◆八幡の歴史を探究する会

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 本会では、2010年より京都府八幡の歴史についての探究と共有を目指して、講演会や歴探ウォークの開催、会報の発行等の活動を積極的に続けています。

“『石清水八まん宮道』に誘う道標群” の増補版を販売中!


11/1 最近のトピックスが1件、11/1 アクセスtop3を更新、10/18 新掲示板に投稿が1件、10/14 新しい集いの案内が1件、9/28 新しい会報記事が6件、追加されています。

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お急ぎの方は 最新の 《会報記事集いの案内》 に直行 できます。
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本会では定期的に会報を発行し現在 87号 を数えていますが、このサイトには
そこから 410件 の記事を掲載しております。

f0300125_23573954.jpgf0300125_2358401.jpg"10月度の記事別アクセス数 TOP3"
第29号:石清水祭祀と神人の経済活動
第77号:八幡の古寺巡礼 第4回
第32号:泰勝寺の起源とお茶会
10月度の人気タグ top3⇒  石碑と由来  木津川  豪商淀屋

“アクセスtop3” コーナーについての 《解説とご案内》をこちらに 入れております。

なお個々の記事には以下の四つのルートから簡便にアクセスして頂けます。f0300125_20584995.jpgf0300125_20591768.jpgf0300125_20594243.jpgf0300125_210420.jpg

9/28 以下の朱書き部の連載や個別記事を追加掲載しました。
(前回更新日は 7/28)

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会報号番をクリックして頂くと、後はスクロールのみでその号の記事を一気にお読みいただけます。
なお朱書きが追加された号を示しております。

ブログ管理会社のシステム変更の影響で、現在以下をクリックすると、各号報のトップではなく記事一覧が出ます。お手数ですが その一覧ではクリックせず、そのまま下にスクロールしてご参照ください。
(各号のトップやエンドから前後の号報に移る場合も同じです)

《お知らせ》 第73号より会報は奇数月の隔月発行となっています。

2018年09月 第87号
2018年07月 第86号     2018年05月 第85号
2018年03月 第84号     2018年01月 第83号
2017年11月 第82号     2017年09月 第81号
2017年07月 第80号     2017年05月 第79号
2017年03月 第78号     2017年01月 第77号
2016年11月 第76号     2016年09月 第75号
2016年07月 第74号     2016年05月 第73号
2016年03月 第72号     2016年02月 第71号

2016年01月 第70号     2015年12月 第69号
2015年11月 第68号     2015年10月 第67号
2015年09月 第66号     2015年08月 第65号
2015年07月 第64号     2015年06月 第63号
2015年05月 第62号     2015年04月 第61号

2015年03月 第60号     2015年02月 第59号
2015年01月 第58号     2014年12月 第57号
2014年11月 第56号     2014年10月 第55号
2014年09月 第54号     2014年08月 第53号
2014年07月 第52号     2014年06月 第51号

2014年05月 第50号     2014年04月 第49号
2014年03月 第48号     2014年02月 第47号
2014年01月 第46号     2013年12月 第45号
2013年11月 第44号     2013年10月 第43号
2013年09月 第42号     2013年08月 第41号

2013年07月 第40号     2013年06月 第39号
2013年05月 第38号     2013年04月 第37号
2013年03月 第36号     2013年02月 第35号
2013年01月 第34号     2012年12月 第33号
2012年11月 第32号     2012年10月 第31号

2012年09月 第30号     2012年08月 第29号
2012年07月 第28号     2012年06月 第27号
2012年05月 第26号     2012年04月 第25号
2012年03月 第24号     2012年02月 第23号
2012年01月 第22号     2011年12月 第21号

2011年11月 第20号     2011年10月 第19号
2011年09月 第18号     2011年08月 第17号
2011年07月 第16号     2011年06月 第15号
2011年05月 第14号     2011年04月 第13号
2011年03月 第12号     2011年02月 第11号

2011年01月 第10号     2010年12月 第09号
2010年11月 第08号     2010年10月 第07号
2010年09月 第06号     2010年08月 第05号
2010年07月 第04号     2010年06月 第03号
2010年05月 第02号     2010年04月 第01号

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連載企画の記事はこちらから直接初回記事に入り、以降は文末でクリックすることで
連続参照して頂けます。 今回の号では朱書きの連載記事が追加 されています。


《連載》 “私の歴史さんぽ” (第86号~継続中
《連載》 “四條隆資卿物語” (第79号~第83号)
《連載》 “八幡の古墳と鏡” (第77号~継続中
《連載》 “八幡に見る古代植物” (第74号~第77号)
《連載》 “詩歌に彩られた八幡の歴史” (第73号~第77号)
《連載》 “宮廷と歌合、そして石清水宮寺” (第71号~第72号)
《連載》 “心に引き継ぐ風景” (第70号~継続中
《連載》 “五輪塔あれこれ” (第70号~第79号)
《連載》 “『三宅安兵衛遺志』碑と八幡の歴史創出” (第70号~継続中)
《連載》 “八幡の道を「高野街道」となぜ呼ぶのか?” (第67号~71号
《連載》 “松花堂昭乗が詠んだ八幡の町"  (第63号~第68号)
《連載》 “川の旅日記"  (第62号~第64号)
《連載》 “八 幡 八 景”  (第58号~第60号)
《連載》 “『歴史たんけん八幡』の発行"  (第56号~第68号)
《連載》 “御園神社考”  (第55号~第58号)
《連載》 “古代の声を聞く ”  (第53号~第54号)
《連載》 “自転車で巡る名所案内 ”  (第52号~第56号)
《連載》 “ 物語はどのように生まれたか ”  (第51号~第56号)
《連載》 “ 石清水八幡宮の歴史Q&A ”  (第50号~第57号)
《連載》 “ 伊佐家のしきたりとくらし ”  (第48号~第51号)
《連載》 “ 謡曲のふるさと八幡 ”  (第41号~第43号)
《連載》 “ 大谷川散策余話 ”  (第38号~第50号)
《連載》 “ 御文庫とエジソン碑 ”  (第36号~第45号)
《連載》 “ 墓石をたどる ”  (第33号~継続中)
《連載》 “ 八幡の歴史スポット ”  (第30号~第32号)
《連載》 “わが心の風景 ” (第28号~第69号)
《連載》 “八幡太鼓祭り ”  (第28号~第29号)
《連載》 “八幡に残る昔話と伝承 ”  (第26号~第30号)
《連載》 “ 八幡文学碑巡り ”  (第22号~第26号)
《連載》 “八幡神と神仏習合 ”  (第21号~第25号)
《連載》 “ 一枚の写真から ”  (第16号~第19号)
《連載》 “ 八幡の歴史の謎とは何か”  (第15号~第16号)
《連載》 “古歌に詠まれた南城山”  (第11号~第15号)
《連載》 “八幡の祭りについて”  (第5号~第17号)
《連載》 “八幡の歴史を彩る文化”  (第4号~第9号)
・・・
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現在掲載しているスポット記事は以下の通りです。クリックで直接お読み頂けます。

“他国の猪鼻坂はどこに" (第87号)
“天正の大地震" (第87号)
“江戸時代の「八幡宮道」道標の設置" (第86号)
“八幡の歴史を学ぶ連続学習会」2017年 " (第85号)
“八幡市誌の高野街道 " (第84号)
“台場跡講座から学んだこと " (第84号)
“石清水八幡宮と松本神社の絵馬 " (第83号)
“勅祭・石清水祭に学ぶ " (第82号)
“第45回八幡市民文化祭展示発表報告 " (第82号)
“高良神社の太鼓祭りを楽しむ " (第81号)
“「石清水八まん宮道」に悠久の歴史がある " (第81号)
“「『石清水八まん宮』に誘う道標群」の発刊にむけて " (第81号)
“八幡の京街道は川底に沈んだ " (第80号)
“消えた踏切道に思う " (第80号)
“今年白寿を迎えました " (第80号)
“『太平記』 八幡合戦の石碑を訪ねる " (第79号)
“「八幡の歴史を学ぶ連続学習会」2016年 " (第79号)
“石清水八幡宮を指し示す「八幡宮道」の道標の数々 " (第78号)
“大阪府下の東高野街道に「やわた道」の道標を訪ねて" (第77号)
“歴探サイト(ホームページ)の現況報告" (第77号)
“第44回八幡市民文化祭展示発表を終えて" (第76号)
“御幸橋南詰「石清水八幡宮鳥居通」道標は何処に?" (第75号)
“『茶揉み歌』を復活"  (第73号)
“「八幡大縁起」に参加して"  (第71号)
“上津屋橋(流れ橋)の復旧に向けて"  (第71号)
“新刊案内「戦国大名の正体"  (第70号)
“本妙寺文書「沢庵の書状」と紫衣事件"  (第69号)
“「古寺巡礼」で出会った仏さま"  (第69号)
“八幡の文化財(国宝指定)"  (第69号)
“国宝指定の答申に思う"  (第69号)
“京の街角の「湯たく山茶くれん寺"  (第69号)

これより古い号の個別記事インデックスはこちらに

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◆八幡のおすすめキーワードで関連記事を◆
この画面の右上の “タグ” 欄のおすすめキーワードをクリックして頂くと、ブログ内の
関連記事をまとめてご参照頂けます。
最初に記事一覧が出ますが、そこではクリックせずスクロールでお読みください。
なおタグ記事閲覧後に元に戻る場合は、一旦上端までスクロールし画面左上隅の
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# by y-rekitan | 2018-12-31 20:00 | Comments(0)

◆コーナー・講演会の記録

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「八幡の歴史を探究する会」では、定期的に講演会や歴探ウォーキングの集いを実施していますが、このコーナーでは、その講演会のレポートを紹介しております。

 9/28 朱書きの記事を追加掲載しました。 現在の記事数は 62件です。 

下記の任意の記事をクリックして頂くと、それ以降は記事下端で“次のレポート”をクリックして頂くことで連続参照して頂けます。 

  《講演会録》 87号 2018年08月 石清水八幡宮の印章
  《講演会録》 85号 2018年04月 久世郡上津屋村を探究する

  《講演会録》 84号 2018年02月 八幡の道の歴史―江戸時代の道標調査を終えて
  《講演会録》 82号 2017年10月 森本家文書からみた近世石清水の神人構成と身分
  《講演会録》 81号 2017年08月 石清水八幡宮の牛玉宝印
  《講演会録》 79号 2017年04月 三川合流の変遷と周辺都市
  《講演会録》 78号 2017年02月 謡曲から見た八幡
  《講演会録》 76号 2016年10月 八幡の古代遺跡と道
  《講演会録》 75号 2016年08月 石清水八幡宮の成立と機能
  《講演会録》 73号 2016年05月 石清水八幡宮の由緒と建築様式
  《講演会録》 71号 2016年02月 中世都市 八幡
  《講演会録》 70号 2016年01月 『三宅安兵衛遺志』碑と八幡の歴史創出

  《講演会録》 68号 2015年11月 継体大王の謎を追う
  《講演会録》 67号 2015年10月 弥生時代の八幡市とその周辺
  《講演会録》 66号 2015年09月 江戸時代の村の暮らし
  《講演会録》 63号 2015年06月 酒麹作りがビジネスの八幡神人がなぜ奉納詩歌に
  《講演会録》 62号 2015年05月 知っているようで知らない松花堂昭乗のこと
  《講演会録》 61号 2015年04月 幕末政治と攘夷―長州・京都・八幡
  《講演会録》 59号 2015年02月 二宮忠八と八幡
  《講演会録》 58号 2015年01月 史跡 松花堂庭園の成立
  《講演会録》 57号 2014年12月 中村家住宅の国登録有形文化財指定
  《講演会録》 56号 2014年11月 中世大山崎の商業活動について

  《講演会録》 55号 2014年10月 「安居頭諸事覚」を読む
  《講演会録》 54号 2014年09月 地誌に見る八幡
  《講演会録》 54号 2014年08月 神国論の系譜
  《講演会録》 51号 2014年06月 八幡を掘る
  《講演会録》 50号 2014年05月 門前町の八幡「今」「昔」
  《講演会録》 49号 2014年04月 石清水八幡宮の年中行事と庶民信仰
  《講演会録》 47号 2014年02月 松花堂昭乗の茶の湯
  《講演会録》 46号 2014年01月 歌人吉井勇の歌行脚
  《講演会録》 44号 2013年11月 八幡の歴史と土器
  《講演会録》 43号 2013年10月 八幡における浄土信仰

  《講演会録》 42号 2013年09月 江戸時代の村の暮らし
  《講演会録》 41号 2013年08月 武家政権と石清水八幡宮
  《講演会録》 39号 2013年06月 八幡社士総代「江戸尾張年頭御礼日記」
  《講演会録》 38号 2013年05月 天下人の時代と八幡
  《講演会録》 37号 2013年04月 南山城の地域史を学んで
  《講演会録》 35号 2013年02月 松花堂昭乗の江戸下向
  《講演会録》 34号 2013年01月 八幡・山崎の警備体制と鳥羽伏見
  《講演会録》 32号 2012年11月 松花堂昭乗と近世前期の文芸
  《例会報告》 30号 2012年09月 「八幡歴史カルタ」読み札の決定
  《講演会録》 29号 2012年08月 石清水際と神人の経済活動

  《講演会録》 28号 2012年07月 良いまちには良い川がある
  《講演会録》 27号 2012年06月 八幡の町の成り立ち
  《講演会録》 26号 2012年05月 庶民信仰と八幡大菩薩
  《講演会録》 25号 2012年04月 男山文化園の中心・八幡
  《講演会録》 23号 2012年02月 古代の八幡を探る
  《講演会録》 21号 2011年12月 高度経済成長期の八幡を語る
  《講演会録》 20号 2011年11月 八幡八景の成立とその背景
  《例会報告》 19号 2011年10月 八幡の歴史を次代に遺そう!
  《講演会録》 18号 2011年09月 墓地で探る八幡の歴史(1)
  《講演会録》 18号 2011年09月 墓地で探る八幡の歴史(2)

  《講演会録》 16号 2011年07月 地名で学ぶ八幡の歴史
  《講演会録》 14号 2011年05月 中世都市橋本を学ぶ
  《講演会録》 13号 2011年04月 八幡の古墳とその特徴を学ぶ!
  《講演会録》 12号 2011年03月 神仏習合の実像に迫る
  《講演会録》 11号 2011年02月 近代の門前町と参詣路を語り合う
  《講演会録》 10号 2011年01月 南北朝の争乱と八幡
  《講演会録》 08号 2010年11月 淀屋の歴史をたどる!
  《講演会録》 06号 2010年09月 石清水八幡宮の絵図を読み解く!
  《講演会録》 04号 2010年07月 松花堂昭乗の出自を追う!
  《講演会録》 02号 2010年05月 古代の遺跡から八幡の歴史を学ぶ

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# by y-rekitan | 2018-12-31 18:00 | Comments(0)

◆コーナー・歴探ウォークの記録

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「八幡の歴史を探究する会」では、定期的に講演会や歴探ウォーキングの集いを実施していますが、このコーナーでは、その歴探ウォークのレポートを紹介しております。

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 7/28 朱書き記事を追加掲載しました。 現在の記事数は 21件です。 

下記の任意の記事をクリックして頂くと、それ以降は記事下端で“次のレポート”をクリックして頂くことで連続参照して頂けます。

  《歴探散策》 86号 2018年06月 小堀遠州の菩提寺、五先賢の館等を訪ねて
  《歴探散策》 83号 2017年12月 八幡の古寺巡礼 第5回
  《歴探散策》 80号 2017年06月 東山寺と伊弉諾神宮を訪ねて(バスツアー)
  《歴探散策》 77号 2016年12月 八幡の古寺巡礼 第4回
  《歴探散策》 74号 2016年06月 丹後を訪ねてのバスツアー報告
  《歴探散策》 72号 2016年03月 石清水八幡宮 山上伽藍の探訪
  《歴探散策》 69号 2015年12月 八幡の古寺巡礼 第3回
  《歴探散策》 64号 2015年07月 長岡宮を訪ねてのバスツアー報告
  《歴探散策》 60号 2015年03月 橋本の歴史(2)「平野山・西山を歩く」
  《歴探散策》 57号 2014年12月 八幡の古寺巡礼 第2回
  《歴探散策》 52号 2014年07月 対岸の町「山崎・大山崎」を訪ねる

  《歴探散策》 48号 2014年03月 橋本の歴史(1)「京街道を行く」
  《歴探散策》 45号 2013年12月 八幡の古寺巡礼(第1回)
  《歴探散策》 40号 2013年07月 二つの資料館をめぐる
  《歴探散策》 36号 2013年03月 春爛漫の歴史探訪ウォーク
  《歴探散策》 33号 2012年12月 男山参詣路を歩く
  《歴探散策》 31号 2012年10月 八幡の古建築の探訪
  《歴探散策》 25号 2012年04月 歴史探訪「男山参詣路を歩く」
  《歴探散策》 15号 2011年06月 東高野街道を歩く
  《歴探散策》 07号 2010年10月 上津屋の名所をめぐる
  《歴探散策》 03号 2010年06月 八幡の名所・旧跡を歩く

なお歴探ウォークの自転車版、サイクリングツアーについても概要を連載記事として掲載していますので、併せてご参照ください。
《連載記事》 “自転車で巡る名所案内 ”

# by y-rekitan | 2018-12-31 16:00 | Comments(1)

◆コーナー・新しい集いのご案内

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本会では八幡の歴史の探究と共有を目指して、講演会や歴探ウォーク等の集いを定期的に催しておりますが、このコーナーではそのスケジュール等を掲載しております。
併せて本会のトピックスや出版物等についても掲載しておりますのでご参照ください。

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---2018/10/14更新------2018/11/1新着---  2018/10/27更新

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ただ今、以下の集いやイベントを案内中です。詳しくはリンクのパンフレットをご参照のうえ、ご参加ください。 10/14更新


f0300125_1833548.jpg◆歴史探訪ウォーク(2018年12月)

   ・概要  八幡の古寺巡礼
        ー第6回:杉山谷不動堂~神應寺を巡るー
   ・日時  2018年 12月6日(木) 午後1時30分~4時頃
   ・場所  石清水八幡宮一の鳥居→杉山谷不動堂→神應寺→単伝寺



f0300125_1833548.jpg◆2018年度 八幡の歴史を学ぶ連続学習会
  (次回の開催は1月17日です)     

   ・概要  2018年度 八幡の歴史を学ぶ連続学習会(隔月開催)
   ・日時  2018年 5月17日(木) 「八幡八景と直條」
《終了しました》 参加者は38名でした。空白空白
        2018年 7月19日(木) 「江戸時代の村の暮らし」
《終了しました》 参加者は36名でした。空白空白
        2018年 9月20日(木) 「宿場町 橋本」
《終了しました》 参加者は40名でした。空白空白
        2018年11月15日(木)  「二宮忠八と飛行神社」
《終了しました》 参加者は27名でした。空白空白
              
        2019年 1月17日(木) 「吉井勇と八幡」
        2019年 3月14日(木)  「八幡の銅鐸」

         ※何れも午前10時~11時半
   ・場所  ふるさと学習館2階研修室



f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(2018年10月)

《終了しました》 参加者は44名でした。
   ・概要  馬場遺跡の発掘調査を終えて
          -善法寺邸宅跡地ー
   ・日時  2018年10月13日(土) 午後1時30分~4時
   ・場所  八幡市文化センター 3階 第3会議室



f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(2018年8月)

《終了しました》 参加者は39名でした。
   ・概要  石清水八幡宮の牛王宝印印章(印影)について
   ・日時  2018年8月25日(土) 午後2時~4時
   ・場所  八幡市文化センター 3階 第3会議室



f0300125_1833548.jpg◆歴史探訪バスツアー

《終了しました》 参加者は36名でした。
   ・概要  歴史探訪バスツアー
   ・日時  2018年 6月14日(木) 午前7時50分~午後5時頃
   ・場所 《訪問先》バスで北近江方面に向かいます
         近江弧蓬庵⇒五先賢の館(昼食:仕出し弁当)⇒渡岸寺
        ー詳細はバスツアーのパンフレット参照ー

 

f0300125_1833548.jpg◆年次総会及び講演と交流の集い(4月)

《終了しました》 参加者は44名でした。
   ・概要  (八幡の歴史を探究する会) 年次総会
         (講演と交流の集い) 「久世郡上津屋村を探究する」
   ・日時  2018年 4月22日(日) 年次総会:午後1時~1時40分
                   講演と交流の集い:午後2時~4時
   ・場所  八幡市文化センター3階 第3会議室



f0300125_1833548.jpg◆会員研究発表(2018年2月)

《終了しました》 参加者は52名でした。
   ・概要  八幡の道の歴史
         -江戸時代の道標調査を終えてー
   ・日時  2018年2月22日(木) 午後1時30分~4時
   ・場所  八幡市文化センター3階 第3会議室



f0300125_1833548.jpg◆2017年度 八幡の歴史を学ぶ連続学習会

   ・概要  2017年度 八幡の歴史を学ぶ連続学習会(隔月開催)
   ・日時  2017年 5月18日(木) 「八幡神と男山遷座」
《終了しました》 参加者は47名でした。 空白空白
        2017年 7月20日(木) 「元寇から南北朝の争乱まで」
《終了しました》 参加者は43 名でした。 空白空白
        2017年 9月21日(木)  「天下人と八幡」
《終了しました》 参加者は34 名でした。 空白空白
        2017年11月16日(木) 「鳥羽伏見の戦いと八幡・橋本」
《終了しました》 参加者は33 名でした。空白空白
        2018年 1月18日(木)「八幡東部の神社(川口天満宮、内神社)」
《終了しました》 参加者は36 名でした。空白空白
        2018年 3月15日(木) 「近代化の八幡と戦時下の八幡」 
《終了しました》 参加者は30 名でした。空白空白
         ※何れも午前10時~11時半
   ・場所  ふるさと学習館2階研修室



f0300125_1833548.jpg◆歴史探訪ウォーク(2017年12月)

《終了しました》 参加者は39名でした。
   ・概要  八幡の古寺巡礼 ー第5回:男山南部の寺を巡るー
   ・日時  2017年12月7日(日) 午後1時10分~4時頃
   ・場所  松花堂庭園前の昭乗広場



f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(2017年10月)

《終了しました》 参加者は47名でした。
   ・概要  森本家文書からみた近世石清水の神人構成と身分
   ・日時  2017年10月15日(日) 午後1時30分~4時
   ・場所  八幡市文化センター3階 第3会議室



f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(2017年8月)
 
《終了しました》 参加者は40名でした。
   ・概要  石清水八幡宮の牛王宝印
   ・日時  2017年8月26日(土) 午後2時~4時
   ・場所  さくらであい館 イベント広場「淀」



f0300125_1833548.jpg◆歴史探訪バスツアー

《終了しました》 参加者は39名でした。
   ・概要  歴史探訪バスツアー
   ・日時  2017年 6月15日(木) 午前7時50分~午後6時頃
   ・場所 《訪問先》バスで淡路島に向かいます
         伊弉諾(いざなぎ)神社⇒(昼食:海鮮料理)⇒東山寺
        ー詳細はバスツアーのパンフレット参照ー



f0300125_1833548.jpg◆年次総会及び講演と交流の集い

《終了しました》 参加者は58名でした。
   ・概要 (八幡の歴史を探究する会) 年次総会
        (講演と交流の集い)   「淀川・三川合流の歴史とその周辺」  
   ・日時  2017年 4月23日(日) 年次総会:午後1時30分~2時10分
                   講演と交流の集い:午後2時30分~4時30分
   ・場所  さくらであい館(イベントホール)



f0300125_1833548.jpg◆八幡の歴史を学ぶ連続学習会>

《終了しました》
   ・概要  八幡の歴史を学ぶ連続学習会(隔月開催)
   ・日時  2016年 5月19日(木) 「大むかしの八幡」(29名参加)
        2016年 7月14日(木) 「町の成り立ちと神人の活躍」
                             (37名参加)
        2016年 9月15日(木)  「松花堂昭乗という人がいた」
                             (32名参加)
        2016年11月17日(木) 「淀屋と八幡」(34名参加)
        2017年 1月19日(木)  「河川と歩んだ八幡」(30名参加)
        2017年 3月16日(木) 「昭和から平成へ」(28名参加)     
        ※午前10時~11時半
   ・場所  ふるさと学習館2階研修室



f0300125_1833548.jpg◆会員研究発表

《終了しました》 参加者は40名でした。
   ・概要  謡曲から見た八幡
   ・日時  2017年 2月15日(水) 午後1時30分~
   ・場所  松花堂美術館 講習室



f0300125_1833548.jpg◆歴史探訪ウォーク

《終了しました》 参加者は46名でした。
   ・概要  八幡の古寺巡礼
        ー第4回:男山山麓の寺を巡る(Partー3)ー
   ・日時  2016年 12月8日(木) 午後1時~4時頃
   ・場所  京阪八幡市駅→法園寺→正福寺→単伝寺



f0300125_1833548.jpg◆「八幡の道探究部会」の展示発表

《終了しました》2日間とも多くの来場者がありました。
   ・概要  「八幡の古道」展示発表(八幡市民文化祭)
   ・日時  2016年 10月29日(土) 午前10時~午後5時
        2016年 10月30日(日) 午前10時~午後4時
   ・場所  第44回八幡市民文化祭
         八幡市文化センター 3階エレベーターホール



f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(10月)

《終了しました》 参加者は33名でした。
   ・概要  八幡の古代遺跡と道
   ・日時  2016年 10月16日(日) 
   ・場所  八幡市文化センター第3会議室



f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(8月)

《終了しました》 参加者は42名でした。
   ・概要  石清水八幡宮の別宮の成立と機能
   ・日時  2016年8月27日(木) 午後2時~4時半
   ・場所  八幡市文化センター 第3会議室



f0300125_1833548.jpg◆歴史探訪バスツアー(6月)

《終了しました》 参加者は38名でした。 
  ・概要  丹後を訪ねて
  ・日時  2016年6月9日(木) 午前8時~午後6時頃
  ・場所  《訪問先》 丹後郷土資料館 ⇒ 籠神社 ⇒ ちりめん街道
       ―バスツアーの詳細はパンフレット参照―



f0300125_1833548.jpg◆年次総会及び講演と交流の集い(4月)

《終了しました》 参加者は38名でした。 
   ・概要 (八幡の歴史を探究する会)年次総会
       (講演と交流の集い)  「石清水八幡宮の由緒と建築様式」  
   ・日時 2016年4月21日(木)  年次総会:午後1時~1時40分 
                   講演と交流の集い:午後2時~4時
   ・場所 石清水八幡宮研修センター(男山山上)



f0300125_1833548.jpg◆講演と現地探訪の集い(3月)

《終了しました》 参加者は52名でした。 
    ・概要  石清水八幡宮 山上伽藍の探訪
    ・日時  2016年3月13日(日) 午後1時~4時頃
    ・場所  石清水八幡宮研修センター(講演)及び男山山上探訪



f0300125_1833548.jpg◆男山考古録を読むパートⅢ(第12回)

《終了しました》 参加者は23名でした。
    ・概要  男山考古録」を読む パートⅢ第4回(通算:第12回)
    ・日時  2016年2月17日(水) 午前10時~11時30分
    ・場所  八幡市立生涯学習センター 会議室

f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(2月)

《終了しました》 参加者は58名でした。
    ・概要  中世都市 八幡
    ・日時  2016年2月14日(日) 午後1時30分~4時
    ・場所  松花堂美術館 講習室


f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(1月)

《終了しました》 参加者は78名でした。
    ・概要  「三宅安兵衛遺志」碑と八幡の歴史創出
    ・日時  2016年1月17日(日) 午後1時30分~4時
    ・場所  八幡市文化センター第3会議室




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# by y-rekitan | 2018-12-31 15:00 | Comments(0)

◆コーナー・トピックス & 出版活動

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◆2018年10月27日~28日 第46回八幡市民文化祭に出展 
 2018年の文化祭は、昨年に引き続き「江戸時代の八幡道標」及び「八幡の古墳と鏡」の2テーマを展示発表しました。(出展会場は、例年通り八幡市文化センター3階ロビーでした。)
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 「江戸時代の八幡道標」(4パネルに展示)コーナーでは、昨年販売の冊子“石清水八まん宮に誘う道標群”の読者等から相次いで情報を寄せて頂き、再調査の結果、新たに確認の21基の道標を紹介した。昨年紹介76基に追加し合計97基を掲載の冊子(増補版)は、多くの方の購入していただきました。
また、会で再設置した[八幡宮道道標]をパネルに写真を掲示し紹介しました。
 「八幡の古墳と鏡」(2パネルに展示)コーナーでは、来場の皆さんは熱心に説明を聞かれていました。八幡の古墳から30数枚の鏡が出土していますが、八幡市が所蔵・保管の鏡は数枚です。他は市外に流出または行方不明で現物は確認できません。なお、会場で販売の「八幡の古墳と鏡」資料は好評で準備した30部を完売しました。
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◆2017年10月28日~29日 第45回八幡市民文化祭に出展
 八幡市民文化祭には例年通り出展会場は、八幡市文化センター3階ロビーでした。今年は専門部会「八幡の道探究部会」が2年間かけて現地に出向き調査した八幡市内(22基)及び市外(54基)の『江戸時代の八幡道標(みちしるべ)』をパネル5枚に掲示しました。
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 2日とも台風接近の影響による生憎の雨天のために屋外の展示は中止になり来場者も例年より少なかったですが、来場の皆さんは江戸時代に設置され今に残る八幡道標に興味をもたれてパネルに展示の道標写真や設置場所を地図で確認されていました。また、会場で販売した調査結果を纏めた『「石清水八まん宮道」に誘う道標群”ー江戸時代の八幡道標ー』の本は、予想より遙かに多くの方に購入していただきました。
 展示パネル前のテーブル上には、本と共に「八幡の歴史カルタ」や会報(2年間のバックナンバー)、例会や連続学習会のチラシ等も並べました。
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◆2016年10月29日~30日 第44回八幡市民文化祭に出展
 今年の文化際には、昨年10月発足した専門部会『八幡の道探究部会』の1年間の活動成果を展示発表しました。展示のテーマは「八幡の古道」で、①古地図(6枚)、②古道の作製地図(2枚ー写真6点)、③江戸時代の道標地図(2枚ー写真27点)などを展示しました。
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 展示会場の八幡市民文化センター3階ロビーには、2日間で約200人の大勢の方が訪れられ、展示物を見ていただきました。また、部会員の説明を熱心に聞いておられました。今回の展示発表は当初予想より皆様の古道や古い道標への関心は高くて、準備していた古道や道標地図及び道標リストは多くの方が求められてたので途中で増刷しました。中には関心のある道標を今から見に行くと仰る方も居られました。
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◆2016年6月12日 『八幡の歴史カルタ』の関連史跡めぐり
 「安居塚ブロック福祉委員会(ふれあいサロン)」の皆様が本会制作の『八幡の歴史カルタ』に詠まれている史跡巡りをされている様子が、八幡市社会福祉協議会の広報誌「やわたし社協だより」第108号(2016年6月1日発行)に紹介されました。
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 催しを主催された福祉委員会の安居塚ブロック長 中崎幸子様から「八幡の歴史カルタ等に紹介されている名所巡りを今年3月と5月実施しましましたが、皆様に好評なので11月にも計画しています」と伺いました。

◆2016年6月12日 カルタ資料館に『八幡の歴史カルタ』を寄贈
 この度、福岡県大牟田市立三池カルタ・歴史資料館から、当会制作の「八幡の歴史かるたカルタ」の寄贈依頼があり1セットを寄贈しました。f0300125_1521852.jpg この資料館は日本及び世界のカルタ(歌カルタ・いろはカルタ・トランプ・タロットなど)を専門に収集・展示・研究をする日本で唯一の資料館です。
(注記)
 日本のカルタは、ポルトガルからの影響を受け、16世紀末頃、筑後の三池地方で作り始められたと言われている。その関係で大牟田市が1991(平成3)年に日本で唯一のカルタ専門館を開館した。

2015年10月31日~11月1日第43回八幡市民文化祭に出展
 今年も八幡市文化センターでの市民文化祭に出展しました。「八幡の歴史クイズ」の実施と「歴史カルタ」及び「歴史たんけんマップ」を掲示しました。約100名の方が歴史クイズに挑戦されました。
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◆2015年9月27日 「歴史たんけん八幡」出版記念の集い
 松花堂庭園・美術館別館において実施された、第Ⅰ部記念講演、第Ⅱ部「出版記念」交流の集いは、堀口八幡市長をはじめ多くの方が参加されて盛況でした。
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 ◆2015年5月9日 八幡市生涯学習センター「わくわくドキドキ縁日」に出展。
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 ◆2015年04月18日 発足5周年記念で会の旗製作の記事が京都新聞に。
 ◆2015年02月13日 2月例会「二宮忠八と飛行神社」が京都新聞に掲載。 
 ◆2014年12月23日 「やましろのタカラフェステバル」(文化パルク城陽)に出展。
 ◆2014年11月1~2日 第42回八幡市民文化祭に出展
 ◆2014年08月15日 会報50号達成記念(バックナンバー増刷)が京都新聞に掲載。
 ◆2014年06月09日 KBS京都ラジオで本会活動紹介の放送がありました。
 ◆2014年06月01日 八幡山柴公民館フェスティバルで、歴探クイズの展示。
 ◆2014年05月28日 「歴史探訪サイクリング」が京都新聞で紹介されました。


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《NEW》『石清水八まん宮道』に いざな道標みちしるべ群―江戸時代の八幡道標―

 2018.10.25 新たに21基の道標を追加した増補版を発売しました。 

先に「石清水八まん宮道に誘う道標群」の冊子を発行したところ、多くの皆さんに関心を持って頂き、また、相次いで貴重な情報を寄せていただきました。お寄せ頂いた情報を中心に調査を実施したところ新たに確認された道標は21基もの数になりました。そこでまとめて合計97基分として、増補版を発行いたしました。

「八幡道標」ともいうべき貴重な道標群を「昔と今を結ぶ掛替えのない歴史遺産」として保護するとともに、誇りを持って「後世に引き継ぎたい」との思いを強くしています。

出版冊子の概要
 A5版フルカラーで119ページです。また、掲載している地図は、現地で迷わないように道標設置の場所をピンポイントで示しています。本書は極力廉価で皆様にご提供できることを目指し、すべて本会で自家編集し、それをそのままネット印刷で本にしました。

主な内容
1.江戸時代の八まん宮道のエリア区分地図(京都市北区~大阪府松原市)
2.道標群の紹介―合計97基
f0300125_10184039.jpg ・八幡市 ;22基
 ・京都市内:10基
 ・長岡京市:1基
 ・大山崎町:2基
 ・宇治市 :1基
 ・京田辺市:3基
 ・精華町 :1基
 ・島本町 :1基
 ・高槻市 :3基
 ・茨木市 :1基
 ・枚方市 :28基
 ・交野市 :4基
 ・寝屋川市:3基
 ・四條畷市:4基
 ・大阪市 :1基
 ・大東市 :2基
 ・東大阪市:8基
 ・松原市 :2基

本書の販売について
・販売価格 : 1,000円(会員価格)
・販売場所 : 本会の行事や催し物会場などで都度販売します。
       
・委託販売所: 松花堂ミュージアムショップ
        石清水八幡宮(本殿)授与所
        
・本会での販売について
   事務局  高田昌史 宛に連絡ください。
   電 話   090-2011-7503
   メール  takata@cd6.so-net.ne.jp
   または、お近くの本会の幹事までお願いします。

・郵送販売について
   販売価格+郵送料(180円)をいただきます。
   お支払方法は下記口座あての郵便振り込みを願いします。
    申し込み: 歴探事務局 takata@cd6.so-net.ne.jp
    支払振込: 郵便振込口座番号:00970-2-322353
         (加入者名:八幡の歴史を探究する会)
    ・お願い ー 振込前にご一報下さい、早くお送りできます。

 江戸時代の八幡道標をとりまとめた冊子の発刊に併せて、冊子で取り上げている全ての道標位置をグーグル地図上に正確にプロットした専用のマップを用意しています。道標の位置や設置場所の様子を確認する補助ツールとして、冊子と共にご利用いただければ幸いです。
 グーグル“江戸時代の八幡道標”マップへ⇒
 道標マップの御利用法はこちらに⇒



《初版》『石清水八まん宮道』に いざな道標みちしるべ群―江戸時代の八幡道標―

江戸時代の76基の道標を紹介した《初版》は2017/10月の発刊以来、好評につき増刷を重ねてまいりましたが《増補版》の発刊に伴い販売を終了しました。 

f0300125_21252046.jpg 本書は150年以上前の「江戸時代」に建立された八幡市内及び市外の「八幡道標」ともいうべき道標群を「昔と今を結ぶ掛替えのない歴史遺産として保護する」とともに「後世に引き継ぎたい」との強い願いから、専門部会「八幡の道探究部会」の会員が二年間に渡り自分の足で調査した結果をまとめたものです。
 多くの方々に感心を持っていただくことが道標の保護につながると確信し、是非この冊子を片手に各地の江戸時代と現在を結ぶ八幡道標を訪ねられることを願って出版致しました。

出版冊子の概要
 A5版フルカラーで96ページです。また、掲載している地図は、現地で迷わないように道標設置の場所をピンポイントで示しています。
主な内容
1.刊行にあたって
2.江戸時代の八まん宮道 エリア区分地図
3.「八幡道標」の紹介―以下の合計76基
   ・八幡市 :22基
   ・京都市内:8基
   ・長岡京市:1基
   ・大山崎町:1基
   ・高槻市 :3基
   ・茨木市 :1基
・枚方市 :26基
・交野市 :2基
・寝屋川市:2基
・四條畷市:3基
・大東市 :2基
・東大阪市:5基
4.八幡道標の調査を終えて
5.編集後記

この本の発行がニュースとして京都新聞に掲載されました。




◆歴史と文化の本、『歴史たんけん八幡』は好評のうちに完売。

2015.9.1 大人も子供もこの一冊で、八幡の歴史と文化がよくわかる本、『歴史たんけん八幡』が発刊されました。
 発行日の9月1日にはこの本を八幡市に贈る贈呈式が行われ、その後ミュージアムショップやイベント会場で販売を行ってまいりましたが、好評のうちに販売を完了しました。
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『歴史たんけん八幡』、発刊よもやま話

f0300125_0485928.png 本会ではこの本の一年半にわたる企画から編集、発刊に至る経緯や本の概要を、シリーズ記事として会報で紹介してまいりました。
以下にその記事をリストアップしていますのでご参照ください。
(写真は制作委員会の風景です)


発刊に向けて ▼『歴史たんけん八幡』の発行にむけて
 ▼本の紹介として「特別連続講座」を開設
 ▼本の紹介としての「特別連続講座②」を開催
 ▼いよいよ『歴史たんけん八幡』の発行が迫る

発刊に寄せて ▼刊行に寄せて・・・『歴史たんけん八幡』と私
 ▼『歴史たんけん八幡』が発行されました
 ▼八幡の歴史にこの本の刊行が刻み込まれた
 ▼出版記念の集いが開かれました!
 ▼『歴史たんけん八幡』の普及と活用 / 読書感想

                    


◆本会制作の 『八幡の歴史カルタ』 を販売中です。
2013年2月に発売した《初版》は好評のうちに完売しました。現在は装いを新たにした改訂版を販売中です。

発行:2013年5月25日
販売価格:1,000円
制作:八幡の歴史を探究する会
絵札:森川 修
ケース:石瀬謙三
句:歴探会員応募作より
句の解説:歴探会員有志 (読み札の裏はその句の歴史的な解説になっています)
       
販売所:松花堂ミュージアムショップ、
・歴探事務局 takata@cd6.so-net.ne.jp
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◆本会の会報のバックナンバーを販売しています。
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  • 各号とも1部100円です。
  • 体裁は白黒A4版で、各号ともおおむね10~30ページの構成となっております。(但し古い号では10ページ未満のものもあります)
  • ご希望の方は八幡市民文化祭の展示販売時にお求めください。または弊会の幹事に連絡ください。
  • また郵送をご希望の方は、下記「歴探事務局」まで希望会報の号番号、送付先等の必要事項をメールでご連絡ください。郵送料はご負担をお願いします。

    なお、お支払方法は下記口座あての郵便振り込みとさせていただきます。
       申し込み: 歴探事務局 takata@cd6.so-net.ne.jp
       支払振込: 郵便振込口座番号:00970-2-322353
              (加入者名:八幡の歴史を探究する会)
       

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# by y-rekitan | 2018-12-31 14:50 | Comments(0)

◆統合版・・・集いのパンフレット

新しい集いのご案内 パンフレット集


◆歴史探訪ウォーク(12月)

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《終了》◆講演と交流の集い(10月)

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《終了》◆講演と交流の集い(8月)

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《終了》◆歴史探訪バスツアー

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◆(2018年度)八幡の歴史を学ぶ連続学習会

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《終了》◆年次総会及び講演と交流の集い(4月)

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《終了》◆会員研究発表(2月)

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《終了》◆歴史探訪ウォーク(12月)

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《終了》◆講演と交流の集い(10月)

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《終了》◆講演と交流の集い(8月)

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《終了》◆歴史探訪バスツアー

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《終了》◆(2017年度)八幡の歴史を学ぶ連続学習会

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《終了》◆年次総会及び講演と交流の集い

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《終了》◆会員研究発表

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《終了》◆歴史探訪ウォーク

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《終了》◆「八幡の道探究部会」展示発表

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《終了》◆講演と交流の集い(10月)

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《終了》◆講演と交流の集い(8月)

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《終了》◆歴史探訪バスツアー(6月)

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◆八幡の歴史を学ぶ連続学習会

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《終了》◆年次総会及び講演と交流の集い(4月)

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《終了》◆講演と現地探訪の集い(3月)

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《終了》◆男山考古録を読む会パートⅢ第4回

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《終了》◆講演と交流の集い(2月)

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《終了》◆講演と交流の集い(1月)

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《終了》 ◆男山考古録を読む会パートⅢ第3回(通算第11回)

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# by y-rekitan | 2018-12-31 14:00 | Comments(0)

◆コーナー・本会の概要と入会のご案内

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このコーナーでは「八幡の歴史を探究する会」の概要紹介や、入会のご案内を掲載しております。
2015.09.10 本会の沿革コーナーに追記    2015.04.21 本会の会則を更新
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 「八幡の歴史を探究する会」は2010年4月に 発足しました。
 八幡は、弥生時代の遺跡をはじめ、さまざまな古墳や、石清水八幡宮、善法律寺、正法寺、松花堂などすぐれた文化遺産に恵まれています。ところがその歴史的意義や文化的価値が必ずしも明らかにはされておらず、そこに暮らす私たち自身もその存在にすら気づいていないという現実があります。 

 そうした中で私たちは「八幡の歴史を探究する会」を設立し、①講演会、②現地見学会、③会員の研究発表、を事業の3本柱として各種イベントを開催するとともに、その活動内容を市民内外に広く知ってもらうために、「会報」を発行しております。
 私たちは関係団体や機関とも連携しながら、歴史探究の活動を通して市民の誰もが郷土の歴史と文化に誇りをもち、未来の町を築いていくことに貢献できればと願っております。
 「八幡の歴史を探究する会」 代表幹事 安立 俊夫空白

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 本会の概要や会則にご賛同いただき、ともに活動して頂ける会員を募っております。
  • 八幡市以外にお住まいの方も会員になれます。
  • 会員には、「会報」及び例会案内チラシ等を郵送いたします。
  • 会費:年会費は(4月~3月締めで)1,500円  
      10月以降入会は、1,000円、
  • お申し込みは下記の事務局までメールで、また会費の振込は下記の郵便振込みをご利用ください。
       申し込み: 歴探事務局 takata@cd6.so-net.ne.jp
       支払振込: 郵便振込口座番号:00970-2-322353 
             (加入者名:八幡の歴史を探究する会)
     

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 以下の会則(2改)は、2015年4月19日の総会にて承認された。

第1条 名称
本会は「八幡の歴史を探究する会」と称する。

第2条 目的
八幡の歴史を探究し、事業を通じて会員相互の交流を深めるとともに、地域文化の進展と次世代への継承に貢献する。

第3条 事業
1、講演会の開催
2、現地見学会の開催
3、会員の研究発表
4、会報を発行し,会員の情報交換・投稿の場とする。
5、その他第2条の目的を達成するための事業

第4条 会員
前条の趣旨に賛同する人々をもって構成する。

第5条 幹事及び幹事会
1、会員中より選任された幹事により幹事会を構成する。
2、幹事の任期は設けない。

第6条 代表幹事
幹事の中から互選により代表幹事、副代表幹事を選任する。

第7条 事務局長
1、幹事の中から互選により事務局長を選任する。
2、事務局長は幹事会を主宰する。

第8条 会議
この会の活発かつ円滑な運営を図るために、次の会議を開催する。
1、総会
   年1回開催し、会務・会計を報告するとともに必要
   事項を審議する。
2、幹事会
   必要に応じ開催し重要事項を審議する。

第9条 会費及び会計年度
1、会の運営のための年会費を徴収する。額については
  幹事会で決定する。   
2、会計年度は毎年4月1日より翌年3月31日までと
  する。 
3、会計監査は会員の中より選出し、総会にて会計監査
  報告を行う。

第10条 その他
本会則に定める以外の必要事項は幹事会で協議し、本会の必要な場合は細則を別に定める。

第11条 付則
この会則は2011年度(平成23年度)総会開催後から施行する。
   1改)2012年度(平成24年度)総会にて一部改訂。
   2改)2015年度(平成27年度)総会にて一部改訂。

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本会の沿革に代えて、ここに代表の折々の年次総括やイベント報告の記事を紹介させて頂きます。
        2015年09月 『歴史たんけん八幡』を発刊しました!
        2015年04月 2015年度の総会が開かれました
        2015年04月 発足からの5年を振り返る
        2015年03月 発足5年周年を記念し、会の旗が出来ました
        2014年06月 会報50号 発行の節目を迎え
        2014年01月 新年を迎え、5年目の節目を大切に
        2012年04月 発足以来 3年目の節目を迎えて
        2010年04月 なごやかに、探究する会が発足


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このサイトへの来訪者は先月(10月)末で58,818人でした。

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2018.01.30…お蔭様でこのサイトへの来訪者がのべ5万人を超えました。
2017.08.06…お蔭様でこのサイトへの来訪者がのべ4万人を超えました。
2017.01.10…お蔭様でこのサイトへの来訪者がのべ3万人を超えました。
2016.02.26…お蔭様でこのサイトへの来訪者がのべ2万人を超えました。
2015.06.10…お蔭様でこのサイトへの来訪者がのべ1万人を超えました。
2014.12.05…併設の歴探掲示板をリニューアルし、画像やリンクの投稿が容易になりました。
2014.11.05…開設一周年を迎え関連サイトリンクのコーナー新設、歴探掲示板へのリンク等の機能アップを実施しました。
2014.07.07…本会概要紹介やイベント案内等、本会の活動を総合的に紹介するサイトとしてリニューアルしました。
2013.11.01…本会の会報記事を紹介するブログとして発足しました。

《備考》 来訪者数は、携帯やスマートフォンを除きパソコンからの来訪のみをカウントしたものです。また同じ人が一日に何回訪れてもその日は1 回としてカウントする方式としています。

《改定》 2016.11.15よりアクセスカウントにモバイル端末からのアクセスも加えることになりました。これにより今後はカウント値が3割ほど大きくなる見込みです。

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f0300125_1548513.jpg この歴探サイトではH26年10月から「先月の記事別アクセスtop3」と称するコーナーを設け、会員の方だけでなく全国からの検索来訪を含めて1か月間のアクセスが多かった記事を紹介させて頂いております。

 おかげさまでこのサイトの掲載記事数は順調に増え続けておりますが、せっかくの熱のこもった会報記事も数が多くなり時間を経ると、昔の記事を改めて読み返す機会は少なくなるものと思われます。そこで月替わりのアクセスランキングに名を借りたこのコーナーを設け、クリックして頂くことで毎回3件のなつかしい力作記事を改めて味わっていただく機会になれば・・・ そんな思いでこのコーナーを設けておりますので、ぜひご利用ください。

《追記》 H29年1月より、アクセスtop3欄の下に“人気タグtop3”のコーナーを付設しました。毎月のアクセスが多かったタグ(キーワード)のtop3です。合わせてご利用ください。

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# by y-rekitan | 2018-12-31 13:00 | Comments(0)

八幡歴探 リンク集

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このコーナーは八幡の歴史にかかわる情報が網羅的に閲覧できるサイトや、本会に縁の深いサイトのリンク集です。


f0300125_063725.jpg石清水八幡宮
860年に都の裏鬼門を守護する鎮護の神として創建されました。
f0300125_21374037.jpg八幡市公式サイト/観光情報のコーナー
八幡の名勝の情報が満載。また、祭り等の動画も見られます。

f0300125_2543626.jpg枚方市公式サイト/文化財のコーナー
枚方の文化財や歴史に関する催しの情報が満載です。

f0300125_2244728.jpg城陽市教育委員会公式サイト/文化財のコーナー
市内にある国、府、市の史跡、文化財が網羅され、史跡マップも。

f0300125_246395.jpg久御山町公式サイト/文化財のコーナー
久御山町の文化財が写真、解説付きで閲覧できます。

f0300125_23464785.jpg宇治市公式サイト/文化財のコーナー
 世界遺産を含め市内にある国、府、市の史跡、文化財の一覧です。

f0300125_23474058.jpg松花堂庭園・美術館
松花堂昭乗のデータベース、催し物案内等が掲載されています。

f0300125_14255811.jpg八幡市観光協会
八幡市の観光情報が、広範囲に網羅されています。

f0300125_21385651.jpgサイト「八幡散策」の “八幡ぶらりゆく”
神社仏閣、伝説、道標等、広範囲に網羅されています。
f0300125_12541653.jpgサイト “江戸時代の八幡道標”マップ
『石清水八まん宮道』に誘う道標、97基のグーグルマイマップです。

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# by y-rekitan | 2018-12-31 12:00 | Comments(0)

◆スポット記事インデックス《続》

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60号以前の会報のスポット記事は以下の通りです。クリックで直接お読み頂けます。

“旅人は何故片手を挙げているのか"  (第67号)
“「八幡の道 探究部会」が発足しました"  (第67号)
“石清水八幡宮が国宝に!"  (第67号)
“第119代光格天皇と大江磐代君とその母"  (第64号)
“クイズ「私は誰でしょう」"  (第62号)
“西国三十三所観音石仏群の墓所"  (第61号)
“陸橋の名前"  (第61号)
“九州の横穴・近畿の横穴"  (第60号)
“二宮忠八掌話"  (第60号)
“会の旗が出来ました!"  (第60号)
“松井横穴群に学ぶ"  (第59号)
“平野山・西山はミステリー"  (第59号)
“ずいき祭り"  (第58号)
“小特集: わがまち 八幡"  (第57号)
“流れ橋存廃の意見表明"  (第56号)
“磯田道史氏の講演に学ぶ"  (第56号)
“代々つづく神原の講 =秋編="  (第55号)
“八幡森の石仏と地蔵盆"  (第54号)
“お気軽歴史講座に行きました"  (第54号)
“ひょっこり訪問記  木田醤油㈱社長”  (第53号)
“地誌には、どんなものがあるか?"  (第53号)
“松花堂庭園とその魅力"  (第52号)
“島崎藤村と八幡"  (第52号)
“神領墓地は何を語るか”  (第49号)
“水月庵 藪を抜ければ円福寺”  (第49号)
“変わりゆく橋本”  (第48号)
“芭蕉と遊女との巡合い”  (第48号)
“遊女 江口の君”  (第47号)
“八幡の浄土宗寺院にみる地蔵菩薩 ”  (第45号)
“ 三昧聖と八幡の墓地  ”  (第45号)
“ 五榜の掲示  ”  (第44号)
“個人所有重文民家の課題について ”  (第43号)
“重文「伊佐家住宅」について ”  (第43号)
“ 昭乗の下馬碑を探る ”  (第42号)
“ 京大博物館にある八幡の遺跡・遺物 ”  (第40号)
“ヌートリア考、そして「郷土囗史物語」”  (第37号)
“ 狛 犬 考 ”  (第37号)
“ 探訪会のしおりを作成して ”  (第36号)
“歴史探訪ウォーク参加記”  (第36号)
“代々続く神原の「講」”  (第36号)
“「八幡の歴史カルタ」に驚く”  (第36号)
“女坂・荒坂横穴古墳群から学んだこと”  (第35号)
“魅力的な八幡東部の集落と神社”  (第34号)
“ 二宮忠八翁と飛行神社 ”  (第31号)
“ 石清水臨時祭と平清盛 ”  (第31号)
“「八幡椿は」何処に”  (第24号)
“陣屋と鳥羽伏見の戦い”  (第22号)
“八幡八景解説奮戦記”  (第20号)
“色恋に愛づる花心ー謡曲「女郎花」”  (第20号)
“俄神人ニ成候”  (第18号)
“八角院地蔵尊の碑文を読む”  (第15号)
“長宗我部盛親が潜んだ家”  (第15号)
“「やわたものしり博士」検定にチャレンジ!”  (第10号)
“木津川・宇治川沿いの屋並みを巡る”  (第9号)


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# by y-rekitan | 2018-12-31 08:00 | Comments(0)

◆会報第87号より-top <スクロールだけで全記事が読めます>

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
このまま下にスクロールして頂くと順次連続してご参照頂けます。

この号が最新号です。

◆シリーズ:“心に引き継ぐ風景” ⑱◆
◆《講演会》石清水八幡宮の印章◆
◆シリーズ:“八幡の古墳と鏡” ⑪◆
◆他国の猪鼻坂はどこに◆
◆天正の大地震◆
◆シリーズ:“私の歴史さんぽ”②◆


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ご意見は各記事下端のcomments欄をクリックしてお寄せください。

# by y-rekitan | 2018-09-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第87号より-01 其角

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心に引き継ぐ風景・・・⑱

新月やいつを昔の男山 其角きかく
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 芭蕉の代表的門人「蕉門十哲」第一の高弟と呼ばれた俳人が男山を詠んでいる。江戸の其角という。橋本の八幡宮道から八幡宮西門に向へば、迫り来るのは八角堂や大塔などの仏教施設で、御本宮周辺は仏教寺院の景観を呈し、髙さ凡そ36mの大塔には釈迦如来の本尊が安置されていた。其角はこの風景を見て、男山を釈迦が説法した山、インドの霊鷲山(りょうじゅせん・鷲の山)に見立てている。
 新月に月は見えないが、『いつを昔』の原本前書にある“心月”から「釈迦が沙羅双樹の林で入滅した時、林が枯れて鶴の羽のように白くなった」との故事を連想させ、心の月を照らし出す。男山の仏教施設は明治の廃仏毀釈で全て無くなるが、江戸中期、伊藤若冲の「乗興舟(じょうきょうしゅう)」に八幡宮の大塔を描き、橋本の夜空に鶴の飛翔する姿を描くのは、釈迦入滅時の故事を暗示している!
 元禄3年(1690)刊行の其角俳諧集『いつを昔』に収録された表題の句は、その前書が理解を助ける。「同講の心を 心の月をあらはして鷲の御山の跡を尋ん」とあって、『秋篠月清集(あきしのげっせいしゅう)(藤原良経)』に載る舎利講の歌を引用している。『いつを昔』の序文を書いた落柿舎(らくししゃ)の去来(きょらい)は「俳諧に力なき輩、此集のうちへかたく、入べからざるもの也」と、釘をさしている!
(文と写真 谷村 勉)空白



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# by y-rekitan | 2018-09-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第87号より-02 印章

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《講演会》
石清水八幡宮の印章

2018年8月 
八幡市文化センター第3会議室にて

鍛代 敏雄(東北福祉大学教育学部教授) 
       (石清水八幡宮研究所主任研究員) 
 
 今夏は、猛暑で、地震で、大雨で、台風21号の暴風と、大変な夏になりました。会員皆様宅・ご家族様は大丈夫でございましたか。
 そんな平成30年8月25日(土)午後2時より、八幡市文化ホールで「石清水八幡宮の印章」と題して、講演と交流の集いが開催されました。講師の鍛代敏雄教授は、石清水八幡宮研究所主任研究員として毎夏八幡にお越しになり、その都度講演をご依頼しております。今回もまた、新しい演題でお話を聞くことが出来ました。
 石清水文書の印章、石清水八幡宮寺の印章、祠官・別当家の印章と、種々のお話、特に「国宝宋版史記の蔵書印」について、その内容には圧倒される思いでした。鍛代先生ご自身によるご報告は以下の通りです。なお、当日の参加者は、39名でした。

はじめに

 約1万点におよぶ石清水八幡宮所蔵文書のなかには、多くの印章が捺された文書が残されています。その印影(印鑑)のすべてを網羅してお話しする用意はありませんが、近年の石清水八幡宮研究所の成果の一端をご紹介したいと思います。
 とくに国宝「宋版史記」(国立歴史民俗博物館所蔵)が、鎌倉時代の別当耀清の所蔵本であった点が明らかになりましたので、あとで詳しく述べたいと考えます。

Ⅰ 日本印章史の概説 

 はじめに、日本の印章史を概観しておきます。皆様ご存知の有名な金印「漢委奴国王」は、中元2年(57)、後漢の光武帝が印綬を倭奴国王に授与したもので、陰刻を封泥に用いられたと想像されます。文献では、『日本書紀』持統天皇6年(692)に「木印」(きのおしで)と見えますので、はじめは大王の手印であったものが、天皇を称するようになって「木印」を用いるようになったのでしょう。f0300125_21243733.jpg
 大宝令・公式令の官印(銅印)としては、周知の内印、すなわち「天皇御璽」(9㎝弱)と外印「太政官印」(7㎝強)が明記されています。その外に、国印や郡印、寺院の印もよく知られています。
 私印としては、摂関家の氏長者印や個人印、中世の公家では久我家の「宇宙」印の存在は有名です。もちろん、禅僧を中心に、画僧の落款を含めて、私印はありますが、平安時代の公家様文書から、印章による行政文書から花押による文書への転換がおこりました。まさに花押の時代に入ったということができます。
 ところが、戦国大名は突如として、印判を据えた文書を発給しはじめました。今川氏がその先駆ですが、戦国大名の国主・国家観を背景に、国印としての家印と、家督の国主印が生み出され、官僚機構を整備した行政文書が出されました。そのことは、信長・秀吉・家康の天下人へと引き継がれ、徳川将軍家の領知朱印状はもっとも効力を発揮した印判として公儀の権威を象徴しました。

Ⅱ 石清水文書の印章

 そこで、石清水文書の中の印影を眺めてみましょう。
 石清水文書の最古は、正暦3年(992)9月20日付けの大宰府符ですが、そこには官印「大宰之印」の朱印が捺されています(『大日本古文書 石清水文書』〈以下、『石』と略す〉2-479号)。また、延久4年(1072)9月5日付太政官牒(『石』1-122号)には、全紙の紙継目表ごと、計36顆の太政官印の朱印が捺されています。大江匡房(「朝臣」の自署がある)ら記録所(寄人)による荘園整理にかかわる貴重な史料です。高等学校の教科書にも載っているとおり、石清水八幡宮寺の護国寺領34か所のうち13か所が収公されました。
 時代はあたらしくなりますが、織田信長の「天下布武」の楕円形朱印〈『続石清水八幡宮史料叢書』3口絵〉と馬蹄形朱印と黒印(『同』2 3口絵)や、豊臣秀吉のいわゆる糸印(『同』2・3)、そして徳川家康の「忠恕」「家康」(『同』2・3)の朱印状、さらには徳川歴代将軍の朱印状がのこされています。
 なお石清水八幡宮には、松花堂昭乗の落款・印章が11顆所蔵されています。石印1、青磁1、あとは木印で、「昭乗」の法名印、「松花堂」「宝」「猩猩翁」の印文がわかります。

Ⅲ 石清水八幡宮寺の印章

 ついで、石清水八幡宮が発給した文書に捺された印章を確認しておきましょう。
 第1に、護国寺の「八幡寺印」です。たとえば、保安元年(1120)6月25日付けの宮寺符(『石』2-606)や保延元年(1135)10月10日付けの宮寺符(『石』2-609)、また建久3年(1192)3月日付けの検校善法寺(高野検校)成清譲状(『石』1-173号、道清の室紀氏に房領6箇所を譲る〈杉1-12〉)に朱印が確かめられます。
 その2は、方形の御正印(糸印)の朱印です。御正印預禰宜が管理し、祭祀には神前に奉じられました。文書としては、神人補任状や放生会などの祭儀の差符に据えられました。
 その3は、如意宝珠の印章そのものが所蔵されています。印文「八」+「卍」の朱印が、版木で刷られた「八幡宮牛玉宝印」に捺されました。
 その外には、八幡宮の蔵書印があります。江戸時代に奉納された典籍類に捺された「鳩嶺文庫」朱印、巻子本の外題符合の貼り紙に捺された近代の「田中門蹟文庫」朱印、明治・大正期の「男山八幡宮文庫之印」、「石清水文庫御書之印」、田中家分家の「東竹文庫」印が確認されます。

Ⅳ 祠官・別当家の印章

 ところで、別当家は家伝文書の修理をおこなっています。
 あとで触れるとおり、鎌倉期の宗清をはじめとして、中世から近世にかけての修理を実施した田中家の別当が、紙継目などに朱印を据えました。
 戦国期の田中奏清は、文明7年(1475)に巻子装された「八幡宮寺告文部類第」(『石』1-101頁)奥書に花押と、貼り紙の紙継に円形朱印「奏清」があります。奏清は、鎌倉期に道清・宗清によって編まれた「宮寺縁事抄」などを、文明年間以降に、裏打・修補をおこなっています。
 江戸期の田中敬清は、主に寛永年間(1624~40入滅)に裏打・修補を実施し、紙継目裏や奥書などに二重郭方形の「敬」朱印を据えました。
 おなじく17世紀、田中召清(善法寺幸清の子、敬清の養子)は、寛文年中(1661~1673)に裏打・修理をおこないました。署名と二重郭方形「召清」朱印があります。
 幕末維新期の田中昇清は、「異朝明堂指図記」(『石』4-1462号)の表紙・本紙継目裏に捺された敬清朱印にあわせて、紙継目裏ごとに「昇清」二重郭円形朱印を据えています。ちなみに昇清は、文久元年(1861)に検校職、同3年には孝明天皇の行幸をむかえ、慶応4年(1868) 還俗して「有年」と改名、社務1年、明治4年(1871)に社務に再任されています。
 では、鎌倉時代にさかのぼってみましょう。
先ほど触れた田中宗清です。第31代別当道清の実子で、第34代別当に就いています。文暦2年(1235)7月、幸清の入滅に際し、摂政九条道家が宗清を社務職に任命し、ようやく別当に就任しました。また田中道清以降、田中家が「筥﨑検校」(筥﨑別宮の検校職)になっています。なお、藤原定家との交流は知られています。宗清が麝香と鸚鵡を贈与した記事が、定家の日記『明月記』嘉禄2年〈1226〉2月7日条に見えます。
 宗清に関しては、二重郭菱形・印文「宗」朱印が、建保2年(1214)2月2日付けの「宮寺縁事抄末二」(『石』5-686頁)に紙継目裏と花押に重ねて朱印が捺されています。このようないわば〈花押重ね朱印〉は、祠官家朱印の初見となります。なお円形の糸黒印があわせて捺されていますが、未詳です。
 別当の順序では、宗清より先ですが、善法寺(竹)幸清もまた、印章を使っています。第32代別当・善法寺祐清(師主・仁和寺覚快〈鳥羽院第7皇子〉)の実弟で、第33代別当に就任した幸清(祐清実弟、師主・守覚親王〈後白河第2皇子〉)は、宗清の朱印の直後から、同じように菱形の「幸」朱印を、建保7年(1219)閏2月25日付けの「諸縁起」(『石清水八幡宮史料叢書』2-44頁)に、別当法印大僧都幸清撰、執筆僧隆宴の奥書とともに、閏2月にかけて朱印が捺されています。ちなみに、祐清・幸清の兄弟も、修史事業をおこなっていました。なお、幸清は、香椎宮検校職を兼務していました。

Ⅴ 国宝「宋版史記」の蔵書印

 いよいよ、国宝「宋版史記」の蔵書印についてお話しする順序となりました。ずばりいえば、善法寺幸清の実子、善法寺(柳)耀清の朱印と黒印が捺されています。f0300125_2149952.jpg
 柳を称した善法寺耀清は、第33代別当幸清の実子で、仁治3年(1242)に37代別当、建長5年(1253)に社務検校に就任しています。さらに香椎宮(福岡市、祭神は神功皇后・仲哀天皇の「廟」)の検校を兼務していました。
 石清水八幡宮所蔵の「宮寺并極楽寺恒例仏神事惣次第」(『石』1 -157~190頁)に捺された印章は、単辺(線)長方形朱印で、偏が「卬」、旁が「水」の上字、下字は偏が「青」、旁が「光」の一字で、「靗」(てい)と見なされます。上の一字の読み方は不明です。意味も、想像するしかありませんが、水を仰ぐと考えれば、石清水八幡宮を尊崇し、八幡大菩薩(応神天皇)をまっすぐに正視することを意味しているのかも知れません。
 同史料では、①冒頭・勅節十箇度、②自筆の裏書(墨書注記)、③紙継目裏、④寛元2年(1244)11月日付耀清重注進状署名「別当法印権大僧都耀清」の「耀清」に重ねた朱印、以上、計28箇所の捺印が確かめられます。法量は、縦3.2㎝ 横1.8㎝です。
 この耀清の印章の印影が、国宝「宋版史記」(国立歴史民俗博物館蔵、宋の慶元年間(1195~1200)の印行、全冊完存の世界最古版本)の蔵書印と同じものであることを発見しました。50年前に国宝に指定されてから、現在まで、いつ、どのように輸入され、誰が所蔵していたか、不明でした。もちろん蔵書印の存在は知られていましたが、人物は特定されていませんでした。
 国立歴史民俗博物館における調査の結果、①単辺(線)長方形朱印・法量(縦3.2㎝ 横1.8㎝)
②単辺(線)長方形黒印・法量(縦3.2㎝ 横1.8㎝)、③方形朱印「靗」(1字印)法量(縦1.9㎝ 横1.4㎝)を確認しできました。ただし、印文は同じですが、①朱印と②黒印の陽刻は異なることがわかりました。耀清は2種の印章を所持し、なお、一字印の存在もわかりました。蔵書印であるとともに、石清水八幡宮所蔵本に鑑みると、花押の証判と同じような、印章による証印と考えられます。
 ともかくも、従来は不明とされてきた舶来、将来の時期が、少なくとも13世紀の半ば頃までは遡る点が明白となりました。
 中厳円月(1300~1375)、子瑜元瑾、心華元棣(1342~?)、仲方中正(1373~1451)らの禅僧の関与などが推測されてきました。西園寺実隆が史記の不審を訊いた学僧・月舟寿桂(1470~1533)の多数の書き込みは確実ですから、所持の事実は間違いありません。そして、従来指摘されてきた通り、南化玄興(1538~1604)から直江兼続にわたり、上杉藩主・興譲館所蔵にいたった点は、興譲館の蔵書印から明らかです。上杉隆憲氏所蔵の時期に国宝に指定され、その後、国立歴史民俗博物館に移管されました。
 そこで、石清水からの流出時期が問題となります。正直、未詳といわざるをえませんが、上記の学僧衆をながめると、「学問づら」と呼ばれた、京都の建仁寺あたりにはいった可能性は見逃せません。おそらく14世紀後半にあった、善法寺家の家督争い(「門跡相論」)にかかわって、流出したのではないかと想像しています。すなわち、善法寺了清と新善法寺永清とによる競望でしたが、「祠官家系図」の永清の項に、貞治年間(1362~1368)に「坊具重代物悉却之了」と記されています。これだけの記述で、詳細は不明ですけれども、善法寺家の重代宝物が流出するような状況がイメージされます。
 さらに今一つ、今回の調査で新たな史実が発掘されました。宋版史記と同じ蔵書黒印の存在が知られていた、宮内庁書陵部蔵「史記集解旧鈔巻子本」(范雎蔡澤列伝第十九・史記七十九)には、「宋版史記」の黒印と同様の印文2字・陽刻(法量:縦3.2㎝ 横1.8㎝)の印影が、紙継目表の2箇所に確認できました。耀清が写本を作成し、所蔵していたことは確実です。その外に、このような写本の巻子本は発見されていません。宋版史記の写本をすべて作成したとは思われませんので、内容を選別して写本を作成したか、または他の理由を想定する必要があります。まったく不明ですが、天部の界線上に捺された黒印個所の本文を通覧すると、「宗廟」の記載を見出しました。天下の宗廟と称揚された石清水八幡宮から推して、この記述にたいするこだわりがあったものかも知れません。

おわりに

 耀清はどうして「宋版史記」を所蔵することができたのでしょうか。本人が将来品を入手するルートを想定しておく必要があるでしょう。参考になる点は、先に触れた田中宗清が藤原定家に舶載の鸚鵡や麝香をプレゼントしたところにあります。宗清は博多の筥崎宮の検校職を兼ねていました。検校は石清水別宮の統括者でした。ひとしく、耀清は香椎宮の検校でした。筥崎宮や香椎宮の神人が日宋貿易に従事していたことは周知の事実です。そして、博多から瀬戸内、兵庫・尼崎から淀川を遡上し、淀にいたる内陸水路の要地には石清水神人が点在し、独自の物流ネットワークを展開していました。神人らの運送能力、荘園・別宮の石清水ネットワークをもって、舶載品の入手と所蔵の問題を推敲することは、わたしにとっては、まことに魅力的なテーマです。

 なお、本報告に関する詳細については、「鎌倉時代における石清水八幡宮寺祠官の印章」(『芹沢銈介美術工芸館年報』9号、2018年)を、ご参照ください。

『一口感想』より

石清水八幡宮の歴史の古さをあらためて確 認させていただきました。別当家の系図も初めて見るものでした。 (N)
あっという間の興味ある話ばかりでした。久我家の「宇宙」印は驚きでした。 曹洞宗を開山された道元禅師は私の所属している 「宇治観光ボランティア」の宇治にある「興聖寺」(本山)初回開山の禅師です。 久我家のこと、 宇宙印のこと、 また印章に係わる話をガイドに生かしていきます。  (S. G.)
いつも大変興味深いお話ありがとうございます。定家の「明月記」の話、面白かった です。34代宗清が廻ってくる筈の順番(別当)が廻ってこないのを相談し、それがそのまま日記となって残っている。いつの時代も同じですね。 (S. K.)
 

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# by y-rekitan | 2018-09-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第87号より-03 古墳と鏡⑪

シリーズ 「八幡の古墳と鏡」・・・⑪


八幡の古墳と鏡(11)

―伝えていきたい八幡の奥深い古墳時代(その1)―

濵田 博道 (会員)

はじめに

 これまで10回にわたって、「八幡の古墳と鏡」について書いてきました。
その中で八幡には、
30基近くの古墳(横穴墓を含めると130基を超える)
古墳から中国鏡・倭鏡を合わせて30数枚出土
古墳時代前期には木津川左岸最大の前方後円墳(西車塚古墳、墳長約120m)
九州との深いつながりが推定される阿蘇溶結凝灰岩製石棺の古墳(八幡茶臼山古墳)
朝鮮半島製と推測され、全国でも2例しかない渦巻装飾付鉄剣(ヒル塚古墳)
朝鮮半島南部勢力関連の甲冑、紐(ひも)をかけた痕跡の鉄鋌(てつてい)(精錬された鉄塊)束の出土東車塚古墳・美濃山王塚古墳か?)
6世紀後半~7世紀前半に京都府下最大級の規模で横穴墓の築造
など述べてきました。
 今回は連載を終えるにつき、追加・補足、訂正事項について触れたいと思います。

1、内里古墳出土の三角縁神獣鏡について

 内里古墳から出土したとされる三角縁神獣鏡について内里在住の小橋嘉宏さんから情報をいただきました。その内容は奈良大学文化財学科の魚島純一教授からのものです。
魚島教授が徳島県立博物館におられたとき、所蔵者の耕三寺博物館からこの三角縁神獣鏡を借用してX線透過撮影および蛍光X線分析をされ、わかったことは鏡はどの段階かは不明だが修理が加えられていること。
修理後、『梅仙居蔵日本出土漢式鏡圖集』(1923)に梅原末治氏が実見した文章を書いていることから鏡の発見後、たいして時間をおかずに修理がされたと考えられること。
型取り作成したレプリカ(複製品)が、現在も徳島県立博物館に所蔵されていることです。

2、西車塚古墳出土の三角縁神獣鏡について

 「八幡の古墳と鏡(4)」で、“西車塚古墳出土の三角縁神獣鏡と同じ型・文様の鏡([同型鏡])が全国の古墳から9枚出土している。三角縁神獣鏡の中で最高の枚数である”と述べましたが、この同型鏡はさらに増えて10枚になることがわかりました。
 奈良県葛城地方には4世紀後半から5世紀後半までの古墳群(馬見古墳群)があり、その中には200mを超すものも数基あります。八幡の古墳とほぼ同時期に築造が開始されていますが、築造期間が長い古墳群です。その中で御所市にある室宮山古墳(室大墓)は最大の大型前方後円墳(全長238m、西車塚古墳の2倍, 5世紀初め)です。ここから西車塚古墳出土鏡と同型の鏡片が出土しています。関西大学の網干善教氏は「室大墓(宮山古墳)の後円部の副葬品の中に、三角縁神獣鏡の唐草文帯の二神二獣鏡の破片が出土」「この鏡が日本で作られた鏡なのか、中国で作った鏡なのかということは、私が学生のころから議論がありました」(注1)と述べ、大塚初重『古墳辞典』(東京堂出版)でも“室宮山古墳出土の鏡片と、西車塚古墳、奈良県佐味田宝塚古墳・兵庫県ヘボソ塚古墳出土鏡に類似するものが含まれている”と解説されています。同じ文様の鏡がなぜ多く作られ、広範囲の古墳から出土するのか。葛城地方最大の古墳の被葬者、西車塚古墳の被葬者、この同型鏡をもつ他の古墳の被葬者との関係、またヤマト王権との関係は?三角縁神獣鏡はヤマト王権から各地域の有力首長に配布され、同型鏡[同笵鏡]の分布が初期ヤマト王権と地方との政治的関係を考える上で有力な手掛かりになるといわれており、今後の研究が期待されます。

3、石不動古墳出土の「ヤリガンナ」について

 「八幡の古墳と鏡(5)」で、石不動古墳出土の遺物として鏡、石釧、管玉、直刀、刀子、短甲などと共に「鉇(しゃ)」があり、「鉇〔農耕具か?矛(ほこ)か?〕」と書きましたが、読み方は「ヤリガンナ」で、「木工具」だとわかりました。お詫びして訂正します。
わかったのは、大阪府立近つ飛鳥博物館(太子町)で紫金山(しきんざん)古墳(茨木市)出土の「鉇」の実物を展示しており、説明版に「鉇、ヤリガンナ」とフリガナをしていたからです。平凡社『世界大百科事典』でも「やりがんな[鐁//鉇]」と確認できました。
 現在は平らな『カンナ』(台鉋、ダイガンナ)で木を削っていますが、台鉋が登場したのは室町時代以降のことで、それ以前は三角形の槍のような『カンナ』(『ヤリガンナ』)で、木を削り平らにしていました。ですから室町時代以前の『カンナ』といえば『ヤリガンナ』を意味します。万葉集にも鉇についての和歌があります。(注2)f0300125_18181227.jpg
 「ヤリガンナ」の歴史は古く、弥生時代の遺跡-有名な吉野ケ里遺跡(佐賀県)からも出土していて、学習展示室に展示されていました(注3)。近辺の枚方市でも3世紀中葉(弥生時代の終末頃)の中宮ドンバ1号墓(枚方市宮之阪2丁目、方形周溝墓(注4)系の墳丘墓)から鉄剣や鉄鏃と共に鉇が出土しています(注5)。八幡では石不動古墳以外に美濃山王塚古墳から(推定)5本出土しています。神戸市中央区の竹中大工道具館には古代の鉇の復元品と共に、平らにしている様子を示す中世の絵も展示されています。鉇は歴史的に、あるいは用途の上から10種類ほどに分類され、古代・中世において木を加工する道具として貴重でした(注6)。

4、美濃山王塚古墳出土の「ヨロイ」について

 「八幡の古墳と鏡(6)」で、美濃山王塚古墳から甲冑(かっちゅう)として「衝角付冑(しょうかくつきかぶと)、〔三角板革綴(かわとじ)〕短甲、頸鎧(くびよろい)、肩鎧(かたよろい)、草摺(くさずり)」が出土していると述べました。「頸鎧(くびよろい)」とルビを振っていましたが、「あかべよろい」が正しい名前であることがわかりましたので、お詫びし訂正します。
 「頸鎧・肩鎧」はそれぞれ頸(首)廻り、肩を覆う小具足(ぐそく)(鎧)ですが、2つは併合し垂下して使用されます(注7)。宇治市歴史資料館で宇治二子山古墳の企画展があったとき出土遺物として「頸鎧(あかべよろい)」の実物が展示されていて、そのとき学芸員の方から「頸鎧は鎧用語で昔から使われている言葉である。『頸』という字に『あかべ』との読み方はないので当て字だと思われる」と教わりました。「頸鎧」の名は『日本書紀』『東大寺献物帳』『延喜式』にみえます(注8)。しかし、なぜ「あかべよろい」というのか、「あかべ」の意味など、まだわからないままです。

5、ヒル塚古墳の『ヒル』とは何かについて

 八幡の古墳と鏡(7)「ヒル塚古墳の名前の謎」で『ヒル』の意味について、“長濵尚次『男山考古録』巻14に「昔、日孁命(ひるめのみこと)神社があった」という長老の話があり、「ヒル塚」の名の由来を疑問形で記述している”旨を書きました。そのとき「日孁(ひるめ)」の意味や「日孁命」についてよくわかりませんでしたが、その後「日孁」の意味を考えるヒントになる本を読みました。原田大六氏(注9)の『実在した神話』(学生社,1972)です。『日本書紀』神代紀(上)に天照大神(あまてらすおおみかみ)の話があり、別名を大日孁貴(おおひるめのむち)といいます。原田氏は「『日孁(ひるめ)』とは『太陽の妻』ということ」、「ヒルメもヒメ(日女)も同じ意味で、大日孁貴(おおひるめのむち)はヒルメのうちでも最高位の太陽を夫とした女」として「日本神話のヒロインとして迎えられる」と述べています。広辞苑(第六版,2009)では、「【大日孁貴(おおひるめのむち)】(『ひるめ』は『日の女』、『孁』は巫女(みこ)。太陽神の巫女から太陽の女神そのものとなる。『むち』は尊称。)天照大神の別名。」とあります。原田氏はまた、天照大神は“①神としての太陽(日神)②太陽を祭る者(日の司祭者)③女神(大日孁貴)④御神体を八咫鏡(やたのかがみ)とする(日象鏡)⑤天皇家の祖先神(皇祖神)の5特質が備わっている”と述べています。以上のことから“日孁(ヒルメ)とは日女(ヒメ)、巫女(ミコ)を意味する”と推察します。
 日孁命神社があったとすれば、それはその方(巫女あるいは太陽神)を祀る神社ではないか、と想像が広がります。しかし、日孁命神社については江戸時代末期に長老が「昔、あった」といっているので、あったとしても江戸時代中期までのこと、本当にあったかどうかは現在確かめるすべがありません。“ヒルメ→太陽神を祀る巫女→太陽→ヒル、そして太陽と一対のものとして”月→「月夜田」→月読”と思いをはせたくもなります。(月読尊は天照大神の弟)。しかし、ヒルメの意味以外については不明と言わざるを得ず、ヒル塚古墳の名は謎のままです。
〔次号(その2)へ続く〕空白
                     
(注1)御所市教育委員会著『古代葛城とヤマト政権』(学生社),
(注2)「真鉇(まかな)もち弓削(ゆげ)の川原の埋木のあらわるましじきことにあらなくに」(万葉集巻7,1385)
「真鉇(まかな)もち」は弓削の枕詞で(鉇を持って弓を削っていたことから枕詞になったと思われます)、「鉇」は『加奈』『加牟奈』と読まれていました。
吉川金治『ものと人間の文化史 斧・鑿・鉋』
      法政大学出版局,1984 P197
(注3)吉野ケ里学習展示館では「ヤリガンナ」の漢字は「刨子」となっていました。
(注4)弥生時代~古墳時代初期に見られる墓。墓域を幅1m前後の溝で方形に区画し、低い墳丘を持つ。一辺15m程度で、集団墓地を構成するものが多い。
(注5)『新版 郷土枚方の歴史』,枚方市,2014
(注6)志村史夫『古代日本の超技術』,講談社,2012
斎藤忠『古代考古学用語辞典』,学生社,1998
(注7)『原色 日本の美術』,講談社,1979
(注8)監修東京国立博物館等 尾崎元春『日本の美術 NO24 甲冑』,至文堂,1968
(注9)1917年、福岡県糸島生まれ。九州大学名誉教授中山平次郎氏に師事。日本考古学・古代史研究者。糸島市立歴史博物館長に就任予定であったが、直前に病死。



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# by y-rekitan | 2018-09-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第87号より-04 猪鼻坂

他國の「猪鼻坂」はどこに

野間口 秀國(会員)


歌集『猪鼻坂』に気づかされて

 2013年の1月から同好のメンバーが集い「男山考古録(巻第十一)を読む会」が隔月で催され、私もこの会に参加しておりました。本の正式な名称は『石清水八幡宮叢書一 男山考古録 巻第十一』(*1)であり、読む会にてその「巻第九」を読むことはありませんでしたが、そこには私にとってとても気になることが書かれてあったことを今でも良く覚えています。それは「猪鼻坂(いのはなざか)」と題する名前の項で、以下にその一部分を引用したいと思います。
 f0300125_11391573.jpg引用始め= 二鳥居より上神幸橋を渡す谷迄の少北より西に登る坂路をいふ、古道なりと、他國にても同名あり、皆坂路にて高き處より下りて少しく末の所にて高く登る、其形猪の鼻に似たる故に斯名付く公事根源云、…以下省略 =引用終わり。引用したこの文章中に「…他國にも同名あり…」とあり、これを読んだ時「猪鼻坂と呼ばれる坂のある他國とはどこだろう」と漠然とした疑問を持ちました。しかし、その疑問を解くこともなくそのままになっておりました。新しく覚えることより、忘れることが多くなった現在、当時の漠然とした疑問がふとした出来事をきっかけに鮮明に甦ってきて、この機会にと思い調べてみました。
 「男山考古録を読む会」は現在では開催されておりませんが、ほとんど忘れていた「他國とはどこだろう」との疑問を解くきっかけとなる機会がこの夏に突然訪れました。梅雨時のある日、仲間と短歌創作について学ぶクラスでのこと、担当の先生の机に四五冊の歌集が置かれていました。クラスの終わる頃、先生が「良かったら好きな一冊を持ち帰って読んでください。次回に返却すれば良いですから。」と話され、全ての本が誰かの手に渡りました。私はその時には借りることが出来ませんでしたが、その中の一冊の題名に興味を持ったのです。歌集の題名は『猪鼻坂(いのはなざか)』(*2)で、465首を収めた著者の第3歌集です。次回のクラスで私が借りたのは言うまでもなく、帰宅後にすぐに読み始めました。後記を読むと、「猪鼻坂」という地名は著者の産土の地であることが書かれてあり、更に、幼い頃、この辺りに住む友に連れられて、崖から湧き水の滴っていた「カチ坂」と呼ばれる地を歩いたことがあると続いていました。「猪鼻坂」の「猪」とは「井」であり、「水」のこと、すなわち浜名湖の湖水のことであろう。「鼻」は「端」、その先端ということであろう。断定を避けつつも、友と登った50mほどの坂が「徒歩(かち)坂」、「猪鼻坂」であったに違いない。 

『更級日記』に見える「いのはな」の地名

 著者による文面の最後は、「猪鼻坂」で “あったに違いない” と書かれてあり、決して「ここが猪鼻坂である」といった断定する書かれ方になっていなかったのが更に私の興味を引くことになりました。改めて後記を読み返すと、書き出しに“『更級日記』の冒頭近く、…”とありました。いうまでもなく翌日には図書館に足を運んで『更級日記』(*3)を読みました。ご承知のことと思いますが、『更級日記』は1020年(寛仁4)9月、父、菅原孝標(たかすえ)が上総国(千葉県中部)の国司の任を解かれて、都への旅立ちからを日記に記した孝標の女(むすめ)の手になる日本の古典です。上総国を出て京へと向かい、やがて遠江国(静岡県西部)浜名湖に到着します。少しだけ『更級日記』から引用しますと;=天竜川を渡り、浜名の橋まで来た。以前、父とともに上総へむかったときは、たしかに渡った橋が、その後、洪水にでも流されたのか、いまはあとかたもない。しかたがないので船で渡る。外海のほうは、荒模様で高い波があがっている。入江の洲は洗い流されて、何もない。松林のしげるなかまで寄せては返す白波が、くだけ散る玉のようだ。古歌にいうように、松の根かたを波が越えるように見えるという、めずらしい景色である。いのはなというさびしい坂をのぼり、三河国の高師の浜に行きつく。=引用終わり 読み終えてから、男山考古録に「…他國にも同名あり…」とあった「猪鼻坂」は、ここに書かれた浜名湖近くにあるのだろうことが解りました。かつて浜名湖は琵琶湖の「近淡海(ちかつあふみ)」に対して「遠淡海(とおつあふみ)」と呼ばれ、「遠江(とうとうみ)」の国名のもととなったようです。南側を遠州灘に面した浜名湖の西部に位置する現在の湖西市には、江戸時代、東に京都から数えて東海道第31番目の宿場(*4)である新居宿が、そして西に白須賀宿と、二つの宿場がありました。『更級日記』に記されたことからも、この地は古くから東西を結ぶ交通の要衝であっただろうことも理解できます。

他國にも「猪鼻坂」は実在するのか

 さて、『更級日記』は、1020年(寛仁4)9月3日、孝標の女が13歳の時、父の赴任先を出発した日より、1059年(康平2)夫 橘俊通との死別の頃までを書いた平安時代中頃に発表された回想録です。一方の『石清水八幡宮叢書一 男山考古録』は江戸時代の後期、石清水八幡宮の宮大工の子として生まれた長濵尚次(ながはまひさつぐ)によって、1848年(嘉永4)によって著された八幡の地誌です。時代を超えて書かれたた回想録と地誌を考えると、尚次が、あえて「猪鼻坂」の項に「…他國にも同名あり…」と書いたのは『更級日記』に書かれた「猪鼻坂」のことを思って書いた、と、私にはそう思えてならないのです。そこで前述の歌集『猪鼻坂』の後記と、『更級日記』の富士川の項を改めて読み直して、現在でも「猪鼻坂(いのはな というさびしい坂)」が存在するのかを知りたくなって調べてみました。f0300125_1147163.jpg手許にある道路地図(*5)を見ると、東進する東名高速道路が三ケ日インターチェンジ近くで新東名高速と別れるあたりから浜名湖にさしかかりますが、この湖の北西部に浜名湖の本体部分と繋がった「猪鼻湖」と呼ばれる湖があります。しかしながら、前述の『更級日記』に記載された「旅の地図」には、浜名湖の南端部分に“いのはな”とのみ平仮名表記にて書かれてあり、その地図からだけではそれが坂であることは判断できませんでした。そこで、更に新居(あらい)町(現在では湖西市新居町)史を始めとする、湖西地域や新居の歴史などについて書かれた複数の資料(*6)~(*9)にも目を通しました。『湖西風土記』では古代交通路の地図とともに「猪鼻駅」に関する835年(承和2)、および843年(承和10)年の史料が紹介されてあり、浜名湖南端に位置するこの猪鼻駅は水害を避けるためにすたれて、中世の初めに橋本宿がこれに代わったとの説や、湖北にあったとの説も併せて紹介されています。また「猪鼻坂」については『更級日記』に書かれたことも紹介されてあります。更に、『新居ものがたり』では「東海道と猪鼻駅(いのはなのうまや)」の項で、猪鼻駅の所在地には三つの説があること、そして猪鼻駅は『更級日記』の記載内容では新居町浜名の東南にあたること、奈良時代の窯業の歴史より湖西市の中央部に置かれていたと推定されることなどが紹介されてあります。『静岡県の地名 日本歴史地名大系22』(*10)も確認しましたが、「猪鼻坂」は前述の新居宿(新居町)と白須賀宿(白須加町)にかけてのあたりと書かれてありますが、項目としての「猪鼻坂」の地名は見当たりませんでした(なおこの地名大系には、“静岡県史では別の場所であることも記され…”とあります)。

「いのはなの坂」はあったと思いたい

 他の観光案内資料にも目を通しましたが、「猪鼻坂」の場所が明確に記されたものにはついに出会うことはできませんでした。いろいろな資料や地図などに目を通して、改めて資料をお送りいただいた湖西市のご担当者のメモをよくよく読んでみましたら、“複数の説がある事、場所が明らかになっていない事、湖西(こさい)市発行の資料で直接「猪鼻坂」に関する資料は存在しない事、また白須賀(最西端の宿場)から新居町(東隣の宿場)のあたりであったと推測されている事”などが書かれてあり、現在の様子や「猪鼻坂」の扱いについても良く理解できました。きっかけとなった、歌集の著者が「友と登った坂がそうであったに違いない」と書いておられることを思い起こし、今では公式に地名としては残されていないようですが、確かに「いのはなの坂」はあったのだろうと思います。長濱尚次はきっと『更級日記』を読んでおり、「…他國にも同名あり…」と書いたのであろう、と、私はそう理解しています。 最後に、この度、静岡県湖西市観光協会の皆様よりいただきましたご親切に対し紙面をお借りしてありがたく感謝申し上げます。  (2018.08.31)

参考文献等;
(*1)『石清水八幡宮叢書一 男山考古録 巻第九』 石清水八幡宮刊
(*2)『猪鼻坂』 柴田典昭著 砂子屋書房刊
(*3)『21世紀に読む日本の古典 4 土佐日記・更級日記』 森山京著 ポプラ社刊
(*4)『新居宿 まち歩きマップ』 NPO法人新居まちネット刊
(*5) 『関東・甲信越・静岡・福島道路地図』 昭文社刊
(*6)『新居町史』 第一巻 通史編
(*7)『地名が語る新居』 新居町教育委員会
(*8)『新居ものがたり 歴史100選』 新居町教育委員会
(*9)『湖西風土記文庫 – 行き交う - 』 静岡県湖西市 
(*10)『静岡県の地名 日本歴史地名大系22』 平凡社刊

 
 
# by y-rekitan | 2018-09-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第87号より-05 天正の地震

天正の大地震
―“お亀の方(相応院)の妹は山下氏勝の妻だった”―

 倉田 美博 (会員) 

 今年(2018)の晩春から初夏にかけては異常な天候が続いた。空梅雨でいつ雨が降るのかと空を見上げる毎日。すると、6月18日朝襲った震度6の大地震。有馬-高槻活断層が動いたとのこと。続いての長日にわたり降り続いた豪雨、桂川ももう少しで決壊。岡山や広島、愛媛では洪水や土砂崩れなどの大きな被害をもたらした。雨が止めば連日38℃越えの厳しい暑さ。連日熱中症で、救急車も大忙し。さらに止めは異常な進路で来襲した台風12号。八幡の街の屋根にはブルーシートで覆われている家屋もたくさん見受けられる。
 これ以上異常が続き、日本が沈没しなければよいがとただ祈るだけ。

天正の大地震と山下氏勝

  文禄5年(1596)に発生し、豊臣秀吉(1537~98)が隠居用として築城し完成したばかりの伏見城天守を倒壊させた「慶長伏見地震」も有馬―高槻活断層だそうだ。
 秀吉がこよなく愛した有馬温泉もこの有馬―高槻活断層上にある。
 ここまで来ればワイドショー的なキャラ(失礼)の持ち主、豊臣秀吉。何か、今まであまり表に出て来ない話題があるのではと少し歴史書をひも解いてみた。
 「慶長伏見地震」より少し前に天正13年(1586)11月29日午後10時過ぎ(亥下刻)中部地方から近畿地方にかけて大地震が発生した。
 その時、秀吉は琵琶湖畔の坂本城に居た。秀吉は恐れおののき、「わしはなまずは大嫌いじゃ」と、叫びながら、馬を乗り継いで大坂へ駆け戻ったという。
 なに、秀吉が坂本城で大地震に会う。・・・ひょっとすれば・・・怨念が!・・・
 そうではなかったようだ。震源は琵琶湖周辺ではなく飛騨の国白川郷近くだったが、畿内にも大きな被害をもたらしたようで、長浜城なども大きな被害を受けており、想像を絶するような大規模な地震だったとのこと。
白川郷には信州松代の戦国大名、内ヶ嶋氏理が帰雲城(かえりくもじょう)を築いていた。上杉景勝が越中へ攻め入ったために内ヶ嶋氏理は度々、盟友佐々成政の援軍として越中へ出兵している。

 その後秀吉から所領を安堵された事を祝うために氏理は祝宴を開こうとし、内ヶ島一族や能楽師を帰雲城に呼び寄せて、準備の真っ最中。ところが宴を翌日に控えた天正13年(1585年)11月29日、白川郷一帯を大地震、いわゆる天正地震に襲われた。背後にそびえる帰雲山は山全体崩壊し、土石流は直下にあった帰雲城をはじめその城下町を飲み込んだ。内ヶ島一族や町の人々は逃げるすべもなく、全員が生き埋めとなり死に絶えた。f0300125_1826541.jpg
 この時、城下町には300軒の家があったと言われるが、すべてが埋没した。土石流は横を流れる庄川を塞き止め、洪水も発生した。今でもその痕跡は残っているとのこと。(写真参照)現在は帰雲城の推定地には、帰雲城趾の碑が建っている。
 この地震によって大名としての内ヶ島氏は一夜にして滅亡してしまった。たまたま、帰雲城に居なかった、家臣で一族、支城、萩町城主の山下氏勝は生き残った。
 先年、私は観光で白川郷を訪ねている。天正の大地震のことなど、全く知らず、少し足を延ばせば萩町城跡へ行けたにもかかわらず、あの世界遺産の合掌造りだけを見学して、雪深い山里の生活を垣間見ただけだった。もし、知っていたとしても今回の大阪北部地震に遭遇していなければおそらく関心を示さなかったのではないだろうか。

山下氏勝は「お亀の方」の妹を娶った

 山下氏勝は清州の城を名古屋に移すことを首唱したこと以外は歴史上ほとんど伝えられていない武将だ。
 清州越しと言われ、慶長12年(1607)義直の尾張藩入封の際、軍備上のことなどから居城を清須より名古屋の方が何かと有利だと家康に移すように進言し、認められたことを言う。
なぜ、山深い飛騨の小領主内ヶ島氏の家老であった山下氏勝が徳川家康の近衆となったのだろうか。
氏勝の系譜から見れば主家内の島氏滅亡後、初めは豊臣氏に属していたものと見られる。天正18年(1518)小田原陣のころは先手を勤め、文禄の朝鮮征伐には名護屋に従い行ったことが伝えられている。
 家康に付き従うようになったのは詳しくわからないが恐らく関ヶ原の合戦前後と考えられ、その後、近江蒲生の地を拝領すると共にやがて義直の近衆を命じられている。秀吉に属していたものをなぜ家康の近衆としたのだろうか。
 そこにお亀の方(相応院)の姿が浮かび上がってくる。氏勝は家康の側室で、義直の母、お亀の方の妹である志水加賀守宗清の娘を妻に娶り、長男、氏政をはじめ氏忠、氏紹、秀氏、時氏の五男三女をもうけた。相応院は正妻ではないので正確には言えないが、いわば家康と氏勝は義兄弟ともいえる。
 氏勝がいつ頃に相応院の妹を娶ったかは明確ではない。恐らく家康に付き従うようになった関ヶ原の合戦のころではないかと推測できる。
 詳細は明確なことが伝わっていないので確定できないが、諸侯が失策しても氏勝をとおして相応院よりお願いすれば家康を和らげることはできたとも言われている。

お亀の方(相応院)

 では、お亀の方(相応院)とはどのような人だったのだろうか。
 家康の晩年側室3人衆のひとりと言われ、京の近郊の石清水八幡宮の神職清水八右衛門の娘で、後家となり、里に帰っていたところを、秀吉が伏見に造営を始めた伏見城の与力として伏見に滞在していた家康に見初められた。f0300125_184267.jpg
彼女は、今までの家康の側室とは全く違う、まったりとしたみやびな京女。で、すっかり家康はのめり込んだと伝えられている。
 慶長5年(1600年)の関ケ原の戦が始まる前には、相応院を伏見から石清水八幡宮に避難させほどだった。慶長5年11月28日に幼名千代丸(御三家尾張藩初代藩主 徳川義直)を伏見徳川屋敷で出産している。
 家康は、女好きの後家殺しと一般的に揶揄されるが、若い女性を側室とするわけではなく、恐らく優秀な女性の能力と忠誠心を高い女性を身近に置き、家臣同様に扱い、その助言に真摯に耳を傾けていたと考えられる。
 現在でもマーケティングや商品開発には女性の意見を取り入れることが大切で、女性を存分に活用している企業が発展しているように思われる。
 家康はあの女性が軽視されている時代であっても、男が集めるものとは違った女性からの情報をうまく活用して天下を取ったのではないだろうかと思う。
 相応院はまた氏勝を色々な意味でブレーンとして、家康にいろいろと情報を提供していたのだろう。家康も中には無理難題もあっただろうが、家臣の持ち込む情報と異なった、新鮮な情報に耳を傾けていたのではないか。
 相応院が義直の妻女の件で、候補の3人の諸侯の息女を物色して氏勝に相談したところ、即座に浅野紀伊守幸長の娘、春姫(高源院)を推挙したとのこと。
 なぜなのか。豊臣の五奉行の筆頭奉行で、豊臣家とつながりが深い、浅野長政の孫娘にあたり、理由ははっきりわからないが、長政は石田三成とは意を異にしており、関ヶ原の合戦で、東軍に付き、幸長と共に参戦している。
 二人は豊臣の時代から五大老、五奉行としての面識もあり、親しい関係にあったようで、長政が隠居後は、徳川家康の話し相手、相談相手として囲碁や茶会をして過ごしたと言われている。

 大阪北部地震、有馬―高槻断層帯、有馬温泉、慶長伏見地震、伏見城倒壊と語句を並べてみるとまず頭に浮かぶのが、豊臣秀吉とのつながりを考えざるを得ない。
 今でも何かにつけても愛されている秀吉。何か、あまり人に知られていない話が隠れていないかと面白半分で、調べ始めた。
 ところが全く異なった話に行きついた。
 今回この話を書いていて感じたことは、戦国時代の武将たちの人間関係。今迄から言われている下克上だけではない。地理的な条件。運命とも思われる自然災害など、色々な要件によって、人生が左右される。自分が生き抜くためにいかに策を巡らせてもどうすることもできないことも多々あるのだ。
 今回は調査期間も短く、十分に調べ切れたとは思われず、間違いや勘違いなども多々あるかと。そのような点、何卒ご容赦いただき、ぜひご指摘、ご教授いただければと存じます。
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参考資料
 ・日本近世史説 花見 朔巳 他
 ・岐阜県白川村ホームページ
# by y-rekitan | 2018-09-28 08:00 | Comments(0)

◆会報第87号より-06 歴史散歩②

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シリーズ「私の歴史さんぽ」・・・②


「歴史」ということばについて


滝山 光昌 (会員)


 最近、「マニア女子」の中で、歴女、縄文女子、刀女子などと呼ばれている若い女性が増えているそうだ。阿修羅展とか縄文の特別展等が開催されると熱心な女性がわんさと押しかけているとのこと。京都の街にも女性で溢れている。
 日経ビジネス誌を見ていると、「腐女子」という言葉も載っていて、『男性同士の恋愛やセックスを妄想したり、小説やマンガを書(描)いたり読んだりする女性が、自らの嗜好を「腐っている」からと自虐的に使い始めた言葉です。 「腐女子」の起源については、マンガ家が同人誌で自分のことを「腐女子」と言って広まったとか、ネットスラングとして生まれたなど諸説あります。』との解説を載せている。また、『最近では「腐女子」という言葉だけでなく、ある程度上の世代になると「貴腐人(きふじん)」と呼んだり、「汚超腐人(おちょうふじん)」と呼んだりすることもあります。ちなみに「汚超腐人」は、マンガ「エースをねらえ!」(山本鈴美香)の登場人物「お蝶夫人」に掛けているようです(「お蝶夫人」自体も、プッチーニのオペラ「蝶々夫人」に掛けていたわけですが)』との記載もあり、面白い。

 さて、我々の時代の歴史に関する教育は、小中学校において内容などは忘れてしまったが「社会科」の科目で教えられたと思っている。高等学校では日本史とか世界史とかの科目があり、選択科目だったような気がする。筆者は理科系の私立単科大学だったため、通常、教養課程で履修する人文系については他学の教員が講義を行っていた。特に、卒業後、国家試験が控えているため、試験に関係ない人文系の科目は軽視されたようだ。会社の定年を迎えた後、総合大学の無料の公開講座などに出かけるが、単科大学に比べて、幅広い人間性・知識のある教員なり学生を観ると羨ましくかんじることがある。筆者の場合、勤務した会社の業務が技術系の専門性の強いもので、いわゆる歴史という分野とは無縁であった。

 最近読んだ書物によると、歴史学について次のように記している。
歴史学は、人類社会の歩みを時間の流れに沿って跡づけ、考察する学問である。各専修には、固有の研究分野と研究方法、そして確固とした学問的伝統がありますが、それと同時に、歴史学としての普遍的な課題を共有している。だから、専修の枠にこだわることなく、系の研究を広く行い、広い視野で眺めることが大切である。

 年金生活が始まってから、体験した無料で楽しめて、面白く、ボケ防止になると想われるイベント情報を紹介したいと想う。
 まず、第一に京都産業大学壬生校舎の「むすびわざ館」で秋に「天台宗聲明の調べ」が開催されている。聲明は真言宗でも唱えられる。むすびわざ館では、10人程度でもようされるが、僧侶は声の綺麗な人が多く、密教の会式で50人以上が声を揃えて唱える聲明(しょうみょう)は、お寺さんの合唱ハーモニーである。京都放送では、ミュージックとコラボしたイベントが企画されている。この大学の文化学部に京都文化学科があり、『京都を通じて日本文化を再発見し、世界へ新たな価値を発信する』とし、「英語コミュニケーションコース」を設置している。なお、2019年度は大学院に研究科が開設予定で、通信教育課程も創ると募集している。むすびわざ館はギャラリーを設置していて、自学の歴史と共に、祇園祭、上賀茂神社などの学術資料を不定期に展示している。これも無料で公開するので見逃せない。
 第二に、グランフロント大阪 北館 ナレッジキャピタル1FのCAFE Lab. において、「ナレッジキャピタル超学校」と称するイベントがある。『さまざまな分野の研究者から、研究の発想やプロセスを学ぶだけでなく、参加者と一緒に考え、対話するナレッジキャピタルならではのプログラムです。専門知識がない方でも気軽に参加でき、大学や企業、研究機関などの研究者と一般の参加者をつなぐ場を提供しています。』京都・大阪・慶応大学や国立民族学博物館、大阪市立東洋陶器美術館などの教員・学芸員等が講師となる。カフェで行うので500円(1ドリンク代)必要。ビール、ワインもOK。夜7時から開催が多い。CiRA(京都大学 iPS細胞研究所)などが主になる人気のあるイベントは受付開始されると即座に定員一杯になる。
 第三に京都大学においては、国立大学が法人に改組されたためか、市民に対するサービスを充実しているようだ。
 f0300125_21224679.jpg筆者は次のようなイベントに参加している。春・秋の2回テーマをもうけて、京大の教員が専門分野についいて解説する春秋講義(今年の秋は9月8日から「生物多様性を考える」をテーマで開催)がある。各分野で活躍している卒業生が、在校生と共に聴講できる未来フォーラム(前回はアフリカ圏出身の新京都精華大学学長)。10月6日からは京大ウィーク2018が始まる。ホームカミングデイは京大OBが中心だが、孫を連れて屋台で食事する。この他にも、人文系、理科系のそれぞれの研究科が、市民向けの公開講座を設けている。暇つぶしと、老化防止のため面白そうなコマは参加するようにしている。


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# by y-rekitan | 2018-09-28 07:00 | Comments(0)

◆会報第87号より-end

この号の記事は終りです。


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# by y-rekitan | 2018-09-28 01:00 | Comments(0)

◆会報第86号より-top <スクロールだけで全記事が読めます>

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
このまま下にスクロールして頂くと順次連続してご参照頂けます。


◆シリーズ:“心に引き継ぐ風景” ⑰◆

◆《歴史探訪バスツアー》◆
小堀遠州の菩提寺~五先賢の館~渡岸寺国宝を訪ねて
参加記 ~旅の発端~


◆江戸時代の「八幡宮道」道標の設置◆
◆シリーズ:“八幡の古墳と鏡” ⑩◆
◆シリーズ:“私の歴史さんぽ”①◆



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# by y-rekitan | 2018-07-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第86号より-01 力士墓道標

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心に引き継ぐ風景・・・⑰

力士墓道標
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 「江戸時代の八幡道標」の調査過程で江戸から明治にかけて、多くの力士墓道標の存在が明らかになった。特に楠葉方面では力士墓道標や供養塔を数多く確認したが、現在の八幡市内にも力士墓が数基残っている。「八幡市内里北ノ口の墓碑道標」に、「俗名若狭野政吉/右なら道/左よど京道/文化三丙寅九月晦日(1806)/世話人中」とある。堂々の墓碑道標には大層活躍した力士を想像させるが、「政吉は地元の住人ではないが気の毒な方なので建てられた」との伝承が今も地元に残る。その一方で、力士墓ではないかとの伝承も聞いた。
 「上鳥羽搭ノ森上河原の墓地」に「若狭野政吉」(文久二戌年三月建之・1862)の四股名を刻む立派な力士墓が残っている。それとは別に「頭取若狹野碑」(明治廿八年七月五日建之)も残る『京都・滋賀の相撲』。いずれも時代的に同一人物とは思えない。昔から鳥羽には相撲好きが多く、草相撲の盛んな地域であった。
「俗名 若狭野政吉」とは鳥羽を本拠地とする力士の一人だったのだろうか?
 綴喜郡井手町「玉津岡神社」の奉納板番付(文化十四年・1817)に勧進元「若狭野三四郎」の四股名が今も残っている。「俗名若狭野政吉」も草相撲の盛んな鳥羽・井手を往還中に「内里北ノ口」付近で客死したものか! 相撲取が若くして死ぬと、“余りに強い為、毒殺された”との噂が付いて回る。

(文と写真 谷村 勉)空白



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# by y-rekitan | 2018-07-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第86号より-02,03 北近江バスツアー

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《6月例会 歴史探訪バスツアー》

~小堀遠州の菩提寺~五先賢の館~渡岸寺国宝を訪ねて~


  藤田 美代子 (歴史探訪担当幹事)

 本年度の歴探バスツァーは、北近江の地を訪れることと致しました。
 例年通り、市内四ヶ所の参加者希望集合場所より、順次乗車いただき、定刻通りの8時10分、一の鳥居前を出発し長浜へと向かいました。

-近江弧蓬庵-

 途中多賀サービスエリアにて小休憩を取り、一番目の見学地、松花堂昭乗と最も親しかった一人・小堀遠州の菩提寺の近江孤篷庵に到着いたしました。
 京都・大徳寺孤篷庵と区別するため、近江孤篷庵と呼ばれており、庵号の「孤篷」は「一艘の苫舟(とまぶね)」の意で、小堀政一(遠州)が師事した大徳寺百十一世春屋宗園から授かった号であります。バス下車後、よく整えられた参道を歩き、小堀家墓地の案内板を横目で見ながら(帰路お参りのため) 、玄関へと向かいます。参加者全員本堂へ入り、住職様より説明を受けました。f0300125_8193779.jpg
 江戸末期から明治の、廃仏毀釈により、100年近く無住で放置されていた近江孤篷庵を、昭和13年大徳寺孤篷庵で修行を積まれた小堀定泰和尚が晋山(しんざん)されました。寺院の再興は困難を極めたそうです。寄進による武家屋敷玄関の移築。本堂各部屋の皆川月華の染彩画の襖絵は非常に印象的でした。
 今般、松花堂昭乗の歴史的な事実を知り得る貴重な書状を参加者の見易い位置に掲示、又松花堂行状の巻物も縁側に近い明るい畳の上に広げて下さり、ご住職のお心遣いをとても嬉しく有難いことだと思いました。
 内容につきましては、ツアーに参加された松花堂美術館学芸員、並びに松花堂昭乗研究所の川畑薫先生に当日説明をお願いし、本会報にも寄稿頂いております。

 次にご住職より庭園のご説明があり、枯山水と地泉回遊式の二つの庭園どちらも、昭和36年に県の名勝に指定されているとのことです。f0300125_8232330.jpg
 私達が座っている前庭低い位置に一面のイブキリンドウが芽吹き、今はまさに枯山水ですが、八月になると一斉に色づき、それが琵琶湖を表し、遠くの西に向いた船石は、湖面をまさに漕ぎ出でんとする西方浄土の世界を表現しているとのこと。イブキリンドウが琵琶湖と化す色調を想像してみましたが、機会があれば、その時期に又訪れてみたいと思いました。池泉回遊式は庭園の北東部分、琵琶湖を模した錦渓池を中心に鳥瞰図的に本堂を眺めた時の景色は、f0300125_15293348.jpg人の心を落ち着かせ、心に中に静けさが充満する様な素晴らしいお庭でした。
 ご住職によりますと、自然豊かな、野性味のある、ほっとする寺でありたい。江戸時代創建当初に近づけてゆこうと、現在も江戸のままかわらないままに、江戸時代のお庭を楽しんでいただきたいとおっしゃっていて、大変貴重なお庭だと思いました。

 ご兄弟お二人も仏門に入っておられ、お兄様は建仁寺管長、弟様は龍光院住職とお聞きしました。遠州や関係者の墓地にお参りし、バスへ向かいました。

-五先賢の館-
 
 昼食処でもあります、五先賢の館へ到着。長浜市旧浅井町田根地域では昭和初期から五先賢の顕彰が行われてきており、その顕彰運動の拠点として、平成8年に開設された施設です。f0300125_1519161.jpg五先賢とは、比叡山の高僧 相応和尚、桃山画壇の巨匠 海北友松、賤ケ岳七本槍の名武将 片桐且元、茶道・造園美術建築の巨匠 小堀遠州、漢詩・書道の大家 小野湖山をさします。
 教育実習ということで、近くの女子中学生のぎこちないながら、実にさわやかな歓迎にびっくりしながら、昼食会場の大広間に入りますと床の間に掛けられた小野湖山の書「松葉」「千歳」「緑」に驚かされます。五歳時にしてこの迫力。
 これまた、中学生のほほえましいふるまいの中、時折飛び交う「サービスするときは座!!!」というような厳しい注意を受けながらも、懸命に笑顔をまいて世話を焼いて頂き、和気あいあいと美味しい食事がすすみました。f0300125_15353324.jpgその後館長より、館内展示品の説明を受け、私は大広間から眺められました小谷山を借景とした遠州流庭園、織部灯篭、水琴窟を視聴しました。
 見どころ一杯で、参加者個々の好みの人物像や、遺品などをそれぞれ存分に説明をうけ、見学させていただきました。
 まだまだ、説明をお伺いしたり、見学したい気持ちを振り切りバスへ乗りました。

-渡岸寺-
 
 最後の見学地であります国宝 十一面観世音を拝観すべく渡岸寺観音堂へと向かいました。元亀元年、浅井・織田両氏の戦火より守る為、やむなく土中に埋蔵し、難をまぬがれたといわれます。f0300125_15381814.jpg土の中の湿気で金箔は剥げ落ち、その下の漆のみになっていますが、説明者によりますと、却って仏像の良さが出ているのではないかと言われておりましたが、同感でした。檜の一木作りで、蓮台(れんだい)より195cm、重さ40.1kg通常は100kgあるが、上部に皹が入らない様に空洞にしてあるそうです。右手がバランス的に長く太く感じられました。これは、より多くの人を救う為の表現なのだそうです。

 有意義な思いで満たされ、帰路に着きました。
来年も又、皆様とご一緒に歴史を紐解き、実りあるバスツァーを実行出来ればと担当幹事一同思っております。お疲れ様でした。

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参加記 ~旅の発端~

川畑 薫(八幡市松花堂庭園・美術館 学芸員)


 今回、初めて歴史探訪バスツアーに参加させて頂きました。
遠足のようなわくわく感と、慣れない緊張感でそわそわしながら、少し早めに集合場所に到着しました。すでに幹事の方が待機されていたので、何ということもなく、順調に旅が始まりました。私は7時55分に中央センター前からバスに乗車しました。ちょうど一緒に乗り込んだHさんの隣の座席に座りました。Hさんもバスツアーには初めてのご参加とのことで、「同じですね」と話が盛り上がりました。
 10時頃、長浜に到着。まずは近江孤篷庵様へ。私がこのツアーに参加するご縁を頂くきっかけとなったお寺です。
 そう、あれは昨年(平成29年)9月末のことです。1本のお電話が発端でした。電話の主は太田浩司氏(長浜市市民協働部学芸専門監)。長浜で、小堀遠州宛の松花堂昭乗書状が見つかったとのこと。それは、近江と遠州に関する新発見を含む貴重な書状であるとの旨。松花堂昭乗研究の立場から見解を、というような内容でした。ちょうど松花堂美術館で10月から開催する特別展の準備に追われ、あまりに忙しい時期でしたので、「そうなんですか」と受け流してしまいそうになりましたが、太田さんから送られてきた写真を拝見し、その内容に目が釘付けとなりました。
 新発見と目されたのは、小堀遠州が、自らの領地である浅井郡に実際に赴いたことを示す記述でした。遠州は、元和5年に浅井郡に転封されたのですが、当初に一度、領地に赴いた形跡はあるものの、それ以降、足を運んだことを伝える資料がなかったというのです。それが、この書状に、差出人である昭乗が、遠州が思いのほか早く「江北」から伏見に戻ってきたことに驚き、琵琶湖や比良山をみてどんな和歌を詠んだのか教えてほしい、と記していることから、遠州が「江北」(領地の浅井郡と考えられる)に実際に赴いたことを示す証拠となる次第です。大きな発見です。
f0300125_291194.jpg とはいえ、新発見はこれだけではありませんでした。書状には、石清水八幡宮の寛永の造営についても言及されていました。なんと、昭乗が造営に際して、時の摂政一条兼遐、京都所司代の板倉重宗、淀城主松平定綱のもとを奔走していることが知られるのです。かねてより、寛永11年に完了した造営に昭乗が何らかの形で力を尽くしたのだろうことは、想像していましたが、これを裏付ける資料に乏しく、想像の域を出ませんでした。しかしこの書状の発見によって、「やっぱり!」と昭乗の尽力が明らかとなり、胸が高鳴りました。こういう瞬間は、まさに研究の醍醐味といえるものです。その折、実物の書状も拝見しましたが、昭乗の書状であると確信されました。
 そんなことで、近江孤篷庵様にはぜひ近いうちにお参りさせて頂きたいと思っておりました。まずはご本尊にお参りし、小堀泰道和尚様より御縁起を伺いました。なんとご本堂の一室には、先の書状が掛けられ、のみならず昭乗の一代記である「松花堂行状」の巻物が畳に広げられ、特別拝観の機会に恵まれました。
f0300125_2145375.jpg会の方から、少し説明をと承り、僭越ながら少し説明させて頂きました。皆さん熱心にご傾聴下さり、ほっとしました。
 続いて和尚様のご案内にてお庭を回遊させて頂きました。お庭から望むご本堂の佇まいは凛として、穏やかな空気に包み込まれ、印象的な光景でした。

 その後、バスに乗車し、五先賢の館へ。折しも職場体験学習中の地元の中学校の生徒さんに迎えられました。佐治寛嗣館長より、浅井ゆかりの五人の先賢についてご説明頂き、同館の大広間にて、地元の美味が盛り込まれた昼食を頂きました。昼食後、常設展示を拝見し、改めて佐治館長のお話をゆっくり伺いました。
 そして五先賢の館を出発し、バスは最後の目的地である高月町へ。渡岸寺観音堂(向源寺)へお参りしました。ご本堂を参拝し、十一面観音様のいらっしゃる慈雲閣(収蔵庫)を拝観しました。台座にすっと立たれた観音様は、異国の雰囲気の漂うお顔立ちで、正面から拝観すると腰を少し左にひねった美しいお姿です。横から後ろから360度お姿を拝観しました。時を忘れてゆっくり心静かに参拝させて頂きました。
 あっという間の1日でしたが、盛りだくさんの内容で、皆さん和気あいあいと、バスツアーって楽しいな、と帰りのサービスエリアであれこれお土産を探しながら思いました。お世話になりました皆様に心よりお礼申上げます。そして旅を企画して下さった幹事さん、そしてツアーをご一緒しました皆様、ありがとうございました。(川畑薫)

(幹事からの御礼)今回のツアーの行き先については当初から川畑先生の紹介を得て進めたものです。また、当日はいきなりの展示品の説明のお願いにも快く応じて頂き、参加者一同感謝、感謝です。直後の地震被害には御見舞の言葉もありませんが、早い復旧をお祈りしております。


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# by y-rekitan | 2018-07-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第86号より-04 八幡宮道

江戸時代の「八幡宮道」道標みちしるべが設置できました

高田 昌史(八幡の歴史を探究する会 事務局)


はじめに

 江戸時代に設置された貴重な「八幡宮道」道標が、長年青林院の奥庭に保管されていましたが、この度、青林院を管理されている正福寺の秦文彦住職ご夫妻のご厚意により、元の設置場所と推定される八幡宮道沿いに再設置することができました。
 場所は八幡旦所の正福寺向いの青林院敷地内参道の入口で、西方向の正面が男山でロケーションの大変良い場所です。道標の後方には古い道標保護に理解得るために、説明板も建てました。是非、多くの方が現場を訪れて見守っていただけることを願っております。
 私たちは、貴重な歴史遺産といえる150年以上前に建立された道標をより良い姿で後世に引き継いでいきたいとの思いを込め、以下に設置までの経過を報告します。

1.青林院庭に保管されていた道標

f0300125_10381155.jpg 図1は2017年10月弊会発行の冊子「石清水八まん宮道に誘(いざな)う道標群」に掲載している、青林院奥庭に保管されていた状況の写真です。幸い道標の破損等はなく、保管状況は大変良好で、4面共に碑文の読み取りができました。
 なお、八幡市内には他にも貴重な歴史遺産といえる江戸時代の道標が、残念ながら壊されたり、倒されたり、他所に移されて放置、また行方不明になった道標があります。

2.江戸時代の道標設置について

 2年前の2016年10月発足の専門部会「八幡の道探究部会」では、八幡の古道と共に古い道標(みちしるべ)を調査しましたが、その中で最も古い江戸時代に建立された道標には補修や元の位置に再設置が必要なものが沢山あることを確認しました。
 また、八幡市内には昭和初年に建立された多くの三宅碑を始め道標が全部で100基以上もあり、市外から道標巡りに来られた方からは、特に古い道標で倒れているものは今のうちに再設置(補修)が必要であるとのお手紙をいただいています。
 道標の設置場所は殆どが道路等の公用地になるので「八幡の歴史を探究する会」からは八幡市に5基の「江戸時代の道標設置(補修)」の要望書を2017年2月に提出していますが、課題が多いのか約1年半経過した現時点でもあまり進展がありません。しかし、何とか少しでも道標保護を前に進めたいとの願いから、青林院の庭に保管されている江戸時代の道標の設置に取り組みました。
 青林院を管理されている正福寺のご住職に元の設置場所と推定される八幡宮道傍の寺院参道入口部に設置場所の提供を依頼し、承知していただきました。
当初は業者の指導を受けて、工具等はお借りして会員で設置する予定でしたが、比較的人通りが多い場所なので素人の手仕事で将来倒れるようなことがあっては大変と一旦断念しました。f0300125_10475040.jpgその後、道標設置を依頼した工務店代表の方は「八幡のまちおこし」に取り組んでおられるので設置の必要性も十分理解していただき、5月22日に会員数名が立合って設置が完了しました。
 図2は設置が完了した道標写真で、西方向の正面は男山で、麓には頓宮があります。写真正面の碑文は「東 うぢ道」で背面には「西 八幡宮道」とあります。道の向い側は正福寺です。

3.道標説明板の設置

  江戸時代に建立された道標の碑文は、当時のくずし字で書かており、それに経年風化により読みにくい文字もあるので、道標の横やや後方に説明板を建て、4方向の碑文を翻刻しています。
また、説明板には今回の道標設置の経緯と最後には「昔と今を結ぶ、かけがえのない歴史遺産として保護し、後世に引き継ぎたい」と私たちの願いを記しています。(図3)現地に行かれた際には、是非、説明板も併せて確認ください。
f0300125_111282.jpg

おわりに

 今回の江戸時代の道標設置は、正福寺のご住職に場所の提供を依頼して設置の段取りをされた会員の谷村勉(副代表)・田中美博両氏の尽力によります。また、設置時には会員の田中、滝山、谷村、高田の4名が立合いました。それに当日、青林院の植木剪定をされていた方の協力もありました。
 設置場所は比較的人通りが多く設置中の道標を確認された数人の方から質問があり、また、八幡の古い歴史がよく判り、「このように昔の物を大事に保護することはよいことだ」との言葉もいただきました。
 私たちは八幡市民の多くが道標の後方に建てた説明板を確認されて、貴重な文化遺産としての古い道標保護に関心を持っていただくことを願っています。(2018.7.11記)


【2018.8.5追記】本件が京都新聞に「江戸期の道標“復活” 京都・八幡、昔と今つなぐ」として掲載されました。
 https://www.kyoto-np.co.jp/local/article/20180805000110
# by y-rekitan | 2018-07-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第86号より-05 古墳と鏡⑩

シリーズ 「八幡の古墳と鏡」・・・⑩


八幡の古墳と鏡(10)

―失われた古墳と埴輪―

濵田 博道 (会員)


はじめに

 『八幡市埋蔵文化財発掘調査概報第21集』や『京都府遺跡調査概報第56冊』に「埋没古墳」という言葉が出てきます。埋没古墳とは”自然陥没・水の氾濫・地震・噴火による火山灰・泥流の降下・流れあるいは人為的な削平や土入れなどによって古墳が残存しながら埋没している遺構をさす”と理解されます(注1)。
 この埋没していた古墳はその後、住宅や道路などを建設したため消滅してしまいました。それ以外にも八幡には開発によって失われた古墳が多くあります。これらの古墳については八幡市民や次代を担う子供たちが目にすることは難しいです。そこで八幡(近辺も含む)の失われた古墳について考えてみることにしました。(一部、不明・半壊古墳も含む)
  ★添付資料の「失われた古墳等の地図・一覧」を参照ください。

1、男山丘陵東麓(八幡市大芝・女郎花地区)の失われた古墳等

A、大芝古墳
 男山丘陵東麓にある八幡大芝・女郎花は史蹟松花堂庭園をはじめとして西車塚古墳・東車塚古墳などがあり、須恵器などの土器がよく出土する女郎花遺跡地域に入っています。
 1993(平成5)~1995(平成7)年にかけて、この遺跡地内の八角堂(西車塚古墳後円部)の南約100mで共同住宅建設に伴う発掘調査が行われました。その結果、地中に埋まった方墳(平面が方形の古墳)が発見されました(埋没古墳で南北12.5m以上・東西14.8m以上,1995年)。f0300125_8492277.jpg古墳はその地名から大芝古墳と命名されました。古墳の第1段目テラスから埴輪列を検出、川西編年Ⅳ期(注2)にあたるので、築造は5世紀中頃と推定されました(注3)。当時、八幡地域では5世紀前半で古墳の築造は終わると考えられていましたが、古墳時代中期以降も築造が継続されていることがわかりました。(発見された土器や朝顔形円筒埴輪・円筒埴輪は八幡市ふるさと学習館に展示。)

B、女郎花遺跡内で埴輪5個体出土
 1997(平成9)~1999(平成11)年にかけて、大芝古墳から300mほど南東の同じ女郎花遺跡内で、八幡市立松花堂美術館建設に伴う発掘調査が行われ、弥生時代後期・古墳時代・飛鳥時代~平安時代の遺構が確認されました。古墳時代の遺構からは集落跡、溝から土器、埴輪(5個体)が出土。周辺に古墳存在の可能性も考えられましたが、発掘場所が限られており、検出には至っていません。このとき、二重口縁壺など弥生時代後期後半~古墳時代前期にかけての土器も出土し、注目されました。『八幡市埋蔵文化財発掘調査概報 第28集 女郎花遺跡発掘調査概報(第3次・第5次)』(八幡市教育委員会,1999)では次のように述べています。
 「古墳時代前期の集落については、男山丘陵東麓において存在が確認されたのは今回が初めてである。弥生時代後期において男山丘陵の周辺に於いての一般集落は西ノ口遺跡や南山遺跡など丘陵上に存在し、沖積地には確認していなかった。古墳時代の集落については不明であった。今回の調査によって、沖積地において古墳時代前期の集落が発見された。少なくとも、男山丘陵東麓においては古墳時代前期には沖積地に集落が存在していたことを示唆している。このことは、男山丘陵東麓において沖積地の開発を考える上で貴重な資料となると思われる。」

2、南山地区の7古墳――南山古墳群(八幡南山・安居塚・備前・男山吉井)

 美濃山の北、国道一号線の北側の丘陵上に6基の円墳(南山古墳群)がありましたが、宅地開発などのためすべて全壊または消滅しました。主に古墳時代後期の築造とされていますが、5号墳は箱式石棺で、前期古墳と推定される古墳の存在も確認されています。
 1997(平成9)年一般地方道富野荘八幡線の道路建設に伴う発掘で、八幡備前の西ノ口遺跡内から南山古墳群として7基目の古墳が検出されました(南山7号墳)。この辺りは竹林造成によって著しく削平され、遺構が遺存しているのかも不明でしたが、周濠(深さ約0.3m)が確認され、方墳(築造は古墳時代後期)と判明。墳丘・主体部は完全に削平。周辺から釘状鉄製品、周濠の北より底面から須恵器口壺と高杯の2点の土器が出土しました。
 この古墳群に囲まれるような形で弥生時代後期の南山遺跡があり、壺・甕・高杯・器台などが出土しています。(注4)
          南山古墳群(まとめ)
 八幡市男山吉井  南山1号墳 円墳    丘陵腹部 全壊
    〃     南山2号墳 円墳    丘陵腹部 全壊
 八幡市八幡安居塚 南山3号墳 円墳    丘陵腹部 全壊 
 八幡市八幡福禄谷 南山4号墳 円墳    丘陵腹部 全壊
    〃     南山5号墳 箱式石棺?  丘陵頂部 全壊
 八幡市八幡備前  南山6号墳 円墳    丘陵腹部 消滅
    〃     南山7号墳 方墳    丘陵腹部 消滅
                (『八幡市の教育』,八幡市,2017より)

3、美濃山地区・その近辺の失われた古墳等

A、御毛通(ごけどおり)1号墳
 1992(平成4)年京都南道路建設に伴う八幡市美濃山御毛通の発掘調査で古墳が検出され、地名により御毛通古墳(御毛通1号墳)と命名されました。この地点は、大正期に始まる竹やぶによる地形の改作が著しく、厚さ約1m、20数次にわたる土入れの土取場として掘り下げられていましたが、残った周濠から、一辺約20mの方墳を検出し、墳丘も段築盛されていた可能性があると報告されています(注5)。方位は尾根の稜線の方向とほぼ一致。周濠から出土する埴輪は、墳丘上に巡らしていたと推定され、蓋形(きぬがさがた)埴輪、家形埴輪、円筒埴輪の3種類で、土師器(はじき)も出土しました。葺石はなく、内部施設は削平されていました。築造は埴輪・土師器の編年から古墳時代前期(4世紀後半~5世紀初頭)と推定。西車塚古墳、石不動古墳、八幡茶臼山古墳、ヒル塚古墳とほぼ同時期または少し新しい時期です。
 埴輪の中で注目すべきは、蓋形埴輪です。f0300125_98736.jpg北東辺周濠の中~下層からまとまって出土し、円筒形台部が復元可能な程度残存。上部の立ち飾り部は断片しか残っていませんでしたが、埴輪の笠部下層部の直径は87cm、笠部全体の高さは64cmあり、全体で1m近くの高さと推定され、大型に属します。(被葬者はある程度の身分の人か?)
 また、研究の中でこの蓋形埴輪は大王の古墳が奈良北部の佐紀古墳群から河内の古墳群に移動する間の時期に製作されたものとわかりました。蓋形埴輪は日葉酢媛陵(ひばすひめりょう)(墳長207m、奈良市佐紀古墳群)や津堂城山古墳(墳長208m、藤井寺市古市古墳群)からも発掘されていますが、御毛通1号墳の埴輪はその間の時期に製作されており、王権の移動という点からも注目されます。

B、御毛通2号墳
 2011(平成23)~2012(平成24)年にかけ、新名神高速道路整備事業として、京都府埋蔵文化財調査研究センターにより女谷・荒坂横穴群、荒坂遺跡の発掘調査が行われました。その結果、21基の横穴と古墳1基(御毛通2号墳)が検出されました。
 所在地は美濃山荒坂(御毛通)。御毛通1号墳(消滅)から北東800mの地点で、横穴が構築された丘陵頂部の平坦面にあたります。ちょうど高速道路の橋脚建設が予定されていた場所でした。
 f0300125_9175493.jpg発掘の結果、直径22mの円墳で、墳丘は削平されていました。古墳の周濠は幅3.8~4.5m、深さ0.3~0.7mで、16.3mにわたり発掘され、多数の埴輪片が出土。家形埴輪3個体、鶏形埴輪1個体、菱形に線刻を施した埴輪片などの形象埴輪とわかりました。円筒埴輪や土器類は出土していません。築造時期は1号墳より少し新しい4世紀末~5世紀前葉と推定されています(注6)。これまでこの付近には荒坂古墳(1969年土取り工事中須恵器出土、円墳もしくは横穴墓、古墳時代後期)等が確認されていましたが、御毛通地区で新たに2基の古墳が検出され、他の存在の可能性もあり御毛通古墳群と名付けられています。

C、柿谷古墳(内里柿谷)
 2011(平成22)年、八幡インター線道路整備促進業務に伴い、八幡市内里柿谷(内里池から美濃山王塚古墳へと続く道の左側)所在の柿谷古墳の発掘調査が行われました(注7)。遺跡としては美濃山遺跡に含まれます。この古墳は以前、八幡市教育委員会により測量調査が行われていました。調査時に古墳の西側で墳丘の裾が残っていましたが、現在は全壊です。一辺約12mの方墳で、周濠は3~5m残存。埋葬施設として、墳頂部で木棺直葬の埋葬主体部が2基、墳丘東裾部から甕棺(かめかん)1基を検出。古墳の築造は6世紀中頃と推定されており、継体大王の時代から飛鳥時代へと移っていく間の時期、横穴墓が築造される時代直前の古墳といえます。八幡では珍しく馬具が出土しています。3つの主体部(埋葬施設)を検出。
第1主体部:墓壙は4m×2m。主軸は東西方向。墓壙内に2.9m×1mの組合せ木棺を埋葬。棺内から須恵器(短頸壺・壺)6、高杯2、鉄製馬具の轡(くつわ)、鉄地金貼胡籙(ころく、矢を入れて携帯する容器)、鉄族、人骨の一部。棺東から鉄剣1、須恵器壺2、砥石2。棺西から須恵器壺2、砥石2点が出土。須恵器は6世紀後半頃のもの。
第2主体部:墓壙は4.8m×約2m。主軸は東西方向。墓壙内に箱式木棺を埋葬。棺内から須恵器1点(6世紀中頃)が出土。
第3主体部:墳丘東裾部から甕棺墓壙1基(直径1.3m)を検出。甕棺内から須恵器短頸壺2、高杯1点が出土。

D、西二子塚古墳(美濃山西ノ口)
 この古墳は国道一号線をはさんでヒル塚古墳の西南方(レストラン・ガストの南方約100m)にありました。直径約10m、高さ2.5mの円墳です。盗掘による被害や開発などによって全壊。現在住宅地。古墳の痕跡はありません。墳丘周辺には人物埴輪、家形埴輪、円筒埴輪等の埴輪が並べられ葺石が敷かれていました。直刀2、鉄斧4、玉類数10、須恵器(はそう1、堤瓶1、壺1、高杯)、土師器が出土。
 主体部は頂上から3m下に、一辺が2.5m四方の粘土床を造り、その上に礫を敷いて、幅0.5mの溝を掘った配水施設がありました。粘土床には方形の穴があり、木槨を置いた杭の痕跡ではないかと推定されています。古墳の築造時期は、5世紀の中頃~後半。(注8)

E、東二子塚古墳(美濃山幸水)
 西二子塚古墳の東約150mに所在。竹林の土入れ・土取り等で大規模に削平。全壊でしたが、住宅開発時に史蹟公園として残すことが決定し、現在公園内に東二子塚古墳の石碑(三宅碑)が建っています。1980年と1990年に調査が行われ、直径約12~13mの円墳と判明。二子塚の名が示す通り、東西に並ぶ同規模の古墳があったわけです。葺石を敷き、埴輪列があり、埋葬施設には礫床も敷かれていました。円筒埴輪、仿製獣形鏡1面、鉄族、直刀3、須恵器3、朱(埋葬施設に用いられたと思われる)が出土。築造時期は古墳時代中期と推定。(注9)

F、西ノ口古墳(八幡市美濃山字西ノ口)
 後藤守一『漢式鏡』(雄山閣, 1926)には、「(この古墳については)明らかでない」、“(報告書による所在地は違うが)おそらく東二子塚古墳、西二子塚古墳と同一地点であろうと思う”と述べています。『八幡市誌』や『八幡遺跡地図』(2005)には記述がありません。『東京国立博物館図版目録古墳遺物篇(近畿1)』(1988)には「西ノ口出土品」として5ページにわたり写真と解説が載っています。獣形鏡(完形11.3cm)、f0300125_9392162.jpg鉄斧5、鉄剣、鉄槍、直刀、銅・鉄鏃、杏葉(ぎょうよう)(鉄地銀張)・辻金具、紡錘車、土塊(ベンガラか)が出土とあり、築造年代は古墳時代中期(『国立歴史民俗博物館研究報告第56号』,1994)。現在、東二子塚古墳出土の鏡は現物がないので、この古墳出土とされる鏡がその鏡ではないかと推定されています。杏葉・辻金具等の馬具類が出土しているなど興味をひきますが、1916(大正5)年の発掘で古く、他は不明。

G、美濃山遺跡内・近辺の古墳
 2017(平成29)~2018(平成30)年新名神高速道路整備事業に伴い、美濃山出島の美濃山遺跡(第7次)の発掘調査で、弥生時代・古墳時代・奈良時代の遺構が確認され、古墳時代の遺構からは竪穴建物4基と方墳状遺構が検出されました。竪穴建物の中には西辺にカマドが造られているものや移動式のカマドが出土したものもあります。調査地の南東で方墳状遺構が検出されており、京都府埋蔵文化財調査研究センターの「美濃山遺跡(第7次)現地説明会資料」(2018年1月21日付け)には「幅1~3mの溝が方形に巡っており、形状から一辺約9mの方墳と考えられます。溝の上層では土師器や土馬などの奈良時代の遺物が多量に出土したことから、奈良時代にマウンドが削られて溝が埋められたと考えられます。」とあります。
 以上のほか、美濃山地域やその付近には文献あるいは石碑に名が記録されているものの所在不明の古墳として三ツ塚古墳(注11)・洞ヶ峠古墳(注12)・内里古墳(注13)など、古墳の所在地は特定できるものの全壊・半壊して内部構造や副葬品は不明のものとして小塚古墳(注14)、内里池南古墳(注15)などがあります。

H、口仲谷古墳群(くちなかたにこふんぐん、11基)(京田辺市松井宮田)
 この古墳群の所在は美濃山御毛通りと大谷川をはさんで向かい側の丘陵上(京田辺市)です。
 1992(平成4)年、京田辺市松井宮田で第二京阪道路建設に関係した発掘調査が行われ、9基の古墳が見つかりました。元々この松井宮田・口仲谷には東から西に延びる丘陵上に列をなして存在する4基の古墳が知られていましたので、13基の古墳群となるはずでしたが、2011(平成23)~2012(平成24)年、NPO法人文化財センターが古墳調査を行った結果、「13基のうち1基は自然地形、2基で1基と推定される古墳で、合計11基」と報告されています。何れも直径6~13mの円墳。重機による竹林の土入れ・土取りなどで削平。5号墳・10号墳が木棺直葬、2号墳が木棺直葬で2基以上の埋葬施設ということが判明しています。副葬品などは出土せず、古墳の築造年代は6世紀~7世紀と推定されています(注10)。場所的に女谷・荒坂横穴群、美濃山横穴群、狐谷横穴群、松井横穴群、堀切横穴群に近く、築造もほぼ同時期で10基以上の群をなす勢力の古墳で横穴との関連の可能性が考えられています。

4、内里地区の失われた古墳(内里八丁遺跡内)

 1993(平成7)~1995(平成9)年の第二京阪道路建設予定地にかかる内里八丁遺跡(内里日向堂(ひゅうがどう)と上奈良長池にまたがる地点[G地点、右図参照])の調査で古墳が検出されました(注16)。周濠を円形に検出。直径20.5mの円墳と推定されました。埋葬主体部は削平。石室を構成する石材も皆無で、木棺直葬と推定。周濠やその近辺の遺構から須恵器(蓋杯)や土師器が集中して出土。近辺の遺構はこの古墳に伴う祭祀的性格が強いとされています。古墳の築造は近接遺構から出土した須恵器の分析により5世紀後半~6世紀前葉と推定。
 f0300125_9522922.jpg『京都府遺跡調査報告書第30冊 内里八丁遺跡Ⅱ』(京都府埋蔵文化財調査研究センター,2001)では「(内里八丁遺跡G地区には)6世紀前半頃の円墳の残骸が確認されており、本来は、遺跡の立地する微高地の縁辺にいくつかの古墳が築造されたものの、後世に削平を受けてしまっている可能性もある。」と述べています。検出古墳は1基ですが、さらなる古墳検出の可能性が示唆されています。f0300125_9554371.jpg
 また、すぐ南の内里八丁遺跡のD地区、E地区からは古墳時代中・後期の住居跡が総計26棟検出されており、「掘立柱建物や規模の大きな住居跡など、有力者の痕跡を示すものは認められないので、比較的均質な居住者によって営まれた集落」と報告されています(前掲書)。
 内里八丁遺跡について「文献資料にみえる遺跡地一帯の動向」として概略次のように記述されています(前述報告書第30冊、要約)。
 “古墳時代集落(中期末~後期)の時期に、内里八丁遺跡周辺における歴史的な動向が日本書紀などに散見される。まず、『日本書紀』雄略17(494)年条にみる「内里の地に贄土師部(にえはじべ)を住まわせた」という記事があり、贄土師部とは、天皇家の食膳を司る役目を担っていたから、食物(野菜類)の栽培・供給といった面を考えると、木津川沿岸の微高地(自然堤防)上を利用した畑作、一帯での畑地としての土地開発が古くまで遡る可能性がある。それが朝廷直属の野菜類の栽培であることは、その後の「奈良園」へと結びつき、その成立に大きな影響を与えたとも考えられる。
 また『日本書紀』欽明26(565)年条に「高麗人を奈羅(現在は奈良と表記)の地に住まわせた」記事があるが、この時期の渡来系氏族の各地への移住に関しては、彼らが保有した高度な土木技術を背景とし、各地の開発を担わせたものと理解される場合が多く、この場合、この地域一帯に広がる木津川縁辺の自然堤防上の開発が想定される。
 この他、久世郡における仁徳紀・推古紀の栗隅(栗前)溝の記事がある。木津川東岸一帯だけでなく、木津川に面した低地部分の耕地開発を目的として、その用水確保(場合によっては排水を目的)のため栗隅(栗前)溝が開発されたと考えられるが、推古紀に相当する7世紀初頭~前半の開発は、屯倉の設置などとからめ、当地がかつて久世郡内に属していたことを考慮すると、まったく無縁の事象とも思えない。欽明紀の渡来人の移住・仁徳紀・推古紀にみる栗隅(栗前)溝の開堀などから、木津川沿岸のなかでも旧巨椋池南側一帯地域の耕作地拡大を目的とした土地開発が考えられる”。渡来人と内里八丁遺跡およびその付近の自然堤防上の遺跡(上奈良・下奈良遺跡・奥戸津遺跡・木津川河床遺跡等)・古墳と興味をひきます。

5、その他の地区の失われた古墳
 
御幸橋古墳(八幡市御幸橋の西)
 御幸橋古墳(所在地「御幸橋の西2本目の橋脚の下」)とあります(『八幡市の教育』)。この橋は現在の御幸橋でなく、1927(昭和2)年着工、平成年間に取り壊された数十m下流にあった橋です。「橋脚工事中に、工事障害物を取り除くため潜水夫を入れて水中作業中潜水夫が拾いあげたのが須恵器横瓶」(注17)で、石材、木棺破片(厚さ6cm、長さ180cm)が出土。築造年代は不明。内里八丁遺跡でも古墳が検出されていますので、自然堤防上に数基の古墳があった可能性があります。

 この他、『八幡市誌第一巻』に、「中ノ山遺跡(男山吉井・弓岡)付近から円筒埴輪片・土師器台が出土」「前述した古墳や遺跡の他に、破壊され、まったく消滅してしまったものも数多くあり・・・」との記述がありますので、現在判明している数以上の古墳がありました。
 古墳地図は会員の滝山氏の協力を得て作成しました。
           次回は、最終回「八幡の古墳と鏡・補足」です。

添付資料
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(注1)斎藤忠「埋没家屋」『日本考古学用語辞典』(学生社,1998)を参照して「埋没古墳」の意味を考えました。
(注2)会報84号「八幡の古墳と鏡(8)」参照
『八幡市埋蔵文化財発掘調査概報 第21集 女郎花遺跡第2次発掘調査概報』,八幡市教育委員会,1996
(注4)「西ノ口遺跡」『京都府遺跡調査概報 第81冊』,京都府埋蔵文化財調査研究センター,1998
(注5)「荒坂遺跡」『京都府遺跡調査概報 第56冊』,京都府埋蔵文化財調査研究センター,1994
(注6)「女谷・荒坂横穴群第13次」『京都府遺跡調査報告集 第157冊』,京都府埋蔵文化財調査研究センター,2014
(注7)「柿谷古墳・美濃山遺跡発掘調査報告」『京都府遺跡調査報告集 第146冊』,京都府埋蔵文化財調査研究センター,2011
(注8)「西二子塚古墳」『八幡市誌 第一巻』
(注9)「東二子塚古墳(第2次)」『八幡市埋蔵文化財発掘調査概報 第9集 』,八幡市教育委員会,1991
   「東二子塚古墳」『八幡市誌 第一巻』
(注10)「口仲谷古墳群」『京都府遺跡調査概報 第51冊』,京都府埋蔵文化財調査研究センター,1994
  京田辺市教育委員会「口仲谷古墳群 現地説明会資料」,2012.6.16
(注11)梅原末治「美濃山ノ古墳」(『京都府史蹟勝地調査会報告第二冊』, 京都府,1920)に「北部にはヒル塚、二子塚等あり、三ツ塚と称する一基は南方に存し」「今竹藪と化して墳形を存せず」、「土入れの際、鏡及び刀剣を発見」とあります。
(注12)八幡市ふるさと学習館石碑置き場にその石碑がありました。
(注13)梅原末治『梅仙居蔵日本出土漢式鏡圖集』,山川七左衛門,1923
(注14)『八幡市遺跡地図』,八幡市教育委員会,2005では「円墳か、墳丘削平、かつて石地蔵祠があり、地下深くから主体部出土したとの情報あり」と記述。
(注15)『八幡市遺跡地図』,八幡市教育委員会,2005
(注16)京都文化博物館『京都文化博物館研究報告第13集内里八丁遺跡』,1998
(注17)『鹽澤家藏瓦圖録』,伏見城研究会,2000




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# by y-rekitan | 2018-07-28 08:00 | Comments(0)

◆会報第86号より-06 歴史さんぽ①

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シリーズ「私の歴史さんぽ」・・・①


洞ヶ峠


倉田 美博 (会員)

 リタイヤしてから久しい。健康のために散歩を兼ねて家の近くでウオーキングをすることが日課になった。何も考えず、まわりの景色に四季を感じながら歩くのは楽しい。
私はいつごろから思い出せないが歴史に興味を持っている。現職のころは仕事に、子育てにと、なかなか好きなことに没頭することができなかった。
 一昨年、ひょんなことから「八幡の歴史を探求する会(八幡歴探)」というわが町八幡の歴史をいろいろと勉強されておられるアマチュアの歴史愛好家に出会った。
そのことが私の心に火を灯してくれた。その方の勧めもあり、その会のお仲間に入れいただいた。元々、歴史には興味もあり、その時代、時代に生きた人々の生きざまやロマンにますます引かれていく自分を感じている。

 わが家から数分のところに、あの筒井順慶で有名な洞ヶ峠がある。洞ヶ峠は山城の国と河内の国の国別けの峠。昔の峠は今ではわからなくなっているようだが、現在は国道1号線(通称・枚方バイパス)が走り、重要な幹線道路。f0300125_20314088.jpgその国道と八幡と奈良方面を結ぶ府道(通称・山手幹線)が交わる交差点の南西角に2枚の大きな看板には挟まれて遠慮がちに立っている1本の碑がある。
 表面には《筒井順慶陣所跡》とある。あの日和見主義の代名詞になった『洞ヶ峠の順慶』、『洞ヶ峠を決め込む』の有名な洞ヶ峠の碑。

 史実とはどうも違うようだ。
洞ヶ峠には筒井順慶は出陣していない。明智光秀が、順慶の到来を待つために自ら陣を張ったのだ。
 しかし、順慶は光秀に助勢を乞われたにもかかわらず、郡山城から一歩も動かず、山崎の合戦には参戦していない。
 順慶が大和一国を治められるように助成してもらったのは光秀。光秀には足をむけて寝られないほどの大恩人。当然恩に報いなければならないはず。だが、動かなかった。また、娘婿の細川忠興にも体良く断られた。多くの傘下の武将にも見放された光秀。 
f0300125_20451612.jpg
 光秀が本能寺の変を起こしたのには、歴史の表面には出てこないが、羽柴秀吉、徳川家康たちの何か陰謀、策略があったのではないだろうか、と勘繰りたくなる。
 事件後、秀吉にしろ、家康にしろ、なぜ、あれだけ素早く行動出たのだろうか。
 光秀には自分が動けばみんながついてくるとの判断があったからの行動だったのではないだろうか。しかし、その判断は間違っていた。主人殺しの汚名を着せられてしまった。
主だった武将たちは誰も協力、支持、支援されなかった。
 その時、光秀は何を考え、心中はいかがだっただろう。誰もがうかがい知ることはできないが、さみしかっただろう。おそらくその時点で心の中では敗北していたのではないだろうかと思う。
 推測にしか過ぎないが、信長は新たに勢力下に納めた山陰、山陽を政治家として有能な光秀に目を光らせてもらうために、丹波、丹後から転封させたのではないだろうか。
だが、二人の心の中までは歴史の表面では教えてくれない。
 その人々の表に出てこないことを推測する。それが歴史に駆り立ててくれる私のロマンだ。

 自己保身はいつの時代にも通じる世の習い。
 私も現職のころはそのような世界に生きてきた。
 山あり谷あり、現在でもビジネスの世界で生き抜いて行くためには策略、場合によっては欺くことも必要ではないか。「洞ヶ峠を決め込む」と言うことわざは「日和見だ」、「付和雷同」などとあまり良い意味には使われないが、ひょっとしたら「機転が利いている・時勢を読むのが上手い」という称賛され現在に通じることわざになりうるのではでないだろうか。f0300125_20375427.jpg

 ことわざ「洞ヶ峠・・・」も、もしかしたら冗句好きの秀吉が順慶をからかい半分に言ったとも聞く。
 秀吉が自らを揶揄して言ったのではないだろうか。

 私はそんなロマンに出会いたい。だから、歴史の話からは離れられない。



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# by y-rekitan | 2018-07-28 07:00 | Comments(0)

◆会報第86号より-end

この号の記事は終りです。



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# by y-rekitan | 2018-07-28 01:00 | Comments(0)

◆会報第85号より-top <スクロールだけで全記事が読めます>

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
このまま下にスクロールして頂くと順次連続してご参照頂けます。


◆シリーズ:“心に引き継ぐ風景” ⑯◆
◆《講演会》久世郡上津屋村を探究する◆
◆シリーズ:“八幡の古墳と鏡” ⑨◆
◆八幡の歴史を学ぶ連続学習会」2017年◆



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# by y-rekitan | 2018-05-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第85号より-01 石清水八幡宮碑

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心に引き継ぐ風景・・・⑯

西村芳次郎直筆の「石清水八幡宮碑」
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 八幡宮参拝を終えて東参道からケーブル乗り場へ歩き、展望台に差しかかると、参道鳥居や燈籠と共に『石清水八幡宮碑』が見える。
 知る人ぞ知る、西村芳次郎直筆の「三宅安兵衛遺志碑」で、裏面に「昭和三年十月 京都 依三宅安兵衛遺志建之 西村閑夢書之」の建設過程が銘記されている。「閑夢」とは西村芳次郎の号で、氏の墓石(円福寺・宝篋印塔)にも「閑夢塔」と刻まれている。西村芳次郎は「三宅安兵衛遺志碑」建立に多大な貢献を為し、当時の三井財閥本社三井合名会社顧問で近代数寄者の雄、益田孝(鈍翁)らと共に松花堂昭乗の顕彰や茶会を開くなど八幡の文化・気風を引継ぎ、泰勝寺の創建にも尽力した。
 三宅安兵衛の長男清治郎は写真に見える「参道鳥居」を建立している。一連の「安兵衛遺志碑建碑活動」を終えてから「永楽屋十代、細辻伊兵衛」らと共に建立、清治郎達の名前と「昭和十二年六月建之」の銘記を刻む。 
 八幡市駅近くピンコロ石舗道の『御幸道』を石清水八幡宮一の鳥居に至ると、「石清水八幡宮」の大石碑が目に入る。三宅安兵衛本人が生前に建立した大石碑で、西陣織物業の内藤小四郎らと共に「大正七戌午(1918)年一月建之」とある。
 悠久の歴史に誘う「三宅碑」に安兵衛、清治郎、芳次郎三人の語り草あり。

(文と写真 谷村 勉)空白



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# by y-rekitan | 2018-05-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第85号より-02 上津屋村

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《講演会》
久世郡上津屋村を探究する

2018年4月 
八幡市文化センターにて

田中 淳一郎(京都府立山城郷土資料館)

 
 4月22日(日)当会年次総会を開催し、終了後に「講演と交流の集い」が行われました。「京都府立山城郷土資料館」にお勤めの、田中淳一郎氏に表題のお話をしていただきました。講演は午後2時から、八幡市文化センターで行われ、参加者43名で、講演後の質議応答も多く大変に盛り上がりました。やはり地元の皆さんもお住いの歴史には興味がおありだなと感じました。
田中様のご自身のご講演メモを頂きましたので、以下に掲載させて頂きます。
          
はじめに

 前世紀の終わりころ、城陽市の仕事で城陽市内をあちこちまわっていると、気になることがあった。一つは水主(みずし)地区で、一つは東上津屋(こうづや)地区である。水主は、久世郡だったり綴喜郡だったり、江戸時代以降は綴喜郡で、明治の初めは、学校も田辺に通学していたそうだ。東上津屋は、八幡市の里・浜を本村とする上津屋村の一部であり、村全体が久世郡に属していた。なにか木津川の流れと、綴喜郡と久世郡との境界との間に関係がありそうな気がしてきた。
 水主については、水主と枇杷庄の間、両地区の墓地の中央を郡界が通ること、郡界附近で木津川が決壊することなどから、説明できると思われるが、今日は触れない。
 東上津屋については、川の東側を開発するためにできた出垣内集落であるかのような話しがされていた。が、私は違和感を覚えた。それは木津川のような大河を越えて、田畑の開墾に行くだろうか。大雨や増水、危険も多い。それよりも西側の平野部を拓いたほうがいい、と感じたからだ。
 また、上津屋が一貫して久世郡であるということは、もともと木津川が村の西を流れていたと考えるほうが自然ではないか、と思った。また、木津川と綴喜・久世両郡の郡界についても考えてみなければいけないと思うようになった。

1 久世郡と綴喜郡の郡界について

 久世郡と綴喜郡の郡界については、いまだにはっきりしていない。男山の頂上を通る東西の線が境界であったことは昔から言われているが、どのように伸びていくのかは不明である。種々の資料を探索して、少しずつ見えてきたものがある。f0300125_9222133.jpg
 その一つが条里制である。条里は郡単位で施行されたので、条里をたどると郡界もわかるということである。久世郡条里と綴喜郡条里を検討する。 
 たとえば石清水八幡宮の資料から、本宮は綴喜郡、若宮は久世郡であることがわかる。若宮は今の若宮でいいのか検討の余地があるが、本社は綴喜郡で動かない。
 科手は久世郡、八幡のなかにある家田や常磐も久世郡である。中学校の東にある春日部も久世郡であることがわかっている。
 また、『和名抄』の記載により、「那羅郷」、現在の下奈良・上奈良は久世郡などと決まっていく。かつての郡界は、男山山頂から真東に向い、ほぼ現在の大谷川、防賀川・蜻蛉尻川のライン。したがって、上奈良、下奈良、上津屋、岩田は旧久世郡になると想定される。内里(有智)は綴喜郡である。
 木津川と郡界の関係をみれば、郡界に沿って木津川が流れていた時代があったのではないか。と想定している。ただし、かなり階段状の境界なので、他の説もあるだろう。

2 上津屋・下津屋の位置

 上津屋、下津屋の位置を考えるときに、木津川は外せない。木津川を木津から船で下るときの、船着き場であった。京都に行くときは、鳥羽付近まで船で行くのが普通である。下津屋で下船するときは、西へ向かうときだ。石清水八幡宮やさらに西の有馬温泉とかに行く場合に、下津屋で下船していることが史料からわかっている。上津屋・下津屋あたりが木津川交通上の要所であったのだろう。
 また、八幡の正法寺文書には、室町時代、馬借が上津屋に乱入したということが書かれている。ちょうど山城国一揆が起きた年の文書である。土地を売買した証文が、馬借乱入により紛失したというのだから、土一揆が起きて、借金証文を持ち出したのだろう。上津屋あたりには、馬借と呼ばれる運輸業者や、一揆の対象となる高利貸とかも居たのだろう。上津屋・下津屋は木津川水運と陸路の接点、東西・南北交通の要衝だった。それは、江戸時代のものであるが、浜から木津川に出るところにある道標からうかがえる。宇治、奈良、枚方、八幡といった都市を結節する位置にあったのだ。木津川堤防が街道筋であったことも、この道標からわかる。

3 江戸時代の上津屋村の構造

 さて、今日の本題である江戸時代の上津屋村の構造を考える。
 領主は、幕府領と三条家、大炊御門家である。幕府領が里株と浜株に分かれているので、4領主株になる。株とは領主ごとのまとまりである。f0300125_1718658.jpg
 「方角」と称する里方(里村)、浜方(浜村)、東向(東方)の3つの集落がある。領主と方角との関係は、きれいに別れるわけではなく、それぞれの株にそれぞれの集落の家が含まれていた。また土地も浜方の耕地が川の東にも広くあるなど、きれいに整理されているわけではなかった。
 すこしわかりにくいが、江戸時代の村は、「村請け制」といって何事も村単位で行った。年貢も戸別に納めるのではなく、村でまとめて納めた。たとえばAさんが全部で10石の田畑を持っており、年貢が4割なら4石の米を村に納め、それを庄屋が各株ごとに仕分けして、集め直して納めたのだろう。庄屋の役割が大きかった。かえってわかりにくいかもしれないが、一端、村でまとめて、それぞれの領主に納めるということである。
 庄屋は各領主株ごとに置かれ、村全体に関わることは、諸事合議制で決めたようだ。しかし、里方、浜方からは庄屋が出たが、東向から選ばれることは少なかったようだ。おそらく、集落の成立事情を反映しているのだろう。

4 上津屋村の村落運営をめぐって

 では、具体的に村落運営の在り方をみていこう。
 上津屋には、村の休み日を定めた文書が残っている。一年を円で示したもので、年は循環するという考え方があったのであろうか。f0300125_16121639.jpgこれを見ると、冬場の農閑期を除いて、休日があった。「一、雨悦びの休み、その外の休みとも、三か村同時に致すべき事」(「村中永代用品書留帳」石田神社文書)とあるように、休みは各方角とも同時に取ることが決められていた。
 ところが、「去る午年(天保5年)より船一件にて四株何事に寄らず示談出来せず」と書かれた文書(「要用記」個人蔵)がある。これにより「休日も三か郷思ひ思ひに休日」にするようになった。
 では「船一件」とはどういう問題だったのか。次に渡し船の問題をみていこう。
 上津屋村は、両岸に集落があることから、耕作や寺社参詣など往来のために、渡し船1艘があった。維持費用は村民の頭割りで均等に負担していた。その渡し船の船頭は、浜方の者から3人から4人が選ばれ、細かな勤め方が定められていた。また、村から給米を貰う、あるいは乗客から船賃を貰う、という収入があった。
 天保2年(1831)になり、東向から、船頭のうち一人は東向から出したいと主張した。これは、東から西へ行きたいときの便宜のためという。
 しかし、認められなかったことから、天保5年になると東向の者が渡し船を奪い取り、勝手に運航するという事態になった。浜方もこれに対抗して、取り返すと騒ぎ立て、村中、人気(ひとけ)(殺気)立つ状況となったことから、間に代官所の役人が入り、事態は和談に向う。その中で明らかになってきた論点は、
 
船頭は困窮の者の助成のためのものであること。
里と浜の役人たちは、「古来仕来り通り」と主張すること。
浜方は東向の出銀を立て替えるとまで言って、事を納めようとする、あるいは船頭の権利を譲る気がないこと。
浜方は、東向と不和になれば農業耕作に影響がでると判断していること。
 
などであった。船頭職は、困窮百姓が没落していかないためのセーフティネットだった。領主の関心は百姓が成り立っていくことであり、百姓が減るのは領主の責任であった。将軍から預かっている「御百姓」という考え方があったとされる。
 残念ながら、この一件の結論はわからないのだが、村の構造の特殊性がもたらす課題があったことがうかがえる。船頭職には、船賃という現金収入が伴うことから、新規に参入したいとの動きがでたと思われる。この事件で、四株破談となり、庄屋の合議も行われなくなり、休み日もばらばらとなっていく。
 最後に、破談となる以前の話であるが、木津川の洪水を予防するための杭の分担の例を紹介したい。f0300125_9191654.jpg木津川堤には、洪水予防のために杭が準備されていた。全部で600本用意するにあたり、3方角での分担割合をどのように調整したのか。単純に村高で分ける、人口・家数でわける、堤の長さで分けるなどが考えられる。おそらくひとつの基準で分担すると、不公平が生じると判断したのだろう。石高と堤長と家数という3つの基準を組み合わせて、各方角ごとの分担数を決定したのである。 たとえば堤の長さだけを基準にすると、東向が相対的に多くなる、あるいは家数だけを基準にすると里方が多くなる、ということが起こるので、いくつかの原則を組み合わせて、3方角ができるだけ均等になるような案を考えたと思われる。おそらく4株庄屋の合議が繰り返されたのだろう。
 上津屋村は、中央を木津川が流れるという特異な村落形態をとることから、渡し船で耕作に行くという事態になり、船をめぐる争いが起き、村内不和になる。逆にみると、船頭職を与えることにより、百姓が衰退していくことを止めるセーフティネットとしての役割も果たした。しかし、それが特定の「方角」に限られていることが問題視されるようになる。やはり、村の休日であるとか、堤の杭とかのように、何事も3村が協議して決定していくのが、本来の在り方だったのだろう。
 江戸時代を通した流れでみると、里方や浜方が本村という意識が強く、東向が新しい集落という位置付けで、3「方角」4株の協議ができていたころは、村内も落ち着いていたのだろうが、庄屋の問題、船頭の問題等、東向が対等の権利を主張し始めると、段々と旧来の仕来りではやっていけなくなっていく。それが渡し舟の問題で頂点に達したと思われる。

おわりに

 元来、木津川が村の西を流れていたときに集落(里、浜)が形成されはじめ、その後木津川が村の中央を流れるようになったため、川の東に耕地を多く有する人が移住して東向集落を作ったのではないだろうか。上津屋村は、江戸時代の村落の在り方を考える上で、いろいろなことを考えさせてくれる村である。
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『一口感想』より

木津川を挟み、村人の工夫を凝らした村落形式や組織化が感じられ、大変楽しい興味深い講演会でした。(F・M)
上津屋村の村落運営をめぐって、とても興味深い話が聞けて有意義だった。(F・F)
古文書から読み解く昔の人その生き生きとした暮らしぶりが伺えて、楽しく拝聴致しました。(O・F)
私は現在上津屋里垣内に住んでいますので、大変楽しく聞かせていただきました。(K・M)
上津屋村洪水予防杭の算出方は、随分苦労している様子が分かりました。真剣に一生懸命日々を送っていた様子が偲ばれました。群界線を見て、綴喜郡という名の因が分かった気がします。(J・S)
①川の流れが村落の成り立ちや歴史に影響を与えたことが良く分かりました。
②防水用杭の準備数分割の方法は良く工夫されたことが理解出来ました。(N・H)
八幡の事は知らない事ばかりで、面白く拝聴しました。どの時代も庶民の暮らしがあったという事が分かり、人間の歴史が繰り返されている事が分かり良かったです。(S・S)
大変面白かった!!質問時間あればしたい!!(U・N)
興味深い内容でした。江戸時代の村人の暮らし、村人の知恵、人間関係まで理解できることが出来、楽しい時間でした。有難うございました。(F・T)
3つの集落がどのように障害を乗り越えて一体感を維持してきたか。わかりやすくて説明いただいた。(H・S)
上津屋村のお話、現代の身近に感じること多く興味深い。古文書、古地図等、歴史を読み取れもので大切な文化遺産と感じました(Y・H)
群界のお話にはじまって興味深くお聞きしました。内里が大谷川―蜻蛉尻―防賀川に囲まれて、それが郡界と知り、八幡の古くからの歴史と地理の関連が良く理解出来ました。(B・K)
村の歴史の変遷につき、ユニークな視点から研究されているのは興味がわきました。木津川の流れが変わる事により、寸断されたときの種々の問題が発生、又解決のための苦労が偲ばれました。古文書の分析はコツコツと大変な作業と思いました。(O・S)


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# by y-rekitan | 2018-05-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第85号より-03 古墳と鏡⑨

シリーズ 「八幡の古墳と鏡」・・・⑨


八幡の古墳と鏡(9)

ー横穴墓と鏡ー

濵田 博道 (会員)


はじめに

 八幡市美濃山一帯から京田辺市北西域――狐谷・美濃山・女谷・荒坂・松井・堀切にかけては古くから横穴(墓)の存在が知られていました。1920年(大正9年)発行の『京都府史蹟勝地調査会報告第二冊』「美濃山ノ古墳」の中で、梅原末治氏は「横穴また字荒坂その他高台側の斜面に開口す。」と述べ、末永雅雄氏も「昭和二年(1937)、京都府山城八幡付近の横穴調査の実習に出かけたことがあった。(注1)」と言っています。佐藤虎雄氏は「木津川の宇治川に合するあたり、その内湾に南方より男山八幡へ連互する丘陵およびこの付近には古墳多く、高野街道に沿いても数基を数うべし。また有智郷は和名抄(わみょうしょう)綴喜郡に載せられたる所なるが、この村の西南部美濃山を中心として荒坂、松井にわたり、丘陵竹林には古墳横穴多く存在しこれら既に開発せるもの多く、後人の鍬害を免れたるものは少なし。(注2)」と失われた横穴も多かったことを述べています。古代において、美濃山一帯から京田辺市北西域は文化・風習・生活圏で連続しており、現在の行政地域単位に限定して考えることは適当といえません。そこで、ここでは八幡の横穴を中心にしながらもその範囲に限定しないで考えていきます。

1、府下最大級の横穴群密集地

(1)1990年台から多数の横穴発見・発掘
 大正や昭和の中期にかけて横穴の存在が知られていたとはいえ、1980年台までに発見されていた横穴の数は美濃山から京田辺市にかけてのものを含めて40~50基程度でした。しかし1990年代に入り、京都南道路・第2京阪高速道路建設、2008年からの新名神高速道路整備事業に伴う遺跡発掘調査により、新たに多くの横穴が発見されました。2016年4月23日付けの京都府埋蔵文化財調査研究センター「女谷・荒坂横穴群第14次 現地説明会資料」には次のように書かれています。
f0300125_102337.jpg 「女谷・荒坂横穴群は横穴が途切れることなく造られていることが確認されました。女谷・荒坂横穴群には少なくとも300基程度の横穴が造られていると推定されており、今回の調査ではそれを追認することができました。周辺の松井横穴群などを含めると、八幡市~京田辺市には600~700基の横穴が存在していることが推定され、近畿地方でも最大級の横穴密集地といえるでしょう。」(注3)
 2018年には、大阪府枚方市上野・アゼクラ遺跡・甲斐田川の肩部で横穴墓が3基発見され、さらに「調査区外に延びる斜面にも横穴墓が広がっていたことが推測できる」と報告があり、今まで横穴(墓)が発見されていなかった隣の北河内にも造営されていることが明らかになりました。「このことは北河内の墓制についても根本的に考え直すことを迫る重要な発見」と現地説明会資料(2018年2月、枚方市文化財研究調査会)で述べており、面的にも広がりを見せています。発掘調査の結果、これらの横穴はいずれも6世紀後半から7世紀前半のごく短い期間に造られたものでした。

(2)南山城地域の横穴(墓)集計
 八幡市~京田辺市にかけての横穴の数について、わかる範囲で集計しました。
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 このように横穴はこれまでみてきた首長墓としての古墳とは明らかに様相が違います。首長墓としての古墳は、首長一人のためにとてつもない時間と労力をかけて一つの墳墓を築造し、豪華な品を副葬します。一方、横穴は土を盛って墳丘を造るのではなく(全国の横穴の中には墳丘のある横穴もありますが)、丘の斜面などに横に穴を掘り、一基ではなく群をなして造るのです。ですから横穴は首長墓とはいえません。

〇横穴墓は古墳か?
 そこで気になるのは、横穴墓は古墳か?という問題です。大塚初重氏の『古墳に秘められた古代史の謎』(宝島社,2014)によると「『古墳』の考古学的定義は研究者により異なり、明確にひとつに決められるものではない。『墳』の字は『墳丘』を表し、盛り土をした塚をもつ墓のことを指す。それが古代のものであるから『古墳』で、同様の形状のものでも時代が違えば古墳とは呼ばれない。また、その内部に棺をもち、一般人ではないある程度の権力者を葬るためのものであることも、ひとつの古墳の条件である。つまり、古墳とは、『いわゆる古墳時代、3世紀半ばから7世紀にかけて造られた、墳丘を有する権力者の墓である』」とされています。しかし一方、永原慶二監修『日本史辞典』(岩波書店,1999)で「横穴(よこあな)」を引いてみると「古墳の埋葬施設の一種。」とあります。岩松保氏は「横穴=墳丘の無い古墳」と述べています(注4)。ここでは古墳の仲間に入れて話を進めていきます。
 八幡市で発見されている横穴は現在130基を超えています。他に(墳丘をもつ)古墳は30基近くあります。八幡市の古墳は地図に載っていないことが多いですが、たくさんあったといえます。

2、横穴墓の副葬品

 6世紀前半から始まる後期古墳の副葬品について、森浩一氏は次のように述べています。f0300125_10221279.jpgf0300125_10223880.jpg「後期の視覚的な特色としては、群集墳形態をとる古墳群の出現、家形石棺や箱形木棺を蔵する横穴式石室の普及、さらに古墳の副葬品として須恵器(注5)・馬具・金銀の装身具、とりわけ耳飾が普通に見られるようになったことなどがあげられる。(注6)」
 6世紀後半の八幡市・京田辺市の横穴群の副葬品はというと、須恵器・土師器(注7)・刀子(とうす)・鉄製品・耳飾・瓦器・ガラス玉などが出土しています。中でも多いのは須恵器です。その中でも杯、杯蓋(はいがい)、高杯(有蓋・無蓋)(蓋は「ふた」のこと)、壺、甕(かめ)などが多いです。しかし現在発掘された横穴の数は200基を超えますし、横穴は群により副葬品の特徴が変わります。
 また同じ群中の横穴でも立派な副葬品のある横穴もあれば、ほとんど何もない横穴もあり、かなりの差があります。ですから、横穴の副葬品をまとめて論じ難いです。ここではすでに発表された報告の中から副葬品として注目すべきものを2,3紹介したいと思います。

(1)埴輪の出土
 女谷B支群9号墓からは朝顔形埴輪、荒坂B支群5号墓からは円筒埴輪が出土しています。中でも後者の円筒埴輪は東海系埴輪(普通の茶褐色の円筒埴輪とは違い、色は灰色で、ろくろを使い倒立技法でつくる。)とされるもので、この地域と東海地方との関わりのあったことを示しています。(八幡市・ふるさと学習館にその円筒埴輪が展示されています。)東海地方といえば、6世紀前半の継体天皇の妃・目子媛(めのこひめ)の出身地です。継体天皇は507年に樟葉宮で即位し、その後筒城宮・乙訓宮へと遷りますから、南山城に東海地域と関係のある人々がいて円筒埴輪を作ったと考えても不思議ではありません。京田辺市の堀切古墳群7号墳(円墳)から東海系円筒埴輪が(と共に刺青文様をもつ人物埴輪も)出土しています。2埴輪とも淀川水系における東海系埴輪の使用例として注目される資料です。

(2)石棺の出土
 荒坂A支群34号横穴から組合せ式石棺が出土しています(2000年)。「石棺は蓋石及び底石が3石ずつ、小口と側石は2石ずつの計10石で構成されており、初葬時の副葬遺物が埋没したのちに横穴内に運び込まれ、据置かれたと考えられる。内法が小さく、伸展での埋葬が困難であると考えられることから、改装骨を納めた可能性が高い。(二上山石で)本来とは異なった位置で使用され、石材に施された刳り込み、切り欠きなどは整合していないことから、他からの転用をうかがわせる資料である。(注8)」とのことです。また、京田辺市・堀切6号横穴からも竜山石の凝灰岩製組合式家形石棺が出土し、棺内から改葬人骨1体(壮年前半の女性)と金環1対、刀子などが出土しています。

(3)鏡の出土
 2009年(平成21年)の女谷・荒坂横穴群の発掘調査で、D支群4号横穴から鏡(以下、女谷鏡と呼ぶ。)が1枚出土しています。

3、瑞雲双鸞八花鏡(ずいうんそうらんはっかきょう)とは

 鏡の名は瑞雲双鸞八花鏡といいます。唐式鏡(とうしききょう)です。瑞雲というのは鏡の中央上部に描かれた吉祥を表す雲で、双鸞というのは左右に彫られた二羽の鳥(鳳凰か?)です。唐式鏡とは唐の様式の鏡のことですが、直接、中国の唐(618~907)から日本に輸入された唐鏡、それを原型として日本で鋳造した鏡[踏み返し鏡、同型鏡]、唐鏡を模して日本で作った鏡など、日本で確認される唐鏡と同じ型式の鏡すべてを含んでいいます。
f0300125_119280.jpg
 唐式鏡には瑞雲双鸞八花鏡をはじめ螺鈿(らでん)鏡、七宝(しっぽう)鏡などいろいろな種類の鏡があります。多様性に富んでおり、鏡の平面形・文様・装飾技法のどれをとっても、他の時期に見られない種類が複雑に組み合わさっているといいます(注9)。鏡の形は円鏡を一般的としながらも、花鏡・稜鏡・方鏡があります。女谷鏡は花鏡です。外周に8の円弧を連ねた花形の鏡なので八花鏡です。このような奈良・平安時代の鏡には、弥生時代の内行花文鏡や方格規矩鏡のような幾何学的な文様や、古墳時代の三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡のような神獣を中心とした文様は見られません。替わって写実的で絵画的な文様が主流となっています。古墳時代が終わり遣唐使や渡来人により国際性豊かな文化が花開き、寺院が多く建てられた時代の鏡です。

(1)瑞雲双鸞八花鏡の分布とその出土地
 瑞雲双鸞八花鏡は全国で20枚確認され、その分布範囲は、東は千葉県香取市の香取神宮から、西は宮崎県の本庄古墳群まで広く分布しています。出土・伝世地点は全部で13。不明になったり焼失したりして実際に現物が確認できるのは14枚です(注10)。興味深いのは出土地・伝世地が古墳(宮崎県本庄古墳群・長野県大久保2号墳・兵庫県湯舟口金谷1号墳・女谷横穴)・寺(跡)(奈良県霊山寺2枚・奈良県坂田寺・京都府周山廃寺2枚・三宝院)・神社(宮崎県神門(みかど)神社3枚・千葉県香取神宮・三重県山の神跡)・都城(平城京)など多様であることです。寺を造る時の鎮壇具(堂塔伽藍の地下に埋納した七宝・武具・器の類。)として使用された場合もあるし、神社の宝物・ご神体として伝世している場合もあります。平城京では大路の側溝から、近江神宮が所蔵している鏡は南滋賀(近江の都近く)から出土しています。538年『記』(552年『紀』)に公伝した仏教は6世紀後半に政権に受容され、7世紀中ごろから寺院が全国に建立されていきます。神社も自然そのものを祀ることから神社建築へと変化し、鏡もご神体になったりします。

(2)女谷鏡の謎
 女谷鏡は横穴の再利用時の埋葬面から出土しています。現存する瑞雲双鸞八花鏡の中でも、面径が小さいので唐から輸入された鏡を日本で踏み返して作られた同型鏡と考えられています。(踏み返して作られた鏡は元の鏡より少しだけ縮小します。)原型と考えられる鏡や美濃山廃寺跡の溶解炉からの銅塊との元素比成分も分析されましたが、結局この鏡がどの鏡を原型として、どこで作られたか、どういう経路をたどってきたのかなど、よくわかっていません。

4、群集墳・横穴墓について

 先述の枚方市の資料に「横穴墓は、群集墳の1つの形式とも考えられる墓制」とあります。群集墳とは「多数の小型の古墳が密集群在しているもの」(『広辞苑』)ですが、小円墳、方墳、前方後円墳、横穴など多様な形態があります。墳丘があり、かつ横穴式石室を有している円墳・方墳群もあれば、そうでない横穴群もあるので複雑です。横穴(墓)については辞典で次のように説明されています。

(1)横穴墓とは
 「凝灰岩や砂岩質の比較的軟質の岩石で形成されている丘陵や台地の斜面を利用して掘り込まれた横穴の墓で、古墳時代後期に盛行した。おうけつぼともいう。また横穴古墳・横穴墳・横穴など研究者によって種々の用語が使用される。横穴墓は構造上、墳丘を有しないことが、同時代に存在した高塚古墳との最大の相違点である。しかし、その内部構造は、高塚古墳に採用された横穴式石室と類似し、玄室(げんしつ)・羨道(せんどう)をもち、前庭部を付設する例も多くみられる。玄室は、正方形・長方形・隅丸方形・徳利型などの平面形を呈し、天井はドーム形や家形のものなどがある。床面には遺体を安置するつくりつけの棺代や棺床を設けたり、敷石や排水溝をもつものもある。」(注11)
横穴は階層的には横穴式石室をもつ古墳の下位に位置づけられることが一般的です。しかし、内部構造や形態が地域の特質を反映していること、全国的に分布していることなど、横穴式石室の古墳とほぼ共通しています。また地域によっては、首長墓クラスに匹敵する副葬品をもつ横穴の例も確認されています。

(2)横穴墓の歴史
 横穴墓の歴史を全国的にみると
そのはじまりとして、北部九州で5世紀後半に展開した初期横穴式石室または南九州に展開する地下式横穴から派生した墓室が考えられ、
6世紀に入ると横穴は本州各地に広まり定着し、(ただし、四国、山陽などには認められず、分布に偏りが認められる点が大きな特徴)
6世紀後半代に(王権により)制度的に採用され(広く分布)、
7世紀前半代に変容し(特定の副葬品に集中、東日本への広がりなど)、
7世紀後半代以降の変質(家族の成員まで葬る)へと続く、
  
とされています(注12)。
 八幡地域の横穴は③の時期に造られ、④の時期に終焉しています。

(3)前方後円墳の終焉と横穴墓
 横穴墓が造られはじめるには中央政権の明確な意図があります。次のように解説されています。「(畿内などでは6世紀の末ころ、それ以外の地域でも7世紀初頭になると)前方後円墳の造営が一斉に停止される。この前方後円墳の終焉は日本列島の各地でほぼ時を同じくしており、中央政権による強力な規制の結果と考えるほかない。それは明らかに推古朝の早い段階の出来事であり、当時の為政者が3世紀以来の古い首長連合体制を象徴する前方後円墳と決別し、中央集権的な新しい政治体制を目指したことを何よりも明白に物語るものであろう。(注13)」6世紀後半から7世紀前半に築造される大王墓は方墳や円墳です。用明(~587)陵[方墳]・推古(554~628)陵[長方墳]・聖徳太子(578~622)墓[円墳]です。墳はいずれも一辺(または直径)が50m以上、高さも10mを超えるものもあります。石室は巨石積み横穴式石室です。このことは、大王を中心としたグループがこれまでの前方後円墳に代わる大型の方墳や円墳をつくりだしたことを示しています(注14)。これを主導したのが蘇我氏だといわれており、蘇我氏の墓も石舞台古墳などにみられるように方墳です。このように前方後円墳の造営は規制され、方墳や円墳の大王墓以外で群集墳や横穴墓が広がっていきます。

5、横穴墓の被葬者像

 1970年代半ば頃から次の観点で横穴墓の被葬者像の研究が進められてきました。
地域に即した特定の職掌を担う集団の想定(例、大阪府高井田横穴墓群・部民)
特徴的な遺物研究よりの想定(横穴に副葬された装飾付き大刀などから考察)
いわゆる群集墳としての位置づけ(爆発的に古墳が形成されてくるのは何らかの政治的要因とみる)
特定氏族との関連想定(南山城においては隼人との関連など)
 南山城では「大住」という地域があり、「大住」は南九州の大隅に由来し、『正倉院文書』山城国隼人計帳、『和妙類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』「大住郷」の記述、荒坂横穴と南九州の地下式横穴との類似性(『八幡市誌』)などから、南山城に移住させられた隼人が故地の墓制を踏襲して横穴を造ったのではないかと言われてきました。しかし最近の発掘調査で横穴は九州の地下式のものでないことが判明し、また隼人は畿内の要衝のあちこちに移配されているのに南山城だけ横穴を造ったのはどうしたことか、隼人の墓にしては横穴の数が多すぎる、という疑問もおこり、被葬者像の再検討がされてきました。
 その結果、横穴の被葬者像について岩松保氏は次のように述べています。“〔一般的に言えば〕中央〔ヤマト王権〕が直接的地方を支配していく過程で、造墓を認めたのが横穴で、具体的には、屯倉(みやけ)〔=ヤマト政権の直轄領・倉・官家〕に関連する集団が想定できる。また、中央から派遣された、もしくは地方にあって任命された初期官人層や武人もまた、横穴の被葬者像と重なってくる。中央政権の意向の下に移配された集団も、何らかの役割を期待されている場合には、横穴を造ることを認められたであろう。横穴のある地域は、中央政権とのつながりが強い地域ということができる。〔南山城についていえば〕なぜ南山城地域に横穴が造られたか。それは南山城地域に隼人が移住させられたという契機がもっとも確からしく、隼人を中央政府が直接的に支配する必要があったがゆえに、墳丘のない古墳=横穴を造ることを承認したと考えられる。(注4)”(要約、〔 〕内は濵田)と。また、地域を束ねた農業に従事していた有力者の墓という説もあります。京都府埋蔵文化財調査研究センターで話を伺うと、八幡・京田辺市の横穴の被葬者は木津川左岸地域だけでなく、南山城のより広い範囲の有力な人々が埋葬された可能性があるとのことです。内里八丁遺跡出土の土師器椀と狐谷横穴出土の椀との類似性(注15)、八幡~京田辺市にまたがる新田遺跡から古墳時代後期~飛鳥時代の多くの建物跡発見(注16)によりこれらの集落と横穴の被葬者との関連が考えられています。
 次回は「埋没古墳と埴輪について」考えてみます。

(注1)『末永雅雄著作集5 遺跡調査と大和・河内』,雄山閣,1990
(注2)佐藤虎雄「美濃山の横穴」『京都府史蹟名勝天然物調査報告第十冊』,1983
(注3)女谷・荒坂横穴群、松井横穴群の発掘については、会報35号・59号の野間口秀國氏の報告を参照してください。
(注4)岩松保「南山城地域の横穴と隼人、その被葬者像を巡って」『南山城地域における文化的景観の形成過程と保全に関する研究』,京都府立大学,2007
(注5)古墳時代中期から平安時代にかけて作られた灰色の土器で1200°C前後の高温で焼成。
(注6)森浩一「群集墳と古墳の終末」『岩波講座日本歴史2古代2』,岩波書店,1975
(注7)古墳時代から平安時代にかけて用いられた素焼の赤褐色の土器。模様は少ない。
(注8)京都府埋蔵文化財調査研究センター『京都府遺跡調査報告集第157冊』,2014
(注9)監修文化庁等「日本の美術393古代の鏡」,至文堂,1999
(注10)京都府埋蔵文化財調査研究センター『京都府埋蔵文化財情報第124号』,2014
(注11)大塚初重・戸沢允則『最新日本考古学用語辞典』,柏書房,1996
(注12)池上悟「横穴墓の被葬者と性格論」『論争・学説日本の考古学5古墳時代』,雄山閣,1988
(注13)白石太一郎『ふたつの飛鳥の終末期古墳 河内飛鳥と大和飛鳥』図録,近つ飛鳥博物館,2010
(注14)『日本全史ジャパン・クロニック』,講談社,1991
(注15)京都文化博物館『京都文化博物館研究報告第13集内里八丁遺跡』,1998
(注16)京田辺市教育委員会『京田辺市埋蔵文化財調査報告書第37集堀切古墳群調査報告書Ⅲ』,2010


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# by y-rekitan | 2018-05-28 10:00 | Comments(1)

◆会報第85号より-04 連続学習会

「八幡の歴史を学ぶ連続学習会」
2017年度実施報告

野間口 秀國 (八幡の歴史を探究する会 幹事)


 2017年5月15日発行の会報第79号にて “八幡の歴史を学ぶ連続学習会」2016年度実施報告” と題し、初回から第6回までの活動結果を報告させていただいてから早くも1年近くが経過いたしましたが、ここにその後1年間(第7回から第12回)の活動結果報告が出来ることを嬉しく思います。報告に併せて紙面をお借りいたして、都度の学習会に参加いただきました皆様方、および運営に協力いただきました皆様方にありがたく感謝申し上げます。

 さて、2017年度の活動の着手時を今少し振り返ってみたいと思います。2016年度の活動予定の半分を経過した一昨年の秋ごろ、月例の幹事会にて「連続学習会をこのまま1年で終えることはもったいない」との意見があがり、引き続きの幹事会における協議の結果、2017年度も継続することが確認されました。学習会のテキストとして活用いたしております。『歴史たんけん八幡』には、2016年度の学習会にて取り上げられていない章やコラム“なるほど” なども多く残されており、それらの中から連続学習会の推進担当メンバーにて2017年度に取り上げる項目および各回の担当者選定に着手し、新年度推進計画案をまとめました。

 連続学習会の推進は、偶数月に実施しております外部より講師をお招きしての「講演と交流の集い」や「現地見学会」などの進め方とは異なり、当初より会員自身が各開催回の分担を担当する進め方を採用いたしました。開催回毎のテーマによっては、担当者が必ずしも前述のテキストの執筆者では無いことが生じますが、そのことによって担当者自身が改めて担当項目を学ぶ機会にもなっていることです。また、学習会の名前の通り、会の最後には参加された方々と担当者間での質疑応答の時間を設けて、お互いにテーマに対する更なる理解が深められることに留まらず、新たな情報や知識も共有できる学習会になっているのではないかと考えております。また、都度の開催の最後に、参加者の皆様に「一口感想」をいただくようにお願いいたしておりますが、頂戴いたしました感想の中に “少なからずお役立ち出来ている” ことを感じることのできる文言に触れると学習会開催の意義を再認識できるようです。以下に、その一例を挙げさせていただきたいと思いますが、そこには 「ふるさと学習館でふるさとを学ぶ事は幸せであります。レベルの高い歴史の事実から身近に感じる歴史まで大いに興味が持てます。来年度もよろしく楽しい課題を期待しております」と書かれてありました。

 下表が2017年度の活動実績(第7回~第12回)であり、去る3月15日に無事に当初計画の全日程を終えることができました(担当者名は敬称を略します)。
f0300125_10205825.jpg
 2017年度開催の全6回の学習会に参加いただきました方々の延べ人数は223を数え、それぞれの回ごとの参加者数の増減はあるものの平均で37名との結果となりました。f0300125_9372530.jpg2017年度も当初の思いは一定程度果たせたのではないかと考えております。とは言え、前述の参加者の感想のように嬉しい言葉もございます反面、ご提出いただきましたご感想の中には、まだまだ改善すべきこともございました。そのようなお言葉には真摯に耳を傾けて、今後の運営の中で都度の担当者とも話し合いながら可能なことは一つずつでも改善して行きたいと思います。

 最後に、この活動の推進全般に対しましては八幡市教育委員会の後援をいただき、また都度の開催におきましては文化財保護課のご協力をいただきましたことを記し、紙面よりありがたく感謝申し上げます。全6回(前年度含めると全12回)の学習会に参加いただきました方々はもとより、ご都合で1回のみの参加に留まられた方まで、これまでに参加いただきました全ての皆様に改めてお礼を申し上げます。この報告が掲載される会報がお手許に届きます日時には、既に2018年度の活動も開始されておりますが、別途ご案内の2018年度の活動にも変わらぬご支援をお願いいたし、2017年度の実施報告とさせていただきます。 (2018.4.8)
# by y-rekitan | 2018-05-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第85号より-end

この号の記事は終りです。


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# by y-rekitan | 2018-05-28 01:00 | Comments(0)