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◆会報第81号より-01 瀧本坊乗祐

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心に引き継ぐ風景・・・⑫

瀧本坊に乗祐じょうゆうあり

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 瀧本坊昭乗こと松花堂昭乗の墓石は八幡平谷の泰勝寺にある。境内地の奥に3基並べられた中央が昭乗で「寛永十六年九月十八日(没)大阿闍梨昭乗」の碑文がある。向かって右が師の実乗で「寛永四年二月廿三日(没)大阿闍梨實乗」とあり、左が萩坊乗円(松花堂門人・書画にて高名なり)で「延宝三年四月廿六日(没)大阿闍梨乗圓」とある。実は昭乗の師である実乗の先代に乗祐という瀧本坊にとって重要なキーパーソンがいる。天正十年の本能寺の変の後、近衛前久を援助したことから五摂家筆頭の近衛家と親密になり、瀧本坊繁栄の基を築いた。
 過日、松花堂昭乗研究所研究報告会での奥山邦彦氏の報告「乗祐と実乗」によって乗祐の輪郭を理解するとともに、津田宗及や千利休とも茶人として親密な関係にあったことを知った。その後、奥山氏と泰勝寺を訪ねて乗祐の一石五輪塔の存在を再確認した。天正十九年二月廿ニ日(没)権律師乗祐とあるが、乗祐没後6日、二月廿八日に千利休が自刃している。まさに同時代を駆け抜けた人物だった。昭乗達の墓石の奥の一角に瀧本坊歴代住職や関係者と共に乗祐も祀られている。
(写真と文 谷村 勉)空白


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by y-rekitan | 2017-09-26 12:00 | Comments(0)

◆会報第67号より-03 松花堂昭乗

シリーズ「松花堂昭乗が詠んだ八幡の町」・・・⑤

松花堂昭乗が詠んだ八幡の町(その5)

 土井 三郎 (会員) 


科手 ちる紅葉(もみじ)手品で止まるよしも哉(かな)

 「科手(しなで)」から「手品」を導き、手品で散りゆく紅葉が止まるはずもないと吟じた句です。
 科手は、石清水の神領である内四郷の一つで、男山・鳩ヶ峰のほゞ北に位置し、東は常盤郷、北は淀川堤道、西は河内国楠葉村(現大阪府枚方市)で、鳩ヶ峰の西斜面をふくみます。郷内には科手町・大谷町・橋本町が属していました。(※1)
 『男山考古録』で筆者の長濱尚次(ながはまひさつぐ)は、科手に関して次のようなことを述べています。
 「科手」の「科」(しな)はアテ字で、「信」「品」でも同じことである。山などの片下(さが)りのことで、山の一方が下がっていることをいう。「手」は方や所と同じ。要するに男山の片側の斜面及びその周辺を指すとのことです。(※2)

 明治初年の木津川の改修によって科手郷の北側は相当に広い範囲が削り取られ川床(かわどこ)になってしまいました。現在の木津川の川床は木津川河床(かしょう)遺跡として知られていますが、その遺跡の中に、垂井光清(たるいこうせい)の邸跡があります。「垂井」は姓というより地名を指します。紀氏の出なので紀光清が本来の姓名でしょう。
 垂井光清は、石清水八幡宮の第25代別当(長官)です。光清は、白河院・鳥羽院とのつながりを密にし、石清水八幡宮は朝廷との関わりを深くしました。ちなみに、垂井光清の別当就任が1103年。4年後に本殿が修理され、1110年には大塔の造営が始まっています。そして、大塔の造営を担ったのが清盛の祖父、平正盛です。(※3) これらのことから石清水-平氏-朝廷の補完関係が見えてくるというものです。また、石清水と皇族との間をつなぐのが光清の二人の娘、美濃局(みののつぼね)と小侍従(こじじゅう)でした。
f0300125_18294760.jpg 光清が朝廷との関わりを深めた理由として、祠官家の紀氏による独占であるとする指摘があります。(※4)実際、それ以前は宇佐氏など他氏が別当職に就いたこともあるのに、その後、田中・善法寺・新善法寺などと家の分立は見られるものの、紀氏による独占が続いているのは周知の事実です。
 それにしても、石清水の祠官家が何故木津川に近い科手に邸を構えたのでしょうか。考えられる一つの理由に木津川の水運があります。物資の輸送、人々の往来にとって川岸の利便性はいうまでもないことです。ちなみに、「垂井」という地名について、『男山考古録』は、「按(あんずる)に、古(いにしえ)放生川下流此邊(このあたり)より淀川に落て其所に此名有けん」としています。今でこそ、科手は合流する前の木津川の沿岸ですが、当時、三川は淀で合流し、科手では合流した後の淀川に面していました。

大谷 狩人の追う谷深ししかの皮
 
 「大谷」と「追う谷」とを掛けた句で、「深(ふか)し」は「蒸(ふか)す」にも通じ、鹿の革を蒸(む)して柔らかくする(=なめす)にも通じます。八幡は、江戸将軍家にも献上された「菖蒲革(しょうぶかわ)」の生産地だったのです。
 菖蒲革とは、藍染めの白革下地に菖蒲の花や草木・駒などの紋様を白抜きで型染めしたもので、古くから鎧(よろい)兜(かぶと)の化粧板や胸板などの縁取り、弓を射る時に手を保護する手袋などの武具や馬具などに使われました。下地の白革とは、鹿の皮をなめしたものをいい、牛馬の皮より軽くて通気性があり、雨に濡れても重くならない特徴があるそうです。(※5)
 この句から、直ちに大谷で鹿狩りが行われたと結論付けることは早計ですが、八幡の菖蒲革は昭乗の念頭に十分あったことでしょう。そういえば、昭乗がこれらの句を作った元和元年(1615)をさかのぼる4年前の慶長16年(1611)に、正法寺の創建者、志水家の娘亀女が社務三家(田中家・善法寺家・新善法寺家)へ出した書状に、八幡の神領が検知免除されたことを喜ぶとともに、八幡宮山上山下惣衆より家康に菖蒲革10枚が贈られたことについて礼を述べています。その後、毎年正月に、八幡宮社士が将軍家へ年頭のあいさつに出向く際、菖蒲革を献上することが慣例化されたとのことです。(※6)

橋本 鵲(かささぎ)のはしもとふゞく身の毛哉
 
 鵲(カササギ)は、七夕説話にある織女星と牽牛星の仲立ちをする鳥です。旧暦7月7日の夜、天の川の両岸に現われる牽牛星と織女星が、カササギの翼を延べて橋とし、織女が橋を渡って相会うという中国の伝説が広く行われました。枚方市を流れる天の川にかかる府道13号線の橋の名が「かささぎ橋」であることをご存知の方も多いでしょう。
 f0300125_11431284.jpg橋本は遊郭がある地でした。したがって男女の仲を取り持つ鳥としてここに登場させたものでしょうか。但し、橋本の地名にひっかけて、くちばしの嘴(はし)のもとが寒風にふぶいていると洒落たもののようです。また、「身の毛」という語感からくるイメージとして、遊郭で散々あそんだ挙句、有り金すべてをむしり取られ、寒空の下に放り出された男の哀れな姿が想像できるというものです。
 遊女が厳しい身分制社会の犠牲者であるという認識は必要です。同時に、遊郭を否定的にばかりとらえることはないと思います。西鶴の遊郭噺に見られるように、日本の近世文学の象徴的存在でもあったのです。そういう文学の思潮の延長として谷崎の「芦刈」をとらえることができます。

鯉か池 ちる紅葉ぬれ色や猶こひか池
 
 散った落ち葉が池の水に濡れて色が濃くなったことと魚の鯉を掛けている句です。この「鯉ヶ池」について、『考古録』では「古者(いにしえは)程(ほど)ある池也」とし、「金(こがね)川橋へ其下流の注出(そそぎいで)たる由」としています。「程ある池」というのですからある程度広い池だったのでしょう。ちなみに、橋本は今でこそ住宅開発が進みましたが、かつては窪地が多く、橋本小学校の北側は15年前まで一面の水田が広がっていました。

おわりに

 以上、松花堂昭乗が八幡を詠んだ俳諧を紹介してきましたが、石清水八幡宮周辺には連歌や俳諧の文芸サロンが存在していたことがわかりました。(※7)このサロンが、元禄期、柏村直條(かしむらなおえだ)が中心になって編まれる「八幡八景」が誕生する母体になったことは明らかです。「八幡八景」は、朝廷との関わりが指摘されるものですが、その後、庶民の文芸が興ります。折句や前句付けなどゲーム的な俳諧がブームとなるのです。それら「雑排」と称される文芸サロンが存在し、例えば杉山谷不動に奉納された句集も存在しました。(※8) 「奉納八幡谷不動 京知石撰」と称するものがそれで、句の面白さもさることながら句作りに参加しているメンバーを見てみると、八幡荘内だけでなく、戸津や上津屋、伏見、藤坂などの住人が参加していることがわかります。或は、商人や庄屋クラスの農民だけでなく武士や僧侶など階層の枠を超えて俳諧に興じている姿が垣間見られるのかもしれません。豊蔵坊信海がうちこんだ狂歌をふくめ、それらの在り様を今後の私自身の研究テーマとしたいと考えています。

※1 『京都府の地名』(平凡社版)八幡市編、167頁
※2 『男山考古録』巻第12(石清水八幡宮史料叢書1)、422~423頁
※3 『石清水八幡宮調査報告書』(八幡市教育委員会編)所収「略年表」
※4 京都府立大学文化遺産叢書第4集
   『八幡地域の古文書・石造物・景観』所収
   「中世の石清水八幡宮における祠官「家」の成立」(刑部香奈)
※5 『八幡菖蒲革と石清水神人』(竹中友里代、花書院)
※6 『八幡市誌』第2巻、176~177頁
※7 本誌「八幡の歴史を探る」64号、
    拙稿「松花堂昭乗が詠んだ八幡の町」②
※8 『南山城の俳諧』(山城郷土資料館編)所収
   「庶民の俳諧-雑排の流行」、19~23頁


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by y-rekitan | 2015-10-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第66号より-05 松花堂昭乗

シリーズ「松花堂昭乗が詠んだ八幡の町」・・・④

松花堂昭乗が詠んだ八幡の町(その4)

 土井 三郎 (会員) 


田中 冬もかる鎌か田中の三日の月

 松花堂昭乗が八幡の町を句に吟じたのは、元和元年(1615)の冬です。f0300125_1313051.jpg 季節が冬なので、寒々とした光景が広がる八幡の町やその風情を描いたものが多いのですが、その中にも、筆者昭乗の機知やセンス、あふれ出る詩情が感じられ、書や画だけでなく、文芸における才能の高さを思い知ることができるというものです。
 上の句は、「田中」が地名の田中町であるとともに、「田の中」を掛け、水(氷)の張った冬の田面(たおも)に映る三日月を稲刈りの鎌としてとらえているというものです。鎌のごとき三日月はいかにもさえざえとしていて、これを実景としてとらえるならば、田中町は、今でこそ町屋の連なるところですが、昭乗の生きた時代は、周辺が田んぼであったことを示していることになります。 地名の「田中」は、石清水八幡宮の祠官である田中家の住居がその地にあったからで、田中殿(たなかでん)は、正平7年(1352)に勃発した八幡合戦の時に、賀名生(あのう)から京都を目指してやってきた後村上天皇一行が、そこを行宮(あんぐう、仮住まい)にしたことで知られています。

紺座 霜ふりのかうの座寒き夕(ゆうべ)かな

 紺座は、こんざとは読まず「こうのざ」と読むようです。平凡社版『京都府の地名』にある八幡市の地名にも「紺座町」は、「こうのざちょう」とルビが付されています。同書には、町の範囲として、「全昌寺橋より南の高橋筋までの南北五〇間の西片側街並」とありますから、現在の飛行神社の並びの町屋を指すとみられます。また、慶長5年(1600)の指出帳(さしだしちょう)によれば、当町には朱印地79石をもつ社士(しゃし)片岡宗与をはじめ本頭・脇頭神人が多く居住していたとのことです。同時に、職人・商人も多く、町名にある「紺屋」=染物業に関わる商人の存在も考えられます。「指出帳」とは、この場合、八幡に居住する者自らが土地の面積、収穫高、耕作者などの明細を、天下人である徳川家康に報告し、安堵された報告書を指します。
 ここで「霜降り」は「霜のふりかかったような、細かく白い斑点のある模様」ととらえ、「かうの座」を「高座」ととらえ、主賓や身分の高い人、または年輩者などがすわる席と解し、霜の降る高座ではさぞ寒かろうと洒落たもののようです。
 常盤木枯のもちかむせぬは常盤かなこの句も意味がとりにくいものの一つです。
「もちかむ」とは何か。「餅を噛む」? それでは意味をなしません。「も」が「もう」の意味をもつ副詞ととらえる用例が、室町時代の末期から近世初頭に見られるとのことです。そうすると、「木枯らしがもう近づいたとはいえない常磐かな」となり、この場合の常盤は「常葉」=常緑樹と解釈することが自然のようです。句の趣向としては、「木枯らしが吹く季節になっても、落葉したり枯葉が舞ったりしないよ。常葉なのだから」となります。或は、「木枯らし」を文字通り、木が枯れるととらえると、「木が枯れることがもう近いと言うことはない。ここは、常葉(ときわ、常緑樹)の地なのだから」と、単に言葉遊びを楽しむ句であると解せます。
 『京都府の地名』八幡市編は、弘安11年(1288)の史料に、常磐町口に「八幡惣門」があったと記すものがあることを紹介しています。神領である八幡の北の門が「八幡惣門」とすれば、その門=戸の際(きわ)にある町だから「戸際(ときわ)」町という解釈がなりたちます。ちなみに、「八幡惣門」の位置は、現在の木津川の向こう岸(京都市伏見区)に比定されます(『山上山下のまち、八幡』堀内明博著)。
明治初年の木津川の付替によって、八幡は木津川によって北の一部が分断されてしまったのです。
f0300125_1343375.jpg なお、石清水八幡宮が支配する神領八幡は、江戸時代初期に「八幡八郷」と呼ばれました。 石清水八幡宮の鎮座する男山の、北と東に位置する科手(しなで)・常磐(ときわ)・山路(やまじ)・金振(かなぶり)の内四郷と、その東に広がる美豆(みず)・際目(さいめ)・生津(なまづ)・川口(かわぐち)の外四郷です。

高橋 そりぬるはあら高橋の狩場哉(かな)

 これまでの句はやや難解であったかもしれません。それに対して、この句は掛詞(かけことば)さえ理解しておけばそんなに難しいことはないでしょう。「あら」という間投詞と「荒鷹」の「荒」、「鷹」と「高」、「橋」と「觜(はし)」(くちばし)が掛詞になっているのです。
 「高橋」は、現在の太鼓橋=安居橋より50mほど下流にかかっていた橋で、「反橋(そりばし)」と呼ばれることがありました。そりぬる、つまり反っているのは高橋ならぬ「荒鷹(あらたか)」の嘴(はし、くちばし)で、同時に、高橋の上なので、見晴がよく、狩場としては申し分がないと洒落ているのです。
 今は定かではありませんが、当時は、男山(鳩が峰)に鳩ならぬ鷹が生息していたのかもしれません。
右の図は、左が高橋(そりはし)、右が全昌寺橋。ちなみに放生会の際、高橋のたもと放生亭より魚が放生川に放出されていました。


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by y-rekitan | 2015-09-28 08:00 | Comments(0)

◆会報第64号より-06 松花堂昭乗

シリーズ「松花堂昭乗が詠んだ八幡の町」・・・②

松花堂昭乗が詠んだ八幡の町(その2)

 土井 三郎 (会員) 


  馬場 木々の葉や脱けて現す馬場の町
 八幡馬場は、男山の東麓に建つ善法律寺を中心として、その北側に広がる馬場グランドまで含む地域です。江戸時代までは、石清水八幡宮の祠官家の一つである善法寺家の屋敷を中心とする閑静なたたずまいを見せる門前町であったと思われます。現在、住宅開発が進められ、様相がかなり変わりつつあります。 f0300125_20301770.jpg   
 さて、上記の作品ですが、ユーモアをたたえた俳諧といえるでしょう。
 和歌や連歌では、葉は落ちるものか散るものです。抜けるとあれば物を噛む歯しか考えられません。しかも、馬場と婆(ばば)が掛詞(かけことば)となっているのは一目亮然です。私は更に、「木々」が「木樹」=「喜寿」を掛けているのではないかと考えます。(女優、樹木希林さんは、きききりんと読む)
つまり、次のように解せるのです。
  喜寿の歯や抜けて現す婆の町
 喜寿すなわち77歳のお婆さんが登場するのです。但し、昭乗のことです。婆は「ばばあ」などと乱暴に読まず、「ばば」と愛らしく読みたいものです。
 ちなみに、昨年の夏、当時ふるさと学習館におられた小森俊寛氏から、現在、宅地開発が進められている発掘現場(馬場遺跡)を案内されました。旧善法寺家の邸宅の荘厳さが思い浮かぶような区画です。印象深かったのは、男山を借景のごとく取り入れた庭の景観です。樹木がうっそうと繁る中に南方系のソテツの木を見つけました。男山に自生する樹木には見えません。善法寺家の当主が植えさせたものではないでしょうか。
 いずれにせよ、八幡馬場は、晩秋ともなれば木樹(きぎ)の枯葉の舞う土地柄であったということです。

  今田 日のうちは未だ氷らぬ汀かな
 現在の今田は、善法律寺と馬場グランドの道路をはさんで東側の地区で、和菓子商「じばんそう」から南の一角です。昭乗の生きた時代とほとんど変わらない区域と考えてよいのでしょう。
 この句は、今田という地名と「未だ」という副詞を掛けたものであるというのはすぐにわかります。問題は、ここに汀(みぎわ)の文字が使われていることです。汀とは水際に他なりません。池もしくは河川の存在が考えられます。弥生時代、男山の東裾は湿地が広がっていたという指摘があります。近年、大雨によりこの辺りは水に浸かったことも記憶に新しいところです。

  菖蒲池 名ばかりは枯れず残るや菖蒲池
 名前だけが枯れずに残っている菖蒲池の地名を詠んだ句です。その昔は菖蒲が自生する池があったのかもしれません。
 菖蒲池は、現在の市民図書館のある辺りですが、一昨年9月の大水の時、この辺り一帯が水につかりました。菖蒲池の句もその前の句の今田も、そこが低地ないしは湿地帯であったということを表しています。

  城内 神無月ほそくにかくや状の中(うち)
 私は、この句の解釈で半年間悩みました。神無月の期間、なぜ手紙を細く書かないといけないのか。あるいは、「神無月」になにか特別な意味が隠されているのか。f0300125_2039112.jpg
 「神無月」は、俗説では、全国の神々が出雲大社に集まって、諸国が「神無しになる月」といわれます。陰暦の10月のことですが、今の11月ごろを指すのでしょうか。しかし、その神無月に、なぜ手紙を書くのに、字を細く書かないといけないのか不明です。ただし、句にある「状」は書状の状で、城ノ内の「城」を掛けていることはわかります。
 謎は解明されないまま悶々とした日々を過ごしました。
 半年間悩んだ末に、「新撰犬筑波集」に行きつきました。
 「新選犬筑波集」とは、天文元年(1532)頃に、山崎宗鑑が編集した俳諧集で、卑俗でこっけいな表現を打ち出し、俳諧が連歌から独立する機運を作ったといわれます。なぜ、この俳諧集に注目したかといえば、昭乗が八幡の町を俳諧に詠んだ元和元年(1615)頃は、京都を中心に一世を風靡した貞門俳諧の隆盛には未だ時期が早く、昭乗が興じた俳諧は、山崎宗鑑の犬筑波集からの影響が強いと思ったからです。
新潮日本古典集成『竹馬狂吟集 新撰犬筑波集』から次の句をみつけて思わす膝を叩きました。
  西城(せいじょう)へ行かんとすればかみな月
 「西城」とは便所のこと。便所に行こうとしたら紙がなかった。つまり神(かみ)はペーパーのことです。従って、「神無月ほそくに書くや状の中(うち)」は、紙があまり無いので、筆で太く書くと紙が足らなくなり、だから細く書いたとの解釈に落ち着きます。しかも、「かんなつき」は「紙が無いに付き」となり、無理なく読み取ることができます。
 「新撰犬筑波集」にある「西城へ」の次の句は、
  連歌はてて
  御座敷を見れば大略神な月

です。この場合の神は髪(ヘアー)、つまり坊主頭ばかりであったという句です。
 ところで、この句の前書きが示唆的です。「連歌果てて」とあります。つまり、正統な連歌の会が終わって、砕けた俳諧で寛(くつろ)ごうという趣旨です。能に狂言がある如く、連歌に俳諧があるということでしょう。ついでに、犬筑波集に八幡を詠んだ句としてどんなものがあるのか紹介しておきましょう。
 八幡にて千句果てて (千句は連歌のこと)
  撫子(なでしこ)もかしらかたかれ岩の坊
 岩の坊は、石清水八幡宮周辺にあった四十八坊のひとつ。岩だから堅い。新潮社版の解説文の中に、「石清水八幡には坊が多く連歌の盛んな土地柄」と記しています。連歌が盛んであれば俳諧も盛んであったことが想像されます。昭乗が特に俳諧をよくしていたということではなく、誰もがやっていたということでしょう。
  鳴けや鹿鳴かずば皮をはぎの坊
 萩の坊の萩が皮をはぐということになったものですが、この句の注釈によれば、「八幡では鹿の皮を藍で染め、草花の紋を置いた菖蒲皮と言われる皮を特産した。菖蒲を「尚武」ととって縁起を担ぎ、武器に多く用いた。この句は八幡で皮を扱っていることを知っていてはじめて意味のわかる句である。」とあります。将軍家にも献上した八幡の菖蒲皮は有名な特産品でした。

ところで、「城ノ内」の名の謂れとして『男山考古録』は、「楽家(がくけ)に山井(やまのい)・城内(じょうのうち)両家在(あり)し由(よし)」と記しています。「楽家」とは、御神楽を演奏する奏者のことでしょうか。城内という名の御神楽奏者が住んでいたからその地が城ノ内と呼ばれたというのはありうる説のようです。ちなみに、馬場も、安居当役を担う頭人の名から来ているとのことです。(ルビは筆者による。以下のルビも)

  平谷 平谷の寒さとおすな丈ふせぎ
 「丈ふせぎ」がよくわかりません。竹林を「たけふ」というらしいので、その堰だから丈(たけ)ふせきと解釈できることも可能です。男山から吹き降ろす風を平谷(びょうだに)の竹林で防いでほしいという句でしょうか。
 なお、平谷の地名を『考古録』は、「御山より山路といふ辺(あたり)迄の間に、いささか打ひらけた谷ふところ成(なり)し故(ゆえ)此名ありけむ」と述べています。「ありけむ」はあるのだろうかと推量しているのであって断定ではありません。いずれにせよ、f0300125_20562137.jpg平谷は、男山から山路方面(念仏寺や正福寺を経て薬園寺に至る道)に向かう地点 (今の八幡橋周辺)で、山すそがいくぶん開けたように見える地なので平谷と呼ばれたということでしょう。なお、現在は放生川に架かる安居橋周辺に人家がありませんが、その昔は、安居橋の近くまで家が建てこみ、応永12年(1405)9月12日に焼亡しました。以来、そこに在家(人家)を建てることが室町幕府により禁じられたとのことです。現在の「さざなみ公園」はその名残かもしれません。    (つづく)

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by y-rekitan | 2015-07-28 07:00 | Comments(0)

◆会報第63号より-04 松花堂昭乗

シリーズ「松花堂昭乗が詠んだ八幡の町」・・・①

松花堂昭乗が詠んだ八幡の町(その1)

 土井 三郎 (会員) 


はじめに

 2014年3月、松花堂昭乗研究所主催の研究会に、私は、「松花堂昭乗と俳諧の世界」と題して報告した。2013年8月21日付け京都新聞に、「東高野街道(八幡)に昭乗の俳諧」と題する記事が載ったことがきっかけである。八幡を詠んだ昭乗の俳諧(発句)13句が、街道沿いの八幡の古民家などに色紙で掲示されたことを報道したものである。竹製の額に貼られた色紙は今でも街道沿いの元酒店や呉服店、和菓子商の軒下などに掲げられている。
 昭乗が八幡の町を俳諧に詠んだことを知ったのはこれが初めてではない。数年前に、東高野街道八幡まちかど博物館の城ノ内ギャラリーで、昭乗の俳諧が短冊に掲示してあり、出典を同館主宰者である高井輝雄氏に伺ったところ、昭和13年に発行された『武者の小路』第8号に載った佐藤虎雄の小論「松花堂昭乗について」であることを教えてもらった。
 そこで、同書のコピー版を松花堂美術館からお借りして佐藤虎雄の上記論文を読んだ。
 その「はしがき」に、次の一文がある。
「昭乗の諸道に身を處するや、気魄豪快洒脱、しかも幽雅淳厚の情懐に遊んで悠然たるものがあった。之實に昭乗其人の薀蓄ある學問の力と高潔なる人格の表現である。されば國史に將又美術文蓺、殊に茶道の歴史に松花堂昭乗の名は没する事が出来ない。」
 印象深いのは、昭乗の「諸道」を紹介するのに、書道や茶道、画業とともにその文芸をも称賛していることである。そこで、「昭乗の風流數寄」の章に目を移すと、昭乗が八幡の街並みを俳諧に詠んだくだりが綴られている。
 「昭乗の風流數寄の思想は彼の和歌に詠ぜられ、交友と連歌を興行せしめ、或は紀行の詩歌に表れてゐる。彼は元来宗祇(そうぎ)を尊び、其の羇旅(きりょ)の吟行(ぎんこう)を慕ったものであろう。瀧本坊には江月(こうげつ)、澤庵(たくあん)の讃をした淡彩の宗祇像の立幅がある。昭乗は元和元年(げんながんねん)初冬八幡南畝より吟行して北野に至った。此時東方朔(とうぼうさく)が詞(ことば)をとって各地の光景を次の如く俳句に吟じたのである。」(ルビは土井が付す)
 上記の文章は吟味すべきことがらがあふれているが、後半部に立ち入って検討してみたい。
 元和元年(1615)は、その年の夏、大坂の陣で豊臣氏が滅んだことで知られる。豊臣氏お抱えの絵師、狩野山楽は難を逃れ、昭乗を慕って男山に逃れた。その時、昭乗は山楽をかばい、徳川幕府から詮議されたとのエピソードが残る。それはともかく、その時、昭乗は33歳(生年1584年では35歳)である。
 「八幡南畝」は八幡の地名を指すのであろうか。だが「南畝」なる地名は八幡に見当たらない。であれば、「畝」は耕地の単位であり、うねの意から南の田畑ととらえ、「北野」は、文字通り北の野原でよいのではないか。昭乗の生きた江戸時代、木津川の付替え前であり、八幡は北部が広く、野原が広がっていたことが想像される。また、北と南、畝と野の対句的表現なのかもしれない。要するに、八幡の南から北に吟行し八幡の各地を詠んだと解してよい、と私は思う。
 その際、「東方朔が詞」をとって詠んだのである。
 「東方朔」とは何か。 東方朔(とうぼうさく)は、中国、前漢の文人で、俳諧、風刺の才にすぐれて武帝に寵愛
されたという。すると、「東方朔が詞」とは、東方朔がよくした俳諧や風刺の利いた言葉を使ってという意味である。但し、昭乗の生きた時代に「俳句」という言葉はない。佐藤虎雄は、明治期に生まれた「俳句」を使用しているが、昭乗の生きた時代を思えば、俳諧ないし発句という言葉を使うべきであろう。

一、昭乗の俳諧の出典はいずこに

 前置きが長くなったが、昭乗の俳諧を解釈するうえでさらに吟味しなければならないことがある。その一つは、そもそも、佐藤虎雄がここで紹介する、昭乗の八幡を詠んだ俳諧が何を出典としているのか不明であるということである。
 今でこそ、俳諧といえば松尾芭蕉や与謝蕪村が想起されるが、昭乗の生きた時代の俳諧は、文学性の高い芭蕉や蕪村の作品が登場するはるか前の時代であり、「言い捨て」の文芸とされ、記録されることが殆どなかったといってよい。なのに、なぜ佐藤虎雄が昭乗の俳諧を紹介することができたのか。それが不思議である。せめて、佐藤が何を出典として昭乗の句を紹介したのかを明らかにしておいてくれれば、昭乗の俳諧について、今よりもっと明らかにすることができたものと思う。そのことが悔やまれてならない。
 では、昭乗の俳諧の作品は全く残されていないのか。松花堂美術館学芸員である川畑氏をはじめ、何人かの専門家に昭乗の俳諧の存在を伺った。その結果、以下の作品に巡り会うことができた。
   かげうつる きしのやまぶき 川の底
      (佐倉笑種『続古今俳諧手鑑』、元禄13年)
 ここでいう「やまぶき」は、山吹色の黄金の譬(たと)えなのであろう。
 もう一つは、寛文12年(1672)に出版されたとされる『俳諧塵塚』なる連句集である。その中に、「和漢」と称して、小堀遠州や大徳寺沢庵、江月、淀屋言当(二代目)など男山文化圏を担うメンバーに肩を並べ松花堂昭乗の句が見える。いずれ機会を得てこの作品集の背景や作品そのものの鑑賞を試みたいものであるが、今はこれ以上立ち入らないことにする。
 三つめが『男山考古録』である。考古録に昭乗の句が何点か残されているのである。しかもその作品は佐藤虎雄が紹介する八幡を詠んだ句と同じなのである。

二、作品の鑑賞と当時の八幡の景観

 昭乗の時代の俳諧についてもっと吟味したいところであるが、ここではそれを割愛して、さっそく八幡を詠んだ昭乗の作品の一つ一つを取り上げ吟味してゆきたい。昭乗の生きた時代の八幡の景観を明らかにすることが目的であるが、その中で、昭乗の俳諧の特徴を考えてみたい。

   淸水  夏ひえし淸水に冬は夏もかな
 清水(町)は、志水とも清水井とも呼ばれた。町の中心に正法寺がある。鎌倉幕府御家人である高田忠国が、石清水八幡宮の幣礼使(へいれいし)としてこの地に来住し、源頼朝から下知をうけて建久2年(1191)に正法寺を開いたという。のち高田氏は、清水に居住する縁で「しみず」に改称し、石清水八幡宮をはばかり志水を名乗った。そんな歴史的背景のある地であるが、清水という名があるように、清水が湧き出る土地であったようである。江戸時代に制作されたもので、f0300125_2145541.png
正法寺の境内にわざわざ「清水井」なる井戸が描かれている古図を見たことがある。
 発句を解釈すると、夏冷たい清水は、冬は夏のように暖かい、ととれる。電気冷蔵庫のない時代のことを記憶している方は、西瓜やビールは井戸水で冷やしたことを覚えているだろう。地下水は夏涼しく爽やかなものであった。そんな井戸水が、冬にはそれほどの冷たさを感じさせないものであった。但し、以上の解釈に自信がない。別の解釈があるのかもしれない。

   神原  酔て人かはら走るや千鳥あし
 これは、比較的解釈しやすい。河原に千鳥はつきものである。だが、千鳥は千鳥でも千鳥足なのである。酔っ払いを登場させるのは雑作がない。だが、神原なのになぜ「かはら」(河原)なのか。しかも、この酔客は走っているのである。なぜ走らないといけないのか。この辺りの地名にその謎が隠されているようである。「神原」は、現在、交差点の名前にある。そして、その交差点の近くにあるバス停は「走上り」である。「神原」と「走上り」の地名のいわれを探ってみた。
 『男山考古録』14巻をひもとく。まず神原であるが、神原は「かみはら」とは呼ばれず、「カワラ」と呼ばれていた。すなわち、「神原と書ても今里俗常にカハラというそ、却て正しかりける」。河原とあるからには、この近くに川が流れ、河原が存在していたことになる。f0300125_21193316.png
 同じく『考古録』14巻に、「谷川」の項があり、「水源は西山腰折谷より来りて、志水町と神原町堺也、俗に馳上(ハセアガ)りといふ所に出て、東田の中を流れて前にいふ泪川の筋へ注入也」とある。ここでいう谷川は、八幡市が「ひだまりルート」と名付けたハイキングコースに沿って流れる、川幅2mほどの小川に相違ない。
 「西山腰折谷」は、昭文社「都市地図-八幡市」(1:15000)の地図で確かめると、男山リクレーションセンターの南側に当たる。そして、その谷川が流れつく、今の交差点のあたり(志水町と神原町の堺あたり)が「馳上り」と呼ばれていたのである。
想像するに、この谷川は、今ある小川のような印象の川ではなく、河原もあり、川幅もそこそこあった川なのではなかろうか。もちろん今のようにコンクリートで覆われていない。
(続く)

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by y-rekitan | 2015-06-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第62号より-02 松花堂昭乗

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《講 演 会》
知っているようで知らない
松花堂昭乗のこと

―研究の現状そして、これからの研究のために―


2015年5月  松花堂美術館の講習室にて
川畑 薫 (八幡市立松花堂庭園・美術館学芸員)


 5月31日(日)午後1時半より、松花堂美術館の講習室にて、八幡の歴史を探究する会の5月例会が開かれ、表題のタイトルで講演と交流の集いが開催されました。今回は、川畑さんに、講演のレジュメをデーターとして送っていただき、それをもとに、講演の概要をまとめてみました。参加者は49名でした。

はじめに

松花堂昭乗(1584※~1639)

 昭乗は奈良の春日または摂津の人といわれます。父母について自ら語ることはなく、謎に包まれています。幼少の頃、男山にのぼり、瀧本坊実乗のもとで得度(とくど)したと伝わります。初め鐘楼坊(しょうろうぼう)に居たようですが、後に師・実乗の遷化(せんげ:亡くなること)にともない瀧本坊の住職となります。社僧(しゃそう)としての昭乗は、真言密教の奥儀を極め、阿闍梨(あじゃり)の位に至っています。晩年、坊を後嗣(こうし)の乗淳(じょうじゅん)に譲り、自らは坊の南に二畳ばかりの庵(いおり)を建て、終(つい)の棲家(すみか)としました。昭乗はその庵を「松花堂」と名づけます。草庵「松花堂」の脇床には、自ら描いた「自画賛像(じがさんぞう)」が掛けられました。
 諸芸に通じた彼の周りには多くの人が集い、「男山文化圏」ともいうべきサロンが形成されました。昭乗の書は、後世「寛永の三筆」に数えられ、その手元に置かれた茶道具は「八幡名物」として知られます。
 昭乗は田の字に仕切った四角い箱を絵の具入れや茶席の煙草盆として好んで用いました。その逸話をもとに昭和の時代に生み出されたのが、お弁当の代名詞ともいえる「松花堂弁当」です。

生年については、昭乗と同時代を生きた佐川田昌俊(さがわたまさとし)の著した「松花堂行状」に依拠することが主流となっています。なお「中沼家譜(なかぬまかふ)」(松花堂美術館蔵)によると1582年となります。

(1)松花堂昭乗に関する研究史

 松花堂昭乗については、明治・大正期から研究が始まっています。初期は、昭乗の絵画に関するものが多いと言えます。『国華』という美術雑誌の第12号(1890年)から同第257号(1911年)に至るまで6回にわたって、松花堂筆の「花鳥図」、「二八應眞ノ図」、「商山四皓図」、「布袋梅花図」「梅竹図」などが解説されています。書について初めて言及されるのが1920年(大正7)の「松花堂流の書家」と題するもので『美術写真画報』第1巻7号に今泉雄作が論じています。内容は、書と門人についてです。ただし、昭和になっても昭乗については、絵画に関する論述が多く、松花堂筆の「山水画」、「竹雀図」、「慈鎮像」、「昭乗筆歌絵屏風」、「松花堂筆「宗祇像」などが『国華』誌上に掲載されています。
 そんな中、1929年(昭和2)に岩崎小弥太の「瀧本坊昭乗の書翰」が登場します。昭乗の書状に注目した初めての論文です。また、佐藤虎雄による人物論が「松花堂の研究」(『瓶史1935年秋号』、「松花堂昭乗」(『茶道全集』巻5、1936年)と題して発表され、1938年(昭和4)には単行本として『松花堂昭乗』が刊行されました。 f0300125_19175166.jpg
 ちなみに、1938年は昭乗の没後300年にあたり、同年に発行された『武者の小路』第3年第8号は、松花堂特集号として、茶の湯、建築、人物論に関する論文が掲載されます。同年の『茶道月報』334号も松花堂特集号として座談会が行われ、人物像、書、茶の湯など多角的に松花堂昭乗が取り上げられています。
研究史を通じて、なにがわかるのでしょうか。
 まず、どのようなことに関心が向けられてきたのかを探ることです。次に、何がどこまで明らかになっているのかを明らかにすることです。そうすることで、今後の課題が見えてくるのです。もう一つ、昭乗研究の場合、その背景として八幡での松花堂昭乗顕彰の動きがあることが重要です。以下にまとめてみました。
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(2)研究史から読み取るキーワード

松花堂昭乗をとらえるときのキーワードは以下のように整理されます。

【絵 画】
 昭乗の絵画は流派に属するものではなかったが、瀟洒な雰囲気をもつそれは、茶席などでたいへん人気があった。遺された作品についての作品論が展開されている。

【 書 】 
 松花堂昭乗は後世「寛永の三筆」と称され、寛永時代のみならず、江戸時代を代表する能書家の1人である。彼の書は、松花堂流または瀧本流と称され、江戸時代末まで継承された。彼の書をめぐっては、書作品をとりあげた作品論のほか、書流の視点からの論考がある。

【書 状】
 昭乗の自筆書状は少なからず伝存する。遺された昭乗の書状を解読し、その内容を分析することによって、書状は昭乗の伝記資料となる。また、書状に現われた筆跡は、作品を書す場合とは違った普段使いの書であり、昭乗の書風を考える重要な資料となる。

【人物像】
 包括的に昭乗の人となりについて説くもの。人物研究は、佐藤虎雄氏『松花堂昭乗』(1938年)によって大成され、後続の研究は、佐藤氏の研究に負うところが大きい。

【茶の湯】
 昭乗の住した瀧本坊には、昭乗の時代より前から茶の湯の伝統があった。昭乗は茶の湯を小堀遠州に学んだといわれる。瀧本坊には遠州と昭乗が語らい作った茶室(閑雲軒)が設けられ、度々茶会が催された。茶会には多彩な人たちが参加した。茶の湯を通して昭乗の人物像も浮き彫りにする。

【建 築】
 茶の湯に相関して、昭乗の住した瀧本坊、松花堂に対して、建築史の分野からも研究が行われている。

【門 人】
 松花堂昭乗の書を継承する門人たちは松花堂流または瀧本流の書家として論じられる。彼の直門である藤田友閑・乗因父子をはじめ、江戸時代中期に自らを中興の祖と位置付けた細合半斎のほか、昭乗の書を慕った橘千蔭などに関する論考がある。

【交 友】
 茶の湯や書などを通した昭乗の多彩な人的交流に関する視点。「寛永三年の式部卿昭乗」(矢崎格、1971年)など。この視点は、昭乗の活躍した近世初期の文化を端的に表わしている。つまり、寛永時代に代表される近世初期文化は、豊かな人的交流に支えられていた。一連の寛永文化をめぐる研究(『中世文化の基調』〈林屋辰三郎、1953年〉、『寛永文化の研究』〈熊倉功、1988年〉、『寛永文化のネットワーク―「隔蓂記」の世界―』〈岡佳子他編、1998年〉など)とも密接に関係する視点。

【文化圏】
 松花堂昭乗の住した男山には文化圏が形成されていた。「瀧本坊とその文化の源流」(橋本政宣、1971年)に代表される。昭乗を中心として、男山を拠点に行われた文化活動に関する視点。【交友】と同様、寛永文化を背景にした諸研究とも関連する視点。

【教 養】
 松花堂昭乗は石清水八幡宮の社僧であったが、僧侶は当時の知識人であった。昭乗も、仏教的な素養はもとより、学問的な幅広い知識をもっていたと考えられる。そういった知識に関すること。ひいては、昭乗はどのような書物を読み、どのように知識を形成したのか、といった視点につながる。

【出 版】
 松花堂昭乗の生きた江戸時代は、出版文化が飛躍的に発展した時代である。書流・松花堂流(瀧本流)が普及した背景にも出版による手習い手本の刊行が大きな役割を果たした。昭乗の書や絵画は、昭乗没後、出版文化の波に乗って、広く普及したのであった。

(3)今後の研究をめぐる課題

 これからの研究を進めるうえで以下の点からアプローチすることを提起します。
  ・未紹介資料や作品の発見 【絵画】【書】【書状】
  ・石清水八幡宮の社僧としての姿 【人物像】
  ・文芸や学問について【教養】
  ・松花堂弁当について【茶の湯】
  ・現代人と松花堂昭乗をつなぐ視点
  ・個別の作品論の展開
  ・真贋の問題
  ・書状の蓄積、データベース化
  ・「松花堂好み」とはなにか?
  ・松花堂顕彰の流れ 

おわりに  最近気になること

◆「松花堂昭乗自画像」について
 細合半斎の著した「男山栞」によると、もとは2幅あったという。そのうち一幅は安永4年の火災で焼失したとのこと。そして現存する一幅は「和泉坊と申松花堂隠居」にあるということで、半斎は拝見を希望したところ、「役僧福泉坊」の案内で、草庵「松花堂」の中で拝見の機会を得た。その折、「御詠歌を写し、一詩を奉」ったという。自画像の様子について、「墨画机上にとつこ(独鈷)、書物なと有、印二つ。瓢形又甕形なり」と述べている。

写しについての言及
 同じく半斎の「男山栞」に、松花堂昭乗自画像の写しについての言及がある。天明8年4月18日、男山鐘楼坊で松花堂百五十年御忌が営まれ、半斎も列席した。書院の上壇に「祖師御自画賛真影(泉坊蔵之、松花堂也)」が掛けられ、小座敷の床にも「同じく御像尊賛なし(景山写し也)」が掛けられていたことを記している。景山は狩野派の画家・小柴景山のここと思われる。この像は現在、泰勝寺に所蔵され、半斎は「賛なし」と記しているが現在は像の上方に賛が付されている。f0300125_20295950.jpg
 右に掲げた絵は、従来、松花堂の自画像とされてきたが、現在では疑問視され、釈阿(藤原俊成)像とする見方がある。

◆「寛永の三筆」の呼称について
 この呼称は明治時代以降に現れたものと考えられるが、現在では広く知られる語である。ただ、この語には多少の曖昧さがある。
 「寛永の三筆」にあげられる3人(近衛信尹、本阿弥光悦、松花堂昭乗)すべてが寛永年間(1624~1643)に活躍したわけではない。それぞれの生没年は以下の通りである。
 近衛 信尹(のぶただ) : 永禄8年(1565) ~ 慶長19年(1614)
 本阿弥光悦 : 永禄元年(1558) ~寛永14年(1637)
 松花堂昭乗 : 天正12年(1584) ~寛永16年(1639)
 この通り、三人ともに寛永期に活躍したとは必ずしも言えない。そこで、近衛信尹のかわりに信尋(のぶひろ・信尹養子)をあげる場合がある。信尋の生没年は、慶長4年(1599) ~ 慶安2年(1649)で、時期的にみて合致しそうであるが、それほどの能筆家であったかどうか。疑問の残るところである。
 こういったあいまいさの背景には何があるのか。考えてみたい課題である。
 江戸~明治時代の書物に現れる江戸時代初期を代表する三人の能書とその呼称は以下の通りである。
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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 講演の後、以下の点について質疑応答が交わされました。
論点のみ紹介します。


松花堂昭乗の出自を巡る謎とその研究
「社僧」とは何か。昭乗の暮らしは何を収入源としていたのか。
昭乗には和歌や俳諧(連歌)、発句の作品が残されている。どんな傾向に位置付ければいいのか。
昭乗は江戸時代に、どのように評価されていたのか。
昭乗の交友関係が幅広いのは、人をひきつけるものがあったのだろう。昭乗はどんな人柄だったのか。

「一口感想」 より

今日の資料にあった「男山文化圏」とは何か。その事績や現代への影響はどうなのか。その成り立ちから消失までの経緯をお話していただきたい。  恩村政雄
「学ぶ」こと(研究)をはじめる基本は、「先行研究」が大切であり、それらの諸説をもとに、次代へと積み重ねていくという、川畑先生の言葉に説得力を感じました。  畑美弘
研究の対象とするものに関しての「先行研究一覧」を初めて見たが、これを作成するだけでも、いかに細部にわたって調べておられるかが良く理解できました。今後の学びの参考にしたいです。  野間口秀國
八幡の動きと研究史の関係が関連して聴くことができ、非常に興味深く、勉強になりました。  藤田美代子
松花堂昭乗についての調査・研究の書がたくさん出ていることにはびっくりでした。たくさんの人が研究されたことは昭乗の人柄にひきつけるものがあったのだと深く感じました。きょうの話とてもよかったです。 長井一詩 

文責  土井三郎
                                      


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by y-rekitan | 2015-05-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第55号より-01 草庵茶室

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わが心の風景・・・(28)
草庵茶室 松花堂
所在地 八幡女郎花

f0300125_8393944.jpg 男山にはかつて多くの坊があり、「四十八坊」と呼ばれていました。泉坊もその一つで、寛永の三筆と称された松花堂昭乗がその主となった坊でした。昭乗晩年の寛永十四年(一六三七)、その泉坊の傍らに建てたのが草庵茶室「松花堂」です。
 その茶室も、多くの坊と同様に明治の神仏分離政策のうねりの中で男山から取り払われ、その後、それを惜しむ人たちによって八幡女郎花の東車塚古墳の上に泉坊の庭園とともに復元されました。
 松花堂は、床、袋棚、仏壇を備えた二畳の間に、土間、かまど、半畳の水屋をあしらい、天井は、土佐光武筆と伝えられる日輪と一対の鳳凰を描いた網代地で覆っています。これらを方一丈のなかに収め、茶室と住居、持仏堂を兼ねた珍しい建物です。草堂に起居し、点茶三昧に到達した昭乗の茶道精神を象徴するものと評されています。松花堂は「松花堂及びその跡」の名称で国の史跡に、「松花堂及び書院庭園」の名称で国の名勝に指定されています。     (絵と文 小山嘉巳)



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by y-rekitan | 2014-10-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第52号より-03  松花堂庭園

松花堂庭園とその魅力
―名勝指定と庭園案内に思うこと―

藤田 美代子 (会員)

 本年6月20日、「松花堂および書院庭園」が国の名勝に指定されました。石橋館長以下多くの関係者のみなさまのご努力の賜物だと思います。これを記念して、庭園の沿革を紹介し、日々来訪者を庭園ボランティアガイドとして案内しながら感じていることなどを記してみたいと思います。

1、松花堂庭園の沿革

 廃仏毀釈の影響で、石清水八幡宮が鎮座する男山の中腹にあった泉坊の草庵茶室「松花堂」は、明治7年(1874)大谷治麿氏が買取り、山麓の山路(現八幡山柴)の邸宅に移築されました。後、以下のように変遷します。
  • 明治13年(1880) 八幡山柴から八幡志水の西車塚古墳に移設。
  • 明治24年(1891) 国学者井上忠繼氏が譲りうけ、現在の地に移築。この頃、泉坊書院も移す。
  • 昭和14年(1939)までに西村芳次郎氏が内園を整備・復元する。
  • 昭和28年(1953)までに西村大成氏、同38年までに迫田氏と所有者が変遷する。
  • 昭和32年(1957) 草庵茶室「松花堂」と「男山松花堂跡」が国の史跡に指定される。
  • 昭和38年(1963) 塚本泰山氏が譲り受け、周辺の田畑を買収・造成し、そこに美術館(資料館)と三つの茶室を設け、40種類の竹・笹をはじめ銘木・銘石を配した大和風庭園を築造する。茶室は中村昌生工学博士の調査・設計・指導に基づき安井工務店が施工。竹の整備は上田弘一郎京大名誉教授、椿の整備は渡邊武博士、造園は関口鋭太郎博士(京大名誉教授)の指導による。
  • 昭和52年(1977) 八幡市が市制施行記念事業の一環として約6億5千万円で譲り受け、同年11月1日の市制施行と同時に「松花堂庭園」として一般に公開。
  • 昭和58年(1983) (公財)やわた市民文化事業団の管理委託となる。
  • 昭和59年(1984) 泉坊書院・玄関が京都府登録文化財に、草庵茶室「松花堂」が京都府指定文化財となる。
  • 昭和60年(1985) 八幡市文学碑建立事業の第一号として「吉井勇歌碑」が建立され、除幕式に孝子夫人が参列。
  • 平成4年(1992)  庭園内各所に京都の古刹・名跡に設けられている竹垣23種類を新設。
  • 平成5年(1993)  庭園西方に、京椿など茶花100種類余を植栽し、「椿園」とする。
  • 平成14年(2002)4月、「松花堂美術館」竣工、開館。
     同年10月 「松花堂美術館」グランドオープン。
 (庭園案内資料「松花堂庭園の沿革」より)

2、来園者を案内しながら思うこと

 庭園は、大きく分けて外園、内園、椿園に分けられると思います。来園者には、以下のように案内しています。
(1)外園では
 外園では、竹と四季折々に咲く花々を味わっていただきながら歩き、趣きを異にする三つのお茶室の特徴をお話します。 f0300125_11154649.jpg                    
 蹲踞(つくばい)に設置された水琴窟(すいきんくつ)や織部灯籠に侘び寂びを強調した宗旦好みの梅隠をご案内し、瀧本坊の一角にあった閑雲軒を再現した松隠では、松花堂昭乗と小堀遠州の関係や男山中腹にあった頃の掛け造りや空中茶室のご説明をします。竹隠では、ウイークデーにご案内の場合、次回は是非とも日曜茶席でご一服いただくようお勧めします。現代の数寄屋大工の工夫と技術を凝らした茶室内部をご覧いただきながら、お抹茶をと。
 別館では、納涼寄席や能面展など様々な催し物が開かれ、椿展では、切り花が数えきれないくらいに展示されていることをお話します。そして、当初の表門であった高坊をご説明し、おみなえし塚で、平安時代初期の悲恋物語を語ります。

(2)内園では
 内園に入りますと、何といっても草庵茶室松花堂を中心に、昭乗さんについて語ります。
瀧本坊の住職の座を譲った後、たった二畳のこの小さな庵に移り隠棲。その2年後にこの世を去りますが、ご案内しながら私自身、その頃に訪れた文人・墨客とどの様なことを語り合ったのだろうかといつも思います。   
 昭乗さんの書と伝わる三つの木額と、この小さな庵の中に仏壇と床の間と袋戸棚があり、土間にはおくどさんまであります。小さな庵とは対照的に、大地を這う様な広がりを感じる太子の手水鉢。f0300125_11214680.jpg10回忌に建てられた、やわらかみのある八幡形灯籠と、庵を見守るようにふっくらと咲く昭乗椿は、まさに昭乗さんそのものの様に私には思えるのです。私の大好きな空間であり、ご来園者には是非味わっていただきたい空間です。男山中腹にあった時も、この様な佇まいの中で書画を描き詩歌を作り風流を談じたのでしょうか。
書院・客殿をご説明し、前庭を通り、雪月花、崑崙黒椿、肥前薄雲、酔羽衣を見ながら東車塚古墳へと、美しい松や草屋形灯籠をご案内してゆきます。

(3)椿園では
 椿園では、その季節でない時も、竹の種類がいろいろあり、時間が許す限り竹についてご説明します。
 椿の季節、園内は華やかに一変します。これ以上の艶やかさはあるのかしらと思える岩根絞や、まさに茶花にと思える、f0300125_11263352.jpgシンプルな高台寺椿、聖、宗旦、素白など。一面が明るくなる都鳥、枝垂れ桜ならぬ枝垂れ椿の孔雀椿などなど枚挙にいとまがありません。椿の無い季節に初めて来られた方は、必ずもう一度来たいと出口でおっしゃいます。
 最近のご案内で、書院前庭を歩きながら、生きている時に両親をつれて来たかったとおっしゃる方がいらっしゃいました。どういう所でそのようにお感じになったのか、次の案内の時間が迫っておりましたため聞きそびれてしまいましたが・・・。
 また、別の方で、ホテルに戻られ、窓の外を眺めながら、草庵茶室のことを思い出しております。京都の名所が一つ増えましたなどとメールをいただきますと、これからも、庭園を訪れる多くの方々にとって「心に残るような庭園」であってほしいと思いますし、「八幡が誇れる名園」としてあり続けていってほしいと思うのです。

                     
3、私にとっての松花堂庭園

f0300125_11333913.jpg ご来園者は、それぞれにご興味の有り様が違います。草花であり、写真であり、茶室の佇まいであり、歴史でありと。それらのことがらを味わいながら、移ろいゆく季節とともに静かにゆっくり歩いていただけたらと思います。
 椿の時期は、多くの方がいらっしゃいます。枝垂れ桜が美しい頃、いやつつじの頃、いや紅葉だといろいろおしゃいますが、私は年間を通じ青葉の頃が最も好きです。大山蓮華が咲き、夏に向かう頃の園内に入りますと、自分が緑に染まってしまいそうなくらいの緑のグラデーションが美しい頃です。
 f0300125_113654.jpgまた、今迄で印象に残っている光景として、雪の降ったある朝のことを思い出します。
当番になっていましたが、歩くのも危ないそんな雪の日に来園者はいらっしゃいません。控室からカメラを持って雪の中に足跡を残し椿園に向かいました。渡邊先生遺愛の椿に、こんもりと雪が載っており、雪の重さに耐えるように懸命に雪の中で色づいているのです。人生の縮図を見る様で、何ともけなげで、思わずシャッターを切ったことを覚えています。
 これからも、この庭園を愛して下さるご来園者の皆さまの邪魔にならず、ていねいにご案内してゆけたらと思っています。
by y-rekitan | 2014-07-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第47号より-01 泰勝寺

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わが心の風景・・・(20)
昭乗の墓所 泰勝寺
所在地 八幡城之内


 f0300125_20391183.jpg『八幡町誌』によると、明治維新時の神仏分離令によって廃寺となった男山中腹の滝本坊を、山下の平谷にあった瀧本里坊の地に復興改称した寺と紹介しています。
 瀧本坊は、寛永14年まで松花堂昭乗がいた坊で、昭乗はその2年後の9月18日に没し、同月21日に瀧本里坊の位牌堂傍に葬られました。大正2年に至って昭乗の墓石が民家から見つかったといいますから、墓所は相当荒廃していたことが伺えます。
 この昭乗の墓石発見の報を聞いた松方正義公爵によって遺蹟碑が建てられ、これが話題となり、大正3年に昭乗の遺風を顕彰する「松花堂会」が結成されました。同5年、昭乗翁の墓所及び菩提寺として起工。5年の歳月をかけ大正9年4月、落慶法要が営まれました。
 寺は、臨済宗、円福寺末寺の「滝本坊」と称し、寺号の「泰勝寺」は熊本の細川家菩提寺・泰勝寺の名をもらったといわれています。
 墓は、五輪卒塔婆の形をし、昭乗を中央に、右に師の實乗、左に弟子乗圓の墓の三基が石の台の上にあります。(絵と文:小山嘉巳)


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by y-rekitan | 2014-02-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第47号より-02 松花堂茶会記

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《講 演 会》
松花堂昭乗の茶の湯
― 『松花堂茶会記』記載の茶道具を中心に ―

2014年2月  松花堂美術館講習室にて
松花堂庭園・美術館  杉 志努布



 2月19日(水)、歴探の会、2月例会が開かれました。厳しい寒さにも関わらず、59名の皆様が集まりました。ことに、八幡市内で茶の湯に親しんでおられる方々が多数お出で下さいました。紙上を借りてお礼申しあげます。
 例によって、レジュメをもとに講演の概要を紹介します。

1、はじめに

 松花堂昭乗(1584~1639)は、若くして男山に入り、瀧本坊実乗について真言密教を学んだ。1627年に瀧本坊の住職になり、10年後には泉坊に移り草庵「松花堂」を建てて隠棲。約2年後、56歳で没した。書・画・茶の湯など諸芸に優れ、寛永文化を代表する人物として知られる。
 昭乗の茶の湯に関して注目されてきた点は、以下の通りである。
昭乗の茶会の参会者には、石清水八幡宮関係者、僧侶、公家、武家、町人らが混在していたこと。
瀧本坊茶室「閑雲軒」、草庵「松花堂」。
 後に「八幡名物」と呼ばれた茶道具を所持したこと。
 その「八幡名物」であるが、以下のような変遷を辿る。
安永2年(1773)…瀧本坊の火災により一部が焼失および流出。その後も復興のために一部を放出。
 化政期~天保期(1804~44)…瀧本坊より流出。
天明5年(1785)頃…姫路城主酒井宗雅が「八幡名物」の散財を惜しみ、その収集に着手。
天明8年(1788)…宗雅が蒐集した24点を瀧本坊に寄贈。
慶応期(1865~68)以降…「八幡名物」の評価が定まり、その名称が普及。
大正3年(1914)…昭乗の遺風を顕彰する会である「松花堂会」が政財界で活躍する茶人などにより結成される。
大正11年~昭和10年代(1922~1935)…瀧本坊の閑雲軒が復興。「八幡名物」を用いた茶会が定期的に開かれた。

2、江戸初期の茶の湯

(1)それまでの茶の湯の歴史
  • 9~10世紀;国風文化の隆盛。この頃に書かれた和歌色紙が後に茶席の掛物に採用される。
  • 11~12世紀;武士の台頭。唐物の大量輸入。栄西(1141~1215)が帰朝。宋より禅と抹茶法を伝える。
  • 13世紀;禅宗文化の盛行。喫茶が普及。禅僧の墨跡が後に茶席の掛物となる。『新古今』の編纂。
  • 14世紀;中国との交易が隆盛。唐物陶磁器の大量輸入。茶寄合、香や連歌会の流行。
  • 15世紀;唐物を用いた会所飾りと喫茶。東山文化の形成。書院造の発生。「東山御物」(足利義政のもとに蓄積された膨大な唐物美術・工芸品が名物茶道具として伝えられる。堺で大徳寺派が布教。茶の湯の隆盛。村田珠光(1423~1502)が精神性を重視する茶の湯を創り出す。堺や博多の商人の台頭により唐物以外に嶋物(南蛮物)が輸入。
  • 16世紀;武野紹鴎(1502~55)による和風化。織田信長(1534~82)による名物茶道具の収集と下賜(茶道具と茶の湯が政治と密着、武家儀礼化)。秀吉による茶の湯政策(禁中茶会・北野大茶会)。千利休(1522~91)が禅の精神を根底におく「わび茶」を提唱。名物道具とは無縁な楽茶碗や竹筒花入を創案。文禄・慶長の役により、朝鮮半島からの陶工による新たな焼き物の焼成。
  • 17世紀:朱印船貿易。南蛮・嶋物などの陶磁器類のほか香木・象牙・砂張製品・釣舟花入・盆などが輸入。当世風のやきものの出現(織部焼等)
(2)江戸初期の茶の湯
 利休の茶が解体され、近世的な茶の湯のスタイルが草創された。
  • 武家の茶として、小堀遠州(1579~1647)が大名茶を草創した。
  • 禁中・公家の茶として、様々な茶風が混在した。後水尾院(1584~1680)と金森宗和(1584~1656)の存在が大きい。
  • わび茶(千家の茶)が、千宗旦(1578~1658)によって再建され進化した。

3、『松花堂茶会記』

(1)「茶会記」とは何か
 「茶会記」とは、茶の湯の会について、日付、場所、亭主(席主)名、客名、使用した茶道具、その際出された料理などを一定の順序に従って書き留めた記録である。16世紀の初め頃に、茶の湯が確立される中で記録されるようになった。茶会記の筆者には茶匠、町人、武家、公家、僧侶がいるが、僧侶の例は少ない。
 茶会記の形態として冊子・巻子・掛軸があるが、冊子の形が多い。現存する自筆本は少なく、原本を転写した筆者本、複数の転写を経たものが多い。
(2)『松花堂茶会記』の概要
 松花堂昭乗による自筆自会記として計30の会の記録が残されている。現在、裏千家今日庵文庫本と松花堂美術館本の2本に分かれて伝わっている。
 記載内容は以下の通り。
 日付は、寛永8年(1630)閏10月12日から同10年(1632)7月29日迄で、場所としては、瀧本坊(数寄屋、書院)と鐘楼坊である。
 客名は約110名(延べ145名)で、石清水八幡宮関係者をはじめ公家・武家・職人などである。
 使用した茶道具は約100点あり、点前道具の他書院を飾る道具類も含まれている。

4、『松花堂茶会記』記載の茶道具

(1)これまでに指摘されている主な特徴
 全般的には、ほとんどが「八幡名物」として確認できるもので、掛物や香合などは比較的古く、新墨跡は使用せず、他の点前道具などは新しい。
 書院の様子は古典趣味に基づく雰囲気が漂う。
 掛物は古筆が圧倒的に多い。書跡は、『手本』として蒐集されたものも使われている。
 茶碗は天目や高麗茶碗が主体で、和物が見られない。

(2)『松花堂茶会記』に記載される茶道具
     ―花入、点前道具を中心に

花入(7点) 
 < >内は『松花堂茶会記』記載の名称。以下同じ。
 青磁蕪無花入<かふらなし>、青磁経筒花入<経筒>、唐銅六角花入<からかね、かね>、釣舟花入<釣 舟、つりふね>、備前伊部手花入<新備前> 信楽筒木幡花入<木口かけ> 竹一重切花入 銘羅漢 <羅漢、ラカン>

香合(13点、うち1点名称なし)
 碁盤形蒔絵香合<ごばん、ゴバン、碁盤>、張成作 堆朱香合<張成>、彫漆香合<ほり物>、青貝香合 <青貝>、松に千鳥蒔絵香合<松山>、染付竹香合
 <竹>、竹キリコ蒔絵香合<竹キリコ>、六角染付香合<六角染付、六角ソメ付>、染付香合<染付>、八角 瓢箪香合<八角ヘウタン>、六角瓢箪香合<六角ヘウタン>、焼物八角香合<やき物八角>

釜(3点)
 姥口釜<うは口>、霰地馬文釜<馬あられ、馬>、南蛮頭巾釜<南蛮頭巾>

水指(8点、うち1点名称なし)
 藤四郎作 瀬戸四角水指<四角、四角せと>、伊部半月水指<新備前、備前>、古備前水指<古びぜ ん、古備前>、染付水指<ソメツケ>、立鼓形水指<リウゴ>、筒太鼓水指<つゝ太鼓>、八代水指<八代>
 他に、茶入[盆]、茶杓、茶碗、蓋置、建水、炭道具などを画像とともに紹介(略)。

5、おわりに

  『松花堂茶会記』記載の茶道具から窺える昭乗の茶の湯に対する姿勢として、次の点が指摘できる。f0300125_825651.jpg
 一つには、多種に亘る陶磁器類の使用である。また、新興の和物陶磁器のかなり早い使用例が見られる点である。但し、好み物らしいものは見られない。そして、由緒ある名物道具の使用が多いという点である。
 以上の点から、豊富な茶道具を取り込み使いこなす優れた感性が感じられ、一方で、新興のものをとりいれる柔軟性と、茶道具に対する節度ある姿勢がうかがえる。
 今後の課題として、これからも、より多くの昭乗ゆかりの伝世品の探索、実見を行い、近世の茶道具流通における男山の位置について調査を進めたい。その際、石清水八幡宮出土の資料も参照したい。
 また、社会的背景や交友関係も含めた総合的な考察を深めることが肝要である。(文責=土井)

 1時間半以上に及ぶ講演の後、10分間の休憩をはさみ会場から以下の点にわたる質問や感想が寄せられました。
  1. 「八幡名物」は、明治になっていつのころからもてはやされるようになったのか。そして、そのきっかけは何か。
  2. 「八幡名物」が瀧本坊から流出される経緯
  3. 茶会記に出て来る卜意なる僧について。そのことが幻の花とされる「八幡椿」の解明に関わっている。
  4. 松花堂美術館・庭園として「八幡名物」や名のある茶室が点在する庭園を市民内外にさらに積極的に広めていってほしい。
  5. 茶会記に見られる優れた茶道具を所持できた瀧本坊や昭乗の存在を文化史的な視点だけでなく、寛政期の公家と武家の関係など政治的な面からも検討できるのではないか。
以下、一口感想を紹介します。
一口感想

◎「男山に住んで7年になります。初めて参加させていただきました。よく学んでおられる方々の中にいておくれを感じました。恥を承知で赤子のように何でも吸収したいなあと思いました。
全ての内容が新鮮でした。感謝します。(N)

◎長年、昭乗の茶道具を研究する人を望んでいました。よかったです。見たいと思っていた茶道具をみせていただきありがとうございました。(U)

◎松花堂美術館で八幡名物の茶道具を展示する企画はどうですか。貴重な物が多くて借り代が高額になって不可能ですか。一度に全体は無理でも何回に分ければ可能ではないか。(I)

◎詳細な説明でしたが、写真をゆっくり見て説明を聞きたかった。茶道具の歴史に興味が湧きました。有難うございました。(T)

◎茶道の世界の奥深さがうかがえる講演内容 であり、「茶会記」に記されたことがらから、時代背景や交友関係まで多くのことがわかることに改めて新しい驚きを感じた。(N)

◎茶会記の道具を推定され、伝世品を示して紹介され、非常にわかりやすかったです。実際にこれらを使用して茶会ができたらよろしいですね。さらに、伝世品の探索、実見ができるよう美術館で予算をつけ、昭乗さんゆかりの道具がコレクションできれば最高ですね。(N)

◎松花堂茶会記に記載される茶道具のご説明は茶道具を中心とした美術工芸品をご研究のテーマとされているだけあって、大変詳細で、丁寧で、見応え、聴き応えがありました。ただ、後半部分は時間が切迫し、ご
説明が端折られ、茶杓・茶碗・香炉や硯についてもう少し詳しくお聴きしたかったです。昭乗ゆかりの伝世品についての第二弾のご講演を期待します。(F)


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by y-rekitan | 2014-02-28 11:00 | Comments(0)