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◆会報第80号より-03 古墳と鏡④

シリーズ「八幡の古墳と鏡」・・・④
八幡の古墳と鏡 (4)
-東車塚古墳について-

濵田 博道 (会員) 


東車塚古墳とは

 東車塚古墳は国史跡名勝に指定されている松花堂庭園(八幡市大字女郎花)内にある古墳です。というより、もともと古墳があったところを開発、利用して名勝松花堂庭園ができたという方が正確でしょう。この付近は江戸時代の終わりごろから畑地として開拓が始まっています。
『男山考古録』(1848年)巻14「東車塚」に概略次のような記述があります。
f0300125_171013.jpg「女郎(花)塚(おみなえしづか)といふ処の東に、四十間(約73m)ほどの小山のような塚があり、このことである。
(中略)この地は社士神原氏の所領だったが、志水町の民小衛門と儀右衛門という人が40年ほど前、山頂の樹木を切りここを開拓し畑にしようとして、鋤鍬で耕そうとしたが、皆その夜から病に伏して掘り崩すことはやんだ。
儀右衛門の子どもの清兵衛という人が恐れおののいて丘上に小祠を建てて祭った。このようなことは西車塚でもあった」。
 梅原末治氏の『久津川古墳研究』(大正9年(1920年)、水木十五堂発行)には次のような記述があります。
「(東車塚古墳は)北北西面の前方後円墳にして、北西にある西車塚と相去る約一丁(約109m)なり。後円部の西方に女郎花塚なる小円墳を伴ふ。f0300125_1743012.jpg古墳の全部は今全く井上氏の別荘の内に入て、大部分は地均を行ひ庭を形造り、ために原形を明にする能わざる(後略)」。
 古墳は「推定全長90m、後円部径50m、前方部50m、前方部幅30m、葺石・埴輪列、粘土槨(後円部)、木棺直葬か(前方部)」(注1)とされています。前方部は削平されており、現在その痕跡はなく、詳しい墳形や何段築成の古墳であったのか不明です。古墳としてはわずかに後円部が松花堂庭園の築山として残っているのみです。

東車塚古墳の埋葬施設・埋葬状態

 前書で、梅原末治氏は別荘工事を観察していた西村芳次郎氏より話を聞き、次のように記しています。「古墳の外形すでにこの如きを以て内部の構造、遺物の埋葬状態等は既に明瞭にする能わざる点多きも、(中略)この塚においては前方部と後円部との両者に埋葬物存せりが如く、最初前方部の地均の際古鏡一面と剣身一口を発見し、(中略)地表下約二尺(約60cm)にして、土砂に混じ偶然上記の二品を得たるものにして、なんらこれに特殊の造構を認めざり」。
 前方部に於いては「何らこれに特殊の造構を認めざり」とありますから、きちんとした埋葬施設があったのか、不明です。それゆえ、『八幡市遺跡地図』も「木棺直葬か(前方部)」と記述しているのでしょう。この前方部から出土した鏡が三角縁神獣鏡です。
 後円部の埋葬施設については、封土の下、約150~160cmの所に「やや前者(前方部)と様子を異にして、一種の粘土と礫石(れきせき)とより成る槨(かく)の如きものあり」。底に栗石を一列に並べた礫床(れきしょう)があり、次に朱層があってその上に粘土層を置き、「遺物はこの朱層中に存せり」とあります。「西に偏して長宜子孫内行花文鏡(ちょうぎしそんないこうかもんきょう)一面存し、それに隣て東にほぼ相重なれる位置に古鏡二面あり。両者の中間より硬玉製勾玉(こうぎょくせいまがたま)二個を発見せり。刀剣、斧頭、鏃(やじり)の類は鏡よりさらに東に並列し、鏃、甲冑(かっちゅう)の類は刀剣の北側、二面の鏡の東に位置せりと伝へ、鏡は三面共表面を上にして存せり。」(注2)と記されています。
 礫床(れきしょう)・朱層・粘土層を敷いた埋葬施設が一基あり、豪華な副葬品を持つことから、後円部の被葬者がこの古墳の主体であり、遺物も大切に埋葬されていることがわかります。

東車塚古墳出土の副葬品

 さらに「遺物の中にて最も貴重なる鏡にしてその中(中略)長宜子孫内行花文鏡は京都帝国大学に蔵せられその他は個人の有に帰せり」(注3)とあります。現在、鏡4枚のうち京都大学総合博物館(内行花文鏡1枚)と泉屋博古館(三角縁神獣鏡及び仿製六神像鏡の2枚)に分散、所蔵されています。残りの鏡1枚(鼉龍鏡(だりゅうきょ))、碧玉製勾玉(へきぎょくせいまがたま)二個、甲冑などは不明です。甲冑は衝角付冑(しょうかくつきかぶと)及び短甲(たんこう)であることがわかっています。梅原末治氏は大正5年(1916年)にこの古墳を訪れ実見し、「副葬品はその後四散して今行方を失せるもの少なからず。」(注2)と記しています。
 副葬品の刀剣「素環頭大刀」「大刀」(計9本)(注4)の写真が『八幡市誌第1巻』に載っており、松花堂資料館蔵とあります。この「素環頭大刀」とは何か。どのような意味を持った大刀なのか。そのことに関して松木武彦氏の『人はなぜ戦うのか』(講談社選書メチエ)に興味深い記事があります。
 “『魏志』倭人伝によると卑弥呼は晩年、「南」にある狗奴国(くなこく)と仲が悪く交戦していた。狗奴国を攻めあぐねた卑弥呼側は中国・魏の皇帝に援助を求める。皇帝はこれに応え、使者を立て、詔書(しょうしょ)と軍旗をつかわす。武器が供与された可能性がある(京都大学、岡村秀典氏)”(要約)。「その治世の後半頃に卑弥呼を支えたとみられる有力者たちの墓からは、把(は)(=つか)の先をリング状にした大刀が出る。素環頭という中国王朝風の大刀だ。これら素環頭のなかに、247年の軍事支援の折に魏から卑弥呼側にもたらされたものがあると考えている。素環頭は、卑弥呼側の最新兵器として威力を発揮しただろう」。
 東車塚古墳から大刀と共に出土した素環頭大刀(数本)ですが、“古墳の築造は4世紀末~5世紀初頭で、卑弥呼の時代は3世紀前半~半ばだから時代が違うし、関係ないではないか”と思われる方もおられるでしょう。もっともです。しかし、この古墳からは弥生時代後期の鏡(内行花文鏡)も出土していますので、この素環頭大刀が弥生時代後期・卑弥呼の時代のものでないとは断定できません。調査に値すると思います。また、“卑弥呼の側に立たなかった陣営(例えば出雲)の墓からは素環頭大刀は出土せず、そのリング(素環頭)を切り取った大刀が出土しており、陣営により区別していた”(注5)というのです。仮に素環頭大刀が弥生時代のものだとすれば、八幡の地域の勢力は卑弥呼側だったといえると思います。また、4世紀~5世紀の古墳に弥生時代の内行花文鏡と素環頭大刀が埋葬されているとすれば、そのことについてどう考えるか。それらは独自に手に入れたものなのか、伝世したものなのか、伝世したものであるとしても大首長やヤマト王権から配布されたのか、それはいつなのか、など興味深い点が多々あります。
 松花堂美術館で「大刀はどこで見られますか」と尋ねると、現在は所蔵していないとのことです。どこに所蔵されているのかについての最終確認はできていません。所在を市民が個人で訪問して調べたりすることの限界があります。八幡市民としては、市内出土の遺物を見学したいところですが、難しい状況です。

三角縁神獣鏡と甲冑

 東車塚古墳の副葬品の中に三角縁神獣鏡と甲冑(かっちゅう)が同時に存在するのは注目すべきことです。f0300125_9145539.jpg古墳時代前期(3世紀半ば~4世紀末)の有力古墳に共通してみられる三角縁神獣鏡の副葬は中期(5世紀)に入ると近畿を除いてほとんど見られなくなります。替わりに、中期には甲冑を含む多量の武器が河内の百舌鳥(もず)古墳群(堺市)や古市(ふるいち)古墳群(藤井寺市)を中心に出土するようになり、これらの古墳群からは三角縁神獣鏡は出土していません。三角縁神獣鏡が副葬されている古墳には甲冑は副葬されず、逆に甲冑が副葬されている古墳には三角縁神獣鏡は副葬されなくなります。ところが、東車塚古墳では古墳時代前期の三角縁神獣鏡と中期の甲冑、両方が出土しています(埋葬施設は異なりますが)。こういう古墳は珍しく、現在、近畿で7基しか見つかっていません(注6)。すべて前期から中期へ変化していく時期あるいは中期初頭、遅くとも中期中頃までの古墳です。大型古墳群は時代とともに、大和盆地東南部(3世紀半ば~4世紀半ば)→佐紀古墳群西群(4世紀半ば~5世紀半ば)→百舌鳥・古市古墳群(4世紀末~5世紀初頭)へと地域を移動します。それぞれの時期に主導権を握ったヤマト王権中枢の勢力の古墳と考えられています。大古墳群が移動するにつれ、古墳群の構成も複雑になり、副葬品も変化していきます。新時代の要請に対応する組織を作り出す勢力が主導権を握ります。東車塚古墳築造時期はまさに政権の移動の時期にあたります。東車塚古墳の勢力はそのキャスティングボートを握った勢力の一つであり(注7)、その結果、両方の威信財が埋葬されているのではないかと考えられるのです。しかし、そのことがよかったかといえばそうともいえません。八幡市域ではこれ以後古墳築造は衰退し、中期半ばの美濃山王塚古墳を最後に目立った古墳は築造されなくなります。西車塚古墳・東車塚古墳の時代は八幡における古墳時代の頂点の時期、東車塚古墳はその分岐点の古墳ともいえます。田中晋作氏はいいます。「西車塚古墳は、東車塚古墳より先に築造された古墳だが、周辺ではこれより古い古墳が現在のところ確認されておらず、また、東車塚古墳の後続古墳についても知られていない。南山城の古墳編年によると、久津川古墳群で久津川車塚古墳が築造されるころに、この地域(=八幡)の勢力が衰退する。この現象は久津川古墳群との関係によるのか、百舌鳥・古市古墳群を含めた畿内全体の動向の中でとらえるべきか、即断できないが、八幡東車塚古墳を最後に古墳の築造が停止する現象は注意しておく必要がある。」(注7)

三角縁神獣鏡の副葬状態

 東車塚古墳では前方部において「なんらこれに特殊の造構を認めざる」ところから三角縁神獣鏡が発見されました(前出)。このような状態で鏡が発見された例が他にもあります。第2回目でふれた徳島市宮谷古墳の発掘概要(『日本考古学年報42』、P541~P542』1989年)によると、三角縁神獣鏡は「3面分が第2トレンチ(前方部先端)より出土している。いずれも、本来鏡が副葬される内部主体から大きく離れており、後世の盗掘あるいは開墾などによる墳丘削平等によって原位置を移動したと思われる。」とあります。東車塚古墳の出土状況と似ているようにも思います。そのような埋葬状態から、三角縁神獣鏡はそんなに大事に扱われなかったのではないか、葬具、呪具ではなかったのか、という専門家の意見が出ています。

東車塚古墳出土の三角縁神獣鏡の銘文

 三角縁神獣鏡は「三角縁銘帯二神二獣鏡」といいます。『八幡市誌』には「尚方作二神二獣鏡」という名で載っています。次のような銘文があります。
銘文:尚方作竟佳且好 明而日月世少有 刻治今守悉皆右 長保二親宜孫子 富至三公利古市 告後世
 
(この鏡は尚方が作った鏡で立派で良い。明るく日月の世はまれだ。政治を刻み、今を守れば皆右。両親は長寿で子どもや孫に恵まれ 富貴になり出世し商売は繁盛する 後の世まで告げる。[訳:濵田] )
『尚方作竟』(竟=鏡)の「尚方」とは何か。松本清張氏は「漢の宮廷の鋳造所」といいます(注8)。森浩一氏は『考古学と古代日本』(中央公論社)の中で「『尚方作竟』の銘文も多くの三角縁神獣鏡にあるが、『尚方』とは国の官営工場のことで、漢から晋代にかけて中・左・右の三つがあり、魏では右尚方が鏡をつくっていた。」「また『尚方鏡』の銘文の中に『買此鏡者大富』(この鏡を買うものは大いに富む)とあるように、『尚方鏡』は私営工場でつくっていたことを示していて、三角縁神獣鏡の『尚方作竟』銘は尊大な虚詞」と述べています。『尚方作竟』と銘記されていても必ずしも官営工場で作られたものではない、というのです。いずれにしても、中国・魏の官営工房の銘が入った鏡が東車塚古墳から出土していることは事実です。

東車塚古墳出土三角縁神獣鏡の同笵鏡

 東車塚古墳出土三角縁神獣鏡の製作は舶載鏡C段階、260年代といわれています(注9)。同笵鏡は次の3枚が確認されています。  
 ①熊本県芦北郡出土(伝)
 ②奈良県新山(しんやま)古墳出土
 ③出土地不明(福原家所蔵)
 ①の芦北郡は八幡茶臼山古墳石棺・阿蘇溶結凝灰岩の産出地氷川(ひかわ)のすぐ南に位置します。八女市と水俣市の間にあり、八代海に面する南北に長い郡です。「鏡片」が出土したと報告されていますが、その場所の特定はできていません。他の出土品も不明です。
 ②の新山古墳は葛城地方最古・全長126mの前方後方墳です。4世紀前半の築造です。この古墳から鏡34、碧玉製管玉16、車輪石3、石釧1、金銅製帯金具24、鉄刀16、鉄剣16、鉄刀子16など数多くの遺物が出土しています。そのうち鏡は直弧文鏡(ちょっこもんきょう)3、三角縁神獣鏡9、画文帯神獣鏡3、方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)4、内行花文鏡14と貴重な鏡が多いです。

長宜子孫内行花文鏡(ちょうぎしそんないこうかもんきょう)

 東車塚古墳出土の鏡の中で、「最も貴重なる鏡として」(注3)位置づけられ、「全面黒漆色を呈せる美麗なる鏡なり。」「外区は細密精巧なる直線と円の文様により成り、四葉座紐(ちゅう)の間に長宜子孫の銘を印す。」(注2)と記されています。面径22.3cmで大型に近い中型鏡です。内行花文鏡というのは日本独特の呼び名で、鏡の弧の連続模様を花弁と見て付けられましたが、真に花弁を表したものかは疑問とされています。鏡の中には宇宙が描かれていてその宇宙の幕(連弧文はその幕である)を開けたものともいわれています(注12)。中国では連弧文鏡(れんこもんきょう)といいます。(『広辞苑』に鏡の図)
 中国・新(しん)-前漢(紀元前202~紀元8年)と後漢(25~220年)の間に15年ほど存在した国(8~23年)-の“王莽(おうもう)の時代に出現した可能性が強い”(注10)といわれています。主に後漢時代―日本では弥生時代―に作られた鏡で、「もっともオーソドックスな(=正統的な、一般に認められた)鏡」(注11)といわれています。「卑弥呼の鏡」候補の一つです。この時代、倭・中国(楽浪郡)・朝鮮半島南部の間で結構交流がありました。白石太一郎氏は「古墳副葬鏡について、二種類の機能」があり、「一つは(内行花文鏡など)司祭者の象徴として祭器とされていた鏡、もう一つは三角縁神獣鏡など呪具として葬送にともなって使われていた鏡」(注13)であるといいます。
 鏡名のはじめにある「長宜子孫」というのは「長生きし、子孫に恵まれる(子孫繁栄)する」という吉祥句(きっしょうく)で、内行花文鏡をはじめ多くの鏡に記銘されています。上に出てきた三角縁神獣鏡の銘文「長保二親宜孫子」も似たような内容です。
 内行花文鏡をはじめ、舶載鏡(=中国鏡)はまず北部九州に入ってきました。弥生時代の鏡の約300枚中200枚ぐらいが舶載鏡で、そのうち150枚ぐらいの舶載鏡が北部九州から出土しているそうです(注14)。そうだとすると、残りの舶載鏡は50枚ぐらいということになりますが、東車塚古墳の鏡は舶載鏡です。当時の倭の首長たちは「司祭者の象徴としての祭器」であるこの内行花文鏡が欲しかったようで、舶載鏡を真似た小型(5~12cm)の仿製(=倭製)鏡が多数出土しています。京都府下で内行花文鏡をみると26枚出土(注12)していますが、仿製鏡が14枚と過半数です。大きさでは小型、中型がそれぞれ12枚ずつ、大型が1枚(椿井大塚山古墳、3世紀後葉、27.7cm)です。東車塚古墳の内行花文鏡は府下2,3番の大きさです。
 福岡県(伊都国(いとこく))の平原(ひらばる)遺跡(弥生時代末期~古墳時代初期)では内行花文鏡だけでも20枚、うち巨大な(46.5cm)仿製内行花文鏡が5枚(出土40枚の鏡はすべて国宝)出土しており、当時の北九州勢力の強大さがわかります。私は福岡県・伊都国歴史博物館-ここは『魏志』倭人伝にある伊都国のあったところ-を訪問し、これらの鏡を見、その大きさと数に驚き圧倒されました。

半円方形鼉龍鏡(だりゅうきょう)

 鼉龍鏡について、梅原末治氏は「四面の古鏡中最も見る可きものなり」と書いています。「鼉龍鏡:仿製鏡(=倭鏡)の一種。だというのは、わにの一種であるといわれている。首の長い獣形が、半肉彫りに表され、その頸部に棒状のものが出ている。獣と獣の間に神像を配したものもある。山口県柳井市の茶臼山古墳から直径44.5cmの大型のものが出土している」(ブリタニカ国際百科事典)。また「鼉」は「形は蜥蝪(せきえき=トカゲ)に似るとも、龍に似るともいわれる。また横に飛ぶが、上に謄(のぼ)ることはできないともいう。その声は恐ろしくて、気を吐いて雲をつくり、雨をもたらすともいう。」(樋口隆康『古鏡』新潮社)と説明されています。しかし『日本歴史大事典』には「鼉龍とは鰐(わに)の一種をさすが、本鏡の文様とは直接の関係がない。」とあり、なぜ鼉龍鏡という名が付けられたのかはよくわかりません。
 この鏡は「独創的な図像」で「文様の精緻なことと共に古墳時代の仿製鏡の製作技術の高さを示す鏡の一つ」(『日本歴史大事典』)とされています。残念なことに東車塚古墳出土の鼉龍鏡は「現物なし」と報告されています(注15)。なお、鏡名の最初にある「半円方形」というのは鏡の内区に棒をくわえる怪獣がおり、次に半円方形帯があるのでその名が付けられています。
 次回は「石不動古墳出土の鏡について」考えてみたいと思います。 
(つづく)

(注1)『八幡遺跡地図』,八幡市教育委員会,2005
(注2)梅原末治『久津川古墳研究』, 水木十五堂, 1920
(注3)佐藤虎雄「東車塚庭園」『京都府史跡名勝天然記念物調査報告第十三冊』,京都府,1932
(注4)「古く用いられた直刀(ちょくとう)を『大刀』と表記し、平安時代以後のものを『太刀』と書く」(広辞苑)。つまり「大刀」には日本刀のような「そり」がありません。
(注5)松木武彦『人はなぜ戦うのか』,講談社選書メチエ,2001
(注6)三角縁神獣鏡と甲冑が共存する7古墳は室宮山古墳・池ノ内5号墳・円照寺墓山古墳、八幡東車塚古墳・久津川車塚古墳・芝ヶ原11号墳・和泉黄金塚古墳。(注7)のP64参照。
(注7)田中晋作『筒型銅器と政権交替』,学生社,2009
(注8)福永伸哉『三角縁神獣鏡の研究』,大阪大学出版会,2005
(注9)松本清張「三角縁神獣鏡への懐疑」『遊古疑考』,河出文庫,2007
(注10)岡村秀典「後漢鏡の編年」『国立歴史民俗博物館研究報告第55集』,1993
(注11)大塚初重『最新日本考古学用語辞典』,柏書房,1996
(注12)森岡秀人「銅鏡を作り始めた近畿弥生人の捜索」講義ノート,古代学協会,2017
(注13)西川寿勝ら「考古学と暦年代」,ミネルヴァ書房,2003
(注14)西川寿勝「三角縁神獣鏡の研究」,古代学協会佛教大学提携講座,2017
(注15)『国立歴史民俗博物館研究報告第56集』,1994 





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by y-rekitan | 2017-07-24 10:00 | Comments(0)

◆会報第79号より-03 古墳と鏡③

シリーズ「八幡の古墳と鏡」・・・③
八幡の古墳と鏡(3) 
-八幡出土の三角縁神獣鏡(2) 西車塚古墳-

濵田 博道 (会員) 


西車塚古墳とは

 今回取り上げる西車塚古墳は前回の内里古墳とは違い、以前からよく知られた古墳です。『以文會筆記』(文化年間(1804~1818)、京都文人による書)に次のような記事があります。

f0300125_10153298.jpg「おとこ山の麓を南へ河内国に行く道は右にも左にも車塚といふあり。いと平らなる畑の中に物をおきたらんやうに南は円にして広く北は方にして狭く、帝王の陵に似たればとてそのかみ、(中略)不知の異物なり。」(『京都府史蹟名勝天然記念物調査報告 第十三冊』)
 江戸時代の書物において車塚とは前方後円墳のことをいいます。“河内国へ行く道を挟んで西に西車塚古墳(後円部上に八角院[堂]のある古墳)、東に東車塚古墳(現在、後円部の一部は松花堂庭園の築山となっています。前方部は消滅。)があり、陵(みささぎ)に似ているがよくわからない”と述べています。
 『男山考古録』(1848年)巻14にも「西車塚」の項があり、かなり詳しく説明されています。「志水南山道より西にて、小山廻り(後円部)およそ半町(約60m)ばかりもあり、四手原(幣原)村へ行く道の北(中略)これは何れ名だたる人をや葬りたりけむ、未詳。」さらに『山陵志(さんりょうし)』(1808年、蒲生君平(がもうくんぺい)著)を引いて「前方後円、壇三成。溝環り、後円部の頂に葬むる場所あり」「皇后皇子若重臣の墓か」とあります。
 八幡市八幡大芝に所在し、古墳時代を通じ木津川左岸最大、全長120m、後円部径60m、三段築成の古墳です。盾型(たてがた)の周濠(しゅうごう)は現在、埋められて畑になっていますが、発掘調査の結果からも確認されています。円筒埴輪も二個確認されていて、埴輪列があったようですが現在は見当たりません。葺石(ふきいし)は「確認されていない」(『京都府史蹟勝地調査會報告書 第一冊』)、「あったと推定される」(『八幡市遺跡地図』)との見解があります。「古鏡5面、車輪石10個、石釧(いしくしろ)3個、鍬形石(くわがたいし)2個、石製品(合子(ごうす))1個、(瑪瑙(めのう))勾玉(まがたま)11個、管玉(くだたま)120個、小玉72個、木片4個、刀残片27個」が出土し、東京国立博物館に収蔵されています。(鏡は特別展の折、一度展示されましたが、常設展示とはなっていません。)
 報告書で京都大学の梅原末治氏は次のように述べています。「墳墓の構造の偉大なるより推し、またその埋蔵品の種類に考へ、当時の有力者なりは容易に知るを得べく、古鏡の年代推定にして当らむか、以て支那三国(原文のママ、中国の魏呉蜀(ぎごしょく)三国のこと、220年~280年)前後における山城文化の発達の一端をうかがうを得べき貴重なる遺跡なり。」

西車塚古墳の石室

 古墳時代前期(3世紀半ば~4世紀末)において八幡市で石室を有する古墳は茶臼山古墳と西車塚古墳の2基ありました。他の古墳は竪穴式石室の簡易型といえる粘土槨(ねんどかく)(粘土床)です。ですから、この2つの古墳は八幡市の中で格が高くかつ古い古墳といえるでしょう。とはいえ茶臼山古墳はすでに盗掘され石室も破壊された状態で副葬品もほとんど残っていませんでした。ただ石棺(近畿で最初に導入された熊本県氷川(ひかわ)の阿蘇溶結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん)製の石棺)が残されていたのは貴重でした。一方、西車塚古墳の竪穴式石室について、梅原末治氏は石室が破壊された後になって調査し、次のように述べています。「明治35年(1902年)6月18日、(八角堂)境内の土坑に際し遂に石室を掘り当て、遺物を出すに至れり。この時出土の副葬品は東京帝室博物館の所蔵に帰して調査なし得べきも、室は全く破壊され終わりて尋ぬべからず。」「塚の主体をなす石室は後円のほぼ中央にあり。東西に長く塚の主軸とは直角の方向をとれるいわゆる竪壙(たてこう)なりしがごとし。この形状の詳細は全く知る能はざる(後略)」(『京都府史蹟勝地調査會報告書 第一冊』(1919年[大正8年])
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西車塚古墳の被葬者像

 副葬品として古鏡や腕輪型石製品などを多く有していることから被葬者が祭祀を司り宗教的呪術的性格であったことがわかります。また腕輪形石製品の最高品位といわれる鍬形石2個が出土していることから高い威信をもっていること、三段築成の古墳であることからヤマト王権と関係が深かったことがうかがえます。腕輪形石製品について奈良文化財研究所『日本の考古学』(小学館)で次のように述べています。「腕輪形石製品は銅鏡と同様に、所有者の威信を高める重要な物品であった。その背景として、当時の中心的な勢力によってこれらが製作・配布されていたとする説が有力である。しかも一定の格付けがあり、鍬形石、車輪石、石釧の順で重要視されていたようである。」出土品の石製合子(ごうす)と瑪瑙製勾玉(めのうせいまがたま)は東京国立博物館発行『日本の考古ガイドブック』にも掲載されているほど見事なものです。私が東京国立博物館を訪れた時、ちょうど合子が展示されており、八幡市西車塚古墳出土との解説を見て感動したものです。これらを持ち合わせた被葬者とはどのようでしょうか。

西車塚古墳出土の鏡

 出土した5枚の鏡は3枚が舶載鏡(はくさいきょう)(=中国鏡)、2枚が仿製鏡(ぼうせいきょう)(=倭鏡)とされています。舶載鏡は盤龍鏡(ばんりゅうきょう)、三角縁神獣鏡、画文帯神獣鏡(がもんたいしんじゅうきょう)各1枚です。
f0300125_20352491.jpg画文帯神獣鏡については石不動古墳からも出土しており、次々回とりあげます。
 盤龍鏡については、『八幡市誌』に櫛歯文帯龍虎鏡(くしはもんたいりゅうこきょう)という名前で記載されていますが、これは同じ鏡のことです。大塚初重『古墳辞典』(東京堂出版)によると「(龍虎鏡は)盤龍鏡のうち主文様が龍と虎の向き合う構図のもの、後漢(25年~220年から三国期(220年~260年)にかけてのもの」と説明されています。盤龍鏡の一部として龍虎鏡が存在するわけです。そして「各種の神獣鏡や盤龍鏡をもとに試作を重ね、三角縁神獣鏡が生まれた。」(注1)とされていますので、三角縁神獣鏡の母体となった鏡の一つであるといえます。盤龍鏡という三角縁神獣鏡が生まれる前の古い鏡である後漢鏡が三角縁神獣鏡とともに副葬され出土しているのも興味深いです。西車塚古墳の盤龍鏡は舶載鏡とする見解(梅原末治氏、『八幡市誌』、山城郷土資料館『鏡と古墳』)と仿製鏡とする見解(樋口隆康『古鏡』新潮社)がありますが、ここでは舶載鏡として扱いました。

三角縁神獣鏡などの副葬状態

 西車塚古墳の石室については、八角堂境内整備の際、専門家の立ち合いがなかったようで、石室の形や様子、副葬品の位置関係などの図面などが残されないまま、壊されました。そのためどんな石室であったのか、棺(ひつぎ)の外と内に石製品や鏡がどのように副葬されていたのか、とりわけ三角縁神獣鏡はどのように副葬されていたのか、これら威信財のうち被葬者が何を最も大事にしていたのか、などわからない状態です。ただ後年、石室調査に赴いた梅原末治氏は、発掘当時石室を実見した河井うのさんの話を聞いて次のように記述し感想を述べています。
 「室の大さは竪九尺(2.7m)、横二尺(0.6m)、高さ三尺(0.9m)内外にして、壁は積むに扁平なる水成岩を以てせり。今街道より八角堂に登る石階(段)に使用する石材是なりといふ。而して内部に於ける遺物副葬の状態は室の東方に接して鏡鑑類あり、付近より石釧などの石製品を発見し、勾玉小玉管玉の類は室の南辺に点在せりと云へり。然らば以外は頭部を東にして埋葬せるものと見るべきか。」(『京都府史蹟勝地調査會報告書 第一冊』)

西車塚古墳出土の三角縁神獣鏡

 三角縁神獣鏡の正式名は「三角縁天・王・日・月・唐草文帯二神二獣鏡」といいます。二神像・二獣像の外側の四方に「天」「王」「日」「月」という文字が方形枠で一文字ずつ銘記され、その外側に帯状に唐草文が描かれているからです。(注2)「『天王日月』の銘文は三角縁神獣鏡に時々見受けられますが、中国では後漢代の二世紀第三四半期(150年~175年)ごろに作成されたと推定される画文帯同向式神獣鏡に多くみられる」(注3)ようです。『天王日月』銘の起源はそのころまで遡るということになります。「天」は天子、「日」「月」は「太陽と月であるが、陽と陰の二元となり、天子と后をさす。」(注4)とされています。が、諸説あります。また、第一回の「八幡の古墳と鏡」で“西・東車塚古墳の三角縁神獣鏡はC段階の製作だから卑弥呼の鏡ではない”(卑弥呼の時代と合致しない)と述べました。この舶載三角縁神獣鏡の製作ABCDの四段階のうちC段階について、大阪大学の福永伸哉氏は次のように説明しています。「<舶載C段階>内区(ないく)四分割、六分割タイプ共存。捩文座乳(ねじりもんざにゅう)をもつ四神四獣鏡、三神三獣鏡、二神二獣鏡、三神二獣鏡など。外周突線の出土頻度さらに低下。銘帯もみられるがごく少数派。260年代の製作か。」(注5)西車塚古墳の三角縁神獣鏡は内区四分割の二神二獣鏡です。

西車塚古墳の三角縁神獣鏡の同型鏡

 この三角縁神獣鏡と同じ大きさ・文様のものが西車塚古墳のものを含めて9枚見つかっています。9枚もの同じ鏡をどうやって造ったのか。1つの鋳型から複数の鏡を造る同笵鏡による製作法では鋳型が破損していくので5枚が限度といわれています。同笵鏡による製作法で9枚は考えにくいというわけです。そこで原鏡から鋳型を造り、その鋳型から1枚の鏡を造り(踏み返し鏡)、その鏡から多くの鋳型を造って鏡を製作するという同型鏡による製作方法が考えられています。他にも同笵・同型両方の方法を使って製作したのではないか、あるいはさらに別の製作法もあったのではともいわれており、どうやってつくったのか意見がいろいろあります。同じ大きさ・文様のものが9枚見つかったというのは三角縁神獣鏡でも最多の枚数です。どういう古墳で見つかっているか調べてみますと、

ヘボソ塚古墳鏡(兵庫県神戸市東灘区岡本町、前方後円墳、古墳時代前期)
石切神社蔵鏡(大阪府東大阪市)
佐味田宝塚古墳鏡(奈良県北葛城郡河合町、前方後円墳、4世紀末)
長法寺南原古墳鏡A鏡(京都府長岡京市、前方後方墳、4世紀後半)
長法寺南原古墳鏡B鏡(     〃      )
西車塚古墳鏡(京都府八幡市、前方後円墳、4世紀後半)
長塚古墳鏡(岐阜県可児市、前方後円墳、4世紀末~5世紀初頭)
岐阜県円満寺古墳鏡(岐阜県海津市南濃町、前方後円墳、4世紀中~後半)
愛知県東之宮古墳鏡(愛知県犬山市、前方後方墳、3世紀後半~末葉)

 近畿から東海にまで分有が広がっているのです。ヤマト王権と同盟関係を結ぶ広範なネットワークが形成されています。また、長岡京市長法寺南原古墳からはこの鏡が2枚発掘されています。それは何を意味しているか。次のように考える説があります。“中国への遣使(卑弥呼・台与(とよ)の時代、数回の遣使記録がある)ごとに三角縁神獣鏡が輸入されたとすると、それによりヤマト王権は豊富に鏡を有していた。その鏡を同盟関係を結んだ各地の豪族に配布、分有し、特に重要な地域や功労のあった豪族には複数枚配布することもあったのではないか。”と。しかし「三角縁神獣鏡は百を単位に数えるほど多量に輸入されたとはいえ限りがあったから、それを補うかたちで仿製三角縁神獣鏡が日本列島において製作された。」(注6)男山・長岡・乙訓付近は水陸交通の要衝です。ヤマト王権としてはぜひともここを押さえる必要があったと思われます。それゆえ、淀川水系の両岸の勢力と強い同盟関係を結び、その証として三角縁神獣鏡を分有したといえるでしょう。また、椿井大塚山古墳から大量の三角縁神獣鏡が出土していますが、この木津川水系は北の桂川、東の宇治川それに巨椋池、西の淀川を通じて日本各地とつながっています。さらに王権の中枢に近く最重要拠点でした。だからこそ鏡の配布を担当する最高の役を持っていたのではないでしょうか。こうしてヤマト王権は山代(やましろ)や他の各要衝の勢力と同盟関係を結び、それらを押さえ支配を強め勢力を拡大していったと考えられます。

西車塚古墳の築造時期

 西車塚古墳の三角縁神獣鏡が配布されたのは、長岡京市の長法寺南原古墳築造とそれほど離れた時代ではなく、ヤマト王権がまだ鏡を多数保有していた初期のころで、鏡が足りなくなる時代=三角縁神獣鏡の仿製鏡を造る時代、までは下らない時期といえます。とすると西車塚古墳はいつごろ築造されたのか。西車塚古墳には舶載鏡と三角縁神獣鏡ではないですが仿製鏡がともに副葬されています。両方副葬されていたとなると古墳時代前期であっても初期ではないでしょう。そういうことと出土の腕輪型石製品、埴輪の編年、当時の王権中枢の古墳の形との相似性などを調べると、西車塚古墳の築造は4世紀の後半ごろと考えられます。しかし、後述しますがこの年代はまだ確定的ではありません。

ヤマト王権とのかかわり

 八幡に古墳が築造される4世紀後半という時代は、ヤマト王権に大きな変化がおきているときです。卑弥呼の墓といわれる3世紀中葉の箸墓(はしはか)古墳からはじまって、百数十年間大和東南部(天理市・桜井市辺り)に築造され続けていた200mを超す大型前方後円墳は4世紀中葉を最後に造られなくなり、かわりに奈良市北部・曾布(そふ)(添)の地域に大型前方後円墳が築造されるようになります(7基)。大和東南部から奈良市北部の地に移動していくのです(佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群)。「なぜ移動したのか」については、(注7)の書籍が参考になります。今の平城宮跡の北側一帯、近鉄京都線・橿原線と国道24号線の間、その近辺にあります。
 葛城の地域にも大型の前方後円墳が次々と築造されます(馬見(うまみ)古墳群)。この古墳築造の時期が八幡での古墳築造の時期とピタリと重なります。奈良盆地北部は南山城とも近く、八幡の勢力とかなり関わりがあったと思われます。また、この時期は東アジア的にみれば中国の朝鮮半島出先機関だった楽浪郡(らくろうぐん)・帯方郡(たいほうぐん)が高句麗(こうくり)により滅ぼされ(313年)、高句麗の南下により朝鮮半島情勢が不安定になり、「広開土王碑(こうかいどおうひ)」(高句麗王広開土王=好太王(在位391~412年))にみられるように高句麗と百済(くだら)・新羅(しらぎ)・倭(わ)の勢力が盛んに争っていた時期でもあります。『三国史記』『日本書紀』にもその断片が記述されています。

八幡の古墳編年

 1986年に発行された『八幡市誌』の解説では、八幡での古墳築造編年(前後関係)は
茶臼山古墳→石不動古墳→西車塚古墳→東車塚古墳→ヒル塚古墳→王塚古墳

となっており、八幡の古墳築造はだいたいにおいて4世紀後半、ヒル塚と王塚古墳は5世紀前半~半ばと理解したものです。ところが、最近発行された文献をみると、4世紀後半という理解は多数としても、この古墳の編年に変化が生じています。八幡全体の古墳築造編年はまだまだ確定していないように思われます。例えば昨年(2016年)発行・発表された文献から、八幡の部分だけ抜粋してみますと次のようです。
茶臼山古墳→ヒル塚古墳→西車塚古墳→石不動古墳→東車塚古墳→王塚古墳(注8)
西車塚古墳→東車塚古墳→茶臼山古墳→石不動古墳(注9)
ヒル塚古墳→茶臼山古墳→西車塚古墳→石不動古墳→東車塚古墳→王塚古墳(注10)

 八幡で最も早くに築造されたのはどの古墳で、どういう勢力が掌握していたのか。茶臼山古墳だとすれば前方後方墳の勢力、西車塚古墳だとすれば前方後円墳の勢力、ヒル塚古墳だとすれば方墳の勢力ということになり、その勢力の基盤、格付けも変わってきます。全国の築造数は前方後円墳が約6400基に対し、前方後方墳は約500基(注11)といわれていますから、数としては前方後円墳が圧倒的に多いです。
 ちょっと古い資料ですが、1972年に発行された龍谷大学文学部考古学研究室『南山城の前方後円墳』に、男山グループの古墳の特徴がコンパクトにまとめられています。
「始原が前方後方墳であること。茶臼山古墳に引き続いて築造された古墳はいずれも100m前後の大型前方後円墳であり規模の点で南山城の最も大型の前期古墳であること、それに対し中期型の古墳はむしろ若干規模の縮小化を見ること、かつて前方後円墳ないし前方後方墳を築造してきた古墳群にあって、中期型の古墳はむしろ若干規模の縮小化を見ること、(中略)首長墓の系列のみで周辺に小規模な群集墓をもたないことなど、木津川を隔てた対岸の久津川(くつかわ)古墳群の様相と全く異り、むしろ淀川北岸の向日市古墳群に類似性が認められる。なお、首長墓が時期的に近接して築造される現象は、首長権の一系的な世襲制の未確定な様相を示すものとして注目されよう。」(『八幡市誌第一巻P133』)
 最初の古墳築造や古墳の編年をめぐっては、これからの研究を注視していく必要があります。(次回は「東車塚古墳とその三角縁神獣鏡について」考えてみます。)
 
(つづく)  


(注1)大塚初重『古墳辞典』,東京堂出版,1987
(注2)同じ天王日月と書いてあっても、方形枠内に「天王日月」とセットで描かれているもの、「天王」「日月」と2字ずつのものなどの三角縁神獣鏡があります。(小林行雄『古鏡』学生社)実際に鏡を見ると明らかに違いがわかるのですが、文字にすると似ているので注意が必要です。そこで研究者は「天王日月」セットの場合「天王日月」、「天王」「日月」の2字ずつの場合「天王・日月」、「天」「王」「日」「月」の一字ずつの場合「天・王・日・月」と区別して鏡名を表しています。
(注3)安本美典『三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡か』,廣済堂出版,1998
(注4)藤田友治『三角縁神獣鏡の謎をさぐる』,ミネルヴァ書房,1999
(注5)福永伸哉「三角縁神獣鏡と葛城の前期古墳」 『古代葛城とヤマト政権』,学生社,2003
(注6)岡村秀典「三角縁神獣鏡と伝世鏡」『古代を考える 古墳』,吉川弘文館,1988
(注7)白石太一郎「百舌鳥・古市古墳群出現前夜の畿内」『百舌鳥・古市古墳群出現前夜』近つ飛鳥博物館図録,2013
(注8)『平成28年度特別展山城の二大古墳群-乙訓古墳群と久津川古墳群』図録,京都府立山城郷土資料館、2016年10月
(注9)塚口義信『邪馬台国と初期ヤマト政権の謎をさぐる』原書房,2016年11月
(注10)岸本直文「山城の前方後円墳と古墳時代史」『文化講演会山城の王権の実像に迫る!!』,ふるさとミュージアム山城,2016年10月
(注11)大塚初重『「古墳時代」の時間』,学生社,2004


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by y-rekitan | 2017-05-20 10:00 | Comments(0)

◆会報第78号より-03 古墳と鏡②

シリーズ「八幡の古墳と鏡」・・・②
八幡の古墳と鏡(2) 
-八幡出土の三角縁神獣鏡(1) 内里古墳-

濵田 博道 (会員) 


1.三角縁神獣鏡の副葬状態とその意味

三角縁神獣鏡の副葬状態

 1953年、京都府木津川市・椿井大塚山古墳(つばいおおつかやまこふん:国史跡)で三角縁神獣鏡が大量に発見されました。しかし府から依頼を受けた京都大学の研究者たちがかけつけた時、半壊の石室にはわずかに2枚の鏡しか残っていませんでした。鏡は鏡面を石室の側壁に向けて木棺のまわりに立てかけてあったそうです。他の三角縁神獣鏡はバケツ3杯に入れられた状態で、副葬状況はわからなくなっていました。(注1)
 しかし1997年に発掘された天理市・黒塚古墳(国史跡)は未盗掘だったため、副葬の詳しい状況が明らかになりました。発見された33枚の三角縁神獣鏡は棺(ひつぎ)の外に被葬者の頭を取り囲むように立てかけられ、原則として鏡面を木棺側に向けて被葬者を守るため、逆によみがえるのを防ぐために鏡の力が使われたかのように副葬されていたとのことです。棺内の頭の傍には画文帯神獣鏡が1枚立てかけられていました。(注2)このような副葬状態から、次のような疑問が持ち上がりました。“三角縁神獣鏡が魏の皇帝から貰った大切な鏡だとすれば、棺の外に置かれているというのは変ではないか。また、卑弥呼の百枚の鏡は公の鏡で、『魏志』倭人伝には魏の皇帝は銅鏡を「ことごとく以て汝の国中の人に示・・・」と書いてあるが、その約3分の2を椿井大塚山と黒塚・2つの古墳の被葬者が持っている、そういう鏡を個人の古墳に副葬しているというのはどういうことだろうか”など。(注3)そうした中、他の未盗掘古墳の発掘からも三角縁神獣鏡の副葬状態がわかってきました。例えば、滋賀県東近江市・雪野山古墳(前方後円墳、古墳時代前期前半、国史跡)の発掘で、被葬者が葬られた仕切り板の外側と足元に計3枚の三角縁神獣鏡が副葬されていました。被葬者の頭付近に立てかけられていたのは別の鏡《仿製内行花文鏡(ぼうせいないこうかもんきょう)》でした。
副葬状態の意味するもの

 こうしたことから、“三角縁神獣鏡はあまり貴重な鏡ではなかったのではないか”、“葬具としての意味をもっていたのではないか”、“ヤマト王権が葬具用に配布した鏡ではないか”、という見解も出されました。
 しかし、すべての三角縁神獣鏡が最も大事なものとして扱われなかったかというとそうではありません。例えば島根県神原神社古墳(かんばらじんじゃこふん)(古墳時代前期)では、被葬者の頭の横に三角縁神獣鏡が置いてありました。この鏡は魏の年号、「景初三年」(239年)銘の鏡でした。また、高槻市安満宮山古墳(あまみややまこふん)(3世紀後半)から5枚の鏡が出土していますが、2グループに分けて魏の年号・青龍三年(235年)銘をもつ鏡や三角縁神獣鏡が2枚副葬されていました。1号鏡である三角縁神獣鏡は布でくるまれていました。
 これらのことから560枚近くの三角縁神獣鏡の中で、卑弥呼が貰った鏡があるとしてもそれはその中の一部、紀年鏡(中国・魏の年号などが入った鏡)などが候補ではないかという説が出されるようになりました。

2、内里古墳出土の三角縁神獣鏡

 八幡から出土した3枚(内里古墳・西車塚古墳・東車塚古墳から各1枚)の三角縁神獣鏡はどうなのでしょうか。内里古墳出土の鏡からみていきます。

内里古墳の謎

 内里古墳については、出土した「三角縁神獣鏡の副葬を考える以前の問題」があります。その名は文献に時々登場しています。――例えば、国立歴史民俗博物館『研究報告第56号』、京都大学文学部『椿井大塚山古墳と三角縁神獣鏡』、近つ飛鳥博物館図録『銅鏡百枚』、奥野正男『邪馬台国の鏡』新人物往来社、樋口隆康『三角縁神獣鏡綜鑑』新潮社、橿原考古学研究所『黒塚古墳調査概報』、藤田友治『三角縁神獣鏡その謎を解明する』ミネルヴァ書房、京都大学・橿原考古学研究所・東京新聞『大古墳展-ヤマト王権と古墳の鏡』、『サンデー毎日-卑弥呼の鏡-』(1998年3月4日号)など。しかし内里古墳は内里のどこにある(あった)のか。不思議なことに、『八幡市誌』『八幡市遺跡地図』には載っていません。『八幡市遺跡地図』には内里池南古墳というのが載っていますが、築造時期・墳形・内部構造・出土遺物・発掘状況などは明らかにされていませんので、内里古墳と内里池南古墳の関係は不明です。
 一方、内里古墳の名の出どころを調べていくと、一冊の本にたどり着きます。本の名は『梅仙居蔵日本出土漢式鏡圖集』。(注4)この本は倭鏡の収蔵家として有名な高石市の山川七左衛門氏が所蔵の鏡のうち漢式鏡22枚を写真入りで図集として出版(大正12年[1923年])、京都大学の梅原末治氏がその解説を加えたものです。その中の1枚が内里にある古墳出土の三角縁神獣鏡です。梅原氏は解説の中でこう述べています。「本鏡は山城綴喜郡有智郷村字内里の発見に係るを以て、新に一資料加えたるものと云ふ可く、鏡面に今布片の附着し、また背面に粘土及び朱の残存などあるは、同鏡の出土せる墳墓が我が古式の墓制の類例多き粘土槨なりしを推察せしめて、古墳の研究上にも注意を惹く。なほ出土の古墳は丸塚(円墳)にして其の発掘は明治二十五六年(1892~93年)の頃なりしが如し。」[原文はカナ交じり文。()内は筆者追加] “有智郷村字内里”にある(あった)はずの内里古墳ですが、現在確認ができません。ご存知の方は教えてくださるようお願いします。鏡は山川七左衛門氏が亡くなった後、山川家の手を離れ、最後に広島県の耕三寺博物館の所有となりました。博物館では常設展示をされていないので見ることはできませんが、行方不明にならなくて本当に良かったと思います。
内里古墳出土の鏡の副葬状態

 鏡の副葬状態に関しては古墳の確認もできない状態ですので「わからない」のですが、鏡が「布にくるまれて、鏡に背面の粘土と朱が残っている」ことを考えると大切な鏡として副葬されていたと思われます。

内里古墳の鏡とその同笵鏡[同型鏡]

 三角縁神獣鏡の大きな特徴としてその種類の多様性(約200種)、同笵鏡[同型鏡](同じ鋳型⦅これを笵(はん)といいます⦆または原型で造った鏡)の多さがあります。88組275枚の同笵鏡[同型鏡](注5)(1995年現在)があるといいます。内里古墳の三角縁神獣鏡は1980年代終わりころまで、「同笵鏡[同型鏡]なし」と報告されていました。f0300125_11051761.jpgところが、1989年、徳島市教育委員会が国府町の宮谷古墳(前方後円墳、全長37.5m、3世紀後半から4世紀初めの徳島県最古級の古墳、阿波史跡公園内)で三角縁神獣鏡を3枚発掘、そのうちの1枚が内里古墳の鏡と同笵鏡とわかりました。これは驚きであると同時に疑問も湧きました。なぜ、遠い徳島県の古墳で八幡市の内里古墳と同じものが出土したか、両古墳の被葬者はどういう関係にあったのかなど。
 (徳島市国府町矢野遺跡からは突線紐式袈裟襷紋銅鐸(とつせんちゅうしきけさだすきもんどうたく)[97.8cm、重要文化財]が出土。八幡市式部谷からも同式銅鐸[66cm]が出土。状況が似ていて興味深い。)

ヤマト王権とのつながり

 約10年後の1998年、さらに新たな発掘・発見がありました。f0300125_11303048.jpg大和・天理市黒塚古墳(右写真)の発掘です。この発掘は八幡にとって大変重要でした。なぜか。黒塚古墳発掘の三角縁神獣鏡33枚のうち、第1号鏡と内里古墳の鏡が同笵鏡だと判明し、大和中枢の古墳と八幡の古墳の接点が出てきたからです。同笵鏡ということは阿波・宮谷、山代・内里、大和・黒塚の3つの鏡は製作地が同じであること、本来一か所にあったものがそれぞれの地域に分配されていったということを示しています。こうして黒塚・宮谷・内里の三者がネットワークでつながりました。徳島市立考古資料館には三者-黒塚・宮谷・内里-のネットワークを示す地図のパネルが展示されています。(右写真)
f0300125_11382415.jpg『日本考古学年報42(1989年度版)』(吉川弘文館)で三宅良明氏は次のように述べています。
「(宮谷古墳の三角縁神獣鏡と)同笵鏡と思われるものに、京都府・椿井大塚山古墳の北西約12kmに位置する八幡市(旧綴喜郡有智郷村)内里古墳(円墳・粘土槨?)出土といわれる銘帯六神四獣鏡(広島県・耕三寺博物館蔵)が存在する。両者の三角縁神獣鏡を比較してみると、外区の外向鋸歯(きょしもん)文帯などで大部分が一致するが、神像の福神などの文様などに相違点が認められる。」「三角縁神獣鏡が、畿内中枢勢力(初期大和政権)が地方勢力との間に政治的関係を確立した証として分配されたという前提に立てば、宮谷古墳の被葬者ひいては3世紀末から4世紀初頭のこの地域(注6)もまた畿内を中心とする勢力あるいはその傘下の地方勢力と強く結びついたことが物的証拠によって証明されたことになる。」
 大和中枢の黒塚古墳の鏡と同笵鏡を出土する古墳は、西は九州・福岡県から東は関東の群馬県まで全国の古墳に及んでいます。(注7)黒塚古墳の被葬者がいかに多くの豪族と同盟関係を結んでいたかがわかります。その同盟関係の中の一豪族として内里古墳の被葬者もいます。黒塚古墳から出土した多くの鏡と各地の鏡が同笵鏡ということについて大阪大学の都出比呂志名誉教授は次のように言っています。「大和を中心として、大和から各地、九州から関東に至る豪族に鏡を配布していたのではないか。そのことは、大和を中心とした豪族のまとまりが、すでに3世紀後半から4世紀の初めにかけて、できあがっていたという、日本の国家の形成を考える上でも、非常に重要な意義がある」(注8)
f0300125_11552548.jpg
◆本画像には提供写真が含まれており、転載を禁じます。

内里古墳の築造時期

 ここで新たな注目点が浮かび上がります。ネットワークを形成していた三者ですが、黒塚古墳の築造は3世紀後葉、徳島・宮谷古墳は3世紀後半~4世紀初頭です。では内里古墳はいつ築造されたのか?八幡での古墳築造は4世紀後半ころから始まるとされています。茶臼山古墳、ヒル塚、西・東車塚古墳、石不動古墳の築造はいずれも4世紀後半からです。黒塚、宮谷古墳築造の3世紀後半から70~100年近くの時間ギャップをどう考えたらいいか。これは何を意味しているか。普通、築造年代は土器・埴輪・古墳の墳形・埋葬施設・副葬品などを総合して推定されます。しかし、残念なことに内里古墳は古墳自体がどこにあるのかはっきりしないため、根拠とすべきものがほとんどありません。ただ、梅原末治氏が指摘しているように鏡に“粘土が付着”していますので、“埋葬施設は粘土槨ではなかったか”と推察されます。そうだとすると「粘土槨は竪穴式石室の簡略化されたもので、四世紀半ば以降」(注9)となりますので、内里古墳はやはり黒塚、宮谷古墳よりかなり後、築造されたことになります。鏡が大和中枢から三世紀半ばに配布され、同盟関係が結ばれたとすると、伝世(でんせい)されていたのでしょうか。

内里古墳の鏡は古式の三角縁神獣鏡

 また、黒塚古墳出土の三角縁神獣鏡はすべてA・B段階のもの(240~260年ころまでに配布された三角縁神獣鏡の中でも古い鏡)と分析されていますから(注10)その同笵鏡である内里古墳の鏡も当然A・B段階のものということになります。一回目で述べたように西車塚・東車塚古墳の三角縁神獣鏡はC段階のものですから、内里古墳の鏡はそれらより古い鏡ということになります。八幡出土の三角縁神獣鏡中では一番古いと考えられるのです。(このことについてはもちろん、最終的には専門家による厳密な分析・鑑定が必要なことは言うまでもありません。)
 このように内里古墳の所在地・同笵三角縁神獣鏡の関係、大和中枢の豪族との関係、鏡の伝世など考えていくと、謎だらけで実に興味深い古墳であり、鏡であるといえます。
内里古墳鏡の銘文

 最後に内里古墳出土の三角縁神獣鏡の銘文についてみてみましょう。
 鏡名は正確には「三角縁銘帯六神四獣鏡」といいます。三角縁の内側に銘文があり、内区には6体の神像と4獣像が描かれているからです。内里古墳出土の鏡の銘文はところどころ摩滅していて全文は読めませんでしたが、黒塚古墳や宮谷古墳の鏡から、明らかになりました。次のようです。

銘文 張是作竟甚大好上神守及龍虎身有文章口銜巨古有聖人東王父渇飲飢食

(読解:『張氏が作った鏡はたいへん良い。(鏡の)上に神獣および龍虎があり、文章があり、に巨《矩(く)、さしがね。取っ手のついた直角に折れ曲がった定規。》を銜(くわ)えている。古(いにしえ)に聖人の東王父がいる。渇(かわ)けば飲み、飢えれば(棗(なつめ)を食うを省略)』
    は別ワク。君に宜しく、高(い位になる)に宜しい。)――読解は藤田友治『三角縁神獣鏡その謎を解明する』ミネルバ書房、1999
 
 京都大学名誉教授で泉屋博古館館長・橿原考古学研究所所長だった樋口隆康氏は『三角縁神獣鏡綜鑑』の中で、銘文を21種類に分析・分類しています。上の銘文はその中の一つですが、内里古墳の鏡および同笵鏡[同型鏡]は一部を省略しているようです。『三角縁神獣鏡綜鑑』には元のものと考えられる全銘文が載っています。次の通りです。
張是作竟甚大工好、上君神守及龍虎、身有宣文章口銜巨、古有聖高人東王父西王母、渇飲玉泉飢食官棗、[五男二女]長相保吉昌
 「張是」(=張氏)は製作者の名前です。鏡の製作者として陳氏とともに有名です。張氏は2派以上に分かれて製作していたといいますが、詳しいことはわかりません。このような製作者記名鏡は三角縁神獣鏡全体の一割強です。藤田友治氏は「銘文に西王母が省略されているのは発注者が男性であり、黒塚古墳の被葬者を考える一視点を提供している」と指摘しています。
 最近、銘文の韻(いん)から考えて、三角縁神獣鏡は日本国内で鋳造されたと主張する説が出されています。(注11)韻とは決まったところに繰り返す同種類の音をいいますが、韻を踏むことは詩歌を作る時の大原則であるそうです。中国で発掘される鏡の銘文にはそれがあるけれども、三角縁神獣鏡にはそれがない、だからこの鏡は韻を理解できない倭人が造ったもの、つまり日本製だというのです。しかし、卑弥呼の時代に文字を読み書きできる倭の工人がいたかとなると疑問が残ります。中国から工人が渡来してきて造ったとの説が有力ですが、証明するまでには至っていないようです。

おわりに

 いずれにしても、3世紀半ばに鋳造された鏡がヤマト王権から八幡の豪族に配布されていたこと、いつ配布されたかははっきりしないけれどそのころ八幡には鏡を配布される有力豪族がいたこと、その豪族を支える集落があったと考えられること、ヤマト王権から配布・分与される豪族のネットワークが各地に出来上がっていたこと、などは疑いないでしょう。八幡では、2世紀には66cmもの優美な銅鐸を持つ勢力がいました。京都府全体の出土銅鐸について調べてみると、この近畿式突線紐式銅鐸(とっせんちゅうしきどうたく)(注12)は京都府内では丹後・与謝野町比丘尼(びくに)城出土銅鐸(重要文化財)、舞鶴市と八幡市(式部谷)のもの、計3個を確認することができました。つまり“2世紀には少なくとも丹後・舞鶴・八幡に有力な勢力があった”といえるのではないでしょうか。(もちろんこの他にも山科の中臣遺跡などにみられるように有力な勢力はいたことは言うまでもありません。)そして4世紀末頃には天皇に意見をしていた内里の豪族(ごうぞく)甘美内宿禰(うましうちのすくね)(注13)(『日本書紀』応神9年4月条)がいました。(伝承記事になりますが・・・。)こう考えてくると昔の八幡をもっと知りたくなってきますね。
 次回は「西車塚古墳・東車塚古墳の三角縁神獣鏡について」考えてみます。 
(つづく) --

(注1)樋口隆康『シルクロードから黒塚古墳まで』、学生社、1999
(注2)図録『卑弥呼』弥生文化博物館、2015
橿原考古学研究所『黒塚古墳調査概報』学生社、1999
(注3)石野博信ら『三角縁神獣鏡・邪馬台国・倭国』新泉社、2006
(注4)『八幡遺跡地図』には「王塚古墳の文献」の一つとして『梅仙居』が載っています。
(注5)同笵鏡と同型鏡はその製法において違いがあり、同じ形・大きさ・文様の鏡でもそれを同笵鏡と考えるか同型鏡と考えるか研究者によって違います。ここでは同笵鏡[同型鏡]を単に同笵鏡と記すことにします。
(注6)徳島市国府町辺り
(注7)三角縁神獣鏡同笵鏡[同型鏡]分有図(分布図)は次の本に掲載されています。
白石太一郎ら『纏向発見と邪馬台国の全貌』、KADAKAWA、2016、P227
京都大学ら『大古墳展』、2000、P85
藤田友治『三角縁神獣鏡-その謎を解明する』、ミネルヴァ書房、1999、P322
(注8)NHK取材班「鏡が映す古代大和政権/黒塚古墳と三角縁神獣鏡」『堂々日本史第23巻』、KTC出版、1999
(注9)奈良文化財研究所『日本の考古学』小学館、2005
(注10)福永伸哉『三角縁神獣鏡の研究』大阪大学出版会、2005
(注11)森博達「毎日新聞2000年9月12日」付け
島根県神原神社古墳(かんばらじんじゃこふん)出土の鏡の銘文についての記事から
(注12)突線紐式銅鐸は1式~5式に区分されており、八幡・式部谷出土の突線紐式銅鐸は「3式」です。『豊饒をもたらす響き 銅鐸』弥生文化博物館、2011では「3式は紀元2世紀」という年代観を示しています。
(注13)八幡市・内神社の祭神。『古事記』では「味師内宿禰(うましうちのすくね) 《こは、山代の内の臣が祖ぞ》」と記述されています。武内宿禰(たけうちのすくね)とは異母兄弟にあたります。


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by y-rekitan | 2017-03-22 10:00 | Comments(0)

◆会報第77号より-03 古墳と鏡①

シリーズ八幡の古墳と鏡・・・①
八幡の古墳と鏡(1) 

濵田 博道 (会員) 


はじめに

 鏡は「古来、呪術的なものとして重視され、祭器や権威の象徴・財宝」(『広辞苑』)とされました。近畿では特に3世紀初めから5世紀初めにかけて築造された多くの古墳や墳墓に副葬されています。(もちろんこの時代以外の古墳や墓にも副葬されていますが。)
 八幡市のいくつかの古墳でも30枚ほどの鏡が出土しています。(下表参照)
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 この八幡市内の古墳から出土した鏡が以前、博物館の展示会でとりあげられたことがありました。1995年(平成7年)、大阪府立近つ飛鳥博物館で『鏡の時代-銅鏡百枚』(銅鏡百枚というのは『魏志』倭人伝記事中の、卑弥呼が239年に魏の皇帝から下賜された百枚の鏡のことです)の特別展があったとき、図録中「三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)出土地一覧表」(241古墳)に八幡市の3つの古墳名が載っていました。すなわち西車塚古墳、東車塚古墳、内里古墳がそれです。(注1)
 三角縁神獣鏡という名前は鏡の裏面に神仙思想を表す神獣が描かれ、その縁の断面形が盛り上がり三角形の形をしていることから付けられています。面径が21~25cmぐらいの大型鏡です。当時三角縁神獣鏡は、卑弥呼が貰った鏡の最有力候補でした。
 また一昨年(2015年)春、大阪府立弥生文化博物館(和泉市)で「卑弥呼」の特別展が開催されたとき、八幡石不動古墳出土の鏡が「新たな卑弥呼の鏡の候補か」として展示されました。
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この鏡は普段京都大学総合博物館に所蔵されていてめったに見ることができない鏡であり、さらに「新しい卑弥呼の鏡の候補か」とまで解説され、パンフレットに載っていましたので驚きでした。(この鏡は2016年10月15日から12月4日まで京都府立山城郷土資料館で開催された特別展「山城の二大古墳群-乙訓古墳群と久津川古墳群-」でも展示されました)これら卑弥呼の鏡との関係が“うわさ”される八幡市内古墳出土のいくつかの鏡について、今回考えてみます。

1、三角縁神獣鏡と卑弥呼の鏡

 まず、三角縁神獣鏡がなぜ卑弥呼の鏡と言われるようになったのか、その経過を簡単に振り返ってみます。
 『魏志』倭人伝に、魏の皇帝から卑弥呼に下賜された百枚の銅鏡について書かれています。その鏡の研究を通して日本の古代国家のはじまりの過程や地域間交流、東アジアの中での日本の国家形成の位置づけ、鏡は国家形成過程の中でどのようにして生まれ発展していくか、など明らかになっていくのではないかと考えられました。その鏡が日本のどこかに残っているはずだとして、探す研究・努力が1920年台(大正時代)から続けられてきました。1953年、有力な手がかりが京都府木津川市の椿井大塚山古墳(つばいおおつかやまこふん)でみつかりました。この古墳は3世紀末頃に築造された全長175mの前方後円墳ですが、後円部をJR奈良線が横切っています。その線路拡幅工事の際、偶然古墳の石室が発見され、36枚以上もの鏡と武具が出土しました。32枚以上を占める三角縁神獣鏡の分析もされ、この鏡が各地の古墳に同笵鏡(どうはんきょう・同じ鋳型で鋳造した鏡)として副葬され、多数存在することから次のような解釈がされました。邪馬台国時代に卑弥呼が貰った鏡を次の王権が引き継ぎ、それを各豪族に配布、分有し、伝世、同盟の証しとしたのではないか、と。その説が今日でも有力です。また、その前後から各地で魏の年号が記名された三角縁神獣鏡が次々と発掘されました。最近では1997年、ヤマト王権発祥の地・大和東南部・天理市の黒塚古墳から33枚もの三角縁神獣鏡が発掘され、世間を驚かせました。2009年には桜井市の桜井茶臼山古墳で再発掘が行われ、新たに81枚の鏡片、そのうち三角縁神獣鏡の鏡片が26枚見つかりました。3世紀後半から4世紀初め、大和中央の古墳で大量の三角縁神獣鏡が次々と発見されたのです。三角縁神獣鏡はその他にも、日本国内の各地で発見されており、現在560枚ほどになっています。(注2)
 一方、三角縁神獣鏡は肝心の中国からは一枚も出土していない(一昨年、一枚確認されたという報道がありました。)だから卑弥呼が貰った鏡とはいえない、また魏の皇帝から百枚しかもらっていない鏡が五百枚を超えて出土するのはおかしい、三角縁神獣鏡は倭(日本)で造ったのではないか、という反対の意見が出ました。ですが、その後の研究で魏の鏡製造の特徴が三角縁神獣鏡にあること、魔(ま)鏡(きょう)の性質(鏡に光をあてると裏面の神獣の姿が壁などに映し出されること)などの発見もありました。
 この560枚の三角縁神獣鏡の製作地については、現在も研究者の意見は大きく2つに分かれています。
 中国鏡説 
A、最初、三角縁神獣鏡は中国の魏・徐州(じょしゅう)で造られ(魏鏡説)、楽浪郡を経由してもたらされ、その後、日本(倭)で造られたものもある。(楽浪郡で鋳造されたとの説もあります)
B、すべて中国で造られたものだ
 
 倭鏡説
すべて日本で造られたものだ。(中国の工人が日本に来て造った)
  
 鏡の鋳型などが発見されれば、有力な証拠になりますが、鋳型が土製で、それを壊して鏡を取り出すので残存の可能性は少なく、まだどこからも発見されておらず決着はついていません。

2、銅鏡百枚研究の新しい説

 銅鏡百枚について最近次のような見解が出されています。
 “従来『魏志』倭人伝に出てくる卑弥呼が貰った「銅鏡百面(枚)」は、三角縁神獣鏡であろうといわれていました。こういう考え方がかってはほぼ定説化していました。が、その後、とくに日本でここ30年ぐらいの間に三角縁神獣鏡の研究が飛躍的に進んでき、その結果、240年に卑弥呼の使いが貰って帰ってきた鏡に、三角縁神獣鏡が仮に含まれていたとしても、それはごくわずかであって、ほとんどはそれ以前の鏡であること。少なくとも卑弥呼が貰った「銅鏡百面(枚)」の大部分は三角縁神獣鏡ではないだろう。”(白石太一郎ら『纏向発見と邪馬台国の全貌-卑弥呼と三角縁神獣鏡』ADOKAW,2016から一部抜粋要約)
 今まで卑弥呼の鏡と言われてきた三角縁神獣鏡の大部分は卑弥呼が貰った鏡ではない、これは衝撃的です。なぜ、そう考えられるようになったのか。その理由の一つは、三角縁神獣鏡の古墳での副葬状態にありました。が、このことについては次回触れたいと思います。二つ目の理由は、三角縁神獣鏡そのものの研究が進んだことです。その横断面などの形やレーザー計測での詳しい分析などから編年がだんだんわかってきました。三角縁神獣鏡の鋳造が240年前後から50~60年間ぐらい続いたとして、古さの順にA・B・C・Dのだいたい4段階ぐらいに分けられるらしいのです。(5段階など、他の説もありますが。)このうち卑弥呼が貰ったと考えられる三角縁神獣鏡は最古のA段階ということになります。
 では八幡市内出土の三角縁神獣鏡はどう位置づけられるのでしょうか。西車塚古墳、東車塚古墳出土の三角縁神獣鏡はC段階。265年~300年ごろ鋳造された舶載鏡(=中国鏡)ではないかとされています。(注3)ですから、年代からいって卑弥呼が貰った鏡ではない、ということになります。内里古墳の鏡も舶載鏡です。しかし、卑弥呼の鏡の可能性が弱まったことが、即、八幡出土の三角縁神獣鏡の意義が弱まったことにはなりません。八幡出土の三角縁神獣鏡には銘文が刻まれたり、中国官営の工房名が入っている鏡もあります。長岡京市や奈良・葛城地域の古墳出土鏡などと同笵の鏡もあります。どうやって鏡を手に入れたか、同じ鏡を所持した勢力はどういう関係だったのか、など謎が深まります。さらに、石不動古墳から出土した鏡を含めて「新たな卑弥呼の鏡候補」とされる鏡もあります。なぜそういえるのか。鏡の研究は進行形で、専門家でもはっきりしたことはあまり言えないでしょうが、ちらほら研究報告が出てきました。私たちアマチュアも関心を持っていきたいです。

3、八幡の鏡を学ぶ

 このように八幡の古墳から出土したのはどんな鏡か、興味あるところです。しかし、出土した鏡数、鏡名、所蔵場所、観察場所・方法などわからないことが多いのです。今回調べる中で、少しわかってきました。国立歴史民俗博物館研究報告第56号(1994年)によると、例えば八幡市の美濃山王塚古墳から出土したとされる十数枚の鏡は写真は残っていますが、すべて「現物無し」と報告されています。また、所在がはっきりしている八幡の鏡も東京・広島・京都・奈良など全国各地の博物館に所蔵されており、研究中などのため、常設展示されていません。特別展などがあって展示される場合は見学可能でしょうが、それがいつになるかはわからないのです。鏡に興味があっても、市民が見るにはそういう困難さもあります。私は八幡出土の30枚ほどの鏡のうち、1枚だけ見ることができましたが、これからも主に書籍をもとに少しずつ調べていくことになります。次回は「八幡出土の三角縁神獣鏡-おもに内里古墳の三角縁神獣鏡について」考えます。
(つづく) 空白


(注1) 八幡市の古墳については、歴探会報NO13 大洞真白「八幡の古墳とその特徴を学ぶ!」を参照してください。
(注2) 安本美典『卑弥呼の墓・宮殿を捏造するな!』勉誠出版,2011,P110より
(注3) 田中晋作『筒型銅器と政権交代』学生社,2009,P93~P98

【参考文献】
 大塚初重『卑弥呼の鏡 謎と真実』青春出版社,1998
 『鏡の時代-銅鏡百枚-』大阪府立近つ飛鳥博物館,1995
 『卑弥呼-女王創出の現象学-』大阪府立弥生文化博物館,2015


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by y-rekitan | 2017-01-20 10:00 | Comments(0)

◆会報第76号より-02 八幡の古道

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《講 演 会》
八幡の古代遺跡と道
-古山陽道と古山陰道-
2016年10月 八幡市文化センターにて
 引原 茂治
(公益財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センター調査課)


 10月16日(日)午後l時半より、八幡市文化センター第3会議室にて表題の講演が行われました。概要を報告します。
 なお今回の概要は、講演会で配付された講演資料を編集担当が画像の挿入やルビをれ、講師の引原茂治氏の同意のもとに掲載するものです。参加者33名。

1、はじめに

 道の整備は、いつの時代にも必要な事業でした。その道によって、人や物、情報が行き交いました。日本では、7世紀中頃から8世紀にかけて、中国の政治体制である律令制を取り入れ、中央集権的な国家となりました。戸籍を作って国民個人を掌握し、税を徴収するなどの業務を円滑に行うため、地方行政機関を整備するとともに、それらをむすぶ官道の整備が必要になりました。f0300125_20272213.jpg 国内は、都が所在する畿内を中心に東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道の七道に区分され、都と地方を結ぶ官道が敷設されました。官道は、物資や情報・命令ができるだけ早く伝わるよう、最短距離になるように敷設されました。距離を縮める工夫として、できる限り直線的に計画されました。
 南山城地域には、古代の官道跡と考えられる道路遺構が確認されている遺跡があります。城陽市の芝山遺跡と八幡市の内里八丁遺跡です。
 芝山遺跡は、木津川によって形成された河岸段丘上に、内里八丁遺跡は木津川の沖積平地に位置しています。なお、官道は、起点が都であるため、都が移れば、官道でなくなることもあります。南山城に推定されている官道も、都が平城京から長岡京・平安京へと移転するにつれて官道ではなくなったと考えられますが、それでも主要な道路として機能していたものとみられます。また、官道以外にも、古代の道路遺構とみられるものが確認された遺跡がありますので、それも併せて紹介したいとおもいます。

2、古代道路が見つかった遺跡

(1)芝山遺跡
 城陽市寺田から富野にかけて広がる遺跡です。古墳時代から奈良時代にわたる複合遺跡です。この遺跡では、南東から北西に並行して延びる奈良時代の溝が3条見つかっており、官道の北陸・東山道の側溝と考えられています。溝と溝の間は12mと9.7mで、他地域で確認されている初期と改修時の東山道の道幅と一致するようです。
 この推定北陸・東山道の西側に隣接して、奈良時代前半頃の掘立柱建物群が見つかっています。東西棟の3間×7間の建物が中心建物とみられ、その周囲に大型の掘立柱建物が正方位に沿って整然と配されています。その中には、倉とみられる総柱建物もあります。このような建物群は、一般集落のものとは考えられず、官衙(かんが)的な性格を持つものと考えられます。出土遺物も、瓦や磚(せん)・土馬(どば)・斎串((いぐし)など、一般集落とは様相のちがう遺物が出土しています。
 この建物群の性格については、久世郡衙や駅屋など、様々に考えられています。道路遺構に近接しており、官道と係わりの深い官衙遺跡とみられます。これまでの調査範囲は、遺跡全体からみれば部分的であり、今後の調査で、その性格を物語る資料が見つかる可能性が考えられます。

(2)上狛北遺跡
 木津川市山城町に位置します。この遺跡では、正方位に沿って南北に延びる溝が約100mにわたって見つかっています。調査地の制約上、対となる溝が見つかっていないので、道路遺構と断定はできませんが、北側の里道の延長部分にあたるので、道路遺構の可能性が考えられます。この遺跡では、墨書土器や木簡などが出土しており、官衙的な施設があったと考えられます。

(3)森垣内遺跡
 相楽郡精華町に位置します。ほぼ南北方向に延びる側溝と考えられる溝が2条見つかっています。2条の溝の間隔は4.8mであり、官道ではないものとみられます。

(4)三山木遺跡
 京田辺市三山木に位置します。ややハの字状ではありますが、北西から南東方向に延びる2条の溝が見つかりました。奈良時代の溝と考えられます。間隔は6~8mです。官道の山陰・山陽道を踏襲すると言われる府道八幡木津線の方向に近く、官道の方向に沿った地割の溝の可能性もあります。

3、内里八丁遺跡

 八幡市内里にあります。弥生時代から中世にかけての複合遺跡です。弥生時代の水田跡が見つかったり、古墳時代の竪穴建物や古代の掘立柱建物跡や井戸などが見つかったりして、注目されている遺跡です。
 奈良時代の遺構として注目されるのは、道路側溝と考えられる溝です。奈良時代末頃に設けられた溝で、2条の溝が北西から南東方向に延びています。2条の溝の間隔は12mで、芝山遺跡で見つかった北陸・東山道の側溝と考えられる溝と、ほぼ同様です。9世紀中頃には幅員が5~6mに縮小され、10世紀頃まで存続していたようです。歴史地理学者の足利健亮氏が復元された山陰・山陽道の推定路線付近に位置することも重要な点です。
 平成15年度に行った第20次調査では、奈良時代から平安時代初期の、倉と考えられる掘立柱建物や井籠組の井戸が見つかっています。f0300125_20442568.jpg掘立柱建物は3間×3間の総柱建物で、柱穴は方形で、一辺0.6~1mと大きく、柱は直径0.4m前後とみられます。しっかりした建物と考えられます。井戸は角材に近い板材を井桁状に組み上げたもので、その内部に細い板材をホゾで桶状に組んだ内枠を設けています。宮殿や上級の役所などに設けられる例が多い井戸です。一般集落では設けられることは無いようです。この井戸からは、銅製黒漆塗の帯金具や「水」と書かれた墨書土器、皇朝銭の「承和昌寳(じょうわしょうほう)」(835年初鋳)などが出土しました。
f0300125_2053197.jpg
井戸枠材には、その位置と組み立て順を墨書したものがあります。また、付近の調査地では瓦も出土しています。このような状況から、奈良時代から平安時代初期頃の内里八丁遺跡は、一般集落とは様子が異なることがうかがえます。この遺跡の性格を考える資料となるのが、絞胎陶枕(こうたいとうちん)です。

4、内里八丁遺跡出土の絞胎陶枕

 絞胎は、唐三彩(とうさんさい)と同じく、中国唐時代につくられた焼物で、鉛釉を施した軟質陶器です。白色土と赤褐色土を練り合わせて縞状の模様を表しています。出土した絞胎陶枕は、練り合わせた陶土の塊を板状に切ったものを貼り合わせて箱状に成形しています。外面には黄色味を帯びた透明釉を施しています。内面は無釉です。器壁の厚さは4~5㎜です。小片ですが貼り合わせの痕跡が見られ、その状況から陶枕の側板及び天板の一部とみられます。f0300125_2059990.jpg 出土した遺構は、土師器(はじき)や須恵器((すえき)が多数出土しましたが、破損品が多く、一種の廃棄土坑、いわゆるゴミ捨て穴と考えられます。これらの土器は、古いものでは7世紀頃のものも含みますが、多いのは、8世紀中期頃のものです。この土坑から出土した土器は、その頃に捨てられたものとみられます。
 絞胎陶や唐三彩などの中国唐代に生産された鉛釉(なまりゆう)軟質陶器は、日本の各地から出土していますが、量的にはあまり多くありません。そのような中で、奈良市の史跡大安寺跡からは、三彩や絞胎の陶枕片が多数出土しており、量的には群を抜きます。日本で唐三彩や絞胎陶が出土する遺跡は、古墳、都城跡、寺院跡および宗教関連遺跡、官衙および官衙関連の集落跡などです。一般的な集落跡などからの出土例はほとんどありません。全国的にみて、都城跡や官衙および官衙関連の遺跡から出土する傾向がみられます。

5、奈良時代から平安時代初期の内里八丁遺跡の性格

 内里八丁遺跡の付近に式内社の「奈良御園神社」があります。その周辺に広がる上奈良遺跡は、「延喜式」巻三十九内膳司の条に記載されている「奈良園」の候補地とみられており、則天文字が書かれた墨書土器などが出土しています。園は、天皇家の食材などを生産する国営農場です。内里八丁遺跡の総柱の掘立柱建物や井籠組井戸などは、かなり上級の官衙に伴う可能性が考えられます。園には、それを管理する役所が設けられていたと考えられます。上記の遺構は、まさに宮廷に直結する上級官衙にふさわしいものと言えましょう。具体的に、奈良園に関連する遺物は出土していないので、断定はできませんが、可能性としては充分考えられます。また、この遺跡が、官道の山陰・山陽道と推定される遺構の付近に位置することも重要です。この道は、天皇家の食材をも運ぶ道であったとも考えられます。
6、まとめ

 南山城地域は、南から北に向かって流れる木津川を挟んで東西に分かれています。f0300125_2184174.jpg東側には、平城京から芝山遺跡・久世郡衙と推定される正道遺跡・宇治橋・山科へ至る北陸・東山道が想定されています。西側にはおなじく平城京を起点として山本駅推定地の二股・三山木遺跡・内里八丁遺跡・山崎橋に至る山陰・山陽道が想定されています。
 これらの道路推定地に沿って、今回紹介した遺跡が点在しています。それぞれ、官衙的な遺構・遺物が確認されています。木津川の水運とともに、官道や官衙が円滑な物流に利用され、古代国家の運営に大きく貢献していたものと考えられます。

『一口感想』より
 巾6m以上もの直線道路を整備し、さらに道路を横断する埋没管を施設するなど当時の大胆な計画と土木技術には改めて感心させられました。古代ローマのアッピア街道のように、物流だけでなく軍事行動を迅速に展開できるようにするために建設されたのだと思う。 (中井智久)
 一般の遺跡とは違って埋蔵物が少ない古道は発掘例が少ないと聞いていましたが、芝山遺跡や内里八丁遺跡等の平城京からの官道発掘成果は注目すべきと思います。
 講演では内里八丁遺跡の道路遺構は、古山陰・山陽道と説明されましたが、現在活動中の「八幡の歴史を探究する会」の専門部会『八幡の道探究部会』では、文献や地域研究家に聞き込み調査及び現地確認等により京田辺市大住三野の関屋橋付近で平城京からの古山陰・山陽併用道が分岐し、内里八丁遺跡は古山陰道と推定しています。これからも八幡地域の古道について調査探究を継続する予定ですので、引き続き宜しくお願い致します。 (高田昌史)


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by y-rekitan | 2016-11-20 11:00 | Comments(0)

◆会報第73号より-03 五輪塔④

シリーズ「五輪塔あれこれ」・・・④
いつできたのか

野間口 秀國 (会員) 

 「・・鎌倉時代の武士の霊を慰めるために建立された武者塚・・」と現地の解説板には書かれておりますので、本章では石清水五輪塔を墓(墓碑・墓石・墓標)として扱い、その造立が「いつ/When」なのかの観点から考えてみたいと思います。平成25年9月に大阪府立近つ飛鳥博物館にて開催された「中世の墓地と石塔」(*1)と題する講演を聴講しました。帰りに聖徳太子の墓所とされる叡福寺北古墳(磯長墓・しながぼ)のある太子町の叡福寺を訪れ、近くの墓地では一般的な墓碑と共に多くの一石五輪塔を見ることができました。講演で学んだ内容などを含めて、大まかではありますが墓を時代に沿って見てみたいと思います。

 墓の歴史を考える時に先ず思いついたのはエジプトのピラミッドです。ピラミッドについて学んだ訳ではありませんので、「ピラミッドが墓である」ことを書いたものは無いかと探しました。何冊目かに、とある書店で『ピラミッドの歴史』(*2)に出合いました。同書では、無論「ピラミッドは墓ではない」と考える人々がおられることも記されてありますが、エピローグに書かれた「ピラミッドは墓である」との著者の一文を読んで意を強くしました。また「・・エジプト最初のピラミッドであるサッカラのネチュリケト王の階段ピラミッド・・(略)」とあり、有名なクフ王のピラミッドも同じく古王国時代(紀元前2500年頃)であることを知りました。一方、アジア地域において注目すべき大規模な墳墓の1つは、隣国・中国西安市にある秦(紀元前770~紀元前206年)の初代皇帝の墓である秦始皇帝陵でしょう。墓の周りの地下からは土で作られた夥しい数の兵士や馬などが発見され日本国内でも大きく報道されたことはすでにご承知の通りです。

 このようにエジプトのピラミッドや中国の秦始皇帝陵と同時代(旧石器文化から弥生文化の時代か)に日本ではこれらに相当する規模の墓や陵は無く、それは数世紀を下った古墳時代(4~6世紀頃)を待たねばなりません。その墓は現在では世界三大墳墓の1つとも呼ばれる、堺市の百舌鳥古墳群にある全長486mを測る仁徳天皇陵古墳です(*3)。f0300125_9525976.jpg地元の人々には大仙古墳とも呼ばれるこの古墳の世界遺産登録への取り組みは既に進められており、「百舌鳥・古市古墳群は、大阪府、堺市、羽曳野市、藤井寺市の4者で世界文化遺産登録をめざして取り組んでおり、平成30年の登録をめざしております。」(2016年3月現在)と堺市・文化観光局・世界文化遺産推進室より教えていただきました。同市博物館から徒歩わずかのところにある古墳を、それに沿って一周するとその規模を実感できます。京都新聞掲載の安部龍太郎氏の現代のことば『ピラミッド型古墳』は墳墓の歴史をより身近に感じさせてくれました(*4)。

 さて、前述の三大墳墓と比較しながら、私達が盆暮れやお彼岸、また命日などで訪れて掌を合わせる現代の墓を思い浮かべてみたいと思います。今日多くの墓で見られる墓碑(石碑型墓標)は200年から300年前(江戸時代中期から後期)頃から一般化したと言われていますので、ピラミッドの時代から思えばつい最近の新しい形と言えるのではないでしょうか。先述の講演で学んだことから五輪塔を含めた墳墓の歴史的な変遷を考えると、世界三大墳墓の時代から現在まで、極めて大まかではありますが以下のように整理できるようです(*1)。
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 このように、石清水五輪塔を墳墓史の一コマとしてとらえて、その形や大きさ、また造立の時代背景などを考えることはとても興味深いことであると思えます。日本では古墳時代後期(6世紀初~中頃)、大化2年(646年)の大化の改新において大型墳墓の増加を抑制するために薄葬令が規定されました。また多くの古墳では追葬が行われたり、墳墓の規模も小型化に向かったりしてしだいに大型古墳の時代が終わりを告げます。その後、飛鳥、白鳳、奈良と時代が下るにつれ墓の様子も変わります。

 特に奈良時代に入ると火葬の導入によって墳墓の規模はさらに小さくなりました。続く平安時代になると墓(または陵)と寺社が近づいてきて、天皇陵や領主の墓と寺院を一体にした墳墓堂の形が現れてきます。その代表的なものが東北地方・平泉の中尊寺金色堂(1124年建立)であると言われていますが、藤原三代を祀るこの堂は武士社会初期を代表する墓の一形態とも言えるのではないでしょうか。石清水五輪塔の造立は鎌倉時代中期とも言われておりますので平泉の中尊寺金色堂よりもう少し時代を下ってからとなるようです。f0300125_9574798.jpg 
 鎌倉時代中期に大規模五輪塔の造立を可能にした理由の一つは、政治的・宗教的に強力な影響力を有する人物の出現とその資金調達力であると考えます。また、今一つは使用される石材の調達や加工を可能にした技術の確立、すなわち今に残るような五輪塔を形にできる人材(または集団)が存在したからと考えます。次章では「いつできたのか」の更なる疑問と、自ら足を運んだ今も残る五輪塔の風景についてもう少し書いてみたいと思います。
 本章の最後に資料や情報提供いただきました堺市・文化観光局・世界文化遺産推進室のご担当者、同市博物館にてご説明いただきましたご担当者に紙面をお借りして感謝申し上げます。

参考図書・史料・資料等:

(*1)平成25年9月1日、大阪府立近つ飛鳥博物館にて元興寺文化財研究所・狭川真一氏による講演 「中世の墓地と石塔」 の配布資料
(*2) 『ピラミッドの歴史』 大城道則著 河出書房新社刊
(*3)『古墳のなぜ?なに?』 百舌鳥古墳群ガイドブック・堺市博物館刊
(*4)平成27年2月3日の京都新聞、安部龍太郎氏の「現代のことば」
(*5)平成26(2014)年8月 百舌鳥・古市古墳群世界文化遺産登録推進会議のパンフレットによる
(*6)石清水八幡宮境内全図(八幡四境図)「山上山下北側部分」 石清水八幡宮蔵
他:『世界文化史年表』 芸心社刊、『日本史年表・地図』 吉川弘文館刊


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by y-rekitan | 2016-05-30 10:00 | Comments(0)

◆会報第72号より-02 山上伽藍

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《歴探ウォーク》
石清水八幡宮 山上伽藍の探訪


2016年3月 石清水八幡宮山上 にて
小森 俊寛 (有)京都平安文化財

 3月13日(日)、石清水八幡宮研修センターにて表記のタイトルで講演と山上の歴史探訪ウォークが開催されました。
 レジュメに沿ってその概略を紹介します。参加者52名。

(1)はじめに

 石清水八幡宮は、平安時代前期の貞観元年(859)に男山山上に鎮座されて以来、石清水八幡宮寺と称され発展してきた。男山の山上には、神社の祠や仏教的な堂塔が次々に建設され、平安時代後期頃には神仏習合の「山上伽藍(がらん)」が完成する。また平安時代後期から中世にかけては、伽藍の発展に伴うように、男山の東斜面にはのちに男山四十八坊と称される小寺院群が形成され、山下の頓宮(とんぐう)や極楽寺なども加えて、山上山下には寺と神社が一体化した独特の歴史的景観が成立する。明治時代初頭における神仏分離令の発布と、それに伴う廃仏毀釈運動によって、これらの伽藍のうち仏教施設であった堂塔が破却され、建物部分は全て姿を消すこととなった。これらの痕跡は、大塔(だいとう)跡、護国寺(ごこくじ)跡、瀧本坊跡の発掘調査で明らかになったように、地下の遺構として極めてよく残っていると推測されるが、地下だけでなく、目を凝らしてみると地上にも、石垣や平坦面(テラス)、あるいは柱の基礎である礎石として、石清水八幡宮境内の随所に失われた伽藍の痕跡が残っている。
 今日は「伽藍」の理解からはじめ、石清水八幡宮寺だけに特徴的に見られた神仏習合の山上伽藍の意味を考えていき、現場にたってイメージを深めたい。

(2)伽藍配置について

 伽藍配置とは、堂塔部、即ち塔・金堂・講堂・経蔵・鐘楼・回廊・大門・中門など寺院の中心を形成する堂舎の配置を指すと記されている(『日本考古学辞典』)。朝鮮半島や日本列島では、堂舎が左右対称性を有することや、一直線上に並ぶなどの配列が認められ、定形化したものが確認されている。
 寺とは「仏像を安置し、僧尼が居住し、道を修し、教法を説く殿舎」(『広辞苑』第二版)とされ、日本では古代以来現代に至るまで仏像を拝むことが重んじられる場であると認識されていたと理解される。
 インドにおける仏教の初期段階では、僧が修行する伽藍の中心はストゥーパ(仏塔)であった。それが中国大陸、朝鮮半島、日本列島へと伝わっていく過程で、伽藍の中心は塔から、仏像を安置した金堂へと変化し、金堂は後代には本堂と称される如く寺の中心施設となっていく。

(3)石清水「八幡造」と山上伽藍
 (『石清水八幡宮境内発掘調査報告書』より抜粋)

 本殿は「八幡造」で、本格的なものは4例ともされる遺存例の少ない形式の神社建築とされている。f0300125_1011322.jpg八幡造の始まりは宇佐神宮にあり、八幡三所大神と称される三神を並置して祀るという基本要素は石清水も宇佐と共通している。しかし、宇佐神宮では6宇3殿とされ、それぞれの大神の内院・外院の2屋根からなる独立した3殿が並ぶ分割型であるが、石清水は6宇宝殿とされる長大な前後2屋根からなっており、3殿が完全に連結する一体型形式へと変化している。このような建物構造の変化からは、宇佐神宮八幡造が、三所大神が集合した経過を残す原型となった最初期型であり、それに対して石清水の八幡造は、八幡大神が八幡大菩薩となり三所大神の結合がより進んだ形を示す「発展完成型」と評価できる。
 このような変化については、神社の本殿という一面からだけでは理解が難しく、神仏習合の進展からの視点が必要である。石清水の八幡造の本殿は、八幡宮という神社としての一面からだけで造られたものではなく、八幡宮寺の中心に座る本堂=金堂、あるいは密教系寺院では根本中堂とする意図を持って造られたと理解すべきで、既存の大寺院の金堂に匹敵あるいは凌駕するような威容を持った一体型の本殿を造り上げたものと考えられる。僧・行教が、完璧な青写真を持っていたとは考え難いが、男山の山上一帯に神仏習合の宮寺としての一大伽藍を形成しようとする強い祈念を感じ取ることができる。このことは、護国寺のあり方や宝塔院の位置等にもよく示されている。
 護国寺は、貞観年間の早い内に本殿と連動して建立されたと理解される。しかし護国寺は、創建当初から明治初年の廃絶期まで、一時期観音堂が併設されたりはするが、薬師堂単独の堂宇である。宇佐神宮の弥勒寺のような、塔・金堂・講堂などを備えた独立した伽藍が形成されることはない。護国寺本堂は中世から薬師堂とも称され、主要堂塔の一角を占め続けるが、山上に点在する本殿を始めとする他の堂塔と関連性を持って、全体として一つの伽藍を構成する一堂宇であり続ける。この点からは、創建期から本殿との関係のなかで、本殿の左翼となる東北部に位置付けて建立された、講堂、あるいは、第二金堂的性格を有する堂宇と理解される。
 宝塔院も、初期から存在する主要堂塔のひとつである。側柱の柱間が5間の天台密教系の塔で、真言密教系の大塔に近い規模である。護国寺の南西隣で、本殿の東総門から下る階段のすぐ南側の小テラスに建立されていた。f0300125_10213961.jpg本殿を中心にして、山上全体での位置関係からは、護国寺と共に本殿の東側・左翼に展開した仏塔である。平安時代後期には、宇佐神宮弥勒寺の新宝塔院を西宝塔院と称して、対照的に石清水の宝塔院を東宝塔院と呼称することが史料に見えるが、石清水の山上全体を一つの伽藍と見る観点からも、石清水八幡宮寺の東塔と呼称し得る。
 本殿、護国寺、宝塔院をこのように見ていくと、この三堂宇のあり方も山上全体を一つの伽藍としていく山上伽藍の構想が、初期から存在していたことを示していると考えられる。さらに山頂部と東側からやや北東側にかけて開発が始まる面からは、「国家を守護する」という八幡大菩薩遷座の主題が、東北方にある平安京を最も意識したものであることをよく表している。本堂東側が、谷部の発達した西側(西谷地区)よりも小なりとはいえ、開発が容易であったとも言えるが、決してそうではない。平安時代の護国寺は、北東へ延びる尾根線上に、平坦地を造る方法ではなく、崖面へ張り出す懸け造りという建築技法を駆使して建立に漕ぎ付けたとの推論が、護国寺跡の発掘調査成果から十分に根拠を持つことが明らかとなった。本殿も、当初は懸け造りを一部にでも用いた建造物であった可能性があることをここで指摘しておく。
 男山の山上伽藍の形成は、平安時代前期の創建期から断続は見られるものの、鎌倉時代初め頃にまで継続する。平安時代後期の12世紀代前葉頃に、西谷地区北部に白河法皇による大塔、同南部に待賢門院による小塔が建立され、鎌倉時代に下る八角堂を除くと、山上伽藍の軸となる主要堂塔がほぼ出揃う。院政期でもある平安時代後期が、山上伽藍の一応の完成期と見てよいだろう。この山上伽藍を図上復元した堂塔を入れて俯瞰すると、北奥に南面する本殿を中心とし、南総門から三ノ鳥居までの、尾根線に沿い東に若干振れ南に延びる参道を中軸線と見立てて、その両翼に伽藍を構成する主要堂塔が配される。本堂の東側・左翼に本殿と一連して建立された護国寺・宝塔院が、南西の西谷・右翼側には大塔・小塔、少し遅れてその北に八角堂が展開する。地形からの強い制約により、俯瞰しても全体としては不規則な並びとも見えるが、それぞれの堂塔の南北軸線は本堂とほぼ揃えられており、海抜約120mの山上に、一つのまとまりを持った伽藍が明確な意図を持って造り出されたと理解してよいだろう。
 先行する比叡山延暦寺、高野山金剛峯寺の山上伽藍と比較すると、若干コンパクトではあるが、石清水の場合は、主要堂塔の周辺に大小様々な社、堂塔が建ち並び、多彩な神仏が密集する。f0300125_10281141.jpg現状から想像することは難しいが、神仏習合を具現化した小宇宙を形成していた面に大きな特徴を持っていると考えられる。密教世界の胎蔵・金剛両界の曼荼羅に対して、八幡三所大神を始めとする日本の神々が加わった、神仏習合を基盤とする石清水八幡宮寺的曼荼羅世界が、山上に具現化したと考えている。

本日歩いたルート
三ノ鳥居から参道を経て本社へ。本社から南へ延びる参道は、山上伽藍の中軸線である。
本社で参拝。現在の社殿は、寛永期の造営であるが、豊臣時代の遺構もあるという説もある。 
本社から南面して右翼となる西谷北部へ。狩尾道からの入口となる黒門付近、大塔跡、八角堂跡、その間に三女神社(弁財天社)。大塔跡には通路上に濡れ縁の礎石がひとつ露出。
西谷南部、今の涌峯塔の辺り。小塔、元三大師堂、周辺には奥坊、法童坊、梅坊などが林立。小塔は待賢門院(藤原彰子)御願として1132年に建立されたと伝えられる多宝塔。
社務所北側で表参道を横切り、北東へ参道を下る。本社から南面して左翼となる地区。
本社東門、階段下近く、宝塔院(琴塔)跡礎石群の間を参道がくだる。さらに石段参道をくだると護国寺跡テラスへ。
f0300125_10364145.jpg護国寺を見た後、男山東麓の坊跡群の間をくだりながら山下へ。
護国寺すぐ下には瀧本坊、石清水社の前から入る。瀧本は石清水社横の瀧が語源。石清水社からさらにくだると、次のテラスは泉坊。松花堂昭乗が暮らした辺り。泉坊から下り二ノ鳥居へ。山下にて解散。
 
各遺跡の解説
① 大塔跡  
本殿南西の西谷に位置した。平安時代後期の嘉承元年(1106)に自河法皇の御願により建設が始まり、天永3年(1112)供養される。
建久10年(1199)西谷一帯の火事で、小塔と共に焼失.50余年後の建長5年に(1253)に再建。慶長10年(1605)には豊臣秀頼によって再興される。
中世以降の絵図では下重方形5間、上重円形の真言形式の大塔として描かれる。
江戸時代の指図(さしず)では側柱(がわばしら)一辺14.9m、高さ27.lmで根来寺(ねごろじ)大塔(国宝)とほぼ同規模。
発掘調査で北東・北西の雨落ち溝と礎石および抜き取り穴を検出。指図どおりの規模であつた。

② 宝塔院(ほうとういんー琴塔)跡  
本殿南東に造られた仏塔。遷座以前からの塔とも伝える。当時石清水の別当であつた元命(げんみょう)が、万寿年中(1024-28)に宝塔院領を定め、延久年中(1069-74)に修造したので、このときが成立との見方もある。(飯沼賢司『人幡神とはなにか』角川選書366、2004年)
近世には、軒の四隅に琴がかけられており、「琴塔(こととう)」と呼ばれた。
江戸時代中期の指図(『八幡山上山下惣絵図』)によると、塔の大きさは側柱一辺が10.92m、高さが11.9m。
本殿南東の参道をまたぎ、基壇の痕跡と礎石が残存している。東辺の側柱の両端が元位置を留めており、その長さは10.9m。指図と合致していることを確認した。
本尊は大日如来、供僧12人が法華不断経を修する(「石清水八幡宮堂塔目録」)。
絵図に残された塔の様式(方形二重塔)からみて、天台系の大塔と考えられる。
このことから、宝塔院がはじめて史料に登場する11世紀頃、法華信仰隆盛であった時代背景から、天台宗の開祖・最澄(さいちょう)が建設計画をした六所宝塔院と同じく法華塔であつたと考えられる。
(中安真理「石清水八幡宮寺の宝塔院(琴塔)について」(『美術史研究』第42冊 2004年)

③ 護国寺跡 
本殿に次いで貞観年間に造られた仏堂。真言宗の僧侶・行教が造った寺。
「石清水八幡宮護国寺」として、平安時代は本殿と一体の施設として全山を取り仕切り、八幡宮から発給される文書はすべて護国寺から出された。
本尊は釈迦・薬師。康和5年(1103)大江匡房(おおえのまさふさ)が十二神将を寄進。
嘉暦元年(1326)焼失、建武元年(1334)後醍醐天皇臨席のもと再建供養。
真言宗の東寺長者(とうじちょうじゃ)・道意(どうい)が導師(どうし)を勤め、足利尊氏(あしかがたかうじ)、楠木正成(くすのきまさしげ)、名和長年(なわながねん)などが警護を行う。ちなみに、「石清水八幡宮社頭図」に再建後の姿が描かれる。
明応3年(1494)近接した坊からの失火に類焼。延宝7年(1679)に仮御堂再建。文化13年(1816)本堂が再興される。

◆護国寺跡の発掘調査
-輪宝(りんぽう)と独鈷杵(とっこしょ)の出土-

江戸時代後期の本堂と見られる建物の柱穴を7基確認。柱穴1が側柱の北西角にあたる。柱穴は礎石の据え付け穴で、長径約lmの穴の中央部に礎石の基礎となる根石(ねいし)が残存していたが、その上にあるはずの礎石は取り去られていた。
本堂の柱列内側に、密教の祭祀具が埋納された直径約25 cmの小坑(しょうこう)を6箇所発見。小坑は地層から見て江戸時代後期のもの。
f0300125_1174927.jpg
小坑の底に輪宝(りんぽう)を据え、独鈷杵(とっこしょ)を突き立てた状態で出土。独鈷杵は1本を除き北方向を指していた。(図1)
約9m四方の範囲に規則的な配置。このことから剣頭状の八角形に配されたと推定される。関連して、鎌倉時代の護国寺指図(設計図)からみて、本堂の須弥壇(しゅみだん)を取り囲んだものとみられる。
輪宝と橛(けつ)を用いた地鎮(じちん)・鎮壇(ちんだん)の例は、日本全国で約8箇所12例みられる。
f0300125_12125114.jpg真言宗では、橛を先に置き輪宝を上から突き立てる。天台宗の修法は、先に輸宝を置き、その中央の穴に橛を突き立てるもので、出土状況でどちらの修法によるものかがわかる。護国寺の出土例は、天台宗の修法によるものである。(森郁夫『日本古代寺院造営の研究』1998年)
天台宗の修法は円仁(えんにん)が請来した経典「聖無動尊安鎮家国法」が典拠。護国寺例では橛でなく独鈷杵が用いられており(図2)特異だが、八方に埋葬する修法は「安鎮家国法(あんちんかこくほう)」であった可能性がある。
真言宗寺院として創始された護国寺であったが、江戸時代後期には天台宗との結びつきが強かったことが判明された。これは、江戸幕府との関係によるものか。

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by y-rekitan | 2016-03-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第68号より-02 継体大王

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《会員研究発表》
継体大王の謎を追う
―6世紀前半の日本と朝鮮半島―

2015年11月  松花堂美術館講習室にて
濱田博道、濱田英子  (会員)

 11月18日(水)、松花堂美術館講習室で会員研究発表が行われました。講師は、濱田博道さん、英子さんご夫婦です。
 博道さんは中学校の数学の先生、英子さんは小学校の先生でした。退職後ご夫婦で歴史、特に古代史、古墳に興味を持たれ、全国各地の古墳を訪ね歩かれ、今回の岐阜県本巣市根尾の「継体天皇お手植えの薄墨桜」を見て感激されたとのことです。当日上映したパワーポイントの映像にその写真を掲載して頂きました。
 以下、報告の概要を記します。参加者42名。

(1)継体大王の謎を探る
濱田英子

継体大王の出自

 “継体”は奈良時代の漢風諡号(しごう)で、生前は“オホド大王”と呼ばれていました。ここで、継体天皇と書かないのは、天皇の称号が成立したのが天武朝の頃とされ、継体の時代には天皇の称号が生まれていなかったからです。古代史の研究者は、継体大王(だいおう)と呼ぶことが多いのでそれに倣います。
 小火床(オホド)=鍛冶集団に関わる豪族との説がありますが、『日本書紀』によると、応神天皇の五世孫で、近江の高島で生まれ、越前・三国で成長活躍したとのことです。第25代の武烈天皇に子がなく、大王家が断絶したため、大伴金村らが擁立・即位させました。507年のことで、新王朝との見方がされることがあります。皇統を継ぐ天皇との認識が継体の名となったのではないかというものです。なお、『古事記』では、近江より招いて即位させたことになっています。いずれにせよ、出自の謎といえるものです。また、応神の倭名である“ホムタワケ”と“ホムツワケ”の論点もあります。
 『古事記』、『日本書紀』ともに、日本海に近い豪族から選ばれていることから、当時の朝廷が、東アジア情勢に詳しい人、外交知識を有している人を求めたのではないかとの説があります。

四宮の謎

 『日本書紀』によると、以下の記述が見られます。
 継体は507年57歳で樟葉宮にて即位し、4年後の511年、筒城宮に遷都し、7年後の518年、弟国宮に遷り、大和に入ったのは即位20年目の526年でした。地方豪族出身の継体がヤマト王権を掌握することに対して強力な反対勢力がいたのでしょうか。また、継体の力の源である淀川水運の経営にあたるため、あえて、三川合流地の都に留まったのでしょうか。
 f0300125_1034056.jpg樟葉は、継体に助言をした河内馬飼首の渡来系集団の地域でした。また、いずれの宮も巨椋池(いけ)の傍にあります。巨椋池(おぐらいけ)は大型船舶の碇泊が可能で、水運の中心でした。ここまで大型舟が来たのです。三川合流の地点・男山丘稜から淀川を見下ろす継体天皇の絵が『くずは物語』(楠葉地域学習教材制作委員会編)にあります。とても興味深い絵です。
 木津川は南山背(やましろ)・伊賀・三重・尾張と東国や太平洋に繋がり、宇治川は巨椋池(おぐらいけ)・琵琶湖(水運の要地)・若狭や北陸、日本海・朝鮮半島へ繋がります。桂川は丹波・丹後・山陰から日本海・朝鮮半島へ繋がり、下ると淀川から難波津・瀬戸内海・九州・朝鮮半島へと繋がっています。継体は、国際都市が大河の傍に有ることを知っていたのではないでしょうか。

支援勢力 その1

 継体大王が応神5世の孫かどうかはっきりしませんが、即位前は地方の豪族であったのに、ヤマト王権を掌握できたのは強力な支援勢力がいたからだと考えられます。
 支援勢力として妃の出身地の豪族が考えられます。そのことで、同盟関係がわかるのです。日本書紀で9人、古事記で7人の妃がいたことになっています。9人説でみると、地方豪族出身6人、畿内から2人、皇統から1人。妃の出身地としての越前では、朝鮮との交流が考えられ、美濃、尾張(断夫山古墳・円筒埴輪)を押さえることで東国と結びつくことが考えられます。また、近江や若狭の息長・三尾・坂田の豪族との結びつきや、河内の茨田氏(淀川水系)との関係も指摘されます。
 3つの宮のうち、樟葉宮は河内の馬飼集団の勢力下にあり、筒城宮は百済系・高麗系が多く住んだ地です。そして、弟国宮は渡来人の最大の豪族である秦氏の拠点の地です。その他、生誕の地の近江高島、成長・活躍の地である越前は渡来文化伝播の地です。このように、継体大王は多様で、強力な渡来集団のネットワークを持っていたと考えられます。

支援勢力 その2 と反対勢力

 支援勢力としての大和の豪族には三氏が考えられます。蘇我氏と和邇(わに)氏と大伴氏です。
 蘇我氏では、蘇我稲目の時、突然台頭して継体大王の大和入りに際し、継体の息子である安閑・宣化大王に宮地を提供しました。そして宣化大王により大臣に任じられています。また、二人の娘をやはり継体の子である欽明大王の妃としました。
 和邇氏は大和の伝統的な豪族で8代の大王に妃を入れています。大和盆地の北東部(天理市)が拠点ですが、山背の南北から琵琶湖へ勢力を拡大し、継体一族と繋がりができたと考えられます。筒城宮がある南山城は和邇氏の勢力下の地です。
 大伴氏の場合はどうでしょうか。大王の群臣には臣(おみ)グループと連(むらじ)グループがあり、大伴氏は、連グループのトップであり、5世紀後半から大きな権力を持ってきました。即位の地である樟葉宮は馬飼集団の勢力下の地ですが、大伴氏は河内に勢力の基盤があり、大伴氏の勢力の地であるともいえます。
 反対勢力を見てみましょう。継体には強力な支援勢力がいたと考えられますが、それでも大和入りに20年もかかったのは、さらに強力な反対勢力がいたからだと考えられます。但し、この研究についてはまだ定説がないようで、あえて大和に入らなかったと考える研究者も多くいます。
 反対勢力を以下に列挙します。
〇 25代武烈大王はまだ亡くなっておらず反対した。
〇 大連(おおむらじ)の物部氏が反対した(途中から支持にまわる)
〇 葛城氏や中臣氏が反対した。
〇 葛城・中臣氏だけでなく中央豪族が連合して反対した。

継体大王の死の謎と王陵

 継体は、九州で起きた磐井の乱(527年)平定後に亡くなったといわれますが、527年、531年、534年死亡説があります。「王・太子・皇子」3人が同時に殺されたのではともいわれています。
 王陵は最近まで太田茶臼山(おおたちゃうすやま)古墳(茨木市)と今城塚(いましろづか)古墳(高槻市)があり、謎とされてきました。太田茶臼山古墳は、宮内庁が継体大王の陵墓と指定していました。しかし、学者間では、古墳周辺の埴輪の編年分析から、5世紀半ばの築造と判断されました。また、摂津国嶋下郡にあたり、延喜式の記述とも一致していません。
 今城塚古墳は、かつて少数の研究者が真の陵墓と指摘していましたが、江戸・明治期は古墳が荒れていたこともあって、王陵候補から外されていました。そのため却って徹底した発掘調査・研究が進み、その結果、6世紀前半の築造であることが判明されました。摂津国三島藍野・島上郡にあり、6世紀前半最大の古墳(全長190m)です。三段築成、二重周濠、葺石(ふきいし)の存在、多数の埴輪を持っているなど王陵の資格をすべて持っています。また、3つの家型石棺の破片がみつかりました。それは、阿蘇のピンク石、兵庫・竜山の黒石、奈良二条山の白石です。そして、大王墓としてはじめての渡来系の石室である横穴式石室であり、外堤に壮大な形象埴輪列を持ち、円筒埴輪にランドマークのように船の文様が刻み込まれています。
 以上のことから、今城塚古墳が真の御陵とほぼ確定しました。日本で唯一の王陵研究ができた古墳といえます。しかし、宮内庁は指定を変えていません。その太田茶臼山古墳は、埴輪の分析などから継体一族の墓と考えられています。つまり、継体一族は、今城塚古墳築造以前から三島地方に勢力を持っていたと考えられるのです。

山背の大王、淀川の大王

 継体大王は、在位25年の内、2つの山背の宮(筒城宮・弟国宮)で15年間を過ごしました。その意味では山背の大王といえます。山背は三川合流の地で、後には千年の都、平安京が置かれました。継体の先見性といえるかもしれません。山背の支援勢力が残した古墳や遺跡に、八幡市の荒坂五号墳、新田遺跡、内里八丁遺跡があります。
 また、淀川の大王という見方もできます。即位の宮が樟葉宮で、大王陵が今城塚古墳です。その今城塚古墳の後円部の円筒埴輪に2本のマストの舟のマークが刻まれています。これも淀川水運との関係なしには考えられません。

継体王朝は新王朝か

 継体王朝を考える上で、一番重要なテーマかもしれません。継体王朝がそれまでの王権と違う政策があるのかを検討していくことが重要でしょう。
 新王朝といえるという説には、①地方豪族を基盤としていること、②古墳築造の動向が新しくなった、③今までの王陵の地ではなく、淀川流域で即位し、王陵もそこに築いた、というものがあります。反対に、新王朝でない説には、①大伴金村など前王の重臣を採用している、②最後は大和で治世を行った、③外交相手が百済中心でそれまでのヤマト王権と変わらない、という説があります。


(2)継体大王と朝鮮半島
濱田博道

はじめに

 『日本書紀』をひも解いてみると、継体紀の半分以上は国内でなく、朝鮮半島の記述で占められています。なぜか。そこには、東アジアや朝鮮半島と切っても切れない日本(倭)の存在があったし、緊張した情勢があったからです。特に、百済は475年、高句麗の侵攻を受け、王は殺され、都の漢城は陥落し、存亡の危機に陥りました。日本(倭)は、百済と同盟関係を結んでおり、支援に向かいます。
 しかし、その過程で、弥生時代からの通交のあった朝鮮半島南部の加那諸国は百済・新羅双方から侵攻され、衰退してゆくのです。そのさなか、新羅とよしみを通じていた筑紫の国造、磐井の乱がおこります。日本(倭)の受けた打撃は大きいものがありましたが、百済との通交で先進的な文物・文化の摂取に努め、倭は体制を固め、古代律令国家形成へと向かいます。継体期はその激動の渦中であったといえます。

5、6世紀の朝鮮半島

 朝鮮半島は、北に高句麗、西に百済、東に新羅、南に加耶諸国がありました。百済は475年高句麗の侵攻を受け、王は殺され、都・漢城は陥落し、熊津に都を遷します。百済は領土拡大を目指し南下。馬韓や加耶諸国に圧力をかけます。「日本書紀」には、任那4県を百済に割譲との記載がありますが、そのことを指しているものでしょう。また、新羅も領土拡大のため百済・加耶諸国に圧力を掛けました。加耶滅亡の危機に際し、日本は加耶諸国の支援を始めましたが、その渦中に、新羅とよしみのあった磐井の乱が起こったのです。北九州とヤマトとの戦いになりましたが、北九州は大きな勢力で出雲・伯耆にも繋がりがありました。九州の独立とヤマトによる統一への戦いでしたが、1年半でヤマトの勝利に終わりました。

百済の武寧王と武寧王陵

 南下した百済では2、3代続いた王も殺され、新しい王である25代の武寧(ぶねい)王が内乱を鎮め平定しました。武寧王は継体大王と同時期の百済王で、王陵は1971年、公州、宋山里古墳群で発見され、墓誌が出土し確定しました。棺は日本産の高野槇で作られていて、金箔の枕・足座・宝冠・銅鏡など出土品が多数出ました。環頭大刀・鏡など日本との繋がりを見ることができます。
 武寧王は、日本の筑紫・加唐島で生まれシマ(嶋君・斯麻)王と呼ばれました。北九州との関連性はこの事実でもわかります。
 1983年、朝鮮半島に前方後円墳があるとの主張が起こりました。韓国・嶺南大学の教授が主張したものです。韓国・栄山江流域に前方後円墳が14基あり、いずれも6世紀前半の築造で、継体大王の時代のものです。百済の武寧王時期と重なるもので、突如として現れ、突然消えていきました。被葬者を巡って論争がありますが、これまでのところ、①馬韓在地首長説、②派遣・移住倭人説、③百済官僚説と諸説があるようです。

隅田八幡人物画像鏡について

 隅田八幡(すだはちまん)人物画像鏡は、青銅鏡で国宝に指定されています。江戸時代に現在の橋本市妻で発見されました。503年の銘文があります。以下に紹介します。
「癸未(きび)年(503年)八月、日十(おし)大王の年、孚弟(ふと)王(継体)意紫沙加(おしさか 押坂)の宮に在(いま)す時、斯麻(しま)(武寧王)、長く奉(つか)えんと念(おも)い、開中費(かわちの)直(あたい)・穢人(わいじん)の今州(こんつ)利(り)、二人の尊(たかきひと)(重臣)を遣わして白(もう)す所なり。同(銅)二百旱(かん)を上(すす)め此の竟(かがみ 鏡)を作る所なり」(福永伸哉、山尾幸久氏らの解読から)
 
 「斯麻(武寧王)が孚弟王(継体)に長く奉えんと念い」とあり、継体と武寧王の繋がりが見えます。また、出土された場所は和歌山県橋本市で紀の川沿いにあり、多くの倉庫群や近くの古墳から阿蘇凝灰石の石棺や馬の兜(かぶと)(韓国加耶地方からのものと同種)が出土している。そこは、紀氏の領域であり、紀氏関連氏族を通じての朝鮮半島との繋がりも見えてきます。

韓国の前方後円墳

 f0300125_11343493.jpg韓国、栄山江流域の前方後円墳は、5世紀末~6世紀半ばにかけて築造されたもので、そのほとんどが継体天皇の時代(百済王でいえば武寧の時代)のものであることがわかってきました。古墳の大きさは全長70mを超えるものがあり、円墳の百済王武寧王の墓(径20m)よりもはるかに大きいものです。また、そのような前方後円墳は朝鮮の歴史を通じて、この時期に突如として現われ、突然消えてゆくということもわかってきました。なぜでしょうか。そして、「日本独特のもの」といわれた前方後円墳はなぜ朝鮮半島において築造されたのでしょうか。そもそも誰の墓なのでしょうか。
 継体大王の時期の遺跡を山城地域で考えてみると、近年の発掘で、精華町の森垣外遺跡から朝鮮半島独特の大壁建物跡や馬の骨、鉄さいなどがみつかり、当時、渡来人の集落があったことがわかりました。一方、韓国の古墳発掘は現在も続いています。一昨年は、「14基目の前方後円墳か?」のニュースが報道されたし、昨年の暮れには咸平(ハンピョン)郡、長鼓山(チャンコサン)古墳東方の方台形古墳から「馬や鶏形の形象埴輪が見つかった」という新聞記事が各社から発表されました。今まで、円筒埴輪は発掘されていましたが、形象埴輪がみつかったことは初めてのことです。被葬者論にまた新たな一石が投じられました。このように、栄山江流域では、毎年のように新しい発見が報告され、ホットな論争が続いています。

 博道さん、英子さんは、先生をなさっておられ、明瞭な言葉使いと優しくわかりやすい講演でした。受講した人を代表して御礼を申し上げます。     〈文責=村山勉〉


「一口感想」 より

やわた便りを偶然見ての参加です。八幡の歴史を探究する会の活動は全く存じませんでしたが、大学時代に、「継体大王の支持勢力に関する一考察」というテーマで卒論を書いた者で、興味をもって聴講させていただきました。朝鮮半島の前方後円墳については知らないことも多かったのでたいへん勉強になりました。ありがとうございました。 (N)
大変深く研究されていて、聴きごたえのある例会でした。ありがとうございました。 (F)
先日、茶臼山古墳と今城塚古墳を観てきたので、興味深く聞きました。短い時間で沢山の内容、ありがとうございました。
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よく研究なさっています。大変勉強になりました。今後の新しい研究の進展を期待しています。 (栗山功)
継体大王と淀川水系とのかかわりや大王の先見性がよく理解できて、継体大王と朝鮮半島とのつながりが大変興味深く、またわかりやすい説明でよく理解できました。ありがとうございました。 (N)
30年程前に、朝日新聞に「朝鮮半島にも前方後円墳」と云う見出しを見たとき、胸が高鳴った。今日のお話で百済の武寧王の時代のみのものであり、それも継体大王と同時期の人とか。(武寧の)親子なのか?兄弟なのか?同一人物なのか?ナゾがますます深まった。古代を調べるのは大変難しいかもしれないが、両国は利権や政治に関係なしに研究を深めてほしい。 (M) 

 
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by y-rekitan | 2015-11-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第67号より-02 弥生の八幡

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《講 演 会》

弥生時代の八幡市とその周辺
―住居・墓・水田―
2015年10月  八幡市文化センターにて
藤井 整  (京都府教育庁指導部)

 10月18日(日)、午後1時30分より、八幡市文化センター第3会議室にて「講演と交流の集い」が行われました。表題のタイトルで、地元八幡市に詳しい藤井整さんにお話しいただき、分かり易くとても有意義な内容となりました。概要を以下に紹介いたします。参加者は36名。

1,はじめに

 私達が教科書で学んだ弥生時代は、最新の学説によって、かつて理解していた内容のところどころで微調整が必要なことがあります。その一例をあげると、稲作が縄文時代から行われていたとの説や、年代の問題などです。
 弥生時代の八幡は、かつての巨椋池や周辺の低湿地帯が大山崎あたりまで広がっていた湖畔のムラだったようです。巨椋池は昭和になって干拓されましたが、その結果、多くの弥生遺跡が地中に埋まってしまいました。現在八幡市には弥生時代の遺物が出土する遺跡が22カ所ありますが、弥生前期の人が住むのに適した低湿地帯のものは見つかっていません。
 弥生中期以降の遺跡は弥生人が好んだとされる丘陵地で比較的多く見つかっていますが、生活の場を移した諸事情(居住域、墓域、生産域、祭祀など)を考えてみましょう。

2、竪穴建物とその生活(居住域の状況)

 八幡市の弥生遺跡で最も古いものは、内里八丁遺跡です。そこには弥生時代前期の終わりから殆ど中期の時期の竪穴建物が見つかっています。竪穴式の建物が必ずしも住居では無いと判って、最近では“竪穴住居(たてあなじゅうきょ)”とは呼ばず“竪穴建物(たてあなたてもの)”と呼ばれています。発掘された建物の一例ですが、その直径は6mほどの円形で、中央に直径1m、深さ50cmほどの穴があり、中から多量の炭化物と灰が検出され、炉であったと考えられています。炉の存在から、建物は住居として使われ、そこで石器類【石鏃(せきぞく)、石錘(せきすい)、砥石、石包丁など】の修理が行われていたようです。遺物の発掘位置から、作業は住居の北西の位置で行われ、そこは男性の占める空間であった可能性があるといった、他では見られない素晴らしい調査結果が明らかになったのです。f0300125_1871192.jpg
 中期の終わりごろの備前遺跡では、眺望に優れた丘陵斜面に建物を作っていました。以前は、このころ、倭国が大いに乱れていた(倭国大乱:2世紀後半の出来事)ので、見晴らしの良い丘陵を選び、環濠を巡らせた防御的な集落が営まれたと言われていましたが、今では後期中頃のことだと考えられています。しかし弥生時代後期の中頃の遺跡である、西ノ口遺跡、宮ノ背遺跡、美濃山廃寺下層遺跡などにも環濠は見つかりません。焼失住居も無く、軍事色は薄いと報告されています。
 弥生時代中期末から後期にかけて、八幡市を初めとする山城や乙訓地域では居住域が高い所にある傾向があります。このことは、洪水が要因の可能性もありますがそれだけではないようです。

3、方形周溝墓と被葬者(墓域の状況)

 次に、弥生時代の人々はどのような形で埋葬されたのか、誰と埋葬されるのか、墓参りをしたのか、などについて話を進めたいと思います。とは言え、この問題は八幡市では幸水遺跡の事例しかなく、ここでは18基の方形周溝墓が検出されています。
 調査されたそれらの墓の一部から、墳丘の上に置かれていた土器が溝の中から見つかっています。最近の研究では、これは墳丘が崩壊して転落したものではなくて、墓地外で行われた葬式に使用された土器が捨てられたものであることが判ってきました。八幡市にほど近い下植野南遺跡や大阪市の長原遺跡でも同様にお葬式に伴う儀礼行為の後、割られた土器が持ち込まれたことがわかっています。弥生時代のお墓として有名なのは甕棺ですが、この甕による埋葬は北部九州の限られた範囲だけのようです。
 では、近畿ではどうだったのでしょうか。一例ですが、現在の棺と同じく木製の四角い棺が複数の個所で見つかっています。使用された材木は高野槇(コウヤマキ)ですが、このような棺は低湿地帯で長い歳月に亘って地下水位が変化しない場合に見つかるようです。しかし、みんなが木棺に埋葬されたわけではなく、土壙墓と言われる、墓穴を掘ってそのままそこに土葬されていたようです。
 近畿地方の弥生時代のもうひとつの埋葬施設に土器棺墓があります。これは1歳児以下の乳児や胎児に限らえて使われており、成人にも使われる北部九州の甕棺とはその大きさも異なります。
 八幡市域では幸水遺跡以外のお墓の状況は分りませんが、近隣の発掘例からは、集落と同時に墓も丘陵地へと移動していることも分かります。しかしその理由はまだ判っていないのです。また、墓参りについての最新の研究では、現代と違い家長になるのは男女の性別を問われない、いわゆる双系社会だったと考えられ、自分の系譜を追う必要がなかった可能性が高く、今のような墓参りもなされていないようです。

4、水田を経営する人々(生産域の状況)

 八幡市域で水田が検出されているのは、弥生時代の終わりの頃の内里八丁遺跡です。これは登呂遺跡と同じ時期のものです。稲作が始まった早い時期には低湿地にモミを直播してコメ作りをおこなっていました。専門家にとっても水田の畦畔(あぜみち)をきっちりと検出するのはかなり難しいものであり、最近では高槻市の安満(あま)遺跡での検出結果が高く評価されているようです。
 内里八丁遺跡からは、全国でも数例しかないと言われる、貴重な稲株の痕跡が見つかりましたが、これは夏から秋にかけての収穫前に洪水に見舞われたことが判るものでした。このように、何度も起こる洪水との弥生時代のひとたちの戦いの歴史が刻まれているのですね。

5、銅鐸の祭祀と共同体(祭祀の状況)

 京都府の南部では3カ所で銅鐸が見つかっています。そのうち最も新しい時代のものが八幡市の式部谷遺跡で見つかったものです。男山第3中学校の近くで出土した銅鐸は、その高さが66cm、幅が35cmの大きさのものです。出土位置の最近の眺望分析ではかつての巨椋池や現在の京都市伏見区あたりを見渡す場所に埋められていたことが判っています。銅鐸埋設地近くの山頂からは、京都市内も一望できるような場所であったことは需要な視点でもあります。
 最近の研究では、銅鐸が出土することは、社会の発展があまり進んでいないと考えられるようになっているようです。それは、集落のみんなのための銅鐸を手放す、といったことが社会の階層化の進度が高い、すなわち、古墳時代の成立に近づいていると考えられているからのようです。このような研究結果も最初に述べた微調整が必要なことの1つと言えるのではないでしょうか。

6、まとめ

 ここまで話しましたように、八幡市の遺跡では実に様々なことが明らかにされてきました。それらは、内里八丁遺跡の建物跡で確認された石器製作の実際であるとか、宮ノ背遺跡での住居の焼却に際しての儀礼行為、幸水遺跡での溝の中に埋葬された人、洪水に苦しみながら何度も水田を造営した弥生人の努力、いずれも非常に重要な成果です。
 しかしながら、人々が高地に移動した理由のこと、集落と共に墓も高地に移動したこと、また水田も高い所に上がっていると考えられることなど、今後の発掘でこれら多くの謎の解明の可能性が残されているのです。楽しみに待ちたいですね。 
文責  野間口秀國

「一口感想」 より

弥生時代の研究の最新成果がわかりやすく聞けてよかった。八幡市の発掘調査の結果もくわしく教えていただき、スライドも理解を助けてくれたといえます。 (H)
講演内容のレベルが高く、分かり易い説明で楽しめました。最新の考古学の考え方がよく分かりました。先生の高地性集落の説明に納得しました。 (播磨義昭)
八幡に遺跡がある事は知って居ましたが、今日はじめてくわしい事が分かり、とても興味深く聞かせて頂きました。楽しかったです。有難うございました。
ふるさと学習館で、幸水遺跡出土の甕の復旧作業をさせていただいたので、(その時のことを)思い出しながら聞かせていただきました。質疑応答は大変おもしろく聞きました。 (宰川淳一)
討議の時間、弥生時代の人々の宗教観についての議論がなされた。方形周溝墓の溝から粉々に砕けた土器が出てくることがある。意識的に粉々に割ったとしか思えないのである。藤井氏は、黄泉の国に行った死者が生前愛用していた土器を愛でるために、この世に戻ってくることがないようにとのまじないだとおっしゃる。成程と思う。また、弥生時代の人は墓参りをしないとのこと。この世とあの世の断絶は、弥生時代の人々の、死への恐怖と同時に、人が死ぬことへの冷めた認識を示しているのかもしれない。 (土井)

 
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by y-rekitan | 2015-10-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第64号より-02  長岡宮

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《7月例会 歴史探訪ツアー》
長岡”宮”を訪ねて
   
― 2015年7月  向日市 長岡京市にて ―


歴史探訪『長岡“宮”訪ねて』バスツアー報告

藤田 美代子 (歴史探訪担当幹事)

 7月30日(木)快晴のもと、バス会社さんとの事前打合わせの通り、参加者は、四ケ所の集合場所より順次バスへと乗り込み、総勢30名にて、定刻通り9時30分に向日市へと向かいました。
 最初の見学地向日市文化資料館は、長岡京遷都1200年を記念して昭和59年(1984年)に開館され、長岡京をテーマに考古資料が分かり易く展示されています。
 資料館前の通り及び同館玄関前にてボランティアガイドさんが出迎えて下さり、本日の参加者の受付、会費徴収を済ませた後、3班に分かれ(事前にバス内にて、くじにより班分けしておりましたので、各自スムーズに班ごとに分かれ)、資料館内での説明を受けました。f0300125_11285943.jpg
 まず、ホールにてガラス内の大型模型により、古代から長岡京に至る迄の各時代の古墳の位置等ボタン押下げにより電光掲示され、素早く見られ、現在の阪急電車やJRとの位置関係を見据えながら、立体感のある表示で、地形の中での都の位置がよく解りました。
 長岡京は東西約4.3km、南北約5.3kmの広さです。中心に朱雀大路を通し、東を左京、西を右京と呼び、条坊制がとられています。約533mの方眼で区切られ、これを坊とし、各坊はさらに小路によって16に分けた町が設けられ、道路の幅は大路で24~15mあったとのことです。
 長岡宮は北に位置し、東西約1km、南北約1.6km。まわりは築地をめぐらし、各辺に朱雀門などの門を開いていたとのことです。また、タッチパネル対応の大型ディスプレイでは、都の大きさを大阪環状線内にほぼ収まる大きさであるとか、甲子園球場は幾つはいるかなど、非常に具体性のある説明映写でした。
館内に入りますと、都づくりに携わり半強制的に集められた農民たちの生活や、下級役人の仕事や勤務風景、貴族の暮らしぶりなどが丁寧に展示されています。食事内容からカロリー計算までなされており、貴族に比し農民たちがいかに過酷な労働を強いられていたのかもよく分かりました。又、木簡や筆記用具の出土により、役人の仕事ぶりも窺い知ること出来ました。
 資料館を出て、古墳時代前期(3世紀末)の全長92m、乙訓地域最古の全国的にも数の少ない前方後方墳である元稲荷古墳での説明を受け、向日神社へと向かいました。
 創建は長岡京遷都より古い養老2年(奈良時代)の718年で式内社です。本殿は室町時代の応永25年(1418)に造営が始まり、同29年(1422)に上棟されました。三間社流造の建物で国の重要文化財に指定されています。f0300125_11444057.jpg
 参道を下る前、ガイドさんが、“八幡市さんが見える場所がありますよ”とのことで案内頂いた所からは、町並みの向こうに、今朝一の鳥居を出発した八幡さんの山がふんわりと見えました。(個人的な感覚かも知れませんが、)ガイドさんのこのような配慮は何だかとても嬉しく、暖かい気持ちにさせられ、近隣に住むものとして友好的な関係が保たれればいいな、などと思えた次第です。
 次に“巻々”の合図を受けながら、大極殿や朝堂院の説明を聴き、「復元画家早川和子さんの描く長岡京」の助けも借り、しばし想像たくましく古き都に思いを馳せるも、時間が迫っているとの声に現実に戻されました。元旦には前庭にのぼり旗(宝幢)が立てられ、その柱が復元されていますとの説明を受けながら足早に駅へと向かいました。f0300125_11491178.jpg
 ボランティアガイドさんへのお礼もそこそこに失礼致しました。とてもご丁寧にご説明いただきまして、この場をお借りして御礼申し上げたいと思います。
 一駅先の長岡天神駅で下車、バス車内でお配りした資料内のレストランマップを参考にし、参加者の皆さん夫々に好きな昼食をとって頂きました。食後の集合場所にはどなたも遅れることなく、午後の部をスタートできました。
 中山修一記念館のスペースの関係で、以下のように2班に分かれました。A:中山修一記念館から恵解山古墳そして勝竜寺城公園とその逆B。(この午後の班分けも朝のバス内での説明で、 f0300125_11511440.jpg座席左右に分けて、スムーズにいきました。)私はB班でしたので勝竜寺公園からスタートとなりました。
勝竜寺城は、細川ガラシャ(明智光秀の三女で本名玉)が16才で細川忠興のもとに嫁ぎ、宮津に移るまでの3年間を過ごしたところです。今回は時間の都合で2階の資料館には入れませんでしたが、下見時に見ました38才での若さで自害したときの辞世の句
  「ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」
なる句が、堀や石垣や土塁の説明聞きながらも私の頭から離れず、戦乱の時代に生きた一人の女性の死を思い浮かべずにはいられませんでした。
 f0300125_11594569.jpgその後徒歩にて、恵解山(いげのやま)古墳へと向かいました。全長128mで乙訓地域最大の前方後円墳です。周濠を含めた全長は180mに達し、後円部には死者を埋葬した竪穴式石室があったそうです。刀剣など鉄製武器700点が納められた前方部中央の埋納施設は、全国的にも珍しいものだそうです。約600本の埴輪が基壇に立ち並ぶ様は壮観でした。5世紀前半頃の桂川右岸での乙訓地域を治めた支配者の墓と考えられているそうです。
 その後最終の見学地、中山修一記念館へと向かいます。冷房の効いている室内に入り、皆さん生きた心地がしたのではなかったでしょうか? 床の間に作られた中山先生手作りの長岡京条坊復元図を見ながら説明を受けました。私財を投げ打って、幻の都の解明に生涯を捧げられた先生の情熱と業績は、高く評価されるべきだと思いました。書庫内も見せて頂きましたが、蔵書数は図書館並みでした。f0300125_1235424.jpg
 今回のツアーの最後の楽しみであるサントリー京都ビール工場へと向かいました。大麦をカリカリと噛みしめて味わい、ホップ独特の香りを嗅ぎ、講習室を出て工場内のガラス越しに見る缶、ビン詰めのあまりの速さに、試飲前なのに目が回りました。やっと試飲会場へ到着し、ぐうぃ~いぐうぃ~いと頂いて皆さんいい気持になり、お土産を買って、ビール工場を後に、一路八幡へと帰りました。
 八幡市駅には予定通り16時30分着、出発と反対コースにて帰途につきました。
暑い中でしたが大変実りある歴史探訪ツアーであったと思います。下見の時点で興味が次々と沸き上がりややテンコ盛の感があり、欲張りすぎたでしょうか? 皆様さぞお疲れになった事と思います。
 私にとりましては、長岡京を知る良い機会でありました。これからも、まさに「歴史を探究する」ツアー企画の一員として参加できればなどと思っています。

歴史探訪『長岡“宮”訪ねて』を終えて

 非常に短い期間の都ではありましたが、参加者とお話していると、この長岡京を機会があれば訪れてみたいと思っていたとおっしゃる方が何人かいらっしゃいました。参加者でなくとも、意外に多くいらっしゃるのではないでしょうか。
 下記、担当幹事の一人として、経緯、反省点等記します。

〈行程について〉
 担当幹事四名にて、二度現地に下見を行い、行程表を作成致しました。向日市文化資料館をスタートし、史跡長岡宮跡そして中山修一記念館を軸とし、その間に元稲荷古墳、向日神社、勝竜寺公園、恵解山古墳を入れ、最終サントリービール工場にて、お疲れ様とすることを考えました。少々盛り沢山過ぎたかも知れません。
〈交通手段について〉
 前回山崎を訪れました時、往復タクシー利用とし、行きの八幡市駅出発時は待機タクシーが多く、スムーズに行きましたものの、帰りは予約不可とのことで、待ち時間を心配し、結果的にはスムーズに行き胸をなでおろしましたが、今回はその様な心配を解消すること及び参加者皆さんの懇親の場として、バスをチャーターすることと致しました。行程の説明や連絡事項等、バス内で一度に取れますし、大変便利だと思いました。参加人数が前日及び当日で5名減員となり赤字となってしまいましたが…。
〈暑さ対策について〉
 連日の猛暑により、熱中症対策を考えないわけにはいかず、体調については無理のない様、何度も再確認させて頂き、クーラーボックスを用意し、おしぼり、冷水を準備しておりました。又、お守り程度ですが塩飴をも資料に添えました。
〈反省点等〉
 歴史探訪はやはり古い時代に思いを馳せ、ゆっくり行きたいものだと思います。バス代は高騰しますが、春又は秋の季節の良い時に行くべきではないかと個人的には思いました。
〈最後に〉
 この暑さの中、ご参加の皆様には、お元気に、1人の落伍者も無く、無事八幡に戻れましたことをご報告し、締め括りたいと思います。

続けてこの下に関連記事が1件あります。空白


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長岡“宮”を訪ねて

小林 喜美代 (会員)


 7月30日、八幡の歴史を探究する会主催の「長岡“宮”を訪ねて」のツアーは、予想気温35度の中、30名が参加!
 9時30分、バスは、大きな期待を乗せて石清水八幡一の鳥居をスタートした! 向かうは向日市文化資料館、元稲荷古墳、向日神社、史跡長岡宮跡、勝龍寺城公園、恵解山古墳(いげのやまこふん)、中山修一記念館、サントリー京都ビール工場と多岐にわたる。
 車中で渡されたのは タイムスケジュール表、訪れる先々の地図、新聞記事からの紹介内容、リーフレット、昼食店の案内図、そして塩飴と細かな配慮満載の透明袋。
最初の目的地は、向日市文化資料館! 数名の案内の方が笑顔で迎えて下さった。この文化資料館は、長岡京が平城京から遷都されて丁度1200年後の1984年にオープンしたと言う。
 案内いただく方々全員が熱心に語って下さり、館を出て訪れる史跡は皆美しく手入れされていて向日市の長岡京に傾ける熱意の表れと受け止める。f0300125_053138.jpg
 長岡の中山修一記念館では、「長岡京は僅か10年で終わったので都があったか否か不明で幻の都と言われていたが、中山修一氏が朝堂院南門(ちょうどういんなんもん)跡を発見して以後、重要な遺構を次々と発掘し、長岡京中枢部の全容が明らかになった」と、午前より向日市で説明を受けていた内容を復習させてくださるかのようにまとめをして下さった。
 帰宅後、透明袋の資料に再度目を通すとポイントを抽出したような資料で訪れた史跡の理解が更に深まり嬉しい!
 次回JR東海道線を大阪から京都に向かって走る際には大きく目立つサントリー工場を目印に、数百メートル京都側にある今日読めるようになった恵解山古墳(いげのやまこふん)、そして勝龍寺城はあのあたりと今回のツアーの足跡をなぞろうと決めた。

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by y-rekitan | 2015-07-28 11:00 | Comments(0)