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◆会報第80号より-06 踏切道

消えた踏切道を思う

野間口 秀國 (会員)


 朝夕の散歩道を歩いている時や、いつもの道で車を運転している時に、「あれ??」と思った経験をお持ちの方は少なからずおられるのではないでしょうか。「いつもと何か違うな」そう思って改めて確認すると、つい最近まであったお店や建物や道が無くなったり、新しくなっていたりと、その変化に気づくことがあります。いつもお世話になっている京阪電車の橋本駅近く、淀屋橋方面に3つあった踏切道のうち最も淀屋橋側の1つがこの3月末に消えてしまいましたのでそのことを記しておきたいと思います。

 拙稿「大谷川散策余話⑫」(会報「八幡の歴史を探る 第49号」2014年4月28日刊)にて、“平成26年(2014)4月10日時点で橋本樋門と小金川樋門近辺で京阪電車の線路と大谷川を一跨ぎする新しい道路橋工事の真只中である”と書き、引き続き翌月の「同第50号」にて“樋門の隣で眠る洪水の足跡”の写真も掲載させていただきました。それから3年を経過して周辺の様子はかなり変わって、同じ場所に立っても当時の様子を正確には思い起こせないほどです。今でも周辺工事は続いておりこの秋ごろまでかかるようですが、前述の「線路と川を一跨ぎする新しい橋」は既に完成して供用され、踏切道もその役目を終えて消えてしまったのです。
f0300125_20552893.jpg 歴史上の出来事などを語る時に「文字や図面などで記されたモノ(文書や地図など)」が最重要視されることは多くの方々に知られておりますが、今年6月の京都新聞の報道だけでも、国内関連では「龍馬最長の手紙あった」(16日・夕刊)、「戊辰の目安箱訴状」(9日、16日)、「東寺百合秘話」(23日)など、また国外関連では「世界最古のシリア古文書・オーロラ観察記」(16日)など枚挙にいとまがありません。
 このように新聞等の報道で取り上げられる事柄と同列に論じられないとは思いますが、橋本の町中に今でも残る「橋本の渡し場道標碑」のある場所の道を挟んだおうちの壁には、かつての町の賑わいを描くかのごとく、お店などが描かれた地図を確認できます。歳月を経て読みづらくなった文字を追うと、先に書きました橋の工事が始まってからこれまでにも、お風呂屋さんが、お医者さんが、そして理髪店さんが店を閉じられました。三店のいずれも地図にはその名は残されたままですが、いずれは町の歴史を物語るこの地図さえも消えてしまうのだろうと思うと複雑な気持ちにはなります。

 ところで、役目を終えた踏切道のことについてもう少し書いてみたいと思います。ご存知のように京阪電車は明治43(1910)年4月に天満橋・京都五条間が開通いたしましたので、既に100年以上を経過しています。開通後42年目の昭和27(1952)年3月にこの「小金川踏切道」は新設されていますので、鉄道を横切る道路がこの年に開通したのであろうことも分ります。幾多の列車を初め、歩行者や自動車などの通行の無事を見届けた「小金川踏切道」は、この平成29(2017)年3月末に65年間(ちなみに筆者はこの7月で68歳ですが・・)の役目を終えて閉鎖されました。「小金川踏切道」の役目は新しく完成した、線路上を横切る橋「橋本高架橋(はしもとこうかきょう)」に引き継がれています。またこの高架橋は線路にほぼ並行して流れる大谷川をも跨いでおり、川を跨ぐ部分は「橋本大谷川橋(はしもとおおたにがわばし)」と名付けられ、男山方面から塩釜を経由して走る多くの自動車などを淀川左岸の道路へと導いています。

 工事が始まってからおよそ3年の後に、京都・大阪府境の橋本のはずれで、役目を終えて閉鎖された踏切道のことはおそらく文章で残されて多くの人の目に触れることはないでしょう。だからこそ、せめて歴探の会報にはこの小さなできごとを書き留めておく意味はあるのではないでしょうか。掲載しました写真を撮っていると、踏切道の閉鎖を知らずに来た1台の車がその場でターンして新しい橋へ向かうのにも気づきました。 最後に「小金川踏切道」の歴史についてご教示いただきました京阪電鉄のご担当者の方には紙面より感謝申し上げます。
(2017.6.30)--
                             
by y-rekitan | 2017-07-24 07:00 | Comments(0)

◆会報第79号より-02 三川合流

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《講演会》
三川合流の変遷と周辺都市

2017年4月 
さくらであい館(イベント広場)にて
福島 克彦(城郭懇話会会員)

 
 4月23日(日)午後1時半より、淀川三川合流域“さくらであい館イベント広場(淀)”を会場に、年次総会と例会を開催しました。新しくオープンした”さくらであい館”の会場には、多数の方々にお越しいただきました。総会の後、同じ会場で「淀川・三川合流の歴史とその周辺」の講演が行われました。なお講演の概要は、講師の福島克彦氏がご多忙中にも拘わらず新たに本会会報掲載用に首記のタイトルで新たに執筆していただきました。会報編集者として厚く御礼を申し上げます。 当日の参加者58名でした。

はじめに

 馬車が発達しなかった日本の歴史にとって、舟運は物流の歴史を語る上で不可欠な要素である。年貢、物資の運搬には、大小多様な船舶が使われ、生産地と消費地を結びつけていた。特に、淀川は、古代、中世最大の消費都市であった京都と西日本を結びつける重要な物流の幹線となっていた。16世紀以降は、大坂が発達し、その地で集積された物資が運搬され、京都へと届けられた。山崎や淀は、そうした物資を京都へ運ぶ際、中継地点となった都市であった。したがって、三川合流周辺の都市である、山崎、淀、八幡は京都の発展を常に支えていた存在であった。こうした中継地点は17世紀には河川沿岸の渡し場や問屋として展開し、淀川舟運と地域社会を結びつける重要な結節点となっていた。
 しかし、一方で淀川は洪水など、自然災害の元凶にも変わっていく。そのため、この地域の堤防普請や治水対策とも常に大きく関わっていた。ここでは、三川合流周辺の都市の歴史と、治水と河川の付け替えについて取り上げてみたい。

1 三川合流の様相

 淀川の三川合流といえば、桂川、宇治川、木津川の三つの河川の合流を指す。現在、三つの河川は山崎地峡で背割堤を挟んで並走している。左岸は八幡市・枚方市、右岸は大山崎町、島本町が接しており、今も雄大な景観となっている。f0300125_2047308.jpgしかし、これらは自然によって形成された景観ではなく、あくまでも近代以降において人工的に築かれたものであった。では、近代以前の景観はどのような雰囲気であったのだろうか。近世絵図や絵画が描くように、幕末までの三川は淀の町で合流していた。そして、山崎地峡部分は、合流した後の一本の大河が流れる景観となっていた。つまり、幕末まで淀川沿岸を見る場合、現在の地形で判断するのではなく、かつての景観を遡及的に考察して検討する必要がある。
 淀の上流は、16世紀中葉まで、宇治川が直接巨椋池に流れ込んでいた。この池の水がオーバーフローして、淀、そして下流の淀川へと流れていた。後述するように、豊臣秀吉の伏見城下町建設に際して、宇治川が巨椋池と分離することになった。
 以下、合流地点の都市について概観しておきたい。

2 周辺都市の展開

(1)山崎・大山崎

 神亀2年(725)、行基による山崎橋架橋があり、橋のたもとには集落が形成されていたものと推定される。以後、8世紀後半の長岡京、平安京の時代にかけて、山崎橋、山陽道、関所に加え、山崎津、山崎駅、国府、官営瓦窯などが設置されていく。平安中期になると、橋が消滅し、津は史料上登場しなくなる。一方で中世前期からは地縁的共同体たる「保」が街道沿いに配置され、街村状の都市へと生まれ変わった。保には八幡宮の神人が住んでおり、彼らは灯明油を八幡宮へ奉納していた。これを契機に荏胡麻油の製造が認められ、特権商人として君臨するようになる。原料たる荏胡麻も莫大な量が西日本各地から船舶によって運搬された。淀川交通は、こうした原料荏胡麻を運搬する重要なルートとなった。以後、大山崎は荏胡麻油の代名詞となり、中世商業に名を残すことになった。ただし、14世紀には新しい塩商売に手を出そうとしたが、既得権を持っていた淀の抵抗によって、その権限は結果的に返上している。これによって、大山崎は多角的な産業への発展への道が途絶えてしまう。以後、産業の多角化への転換は、うまくいかなかったようである。
 一方、都市の自治権は、朝廷や武家との交渉のなかで、着実に獲得していった。戦国期からは大山崎惣中という自治組織が形成され、近世期にも神人が社家へと転換して「守護不入」権を維持していた。

(2)淀
 古代の淀は「与等津」(延暦23年 804『日本後紀』)という港として登場してくる。永承3年(1048)には 山崎・淀の刀祢、散所が屋形船11艘を建造しており(『宇治関白高野山御参詣記』)、やはり船舶との関わりが見える。中世は、材木の備蓄、塩・塩合物を取り扱う「魚市庭」、 兵庫津と結びつく「淀十一艘」などが見られた。こうした点からわかるように、中世期淀は京都の外港的な役割を果たしていた。f0300125_20501948.jpg
 一方、永徳3年(1383)8月、大山崎が新市開設によって塩商売を進めようとするが、これは淀の強い抗議によって白紙にさせている。つまり、この当時から塩や塩合物に関する既得権を守る立場になっていた。「淀ハ皆以八幡領也、千間(軒)在所也云々、近来減少」(『大乗院寺社雑事記』延徳2年)と記されるごとく、八幡宮領であった。千軒の家があり「淀六郷」と呼ばれる六つの集落が形成された。これらは、桂川、宇治川沿岸の集落であり、やはり港と船舶で、外とつながっていた。
 一方、京都とは陸上交通でつながっており、淀の中心である島之内には納所から淀小橋が架けられ、京都との間を運送業者が中継していた。こうしたルートは、秀吉の時代に太閤堤が成立して、その堤防上に造られた。17世紀に淀城下町が成立すると、この街道は東側に張り出すように移転されていく。

(3)八幡
 石清水八幡宮膝下の都市である。貞観2年(860)、行教が八幡神を勧請した後、石清水八幡宮が成立していく。以後、その周囲に院坊、集落が形成され、発展を遂げていく。中世都市の空間構造としては、山上・山下、宿院、内四郷、外四郷と区分される。内四郷と呼ばれる山麓の町場は東高野街道(常盤大路、志水大道)が南北に走り、やはり街村状になっていた。
 石清水八幡宮寺の組織としては祀官中、山上衆、神官神人中、四郷中などがあり、祠官家(田中・善法寺など)が力を保持していた。
 八幡は直接は河川と接していなかったが、独自の外港橋本を通して舟運が西日本とつながっていた。延文5年(1360)大山崎神人井尻助吉が「橋本津」で八幡宮領播磨国松原荘の年貢を陸揚げしており(『井尻文書』)、対岸の大山崎とも強く関係していた。預物慣行、土倉の存在、徳政免除などの特徴があり、多くの金融業が発展していた。近世期も「守護不入」を存続していたことが知られている。
 このように、三川合流周辺には、大山崎、淀、八幡と、石清水八幡宮と関わりを持つ都市が成立していた。これらは河川交通ともつながる一方で、街村状の町場が続き、陸上交通とも深い関わりを持っていた。特に京都と陸上交通でつながり、運送業者とも関わっていた点は強調されてよい。また、淀川沿岸ともつながっており、古い時代から瀬戸内海の舟運を媒介にして、物資運送のルートとなっていた。

3 三川合流工事の要因

 16世紀後半より、豊臣秀吉の京都改造が進められ、宇治川と巨椋池の分離、それに伴う伏見城下町の建設、太閤堤の普請などが敢行された。この秀吉の改造は、近世期の交通体系と治水方針をほぼ決定づけている。特に堤防と街道が軌を一にしている姿勢は注目される。以後も京都開発は進められたため、流域における大量の樹木伐採も行なわれた。そのため、森林の保水能力が低下し、土砂が河川に流出して、山崎地峡の手前で土砂が川底に堆積した。これによって洪水が起こりやすくなり、江戸時代以降は、山崎地峡周辺はたびたび水害に見舞われた。三川合流地点における逆流現象もたびたび起こったため、地域としては合流地点の変更を求めるようになった。すなわち、洪水対策のため、合流地点を少しでも下流へ求めようと、寛永14年(1637)の木津川付け替え工事、さらに18世紀以降の小泉川、水無瀬川、放生川の付け替えが実施された。なかには、木津川を河内や大和へ付け替えようとする計画も見られたが、近世期段階では実行に移せなかった。

4 淀川改良工事

 明治元年(1868)5月に淀川の大洪水があり、同年12月~3年(1870)正月にようやく木津川付け替え工事が敢行された。これに伴い、周辺も近代における小泉川の付け替えなども行なわれた。以後、土砂堆積の問題を克服するため、オランダ人ヨハネス・デレーケなどの調査、計画による、淀川改良工事が進められ、砂防ダムの設置、水制による低水路の維持が図られた。当時水制には粗朶沈床も設置され、水の浄化作用に意識されていた。明治29~43年頃(1896~1910)の淀川改良工事では、桂川、宇治川の付け替え工事が進められた。このうち、桂川の付け替えでは、大山崎の淀川沿岸部の敷地を喪失した。そのため、当時の大山崎村長松田孝秀は「凡ソ大利ヲ起サントスレハ、小害ノ之ニ伴フハ数ノ免レサル所ニ付、府下公益ノ為メニ犠牲トナルハ甘ンスル所ニ候得共、之ヲ以テ大ニ利益ヲ享クルモノトシ、不均一ノ賦課セラルゝニ至リテハ黙止難致」と京都府に意見を述べている(『役場旧蔵文書』「上司進達綴」明治29年7月)。後に淀川改良増補工事(大正7~昭和5年 1918~1930)によって背割堤が拡張し、現在の景観に至っている。
 当時の村長の言葉のなかに、大山崎村が「府下公益ノ為メニ犠牲トナルハ甘ンスル所ニ候得共」と言っている点は、私たちは噛み締めたいと思う。

おわりに

 平成29年(2017)3月、三川合流の地にさくらであい館が完成した。今後、三川合流地点を考える重要な発信基地になると思われる。それは前述してきたような、周辺にある都市のあり方などを比較検討することを通して、各々の町の特徴を追究することができる。さらに淀川・三川合流を媒介とした自治体・地域の交流もさまざまな形で実施することができると考える。それは、言うまでもなく、淀川の歴史を考えることでもある。現代のように、大型河川を境界と考えるのではなく、物資を運ぶ舟運ルート、あるいは対岸を結ぶ渡し舟などの存在から、むしろ対岸は近い存在だったということを改めて認識すべきだろう。
 その意味でも八幡の歴史を探究する会の役割も大きいと思われる。皆さんの活動に期待したいと思う。

[参考文献]
西川幸治編『淀の歴史と文化』淀観光協会 1994
大山崎町歴史資料館『はるかなる淀川』2000
大山崎町歴史資料館『淀川と水辺の風景』2012
藤本史子「中世八幡境内町の空間復原と都市構造」『年報 都市史研究』7 1999
鍛代敏雄『戦国期の石清水と本願寺』法蔵館2008
福島克彦「近世前期における西国街道と淀川問屋」『山城国大山崎荘の総合的研究』2005
福島克彦「中世大山崎の都市空間と『保』」仁木宏編『日本古代・中世都市論』2016
 

『一口感想』より
三川合流の歴史や推移が、わかりやすく説明されていましたので、よく理解がすすみました。資料もよくまとまっており、大変よかったと思います。(O.S.)
三川合流の歴史を学んで、益々貴重な地域であると思った。八幡市はもっと、もっと三川合流を取り上げてほしいと思う。(I.J.)
八幡市に住んで50年、三川合流の歴史を初めて聞き興味を持ちました。有り難うございました。(K.T.)
三川の様子がよくわかりました。(T.K.)
八幡の土地一部が分断され(美豆、生津)ていたことは聞いていましたが、三川合流の改良工事により、山崎が多くの土地を失ったこと、はじめてお聞きしました。 改良工事の歴史を学ぶことの大切さがわかり、よい機会となりました。(F.N.)
興味ある内容の講座でした。本年も八幡にかかわるテーマでお願いします。昔はどうであったか、昔のものは残っているのか、痕跡、遺品・・(K.S.)
最初会場の天井が高いためか、講師のマイクが聞こえづらかった。しかし、途中からよく聞こえるように配慮していただき、よく聞こえるようになりました。(謝謝)
 講師の方は一生懸命大きな声で講演されました。受講者の一員として深く感謝申し上げます。本当に有り難うございました。受講者も静かに熱心に一心で聞く思いで受講、大へん有意義な講演であり、参加して大へんよく有り難かったです。(H.M.)
本日の講演、大変参考になりまいた。普段、三川合流の話は滅多に聞きませんでしたので、大山崎も八幡も大きな影響を受けていたことを知りました。
 江戸時代の資料の図に八幡の中に東高野街道の名称があって、東高野街道とは最近観光用に俄に言い出したことで、江戸時代の資料に適用するのはどうなのかな?と一つだけ疑問が残りました。(T.S.)

  
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by y-rekitan | 2017-05-20 11:00 | Comments(0)

◆会報第78号より-01 高野道

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心に引き継ぐ風景・・・⑨
橋本から交野山を目指した高野道
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 石清水八幡宮の遷座(貞観元年・859)以前から淀川にかかる山崎橋 (神亀二年・725)を渡り、橋本から南方向にポッコリ膨らんだ交野山を目印に進む高野道があった。
 橋本から楠葉中ノ芝、野田大師堂付近から細い畦道が続き、かすかに古道の雰囲気を残す道を、楠葉朝日町の「やわた・はし本道標」、「七ツ松石碑」、「だるま堂道標」を見て、少し南に行くと八幡金振方面に向かう「八幡道」に合流する。この八幡道をやや西方向から招提元町に入れば、整然とした招堤の屋敷街を通り抜け、招堤南町の「日置天神社」に到る。
 日置天神社由緒に「中世におけるこの付近は、高野街道筋に発達した集落として賑わい、社寺が甍(いらか)を競ったという。しかし、南北朝の動乱に際し、たびたび戦禍に見舞われ、民家・堂塔ともに灰燼(かいじん)に帰したと伝えられる」とあって、古くは高野街道筋として繁栄した集落だったようだ。出屋敷や津田の集落も日置天神社から穂谷川を越えると眼と鼻の先となる。弘法大師空海が高野山への道をとったという古い街道のことを高野街道と云うなら、八幡宮遷座以前から高野山を目指すこのルートこそ弘法大師空海が歩いた道であろう。
(写真と文 谷村 勉) 空白
  
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by y-rekitan | 2017-03-22 12:00 | Comments(0)

◆会報第73号より-04 詩歌と八幡の歴史①

シリーズ「詩歌に彩られた八幡の歴史」・・・第1回
淀川べりの俳諧二句

 土井 三郎 (会員) 


 八幡は、その歴史と文化の豊かさから、古来より数多くの詩歌が詠まれてきました。和歌あり、俳諧あり、漢詩、狂歌、ざれ歌の類もあります。近代に入ってからも短歌や歌謡が見られます。それらの詩歌の文学的な味わいもさることながら、詩歌を通して八幡とその周辺の歴史の断面が見えてくることがあります。ジャンルや時代を超えて、具体的な作品をもとにそれらについて考察してみたいと思います。
 内容として、一応以下の項目を考えてみました。
淀川沿いの俳諧二句、歌枕-美豆、橋本-蕪村の思い、豊蔵坊信海と狂歌、庶民の俳諧三昧-『奉納八幡谷不動 京知石撰』より、名所図会にみる名歌、松花堂昭乗と和漢連句、吉井勇と八幡残夢

 第一回は、淀川べりの俳諧二句を取り上げました。出典は『淀川両岸一覧』です。『淀川両岸一覧』は、文久年間(1861~63)に、文章を暁晴翁が著し、絵を松川半山が描いて、江戸や京都、大坂で出版されました。淀川の上り船、下り船からみた沿岸の景観を描き、名所・旧跡を紹介しています。当時の淀川の風情を今に伝えるとともに、掲載される俳諧や和歌・漢詩は味わい深いものがあります。大坂の八軒家(現在の天満橋)から京都三条に至る両岸の名所案内記ですが、八幡にちなんだ俳諧二句とその挿画を紹介します。

新月やいつを昔のおとこやま  其角

 f0300125_1464078.jpg右の挿画(※1)は、橋本の夜景を描いたもので、谷崎潤一郎の小説「蘆刈」に登場する絵画としてよく知られています。小説では、水無瀬にやってきた「わたし」が渡し船で対岸の橋本に向かう最中(さなか)に、「淀川両岸の絵本に出てくる橋本の図」つまりこの挿画を見ながら目の前に広がる橋本の実景を眺めるのです。作品が成立した昭和初期の橋本と江戸末期の橋本の風景に、鉄道の開設以外にさほどの違いはなかったのかもしれません。
 宿場町橋本の夜の風情がかもしだされ、三味線や鼓の音、酔客のだみ声や女の嬌声が聞こえてくるようです。ひときわ大きく描かれる甍(いらか)は西遊寺のお堂でしょうか。背後の男山にも堂塔の影が見えます。石清水八幡宮の大塔もしくは琴塔のようにも見えますが定かではありません。
 さて、挿画の左上に掲載されるのは景樹の和歌と其角(きかく)の発句です。
 和歌は、「をとこ山峯さし登る月影にあらはれわたるよどの河ふね」とあります。作者である香川景樹は江戸時代後期の歌人とのこと。月影に淀の川舟が現われたという通り、夜間にも航行する船があったのです。挿図をよく見ると、右側の船のマストから張られた綱を堤の上から引っ張っている人影が見えます。大坂から淀川をさかのぼる場合、このように堤から綱で引きながら航行することがあったのです。大坂の八軒家と伏見を結ぶ旅客船の内、人々に親しまれたのは三十石船です。長さ約15mで定員は28名とのこと。昼船・夜船と間断なく運行されていました。
 さて、其角の句について吟味してみましょう。
 「今見るこの月は、いつも昔からこのように光輝いているのだ」と訳すこともできますが、『古今和歌集』にあるよみ人しらずの「今こそあれ我も昔はおとこ山さかゆく時もありこしものを」の一首が思い出されます。つまり、月を眺めながら、若かりし時代を思いだし、懐旧の念に耽っているかのようです。
 其角(1661~1707)は、父が江戸に住む医師で本多氏に仕えたとのこと。14、5歳のころに芭蕉に師事し、やがて大名・旗本や紀国屋文左衛門らの豪商と交流をするなどして蕉門の高弟としての位置を占めるようになりました。但し、「師芭蕉の枯淡に倣わず、生来の資質と才気によって作意をこらし(中略)独自の表現をめざした」(※2)と評価される一面をもっています。「いつを昔」というフレーズが気にいったものか、元禄期に『いつを昔』と題する俳諧撰集を編集しています。

五月雨何と茶にくむ淀の人  鞭石

 鞭石(べんせき)(1650~1728)は、其角より生まれが早く、其角よりも長寿の俳諧師でした。京都の人で、八幡の谷不動(神応寺から徒歩5分)に奉納する俳諧集の選者である知石(ちせき)は鞭石の弟子に当たります。
 鞭石の句は、五月雨(さつきあめ)を淀の人が何と茶にくむとは!と驚いたというものです。
 「五月雨(さみだれ)を集めてはやし最上川」と詠んだのは芭蕉です。五月雨(梅雨)が降り続けば最上川は増水し流れも速くなります。芭蕉は、梅雨の長雨で水かさが増し、岸辺いっぱいにどっと流れる最上川の情景を瞬時にとらえました。船上から詠んだ句だとすれば、乗客の緊張感も伝わってくるというものです。一方、長雨が降り注げば川水は濁ります。鞭石の句は、そんな濁り水を茶に汲むとは、淀の人はなんと酔狂なことをするものか、というものです。芭蕉の句と比べて調子ものどかです。f0300125_1430023.jpg
 ここでいう「淀の人」とは淀川べりの人のことではなく、八幡に接した淀の住人という意味です。淀の住人はなぜ酔狂なことをするのでしょうか。淀は八幡と接しています。八幡といえば石清水八幡宮のご当地。石清水がこんこんと湧きでる地なのですから梅雨の時期でも川水は濁らないと洒落ているのです。ちなみに、橋に向かって左岸が淀、右岸が八幡の美豆(みず)です。
 挿画の背景にある淀大橋はどっしりとしたもので、大名行列の場面が描かれているようです。
 淀はかつて木津川・宇治川・桂川の三川合流地点であり、巨椋池(おぐらいけ)の下流とも連なり、淀川の起点でした。中世の頃より軍事的な拠点として、納所(のうそ)の辺りに城がありましたが、秀吉は淀城を茶々の産所にあてるために天正16年(1588)から修築にとりかかります。やがて生まれたのが鶴松。まもなく茶々も鶴松も大坂城に移り淀城は衰退し、文禄3年(1594)伏見城建設が決められ、淀城の機能はすべて伏見城に移されてしまいました。
 徳川の世となった元和9年(1623)、今度は伏見城が廃され、江戸幕府は京都守護のために新淀城再建を決定します。同年閏8月に松平定綱に築城と淀への入封が命じられました。城地は納所から宇治川を隔てた対岸の島に移されます。その松平定綱が寛永10年(1633)に転封となり、永井尚政が入部して、特に城内町の拡大と河川整備が進められます。
 永井尚政の木津川改修で、淀城と城内町は、宇治川と木津川の間の三角州におかれることになり、納所との間の宇治川に淀小橋が架けられ、八幡の美豆村との間の木津川に淀大橋が、全面的な幕府の負担による公儀橋として架けられたのです。淀大橋・小橋の架橋は寛永16年(1639)のこととされます(※3)。
 淀大橋は幅4間2尺(約8m)・長さ137間(約250m)とありますから実に立派なものです。幕末、孝明天皇が石清水八幡宮に参詣するためにこの橋を渡り、鳥羽・伏見の戦いを描いた瓦版には、新政府軍がこの大橋を渡って、八幡方面に逃げようとする旧幕府軍を追撃する場面が描かれています(※4)。
 その淀大橋も明治初年の新政府による木津川の改修によってなくなりました。しかし、京都市に編入されたかつての八幡美豆は京都市伏見区淀美豆町としてその名を残しており、淀大橋のあった辺りは、旧淀川の窪地としてかすかにその面影を残しています。その地に住み、醤油業を営むKさんの菩提寺は八幡市内にあり、八幡との縁は切れていないとのことです(※5)。

※1 『淀川両岸一覧』(個人蔵)、見開2枚の挿画を1枚に合成(次の図も)
※2 『俳文学大辞典』
※3 平凡社『京都市の地名』
※4 八幡の歴史を探究する会発行『歴史たんけん八幡』65頁
※5 会報「八幡の歴史を探る」第53号所収「ひょっこり訪問記」


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by y-rekitan | 2016-05-30 09:00 | Comments(0)

◆会報第67号より-04 狐渡口

旅人は何故片手を挙げているのか

野間口 秀國 (会員)


 9月27日に行われた “「歴史たんけん八幡」出版記念の集い” にお寄せいただきました多くのメッセージは、作成に携わった一人として嬉しい限りでありました。それらの言葉の中には祝いやお褒めのみならず、今後の活動への叱咤激励もあったように思います。歴探の会報66号(2015年9月28日発行)に掲載されました、“「狐渡口」の絵図(第10章3項、51頁に掲載の図番97)についての、「狐渡口に描かれた旅人は何故片手を挙げているのでしょうか」” との疑問もその一つと受け取り、ありがたく読ませていただきました。f0300125_2103794.jpg
 答えの一つは51頁に、「・・・旅人が岸をはなれた櫓こぎ船を見送っているよう・・・」と書かれてあります。しかしながら「更なる答え探しが求められているのであろう」、そう考えて答え探しを試みてみました。
 そのために最初に取り組んだことは、初稿を書く時に参考にさせてもらった、谷崎潤一郎によって書かれた『蘆刈』(*1)を改めて読んでみることでした。そこには、「(略)上流に狐の渡しといふ渡船場があった事を記して長さ百十間(*2)と書いているから(略)」とあり、初稿当時、狐の渡しのあった場所やその大きさの理解に役立ったことを思い起こしていました。
 次は、何と言っても描かれたその現場に身を置くことでした。狐の渡し跡は小泉川の河口にあったとされていますが、現地(*3)には別の目的でも一度ならず足を運んだこともあるとは言え、描かれてから長い年月が経っており、その名残は見つかりません。f0300125_218596.jpgそんな時には大山崎町教育委員会によって建てられた説明板は大きな手助けになってくれました。その場に立ち、前方の男山を見る時、百十間の長さや渡る風も体感でき、答えに近づけたような気がしました。 しかし、ここでは見つかりませんでした。
 次なる試みは、改めて描かれた絵を見ることでした。すると、そこには絵と共に文字が書かれていることに気づきました。そこで、ここに何が書かれているのかを考えてみました。書かれた内容が何なのかと、無い知恵を絞っていると、ふと『蘆刈』に書かれた文章を書き留めたメモに、「(略)長いこと想ひ出すをりもなかった耳ざわりのいい漢文のことばがおのずから朗々たるひびきを以て唇にのぼって来る。」とあることに気づきました。絵に書かれた漢字は七言絶句の漢詩であるとの思いに至り、即刻先輩会員のAさんに書かれた文章についてご教示いただきました。
 遥天中断一川浮 白水青空日夜流 
 風急扁帆追去鳥 何人千里向滄洲

ようてんちゅうだんして いっせんうかぶ 
はくすいせいくう にちやながる 
かぜきゅうにして へんほきょちょうをおふ 
なんぴとかせんり そうしゅうにむかう 
 『歴史たんけん八幡』に掲載された『淀川両岸一覧』の「狐渡口」絵図を改めて見ながら、先にあったものは、絵なのか、それとも漢詩なのかと考えながら前述の漢詩を何回も読み返してみました。ここで言う漢詩の「何人」は絵の中にある「旅人」であり、「去鳥」は左上に描かれた(渡り鳥のような・・)鳥なのだろう、などと。旅人が左手を挙げているのは、「飛んでゆく鳥を明るい光を避けながら眼で追っている動作」ではないでしょうか。旅人の目指す滄洲と鳥の向かう方向が同じ(なのだろう?)ことをこの絵と詩で表現しているのでしょうか。いただいた小さな疑問、「旅人は何故、片手を挙げているのでしょうか」に対する私なりの答えです。
 9月下旬に京都東山の将軍塚青龍殿へタカの渡りを観察に出かけました。その日は生憎の曇天で上昇気流も起きずに目的を達することはかないませんでしたが、私たちの頭上を滑るように飛翔するトンビを眺める人たちの動作は、旅人のそれと似ていたことがとても印象的でした。

(*1)『蘆刈』 谷崎潤一郎集(一) 現代日本文学大系30 筑摩書房
(*2)百十間: 1間を1.818mとして計算するとほぼ200m
(*3)大山崎町の桂川河川敷公園(小泉川河口付近)
by y-rekitan | 2015-10-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第59号より-05 橋本

平野山・西山地区はミステリーゾーン?!

土井 三郎 (会員)


 3月16日(月)に予定される歴史探訪ウオーク「橋本の歴史(Ⅱ)平野山・西山を歩く」の実施に向けて、しおりを作成したり下見を試みたりなど準備が進んでいます。平野山・西山地区は古代より、実に謎につつまれたゾーンだといえます。どんな謎が秘められているのか。概略紹介してみます。

(1)塩釜の地名の由来 

 バス停にもなっている「塩釜」の地名について、どんな由来があるかのでしょうか。
 昔、大阪平野の内陸部が、河内湾と称する湾にずい分えぐられていた時代、この地で海水を干して塩を精製していたのだとか。或いは、狩尾(とがのお)神社で行われる湯かけ神事の釜で沸かした塩湯が、この辺りまで飛散してきたのだとか。もっと信憑性の高いもので、淀川を上り下りする参詣者が、橋本から石清水八幡宮をめざして登ろうとする前に身を清めるために塩を身にふりかけて出発したというものです。ところが、身を清めることは当たっているのですが、石清水への一般的な参詣とは目的が違うようです。そのことを、バス停「塩釜」近くに立つ石碑を見て確かめてみましょう!

(2)猿田彦神社創建のいわれ

 橋本小学校の北西に、こんもりとした姿を現す猿田彦神社の杜(もり)。その本殿に、当社の創建のいわれを書いた説明書きがあります。読むと、対岸の大山崎にいったん鎮座した八幡神を男山にお連れしたのが猿田彦の神で、それを祀ったものであると。確かに、猿田彦神は、ニニギノミコトが高千穂の峰にくだったときの道案内をした神として古来説明されています。ところが、男山に鎮座する石清水八幡宮の来歴を記した文献にそのような記載はありません。大事なことは、近代以前において、この社(やしろ)がどのような信仰の対象になったのかということです。
 実は、この神社、平野山村の鎮守であったのです。なぜ、社が村の中央部ではなくて外れにあるのか。その理由を考えてみたいと思います。また、石清水とは何の関係もないのかといえばそうでもありません。宇佐の八幡神を男山に勧請したのは奈良大安寺の僧、行教です。その行教と関連するものがこの境内にあったのです。

(3)講田寺(こうでんじ)にまつわる逸話

 講田寺は、もともと付け替える前の木津川のほとり、生津村に建っていましたが、水害の難を避けてこの地に移されたといいます。門前に、「長柄人柱地蔵尊講田寺」の石柱があります。長柄人柱地蔵とは何のことでしょうか。これにまつわる伝承も面白いのですが、この寺の再建に淀屋辰五郎の娘いほの婿である下村左仲なる人物が関与しているのです。
 「享保15年(1730)下村は、平野山村の別峰を寺地に選び自ら土を運び建築に尽力した。東厳和尚を中興開山として招き、淀下津町の小林忠左衛門尉信政を工匠として、翌享保16年に本堂造立となった」との記録が残されているのです。ところが、この下村左仲という人物、どうも謎めいたところがあります。江戸時代に書かれた『翁草』という書物に「城州八幡妻敵討」と題した話があり、そこに、淀屋が欠所後八幡に移住し改名した経過や、下村家が断絶するに至るまでが著述されているのです。その中で、左仲は元来行跡が悪く、田地・財産をつぎ込んで博打放蕩にふけり出奔したとあります。その後、いほに別の婿養子が入ることとなり、それを聞きつけた佐中は深夜家に忍び込み、いほとその婿を討ち果たしたというのです。これは歌舞伎の題材にもなりました。
 講田寺を再建した徳の深そうな人物が、何ゆえ博打放蕩して逐電することになったのか。そもそも二人は同一人物なのか。謎が残るというものです。(参考文献;「木村家文書の淀屋関係史料と近世石清水神領」竹中友里代、『京都府立大学文化遺産叢書第4集』所収)

(4)楠葉平野山瓦窯はいずこに

 「楠葉の御牧の土器造り、土器は造れど娘の貌(かお)ぞよき。あな美しやな」
 これは、2013年の11月、ふるさと学習館を会場に小森俊寛さんが「八幡の歴史と土器」と題して講演された際に、楠葉平野山瓦窯(がよう)に触れ、その中で紹介した歌です。後白河法皇が編著した『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』にある一節です。
 楠葉の御牧は、北楠葉の青葉幼稚園あたりに比定されています。しかし、その形跡が全く見られません。なぜ、この地が瓦窯の地になったのか。良質の土がとれたこともあるでしょう。四天王寺の伽藍の屋根を葺いた瓦が楠葉平野山瓦窯で焼かれたとありますから、淀川の水運が利用されたのでしょう。そういう意味では地の利があったともいえそうです。

(5)和気神社のなぞ

 八幡の歴史カルタに「足が立ち神社を建てた和気清麻呂」という読み札があります。ところが、ある方から神社ではなく寺を建てたのではないかという質問を受けました。その時は、神仏習合の時代ですから、寺も建てたし、神社も建てたのではないでしょうか、と答えましたが、『男山考古録』の第12巻に足立寺(そくりゅうじ)の項目があり、次の記述が見られます。
 「男山の西尾崎、往昔の所、今小社二宇これ有り、(中略)小社一宇は八幡宮を祭る、南の小社は、和気清麿を勧請と云伝う、土俗は稲荷と申す」。
 足立寺の境内に小さい二つの社があって、一つは八幡神を祭り、もう一つは和気清麻呂を神として祭っていると読み取れます。従って、足立寺には和気神社があったということになります。但し、土地の者は稲荷と呼んでいたようです。
 この足立寺もずい分謎の多い寺です。道鏡によって斬られ宇佐八幡神の加護で清麻呂の足が立ったという伝承はともかく、なぜこの地に和気氏とかかわりのある寺が建ったのか。皇位をねらった道鏡の野望を宇佐の八幡神の判断を仰ぐ目的で清麻呂は奈良から宇佐に派遣されますが、その道中(山陽道?)に建てたということなのか。もともとこの地が和気氏と関わりが深かったのか。
 和気氏と関わりの深い寺に、京都高雄の神護寺があります。北畠親房が著した『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』に神護寺の記載があって、「清麿神威を尊い申して、河内国に寺を立て、(この地河内交野郡との境にて、今、山城)神願寺といふ、後に高雄の山にうつし立、今の神護寺これなり」と記述されています。河内交野郡と山城の境にあることから、この神願寺は足立寺のことを指すとみなせます。すると、足立寺は、神護寺の前身ということなのでしょうか?
 また、和気神社と隣り合う足立寺史跡公園には豊蔵坊信海((ほうぞうぼうしんかい)の墓があります。男山四十八坊の一つであり、徳川家の御願寺とされる豊蔵坊の住職である信海の墓がなぜここにあるのか。豊蔵坊と足立寺をつなぐどんな糸があるのでしょうか。なお、この墓のことについては、会報49号に、谷村勉さんが「足立寺史跡公園(豊蔵坊)の墓をたどる」と題する論考があります。ご参照ください。

(6)継体天皇楠葉宮伝承地にされた根拠

 今回の歴史探訪では「継体天皇楠葉宮跡伝承地」にも足を伸ばします。なぜ、交野天神社(かたのてんじんじゃ)の杜(もり)の一角に楠葉宮伝承地が指定されたのか。そもそも交野天神社とはどんな神社なのか。会報58号に大田友紀子さんが論考していますが、その説もふまえながら交野天神社の来歴や継体天皇の樟葉宮について考えてみましょう。
by y-rekitan | 2015-02-28 08:00 | Comments(0)

◆会報第49号より-05 大谷川余話⑫

シリーズ「シリーズ「大谷川散策余話」」・・・⑫
第12章 大谷区・流れは河内の國へ

 野間口 秀国 (会員) 

 メモ帳とデジカメを手に、季節を問わずに大谷川の流れに沿って何回も繰り返し歩いて1年余りを過ぎ、今やっと住まいのある橋本の地に戻った感があります。過ぎれば短いと思える時間的経過の中ですが、出発点近くの京田辺市松井の「今池」付近と終着点近くの八幡市橋本の「橋本樋門」周辺の変わりようにはただ驚くばかりです。
 大谷川の最下流部の第5区、八幡大谷の地を流れることより「大谷区」と呼びたいと思います。起点は京阪電車の八幡市駅に近い鹿野(かの)橋です。石清水八幡宮の玄関口「一の鳥居」に向かう御幸道に架かり風格ある橋と言えます。平成5年(1993)9月に架設されたこの橋の親柱は石を使った太い四角柱状で、上部には灯籠が飾られ、欄干にも石が使われています。前章で公儀橋と町橋に触れましたが、鹿野橋がかつて町橋であったらしいことを知りました。その様子などを詳しく知りたくて地元の人にもお聞きしましたが、その思いは完全には果たせておりません。しかし以前の橋が石橋だったこと、近辺は桜の名所だったこと、河畔には料理屋があったことなどを教えていただきました。なお、現在の鹿野橋は無論町橋ではなく府道に架かる橋であり山城北土木事務所で管理されています。 
 男山の東の麓を北へ流れた大谷川(放生川)は、この鹿野橋から明治43年(1910)4月15日に開業(*1)の京阪電車の線路に沿うように西へと向きを変えて流れ下ります。現在の流れはほぼまっすぐですが『八幡市誌・第3巻』の表紙裏の絵図には「四十八曲りと云」との注釈が添えられており、かなり曲りくねった川であったことが分かります。
 『男山考古録・第11巻』にも「・・南北へ縄打はへし如く曲りて、土人は常に四十八廻りと云、・・」と書かれているように、傾斜が殆ど無くて平坦な土地ゆえに流れはくねくねとして緩く、澱み気味になるのもいたしかたなかったのかも知れません。f0300125_12354158.jpgまた「四十八曲り」や「四十八廻り」は流れの曲り数の多さの形容ではありますが「四十八坊」や「四十八願」(*2)にも何かしら通じるものとも言えそうです。
 地元に住む人達に「四十八廻り」と呼ばれた川の流れる科手の地は、放生川が淀川に流れ下っていた地で、古くは淀川の氾濫原であり現在の鹿野橋あたりには池もあったようです。排水の悪い低湿地帯であった様子は古い時代の絵図などにも見えます。男山の北側、御幸道の西側に位置する「科手」の地名は古く、久世郡科手上里(カミサト)と呼ばれ『八幡市誌・第1巻』の第2章と巻末の年表にも見えるように八幡神の男山遷座に先立つ八世紀後半、条里制の地割が成立する頃にまで遡ることができるようです。また地名の由来はこの地が「山の片下がり(=シナ)の所(=テ)である」こと及び「洪水によって流出し堆積した砂礫地、スナ(=砂)・テ(=所)が転じた」ことのようです(*3)。
 明治維新の直後、明治元年(1868)の年末に始まった当時の政府による木津川付替え工事によって、淀で宇治川と合流していた木津川の流れが八幡の科手近くへと大きく変わったことは既にご存じのことと思います。この付替え工事に伴って、かつて男山の山側から尾無瀬川を経て淀川に流れ込んでいた数多くの小さな流れが遮断されてしまいました。また科手地区の北側には明治2年(1869)11月に完成を見た新しい木津川の堤防が科手の北側に築かれた為に堤防の南側に降った雨水も行き場を失い、結果的には科手から橋本にかけて現在の京阪電車の線路に沿うように細長い湿地帯が生じることになりました。
 このように水はけの悪くなった状態を改善するために広い範囲に盛り土がなされると共に、淀川への排水を一手に引き受ける、内水排出河川としての大谷川が整備され現在に至っているようです。これによって流れは真っすぐになって四十八曲りも解消されましたが、傾斜が殆ど無い状態が大きく改善されることは望めず堆積する砂や茂った水草などで渇水期に流れが澱む状態は現在でも発生します。同時に、新しい流れの出現に因りそれまであった科手地区の墓地も他の地への移転を余儀なくされてしまったことも話していただけました(*4)。この春(2014.03.15)に八幡市・文化財保護課によって行われた「今里遺跡発掘調査現地説明会」の資料に見える「八幡八郷と墓地の分布」地図はまさにそのことを語っているかのようです。
 大幅に改善され今ではほぼ真っすぐになった大谷川は京阪電車の線路に沿って横町橋、奥谷橋をくぐり西へと流れ下ります。奥谷橋の山手側に踏切があり、踏切近くに常昌禅院があります。この寺は曹洞宗の寺院で300年ほど前に創建されたと言われており、門をくぐると左側に幹回りが約1.5mもある大きな椿「日光(じっこう)」があり、八幡の歴史カルタにも「めじろ呼ぶ常昌院の紅椿」と詠われて花の時期には咲き誇る紅椿がめじろのみならず訪れる多くの人々の目を楽しませてくれます。
 流れは木津川の堤防を右に見て科手から橋本へと下ります。この堤防は府道13号線として大阪府枚方市へと繋がります。堤防を科手から橋本に向かって車で走ると、道の左側を覆うような楠の大木が出迎えてくれます。明治23年(1891)生まれで既に他界された祖父を持つ、そう話していただいた楠の近くに住まれる男性から「堤防ができた時には楠は敷地内にあった。家だけが敷地の南方向に移って楠だけが今の場所に残ったんだ。その時は木はまだひょろひょろだったと、祖父がそうゆうてたから樹齢は100年を超していることは間違いなかろう。」と話していただきました。お話の内容からも樹齢が確かに100年を超すことは間違いないと言えますし、目通りは461cm(直径は約146cm)でまさに大木です(*5)。f0300125_13221453.jpg
 この楠の近くに、現在は街中の飛行神社に祀られている二宮忠八翁が飛行器(機)の試作を行った工場(工作所)があったことは案外と知られていないことかも知れません。当時の建物などは残されていませんが、この地に史実を記した表示板の設置も検討がなされているとも聞き及んだことがあります。楠を過ぎて程なくの信号を左に折れると、かつては宿場町・門前町であった橋本の地に入ります。橋本住区への玄関口には「はしもとばし」があり、橋を境に流れは木津川左岸堤防(府道13号)の法面(のりめん)直下を流れ、かつての宿場の建物群を裏側から見上げるように流れ下ります。橋本の歴史について書くべきことはかなり多いですから、本章ではできる限り川や橋や水に関係する事柄に留めたいと思います。
 その第一が「渡し場跡」の道標です。京街道の町並みの風情がまだ残された橋本に足を踏み入れて間もなく、道の左側には共に小さいながら、先ず稲荷神社(豊影稲荷・石橋稲荷)があり、歩を進めると金刀比羅大権現の末社(?)があります。これを過ぎると少し大きめの道標があり、そこを右折し直進した場所に橋本で二本目の「栄橋」があります。橋の袂に「渡し場の案内石標」があり「大坂下り舟の里場(舟乗り場)」「山ざき・あたごわたし場」「柳谷わたし場」「津の国そうじ寺(総持寺)」などと読めます。京・大坂への上り下り、離宮八幡宮から石清水八幡宮へ油輸送、愛宕参詣や柳谷観音参り等、多くの客で賑わったであろう様子が想像できます。
 f0300125_1323494.jpg渡し舟は時代が下って昭和37年(1962)まで運行されていたようです。京阪電車の橋本駅京都方面行き改札口前にある洋食の店「やをりき」さんで珈琲を飲みながら、お店のファンを自認される近所のご婦人から「私も父に連れてもらって何回も山崎へ渡ったこともあるよ…」と当時を懐かしむように話していただきました。また「かつて京阪電車のストライキで大阪への勤務ができないため、渡し舟で山崎へ渡り、当時の国鉄山崎駅から列車を乗り継いで会社へ行ったことも…」との話も知り合いの会員から聞き、駅近くにお住まいのご婦人から「山崎に渡り西京極に野球の試合を見に連れて行ってもらったよ」と教えていただきました。そんなことを物語るかのように、栄橋を渡り堤防の法面の階段を上って府道を横切ると、堤防の反対側を斜め左に降りる人一人が通れるほどの小路が残されております。この冬、催し物の一つとして「渡し舟復活」が計画され、舟乗り場も造られましたが生憎の荒天で行事は中止となり楽しみにしていた渡し舟には乗れずじまいでした。渡し舟にロマンを感じるのは私だけでしょうか。
 八幡市を写す航空写真を見ると、町は地形的にも水と向きあうことが避けられない場所であることが一目瞭然です。淀川水系の上流部で降った雪や雨は、向かいの天王山と男山に挟まれたこの地で一本の流れになり海へ下ります。同じ水系の大谷川もまた美濃山と男山の山裾を巻くように流れて橋本の地で淀川へと注がれます。八幡町誌や八幡市誌、また関連する資料・書籍などに目を通す時、水害、浸水、洪水、内水などの言葉が頻繁に目に止まります。大谷川に沿って現存する複数の大字・小字の地名が水や水害などに由来するものであることは綱本逸雄氏著・勉誠出版刊の『京都盆地の災害地名』からも良く分かりますし『八幡市誌・第二巻』『同・第三巻』の年表には水との闘いが繰り返された史実が数多く見られ、今日に至る様子が良く理解できます。
 このように長い年月にわたる水との戦いに対し、人々が「神仏にもすがりたい」と思うのは自然なことでしょう。そのような思いが橋本小金川の一角にあって地元の皆様に大切に祀られている「水嫌(みずきらい)地蔵」と呼ばれるお地蔵様に表れているようです。祠の右手前にある棚には寄進された人々のお名前があり、地元のみならず木津町、姫路市、遠くは神奈川県の地名も見られます。棚の前にはご利益の「地蔵十益」が飾られ、その六番目には「火と水の難にあわない」とあります。近所にお住まいの年配のご婦人からは「お地蔵様は私が生まれた頃からあるよ」と教えて頂き、また昭和40年代から近くで「理髪店・犬飼(いぬかい)」を営まれる同店のご主人は「ここに来てから水難には遭っていないよ」とも話していただきました。お地蔵様が鎮座されている祠は平成5年8月に建て替えられたようです。祠の左側にはお地蔵様の由来を伝える説明板があります。ここではその内容は割愛しますが、先の理髪店のご主人からお祀りは地蔵盆の時期とお聞きしました。
 大谷川の流れがまさに淀川の河川域内に入る直前に「橋本樋門」があります。増水時に本流の水位が高くなると水が逆流する可能性があり、それを防いでくれるのがこの樋門なのです。かつては木製観音開きの構造であった樋門も、本流からの水圧に抗して構造的により強い垂直に昇降する構造(鉄製の電動スルーゲート)に改善されています。前述の『八幡市誌・第三巻』の年表にも昭和41年(1966)5月に「橋本樋門改築完成」との記述があります。昨年、平成25年(2013)秋の豪雨の際にも閉じられた樋門が水の逆流を止めている様子を実際に目にし、その重要性を再認識できました。隣には少し小ぶりですが「小金川樋門」もその存在を誇示しています。
 f0300125_13275321.jpg現在、平成26年(2014)4月10日時点、これら両樋門の近辺では京阪電車の線路と大谷川を一跨ぎする新しい道路橋工事の真っ只中です。既に土に隠れて見ることは出来ませんが、橋脚部には古くからの浸水や洪水の歴史を語るかのように堆積した砂の地層が静かに眠っていることも記しておきたいと思います。樋門を過ぎると本シリーズで最後の橋となる「小金井橋」です。橋の所在地は大阪府枚方市ですから、大谷川の流れはここで山城の國に別れを告げて河内の國へと入ります。
 昨年の春から書き続けてきました「大谷川散策余話」のシリーズも次号の「第13章、終わりに」を残すのみです。最後までのお付き合いをお願いいたします。

(*1)京阪電車お客さまセンターのご協力をいただきました。感謝申し上げます。
(*2)平成25年(2013)10月10日の歴探10月例会の講演にて、本庄良文氏が話された「八幡における浄土信仰」より。
(*3)綱本逸雄氏著・勉誠出版刊の『京都盆地の災害地名』より。
(*4)平成26年(2014)1月24日、科手にお住まいの井上隆夫氏宅にて氏より、科手の歴史やかつての様子などをお聞かせいただきました。紙面にてお礼申し上げます。
(*5)目通りは3回測定した結果の平均値です。直径は461を3.14で除して算出。


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by y-rekitan | 2014-04-28 08:00 | Comments(0)

◆会報第48号より-02 橋本ウォーク1

f0300125_273775.jpg
《歴探ウォーク》
橋本の歴史(Ⅰ)「京街道を歩く」
― 2014年3月  八幡市橋本地区にて ―


                             村山 勉 (会員)

 2014年3月15日(土)、「橋本の歴史(Ⅰ)京街道を歩く」と題して歴史探訪ウオークを実施しました。
歴史探訪ウオークの概略

 肌寒さは少し残るもの、時折春の日差しが射すなか、何と73名の参加者が集まりました。当初定員50名にしていたのですが、多数の参加者が見込まれ、2グループに分かれての歴史探訪となりました。Aグループは私村山と土井さんが、Bグループは田坂さんと石野さんがガイドを務めます。
 午後1時に、橋本駅前の西遊寺さんに集合。受付を済ませた後、石野さんによる橋本遊郭・元歌舞練場の話から始まりました。続いて、西遊寺の本堂に入り、住職さんからお寺の来歴や本尊である本尊阿弥陀如来像についてのお話がありました。徳川家康からの朱印状も見せていただき感激しました。その後、境内にある観音堂の諸仏を拝観しました。f0300125_10421145.jpg
 観音堂には、明治維新に際し狩尾神社から移されてきた帝釈天像等があります。帝釈天は、八幡市内最古の仏像だといわれているものです。
 その後、橋本駅前バスロータリーに移動し、橋本陣屋跡・八幡初の工場跡の話をしました。次に、隣接の枚方市楠葉中之芝にある久修園院に案内しました。行基四十九院の一つといわれているものです。本堂に入り山﨑橋と橋本の地名由来のお話をさせていただき、中興の僧宗覚律師が作ったといわれる地球儀や渾天儀(天球儀)を見せてもらいました。続いて、高さ2mに達する愛染明王像を拝観しました。憤怒の形相は迫力のあるものでした。
 次に、史跡公園造営中の楠葉台場に移動し、台場と鳥羽伏見の戦いについて説明しました。
そして、いよいよ橋本樋門から京街道へ入りました。凝った建具のある遊郭の家屋を見ながら、橋本渡しの道標のある地点に移動。そこで、渡し船の話や谷崎の「蘆刈」に登場する「澱川両岸一覧」にある橋本の絵図について語りました。そして、橋本の社士である山田邸から狩尾神社への参道に至る岐路まで歩き、プリン山と称される狩尾神社や二宮忠八の飛行器工作場跡地、橋本の住宅開発の話などをしました。
 終了したのは午後4時ごろでした。

様々に議論した橋本の見どころ

 準備は昨年の秋から始まりました。2013年9月と10月、歴探幹事会で橋本を歴史探訪することが決まり、そのコースなどが話し合われました。田坂さんは、それまで集めてきた資料をもとに、ガイドブック作りに励んでゆきます。
 担当者による打合せを進め、日程やコース、拝観する寺とその申し込み、ガイドブックの作成や参加人数、参加費、雨天の場合の対応と、実に多くのことがらを処理することになりました。
 一番の懸案事項は、「案内チラシ」に「橋本遊郭」を入れるかどうかです。遊郭やそれに対する地元の感情をどう見てどう対処するのか。そんなことで喧々諤々の議論が続きました。結局、「京街道の宿場町、石清水八幡宮の門前町として発展する中で遊郭も形成されるようになった」との記述に収まり、案内チラシに「橋本遊郭跡」を記載する事で決着がつきました。f0300125_1047641.jpg
 ガイドブックの説明文や添付の図録についても、長すぎるのではないか、この図は必要なのかなど様々に議論が展開され、結局24ページにわたるガイドブックにおさまりました。
 但し、実際の案内では、説明はできるだけ簡単にして、目の前に広がる風景や建物などを見てもらい、ガイドブックの詳細な内容に立ち入らないようにすることが申し合われました。
 八幡は、男山山上とその東側にある八幡宮や東高野街道、善法律寺、正法寺、松花堂の名所ばかりが注目されますが、私の地元である橋本にも、こんなに豊かな歴史があるということを実感し、また大勢の方々に知っていただくことができました。そんな意味で、良い機会を与えてもらったと本当に嬉しく思います。
 ご協力いただいた西遊寺と久修園院のご住職および関係者の皆様、参加者の皆様に御礼を申しあげます。

ガイドブックの主な内容

《橋本の歴史(概要)》
1、橋本は、古くから水運や陸路の要衝で、 人やもの、情報が行き交った。
  山崎橋と橋本という地名、古代の官道「山 陰道」と山陽道、八幡・石清水八幡宮の外 港、河川交通の中  継地
2、橋本は、石清水八幡宮の参詣口であった。
3、橋本の街を「京街道」が貫き、宿場町・ 門前町としてにぎわった。
4、橋本は、「鳥羽伏見の戦い」の最後の戦 闘の場になった。
5、橋本から八幡の住宅開発が始まり、橋本の街はベットタウン化した。

《歴史探訪の見どころ》
西遊寺、常徳寺(湯沢山茶久蓮寺)、元橋本歌舞練場、橋本陣屋跡、紡績工場・津田電線工場跡、小金川、久修園院、楠葉台場跡、橋本樋門と小金川樋門、三国の渡し、京街道・橋本の街並み、小金川地蔵尊、橋本の渡しと橋本の津、石清水八幡宮参詣道の道標、橋本等安一族の墓石群、橋本の社士山田家、岩ケ鼻、北ノ町の道標と常夜灯、狩尾神社と希望ヶ丘の住宅開発、一里松の常夜灯、二宮忠八の飛行器工作所跡、奥ノ町の楠の大木


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by y-rekitan | 2014-03-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第48号より-03 橋本

変わりゆく橋本を目の前にして

石野 善幸 (会員)


 橋本は田畑の耕作地もほとんどない。はるか三重、滋賀、福井、京都のかなたから命の水を運んでくる母なる川淀川に沿っており、また武家の守護神「戦いの神」として崇められた八幡大神の鎮座する男山鳩ガ峯の麓にあり、山と川に挟まれた地域である。
 古代より境界として河内の国、摂津の国、大和の国への通過地であり、また石清水八幡宮巡礼の門前町でもあった。人の往来が多く、茶店、宿屋などがあり遊女たちも各地から集まり賑やかな遊里となっていった。
遊郭の中央をつらぬく京街道(大坂道)は嘗ては人、馬、車の往来が多くあった。
 江戸時代は、朝鮮通信使の一行、又参勤交代で紀州のお殿さま、今から2 8 5 年前には将軍徳川吉宗の要請で象が一頭長崎から江戸へ向かう時、ここ橋本を歩いたとの事。昭和20年代までこの通りは旧国道一号線であった。橋本は常に時代の渦中にあり、幾たびかの戦乱に巻きこまれ衰退と繁栄を繰り広げてきた。各時代を通して橋本の繁栄を支えてきたのは遊郭であった。近世以降では貧しい者が差別され、社会の中で最も下層の貧しい女性たちが搾取されてきた。明治時代においては以下の状況である。
 自らの身体を張って客の相手をしなければならなかった芸娼妓のほとんどは、生活苦に陥った家族を救うため犠牲になった者であり、自ら望んでなったのではない。また彼らは誇りを持てる職業として毎日を勤めていたのでもない。そのため男尊女卑の徹底した社会の中で、遊郭はさまざまな悲劇を背負った女性の社会の縮図であった。
    (守屋敏彦著「近代京都府八幡市の住民生活」1987年刊より)
 1958年(昭和33)、売春防止法が施行され橋本も遊郭もその長い歴史を閉じ、一時静けさを取り戻した。
 遊郭が廃止された翌年の1959年(昭和34)、狩尾地区の宅地開発が始まり、ベッドタウンとなっていった。山の中腹にある狩尾神社はとがのおとばっちりを受け社を残して丸裸同然となやしろり、地元ではプリン山と呼ばれている。また、京阪電鉄の線路近くにあった鳥居は住宅地完成後現在地に移設された。元遊郭地の廓跡も老朽化が進み、あちらこちらで解体が行われ空き地が目立ってきた。
 2013年(平成25)より橋本南山線の高架道路工事に伴い、現在のバスターミナルおよび駐車場、枚方市との境界道路周辺の大工事が実施されている。今まさに橋本は大きく変わろうとしている。橋本の開発の波は次々に押し寄せ、橋本の昔日の面影を消滅させていくようである。
 変わりゆく橋本を目の前にして過ぎ去った歴史を学んできた私達は地域の見聞を記録し、建造物などの遺産を記念に残す行動をしていかなければならない。今私たちは次世代のために過去、現在、未来を繋いでいかねばならないだろう。    
               (橋本遊郭跡を訪ねて2014年3月15日)
by y-rekitan | 2014-03-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第47号より-03 遊女江口

遊女 江口の君
―能楽『江口』と遊び女(アソビメ)の伝統―

大阪国際大学名誉教授  石野はるみ


 淀川下流にある江口の里は遊郭の地として名高い。水辺の宿にあって、水流に舟を浮かべる人は遊女である。遊女は古代よりアソビメとして宮廷祭事に関連しており、神話では巫女的な存在として登場している。この小論では、遊郭の代表として、中世の世阿弥が遊女をどのように描いているかを考えたい。日本の伝統思想から遊女はどのような存在であったかを能楽『江口』から探ろう。
 遊女のルーツは古代、神に仕える遊芸の女人である。大坂の神崎川の河口、江口の遊女が普賢菩薩の化身であるという能楽『江口』からは、遊女は聖なるものに関与していることが推測される。中世前期に女性を長者、リーダーとした小集団で比較的自由に各地をめぐっていた遊女たちは、鎌倉時代に源頼朝が初めて公娼の制度「遊女町」を制定したことで、拘束されるようになる。近世、秀吉により、京都柳町遊郭が公認され、江戸時代には公認遊郭が全国に出来た。
ここでしばらく八幡市の橋本遊郭のことにふれてみたい。『淀橋本観桜図屏風』(18世紀大阪歴史博物館所蔵)は男山を背景に、桜のもとで、酒盃を傾ける人々や橋本の船着場付近の茶店、旅籠屋が並ぶ風景であるが、前面には淀川上にせり出して家屋の床が立てられていて、そこに渡し舟が着こうとしているが、遊女らしき女二人が降りようとする客らしき人に手をさしのべている光景が描かれている。井原西鶴の『好色一代記』からもわかるが、江戸時代には橋本も江口も有名な遊里であった。
 中世後期、世阿弥(1362-1443)は人々の親しんでいる古事や、和歌、物語、貴族的教養などを能楽に盛り込んでいる。そうして人々の歴史意識やこの列島に住む民族の無意識をくみあげて、理解しやすく楽しむことができる物語を創作した。それは当時身分の上下を問わず共有できるものであった。この能楽『江口』もそのような演劇としてとらえることができるだろう。

『江口』のあらすじとテーマ

 能楽『江口』のあらすじは次のようなものである。天王寺参りに江口の里に立ち寄った僧がその地の古事である西行法師が遊女に雨しのぎの宿を求めた和歌を詠んだことを思い出した。すると、どこからか女が現れ遊女が西行法師へ返した歌について僧に尋ねた。女は自分を江口の君の幽霊だといって姿を消す。僧は土地の者から江口の君は普賢菩薩の再誕生であると聞きその奇特を見るようすすめられる。その後、江口の君は川舟に二人の遊女を従えてあらわれる。そして往時の舟遊びの有様を見るようにとすすめ、人の罪業とこの世の無常を謡い舞う。遊女は僧に世の執着を捨てるなら迷いはなくなると説いてたちまち普賢菩薩となる。舟は白象になり普賢菩薩は西の空に消え去っていく。
 この能楽のテーマは俗世界においての遊女が聖なる普賢菩薩として顕示することである。江口の遊女と普賢菩薩が物語の最終部で同一として描かれている。そのことをどうみるべきか。能楽の非日常的時間と空間において、さらに此岸、彼岸をこえた夢幻能の仕組みにより、このシテ、主人公の遊女にまつわる民族の無意識、共同体の夢、あるいは史実にもとづいた歴史的真実が浮かび出てくるようである。
 まず遊女の系譜をたどり、江口の遊女にまつわる史実や伝承を考えたい。そして『江口』の詞書にえがかれた遊女の姿、および遊女を象徴する事柄に注目し、また中世の人々の無常観と仏教的救済についても一考したい。

1 巫女の系譜に連なる遊女

 神話『古事記』のなかに登場するアマノウズメは巫女の先祖として考えられる。天照大神が岩戸に籠ったときにその「楽」(アソビ)によって誘い出した技芸の女神である。後にサルタヒコの妻となりサルタヒコの死後、猿女サルメノ君を名乗った。古代、神を祭ることを「神遊び」といい、遊びとは祭礼のことであり巫女、アソビメ(遊び女)は神の妻となって聖婚としての性の儀式を行う者である。相手の男の代表は現人神天皇である。神武天皇は野遊びで乙女と一夜交わり、雄略天皇は川遊びで乙女に会い求婚している(『古事記』)。これは農耕文化の豊穣儀礼であり、このような祭儀は習俗となった。
 アソビは天皇の葬礼儀式に働く遊部(アソビベ)の職掌でもあった。歌舞によって霊魂に働く呪的な行為である(『令義解』)。『万葉集』の遊行女婦は官人を迎え送る宴を司る者としての公的性格をもち、官女の礼服を着ている。このように古代、奈良、平安朝まで遊び女は公的な宮廷行事にかかわる身分であり、形骸化しつつあっても原則的には遊芸により神仏の仲立ちの役割を果たすものとみなされていた。以降時代を下がるにつれて遊び女の身分は下がり、遊女、白拍子などと分化してき、社会制度の外にある、歌舞遊芸伝承をもっぱらの働きとする芸能の民として比較的自由に各地に漂泊するようになった。また遊芸主体ではあるが性技もときに付随した。10世紀末ころには遊女集団が一定の場所に居住するようになり、遊女のリーダーである長者が出てくる。こうして長者を中心とした芸能を職能とする専門化集団が形成されるようになる。中世初期には家父長制度がほぼ成立していたのだが、遊女は男性主導型の家父長制度とは異なった家族形態を営み、遊女が家主となっていることも知られている(『古今問答集』『長秋記』)。11世紀後半に記された『遊女記』では江口、神崎、亀島というところが遊びに行く場所「遊女所」として発達していったとうかがわれる。

2  「推参」のならわしと江口の遊女

 11世紀の貴族の日記や記録から貴族、女院や院の御幸や霊地参詣の際に経路に遊女が「群参」、「推参」したという記録がある。彼女たちは祭儀において芸能者であり儀礼に奉仕する者としての古い伝統を引き継いでやってくる。あらかじめ貴族側からの礼、給禄が予定されていた。『栄花物語』(巻31)には上東門院の石清水、住吉、天王寺参詣(1031年)にあたって、「江口という所なりて、遊女(あそびめ)ども、傘に月を出だし、螺鈿、蒔絵、さまざまに劣らじ負けじとして参りたり」とあり、『栄花物語』(巻38)には後三条院の住吉、天王寺参詣(1 0 7 3年)では「江口の遊女(あそびめ)二船ばかりまいりあひたり」とある。
 『宇治関高野山御参詣記』では関白頼通の参詣(1048年)の際、その往路で江口、神崎の遊女が「挙首参進」したので帰途に参るべきと戒めたところ、帰途に「傘を連ね、楫を争い、各以って卒参」し給禄として遊女の首長「上首」には絹二百疋、米二百石、小袖、被物、纏頭物が賜与された。このときの相場として高野山の僧にたいする僧供料が米百石であったので、米二百石は相当多額である。このような賜物を遊女たちはほぼ平等に「上下各同数」分け合った。長者あるいは優れた者への礼として特別に貴族の着衣、被物が与えられたが、遊女集団として生活の基盤である米などの分配は平等であるので比較的格差のない関係を保ったようである。この中世中期における女性芸能民の職能集団は男性の支配化に統括されず、女系的な「家」の世襲化をしていったと考えられる(1)。中世後期(商業資本主義初期、家父長制度の確立)以降に性労働、売春を専業とするようになった女性たちとは異なっていると考えられる。

3 遊女と聖(ひじり)

 遊女がうたを歌いながら僧のもとに推参することもしばしばあったが、そのような遊女と僧侶のつながりは「結縁」である。『発心集』に、上人の乗る船が室津にきたとき室泊の遊女が舟をこぎ寄せてくるので僧の船だとだと断ると、

  闇(くらき)より闇き道にぞ入りぬべき
  遥かに照らせ山の端の月

と詠んでこぎ去ったとある。
 法然伝『伝法絵』の一節に室の泊に法然の船がくると遊女が上人の船に参り、僧へ自分たちをアッピールするために行尊が天王寺別当として行く途中、江口、神崎の君たちが船近くるのを彼が制止した際に遊女が詠んだ「神歌」を引いてうたいだしたとある。

  有漏地(うろじ)より無漏地(むろじ)へかよう釈迦だにも
  羅候羅(らごだ)が母はありとこそ聞け
(釈尊すらもかって子をなした女人との契りもあったと聞いています。あなたのような尊い聖がわれらの結縁をどうしてお避けになるのですか)

4 西行と江口の妙の問答

 世阿弥が『江口』の典拠としたひとつは『新古今和歌集』や『撰集抄』にある西行と江口の遊女妙との歌問答である。西行が天王寺へ参詣する途上で時雨にあってひととき宿を借りようとして拒まれた西行は

  世の中を厭(いと)うまでこそ難(かた)からめ
  仮の宿をも惜しむ君かな

と軽く非難する。返答として

  世を厭う人とし聞けば借りの宿(遊女の宿)に
  心留むなと思うばかりぞ

と詠み名高い高僧、遁世者として世に知られた西行を戯れのうたによって諭した。遊女の結縁がいきつくところは次の話であるが、『江口』のもうひとつの典拠となっている。
 『古事談』巻三に性空聖人の説話がある。その説話は聖の希求する願いがかなう奇跡物語である。聖は生身の普賢菩薩を拝したいと祈ると、夢に神崎の遊女の長者を見よと告げられて、神崎へ赴く。長者の家では遊宴の最中で長者は鼓をとり乱拍子の上句を弾きうたっていた。

  周防室積の 中なる御手洗に
  風はふかねども ささら浪立つ

 聴くうちにあやしと思い目を閉じ合掌すると、長者はたちまち白象にのった普賢菩薩となっており、眉間からは光を放ち俗人を照らし、そのうたは微妙な音声となり法文が説かれている。

  実相無濾の大海に 五塵六欲の
  風はふかねども 隋縁真如の波立たぬときなし

 目を開ければ元の遊女として、また目を閉じれば普賢の姿である。長者は人に告げるなと口止めして「頓滅」(死)し、異香が空に薫じた。饗宴の快楽の絶頂に上人は神秘が顕現するのを見たのである。この奇なる話がどのように『江口』にとりいれられたのだろうか。
 ところで『江口』に登場する僧と遊女の霊との出会いも一種の結縁としてである。この僧はいまだ悟ることなく迷いのなかにいるようである。登場して開口一番に次のように言う。

  月が昔の友ならば、月は昔の友ならば
  世の外いづくならまし
 (月が在俗の身であった昔の友なら、世を捨てた今、俗世を離れた世界はどこにあるのか)

 いまだ求道している様子の僧の目前で、遊女が前述の典拠、本説に従い普賢菩薩になり仏の真理が開示されることになるがそれは後述する。

5  『江口』の詞書からみる遊女
 その象徴としての川辺、舟、水、傘

 さて能楽江口では上記本説の二典拠をふまえてどのように遊女がえがかれているのだろう。遊女を象徴する事物を重層的意味合いで取り入れており、各事物を視覚に訴える、あるいは舞台を見る者の想像力にたよって浮かび上がらせている。
江口の君(自分のことを述べて言う)

  たそかれに たたずむ影はほのぼのと
  見え隠れなる川隈に、
  江口の流れの君とは見えん恥づかしや僧(地謡による)
  さては疑い荒磯の波と消えにし跡なれや

 川辺は太古かの聖婚、天皇の川遊びに重なり、また芸能者は海辺(荒磯)、川辺を流浪するものであった。後半「月澄みわたる川水に」舟遊びの情景が展開されるのであるが、その舟は屋形舟の作り物である。江口の君は僧に「江口の君の川逍遥の、月の夜舟を御覧ぜよ」と言い、かつての舟遊びの光景が僧の目前に繰り広げられる。舟は歌舞の舞台でもあるが川の流れに浮かび流れていくものである。「川舟の流れを留めて逢う瀬の波枕」「秋の水漲り落ちて去る舟の」では舟は遊女商売を示唆しまた客の往来、遊女の定めなき身も表現する。それとともに水上の流れにある舟は時のうつろいを意味する。その舟を「御覧ぜよ」と述べるのは、その時間を心行くまで楽しめ、ととれるし、またそのような一時は流れ去るものであることを心に留めよ、ともとれる。
 川辺に流れる水と戯れるよう舞う遊女と水の関係として、水は禊(みそぎ)であると考えてもよいだろう。物語の終結で菩薩の身に変わる遊女について水は禊として罪を清めるもの、またその転生を準備するものであろうとしている(2)。禊は神道、仏教、その他の宗教にもあり転生の契機である儀礼、新生する儀礼として考えられる。『日本民族語大辞典』には「命の水として、復活、蘇生、転生をもたらす」「人、神の性格や能力・肢体などをまったく変えてしまう、転生の水としての信仰がある」とある。
 物語中に扱われる事物のひとつ(能舞台演出では謡いの誘発する想像力にまかせて省略する場合もある)に「ささ」がある。前記本説の江口の君が性空上人を前にしてうたう「ささら波立つ」は波の音とともに、小竹の葉の束、ささらともなる。アマノウズメが天照大神の岩屋でもっておどったのは小竹の手草である。「河竹」の流れの女、江口が巫女の系譜であることも意味するだろう。またツレの遊女は片袖を脱いで棹をもって「月も影さす棹の歌」をうたう。もう一人のツレは傘をさしかける。傘は遊女の好むもののひとつとして『梁塵秘抄』描かれている。

  遊女(あそびめ)の好むもの
   雑芸 鼓 小端舟
   大傘翳し 艫取り女
   男の愛祈る百大夫

 西郷信綱の延喜式には、大傘は后以下、三位以上、および大臣の妻にのみ許すと規定しているので、遊女が大傘をつかえるのは体制外の存在とされていたからではないかと推測できる(3)。またここでわかるのは三位以上の上臈と遊女が同一視されていることである。かつて遊女が宮廷とかかわり官女に近い存在であったことがわかる。内教房の妓女、巫女、遊女的な女官が儀式(五節舞など)に関与したようである。また主殿寮の女官は蓋傘と扇にかかわる職種についていた。これは江口、神崎の遊女たちが傘、扇を用いていたことに関係している。
 「まつ」「松」と「待つ」についてでは「佐用姫が松浦潟・・・宇治の橋姫も訪わんともせぬ人を待つも身の上あわれなり」という詞書になっている。『万葉集』八十七にある松浦潟の引用によって佐用姫が恋人に山頂から別れを惜しむ光景に、遊女の客との別れと重ねている。また訪れようともしない人を待つ宇治の橋姫とは宇治の遊女であろう。この松はまた古代の習俗をも暗示している。また女官の他の仕事として燈燭の役職「松定使」があり、松明に関与し、松の木に火(松は聖なる木)を燃やす役である。また湯殿の火を管理していたので「オマツ」、「マツ女」であった。遊女の巫女的な一側面であるが、性的奉仕や歌舞の奉仕ではない役割も担ったということがわかる(4)。

6 遊女の実相 普賢菩薩

 女の舟上での歓待は『和漢朗詠集下』において貴族の目には次のように見える。

  翠帳紅閨、万事ノ礼法異ナリトイエドモ、
  舟ノ中浪のノ上、一生ノ歓会コレ同ジ

しかし『江口』では

  翠帳紅閨に 枕を並べし妹背も
  いつの間にかは 隔つらん
  およそ心なき草木 情ある人倫、
     いずれあはれを遁るべき、

と歓会の過ぎ去ることを諦観し、草木も人もどちらも世の無常を逃れることはできないと嘆く。そして時には人は愛執の心が深くなり妄執に染まることになるのだと謡う。その後遊女は僧の迷いを見抜くように人の心の罪、迷いについて僧に説き始める。

  げにや皆人は 六塵の境に迷い、
  六根の罪を作る事も
  見る事聞く事に 迷う心なるべし

舞台ではここより序の舞が舞われ、遊女シテと地謡の掛合いの謡いがあり最後に遊女は普賢菩薩となって西の空に帰り行く(流派によってこの演出は異なる)という場面になる。普賢菩薩への変身を予兆させる詞書によって最終部へ入っていくのであるが、そこで法華経の教えが謡われる。

  実相無濾の大海に 五塵六欲の風はふかねども
  隋縁真如の波の、立たぬ日もなし、立たぬ日もなし

ここに至り俗を離れてはいても迷いにある旅の僧に普賢菩薩の姿が顕現し菩薩の教えが開示されるのである。
 普賢菩薩は女人救済を説いている法華経の菩薩であり、仏の慈悲と理知をあらわして、衆生を救う「普く賢い者」とされている。密教では真理を究めて悟りを求めようという心の象徴とされる。観普賢経の教えは「真理を迷いや罪によって覆い隠しているものは、光を受けても光らない。だから、懺悔によって迷いや罪をぬぐいさらねば、いつまでも醜い姿でいるわけになる。そこで普賢菩薩が懺悔の心を起こさせると、今まで自分のいた暗い世界が急に明るくなったような大きな悟りをえるのである」とある(5)。また目の前の現象に惑わされている(煩悩)と、物事の実相がまるっきり見えないようになってしまうので、見える現象ではなく物事の実相、真理を会得するべく懺悔して不変のものを一心に念ずるべきという教えである。
 このような教えを説く普賢菩薩と遊女の関係をどうみなすのか。遊女はもともと普賢菩薩であり、遊女であるのは僧を導く仮の姿、実相ではないとする化現説と遊女自身が最後に悟りを開き、普賢菩薩に転生したとする転生説がある。この二説には各々理由があるが、これまで論じてきたところから普賢菩薩と遊女の関係はこの二説とは異なってくる。なぜなら遊女は巫女の系譜に連なるものであるからである。
 古代巫女の役割、神アソビは歌舞と呪術、神との交信であった。この『江口』に登場しているのは13世紀以前の遊び女、すなわち律令国家において巫女的役割をもち、貴族文化のなかでは祭儀の女官職であったような職能集団からうまれた遊女である。江口の詞書の典拠となった二つの伝承からは僧をさえ諭し導く、気位高い遊女の姿が浮かぶ。また法然上人絵伝の播磨室津において法然の屋形船に近づく遊女の姿から格式ある貴族女性の風貌を見ることができる。
 世阿弥はもともと観阿弥の作になる『江口』を改変したといわれているが、当時の彼の作品は時代(15世紀)の人や出来事を題材とするより、人々の周知している歴史上の著名人物や出来事を題材としている。世阿弥の遊女は当の時代の姿ではないことは確かである。江口の遊女は中世後期ごろには零落の道をたどり、そのころより遊女という呼称は史実より失われ、身分は下落し「辻の君」「傾城」として社会的に蔑視の視線をあびるようになっていた。
 作品の時代背景としてさらに中世の仏教文化の興隆という事実や中世の神仏習合思想を考えなければならない。本地垂迹説によって平安末期から鎌倉にかけて各神に仏、菩薩が当てはめられて、天照大神は観音の化現、大日如来の垂迹となる。世阿弥は禅修行によって深く実践的な仏教の知識を有し、『般若心経』「色即是空、空即是色」をその信条としていた(『遊楽習道風見』)。世阿弥の能楽作品は世間にヒットすることがまず第一のこととなっている。貴族や大衆一般すべて人々の注目を集め、興味をひくことが最重要事として作られていた。それゆえに彼には自分をふくむ当時の人々の宗教心を作品に反映させ、同時に民族の心に深く埋もれ忘却されようとしている歴史的記憶を心に留めて作品を創作したと思われる。
 江口の遊女は中世に出現したアマノウズメであり、このような世に光をもたらす神格は当時の神仏習合思想を背景にするなら普賢菩薩となるであろう。この遊女はこの国の人々の歴史的記憶から呼び覚まされ、はれの日、マツリの日に出現する巫女であり、誇り高い官女であり、顕現する美しい普賢菩薩である。演能空間の非日常において彼女はマツリをとりしきる者となり謡い舞う。普賢菩薩は舞台上から衆生を光で照らすのである。(完)

 《注》
(1) 楢原潤子「中世前期における遊女・傀儡子(くぐつ)の『家』と長者」
  『日本女性史論集9 性と身体』総合女性史研究会編 1998年
(2) 筒井曜子『女の能の物語』淡交社 1988年
(3) 大和岩男『遊女と天皇』白水社 2012年
(4) 同上
(5) 植野慶子「『江口』の遊女と普賢菩薩の同一性前編、後編」
  法政大学日本文学誌紀要 47 48 1993年

 《主な参考文献》
網野善彦 他  『日本民族文化体系6 漂白と定着』小学館 1984年
阿部泰郎    「遊女・傀儡子・巫女と文芸」 『岩波講座日本文学史』第4巻 1996年
小山弘志    佐藤健一郎 校注、訳  『日本古典文学全集謡曲集1』小学館 1997年
末木文美士   『日本仏教史』新潮文庫 2010年
世阿弥      『日本思想体系24 世阿弥禅竹』岩波書店 1975年
久松潜一編   『日本文学史中世』至文堂 1977年

by y-rekitan | 2014-02-28 10:00 | Comments(0)