![]() ◆おしらせ 2025年10月 #
by y-rekitan
| 2025-11-30 23:00
心に引き継ぐ風景
![]() (文と写真 谷村 勉)空白 #
by y-rekitan
| 2025-11-30 22:00
| 心に引き継ぐ風景
講演会・発表会
重要文化財 石清水八幡宮摂社狩尾社 本殿保存修理工事 -建物の変遷並びに塗装及び美装の特徴について- 京都府教育庁指導部文化財保護課 村瀬 由紀史 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() #
by y-rekitan
| 2025-11-30 20:00
| 講演会・発表会
会員研究
野間口 秀國(会員) 「石清水八幡宮と麓の駅」に続いて、本号では「境内を飾る酒樽45本+1」と題して石清水八幡宮の手水舎の向い側に展示されている酒樽について書いてみたいと思います。なお、表題にあります+1 については後述いたしましたので確認願います。 石清水八幡宮の手水舎で多くの人が浄められる姿は見えても、真向かいにある「奉納御献酒」と書かれた縦長の木札の付いた酒樽展示棚に興味を示される人は少ないようです。個人的には展示されている酒樽に以前より少なからず興味がありました。 特に、「隣の芝生シリーズ ⑥」、会報第123号(2024.9.24)で城陽市について書かせて頂いた際に訪れた酒造会社にて、至近距離で「城陽」の酒樽の実物を見せていただき、その後、酒樽展示棚に同じ酒樽の存在を知り、更なる興味が湧きました。 ![]() 写真1 境内を飾る酒樽45本+1 <菰樽と石清水祭> 日本酒の樽を箍(たが)で締めて、稲わらで作った菰で巻いたものが菰樽です。菰樽は多くの祝いの席で見られる一品であると言えるでしょう。紙製の容器も増え、ひと昔前ほどの出番は多くないように思えますが、時おりニュース番組などで鏡割りの映像を見ることもあります。今日では「菰樽を作れる人も少なくなった」ことも前述の城陽の酒造会社で聞き及びました。菰樽の菰がすべて稲わらで作られている訳では無いようで、最近の菰には樹脂の素材が使われたものもございます。また、上げ底されているものも存在するのです。上げ底の樽とは、樽の中間に中板を設けて底が高くなっている樽のことですが、健康志向の為かどうかは疑問ですが、見栄えのする樽は必要でも、中身の酒は満杯でなくても良いのかも知れません。 写真1 は石清水八幡宮の境内に展示されている菰樽です。その前に立つと壮観です。 なお、右端の列にある樽、(表題の+1)は日本酒用では無くて、ウイスキー用の樽であることは明らかですので、本稿ではこの樽については割愛させていただきました。 では、なぜこのように展示されているのでしょうか。 日本では、古来より各種儀式で酒は大切な役割を果たしてきました。ここ石清水八幡宮で執り行われる放生行事は貞観5年(863)に始められ、この行事が天暦2年(948)に勅祭石清水祭として斎行され、上賀茂神社・下鴨神社の加茂祭(葵祭)、春日神社の春日祭、とともに三大勅祭の1つとして現在に引き継がれています。 石清水祭は9月15日深夜の御鳳輦発御で神幸の儀が始まり、引き続き、絹屋殿著御の儀が、そして夜明け前に頓宮での奉幣の儀が始まり、神前に古式神饌が献じられます。31種の神饌(神社や神棚に供える供物)が順番に神職の手渡しによって神に供えられます。その最初の通盆(かよいぼん)で運ばれるのが、御飯と御箸、そして清酒なのです。このことからも、石清水八幡宮での酒の重要さやその意味合いがお分かりいただけるのではないでしょうか。 <展示の菰樽を細かく見ると> 境内に飾られた樽は同宮の主要行事(石清水祭、正月、献酒祭)などに際し、酒造会社(他、企業や個人など)から献上されたものですが、さらに細かく見てゆきたいと思います。 1つ目は、展示樽数と銘柄です。 その数は、縦5段、横9列で合計45樽。銘柄を確認しながら数えて見ると、同一銘柄の3樽展示が3社で合計9樽。同じく2樽展示されているものが11社で合計22樽、また1銘柄1樽の展示が14社で合計14樽で、酒造会社の総数は28社を数えました。(無論、献酒の全てではありません。) 2つ目は、これらの展示樽に入るお酒の量です。 一般的な樽の大きさは、縦、横、高さが各40cm程度の1斗樽、同じく各50cm程度の2斗樽、そして、各65cm程度の4斗樽です。 樽の大きさによって酒の量も変わります。ちなみに1斗は18リットル(以下、Lと表示)ですので、それぞれ18、36、72Lとなります。では境内に展示されている樽は何斗樽かと目測してみますと、その高さから4斗樽であろうと推定できます。 念のために石清水八幡宮の神官の方に訊いてみましたが、「4斗樽である」ことが確認できました。計算の結果、飾られた樽のお酒の量は、4斗樽(72L)が45個、総量は3,240L、1升瓶換算で1,800本となります。 <一番高い位置にある「男山」> 写真1の「境内を飾る樽45+1」を注意深く見て頂くと、最上段の1丁目1番地は「男山」であることに気づかれると思います。この商品がこの位置であることには少なからず理由が有ると思っていましたが、あるきっかけで解りかけてきました。 関西でお酒(清酒)が有名なところは、疑う余地もなく京都の伏見、神戸の灘ですが、忘れてならないのが江戸時代初めから酒造りで有名な兵庫県伊丹市です。 この6月の初めに、とある歴史散歩の行事で伊丹市を訪ねました。猪名野神社、伊丹郷町の酒蔵跡、有岡城跡などの見学に加えて故・田辺聖子氏が館長をなさっておられた「伊丹市立図書館・ことば蔵」を訪れました。 その際、清酒の歴史に関する本などが展示されている中に、伊丹や池田などの清酒の番付表があるのに気づきました。そこには紛れもなく、大関、関脇に次いで小結の番付に「伊丹(産地) 男山(銘柄) 山本(酒蔵)」が記されてあるのを発見したのです。 石清水八幡宮に展示されてある「男山」はこれではないのか、と小躍りする気分になりました。 当日の参加者の中にお酒に詳しそうな人もおられたので訊きましたところ、「男山は北海道の旭川ではないか」 とのお答えでしたので、「えっ、旭川」と驚きを覚えました。 調べてみましたら 『日本酒 完全バイブル』 の北海道の項に「男山」の記載がありました。 紹介文には、“純米大吟醸で兵庫県産「山田錦」を38%まで磨き上げ・・” とあり、続く文には “「男山」の名は、創業時に京都の男山八幡宮に参籠したことにちなむ” などとあります。 <伊丹の「男山」> これで、かつての伊丹の「男山」と現在の北海道旭川の「男山」の存在が確認できましたので、まず伊丹の「男山」の歴史について、“銘醸『男山』酒史” (男山株式会社蔵)に書かれていることを以下になぞってみます。 (以下、*:は筆者注です) 慶長五年(1600)、日本最初の清酒醸造が摂津伊丹の山中勝庵によって始まる。 寛永十二年(1636)、山中勝庵、清酒を駄馬十頭(*:一駄は四斗樽二丁)に積み(合計二十樽)、函嶺(*:箱根山の別名)を越し江戸へ送る。万治元年(1658)、伊丹の酒、江戸廻船輸送始まる。 寛文元年(1661)、五摂家筆頭の近衛公伊丹の領主となり清酒醸造を奨励する。この頃、山本三右衛門が営む「木綿屋山本本家」という酒蔵にて「男山」が誕生する。 元禄十年(1697)、御酒屋の称号と総宿老の制定まり御酒屋二十四家帯刀御免。 元禄十二年(1699)、伊丹大火 酒造家十六家七百余戸焼失。 元禄十五年(1702)、伊丹大火 四百三十九戸全焼。 このころの伊丹の酒造高 十二万余石。 宝永六年(1709)十月、江戸廻船熊野灘遭難。 酒積五十余艘を失い、酒荷三万五千駄(*:4斗樽で7万本)を失う。正徳五年(1715)、酒荷江戸積番付 「男山」 大関の位を得る。 享保九年(1724)、伊丹の酒江戸表へ十万駄送出。 享保十七年(1732)六月、江戸廻船遠州灘遭難 酒積百艘余難破 「男山」 享保十八年(1733)、八代将軍徳川吉宗の御膝酒となる。 宝暦十年(1760)六月、江戸大火 伊丹酒四万駄焼失。 宝暦十一年(1761)十二月、伊丹の酒造家に対し幕府は冥加金百十三万両仰付。(*:冥加金とは、領主権力(幕府)が自己を領民の庇護者としての恩恵(国恩)を強調して、これを口実に年貢を納めない商工業者に対して農民の年貢に相当する冥加を求めるようになった。) 1800年以降は伊丹の酒に替わって灘の酒が人気を博すようになり、木綿屋山本本家は明治の初頭に廃業となった。 上記の通り、江戸時代の伊丹の酒「男山」の変遷の概略が解ります。 <旭川の「男山」の歴史> 引き続き、北海道旭川の「男山」について書いてみたいと思います。 新潟県より北海道札幌に移住した山崎與吉氏が明治二十年(1887)に山崎酒造を開業、明治三二年(1899)に旭川に移転。 当初は石高も順調に増加していたが、良質の酒米が採れず、酒造設備も古かったため地元北海道での大きな販売は得られなかったのです。 ![]() そこで、「本州に負けない良い酒を造る!」を合言葉に「品質の向上」に向けて取り組み、旭川の酒造の底上げを図ることに着手。 昭和四三年(1968)、新社屋を竣工、これに伴い社名を「男山株式会社」と改称し、同時に「男山酒造り資料館」を開設する。 当時から世に「男山」を冠する商品は存在したが、社名改称を機に「木綿屋山本本家」の末裔の正統山本良子氏から印鑑商標その他一切の権限の譲渡を3代目・山崎與吉氏が受けられ、新たに名醸男山の正統としてここに立ちあがられたのです。 以降、「男山」は独自路線で海外市場を開拓し、昭和五二年(1977)から長きにわたって複数の酒類コンクールで金賞を受賞しています。 <境内にある「男山」> 旭川の「男山」について調べている最終段階で、“石清水八幡宮に飾られている樽は旭川の「男山」の樽とはデザインが異なる” との情報が「男山株式会社」より届いたのです。 「男山」の名を冠する酒は国内には複数ありますので、改めて確認した結果、飾られている「男山」の樽は山口県の酒造会社のものであることが分かりましたが、本稿では詳細は省きます。 <もう少し旭川の「男山」について> ここで、旭川の「男山」に関わることがらについて二三補足したいと思います。 その一つが、男山縁起についてです。「男山株式会社」の資料(原文のまま)によりますと、 “伊丹の名醸男山は醸造元木綿屋の遠祖が八幡太郎義家の弟新羅三郎義光に出ており後八幡太郎を男山に勧請し男山八幡宮と称えたことに因り 参籠して霊感を受け銘酒男山を醸造したと伝う” とあります。 ![]() 名醸『男山』酒史 (部分) 「男山縁起」 その二つ目が、浮世絵に描かれた「男山」です。喜多川歌麿の「名取酒六家選」と題する、版元・蔦屋重三郎と喜多川歌麿が組んだ大判六枚揃いの錦絵です。 喜多川歌麿が描く “『名取酒六家選』 酒の引札” は、銘酒と名高い酒と、人気の遊女を組み合わせた寛政七年(1795)頃の板行(*:刊行のこと)です。遊女名は、「若那屋内白露」、銘酒名と産地は、木綿屋男山 摂津伊丹の木綿屋の銘酒で(*:画中の樽に「男山」と描かれてあります)、所蔵は東京国立博物館です。 三つ目が、どこで手に入るか、です。 JR大阪駅西出口近くに中央郵便局がありましたが、局は移転して新ビル「KITTE OSAKA」がオープン。同ビル2Fに各地の物産展示販売ブースが出来ました。 ブースの一つに北海道物産コーナーがあり、この夏に訪ねてみると「男山」が販売されていました。 <おわりに> 樽の展示がいつから始まったのかについては詳らかではございませんでしたが、暑い夏の日々、旭川の「男山」を調べていると暑さも少しだけ和らいだ気分で過ごせました。 最後に、ご親切にご教示いただきました石清水八幡宮の権禰宜 神道尚基様、男山株式会社の企画課 金森徹諭様に紙面をお借りして厚く御礼申し上げ本稿を閉じます。 令和7年(2025)10月20日 参考書籍及び資料等: 『神饌』 南里空海著 世界文化社刊 『文化財を訪ねて』 伊丹市文化財ボランティアの会編 「男山の載る番付表」 伊丹市立図書館本館・ことば蔵の展示品 『日本酒 完全バイブル』 八田信江監修 ナツメ社刊 「銘醸『男山』酒史」 男山株式会社史料 同社蔵 「男山株式会社」の案内パンフレット
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by y-rekitan
| 2025-11-30 18:00
| 会員研究
事務局だより
第53回八幡市民文化祭 令和7年10月25日(土)・26日(日) 八幡の歴史を探究する会 谷村 勉 本年も文化祭に参加し、近代に活躍した日本航空界の父「二宮忠八」を紹介した。少年時代からよく知る名前だが、二宮忠八は愛媛県八幡浜市出身であることから、八幡市と八幡浜市は、令和7年8月に「友好都市協定」を結んでいる。これまで10年間積み重ねてきた中学生による交流にとどまらず、今後は観光・文化など様々な分野での交流の発展が期待されます。愛媛県八幡浜市と言ってもご存知無い方も多いと思われるが、筆者個人的には現役の頃、赴任先エリアの一つでもあったので、懐かしい。 【二宮忠八と飛行神社 】 二宮忠八は慶応2年(1866)に愛媛県八幡浜で生まれる。子どもの頃から独学で作った凧は、よくあがるので「忠八凧」と呼ばれました。 明治20年(1887)に、丸亀の軍隊に看護兵として入営した忠八は、カラスが滑空する姿に興味をもちました。 ![]() カラスは広げた翼に揚力を生じさせ、ふき上げる上昇気流など複雑な力をうまく利用して滑空することを発見したのです。それが、空を飛ぶ機械(飛行器)発明のヒントになりました。 ![]() カラス型飛行器 その後、トンビ凧を原型とする模型飛行器製作に取りかかり、研究を重ねて、明治24年(1891)4月29日丸亀練兵場の広場で日本人初のゴム動力を使った「カラス型飛行器」の飛行に成功しました。(忠八は、飛行機を飛行器と書きました) 飛行神社ではこの日に祭礼が行われています。 ![]() 玉虫型飛行器 その後、人が乗れる「玉虫型飛行器」の開発をめざし、明治26年(1893)頃に設計をしました。軍に研究開発の支援をしてもらおうと日清戦争従軍の時から何度も願い出ましたがゆるされず、独力開発を決意しました。 明治31年(1898)に大阪の製薬会社に就職し、地位を高めていきました。資金を貯え、八幡を訪れた忠八は橋本の淀川の河原が飛行機の実験場に最適であると判断しました。そして橋本に工作所を購入し開発を続けました。 しかし、ライト兄弟が明治36年(1903)に有人動力飛行に成功していたことを工作所購入のすぐ後に知り、研究・開発を断念しました ![]() Wikimedia Commons「ライト兄弟初飛行」/Public Domain その後、世界は航空機時代となり、飛行機による犠牲者が多く見られるようになりました。忠八はその御霊を慰めるために、八幡土井の自宅に神社を創建しました。殉難者の御霊にやすらかに眠っていただくことと、航空安全と航空事業の発展を願うためです。その願いは、今も飛行神社に受け継がれています。 愛媛県八幡浜市と「友好都市協定」を締結しました 今後は観光や文化など多分野での発展が期待されています。 ![]() 「八幡浜市はみかんと漁業が有名な町です。何といっても魚が美味しいところで、皮ちくわなどの練り物は格別です。八幡に帰ってから暫くは魚が食べられないほどでした。また、愛媛県のどこの海岸も釣りの宝庫ですが、佐多岬半島(三崎町)先端の磯釣りで真鯛の大物を釣り上げたこともありました」(谷村 勉) ![]() #
by y-rekitan
| 2025-11-30 15:00
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