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◆会報第80号より-01 豊蔵坊信海

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心に引き継ぐ風景・・・⑪

豊蔵坊信海と北村季吟きたむらきぎん


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 豊蔵坊信海(孝雄)は松花堂昭乗の門人であり、藤田友閑、中村久越らと共に
歴史に登場する。後年は狂歌作者として名を馳せ「豊蔵坊信海狂歌集」がある。
豊蔵坊は三河以来の徳川家の祈願所であった為、107石の領地朱印状を有し、年に3度、将軍に拝謁している。他に伏見奉行所より300石を支給されており、壮大な坊舎が絵図から見て取れる。今、跡地には「豊蔵坊跡」の三宅碑が建ち、石垣のみが往時を偲ばせる。
 信海、終生の友として、北村季吟がいる。季吟は現在の滋賀県野洲市の出身で
父宗円が京都に出て医や連歌を学んだ為、季吟も早くから医業を学び、長じて山城長岡藩の藩医であったことが知られている。俳諧は初め安原貞室(やすはらていしつ)に学び、後に松永貞徳の門に入る。貞徳没後「宗匠」として独立後の門人には、かの松尾芭蕉がいる。季吟が八幡豊蔵坊を直接訪れたのは寛文元年(1661)8月28日、季吟38歳、信海36歳の時であった。5日間逗留し、その時の贈答歌が残る。
信海が元禄元年(1688)9月13日に63歳で没した翌年、季吟は幕府歌学方として五代将軍綱吉に仕える。神應寺19世・廓翁鉤然(かくおうこうねん)に帰依する大奥総取締「右衛門佐(えもんのすけ)」はこの時期に多くの上方文化人を江戸に呼び寄せたが、季吟の推挙にも関わった事が容易に想像できる。

(写真と文 谷村 勉)空白



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by y-rekitan | 2017-07-24 12:00 | Comments(0)

◆会報第78号より-05 八幡宮道

石清水八幡宮を指し示す--
-- 「八幡宮道」の道標の数々


谷村 勉 (会員)

 八幡とその周辺の「石清水八幡宮」を目指す道には、江戸時代の個性的な道標が現在も残り、古来「やわた道」、「八幡宮道」と呼ばれた事が判ります。
 八幡の道の歴史は数々の道標に導かれる八幡宮参詣道の歴史です。現在も「八幡宮参詣」の道しるべとして残る主に江戸時代の道標の数々を紹介しますが、時代々々に建立された道標の数から、八幡は道標・石碑の町と言っても過言ではありません。八幡の南北に走る「八幡宮参詣道」を最近俄かに「東高野街道」などと言いだした人々は八幡の歴史や聞き取り調査、綿密なフィールドワークを怠ったと思われます。八幡の道の歴史を学べば分る事ですが、「八幡宮道」や「やわた道」などの道標の数々は、これが本来の八幡の歴史街道であることを雄弁に物語っています。「八幡宮参詣道」は八幡を訪れる道として紛れもなく「八幡宮への信仰の道」として機能してきたのでありました。

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① 楠葉野田一丁目の
江戸時代再建の道標

「左  八 ま ん 宮」
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「右  志 み つ」

(文久二壬戌年四月再建・1862)
縦104㎝ 正面幅30㎝ 横24㎝

右側の道標は再建以前の道標(折損か)   「八まん□□」
   (寛政元己□・1789)
縦54㎝ 正面幅24㎝ 横23㎝
橋本経由の八幡宮道と切通を経て八幡志水に抜ける道を示している。


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② 楠葉中之芝一丁目
「久親恩寺」の地蔵道標

「八まん宮道」

(寛保三亥十一月吉日・1743)
縦111㎝ 正面幅27㎝ 横24㎝
地蔵尊像の形態:座像
持ち物:錫杖、宝珠

久親恩寺には道筋の変更や宅地開発などで行き場を失った道標が集められたようだ。


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③ 楠葉中之芝一丁目
「久親恩寺」地蔵道標

「すく 八まん道」

(年代不詳)
縦89cm 正面幅22cm 横17cm
地蔵尊像の形態:立像
持ち物:両手で宝珠

正面、地蔵尊像下の文字は判読困難。「すく」とは、直ぐ、まっすぐ行くと、の意。「すぐ」、「春具」も同じです。


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④ 楠葉中之芝一丁目
「久親恩寺」の地蔵道標

「すく 八まん宮」
「右 かうや 左 はし本道」


(年代不詳)
縦47cm 正面幅30cm  横10cm
地蔵尊像の形態:立像
持ち物:両手で宝珠

「右かうや」の文字は橋本から楠葉中之芝を通り交野山を目標に招堤方面を指している。
橋本・楠葉に旧高野道の存在を証明する大変貴重な道標です。舟形光背の上部は破損している。


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⑤ 楠葉中之芝一丁目
「久親恩寺」の墓碑道標

「右 やわたみち」
「すく 京 み ち」


(天保四巳年四月十八日・1833)
縦77㎝ 正面幅30㎝ 横29㎝

元は京街道沿いにあったようだが、街道筋の変更により寺院内墓地に移転されたようだ。


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⑥ 橋本中ノ町の道標

「八 ま ん 宮」
左り--------
「いせ京伏見」

    
(明和四年丁亥二月・1767)
縦 116cm 正面幅 28㎝ 横 27㎝



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⑦ 橋本北ノ町の道標

「右 八まん宮山道*** 
***これより十六丁」


(文政二己卯年二月吉日・1819)
縦116cm 正面幅25cm 横21㎝

道標の位置が動いている。狩尾社から八幡宮へ向かう道筋を指している。


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⑧ 伏見区淀際目町の道標

「八まん宮ミち」
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「か わ ちミち」

(宝暦三癸酉歳四月・1753)
縦126cm 正面幅21cm 横20cm

旧八幡際目郷、昭和 32 年京都市伏見区淀に編入。
旧木津川堤道(奈良道)近くに建っていたとのこと。横のお堂は近隣寺院の廃寺により、住民によって
お堂が建てられ、大日如来坐像等が安置された。


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⑨ 美濃山井ノ元の
「指さし地蔵」道標

「八はたへこれから」

(年代不詳)
縦60cm 正面幅33cm 横18cm
地蔵の形態:立像
持ち物:左手に宝珠

右手で「八はた」の文字を指している、珍しい「指さし地蔵」です。
元は近くの河原地区道沿いにあった。


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⑩ 八幡旦所「青林院」の道標

「西 八幡宮道」

(年代不詳)
全長123㎝ 正面幅19cm 横15cm

倒置


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⑪ 頓宮西の倒置道標
(巨大五輪塔の向い)

正面「左 八幡宮道」
裏面「是より北荷馬口附の者来へからず」


(年代不詳)
全長 280cm  正面幅24㎝ 横 24㎝

角柱の周りに縁取り加工をした立派な道標
道路工事の際、一旦八幡宮に預け、そのままになってしまったのか?


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⑫ 八幡大芝「八角堂」の
役行者道標

「すく 八幡宮」

(慶応三年丁卯八月日・1867)
縦127cm 正面幅24cm 横22cm
役行者座像 持ち物:錫杖、経巻

元は志水大道沿いにあったが、道路工事により八角堂に入った模様。役行者像が彫られている。八角堂は工事中の為、現在入れません(2017.02.10)
(左の写真は神戸市/故荒木勉氏撮影)


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⑬ 正徳 3 年
「御幸道(みゆきみち)」道標

「石清水八幡宮鳥居通御幸道」

『男山考古録』に「正徳 3 年(1713)石清水八幡宮鳥居通御幸道という標碑を建てられたるは、検校新善法寺行清法印也」とある。
 近年、御幸橋南詰に設置されていたが、平成 21 年以降「御幸橋」付替え工事により八幡宮頓宮敷地内に仮置きされている。
 石清水八幡宮境内全図(重文) や山上山下惣絵図には「御幸道」と共に「御幸道の道標」の存在も記載されていて、京街道分岐点から一の鳥居の道を指している。折損の為、御幸道の部分がコンクリートによって塗り固められていた為、文字が隠れていた。

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⑭ 枚方市上島町の
八幡宮参詣道地蔵道標

参 詣 道
八幡宮----------
橋本へ一里


(安政三丙辰年十一月・1856)
縦200㎝ 正面幅30cm 横22cm
地蔵尊像の形態:座像
持ち物:錫杖 宝珠

枚方市(牧野)の京街道、船橋川の堤にある高さ 2m の重量感のある八幡宮参詣道の道標。
枚方市岡本町の文政九丙戌年(1826)建立の道標には「左 六り やわたニり」とある。


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⑮ 枚方市町楠葉の地蔵道標

右 八幡宮

(天保三年辰年一月吉日・1832)
縦157cm 正面幅31cm 横25cm
地蔵尊像の形態:座像
持ち物:錫杖 宝珠

長福寺内にある地蔵座像道標、保存良好で驚くほど美しいが、再建された道標だろうか


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⑯ 大山崎町の地蔵道標

右 八わたミち
左 よどふしみ


(年代不詳)
縦96cm 正面幅40cm 横20cm
地蔵尊像の形態:立像
持ち物:錫杖 宝珠

離宮八幡宮より西国街道を北へ大山崎小字傍示ノ木辻にある。
大山崎町唯一の「やわた道標」と思われる。



「石清水八幡宮参詣道」にいわゆる「東高野街道」の名称はふさわしいか?

 八幡やその周辺に残る八幡宮参詣道の道標を調査した結果、「八幡宮道」や「やわた道」などと書かれた道標を一部紹介することができました。現在はこれ以外にも驚くほどの数の「八幡道標」が発見されています。これらはいづれ「八幡の道探究部会」の活動成果として紹介したいと思いますが、「文化財」として大切に保全されているこれらの道標を見るにつけ、八幡の悠久の歴史が消される危険性が潜む、殆ど馴染みのない高野山や和歌山の道を八幡に出現させる事などは「勘違いの行為」としか思えません。一体誰の為の八幡でしょうか。

 自分たちが住んでいる町の歴史をもっと大切にして欲しいものです。いわゆる「東高野街道」が在って国宝「石清水八幡宮」が路傍に在るのでは決してありません。石清水八幡宮が遷座(貞観元年・859)した後に八幡の南北の道が整備されましたが、弘法大師空海は八幡宮が遷座される以前に入定(承和2年・835)されています。従って弘法大師空海はいわゆる八幡東麓の東高野街道という名の道を歩くはずもありません。高野道とは嘗(かつ)ては弘法大師空海が高野山への道をとったという古い街道のことを指したものですが、八幡宮の参詣道が洞ヶ峠から河内の高野道に繋がった為、八幡宮参詣道を通って洞ヶ峠から高野道を利用する人が居たに過ぎないのです。津田や交野や八尾から八幡宮を目指す人々にとっては八幡に向かう道は「京道」であり「やわた道」でありました。
 固有の歴史を大事にしてきた八幡ですが、八幡を知らない学者の書いた論文や文献を読むだけの表層の知識の鵜呑みでは八幡の道の歴史は語れません。嘗て東海道五十七次と云われた大坂・京都間の道では、役人はいざ知らず、住民は東海道と呼ばずに、京街道、大坂道などと呼びました。明治時代、八幡の道を嘗て役人が東高野街道と言った時期があるようですが、八幡の住民は誰もその様な呼びかたはせず、今でも八幡宮道、御幸道、常盤道、志水道などと呼んで歴史的呼称を大切にする気概をもち、生活の中に活かしてきました。八幡の道が「石清水八幡宮への信仰の道」であることを住民誰もが知っていたのです。八幡周辺の行政区にある「八幡宮道」などの道標の数々を見れば、八幡の道は八幡宮参詣道として重要な機能を果たし、八幡宮在っての八幡の道であり、高野山在っての八幡の道でないことは明々白々なのです。固有の歴史を大事にし、それを主張してこそ観光客や住民も納得しますが、借物の名称では誰も振り向くものではありません。
以上----

by y-rekitan | 2017-03-22 08:00 | Comments(0)

◆会報第76号より-05 詩歌と八幡の歴史④

シリーズ「詩歌に彩られた八幡の歴史」・・・第4回
都名所図会と八幡讃歌

 土井 三郎 (会員) 


画期的なガイドブック

 『都名所図会』は、安永9年(1780)に京都の吉野家為八という書林(出版者)から刊行されました。著者は秋里籬島(あきさとりとう)、さし絵は竹原春朝斎です。大本(おおほん)というゆったりした判形で、鳥瞰図という新鮮なさし絵が人気をよび、名所図会のはじまりを告げるものとなりました。平易な文章に和歌や発句を適宜挿入し、有名社寺の紹介をはじめ、名所旧跡にまつわる伝説や風俗習慣、年中行事まで細かく説明されています。特に、社寺の鳥瞰図や風俗・祭礼図を多数掲げていることは、当時の京都を知るうえで手掛かりになるばかりでなく、娯楽性に富んだ地誌案内記として高く評価されています。
 批判すべき点が少なくないことも事実です。例えば、庭園や社寺の由緒縁起等の説明について誤りがあり、引用和歌中にもしばしば間違いがあるのです。しかし、前者について、社伝や寺説を批判・検討しないまま記述されているのは、当時において絶大な権力をもつ門跡寺院や大きな社寺の説を無視し、自説を述べることはきわめてむずかしかったことを考慮すべきであり、後者については、写本のごとき多くの人手によってできた書物から、写しあやまりがあるのは当然のことであり、絶対正確を期待する方が無理というべきであるとの指摘がされています(※1)。
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松と月

 『都名所図会』は六巻・六冊で構成されており、八幡は、第五巻の冒頭から収められています。まず、八幡宮参詣の折の土産の紹介に始まり、神宮寺、御旅所(おたびしょ)(頓宮)など山下の概要、石清水八幡宮本社(山上)の景観を見開きにして計7頁の挿絵で示し、後は本文にて八幡宮の成立や堂宇・僧坊の概説をし、放生会について再び2頁とって挿絵と添え文にて解説するというものです。そして、それらの中に和歌がちりばめられているのです。          
 
     
       能連法師・千載和歌集
  石清水きよき流れの絶えせね
   宿る月さえ隈(くま)なかりける

       摂政太政大臣・新後撰和歌集
  やわた山さか行く神のめぐみとて
   千代ともさゝし峯の松が枝
                   ※2
       後鳥羽院・新続古今和歌集
  やわた山跡垂れ初めししめの内に
   なお万代(よろずよ)と松風ぞふ
            
       後久我太政大臣・続後撰和歌集
  なお照らせ代ゝに変らず男山
   仰ぐ峯より出づる月影
     
       貫之・続古今和歌集
  松も生(お)ひ又も苺(こけ)むす石清水
   行末とおく仕へまつらん
  
 石清水に関連する和歌は9首掲載されていますが、その内、上記の和歌はすべて「松」と「月」が詠み込まれています。元禄期以降、俳諧や和歌、漢詩に詠まれた「八幡八景」は、男山・極楽寺・猪鼻坂・放生川・安居橋・月弓岡・橋本・大乗院の8つの景勝地が選ばれていますが、男山は松を読み込むのが決まりになっています。また、文久年間(1861~63)に発行された『淀川両岸一覧』には其角(きかく)の発句「新月やいつを昔の男山」が掲載されている(※3)のはご承知の通りです。まさに、男山は松と月が似合う景勝地であったのです。

跡垂れて

 石清水八幡宮の神徳を讃える歌として印象深い和歌があります。先に示した後鳥羽院(1180~1239)の歌です。
  やわた山跡垂(あとた)れ初(そめ)ししめの内に
   なお万代(よろずよ)と松風ぞ吹く

 この和歌には詞書(ことばがき)があり、「建仁元年(1201)十二月石清水社歌会に」とあります。後鳥羽院が石清水に行幸し、12月の歌会にこの歌を詠んだというのです。
「跡垂る」とは何でしょうか。『広辞苑』によれば、「垂迹(すいじゃく)の訓読語とし、仏・菩薩が神となって我が国に現れる。玉葉集「一つにぞ世をまもるらし跡垂るるよもの社の神の心は」」と用例まで示されています。要するに、本地垂迹(ほんちすいじゃく)を指すことばなのです。従って、上記の和歌を意訳すれば、「八幡山では、仏の仮の姿である神が初めて神域(注連 しめ)に現れ、なお、万世に讃えられるように松風の吹いていることだ」となるでしょう。なお、「迹」は「跡」と同意です。
 周知の通り、石清水八幡宮は、江戸時代までに「八幡宮寺」と呼ばれた宮寺です。つまり、神であり、仏である八幡大菩薩が鎮座する神社であり寺院であることを高らかに歌い上げた和歌なのです。
 ちなみに、「跡垂る」を読み込んだ歌を調べてみました。

      法印行清・続拾遺和歌集
  をとこ山あとたれそめし袖の上の
   ひかりとみえてうつる月かげく

      入道二品親王道助・新続古今和歌集
  跡たれて千世ともさらにいはし水
   ちかひし末ぞ今はかはらぬ
 
 「法印行清」は石清水八幡宮第39代別当行清その人なのでしょう。それにしても、「跡垂れ」「跡垂る」神社として石清水八幡宮寺が鎌倉期以降の歌人によって認識されていたことは特筆すべきことでしょう。朱塗りの社として知られる春日大社以上に、石清水八幡宮は神仏習合=本地垂迹の神社として人々の目に映っていたのです。

祭礼を詠う

『都名所図会』「八幡編」に詠まれている歌に、石清水の祭礼を讃える歌があります。

       知家・新六帖
  男山秋の今日(けふ)とや契りけん
   河瀬に放つ四方(よも)の鱗(うろくず)
          
 「河瀬に放つ鱗」でおわかりの通り、これは放生会を詠んだ歌です。もちろん、「秋の今日」は旧暦の8月15日です。ちなみに、放生会の挿絵に添えられた文章を紹介してみましょう。
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 「八幡の放生会は毎年八月十五日の未明より下院神幸ありて同日七ツ時還幸し給ふ也 十六日には放生川の汀(みぎわ)へ社僧出(いで)てもろもろの魚鳥を放ちたまふ 此両日は遠近(おちこち)より詣人群集す 宿院のほとりには芝居放下師いろいろの物売出て尺地もなく市となすハ神慮のめぐみなるべし」
 「放下(ほうか)師」とは、「放下僧」のことで、「放下(ほうか)」とは、中世・近世に行われた芸能の一つ、小切子(こきりこ)を打ちながら行う歌舞・手品・曲芸などの芸、また、それを専門に行う者。多くは僧形であったが、中には頭巾の上に烏帽子をかぶり、笹を背負った姿などで演ずるものもあったとのことです。
 添え文に、「十六日には放生川の汀へ社僧出てもろもろの魚鳥を放ちたまふ」と放生会が2日間にわたって行われたとあります。文政3年(1856)発行の『男山放生会図録』にも、「翌十六日は山上の僧衆ことごとく集会して放生川に魚鳥を放ち供養執行あり」と述べていることでも確認できます。現在は、9月15日の深夜3時ごろに神幸があり、放生川にて魚鳥を放つ祭事は、同日の午前8時ごろから始まります。そしてその日の夕刻に還幸の儀があり、石清水祭(放生会)は一日で終了します。ところが、江戸時代には、15日・16日の両日にまたがって祭事が行われたようです。
 祭礼を詠んだものには、次の歌があります。

      石清水りんじのまつり
      (定家・新勅撰和歌集)
  河瀬に放つ四方(よも)の鱗(うろくず)
   大宮人のかざすさくらは

 詞書に「石清水りんじのまつり」とあるように、これは臨時祭を詠ったものです。石清水八幡宮の臨時祭は、天慶5年(942)の平将門・藤原純友の乱を平定する祈願が成就したお礼として天禄2年(971)より恒例化され、3月中の午(うま)の日に勅使(ちょくし)(天皇の名代)の臨席のもとに行われました。藤原定家の歌にある「大宮人」(朝廷の役人)も「かざす桜」もそのことを意味しています。通例、祭幣・歌舞・走馬などが奉納されるとのこと。12歳で元服したばかりの平清盛が石清水臨時祭で舞を奉納したことが知られています。

疫神詣(やくじんもうで)

 『都名所図会』は、「ゆったりとした大本(おおほん)の見開きいっぱいに広がった鳥瞰図」が人目をひき、八幡編では、「数丁にわたるパノラマ画面」を使って石清水八幡宮を3丁(6頁分)の一連の絵に紹介しています(※4)。f0300125_20292945.jpg
 中でも、下院の図を見ると、頓宮殿の名称が「疫神堂(やくじんどう)」(御旅所疫神堂)とあり、その隣の、今は斎館と呼ばれているところに立派な極楽寺(阿弥陀堂)が建っています。まさに神仏習合を象徴しているようです。            
 「疫神(やくじん)」とは何でしょうか。名所図会の当該の文章を読めばわかります。
「一鳥居の南廊下の内にあり 此所八幡宮御旅所也 疫神ハ正月十九日一日の勧請也 延喜式に曰 山城と摂津の疫難を払ふなり 土産には蘇民将来(そみんしょうらい)の札(※5)・目釘竹(※6)・破魔弓(はまゆみ)・毛鑓(けやり)(※7)等を求めて家に納め邪鬼(じゃき)を退くなり」
 この文章から次のことがわかります。
ここは、八幡宮の御旅所(=頓宮)である。
疫神は、正月19日に(本殿から)勧請(かんじょう)される。
(石清水に疫神が祀られるのは、)山城と摂津の国境にあり、ゆえに疫難を払う場所だからである。
土産である蘇民将来の札、目釘竹(めくぎたけ)、毛鑓等は各家々に納められ、邪鬼を払ってくれる。
 注目すべきは、③だと思います。石清水八幡宮は、山城と摂津の国境に建てられたということ。しかも、山城は平安京の名の通り、王宮の聖地です。何としても「疫難」の侵入を阻まなければなりません。そこで、疫難を払(祓)うことが、殊に近世において盛んになったということなのでしょう。
 今でこそ、どこの神社でも疫を祓うことが行われていますが、山城・摂津の国境にある石清水こそ、疫難を払うにふさわしい神社であったというのです。ちなみに、『日本国語大辞典』で「疫神詣(やくじんもうで)」を調べると、次の文章が現われます。「その年の厄を払うため、疫神をまつった疫神社に参詣すること。特に、京都石清水八幡宮の境内に勧請した疫神に、正月十九日に参詣するものは古来名高い。」
 今でこそ、正月19日に厄を祓いに石清水を参詣することは少なくなりましたが、この日、頓宮殿の前庭にて「青山祭」と称する神事が毎年行われています(※8)。まさしく、疫神信仰のメッカが石清水八幡宮であり、在り続けているのです。
 (次回は、「近世八幡庶民の雑排ブーム」を予定)空白

(※1)『日本名所風俗図会』第7巻(角川書店)、解説「秋里籬島と『都名所図会』」
(※2)摂政太政大臣(藤原良経)のこの歌は、『新後撰和歌集』に収録されていません。『国歌大観』の勅撰和歌集編を調べればわかります。おそらく、転記した際に間違えたものと思われます。
(※3)拙稿「淀川べりの俳諧二句」(会報73号)
(※4)伊東宗裕「地誌に見る八幡」(会報54号)
(※5)疫病除けのための護符。家々の門口に「蘇民将来子孫の宿」と書いて貼ったり、木製六角形の棒に「蘇民将来」などと書いて、社寺で小正月に分与したりする。
(※6)目釘としている竹。乾くと緩み刀身が抜けることがあるため、太刀打ちの前に湿す。
(※7)先端のさやを鳥の羽毛でかざった槍。大名行列の先頭などで槍持ちが振るもの。
(※8)青山祭については、竹中友里代「島村家神札・護符等の版木と青山祭祭壇図」(京都府立大学文化遺産叢書第3集『八幡地域の古文書と石清水八幡宮の絵図-地域文化遺産の情報化-』に詳しい。
                



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by y-rekitan | 2016-11-20 08:00 | Comments(0)

◆会報第75号より-02 石清水八幡宮

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《講 演 会》
石清水八幡宮の別宮の成立と機能

2016年8月 八幡市文化センターにて
 鍛代 敏雄
(石清水八幡宮研究所主任研究員 東北福祉大学教育学部教授)

              
  2016年8月27日、八幡市文化センターにて標記の講演と交流の集いが行われました。講師である鍛代敏雄氏は、毎年この時期に所用で石清水八幡宮に来られます。その機会を利用して今回も集いが実現できました。参加者43名。以下、講演の概要を紹介します。

はじめに

 別宮(べつぐう)とは何か。『国史大辞典』では次のように説明されている。「神社の本宮と関係のある神社をいう。特に伊勢・石清水両宮の例が知られており、本末関係で結ばれた神社の称号の一つ。(中略)石清水八幡宮の場合は伊勢の例とは異なり、宮寺領の拡大に伴って荘園内に設けられた鎮守神をいう。なかでも大分(だいぶ)宮をはじめとする九州五所別宮は重視され、ほかに宮寺領の別宮は保元3年(1158)には18ヵ国35ヵ所を数えた。」(岡田荘司)
 私の中世前期までの調査では、長暦2年(1038)の紀伊・伊部の隅田(すだ)別宮に始まり、観応2年(1351)の加賀・能美の多田八幡別宮までの計74カ所ある。その多くは平安後期から鎌倉時代で、石清水がもっとも力を持っていた時代である。その時代、石清水の別宮は全国に存在した。北は佐渡、東は上総・上野など関東にもあったが、但馬・丹後・出雲・伯耆・備前・豊後・肥前・筑前など西国が圧倒的に多かった。

1、石清水の荘園と別宮

 別宮は、本社に対する末社という性格のものではない。つまり、末社が本社の祭神を勧請して成立するだけのものではないということである。別宮は末社と何が違うのか。別宮では、石清水の力が直接及び、人事権を石清水が掌握するのである。荘園の現地管理者は、現地の有力者が担うのが一般的であったが、石清水の別宮では、石清水から直接派遣された人物が支配・管理したり、八幡宮の側が地元の人物を任命(「補任(ぶにん)」)したりするのである。f0300125_16354656.jpg
 石清水八幡宮は、多い時で全国に400ヵ所程度の荘園があった。荘園領主としての土地以外にも、例えば地頭職(じとうしき)が寄進される場合もあった(1338年、足利尊氏が丹後国佐野別宮地頭職を石清水八幡宮に寄進)。先ほど紹介した石清水の別宮74ヵ所の内、55件は地名が確認されず、別宮が荘園と同じような形態であったと想像できる。
 元暦2年(1185)の源頼朝下文(くだしぶみ)では、荘園および別宮を「庄々」と呼んでいる。荘園として認識され、頼朝が地頭御家人に対し、兵粮などの名目で年貢を強奪するなど乱暴・狼藉を働かないように命じたものだ。
荘園ができて別宮ができるのが一般的であるが、別宮ができて荘園ができる場合もあった。いずれにしても、荘園のみあって別宮が無いケース、別宮があって荘園が無いケース、荘園も別宮もあるケースと三つに類型化できる。
但し、史料を見てみると「別宮(べつぐう)」のことを「別院(べついん)」と表記する場合があった(1158年の史料)。天台・真言二宗や浄土真宗に見られるように、本寺と別院の関係は、本寺が別院の人事権を掌握することにより成立する。そのことからも、石清水本宮と別宮の関係は、本寺と別院の関係のように見なされていたのである。事実、石清水は、石清水八幡宮としてではなく、「石清水八幡宮寺」と呼ばれていた。9世紀に創建された石清水八幡宮であるが、10世紀はじめにできた「延喜式内社」に石清水は含まれていない。神社として認定されず、朝廷からは「宮寺(ぐうじ)」として評価されていたのである。

 次に、石清水八幡宮寺の荘園と別宮がどのように成立したのか以下の項目で見てみよう。
(1)延久の荘園整理(1069年、後三条天皇による)
山城6、河内16、和泉3、紀伊7、美濃1、丹波1、計34ヵ所あった宮寺領は、6ヵ国21ヵ所に確定した。
(2)保元の新制(1156~57年、後白河天皇による)
保元3年(1158)の裁許により、38ヵ国、138ヵ所の荘園・別宮が確定した。別当勝清(しょうせい)の時で、勝清は、25代別当光清(こうせい)の息子である。ちなみに、光清は、後白河天皇(法皇)と深く結びつき、石清水の祠官家(長官)を、それまでの宇佐氏の流れをくむ元命(げんみょう)系から、行教以来の紀(き)氏(し)に奪い返したのである。後白河院の支持のもと、紀氏が祠官家を独占する流れが決まったといってよい。いずれにせよ、そのような権力構造の変遷のなかで石清水の荘園と別宮が大量に誕生したのである。
(3)弘安の大田文(おおたふみ)(1285年、但馬国の場合)
郡ごとに、郷・庄・別宮を記載した。但馬国内の八幡宮領は10ヵ所200町弱である。
(4)「石清水八幡宮 社領一覧」(竹内理三『国史大辞典』)
承平6年(936)における河内矢田庄から永禄12年(1569)にかけて42ヵ国・153ヵ所を記す。但し、別宮・別宮領を除く。荘園の東・北限は遠江・信濃・越後で、西・南限は南海・西海(筑前・築後・日向)である。
(5)社家領
それまでの宮寺領・坊領400ヵ所が田中家、善法寺家などの祠官家の社家領として把握されるようになる。
(6)近世の朱印地・社領 
6384石余。その他2300石余があった。

2、別宮の成立

(1)史料上の初見
 「別宮」が史料の上で初めて見られるのが長暦2年(1038)紀伊国隅田別宮である。石清水八幡宮少別当が隅田別宮に宛てた下文(くだしぶみ)で、忠延という在地の人物を俗別当職に任用しないことを述べたもので、神主職の人事権を石清水側が掌握していることを示したものである。
(2)中世前期の所見
 石清水の別宮の存在が確認される時期を類別すると以下のようになる。
保元3年(1158)12月3日以前に成立した別宮が40件あり、後白河院と結んだ石清水の別宮が全国的に成立したことがうかがえる。また、別宮の成立は14世紀までが主で、南北朝の動乱を機に別宮も荘園と同じように在地の有力者(武士)に浸食されていくことが見て取れる。
(3)地域別の分布
 ア、五畿内(4) イ、東海道(5) ウ、東山道(2) エ、北陸道(2) 
 オ、山陰道(30)カ、山陽道(12) キ、南海道(10) ク、西海道(9) 
  計74ヵ所。
 北限は佐渡、東限は相模・下総・上野の関東、南西限は薩摩である。これは、竹内理三氏が『国史大辞典』に掲載している石清水八幡宮社領(荘園)より広範囲にわたっていることを示している。

 3、別宮の機能

(1)特権と権益:土地と人、神人
①不輸租田
 石清水の別宮領は不輸租田である。貢租を国家および地方に納めなくてもよいというもので、「勅免官省符の地」と「国司奉免」という言葉が史料に残っている。国や地方に納めないということは当然、別宮の領主=石清水に年貢が入ることを意味する。
②「一国平均役」の免除
 建久8年(1197)正月に八幡宮公文所から隅田庄への下文(くだしぶみ)に、当宮(石清水八幡宮)御領では、「兵士役大番」(兵粮・造作の労役)、「造東大寺夫役」などの一国平均役(国ごとの労役)は、「先例」「傍例」により「不可勤仕」=免除を命じているのである。
③「但馬国大田文」(1285年))に見る別宮の人的様相
 但馬国大田文(おおたぶみ)は、荘園・公領の田数、領有関係、地頭補任の状況を記録したものである。石清水別宮も等しく田数が記録されている。その記録によれば但馬国内の別宮は、「八幡領」「八幡宮領」として全10ヵ所が記録されていて、内「下司(げし)」「御家人」の名が記録されるのが4件、「地頭」の名が記録されるのが3件である。在地の領有関係のなかで、下司・御家人・地頭などが、どのように役職を担ったのか興味がもたれるところである。
(2)本宮・石清水の「雑役」(社役・神役)
①誉田宗廟別宮の場合
 保延3年(1137)の光清起請文案によれば、誉田別宮に対し、他の別宮に准じ、本宮の「雑役」を勤める必要はないと書かれている。この雑役とは、主に祭祀料と造営料の負担だった。
②安居頭役の事例
 上野国板鼻(いたはな)別宮の預所(あずかりどころ)である安達景盛(あだちかげもり)に安居頭役を命じている文書がある。元久元年(1204)のもので、安達景盛は鎌倉幕府の有力な御家人である。また、翌元久2年(1205)に、上総国市原別宮の預所である中原親能に安居頭役を命じたものがあるが、「称無先例、令対捍給云々」とある。先例が無いと称して、履行を拒否したのである。文永元年(1264)、相模国古(旧)国府別宮の預所、三浦頼盛も同じく「対捍去年安居頭役」の文字が見え、必ずしも石清水側の安居頭役の経済的負担の要請に応じたわけではなかった。
 他に、八幡宮領出雲国赤穴別宮(あか(あなべつぐう)の下司(げし)を担う人物に「宝樹」の頭役を命じている文書が見られる。寿永(じゅえい)元年(1182)と建久(けんきゅう)6年(1196)、寛元4年(1246)、文永4年(1267)の史料である。「宝樹」とは、石清水八幡宮の南楼門の前に松の大木を荘厳した「宝樹」6本を立てるというもので、まさに安居会の神事を指す。そのための経済的な負担を出雲の赤穴別宮の下司に命じているのである。赤穴別宮の下司として「紀宗實」の名がみえるが、石清水の祠官や俗別当の姓を借用する在地の有力者であろう。
③播磨国松原別宮(善法寺坊領)の場合
 文永3年(1266)検校宮清(ぐうせい)が、松原別宮の預所宛に下文を発給している。預所が寺内住僧・神人らへの狼藉を停止させるというものである。どういうことかというと、松原宮の預所が別宮の内部に検断権を振りかざし警察のような行為をなし、また別宮内に税をかける等の違乱を働いたというものである。このように、鎌倉時代の後期にもなると石清水による荘園・別宮の支配・統制に陰りが見え始めるのである。在地の武士から云えば、独自の力を蓄積し、荘園=別宮の領主による人事権から離れ独自の権力基盤を作り始めるのである。
(3)本宮・別宮の人事
 九州には宇佐八幡宮が存在するにも関わらず、戦国期まで石清水八幡宮の勢力が大きかった。その理由を考えてみたい。
 端緒は、宇佐出身の元命(げんみょう)が11世紀に石清水の別当になったことにある。藤原道長がバックアップしたからで、道長が元命を宇佐から呼んで石清水の別当に就任させたのである。その中で、行教以来の紀氏(きし)は抑圧された。だが、藤原の世が終わり、白河上皇、後白河上皇などの院政が始まるにつれ紀氏が復活。元命がそれまで持っていた権限を奪い返し、宇佐に限らず九州全体の八幡宮の権限を石清水のもとに取り込んでいくことになる。筥崎八幡宮も、戦国期まで石清水が支配するのはそんな事情を反映しているのである。

おわりに -別宮の歴史的意味-

(1)別宮は、伊勢神宮(境内別宮が主)や賀茂別雷神社、阿蘇神社、出雲大社などにも確認できるが、石清水八幡宮のように荘園内に分祀・勧請され、神領の核として機能した例は特徴的なものである。また、別宮は別院とも称されたとおり、八幡宮寺の別宮として、祭祀においても仏神事の習合的な役割を担った。
(2)石清水八幡宮は、史料上、12世紀半ば以前に40ヶ所、14世紀半ば以前、中世前期までに74ヵ所確認できる。石清水領荘園の分布範囲を超えて広く認められる。別宮として寄進され、その別宮領は石清水宮寺領として公武に認定され、荘園と同じく不輸・不入の権が保障。官物・雑役、一国平均役などが免除された。別宮には、本社の社役・神役があらためて賦課され、神主・俗別当、別当・検校などは石清水側が掌握し、人事権をもって、祭祀・別宮領を監督した。この点は、寺院の別院と共通している。
(3)神社は寺院にくらべて、本末の関係に拘束されることはなく、地域の事情が優先される。古代、宇佐宮の八幡神・大菩薩・応神天皇が合体し、鎮守神や戦神として分祀・勧請されても、すべてが別宮となったわけではない。平安中期以降、寄進地系荘園の隆盛にくわえて別宮といった方法で石清水に土地が寄進された。とくに、九州の別宮のように石清水側が積極的に関与した場合もあるが、多くは末社・末寺化することで、免税特権を取得しようとする地域の事情があったのである。天下の宗廟にして内裏にもなぞらえた石清水八幡宮と同一の祭祀空間が別宮として地域に設営されたのである。 
【文責=土井】 空白
 
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『一口感想』より
 今回のテーマは少しむつかしかったですが、石清水八幡宮の別宮、別院のことがよくわかりました。古文書を読む力も必要であると感じました。また、次回(11/20)の「石清水八幡宮をめぐる八つのエピソード」の講演も聞いて見聞を広めてゆきたいと思います。ありがとうございます。 (M・K)
 かつて少年時代に詣でた薩摩高城(現、薩摩川内市)の新田八幡宮が石清水八幡宮の別宮であったことを知り、とても興味深くまたなつかしく聴かせていただきました。 (野間口秀國) 
 荘園という意味は、土地又は領地と言うことを指すのかと考えていましたが、別宮と言うことは初めて聞きました。石清水が全国にあったことを教えてもらいました。ありがとうございます。 (長井一詩)
 九州筥崎宮と石清水の関係を特集してください。 (竹内勇)


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by y-rekitan | 2016-09-20 11:00 | Comments(0)

◆会報第75号より-06 詩歌と八幡の歴史③

シリーズ「詩歌に彩られた八幡の歴史」・・・第3回
蕪村のまなざし―男山そして橋本

 土井 三郎 (会員) 


  やぶ入(いり)や鳩にめでつゝ男山 

 与謝蕪村(1716~83)の作品には、「やぶ入り」を詠み込んだ発句が多数見られます。少し紹介してみましょう。すべて『蕪村全集』第1巻(1992年講談社発行)から採用したもので、成立順に並べました。冒頭に掲げた句は、安永7年(1778)~天明3年(1783)頃の作品で、蕪村晩年の作品で、「やぶ入」で始まる発句の最後の句です。 
  ア、藪入の夢や小豆(あづき)のにえる中(うち) 
  イ、やぶ入や浪花(なには)を出(いで)て長柄川(ながらかは)
  ウ、やぶいりや余所目(よそめ)ながらの愛宕山(あたごさん)
  エ、やぶ入(いり)に曇れる母の鏡かな
  オ、やぶ入(いり)を守る子安の地蔵尊


 「やぶ入り」とは、正月と盆の16日、あるいはその前後に奉公人が主人から暇をもらって実家に帰ること。また、その日やその頃をさします。蕪村の句ではもっぱら正月16日の藪入りを指すようです。(エ)は、「やぶ入り」で久しぶりの再会を喜び合う母と娘の心情をリアルに映し出しているといえます。句意は「藪入りで戻った娘が懐かしそうに母の鏡を見る。母も後ろからのぞき込む。二人とも涙があふれ、鏡中の顔がぼやけている」というもので、『蕪村全集』の評者は「母娘の心情を鏡の曇りに凝縮させた」としています。的確な解釈だと思います。
 (イ)の句は、浪花の奉公先を出て、若い娘が長柄川(新淀川の前身中津川の古称)の岸辺を足取りも軽く故郷を目指すというものです。但し、「長柄」とある如く故郷の家にたどり着くまでの堤防道は長いもので、蕪村の故郷毛馬を暗示しているようです。(オ)にある「子安地蔵」は安産と小児守護の地蔵で、京都市下京区下寺町荘厳寺の地蔵が名高いとか。そんな子安地蔵の傍らを藪入りの子供が帰っていく。お地蔵様が、道中の安全を見守ってくれているようです。
 だが、「藪入り」で奉公人に許された休暇は僅かな日数しかありません。(ア)の句は、藪入りで故郷の家にたどり着いた子供が緊張感から解放され、うたた寝をしますが、その安らかで楽しい夢も、母親の心尽しの小豆が煮え上がるまでのわずかの時間なのです。
 さて、本題の男山を配した冒頭の句ですが、句意からすれば(ウ)が一番近いように思えます。 愛宕山は、京都の北西にそびえ、どこからでも目印になる信仰の山です。その愛宕山をよそ目に見ながら、いそいそと故郷へ急ぐ藪入りの子どもの姿を活写しているのです。
 そして、冒頭の句について、『蕪村全集』の評者は、「帰心矢のような藪入りの途次、男山の鳩に手を振りながら参詣もせず八幡様の前を急いで通り過ぎていく」としています。男山の鳩に免じてお参りもせず通り過ぎてゆくことをお許しくださいと八幡様に詫びているようでもあります。
 いずれにせよ、藪入りで故郷を急ぐ小児への蕪村のリアルで優しい眼差しを感じざるを得ません。
 ところで、八幡宮に鳩はつきものです。石清水八幡宮一の鳥居の額にある「八幡宮」は藤原行成が書いたものを松花堂昭乗が元和5年(1619)に書写したものとされ、「八」の字は向かい合った二羽の鳩を模しています。そもそも鳩が八幡神の使いの鳥とされるのはいつ頃からなのでしょうか。f0300125_10315594.jpg
 13世紀初頭に成立した石清水八幡宮の『宮寺縁事抄』に、同宮の創建者である僧行教(ぎょうきょう)が、宇佐に参拝して読経した時、「我紫鳥と云鳥化也」と託宣があり、その鳥が鳩であったことが述べられているとのことです。また、14世紀初頭に成立した『八幡愚童訓』に、「前九年の役」で源頼義が苦戦していたとき、八幡神に祈願したところ鳩が軍旗の上に降ってきたという逸話があるようです(※1)。 
 さらに、八幡宮と鳩の関係について、宇佐八幡宮に問い合せましたところ、次の情報がもたらされました。
 正和2年(1313)に、宇佐宮弥勒寺の僧神吽(そうじんうん)により編纂され、応永25年(1418)に周防・長門・豊前等の守護であった大内盛見の命により書き写し、宇佐宮へ奉納された「八幡宇佐宮御託宣集」によれば、言い伝えとして、八幡大神様が菱形池に御出現された際、八幡神の化身が金色の鷹となって現れ、大神比義が祈念すると金色の鳩に化したと記されているとのことです。上記の『宮寺縁事抄』の記述と相通じるものがあります。貴重な情報を提供して下さった宇佐八幡宮の関係者に紙面を借りてお礼申し上げます。
 いずれにせよ、13世紀から14世紀を中心に、石清水に限らず、全国の神社・仏閣で、寺社や仏像などの由来、または霊験などの伝承・伝説を記した書物や絵巻が盛んに刊行されました。八幡宮と鳩の関係もその時期に霊験譚(れいけんたん)として人々の間に広まっていったのでしょう。

  若竹やはしもとの遊女ありやなし

 蕪村は俳人として知られますが、盛んに句会を催したり句集を刊行したりしたのは51歳になってからで、生活の資はもっぱら画業によるものでした。また、55歳で亡き師の号である「夜半亭」を継ぎ、俳諧の宗匠(そうしょう)(点者)になったのですが、点料(添削料)を稼ぐことをいさぎよしとせず終生、俳諧を趣味として通したそうです(※2)。
 画家蕪村は、中国の新画法である南画や南宋画、文人画などを積極的に採り入れ、需要に応えました。一方で、俳味のある、略筆の淡彩もしくは墨絵で、発句の賛などが付けてある書画共存形式の俳画を完成したといわれます。次ページに紹介するのがその一つで、賛は冒頭の句です。f0300125_10404479.jpg
 この句を味わってみましょう。「若竹」は季語で夏を表します。文字通り、その年に生え出た竹で、「ことし竹」とも称されます。読者のなかには、「若竹」と「遊女」の取り合わせがミスマッチではないかと指摘する向きがあろうかと思います。この句の鑑賞には、「遊女」をどうとらえるのかがポイントになると思います。
 私は、この句に接したとき、西行の次の和歌を思い浮かべました。

  世の中を厭うまでこそ難(かた)からめ
   仮の宿りを惜しむ君かな


 西行(1118~90)が天王寺に参るとき、江口にて雨にあい、一夜の宿を借りたいと申した時に、断られて詠んだ一首です。遊女妙(たえ)は「家を出づる人とし聞けば仮の宿 心とむなと思ふばかりぞ」の歌で返し、「雨宿りを乞うお方が出家の身だと聞き、故に(遊女の)宿は貸すことできませんと申し上げたのです」と答えたのです。まっとうな理由であり、西行とても遊女の言にぐうの音も出なかったのではないでしょうか。一見卑賎な身と思われがちな遊女ですが、神に仕える巫女に起源を求める説があり、その職能としての芸能も神仏との関わりで説明されています。
 以上のことから、冒頭の句は、「若竹がすくすくと育つ橋本では、(西行と問答をした妙のような)遊女が今もいるのであろうか」と解釈されますが、この句をめぐって、蕪村の母への慕情を読み取るべきという指摘もあります(※3)。
 蕪村は、発句だけでなく、漢詩にも造詣が深く、「俳詩」と呼ばれたジャンルを開拓したとされます。「澱(でん)河歌(がか)」がその一つ。発句と漢詩、和詩を扇面一面に自画と自賛にあしらいました。その発句に「若竹や」ではじまる冒頭句が添えられているのです。 
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    澱河歌(でんがか) 夏
  若たけやはしもとの遊女ありやなし

    澱河歌 春                       
  春水浮梅花 南流兎合澱 
  錦纜(きんらん)君勿解 急瀬舟如雷
  兎水合澱水 交流如一身            
  舟中願同寝 長為浪花人                       
                  
  君ハ江頭の梅のごとし 
  花水に浮て去事すみやか也
  妾ハ岸傍の柳のごとし            
  影水に沈てしたがふことあたハず              

   「兎」は宇治川、「澱」は淀川を指す。「錦纜(きんらん)」は美しいとも綱。 

 この作品には、「春水に浮かぶ梅花のように澱河を流れ下って行く情人を送る(伏見の)妓女の思いに托して、惜別の情と浪花への郷愁を吐露したもの」との指摘があります(※4)。伏見の妓女、そして橋本の遊女に対する蕪村の眼差しに、故郷毛馬にて早くに離別した亡母ないし母性に対する哀切な想いが見え隠れしているようです。
(次回は、「名所図会と八幡讃歌」を予定) 空白

(※1)『八幡信仰事典』(夷光祥出版)
(※2)「翔(か)けめぐるマルティ芸術家の創意(おもい)」辻惟雄(『与謝蕪村-翔けめぐる創意-』)
(※3)「かりに、「哥よむ遊女」に、亡母をなぞらえる発想があるとするならば、「橋本の遊女」もその類想とすることに無理はない。むろんそれが、蕪村じしんの母親を指すと短絡してはならない。遊び女(め)という歌や芸に秀でた女性に、母性を仮託したものにほかならない。亡母幻想といってもいい。作者の想念のうちにできあがった、詩的母神像と解さねばならない。」藤田真一「蕪村二都物語」より(『与謝蕪村-翔けめぐる創意』)
(※4)「澱河歌(でんがか)」(尾方仂)『俳文学大辞典』より


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by y-rekitan | 2016-09-20 07:00 | Comments(0)

◆会報第74号より-05 詩歌と八幡の歴史②

シリーズ「詩歌に彩られた八幡の歴史」・・・第2回
歌枕 美豆

 土井 三郎 (会員) 


 歌枕(うたまくら)とは、本来、和歌に用いられる歌語、あるいは歌語を説明する書物のことを指していたようですが、現在はもっぱら和歌によまれた地名・名所のことをいいます。f0300125_932321.jpg一般に平安時代の和歌は表現のパターンを一定にし、その一定のパターンをいかに巧みにアレンジするかというところに特色がありました。「逢坂(おうさか)」は人に逢うことを掛けてよみこまれ、「龍(たつ)田川(たがわ)」は紅葉が流れる川としてのみよまれたのです。このように地名は特定のイメージと結びつくことによってのみ形象化されたのです(※1)。 
 山城の歌枕として有名な「みかの原」は、次の歌で有名です。

  みかの原わきて流るるいづみ川
   いつ見きとてか恋しかるらむ
  
           藤原兼輔(新古今和歌集)

 「百人一首」にも採り入れられているこの歌が人々に口ずさまれる中で、「みかの原」とあれば「いづみ川」を思い浮かび、「いづみ」から「(あなたを)いつ見」たことというのか「恋しくて仕方ない」という思いにつながり、恋歌をイメージするようになったのです。
八幡における歌枕といえば「男山」と「石清水」が想起されます。

男山
  今こそあれ我もむかしはおとこ山 
  さかゆく時もありこしものを
 
          よみ人しらず(古今和歌集)

   おみなへし憂しと見つつぞ行(ゆき)すぐる 
   おとこ山にしたてりとおもへば
  

          布留今道(古今和歌集)

 男山は、「男」のイメージで詠まれ、「女」のイメージを持つ「女郎花」を配するのはみなさんご存知の通りです。

石清水
  万代(よろづよ)はまかせたるべし石清水 
  ながき流れを君によそへて
  
          六条右大臣(金葉和歌集)

  石清水きよき流れの絶えせねば 
  やどる月さへくまなかりける
 
  
          能蓮法師(千載和歌集

 石清水は、山中に湧く石清水を神として祀り、清澄な流れの久しさや神の心に寄せた祝意の歌として詠まれることが多いのです。
 さて、本題である「美豆」について話を進めましょう。 
明治初年(1868)に木津川が改修される前まで、美豆(みづ)は、際目(さいめ)、生津(なまつ)とともに八幡の外四郷に属し、地続きでした。とくに平安時代、美豆は、山城の歌枕としてさかんに和歌に詠まれました。

  逢ふ事を淀に有てふみずの森 
  つらしと君を見つる頃かな
  

             よみ人しらず

 「後撰和歌集」(951年に和歌所設置)の恋の部に収められた歌で、「逢いたいものの、よどんで滞(とどこお)る淀にあって、みずの森ではないが見ることができず、つらい思いの今日この頃です」と嘆いたものです。「美豆」と「見ず」を掛けているのは明らかです。返しの歌があります。

  美豆の森もるこの頃のながめには 
   怨みもあへず淀の河浪
  

          よみ人しらず

 「美豆の森では、長雨のため水が漏り、怨むこともできず、ぼんやりと物思いにふけりながら淀の河浪を眺めるばかりです」の意で、森と漏(も)り、眺めと長雨を掛けた技巧的な歌です。
 「美豆の森」というからには森(未開拓地)が広がっていたのでしょう。
 「後拾遺和歌集」(1086年成立)にも美豆が詠まれています。

  さみだれは美豆(みづ)の御牧(みまき)の真菰草(まこもぐさ) 
  刈りほすひまもあらじとぞ思(おもふ) 
 
                       相模

 女流歌人、相模の歌は、「五月雨のころは、降り続く雨のために、美豆の御牧の真菰草を刈り干すひまもないと思います」と詠んだもので、ここでは森ではなく「御牧」が登場します。古代皇室の牧場で、馬の放牧地であったようです(※2)。

  真菰刈(まこもかり)みつの御牧の駒の足の 
  早く楽しき世をも見哉(みるかな)
    
                      兼盛集

「真菰」は池沼や河川のへりに群生する大型のイネ科の多年草で、f0300125_9523047.jpg茎の先に黒穂病菌が寄生すると、茎がタケノコを小さくしたような形に太り、食用になりました。現在、台湾や中国南部ではこれが栽培され、料理で珍重され、缶詰や冷凍にして輸出もされているとのことです。また、葉や茎で盂蘭盆会(うらぼんえ)の時の祭壇に敷くござに編んだとのこと(※3)で、相模の歌にある「刈り干す」のは食用というより、ゴザに用いるためのものかもしれません。
 京阪電車に乗って京都に赴く際、淀の手前で木津川の岸辺に目をやると、イネのような穂を延ばした背の高い草を見ることがあり、それが真菰ではないかと思うのですが、よくわかりません。
梅雨の晴れ間、背割公園まで出かけ、駐車場に車を預けた後、堤防沿いの農道を京阪の鉄橋まで歩いてみました。少々蒸し暑い日でしたが、水田では田植えを終えたばかりの早苗が風に揺れ、木津川の河原には灌木類や背の高いくさむらが繁茂していました。ただし、真菰の姿をしかと捉えることはできません。八幡方面を振り返ると男山が夏空に輝いて見えました。かつての美豆から見た男山は、鉄橋こそないにしても同じような景色(冒頭の写真)なのかと思いをはせたものでした。
 『山州名跡志』は、正徳元年(1711)に刊行された22巻にも及ぶ山城地域の地誌ですが、美豆について次のように記しています。
「(淀)大橋南爪に在て、其所民戸有り。大路東南に行き、東路上に云う如し。南、八幡
に至り、大坂に及ぶ街道なり。但し、古(いにしえ)に云う此処より十町(900m)ばかり艮(うしとら)(北東)方御牧双べり。仍て古歌に美豆御牧を詠む。今の如く御牧廣莫にして、美豆其十ガ一にも及ばず。今の如く木津川の流れを改むを以て変わる所なり。故に古歌に詠む美豆森、美豆野同じく入江等今は定かならず」
 方角などつじつまがあわない個所がありますが、内閣文庫所蔵の「八幡山上山下惣絵図」に地名や神社仏閣などをトレースした絵図があり、それを見ると、淀大橋を渡ると町美豆村と元美豆村とがあり、淀川沿いに西にゆけば大坂道となり、途中、常盤道や御幸道を南に行けば八幡に至ることがわかります。
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「古歌に詠む美豆森、美豆野同じく入江等今は定かならず」とありますが、江戸時代の半ばごろの記述ですから、それ以前の太閤堤の築造や江戸初期の堤防工事などで淀や美豆、巨椋池の改修などによりこの辺りの景観は平安期のそれと随分様相を異にしていることでしょう。

 ※1、『和歌大辞典』(明治書院)
 ※2、『京都府の地名』久世郡の項、「美豆牧」
 ※3、『世界大百科事典』(平凡社)
(次回は、「蕪村の眼差しー橋本」の予定)空白


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by y-rekitan | 2016-07-28 08:00 | Comments(0)

◆会報第73号より-02 石清水八幡宮

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《講 演 会》
石清水八幡宮の由緒と建築様式

2016年4月 石清水八幡宮研修センターにて
 神道 尚基 (石清水八幡宮 権禰宜)

              
 4月21日(木)午後1時より、石清水八幡宮研修センターを会場に、今年度はじめてのイベントとして年次総会と例会を開催しました。朝からのあいにくの雨にも拘わらず多数の方々にお越しいただき感謝申し上げます。総会の後、同じ会場で表題の講演が行われました。概要を報告します。なお今回の概要は、神道尚基(じんどうひさもと)氏に直接執筆していただき、編集担当がルビや西暦・画像を挿入し、執筆者の同意のもとに掲載するものです。参加者38名。

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1、由緒と歴史

 男山は平安京の裏鬼門を守護するだけでなく、三川合流や陸路の要として重要な位置にあり、以前から山頂には石清水寺(現在の護国寺跡)が所在していた。
 この男山に貞観元年(859)、八幡大菩薩が勧請(かんじょう)され翌年には社殿が創建された。そして、貞観5年(863)に行教が元々あった石清水寺を護国寺と改め神宮寺としている。行教の甥、安宗(あんじゅ)が初代別当、行教の弟、益信(やくしん)が初代検校(けんぎょう)となりこの宮寺を維持運営していた。ちなみに、別当(べっとう)は山内から選ばれ職務全体を統括監督する役目をもっており、検校は朝廷から任命され就任し別当より上の位として宮寺を管理していた。貞観18年(876)には安宗の弟、紀御豊(きのみとよ)が神主となり、その後、別当と神主は御豊系の紀氏の僧侶が世襲し相続していく。なお、現在の宮司家は紀御豊系の子孫になる。
 神仏習合の宮寺として存続してきた八幡宮寺も、明治元年(1868)の神仏分離令(判然令)によって大きな変革が起きる。明治政府は全国の神社に対して「別当」「社僧」の還俗(げんぞく)【俗人に還る】と仏像を御神体とする神社の廃仏や仏教的施設の排除を命じた。さらに、この八幡宮寺にいた別当・社僧は還俗し、神主・社人の職名に変更となった。このような神仏分離令は古代より神仏習合の形をとってきた八幡宮寺にとっては体制が大きく変わる政策であった。なお、護国寺や大塔などは入札により売却され、護国寺の薬師如来像と十二神将像は尼寺の東山寺(淡路市)に引き取られた。その後、明治2年に八幡宮寺は男山八幡宮と改称し、明治4年に官幣大社、同16年(1883)に勅祭社となった。そして、大正7年(1918)に男山八幡宮は石清水八幡宮と復称され現在に至っている。

2、社殿の変遷・建築様式

 先ず、『石清水遷座略縁起』に「貞観二庚辰、造立寶殿、随則安置云々」[六宇寶殿(ほうでん)、正殿三宇、禮殿三宇]とあり、貞観元年(859)行教によって八幡大菩薩が勧請された翌年に社殿が創建されている。この六宇(う)の宇というのは単位で、寶殿は社殿のことであるので、六つの寶殿が建てられ、その内訳として、正殿(内殿)3つ、礼殿(外殿)3つとなる。この時は社殿が独立していたのか連立していたのかは史料を欠きわかっていない。
 次に『宮寺縁事抄』に「貞観二年六月十五日、行教造神殿、本社右傍、是行教安宗祖先也云々」とあり、社殿が創建されてすぐに、行教・安宗が祖先とする武内社(御祭神:武内宿禰命)を寶殿の右傍(神様から見て右傍)に造られている。
 次に、『石清水八幡宮御修理造営之記』に長元2年(1029)「御殿北高欄、前後犬防、幣殿南楼階日隠等始造」とあり、社殿の北側に高欄が設けられ、社殿の廻りには瑞籬(みずがき)が造られている。さらに、幣殿が建てられ、南楼の階段に階段を覆う屋根が付けられている。
 次に、『八幡宮縁事抄 巻十五』に天喜4年(1056)「寶殿大廻築事清成時、天喜四年作之云々」とあり、社殿の外廻りに築地(ついじ)が造られる。なお、清成(せいせい)は十九代検校元命(げんみょう)の息子になる。
 次に、『宮寺縁事抄』に「康平四年冬、清成取宝前舞殿中柱、渡虹梁造立云々」とあり、舞殿の中央に立つ柱を取り除き虹梁(こうりょう)が架けられる。これは、儀式をするにおいて便宜を図るための改造だと思われる。さらに、應徳3年(1086)「舞殿に石を敷く」とあり、舞殿に石が敷かれ、現在の形となる。この時点、平安時代終わり頃までには社殿を構成する建物のほとんどが整えられている。f0300125_20145743.jpg
 また、『日本三代實録』仁和2年(886)5月に「二十六日甲辰、降雨、天の東南に声有りて、雷の如くなりき。長日、山城国石清水八幡大菩薩の宮自ら鳴りて、鼓を撃つ声の如く、南楼鳴りて、風波の相激して声を成すが如く、数刻を経て停まざりき。」とあり、これは、八幡大菩薩が太鼓を打つように自鳴し、南楼も風波が激突するような音を数刻出し続けた、という怪異を伝えている。ここで注目したいのは南楼で、この南楼が楼門のことであれば楼門が単独で建っているとは考え難く、創建して間もない886年には既に廻廊が造られていたと考えられる。
 社殿が整えられ始めて炎上するのが保延6年(1140)である。正月23日に宝殿以下が炎上し、同年2月29日には宝殿六宇と廻廊の上棟(じょうとう)を行っている。この時は造国制(分担制)の下、再建が行われ、次の造国司が分担している。
 美作国(岡山県北部) 平 忠盛  
   寶殿六宇
 播磨国(兵庫県南部) 藤原忠隆  
   廻廊東三十五間、南楼一宇、馬場屋一宇
 越前国(福井県北部) 藤原顕隆 
   廻廊西三十五間、舞殿、幣殿、馬場廊屏、築垣、鳥居、門
 鎌倉時代に入ると社殿の改造が行われ、先ず、建久6年(1195)に内殿と外殿の間に板が敷かれ、正中元年(1324)には楼門前の石壇と石階に造石が使用される。この時に楼門、東門、西門、北門の前の階段が木階段から石階段になるが、現社殿にはない北門がこの時点で存在していたのは貴重な記事である。
 室町時代に入り二度目の火災が起きる。暦應元年(1338)7月5日に寶殿以下の建物が兵火に依り焼亡するが、11月25日には正殿の柱が立てられ上棟を行っている。この再建は足利直義(ただよし)が造営の責任者となり4カ月程で完成している。
 その後、建徳2年(1371)5月8日に触穢(しょくえ)【けがれ】があり、その触穢があったためか7月6日に正殿が破却され、10月25日には社殿の柱が立ち上棟が行われている。なお、この触穢以外にも元中5年(1388)、永享元年(1429)、文明18年(1486)に穢に触れるが、社殿の取り壊しまでは行われず修理で済ませている。
 戦国時代に入り、三度目の火災が永正5年(1508)に起きる。この火災で寶殿以下の社殿が炎上するが、再建されるのは大永3年(1523)になってからで、保延・暦應の火災時とは異なり15年も経過している。しかも、焼亡した建物の半分程、本殿・幣殿・舞殿くらいしか再建されていない。この時は、足利幕府が再建すべきであったが弱体化した幕府にその力はなく八幡宮寺に任されることになる、しかし、荘園をほとんど失った宮寺にもその力はなかったようである。
 安土桃山時代に入り、天正7年(1572)大山崎にて縁起を聴いた織田信長は早速に社頭の修理と若宮の造替を命じる。その修理内容は、六宇宝殿、幣殿、舞殿等の上葺きとなっており、この時に、築地塀が造られ本殿の樋も木製から銅製に改められている。この修理時に取り替えられた樋が、有名な信長公寄進の黄金の雨樋である。(※史料によっては樋の材料に金銅(銅に金鍍金)、唐銅(銅と錫の合金)、赤銅(銅と金の合金)などがあるため、詳細は今後の調査を要する。)
 次に、天正17年(1589)豊臣秀吉が母の病気平癒を祈り造営料二千石を寄進して社頭四方の廻廊を再興している。これで永正の火災以降の復興はすべて完了となるが、実に80年の月日が経っていた。
 次に、慶長11年(1606)豊臣秀頼によって造替が行われ、その内容は寶殿(内殿・外殿)、幣殿、舞殿、武内社を悉く造替とあり、社殿の中核を成す建物がすべて造り替えられている。しかし、楼門や廻廊の記載がなく造替の対象外であったと思われる。f0300125_15503879.jpg
 江戸時代に入り、徳川家光による造替が行われる。寛永8年(1631)11月に神社仏閣破損の目録が作成され、寛永11年(1634)8月22日には正遷宮が行われている。この時、幕府としては本殿の修理を葺き替えにとどめたい意向であったが、八幡宮寺の強い要望により造替となっている。なお、神社仏閣破損の目録には、造替にするもの、修理を要するもの、再興を願うもの、に別けて申請されており、造替分(本社部分)としては、内殿・外殿、武内社、楼門、廻廊が申請されている。

3、現社殿の修理と特徴

 寛永11年(1634)に現在の社殿が建てられて以降、社殿の建て替えは行われず、今日まで修理で済ませている。近世の主な修理は、寛文5~6年(1665~6)、元禄4~6年(1691~3)、享保11年(1726)、延享2年(1745)、安永7年(1778)、文化元年(1804)、文化9年(1812)、安政6年(1859)に行われており、寛永11年、延享2年、文化9年の棟札が現存している。
 近代になると文化財の保護が図られるようになり、先ず、明治30年(1897)に古社寺保存法が制定され、それまでの文化財は「特別保護建造物」又は「国宝」に指定され、石清水八幡宮は特別保護建造物として指定される。また、昭和4年(1929)の国宝保存法では、古社寺所有以外の文化財も保護する目的から、公有・私有のものも国宝の指定対象とし、その折に「特別保護建造物」を国宝と称することとした。そして、昭和25年(1950)に文化財保護法がだされ、国宝保存法時代の特別保護建造物を重要文化財として指定し、「旧国宝」と称した。
 明治以降の主な修理としては、明治45年、大正9年、昭和11年、昭和44年、平成21年に行われており、昭和11年の修理は第一室戸台風の後、昭和44年の修理は第二室戸台風の後、そして、平成16年に近畿地方を縦断した台風二十三号の後と、近年は大きな台風ごとに修理をしている。なお、明治45年修理時の写真では本殿の側面に雨除け板が取り付けられており、外部からまったく側面が見えない状態であったが、その後の修理で取り外され現在は痕跡を残すのみである。
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 次に現社殿の特徴をあげてみると、先ず、本殿が内殿と外殿を前後に二棟並べた連立の八幡造りであること、そして本殿の両側面に付けた扉(馬道)があり、正面に蔀戸(しとみど)を嵌めその前に幅広い階段を設けたこと、である。この八幡造りの本殿と側面の扉、正面の蔀戸は宇佐神宮で成立したと思われるが、三殿連立の本殿と正面に設けた幅広い階段は石清水八幡宮で成立している。また、石清水八幡宮の社殿は基壇上に建ち四周する廻廊を備えているが、同様の基壇・廻廊を持つ宇佐神宮、伊佐爾波神社、鶴岡八幡宮の基壇よりもずっと高く、他社の廻廊が各一梁間、一棟であるのに対し、石清水八幡宮は二棟廊(複廊)に庇が加わった物で、前の三社とは規模・構成が大きく異なる。さらに、楼門から舞殿・幣殿・本殿まで連続して建ち並び、舞殿の棟だけが縦向きだが、すべての屋根は檜皮(ひわだ)で葺(ふ)かれ(それ以外は瓦屋根)、床面が完全に一体化している。
 まとめてみると、三殿連立の八幡造本殿は側面と正面から出入りでき、正面には幅広い階段が設けられている。そして、本殿を囲む廻廊は二棟廊に庇が付いた大型のもので、廻廊の正面にある楼門から舞殿・幣殿・本殿までが一体化している。これらの複合建築物が高い基壇上に建っている、というのが他の神社にはない特徴である。

4、平成の大修造事業

 平成5年より「平成の大修造事業」として境内摂末社を順次修復している中、平成16年10月に襲来した台風二十三号により本殿の檜皮屋根が剥がれ、急遽翌年から本殿の修理を行い平成24年に完成している。f0300125_168382.jpg
 当宮では平成15年から重要文化財である本殿の国宝昇格、また、未指定建造物の重要文化財追加指定を目途として取り組みを開始し、先ず、平成15年から境内諸建物の調査を行い同19年に「諸建造物群調査報告書」を八幡市と協力して刊行、文化庁へ提出している。この報告書では本殿以外の建物全てを調査しており、平成20年12月2日新たに八棟が重要文化財として追加指定を受けた。
 ・摂社若宮社本殿  一棟(江戸前期)  
 ・摂社若宮殿社本殿 一棟(江戸前期)
 ・摂社水若宮社本殿 一棟(江戸前期) 
 ・摂社住吉社本殿  一棟(江戸前期)
 ・東総門      一棟(江戸前期) 
 ・西総門      一棟(江戸前期)
 ・北総門      一棟(江戸前期) 
 ・摂社狩尾社本殿  一棟(慶長六年)
 当初、本殿の修理は平成18年からを計画していたが、予期せぬ台風被害が発生したため、急遽文化庁の許可を得、平成17年から平成24年まで8年に亘り本殿の全面的な修復工事を行なった。台風被害によって生じた檜皮屋根の葺き替えは「災害復旧事業」として、檜皮屋根以外の瓦屋根や彩色・塗装工事等は一般的な「修復事業」として修理を行なっている。本殿・幣殿・舞殿・楼門の屋根は檜の皮を材料とした檜皮葺き、彩色や塗装などは自然にある物から材料を作る顔料で塗られている。なお、顔料には、鉛丹(鉛を錆びさせたもの)、朱(水銀)、緑青(孔雀石などの鉱石)、黄土(土)、胡粉(貝殻を磨り潰したもの)の粉末が使用され、熱した膠(にかわ)と混ぜて塗布していく。※ 膠(動物の脂を固めたもの)
 この修理期間中に迎えた御鎮座1150年を起点として、有識者各位と京都府及び八幡市を加えた調査委員会を組織し、社殿建築の軸となる木部は年輪年代測定や炭素測定で調べ、社殿を装飾する欄間彫刻や錺金具(かざりかなぐ)は墨書や作風から年代の測定が行われた。そして、平成26年、徳川家光公御造営380年を記念して「本社調査報告書」を刊行している。

5、まとめ(国宝指定までの経緯)

 平成26年、「本社調査報告書」を文化庁へ提出し、翌年、10月16日文部科学大臣が文化審議会へ答申する旨連絡が入る。そして、平成28年2月9日官報告示が出され正式に国宝指定を受けることとなった。
 国宝とは「文部科学大臣は重要文化財のうち、世界文化の見地から価値の高いものでたぐいない国民の宝たるものを指定することができる」とある。
 当宮の本殿が国宝に指定された理由は大きく2つある。先ずは「八幡造本殿が国内の同形式本殿の中では現存最古で最大規模である」ということ、次に「本殿などを廻廊で囲み一体化するという古代に成立した荘厳な社殿形式を保持している」ということである。
 その他の八幡造本殿は主に宇佐神宮、伊佐爾波(いさにわ)神社、柞原(ゆすはら)八幡宮があるが、宇佐神宮本殿は安政2年~文久元年(1855~1861)、伊佐爾波神社本殿は寛文7年(1667)、柞原八幡宮本殿は嘉永3年(1850)であり、石清水八幡宮本殿は寛永11年(1634)と最も古い。また、一遍聖絵(1299)に見られるように平安時代に構成された社殿群が現在までほとんど形を変えずに受け継がれてきた、ということが国宝指定の大きな要因となった。
 また、国宝指定に際し「本殿」と「本社」の用語の統一がされた。それは、「本殿」とは内殿・外殿から構成される八幡造本殿、「本社」とは石垣上に建つ本殿・楼門・舞殿・幣殿・廻廊などの建物の総称として明確に区別された。さらに、八棟だった文化財が十棟に増え一部名称の変更がなされた。それまで附(つけたり)指定であった瑞籬と摂社武内社がそれぞれ本指定となり、新たに附指定として棟札(むなふだ)が三枚、そして、「本殿及び外殿一棟」が「本殿(内殿・外殿)一棟」と改称され、正式な国宝指定名称は「石清水八幡宮本社 十棟 附棟札 三枚」となった。
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『一口感想』より

石清水八幡宮の建築様式がとてもよく解りました。興味深いお話もたくさんお聴きすることが出来、非常に有意義な例会でした。八幡に住む者として国宝石清水八幡宮を誇りに思います。 (藤田美代子)
国宝指定の苦労話、大変興味深かったです。歴史的な経緯を再度勉強する気になりました。ありがとうございました。(竹内勇)
過去からの歴史、年表など詳しい資料を見て感心しました。国宝になるまでのご苦労やいきさつが知れてよかったです。建物の絵図などがわかりやすくて参考になりました。文化財の保存・維持は大変なことと再認識しました。(匿名希望)
神道氏の講演で最も印象深かったのは、国宝指定になった二つの理由です。つまり、「石清水八幡宮の本殿が国内の同形式本殿の中で現存最古で最大規模である」こと、もう一つは「本殿などを廻廊で囲み一体化するという古代に成立した荘厳な社殿形式を保持している」という二点です。前者に関連して、一遍聖絵の存在が大きいと思います。この絵によって現在の社殿が鎌倉時代のものとそう変わらないことがわかります。また、後者については、後の質疑応答で話題になりましたが、石清水八幡宮が「宮寺」つまり神仏習合の様式を残しているということです。そんな特異な様式を持つ社殿が石清水八幡宮本社であるということが再認識されました。ありがとうございました。(土井三郎)
既に存在する国宝(宇佐神宮)との違いを、専門家の視点から調査、整理して申請され、国宝指定へと繋がれた皆様方のご尽力にはたゞたゞ敬意あるのみです。  (野間口秀國)
by y-rekitan | 2016-05-30 11:00 | Comments(0)

◆会報第72号より-02 山上伽藍

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《歴探ウォーク》
石清水八幡宮 山上伽藍の探訪


2016年3月 石清水八幡宮山上 にて
小森 俊寛 (有)京都平安文化財

 3月13日(日)、石清水八幡宮研修センターにて表記のタイトルで講演と山上の歴史探訪ウォークが開催されました。
 レジュメに沿ってその概略を紹介します。参加者52名。

(1)はじめに

 石清水八幡宮は、平安時代前期の貞観元年(859)に男山山上に鎮座されて以来、石清水八幡宮寺と称され発展してきた。男山の山上には、神社の祠や仏教的な堂塔が次々に建設され、平安時代後期頃には神仏習合の「山上伽藍(がらん)」が完成する。また平安時代後期から中世にかけては、伽藍の発展に伴うように、男山の東斜面にはのちに男山四十八坊と称される小寺院群が形成され、山下の頓宮(とんぐう)や極楽寺なども加えて、山上山下には寺と神社が一体化した独特の歴史的景観が成立する。明治時代初頭における神仏分離令の発布と、それに伴う廃仏毀釈運動によって、これらの伽藍のうち仏教施設であった堂塔が破却され、建物部分は全て姿を消すこととなった。これらの痕跡は、大塔(だいとう)跡、護国寺(ごこくじ)跡、瀧本坊跡の発掘調査で明らかになったように、地下の遺構として極めてよく残っていると推測されるが、地下だけでなく、目を凝らしてみると地上にも、石垣や平坦面(テラス)、あるいは柱の基礎である礎石として、石清水八幡宮境内の随所に失われた伽藍の痕跡が残っている。
 今日は「伽藍」の理解からはじめ、石清水八幡宮寺だけに特徴的に見られた神仏習合の山上伽藍の意味を考えていき、現場にたってイメージを深めたい。

(2)伽藍配置について

 伽藍配置とは、堂塔部、即ち塔・金堂・講堂・経蔵・鐘楼・回廊・大門・中門など寺院の中心を形成する堂舎の配置を指すと記されている(『日本考古学辞典』)。朝鮮半島や日本列島では、堂舎が左右対称性を有することや、一直線上に並ぶなどの配列が認められ、定形化したものが確認されている。
 寺とは「仏像を安置し、僧尼が居住し、道を修し、教法を説く殿舎」(『広辞苑』第二版)とされ、日本では古代以来現代に至るまで仏像を拝むことが重んじられる場であると認識されていたと理解される。
 インドにおける仏教の初期段階では、僧が修行する伽藍の中心はストゥーパ(仏塔)であった。それが中国大陸、朝鮮半島、日本列島へと伝わっていく過程で、伽藍の中心は塔から、仏像を安置した金堂へと変化し、金堂は後代には本堂と称される如く寺の中心施設となっていく。

(3)石清水「八幡造」と山上伽藍
 (『石清水八幡宮境内発掘調査報告書』より抜粋)

 本殿は「八幡造」で、本格的なものは4例ともされる遺存例の少ない形式の神社建築とされている。f0300125_1011322.jpg八幡造の始まりは宇佐神宮にあり、八幡三所大神と称される三神を並置して祀るという基本要素は石清水も宇佐と共通している。しかし、宇佐神宮では6宇3殿とされ、それぞれの大神の内院・外院の2屋根からなる独立した3殿が並ぶ分割型であるが、石清水は6宇宝殿とされる長大な前後2屋根からなっており、3殿が完全に連結する一体型形式へと変化している。このような建物構造の変化からは、宇佐神宮八幡造が、三所大神が集合した経過を残す原型となった最初期型であり、それに対して石清水の八幡造は、八幡大神が八幡大菩薩となり三所大神の結合がより進んだ形を示す「発展完成型」と評価できる。
 このような変化については、神社の本殿という一面からだけでは理解が難しく、神仏習合の進展からの視点が必要である。石清水の八幡造の本殿は、八幡宮という神社としての一面からだけで造られたものではなく、八幡宮寺の中心に座る本堂=金堂、あるいは密教系寺院では根本中堂とする意図を持って造られたと理解すべきで、既存の大寺院の金堂に匹敵あるいは凌駕するような威容を持った一体型の本殿を造り上げたものと考えられる。僧・行教が、完璧な青写真を持っていたとは考え難いが、男山の山上一帯に神仏習合の宮寺としての一大伽藍を形成しようとする強い祈念を感じ取ることができる。このことは、護国寺のあり方や宝塔院の位置等にもよく示されている。
 護国寺は、貞観年間の早い内に本殿と連動して建立されたと理解される。しかし護国寺は、創建当初から明治初年の廃絶期まで、一時期観音堂が併設されたりはするが、薬師堂単独の堂宇である。宇佐神宮の弥勒寺のような、塔・金堂・講堂などを備えた独立した伽藍が形成されることはない。護国寺本堂は中世から薬師堂とも称され、主要堂塔の一角を占め続けるが、山上に点在する本殿を始めとする他の堂塔と関連性を持って、全体として一つの伽藍を構成する一堂宇であり続ける。この点からは、創建期から本殿との関係のなかで、本殿の左翼となる東北部に位置付けて建立された、講堂、あるいは、第二金堂的性格を有する堂宇と理解される。
 宝塔院も、初期から存在する主要堂塔のひとつである。側柱の柱間が5間の天台密教系の塔で、真言密教系の大塔に近い規模である。護国寺の南西隣で、本殿の東総門から下る階段のすぐ南側の小テラスに建立されていた。f0300125_10213961.jpg本殿を中心にして、山上全体での位置関係からは、護国寺と共に本殿の東側・左翼に展開した仏塔である。平安時代後期には、宇佐神宮弥勒寺の新宝塔院を西宝塔院と称して、対照的に石清水の宝塔院を東宝塔院と呼称することが史料に見えるが、石清水の山上全体を一つの伽藍と見る観点からも、石清水八幡宮寺の東塔と呼称し得る。
 本殿、護国寺、宝塔院をこのように見ていくと、この三堂宇のあり方も山上全体を一つの伽藍としていく山上伽藍の構想が、初期から存在していたことを示していると考えられる。さらに山頂部と東側からやや北東側にかけて開発が始まる面からは、「国家を守護する」という八幡大菩薩遷座の主題が、東北方にある平安京を最も意識したものであることをよく表している。本堂東側が、谷部の発達した西側(西谷地区)よりも小なりとはいえ、開発が容易であったとも言えるが、決してそうではない。平安時代の護国寺は、北東へ延びる尾根線上に、平坦地を造る方法ではなく、崖面へ張り出す懸け造りという建築技法を駆使して建立に漕ぎ付けたとの推論が、護国寺跡の発掘調査成果から十分に根拠を持つことが明らかとなった。本殿も、当初は懸け造りを一部にでも用いた建造物であった可能性があることをここで指摘しておく。
 男山の山上伽藍の形成は、平安時代前期の創建期から断続は見られるものの、鎌倉時代初め頃にまで継続する。平安時代後期の12世紀代前葉頃に、西谷地区北部に白河法皇による大塔、同南部に待賢門院による小塔が建立され、鎌倉時代に下る八角堂を除くと、山上伽藍の軸となる主要堂塔がほぼ出揃う。院政期でもある平安時代後期が、山上伽藍の一応の完成期と見てよいだろう。この山上伽藍を図上復元した堂塔を入れて俯瞰すると、北奥に南面する本殿を中心とし、南総門から三ノ鳥居までの、尾根線に沿い東に若干振れ南に延びる参道を中軸線と見立てて、その両翼に伽藍を構成する主要堂塔が配される。本堂の東側・左翼に本殿と一連して建立された護国寺・宝塔院が、南西の西谷・右翼側には大塔・小塔、少し遅れてその北に八角堂が展開する。地形からの強い制約により、俯瞰しても全体としては不規則な並びとも見えるが、それぞれの堂塔の南北軸線は本堂とほぼ揃えられており、海抜約120mの山上に、一つのまとまりを持った伽藍が明確な意図を持って造り出されたと理解してよいだろう。
 先行する比叡山延暦寺、高野山金剛峯寺の山上伽藍と比較すると、若干コンパクトではあるが、石清水の場合は、主要堂塔の周辺に大小様々な社、堂塔が建ち並び、多彩な神仏が密集する。f0300125_10281141.jpg現状から想像することは難しいが、神仏習合を具現化した小宇宙を形成していた面に大きな特徴を持っていると考えられる。密教世界の胎蔵・金剛両界の曼荼羅に対して、八幡三所大神を始めとする日本の神々が加わった、神仏習合を基盤とする石清水八幡宮寺的曼荼羅世界が、山上に具現化したと考えている。

本日歩いたルート
三ノ鳥居から参道を経て本社へ。本社から南へ延びる参道は、山上伽藍の中軸線である。
本社で参拝。現在の社殿は、寛永期の造営であるが、豊臣時代の遺構もあるという説もある。 
本社から南面して右翼となる西谷北部へ。狩尾道からの入口となる黒門付近、大塔跡、八角堂跡、その間に三女神社(弁財天社)。大塔跡には通路上に濡れ縁の礎石がひとつ露出。
西谷南部、今の涌峯塔の辺り。小塔、元三大師堂、周辺には奥坊、法童坊、梅坊などが林立。小塔は待賢門院(藤原彰子)御願として1132年に建立されたと伝えられる多宝塔。
社務所北側で表参道を横切り、北東へ参道を下る。本社から南面して左翼となる地区。
本社東門、階段下近く、宝塔院(琴塔)跡礎石群の間を参道がくだる。さらに石段参道をくだると護国寺跡テラスへ。
f0300125_10364145.jpg護国寺を見た後、男山東麓の坊跡群の間をくだりながら山下へ。
護国寺すぐ下には瀧本坊、石清水社の前から入る。瀧本は石清水社横の瀧が語源。石清水社からさらにくだると、次のテラスは泉坊。松花堂昭乗が暮らした辺り。泉坊から下り二ノ鳥居へ。山下にて解散。
 
各遺跡の解説
① 大塔跡  
本殿南西の西谷に位置した。平安時代後期の嘉承元年(1106)に自河法皇の御願により建設が始まり、天永3年(1112)供養される。
建久10年(1199)西谷一帯の火事で、小塔と共に焼失.50余年後の建長5年に(1253)に再建。慶長10年(1605)には豊臣秀頼によって再興される。
中世以降の絵図では下重方形5間、上重円形の真言形式の大塔として描かれる。
江戸時代の指図(さしず)では側柱(がわばしら)一辺14.9m、高さ27.lmで根来寺(ねごろじ)大塔(国宝)とほぼ同規模。
発掘調査で北東・北西の雨落ち溝と礎石および抜き取り穴を検出。指図どおりの規模であつた。

② 宝塔院(ほうとういんー琴塔)跡  
本殿南東に造られた仏塔。遷座以前からの塔とも伝える。当時石清水の別当であつた元命(げんみょう)が、万寿年中(1024-28)に宝塔院領を定め、延久年中(1069-74)に修造したので、このときが成立との見方もある。(飯沼賢司『人幡神とはなにか』角川選書366、2004年)
近世には、軒の四隅に琴がかけられており、「琴塔(こととう)」と呼ばれた。
江戸時代中期の指図(『八幡山上山下惣絵図』)によると、塔の大きさは側柱一辺が10.92m、高さが11.9m。
本殿南東の参道をまたぎ、基壇の痕跡と礎石が残存している。東辺の側柱の両端が元位置を留めており、その長さは10.9m。指図と合致していることを確認した。
本尊は大日如来、供僧12人が法華不断経を修する(「石清水八幡宮堂塔目録」)。
絵図に残された塔の様式(方形二重塔)からみて、天台系の大塔と考えられる。
このことから、宝塔院がはじめて史料に登場する11世紀頃、法華信仰隆盛であった時代背景から、天台宗の開祖・最澄(さいちょう)が建設計画をした六所宝塔院と同じく法華塔であつたと考えられる。
(中安真理「石清水八幡宮寺の宝塔院(琴塔)について」(『美術史研究』第42冊 2004年)

③ 護国寺跡 
本殿に次いで貞観年間に造られた仏堂。真言宗の僧侶・行教が造った寺。
「石清水八幡宮護国寺」として、平安時代は本殿と一体の施設として全山を取り仕切り、八幡宮から発給される文書はすべて護国寺から出された。
本尊は釈迦・薬師。康和5年(1103)大江匡房(おおえのまさふさ)が十二神将を寄進。
嘉暦元年(1326)焼失、建武元年(1334)後醍醐天皇臨席のもと再建供養。
真言宗の東寺長者(とうじちょうじゃ)・道意(どうい)が導師(どうし)を勤め、足利尊氏(あしかがたかうじ)、楠木正成(くすのきまさしげ)、名和長年(なわながねん)などが警護を行う。ちなみに、「石清水八幡宮社頭図」に再建後の姿が描かれる。
明応3年(1494)近接した坊からの失火に類焼。延宝7年(1679)に仮御堂再建。文化13年(1816)本堂が再興される。

◆護国寺跡の発掘調査
-輪宝(りんぽう)と独鈷杵(とっこしょ)の出土-

江戸時代後期の本堂と見られる建物の柱穴を7基確認。柱穴1が側柱の北西角にあたる。柱穴は礎石の据え付け穴で、長径約lmの穴の中央部に礎石の基礎となる根石(ねいし)が残存していたが、その上にあるはずの礎石は取り去られていた。
本堂の柱列内側に、密教の祭祀具が埋納された直径約25 cmの小坑(しょうこう)を6箇所発見。小坑は地層から見て江戸時代後期のもの。
f0300125_1174927.jpg
小坑の底に輪宝(りんぽう)を据え、独鈷杵(とっこしょ)を突き立てた状態で出土。独鈷杵は1本を除き北方向を指していた。(図1)
約9m四方の範囲に規則的な配置。このことから剣頭状の八角形に配されたと推定される。関連して、鎌倉時代の護国寺指図(設計図)からみて、本堂の須弥壇(しゅみだん)を取り囲んだものとみられる。
輪宝と橛(けつ)を用いた地鎮(じちん)・鎮壇(ちんだん)の例は、日本全国で約8箇所12例みられる。
f0300125_12125114.jpg真言宗では、橛を先に置き輪宝を上から突き立てる。天台宗の修法は、先に輸宝を置き、その中央の穴に橛を突き立てるもので、出土状況でどちらの修法によるものかがわかる。護国寺の出土例は、天台宗の修法によるものである。(森郁夫『日本古代寺院造営の研究』1998年)
天台宗の修法は円仁(えんにん)が請来した経典「聖無動尊安鎮家国法」が典拠。護国寺例では橛でなく独鈷杵が用いられており(図2)特異だが、八方に埋葬する修法は「安鎮家国法(あんちんかこくほう)」であった可能性がある。
真言宗寺院として創始された護国寺であったが、江戸時代後期には天台宗との結びつきが強かったことが判明された。これは、江戸幕府との関係によるものか。

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by y-rekitan | 2016-03-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第72号より-04 宮廷と歌合②

シリーズ「宮廷と歌合」・・・②
宮廷と歌合、そして石清水宮寺
その2

大田 友紀子 (会員) 


石清水若宮と歌合

 ここで石清水宮寺での「石清水若宮」の存在について考えてみたいと思います。
 古来より重要視されてきた「若宮」とは、本宮に祀る神の御子神であると説明されます。本宮(=本殿)に祀る神の御魂は『和御魂(にぎみたま)』で国家を護り安寧に導くとされ、穏やかな魂の働きをします。それに対し、『荒御魂(あらみたま)』は神の荒ぶる魂であり、「若宮」の姿の一つであるとされています。そして、人々は、静の「和御魂」と動の『荒御魂』という二つの神の姿を信仰していたのです。                       
 現在でも、伊勢神宮の本宮では、日本国の平和と安泰を祈り、個人の祈願は摂社の荒祭社にて行うとされています。石清水八幡宮寺の境内にある「細橋(ささやきばし)」の伝説には、伊勢の遥拝所の方向から天照大御神がおみえになり、本殿から来られた八幡神とこの橋の上でお会いになり、この国の行く末や私たち人間のことを話し合われるといわれています。伊勢も石清水も共に天皇を守護する神社です。そのためでしょうか、天皇の政(まつりごと)によからぬことがあれば、石清水の本殿が鳴動して天皇に宣(のたま)うとされ、『太平記』などにも鳴動のことが出てきます。f0300125_1903161.jpgそのような時には、きっと若宮が行動を起こすと信じられたのでしょう。
 そんな強い力で行動する神である若宮に、神を讃える和歌を奉献し、そして自身の誓願も和歌にしたためて祈ったのです。具体的には、若宮社の社殿前、もしくは近くの殿舎などに集まり「歌合(うたあわせ)」が催され、後に、詠まれた歌が奉納されることが流行るようになりました。

神社での歌合

 神社で行われる歌合の始まりは、嘉応2年(1172)10月9日に、住吉社にて道因法師が催したとされています。この時の判者は藤原俊成が勤めます。橘成季(たちばなのなりすえ)が著した『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』には、この「住吉社歌合」とそれを羨やんだ廣田大明神が3人の歌人の夢に現れたので、このことを伝え聞いた道因法師は、ならば広田社でもなそうと出かけ「広田社歌合」を催したことが書かれています。廣田社の祭神は天照大御神(の荒御魂)とされていますが、古代、もしくは中世には神功皇后とされていたのでは、と私は思っています。なぜなら、住吉大社の第四宮には神功皇后が祀られていて、この頃、「住吉の神 和歌の神」とされていて、両社に共通して祀られているのは神功皇后だからです。
 和歌の歴史は、歌合と共にあると言っても過言ではありません。歌合は、日本で発生した独自の文学的遊戯で、それまで模範として尊重されてきた中国にもありません。その始まりについては諸説ありますが、平安貴族の間で流行っていた「物合(ものあわせ)」や宮中儀式、行事に加えられることで徐々に盛んとなっていったようです。「物合」とは、貝合(かいあわせ)や絵合(えあわせ)など、共通する二つの物を比べ合わせてその優劣を決めるという遊びですが、そこに和歌を持ち込むことで、遊戯性と文学性という要素が混じり合い、貴族に好まれるようになったようです。
 歌合は後になるほど複雑な取り決めがなされ、歌人関与のあり方も制約がありましたが、だんだんに勝負を重んじる方向に転じ、歌合に負けたことにより病死するという説話まで語られるようになっていきます。院政期の頃より開催されることが多くなり、それに「和歌の家」の問題がからみ、鎌倉期になると、勝負の結果がことさら大事となり、歌人も判者も独自の創作法や判定法で対処するようになっていきました。院政期の最後の頃の歌合となった「(石清水)若宮社歌合」は、建久2年(1191)3月3日に開催されています。判者は阿闍梨顕昭で、六条籐家の歌人です。その後は、御子左(みこひだり)家の俊成・定家父子が務めるようになっていきます。

和歌に詠まれた石清水宮寺

   ここにては 雲ゐにみえて をとこ山 
   あまの河こそ ふもとなりけれ

 この歌を詠んでいるのは、前僧正隆辨(さきのそうじょうりゅうべん)(1208~1283)です。隆辨自身は、あまり著名ではありませんが、四条家の出身です。兄の隆衡(1192~1255)は、平清盛の娘を母として生まれています。父は後白河上皇の側近として仕えた四条隆房で、建礼門院の世話を妻と共にしたことなど、四条家の財力のほどをうかがい知る逸話を多く残しています。
 隆辨は隆房の息子ですが、生母については不明です。けれども、園城寺の円意に灌頂をうけ僧の一歩を踏み出していること、その後園城寺の最高位である長吏に建治2年(1276)に還任(かんにん)していることが記録されていることから、生母は正室の清盛の娘ではないか、と私は推測しています。というのも、宝治元年(1247)に鶴岡八幡宮寺の別当にも就いているからです。園城寺の長吏の前任に就いた年は不明ですが、還任自体があまりなかったことからも、その才が非凡ではなく、祈祷僧としての業績が伝わっています。また、北条時頼の妻の御産の話、つまり、次期執権時宗が生まれた建長3年(1251)5月15日、出産時間まで予言した話などの霊験譚(れいげんたん)などが著名です。あるいは、隆辨が八幡大菩薩御影像を造立して、鶴岡別当坊に安置したことや、怪異を静めるために29日間、時頼邸に出向いたことなど枚挙にいとまがないほどです。
 「ここにては」の歌を『男山考古録』では、文永8年(1271)、隆辨が熊野詣の後、天河のほとりにさしかかった時、男山の方を見て詠んだとあり「天の川ハ(略)河内国交野私市を過て、枚方驛の北禁野という所にて淀川に注ぐ、前の歌ハ、西の方より遠く望てよめる也」と述べられています。想像ですが、隆辨は奈良へ行く前に石清水宮寺(大乗院?)に立ち寄ったようです。石清水宮寺と園城寺との係わりについてはわかりませんが、平安後期の摂関家の藤原頼長(よりなが)の日記には奈良の興福寺との関係が頻繁に出ています。「何宗にも俗さず」であった石清水宮寺は、裏返せばすべての宗派との交際があったのかもしれません。
 石清水宮寺をイメージさせる「石清水」や「男山」は、数々の和歌に詠みこまれて、八幡の文学碑にある能蓮法師(のうれんほうし)の歌のように、多くの歌合が宮寺の境内で催され、八幡大菩薩の若宮神への「奉納和歌」となりました。『古今和歌集(こきんわかしゅう)』の撰者である紀貫之(きのつらゆき)(?~946)も「松も老いまたも苔むす石清水行く末とほくつかへまつらむ」と詠み奉げています。
 隆辨は「雲ゐ」を天上界と詠み、神の山である男山に坐す八幡大菩薩を重ねて、その威光が今自分 がいる河内国の天の河の畔までも及んでいることを感歎して詠じています。
 石清水若宮への奉納和歌では、水神とされる「石清水」「いはし水」と詠みこんでいるものが最も多く、次に「男山」「をとこ山」「八幡山」「やはた山」と神山への崇敬の心を表す歌が続きます。この頃の風景を彷彿とさせるのが、平成23年(2011)、八幡市教育委員会より発行された『石清水八幡宮境内調査報告書』の資料編に載っている「五街道其外延絵図 東海道巻第十二」で、淀川沿いに築かれた堤(=京街道)に護られるように描かれています。もちろん、隆辨の時代に堤はありません。神の山である男山とその麓には、頓宮や大乗院・高坊が立ち並び、大谷川(=放生川)の東側には田中殿などの屋敷を中心に町並みが連なり、市が開かれてにぎわう門前町が形成されて行きました。
 以前、安芸の宮島・厳島神社に行ったことがあり、「厳島は観音さまの島であり、島の形が観音さまの寝姿に見える」という説明を聞きました。近づいて来る宮島を見ていると、左側の観音さまの頭部、真ん中の低い所は首、そして胸へと続く丘陵が見え、海の波の布団を掛けてゆったりと、眠る観音さまをイメージさせる神の島がありました。
 江戸時代まで宮寺が存在した男山は、そのまわりを海のように広がる田畑に取り囲まれた島のようで、まさに宮島と同じではなかったでしょうか。というのも、東を流れる大谷川を越えたところに墓地が営まれ、中ノ山墓地も南の端万称寺山にあります。それは、神の山である男山も宮島と同様に聖なる地であり、その丘陵の形容は、巨大なお釈迦さまの寝姿といわれていたそうで、まさに「涅槃」そのもの。現在でも、御幸橋の辺りから眺めると、八幡宮本殿がある山が頭部で、横たわった姿に見えます。それゆえに、石清水宮寺が「阿弥陀の浄土」とされていたのかもしれません。
 江戸時代の図会(=観光案内書)には、男山丘陵は鳩が羽を広げたようである、とも書かれています。
 昔の木津川の流路は、久御山から淀に向かう府道15号線上であったとされ、ひょっとすると、淀大橋の辺で見た男山の姿かも知れません。
 ところで、後鳥羽上皇は、三種の神器が無いという特殊な状態で即位されました。それ故に、神仏を深く信仰され、石清水宮寺へは合わせて29回も詣でておられます。けれど、その祈りは届きませんでした。そのことは、後醍醐天皇も同じです。そして、それは奸臣を周辺に侍らせていたことによる、と言われています。それは、時代に選ばれなかっただけではないでしょうか。 (完)
(京都産業大学日本文化研究所上席客員研究員)空白


この連載記事はここで終りです。       TOPへ戻る>>>

by y-rekitan | 2016-03-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第71号より-02 中世都市八幡

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《講 演 会》
中世都市 八幡

2016年2月  松花堂美術館講習室にて
 藤本 史子 (武庫川女子大学非常勤講師)

               
 2月14日(日)午後1時半より松花堂美術館講習室にて2月例会が表題のテーマで開かれました。講師である藤本史子(あやこ)さんは、歴史考古学が専攻で、現在は武庫川女子大学の非常勤講師を務めておられます。大坂城三の丸跡遺跡や兵庫県伊丹市の有岡城跡・伊丹郷町遺跡の発掘調査、淀川河床遺跡の整理作業に従事した関係で、とくに中世の都市と流通に関心をお持ちとのことです。
以下に講演の概要をまとめます。なお文章中のルビは編集者が付しました。参加者58名。


はじめに

 中世都市としての八幡を「八幡境内町」という名称でとらえたいと思います。八幡境内町とは、山上の社殿・各坊院や山下・宿院といった鳥居内の狭義の境内、あるいは鳥居前に発展した町場を指す門前町といった狭い範囲の都市的な場を示すのではなく、石清水八幡宮の成立、発展とともに形成された石清水八幡宮本殿を中心とする山上、山下・宿院そして「八幡八郷」とよばれた内四郷(科手・常盤・山路・金振)と外四郷(美豆・際目・生津・川口)を含む「場(空間)」全体を指す用語として使用します。なお、鍛代敏雄氏は石清水八幡宮寺と境内郷町をとらえる概念として「境内都市 八幡」という名称を提唱しています。

1、石清水八幡宮について

 石清水八幡宮は京都府八幡市の男山(標高142.5m)山頂から南側尾根筋そして東側山裾にかけて境内域が広がっています。交通路として、水路では木津川・桂川・宇治川三川が合流し、対岸の大山崎との間を淀川が流れ、陸路では東側山裾を東高野街道が南北に走り、途中で奈良方面へ向かう奈良街道と分岐しています。このように石清水八幡宮は水陸交通の要衝に位置し、男山山麓の西側は山城と河内の国境、対岸の大山崎は山城と摂津の国境に位置する重要な地理的環境にあるといえます。(第1図)
f0300125_1940405.jpg
 その歴史は、貞観元(859)年に南都大安寺の僧行教が大分県の宇佐八幡宮において神託を受け、翌年八幡神を男山に勧請したことに始まります。男山は都からみて裏鬼門(南西)に位置するため都の守護、国家鎮護の社として、そして伊勢神宮に次ぐ国家第二の宗廟としての地位を獲得しました。遷座の頃より神仏習合の宮寺であり、石清水八幡宮の組織の中での要職は僧侶が占め、神官は従属的で本殿の祭祀も仏式でおこなわれていました。
 平安時代後半には荘園などで構成された所領も増え、軍神としての性格から武士の勢力が増すにともない代々の武家の棟梁に優遇され、守護・地頭として全国に配された武士が八幡宮を勧請したこともあり全国に八幡宮が造営されました。

2、空間復原のための基礎資料

(1)中世の八幡を復原するための基礎資料
主な資料として、以下の文献や絵図があります。
A、地誌 「男山考古録」 嘉永元(1848)年 石清水八幡宮宮大工職 藤原尚次
B、記録 「石清水尋源鈔附録」下 享保10(1725)年 神宝預禰宜 藤原(谷村)光信
C、売券 (表1)
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D、絵図
「男山八幡宮境内古図」(原本行方不明)…元禄11年の記載があるが絵図の制作年とは言えない。
「八幡山上山下惣絵図」(内閣文庫、幕府旧蔵資料)…山上の本殿周辺、山下に至る坊舎、宿院および境内全域、外四郷と各村の概略的な景観まで描き、境内町域の描写がもっとも詳細なもので八幡市立図書館に複製図展示してあるので常時見ることができる。
また、字限図(実地丈量一筆限下調帳、明治十一年市街成一筆限反別・収穫・地価調帳 明治四年新調土地図面綴)や地籍図(公図)も中世の八幡を復元する上で重要なものである。(地籍図による空間復原は第2図)
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地籍復原図を検討する中で以下のことがらが明らかになりました。
内四郷の中心南北道、東高野街道(常盤大路、志水大道)、および南北道から派生した東西道沿いに整然とした短冊形地割がみられる。
街路に面した土地は、屋地および畑地として利用される場合が多い。
常盤郷から山路郷の三叉路付近〔B・C〕まで、南北街路は比較的直線的に通るがそのほかの南北道、東西道共に微妙に屈曲する。
内四郷の南端について、東高野街道沿いの短冊形地割が「東林」近くで途切れる〔H〕
また、この地点すぐ南西の西車塚あたりに伝承では「市庭無常講」の碑があったとされ、このあたりで市が開かれていた可能性がある。その結果、「東林」あたりが内四郷の南端であるといえる。

E、考古学の成果
 中世の八幡境内町を復原するにあたり、次の四つの遺跡についてまとめてみます。
木津川河床遺跡(内四郷・外四郷)
科手郷・常盤郷・美豆・際目・生津の比定地では平安前期頃(10~11世紀)の遺物が出土した。
内四郷北西部は耕作地、常盤郷北の行幸橋付近では井戸が点在し生活痕が確認でき、牛馬骨も出土していることから牛馬飼育も考えられる。
山路郷の比定地では平安時代前期の遺物出土、後期以降出土量増加。この頃より町場として成立したと推定される。

清水井遺跡(内四郷-金振郷)
新善法寺家屋敷跡北側にあたるこの地点では、中世から近世の遺物出土が出土していることから、この地点の成立年代を推察。
女郎花遺跡
平安時代末から鎌倉時代(12~13世紀)にかけて谷(自然河川)を埋めて溝を造成(東高野街道の側溝)。このことから、遺跡周辺がこの頃に整備された可能性。正法寺〔建久2(1191)年成立〕の建立との関係が推察される。
木津川河床採集資料
平安時代末から鎌倉時代の土器・陶磁器が多く、大量の白磁・青磁などの貿易陶磁器、遠隔地の土器が含まれるなど周辺の集落遺跡とは異なった様相を示す。これらの状況は、八幡が流通拠点であったことを示している。

(2)空間復原をするための基礎資料比較検討の結果  
 以上、中世の八幡を復原するための基礎資料を比較検討した結果、次のことがいえます。
近世絵図の道筋・町並み表現が正確である。
地籍図が近世絵図と同様に近世に遡る景観復原の資料として利用が可能である。
田中家が位置する近辺の発掘調査(木津川河床遺跡第19次:山路)で平安時代から鎌倉時代の遺物が出土していることから、この景観を中世に遡らせることも可能である。

3、中世における都市構造の復原と変遷

 中世における八幡の都市構造を考えたとき、山上、山下、内四郷、外四郷の同心円的広がりととらえることができます。それぞれの在り様についてみましょう。別掲、第2図「八幡境内町地籍復原図」を参照ください。
 山 上
三の鳥居から八幡宮本殿までの一帯と各坊舎を含む二の鳥居より上の男山の範囲
 山 下
空間を限るものは次の通り。東;放生川、西;男山山際、南;二の鳥居、北;一の鳥居
極楽寺・頓宮・高良社を含む宿院一帯

内 四 郷(常盤郷・科手郷・山路郷・金振郷)
 内四郷(うちしかごう)の名称の初出は、正安3(1301)年の「菩薩戒会頭事」である。 
西端は科手郷、北端は常盤郷、東端は山路郷、南端は金振郷
郷に属する町名は『石清水尋源鈔附録』(江戸時代中期)によるが、中世史料にみえる町名も多い(表2 中世史料にみえる内四郷の町名 参照)。
f0300125_20415317.jpg
(1)常盤郷(ときわごう)(常盤・紺座・高橋・土橋・田中・市場・家田)
 四至は次の通り。東;柴座町内東端、西;放生川、南;安居橋から南へ延びる柴座町筋、北;大門
近世後期までの字名「門の口」。門に近い「戸際」から常盤の名が成り立ったか。
寛治5(1087)年23代別当頼清「別名、常盤」から、11世紀後半に成立していた可能性もあり。
常盤大路の名が、弘安2(1279)年『神輿入洛記』に「大御鉾一本、自常盤大路進発 (後略)」として記述されている。このことから、13世紀後半には成立。惣絵図に常盤大路に間口をひらいた街区が描かれる。
市場町が放生川東岸に形成される。市場町・柴座町・紺座町などの地名の出現から、中世末期には商業空間が広がったといえる。
八幡境内町における市の初見は、康平6(1063)年『宝殿并末社等建立記』に見られる「康平六年三月晦日甲午、社務別当清秀、於宿院河原始立午市、経両三年之後、立副子市」という記述である。当時、宿院域において午と子の日に定期市が開かれたようである。
八幡における市の常設化は、嘉禄3(1227)年『石清水皇年代記 上』にある「市庭被居新在家西向北近来売上等、先五宇作之」から読み取れる。このことにより、市庭在家(恒常的な市屋)=市が宿院と放生川をはさむ対岸のあたりにおかれた可能性があり、13世紀の初めころに常設店舗の成立が考えられる。
田中町・家田町……永暦元(1160)年 慶清法印(第29代別当)金振郷園町から田中町に移転、家田町に公文所職上野屋敷。絵図には家田町北側に公文所
田中屋敷…「応永永享年中ニ(14世紀末から15世紀前半)(中略)坊者(舎)一棟百坪之  檜皮屋也。日本一家也云々。」(田中融清「石清水祠官系図」)

(2)科手郷(橋本・大谷・科手・高坊)
 四至は、東;放生川、西;橋本、南;男山山麓、北;淀川の南岸
郷西北の垂井に光清(第25代別当)居住、科手町の檀に棟清法印(檀)(第35代別当)が坊舎を構える。
橋本…14世紀、森町人(山路郷)にのみ認められていた境内四郷内での麹売買権を犯した罪により楠葉郷内刀祢(とね)は橋本に追放となると記述する文献が見られる。このことから、境内町の境界が橋本であったことがわかる。
図師垣内(ずしかいと)…近世には図師茂左衛門道秀が居住。図師とは売券紛失の際の権利認定および保証をする者である。
大谷町…中世後期から八幡革之座の中心「大谷衆菖蒲革(しょうぶかわ)座」。これは、神宝用菖蒲革を納める神人集団の居住地を示している。

(3)山路郷(山路・東山路・奥・檀所・森・柴座)
 四至は、東;森町東端薬園寺、西;放生川、南;飼屋橋(カイヤ橋)北詰、北;安居橋
より東の東西街路(柴座町)。
地籍復原図における旦所町と森町(=杜郷)街路方向にずれが見られる。
これは、町の形成過程の相違を示していると見られる。杜(もり)郷(ごう)は八幡宮勧請前より薬園寺の門前に町並み形成されたが、旦所町以西は山路郷の形成と連動し町場化されたことによる。
森における麹相論(こうじそうろん)からどんなことがいえるのか。森町は薬園寺(天神社)を紐帯(ちゅうたい)とする共同体組織を構成し麹業を営んできた。そして、13世紀前半にはすでに専売区域独占(内四郷域を販売域とする)していたと見られる。

(4)金振郷(園・平谷・今田・馬場・茶畠・神原・志水・平田)
 四至は、東;園町東端、西;男山山麓、南;志水町南端、北;平谷北端
安元2(1176)年、祐清(第32代別当)が初めて大善法寺と称す。この頃馬場町に社家屋敷成立か。
園…志水大道から東へ派生した東西道に形成される。金振郷の「本郷」であり、園町東端の春日社は金振郷の総社であった。
勝清(第28代別当)は園町に居住して園殿と呼ばれた。
平谷(びょうだに)…『宮寺見聞私記』応永12(1405)年、北平谷在家失火により焼失とある。八幡宮側は北平谷地区が御馬屋や宿院に近接していることを理由に撤去を企て北平谷の私屋を境内郷人や諸神領・牧・交野の人夫に破却させ、放生川を拡張した。 
近世絵図では二の鳥居前まで家が描かれ、聖域を守ろうとする八幡宮側と町域を拡大しようとする平谷町人の攻防が読み取れる。
御馬所…御馬所御殿人(八幡宮関係者)が奪った麹を御馬所へ抑留した際、森町人は手出しできなかった。このことから、郷内八幡宮関係施設が聖域であったととらえられる。同時に、八幡宮側と内四郷住人とのちから関係を示すものである。
平田村(ひらたむら)…陰陽師居住が確認される。長禄年間(1457~60)『宮寺旧記』に、「平田ウシロ百姓仕丁源二郎太夫」(八幡宮下僕)が文明13(1481)年、森町人宅を壊す際、「内四郷邑老」は「両平田」の住人を実働部隊に命ずとの記載が見られる。このことから、芸能者や八幡宮に隷属する人々が居住していたことが推定される。
志水…建久2(1191)年、鎌倉幕府御家人高田忠国次男円誓が開基の正法寺が中心。高田氏は清水町に居住した縁で「清水」と改姓。後に八幡宮に憚って「志水」と称す。このことから12世紀末には志水町の成立が考えられる。 
長禄2(1458)年、『公方様御社参之時 執行可申付條々』に「一、北谷塔 坊ヨリ下地蔵堂辺マテハ、清水ノホウリ(祝ヵ)九郎ソウチ」とあり、将軍社参の際の宿院地区の掃除に志水の住人がかり出されている。このことから、キヨメに従事する住人の居住が考えられる。
東高野街道と奈良街道の分岐点に発達していた志水町と金振郷の総社である春日社が位置する園町は、郷中央に位置する馬場町に社家屋敷が成立したことを契機に一体化したのではないか。
内四郷の中で独自の郷社(春日社)を有するのは金振郷のみである。このことは、金振郷の独立性、自己完結性を示している。

外 四 郷(美豆・際目・生津・川口)
美豆(みず)・河口…応永9(1402)年「山城国守護代遊佐某遵行状」、文明2(1470)年「(田中)妙禅奉書」の存在から、室町時代にはすでに同所の地名が史料にみえる
美豆…京都から来た道が淀大橋を渡り常盤大路へと入る内四郷の北入口に位置する。
際目(さいめ)・生津(なまづ)…常盤大路から派生した東西道の延長上に位置する木津川沿いの集落であった。弘安11(1288)年、西園寺実兼・公衡親子が石清水八幡宮から春日大社へ向かう際には生津から乗船したと記述する文献あり。
川口…金振郷園町の東延長上にあたり、外四郷の中では八幡から南山城へと向かう玄関口であったといえる。
外四郷の村々は、内四郷から東へ延びる道筋の延長上に位置し、京・南山城・大和へ通じる交通の要路に立地していたことがわかる。

4、中世都市八幡境内町の特徴

 石清水八幡宮本殿を中核とし、山中に各坊院が点在する山上、その外側の男山の麓には頓宮・極楽寺を中心とする宿院(山下)がありました。それらは「聖域」と呼べるもので、その外側に境内町域(内四郷)が広がり、境内町域の周縁部にはキヨメや行刑に従事する隷属の居住空間を含んでいます。そして、さらにその外側には境内村落(外四郷)が広がるという構造を示しています。
一見すると近世城下町のようであるが、社家や図師など八幡宮に仕える人々の居住空間、御馬所などの八幡宮施設は山上・宿院にまとまってはおらず境内内四郷内にも散在。掃除などの労働や検断の際には境内住民とともに牧・交野など周辺の八幡宮領からも人を動員するなど周辺村落(後の外四郷も含む)とも八幡宮の領主権を媒介に密接な関係を結んでいる。
八幡境内町は宗教都市であり、経済都市でもある。石清水八幡宮関係の神職や参詣人で賑わっているという都市のイメージだけではなく、境内町内には職商人、陰陽師や芸能者、八幡宮に隷属する人々、事あれば周辺神領から動員される傭兵など多種多様な人々が活動している都市のイメージであった。
絵図・地籍図で復原した景観は考古学の成果によって時代を追って描くことができる。 
橋本や生津など淀川・木津川に面した湊、舟運によって集められた物資、東高野街道など陸路を通り運ばれた物資が集まる流通拠点であったという認識が必要である。このことは、木津川河床遺跡、淀川・木津川河床採集資料、石清水八幡宮遺跡、楠葉中之芝遺跡などの出土・採集資料から今後さらに解明できるのではないか。

おわりに

 中世都市八幡は、12世紀中葉から後半を画期として都市として発展したと考えられます。この時期、第29代別当慶清法印が金振郷園町から常盤郷田中町に移転し、第32代別当祐清が初めて大善法寺と称し馬場町に社家屋敷を構えたことにより(未詳)、内四郷の都市の骨格が整ったと推測されます。これは、山路郷内にあたる木津川河床遺跡第19次調査の12世紀中頃に出土遺物が増加し、木津川河床遺跡採集資料も12世紀から13世紀の貿易陶磁器や東海系の土器・陶器、防長系・吉備系土器が含まれ流通拠点としての様相が色濃くみられるという考古学の成果とも合致します。
 さらに、山上部における考古学の調査成果から12世紀前半には本殿、護国寺、宝塔院など主要堂塔がほぼ完成していたことが明らかになっており、山上部と境内町の都市プランが連動して進められていたことがうかがえます。
 12世紀前半以前は森の集落が「森(杜)郷」と呼ばれていたように個別集落が分散していた時期、12世紀中葉以降山上部・境内町域が連動し八幡宮主導で都市化していった時期、そして15世紀以降は境内四郷の住民が地縁共同体として住民結合を強め八幡宮に対抗してゆく時期であり、16世紀後半から17世紀初頭にかけて豊臣秀吉、徳川家康という統一政権による八幡宮領の召し上げ、安居神事への関与、神人身分の規定により八幡宮と住民との中世的な支配関係が解体され、中世の八幡は終焉を迎えたと考えられます。
【文責=土井三郎】 空白

参考文献(主な文献のみ)
鍛代敏雄 2008 『戦国期の石清水と本願寺』 法蔵館
藤本史子 1999 「中世八幡境内町の空間復原と都市構造」『年報都市史研究』7 山川出版社 
八幡市教育委員会編集・発行 2011 『石清水八幡宮境内調査報告書』


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by y-rekitan | 2016-02-28 11:00 | Comments(0)