◆八幡の歴史を探究する会 130号

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 本会では、2010年より京都府八幡の歴史についての探究と共有を目指して、講演会や歴探ウォークの開催、会報の発行等の活動を積極的に続けています。


    ◆おしらせ         2025年10
# by y-rekitan | 2025-11-30 23:00

二宮忠八は渡し舟でやって来た 130号




心に引き継ぐ風景・・・(61

二宮忠八は渡し舟でやって来た
―『虹の翼』吉村昭より― 
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山崎側からの男山(石清水八幡宮とその史蹟)

 慶應二年(1866)、愛媛県八幡浜で生まれた二宮忠八が八幡の橋本にやってきたのは、京阪電車が開通する(明治43年)前の明治41年早春の頃だった。

 忠八は京阪電車の線路敷設予定地域での測量を眼にするために、橋本に着いた。「かれは、大阪から汽車に乗り、山崎でおりた。それから10分余り歩くと淀川の渡船場についた。背後には天王山、淀川をへだてて男山が見え、彼は風光の美しさにみほれた。淀川には、大阪、京都間に外輪式汽船が定期的に往来していて、ちょうど汽船が外輪をまわし水しぶきをあげながら上流にむかって進んでゆくのが見えた」(『虹の翼』)

しかし、忠八が橋本へやって来た当日は測量が行われていなかったことを船宿の人から聞いて失望したが、かれは丘陵の上にある石清水八幡宮に参詣した。船着き場に戻って、しばらく川沿いを上流に向かって歩くと、碑があって故郷と同じ八幡浜の字が刻まれていた。「なにか自分と深い関係がある土地のようにも思えてきた」とある。

橋本の渡し舟は谷崎潤一郎の『蘆刈』が知られているが、その他にも吉井勇、東大寺別当上司海雲、陶芸家河合卯之助、そして二宮忠八も乗っていた。のちに吉村昭は、顕次郎氏から父忠八の日記が蔵から見つかったと聞き、それを拝見している。資料を重んじる吉村は、この発見を契機に改めて忠八という人物を深く追った。

(文と写真 谷村 勉)空白


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# by y-rekitan | 2025-11-30 22:00 | 心に引き継ぐ風景

狩尾社本殿の修理からみえてくること 130号

《講演会》


重要文化財 石清水八幡宮摂社狩尾社
本殿保存修理工事
 
-建物の変遷並びに塗装及び美装の特徴について-



京都府教育庁指導部文化財保護課  村瀬 由紀史


1.概要

(1)石清水八幡宮の歴史

石清水八幡宮は、桂川・宇治川・木津川の三川が合流して淀川となる地の南側、男山丘陵上に鎮座する。その創建は、貞観元年( 859)に南都大安寺の僧・行教が宇佐八幡宮にて八幡神の神託を得たことを受けて、清和天皇が三宇ずつの正殿・礼殿を造立したことことにはじまると伝えている。
その後、石清水八幡宮は皇室の霊廟に位置付けられるとともに、八幡神を源氏の守護神とみなし、中・近世を通じ広く武家の信奉を集めた。現在の社殿の多くは寛永8~ 11年( 1631~ 34)にかけて徳川家光により再建されたもので、このうち本社本殿を含む 10棟が国宝に、摂社等8棟が重要文化財に指定されている。

(2)摂社狩尾社の沿革

狩尾社は、本社西方の飛地境内に鎮座する境外摂社で、大己貴尊・天照大神・天児屋根命を祀る。創建は詳らかではないが、八幡神が男山へ勧請されたことに伴って、当地の地主神が場所を移したものと伝わる。現本殿は、慶長6年( 1601)に、当時社務職を務めていた田中秀清の縁戚にあたるお亀の方(徳川家康の側室、尾張徳川家始祖義直の母、相応院)が本願人となって建てられたもので、石清水八幡宮に現存する最古の建物になる注 1。
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社殿は、三間社流造、檜皮葺で、基壇は正面を切石積、側背面を野面石積とし、礎石上に土台を組んで身舎柱を立て、身舎は外廻りを板壁に木摺りを打ち付けて設けた漆喰壁とし、内部は間仕切りを設けて内陣と内々陣に区画し、身舎の正面に棚・浜床を設け、庇柱の端部から側背面にかけては延石上に板玉垣を廻らせるというものとしている。建物全体には丹塗を基調とした塗装が、庇部分の柱上部から組物にかけては彩色が施される。

(3)事業の概要

修理前の建物は、基壇石積が孕み、一部が崩落していたため、礎石が不同沈下して全体に著しい歪みを生じていた。また、屋根の檜皮葺の破損が進み、応急処置として部分的に鉄板が葺かれる状況となっていた。この他に漆喰壁や塗装の剥落も進行していた。
以上のような状況から、令和3年( 2021) 11月から令和7年( 2025)3月にかけて、修理方針を解体修理とする保存修理事業を実施した。事業では、基壇の石積を積み直し、木部の補修と組立、屋根の檜皮葺の葺き直し、漆喰壁・塗装・彩色の塗り直しを行った。
なお、基本的には建物の姿が最も整っていたと考えられる寛永修理後の状況に復することとしたが、彩色については寛永修理時の状況が十分には確認できなかったことから、延享4年の修理後から江戸後期までの姿に復することとした。ただし、庇頭貫の波に龍の図柄については痕跡が十分に残っていなかったため、弁柄を塗って整備することとした。

2.建物の変遷

(1)建立と前身建物

慶長建立時の姿は、基壇は正面まで同高の野面石積、庇柱と板玉垣は礎石建としていたと考えられる(図4)。
なお、建立年代を明確に示す史料は発見できなかったが、年輪年代測定で 1598年頃の伐採とみられる壁板が確認され、土壁の納まりからは建立以降に軸部の解体が行われていないことから、慶長6年 (1601)の建立が裏付けられた。
一方で、柱・梁・桁・天井材など、主要部材の多くには転用された材料が用いられていて、その寸法・形状からは、現状とほぼ同規模・同形式の前身建物が存在し、部材が再用されている可能性が考えられた。

(2)寛永19年(1642)の改変

寛永 19 年に屋根葺替のほか、社殿の修理が行われ、身舎内部に間仕切りが設けられた(写真2)。また、基壇の正面側の石積を一段低くして切石積として積み直したほか、庇柱から玉垣下に延石を廻らせ、これに伴って玉垣板の取付位置が上げられた。なお、寛永年間に本社や摂社等の再建が行われていることから、これらの一連の改変は他の摂社の形
式に倣って行われたものとみられる。
その後、寛文5~7年( 1665~ 67)に屋根葺替が行われ、この際には屋根葺材が木賊葺に変更された。また、正徳元年( 1711)には屋根葺替と彩色修理が行われ、この際には屋根葺材がこけら葺に変更されたものと考えられる。

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(3)延享4年(1747)の改変

延享4年の屋根葺替では小屋組の修理が行われ、正面流れの小屋組材が丸太を用いたものに一新された。また、棟通りは登梁を合掌に組んだ上に束を立てる形式から、地棟に束を立てて野棟を受ける形へと変更した。屋根葺材は檜皮葺に復されたが注 2、野小舞は間隔を変えずに幅の狭いものへと取り替えられ、棟積が現状の成の高い棟積に変更された。
その後、安永9年( 1780)、文政2年( 1819)に屋根葺替・部分修理が行われた。文政2年の修理では、正面側の小屋組の修理が行われ、この際に一部の打越垂木を切断して庇桁より先を取り替え、化粧裏板の張替えを行った。また、登梁を引き出して杓子枘を彫り直すとともに、野木舞下に野地板を追加し、南東庇柱と庇格子戸・棚板・身舎床板・床束等の一部取替えも行ったものと考えられる。さらに、文久2年( 1862)に屋根葺替・部分修理を行い、この際に檜皮葺の軒付が蛇腹板から裏板を用いるものに変更されたとみられる(図3)。

(4)近代の修理・改変

近代に入ってからは、明治7年( 1874)に屋根の部分修理を、同 20 年に屋根葺替・部分・塗装修理を行った。同 41 年に屋根葺替と玉垣の塗装修理を、同 43 年には基壇の背面東半の石積が崩落したことから、花崗岩割石を用いて積直しが行われた。
その後、昭和2年( 1927)に屋根葺替・部分修理を実施、この際に正面木段・雨除板の取替え、玉垣延石の据直しを行い、繕い部分に古色弁柄塗を施している。同 25 年7月には屋根の小修理を行ったものの、9月のジェーン台風により被災、翌 26 年までに棟積の復旧と塗装修理が行われた。昭和 35 年には屋根葺替・彩色修理を実施、現状の彩色はこのときに施されたものと考えられる(図2)。直近の屋根葺替は昭和 58 年頃に行われている。

3.建物の塗装及び美装
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(1)現状の彩色

修理前の本殿は、全体的に鉛丹が塗られ、彩色は、庇柱に金襴巻が、組物及び蟇股股繰見付に繧繝が施され、庇頭貫の見付には波に雲龍を描いた板絵が張り付けられていた。庇柱の金襴巻は、正面から側面、背面へといくに従い図柄が省略され、組物の見込・見返しと花・実を除いた部分の蟇股彫刻は、鉛丹若しくは合成ウルトラマリンを用いて塗り潰されていた(図2・5)。

(2)単色塗

単色塗の変遷については、塗膜の重なりを修理時期に比定するとともに、顔料の蛍光 X線分析と溶剤のガスクロマトログラフィー質量分析を行って確認をした。この結果、ほとんどの部材で木地が赤く染まっていることから、建立当初は弁柄で塗装されていたものと推測された。ただし、蟇股彫刻には彩色が施されていたほか、正面庇の竹ノ節欄間には、黒色のチャン塗が施されていたものと考えられた(図4)。
その後は、昭和 26年に弁柄と乾性油・フタル酸樹脂・カゼインを用いて塗り直し、昭和35年に弁柄を鉛丹に代えて合成樹脂を用いて塗直しが行われたものと考えられた注 3 , 4。

(3)彩色

建立時の単色塗の状況から、最下層で見つかった彩色の痕跡は、寛永期に初めて施されたものと考えられた。確認できた図柄は、身舎柱・庇柱は金襴巻、庇頭貫は熨斗、庇・身舎軒桁は波、内法長押・繋虹梁・舟肘木は牡丹唐草、組物は繧繝となっていた。
その後、延享4年の修理では、庇頭貫が波に龍に、舟肘木が繧繝に、内法長押が別種の牡丹唐草に塗り替えられた(図3・6)。また、明治 20 年の修理では、身舎柱の金襴巻の剣先紋、舟肘木と組物・蟇股の彩色のみを残して弁柄で塗り潰され、さらに昭和 35 年の修理では、題材を一新して現状の彩色に改められた。
なお、これらの彩色に使用された顔料及び染料は、蛍光 X 線分析及び残存塗膜片の顕微鏡観察の結果、一般的な青・赤・緑・紫・茶の五色ではなく、青・赤・緑の三色を基調とした塗分けが行われているものと判断した。赤色塗料には朱・弁柄が、青色塗料には群青・藍・花紺青(スマルト)が、緑色塗料には緑青・花緑青が、黄色塗料には石黄・藤黄・黄土が確認されており、塗膜層の重なりや顔料の使用された時代から推測して、青色は群青、藍を経て花紺青へ、緑色は緑青から花緑青へと使用塗料の変更があったものとみられる。
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(4)前身建物部材の再用における「洗い」の技法について注 5

身舎内部の内法長押には前身建物の部材が再用されていたが、これには幣軸の取付痕があることから、旧は外部で使用されていたものとみられた。この木地表面は初期台鉋で加工されているが、風蝕が僅かに残っている箇所が確認できたことから、再用にあたって木地表面を台鉋でこそげる「洗い」がかけられているものと推測された。こそげによる洗いの技法は、古代より建物の修理・移築・古材再用等の際にみられるもので、唐招提寺講堂の建治元年( 1275)解体修理や當麻寺本堂の前身建物部材の再用等でも確認されている。

また、身舎内部の小組格天井は、前身建物に用いられていた折上小組格天井を転用しているものと考えられ、折上部分の再用材に補足材(建立時の当初材)を継ぎ足して組まれていた。再用材にはヤリガンナの、補足材には台鉋の加工痕が残っていたが、再用材にはこそげによる「洗い」はかけられていなかった。一方で、再用材と補足材の木肌の違いを隠すために、双方に古色が塗られていたと推測され、部材の周囲には古色塗料による液垂れの痕が確認できた。なお、この古色については、弁柄が薄く残る所があることから、墨を溶剤に溶かして弁柄で色味を整えたものが塗られていたとみられる。溶剤は現在と同様の水か柿渋が想定されるが、成分の特定には至らなかった。
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〔注〕
1.「某社棟札之写」(『史料纂集〔古文書編〕30』「石清水八幡宮外」筑波大学所蔵文書下所収)による。
2.小屋裏より発見した延享4年( 1747)修理棟札の記述による。
3.大沼清利「塗装技術発展の系統化調査」(『国立科学博物館 技術の系統化調査 第 15 集』所収、平成 20 年)より、日本のフタル酸樹脂塗料の市場導入は昭和6年( 1931)から、石油化学の発展による合成樹脂の登場は戦後からとされている。
4.柳澤誠一「接着剤技術の系統化調査」(『国立科学博物館 技術の系統化調査 第 17 集』所収、平成 24 年)より、カゼインは大正5年( 1916)から日本への輸入が開始されている。
5.節中の再用材・転用材・補足材の名称は、構成部材調書における再用・転出・補足の区分に準じた。

〔参考文献〕
1.北野信彦『建造物塗装彩色史の研究』、雄山閣、 2022 年
2.今井成享『チャン塗と唐油彩色-近代建築塗装史の研究-』、江東錦精社、 2023 年
3.中山利恵『「洗い」の日本建築史 建築の経年と木肌処理技術』、東京大学出版会、 2024 年


 
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# by y-rekitan | 2025-11-30 20:00 | 講演会・発表会

境内を飾る酒樽45本+1 130号

境内を飾る酒樽45本+1

野間口 秀國(会員)

 
はじめに

 「石清水八幡宮と麓の駅」に続いて、本号では「境内を飾る酒樽45本+1」と題して石清水八幡宮の手水舎の向い側に展示されている酒樽について書いてみたいと思います。なお、表題にあります+1 については後述いたしましたので確認願います。

 石清水八幡宮の手水舎で多くの人が浄められる姿は見えても、真向かいにある「奉納御献酒」と書かれた縦長の木札の付いた酒樽展示棚に興味を示される人は少ないようです。個人的には展示されている酒樽に以前より少なからず興味がありました。 特に、「隣の芝生シリーズ ⑥」、会報第123号(2024.9.24)で城陽市について書かせて頂いた際に訪れた酒造会社にて、至近距離で「城陽」の酒樽の実物を見せていただき、その後、酒樽展示棚に同じ酒樽の存在を知り、更なる興味が湧きました。
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 写真1 境内を飾る酒樽45本+1

<菰樽と石清水祭>

 日本酒の樽を箍(たが)で締めて、稲わらで作った菰で巻いたものが菰樽です。菰樽は多くの祝いの席で見られる一品であると言えるでしょう。紙製の容器も増え、ひと昔前ほどの出番は多くないように思えますが、時おりニュース番組などで鏡割りの映像を見ることもあります。今日では「菰樽を作れる人も少なくなった」ことも前述の城陽の酒造会社で聞き及びました。菰樽の菰がすべて稲わらで作られている訳では無いようで、最近の菰には樹脂の素材が使われたものもございます。また、上げ底されているものも存在するのです。上げ底の樽とは、樽の中間に中板を設けて底が高くなっている樽のことですが、健康志向の為かどうかは疑問ですが、見栄えのする樽は必要でも、中身の酒は満杯でなくても良いのかも知れません。 

写真1 は石清水八幡宮の境内に展示されている菰樽です。その前に立つと壮観です。 なお、右端の列にある樽、(表題の+1)は日本酒用では無くて、ウイスキー用の樽であることは明らかですので、本稿ではこの樽については割愛させていただきました。

 では、なぜこのように展示されているのでしょうか。 日本では、古来より各種儀式で酒は大切な役割を果たしてきました。ここ石清水八幡宮で執り行われる放生行事は貞観5年(863)に始められ、この行事が天暦2年(948)に勅祭石清水祭として斎行され、上賀茂神社・下鴨神社の加茂祭(葵祭)、春日神社の春日祭、とともに三大勅祭の1つとして現在に引き継がれています。 石清水祭は9月15日深夜の御鳳輦発御で神幸の儀が始まり、引き続き、絹屋殿著御の儀が、そして夜明け前に頓宮での奉幣の儀が始まり、神前に古式神饌が献じられます。31種の神饌(神社や神棚に供える供物)が順番に神職の手渡しによって神に供えられます。その最初の通盆(かよいぼん)で運ばれるのが、御飯と御箸、そして清酒なのです。このことからも、石清水八幡宮での酒の重要さやその意味合いがお分かりいただけるのではないでしょうか。


<展示の菰樽を細かく見ると>

 境内に飾られた樽は同宮の主要行事(石清水祭、正月、献酒祭)などに際し、酒造会社(他、企業や個人など)から献上されたものですが、さらに細かく見てゆきたいと思います。

 1つ目は、展示樽数と銘柄です。 その数は、縦5段、横9列で合計45樽。銘柄を確認しながら数えて見ると、同一銘柄の3樽展示が3社で合計9樽。同じく2樽展示されているものが11社で合計22樽、また1銘柄1樽の展示が14社で合計14樽で、酒造会社の総数は28社を数えました。(無論、献酒の全てではありません。)

 2つ目は、これらの展示樽に入るお酒の量です。 一般的な樽の大きさは、縦、横、高さが各40cm程度の1斗樽、同じく各50cm程度の2斗樽、そして、各65cm程度の4斗樽です。 樽の大きさによって酒の量も変わります。ちなみに1斗は18リットル(以下、Lと表示)ですので、それぞれ18、36、72Lとなります。では境内に展示されている樽は何斗樽かと目測してみますと、その高さから4斗樽であろうと推定できます。 念のために石清水八幡宮の神官の方に訊いてみましたが、「4斗樽である」ことが確認できました。計算の結果、飾られた樽のお酒の量は、4斗樽(72L)が45個、総量は3,240L、1升瓶換算で1,800本となります。


<一番高い位置にある「男山」>

 写真1の「境内を飾る樽45+1」を注意深く見て頂くと、最上段の1丁目1番地は「男山」であることに気づかれると思います。この商品がこの位置であることには少なからず理由が有ると思っていましたが、あるきっかけで解りかけてきました。

 関西でお酒(清酒)が有名なところは、疑う余地もなく京都の伏見、神戸の灘ですが、忘れてならないのが江戸時代初めから酒造りで有名な兵庫県伊丹市です。 この6月の初めに、とある歴史散歩の行事で伊丹市を訪ねました。猪名野神社、伊丹郷町の酒蔵跡、有岡城跡などの見学に加えて故・田辺聖子氏が館長をなさっておられた「伊丹市立図書館・ことば蔵」を訪れました。 その際、清酒の歴史に関する本などが展示されている中に、伊丹や池田などの清酒の番付表があるのに気づきました。そこには紛れもなく、大関、関脇に次いで小結の番付に「伊丹(産地) 男山(銘柄) 山本(酒蔵)」が記されてあるのを発見したのです。 石清水八幡宮に展示されてある「男山」はこれではないのか、と小躍りする気分になりました。

 当日の参加者の中にお酒に詳しそうな人もおられたので訊きましたところ、「男山は北海道の旭川ではないか」 とのお答えでしたので、「えっ、旭川」と驚きを覚えました。 調べてみましたら 『日本酒 完全バイブル』 の北海道の項に「男山」の記載がありました。 紹介文には、“純米大吟醸で兵庫県産「山田錦」を38%まで磨き上げ・・” とあり、続く文には “「男山」の名は、創業時に京都の男山八幡宮に参籠したことにちなむ” などとあります。

<伊丹の「男山」>

 これで、かつての伊丹の「男山」と現在の北海道旭川の「男山」の存在が確認できましたので、まず伊丹の「男山」の歴史について、“銘醸『男山』酒史” (男山株式会社蔵)に書かれていることを以下になぞってみます。 (以下、*:は筆者注です) 

 慶長五年(1600)、日本最初の清酒醸造が摂津伊丹の山中勝庵によって始まる。 寛永十二年(1636)、山中勝庵、清酒を駄馬十頭(*:一駄は四斗樽二丁)に積み(合計二十樽)、函嶺(*:箱根山の別名)を越し江戸へ送る。万治元年(1658)、伊丹の酒、江戸廻船輸送始まる。 寛文元年(1661)、五摂家筆頭の近衛公伊丹の領主となり清酒醸造を奨励する。この頃、山本三右衛門が営む「木綿屋山本本家」という酒蔵にて「男山」が誕生する。 元禄十年(1697)、御酒屋の称号と総宿老の制定まり御酒屋二十四家帯刀御免。 元禄十二年(1699)、伊丹大火 酒造家十六家七百余戸焼失。 元禄十五年(1702)、伊丹大火 四百三十九戸全焼。 このころの伊丹の酒造高 十二万余石。 宝永六年(1709)十月、江戸廻船熊野灘遭難。 酒積五十余艘を失い、酒荷三万五千駄(*:4斗樽で7万本)を失う。正徳五年(1715)、酒荷江戸積番付 「男山」 大関の位を得る。 享保九年(1724)、伊丹の酒江戸表へ十万駄送出。 享保十七年(1732)六月、江戸廻船遠州灘遭難 酒積百艘余難破 「男山」 享保十八年(1733)、八代将軍徳川吉宗の御膝酒となる。 宝暦十年(1760)六月、江戸大火 伊丹酒四万駄焼失。 宝暦十一年(1761)十二月、伊丹の酒造家に対し幕府は冥加金百十三万両仰付。(*:冥加金とは、領主権力(幕府)が自己を領民の庇護者としての恩恵(国恩)を強調して、これを口実に年貢を納めない商工業者に対して農民の年貢に相当する冥加を求めるようになった。) 1800年以降は伊丹の酒に替わって灘の酒が人気を博すようになり、木綿屋山本本家は明治の初頭に廃業となった。 上記の通り、江戸時代の伊丹の酒「男山」の変遷の概略が解ります。


<旭川の「男山」の歴史>

 引き続き、北海道旭川の「男山」について書いてみたいと思います。 新潟県より北海道札幌に移住した山崎與吉氏が明治二十年(1887)に山崎酒造を開業、明治三二年(1899)に旭川に移転。 当初は石高も順調に増加していたが、良質の酒米が採れず、酒造設備も古かったため地元北海道での大きな販売は得られなかったのです。

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 旭川の「男山」 (男山株式会社提供)


 そこで、「本州に負けない良い酒を造る!」を合言葉に「品質の向上」に向けて取り組み、旭川の酒造の底上げを図ることに着手。 昭和四三年(1968)、新社屋を竣工、これに伴い社名を「男山株式会社」と改称し、同時に「男山酒造り資料館」を開設する。 当時から世に「男山」を冠する商品は存在したが、社名改称を機に「木綿屋山本本家」の末裔の正統山本良子氏から印鑑商標その他一切の権限の譲渡を3代目・山崎與吉氏が受けられ、新たに名醸男山の正統としてここに立ちあがられたのです。 以降、「男山」は独自路線で海外市場を開拓し、昭和五二年(1977)から長きにわたって複数の酒類コンクールで金賞を受賞しています。


<境内にある「男山」>

 旭川の「男山」について調べている最終段階で、“石清水八幡宮に飾られている樽は旭川の「男山」の樽とはデザインが異なる” との情報が「男山株式会社」より届いたのです。 「男山」の名を冠する酒は国内には複数ありますので、改めて確認した結果、飾られている「男山」の樽は山口県の酒造会社のものであることが分かりましたが、本稿では詳細は省きます。


<もう少し旭川の「男山」について>

 ここで、旭川の「男山」に関わることがらについて二三補足したいと思います。

 その一つが、男山縁起についてです。「男山株式会社」の資料(原文のまま)によりますと、 “伊丹の名醸男山は醸造元木綿屋の遠祖が八幡太郎義家の弟新羅三郎義光に出ており後八幡太郎を男山に勧請し男山八幡宮と称えたことに因り 参籠して霊感を受け銘酒男山を醸造したと伝う” とあります。

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名醸『男山』酒史 (部分) 「男山縁起」


その二つ目が、浮世絵に描かれた「男山」です。喜多川歌麿の「名取酒六家選」と題する、版元・蔦屋重三郎と喜多川歌麿が組んだ大判六枚揃いの錦絵です。 喜多川歌麿が描く “『名取酒六家選』 酒の引札” は、銘酒と名高い酒と、人気の遊女を組み合わせた寛政七年(1795)頃の板行(*:刊行のこと)です。遊女名は、「若那屋内白露」、銘酒名と産地は、木綿屋男山 摂津伊丹の木綿屋の銘酒で(*:画中の樽に「男山」と描かれてあります)、所蔵は東京国立博物館です。

 三つ目が、どこで手に入るか、です。 JR大阪駅西出口近くに中央郵便局がありましたが、局は移転して新ビル「KITTE OSAKA」がオープン。同ビル2Fに各地の物産展示販売ブースが出来ました。 ブースの一つに北海道物産コーナーがあり、この夏に訪ねてみると「男山」が販売されていました。


<おわりに>

樽の展示がいつから始まったのかについては詳らかではございませんでしたが、暑い夏の日々、旭川の「男山」を調べていると暑さも少しだけ和らいだ気分で過ごせました。 最後に、ご親切にご教示いただきました石清水八幡宮の権禰宜 神道尚基様、男山株式会社の企画課 金森徹諭様に紙面をお借りして厚く御礼申し上げ本稿を閉じます。

令和7年(2025)10月20日


参考書籍及び資料等

『神饌』 南里空海著  世界文化社刊
『文化財を訪ねて』  伊丹市文化財ボランティアの会編
「男山の載る番付表」  伊丹市立図書館本館・ことば蔵の展示品
『日本酒 完全バイブル』  八田信江監修 ナツメ社刊
「銘醸『男山』酒史」  男山株式会社史料 同社蔵
「男山株式会社」の案内パンフレット

# by y-rekitan | 2025-11-30 18:00 | 会員研究

第53回八幡市民文化祭 130号

     
第53回八幡市民文化祭 令和7年10月25日(土)・26日(日)
   
                    八幡の歴史を探究する会 谷村 勉

  本年も文化祭に参加し、近代に活躍した日本航空界の父「二宮忠八」を紹介した。少年時代からよく知る名前だが、二宮忠八は愛媛県八幡浜市出身であることから、八幡市と八幡浜市は、令和7年8月に「友好都市協定」を結んでいる。これまで10年間積み重ねてきた中学生による交流にとどまらず、今後は観光・文化など様々な分野での交流の発展が期待されます。愛媛県八幡浜市と言ってもご存知無い方も多いと思われるが、筆者個人的には現役の頃、赴任先エリアの一つでもあったので、懐かしい。


【二宮忠八と飛行神社 】

二宮忠八は慶応2年(1866)に愛媛県八幡浜で生まれる。子どもの頃から独学で作った凧は、よくあがるので「忠八凧」と呼ばれました。
明治20年(1887)に、丸亀の軍隊に看護兵として入営した忠八は、カラスが滑空する姿に興味をもちました。
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二宮忠八(20歳頃)


 カラスは広げた翼に揚力を生じさせ、ふき上げる上昇気流など複雑な力をうまく利用して滑空することを発見したのです。それが、空を飛ぶ機械(飛行器)発明のヒントになりました。

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カラス型飛行器


 その後、トンビ凧を原型とする模型飛行器製作に取りかかり、研究を重ねて、明治24年(1891)4月29日丸亀練兵場の広場で日本人初のゴム動力を使った「カラス型飛行器」の飛行に成功しました。(忠八は、飛行機を飛行器と書きました) 飛行神社ではこの日に祭礼が行われています。


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玉虫型飛行器


 その後、人が乗れる「玉虫型飛行器」の開発をめざし、明治26年(1893)頃に設計をしました。軍に研究開発の支援をしてもらおうと日清戦争従軍の時から何度も願い出ましたがゆるされず、独力開発を決意しました。

明治31年(1898)に大阪の製薬会社に就職し、地位を高めていきました。資金を貯え、八幡を訪れた忠八は橋本の淀川の河原が飛行機の実験場に最適であると判断しました。そして橋本に工作所を購入し開発を続けました。

しかし、ライト兄弟が明治36年(1903)に有人動力飛行に成功していたことを工作所購入のすぐ後に知り、研究・開発を断念しました

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Wikimedia Commons「ライト兄弟初飛行」/Public Domain


 その後、世界は航空機時代となり、飛行機による犠牲者が多く見られるようになりました。忠八はその御霊を慰めるために、八幡土井の自宅に神社を創建しました。殉難者の御霊にやすらかに眠っていただくことと、航空安全と航空事業の発展を願うためです。その願いは、今も飛行神社に受け継がれています。

愛媛県八幡浜市と「友好都市協定」を締結しました
今後は観光や文化など多分野での発展が期待されています。
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八幡市ホームページより引用



「八幡浜市はみかんと漁業が有名な町です。何といっても魚が美味しいところで、皮ちくわなどの練り物は格別です。八幡に帰ってから暫くは魚が食べられないほどでした。また、愛媛県のどこの海岸も釣りの宝庫ですが、佐多岬半島(三崎町)先端の磯釣りで真鯛の大物を釣り上げたこともありました」(谷村 勉)
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以上
             

# by y-rekitan | 2025-11-30 15:00 | 事務局だより