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◆会報第61号より-05 墓石をたどる⑨

シリーズ「墓石をたどる」・・・⑨
新山通江氏の
「鴻鵠(こうこく)の系譜(淀屋歴代記)」から

谷村 勉  (会員) 


神應寺に新山通江氏の墓石建立
 平成27年2月、淀屋研究で知られる新山通江氏が逝去されました。豪商淀屋の研究に半生をかけられた氏は、末期は“淀屋ゆかりの神應寺に”との強い要望があって、5月19日、神應寺にて追悼法要と建碑開眼法要が予定されているようです(新山通江氏の墓石は神應寺墓地淀屋五代目辰五郎の隣に建立されるとのこと)。 
 昨年4月来、新山通江氏の著書「鴻鵠の系譜(淀屋歴代記)」を基に伏見区淀新町の天神社周辺の聞き取り調査を行い、この機会に旧淀屋邸跡地等について改めて報告いたします。

淀の旧淀屋邸跡
f0300125_192834100.jpgf0300125_20314715.jpg 京阪電車(新)淀駅から京街道を八幡方面に向かって孫橋(最近は河津桜で有名)、旧淀大橋跡をめざすと、途中の淀新町に小さな天神社が左側に見えてきます。
 この天神社の右隣が旧淀屋邸跡地で「鴻鵠の系譜」の中で、筋向いの煙草屋の女主人が語った、旧淀屋邸跡の旅館「伊勢市」があった場所です(写真1)。現在鳥居右隣の建物は新町自治会館「新町倶楽部」となっています。

 天神社の奥へ進むと神殿の右に社務所があって、「鴻鵠の系譜」文中に社務所の老婆の言で「この弁天さんは元、隣の邸(即ち淀屋邸)の後池畔に面して…」と記されていることからも旧淀屋邸の位置が確認できます。平成6年(1994)に発行された「淀の歴史と文化」の中に天神社の右隣に「旅館伊勢市」の面影を残す写真が掲載されています(写真2)。残念ながら天神社筋向いの老女の「煙草店」は現在営業されておらず、シャッターが閉まったままになっていました(写真3)。

f0300125_19114567.jpgf0300125_2052431.jpg 旧淀屋邸の弁財天や池の話がで てきましたが、後ろの池とは天神 社裏側の低地を指し、神殿奥の階段を下がれば眼下に住宅街が広がっています。その地形から昔は池であった事がよく判ります。
その池に面して淀屋の守護神の弁財天(写真4)が祀られていました。弁財天は元々インドの河神でありましたので、海、湖、川に関係する所に祀られます。

 淀屋初代の常安は材木商からスタートし、伏見街道築堤工事や大坂中之島開発を行うなど常に川や水に関わりを持ったことから弁財天を守護神としたようです。

與杼(淀)神社にある大坂淀屋高灯籠
f0300125_214585.jpg 與杼(よど)神社内にある大坂淀屋と刻された2基の高灯籠ですが(写真5)、寄進時期としては宝暦己卯仲春日とあり、宝暦九年(1759)二月の事でありました。淀屋の再興が宝暦十三年(1763)ですから、淀屋再興の4年前に片岡正英、同政冬によって寄進されたようです。また、高灯籠横に「淀屋研究会」の案内板がありますのでご参照ください。

久修園院の片岡正英・政冬の墓石
 淀屋ゆかりの片岡正英・政冬の詳しいことは分かりませんが、二人の墓石は橋本の近く楠葉の久修園院にあります(写真6)。
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by y-rekitan | 2015-04-28 08:00 | Comments(0)

◆会報第57号より-01 淀屋の手水鉢

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わが心の風景・・・(30)
淀屋遺愛の手水鉢
所在地 八幡女郎花


f0300125_0182580.jpg 松花堂庭園書院の西にある小さな庭に「砧(きぬた=洗濯後の生乾きの布を棒や槌でたたいて柔らかくしたり、シワをのばす道具)」と呼ばれる手水鉢(ちょうずばち)があります。

 これは、天下の台所「大坂」の礎を築いた江戸時代の豪商淀屋辰五郎遺愛の品と伝えられています。
 男山の麓、柴座(現八幡山柴)の淀屋辰五郎邸にあった頃、神應寺に近い谷不動から地下に伏樋し、安居橋はその裏に筧(かけい)を添わせ、居宅の庭の手水鉢に水が引かれていました。その手水鉢には、下部側面に五センチ程度の穴が空いていて、手水鉢上部、中央の二センチ程の開口部に繋がっています。
 辰五郎は、取水地との落差で生まれる水圧を利用し、手水鉢内で踊るこぶし大の石が奏でる「砧のような音」を楽しんだと考えられます。(一説には噴水を二階から楽しんだともいわれる)また、筧が伏せられた小路は、管内を流れる水の音から「ドンドの辻」と呼ばれていました。(絵と文小山嘉巳)

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by y-rekitan | 2014-12-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第48号より-06 大谷川散策⑪

シリーズ「シリーズ「大谷川散策余話」」・・・⑪
第11章 橋の管理者は誰?

 野間口 秀国 (会員) 

 橋を渡りながら橋の所有者や管理者が誰かなどと考える人はあまりおられないと思いますが、この章ではこのことについて考えたいと思います。ご存じのように多くの市民が過去に幾度となく大谷川の溢水や洪水で苦しめられた事は町誌や市誌にも書かれています。近年では宇治市・福知山市・京都市内の嵐山などで集中豪雨に因る被害が発生していますが、洪水で橋が壊されたら誰に修復の依頼をすれば良いのでしょうか。一例ですが、2013年10月19日付の京都新聞夕刊の「流れ橋の流失」に関する記事からは「流れ橋」は京都府の管轄であることが分かります。
 現代のことを考える前に江戸時代の公儀橋と町橋について見てみたいと思います。江戸時代には公儀(幕府や藩・大名を指す)の費用で架設・維持・修復がなされた橋は「公儀橋」と呼ばれ、江戸の町では大半の橋が公儀橋だったようでその多くは「御入用橋」呼ばれていました。大坂では大川に架かる代表的な天満橋、天神橋、難波橋を初め公儀橋は12本(*1)と記録されており京では洛中洛外に107本(享保2/1717年頃)あったと伝えられています(*2)。f0300125_21153253.jpg当時の主要街道に架かる橋もまた公儀橋として幕府が直轄していたものが多く、瀬田の唐橋や宇治橋、淀大橋もそうであったようです。また『男山考古録・巻第十一』「高橋」の項には「…今も安居橋と共に、破損の時に将軍家より修造を加えらるる例也、…」とある事から高橋と安居橋もかつては公儀橋であったと思われます。
 一方、公儀橋に対して町人が経費を負担して架けたり管理を任された橋は「町橋」と呼ばれ、商人の町大坂には町橋が多かったようです。大阪市の土佐堀川に架かる淀屋橋も代表的な町橋であったことを現在の淀屋橋の左岸下流近傍に建つ「淀屋の碑」の碑文や『元正間記・巻之壱六』(国立国会図書館蔵)(*3)から知ることができます。f0300125_21195710.jpg水の都、商売の都大坂では橋の数も多く、儲けを逸することのないように橋の修復などにも素早い対応が必要だったことも町橋の多い理由ではないのかとも思われます。今で言う「スピード感をもって」対応するためだったのではないでしょうか。
 ではより古い時代はどうかと見ると、当初は国家によって管理されていた橋がやがてその管理ができなくなった事例が「宿場町枚方を考える会」編の『近代の史跡を歩く会』(2012.6.6)の栞に以下のように書かれていました。曰く-橋本から山崎をつなぐ山崎橋があったと推定されているが、この橋も史料によると複数回洪水で破損されているようです(841年・848年・874年・918年など)。橋は何回か架け替えられたが平安中期には国家による維持も困難になり水運(渡し船)に移行していった…。-さらに山崎橋に関しては、「…11世紀には橋がなくなりその後、豊臣秀吉が天正20/1592年に橋を架けなおし…その後は架けられることなく渡しを利用…」と書かれた資料(*4)からも山崎橋のように公儀でも手に余る橋もあった様子もうかがえて興味深いです。
 話を現代に戻しましょう。このシリーズを書き進める中で橋は管理面からは高速道路、国道、府道、市町村道など、道路の一部であることを学びました。しかし大谷川に架かる何本かの小さな橋は田畑への作業道路、住居への進入路、両岸を渡る近道などであることも分かりました。それではこれら全ての橋の修復などは一体誰に依頼すれば良いのか、管理者は誰なのかを管轄する役所の担当部門にお聞きしたところ以下のように教えていただきました。
― 以下、抜粋(* 5) ―  
1)高速道路(第二京阪道・京滋BP)はNEXCO西日本茨木管理事務所が、2)国道(1号線・478号線)は国土交通省近畿地方整備局京都道事務所が、3)府道は京都府山城北土木事務所管理室第二担当が、4)八幡市道は八幡市敏管理部道路河川課がそれぞれ道路管理者です。5)その他はそれぞれ架設された原因者(行為者)が管理者となっております。
― 抜粋終わり ― 
この区分によると前述のように流れ橋(上津屋橋)は府道八幡城陽線(281号)ですから管理者は京都府です。
 さて、第3章で書きました疑問についてここで今一度取り上げてみたいと思います。それは「同一河川(大谷川)に同名の橋(大谷橋)が複数(京田辺市松井栂谷と八幡市八幡舞台に各1本)あっても問題は生じないのか」でしたが「道路管理者が管理する橋は橋梁台帳が整備されており同名の橋でも道路名や地名などで識別される(*5)」とのことでした。f0300125_21294859.jpg同名の橋の管理については分かりましたが、調べてみると全国には実に多くの「大谷川」があることには驚きを隠せませんでした。PCで「都道府県名(例:京都府)大谷川」と入力して全国を検索すると「おおたに川」はなんと32の道府県で11 3本、他に「おおだに川」1本「おおや川」11本「だいや川」2本などがある事が分かりました。京都府では河川名、竣工年月、漢字橋名、ひらがな橋名を表示した橋歴板の取り付け義務がある事を第8章で書きましたが、改めてその必要性や重要性が理解できるようです。
 ところで、水にまつわる争いは古くより日本のいたる所であったようです。狭い範囲ではその地に住む人たちの生活や財産を守る為、世界的な範囲では一国の興亡をも賭けたものまであったことでしょう。多くの場合は不足する水の奪い合いが原因でしょうが、八幡では溢れる水を下流に流して自村の田畑を水から守る為に起きた争いでもありました。『八幡の歴史カルタ』にもその昔の蜻蛉尻川(現在の防賀川)の水管理の困難さが「寝ずの番水に悩んだ防賀川」と詠まれ『八幡市誌・第二巻』にも「八幡住民の水との闘い」と題する章が設けられその様子も書かれています。
 大谷川が淀川水系の支流の一つであり「一級河川」であることは第2章にて書きました。淀川は木津川、宇治川、桂川の三川でなっており、単独の府や県のみでは解決できない課題も存在します。近年の集中豪雨時などではいづれかの川の水量が極端に増えると、湖やダム湖などを含む他の中小河川が溢れる危険性も有り、相互の利害対立がいつ起きてもおかしくない状況であると言えると思います。
 2013年12月1日の京都新聞の記事「淀川水系の治水議論へ」の記事は、淀川水系の拡がりとそのために何が求められているのかを具体的に理解できる記事であったと思います。淀川に合流するいずれかの川の水位が高くなるとその影響は最後には大谷川にも及ぶでしょう。f0300125_21372268.jpg瀬田川洗堰に隣接する水のめぐみ館「アクア琵琶」では琵琶湖の水位1㎝あたりの水量が約680万立方メートル(大阪ドーム6個分)である事や琵琶湖・淀川の治水と利水の事などを教えてくれます。治山治水が大きな社会的課題である事は時代を超えて八幡市に限らず全国で100を超すいずれの大谷川にも言える事ではないでしょうか。
 記憶が正しければ「橋の平均寿命は35.4年である」と、あるTV番組で報じられたことがあり「意外と短いな」と思ったことがあります。無論、橋もいつかは朽ちるでしょうし、新規架設、維持、修復に相応の費用が必要なことは理解できます。以下の各数値から(橋のみに要した費用がいくらかは正確に分かりませんが)土木関連の歳出額の推移を一例として見てみたいと思います。
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 明治45年度の占有率が高い理由を、町誌には「…相当多きを認むるも、(中略)尾無瀬川下流樟葉地内の悪水路拝借料が大部分(中略)…比率改善には、奥繁三郎、山田直竹両氏の尽力にて敷地を国に買い上げてもらい予算の良化を見る」とあり、先人の労苦がうかがわれる一例でしょう。

 橋や川の管理者はかつては公儀であり、また現代では国を始めとする管轄の役所ではあるのでしょうが、やはり第一義的にはその流域で生活する住民であり、活動する企業であると思います。大きな事は出来ないにしても一人一人が出来る小さな心がけや活動の積み重ねが橋や川を守る事に繋がると思います。八幡市内にも架設後かなりの年月を経過している橋も有ります。限られた予算の範囲で多くの困難な課題もあると思われますが「八幡市では長寿命化修繕計画に沿って計画的に橋の長寿命化工事が行われている(*5)」との言葉をご紹介するとともに、日々多くの道や川や橋の管理に携わっておられる関係部門の皆様方に感謝をしつつ「橋の管理者は誰?」を終わります。次章は最下流部、5区の「大谷区」について書きます。

参考図書・資料等;
(*1)『K-Press 2013年3月号』若一光司氏の「京阪沿線の名橋を渡る」。
(*2)『京の加茂川と橋』門脇禎二・朝尾直弘共著思文閣出版刊。
(*3)八幡市郷土史会主催の歴史講座(2014.2.16)の蒲田建三氏による講演資料。
(*4)京都府埋蔵文化財調査研究センターの公開講座(2013.10.19)の中川和哉氏による講演資料「考古学でみる淀川流域の治水」。
(*5)京都府山城広域振興局企画部・山城北土木事務所/八幡市都市管理部道路管理課のご協力を頂きました。紙面にて感謝申し上げます。
(*6)「八幡町誌第二編第四章財政」に記載の各年度の土木費歳出額(単位:円)。
(*7)平成24年11月号の「広報やわた」に記載の歳出額(単位:円)。


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by y-rekitan | 2014-03-28 07:00 | Comments(0)

◆会報第38号より-01 淀屋の娘

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わが心の風景・・・(11)
淀屋の娘 五百(いお)
所在地 八幡柴座


 f0300125_15523354.jpg淀屋辰五郎が享保2年(1717)12月21日に亡くなると妻吾妻も後を追うように三年後の享保5年に亡くなります。残された娘の五百(いお)はこの時、九・十歳でした。五百は大坂新町の茨木屋の名妓だった母を持つこともあって天性の美女。世話人によって京都奉行組の与力四方田重之丞の息子孫七を養子に迎えました。孫七は下村左仲と改名するのですが、これが無類の放蕩者。わずかに残った淀屋の財産を使い果たし、親戚縁者の戒めもあって、離縁状を出さずに八幡を去って行きます。
 その後、八幡侍に剣術の指南にやってくる大野左門という浪人に自宅の一間を道場に貸すのですが、いつしか、五百との間に恋が芽生えます。これを伝え聞いた左仲は嫉妬を覚え、手下数人を雇い、元文2年(1737)正月、寝込みを襲い二人を殺してしまいます。この事件が後に浄瑠璃浪華丸金鶏の「八幡女敵対」として仕立てられました。淀屋辰五郎旧邸跡の碑は、悲しい伝説も今に伝えています。(絵と文:小山嘉巳)

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by y-rekitan | 2013-05-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第37号より-01 豪商淀屋③

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わが心の風景・・・(10)
豪商淀屋と八幡③
所在地 八幡西高坊


 f0300125_15594378.jpg天下の豪商、淀屋の初代常安が徳川家康から拝領した山林地三百石が享保元年に淀屋に返還され、安住の地となるはずだった八幡の地でしたが、翌年12月21日、辰五郎は亡くなってしまいます。一説には三十五歳という若さでした。
 かつて、その眼下に淀城が一望できたであろう神應寺の淀屋墓所には大きな碑が三つあります。中央が二代目玄个庵、右が玄个庵の実弟で三代目箇齋の父でもある五郎右衛門、左が五郎右衛門の子で三代目となった箇齋です。その箇齋の墓碑の左には、ひときわ小さな墓があり、これが五代目辰五郎の墓です。
 墓石には「潜龍軒咄哉个庵居士」と戒名が刻まれています。その文字に「今は軒の下に身を潜めているが、いつの日か、この無念を晴らしてくれようぞ」という辰五郎の強い思いが伝わってきそうです。淀屋は倉吉で再興。その百五十年後、その財のすべてを倒幕の軍資金に注ぎ込み、積年の恨みを晴らすのです。(絵と文: 小山嘉巳)

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by y-rekitan | 2013-04-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第36号より-01 豪商淀屋②

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わが心の風景・・・(9)
豪商淀屋と八幡②
所在地 八幡西高坊


 f0300125_1653416.jpg「知恵は万斤の宝蔵といわれるように、ほっておいても蔵が年々増え、指折る暇もない。銀の子を生むこと、あたかもネズミ算のようだった」と伝えられる天下の豪商淀屋。四代目重当の時になると、高価なギヤマンをふんだんに使った「夏座敷」なるものを作り、高価な金魚を泳がせて楽しんだといいます。そして、五代目辰五郎にあっては一年半で現在のお金にして百億円もの遊興費を使い、その所業は目に余ると宝永二年五月、闕所処分となり、財産は没収、所払いになります。
 その十年後の正徳五年、日光東照宮百年祭の恩赦によって八幡の山林三百石が淀屋に返還され、翌享保元年に八幡に帰ってきた辰五郎は、妻の吾妻、娘の五百とともに八幡柴座に居を構えました。
 その屋敷には、神應寺近くの谷川の水を引き、落差で吹き上がるのを見て楽しんだという「砧の手水鉢」がありました。今は、松花堂庭園書院の庭にあり、淀屋のロマンに浸ることができます。(絵と文: 小山嘉巳)

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by y-rekitan | 2013-03-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第35号より-01 豪商淀屋①

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わが心の風景・・・(8)
豪商淀屋と八幡①
所在地 八幡西高坊


 f0300125_1612158.jpg神應寺の本堂には、淀屋四代目の重当が元禄六年に寄進した「神應禅寺」「大雄殿」の扁額が架かっています。また、書院の「唯蔔室」も淀屋寄進のものです。
 「どんなものでも手繰り寄せれば商売になる」・・・・・・淀屋財産目録には「土蔵七百三十箇所、船舶二百五十艘、諸大名貸付金一億両、公家貸付金八千貫目、家屋敷五百四十二軒、田畑、刀剣、茶器、宝飾等一億二千百八十六万余両」と記され、百万石の大名を凌ぐと言われました。
 そんな淀屋の初代は常安といい、秀吉の伏見城築城に際して、その才能を発揮。その後、大坂冬・夏の陣には、徳川秀忠の本陣を献上、八幡の山林地三百石と朱印状が与えられました。
 二代目言當は、茶の湯、歌にも通じ、松花堂昭乗らの文化サロンの一人であり、昭乗の茶会記にもその名が見えます。三代目重当の実弟、市兵衛は男山の滝本坊に入り、また乗圓は萩坊住職となり、昭乗から書画を学ぶなど、八幡の地は淀屋と深いつながりが見て取れます。(絵と文:小山嘉巳)

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by y-rekitan | 2013-02-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第30号より-03 五百の悲劇

シリーズ「八幡に残る昔話と伝承」・・・⑤
五百(以保)の悲劇と淀屋宗家のその後

丹波 紀美子 (会員) 


 江戸時代の中頃、八幡に可愛い女の子が一人残されてしまいました。父は地主で名前を下村个庵、以前の名前は淀屋辰五郎。母の名は吾妻といい、女の子の名前を五百(いお、以保)といいました。
 五百が7、8歳の頃、両親が亡くなり、八幡宮の社士たちの助けによって暮らしていました。五百は遊里にいた母吾妻の美人の血をひき、また父の美男の血をひいているため、容姿端麗で非の打ちどころのない女の子となっていました。
 ある時、社士の一人が五百に婿養子をとるように勧め、養子と定めたのが京都の四方田重丞(よもたじゅうじょう)の末息子の彦三郎でありました。ところが兄の孫七が五百と関係を結んでしまい、父の重丞は外聞を憚って孫七と添わせました。
 孫七は養子に来た後、下村佐仲と名を改め下村家の相続をしました。佐仲は元来、身持ちが悪く淫乱博打(いんらんばくち)が大好きな男でした。社士や近所の人たちの忠告にも耳を貸さず、佐仲は「妻が未だ不熟でつまらん」と、うそぶいては京都に出て放蕩博打に入り浸っていました。下村家を相続して間もないのに田畑などを売り払い、博打や遊興費に金を湯水のように使っているので、これでは下村家がダメになると社士たちが相談して佐仲に離縁を申し渡しました。佐仲も今まで散々養子先を荒らしまわったので、もはや居残ることは難しいと思って大体のことを承諾して離縁状のないまま別れました。
 時は移り、ある時、八幡郷に他所から剣術の指南に来た大野左門という浪人がおりました。社士たちの大半は左門の弟子となり稽古に励んでいました。左門には妻子もなく独身ということが分かり、社士は大野左門に下村家を継ぐよう勧め、結婚の仲立ちを引き受けました。左門も成り行きに任せ、五百の家を稽古場にして、ここに泊まるようになりました。しかし、五百は、はっきりと佐仲と離縁したと言う証文がないので表向きは客分として暮らしておりました。
 ところが、京都にいる佐仲は、風の噂でこの話を聞き嫉妬に狂いました。元文巳2年(1737)正月のある夜、佐仲は二人を殺そうと加勢を連れて忍び込み、大野左門が寝込んでいる隙に討ち果たしてしまいました。左門は、剣術師範であるので普通に立ちあえば討たれはしなかったですが、深夜熟睡をしていたため起きることもできなかったのです。一方、五百は起きて座わり「首を討ってください」と佐仲に向けて首を出し殺されたということです。調べに対して、佐仲は「はっきりと離縁したわけでもないのに他の男と寝ていた」と申し開き、「妻の不義の敵討(かたきう)ちだ」と弁明し落着しました。しかし、敵討ちだというものの評判は良くありませんでした。
この話が、大坂の芝居で「淀鯉金(こがね)の鶏(にわとり)」という演題で大いにもてはやされたといいます。
 その後、5、6年経った後、京都で博打の取り調べがあり、佐仲はその首謀者であったため流刑にされました。10年余り過ぎて恩赦になって京都へ帰って来ましたが、父重丞は亡くなり、親類縁者も冷たく、不遇のまま70余歳まで生きたということです。

 この話は、元京都奉行所与力をしていた神沢杜口(かんざわとこう)の「翁草」寛政3年(1 7 9 1)の中の「城州八幡女(じょうしゅうやわため)敵討ち」の文章を再話したものですが、神應寺の過去帳にも五百の死のことが書かれており、五百の命日は元文2年(1737)丁巳10月9日となっています。
 なお、その他にも淀屋の分家の大豆葉町家(まめのはちょうけ)の7代当主岡本撫山が著わした「浪華人物誌」にも同じようなことが書かれています。この本では事件のあったのは元文元年〈1736〉辰の4月となっています。明治時代に書かれたものですが、岡本撫山は銅座の官吏をしておりました。(死亡年月日は3つとも違っているが、内容は大筋で合致している)

 ところで、下村佐仲の名が記された別の資料(講田寺文書)が見つかっています。その資料によると、橋本平野山にある講田寺は、f0300125_21182685.jpg最初、生津村にあったが水害を避けて平野山へ移転しました。その平野山の土地の所有者は下村佐仲で、享保15年(1730)、自ら土を運び建築に尽力し、東厳和尚を中興の開山として招き、淀下津町の小林中兵衛門尉信政を工匠として翌享保1 6年(1731)4 月に本堂を造立しました。〈棟札有〉
 この下村佐中と先に述べた「五百」の夫であった佐仲が、余りにもギャップがありすぎて信じ難いのですが、佐仲もこの様に真面目な頃もあったのかもしれません。
 下村家は、延亨元年(1744)に不調法により闕所(神澤杜口・著による翁草より)となってしまいました。
 5代目淀屋辰五郎自身も宝永2年(1705)に驕奢(きょうしゃ)と謀書、謀判の罪で闕所(けっしょ)になり、彼の娘婿、佐中も女敵(めがたき)討ちの事件及び流刑の罪でしょうか?不調法という名で闕所の憂き目にあいました。そのことで、まだ多分にあった下村家の財産は没収されました。しかし、間もなく佐中と五百の間の息子豊五郎は、家の再興を許されたと言われています。ただし、その後の豊五郎の消息は今のところ不明です。
 講田寺の檀那であった下村家は、衰退の一途を辿ったのか?講田寺も寺運が年月とともに傾いて行きました。講田寺が寺運を盛り返すのは、寛政6年(1794 )、難波の鴻池善五郎の室が夫の没後、尼となり夫の菩提を移し、痴極大謙和尚(ちごくだいけんおしょう)を開山として田畑五十石を寄進したのが始まりです。
 淀屋辰五郎が闕所の後、八幡に移り住んだ場所は、山柴公民館の前の路地(ドンドの辻)を入って行った所で、「淀屋辰五郎舊邸」と記された三宅碑が建っています。      ※ 闕所(けっしょ)・・・全財産没収されることで,死罪などの重罪の付加刑。
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この連載記事はここで終りです。       TOPへ戻る>>>

by y-rekitan | 2012-09-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第8号より-01 淀屋の歴史

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《講 演 会》
淀屋の歴史をたどる!
― 2010年11月  志水公民館にて ―

 丹波 紀美子 (会員) 


 11月18日(木)、志水公民館にて探究する会11月例会が行われました。今回は、「淀屋と八幡について」と題して丹波紀美子さんが講演なさいました。丹波さんは、八幡観光ガイドボランティアでもあり、淀屋研究会の会員でもあります。長年その研究会で学んだことが披露されたのです。

 概要を紹介します。
 淀屋と云えば京阪電車淀屋橋で有名ですが、八幡とは大変関わりのある家柄です。どう関係があるのでしょうか?!

 まず、初代常安にはじまる淀屋の業績を簡潔にまとめた紙芝居から始まりました。良く通る声です。紙芝居では、淀屋常安(じょうあん)が伏見城普請の時に、豊臣秀吉に見出されたことが印象に残りました。

天下の台所の基を築いた淀屋
 初代常安の長男个庵言当(こあんげんとう)の系統が淀屋橋家で、この淀屋橋家の系統が淀屋と呼ばれている。淀屋と云えば贅沢な暮らしぶりから幕府によって取り潰しの憂き目にあったことで知られるが、それは5代辰五郎広当(こうとう)の代に当たる。初代常安(じょうあん)から5代目広当までの業績は以下の通り。

 初代常安・・・淀屋の創業者。京都・八幡・大坂で活躍。秀吉・家康にその才能を評価された。大坂の総年寄として大坂夏の陣後の大坂の復興に寄与。

 2代言当(げんとう)・・・淀屋を豪商に仕上げた。大坂を「天下の台所」といわれる日本一の経済都市にした最大の功労者。

 3代箇斎(こさい)・・・言当の弟、道雲(どううん)の子。若くして没。

 4代重当(じゅうとう)・・・淀屋の米市では、2時間で80万両(現在の価格で約640億円)の商いをして大福長者となる。大大名に匹敵する経済力を持ってきたために幕府の取り潰しが画策された。つまり、5代目辰五郎の闕所はすでに4代目の代に幕府によって目論まれていたことになる。後に大名になる米津田盛(よねつみちもり)の娘を妻とし、町の政治に参画。幕府の取り潰しを予期し、番頭の牧田仁右衛門(にえもん)を鳥取の倉吉に派遣。仁右衛門は倉吉で牧田淀屋を創業。のちに、牧田家3代目の四男は淀屋清兵衛として大坂淀屋橋の地で暖簾を揚げ淀屋を再興。木綿業を営む。それから5代、幕末に店を閉鎖し、資金を朝廷に献じたといわれる。

 5代広当(こうとう)・・・15歳で当主。取りつぶしが既成事実となったが、若年のため家内をまとめ切れずに贅沢と従業員の監督責任(謀書・謀判の罪)を問われ、闕所(けっしょ)(財産没収と追放)となる。八幡で隠遁の後に江戸に潜行。闕所(けつしょ)10年で恩赦となり、八幡の山林田地300石を返還された。八幡の神応寺に墓がある。

 淀屋闕所に関する資料の一つとして注目すべき文書がある。

淀屋闕所ヨリ當年五拾年ニ相成候ニ付、於御堂法事
相勤可申旨被為仰付、従江戸面銀百貫目如斯書付相
添、當所御堂ヘ被仰付。當八月十六日夜限、右法事相勤候事。
 其時御堂祐筆是ヲ冩取置候。講中衆内證ヲ以冩置候也

 要するに、闕所50年後に、江戸幕府より銀百貫を添えて辰五郎の法事をする様御堂にお達しがあったということである。幕府が淀屋の功績を認めていたことに他ならない。

淀屋と八幡の関わり
 初代常安は家康から八幡の山林田地300石を与えられ、八幡に家屋敷を持った。ちなみに、八幡柴座に「淀屋辰五郎旧邸跡」碑が建っている。三宅安兵衛の遺志による建碑であるが、この地に2代目以後の淀屋当主が別宅として暮らしていたらしい。 
 2代目个庵言当(こあんげんとう)は、男山の谷水を、安居橋の裏に筧を通し放生川を越えて邸の庭に引きいれた。筧を流れる水の音がドーンドーンと響き、それで「ドンドの辻」ないしは「ドンド横町」の地名がついたといわれる。
 个庵(こあん)は茶の湯、連歌の奥を極め、絵画にも長じていた。松花堂昭乗との交友が深く、昭乗のスポンサー的存在でもあった。連歌師里村宗匠や松花堂昭乗、小堀遠州たちが淀屋邸で連歌の会を張ったこともある。二人の連句が『男山考古録』に残っている。

      山かぜをかけ樋にながす木の葉かな   昭乗

      水鳥馴む池このむ庭     个庵

 また、个庵の甥二人が八幡宮にあがり松花堂昭乗の弟子になっている。むろん昭乗は八幡宮境内の僧坊に暮らしていた。
 八幡宮と云えば、淀屋代々は八幡宮の神人(じにん)として石清水社に奉仕していた。そのことの関わりでいえば、5代目辰五郎(広当)が闕所の罪に問われた際、獄門の刑もありえたと云う。その時に、辰五郎のために命乞いをする僧が現れた。八幡僧正である。何者か。
 神応寺19世廓翁鈎然(かくおうこうねん)(1650~1708)ではないか。なぜなら、神応寺は淀屋からかなりの額の援助を受けていたし、4代重当は扁額の寄進も行っている。そんなこともあり、廓翁鈎然は5代将軍綱吉の側室右衛門左局(えもんのすけのつぼね)を通じて広当の命乞いを働きかけたのではないか。ちなみに、水無瀬中納言兼俊の娘右衛門左局は京都在住の折廓翁鈎然に深く帰依し、和尚が浄財を募るために諸国を托鉢勧進する際の許可を得るために将軍に口添えしたことでも知られる。
 その神応寺境内に、淀屋の三基の供養塔が並んでいる。中央に2代言当、向かって右に言当の弟の道雲、そして左は3代箇斎である。そして、3基の墓の側にひときわ小さい墓がある。これが、5代辰五郎広当の墓。享保2年(1717)12月21日と刻まれている。戒名は「潜龍軒咄哉个庵居士(せんりゅうけんとっさいこあんこじ)」。「龍」を辰五郎の「辰」に読み換えれば「闕所という理不尽な処分を受け、今は軒の下に身を潜めているが、いずれ世にうって出てやる」と解釈できる。

倉吉淀屋の隆盛
 淀屋は、5代辰五郎をもって滅び去ったと伝えられてきたが、倉吉において「復活」がなされた。
 先に、4代重当が番頭牧田仁右衛門(にえもん)を倉吉に派遣し、淀屋の暖簾を継がせたことに触れたが、その牧田が大坂の元の場所を買い戻して再開するのにそう時間はかからなかった。淀屋清兵衛と公然と名乗ったのは、淀屋辰五郎が闕所になって59年目の明和元年(1764)で、牧田仁右衛門から数えて4代目であった。
 淀屋清兵衛と正式に名乗った時に、妻、岡本志加を淀屋から迎えている。志加は淀屋の分家の出かもしれないが、悲劇のヒーロー辰五郎広当の孫娘でも不思議ではない。
 いずれにせよ、牧田淀屋が大坂に復活したのは、倉吉牧田家が初代仁右衛門を初代として、米・木綿の商いで大いに隆盛したからである。特に、初代が中国山地の豊富で良質な鉄を使って稲こき千刃の生産普及に力を入れたことが大きい。そして、牧田淀屋はいつしか倉吉で豪商となっていたのである。
 そして幕末期、倒幕のための資金を朝廷方に献上して倉吉淀屋はその歴史を閉じるのである。
 いま倉吉にいくと、牧田淀屋の家屋を改装して観光客を呼び込める展示館としている。地域おこしの一つの目玉となっているのである。

 丹波さんは、他にも米の先物取引のしくみ、世界で最初に先物取引をしたのが大坂であったこと、5代目辰五郎が闕所の罪を問われた背景(謀書・謀判のこと)、辰五郎の娘五百(いお)と二人の男の三角関係を描いた歌舞伎「城州妻敵討」のこと、幕末の尊王事件など熱っぽく語るのでした。ただし、紙数と筆者の能力をこえていますので、それらのことは割愛させていただきます。
 八幡―大坂―倉吉。この三者をつなぐ中で豪商淀屋の歴史を辿った丹波さんの歴史研究は、まだまだこれからも続くようです。その成果の発表は、次の機会を待つことにしましょう。参加者31名。 (文責 土井三郎)

一口感想
「新山初江の本を読んだだけの知識で参加しました。丹波さんの知識の広さと探究心に感心しています。
 ありがとうございました。」  O

「紙芝居はよかったと思う。そのあとは、まとまりがなかったと思う。しかし、仕方がないかもしれません。今後に期 待します。」  I

「内容も先生(講師)も大変よかった。ただし、椅子の部屋がよかった。大変苦しかった(腰・尻・足)。」 S

「知人の紹介で飛び入り参加。史実に裏打ちされた、すばらしい講演でした。紙芝居はよかった。淀屋の出生、淀の津と巨椋(おぐら)池での生活、秀吉との出会い、伏見城築城から大坂への進出など家康以前の活躍は気になるところです。」 K

「淀屋について大変深く研究されていて、その内容を観光案内に活用することは大変むずかしく感じました。なぜならば私がそこ迄勉強が出来ていないので・・・。」 T

「本日は大変ありがとうございました。米取引(堂島)の話には特に興味を覚える所でありました。」Y

「淀屋については名前は知っていたが、全く知識なし。ぼんやりとわかったが、これを機会に私なりに、理解を深めたいと思います。毎々新しい話ありがとうございます。」 S

「淀屋がどんなにすごい家だったかよくわかりました。こまかいことはわからないことが多いですが、とにかく淀屋の存在がはっきりとわかってきました。これから京阪に乗ったら、思いをはせてみようかと思います。この短時間によくぞここまで。ありがとうございます。(ところで)淀屋の八幡の土地はどの辺でしょうか?」 A     

※「淀屋の土地」が淀屋辰五郎邸跡のことを尋ねているのであれば、放生川にかかる安居橋からまっすぐ東の路地を単伝庵(らくがき寺)めざして歩くと左手に邸跡の碑が建っているのが見えます。

「資料のコピーがあれば理解が深くなったかと思います。」 N

「研究心でおいかけ分かりやすい語り口で、有名人と一味も二味もちがう発表でした。(ただし)一般人にも理解しやすくまとめて頂きたい。」 S

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by y-rekitan | 2010-11-28 12:00 | Comments(0)