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◆会報第81号より-05 太鼓祭り

高良神社の太鼓祭りを楽しむ

野間口 秀國(会員)


 高良神社の太鼓祭りに関することがらは 『洛北史学第14号 石清水八幡宮門前町における摂社高良社と太鼓祭り』(*1)と題した研究論文にて、専門的に、また分かり易く報告されており、拙稿をまとめるに当り多くを学ばせていただいたことをまずもって述べておきたいと思います。人生のおおよそ半分を八幡市に住みながら「高良神社の太鼓祭り」についても知らない事ばかりでした。八幡の歴史に興味を持ち、退職してから大小さまざまな疑問を自分なりに調べてはおりますが、高良神社の太鼓祭りにも素朴な2つの疑問を持っておりました。その1つは「祭りがなぜ7月18日となったのか」であり、もう1つは、「4区と5区の神輿はなぜ無いのか」でした。ちなみに7月18日は私の誕生日でもあり、疑問を解くためにも今年は祭りをじっくりと見ることから始めました。

 祭り当日の夕刻、電車を降りて一の鳥居あたりまで歩を進めると、あたりは祭りの雰囲気にあふれていました。法被姿の担ぎ手たちが祭り見物の人達に混ざり、三々五々宮入の時刻を待っているといった様子でした。鳥居の手前には「7月18日は八幡の氏神さま高良神社のお祭りです」と書かれた大きな横断幕が掲げてあり、祭りの空気を身体で感じながら神輿の並ぶ頓宮へと向かいました。頓宮の中庭には各区の神輿が整列し、それらを囲むように談笑する人々や、昼間に相当活躍されたのでしょうか、疲れて座り込んでいる人などさまざまでした。宮入りまで暫く時間があり、缶ビール1本とコロッケ1個を買い求めて一の鳥居の近くで待ちました。それまで少し怪しかった空は「熱気を少し冷やしたら・・・」と言うように夕立へと変わりました。最寄りの店の軒下に逃れて缶ビールを開けコロッケを口にしながら上がるのを待ちました。同じ軒下に「あおぞら子供会」なる法被の子供達がいたせいでしょうか、「清めの雨」と呼ばれた夕立もほどなく止んで雨宿りの人達も頓宮へと移動を始めました。f0300125_184614.jpg
 
 ところで、高良神社の例祭について前述の論文(*1)の冒頭に以下のようにありますので引用させていただきます。「石清水八幡宮の摂社高良社は、八幡宮遷座以前からの産土神であり、そこでの氏神への祈りは、八幡宮の祭祀とは一線を画しており、六月の例祭は、十八世紀中ごろには、河原の夕涼みを兼ねた遊楽として定着していた。太鼓神輿は、若衆の自己顕示と町の結束の発露として門前の主要な町々から俄か太鼓が担ぎ出される。(以下略)」引用終わり。ここには「六月の例祭」とあります。また、『男山考古録 巻十』 (*2)の「高良社獻燈用道具藏」の項にも以下のように書かれています。 曰く「・・・こは近く天明三四年の比、土俗の私に河原大明神を郷民の氏神と崇め、毎歳六月十八日を祭日と定めて、申語らひて毎家に釣挑燈を照し、又社頭所々に堤燈を建列ね、前十七日を夜宮と称へ参詣する事、年を追て盛に相成て、・・・(略)」と。ここでも「六月十八日」とあります。また 「太鼓まつり 案内チラシ」(*3)には「高良神社例祭の始まりは天明3年(1783)頃」とあり、十八世紀中頃には祭りは定着し、天明(1781~1789)年代初期には祭用具納め置土蔵を営むほど盛んになった様子が分かります。しかし、この祭りの開催日が六月十八日から七月十八日と変更されるにはおよそ百年の時代を下ってからのようです。

 慶応4年・明治元年(1868)正月、鳥羽伏見で始まった戦いにて八幡の町も大きな被害を蒙り、高良神社も炎上をまぬかれませんでした。戦火で焼失した高良神社は山上の若宮社に合祀され、六月十八日の神事は若宮社にて営まれ、翌年も太鼓は出ず社士の屋敷の門前の提灯にのみ淋しく灯された、と前述の論文にも書かれております。山下住民の高良神社再建の思いは強く、明治14年末には再建願いが出されました。住民の寄付金で再建費用が賄われ、明治17年5月6日に社殿が落成しました。高良神社の祭日は、明治に入って太陽暦が採用(明治5年12月)された後も6月に行われていましたが、新暦の6月は、田植えなどで農作業が繁忙期の為に、明治15年には1ヵ月後の「七月十八日」への祭日替届けが出されて受理されました。その結果明治15年(1882)から祭日は新暦の「七月十八日」となって現在に至っているのです(*1)。しかしながら平成8年(1996)に国民の祝日「海の日」が施行されたことにより、今年の宮入は祝日前夜の七月十六日に行われたのです。

 さて、もう少し宮入の様子を書いてみたいと思います。夕立が過ぎてきれいになった空も日が陰り始めるといよいよ宮入の始まりです。頓宮の中庭で待機していた各区の神輿が、子供神輿を皮切りに順番に繰り出してゆきます。威勢の良い掛け声とともに担ぎ上げられた神輿は頓宮を出ます。頓宮を出た神輿は提灯の灯りで照らされた高良神社の鳥居の前で、その荒々しい動きをしばし止め、担ぎ手の皆さんも神妙な面持ちとなります。石清水八幡宮の神官によりお祓いを受けるのです。少し高い台の上で、提灯の灯りに照らされた白い大幣(おおぬさ)が神官によって左、右、左とかざされ、引き続き、白い紙が1cm角くらいに切られた切幣(きりぬさ)が撒かれました。
f0300125_1875449.jpg お祓いが終わると、再び威勢の良い「ヨッサー、ヨッサー」の掛け声に合わせて神輿を大きく揺らしながら参道を二の鳥居方向へと進みます。頼朝公ゆかりの松近くまで進むと一旦止まり、またお祓いを受けた位置へと戻り、再び二の鳥居方向へと進みます。最後に、訪れた多くの人達に向かって今一度勇ましい掛け声をかけあい、観客から大きな拍手を受けて退場します。 当夜は子供神輿3基に続いて大人神輿が1、2、3、6区から繰り出されました。

 かつては4区、5区の神輿もあったようですが、今では4区と5区の神輿はありません。この2つ目の疑問の答えを、私は前述の論文に書かれた「石清水八幡宮の摂社高良社は、八幡宮遷座以前からの産土神であり、そこでの氏神への祈りは、八幡宮の祭祀とは一線を画して・・・(略)」にあるのでは、との思いに至りました。すなわち、これは高良神社を氏神と祀る人々のお祭りなのだ、と。また山下に長年住んでおられる方にもお聞きすると、「4区と5区には他の氏神様がおられるからだろう」とも話していただけました。ここで八幡の区割りについて書かれた『八幡市誌 第3巻』(*4)に目を通すと、4区、5区の氏神様のことにも気づきました。八幡の区割りは、明治22年6月28日から7月2日の町議会で決められたことが市誌に書かれており、「若干の変化はあるが、ほぼこの行政区で第二次大戦終了まで実施された」とあります。ちなみに、1区は36の小字(こあざ)からなり299戸、同じく2区は31小字で280戸、3区は38小字で268戸、4区は29小字で172戸、5区は11小字で79戸、6区は4小字で11戸、と記されてあります。これらの小字をここで列記はいたしませんが、これらを手許の地図(*5)にも照らし合わせると、4区には「狩尾神社」が、また5区には「川口天満宮」があることも分りました。

 実際に祭りを見たり、調べたりして当初の疑問への私なりの答えは得られた、との思いは持てました。来年もまた祭りを楽しみたいと改めて思います。近年ではこの祭りを楽しんでおられる外国からの旅行者と見られる人たちが増えていることも記して本稿を締めさせていただきます。冒頭の論文(*1)には高良神社の「雨乞い神事」に関することも書かれてありますが、ここでは祭りに関してのみを参考にさせていただきました。また私の疑問に親切にご教示いただきました皆様方に紙面より感謝申し上げます。 (2017.8.27)

参考資料・書籍等:
(*1)『洛北史学第14号 石清水八幡宮門前町における摂社高良社と太鼓祭り』平成24年(2012)6月発行 竹中友里代著
(*2)『男山考古録 巻十』 石清水八幡宮社務所 長濵尚次編著
(*3)太鼓まつり 案内チラシ(平成24年及び27年版)
(*4)『八幡市誌 第3巻』 八幡市発行 
(*5)『都市地図 京都府4 八幡市・久御山町』 昭文社刊

by y-rekitan | 2017-09-26 08:00 | Comments(0)

◆会報第74号より-02 丹後バスツアー

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《6月例会 歴史探訪バスツアー》
丹後を訪ねて
―2016年6月 丹後歴史資料館~ちりめん街道―

藤田 美代子 (歴史探訪担当幹事)


 前回の長岡京から、もう少し足を延ばそうと今回は丹後を計画しました。山城郷土資料館とは兄弟分にあたる丹後郷土資料館を皮切りに籠(この)神社からちりめん街道へと向かうコースとしました。
 4月15日下見を実施致しました。道路状況は渋滞なく快適であることを確認し、途中休憩をはさみ、各所での説明時間を組み込んで充分夕方には(6時頃)八幡に帰着出来る目処をつけ、バス会社との契約、チラシ作成を行い、募集をはじめました。最終的には38名の参加者となりました。
  6月9日、昨年同様ひかりバス停~中央センターバス停~市役所前~石清水八幡宮一の鳥居前と順次バスに乗車の後、一路丹後郷土資料館に向け出発致しました。途中山間部の緑は非常に美しく、下見通り、味夢の里PAにて途中休憩の後、丹後郷土資料館へと向かいました。到着後はバス内で班分けの通り、二班に分かれ学芸員の案内を受けました。一階は古代から近代に至る迄の発掘品、家系図、北前船、クジラ漁や藤の織物と展示が続きました。藤の織物ですが、 見た目は麻の様で、肌ざわりは麻とは又違います。昔は全国的にあったそうですが、次第にすたれ、丹後では、今この織を保存会の方々が守っておられ、年間を通じての講座に全国から泊まりがけで受講者が集まり、7月末、京都市左京区のギャラリーにて作品展が開かれるそうです。二階では文政一揆を中心に古文書が多く展示されておりました。
  私は雪舟の「天橋立図」をゆっくり見て、詳しいご説明を楽しみにしておりました。f0300125_1613596.jpg以前京都国立博物館にてオリジナルを見ており、迫力ある描き方に圧倒された印象が忘れられません。さすが国宝だと思われました。資料館展示の「天橋立図」はレプリカではありますが、見応えのあるものでした。1500年代の景観が描かれているとのこと。雪舟生没年1420~1506年頃からしますと80才を過ぎた禅僧の描いた水墨画になります。三角形の構図がとられている智恩寺、籠神社、成相寺に朱色が入れられております。何故なのか、謎の1つでもありますが。先日京阪・文化フォーラムで田中宮司のご講演で、「明治の神仏判然令は政府の政策であって日本人の心は決して変わっていない」。「神も仏も」であるとおっしゃっていたのを思い出しました。下見で頂いた冊子の中、山折哲雄さんや鳥尾新さんがおっゃっている様に、この天橋立図には神仏習合が生きづいている様に思えます。
  資料館すぐそばに旧永島家住宅(大庄屋の母屋の移築)があり、こちらも見学しました。農具や調度品が展示されており、実際に手に触れることが出来ました。今回のツアーのチラシ右片隅に印刷しました「しりはり」も玄関頭上に見ることが出来(長男が生まれた家に親戚がお祝いで作って送った飾り物。家の魔除けとして玄関につるしたそうです)、八幡では見られない丹後の風習の一つを感じました。資料館前庭は雪舟の画にも見られます国分寺跡が残っており、国の史跡にもなっております。

  同館を後に籠神社へと向かいました。石造りの鳥居をくぐりますと桃山時代の優品である阿吽1対の石造狛犬(国重文)が参拝者を迎えてくれます。神門をくぐった正面拝殿の奥に鎮座する本殿(府有形)は江戸時代後期の造替で伊勢神宮とほぼ同じ唯一神明造りの様式をとっています。f0300125_16191455.jpg
  参拝が終りますと、皆さん思い思いに、バス内でお配りしたお食事処のマップを参考に昼食を取って頂くことと致しました。ちなみに私は海鮮丼を頂きました。新鮮でおいしかったです。食事を終えバスに戻る迄の間、参加費の少しばかりの残余金をゼロにすべく、飲物にという意見もあったのですが、鯵と小鯛の干物を買い、バス内でお配りし、持ち帰って頂くこととしました。帰られましてから炙って、ほんのお酒のお供にでもと。お味は如何でしたでしょうか?

  午後、時間通り集合頂き、次の目的地ちりめん街道に向け出発致しました。到着しますと午前と同様に二班に分かれ(私は第二班でした)、ガイドさんの案内を受けながら重要伝統的建造物をめぐりました。現在ちりめん街道に並ぶ建物約260棟のうち約120棟が江戸・明治・昭和初期のものだそうです。かって郵便局の使命を担っていた街道筋で最も古い建物の下村家住宅。主屋は文化元年(1804)です。旧伊藤家医院診療所はまわりの和風建築の中にあって洋館が目を引きました。木造2階建て、入母屋造り、桟瓦葺き。玄関まわりのしっくいのレリーフは大変美しいものでした。加悦の左官職人萬吉さんが神戸の洋館建築で修行の後、大正6年施工したと伝えられています。丹後に現存する唯一の明治時代のちりめん工場である西山工場へも行きました。老朽化が進み3棟ありましたが現在は1棟のみの稼働で、私達が説明を受けていました時もガラス戸は閉っていましたが、中から機織りの音が絶え間なく聞こえていました。二班のちりめん街道しめくくりは旧尾藤家住宅です。下見に訪れました時は、座敷に幟が展示されていました。驚きましたことに、図柄が石清水八幡宮御祭神であります神功皇后と応神天皇だったのです。私達幹事は興奮し何とか2ケ月後のツアー時に展示して貰えないか、その場で即依頼致しました。「6月になりますと、しつらいが夏様に変わり、幟もしまい込むのですが、遠くから来ていただけるので、当日のみ準備しておきます」との返事でした。
 今回のツアーで訪れますと、お約束通り玄関を入ると座敷に展示していて下さいました。f0300125_16253250.jpgご無理をお願いしましたのに非常に嬉しく思いました。南の八幡と北の丹後の距離感が一瞬にして圧縮された感じがした瞬間でした。町中をバスが走っている時も「男山」という地名があり不思議な気がしましたが、皆さんお気づきになられましたでしょうか? 尾藤家の歴史は、入館時の資料や展示パネルにより、1521年~1546年まで第12代将軍足利義晴の花押のある書状が伝わっていることから中世は武士であったようです。慶長7年(1602)、検地帳にも善右衛門として7丁余りの田畑と家臣の屋敷が記録されており、中世は武士であったことが裏付されているとのことです。17世紀末から18世紀初めにかけ大庄屋善右衛門として加悦の寺社に燈篭や鳥居などを盛んに寄進し、庄蔵家が確立するのは18世紀後半で、その後代々庄蔵を名乗る様になります。7代庄蔵さんは酒造業のかたわら大庄屋として文化3年(1804年)、伊能忠敬にも面会、その頃の庄蔵家は520坪の屋敷を構え、70石を超える石高を上げるまでに成長、9代庄蔵さんは天保11年(1840)8代から家督を相続後、岩滝村の廻船問屋山形屋佐喜蔵方で、およそ10年に及ぶ奉公で商いを学んだ後、安政3年1856)頃加悦に戻り生糸ちりめん商として再出発します。生糸ちりめん業の傍ら北国と大阪を結ぶ北前船「蓬莱丸」を所有し廻船業をも営みます。文久3年(1863)、現在の旧尾藤家住宅の建築に着手し、2年後に建物が完成します。建物全体の配置は中庭を囲んで周囲に座敷や蔵を配置する現在も見られるものです。10代庄蔵さんは縁戚の下村五郎助家(9代の妻ふさの親族)より迎えられ、明治19年加悦で生糸ちりめん問屋を開始しその後、京都市と山田村(現野田川町)に支店を構えます。京都に支店を構えたことは庄蔵自身が常に京都の文化に触れる機会となり、今日10代庄蔵の手によるものとして母屋と奥座敷には明治期の画家達による襖絵群が展開しています。家業にかける情熱と文人画にみられる数寄屋趣味は共に11代に受け継がれます。又丹後で最初の銀行となる柏原銀行加悦支店を開店し、後に丹後銀行の創設に奔走し頭取をも務めます。11代庄蔵さんは生糸ちりめん問屋「合名会社尾藤商店」を設立し、同店経営は順調に推移せるも大正9年の第一次世界大戦後の不況で多大の損害を被り、同11年尾藤商店の経営を親族の下村商店に譲渡し、江戸時代から続いた生糸ちりめん業から撤退します。昭和3年加悦町長に就任、前年の丹後大震災で町の甚大な被害を受けた為、町役場庁舎の建設、加悦駅前道路、府道網野福知山線の新設など復興事業に着手、大きな手腕を発揮し加悦鉄道(株)社長に就任しています。町長に就任した昭和3年、念願の洋館が建てられます。文久3年(1863)の着工以来、昭和初期の洋館や米蔵等々の完成まで、約70年間にわたった旧尾藤家住宅の建築工事は完了し、今日の姿になっております。現在の尾藤家は加悦を離れ、宮津で袋屋醤油店を営んでいるそうです。
  f0300125_16385992.jpg旧尾藤家住宅は近畿北部の大型農家を基本とし、それに丹後の生糸ちりめん商家の要素が加わり、さらに昭和初期の洋風住宅建築が付加され、和と洋の世界が融合した建築と評価され、平成14年3月26日京都府有形文化財に指定。同年11月に尾藤家から与謝野町(旧加悦町)へ建物が寄付され、与謝野町が平成15年9月から翌年9月まで保存修理工事を行い、10月24日から一般公開されています。延床面積924.15㎡。内部を見学しますと欄間や書院窓や床の間など和の美しさがあらゆるところに感じられ、下見時、夏のしつらいになりますとおっしゃっていましたが、各部屋に涼やかさが感じられ、日本家屋の素晴らしさを見る思いが致しました。5月美山かやぶき屋根の放水を見ましたが、始まる少し前、かやぶき屋根の資料館内部でお茶を飲んでいました時、何とも言えない涼しい風が頬及び家の中を通ってゆき、その涼やかさに驚きました。旧尾藤家も美山のかやぶき屋根も、本来日本人は自然の中にあって、自然と共に、涼しさを味わっていた様な気がします。暑ければ冷房、寒ければ暖房と便利な生活に現代の私達は慣れ切ってしまっており、元来の日本人は住まいの中にも、しっかり季節感を取り入れ、それを今よりずっーと楽しんでいたのではないだろうかなどと思いました。尾藤家歴代の歴史の流れと共に、商家としての建築を見ながら、且つ和風建築の素晴らしさを味わった(再認識した)様な気がしました。
  ちりめん街道を後に帰路につきます。皆様のご協力のもと、10分程度の遅れはありましたものの、予定通り無事、八幡に戻りました。

 後日、ご参加の方々から、「とても良かった。次回も参加したいので、是非連絡して欲しい」などのご感想お聞きし、歴史から学ぶ実りあるツアーを今後も企画してゆければなどと思いながら、報告を終えさせていただきます。

参加者の感想記
 
八幡に伝建地区を

 今回のツア-に参加させて頂き、お蔭さまで一日を楽しく過ごさせていただきました。
 丹後は、古代に大陸からの窓口であったことから多くの古い歴史遺産を残していることが印象的でしたが、今回、最も興味のあったのは与謝野町の「ちりめん街道」です。その理由は、ちりめん街道が国の指定する「重要伝統的建造物群保存地区(以下、伝建地区と記載する)」であるからで、八幡市の高野街道も伝建地区に相応しいのではないかと以前から考えているからです。伝建地区は、昭和50年に文化財保護法が改正され、伝建地区の制度が発足し、昨年夏までに43道府県90市町村で110地区が指定されています。3項目の選定基準があって、高野街道を想定した場合、「全体として意匠的に優秀なもの」と言う項目に不具合があるかもしれませんが、他の伝建地区と比較して、現状ならば選定されるように思っています。八幡市が観光を重視するならば必須と思います。問題は、地区住民と市役所の賛同を得ることです。
 八幡に伝建地区を導入するもう一つの理由は、世界遺産の指定です。国宝石清水八幡宮、三川合流、高野街道、橋本地区などを併せれば可能性があると秘かに信じています。
 種々ご意見はあることと思いますが、皆様方の賛同が得られることを願っています。
(伊佐 錠治) 空白
            
文政一揆の百姓たちのエネルギーに感動

 薄曇りの空模様の中、古い街並み歩きの大好きな私は期待感と少しの緊張でバスに乗り込みました。
 今まであまり馴染みのなかった丹後への訪問でしたが、丹後郷土資料館では中国大陸との交流の遺物や、文政一揆の百姓たちのやむにやまれぬ怒りのこもった連判状等を目にして、確かにそこに住んだ先人達の生きるエネルギーに感動しました。
 午後はちりめん街道をガイドさんの流暢な案内で、当時の繁栄に想いをはせながらの楽しい散策でした。
 歴史の教科書で習ったくらいの知識しかありませんが、庶民の暮らしも確かにそこにあったと思うと、歴史は奥深く、ますます興味が涌いてきます。
 役員さんの方々の綿密な下見やご計画のおかげで、私たちは一日楽しく歴史に浸ることが出来ました、ありがとうございました。   
(秋山 幸子) 空白

古民家の街並み保存に思いをいたす

 八幡歴探主催のバスツアーに初めて参加した。
 久し振りに夫婦で早起きし、集合場所へいく。あいにくの雨模様であったが、バスに乗ると参加者の賑やかな声、心は晴天気分となる。
 それまでは、単発的に講演会には参加していたが、バスツアーでの遠出は、初めてのことと聞いた。
 丹後の天の橋立は、中学生時代に臨海学習で、大学生時代も海水浴に出掛け、成人してからも、松本清張の執筆部屋がある木津温泉に泊ったり等と、思い出深い地でもある。
そして、初めて寄る「ちりめん街道」与謝の町は古民家の町並保存が行き届いて美しかった。八幡の町並みもこの様に保存出来ていたらと思うのは私だけだろうか?
 次回のバスツアーも期待しています。ありがとうございました。
(真下 慶子) 空白

籠神社と伊勢神宮

 本年6月9日、バスツアー(丹後を訪ねて)が開催されました。その中で私が注目したのが、籠神社で昼食時の自由時間での参拝でした。石清水八幡宮は「第二の宗廟」と言われております。「第一の宗廟」は、伊勢神宮です。籠神社は「丹後一宮・元伊勢」の表示があります。三重県出身の私には大いに関心があります。
 籠神社御由緒には「昔から奥宮・真名井原に豊受大神をお祭りしていた。第10代崇神天皇の時代に天照大神が大和笠縫邑からお遷りになり、吉(よ)佐宮(よさのみや)で一緒に4年間お祀りした。その後天照大神は第11代垂仁天皇の御代に、又豊受大神は第21代雄略天皇の御代にそれぞれ伊勢にお遷りになった。それで当社は伊勢神宮の内宮・外宮の元宮の意味で「元伊勢」と呼ばれている。後、奥宮真名井神社から現在地へお遷して、社名を籠宮(このみや)と改め、養老3年に、天孫彦火見命を主祭神としてお祭りした」とあります。
 関連して、坂本政道氏著「伊勢神宮に秘められた謎 ベールを脱いだ日本古代史Ⅱ」に面白い事が書かれており紹介します。
内宮外宮の正式名称は、「皇大神宮(内宮・祭神天照大神)」「豊受大神宮(外宮・祭神豊受大神(天照大神の御饌都神)」。「内宮」は元々宮中で祀っていたが、第10代崇神天皇6年、命で大和笠縫邑に遷、皇女豊鋤入姫命が祀る。第11代垂仁天皇25年皇女倭姫が跡を継ぎ、御杖代として伊賀・近江・美濃・尾張諸国を経て伊勢で神託、五十鈴川上流に祠(磯宮)を建てたのが始まり(垂仁26年9月)。崇神天皇は3世紀後半から4世紀初めの人。伊勢遷座は4世紀中頃。外宮は第21代雄略天皇22年(478)、夢に天照大神が現れ「食事が安らかでない。丹波国の比沼真奈井の御饌都神。豊受大神を近くに呼び寄せよ」。同年7月7日度会の山田の地に迎えた。これで内宮外宮が揃う。
 2世紀後半、倭国は乱れ、邪馬台国連合を形成、トップに海部氏の一族卑弥呼が女王になる。海部氏は太陽信仰・男神の天火明命(本来の天照大神)を祀る。卑弥呼は巫女で三輪山で天照を祀る。死後国内大混乱。その隙に天照一族(後のヤマト王権を建てる部族・天皇家)が北部九州に勢力を広げる。卑弥呼の宗女トヨが跡を継ぎ乱が収まる。トヨは天照をそのまま祀る、が次第に分裂する。トヨ晩年(3世紀末)連合弱体化で、天照族の神武(崇神)が北部九州から大和に乗り込み、王権簒奪(神武東征)。天照をそのまま祀る。が、疫病・飢餓で神託により三輪山の大物主をトヨの子孫大田田根子に祀らせ平穏になった。崇神はトヨ・巫女を殺す(箸墓古墳)。天照の祟を恐れトヨ親族女子1人(豊鍬入姫)に天照の祀りを許す(宮中でなく倭国笠縫邑)。跡を継いだ倭姫が伊勢に落ち着く(古くから海の民・度会氏が太陽神を祀っていたから)。
 7世紀後半672年の壬申の乱で、大海人皇子(天武天皇)が尾張氏(海部氏と同族海の民。天照信奉)の支援を受けた。即位後祟神の復活、卑弥呼自身を祀る対象とし太陽の女神とした。天照を天皇家の祖先とし、各地の神と天照の関係を体系化した。
 天照大神は倭国・木乃国・吉備国・大和国・伊賀国・淡海国・美濃国・伊勢国と24の地・宮を巡行しているが、これは稲作を伝授広げる為との意見もあります(井沢元彦氏)。蛇足となりますが、ご本殿神明造りの高欄上に五色(青・黄・赤・白・黒)の座玉(すえたま)がありますが、これは伊勢神宮御正殿と籠神社以外には拝せられないもので、古来のご神徳・御社格を象徴するものだそうです。
(村山 勉) 空白


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by y-rekitan | 2016-07-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第73号より-01 杉山谷不動


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心に引き継ぐ風景・・・④
杉山谷不動とひきめの滝
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 神應寺の参道、駐車場奥の朱塗りの鳥居をくぐると杉山谷不動に至り、谷に沿って歩くとやがて「ひきめのたき道」の石碑が目に入ります。
 杉山谷不動は厄除け不動として信仰され、不動堂に安置される不動明王従者の衿羯羅童子(こんがらどうじ)、制多迦童子(せいたかどうじ)の等身大の木像は全国でも珍しい。南北朝から室町前期に製作されたと伝わり、その存在感は見事なものです。ご本尊の秘仏不動明王は六十年に一度の開帳です。
 また、杉山谷不動堂は鎌倉時代から江戸時代まで続いた安居神事の祭りでは、安居の頭役と呼ばれた神事の祭主が禊を行う所で、御師や壇所太夫が同道して塩湯掛を行いました。その日は正明寺(戊辰ノ役で焼失)から湯屋が運ばれ、不動堂の後ろ、「ひきめの滝」に設えられたそうです。
 凡そ一生に一度の安居の頭役は「ひきめの滝」で毎年禊を行いましたが、古来涸れることのない滝水の前に立てば、一種独特な空気を感じます。
 橋本から安居の頭役が出た時は、塩釜と呼ばれる所(塩垢離場)で塩湯掛を行ったと伝えられ、落合了円と三宅安兵衛の二基の塩釜石碑が残ります。
(写真と文 谷村 勉)空白


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by y-rekitan | 2016-05-30 12:00 | Comments(0)

◆会報第67号より-01 石田神社

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わが心の風景・・・(40)
石田神社
所在地 八幡市上津屋里垣内


f0300125_6411566.jpg 上津屋里垣内にある社は、里・浜・東の三集落の氏神で牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)と称し、明治になって「石田神社」と改称されました。祭神は素戔嗚(すさのお)神で牛頭天王と同体で、この地が度々木津川の水害に見舞われたためか、疫病に対する守護神として信仰されました。現本殿は嘉永4年(1851)の造営です。
 社の『天王神社記』によると、起源は大宝2年(702)内里の山中に現れた素戔嗚神を上津屋の地に祀ったことに始まると伝えています。治承4年(1180)源頼政の兵乱で社殿は焼失、復興のために文治4年(1188)源頼朝により神事料として52貫文の地が寄進されました。
 元弘の乱では、笠置山参陣の際に楠正成が社に立寄り、願文を奉納したと記されています。
 拝殿には、明和2年(1765)に上津屋村庄屋の伊佐政徽氏奉納の算額があり、和算問題が示されています。これは、京都では八坂神社に次ぎ、全国では9番目に古いものです。    (絵と文: 小山嘉巳)


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by y-rekitan | 2015-10-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第65号より-01 狩尾社

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わが心の風景・・・(38)
狩 尾 社
所在地 橋本狩尾


f0300125_1385537.jpg 狩尾(とがのお)社は男山の西方、橋本狩尾に鎮座しています。
 昭和35年春、希望ヶ丘・栗ケ谷の大規模な宅地開発が始まり、同社の荘厳な社だけが孤立する形で残り、現在に至っています。階段は、手すりを持つ手にジワッと汗を覚えるほど急で、昇るには、少し勇気を絞り出さなくてはならないほどですが、山上の樹木と古社に、ホッとします。
 現在は、狩尾社は石清水八幡宮の摂社ですが、八幡宮鎮座以前からこの地にあったと伝えられています。古図に見る社は、現在と異なっていますが、現社殿は慶長年間(1596~1614)に造営されたものを原型に、三所一棟に三扉斎垣の組戸を外陣に構えて犬防とし、東西に玉垣が設けられています。
 社名のトガノオは、地名に因むようで、貞観年間に著された『行教和尚夢記』に斗我尾と見えるのですが、詳細は不明です。 社は、平成20年12月2日に国指定重要文化財に指定されました。(絵と文: 小山嘉巳)


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by y-rekitan | 2015-08-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第61号より-01 御園神社

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わが心の風景・・・(34)
御園神社
所在地 上奈良御園


f0300125_1134715.jpg 上奈良の里から東へ少し行くと御園神社の碑と鳥居が左手に見えてきます。
 碑に刻まれた「古字」に思いを馳せつつ、鳥居をくぐって本殿までの参道をゆくと、大きな常夜灯が目に飛び込んできます。その高さは3.75メートルもあります。本殿両側でにらみを効かせている狛犬は、寛政8年(1769)丙辰(ひのえたつ)九月の寄進で、八幡市内で最も古く、府内では九番目といわれています。
 さて、御園神社の創建は「延暦6年(787)桓武天皇が河内国交野へ行幸の途中、この里に立ち寄り鷹狩りを行った時、神託を蒙って、同年11月、大納言藤原継縄(つぐただ)に命じて社を建立させ、奈良春日社から三神を移座したと伝えられています。本殿は、南北朝の合戦や応仁の乱によって炎上しましたが、「明応3年(1494)9月、新殿を造営した」と御園神社の縁起は伝えています。
 古代の上奈良は、瓜・茄子、大根など、朝廷に献上する野菜を栽培するところで、社名にそれを偲ぶことができます。        (絵と文: 小山嘉巳)


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by y-rekitan | 2015-04-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第60号より-01 川口天満宮

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わが心の風景・・・(33)
川口天満宮
所在地 川口堀之内


f0300125_13134811.jpg 天満宮のある川口堀ノ内は、文字通り村の周囲を濠で囲まれた環濠集落で、敵の襲撃に備えるとともに、河川の氾濫や洪水を防ぐ機能を持ったいわゆる中世の面影を残す村です。そこに鎮座する川口天満宮は、その縁起に次のように創建のいきさつを伝えています。
 宇治に住む公卿が、男山付近から現れた光が空を照らしたのを見て、その原因を調べていくと川口村に至った。その村の南東三百メートルほどのところに池があり、夜中に池の中から光を発して天神六体の像を形作った。これを聞いた一条天皇は深く感銘を受けて大社創建の命を下し、長徳元年(995年)に社殿を建立した。
 天保11年(1840年)社殿修造の際に発見された棟札には、文禄3年(1594年)4月16日に造営したと記載されていました。また、光を発したという「天神池」はすでになく、今は「天神崎」の地名だけが残っています。川口村の地名は、奈良川(木津川)の口にあるためと『男山考古録』は記しています。  (絵と文: 小山嘉巳)


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by y-rekitan | 2015-03-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第59号より-02 二宮忠八

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《講 演 会》
二宮忠八と八幡

2015年2月  飛行神社3階ホールにて
友田 享 (飛行神社 宮司)

 2015年2月12日、午後1時半より八幡市八幡土井の飛行神社にて、標題のタイトルで講演と交流の集いが開催されました。参加者47名。いつものように概要を紹介します。

生い立ち

 二宮忠八は、慶応2年(1866)6月9日、現在の愛媛県八幡浜市に生まれた。二宮家の先祖は伊予大洲藩の武士であったが、忠八の4代ほど前に禄を離れた。理由は、一家あげて鮎釣りをしている留守中に出火し、藩主から預かっていた藩旗を焼いてしまったからである。以来二宮家では鮎を食べないという。f0300125_14484526.jpg
二宮家は八幡浜に移住して海産物問屋をはじめた。しかし、忠八が12才の時に父は他界。忠八は働きに出た。最初に勤めたのが町の呉服屋、次は印刷所の文選工、写真師の下働きなどした。その後、薬業商を営む伯父に見込まれ、そこで手伝うようになった。その結果、物理や化学に興味を持つようになり、約2年半の修業は薬学の基礎となった。20才の夏、再び八幡浜に戻り、海産物の行商人になったが行商のかたわら私塾で国学、漢学、南画を学んだ。

忠八凧

 忠八少年は大空に舞う凧に異常ともいえるほど興味をもった。彼が考案する凧は人々を驚嘆させるほど奇抜なものであった。そして、そのどれもがよく揚がるので「忠八凧」と呼ばれ、よく売れた。だが、忠八の研究心はもっと高度なものに向けられた。

兵役

 明治20年(1887)、丸亀の歩兵第12連隊付の看護卒として入営。わずかに背丈が足りなかったために本科には不採用になったのである。明治22年、機動演習中に、カラスが滑空する姿に突然興味をもった。カラスは広げた翼に揚力を生じさせ、ふき上げる上昇気流など複雑な力をうまく利用して滑空していることを発見した。それは、彼の空を飛ぶ機械(飛行器)発明のヒントになった。忠八は、カラスのほか、トビウオや甲虫類の飛行のしかたにも興味をもって観察した。

第一号模型器の製作

f0300125_151037.jpg 鳥凧を原型とする飛行器の第一号の模型製作に取りかかった。忠八の第一号の模型飛行器には車輪がついていた。数年後の明治36年に初めて人を乗せて飛んだライト兄弟の飛行機でさえ車輪はなかった。プロペラも装置されたが難問は動力である。看護卒であることから使った聴診器のゴムを動力にした。白い紙を貼ったままの翼や胴体は墨を塗ってカラスらしく仕上げた。頭のところにつけた垂直面には目を描き入れた。この垂直面は、飛行にとって重要な安定翼(垂直翼)になった。
f0300125_156541.jpg 明治24年(1891)4月29日の夕方、丸亀練兵場の広場でテストすることになり、第一号のカラス型飛行器は約30m飛んだ。飛行神社では毎年この日を記念して例祭が行われている。その後、玉虫型飛行器を考案し、それを第2号器とした。



上申書の提出

 明治27年(1894)、日清戦争が布告された。忠八は、大島混成旅団の野戦病院付きの一等調剤手として、韓国に渡った。そして、京城郊外に夜営中、上官に偵察等の利点を説いて飛行器の考えを打ちあけた。その結果、直接の上司である軍医が、玉虫型飛行器の設計図に上申書をそえて、当地に滞在中の長岡外史参謀総長に提出した。だが、即日却下された。彼には先見の明がなかったのである。
 日清戦争中、忠八は赤痢にかかったが奇跡的に治癒に向かい、広島の予備病院に送られた。
 翌28年に日本は大勝し、大島旅団長も広島に凱旋。そこで再び軍医部長を通じて、再度大島閣下に面会し、上申書を提出した。しかし却下。さらに、広島師団長にも上申書を提出したがこれも不発に終わったので、翌年長い軍隊生活にピリオドをうって郷里に帰った。
 当時の忠八の脳裏にあったことは、飛行器を完成させるための資金を調達すること、大臣や大将と自由に面談できる身分を得ること、飛行器を飛ばす発動機の製造工場と試乗場所を獲得することであった。

薬業界へ

 明治31年(1898)、忠八は大阪製薬株式会社に入社した。当時の薬品は粗悪なものが多く、品質のよい薬品作りに没頭した。彼がつくった薬品はどれも好評で、倒産寸前の同社をみごとに立ち直らせた。その後、合併をへて常務取締役に推薦され、ついに大阪実業界の第一人者と肩をならべるようになった。一万円の貯金もできた。

動力試験

 明治33年(1900)、石清水八幡宮に参詣した。忠八は故郷の八幡浜と同じ八幡の名に限りないなつかしさを覚え、木津川の土手を歩き、橋本のあたりは川幅が広く開けて一面の砂原であることを知った。年頭の飛行器の実験場には最適であると判断。また、付近にあった二軒の精米場の石油発動機に着目し、これを動力にして飛行器を飛ばそうと考えて、一軒を買取った。そして、そこを二宮工作所とした。f0300125_15181115.jpg 明治35年(1902)現在の飛行神社がある八幡市八幡土井に本邸を引越し、忠八は毎日ここから京阪電車で大阪の会社へ出勤した。そして、夜、会社から家にもどると設計、製作に取り組んだ。
 丸亀練兵場の広場でカラス型模型器が飛んだ折の興奮がよみがえった。発動機のついた飛行器が、木津川の実験場で地面をはなれて浮きあがる光景を想像しながら忠八の胸は高鳴った。

ライト兄弟の成功

 明治34年(1901)12月17日、アメリカのライト兄弟が動力による人類最初の飛行に成功した。日本ではその情報はすぐには伝わらず2年後に載った新聞記事に忠八の目はくぎ付けになった。次の休日、忠八は奥之町の工作所にある、枠組のできあがった飛行器をハンマーでたたき壊してしまった。

航空殉難者の慰霊

 大正に入ると日本の航空界は飛躍的な発展を示した。忠八には、すでに自分が前半生をかけた飛行器研究を無視された腹立たしさも消え、一人の日本人として航空界の進歩を見守るような心境になっていた。しかし、飛行機熱が高まるにつれ、世界各地でしばしば墜落事故がおこった。飛行機事故による操縦者の死、志を空にたくした人たちの死に、耐えがたい苦痛を感じた忠八は、その御霊を慰める方策を思いめぐらすようになった。
 大正4年(1915)、八幡の邸内に祠を建てて殉難者を祭神とした飛行神社を創建した。

忠八の名誉の回復

 大正10年(1921)、たまたま郷里をともにする白川義則中将と対等に話をする機会に恵まれ、かねて却下された上申書のことに話題に及んだとき、中将はそれを陸軍航空本部に携行した。その上申書を目にした「帝国飛行」の記者、加藤正世が忠八の玉虫型飛行器の設計図に驚いた。日本では明治26年にすでにこうした立派な飛行機が発明されていたのである。加藤は、「二宮式飛行機について」と題する論文を「帝国飛行」第5巻4号に発表した。
 最初の上申書を受取りながら即座に却下した長岡中将は、その論文を読み、素直に非を認めた。そして、機関紙「帝国飛行」11月号に詫び文をのせて忠八の偉業を称賛し、自らの不明を公表して謝ったのである。
釈明を天下に示す高義心
   その潔白に消ゆる長恨
   (忠八翁立志百歌集より)
 こうして忠八が飛行機を考案してから30年の後、初めて彼の飛行機の真価が認められたのである。
 昭和2年(1927年)12月には、勲六等に叙せられ瑞宝章を贈られた。また、国語の国定教科書にのせられて、忠八の名は一躍日本全国に広まったのである。

神社建立

 同年、大正4年に邸内に建てた祠を、本格的に神社として建立することを思い立ち、祭神を定めるために飛行に関係のある神々を調べた。その結果、交野市の磐船神社のご祭神で饒速日命(にぎはやひのみこと)が、天照大神のみことのりをうけて河内国に天下ったと伝えられることを知り、この分霊が贈られることなった。そこで、中央の社殿には饒速日命を祭り、右の社殿には世界航空殉難者先覚者の御霊を合祠し、左の社殿を薬光神社とし、日本薬学の父長井博士をはじめ同僚であった武田長兵衛、田辺五郎、塩野義三郎らをお祀りした。

晩年の忠八

 晩年の忠八は、神職として神社に仕え、幡山と号し、飛行千歌を詠み、幡詞を作り、幡画を描くのが日課であった。そして、昭和11年(1936)4月8日、胃がんのため71歳の生涯を閉じた。墓は、神応寺の墓所に遥か東の空を立っている。ひたすら空の平安を祈っている如くである。

  友田氏の講演の概略を記す際、飛行神社が発行する「二宮忠八小伝」を参考にしました。
                                   【文責=土井三郎】

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「二宮忠八と八幡」に参加して
鳥居 勝久 (世界凧博物館東近江大凧会館)

 2月4日付けの京都新聞に八幡市にある飛行神社で「二宮忠八と八幡」の講演会を知りました。私は現在、凧を展示する博物館「世界凧博物館東近江大凧会館」に勤務しており、「忠八凧」と呼ばれる独創的な凧のこと、そしてカラス型飛行器、玉虫型飛行器と飛行原理を発見したことも知っておりました。しかしながら、詳しいことは知らず、講演者が飛行神社の友田宮司様であることから参加することを決めました。f0300125_1550683.jpg話の中から、生活の中から生まれるヒントとアイデアによる探究心、これは日本の技術力の基のような気がします。また、飛行神社への二宮忠八の思い、そして現在もその思いは受け継がれていることも知ることが出来ました。
 さて、同じ大空を飛ぶということで、東近江市八日市には、江戸時代中期に男子出生を祝って5月の節句に鯉のぼりと同じように揚げられたのがはじまりと言われる伝統文化「東近江大凧」があります。最初は小さかった凧も、村落ごとに競い合って凧揚げをしていたので、凧の大きさもだんだん大きくなり、明治15年には、240畳敷きの大凧が揚げられたという記録が残っています。現在では、100畳サイズの大凧を揚げる「東近江大凧まつり」を毎年5月最終日曜日に開催しています。また、八日市には飛行場があったことはご存知でしょうか。荻田常三郎が大正3年に沖野ケ原上空を翦風号で飛んだことから始まり、沖野ケ原に大正4年、日本初の民間飛行場が出来ています。大正11年には陸軍第三連隊の基地となり、航空機搭乗者の安全を願った沖原神社もありました。その後、飛行場は終戦とともに廃止となっています。むかし大凧を揚げていた場所は沖野ケ原で、飛行場が出来た場所も沖野ケ原でした。八日市の空は、大空へのステーションであった町と言えます。

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「二宮忠八と八幡」 の講演を聞いて
谷村 勉 (会員)

 40年ほど前に仕事の関係で何度も愛媛県八幡浜市を訪問する機会があり、はじめて二宮忠八を詳しく知って、書物を読んだ記憶があります。講演を聞いてぼんやりと覚えていたことが鮮やかによみがえりました。充実した内容とともに結びに、二宮忠八の人生は「何度も何度も挫折を味わった人生であったが、それを乗り越えたところに意味があった」の一節には大きくうなずいて、晩年の忠八翁の写真を拝見するとやっぱり“いい顔”されていました。
 f0300125_1611743.jpg神応寺にある二宮忠八の墓石を改めて紹介したいと思います。神応寺の小高い丘陵の墓地から八幡市内や木津川、京都市内が一望でき、あたかも飛行機から眺めるようなロケーションでした。忠八ご夫妻と次男顕次郎ご夫妻の墓石と航空殉難者を祀る三界万霊塔、元航空幕僚長の白川元春氏の顕彰碑が立つ比較的広い塋域です。資料にありました「写真② 本邸より」の、当時本邸から撮った男山神応寺の写真も印象に残りました。

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by y-rekitan | 2015-02-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第57号より-05 御園神社その3

シリーズ「御園神社考~その3」・・・③

枚岡・御園神社の祭祀の比較 

 大田 友紀子 (会員) 

天岩屋戸神話 

 枚岡神社の祭祀の中で最も重要な神事は、天児屋根命(あめのこやねのみこと)が活躍した「天岩屋戸(あめのいわやど)神話」を起源とする注連縄掛(しめなわかけ)神事です。現在は12月25日に行われています。その神事は古代から行われている特殊なもので、東大阪市の無形文化財に指定されています。また「お笑い神事」という通称でも親しまれていて、その日の枚岡神社は多くの参拝者で賑わいます。その詳細は後に触れるとして、「天岩屋戸神話」を簡単に紹介します。
記紀神話によれば、高天原(たかまがはら)で乱暴狼藉を繰り返す弟スサノオの度の過ぎた悪戯をかばい切れなくなったことから、アマテラスは天岩屋戸に身を隠してしまい、世界は闇に包まれ夜が明けなくなってしまいました。困った神々は、アマテラスに岩屋から出て来ていただくために、八百万(やおよろず)の神々が知恵の神である思金神(おもいかねのかみ)に相談します。
まず、アマテラスの心をなごませる祝詞(のりと)を天児屋根命が奏上した後に、天宇受売命(あめのうずめのみこと)が伏せた桶の上で神楽を舞い踊り、神々が囃(はや)し立てて声を合わせて笑い出したりして、大いに騒ぎました。不思議に思ったアマテラスが、岩屋の戸を少しだけ開いて声をかけました。すると、神々は「あなたより貴い神がおいでになったのです」と答えました。それを聞いたアマテラスが外を見ようとした時に、岩屋の陰に隠れていた天手力男神(あめのたぢからおのかみ)がアマテラスの手を取り、岩屋の外へと引き出し、それと同時に布刀玉命(ぬとたまのみこと)が岩屋戸に注連縄をかけて戻れないようにしたのです。
こうして世界に光が戻り、もとの平和な社会になったとあります。アマテラスからその祝詞を賞された天児屋根命は、古代の祭祀を司り、神と人との間をとりなした中臣氏の祖先神とされ、その中臣氏の子孫として栄えた藤原氏の氏神として篤(あつ)く祀られることとなったのです。
天岩屋戸神話については、冬至に弱くなる太陽の力を再生する祭を反映するものと見る説や、日蝕での太陽の死と再生をあらわすものと見る説などがあり、よく似た神話が世界中にあるといわれています。

神剣が奪われる話 

 また、枚岡神社にまつわる伝承・説話を数多く記している『御神徳記(ごしんとくき)』1巻(室町時代の制作)に、神剣にまつわる話があります。それは、盗まれた太刀が霊験(光)をあらわし、驚いた盗賊が誤ってその太刀で手を傷つけ、畏(おそ)れて投げ捨てて逃げ去ったというものです。盗まれた太刀二振りは、源義経が奉納したものであったとか。
同じような話は、霊妙なる神剣・草薙剣(くさなぎのつるぎ)(=天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ))が祀られている熱田神宮にもあり、不思議なことに、熱田神宮にもご神体の草薙神剣が同神宮に還った故事を慶び伝える神事「酔笑人(えようど)神事」があり、その高笑いの声から「オホホ祭」ともいわれています。この神事は奇祭として名高く、5月4日の夜に行われています。それは天智天皇7年(668)に起こった外国の賊徒による草薙神剣の盗難事件を反映しています。事件は未遂に終わりますが、しばらく、神剣は一時、宮中に留め置かれることとなります。そして、熱田神宮に戻ったのは、朱鳥元年(686)。その時に「酔笑人神事」が始まったとされ、神剣が無事に帰還したことを喜んで「おほほほ‥‥」と笑う祭事となったのです。
枚岡神社の神事と異なっているのは、夜にこっそり神職だけで行われている点です。けれども両方とも、神剣が盗まれて後に還ってきて、それを喜び笑うと言う点が共通しています。無論、枚岡神社の「注連縄掛神事(しめなわかけしんじ)」の始まりが、神剣の帰還を喜んで始まったかどうかは不明です。けれども、笑うという行為で喜びをあらわしているという類似点があるのは事実です。 

注連縄掛神事 

 枚岡神社の「注連縄掛神事」では、その日の早朝から氏子総代らによって作られた注連縄を、参道広場に立つ注連柱に張り替えた後、宮司・神職・氏子らが真新しい注連縄の正面に居並び、お祓いの後、宮司が本殿に向かって「ワッハッハー」と高笑いをすると、後に続いて一同も和して笑います。これを3度繰り返して神事は終了します。
この神事の由来が「天の岩屋戸神話」にあることは、さきほど説明しました。アマテラスを呼び出すために、その御心を和らげる祝詞を挙げたとされる祭神・天児屋根命は、このことからまさに神事の根源を司る神であり、その祭神の神徳を偲んで行われています。なんともユニークなこの神事は、祭の場にうち揃い出て一緒に高笑いをすることで、太陽を元気づけ、一日も早い春の訪れと豊かな実りを祈るもので、農耕民族らしい一面があるともいわれています。一同うち揃って3度繰り返して笑うところは、御園神社に伝わる「三笑」とよく似ていますが、御園では本殿に背を向けて行われるという相違点もあり、それが長い年月の中で少しずつ変形してきた結果だとしたら、それはそれで面白いと思います。
枚岡神社が東大阪市の日下(くさか)に創建されたのは、「出雲の国譲り神話」と同様に、大和を譲った出雲系の饒速日尊を祀る石切劍箭(みつるや)神社が近くにあることによるのでは、と前回に書きました。石切神社にも、枚岡と同じく拝殿前に注連柱があり、注連縄が張られています。初詣の時に見受けられますが、この地方独特の様式かもしれません。同じものがあることは、とても不思議に思えます。

御園神社の「三笑」と樫の枝 

 御園神社に伝承されている神事の一つである「三笑」は、秋の例祭の中で行われています。本殿の前までやって来た一行は着くなり、くるりと本殿に背を向けて、今さっき歩いて来た方向、鳥居の方へ向かって居並び、「一ペン笑え」の掛け声の後、大声で笑います。続けて「二ヘン笑え」「三ベン笑え」と同じく掛け声の後で笑い合います。このように、一同が向く方向が違っているなど相違点もありますが、一同で笑い合うところなどに類似する点もあります。季節的にも、冬至の日に行う枚岡社と、御園社では10月の収穫後の秋祭りに行われるなどの時期的な違いがあり、大変興味深いところでもあります。
前回の御園社の「王の舞」のところで述べたように、もう一つ、共通する点があります。それは、神事に使用する樫の枝のことです。地に振り下ろす(現在の所作は変わってきていますが)棒に、何故、樫の枝を使うのでしょうか。他の樹木でもかまわないと思われますが、樫を使うことは暗黙の了解のもと、粛々と続けられています。 
そのことについては、枚岡神社の正月行事である粥占(かゆうら)神事に少し関連するところがあります。その神事は、小豆粥(あずきがゆ)を炊く大釜の中に53本の占竹(せんちく)を沈めて、中に詰まった粥の量でその年の農産物の豊凶を占い、また同時に、粥が炊き上がる前に、熾火(おきび)の上に載せておいた12本の樫の小枝の焦(こ)げ具合で一年の天候を占うという二つの占いをするのですが、枚岡社でも、なぜかこの神事に樫の小枝を用いていて、何らかのこだわりを感じます。
以前は、粥占報賽(かゆうらほうさい)祭として、1月15日に行われていましたが、占いの結果を告知する占記の制作のために今日では11日に早められています。この粥占神事は大阪府無形文化財に指定されています。
以上のことから、私は、御園神社の秋祭りの神事の形態から、社伝では春日社から祭神を勧請したとありますが、前回同様に枚岡社から直接祭神とその神事を迎えたのではないかと思っています。
ちなみに、現在行われている春日社の祭祀に、枚岡神社の「注連縄掛神事」「粥占神事」はおろか「平国祭」のような剣に関する祭祀はありません。そうすると、御園神社へは、枚岡神社より直接祭神とそのゆかりの神事が伝えられたとしか思えません。
なお、御園神社の草創時期は不詳ですが、『続日本紀』には延暦6年(787)とあります。明治期の祭礼には、楽人が行列に加わっていたとあり、「王の舞」に用いられる天狗面も大人用で、かつてはそれをかぶって舞を披露していたのではと地域の方も話しておられます。
伝わっている獅子頭も古い形で、伊勢太神楽(だいかぐら)で用いるものよりも歯のところに厚みがあります。現在の天狗・獅子ともに奉納芸能と呼べるような内容は見られませんが、天狗や獅子が登場する芸能は、中世、都を中心に流行した祭礼芸能とされています。そして、「明治43年に記された『御園神社年中祭典行事記』の記述内容と同様の所作を天狗・獅子ともに伝承されている。」と、京都府教育庁指導部文化財保護課の向田氏の講演で聞きました。
最後に特筆したいことは、「獅子蔵」のことです。他の地域では、御輿など祭礼に用いるものを保管するところを「御輿蔵」などと呼ぶのが一般的ですが、上奈良地域ではそれを「獅子蔵」と呼んでいます。そのことからも、古くから伝わる獅子面に対する思いが強かったことがわかります。

ずいき祭りについて 

 現在は「ずいき御輿」の方がつとに有名ですが、それは、応永6年(1399)、足利義満が戦勝祈願のために奈良郷を北野社に寄進したことに関わっているのかもしれません。北野天満宮の「瑞饋(ずいき)祭」では明治期に取り入れられた神幸祭の日に、華やかな稚児列などが付き従ってお旅所へと向かいます。そして、お旅所に着くと着御祭の後、八乙女による「田舞・鈴舞」奉納が行われていて、そこに、中世の祭礼芸能の一端を垣間見ることができます。
平成26年12月11日
(京都産業大学日本文化研究所上席特別客員研究員)
 


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by y-rekitan | 2014-12-28 08:00 | Comments(0)

◆会報第56号より-03 御園神社②

シリーズ「御園神社考~その2」・・・②

神武東征伝承と枚岡社の「平国祭(くにむけのまつり)」

 大田 友紀子 (会員) 


枚岡神社の「平国祭」と御園神社の「王の舞」 

 御園神社の秋祭りの神事について調べていた時、天児屋根命(あめのこやねのみこと)が枚岡神社の主祭神であったことを知り、枚岡神社について調べることにしました。その創建は『古事記』で名高い神武東征伝説に関わっています。枚岡神社の創祀の時期は定かではありませんが、社伝によると、大和入りを目指した神武天皇の一団が河内湖沿いの日下(くさか)に上陸しようとした時、その地の豪族、長脛彦(ながすねびこ)に阻(はば)まれました。その窮地を打開するために神武天皇は、生駒山系の神津嶽(かみつだけ)山頂に、自ら天児屋根命と姫御神(ひめみかみ)に国土平定を祈願して祀ったとあり、その時を始まりと伝えています。また、その社格は河内国一の宮であるとのことです(『古社名刹巡拝の旅』20号)。

 枚岡神社の神事には、前記のことがらを起源とする「平国祭」があります。古くから「くにむけのまつり」ともいわれ、現在は矛を用いていますが、矛も武器という点では、「剣」と同じで、昔は剣であったのかもしれません。
 私は、この「平国祭」が中世芸能で演じられる「王の舞」のルーツではないかと思っています。平国祭では、『記紀』に書かれている神々の戦いにおいて、勝利者の神が新しい土地で支配者として行う「国占(し)め」の行為である矛(または剣)を大地に突き刺す所作が演じられています。
f0300125_13595575.jpg 大阪府東大阪市出雲井町に鎮座する枚岡神社で、5月21日に行われている「平国祭」の神事では、天児屋根命を祀る第一殿と斎主命を祀る第三殿の間に置かれた矛を、祝詞(のりと)の奏上ののち、宮司が手に執(と)り禰宜(ねぎ)に授けます。矛を捧げ持った禰宜は三歩前に進み出て、地に向けて矛を突き、そのまま元の位置に下がります。この所作を、斜め左前、次いで斜め右前と三度行ってから宮司に矛を返します。そして、宮司が矛を元の場所に戻した後、小振りの矛を手にした巫女の舞が奉納されて神事は終わります。
 矛を大地に突き刺す所作は、御園では、樫の長い棒を大地に振り下ろす所作に替わっているようです。それから、御園神社の「王の舞」では、天狗面を付けますが、面を付けて舞うことの起源については諸説あって、舞楽から来ているともいわれています。御園では、大人に介添えされた稚児が社殿を二回廻って樫の棒を社殿前の地に突く所作が行われていましたが、このように、枚岡社の祭礼と御薗のそれは少し変化しているように見受けられました。しかし、無形民俗文化財として指定されているように、とても貴重な神事です。
伝わらないことも多い中にあっても、毎年一心に取り組まれている地域の人々の努力には頭が下がります。

御薗神社の他の二神について

 御園神社の祭神は、社伝によると、春日大社から勧請されたとあります。その春日大社が創建されたのは、奈良時代です。春日社の社伝では、神護景雲2年(768)、称徳(しょうとく)天皇の勅命を受けた藤原永手(ながて)が、社殿を造営して、鹿島神宮の武甕槌命(たけみかづちのみこと)、香取神宮の経津主命(ふつぬしのみこと)、枚岡社の天児屋根命と比売神を四柱あわせて祀ったのが始まりといわれています。枚岡社の天児屋根命については、神武天皇が東征の途中に祀ったことを書きましたが、鹿島神宮の武甕槌命も、『古事記』『日本書紀』(以後『記』『紀』と略記)の神話に共に姿を表しています。
 武甕槌命は、別名を建布都神(たけふつのかみ)、豊布都神(とよふつのかみ)といい、その誕生は、イザナミ尊が火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を産んだ時に命を落としたことを嘆き悲しんだイザナギ尊が身に帯びていた十券剣(とつかのつるぎ)を抜いて、火之迦具土神の頸(くび)を切った時に、十拳剣の先から滴(したた)り落ちた血から、武甕槌命と五百箇磐石(いおついわひら)(命)が生まれたとあります。そして、その命から、香取神宮の経津主命が生まれています。両神とも武神として名高く、武甕槌命は雷を、経津主命は剣を神格化した神とされています。その後、武甕槌命と経津主命はアマテラスの命令で、共に出雲に赴き、葦原中国の平定を行い、国譲りを成功に導きます。『紀』に記された出雲の国譲り神話では、大国主命がアマテラスに国を譲り、その代わりとして建てられた「天日隅宮(あめのひすみのみや)」が出雲大社の始まりとされています。また、武甕槌命は神武東征の際に、神武天皇に韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)を授けて、大和朝廷の成立を助けてもいます。そして、即位後の神武天皇は、物部氏の遠祖宇摩志麻遅命(うましまちのみこと)に命じて建国に貢献した神剣「韴霊(布都御魂(ふつのみたま)・平国之剣(くにむけのつるぎ)とも)」を宮中に奉祀させたとあり、その物部氏と関係する神剣は、現在奈良の布留(ふる)山の北西麓に鎮座する石上神宮のご神体になっています。

 話を戻して、御園神社の祭神の二神の本来の鎮座地である鹿島神宮と香取神宮は、共に神武天皇の御世から関東の地を見守って来たとされて、共に東国支配の要に座す軍神として崇められてきました。そして、平安時代に成立した『延喜式』が「神宮」と呼んだ神社は、伊勢神宮・鹿島神宮・香取神宮のみでした。「伊勢」は天皇家の氏神を祀り内宮と下宮とが対になっているように、「鹿島・香取」はペアであり、藤原氏の氏神にされてしまったと、古代史研究家の大和岩雄著『神社と古代王権祭祀』(白水社)にあります。
 記紀では、大和に君臨していた饒速日命(にぎはやひのみこと)が参上し、神宝を献上して恭順を誓ったとされていますが、その饒速日命の娘、伊須気依姫(いすけよりひめ)を妻にすること(婿入り)によって、大和の王となったのではと私は思っています。『記紀』では、連戦に次ぐ連戦に打ち勝って神武天皇が大和を制服したことになっていますが、渡来人が造った国々が連立していたと思われる古代の日本列島の各地では戦いが起ったとしても、程ほどのところで和睦をして、それこそ「矛を収めて」いたのであろうと思われます。2年前の平成24年が「古事記編集1300年」に当たったことで、『記紀』の成立の意図など、いろいろ考えてしまいました。
 『古事記』編纂の目的の一つである神聖な天上界(高天原)と地上の支配者である天皇家を結び付ける物語は、神武天皇の即位と大和王権を助けた諸勢力を、「韴霊(ふたつのみたま)」の剣や、道案内をした八咫烏(やたがらす) (3本足の烏)などに書き替えています。神剣は物部氏の武力を、八咫烏は賀茂氏の始祖建角身命(たけつぬみのみこと)を表していると思われます。そういえば、鹿島神宮の祭神である武甕槌神の別名に「フツ」の音があるので、物部氏との関わりも取り沙汰されてもいます。香取神宮の経津主命は、日本書紀のみに記されていて、枚岡社では斎主命(いわいぬしのみこと)と別名で祀られていて、両神とも剣神の神格を備えてもいます。

f0300125_1462560.jpg 大和王権成立後、日下(『紀』では「草香」と表記)の地には、出雲と同様、大和を譲った物部氏の祖、饒速日を祀る石切劒箭(いしきりつるぎや)神社が創建され、その祭祀者は宇摩志麻遅命の子孫が代々受け継ぐところとなり、今日の社家、木積(こづみ)家が誕生しました。「日下」は、また「日ノ本」ともなり、天皇なる君主神が君臨すべき、「東なる日下」=「日本」となります。「日下」を「クサカ」と書くのは、記だけですが。
 その後、大和朝廷に服属した日向諸県(もろがたの)君(きみ)の一族が日下の地に移り住み、宮中儀式などで舞う諸県(もろかた)舞を伝承していきます。この諸県舞は、戦闘とそれを抑止する所作に「太刀」を用いていて、やがては服従するというように、大和王権との関係を象徴的に示す舞ですが、それがいつしか舞楽の中に取り入れられて行き、中世の芸能の一つ「王の舞」に受け継がれて行ったのかもしれません。

桓武天皇の長岡京遷都と大原野神社

 その他にも多彩なことで知られる「元春日」枚岡神社の神事や祭事については、次回に譲ることとして、長岡京遷都を断行した桓武天皇は、御園神社を創建する時に、大和朝廷の始祖である神武天皇が創祀した枚岡神社から直接祭神を勧請したのではないかと私は思っています。それは枚岡神社に伝わる「平国祭」を執行することで、自ら新王朝の始祖となったことの宣言と、同時に新都、長岡京の守護を祈願してのことだったのかもしれません。というのも、桓武の皇后、藤原乙牟漏(おとむろ)(宇合の嫡男良継の娘、平城・嵯峨両天皇母)が、延暦3年(784)の長岡京への遷都にあたり、すでに奈良・春日社の神霊を勧請して大原野神社が創建されていたからであり、大原野神社は「京春日」と呼ばれています。そして、宝亀9年(778)、枚岡神社では、藤原氏の氏神として繁栄していた春日大社に倣い、春日社から経津主命(枚岡では別名の「斎主命」と表記)・武甕槌命の2神を迎えて4神を祀るようになりました。このように、諸神社の祭神の変遷にも、まだまだ謎がありそうですが、御園神社に春日大社の4神が鎮座することとなり、平城京を守護していた春日社と同様に長岡京を守護する一社となって、加えて新都を支える木津川の水運を見護(みまも)る社ともなりました。 (つづく)
                                  平成26年11月17日
(京都産業大学日本文化研究所上席特別客員研究員)
 

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by y-rekitan | 2014-11-28 10:00 | Comments(0)