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◆会報第82号より-02 森本家文書

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《講演会》
森本家文書からみた
近世石清水の神人構成と身分


2017年10月 八幡市文化センタ-第3会議室にて 

竹中 友里代(京都府立大学特任講師)

 
 10月15日(日)、午後1時30分より、八幡市文化センター第3会議室にて「講演と交流の集い」が行われました。表題のタイトルで京都府立大学の竹中先生に講演をしていただきました。先生は以前に八幡市教育委員会文化財保護課に勤務され文化財保護行政に当たられましたので、八幡市の文化財には精通されています。
 概要を以下に紹介いたします。当日の参加者は47名でした。


1.森本家文書 六位禰宜

 f0300125_15372114.jpg今日は江戸時代の石清水でどんな神人がいて、どんな仕事をしていたのか身分的なお話をしたいと思います。
 森本家文書については一昨年府立大学の学術報告書に掲載していて、インターネットでも見ることができます。興味のある方はご覧ください。
森本家というのは森という所を本拠地としています。
森町
男山考古録に「山路郷 檀所町の東 当地の一所森にありて、その名負いけん、今も当所の居住の社人に森本・森元なと称せり」とあり、立田牧場があった場所が森本家の屋敷跡と聞いています。
森本信魚については、「尚次若かりし時、当町森本信魚師として神道を学び道開く」と考古録の著者長濵尚次に指南した先生であったと記されています。1700年代の中頃に描かれた石清水八幡宮全図を見ると森町には多くの寺庵があります。徳川家康から朱印状を頂いている、浄土宗36ヶ組寺としては、観音寺、奥庵(大禰宜能村仲民建立)・玉樹院(森本三郎兵衛建立)・薬薗寺・瑞光寺等がみられますが、その内の薬薗寺については森本家と柏村家が寺の経営に関わるなど、江戸時代中期頃までは寺の建立にも多くの神人が関わっていました。
森本家25代信富(のぶあつ)は、自宅を森本蚕桑館とし、養蚕の研究を行い、明治23年養蚕伝習所委員となり、南山城の養蚕導入に尽力しました。なお、信富の養父信德時代に姓を森元から森本に統一しました。
森本家の文書は52点(神道伝授・祝詞・その他)が確認されていて、特筆されるのは石清水八幡宮補任状で16点が残っていて、その殆どが檀紙(縮緬様の皴がある)で格式の高い紙質です。

2.公文所

公文所とは公的文書を保管・処理する役所ですが、石清水では、天慶2年(939)三綱が設置され、それを公文所のはじめ、としています。
公文所は所司の三綱(上座・寺主・都維那)の上座に位置し、室町時代以降は上野家が代々勤めています。
年中行事・遷宮・将軍社参等の奉行を務め、山上山下僧俗諸神人の執頭であり、補任状交付や成文での神人召請、神人装束の管理を行ない、正月には立松飾・注連縄飾を行っています。
宮寺の公印、いわゆる「正印」は行教自作とされ、行教の身体と同じとして神格化され、将軍や尾張家に献上する祈祷神札には正印が使用されています。
正印は頓宮殿厨子内に保管され、祭列では御正印唐櫃として参列します。
補任状に押されている正印の数を見ると天正元年27顆、寛永11年8顆と中世の書式を踏襲したものから、寛文5年頃には正印1顆となり次第に近世的に様式化していく様が窺えます。
公文所は現在の石清水八幡宮五輪塔(重文)の南辺りにその跡地が記されていますが(石清水八幡宮全図)、寛永9年頃に倒壊したため、当時の田中家の東隣辺りに移転し(石清水八幡宮境内図)、そこで政務をとっていたと思われます。
上野家には、院専―院玉―‥‥―院秀―院芳―紀清慶(慶応4年の維新時に復飾)が確認されている。代々「院」を通字にしています。


3.石清水の外他領神人

 近隣自治体からも久御山、交野市、城陽、京田辺(駕輿丁・御綱曳・御前払・火長陣衆・駒形‥)の神人が奉仕しています。
 石清水坊領として内里村横坊30石、寺田村閼伽井坊15石、鴨川村公文所14石の所領があり、中世荘園の神領として古来より奉仕を通して石清水との関係を継続してきました。
勅祭奉仕では、百姓身分では許されない装束を着用し、村社会で特化した地位を示すことができました。
 具体的な一例として松井村の袖旗神人(御旗神人)の場合、祭礼に際して三韓征伐、神功皇后の袖を袖旗神人の長が箱に入れて奉じ、諏訪ケ原(諏訪明神勧請)で採取した榊を持って長の前後に従っています。(交野市教育委員会『石清水八幡宮放生会絵巻調査報告書』)
 松井村には、氏神の宮座(大座・新座)のほかに八幡座があり、御旗神人が石清水の祭礼奉仕後に、八幡座の頭屋の床の間に神饌・掛軸を、庭には「オヤマ」と称する(オハケ)を飾り、祝詞・拝礼をした後に直会となります。勅裁奉仕した後、村方でも祭祀を行う興味深い事例です。

 他領神人の補任状「宮寺符」は以下の時期に交付されます。
放生会(8/11)、安居神事(12/11)、御神楽(11/2)などの祭礼参勤時。
本社遷宮儀式の際。(元禄6年9月26日、安永7年7月22日)
 元禄6年9月19日には儀式の事前に社務新善法寺晃清による正遷宮儀式参勤命令、公儀普請の為検校による命令書として「宮寺政所下文」等が出されています。 
さらに不定期には家督相続の際にも交付されています。

 
4.石清水神領居住神人

 神宝所神人(神庫の管理、菖蒲革献上)・宮工司(大工)・仕丁座・宮守・神楽座・安居百姓等があり、特長としては徳川家康領知朱印状を持つことがあげられます。慶長5年5月25日付けで361通の領知朱印状が安居神事勤仕を条件に大量に発給されましたが、これは全国的にもめずらしい事例です。
 朱印状所持の神人が安居神事の頭役を勤めることになりますが、安居神事頭役には①宮寺符・安居頭役補任、②安居頭役差定「小差符」(命令書)、③堂荘厳宝樹預差定「木差符」(ご神木の許可) の3種の補任状が出されます。
 駕輿丁美豆下司神人の大森家には、家康朱印状6石8斗や補任状(寛文5~文政12年8通)、文化5年美豆村西堤で行倒人届、天保14年諸商人商物値段書(天保改革による諸品の値下げ)、町法度倹約之事等の古文書が伝わっています。
 八幡宮外四郷の内、大坂(京)への街道沿いの淀大橋の橋詰にあった美豆村は、元美豆村から町美豆へと発展しましたが(石清水八幡宮全図)、大森家は村の年寄として、村政に関わる神人でした。

5.六位禰宜

f0300125_16433735.jpg 森本家は、朱印状源左衛門6石9斗8升ですが、別家に朱印状与次郎48石7斗6升があり、役割として神前瑞垣の内で神官を補佐していました。
 同様に神官を補佐する四座神人(他姓・六位・大禰宜・小禰宜)の内、大禰宜の能村氏は「放生会の時、御こしの戸口を符申候御倉の鑰(かぎ)の役」、小禰宜の奥村氏は「御供を宮守より請取、六位他姓へ渡申、神輿をかさり申候御役人にて御座候」とあり、宮守が用意した神供を禰宜から受取り神前に供える役割を担っていました。
 
 神道伝授について、明和9年(1772)白川伯王家神道門人の小川玄蕃より、鳴弦の儀が森本家に伝授されています。
 また寛政4年(1792)武末霊社(社務田中要清)百年忌に際しては、吉田神道家吉田良倶より三壇妙行の神道儀式を伝授された田中養清に森元信良が従っており、森本家が神道祭祀に詳しい家であることが判ります。
 信恵(信魚)は天明8年(1788)新賀差定により神職神人身分を得、翌寛政元(1789)斎服免許を受けました。また文化14年(1817)息信邑へ家督を譲るに当り社務検校善法寺立清・田中家・新善法寺家へ挨拶と進物を行っています。
 公文所・兼官からは公文所安居頭人補任状(宮寺符)、斎服免許状〈裃着用にて受取る〉、社務(長吏)の袖印を受け、検知の紀直養からは新賀差定を受けて、神官としての神人身分の証を得〈狩衣着用にて受取る〉、放生会・御神楽・遷宮では神官系神人として勤仕しています。嘉永6年の放生会においては森本内蔵助・駿河一・二の鳳輦御太刀持ちをしています。

6.検知 

 神官三家(俗別当・神主・検知)は、紀氏が世襲し、鳳輦にそれぞれ供奉します。
 神前での祝詞奏上を三家が行います。
 俗別当家は慶安5年(1652)以降徐々に衰退していったようですが、詳しくは俗別当家の文書が出てきていないのでよく判りません。f0300125_1741196.jpg
 検知家代々としては紀朝臣検知氏家―検知大夫紀宿祢豊親―公豊―土佐守紀季豊―土佐守紀豊高―若狭守紀豊房―従五位下若狭守紀直養(正四位下近江守紀朝臣直養)―従五位上筑後守紀豊興が確認できます。
 補任状交付の謝礼金が収入源であり、豊かな神人からの援助もあったようです。

7.神官系神人の系譜と身分構造

 僧形の社務検校が神領全体を支配しますが、別当が検校補任によって当職となり、三家廻職により将軍代替り毎に交替します。
 石清水の役所としては所司という事務方が存在し、以下の構成となっていました。
 ・公文所:僧官の上野家が担当。
 ・絵所:僧官の藤木家(善法寺家の家臣)が担当。
 ・判官:俗官の片岡家(田中家の家臣)が担当。
 ・御馬所:俗官の今橋家(新善法寺家の家臣)が担当。
 ・巡検勾当:近世には俗官の小笹家、花井家、片岡家などが担当。
 また検校に付属する兼官の職があり、訴訟や幕府からの触れや事務連絡の窓口となり統治の実務を統括していました。藤木・片岡・今橋家が勤めましたが、社務家家臣、判官などの事務方や検校の秘書的役割を兼ね、検校交代と同時に兼官職も交代しています。
8.むすびにかえて

 公文所からは宮寺符の補任状、検知からも新賀差定・補任状等が交付され、神人が勤仕する儀式・補任状の種別によりにより、以下の神仏の身分的分別がありました。
僧侶系:別当・権別当修理別当 四十八坊‥‥承仕
公文所 安居本頭神人・安居脇頭神人・安居百姓‥‥他領神人
神官系:俗別当・神主・検知 四座・宮守…仕丁

 文化9年(1812)長濱尚次が本殿修復作業に着手する儀式で祭文を読み上げましたが、若干19歳の尚次に大工棟梁としての祭文作成や祭儀の次第等の手ほどきをしたのは森本家でした。森本信德は明治に入って神仏分離の困難な時代に主典として八幡宮の再生に尽力し、また森本信富は南山城に養蚕事業を導入するなど、森本家も代々八幡に大きな足跡を残しました。
以上 (文責 谷村勉)一一


『一口感想』より

今日のお話にもとづいて、神幸之図を見てみたいと思います。
(B.K.)
江戸時代八幡森に足跡を残した人がいたことがわかりました。私が住んでいる所が家田町、田中町の東となりです。もしかしたら、公文所のあった場所の上に私の家が建っているかも知れません。勅祭のこともわかりました。今は神人役がいないので大変です。八幡のことを再発見しました。用事が重なり参加出来ないことが多いですが、時間が空けば勉強させていただきます。
(T.M.)
今日のお話はちょっとむつかしい。また、ちがう切口、観点でお話が聞きたい。有り難うございました。
(K.T.)


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by y-rekitan | 2017-11-27 11:00 | Comments(0)

◆会報第82号より-05 石清水祭

勅祭・石清水祭に学ぶ

野間口 秀國(会員)


 私たちの住む八幡市にても季節を通して大小数多くの祭りや行事が催されていますが、それらの全てを知り、直接見たり参加したりすることは容易では無いのが実情ではないでしょうか。「勅祭・石清水祭」もその一つでした。五年前に一度、深夜に御鳳輦(ごほうれん)が八幡宮山上から頓宮へ降られるご遷座の行列を見学し、引き続き放生川(現在の大谷川の一部で、男山考古録(*2)に、 ・・上ハ飼屋橋より、下ハ禅昌寺前の石橋まで・・ とある)で執り行われた放生会の諸次第も見学いたし、とても興味を持っておりました。そんな中、この秋に幸いにも、石清水八幡宮で年間百余り斎行される祭典の中で、最も重要な祭典である「勅祭・石清水祭」(*1)の斎行に初めて参加できる機会をいただきました。本号では、そこでの体験談と学びを書いてみたいと思います。

 九月十五日未明から夜にかけて執り行われる「勅祭・石清水祭」に先立ち、同十二日午後二時半から石清水八幡宮の山上にある体育館で「ご奉仕のご案内」と題する説明会があり参加いたしました。小雨模様の中、開始時刻より少し早めに会場に入ると、体育館の広い床にはそれぞれの役割に対応した装束や履物などが大小おおよそ100ブロックほどに別けられ準備されており、係の方々が必要なものの確認や補充などをされておりました。参加できることへの緊張感が改めて感じられたひと時でした。定刻になると石清水八幡宮のご担当権禰宜様よりご挨拶をいただき、引き続いて祭りの意義や心構え、肌着は白色で首周りはV首もしくはU首のものなど、身に着ける衣服などの具体的な説明を受けました。

 その後、指定された所定のブロックに移り、参加する所属団体の係の人(先達)より当日のご奉仕概要やタイムスケジュールなど具体的な事項の説明がなされ、引き続き装束の説明とそれらの着付けの練習に入りました。f0300125_10442726.jpgなにしろ初めてのことゆえ、指導していただく方に従って衣装を身にまとうことに集中しました。肌着の上に、先ず白衣(はくい)を身に着け、白い袴(はかま)をはき、黄色の衣装・黄衣(おうえ)をまとい、白足袋(しろたび)をはき、草鞋(わらじ)をはいて、最後に烏帽子(えぼし)をかぶります。上半身、下半身の装束はその殆どがフリーサイズで、特に袴は最下部にある紐を使って身の丈に合せられるように工夫されておりました。このことは、この夏、とある演奏会会場にて有名な和楽器奏者の説明されたことがとても役立ちました。こうして身に着けたすべての装束を脱いで元のようにたたみ、着付けの練習は終わりました。最後に開催当日の細かなスケジュールを再度確認の後、参加者用の駐車券や石清水祭用ケーブル臨時運転時刻表などをいただき午後四時頃に説明会は終わりました。

 ここで石清水祭について少し記したいと思います。石清水祭の起源は、清和天皇の貞観五年(八六三)旧暦八月十五日、宇佐宮の放生会に倣って始められた石清水放生会に遡るとされています。これは、そもそも諸々の霊を慰め供養するため、男山の裾を流れる放生川のほとりで生ける魚鳥を解き放つ法会を催してほしい、との八幡大神ご自身の願い(神願=じんがん)に基づくものでした。また、石清水祭は勅祭であり、天皇陛下の御使いである勅使が参向され、天皇陛下からのお供え物を奉献される祭典で、八万社ある神社の中でもこの勅祭が斎行される神社「勅祭社」は十六社しかありません(*1)。

 さて当日(九月十五日)は、真夜中、午前零時半までに前述の体育館に集合することになっておりましたので、遅れることなく日付の替わる頃には出向きました。十二日の練習どおり、全ての装束を順番に身に着けると不思議と緊張感が高まりました。ご奉仕の途中で緩むことがないようにと草鞋の紐は特にしっかりと締めました。当日私に与えられた役割は「御綱曳神人(みつなひきじにん)」であり、「黄衣を身に着けて各御鳳輦の前後に結びつけられた朱綱で参道の昇降を佐ける」ことでありました。今回参加して、石清水祭は思いの外祭りの次第が多く、実際には十四日の夕刻から十六日の午前中まで、足掛け三日にわたる行事であることも初めて解りました。装束を整えてから待つこと二時間近く、午前二時に「神幸の儀」が始まるまでの時間は、短くも、また長くも感じられました。私たちも御神霊のご移動に用いられる御鳳輦(ごほうれん)の近くへと移動して、午前三時ごろいよいよ「御鳳輦発御(ごほうれんはつぎょ)」を迎えます。三基の御鳳輦を中心に約五百名の神職・楽人、また神人と呼ばれるお供の行列が松明や提灯の灯りだけを頼りに山上の御本殿から山麓の頓宮へと向かいます。

 この時間帯にはさすがにほとんどの物音は聞こえませんでした。本殿から参道を提灯の灯りを頼りに降りることは容易なことでは無く、滑ったりしないように、油断なく一歩一歩と歩みをそろえて足で探るように進んでゆきました。おそらく四~五十分ほど経過したでしょうか、行列は麓の絹屋殿(きぬやでん:六本の掘立柱に支えられ、四方に白絹を張り廻らした臨時の建物)に到着します。ここでは里神楽(さとかぐら)の奉奏などがあり御神霊が奉迎されます。その後、「頓宮神幸の儀」に移り御鳳輦が頓宮殿に入御されます。ここで私たちの前段の役目が終わり、少し緊張が解けるのが分かりました。そのまま車を停めてある駐車場へと向かい一旦帰宅しましたが、祭りは御鳳輦の入御の後にも多くの次第が執り行われ、f0300125_10522149.jpg午前八時すぎには放生行事がありました。これは前述のとおり宇佐宮の放生会に倣って貞観五年(八六三)に始まるといわれ、生類の殺生を慎み、捕らわれた魚鳥を山川に解き放つ善行が尊ばれて多くの人々が奉仕されます。安居橋で奉納された胡蝶の舞いも翌日の新聞にて報じられております(*4)。

 さて、夕刻(十七時)より執り行われる「還行の儀(かんこうのぎ)」に遅れることなく、再び頓宮へと集合いたしました。この儀式は十八時三十分頃の「御鳳輦発御(ごほうれんはつぎょ)」まで頓宮の内側にて執り行われました。この儀式のあいだ、浅葱幕(あさぎまく:薄い水色の地に白の矩形のある布)で覆われた頓宮の頓宮殿裏あたりで発御を待ちました。この間、私たち御綱曳神人とは異なる役目で行列を構成する、他の役目の人達の装束・用具・提灯などを直に目にすることができたことは貴重な時間でした。ところで、この行列の構成や順番は「八幡宮寺年中讃記 下」(*3)の項にとても詳しく書かれていることが解りました。八月十五日に行われるこの行事名をはじめ、御輿次第の項には、御綱引二十人、前左五人、右五人、後左五人、右五人とあり、これらは三基の鳳輦すべてに共通の内容でした。私の担当は次三御輿(三番目の御輿)の引手二十人の一人であり、位置は後右五人に該当していたことが理解できました。着衣に関しても、役割毎に記されてあり、とても興味ある内容でした。同時に、本稿冒頭の「ご奉仕のご案内」の個所にて「およそ100ブロックほどに区分して準備されており・・・」と書きましたが、これらの準備や管理がいかに大変なことであるかを改めて理解でき、お世話いただいた方々に感謝の念で一杯でした。

 「御鳳輦発御(ごほうれんはつぎょ)」は暗くなるのを待つようにして十八時三十分頃から開始されました。暗くなった参道を提灯の灯りを頼りに気を引き締め、御鳳輦に従って山上の本殿へと向かい、無事に著御(ちゃくぎょ)がなされると役目を終えることができました。文中で何回か使いました「御鳳輦」は、石清水祭における御神霊のご遷座(ご移動)が「御神輿」ではなく「御鳳輦」といわれるためであり、前号での「御輿」とは呼称が異なることや、直前の文章中にある「著御(ちゃくぎょ)」の表現なども「着」と「著」の独特の使い分けの用例であることも学びました。

 このような貴重な体験の一カ月後、10月15日には「森本家文書からみた近世石清水の神人構成と身分」と題する当会主催の竹中友里代氏をお招きしての講演(*5)を聴講する機会がありました。その講演にて話された、年中行事における神人招請の目的の成文(なしぶみ)と呼ばれる「補任状」が、現在でも石清水祭にて石清水八幡宮の印が押されて公布されていることも後日学ぶことができました。「動く古典」といわれる斎行の体験とその後の講演の聴講は、神人と石清水祭のこと、そして石清水八幡宮の活動に関する理解がさらに深まるものでした。本稿をまとめるにあたり色々ご教示いただきました石清水八幡宮の関係者の皆様に紙面より感謝申し上げます。
(2017.11.02記)一一
 
(*1)『勅祭石清水祭』 石清水八幡宮発行の冊子
(*2)『石清水八幡宮史料叢書一 男山考古録』 第十一巻 藤原尚次著
 石清水八幡宮社務所発行
(*3)『石清水八幡宮史料叢書四 年中神事・服忌・社参』
 石清水八幡宮社務所発行
(*4)京都新聞の2017.9.16付け朝刊記事
(*5)「講演と交流の集い」の配布資料、2017.10.15 八幡市文化ホールにて開催
講師:竹中友里代氏

 
 
by y-rekitan | 2017-11-27 07:00 | Comments(0)

◆会報第81号より-02 牛玉宝印

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《講演会》
石清水八幡宮の牛玉宝印ごおうほういん

2017年8月 
さくらであい館(イベント広場)にて

鍛代 敏雄(東北福祉大学教育学部教授) 
                 (石清水八幡宮研究所主任研究員) 

 
 平成29年8月26日(士)午後2時より、今春建造されました「さくらであい館イベント広場『淀』」で「石清水八幡宮の牛玉宝印」の講演と交流の集いが開催されました。
 「牛玉宝印」とは聞き慣れない言葉で、現物も見たこともないものでした。 社寺から出される厄除けの護符で、石清水八幡宮でも出されていたものです。今回の講演で、その内容を知り、現物の映像を見る事ができました。講師の鍛代敏雄教授は、石清水八幡宮研究所主任研究員として毎夏八幡にお越しになり、その都度講演をご依頼しております。今回もまた、新しい演題でお話を聞くことが出来ました。 鍛代先生ご自身によるご報告は以下の通りです。なお、当日の参加者は、40名でした。

はじめに

 牛玉宝印とは、主に権門寺社の修正会および修二会の年始法会において作成された、神仏と結願した護符のことです。一般には、宝印を翻して、起請文が書かれることが多く、その料紙は鎌倉時代の13世紀半ばころのものが残っています。f0300125_17114199.jpg
 石清水の場合は、文献上、13世紀前半に確認できます。実際の牛玉宝印の料紙は、14世紀後半のものが石清水八幡宮に所蔵されています。石清水八幡宮の牛玉宝印について調査・研究する意義は、牛玉宝印を通して、①神仏習合(神仏同体)の祭祀と信仰の実態を究明できる点、②文献(古記録・古文書)・料紙・版木・宝珠印の総合的な研究が可能な点、③中世の荘園制的社内経営に関し、牛玉宝印の頒布を通じた師檀(師匠-檀那)関係にみる信仰経済への転換が知られる点、以上があげられます。

Ⅰ 修正会と修二会の作法 

 石清水八幡宮牛玉宝印の文献は、寛元2年(1244)の石清水八幡宮所蔵「宮寺並極楽寺恒例仏神事惣次第」(『石清水文書』1-62号)の修正会・修二会において初見できます。本社本殿では、元日に俗別当・神主・禰宜らによる土祭神事(地鎮祭)が執行されました。
ついで社務・別当・所司らが参列し、社僧の導師が十二相の声明など、国家安泰・護国豊穣・万民快楽の仏事を執行します。牛玉宝印は正月から中御前大床上に、4日まで北向、4日から南向に置かれました。7日には、外陣の正面に棚を据えて、その上に牛玉杖(牛玉宝印を折りたたんで柳や竹の棒を挟んで杖状にしたもの)を並べて、祈祷を通して結願、結縁させました。また導師は別当・祠官・所司らの額に宝印(如意宝珠朱印)を捺します。そして、牛玉賦と称し参列者に牛玉杖が賦られました。
 8日は、若宮殿の修正会が山上所司、公文所・目代・正印預らによって執行されました。同じく8日には、護国寺の修正会が催行されました。社僧によって荘厳された堂内、仏前(本尊・薬師如来)に牛玉を置きます。12日まで北向→12日から南向です。14日、仏前の棚に牛玉杖を積み、同じく別当らの額に宝印が捺されます。ついで牛玉賦が行われました。興味深い点は、本社ではない、「鬼走」という作法が14日夜に催行されます。鬼形の衆僧が鬼走といって乱声、牛玉杖で身体を打ちながら堂内を3周走り廻り、穢と災厄を祓いました。
 なお、牛玉杖は、何本、何把と数えられ、百本単位、社内で配布されました。石清水では明治維新後、神仏判然令にしたがい、仏事が廃されて作成されていません。

Ⅱ 本社系と坊舎系

 現在残っている八幡宮牛玉宝印を通覧しながら、石清水の場合の特質を確かめていきます。現存最古の宝印は、応安5年(1372)の新善法寺永清起請文(『石清水文書』6-404号)に用いられた、墨書(肉筆)の牛玉宝印です。牛玉宝印の先駆的研究者、相田二郎氏は、石清水の場合、墨書が先行し後に版木刷となり、また墨書が登場すると書かれていますが、鎌倉以降、江戸期に至るまで大量に頒布されていますので、墨書の牛玉宝印は例外的な特殊事情により作成されたと見なされます。
 版木により作成された牛玉料紙の法量については、最小が縦23.7㎝、横34.2㎝、最大が縦31.5㎝、横44.5㎝になります。15世紀には「小牛玉」という名称が登場しますが、大量に頒布されるようになると、小型化するものと思われます。この点は東大寺などと同様の事象で、千々和到氏の研究により、東大寺二月堂の縦切紙は15世紀前半から知られています。
 石清水の八幡宮牛玉宝印の字配りは、中央に「八幡宮」、右側に「牛玉」、左側に「宝印」とあり、中世から近世まで共通していますので、それ以外の形態は石清水以外の八幡宮牛玉宝印と考えて間違いありません。ただ、「八」の字形は、楷書の「八」の書き出しを鳩の首のように曲げたものと、「神鳩」の意匠で「八」としたものとに大別されます。後者の神鳩は、顔を向かい合わせとした向鳩と、首・背中合わせのものとに分けられ、坊舎の版木で刷られた牛玉宝印に用いられています。
 したがって、遅くとも織豊期以降は、本社の御蔵で作成された本社系牛玉宝印と、各坊で作成された坊舎系牛玉宝印が各坊でさくせいされたものとに分類できます。前者は、小綱(少綱)神人や仕丁神人らによって本社東回廊東門下の北側にあった御蔵で刷られ、宝珠朱印を捺して、本社で結願されました。後者の坊舎系は、坊内で刷られ宝印を捺して、供僧を勤めていた神宮寺の護国寺で結願されたものと思われます。
 如意宝珠の朱印については、印文の「八」「卍」が定型です。先に述べた最古の牛玉料紙、版木刷りの現存最古、大永8年(1528)の山吉政久起請文(『上杉家文書』1-351号)、天正16年(1588)の島津龍伯(義久)起請文(『永青文庫叢書細川家文書中世編』口絵、84号文書)などに用いられています。
 その外は、主に近世の宝印に認められるように、印文がないかわりに、宝珠印のなかに小形宝珠を3つほど配した印章がありました。
 なお、特例としては、現在、奈良柳生の芳徳寺所蔵の石清水八幡宮牛玉宝印には、種子「ア」(胎蔵界大日如来、真義真言宗では阿弥陀如来と同体)の印文のある宝珠朱印が捺されています。石清水の社僧は真言僧ですから、違和感はありませんが、この1点以外に確認できません。なおまた、この牛玉宝印の料紙には、牛玉杖にする際の折り目の筋がはっきりとのこっており、石清水においてどのように料紙を折りたたんで牛玉杖が作成されたか明らかになります。

Ⅲ 版木と如意宝珠印

 石清水八幡宮には、「八幡宮牛玉宝印」の版木が所蔵されています。法量を調べますと、版木は縦28.3㎝、横48.0㎝で、枠端の厚2.3㎝、内側の厚1.8㎝、端の幅2.0㎝で、枠左端の中央に幅1.3㎝、深さ0.4㎝の凹があります。おそらく刷る際に左手の親指で料紙を抑えるための窪みだったと思われます。
 また、版木の文字の法量については、縦最長で「八幡宮」は24.8㎝、「牛玉」19.7㎝、 「宝印」22.0㎝、横最長が36.5㎝です。料紙の大きさは区々ですから、今後の調査では、文字の法量も測っておくと、比較する上で効果的であると考えられます。
 なお、本版木と類似の牛玉宝印はありますが、まったくの同じ版刷りの石清水八幡宮牛玉は残存していません。
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 次に相伝の宝珠印章をみましょう。
 その一つは、嶋村家に残った印章で、竹中友里代氏の調査報告によれば、火焔の光背に囲まれた「八」「卍」の印文があり、法量は縦9.8㎝、横8.4㎝のものです。いま一つは、最近、再発見されました石清水八幡宮相伝のほぼ同様の印章で、光背と二重郭内に「八」「卍」の印文が刻まれた、縦8.9㎝、横8.1㎝の宝珠印です。おそらく上記の版木とセットで残ったものと考えられますが、明治以降に神職として石清水八幡宮に奉職された、辻村氏が保存していた印章だったとみて間違いありません。辻村家は、嶋村家とひとしく近世の仕丁神人ですから、かれらには牛玉宝印の作成という重要な家職があったということができます。

Ⅳ 贈与と頒布

 石清水八幡宮の牛玉宝印について、文書上の表記・呼称を調べてみますと、
  ア)「牛玉宝札」
  イ)「御祈念牛玉」
  ウ)「御祈祷牛玉札」
  エ)「祈祷札」「御祈祷札」
などを確かめることができます。國學院大學図書館が所蔵する橘本坊の牛玉宝印には、「石清水八幡宮 御祈祷御札 橘本坊」の貼紙と、「(宝珠朱印)石清水八幡宮守護所」の短冊形の神札、向鳩の牛玉宝印に宝珠朱印が3顆捺されています。3セットで檀那に頒布されたものでしょう。
 このように、護国寺や極楽寺の供僧を勤め、境内の仏神事を実際に執行し、なお社内経営にかかわった坊人・社僧の坊舎は、延べて60舎ほど知られていますが、それぞれが檀那をかかえていました。たとえば、上記の橘本坊は足利将軍家・政所伊勢氏・政所代蜷川氏、小田原北条氏・古河公方足利義氏、橘坊は尼子晴久、泉坊は島津義久、滝本坊は豊臣政権、豊蔵坊は徳川家康・秀忠といったように、幕府、戦国大名、天下人までも檀那でした。
 いわば師檀契約に基づく、石清水八幡宮の取次坊だった坊は、牛玉宝印とともにいくつかの贈り物を神物として贈与、頒布しました。もちろん、返礼・報謝がありましたので、坊舎の経済基盤ともなりました。たとえば、牛玉宝印とセットで贈られたものには、巻数(祈祷報告書)・香水・扇・杉原・筆・紅帯、とくに武家には弓懸・菖蒲革が戦勝祈願に贈られています。
 贈与の例は、室町時代からわかりますが、その内実は、荘園の管理といった神領関係、戦国期の本社造営(幕府が守護大名に命じた国役としての勧進奉加)にかかわる寄進関係、また坊舎の師檀関係をめぐって史料がのこっています。

おわりに

 今回の報告について、最後に要約しておきたいと思います。
 その(1)は、石清水八幡宮の「八幡宮牛玉宝印」は、史料上、寛元2年(1244)が初見です。石清水八幡宮の本社、若宮、護国寺などの修正会および、護国寺・大塔・極楽寺などの堂舎で修二会が催行され、かかる神仏習合儀礼の場で神仏と結縁・結願された護符である「八幡宮牛玉宝印」が作成されました。
 その(2)は、石清水八幡宮の「八幡宮牛玉宝印」は、中世から近世を通して、主に版木によって刷られ大量に頒布されました。まれに墨書(肉筆)のものがありました。現在のこっている中世・近世の料紙から判明することは、まず字配りは、中央部に「八幡宮」、右側に「牛玉」、左側に「宝印」と見えます。また本社系と坊舎系とに大別できます。その特色は、本社系のものが、「八」と刻まれているのにたいし、坊舎系のものは、「八」を「神鳩」の意匠となっている点にあります。ついで、朱印で捺された宝珠印の印文については、「八」と「卍」が定型で、宝珠の中に小形の宝珠がある場合も見られ、なお1点だけ胎蔵界大日如来(種子)が確認できます。
 その(3)は、贈与・頒布からみた信仰経済の問題です。石清水八幡宮の「八幡宮牛玉宝印」は、戦国期以降、主に武家との師檀関係にもとづいて贈与・頒布されていました。中世末期における荘園制度の崩壊は石清水の場合も例外ではありません。社内の経済は、荘園経済からの転換がはかられました。とくに社僧である坊舎は、全国に檀那を抱え、参拝の取次や宿坊などの経営が主になります。その中世から近世への転換期の古文書から、戦国大名や天下人、幕府との信仰経済が確かめられました。

〔付記〕今回の報告については、拙稿「石清水八幡宮の牛玉宝印に関する一考察」(『東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館 年報 8号』(2017年6月)を土台にしています。詳細についてはこの報告書をご参照ください。
 
『一口感想』より

永青文庫に残る島津の起請文のお話はとても面白かったです。それとともに檀那の契約が売買されたというのもび‘っくりです。 (K・B)
起請文として使われた牛王宝印のことを初めて知ることができました。ありがとうございました。  (T・Y)
 

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by y-rekitan | 2017-09-26 11:00 | Comments(0)

◆会報第80号より-01 豊蔵坊信海

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心に引き継ぐ風景・・・⑪

豊蔵坊信海と北村季吟きたむらきぎん


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 豊蔵坊信海(孝雄)は松花堂昭乗の門人であり、藤田友閑、中村久越らと共に
歴史に登場する。後年は狂歌作者として名を馳せ「豊蔵坊信海狂歌集」がある。
豊蔵坊は三河以来の徳川家の祈願所であった為、107石の領地朱印状を有し、年に3度、将軍に拝謁している。他に伏見奉行所より300石を支給されており、壮大な坊舎が絵図から見て取れる。今、跡地には「豊蔵坊跡」の三宅碑が建ち、石垣のみが往時を偲ばせる。
 信海、終生の友として、北村季吟がいる。季吟は現在の滋賀県野洲市の出身で
父宗円が京都に出て医や連歌を学んだ為、季吟も早くから医業を学び、長じて山城長岡藩の藩医であったことが知られている。俳諧は初め安原貞室(やすはらていしつ)に学び、後に松永貞徳の門に入る。貞徳没後「宗匠」として独立後の門人には、かの松尾芭蕉がいる。季吟が八幡豊蔵坊を直接訪れたのは寛文元年(1661)8月28日、季吟38歳、信海36歳の時であった。5日間逗留し、その時の贈答歌が残る。
信海が元禄元年(1688)9月13日に63歳で没した翌年、季吟は幕府歌学方として五代将軍綱吉に仕える。神應寺19世・廓翁鉤然(かくおうこうねん)に帰依する大奥総取締「右衛門佐(えもんのすけ)」はこの時期に多くの上方文化人を江戸に呼び寄せたが、季吟の推挙にも関わった事が容易に想像できる。

(写真と文 谷村 勉)空白



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by y-rekitan | 2017-07-24 12:00 | Comments(0)

◆会報第78号より-05 八幡宮道

石清水八幡宮を指し示す--
-- 「八幡宮道」の道標の数々


谷村 勉 (会員)

 八幡とその周辺の「石清水八幡宮」を目指す道には、江戸時代の個性的な道標が現在も残り、古来「やわた道」、「八幡宮道」と呼ばれた事が判ります。
 八幡の道の歴史は数々の道標に導かれる八幡宮参詣道の歴史です。現在も「八幡宮参詣」の道しるべとして残る主に江戸時代の道標の数々を紹介しますが、時代々々に建立された道標の数から、八幡は道標・石碑の町と言っても過言ではありません。八幡の南北に走る「八幡宮参詣道」を最近俄かに「東高野街道」などと言いだした人々は八幡の歴史や聞き取り調査、綿密なフィールドワークを怠ったと思われます。八幡の道の歴史を学べば分る事ですが、「八幡宮道」や「やわた道」などの道標の数々は、これが本来の八幡の歴史街道であることを雄弁に物語っています。「八幡宮参詣道」は八幡を訪れる道として紛れもなく「八幡宮への信仰の道」として機能してきたのでありました。

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① 楠葉野田一丁目の
江戸時代再建の道標

「左  八 ま ん 宮」
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「右  志 み つ」

(文久二壬戌年四月再建・1862)
縦104㎝ 正面幅30㎝ 横24㎝

右側の道標は再建以前の道標(折損か)   「八まん□□」
   (寛政元己□・1789)
縦54㎝ 正面幅24㎝ 横23㎝
橋本経由の八幡宮道と切通を経て八幡志水に抜ける道を示している。


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② 楠葉中之芝一丁目
「久親恩寺」の地蔵道標

「八まん宮道」

(寛保三亥十一月吉日・1743)
縦111㎝ 正面幅27㎝ 横24㎝
地蔵尊像の形態:座像
持ち物:錫杖、宝珠

久親恩寺には道筋の変更や宅地開発などで行き場を失った道標が集められたようだ。


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③ 楠葉中之芝一丁目
「久親恩寺」地蔵道標

「すく 八まん道」

(年代不詳)
縦89cm 正面幅22cm 横17cm
地蔵尊像の形態:立像
持ち物:両手で宝珠

正面、地蔵尊像下の文字は判読困難。「すく」とは、直ぐ、まっすぐ行くと、の意。「すぐ」、「春具」も同じです。


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④ 楠葉中之芝一丁目
「久親恩寺」の地蔵道標

「すく 八まん宮」
「右 かうや 左 はし本道」


(年代不詳)
縦47cm 正面幅30cm  横10cm
地蔵尊像の形態:立像
持ち物:両手で宝珠

「右かうや」の文字は橋本から楠葉中之芝を通り交野山を目標に招堤方面を指している。
橋本・楠葉に旧高野道の存在を証明する大変貴重な道標です。舟形光背の上部は破損している。


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⑤ 楠葉中之芝一丁目
「久親恩寺」の墓碑道標

「右 やわたみち」
「すく 京 み ち」


(天保四巳年四月十八日・1833)
縦77㎝ 正面幅30㎝ 横29㎝

元は京街道沿いにあったようだが、街道筋の変更により寺院内墓地に移転されたようだ。


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⑥ 橋本中ノ町の道標

「八 ま ん 宮」
左り--------
「いせ京伏見」

    
(明和四年丁亥二月・1767)
縦 116cm 正面幅 28㎝ 横 27㎝



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⑦ 橋本北ノ町の道標

「右 八まん宮山道*** 
***これより十六丁」


(文政二己卯年二月吉日・1819)
縦116cm 正面幅25cm 横21㎝

道標の位置が動いている。狩尾社から八幡宮へ向かう道筋を指している。


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⑧ 伏見区淀際目町の道標

「八まん宮ミち」
----------
「か わ ちミち」

(宝暦三癸酉歳四月・1753)
縦126cm 正面幅21cm 横20cm

旧八幡際目郷、昭和 32 年京都市伏見区淀に編入。
旧木津川堤道(奈良道)近くに建っていたとのこと。横のお堂は近隣寺院の廃寺により、住民によって
お堂が建てられ、大日如来坐像等が安置された。


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⑨ 美濃山井ノ元の
「指さし地蔵」道標

「八はたへこれから」

(年代不詳)
縦60cm 正面幅33cm 横18cm
地蔵の形態:立像
持ち物:左手に宝珠

右手で「八はた」の文字を指している、珍しい「指さし地蔵」です。
元は近くの河原地区道沿いにあった。


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⑩ 八幡旦所「青林院」の道標

「西 八幡宮道」

(年代不詳)
全長123㎝ 正面幅19cm 横15cm

倒置


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⑪ 頓宮西の倒置道標
(巨大五輪塔の向い)

正面「左 八幡宮道」
裏面「是より北荷馬口附の者来へからず」


(年代不詳)
全長 280cm  正面幅24㎝ 横 24㎝

角柱の周りに縁取り加工をした立派な道標
道路工事の際、一旦八幡宮に預け、そのままになってしまったのか?


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⑫ 八幡大芝「八角堂」の
役行者道標

「すく 八幡宮」

(慶応三年丁卯八月日・1867)
縦127cm 正面幅24cm 横22cm
役行者座像 持ち物:錫杖、経巻

元は志水大道沿いにあったが、道路工事により八角堂に入った模様。役行者像が彫られている。八角堂は工事中の為、現在入れません(2017.02.10)
(左の写真は神戸市/故荒木勉氏撮影)


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⑬ 正徳 3 年
「御幸道(みゆきみち)」道標

「石清水八幡宮鳥居通御幸道」

『男山考古録』に「正徳 3 年(1713)石清水八幡宮鳥居通御幸道という標碑を建てられたるは、検校新善法寺行清法印也」とある。
 近年、御幸橋南詰に設置されていたが、平成 21 年以降「御幸橋」付替え工事により八幡宮頓宮敷地内に仮置きされている。
 石清水八幡宮境内全図(重文) や山上山下惣絵図には「御幸道」と共に「御幸道の道標」の存在も記載されていて、京街道分岐点から一の鳥居の道を指している。折損の為、御幸道の部分がコンクリートによって塗り固められていた為、文字が隠れていた。

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⑭ 枚方市上島町の
八幡宮参詣道地蔵道標

参 詣 道
八幡宮----------
橋本へ一里


(安政三丙辰年十一月・1856)
縦200㎝ 正面幅30cm 横22cm
地蔵尊像の形態:座像
持ち物:錫杖 宝珠

枚方市(牧野)の京街道、船橋川の堤にある高さ 2m の重量感のある八幡宮参詣道の道標。
枚方市岡本町の文政九丙戌年(1826)建立の道標には「左 六り やわたニり」とある。


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⑮ 枚方市町楠葉の地蔵道標

右 八幡宮

(天保三年辰年一月吉日・1832)
縦157cm 正面幅31cm 横25cm
地蔵尊像の形態:座像
持ち物:錫杖 宝珠

長福寺内にある地蔵座像道標、保存良好で驚くほど美しいが、再建された道標だろうか


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⑯ 大山崎町の地蔵道標

右 八わたミち
左 よどふしみ


(年代不詳)
縦96cm 正面幅40cm 横20cm
地蔵尊像の形態:立像
持ち物:錫杖 宝珠

離宮八幡宮より西国街道を北へ大山崎小字傍示ノ木辻にある。
大山崎町唯一の「やわた道標」と思われる。



「石清水八幡宮参詣道」にいわゆる「東高野街道」の名称はふさわしいか?

 八幡やその周辺に残る八幡宮参詣道の道標を調査した結果、「八幡宮道」や「やわた道」などと書かれた道標を一部紹介することができました。現在はこれ以外にも驚くほどの数の「八幡道標」が発見されています。これらはいづれ「八幡の道探究部会」の活動成果として紹介したいと思いますが、「文化財」として大切に保全されているこれらの道標を見るにつけ、八幡の悠久の歴史が消される危険性が潜む、殆ど馴染みのない高野山や和歌山の道を八幡に出現させる事などは「勘違いの行為」としか思えません。一体誰の為の八幡でしょうか。

 自分たちが住んでいる町の歴史をもっと大切にして欲しいものです。いわゆる「東高野街道」が在って国宝「石清水八幡宮」が路傍に在るのでは決してありません。石清水八幡宮が遷座(貞観元年・859)した後に八幡の南北の道が整備されましたが、弘法大師空海は八幡宮が遷座される以前に入定(承和2年・835)されています。従って弘法大師空海はいわゆる八幡東麓の東高野街道という名の道を歩くはずもありません。高野道とは嘗(かつ)ては弘法大師空海が高野山への道をとったという古い街道のことを指したものですが、八幡宮の参詣道が洞ヶ峠から河内の高野道に繋がった為、八幡宮参詣道を通って洞ヶ峠から高野道を利用する人が居たに過ぎないのです。津田や交野や八尾から八幡宮を目指す人々にとっては八幡に向かう道は「京道」であり「やわた道」でありました。
 固有の歴史を大事にしてきた八幡ですが、八幡を知らない学者の書いた論文や文献を読むだけの表層の知識の鵜呑みでは八幡の道の歴史は語れません。嘗て東海道五十七次と云われた大坂・京都間の道では、役人はいざ知らず、住民は東海道と呼ばずに、京街道、大坂道などと呼びました。明治時代、八幡の道を嘗て役人が東高野街道と言った時期があるようですが、八幡の住民は誰もその様な呼びかたはせず、今でも八幡宮道、御幸道、常盤道、志水道などと呼んで歴史的呼称を大切にする気概をもち、生活の中に活かしてきました。八幡の道が「石清水八幡宮への信仰の道」であることを住民誰もが知っていたのです。八幡周辺の行政区にある「八幡宮道」などの道標の数々を見れば、八幡の道は八幡宮参詣道として重要な機能を果たし、八幡宮在っての八幡の道であり、高野山在っての八幡の道でないことは明々白々なのです。固有の歴史を大事にし、それを主張してこそ観光客や住民も納得しますが、借物の名称では誰も振り向くものではありません。
以上----

by y-rekitan | 2017-03-22 08:00 | Comments(0)

◆会報第76号より-05 詩歌と八幡の歴史④

シリーズ「詩歌に彩られた八幡の歴史」・・・第4回
都名所図会と八幡讃歌

 土井 三郎 (会員) 


画期的なガイドブック

 『都名所図会』は、安永9年(1780)に京都の吉野家為八という書林(出版者)から刊行されました。著者は秋里籬島(あきさとりとう)、さし絵は竹原春朝斎です。大本(おおほん)というゆったりした判形で、鳥瞰図という新鮮なさし絵が人気をよび、名所図会のはじまりを告げるものとなりました。平易な文章に和歌や発句を適宜挿入し、有名社寺の紹介をはじめ、名所旧跡にまつわる伝説や風俗習慣、年中行事まで細かく説明されています。特に、社寺の鳥瞰図や風俗・祭礼図を多数掲げていることは、当時の京都を知るうえで手掛かりになるばかりでなく、娯楽性に富んだ地誌案内記として高く評価されています。
 批判すべき点が少なくないことも事実です。例えば、庭園や社寺の由緒縁起等の説明について誤りがあり、引用和歌中にもしばしば間違いがあるのです。しかし、前者について、社伝や寺説を批判・検討しないまま記述されているのは、当時において絶大な権力をもつ門跡寺院や大きな社寺の説を無視し、自説を述べることはきわめてむずかしかったことを考慮すべきであり、後者については、写本のごとき多くの人手によってできた書物から、写しあやまりがあるのは当然のことであり、絶対正確を期待する方が無理というべきであるとの指摘がされています(※1)。
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松と月

 『都名所図会』は六巻・六冊で構成されており、八幡は、第五巻の冒頭から収められています。まず、八幡宮参詣の折の土産の紹介に始まり、神宮寺、御旅所(おたびしょ)(頓宮)など山下の概要、石清水八幡宮本社(山上)の景観を見開きにして計7頁の挿絵で示し、後は本文にて八幡宮の成立や堂宇・僧坊の概説をし、放生会について再び2頁とって挿絵と添え文にて解説するというものです。そして、それらの中に和歌がちりばめられているのです。          
 
     
       能連法師・千載和歌集
  石清水きよき流れの絶えせね
   宿る月さえ隈(くま)なかりける

       摂政太政大臣・新後撰和歌集
  やわた山さか行く神のめぐみとて
   千代ともさゝし峯の松が枝
                   ※2
       後鳥羽院・新続古今和歌集
  やわた山跡垂れ初めししめの内に
   なお万代(よろずよ)と松風ぞふ
            
       後久我太政大臣・続後撰和歌集
  なお照らせ代ゝに変らず男山
   仰ぐ峯より出づる月影
     
       貫之・続古今和歌集
  松も生(お)ひ又も苺(こけ)むす石清水
   行末とおく仕へまつらん
  
 石清水に関連する和歌は9首掲載されていますが、その内、上記の和歌はすべて「松」と「月」が詠み込まれています。元禄期以降、俳諧や和歌、漢詩に詠まれた「八幡八景」は、男山・極楽寺・猪鼻坂・放生川・安居橋・月弓岡・橋本・大乗院の8つの景勝地が選ばれていますが、男山は松を読み込むのが決まりになっています。また、文久年間(1861~63)に発行された『淀川両岸一覧』には其角(きかく)の発句「新月やいつを昔の男山」が掲載されている(※3)のはご承知の通りです。まさに、男山は松と月が似合う景勝地であったのです。

跡垂れて

 石清水八幡宮の神徳を讃える歌として印象深い和歌があります。先に示した後鳥羽院(1180~1239)の歌です。
  やわた山跡垂(あとた)れ初(そめ)ししめの内に
   なお万代(よろずよ)と松風ぞ吹く

 この和歌には詞書(ことばがき)があり、「建仁元年(1201)十二月石清水社歌会に」とあります。後鳥羽院が石清水に行幸し、12月の歌会にこの歌を詠んだというのです。
「跡垂る」とは何でしょうか。『広辞苑』によれば、「垂迹(すいじゃく)の訓読語とし、仏・菩薩が神となって我が国に現れる。玉葉集「一つにぞ世をまもるらし跡垂るるよもの社の神の心は」」と用例まで示されています。要するに、本地垂迹(ほんちすいじゃく)を指すことばなのです。従って、上記の和歌を意訳すれば、「八幡山では、仏の仮の姿である神が初めて神域(注連 しめ)に現れ、なお、万世に讃えられるように松風の吹いていることだ」となるでしょう。なお、「迹」は「跡」と同意です。
 周知の通り、石清水八幡宮は、江戸時代までに「八幡宮寺」と呼ばれた宮寺です。つまり、神であり、仏である八幡大菩薩が鎮座する神社であり寺院であることを高らかに歌い上げた和歌なのです。
 ちなみに、「跡垂る」を読み込んだ歌を調べてみました。

      法印行清・続拾遺和歌集
  をとこ山あとたれそめし袖の上の
   ひかりとみえてうつる月かげく

      入道二品親王道助・新続古今和歌集
  跡たれて千世ともさらにいはし水
   ちかひし末ぞ今はかはらぬ
 
 「法印行清」は石清水八幡宮第39代別当行清その人なのでしょう。それにしても、「跡垂れ」「跡垂る」神社として石清水八幡宮寺が鎌倉期以降の歌人によって認識されていたことは特筆すべきことでしょう。朱塗りの社として知られる春日大社以上に、石清水八幡宮は神仏習合=本地垂迹の神社として人々の目に映っていたのです。

祭礼を詠う

『都名所図会』「八幡編」に詠まれている歌に、石清水の祭礼を讃える歌があります。

       知家・新六帖
  男山秋の今日(けふ)とや契りけん
   河瀬に放つ四方(よも)の鱗(うろくず)
          
 「河瀬に放つ鱗」でおわかりの通り、これは放生会を詠んだ歌です。もちろん、「秋の今日」は旧暦の8月15日です。ちなみに、放生会の挿絵に添えられた文章を紹介してみましょう。
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 「八幡の放生会は毎年八月十五日の未明より下院神幸ありて同日七ツ時還幸し給ふ也 十六日には放生川の汀(みぎわ)へ社僧出(いで)てもろもろの魚鳥を放ちたまふ 此両日は遠近(おちこち)より詣人群集す 宿院のほとりには芝居放下師いろいろの物売出て尺地もなく市となすハ神慮のめぐみなるべし」
 「放下(ほうか)師」とは、「放下僧」のことで、「放下(ほうか)」とは、中世・近世に行われた芸能の一つ、小切子(こきりこ)を打ちながら行う歌舞・手品・曲芸などの芸、また、それを専門に行う者。多くは僧形であったが、中には頭巾の上に烏帽子をかぶり、笹を背負った姿などで演ずるものもあったとのことです。
 添え文に、「十六日には放生川の汀へ社僧出てもろもろの魚鳥を放ちたまふ」と放生会が2日間にわたって行われたとあります。文政3年(1856)発行の『男山放生会図録』にも、「翌十六日は山上の僧衆ことごとく集会して放生川に魚鳥を放ち供養執行あり」と述べていることでも確認できます。現在は、9月15日の深夜3時ごろに神幸があり、放生川にて魚鳥を放つ祭事は、同日の午前8時ごろから始まります。そしてその日の夕刻に還幸の儀があり、石清水祭(放生会)は一日で終了します。ところが、江戸時代には、15日・16日の両日にまたがって祭事が行われたようです。
 祭礼を詠んだものには、次の歌があります。

      石清水りんじのまつり
      (定家・新勅撰和歌集)
  河瀬に放つ四方(よも)の鱗(うろくず)
   大宮人のかざすさくらは

 詞書に「石清水りんじのまつり」とあるように、これは臨時祭を詠ったものです。石清水八幡宮の臨時祭は、天慶5年(942)の平将門・藤原純友の乱を平定する祈願が成就したお礼として天禄2年(971)より恒例化され、3月中の午(うま)の日に勅使(ちょくし)(天皇の名代)の臨席のもとに行われました。藤原定家の歌にある「大宮人」(朝廷の役人)も「かざす桜」もそのことを意味しています。通例、祭幣・歌舞・走馬などが奉納されるとのこと。12歳で元服したばかりの平清盛が石清水臨時祭で舞を奉納したことが知られています。

疫神詣(やくじんもうで)

 『都名所図会』は、「ゆったりとした大本(おおほん)の見開きいっぱいに広がった鳥瞰図」が人目をひき、八幡編では、「数丁にわたるパノラマ画面」を使って石清水八幡宮を3丁(6頁分)の一連の絵に紹介しています(※4)。f0300125_20292945.jpg
 中でも、下院の図を見ると、頓宮殿の名称が「疫神堂(やくじんどう)」(御旅所疫神堂)とあり、その隣の、今は斎館と呼ばれているところに立派な極楽寺(阿弥陀堂)が建っています。まさに神仏習合を象徴しているようです。            
 「疫神(やくじん)」とは何でしょうか。名所図会の当該の文章を読めばわかります。
「一鳥居の南廊下の内にあり 此所八幡宮御旅所也 疫神ハ正月十九日一日の勧請也 延喜式に曰 山城と摂津の疫難を払ふなり 土産には蘇民将来(そみんしょうらい)の札(※5)・目釘竹(※6)・破魔弓(はまゆみ)・毛鑓(けやり)(※7)等を求めて家に納め邪鬼(じゃき)を退くなり」
 この文章から次のことがわかります。
ここは、八幡宮の御旅所(=頓宮)である。
疫神は、正月19日に(本殿から)勧請(かんじょう)される。
(石清水に疫神が祀られるのは、)山城と摂津の国境にあり、ゆえに疫難を払う場所だからである。
土産である蘇民将来の札、目釘竹(めくぎたけ)、毛鑓等は各家々に納められ、邪鬼を払ってくれる。
 注目すべきは、③だと思います。石清水八幡宮は、山城と摂津の国境に建てられたということ。しかも、山城は平安京の名の通り、王宮の聖地です。何としても「疫難」の侵入を阻まなければなりません。そこで、疫難を払(祓)うことが、殊に近世において盛んになったということなのでしょう。
 今でこそ、どこの神社でも疫を祓うことが行われていますが、山城・摂津の国境にある石清水こそ、疫難を払うにふさわしい神社であったというのです。ちなみに、『日本国語大辞典』で「疫神詣(やくじんもうで)」を調べると、次の文章が現われます。「その年の厄を払うため、疫神をまつった疫神社に参詣すること。特に、京都石清水八幡宮の境内に勧請した疫神に、正月十九日に参詣するものは古来名高い。」
 今でこそ、正月19日に厄を祓いに石清水を参詣することは少なくなりましたが、この日、頓宮殿の前庭にて「青山祭」と称する神事が毎年行われています(※8)。まさしく、疫神信仰のメッカが石清水八幡宮であり、在り続けているのです。
 (次回は、「近世八幡庶民の雑排ブーム」を予定)空白

(※1)『日本名所風俗図会』第7巻(角川書店)、解説「秋里籬島と『都名所図会』」
(※2)摂政太政大臣(藤原良経)のこの歌は、『新後撰和歌集』に収録されていません。『国歌大観』の勅撰和歌集編を調べればわかります。おそらく、転記した際に間違えたものと思われます。
(※3)拙稿「淀川べりの俳諧二句」(会報73号)
(※4)伊東宗裕「地誌に見る八幡」(会報54号)
(※5)疫病除けのための護符。家々の門口に「蘇民将来子孫の宿」と書いて貼ったり、木製六角形の棒に「蘇民将来」などと書いて、社寺で小正月に分与したりする。
(※6)目釘としている竹。乾くと緩み刀身が抜けることがあるため、太刀打ちの前に湿す。
(※7)先端のさやを鳥の羽毛でかざった槍。大名行列の先頭などで槍持ちが振るもの。
(※8)青山祭については、竹中友里代「島村家神札・護符等の版木と青山祭祭壇図」(京都府立大学文化遺産叢書第3集『八幡地域の古文書と石清水八幡宮の絵図-地域文化遺産の情報化-』に詳しい。
                



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by y-rekitan | 2016-11-20 08:00 | Comments(0)

◆会報第75号より-02 石清水八幡宮

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《講 演 会》
石清水八幡宮の別宮の成立と機能

2016年8月 八幡市文化センターにて
 鍛代 敏雄
(石清水八幡宮研究所主任研究員 東北福祉大学教育学部教授)

              
  2016年8月27日、八幡市文化センターにて標記の講演と交流の集いが行われました。講師である鍛代敏雄氏は、毎年この時期に所用で石清水八幡宮に来られます。その機会を利用して今回も集いが実現できました。参加者43名。以下、講演の概要を紹介します。

はじめに

 別宮(べつぐう)とは何か。『国史大辞典』では次のように説明されている。「神社の本宮と関係のある神社をいう。特に伊勢・石清水両宮の例が知られており、本末関係で結ばれた神社の称号の一つ。(中略)石清水八幡宮の場合は伊勢の例とは異なり、宮寺領の拡大に伴って荘園内に設けられた鎮守神をいう。なかでも大分(だいぶ)宮をはじめとする九州五所別宮は重視され、ほかに宮寺領の別宮は保元3年(1158)には18ヵ国35ヵ所を数えた。」(岡田荘司)
 私の中世前期までの調査では、長暦2年(1038)の紀伊・伊部の隅田(すだ)別宮に始まり、観応2年(1351)の加賀・能美の多田八幡別宮までの計74カ所ある。その多くは平安後期から鎌倉時代で、石清水がもっとも力を持っていた時代である。その時代、石清水の別宮は全国に存在した。北は佐渡、東は上総・上野など関東にもあったが、但馬・丹後・出雲・伯耆・備前・豊後・肥前・筑前など西国が圧倒的に多かった。

1、石清水の荘園と別宮

 別宮は、本社に対する末社という性格のものではない。つまり、末社が本社の祭神を勧請して成立するだけのものではないということである。別宮は末社と何が違うのか。別宮では、石清水の力が直接及び、人事権を石清水が掌握するのである。荘園の現地管理者は、現地の有力者が担うのが一般的であったが、石清水の別宮では、石清水から直接派遣された人物が支配・管理したり、八幡宮の側が地元の人物を任命(「補任(ぶにん)」)したりするのである。f0300125_16354656.jpg
 石清水八幡宮は、多い時で全国に400ヵ所程度の荘園があった。荘園領主としての土地以外にも、例えば地頭職(じとうしき)が寄進される場合もあった(1338年、足利尊氏が丹後国佐野別宮地頭職を石清水八幡宮に寄進)。先ほど紹介した石清水の別宮74ヵ所の内、55件は地名が確認されず、別宮が荘園と同じような形態であったと想像できる。
 元暦2年(1185)の源頼朝下文(くだしぶみ)では、荘園および別宮を「庄々」と呼んでいる。荘園として認識され、頼朝が地頭御家人に対し、兵粮などの名目で年貢を強奪するなど乱暴・狼藉を働かないように命じたものだ。
荘園ができて別宮ができるのが一般的であるが、別宮ができて荘園ができる場合もあった。いずれにしても、荘園のみあって別宮が無いケース、別宮があって荘園が無いケース、荘園も別宮もあるケースと三つに類型化できる。
但し、史料を見てみると「別宮(べつぐう)」のことを「別院(べついん)」と表記する場合があった(1158年の史料)。天台・真言二宗や浄土真宗に見られるように、本寺と別院の関係は、本寺が別院の人事権を掌握することにより成立する。そのことからも、石清水本宮と別宮の関係は、本寺と別院の関係のように見なされていたのである。事実、石清水は、石清水八幡宮としてではなく、「石清水八幡宮寺」と呼ばれていた。9世紀に創建された石清水八幡宮であるが、10世紀はじめにできた「延喜式内社」に石清水は含まれていない。神社として認定されず、朝廷からは「宮寺(ぐうじ)」として評価されていたのである。

 次に、石清水八幡宮寺の荘園と別宮がどのように成立したのか以下の項目で見てみよう。
(1)延久の荘園整理(1069年、後三条天皇による)
山城6、河内16、和泉3、紀伊7、美濃1、丹波1、計34ヵ所あった宮寺領は、6ヵ国21ヵ所に確定した。
(2)保元の新制(1156~57年、後白河天皇による)
保元3年(1158)の裁許により、38ヵ国、138ヵ所の荘園・別宮が確定した。別当勝清(しょうせい)の時で、勝清は、25代別当光清(こうせい)の息子である。ちなみに、光清は、後白河天皇(法皇)と深く結びつき、石清水の祠官家(長官)を、それまでの宇佐氏の流れをくむ元命(げんみょう)系から、行教以来の紀(き)氏(し)に奪い返したのである。後白河院の支持のもと、紀氏が祠官家を独占する流れが決まったといってよい。いずれにせよ、そのような権力構造の変遷のなかで石清水の荘園と別宮が大量に誕生したのである。
(3)弘安の大田文(おおたふみ)(1285年、但馬国の場合)
郡ごとに、郷・庄・別宮を記載した。但馬国内の八幡宮領は10ヵ所200町弱である。
(4)「石清水八幡宮 社領一覧」(竹内理三『国史大辞典』)
承平6年(936)における河内矢田庄から永禄12年(1569)にかけて42ヵ国・153ヵ所を記す。但し、別宮・別宮領を除く。荘園の東・北限は遠江・信濃・越後で、西・南限は南海・西海(筑前・築後・日向)である。
(5)社家領
それまでの宮寺領・坊領400ヵ所が田中家、善法寺家などの祠官家の社家領として把握されるようになる。
(6)近世の朱印地・社領 
6384石余。その他2300石余があった。

2、別宮の成立

(1)史料上の初見
 「別宮」が史料の上で初めて見られるのが長暦2年(1038)紀伊国隅田別宮である。石清水八幡宮少別当が隅田別宮に宛てた下文(くだしぶみ)で、忠延という在地の人物を俗別当職に任用しないことを述べたもので、神主職の人事権を石清水側が掌握していることを示したものである。
(2)中世前期の所見
 石清水の別宮の存在が確認される時期を類別すると以下のようになる。
保元3年(1158)12月3日以前に成立した別宮が40件あり、後白河院と結んだ石清水の別宮が全国的に成立したことがうかがえる。また、別宮の成立は14世紀までが主で、南北朝の動乱を機に別宮も荘園と同じように在地の有力者(武士)に浸食されていくことが見て取れる。
(3)地域別の分布
 ア、五畿内(4) イ、東海道(5) ウ、東山道(2) エ、北陸道(2) 
 オ、山陰道(30)カ、山陽道(12) キ、南海道(10) ク、西海道(9) 
  計74ヵ所。
 北限は佐渡、東限は相模・下総・上野の関東、南西限は薩摩である。これは、竹内理三氏が『国史大辞典』に掲載している石清水八幡宮社領(荘園)より広範囲にわたっていることを示している。

 3、別宮の機能

(1)特権と権益:土地と人、神人
①不輸租田
 石清水の別宮領は不輸租田である。貢租を国家および地方に納めなくてもよいというもので、「勅免官省符の地」と「国司奉免」という言葉が史料に残っている。国や地方に納めないということは当然、別宮の領主=石清水に年貢が入ることを意味する。
②「一国平均役」の免除
 建久8年(1197)正月に八幡宮公文所から隅田庄への下文(くだしぶみ)に、当宮(石清水八幡宮)御領では、「兵士役大番」(兵粮・造作の労役)、「造東大寺夫役」などの一国平均役(国ごとの労役)は、「先例」「傍例」により「不可勤仕」=免除を命じているのである。
③「但馬国大田文」(1285年))に見る別宮の人的様相
 但馬国大田文(おおたぶみ)は、荘園・公領の田数、領有関係、地頭補任の状況を記録したものである。石清水別宮も等しく田数が記録されている。その記録によれば但馬国内の別宮は、「八幡領」「八幡宮領」として全10ヵ所が記録されていて、内「下司(げし)」「御家人」の名が記録されるのが4件、「地頭」の名が記録されるのが3件である。在地の領有関係のなかで、下司・御家人・地頭などが、どのように役職を担ったのか興味がもたれるところである。
(2)本宮・石清水の「雑役」(社役・神役)
①誉田宗廟別宮の場合
 保延3年(1137)の光清起請文案によれば、誉田別宮に対し、他の別宮に准じ、本宮の「雑役」を勤める必要はないと書かれている。この雑役とは、主に祭祀料と造営料の負担だった。
②安居頭役の事例
 上野国板鼻(いたはな)別宮の預所(あずかりどころ)である安達景盛(あだちかげもり)に安居頭役を命じている文書がある。元久元年(1204)のもので、安達景盛は鎌倉幕府の有力な御家人である。また、翌元久2年(1205)に、上総国市原別宮の預所である中原親能に安居頭役を命じたものがあるが、「称無先例、令対捍給云々」とある。先例が無いと称して、履行を拒否したのである。文永元年(1264)、相模国古(旧)国府別宮の預所、三浦頼盛も同じく「対捍去年安居頭役」の文字が見え、必ずしも石清水側の安居頭役の経済的負担の要請に応じたわけではなかった。
 他に、八幡宮領出雲国赤穴別宮(あか(あなべつぐう)の下司(げし)を担う人物に「宝樹」の頭役を命じている文書が見られる。寿永(じゅえい)元年(1182)と建久(けんきゅう)6年(1196)、寛元4年(1246)、文永4年(1267)の史料である。「宝樹」とは、石清水八幡宮の南楼門の前に松の大木を荘厳した「宝樹」6本を立てるというもので、まさに安居会の神事を指す。そのための経済的な負担を出雲の赤穴別宮の下司に命じているのである。赤穴別宮の下司として「紀宗實」の名がみえるが、石清水の祠官や俗別当の姓を借用する在地の有力者であろう。
③播磨国松原別宮(善法寺坊領)の場合
 文永3年(1266)検校宮清(ぐうせい)が、松原別宮の預所宛に下文を発給している。預所が寺内住僧・神人らへの狼藉を停止させるというものである。どういうことかというと、松原宮の預所が別宮の内部に検断権を振りかざし警察のような行為をなし、また別宮内に税をかける等の違乱を働いたというものである。このように、鎌倉時代の後期にもなると石清水による荘園・別宮の支配・統制に陰りが見え始めるのである。在地の武士から云えば、独自の力を蓄積し、荘園=別宮の領主による人事権から離れ独自の権力基盤を作り始めるのである。
(3)本宮・別宮の人事
 九州には宇佐八幡宮が存在するにも関わらず、戦国期まで石清水八幡宮の勢力が大きかった。その理由を考えてみたい。
 端緒は、宇佐出身の元命(げんみょう)が11世紀に石清水の別当になったことにある。藤原道長がバックアップしたからで、道長が元命を宇佐から呼んで石清水の別当に就任させたのである。その中で、行教以来の紀氏(きし)は抑圧された。だが、藤原の世が終わり、白河上皇、後白河上皇などの院政が始まるにつれ紀氏が復活。元命がそれまで持っていた権限を奪い返し、宇佐に限らず九州全体の八幡宮の権限を石清水のもとに取り込んでいくことになる。筥崎八幡宮も、戦国期まで石清水が支配するのはそんな事情を反映しているのである。

おわりに -別宮の歴史的意味-

(1)別宮は、伊勢神宮(境内別宮が主)や賀茂別雷神社、阿蘇神社、出雲大社などにも確認できるが、石清水八幡宮のように荘園内に分祀・勧請され、神領の核として機能した例は特徴的なものである。また、別宮は別院とも称されたとおり、八幡宮寺の別宮として、祭祀においても仏神事の習合的な役割を担った。
(2)石清水八幡宮は、史料上、12世紀半ば以前に40ヶ所、14世紀半ば以前、中世前期までに74ヵ所確認できる。石清水領荘園の分布範囲を超えて広く認められる。別宮として寄進され、その別宮領は石清水宮寺領として公武に認定され、荘園と同じく不輸・不入の権が保障。官物・雑役、一国平均役などが免除された。別宮には、本社の社役・神役があらためて賦課され、神主・俗別当、別当・検校などは石清水側が掌握し、人事権をもって、祭祀・別宮領を監督した。この点は、寺院の別院と共通している。
(3)神社は寺院にくらべて、本末の関係に拘束されることはなく、地域の事情が優先される。古代、宇佐宮の八幡神・大菩薩・応神天皇が合体し、鎮守神や戦神として分祀・勧請されても、すべてが別宮となったわけではない。平安中期以降、寄進地系荘園の隆盛にくわえて別宮といった方法で石清水に土地が寄進された。とくに、九州の別宮のように石清水側が積極的に関与した場合もあるが、多くは末社・末寺化することで、免税特権を取得しようとする地域の事情があったのである。天下の宗廟にして内裏にもなぞらえた石清水八幡宮と同一の祭祀空間が別宮として地域に設営されたのである。 
【文責=土井】 空白
 
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『一口感想』より
 今回のテーマは少しむつかしかったですが、石清水八幡宮の別宮、別院のことがよくわかりました。古文書を読む力も必要であると感じました。また、次回(11/20)の「石清水八幡宮をめぐる八つのエピソード」の講演も聞いて見聞を広めてゆきたいと思います。ありがとうございます。 (M・K)
 かつて少年時代に詣でた薩摩高城(現、薩摩川内市)の新田八幡宮が石清水八幡宮の別宮であったことを知り、とても興味深くまたなつかしく聴かせていただきました。 (野間口秀國) 
 荘園という意味は、土地又は領地と言うことを指すのかと考えていましたが、別宮と言うことは初めて聞きました。石清水が全国にあったことを教えてもらいました。ありがとうございます。 (長井一詩)
 九州筥崎宮と石清水の関係を特集してください。 (竹内勇)


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by y-rekitan | 2016-09-20 11:00 | Comments(0)

◆会報第75号より-06 詩歌と八幡の歴史③

シリーズ「詩歌に彩られた八幡の歴史」・・・第3回
蕪村のまなざし―男山そして橋本

 土井 三郎 (会員) 


  やぶ入(いり)や鳩にめでつゝ男山 

 与謝蕪村(1716~83)の作品には、「やぶ入り」を詠み込んだ発句が多数見られます。少し紹介してみましょう。すべて『蕪村全集』第1巻(1992年講談社発行)から採用したもので、成立順に並べました。冒頭に掲げた句は、安永7年(1778)~天明3年(1783)頃の作品で、蕪村晩年の作品で、「やぶ入」で始まる発句の最後の句です。 
  ア、藪入の夢や小豆(あづき)のにえる中(うち) 
  イ、やぶ入や浪花(なには)を出(いで)て長柄川(ながらかは)
  ウ、やぶいりや余所目(よそめ)ながらの愛宕山(あたごさん)
  エ、やぶ入(いり)に曇れる母の鏡かな
  オ、やぶ入(いり)を守る子安の地蔵尊


 「やぶ入り」とは、正月と盆の16日、あるいはその前後に奉公人が主人から暇をもらって実家に帰ること。また、その日やその頃をさします。蕪村の句ではもっぱら正月16日の藪入りを指すようです。(エ)は、「やぶ入り」で久しぶりの再会を喜び合う母と娘の心情をリアルに映し出しているといえます。句意は「藪入りで戻った娘が懐かしそうに母の鏡を見る。母も後ろからのぞき込む。二人とも涙があふれ、鏡中の顔がぼやけている」というもので、『蕪村全集』の評者は「母娘の心情を鏡の曇りに凝縮させた」としています。的確な解釈だと思います。
 (イ)の句は、浪花の奉公先を出て、若い娘が長柄川(新淀川の前身中津川の古称)の岸辺を足取りも軽く故郷を目指すというものです。但し、「長柄」とある如く故郷の家にたどり着くまでの堤防道は長いもので、蕪村の故郷毛馬を暗示しているようです。(オ)にある「子安地蔵」は安産と小児守護の地蔵で、京都市下京区下寺町荘厳寺の地蔵が名高いとか。そんな子安地蔵の傍らを藪入りの子供が帰っていく。お地蔵様が、道中の安全を見守ってくれているようです。
 だが、「藪入り」で奉公人に許された休暇は僅かな日数しかありません。(ア)の句は、藪入りで故郷の家にたどり着いた子供が緊張感から解放され、うたた寝をしますが、その安らかで楽しい夢も、母親の心尽しの小豆が煮え上がるまでのわずかの時間なのです。
 さて、本題の男山を配した冒頭の句ですが、句意からすれば(ウ)が一番近いように思えます。 愛宕山は、京都の北西にそびえ、どこからでも目印になる信仰の山です。その愛宕山をよそ目に見ながら、いそいそと故郷へ急ぐ藪入りの子どもの姿を活写しているのです。
 そして、冒頭の句について、『蕪村全集』の評者は、「帰心矢のような藪入りの途次、男山の鳩に手を振りながら参詣もせず八幡様の前を急いで通り過ぎていく」としています。男山の鳩に免じてお参りもせず通り過ぎてゆくことをお許しくださいと八幡様に詫びているようでもあります。
 いずれにせよ、藪入りで故郷を急ぐ小児への蕪村のリアルで優しい眼差しを感じざるを得ません。
 ところで、八幡宮に鳩はつきものです。石清水八幡宮一の鳥居の額にある「八幡宮」は藤原行成が書いたものを松花堂昭乗が元和5年(1619)に書写したものとされ、「八」の字は向かい合った二羽の鳩を模しています。そもそも鳩が八幡神の使いの鳥とされるのはいつ頃からなのでしょうか。f0300125_10315594.jpg
 13世紀初頭に成立した石清水八幡宮の『宮寺縁事抄』に、同宮の創建者である僧行教(ぎょうきょう)が、宇佐に参拝して読経した時、「我紫鳥と云鳥化也」と託宣があり、その鳥が鳩であったことが述べられているとのことです。また、14世紀初頭に成立した『八幡愚童訓』に、「前九年の役」で源頼義が苦戦していたとき、八幡神に祈願したところ鳩が軍旗の上に降ってきたという逸話があるようです(※1)。 
 さらに、八幡宮と鳩の関係について、宇佐八幡宮に問い合せましたところ、次の情報がもたらされました。
 正和2年(1313)に、宇佐宮弥勒寺の僧神吽(そうじんうん)により編纂され、応永25年(1418)に周防・長門・豊前等の守護であった大内盛見の命により書き写し、宇佐宮へ奉納された「八幡宇佐宮御託宣集」によれば、言い伝えとして、八幡大神様が菱形池に御出現された際、八幡神の化身が金色の鷹となって現れ、大神比義が祈念すると金色の鳩に化したと記されているとのことです。上記の『宮寺縁事抄』の記述と相通じるものがあります。貴重な情報を提供して下さった宇佐八幡宮の関係者に紙面を借りてお礼申し上げます。
 いずれにせよ、13世紀から14世紀を中心に、石清水に限らず、全国の神社・仏閣で、寺社や仏像などの由来、または霊験などの伝承・伝説を記した書物や絵巻が盛んに刊行されました。八幡宮と鳩の関係もその時期に霊験譚(れいけんたん)として人々の間に広まっていったのでしょう。

  若竹やはしもとの遊女ありやなし

 蕪村は俳人として知られますが、盛んに句会を催したり句集を刊行したりしたのは51歳になってからで、生活の資はもっぱら画業によるものでした。また、55歳で亡き師の号である「夜半亭」を継ぎ、俳諧の宗匠(そうしょう)(点者)になったのですが、点料(添削料)を稼ぐことをいさぎよしとせず終生、俳諧を趣味として通したそうです(※2)。
 画家蕪村は、中国の新画法である南画や南宋画、文人画などを積極的に採り入れ、需要に応えました。一方で、俳味のある、略筆の淡彩もしくは墨絵で、発句の賛などが付けてある書画共存形式の俳画を完成したといわれます。次ページに紹介するのがその一つで、賛は冒頭の句です。f0300125_10404479.jpg
 この句を味わってみましょう。「若竹」は季語で夏を表します。文字通り、その年に生え出た竹で、「ことし竹」とも称されます。読者のなかには、「若竹」と「遊女」の取り合わせがミスマッチではないかと指摘する向きがあろうかと思います。この句の鑑賞には、「遊女」をどうとらえるのかがポイントになると思います。
 私は、この句に接したとき、西行の次の和歌を思い浮かべました。

  世の中を厭うまでこそ難(かた)からめ
   仮の宿りを惜しむ君かな


 西行(1118~90)が天王寺に参るとき、江口にて雨にあい、一夜の宿を借りたいと申した時に、断られて詠んだ一首です。遊女妙(たえ)は「家を出づる人とし聞けば仮の宿 心とむなと思ふばかりぞ」の歌で返し、「雨宿りを乞うお方が出家の身だと聞き、故に(遊女の)宿は貸すことできませんと申し上げたのです」と答えたのです。まっとうな理由であり、西行とても遊女の言にぐうの音も出なかったのではないでしょうか。一見卑賎な身と思われがちな遊女ですが、神に仕える巫女に起源を求める説があり、その職能としての芸能も神仏との関わりで説明されています。
 以上のことから、冒頭の句は、「若竹がすくすくと育つ橋本では、(西行と問答をした妙のような)遊女が今もいるのであろうか」と解釈されますが、この句をめぐって、蕪村の母への慕情を読み取るべきという指摘もあります(※3)。
 蕪村は、発句だけでなく、漢詩にも造詣が深く、「俳詩」と呼ばれたジャンルを開拓したとされます。「澱(でん)河歌(がか)」がその一つ。発句と漢詩、和詩を扇面一面に自画と自賛にあしらいました。その発句に「若竹や」ではじまる冒頭句が添えられているのです。 
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    澱河歌(でんがか) 夏
  若たけやはしもとの遊女ありやなし

    澱河歌 春                       
  春水浮梅花 南流兎合澱 
  錦纜(きんらん)君勿解 急瀬舟如雷
  兎水合澱水 交流如一身            
  舟中願同寝 長為浪花人                       
                  
  君ハ江頭の梅のごとし 
  花水に浮て去事すみやか也
  妾ハ岸傍の柳のごとし            
  影水に沈てしたがふことあたハず              

   「兎」は宇治川、「澱」は淀川を指す。「錦纜(きんらん)」は美しいとも綱。 

 この作品には、「春水に浮かぶ梅花のように澱河を流れ下って行く情人を送る(伏見の)妓女の思いに托して、惜別の情と浪花への郷愁を吐露したもの」との指摘があります(※4)。伏見の妓女、そして橋本の遊女に対する蕪村の眼差しに、故郷毛馬にて早くに離別した亡母ないし母性に対する哀切な想いが見え隠れしているようです。
(次回は、「名所図会と八幡讃歌」を予定) 空白

(※1)『八幡信仰事典』(夷光祥出版)
(※2)「翔(か)けめぐるマルティ芸術家の創意(おもい)」辻惟雄(『与謝蕪村-翔けめぐる創意-』)
(※3)「かりに、「哥よむ遊女」に、亡母をなぞらえる発想があるとするならば、「橋本の遊女」もその類想とすることに無理はない。むろんそれが、蕪村じしんの母親を指すと短絡してはならない。遊び女(め)という歌や芸に秀でた女性に、母性を仮託したものにほかならない。亡母幻想といってもいい。作者の想念のうちにできあがった、詩的母神像と解さねばならない。」藤田真一「蕪村二都物語」より(『与謝蕪村-翔けめぐる創意』)
(※4)「澱河歌(でんがか)」(尾方仂)『俳文学大辞典』より


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by y-rekitan | 2016-09-20 07:00 | Comments(0)

◆会報第74号より-05 詩歌と八幡の歴史②

シリーズ「詩歌に彩られた八幡の歴史」・・・第2回
歌枕 美豆

 土井 三郎 (会員) 


 歌枕(うたまくら)とは、本来、和歌に用いられる歌語、あるいは歌語を説明する書物のことを指していたようですが、現在はもっぱら和歌によまれた地名・名所のことをいいます。f0300125_932321.jpg一般に平安時代の和歌は表現のパターンを一定にし、その一定のパターンをいかに巧みにアレンジするかというところに特色がありました。「逢坂(おうさか)」は人に逢うことを掛けてよみこまれ、「龍(たつ)田川(たがわ)」は紅葉が流れる川としてのみよまれたのです。このように地名は特定のイメージと結びつくことによってのみ形象化されたのです(※1)。 
 山城の歌枕として有名な「みかの原」は、次の歌で有名です。

  みかの原わきて流るるいづみ川
   いつ見きとてか恋しかるらむ
  
           藤原兼輔(新古今和歌集)

 「百人一首」にも採り入れられているこの歌が人々に口ずさまれる中で、「みかの原」とあれば「いづみ川」を思い浮かび、「いづみ」から「(あなたを)いつ見」たことというのか「恋しくて仕方ない」という思いにつながり、恋歌をイメージするようになったのです。
八幡における歌枕といえば「男山」と「石清水」が想起されます。

男山
  今こそあれ我もむかしはおとこ山 
  さかゆく時もありこしものを
 
          よみ人しらず(古今和歌集)

   おみなへし憂しと見つつぞ行(ゆき)すぐる 
   おとこ山にしたてりとおもへば
  

          布留今道(古今和歌集)

 男山は、「男」のイメージで詠まれ、「女」のイメージを持つ「女郎花」を配するのはみなさんご存知の通りです。

石清水
  万代(よろづよ)はまかせたるべし石清水 
  ながき流れを君によそへて
  
          六条右大臣(金葉和歌集)

  石清水きよき流れの絶えせねば 
  やどる月さへくまなかりける
 
  
          能蓮法師(千載和歌集

 石清水は、山中に湧く石清水を神として祀り、清澄な流れの久しさや神の心に寄せた祝意の歌として詠まれることが多いのです。
 さて、本題である「美豆」について話を進めましょう。 
明治初年(1868)に木津川が改修される前まで、美豆(みづ)は、際目(さいめ)、生津(なまつ)とともに八幡の外四郷に属し、地続きでした。とくに平安時代、美豆は、山城の歌枕としてさかんに和歌に詠まれました。

  逢ふ事を淀に有てふみずの森 
  つらしと君を見つる頃かな
  

             よみ人しらず

 「後撰和歌集」(951年に和歌所設置)の恋の部に収められた歌で、「逢いたいものの、よどんで滞(とどこお)る淀にあって、みずの森ではないが見ることができず、つらい思いの今日この頃です」と嘆いたものです。「美豆」と「見ず」を掛けているのは明らかです。返しの歌があります。

  美豆の森もるこの頃のながめには 
   怨みもあへず淀の河浪
  

          よみ人しらず

 「美豆の森では、長雨のため水が漏り、怨むこともできず、ぼんやりと物思いにふけりながら淀の河浪を眺めるばかりです」の意で、森と漏(も)り、眺めと長雨を掛けた技巧的な歌です。
 「美豆の森」というからには森(未開拓地)が広がっていたのでしょう。
 「後拾遺和歌集」(1086年成立)にも美豆が詠まれています。

  さみだれは美豆(みづ)の御牧(みまき)の真菰草(まこもぐさ) 
  刈りほすひまもあらじとぞ思(おもふ) 
 
                       相模

 女流歌人、相模の歌は、「五月雨のころは、降り続く雨のために、美豆の御牧の真菰草を刈り干すひまもないと思います」と詠んだもので、ここでは森ではなく「御牧」が登場します。古代皇室の牧場で、馬の放牧地であったようです(※2)。

  真菰刈(まこもかり)みつの御牧の駒の足の 
  早く楽しき世をも見哉(みるかな)
    
                      兼盛集

「真菰」は池沼や河川のへりに群生する大型のイネ科の多年草で、f0300125_9523047.jpg茎の先に黒穂病菌が寄生すると、茎がタケノコを小さくしたような形に太り、食用になりました。現在、台湾や中国南部ではこれが栽培され、料理で珍重され、缶詰や冷凍にして輸出もされているとのことです。また、葉や茎で盂蘭盆会(うらぼんえ)の時の祭壇に敷くござに編んだとのこと(※3)で、相模の歌にある「刈り干す」のは食用というより、ゴザに用いるためのものかもしれません。
 京阪電車に乗って京都に赴く際、淀の手前で木津川の岸辺に目をやると、イネのような穂を延ばした背の高い草を見ることがあり、それが真菰ではないかと思うのですが、よくわかりません。
梅雨の晴れ間、背割公園まで出かけ、駐車場に車を預けた後、堤防沿いの農道を京阪の鉄橋まで歩いてみました。少々蒸し暑い日でしたが、水田では田植えを終えたばかりの早苗が風に揺れ、木津川の河原には灌木類や背の高いくさむらが繁茂していました。ただし、真菰の姿をしかと捉えることはできません。八幡方面を振り返ると男山が夏空に輝いて見えました。かつての美豆から見た男山は、鉄橋こそないにしても同じような景色(冒頭の写真)なのかと思いをはせたものでした。
 『山州名跡志』は、正徳元年(1711)に刊行された22巻にも及ぶ山城地域の地誌ですが、美豆について次のように記しています。
「(淀)大橋南爪に在て、其所民戸有り。大路東南に行き、東路上に云う如し。南、八幡
に至り、大坂に及ぶ街道なり。但し、古(いにしえ)に云う此処より十町(900m)ばかり艮(うしとら)(北東)方御牧双べり。仍て古歌に美豆御牧を詠む。今の如く御牧廣莫にして、美豆其十ガ一にも及ばず。今の如く木津川の流れを改むを以て変わる所なり。故に古歌に詠む美豆森、美豆野同じく入江等今は定かならず」
 方角などつじつまがあわない個所がありますが、内閣文庫所蔵の「八幡山上山下惣絵図」に地名や神社仏閣などをトレースした絵図があり、それを見ると、淀大橋を渡ると町美豆村と元美豆村とがあり、淀川沿いに西にゆけば大坂道となり、途中、常盤道や御幸道を南に行けば八幡に至ることがわかります。
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「古歌に詠む美豆森、美豆野同じく入江等今は定かならず」とありますが、江戸時代の半ばごろの記述ですから、それ以前の太閤堤の築造や江戸初期の堤防工事などで淀や美豆、巨椋池の改修などによりこの辺りの景観は平安期のそれと随分様相を異にしていることでしょう。

 ※1、『和歌大辞典』(明治書院)
 ※2、『京都府の地名』久世郡の項、「美豆牧」
 ※3、『世界大百科事典』(平凡社)
(次回は、「蕪村の眼差しー橋本」の予定)空白


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by y-rekitan | 2016-07-28 08:00 | Comments(0)

◆会報第73号より-02 石清水八幡宮

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《講 演 会》
石清水八幡宮の由緒と建築様式

2016年4月 石清水八幡宮研修センターにて
 神道 尚基 (石清水八幡宮 権禰宜)

              
 4月21日(木)午後1時より、石清水八幡宮研修センターを会場に、今年度はじめてのイベントとして年次総会と例会を開催しました。朝からのあいにくの雨にも拘わらず多数の方々にお越しいただき感謝申し上げます。総会の後、同じ会場で表題の講演が行われました。概要を報告します。なお今回の概要は、神道尚基(じんどうひさもと)氏に直接執筆していただき、編集担当がルビや西暦・画像を挿入し、執筆者の同意のもとに掲載するものです。参加者38名。

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1、由緒と歴史

 男山は平安京の裏鬼門を守護するだけでなく、三川合流や陸路の要として重要な位置にあり、以前から山頂には石清水寺(現在の護国寺跡)が所在していた。
 この男山に貞観元年(859)、八幡大菩薩が勧請(かんじょう)され翌年には社殿が創建された。そして、貞観5年(863)に行教が元々あった石清水寺を護国寺と改め神宮寺としている。行教の甥、安宗(あんじゅ)が初代別当、行教の弟、益信(やくしん)が初代検校(けんぎょう)となりこの宮寺を維持運営していた。ちなみに、別当(べっとう)は山内から選ばれ職務全体を統括監督する役目をもっており、検校は朝廷から任命され就任し別当より上の位として宮寺を管理していた。貞観18年(876)には安宗の弟、紀御豊(きのみとよ)が神主となり、その後、別当と神主は御豊系の紀氏の僧侶が世襲し相続していく。なお、現在の宮司家は紀御豊系の子孫になる。
 神仏習合の宮寺として存続してきた八幡宮寺も、明治元年(1868)の神仏分離令(判然令)によって大きな変革が起きる。明治政府は全国の神社に対して「別当」「社僧」の還俗(げんぞく)【俗人に還る】と仏像を御神体とする神社の廃仏や仏教的施設の排除を命じた。さらに、この八幡宮寺にいた別当・社僧は還俗し、神主・社人の職名に変更となった。このような神仏分離令は古代より神仏習合の形をとってきた八幡宮寺にとっては体制が大きく変わる政策であった。なお、護国寺や大塔などは入札により売却され、護国寺の薬師如来像と十二神将像は尼寺の東山寺(淡路市)に引き取られた。その後、明治2年に八幡宮寺は男山八幡宮と改称し、明治4年に官幣大社、同16年(1883)に勅祭社となった。そして、大正7年(1918)に男山八幡宮は石清水八幡宮と復称され現在に至っている。

2、社殿の変遷・建築様式

 先ず、『石清水遷座略縁起』に「貞観二庚辰、造立寶殿、随則安置云々」[六宇寶殿(ほうでん)、正殿三宇、禮殿三宇]とあり、貞観元年(859)行教によって八幡大菩薩が勧請された翌年に社殿が創建されている。この六宇(う)の宇というのは単位で、寶殿は社殿のことであるので、六つの寶殿が建てられ、その内訳として、正殿(内殿)3つ、礼殿(外殿)3つとなる。この時は社殿が独立していたのか連立していたのかは史料を欠きわかっていない。
 次に『宮寺縁事抄』に「貞観二年六月十五日、行教造神殿、本社右傍、是行教安宗祖先也云々」とあり、社殿が創建されてすぐに、行教・安宗が祖先とする武内社(御祭神:武内宿禰命)を寶殿の右傍(神様から見て右傍)に造られている。
 次に、『石清水八幡宮御修理造営之記』に長元2年(1029)「御殿北高欄、前後犬防、幣殿南楼階日隠等始造」とあり、社殿の北側に高欄が設けられ、社殿の廻りには瑞籬(みずがき)が造られている。さらに、幣殿が建てられ、南楼の階段に階段を覆う屋根が付けられている。
 次に、『八幡宮縁事抄 巻十五』に天喜4年(1056)「寶殿大廻築事清成時、天喜四年作之云々」とあり、社殿の外廻りに築地(ついじ)が造られる。なお、清成(せいせい)は十九代検校元命(げんみょう)の息子になる。
 次に、『宮寺縁事抄』に「康平四年冬、清成取宝前舞殿中柱、渡虹梁造立云々」とあり、舞殿の中央に立つ柱を取り除き虹梁(こうりょう)が架けられる。これは、儀式をするにおいて便宜を図るための改造だと思われる。さらに、應徳3年(1086)「舞殿に石を敷く」とあり、舞殿に石が敷かれ、現在の形となる。この時点、平安時代終わり頃までには社殿を構成する建物のほとんどが整えられている。f0300125_20145743.jpg
 また、『日本三代實録』仁和2年(886)5月に「二十六日甲辰、降雨、天の東南に声有りて、雷の如くなりき。長日、山城国石清水八幡大菩薩の宮自ら鳴りて、鼓を撃つ声の如く、南楼鳴りて、風波の相激して声を成すが如く、数刻を経て停まざりき。」とあり、これは、八幡大菩薩が太鼓を打つように自鳴し、南楼も風波が激突するような音を数刻出し続けた、という怪異を伝えている。ここで注目したいのは南楼で、この南楼が楼門のことであれば楼門が単独で建っているとは考え難く、創建して間もない886年には既に廻廊が造られていたと考えられる。
 社殿が整えられ始めて炎上するのが保延6年(1140)である。正月23日に宝殿以下が炎上し、同年2月29日には宝殿六宇と廻廊の上棟(じょうとう)を行っている。この時は造国制(分担制)の下、再建が行われ、次の造国司が分担している。
 美作国(岡山県北部) 平 忠盛  
   寶殿六宇
 播磨国(兵庫県南部) 藤原忠隆  
   廻廊東三十五間、南楼一宇、馬場屋一宇
 越前国(福井県北部) 藤原顕隆 
   廻廊西三十五間、舞殿、幣殿、馬場廊屏、築垣、鳥居、門
 鎌倉時代に入ると社殿の改造が行われ、先ず、建久6年(1195)に内殿と外殿の間に板が敷かれ、正中元年(1324)には楼門前の石壇と石階に造石が使用される。この時に楼門、東門、西門、北門の前の階段が木階段から石階段になるが、現社殿にはない北門がこの時点で存在していたのは貴重な記事である。
 室町時代に入り二度目の火災が起きる。暦應元年(1338)7月5日に寶殿以下の建物が兵火に依り焼亡するが、11月25日には正殿の柱が立てられ上棟を行っている。この再建は足利直義(ただよし)が造営の責任者となり4カ月程で完成している。
 その後、建徳2年(1371)5月8日に触穢(しょくえ)【けがれ】があり、その触穢があったためか7月6日に正殿が破却され、10月25日には社殿の柱が立ち上棟が行われている。なお、この触穢以外にも元中5年(1388)、永享元年(1429)、文明18年(1486)に穢に触れるが、社殿の取り壊しまでは行われず修理で済ませている。
 戦国時代に入り、三度目の火災が永正5年(1508)に起きる。この火災で寶殿以下の社殿が炎上するが、再建されるのは大永3年(1523)になってからで、保延・暦應の火災時とは異なり15年も経過している。しかも、焼亡した建物の半分程、本殿・幣殿・舞殿くらいしか再建されていない。この時は、足利幕府が再建すべきであったが弱体化した幕府にその力はなく八幡宮寺に任されることになる、しかし、荘園をほとんど失った宮寺にもその力はなかったようである。
 安土桃山時代に入り、天正7年(1572)大山崎にて縁起を聴いた織田信長は早速に社頭の修理と若宮の造替を命じる。その修理内容は、六宇宝殿、幣殿、舞殿等の上葺きとなっており、この時に、築地塀が造られ本殿の樋も木製から銅製に改められている。この修理時に取り替えられた樋が、有名な信長公寄進の黄金の雨樋である。(※史料によっては樋の材料に金銅(銅に金鍍金)、唐銅(銅と錫の合金)、赤銅(銅と金の合金)などがあるため、詳細は今後の調査を要する。)
 次に、天正17年(1589)豊臣秀吉が母の病気平癒を祈り造営料二千石を寄進して社頭四方の廻廊を再興している。これで永正の火災以降の復興はすべて完了となるが、実に80年の月日が経っていた。
 次に、慶長11年(1606)豊臣秀頼によって造替が行われ、その内容は寶殿(内殿・外殿)、幣殿、舞殿、武内社を悉く造替とあり、社殿の中核を成す建物がすべて造り替えられている。しかし、楼門や廻廊の記載がなく造替の対象外であったと思われる。f0300125_15503879.jpg
 江戸時代に入り、徳川家光による造替が行われる。寛永8年(1631)11月に神社仏閣破損の目録が作成され、寛永11年(1634)8月22日には正遷宮が行われている。この時、幕府としては本殿の修理を葺き替えにとどめたい意向であったが、八幡宮寺の強い要望により造替となっている。なお、神社仏閣破損の目録には、造替にするもの、修理を要するもの、再興を願うもの、に別けて申請されており、造替分(本社部分)としては、内殿・外殿、武内社、楼門、廻廊が申請されている。

3、現社殿の修理と特徴

 寛永11年(1634)に現在の社殿が建てられて以降、社殿の建て替えは行われず、今日まで修理で済ませている。近世の主な修理は、寛文5~6年(1665~6)、元禄4~6年(1691~3)、享保11年(1726)、延享2年(1745)、安永7年(1778)、文化元年(1804)、文化9年(1812)、安政6年(1859)に行われており、寛永11年、延享2年、文化9年の棟札が現存している。
 近代になると文化財の保護が図られるようになり、先ず、明治30年(1897)に古社寺保存法が制定され、それまでの文化財は「特別保護建造物」又は「国宝」に指定され、石清水八幡宮は特別保護建造物として指定される。また、昭和4年(1929)の国宝保存法では、古社寺所有以外の文化財も保護する目的から、公有・私有のものも国宝の指定対象とし、その折に「特別保護建造物」を国宝と称することとした。そして、昭和25年(1950)に文化財保護法がだされ、国宝保存法時代の特別保護建造物を重要文化財として指定し、「旧国宝」と称した。
 明治以降の主な修理としては、明治45年、大正9年、昭和11年、昭和44年、平成21年に行われており、昭和11年の修理は第一室戸台風の後、昭和44年の修理は第二室戸台風の後、そして、平成16年に近畿地方を縦断した台風二十三号の後と、近年は大きな台風ごとに修理をしている。なお、明治45年修理時の写真では本殿の側面に雨除け板が取り付けられており、外部からまったく側面が見えない状態であったが、その後の修理で取り外され現在は痕跡を残すのみである。
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 次に現社殿の特徴をあげてみると、先ず、本殿が内殿と外殿を前後に二棟並べた連立の八幡造りであること、そして本殿の両側面に付けた扉(馬道)があり、正面に蔀戸(しとみど)を嵌めその前に幅広い階段を設けたこと、である。この八幡造りの本殿と側面の扉、正面の蔀戸は宇佐神宮で成立したと思われるが、三殿連立の本殿と正面に設けた幅広い階段は石清水八幡宮で成立している。また、石清水八幡宮の社殿は基壇上に建ち四周する廻廊を備えているが、同様の基壇・廻廊を持つ宇佐神宮、伊佐爾波神社、鶴岡八幡宮の基壇よりもずっと高く、他社の廻廊が各一梁間、一棟であるのに対し、石清水八幡宮は二棟廊(複廊)に庇が加わった物で、前の三社とは規模・構成が大きく異なる。さらに、楼門から舞殿・幣殿・本殿まで連続して建ち並び、舞殿の棟だけが縦向きだが、すべての屋根は檜皮(ひわだ)で葺(ふ)かれ(それ以外は瓦屋根)、床面が完全に一体化している。
 まとめてみると、三殿連立の八幡造本殿は側面と正面から出入りでき、正面には幅広い階段が設けられている。そして、本殿を囲む廻廊は二棟廊に庇が付いた大型のもので、廻廊の正面にある楼門から舞殿・幣殿・本殿までが一体化している。これらの複合建築物が高い基壇上に建っている、というのが他の神社にはない特徴である。

4、平成の大修造事業

 平成5年より「平成の大修造事業」として境内摂末社を順次修復している中、平成16年10月に襲来した台風二十三号により本殿の檜皮屋根が剥がれ、急遽翌年から本殿の修理を行い平成24年に完成している。f0300125_168382.jpg
 当宮では平成15年から重要文化財である本殿の国宝昇格、また、未指定建造物の重要文化財追加指定を目途として取り組みを開始し、先ず、平成15年から境内諸建物の調査を行い同19年に「諸建造物群調査報告書」を八幡市と協力して刊行、文化庁へ提出している。この報告書では本殿以外の建物全てを調査しており、平成20年12月2日新たに八棟が重要文化財として追加指定を受けた。
 ・摂社若宮社本殿  一棟(江戸前期)  
 ・摂社若宮殿社本殿 一棟(江戸前期)
 ・摂社水若宮社本殿 一棟(江戸前期) 
 ・摂社住吉社本殿  一棟(江戸前期)
 ・東総門      一棟(江戸前期) 
 ・西総門      一棟(江戸前期)
 ・北総門      一棟(江戸前期) 
 ・摂社狩尾社本殿  一棟(慶長六年)
 当初、本殿の修理は平成18年からを計画していたが、予期せぬ台風被害が発生したため、急遽文化庁の許可を得、平成17年から平成24年まで8年に亘り本殿の全面的な修復工事を行なった。台風被害によって生じた檜皮屋根の葺き替えは「災害復旧事業」として、檜皮屋根以外の瓦屋根や彩色・塗装工事等は一般的な「修復事業」として修理を行なっている。本殿・幣殿・舞殿・楼門の屋根は檜の皮を材料とした檜皮葺き、彩色や塗装などは自然にある物から材料を作る顔料で塗られている。なお、顔料には、鉛丹(鉛を錆びさせたもの)、朱(水銀)、緑青(孔雀石などの鉱石)、黄土(土)、胡粉(貝殻を磨り潰したもの)の粉末が使用され、熱した膠(にかわ)と混ぜて塗布していく。※ 膠(動物の脂を固めたもの)
 この修理期間中に迎えた御鎮座1150年を起点として、有識者各位と京都府及び八幡市を加えた調査委員会を組織し、社殿建築の軸となる木部は年輪年代測定や炭素測定で調べ、社殿を装飾する欄間彫刻や錺金具(かざりかなぐ)は墨書や作風から年代の測定が行われた。そして、平成26年、徳川家光公御造営380年を記念して「本社調査報告書」を刊行している。

5、まとめ(国宝指定までの経緯)

 平成26年、「本社調査報告書」を文化庁へ提出し、翌年、10月16日文部科学大臣が文化審議会へ答申する旨連絡が入る。そして、平成28年2月9日官報告示が出され正式に国宝指定を受けることとなった。
 国宝とは「文部科学大臣は重要文化財のうち、世界文化の見地から価値の高いものでたぐいない国民の宝たるものを指定することができる」とある。
 当宮の本殿が国宝に指定された理由は大きく2つある。先ずは「八幡造本殿が国内の同形式本殿の中では現存最古で最大規模である」ということ、次に「本殿などを廻廊で囲み一体化するという古代に成立した荘厳な社殿形式を保持している」ということである。
 その他の八幡造本殿は主に宇佐神宮、伊佐爾波(いさにわ)神社、柞原(ゆすはら)八幡宮があるが、宇佐神宮本殿は安政2年~文久元年(1855~1861)、伊佐爾波神社本殿は寛文7年(1667)、柞原八幡宮本殿は嘉永3年(1850)であり、石清水八幡宮本殿は寛永11年(1634)と最も古い。また、一遍聖絵(1299)に見られるように平安時代に構成された社殿群が現在までほとんど形を変えずに受け継がれてきた、ということが国宝指定の大きな要因となった。
 また、国宝指定に際し「本殿」と「本社」の用語の統一がされた。それは、「本殿」とは内殿・外殿から構成される八幡造本殿、「本社」とは石垣上に建つ本殿・楼門・舞殿・幣殿・廻廊などの建物の総称として明確に区別された。さらに、八棟だった文化財が十棟に増え一部名称の変更がなされた。それまで附(つけたり)指定であった瑞籬と摂社武内社がそれぞれ本指定となり、新たに附指定として棟札(むなふだ)が三枚、そして、「本殿及び外殿一棟」が「本殿(内殿・外殿)一棟」と改称され、正式な国宝指定名称は「石清水八幡宮本社 十棟 附棟札 三枚」となった。
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『一口感想』より

石清水八幡宮の建築様式がとてもよく解りました。興味深いお話もたくさんお聴きすることが出来、非常に有意義な例会でした。八幡に住む者として国宝石清水八幡宮を誇りに思います。 (藤田美代子)
国宝指定の苦労話、大変興味深かったです。歴史的な経緯を再度勉強する気になりました。ありがとうございました。(竹内勇)
過去からの歴史、年表など詳しい資料を見て感心しました。国宝になるまでのご苦労やいきさつが知れてよかったです。建物の絵図などがわかりやすくて参考になりました。文化財の保存・維持は大変なことと再認識しました。(匿名希望)
神道氏の講演で最も印象深かったのは、国宝指定になった二つの理由です。つまり、「石清水八幡宮の本殿が国内の同形式本殿の中で現存最古で最大規模である」こと、もう一つは「本殿などを廻廊で囲み一体化するという古代に成立した荘厳な社殿形式を保持している」という二点です。前者に関連して、一遍聖絵の存在が大きいと思います。この絵によって現在の社殿が鎌倉時代のものとそう変わらないことがわかります。また、後者については、後の質疑応答で話題になりましたが、石清水八幡宮が「宮寺」つまり神仏習合の様式を残しているということです。そんな特異な様式を持つ社殿が石清水八幡宮本社であるということが再認識されました。ありがとうございました。(土井三郎)
既に存在する国宝(宇佐神宮)との違いを、専門家の視点から調査、整理して申請され、国宝指定へと繋がれた皆様方のご尽力にはたゞたゞ敬意あるのみです。  (野間口秀國)
by y-rekitan | 2016-05-30 11:00 | Comments(0)