![]() ◆おしらせ 2026年4月 #
by y-rekitan
| 2026-04-01 23:00
事務局だより
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by y-rekitan
| 2026-04-01 22:30
| 事務局だより
心に引き継ぐ風景
![]() (文と写真 谷村 勉)空白 #
by y-rekitan
| 2026-04-01 22:00
| 心に引き継ぐ風景
講演会・発表会
ペリー来航から橋本決戦への歴史を辿る 八幡の歴史を探究する会 谷村 勉 ![]() 2.戦略的な脅威 〇黒船が江戸湾の奥深くまで侵入した場合、江戸城を射程に収めることができ、幕府にとって開国要求は事実上の「武力による脅し」として機能した。 〇軍事的な格差を目の当たりにした幕府や佐賀藩などは、急いで西洋式の大砲製造(反射炉の建設)や軍備増強に着手することになる。 幕府の情報収集ルート 幕府が実際に砲火を交える前にペリーの軍艦の恐ろしさを正確に把握していたのは、オランダからの「別段風説書」で、これが最大の情報源であった。 当時、日本と西洋で唯一国交があったオランダは、世界情勢を幕府に報告する義務(風説書)があった。 〇事前の警告:ペリー来航の1年前(1852)には、オランダ商館長を通じて「翌年、アメリカの艦隊が江戸に来る」という詳細な予告が届いていた。 〇性能の把握:その報告書には、船の数、大砲の数、そして大砲が最新式の「炸裂弾」を放つものであることが記されていた。 〇浦賀での「威嚇発砲」と「測量」:ペリーが浦賀に表れた際、ペリーは祝砲や号砲の名目で空砲を撃った。その凄まじい音は江戸の町までひびいたといわれ役人たちは間近でその音と煙を体感した。また、ペリーは江戸湾近くまで測量船をだした。この際、「下手に手を出せば、あの巨大な大砲で江戸が火の海になる」との現場の判断で、攻撃を控えるほど、その威圧感は圧倒的だった。 〇江川太郎左衛門:伊豆韮山代官で砲術の専門家であった。彼は西洋の大砲が如何に進歩しているかを熟知しており、黒船を見た瞬間に「今の日本の沿岸砲台では歯が立たない」と即座に上層部へ進言した。 大政奉還と王政復古 慶應2年(1866)12月、第15代将軍となった徳川慶喜は、翌慶應3年10月14日、明治天皇に対して政権の返上を上奏した。これを大政奉還という。この大政奉還の上奏を受けて、同年12月9日に小御所会議が開催され、「王政復古の大号令」が発せられた。 長州征伐の失敗から反幕府勢力は攻勢に転じる。薩長両藩は明確に武力討幕方針を固め、この10月14日、岩倉具視の画策で「討幕の密勅」を下していた。 朝議を経ず、天皇の宸裁も得ていない偽物だったことは、画策に加わった三条愛実(さねなる)自身が白状(晃山奉問録)している通り、慶喜の大政奉還は、偶然にもそれと同日だった。翌日、朝廷は意外に簡単にこれを受理し、機先を制された岩倉は慌てて密勅をもみ消した。慶喜の作戦勝ちだった。 土佐藩の山内容堂が提出した大政奉還建白書の実体は公儀政体案であり、後に慶喜は、建白書案に乗った理由を「容堂の案は上院・下院の制を設けるべしとあるを見て、いかにも良き考えなり、上院に公卿・諸大名、下院に諸藩士を選補して、公論によりて事を行わば、王政復古の実を挙ぐる得べしと思い、これに勇気と自信とを得て、遂にこれを断行するに至りたり」(『昔夢会筆記』)と語っている。 慶喜は武力討伐を回避するために政権委任・将軍職という重荷を手放して時間を稼ぎ、徳川の実勢を盛り返して、自ら手放した幕府に変わる新しい政体を構想していたのである。 王政復古の政変 12月1日、大久保は岩倉と謀議の上、躊躇する正親町三条実愛、中山忠能を説得し、薩摩藩との協同の政変実行に同意させた。翌2日、大久保、西郷が後藤象二郎の同意を得たことから、4日に土佐藩は政変へ参画を表明した。この時点で計画を知り得たのは、薩摩・長州・土佐の各藩と公家の中山忠能、正親町三条実愛、岩倉具視、中御門経之であった。 この間、慶喜はこの動きを察知していたのだろうか! 実は、後藤象二郎が5日に松平春嶽を尋ねて政変計画を打ち明け、慶喜が妨害しないよう周旋を依頼している。翌6日、春嶽は家臣中根雪江を慶喜の許へ派遣し、政変計画を告げ、朝廷に恭順することを言上、その同意を得た。慶喜は新政府樹立を傍観し、その上で主要な構成員になることを想定していたのだろう。そうでなければ中川宮や二条摂政と妨害工作を画策したと考えられる。 12月8日の朝議は夜を徹して行われ、翌9日朝、ようやく終了した。この朝議では長州藩主父子の官位復旧・入京許可、岩倉具視、三条実美らの公家の処分免除が決定され、あわせて西宮に駐屯していた長州藩兵の上京が命じられた。 9日朝、摂政以下が退朝以後、晃親王、有栖川宮熾仁親王、岩倉具視、中御門経之、正親町三条実愛、中山忠能、松平春獄、山内容堂、島津茂久(もちひさ)らが参集し、小御所会議が開催され、新政府樹立を宣言した。 明治天皇が「王政復古の大号令」を宣言、摂政・関白・幕府を廃止し、総裁・議定・参与の三職を置いた。総裁に熾仁親王が就任し、薩摩藩から議定に藩主茂久が、また、藩主の推薦で西郷・大久保・岩下(薩摩藩家老)が参与に任命された。世に言う王政復古政変が断行された。 慶応3年(1867)12月9日、薩長の藩兵が突如御所の門を閉鎖した。密室となった御所内で、一部の公家や有力諸侯が集まり今後の方針が話し合われる。 親幕府的な公家や諸侯を脅して口を封じ、徳川家を排除した新政権の樹立が宣言された。 多くの諸侯が望む徳川家を含む諸藩連合政権、その構想は、軍事クーデターによって潰えてしまう。 新政府は財源を確保するため、天皇の「聖断」であると徳川慶喜に官職の辞任と領知の返納を求めた。慶喜も新政権運営のために、領知を返納することに同意している。しかし、徳川家だけではなく、全ての藩がその石高に応じた領地を新政府に提供すべきであるとし、返納する土地についてもすべて公に話し合いで決めるべきと主張した。そのうえで慶喜は不測の事態を回避するために京を離れて大坂城に退去し、新政府の返答を待った。 大坂へ下った慶喜には、暴発さえ避けて大坂城で持久すれば、何とか徳川家の勢力を回復できるという計算があったようだ。 大久保一蔵は、慶喜の二条城退去を「これは必ず大坂を根拠として親藩・譜代を語らい、持重の策をもって五藩(薩・土・芸・尾・越)を離間し、薩長を孤立せしめて挽回策を講ずるものならん」(大久保利通伝)と警戒信号を発している。 12月12日、大坂に下った慶喜は12月16日、英、仏,蘭、米、孛(プロシア)、伊の六か国代表と謁見し、自分が責任をもって条約を履行すると通告している。外交権は手放していないのである。 (注:当時プロシアを「孛(ぼつ)」、現在は「普」を当てている) これに先立つ12月14日、新政府の出納係だった戸田忠至(ただゆき)が大阪に下り、徳川慶喜に泣きついて金五万両を引き出したというお粗末な一幕もある。 慶喜追い落としに夢中だった岩倉らは、うっかり旧幕府から国庫を引き継ぐのを忘れていた。新政権は無一文であり、孝明天皇の一周年祭の費用にも事欠き、職員の弁当代も払えなかった。ここでも、慶喜が応じたのは政権復帰の可能性もあるとみて「貸し」を作ったのだろう。 (戸田忠至=下野高徳藩1万石藩主・現栃木県日光市) 新政府の体制は整ったが、その財政状況はかなり苦しい。この時点で新政府の直轄地と云えるのは3万石程度の皇室領だけであった。 小規模大名程度の経済力で、国政を運営するのは困難である。京や大坂の大商人に献金を要請するも新政府の力量を怪しんで腰は引けていた。新政府は首尾よく権力は奪取したものの、手に入れたのは権力だけで、自前の予算一つ組めない有様だった。 総裁・議定・参与で構成する三職会議の空気が段々微妙になった。議定の山内容堂・徳川慶勝・松平春嶽、参与の後藤象二郎・中根雪江など土佐・尾張・越前三藩の公儀政体派が巻き返す。岩倉具視もぐらついてくる。 大坂城では江戸から続々西上してくる兵力に力を得て12月17日、主戦派が慶喜の名義で「挙正退奸の表」を奏聞し、諸藩に向けては「人数召し連れ早々上坂し候よう致さるべく候」と高姿勢の動員令を発しているのである。これはさすがに岩倉や春嶽の手でもみ消されたが、それなりの効果をあげた。岩倉や三条実美は「もし慶喜が自主的に辞官・納地を奏請するのであったら、会桑両藩兵を帰国させ、慶喜の入京参内を許し、議定職に補してもよい」という妥協点を模索し始めていた。非武装上京なら認めるとまで軟化したのである。 12月24日、この妥協案は中山忠能はじめ議定・参与の大勢を制し、慶喜に対して三職会議は次の沙汰書を下すことにした。 1,今般(将軍)辞職聞こし召され候については、朝廷辞官の例に倣い、「前内大臣」と仰せ出らるべく候こと 1,政権返上聞こし召され候上は、御成務用度の分、領地の内より取調べの上、天下の公論をもって御確定遊ばさるべく候 (『丁(ひのと)卯日記』) 官位は「前内大臣」と称することに落着。領地返上の件は、当初要求されていた4百万石のうち2百万石返納の線が消え、容堂が主張した全大名の石高割案(石高に応じて応分に返納)も棚上げにされて、いずれ「天下の公論をもって」とし継続審議に持ち込まれたのである。 12月28日、慶喜は上の沙汰書に対する請書(承諾書)を提出する。近々のうちに上洛することも合意された。 慶喜の復権は確実な第一歩を踏み出した。近い将来、慶喜は新政府内にしかるべき地位を回復するはずであった。ところが予想もしない椿事が発生した。 薩摩藩屋敷焼打ち 上の様な成り行きに討幕派の面々は心穏やかではなかった。何とかして戦争に持ち込み、徳川の息の根を止めなければ、本当の王政復古は実現しない。 西郷吉之助はかねてから関東地方で攪乱工作をするために益満休之助・伊牟田尚平を江戸に潜入させていた。この二人が三田の薩摩屋敷に身を落ち着けたのは10月頃である。「天璋院様(篤子、13代将軍家定未亡人)御守衛」という名目で公然と諸国の浪人を募集して5百人の浪士隊を組織し、放火や略奪、暴行を繰り返し、庄内藩屯所まで襲撃した。後に赤報隊で有名になる相楽総三(さがらそうぞう)もいた。西郷は別に王政復古クーデターの後、京都の政局がこう展開すると予想していたわけではない。保険を掛けただけである。それが思った以上に切り札として役立った。 12月28日、庄内藩による江戸薩摩藩邸焼打ちの報が大坂城に達したことから、旧幕府軍の憤りは沸点に達した。慶喜はこれらに徴発された旧幕府軍を抑えることができず、鳥羽伏見の戦いが始まった。この戦いに幕府軍は完敗し、7日には慶喜追討令が出される。これ以降、明治2年5月の箱館戦争における新政府軍の勝利によって、約1年半にわたる戊辰戦争が終結した。 「大政奉還」の絵について 聖徳記念絵画館所蔵の邨田丹陵が描く。上段の間に慶喜が座り、一段低い席の右側の二人は松平容保(かたもり)と松平定敬(さだあき)が描かれている。この絵は慶喜が、10月12日の幕府役人向けに訓示をおこなっている絵である。 大政奉還が行われた経緯について 10月3日、後藤象二郎が老中板倉勝静に面会し、山内容堂の大政奉還建白書を提出した。 10月12日、慶喜は、老中以下の諸役人を二条城に招集して王政復古の意向を示し、この席で慶喜は自ら大政奉還を決意したことを訓示した。 10月13日、在京諸藩の重臣を二条城に集め、板倉勝静が諮問案を示して意見を求めた。この時点ではまだ「案」である。 10月14日、前述の手続きを経て、慶喜は高家旗本の大沢基寿(もとすみ)を参内させ、大政奉還の上奏文を提出した。 10月15日、摂政二条斉敬(なりゆき)・左大臣近衛忠房・右大臣一条実良・議奏・武家伝奏らが小御所に集まって会議を行い、政権返上が許された。 邨田(むらた)丹陵の説明として10月13日の在京諸藩の重臣を集めて意見を求めた場面を描いたものと、誤解された記述がある。 「徳川慶喜公伝」を読むと、10月13日には、二条城の大広間に諸藩の代表を集めて、意見を述べるように命じているが、この席に出席したのは、老中板倉勝静、大目付戸川忠愛、目付設楽岩次郎等だった。つまり慶喜は出席していなかった。 板倉勝静は意見具申したいものは残れと指示している。意見具申の為、薩摩藩小松帯刀、芸州藩辻將曹、土佐藩後藤象二郎・福岡孝悌、宇和島藩都築荘蔵、備前藩牧野権六郎の6名が残った。薩土芸4人は同意見であるので、一緒に慶喜に拝謁し、都築荘蔵、牧野権六郎は4人の後、別々に拝謁した。 殆どの留守居役が「いずれ藩論を聞いた上で」と即答できなかった中で、宇和島の代表であった23歳の都築温は「大政奉還の速やかに行われるよう」夢中で藩論を弁じた。平伏して仰ぎ見ることはできない。大名の家来である陪臣が征夷大将軍と直接話ができることなど夢のような時代だから無理もない。 つまり13日には、慶喜は数人の意見具申をする者達と会っただけであった。 慶喜が多人数の前に出座して大政奉還を表明したのは、12日の幕府諸役人を対象とした席であり、大政奉還を表明したのは12月12日であった。 ●邨田丹陵の「大政奉還」に描かれる部屋は、「桜の間」と呼ばれている黒書院で、一の間と二の間の襖には、満開の桜が描かれている。●13日に使用した部屋は、奧の襖絵が松であることから二条城大広間だったことがわかる。 ●13日に意見具申のため残った四人を大広間で慶喜が謁見した絵も残っており人物名も付記され、上座が慶喜、下座の奧に控えるのが老中板倉勝静、手前の四人は右から小松帯刀、辻將曹、後藤象二郎、福岡藤次が描かれている。(『明治天皇御紀附図稿本』五姓田芳柳画) 10月14日は、慶喜が大政奉還を上表した日であると同時に、朝廷から薩摩・長州へ「討幕の密勅」が下された日でもある。慶喜が先手を打って政権を返上したことで、討幕の名目が消滅し、密勅が宙に浮いてしまった。 『慶応事件記』 吉川惣七郎 枚方市資料第二集 (旧幕府軍の敗退は、梶原関門が藤堂勢から発砲されたことによって決定的なものになった。6日午後からは、上島村の吉川家へも流れ弾が飛び込むようになり、村中残らず避難した。と記録している。 「枚方市史 第3巻 戊辰戦争より」) 筆者吉川惣七郎は旗本水野但馬守忠昌の上方知行所を預かる陣屋代官で、 『慶應事件記』と題されるこの史料は、その公用日記であるが、記載されている期間は慶応四年(明治元年)の一年間、それも一月から七月までの約半年間にすぎない。水野但馬守は『柳営補任』には水野監物の名であらわれており、禄高5700石、文久三年寄合から中奧小姓に任ぜられ、慶応元年五月には将軍家茂の長州再征にも従っている。 王政御一新之旨被仰出候事(『慶応事件記』より) 暮の二十日頃から始まっていた京都を目指す幕軍の動きは、年あらたまってようやく活発化し、正月二日には夜中も軍兵の通行をみるようになった。このため伏見・淀・八幡・橋本・楠葉・樋之上の一帯はすべてこれら幕兵の止宿するところとなり、枚方・大塚・出口・守口にもその「歩兵」が屯集することとなった。 明けて三日、将軍慶喜上京の先触れが廻され、淀川筋の川舟も上荷茶船にいたるまで残らず御用船として徴発された。夕方にはいよいよ伏見に火の手が上がり、ときどき大砲の音も聞こえるようになったが、やがて夜中から四日未明にかけて、そこここに負傷者の姿が見られるようになった。伝えられるところでは戦は伏見京橋辺において会津藩が発砲したのが始まりで、四日朝には戦闘は上鳥羽から下鳥羽に移ったが、江戸方の不利は蔽い難く、五日未明には戦局はさらに横大路から富森へと南下し、九時頃には淀も焼かれた。八幡は会津勢と宮津勢とが固めていたが、京海道は負傷者の群と、大坂から上がって来た幕府方の諸藩兵があわただしく往来しているほかは、戦火に追われて立退く住民の姿が見られるばかりであった。陣屋周辺の村々でも、情勢の緊迫化とともに家族の避難、家財や米の持ち出しがはじまり、男子は人足に徴発されるのを恐れて身を隠した。 五日の戦闘は午後四時頃一まず熄んだが、翌六日朝から淀表で再開され、南下して八幡・橋本・志水・楠葉・野田・別峯などが戦禍に見舞われた。枚方も少々焼失したが、これらはいずれも幕軍が逃げる時に放火したためであった。彼らはあるいは高野海(ママ)道をたどり、あるいは宇治越・奈良越をして逃れ去った者が多かったが、村々へ入り込んで強盗や乱暴狼藉を働く者も少なくなかった。この点、筆者自身旗本領の陣屋代官でありながら、「誠ニ苦々敷、諸民之難儀難尽」と、敗残の幕兵に極めて厳しい非難を加えている点が注目される。橋本関門詰の若州藩士加藤某が、敗戦に錯乱して坂村百姓作次郎の女房に切り付け、自害しようとした事件などはその点で極めて象徴的な事件であった。 六日午後からは上嶋村の吉川家へも流れ弾が飛び込むようになり、村中残らず非難をさせたが、夕方には幕兵が船橋川堤、淀川堤に集まって、陣屋の裏山に大砲を据え付け、坂村で兵糧の炊き出しを行うなど、周辺一帯は物々しい空気に包まれた。まさに一触即発の形勢にあったわけであるが、さきに官軍に寝返って幕軍敗退の一因をなした藤堂勢がこれをみて、また攻撃をかけてきたため幕兵は四散、かろうじて戦火をのがれた。「大安心申候」といい、「此処ニ而戦争始リ候ハバ四ヶ村坂は忽チ焼失可申候」と述べていることは、住民達が戦火の波及をいかに恐れていたかを如実に示している。 橋本「山田家文書」より 二日夜半ゟ大坂方諸軍追々上京、淀川筋舩ニ而会津勢終夜相登伏見着舩之趣 「旧幕府軍1万名が上京し淀などに宿泊、5千名は大坂城に、伏見着船の部隊は伏見奉行所、伏見御堂(本願寺別院)に駐屯」 三日晴、肥後侯通行、其後高松勢又桑名勢歩兵等数千人引続上京、桑名勢先陣 ニ而鳥羽海(ママ)道相登大垣勢其余一橋方諸軍淀伏見ニ毛集 同日申ノの刻ゟ伏見奉行所へ会津新撰組陣営へ向ヶ、京勢薩州長州二手之勢 大砲打掛ヶ合戦始ㇼ、伏見町家追々焼出し大坂方敗軍 同刻、鳥羽海道小枝橋へ京方薩州勢出陣、大坂方先手徴兵隊幷桑名勢等合戦始、大坂方追々敗軍、伏見ㇵ終夜砲声相聞火勢段々盛ニ相成 (山田家文書) 「通行を廻って、押し問答を繰り返した、午後4時頃幕府軍が「押通る」と強行突破しようとした時、薩摩軍が一斉攻撃し、戦いが始まる。不意を突かれ幕軍は多くの死傷者を出して後退する。伏見でも鳥羽の銃声を聞いて奉行所への攻撃を開始した。夜半まで戦いは続いたがここでも幕府軍は後退を余儀なくされた」「四日になって事態はますます深刻化し、大坂方の敗勢によって、戦場が伏見から次第に淀・八幡へ近づいてきた。 同時に橋本陣屋など八幡近辺に駐屯する幕府軍の軍規の乱れによって、住民に迷惑が掛かりだした。 河原崎安親(八幡岸本)の『日記』によると、正月四日「幕府砲兵当地へ酒飯買ニ来、乱妨の振廻有之ニ付人家何ㇾ毛閉門致居事」という事態になり、さらに翌五日の条には「砲兵妨乱ニ来、家財衣類等奪取候事、土蔵者押破狼藉言語道断也」と、敗戦による軍兵の乱暴を難じている」 (志水・河原崎家文書) 四日晴、鳥羽海道伏見表敗軍之様子ニ而、午刻過ゟ手負死人追々引取夕方ニ至桑名勢高松勢門前通行ニ而大坂へ引退… 「早朝から戦闘再開となるが、幕府軍は赤池辺りから下鳥羽、富ノ森へ後退しつつ一進一退の攻防が続く、この日淀妙教寺に砲弾が飛び込む」 五日、伏見会津勢惣敗軍、鳥羽海道モ同様敗軍ニ相成、諸軍淀迄引取、淀小橋焼落淀八幡山崎ニ而防戦之用意有之趣 同日午刻過惣大将若年寄松平豊前守橋本迄引退、暫時此方宅ニ而休息、軍議有、夫ゟ若州陣屋江引移陣営ニ相成、関門相固被居候、鳥羽海道敗軍手負門前引続通行、同日午刻過、淀城下江砲発、城下市町追々焼失、 淀侯ハ当時在江戸ニ而留守中ニ候得共、家老降参ニ而京方江城被渡、今日落城、京勢入替ニ相成趣、八幡橋本辺ハ大坂勢充満、防戦之用意頗也、同夜は砲声も無之、両軍共休息 「早朝、仁和寺宮嘉彰は錦旗を左右に押し出し鳥羽海道を南下、淀近くまで進行、伏見を経て東寺に返る。新政府軍は苦戦するが、幕府軍は富の森、納所陣地を支えきれず淀迄後退する。伏見の幕府軍は伏見街道の「千両松」で新政府軍を阻止しようと構えたが、両軍とも激戦から多数の死傷者を出した。新政府軍の圧力で幕府軍は淀まで後退する。幕府軍は淀城を拠点に抗戦しようとしたが、入城を拒絶された為、淀小橋と淀大橋を焼き落とし、城下に放火して八幡、橋本まで退却、防御線を設営する」 「五日昼過ぎ、幕府軍総大将若年寄松平豊前守は橋本迄退き、橋本の山田家で暫く休息と軍議を行い、続いて橋本陣屋へ移って陣を設営し、関門を固めた。その間も鳥羽海道を幕府軍の負傷者が続々と陣屋前を通って大坂へ逃げ帰った。 同じ頃、淀では京方の砲撃が始まっていた。淀城の留守を預かる家老は幕府軍の入城は拒否したが、京方の薩長軍には城を明け渡した。淀城の落城によって、次に八幡への砲撃は避けられず、八幡では八幡宮を守るため本宮の遷幸を行うことになった」 六日陰晴、辰ノ刻頃ゟ御当宮大隅村御遷幸諸神人浄衣着用、御鳳輦供奉警護社士ハ麻上下胸当着用手槍携前後警衛、同日辰ノ刻頃ゟ京勢薩長因芸ノ四手淀ゟ発向、美豆村狐川渡、木津川筋生津辺三方ゟ押渡戦争、大坂方ハ八 幡山橋本樋ノ上北堤辺ニ而防戦之処、山崎警衛藤堂勢是迄大坂方之処変心、高浜舩番所ゟ楠葉関門江向ケ横矢ヲ砲発、淀川隔双方ゟ大砲小銃弍時斗打合之処、大坂方終ニ惣敗軍ニ相成諸軍敗走、八幡町中大方焼失、橋本町ハ八拾弐軒焼失、残分ハ漸四拾軒餘也、此方居宅ハ別条無 同日申刻前長州勢橋本陣屋関門乗取、陣屋ハ焼払ニ相成、同夜長州因州之人数三四百人斗大隅村へ罷越、御当宮一刻も早々還幸奉成候様御迎ニ参入 (山田家文書) 鳥羽伏見の戦い 徳川の陸軍は、老中格大河内正質を総督、若年寄並塚原昌義を副総督として、1月2日に大坂を出発、夕方に淀城に達し本営とした。3日には二手に分かれ、陸軍奉行竹中重固(しげかた)が指揮する本隊は会津藩兵を先鋒として京都の伏見口に向い,鳥羽口へは滝川具挙(ともたか)(大目付)や大河内正質が指揮し桑名藩兵を先鋒とした部隊が向かった。総兵力はフランス式訓練を受けた旧幕府兵5000,会津藩兵3000,桑名藩兵3000などを主力とした約15000であった。 一方、薩長軍は、西郷隆盛(吉之助)を実質上の総指揮官とし、薩摩藩兵2000が鳥羽口を守り、長州藩兵1800と土佐藩兵300が伏見口を固めた。又薩摩藩兵400を東寺の本営に置いた。兵力は徳川軍の3分の1の劣勢であった。 薩長軍の勝因 大きな勝因は、薩長軍の指揮官の能力が優秀で訓練も行きとどいていて、統制がとれ、戦争の意義・目的が明確であったことである。 前年の12月9日の王政復古クーデター以後、慶喜の政治的巻き返しと、京都における松平春嶽、山内容堂らの公儀政体派の活動によって、王政復古の政府内部の力関係が変化し、12月23,24日の三職会議で慶喜に対する辞官納地が徳川側に有利に決定され、慶喜に上京の命が出された。上京すれば直ちに議定に任命される予定であった。28日、慶喜は上京の請書を朝廷にだし、30日には松平春嶽、徳川慶勝によって朝廷に報告された。 したがって、徳川方は入京できれば勝利であり、必ずしも戦闘の必要はなかった。逆に薩長側は、絶対に入京を阻止しなければならず、鳥羽・伏見に陣を敷き、用意を整えて徳川軍を待ち受けていたのである。 薩長軍が勝利した一因に、軍隊の武器がすぐれていたとの報告がある、徳川軍のゲベール銃が1発を撃つ間に、薩長軍のスペンサー元込施条銃は10発を撃ち、この装備の鉄砲の格差が勝因の決定的要因であったという。 しかし、最近の研究では、この時点では薩長軍がスペンサー銃は使用しておらず、鉄砲に格差はなかったと言われている。むしろ、幕府軍は当時としては最新の性能を誇っていたフランスの元込式で、1分間に6回発射できたサスポー銃を使用していた。 旧来の幕府歩兵隊、薩摩、長州、土佐藩の歩兵隊が装備していた前装式(先込式)のミニエー銃に対して、シャスポ―銃の新味と強みは、後装式(元込式)銃だったことにある。 長州戦争の敗北に学んだ慶喜は、番方旗本全員を銃兵化する方針を打ち出し、フランスに兵制改革の支援を仰ぎ、慶応3年(1867)1月、シャノアン以下15人のフランス人陸軍教官が来日する。フランス伝習兵の誕生であったが、伝習隊は2大隊で1大隊が800人として約1600人が訓練されたのだった。この伝習隊はフランスから輸入され、当時最新鋭とされた後装式のシャスポ―銃を装備していた。大山柏の『戊辰役戦史』では、ナポレオン三世は、野砲と山砲と共にシャスポ―銃の1連隊分(2000挺)を幕府に寄贈した。幕府はその後同銃を仏国から購入している。「幕兵は後装式銃で発射速度が10倍も早いうえ、兵力も多いからこれにはさすがに武勇を誇る薩兵もタジタジとなった」(第2編第2章・4日、下鳥羽陣地、赤池)と、幕府伝習隊によるシャスポ―銃の使用を認めている。 幕府陸軍の編成 慶応3年頃の幕府陸軍の規定では、1個歩兵大隊の構成 小隊 約50名(兵40名+嚮導・士官など) 中隊 約200名(4個) 大隊 約800~900名(4個中隊+大隊本部・各種係(下士官など)) 鳥羽伏見の戦いでは幕府軍は総勢11大隊を動員したとされる。 当時の軍政改革に基づいた規定の数字と、戦地での実数に若干の幅あり。 鳥羽伏見の戦いにおける実状 軍の主力となった歩兵奉行竹中重固が率いる歩兵隊などはフランス式兵制を導入していた。 ・充足率:すべての大隊が満額の900名が揃っていたわけではなく、部隊により600名から700名程度で運用されていたケースもある。 ・総兵力:幕府軍全体では15,000名と言われるが、その中に「歩兵大隊」だけではなく、会津藩・桑名藩などの諸藩兵や新選組、遊撃隊といった独自の組織 も含まれていた為、全てがこの「大隊」に含まれていたわけではない。上記の「歩兵大隊」の数字だが、騎兵や砲兵はまた異なる単位で動いていた。 鳥羽伏見の戦いでは狭い街道での戦闘が主だったため、大隊単位よりは、数個の「小隊」を組み合わせた小規模な単位が最前線で衝突 するような形となっ た。 幕府軍主力の配置 大きく分けて鳥羽海道と伏見街道の二手に分かれて進軍した 1.鳥羽海道 鳥羽口からは、主に竹中重固(歩兵奉行)が率いる主力部隊が進軍する。(佐々木只三郎や桑名藩兵が先鋒を務めたが,槍や刀を用いた旧来の突撃が、新政府軍の近代的銃火器の前に大敗を喫した) ・歩兵部隊:計5個大隊 〇主力の歩兵大隊に加え、伝習隊の一部などが含まれる。 ・その他の部隊 〇見廻組 (佐々木只三郎ほか) 〇桑名藩兵 〇大垣藩兵 2.伏見街道 ・伏見口では、滝川具挙(歩兵奉行)を指揮官とし、伏見奉行所を拠点にする。(薩摩軍の砲撃による火災で拠点を失い、撤退を余儀なくされる) ・歩兵部隊:計5個大隊 〇幕府歩兵隊の約半数がこちらに配備される。 ・その他の部隊 〇会津藩兵(先鋒) 〇新選組 (土方歳三他) 〇遊撃隊 ・状況:伏見奉行所を拠点として新政府軍と激しい銃撃戦・砲撃戦を繰り広げたが、奉行所からの火災により退却を余儀なくされた。 3.その他の予備兵力 ・本営・予備:1~2個大隊 淀城や八幡方面、あるいは徳川慶喜がいた大坂城の守備・予備兵力として置かれていた部隊 。 幕府軍は総数で圧倒していたが、11大隊という大軍が一本道の街道に集中した為、後方の部隊は前方の味方が邪魔になり一発も撃てない事態が頻出した。逆に新政府軍は、地形を活かして効率的に火力を集中させたことが勝因となった。 鳥羽海道では、佐々木只三郎や桑名藩兵が先鋒を務めたが,槍や刀を用いた旧来の突撃が、新政府軍の近代的銃火器の前に大敗を喫した。伏見奉行所では、薩摩軍の砲撃による火災で拠点を失い、撤退を余儀なくされる。 恭順路線への転換、そして「戦わず従う」とする判断の要因 鳥羽伏見での敗北が決定的になった時点で、「なお大坂城で一戦交えるか」あるいは「江戸に退却して恭順を示すか」という判断はどのような要因によって説明されるのか。 1.朝敵化への恐怖(水戸藩の尊王意識) 1.元来から武力決戦を忌避していた方針 1.幕府軍そのものの実力不信(西郷、大久保に匹敵する人材の不足) 1.慶喜自身の慎重性・逃避的な気質 1.早期恭順によって内戦拡大を避けようとする計算 以上の様な要因が複合して、「大坂から江戸へ退く」行動につながったと思われる。 尾張藩青松葉事件 慶応4年(1868)に尾張藩主徳川慶勝が、藩内の旧幕府支持派の家臣を粛正した事件で、「奸徒誅戮」の勅命を受けて実行された。新政府への恭順を示すため、慶勝が京都から帰国後、重臣を含む14名を斬首、20名に処分を下し、尾張藩を勤皇討幕の道へ転換させるきっかけとなった。 この事件は、幕末動乱期における親藩(徳川家の親戚筋)である尾張藩が新政府の意向を受けて佐幕派を粛清し、藩の方向性を決定づけた。 慶勝は続いて家臣を三河・遠江・駿河・美濃・上野など東海道・中山道沿道の大名・旗本領に派遣し、新政府恭順の証拠として、「勤王証書」を提出させる活動を繰り広げた。この活動により、仁和寺宮嘉彰(小松宮彰仁)親王の率いる東征軍は大きな戦闘を経験することなく進軍することができたといわれる。 斬首された筆頭格家老である渡辺新左衛門家の別称が「青松葉」とされていたことから青松葉事件と呼ばれたとする説がある。 由利公正(三岡八郎)と太政官札財政 明治新政府が成立した直後の最初の一年間は、一番財政状況が厳しかった。 財政基盤を持たない連立政権は、大政奉還した徳川慶喜に辞官・納地を迫ったが,慶喜は、官位は速やかに辞退するが、『御政府御入費モ差上度申上候心底ニハ候得共、即今人心居合兼、痛心之訳柄モ御座候ニ付、鎮定次第奉願上度候』 と納地の要求を拒絶した。維新政府にとって、国帑と称すべきものは、わずかに御料の三万石に過ぎなかった。新政権発足直後の約一年、革命的な財政上のアイデアによって、支え続けた財政家がいた。それが由利公正であった。 財政上のアイデアとは、不換紙幣の発行である。今日では紙幣は不換紙幣が常識だが、今日の日本の人々が、紙幣が兌換券、すなわち金貨などと交換が保証されていることなどとは、考えていない。しかし、当時の常識では、紙幣は絶対に兌換紙幣でなければならなかった。 太政官札(だじょうかんさつ)は、明治政府によって慶応4年(1868)から明治2年(1869)まで製造発行された政府紙幣(不換紙幣)、金札とも呼ばれた。日本初の全国通用紙幣である。江戸時代にも「藩札」などの紙幣はあったが、それらは特定の地域内(藩)でのみ通用するものであった。 通貨単位は江戸時代に引き続いて両、分、朱のままであった。太政官札はその後、明治4年(1871)、新貨条例の制定などを経て、明治12年(1879)11月までに新しい紙幣や公債証券と交換・回収され、その役割を終えた。 維新政府の資金調達 鳥羽伏見の戦いに勝利した結果、徳川家を追討することが1月7日に決定された。それを受けて財政小委員会のようなものを立ち上げ、委員長に岩倉具視が着いた。委員には光岡八郎の他、薩摩の大久保一蔵・岩下方平、長州の広沢真臣、土佐の福岡孝弟・後藤象二郎と有力者が顔をそろえたが、財政の事は判らない。これから始まる対幕戦にどの程度の経費が必要か、見当も付けられない面々であった。 光岡八郎には財政家として福井藩を動かした経験から、当面の対幕戦に勝利しても、その後の東北諸藩との戦争が来ると予想される、その為に300万両の調達という数字を挙げて、出席者の度肝を抜いた。実際、結果としてみれば300万両でも、大幅に不足していたのである。 光岡は当面の策として、会計基立(もとだて)金の設置を提案した。戦費を国債によって調達し、その経理の為に特別会計を設置して、一般会計とは区分経理しようというものである。実はこのように特別会計による国債の区分経理は、世界でも殆んど例をみず、日本でも最初の財政施策であった。 その結果、1月12日には300万両の募集がその会議で決まり、最終的に23日に正式決定された。会計基立金の募集を成功させるためには、太政官札発行が極めて重要な条件だったのである。23日には太政官札の発行も承認されている。 2月11日には京都の富商16名に対し、御親征費5万両の調達を命じ、三井、島田、小野が合計で3万両、その他の者が2万両、計5万両を上納することになった。光岡は、その後直ちに大坂に行き、鴻池善右衛門外14名の大阪の富豪に対し5万両の調達を命じ、結果的に鴻池の5500両を筆頭に5万両が調達された。しかし、実際にはその程度では足りるわけがないので、その後も繰り返し調達が命じられた。納付した側ではおそらく、幕府の御用金と同様、返って来ないものと思っていただろうが、この京都・大坂を合わせた10万両は、明治2年末には悉く返還されている。(神長倉真民 『明治維新財政経済史考』 482頁) 「八幡市誌第三巻」には、6月になると八幡でも31人に対して総額1万700両の冥加金が京都府から申しつけられ、驚いた一同が停止もしくは減額の運動を起こしている。と記載されているが、結果はどうであったか不明である。 八幡の戦災 慶応4年正月の砲撃による八幡の被害は、全域(内四郷・外四郷)1280軒中621軒が焼亡した。なかでも、社務田中家・社士家22軒・法圓寺・念仏寺・九品寺・頓宮・極楽寺・礼堂・高良社・神馬屋・橋本西方寺・智善寺・神原町会所・馬場町会所・浄光寺・明願寺・良徳庵・正明寺・平谷町稲荷社など、常盤郷・科手郷・山路郷と八幡宮山下の中心部がほとんど被災した。放生川にかかる安居橋・土橋とも焼け落ちてしまった。山崎高浜から大砲を撃ちかけられた橋本町は、社士宅2軒、寺1カ寺、町家百姓79軒、土蔵31カ所、番所3ヵ所、髪結所1軒が類焼し、町の大部分が被害にあった。幕府軍が河内へ退却していった志水町では、追討にかかった官軍との小競り合いで58軒が焼亡した。(八幡市誌第三巻) 以上 ![]() 主な参考文献 『開国と倒幕・日本歴史⑮』田中 彰 集英社 『黒船前後の世界』加藤祐三 岩波書店 『島津久光=幕末政治の焦点』町田明広 講談社選書メチエ 『戊辰役戦史』(上)大山 柏 時事通信社 『鳥羽伏見の戦い』野口武彦 中公新書 『慶應事件記』吉川惣七郎 枚方市史資料第二集 枚方市役所 『戊辰戦争-鳥羽伏見の戦いと枚方-』枚方市史 第三巻 『楠葉台場跡(資料編)』(財)枚方市文化財研究調査会 枚方市教育委員会 『新選組戦場日記』永倉新八「浪士文久報告記事」を読む 木村幸比古 PHP 『由利公正と太政官札財政』甲斐素直 日本法学第86号巻第1号 『男山考古録』石清水八幡宮史料叢書 長濱尚次 石清水八幡宮社務所 『八幡市誌 第三巻』八幡市 『八幡の歴史を探る』第74号・76号・95号・96号 八幡の歴史を探究する会 #
by y-rekitan
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野間口 秀國(会員) <取り上げたきっかけは> 昨年の晩秋から初冬にかけて京都府立京都学・歴彩館にて開催された 「京の鳥瞰図絵師吉田初三郎 –-没後70年によせて--」と題した展示会に足を運びました。 時代やテーマによって区分された展示品を資料に従って見て回った中で最も興味深かったのが、次項より詳述します展示資料No.5、資料名 『京阪電車御案内』 でした。今日のように比較的自由に撮りたい(描きたい)場所から画像の撮れるドローンなど無かった時代に、八幡(現:石清水八幡宮)がほぼ中央に描かれ、左端には三條(現:三条)、右端には天満橋、そして中央奥には宇治、の各停留所が一枚に描かれた簡素ながらとても新鮮なものでした。筆者の最寄りの橋本駅もこの絵図に描かれていたのは少しうれしい気分でした。 <吉田初三郎について> まず 『大正昭和の鳥瞰図絵師 吉田初三郎のパノラマ地図』(P89) に書かれた「吉田初三郎年譜」を、少し長いですが引用して「京阪電車御案内」が描かれるまでの初三郎の30年を振り返ってみたいと思います。以下、引用文です。 明治17年(1884)1月、初三郎は京都に生まれ、当初の姓は泉でした。翌18年(1885)、父を失った初三郎は母の姓(吉田)に戻り母に養育されます。明治27年(1894)、10歳の時に義務教育(尋常小学校4年)を修了し、同37年(1904)に20歳で徴兵検査を受けて丙種合格します。同38年(1905)、21歳で日露戦争に従軍して満州各地を転戦した後、同40年(1907)に23歳で除隊しました。その後、単身上京して浅草で絵看板などを描いて収入を得ていました。 明治42年(1909)、25歳で帰京し、関西美術院で絵画を学び始めます。同45年(1912)、28歳の時、商業美術も隆盛になりつつあった時期に、二度目のフランス遊学から帰った鹿子木孟郎(かのこぎ たけしろう・洋画家)に「洋画界のためにポスターや壁画や広告図案を描く大衆画家となるよう」との指導を受けました。鹿子木は初三郎の商業美術の才能を認めたものと思われます。 時代は変わり大正2年(1913)、29歳の初三郎は、京阪電鉄の太田光熙専務(のちに社長)の依頼で、彼の処女作となる「京阪電車御案内」を描きました。 引用終わり。 ![]() 写真1 京阪電車御案内(部分) 『大正昭和の鳥瞰図絵師 吉田初三郎のパノラマ地図』より <「京阪電車御案内」の石清水八幡宮> そして翌大正3年(1914)、初三郎30歳の年に学習院初等科をご卒業の皇太子(昭和天皇)が京阪電鉄沿線の男山八幡に行啓。貴賓電車の車中に初三郎が手がけた鳥瞰図の「京阪電車御案内」を、「これはきれいでわかりやすい。東京に持ち帰って学友に頒ちたい」とご嘉賞。同社では早速数部を献上した。と記されています。また、写真1には、“関西行啓中の皇太子(昭和天皇)がご嘉賞。数部を持ち帰り、学友に頒ちたいと語って初三郎を感激させたのはこの作品” との添え書きがあります。 行啓の様子は 『昭和天皇実録 第二』(P20)にありますように、大正3年3月27日・金曜日、まさに本号発行の時節に、なされたことが分かります。その内容の一部を転記したいと思います。 “午前九時三十分人力車にて二条離宮を御出門、官幣大社男山八幡宮及び宇治方面への行啓の途に就かれる。五条停留所より電車に御乗車になり、八幡停留所よりは徒歩にて参道をお登りになり、御休所の鳩嶺書院へ御着になる。(以下省略)”。 また、この京阪電車路線図は同社初の路線案内図として『京阪百年のあゆみ』(P720)にも掲載されており、その説明書きは以下のようです。 “大正2年(1913) 京阪電車路線図(吉田初三郎作) 昭和天皇が皇太子時代、吉田初三郎が描いたこの鳥瞰図的アングルの京阪電車路線図を見て、大変分かりやすいと気に入られたため、以降吉田初三郎は路線図の人気絵師として全国各地の鉄道路線案内図を描くようになる。” この路線図にある八幡停留所近くには、「一の鳥居」が描かれてあり、その近傍に「神應寺」が、石段を登った山頂には「男山八幡」の文字が読み取れます。 吉田初三郎はこの作品を皮切りに、「京都名所大鳥瞰図1928」の他、北は北海道から南の沖縄まで、ほぼ全都道府県(社史発行時に発見されてない県が2県)の名勝地、市街地図、鉄道案内図などなど、数多くの作品を遺しました。そして昭和30年(1955)8月16日、京都市内で亡くなりました。71歳でした。 <山城国旧地図に見える石清水八幡宮> 前述の「京阪電車路線図」は大正時代初期に描かれたものですが、八幡近辺の様子が描かれた 『江戸時代図誌2(洛外名勝遊覧)』 の絵図も興味深いものがあります。この絵図は「京阪電車路線図」より250年ほどさかのぼる、寛文期(1661~73)、17世紀中盤に描かれたと思われます。 ![]() 写真2 「巨椋池の近郊」 『江戸時代図誌2 (洛外名勝遊覧)』 筑摩書房刊より 「巨椋池の近郊 (山城国旧地図)」 と題するこの絵図は、鳥瞰図とは異なりますが、中央に巨椋江(オクラエ)が、その北に紀伊郡、南には久世郡、綴喜郡などの文字も確認できます。巨椋江から流れ出る川は、絵図の左端、河州(河内国)へと流れ下ります。 河州の文字の東側(右)には山城国の橋本郷、狩尾社、さらに鳩峯、雄徳山、そして八幡の文字が続きます。絵図に添えられた「橋本と淀」と題した解説文の一部を転記してみたいと思います。 “(略 ・・・) 木津川に架かる淀大橋を渡って、大坂街道へ抜けた。大坂街道へ入ると、男山八幡宮を左に見ながら橋本へ入る。橋本は、かつては街道ぞいの一寒村であったが、寛文期(1661~73)前後から旅人の宿ができ、町並みを形成するようになった。(以下略)” 。 絵図には「石清水八幡宮」の表記は見えませんが、解説文中には何故か明治から大正時代初期の呼称の「男山八幡宮」、また絵図には「雄徳山」の表記を見ることができて、絵図や文中からも歴史を感じることができるのではないでしょうか。 <叡山電車花洛遊覧圖絵の石清水八幡宮> さて、昨年の新語・流行語大賞は「働いて x 5 まいります/女性首相」でした。他の候補に「戦後80年/昭和100年」がございましたが、各種の広告及び公告などには「○○から80年」、「○○から100年」といった複数のコピーを目にしました。 「民藝誕生100年」、「放送開始100年」、「三島由紀夫生誕100年」、「日本相撲協会100周年」などなどございましたが、京都では 「叡山電鉄株式会社が、秋に開業100周年を迎えた」、との記事も見過ごす訳にはゆきません。次の100年に向けて意識することは、との新聞記者の問いに、社長は「地元で愛される鉄道であり続けたいというのが一番。」と答えておられました。 ![]() 写真3 叡山電車 花洛遊覧圖絵(部分) 『開業百年記念京都鳥瞰図 叡山電車花洛遊覧圖絵』より 本稿の冒頭で鳥瞰図の展示会のことにふれましたが、主展示会場の多くの展示品に加えて、少し離れた場所に関連書籍なども展示されてありました。 そして、この場所で目にした展示品(冊子)の1つが 「開業百年記念京都鳥瞰図 叡山電車花洛遊覧圖絵」 でした。 この冊子には、「叡山電車 暦」、「歴代車両」、「路線図」 に加えて横長の(冊子の3ページに広がる) 「叡山電車 花洛遊覧圖絵」 が収められていました。圖絵には叡山電車の営業路線は言うまでもなく、遠くは東北地方の奥羽山脈や佐渡島が、南は沖縄、西は対馬や隠岐が描かれているのです。 この鳥瞰図のとてもユニークな点は、沖縄と九州の間で上空へ飛ぶロケットが、また、隊を組んで飛ぶ六機の飛行機が描かれていることでした。ロケットや飛行機などは江戸時代には決して描けませんし、六機連隊はどう考えても大阪関西万博でのブルーインパルスのデモ飛行であろうと想像できます。作者の遊び心が垣間見えるもので、とても楽しい圖絵でした。 うっかり忘れそうになりましたが、この圖絵にも本稿の主題である「石清水八幡宮」がその名称を含めてしっかりと描かれていたことは記しておきます。 <おわりに> 本稿で取り上げましたのは数少ない絵図の事例ではございましたが、絵図には、男山八幡宮、雄徳山、石清水八幡宮など、描かれた時代の呼称が反映されていました。これらの絵図は絵として見るだけでは無くて、関連する書籍などを併せて読むとさらに楽しいのではないでしょうか。ちなみに、石清水八幡宮のHPを参考に呼称の変遷を見てみますと、幕末までの正式な呼称は「石清水八幡宮護国寺」(通称は石清水八幡宮)で、明治元年(1868)に官幣大社に列せられ「男山八幡宮」と改称され、大正7年(1918)に現在の「石清水八幡宮」に改称されたことが分かります。 この春にも石清水八幡宮では「男山桜まつり」が開催され、訪れる多くの参拝客による賑わいを期待したいと思います。 最後に、情報提供やご教示をいただきました石清水八幡宮・神道様、京阪電車お客さまセンターのご担当者様に紙面を借りて厚く御礼申し上げ、本稿を終わります。 2026.3.17 参考書籍、資料、確認先等: ・『昭和天皇実録 第二』 東京書籍株式会社刊 P20 ・石清水八幡宮 ・京阪電車お客さまセンター ・『大正昭和の鳥瞰図絵師 吉田初三郎のパノラマ地図』 平凡社刊 ・『京阪百年のあゆみ』 京阪電気鉄道株式会社刊 P720 ・『江戸時代図誌2 (洛外名勝遊覧)』 筑摩書房刊 ・「開業百年記念京都鳥瞰図 叡山電車花洛遊覧圖絵」 叡山電鉄株式会社刊 ・「京都新聞記事」’25.11.26(70年展)12.02(流行語)12.05(叡電百年) #
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