「東高野街道」の道標を何度か見ていましたが、昔から「東高野街道」と呼んでいたのではなかったのですか。
あの「道標」は最近できたもので、決して昔から在ったものではありません。
なぜ「東高野街道」などと和歌山を連想するような名前が付くのでしょうか?
八幡の事をよく知ってか知らずか、軽く思い付きで言ったものが結果的に「道標」にまでなってしまったのではないでしょうか。
八幡の道なのになぜ昔からの地元の名称を付けないんでしょうか?
地元の調査や検証をせず、八幡の歴史を知らない学者の論文を鵜呑みにした結果では!
それでは八幡に越してきた住民や観光に訪れた人は「東高野街道」という古道が大昔から存在したと勘違いするかも知れませんね!
多分勘違いしてしまいます。石清水八幡宮創建以来の八幡宮参詣の古道はありますが、「東高野街道」と名の付く古道は八幡の町に存在しませんでした。
では事実はどうなのでしょうか?

八幡の道には「八幡宮道」の
           歴史的呼称がある

 神亀二年(725)楠葉の久修園院が建立されると同時に、山崎と橋本の間に山崎橋が架けられました(行基年譜)
 山崎橋は古代の山陽道やその後の南海道を結ぶ重要な橋になります。平安時代に入り山崎橋から橋本を抜けて楠葉中ノ芝から交野山(枚方市交野)を結ぶ線上に高野道があったようです『神 英雄(文化燦々第一号)石清水崇敬会』楠葉野田の大師堂や僅かに残る畦道にその面影が残っています。
 貞観元年(859)に石清水八幡宮が勧請されて以来、八幡の道は八幡宮参詣道として徐々に周辺道路が整備されたと思われますが、その道は近世に建立された道標によって「八幡宮道」と呼称され、参詣者の目印とされてきたことが解ります。現在も「八幡宮道」の道標は以下の六基が現存します。(その内1基は三宅安兵衛碑です)
1.橋本中ノ町の道標「左リ 八まん宮道」(明和四年丁亥二月・1767)
2.橋本北ノ町の道標「右 八まん宮山道」(文政二己卯年二月吉日・1819)
3.八幡神原の道標「八幡宮道」(昭和二年十月・1927 三宅安兵衛碑)
4.伏見区淀際目町の道標「右 八まん宮ミち」(宝暦三癸酉歳四月・1753)
f0300125_16454727.jpg
5.楠葉野田一丁目の道標「左 八まん宮道」(文久二壬戌年四月再建・1862)
6.頓宮西の石材置場(巨大五輪塔の向かい)にf0300125_1621962.jpg横たわる道標「左 八幡宮道」とあり、凡そ2.8mの大きな道標で、後ろ側に「是より北荷馬口附の者来へからず」と彫られていますが、測面の建立年月日は残念ながら見ることができません。元は平谷町付近にあったとも考えられますが、定かではありません。

 京都市内に「是より洛中碑」とよばれる石碑が10本余り現存し、「是より洛中荷馬口付のもの乗へからず」と彫られています。馬に乗って洛中に入ってはならない、という意味ですが、八幡の「是より八幡宮碑」とでも言いましょうか、洛中碑とよく似た道標です。
 八幡の町には近世の「八幡宮道」の道標は残っていますが、「高野道」の道標は殆どないと言っても過言ではありません。八幡菖蒲池にある「市立八幡図書館」1階ロビーに江戸時代中期の大型絵図「八幡山上山下惣絵図」が掲示されています。大変面白いので一度ご一瞥下さい。惣絵図の左、洞ヶ峠付近に「高野道」と記され、河内名所図会(享和元年・1801刊)や「男山考古録」(嘉永元年・1848)に記された通り、洞ヶ峠が八幡の高野道の起点であることが解ります。
 八幡宮三の鳥居の神馬舎近くに「かうやみち」の石碑があります。これは志水道を抜けて洞ヶ峠の高野道に誘導する唯一の道標と考えられますが、建立年月が彫られていません。 

八幡は石清水八幡宮を中心とする宗教都市

 石清水八幡宮は神仏混淆の神社として歴史を重ねてきました。男山四十八坊と云われる坊舎があって僧侶が住み、祈祷の取次や宿坊を兼ね、八幡宮の運営組織として、明治維新まで重要な役割を果たしました。明治初年(慶応四年・1868)から矢継ぎばやに出された「神仏分離令」(神仏判然例)によって、神社と寺院の分離が行われ、八幡宮山上から寺院関係のものが出されてしまいました。
 それ以前の江戸時代までは神仏混淆の宗教都市として大いに繁栄した経緯があります。慶長五年五月(1600)、関ヶ原合戦の4か月前、徳川家康によって八幡に361通の朱印状が発せられ、その後慶長十五年(1610)徳川家康から「右、八幡八郷の事、検地令免許、守護不入之上者・・・」の御条目の発給によって、大名は置かれず、石清水八幡宮を中心とした自治組織となった。検地免許の神領とは税金を取らない事を言ったものです。
 要するにこの様な重要な宗教都市の参詣道には八幡宮の名称が付くのが常識で、八幡宮の参詣が終わり、次の目的地を目指す分岐点で初めて、八幡以外の宗教拠点の名称を付けるもので、八幡以外から八幡宮へ参詣に来る場合も同様、その分岐点が洞ヶ峠であり、河内国(枚方市)の高野道でありました。

何時から文献上に「東高野街道」が現れるか

 初出は『京都府地誌』。明治八年(1875)六月五日太政官により「皇国地誌編集例則並ニ着手方法」が各府県にだされ、明治14年から17年に京都府の担当者が調査した、とあります。 
 「山城国綴喜郡史」「道路」の項に、大阪街道「久世郡淀より本郡に入り、・・・木津川を渡り、八幡荘に至る、此の間を「御幸道」と云う、・・・「荘誌 山城国綴喜郡八幡荘」「道路」の項に、高野街道「三等道路に属す、本荘の北界木津新川頭に起り本荘の中央を貫キ委、蛇南行し、河内国招堤村界尽く」とあります。

 なお、紙面の都合上明治からは次回、―その3―にて本格的に「東高野街道」を検証します。 

参考文献
京都府立大学文化遺産叢書 第3集 京都府立大学文学部歴史学科
「八幡地域の古文書と石清水八幡宮の絵図」
文化燦燦 第1号、第2号 石清水崇敬会
石清水八幡宮史 第六輯 社領編 続群書類聚完成會
その他


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by y-rekitan | 2015-11-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第67号より-06 八幡の道①

シリーズ「八幡の道」・・・①

八幡の道を「東高野街道」となぜ呼ぶのか?
―その1―
 谷村 勉 (会員) 


京阪八幡市駅前

 京阪八幡市駅前には軽いリュックを背負ったグループをよく見かけます。会社をリタイアした人達がウォーキングを兼ねて八幡の名所旧跡を歩いて楽しんでいるように見えます。いつも世話役らしき人が事前に調べた市内各所の案内図や寺院、旧跡の来歴などを書いた資料を配布されている姿を見かけます。かつての仲間や知り合いが参加した折には、時々後日談を聞きますが、残念なことに、相変わらず駅前開発の遅れや食事や喫茶場所の少なさを指摘されます。
 約40年近く前、当時の郷土史会の方々や近所の古老から八幡の色んな話を聞きながら、おぼろげに理解していた八幡の歴史を、定年後、改めて大変興味を持つようになりました。平成27年(2015)10月16日(金)に石清水八幡宮の国宝昇格が答申されたニュースを聞き、これまで発信力が弱いと常々言われて来た八幡が、これを機会に、八幡の住民目線で地元の歴史や文化の驚くべき奥深さを発信し、誰にでも歴史を感じられる町に出来れば、という思いから、八幡住民や観光客に向け、今回、八幡の東高野街道について報告します。

東高野街道は「洞ヶ峠が起点であり、終点である」

 今でも八幡の地元住民は「洞ヶ峠」が東高野街道の起点であり、終点であると理解している人が多いように思います。私が聞いた範囲でも洞ヶ峠とする人が多く、以前、旧吉井バス停(八幡南部洞ヶ峠付近)の八幡安居塚T字路角にあった「円福寺の道標」が目印となっていました。f0300125_8341358.jpg次に「志水の離れ」でしょう、という古老達がいました。これは月夜田交差点(現松花堂庭園)にある三宅碑「岡の稲荷社」の道標を指していると思います。昭和二年に建立したこの三宅安兵衛碑には文学博士西田直二郎氏によって「右 高野街道」、「従是 高野山至ㇽ」と書かれています。
 かの歌人「吉井勇」が終戦後の3年余りを近くの「宝青庵」に過ごし、「月を見てかなしげに鳴く犬のほか夜の高野みちゆく人もなし」とここを高野道として読んでいます。しかし、これより北側、京阪八幡市駅に向かって高野街道と称する道標はかつて一つも存在しませんでした。もちろん八幡に生まれてこの年になるまで東高野街道などと聞いたこともない、という人もいました。

なぜ「洞ヶ峠」と認識しているか

 石清水八幡宮が貞観元年(859)僧行教によって宇佐八幡宮(大分県)より勧請されて以来、八幡の道は八幡宮への参詣道として発展し、大いに賑わってきた歴史があります。そこで「洞ヶ峠だ」と認識する記録を調べました。
嘉永元年(1848)江戸時代の八幡地誌「男山考古録」が長濱尚次(石清水八幡宮宮大工)によって脱稿されました。江戸時代の八幡の様子を知るうえで、無くてはならない書物です。

「男山考古録」に高野街道の記述を見ると、(高野道の項目はなし)
・「安居塚」の項に、万称寺より五町許南、高野道という道の・・・とあります。  
万称寺とは現在の「松花堂庭園」近く月夜田交差点の西南方向にあった寺。
五町許とは凡そ545m、洞ヶ峠付近の「円福寺の道標」辺りを指します。
・「洞ヶ峠」の項に、志水町より南半里許、里俗の高野道と云所・・この所
  山城・河内国界也、・・とあります。  
志水町とは現在の「走上り」の坂道から南、旧新善法寺周辺から、正法寺の前を走る志水大道と呼ばれる一帯を指します。 南半里許とは凡そ南へ2km弱の距離で、「円福寺の道標」辺りを指します。
里俗の高野道とは俗称として高野道と称していたとの意味です。
f0300125_810632.jpg「円福寺の道標」は現在八幡市の文化財保護課の敷地内に横たわっています。
   
「河内名所図会」享和元年(1801)刊
・「城州洞ヶ峠より、河州紀伊見峠へ十五里三町」とあり高野街道の行程を示し、洞ヶ峠を起点としている。

「やわたの道しるべ」八幡市郷土史会発行 昭和57年(1982)
・月夜田交差点(松花堂庭園)にある「岡の稲荷社」の三宅碑の解説に「八幡宮門前の人家ようやく離れ、・・・洞ヶ峠まで十五丁、河内を縦断する東高野街道の起点である」とあります。

東高野街道は枚方市から交野、倉治、津田などを経て、八幡から京街道に繋がっているが、近世に八幡の道を「東高野街道」とする資料は見当りません。

最近「東高野街道」と記された道標が八幡に出現した

 八幡における高野道とは洞ヶ峠付近や志水道のはずれと八幡の住民の殆どが認識していたと思っていましたが、数年前でしたか志水道や常盤道、八幡宮道などと、はるか江戸時代以前より、古くから親しまれてきた八幡宮の参詣道に「東高野街道」と記された道標が10基ほども建立されていることをご存知でしょうかf0300125_16595333.jpg。時に松花堂や樟葉方面に自転車で出かけては時々この道標を見ていましたが、つい最近になって駅前のスーパーの横や石清水八幡宮一の鳥居の前に堂々と建立された「東高野街道」と記された道標が建立されていたのには仰天し、驚きました。
 なぜ、仰天したかを説明しなければなりません。
 江戸時代、八幡から京都方面に出る道には北に向かって二本の道がありました。
 その一本が八幡宮一の鳥居から真っすぐ北に向かって御幸橋を目指す「御幸道(みゆきみち)」でした。もう一つの道はこの「御幸道」から大谷川(放生川)を挟んで東側に位置する「常盤道」と呼ばれた道です。この「常盤道」こそ日常の本道、幹線道路であり、八幡の南北を貫く道路として殆どの人々が利用しました。江戸時代の地図には「常盤道」のみを記した地図も多いようです。「御幸道」は天皇や勅使、大名等が利用し、どちらかと言えば日常的にはあまり使用されなかった道だったと聞いています。しかしそれでも大変由緒ある立派な道であったのです。

「御幸道」の歴史的記述として先述の「男山考古録」から紹介します。
 「御幸道」の項に、一の鳥居を北へ壱条の道路ありて、・・・北堤に近く正徳三年(1713)癸巳六月十七日、「石清水八幡宮鳥居通御幸道」という標碑を建てられたるは、検校新善法寺行清法印なり、・・・とあります。
今もこの標碑は存在しますが、現在新御幸橋等の建設につき、今は取り外して保管されています。

「京都府の地名」(昭和56年(1981)平凡社発行)にも「男山考古録」から引用し、
「石清水八幡宮鳥居通御幸道」という標碑が淀川提近くに建立された。と記載されています。
 八幡宮の表参道ともいうべき「御幸道」の、一の鳥居前に「東高野街道」と称する道標が建つとはだれも考えなかったのではないでしょうか。それでは「御幸道」の歴史的名称はどうするのか、歴史から消そうとするのでしょうか。今、各地方でその地に伝わる歴史的な事象を血眼になって探しあて、地域を盛り上げる材料としていますが、八幡はあまりに歴史が深く多く有りすぎて、かえって大事なものを、遂には消してしまうのではないかと心配します。

明治元年の木津川付け替え大工事

 明治元年から明治3年にかけて木津川付け替えの大工事が実施され、それまでは淀城の近くで桂川、宇治川、木津川の三川が合流していましたが、この付け替え大工事によって、八幡の北部が大きく削られました。古図を見れば、それ以前は今の淀城の近くまで八幡の範囲であったことが解ります。
  この工事によって八幡から北の方面に通じる幹線道路であった「常盤道」が現在の木津川によって分断されて、今は買屋橋から山柴交差点を北に、飛行神社の前を通り、京阪電車の高架下を抜けて西にカーブし御幸橋の南詰に通じる道になって、そこで「御幸道」と合流してしまいました。

 かつて石清水八幡宮の神域であった八幡の道に他の宗教施設を連想するような名称がつけられることはありませんでしたが、駅を降りて東高野街道の道標を見れば、八幡は高野山信仰によって支えられてきたような印象を与えないでしょうか。実際は八幡信仰によって人々が八幡宮に参詣し、八幡の町が繁栄してきたはずと思いますが。八幡に入り、石清水八幡宮を目指すには「八幡宮道」の道標によって案内されたものでありました。今でもはっきりその痕跡が残っています。八幡独自の歴史、文化の形成を考えた時、その歴史、文化の特異性はむしろ誇りになると思います。郷土愛もそこから育つものと考えますが!

 市役所に「東高野街道道標」の事を尋ねましたところ、要領を得ませんでした。しかしどうも平成4,5年頃でしたか、大阪から発信された歴史街道運動に関わりがあるとのことでした。
 次回は改めて「八幡の道標」に関連した報告をいたします。
(つづく)


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by y-rekitan | 2015-10-28 07:00 | Comments(0)

◆会報第59号より-01 洞ヶ峠

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わが心の風景・・・(32)
洞ヶ峠
所在地 八幡福禄谷


f0300125_11512597.jpg洞ヶ峠は男山丘陵部の最も高い位置にあり、古くは山城国と河内国との国境で、峠のたたずまいが洞穴に似ていることから、その名が生まれたと伝えられています。
 この峠は、高野山へと続く道として、多くの信者が越えて行きましたが、一方で、摂津、河内、山城の三国を一望できることから、中世には戦略上の拠点となり、陣所が築かれては、争奪戦が繰り広げられたそうです。
 峠の名を一躍天下に知らしめたのは、天正10年(1582)の明智光秀と羽柴秀吉の山崎合戦でした。大和郡山の城主筒井順慶は、光秀に加勢を頼まれて、この峠まで出陣したものの、戦況の有利な方に味方しようと、ここから観望したといいます。この故事から日和見をすることを「洞ヶ峠を決め込む」という言葉が生まれました。しかし、実際には、洞ヶ峠には出陣していないというのが真相のようです。
 順慶は、その2年後、36歳という若さで亡くなりますが、茶の湯、謡曲など教養高い武将だったそうです。    (絵と文: 小山嘉巳)

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by y-rekitan | 2015-02-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第50号より-02 八幡門前町

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《講演会・シンポジューム》
門前町の八幡「今」「昔」
― 2014年5月  飛行神社にて ―

共催: 東高野街道八幡まちかど博物館協議会
第一部: 講演 同協議会 高井輝雄
第二部: 各位による シンポジューム


 5月11日(日)、飛行神社を会場に、標題のタイトルで5月例会が開催されました。今回は、東高野街道八幡まちかど博物館協議会と共催で行われました。参加者46名。
 第一部は、まちかど博物館協議会の高井輝雄さんが、これまで蒐集されてきた写真を映しながら、「写真で見る、門前町の今・昔」と題してお話して下さいました。

第一部 「写真で見る、門前町の今・昔」

  「写真で見る門前町の八幡の今・昔」は、近代以降、現代(昭和50年代始め)に至るまでの門前町の様子や発展の過程を、写真を中心に紹介しました。番号を付し、その説明の要約を以下にまとめました。

① 門前町・八幡の近代始めの出来事は、明治元年「木津川付替え工事」の着工(明治3年完成)である。そして、明治33年から施工された宇治川の改修、宇治川と桂川の隔流工事と続き、昭和5年この一連の大事業は完成した。(三川合流工事完成時の写真を紹介)
 この工事と共に、木津川・宇治川の二つの御幸橋がコンクリートで架橋、京都方面から入る門前町・八幡の表玄関となった。

② 今や日本一の桜の名所である「背割り堤」が、昭和40年代までは「山城の天の橋立」と言われる黒松並木であった写真を映した。

③ 初代「御幸橋」は大正2年、木製の土橋として架橋。昭和5年にコンクリート橋に。現在の橋は三代目で平成22年に架け替えられた。2代目の橋の横に、今まで見たことのない仮橋の写真を見る。

④ 八幡小学校の前身校・「知周校」は、今の八幡駅前に明治6年創立した。大正3年、敷地内に在った町役場と共に八幡菖蒲池(現在地)に移転した。いずれも興味ある写真を紹介。

⑤ 明治43年4月、京都五条~天満橋間に「京阪電車」が開通した。電車は一輌のレトロな車両で、珍しい電車に八幡駅には多くの人が押寄せてきている模様の写真を写した。女性1期生として昭和19年電車を運転した馬淵慶子さんの回顧談を紹介した。
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⑥ 「飛行神社」が創建は大正4年、世界で初めてゴム動力による飛行器を飛ばした二宮忠八によってである。創建時の小さな祠を見る。
今年、神社は創建99年を迎えている。友田宮司の挨拶で、再来年目標に二宮忠八の生涯をアニメ化されることが述べられた。

⑦ 「男山ケーブル」は、大正15年開業、開業時の欧風のオシャレな駅舎と共に写真を見ることができた。

⑧ 八幡を内水被害から守る要の施設は「八幡排水機場」である。昔から内水に悩まされてきた八幡は「水害の町と言えば八幡町」と、昭和40年代まで有難くない代名詞をいただいてきた。内水害は、町の発展を阻害する大きな課題であった。
先人の弛まぬ努力と行政の対応により排水能力大幅アップ、橋本樋門の改築完成。町中心部の開発も急速に進んだ。(昭和36年10月の琵琶湖と化した町中心部の写真を見る)

⑨ 八幡の竹をフィラメントに使い、白熱電球の実用化に成功した発明王エジソン。その「エジソン記念碑」は、昭和9年男山展望台(写真見る)に設けられていたが、昭和33年、現在地に移転、後に改装された。

⑩ 昭和9年、近畿を直撃した「室戸台風被害甚大」であった。八幡小学校では、校舎が倒壊し先生を含む34名が亡くなり、117名が重軽傷を負う史上最悪の大惨事となった。校舎倒壊現場を茫然と見る児童の姿を映した。
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⑪ 今となっては、とても懐かしい「やわた水泳場」の写真も映された。戦後22年再開され、途中から町も経営に参画、41年に閉場となった。今は想像できない白砂清流の木津川に多くの水泳客が賑わう写真を紹介。

⑫ 事業の巨大さと課題山積の「男山団地の開発」の経緯は、あまり知られていない。
 開発前の男山丘陵、着工及び完成の写真が映される中、開発のきっかけとなった状況、開発前の苦汁、開発後の難題克服の取組みについての説明をした。
⑬ そして、昭和52年11月、新生「八幡市」が誕生した。
 
以上の他に門前町八幡の「情景あちこち」と題して、主に東高野街道筋の珍しく、懐かしい昔の写真を紹介した。
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第二部 シンポジウム「門前町の八幡の今と昔」

 第2部のシンポジウムでは、以下の方々が、それぞれの思いや経験などを語ってくださいました。
 【基調の提言】
   堀尾行覚さん(“らくがき寺”住職、65歳)
 【パネリスト】
   吉岡久江さん(八幡土井在住、86歳)
   柏村昌男さん(西山足立在住、85歳)
 以下、概略を紹介します。
《堀尾行覚さん》
 仏教の世界では、「諸行無常」という言葉が世の中をとらえる指針になっています。すべてのものが移ろいゆくということです。そういう移ろいゆく世の中で、私自身がどう生きてきたかということが問われてきます。
 移ろいゆくものには、町もあります。町はどう変わってきたか。もっと言えば、私たちは何をどう変えてきたか。そして、これからの町づくりを考えた時に、何を変えるのか、何を変えてはならないのかが問われてくるのではないか。
 私たちは、この間、「便利さ」や「効率」「速さ」を選んできました。私が子どもの頃、テレビや電気冷蔵庫、電気掃除機、そして自動車が急激に普及してきました。それらは便利なもので、効率がよく、速いものでした。
 そして今、私自身は仏教の世界に身を置いていることもあり、敢えて不便なものを残しています。五右衛門風呂がそうであり、汲み取り式便所、かまどがそうです。私のお寺(単伝庵)では敢えてそういうものを残しています。円福寺もそうです。たくあんを干し、うめぼしを漬けています。
 記憶に新しい東北大震災。人々が避難所に求めたのは何だったのでしょうか。電気が回復しない中で機能したのは「五右衛門風呂」であり、汲み取り式便所であり「かまど」だったのです。勿論保存食は欠かせません。
 寺は、大震災がおきた際の緊急避難所になります。皆さんが求めているものをさっと提供しなければなりません。そういう時に便利なもの、効率だけを追ったもの、早さを追求したものは用をなさないのです。
 今、そのような非常時ばかりではなく、日常の暮らしの中に、あえて不便なものを残し、効率や速さだけを追求しない生き方、暮らし方が求められているのではないでしょうか。
そして町づくりにもそんな考え方があるのではないかと思うのです。
 私たちが暮らす八幡は、今日のシンポジウムの標題にあるように、紛れもなく門前町です。石清水八幡宮の門前町として発展してきたのです。それを抜きには考えられないのです。そのことを今一度噛みしめることでこれからの町づくりを共に考えて行きたいと思います。

《吉岡久江さん》
 私がここに嫁いできた時に、お姑や年長者が語ったことで覚えていることが二つあります。
 一つは、「葬礼(そうれん)橋」です。今、ツジトミスーパーの前の放生川に架っている橋のことです。科手の方の墓に向かう時に使う橋だから葬礼橋と呼ばれ、祝い事があるときにはこの橋を渡ってはいけないと言われました。ですから、そんな時には、私はその橋を渡らず、わざと安居橋まで迂回して八幡の駅に歩いたものです。
 もう一つは、私の住む前の通りが「市場通り」と呼ばれていたことです。市場もそれらしい町並でもないのに何故そのように呼ばれていたのか不思議に思ったものです。
※ 『八幡市誌』第2巻によれば、康平6年(1063)宿院河原(放生川右岸)で市が開設されたとあり、13世紀に市場町が形成されたと指摘する文献も見られる。また、江戸時代に描かれた八幡絵図には、放生川東岸の安居橋から高橋にかけて南北に「市場町」の地名を見ることができる。(編集部)

《柏村昌男さん》
 私は、昭和11年に八幡小学校に入学しましたが、そのころ、志水の商店街はたいそう賑わっていました。
円相園という大きな茶舗があり、店先に大きな茶壷があったことを今でも憶えています。建物は、昭和61年に買い取られアメリカのカリフォルニアに移築されたとのことです。
 酒屋があり豆腐屋、塩・醤油・麹屋、八百屋、呉服屋が軒を連ねていました。先ほど、八幡駅前に「八ツ橋」お菓子の店が映されていましたが、それは「ヨシヤ」で製造されていたのです。連日、近郷近在から来る多くの買い物客で賑わっていたのです。
 泥松稲荷は「ドロマッタン」と呼ばれていました。毎年2月11日になると、大阪から信者の方々(講)が大勢来られ、湯を沸かす神事が行われたりしました。そんな時、子ども達は大阪の講の方々が配る粟おこしを楽しみにしたものです。
 いま一区の公会堂がある所では、春になるとタケノコの市場になりました。筍は男山の藪でとれたのです。そして筍のシーズンが終わるとそこで、芝居小屋が立ち、チャンバラや大衆演劇が行われました。
 小学校時代の記憶にあるのは、昭和15年に石清水八幡宮で行われた正遷宮のことです。それは賑やかに行われたものです。また、当時は軍国主義の時代でもあり、毎日男山に登り戦勝祈願のようなことをさせられました。そして昭和16年の太平洋戦争を迎えるのです。
 戦時中、淀川工業学校に入った私は、松下電器で学徒動員の日々を送りました。志水の商店街は、統制がだんだんに厳しくなり店舗もすたれてきました。
 戦後、商店街は再び賑わいを見せるものの車社会の到来と共にシャッターを下ろす店舗が増え始め今日に至っています。

 休憩をはさんで、参加者を交えた質疑応答がなされました。論点のみ紹介します。

① 志水の商店街が賑わっていたのは、近郷近在からの来客者が多かったことによるが、松井山手や大住、上津屋、内里、上奈良・下奈良等の東在所だけでなく、楠葉や川向うの高槻辺りの方達も足を運んだからである。

② 志水町の賑わいは、石清水八幡宮へ参拝する際に見せるお札がここで発行されたことでもわかるように、八幡宮への参詣客が行き交ったからである。

③ 男山団地の造成は、次の理由による。一つは、男山の一角に珪砂を発掘する工場建設の動きがあり、それに対抗する手段として団地造成の計画が起こったものである。また、橋本狩尾地区に始まった乱開発を押さえるためにも、行政主導による計画的な街づくりが求められたことによる。

④ 街並み保存という課題をクリアするためには、一個人だけの努力では限界がある。府や市の援助はもちろん、市民あげての街並み保存への声の高まりが不可欠である。

⑤ 「門前町」という事では寺院の存在も欠かす事が出来ない。八幡の寺院がそれぞれの個性を尊重しつつ連携を模索する中で、観光資源としての寺の在り方が明らかになるのではないか。

⑥ その際、わきまえなければならないのは、寺は檀家・信徒があって成り立っているということである。

⑦ 町づくりで大事なことは役割分担である。門前町である八幡の将来を考えた場合、行政はもちろん、神社や寺院の自覚的な取り組み、市民意識の向上は無くてはならない要素である。今日のような取り組みもその一つになる。

⑧ そして、今私たちは八幡らしいまちづくりをどう模索するのかということである。楠葉や美濃山周辺で大型商業施設の開発が進んでいるが、そんな方向を目指すのか。景観保存を含め、必ずしも便利さ、効率、早さを求めない、歴史と文化の息づく街づくりこそ求められるのではないのではないか。
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by y-rekitan | 2014-05-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第31号より-02 八幡の古建築

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《歴探ウォーク》
「八幡の古建築の探訪」
― 2012年10月  八幡市内にて ―


雨の中、盛会裏に「八幡の古建築の探訪」を実施

  10月28日(日)、標記の歴史探訪ウオークの日。ところがあいにくの雨模様。それでも、午前午前8時40分ごろから、昭乗広場には参加者がぞくぞくと集合。予定通り、午前9時には目的地に向かって出発しました。

f0300125_1633960.jpg まず、泥松神社へ。日頃、その前を通るだけで中に入ったことのない者には、泥松狸と庵主さんの縁起譚に心温まるものを感じました。往時には大阪や尼崎等から信者が集団で参拝したとのことです。

 続いて岸本のS家へ。町屋独特の平入りのくぐり戸、駒寄せ、連子窓、うだつ等を確認して屋内へ。土間は玄関から裏庭に続きます。夏は涼しいが冬は寒いとのこと。中二階には滑車が取り付けられ、昔はそこから柴を降ろしたとか。高窓からは自然採光がとりいれられる工夫がされています。

 次は、清水井のM家。最近リニューアルしたお宅ですが、昔の工法や様式を忠実に再現したもので、東高野街道の趣きが伝わってきます。ばったん床几を設置。近所のお年寄りが腰を掛けている姿も見られるとか。

 長屋門のあるH家を訪れました。長屋門には、門番が常駐したこともあるとのことです。新善法寺家とのゆかりのあるH家のご主人から徳川家康朱印状の写しを見せてもらいました。石清水八幡宮の社務回職に関するもので、実物は山城郷土資料館に委託されているとのことです。

神原地区にも昔の面影を残した古民家が並んでいます。白い土壁と庭の常緑樹が絶妙なコントラストを浮きだたせていました。

善法律寺に入り、普段見ることのできない諸仏を拝ませていただきました。本尊の八幡大菩薩像(僧形八幡神)には、神仏習合の姿を目の当たりに見る思いです。愛欲を力に変えるという愛染明王像とそれ(煩悩)を断ちきる不動明王像の姿には迫力がありました。そして、宝冠を頂いた阿弥陀如来立像は神々しく、千手観音菩薩像は神秘的でした。重要なことは、阿弥陀像が下院の頓宮脇にあった阿弥陀堂から、観音像は山上東谷の観音堂からもたらされたものであるということです。神仏分離の嵐に生き残ってきたのです。

雨はひっきりなしに続いていますが、城ノ内にある旧I家へ。八幡の町屋特有の三間つづきの間取り、座敷から庭の間にある濡れ縁などを確認しました。ガラス窓も古風です。

昼食後は、科手にある長宗我部盛親の隠れ家や駅前裏通りにある「引窓南邸跡碑」を見て飛行神社へ移動。

午後2時からは、小森正寛さんによる「古民家入門」のお話。NPO法人民家倶楽部代表でもある小森さんは、軽妙洒脱な語り口で皆さんを古民家の世界に誘い、古民家の魅力を実感させていただきました。

印象に残ったことを羅列すると以下のようになります。
  • 伝統構法とは、親方からうけついだ伝承工法による、日本古来の作り方であるということ。
  • 解放性が高く、間取りは建て主が考えるということ。伝統的構法は間取りの多様化に対応できる。
  • 建物を構成しているエレメントから民家建築を楽しもうという発想がユニーク。例として、虫籠窓(むしこまど)、 高窓、連子子(れんじこ)、ばったん床几、犬矢来、駒寄せ等。建具の繊細さにも注目すべきで、できれば自らスケッ チしてほしいとも。
最後に、日本の風土の中で生まれ育てられ、そこに暮らす人々の生活文化を生かす品格とあたたかみのある空間を感じさせる古民家の魅力を伝えて行きたいと述べ、今日のような取り組みが大事だと語っていただきました。

参加者は39名でした。雨の中で大変でしたが、大勢の方に参加してもらい、何より八幡の歴史と文化の魅力、そしてその奥深さを体で感じ取る一日になりました。(D)



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by y-rekitan | 2012-10-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第29号より-01 東高野街道

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わが心の風景・・・(2)
東高野街道と一の鳥居
所在地 八幡高坊


 f0300125_1732782.jpg京都と高野山を結ぶ「高野参拝道」のひとつである東高野街道は、八幡市駅辺りを起点とし、河内国と紀伊国の境「紀見峠」までの総延長約70キロメートルにも及びます。八幡市内は約5キロメートル、大阪府内にあっては約65キロメートルあり、街を縦貫するとても長い街道です。
 この街道はまた、高野山からさらに大峰山参拝にも利用されていました。
 石清水八幡宮が鎮座する男山には番号が付された鳥居が三つあり、東高野街道の起点に近い山麓にそびえるのがこの「一の鳥居」。平安期三筆の一人、藤原行成が筆を取り、寛永時代に松花堂昭乗がこの書跡を真似て製作したといいます。今日では八幡を散策する人々の待合わせの場所になっており、まさに「起点」といえる所です。
 (絵と文:小山嘉巳)

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by y-rekitan | 2012-08-28 12:00 | Comments(0)