◆八幡の歴史を探求する会 122号

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 本会では、2010年より京都府八幡の歴史についての探究と共有を目指して、講演会や歴探ウォークの開催、会報の発行等の活動を積極的に続けています。


    ◆おしらせ         2024年9月
新しい集いの案内  1件  が追加されています。

    ◆最新号 会報第122号より 2024年7月


# by y-rekitan | 2024-09-07 01:00

KBS京都「京の水ものがたり」にて


「橋本の渡し」が2024年9月9日(月)~2024年9月13日(金)までKBS京都の「京の水ものがたり」で紹介されます。ぜひご覧ください。

放送期間:2024年9月9日(月)~2024年9月13日(金)

放送日:月曜日 17:00~17:05 
    火曜日 17:00~17:05    
    水曜日 17:00~17:05    
    木曜日 17:00~17:05    
    金曜日 17:00~17:05   

放送局:KBS京都放送番組 京の水ものがたり  
    https://www.kbs-kyoto.co.jp/tv/water/

# by y-rekitan | 2024-09-07 00:00 | 事務局だより

行教、山崎橋を渡る 122号


心に引き継ぐ風景・・・(53)

行教、山崎橋を渡る

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道登・道昭が架けたと伝わる宇治橋(日本三古橋)


 かつて橋本と山崎を結ぶ山崎橋は、神亀二年(725)に行基が架けたと伝える。行基58歳の頃である。奈良時代前期に活躍した行基は、同郷の道昭を師と仰いで出家するが、行基33歳の文武4年(700)に道昭は亡くなっている。

『行基年譜』に、弟子を率いて山崎川(淀川)に至り、河中に一大柱を見る。行基問いて曰く、「彼の柱を知る人あるか」と。人申して曰く「往昔の旧老尊、船の大徳(道昭)の渡すところの柱なり」と云々。行基発願して山崎橋を渡すと云う。

 石清水八幡宮遷座の主役太政大臣藤原良房の意を受けた行教が、宇佐宮八幡大菩薩を勧請して、山崎に到着した折、再度示現があり《移坐すべき所は石清水男山の峯也》との託宣を受ける。翌早朝、行教は山崎橋を渡って男山に登り、ところを点じ三ヶ日祈誓し殿舎を建て、その由を参内して上奏した。

淀川は度々洪水が発生して橋は流された。その記録は『文徳天皇実録』など
に報告されているが、天安元年(857)には橋の両側に橋守が置かれた記録が残る(『類聚三代格』)。石清水八幡宮遷座の貞観元年(859)、橋が断絶した記録は全く見当たらず、行教は山崎橋を渡ったようだ。

今、『山崎架橋図』は和泉市久保惣記念美術館に在るが、男山考古録の著者長濵尚次(ひさつぐ)は「山崎宝寺に社人仲有秀と架橋図を見に行く、尚次時に写す」と、その著書に詳しく記している。

(文と写真 谷村 勉)空白


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# by y-rekitan | 2024-07-28 12:00 | 心に引き継ぐ風景

山崎橋と石清水八幡宮遷座の周辺 122号

《会員研究発表》

山崎橋と石清水八幡宮遷座の周辺

令和6年6月 八幡市文化センター第3会議室にて

谷村 勉 (会員)
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山崎橋

 かつて八幡橋本と対岸の山崎を結ぶ山崎橋は、神亀二年(725)に行基が架けたと伝える。前の年、神亀元年は聖武天皇が即位した年で、奈良時代が仏教の興隆や文化・芸術が大きく開花した時代でもあった。
神亀二年(725)九月一日、行基は彼の弟子を率いて山崎川(淀川)に至り、暇(船)を得ずして掩留(えんりゅう)するに、河中に一大柱を見る。行基菩薩問ひて云はく、「彼の柱知る人あるか」と。ある人申して云はく、「往昔の老旧尊、船の大徳(道昭)渡すところの橋なり」と云々。大菩薩発願し、同月十二日より始め、山崎橋を渡すと云々。天皇帰依し給ふと伝々。行基五十八歳の神亀二年、久修園院九月に起つ。河内国交野郡一条内に在り。と『行基年譜』に記される。


行教は八幡神と一緒に山崎橋を渡った

 山崎橋はたびたび洪水が発生して橋は流された。承和八年(841)には洪水のために落橋、修復されたが、『日本文徳天皇実録』には嘉祥元年(848)に河陽橋(山崎橋のこと)が洪水のために断絶して6間を残すのみとなった、との記録が残る。嘉祥三年(850)に再び架橋、天安元年(857)には橋の両側に橋守が置かれた記録(類聚三代格)があり、当時交通の要衝であったことが分かる。2年後の貞観元年(859)当時に橋が断絶した記録は全く見当たらず、行教は遷座の八幡神と共に橋を渡ったとみられる。
その凡そ75年後、紀貫之が土佐から京へ帰る時に書いた『土左日記』には、「(承平五年(935))二月十一日、雨いささか降りて、止みぬ。かくてさし上るに、 東の方に、山のほれるを見て、人に問えば、「八幡の宮」といふ。これを聞きて喜びて人々拝み奉る。山崎の橋見ゆ嬉しきこと限りなし」とあり、都に帰り着いた感動を伝えている。
山崎橋は11世紀には、いったん廃絶。豊臣政権下で一時復活された。その後失われてからは現在に至るまで再建されていない。橋が失われた後は昭和三十七年(1962)まで渡船が運行されていた。
            

山崎架橋図(和泉市久保惣記念美術館)

 山崎橋は平安時代、洪水による橋の損壊と修復が繰り返されてきた記録が残り、水陸両路の要衝に位置した重要な橋であったことをうかがわせる。
 石清水八幡宮宮工司、長濱尚次(ながはまひさつぐ)は江戸時代末に、「山崎架橋図」の見学記録を「男山考古録」に記している。「山崎宝寺(宝積寺)什物山崎橋を作る、極彩色絹地にて古画也、筆者不知、河中に櫓足場をくみて、車の末に槌を付けて淀水に仕掛けて、橋杭を打やう図也、官人と白袈裟に黒衣の僧と物語の様もあり、各装束烏帽子めくを着けたり、社人仲有秀と行、尚次時に写」(男山考古録、P431)
山崎架橋図には完成された橋の全容と橋桁の造立作業の二つの場面が描かれている。これは異なる時間を一つの構図の中に描き込む「異時同図法」で描かれたものであろうと、聞いた。


道昭

 「道昭」と聴いても歴史上にその名を知る人は少ないが、行基が師と仰いで出家し、多くの仏道修行を志す者達は道昭に従って法相宗や禅を学んでいた。
正史『続日本紀』文武天皇四年(700)の項に道昭が詳しく記されている。
三月十日の条、道昭和尚が物化(死去)した(時に七十二歳)。天皇はそれを大へん惜しんで、使いを遣わして弔い、物を賜った。和尚は河内国郡丹比郡(現堺市を含む周辺地域)の人である。俗姓(出家前の姓)は船連(ふねのむらじ)、父は恵釈(えさか)である。和尚は持戒・修行に欠けることがなく、忍耐の行を尚(たっと)んだ。 
孝徳天皇の白雉四年(653)に、遣唐使に随行して入唐した。ちょうど玄奘三蔵に会い、師と仰いで業を授けられた。三蔵は特に可愛がって同じ部屋に住まわせて、ある時、次のように言った。「私が昔、西域に旅した時、道中飢えに苦しんだが、食を乞うところもなかった。突然一人の僧が現れ、手に持っていた梨の実を、私に与えて食わせてくれた。私はその梨を食べてから、気力が日々健やかになった。今お前こそはあの時、梨を与えてくれた法師と同様である」と。
 また次のようにも言った。「経論(経は釈迦の教えを集めたもの、論はそれを注釈したもの)は奥深く微妙で、究めつくすことは難しい。それよりもお前は禅を学んで、東の国の日本に広めるのがよかろう」と。
              
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住吉大社石碑「遣唐使進発の地」  R3.8.1筆者撮影

その後、遣唐使に随って帰朝する時、別れ際に所持した舎利(釈迦の骨)と経論を悉く和尚に授けて言った。
「論語に――人間こそよく道を弘めることができる――という言葉がある。今この言葉を私はお前につけ足して贈りたい」と。

 道昭和尚は飛鳥寺(法興寺)に、禅院を建てて住んだ。後に和尚は天下を周遊して、路の傍に井戸を掘り、各地の渡し場の船を造ったり、橋を架けたりした(船連の出の故に)。山背国の宇治橋は、和尚が初めて造ったものである(『続日本紀』)。和尚の周遊はおよそ十余年に及んだが、寺に戻って欲しいという勅があり、禅院に戻って住むようになった。座禅はもとの如く熱心に重ねた。ある時、和尚の居間から香気が流れたので、和尚を見ると、縄床に端座したまま息が絶えていた…。
弟子たちは遺言の教えに従い、火葬にした。天下の火葬はこれから始まった。


行基

 奈良時代前期に活躍した僧として、我々もその名をよく知る処であるが、もう一度おさらいすると。天智天皇七年(668)、河内国大鳥郡蜂田郷(大阪府堺市寺町)で生まれた。百済系渡来人出身とされ、勉学に勤しむ環境に恵まれていたようで、天武天皇十一年(682)、行基十五歳の時、同郷の道昭を師と仰いで出家、すぐに法相宗の教え『瑜伽唯識論(ゆがゆいしきろん)』を理解したと云われる。
行基三十三歳の時、師の道昭が亡くなり、郷里に帰った行基は、はじめ旅行者の苦難を救うことを中心に、様々な活動を行った。
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葛城山麓の九品寺「行基菩薩像」 R4.5.4筆者撮影

 平城京造営に駆り出された多くの民衆や、調庸物を運んできた人々が、帰郷の途中で食料が足りずに行き倒れになる悲惨な現実を目の当たりにしたことが大きいと云われる。彼らの行動は民衆の支持を受け、影響力は大きくなっていった。しかし、彼らの運動は、あきらかに律令国家が望む仏教の在り方と違う。「僧は寺院に住み、鎮護国家のために祈り、師の教えを弟子についたえるべきもの」と律令に定めている。しかし、行基達は外に出て説教し、徒党を組み、指を焼いたり肘の皮をはいだり、布施を強要したり、多くの民衆をたぶらかしている。と律令国家から一方的に批判され、弾圧された。
 それでも行基は民間布教に従事して、信者の力により池溝・道橋・布施屋を各地に開いた。彼の行動は初め僧尼令違反として禁じられたが、のちには公認されて天平十五年(743)東大寺大仏建立に協力、天平十七年(745)にはその功労により大僧正となった。天平勝宝元年(749)、大和国菅原寺(喜光寺)・奈良市菅原町において八十一歳の生涯を閉じた。
 「大僧正の行基和尚が遷化した」で始まる奈良時代の基本資料『続日本紀』
天平勝宝元年(749)二月の条に、その業績をたたえる記事がみえる。
また、平安時代、安元元年(1175)、泉高父宿禰著と云われる『行基年譜』は、行基の一生を伝える伝記であるが、その事跡が詳しく記されている。行基が建立した寺院をはじめ、架橋、池溝の開削、布施屋の造立などの足跡が記され、その内、寺院の建立は四十九ヶ所を数えるが、国別でみると、摂津国十四ヶ所、和泉国十一ヶ所、河内国七ケ所、大和国五ヶ所、平城二ヵ所、山城国十ヵ所と、その活動は広範囲に及んでいる。
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喜光寺本堂(菅原寺) R4.4.7筆者撮影


久修園院

「久修園院は、この山崎橋の「橋守の寺」として、橋の維持管理と旅人の便宜をはかるとともに往来人の布教のために神亀2年(725)に行基の発願で開基した寺院です。対岸の山崎にも「橋守の寺」として「山崎院」が天平3年(731)に建てられましたが、今は廃寺となっています。
 久修園院は、「天王山木津寺」と号する真言律宗の寺院で、名前は、「妙法蓮華経巻第六 如来寿量品第十六」の経典に由来しています。本山は奈良・西大寺で、久修園院は真言律宗の別格本山である。創建当初は、小規模なお寺であったようですが、やがて聖武天皇勅願の七堂伽藍と多くの塔頭をもつようになったとも伝えられています。行基が建立した四十九院で現存しているのは十寺院に満たず、貴重な存在のお寺です」。(歴探会報95号「古寺巡礼」)より

 『行基年譜』神亀二年の条に「久修園院山崎 九月起 在河内国交野郡一条内」とあり、また、天平十一年(739)、行基七十二歳の条に「安居久修園院 得度百八十四人」とある。安居の集会にて、百八十四人の得度者のあったことが分かる。
その後、最盛期の七堂伽藍の寺域は、東は男山のうち高尾峰(詳細不明)、南は王余魚(かれい)河(北楠葉天満川と推定される)、北は米尾寺(橋本北ノ町かもしか児童公園付近)、西は大河(淀川)を限るとあり、広大な寺域の法相宗大寺であったが、大坂夏の陣で焼亡した。
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久修園院表門   H26.3.27筆者撮影

『続日本紀』宝亀四年(771)十一月廿日の条に、行基建立寺院の内、水田を施入されていなかったため、荒廃の著しい六院の一つに河内国山崎院が挙げられている。後に田二町が施入された。「大和国菩提院・登美院・生駒院、河内国の石凝院、和泉国の高渚院の五院にそれぞれその群の田三町を喜捨し、河内国の山崎院には二町を喜捨するようにせよ」。と施入の記載がなされている。
この河内国山崎院は『行基年譜』神亀二年建立の久修園院に山崎の注が見られる(「久修園院山崎 九月起 在河内国交野郡一条内」)ことから、天平三年(731)建立の山背国乙訓郡山前郷の山崎院とする説もあるが、山崎の注は一見不自然ではあるが、山崎川、山崎橋の名称などを勘案すると、ここでは河内国交野郡一条内の久修園院山崎であるとするのが自然と思われる。
行基が活躍した時代は飛鳥から奈良時代で、平城京に都があった時代である。この時代の八幡には古代山陰道・山陽道の官道が奈良に向かって走っている。山崎橋は奈良へ物資を運んだり、人々の往来も盛んであり、陸運、水運共に大変重要で交通の要衝であったことが改めて分かる。なお、古代山陽道は橋本からは男山の丘陵を南東方向に越えて志水廃寺・美濃山廃寺近くを経て京田辺市大住の関屋橋で古代山陰道(木津川沿い)と合流、奈良街道を南進して平城京に向かった。


石清水八幡宮成立の背景

 奈良時代を揺るがした世に有名な道鏡の偽託事件の後、文徳天皇の斉衡二年(855)、突然東大寺大仏の頭が落下した。この時、大仏建立に協力した八幡神に神助を乞い、無事修理を終えて、貞観三年(861)には開眼法要を修した。そのような中、文徳天皇が三十二歳で崩御(天安二年・858)、惟仁親王(清和天皇)が即位するが帝はわずか九歳、前代未聞の幼帝である。父文徳天皇には惟仁親王の上に三人の皇子があり、特に紀静子(紀名虎の娘)との長子、惟喬親王を即位させたいという思いがあったというが、惟仁親王の外戚である藤原良房を憚り、わずか九カ月の赤子(惟仁親王)を立太子させていた。当時これを非難する風刺歌が歌われた。
 良房にとっては、これら非難・不満を封じ込め、幼帝と体制を守る必要があった。そこで思い出されたのが東大寺大仏の建立に助力し、道鏡事件では皇位を守った八幡神である。即位したとはいえ、幼少の天皇を護り、藤原北家の繁栄と安泰のために、遠く離れた宇佐の八幡神宮の分霊を京都近辺に勧請する事こそ最良の手段であった。
行教が宇佐に下ったのはこのような良房の意を受けての事だった。
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木津川から望む男山  H26.4.13筆者撮影


承和の変

 承和九年(842)(七月十五日)嵯峨上皇が崩御した二日後、伴健岑(とものこわみね)・橘逸勢(たちばなのはやなり)ら東宮坊を中心とした官人らが、皇太子恒貞親王を擁し、仁明天皇の廃立を計画した謀反人と断定されて流罪になり、恒貞親王も皇太子の地位を奪われた事件。
事件後、藤原良房は大納言の位に進み、仁明天皇は良房の妹順子が生んだ親王を皇太子に立てた。これは良房が健岑らの不用意な言辞を利用して古い名族である伴・橘両氏を倒し、道康親王を皇太子にするために図った疑獄事件の性格が強い。(『日本史小辞典・竹内理三編 角川書店』)
*承和の変によって藤原良房が天皇の外戚として力をふるうキッカケとなる。
「これより先に、阿保親王(平城天皇皇子で在原業平の父)が封書を嵯峨太皇太后(橘嘉智子)に上呈した。その封書の内容は、今月十日、伴健岑が来て、“嵯峨太上天皇の死期が近づいて、国家に乱れが起きようとしています。皇太子親王を奉じて、東国へ向かおうと思います”と語りました」。『続日本後紀』 
太后は藤原良房を呼び、封書を良房に渡して密談、嵯峨天皇崩御の二日後に伴健岑、橘逸勢を逮捕した。その結果、皇太子恒貞親王は廃太子、大納言藤原愛発(ちかなり)、中納言藤原吉野らも左遷、健岑は隠岐に、逸勢は伊豆に流される途中に死亡した。
八月四日、良房の甥である仁明天皇皇子道康親王(後の文徳天皇)が皇太子になった(道康親王は良房の妹順子の子)。さらに、八月二十五日、追放された大納言藤原愛発に代わり、中納言であった良房が大納言に、大宰府に流された中納言藤原吉野に代わり、良房と親しい正三位源朝臣信(まこと)を中納言に任じた。これらから、道康親王の立太子を望む皇太后橘嘉智子と良房の陰謀とささやかれた。

『石清水八幡宮護国寺略記』

 紀氏出身の行教という僧侶が長年修行し、常に八幡大菩薩を拝み奉ろうと念じていた。「貞観元年四月十五日より宇佐宮に参籠し、一夏の間、経文をして廻向に努め、九旬もすでに終り、都に帰ろうとしていた七月十五日の夜半、大菩薩の「都近くに移って国家を鎮護せむ」の託宣を受けた。行教は八月十三日に山崎に到着したが、再度示現があって「吾近都に移座するは王城を鎮護せんがためなり」と託宣した。そこで行教が宝体を安置すべき所を伺ったところ「移坐すべきところは、石清水男山の峯なり」と告げ、このとき男山の山頂に月星の光のごときものが照り輝いた。翌早朝、行教は男山に登り、ところを点じ三ヶ日祈誓し殿舎を建て、ことの由を参内上奏した。そこで九月十五日に勅使を下向させ、実検定せしめ、木工寮権允橘良基をもって六宇の御殿を造営せしめ八幡三所の神体を安置した。一方、行教が上奏する以前に天皇・皇后も男山の峯より紫雲が立ちのぼり、王城を覆い天下に満ちた夢を見た。翌二年行教に宣旨がくだり、行教は再度宇佐宮に参向し、三年正月三日より二十四日間『般若経』を奉読してその法楽を資し奉った。また同時に宇佐宮司大神田仲麻呂に五位が授けられ、石清水八幡宮には度者十五人を賜って祈願僧とした。以上が概略である。
石清水八幡宮の宝殿が造立すると、宇佐宮司田仲麻呂に五位が授けられ、また行教の奏聞が終わるやただちに社殿造営の宣旨が下ったという事は、行教・宇佐大神氏・良房の間に事前の準備が進められていたことは想像に難くない。
                                 以上  



【主な参考資料】
『続日本紀』宇治谷孟 講談社学芸文庫
『行基の喜光寺1300年』山田法胤 京阪奈情報教育出版
『行基と歩く歴史の道』泉森 皎 法蔵館
『行基の足跡―歴史考古学の視点から―』藤井直正 大手前女子大学論集
『八幡さんの正体―八幡信仰と日本人―』鍛代敏雄 洋泉社
『八幡神社』編者 神社と神道研究会 勉誠出版
『八幡信仰(民衆宗教史叢書②)』中野幡能編 雄山閣出版 
『八幡神と神仏習合』逵日出典 講談社現代新書 
『藤原良房・基経』瀧浪貞子 ミネルヴァ書房
『集英社版日本の歴史④天平の時代』栄原永遠男 集英社
『集英社版日本の歴史⑤平安建都』瀧浪貞子 集英社



 
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# by y-rekitan | 2024-07-28 11:00 | 講演会・発表会

隣の芝生⑤ 枚方市 122号

「隣の芝生⑤ 枚方市」

野間口 秀國(会員)

 
<取り上げたきっかけは>

 かつて枚方市で教鞭を執っておられた知人から「枚方市はいつ?」と問われておりましたので、ご期待に沿えるか分かりませんが、本号では橋本駅から京阪電車に乗って、樟葉、御殿山、枚方市の各駅で列車を降り、「枚方市の芝生」に触れてみたいと思います。
 八幡の歴史について調べる時に、お隣の枚方市について調べる機会は少なくありません。そんな時にありがたい史料が枚方市教育委員会刊『新版 郷土枚方の歴史』です。枚方市誕生(昭和22年・1947)の遥か昔からの、周辺地域をも含めた歴史上の出来事が時代を追って整理されてあり、本稿を書き進めるにあたっても参考にさせていただきました。




枚方市の概要

 市のHPによると、位置は大阪府の北東部、北河内地域における中心的衛星都市で、淀川の左岸に位置し、東西12km、南北8.7km、面積は65.12平方k㎡です。10年前の2014年4月に大阪府の権限を一部委譲される「中核都市」に指定されました。令和6年5月1日現在の人口は393,435名(男性188,128名、女205,307名)、世帯数は186,789世帯で、大阪、堺、東大阪、豊中の各市に次いで府内第5位の人口を有します。市内には10,000余を数える卸売業・小売業を始めとして幅広い分野の事業所が存在し、家具団地など7つの企業団地でも多くの製品を生み出しています。
 また、前述の『新版 郷土枚方の歴史』の表紙裏にありますように、43の指定文化財と185の遺跡(消滅も含む)・街道・建物などが、おおよその位置も併せて学べます。



<樟(葛)葉は宮跡の伝承地>

 さて、降りた一つ目の駅は「樟葉駅」。大阪府の指定史跡である「継体天皇樟葉宮跡伝承地」(史料により樟葉、葛葉の用字があります)は八幡市との境近く、交野天神社境内の小高い丘の上にある貴船神社付近が宮跡と伝えられています。若くして18歳で崩御された第25代・武烈天皇の後を受けて登場した第26代・継体天皇(生年:450~没年:531)は、その登場に関して不思議な天皇と言われているようです。
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継体天皇樟葉宮跡伝承地石碑


 近江(現滋賀県)で彦主人王(ひこうしのおう)と振媛命(ふりひめのみこと)の間に生まれた継体は、幼少期に父を亡くして後は母の実家とされる越前の三国(現福井県)に移られました。その地で半世紀ほどが過ぎた頃、武烈天皇が崩御されました。武烈天皇の後を継ぐ皇族が無く、越前にいた応神天皇の5世子孫の男大迹王(おおどのおう:のちの継体天皇)に後継の白羽の矢が立ちました。

次の写真は福井市の足羽山山頂に建つ継体大王像です。「私はその任に無い」と幾度も固辞するも、ヤマト王権の最有力者の大伴金村らの度重なる説得を受け、最終的には受諾されました。そして507年、河内国交野郡葛(樟)葉の宮(現大阪府枚方市楠葉丘)にて即位なさったのです。継体すでに御年58歳の時です。
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足羽山に建つ継体大王像 

 葛(樟)葉での即位後約20年間は反対勢力の抵抗も有り大和には入れず、葛(樟)葉をはじめ継体5年(511)に筒城宮(つつきのみや:現京田辺市)へ、同12年(518)に弟国宮(おとくにのみや:現長岡京市)へと遷り、同20年(526)ようやく77歳にして磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや:現奈良県桜井市)に都を定めたのです。このように、遠い昔、枚方市には天皇が住まわれた時代があったのです。小高い丘の木々の緑の中で、往時をしのんでみるのも歴史を学ぶ一つの手段かも知れません。

なお、継体天皇の御陵は、淀川を挟んだ茨木市太田にある古墳(宮内庁治定:三嶋藍野陵(みしまあいののみささぎ)・太田茶臼山古墳)と、同じく高槻市の「今城塚古墳」(いましろづかこふん:宮内庁治定は無い)の説があります。現在、研究者の間では、「太田茶臼山古墳」は考古学的にみると5世紀の古墳であるとのことなどから、継体天皇の古墳は「今城塚古墳」であることが定説になっているようです。

<御殿山は貴族たちの狩猟場> 

 樟葉駅からさらに南へ二駅進むと「御殿山駅」です。多くの駅名は駅の所在地名や駅近くの公園、寺社、学校などの建物名などに由来するようですが、「御殿山駅」の名前の由来は何なのでしょうか。本稿を書くに当たって京阪電車担当者様に訊きました。説の一つが惟喬親王(これたかしんのう)の渚院の四阿(あずまや)に起源するとの回答でした。

惟喬親王とは、第55代文徳(もんとく)天皇(在位:嘉祥3年・850~天安2年・853)の第一皇子です。尚和11年(844)、天皇の第一皇子に生まれながらも、父は第四皇子の惟仁(これひと)親王を皇太子に立てました。
父は、惟喬親王にも幼い惟仁親王が成人に達するまでの間は皇位を継がせようとも考えましたが、藤原良房の反対を危惧した天台僧、源信僧都の諫言を聞き入れました。結果、惟喬親王は天皇となることができずに不遇な生涯を送った悲劇の親王と呼ばれることになりました。惟喬親王は天安元年(857)に元服し、翌年には14歳で太宰権帥(だざいのごんのそち:大宰府の長官)に任じられ、後に常陸太守、上野太守を歴任しますが、貞観14年(872)、病を得て職を辞し出家、素覚と号して小野に隠棲します。その後は山崎の水無瀬に閑居、雲ケ畑に宮を建て、耕雲入道と名乗り宮を寺(耕雲寺)に変えました。

 
 さて「御殿山」に話を戻したいと思いますが、前述の回答にあった「惟喬親王の渚院の四阿に…」を『伊勢物語』の第八十二段「渚の院」に見出すことができます。

その一部を写しますと、“むかし、惟喬の親王(みこ)と申すみこおはしましけり。山崎のあなたに、水無瀬といふところに、宮ありけり。(略)狩はねむごろにもせで、酒をのみ飲みつつ、やまとうたにかかれりけり。いま狩する交野の渚の家、その院の桜、ことにおもしろし。(略)馬の頭なりける人のよめる。世の中に たえてさくらの なかりせば 春の心は のどけからまし (略)…”と続きますが、ここでは、狩りはそこそこに、桜を愛でつつ酒を楽しみ、和歌を詠む、惟喬親王と(在原業平と思しき)馬の頭やお供の様子が目に見えるように書かれております。

またこの地(交野・枚方)は七夕伝説の残る地でもあり、物語は続きます。“親王はお酒をおすすめする馬の頭に「交野で狩して天の河のほとりに到着すると題して歌を詠み、それから盃をさすように…」と言われ、馬の頭はそれに応え、狩りくらし たなばたつめに 宿からむ 天の河原に われは来にけり と詠んで奉じました。”
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渚院跡旧観音寺鐘楼

 御殿山はこのように雅なところだったのでしょう。今でも、渚西、渚栄、渚元、渚本、渚東、渚南など渚を冠する6つの町名が存在することからもそう思えるのです。渚院址石碑や旧観音寺鐘楼を訪れると、この地に残る雅な歴史の一端に触れた思いがしました。

<枚方は宿場町の賑わい>

 次に「枚方市駅」で列車を降ります。時代は下り貴族の世から武士の世へと変わった枚方の様子を見てみたいと思います。「ひらかた」の名の由来には複数の説があるようですが、一説によれば、文献上の初出は前項で取り上げました継体天皇没年の前年、継体24年(530)で、毛野(けなの)という人物の妻が歌を詠んだことに由来とされています。

しかしながら、この説では、毛野の妻が歌を詠んだのは近江に入った後とされているため「ひらかた」は近江国坂田郡平方(現長浜市平方町)を指すとも言われています。淀川を遡る、夫であった近江毛野臣(おうみのけなのおみ)の亡骸を迎えて妻が詠んだ歌が、”ひらかたゆ 笛吹き上る 近江のや 毛野の稚子(わくご)い 笛吹き上る”です。なお、『日本書紀』では「比攞哿駄」(比攞架駄とも)との表記も見られ、また、「枚方」の用字の初出は『播磨国風土記』(715年頃の成立)との説もあるようです。

 上述の毛野の妻が歌を詠んだ時から下ることおよそ千年、天正11年(1583)、豊臣秀吉は賤ケ岳の戦いで柴田勝家を滅ぼして信長の後継者としての地位を固めます。その後、大坂城を築き、大坂は城下町として栄え軍事、経済でも重要な地となります。京と大坂のほぼ中ほどの枚方の地もしかりです。文禄4年(1595)、秀吉は三ツ矢村の万年寺山の南部分に「お茶屋御殿」を建てさせます。

お茶屋御殿は、現在では紅白の梅のきれいな式内神社として知られる意賀美(おがみ)神社境内に隣接する地にあります。麓から約100段の緩やかな階段を登り御殿の跡地に立つと、眼下には淀川を、遠くにはかつての摂津国の山並みを一望できます。徳川二代(秀忠)、三代(家光)将軍も訪れた記録の残るこの御殿は延宝7年(1679)に火災による延焼で消滅しました。
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お茶屋御殿跡からの眺望

 ところで、秀吉の残したものの一つが「文禄堤」ではないでしょうか。文禄5・慶長元年(1596)、秀吉は諸大名に命じて淀川左岸に堤防を築かせました。いわゆる文禄堤です。この堤防築造の目的は、一つに、淀川の水害問題の解消であり、今一つが大坂城と伏見城を結ぶ幹線道路としての役割でした。

 大坂冬の陣・夏の陣を経て時代が江戸に移ると、東海道の延長部として伏見、淀、守口、そして枚方に宿場町が設けられました。これらの宿場町はかつての京街道(大坂街道)のそこかしこに今もその名残が感じられます。江戸時代には、京街道をはじめ、山根、磐船、宇治、東高野の5つの街道が現在の枚方市域内を通っていました。京街道上には文政9年(1826)年に建立された「宗左の辻の道標」(現枚方市岡本町・市の登録有形文化財)があります。道標の建つ場所は京街道と磐船街道の分岐点であり、辻の名前は近くに製油業を営んでいた角野宗左の屋敷があったことにちなんでおり、枚方宿の遊女が客をここで見送ったと伝わっています。
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宗左の辻の道標


 ここで、枚方宿についてもう少し書いてみたいと思います。枚方を含む4つの宿場が設けられたのは慶長6(1601)から寛永年間(1624~1644)と考えられておりますが、元和2年(1616)と書かれたものもあります。

 街道の町並みはおよそ1.4Kmに及びますが、枚方宿と呼ばれながらも、宿に指定されたのは岡新町村、岡村、三矢村、泥町村の4つの村であり枚方村は含まれませんでした。本陣は三矢村にあり、問屋場(といやば)には、宝永7年(1710)の記録では、4つの村で人足役100名、馬役100疋が人馬の継立、公用旅行者の宿の手配、宿駅の事務などにあたっておりました。守口宿から江戸への公用の荷物は枚方宿の問屋場で引き継がれ、次の淀宿までを枚方宿の負担と責任で運ぶ事が義務付けられており、代償としては相当の扶持米が与えられ、税が減免されていたのです。


 枚方宿は京大坂間の水陸交通の要衝として大きな町となり賑わいを増します。天明年間(1781~1789)には枚方宿4つの村で341軒が街道の両側に軒を並べ一大宿場町を形成していました。淀川には三十石船が上り下りして、“…(略)…鍵屋浦には碇はいらぬ 三味や太鼓で 船止める…(略)…”と「淀川三十石船唄」に唄われました。唄に残るこの鍵屋は明和年間(1768~1772)、鍵屋家中興の祖、鍵屋善七によって大いに繁盛していました。枚方宿で繁盛した船待ち宿「鍵屋」は現在では枚方市の「枚方宿鍵屋資料館」として当時の繁栄の姿を伝えています。

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枚方宿鍵屋資料館

 ところで、枚方の「くらわんか舟」は広く知られておりますが、起こりは淀川の右岸、枚方から4kmほど下流の柱本(現高槻市)とのこと。大坂冬の陣で徳川方に助力した功績などで茶舟での営業が認められたことが始まりでした。

その後、柱本の茶舟が枚方の番所で公用を勤めていた寛永12年(1635)に、枚方の五兵衛が天野川洪水の際に公用の飛脚を渡した功績により、初めて枚方での茶舟営業が認められたのです。歌川広重の「京都名所之内 淀川」の浮世絵でも有名な、三十石船に漕ぎ寄せて「餅くらわんか、酒くらわんか、銭がないのでようくらわんか」などの掛け声で、茶舟から餡餅・ごぼう汁・酒などを売りつけた様子が目に見えるようです。




<終わりに>

 第2項で「43の指定文化財と185の遺跡が…」と書きました。書くべきことが多くて限りがございませんので、紙面の都合上ここまでとさせていただきます。京阪電車を乗り降りして、樟葉、御殿山、枚方市と北から順に見てきましたが、取り上げました三カ所だけでも時代の移り変わりやその地の特徴がよく出ているように思いました。ご協力いただきました京阪電車、枚方市の御担当者様に紙面にてありがたく御礼申し上げます。



(令和6年6月20日) 一一

参考書籍及び資料等:
『新版 郷土枚方の歴史』 枚方市教育委員会(平成26年3月発行)
「枚方市歴史ガイドマップ」 枚方市教育委員会(平成29年3月発行)
『日本書紀(上)全現代語訳』 (巻第十七・継体天皇) 講談社学術文庫刊
『新編 日本古典文学全集 12』 (伊勢物語、他) 小学館刊 
『初心者にもわかる 天皇125代』 株式会社メディアックス刊
「歴探会報」 第121号(P5、惟喬親王に関する部分・西中道氏)




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# by y-rekitan | 2024-07-28 10:00 | 隣の芝生