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◆八幡の歴史を探究する会

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 本会では、2010年より京都府八幡の歴史についての探究と共有を目指して、講演会や歴探ウォークの開催、会報の発行等の活動を積極的に続けています。

“『石清水八まん宮道』に誘う道標群” の増補版は第2刷で販売中です!


9/14 新掲示板に投稿が1件、9/1 アクセスtop3を更新、 8/24 新しい集いの案内が1件 、 7/24 新しい会報記事が6件 追加されています。

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お急ぎの方は 最新の 《会報記事集いの案内》 に直行 できます。
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本会では定期的に会報を発行し現在 92号 を数えていますが、このサイトには
そこから 439件 の記事を掲載しております。

f0300125_5222084.jpgf0300125_5232017.jpg"8月度の記事別アクセス数 TOP3"
第54号:八幡森の石仏と地蔵盆
第37号:南山城の地域史を学んで
第44号:八幡の歴史と土器
8月度の人気タグ top3⇒  遺跡・古墳  古道  石清水八幡宮


なお個々の記事には以下の四つのルートから簡便にアクセスして頂けます。f0300125_20584995.jpgf0300125_20591768.jpgf0300125_20594243.jpgf0300125_210420.jpg

7/24 以下の朱書き部の連載や個別記事を追加掲載しました。
(前回更新日は 5/27)

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会報号番をクリックして頂くと、後はスクロールのみでその号の記事を一気にお読みいただけます。
なお朱書きが追加された号を示しております。

ブログ管理会社のシステム変更の影響で、現在以下をクリックすると、各号報のトップではなく記事一覧が出ます。お手数ですが その一覧ではクリックせず、そのまま下にスクロールしてご参照ください。
(各号のトップやエンドから前後の号報に移る場合も同じです)

《お知らせ》 第73号より会報は奇数月の隔月発行となっています。

2019年07月 第92号     2019年05月 第91号
2019年03月 第90号     2019年01月 第89号
2018年11月 第88号     2018年09月 第87号
2018年07月 第86号     2018年05月 第85号
2018年03月 第84号     2018年01月 第83号
2017年11月 第82号     2017年09月 第81号

2017年07月 第80号     2017年05月 第79号
2017年03月 第78号     2017年01月 第77号
2016年11月 第76号     2016年09月 第75号
2016年07月 第74号     2016年05月 第73号
2016年03月 第72号     2016年02月 第71号

2016年01月 第70号     2015年12月 第69号
2015年11月 第68号     2015年10月 第67号
2015年09月 第66号     2015年08月 第65号
2015年07月 第64号     2015年06月 第63号
2015年05月 第62号     2015年04月 第61号

2015年03月 第60号     2015年02月 第59号
2015年01月 第58号     2014年12月 第57号
2014年11月 第56号     2014年10月 第55号
2014年09月 第54号     2014年08月 第53号
2014年07月 第52号     2014年06月 第51号

2014年05月 第50号     2014年04月 第49号
2014年03月 第48号     2014年02月 第47号
2014年01月 第46号     2013年12月 第45号
2013年11月 第44号     2013年10月 第43号
2013年09月 第42号     2013年08月 第41号

2013年07月 第40号     2013年06月 第39号
2013年05月 第38号     2013年04月 第37号
2013年03月 第36号     2013年02月 第35号
2013年01月 第34号     2012年12月 第33号
2012年11月 第32号     2012年10月 第31号

2012年09月 第30号     2012年08月 第29号
2012年07月 第28号     2012年06月 第27号
2012年05月 第26号     2012年04月 第25号
2012年03月 第24号     2012年02月 第23号
2012年01月 第22号     2011年12月 第21号

2011年11月 第20号     2011年10月 第19号
2011年09月 第18号     2011年08月 第17号
2011年07月 第16号     2011年06月 第15号
2011年05月 第14号     2011年04月 第13号
2011年03月 第12号     2011年02月 第11号

2011年01月 第10号     2010年12月 第09号
2010年11月 第08号     2010年10月 第07号
2010年09月 第06号     2010年08月 第05号
2010年07月 第04号     2010年06月 第03号
2010年05月 第02号     2010年04月 第01号

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連載企画の記事はこちらから直接初回記事に入り、以降は文末でクリックすることで
連続参照して頂けます。 今回の号では朱書きの連載記事が追加 されています。


《連載》 “御本社道を探る” (第90号~第92号 完
《連載》 “綿祔開(めんぷひらく)” (第89号~第90号)
《連載》 “柏村直條と鵬沢家家老の藪田重守” (第89号~第90号)
《連載》 “私の歴史さんぽ” (第86号~継続中
《連載》 “四條隆資卿物語” (第79号~第91号)
《連載》 “八幡の古墳と鏡” (第77号~第88号)
《連載》 “八幡に見る古代植物” (第74号~第77号)
《連載》 “詩歌に彩られた八幡の歴史” (第73号~第77号)
《連載》 “宮廷と歌合、そして石清水宮寺” (第71号~第72号)
《連載》 “心に引き継ぐ風景” (第70号~継続中
《連載》 “五輪塔あれこれ” (第70号~第79号)
《連載》 “『三宅安兵衛遺志』碑と八幡の歴史創出” (第70号~継続中
《連載》 “八幡の道を「高野街道」となぜ呼ぶのか?” (第67号~71号
《連載》 “松花堂昭乗が詠んだ八幡の町"  (第63号~第68号)
《連載》 “川の旅日記"  (第62号~第64号)
《連載》 “八 幡 八 景”  (第58号~第60号)
《連載》 “『歴史たんけん八幡』の発行"  (第56号~第68号)
《連載》 “御園神社考”  (第55号~第58号)
《連載》 “古代の声を聞く ”  (第53号~第54号)
《連載》 “自転車で巡る名所案内 ”  (第52号~第56号)
《連載》 “ 物語はどのように生まれたか ”  (第51号~第56号)
《連載》 “ 石清水八幡宮の歴史Q&A ”  (第50号~第57号)
《連載》 “ 伊佐家のしきたりとくらし ”  (第48号~第51号)
《連載》 “ 謡曲のふるさと八幡 ”  (第41号~第43号)
《連載》 “ 大谷川散策余話 ”  (第38号~第50号)
《連載》 “ 御文庫とエジソン碑 ”  (第36号~第45号)
《連載》 “ 墓石をたどる ”  (第33号~継続中)
《連載》 “ 八幡の歴史スポット ”  (第30号~第32号)
《連載》 “わが心の風景 ” (第28号~第69号)
《連載》 “八幡太鼓祭り ”  (第28号~第29号)
《連載》 “八幡に残る昔話と伝承 ”  (第26号~第30号)
《連載》 “ 八幡文学碑巡り ”  (第22号~第26号)
《連載》 “八幡神と神仏習合 ”  (第21号~第25号)
《連載》 “ 一枚の写真から ”  (第16号~第19号)
《連載》 “ 八幡の歴史の謎とは何か”  (第15号~第16号)
《連載》 “古歌に詠まれた南城山”  (第11号~第15号)
《連載》 “八幡の祭りについて”  (第5号~第17号)
《連載》 “八幡の歴史を彩る文化”  (第4号~第9号)
・・・
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現在掲載しているスポット記事は以下の通りです。クリックで直接お読み頂けます。

“美味しいトマト" (第92号)
“本会発行冊子の道標記事が「学術データベース」に掲載されました" (第92号)
“「八幡の歴史を学ぶ連続学習会」2018年度実施報告 " (第91号)
“お亀の方について" (第88号)
“「太西坊」碑発見と「西遊寺」の三宅碑" (第88号)
“狩尾神社のお祭り" (第88号)
“増補版「『石清水八まん宮道』に誘う道標群」" (第88号)
“八幡市民文化祭での展示発表" (第88号)
“他国の猪鼻坂はどこに" (第87号)
“天正の大地震" (第87号)
“江戸時代の「八幡宮道」道標の設置" (第86号)
“八幡の歴史を学ぶ連続学習会」2017年 " (第85号)
“八幡市誌の高野街道 " (第84号)
“台場跡講座から学んだこと " (第84号)
“石清水八幡宮と松本神社の絵馬 " (第83号)
“勅祭・石清水祭に学ぶ " (第82号)
“第45回八幡市民文化祭展示発表報告 " (第82号)
“高良神社の太鼓祭りを楽しむ " (第81号)
“「石清水八まん宮道」に悠久の歴史がある " (第81号)
“「『石清水八まん宮』に誘う道標群」の発刊にむけて " (第81号)

これより古い号の個別記事インデックスはこちらに

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◆八幡のおすすめキーワードで関連記事を◆
この画面の右上の “タグ” 欄のおすすめキーワードをクリックして頂くと、ブログ内の
関連記事をまとめてご参照頂けます。
最初に記事一覧が出ますが、そこではクリックせずスクロールでお読みください。
なおタグ記事閲覧後に元に戻る場合は、一旦上端までスクロールし画面左上隅の
“Y-rekitan八幡”の文字をクリックしてください。

任意のキーワードで記事を検索
右上の “検索ボックス” に八幡に関わる任意のキーワードをセットして頂きますと、
このブログに収納している関連記事の一覧が出ます。合わせてご利用ください。



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# by y-rekitan | 2020-12-31 20:00 | Comments(0)

◆コーナー・講演会の記録

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「八幡の歴史を探究する会」では、定期的に講演会や歴探ウォーキングの集いを実施していますが、このコーナーでは、その講演会のレポートを紹介しております。

 7/24 朱書きの記事を追加掲載しました。 現在の記事数は 66件です。 

下記の任意の記事をクリックして頂くと、それ以降は記事下端で“次のレポート”をクリックして頂くことで連続参照して頂けます。 

  《講演会録》 91号 2019年04月 南山城の横穴墓と被葬者像を巡って(前編)
  《講演会録》 92号 2019年04月 南山城の横穴墓と被葬者像を巡って(後編)
  《講演会録》 90号 2019年02月 下向する昭乗
  《講演会録》 88号 2018年10月 馬場遺跡の発掘調査を終えて
  《講演会録》 87号 2018年08月 石清水八幡宮の印章
  《講演会録》 85号 2018年04月 久世郡上津屋村を探究する

  《講演会録》 84号 2018年02月 八幡の道の歴史―江戸時代の道標調査を終えて
  《講演会録》 82号 2017年10月 森本家文書からみた近世石清水の神人構成と身分
  《講演会録》 81号 2017年08月 石清水八幡宮の牛玉宝印
  《講演会録》 79号 2017年04月 三川合流の変遷と周辺都市
  《講演会録》 78号 2017年02月 謡曲から見た八幡
  《講演会録》 76号 2016年10月 八幡の古代遺跡と道
  《講演会録》 75号 2016年08月 石清水八幡宮の成立と機能
  《講演会録》 73号 2016年05月 石清水八幡宮の由緒と建築様式
  《講演会録》 71号 2016年02月 中世都市 八幡
  《講演会録》 70号 2016年01月 『三宅安兵衛遺志』碑と八幡の歴史創出

  《講演会録》 68号 2015年11月 継体大王の謎を追う
  《講演会録》 67号 2015年10月 弥生時代の八幡市とその周辺
  《講演会録》 66号 2015年09月 江戸時代の村の暮らし
  《講演会録》 63号 2015年06月 酒麹作りがビジネスの八幡神人がなぜ奉納詩歌に
  《講演会録》 62号 2015年05月 知っているようで知らない松花堂昭乗のこと
  《講演会録》 61号 2015年04月 幕末政治と攘夷―長州・京都・八幡
  《講演会録》 59号 2015年02月 二宮忠八と八幡
  《講演会録》 58号 2015年01月 史跡 松花堂庭園の成立
  《講演会録》 57号 2014年12月 中村家住宅の国登録有形文化財指定
  《講演会録》 56号 2014年11月 中世大山崎の商業活動について

  《講演会録》 55号 2014年10月 「安居頭諸事覚」を読む
  《講演会録》 54号 2014年09月 地誌に見る八幡
  《講演会録》 54号 2014年08月 神国論の系譜
  《講演会録》 51号 2014年06月 八幡を掘る
  《講演会録》 50号 2014年05月 門前町の八幡「今」「昔」
  《講演会録》 49号 2014年04月 石清水八幡宮の年中行事と庶民信仰
  《講演会録》 47号 2014年02月 松花堂昭乗の茶の湯
  《講演会録》 46号 2014年01月 歌人吉井勇の歌行脚
  《講演会録》 44号 2013年11月 八幡の歴史と土器
  《講演会録》 43号 2013年10月 八幡における浄土信仰

  《講演会録》 42号 2013年09月 江戸時代の村の暮らし
  《講演会録》 41号 2013年08月 武家政権と石清水八幡宮
  《講演会録》 39号 2013年06月 八幡社士総代「江戸尾張年頭御礼日記」
  《講演会録》 38号 2013年05月 天下人の時代と八幡
  《講演会録》 37号 2013年04月 南山城の地域史を学んで
  《講演会録》 35号 2013年02月 松花堂昭乗の江戸下向
  《講演会録》 34号 2013年01月 八幡・山崎の警備体制と鳥羽伏見
  《講演会録》 32号 2012年11月 松花堂昭乗と近世前期の文芸
  《例会報告》 30号 2012年09月 「八幡歴史カルタ」読み札の決定
  《講演会録》 29号 2012年08月 石清水際と神人の経済活動

  《講演会録》 28号 2012年07月 良いまちには良い川がある
  《講演会録》 27号 2012年06月 八幡の町の成り立ち
  《講演会録》 26号 2012年05月 庶民信仰と八幡大菩薩
  《講演会録》 25号 2012年04月 男山文化園の中心・八幡
  《講演会録》 23号 2012年02月 古代の八幡を探る
  《講演会録》 21号 2011年12月 高度経済成長期の八幡を語る
  《講演会録》 20号 2011年11月 八幡八景の成立とその背景
  《例会報告》 19号 2011年10月 八幡の歴史を次代に遺そう!
  《講演会録》 18号 2011年09月 墓地で探る八幡の歴史(1)
  《講演会録》 18号 2011年09月 墓地で探る八幡の歴史(2)

  《講演会録》 16号 2011年07月 地名で学ぶ八幡の歴史
  《講演会録》 14号 2011年05月 中世都市橋本を学ぶ
  《講演会録》 13号 2011年04月 八幡の古墳とその特徴を学ぶ!
  《講演会録》 12号 2011年03月 神仏習合の実像に迫る
  《講演会録》 11号 2011年02月 近代の門前町と参詣路を語り合う
  《講演会録》 10号 2011年01月 南北朝の争乱と八幡
  《講演会録》 08号 2010年11月 淀屋の歴史をたどる!
  《講演会録》 06号 2010年09月 石清水八幡宮の絵図を読み解く!
  《講演会録》 04号 2010年07月 松花堂昭乗の出自を追う!
  《講演会録》 02号 2010年05月 古代の遺跡から八幡の歴史を学ぶ

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# by y-rekitan | 2020-12-31 18:00 | Comments(0)

◆コーナー・歴探ウォークの記録

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「八幡の歴史を探究する会」では、定期的に講演会や歴探ウォーキングの集いを実施していますが、このコーナーでは、その歴探ウォークのレポートを紹介しております。

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 7/24 朱書き記事を追加掲載しました。 現在の記事数は 23件です。 

下記の任意の記事をクリックして頂くと、それ以降は記事下端で“次のレポート”をクリックして頂くことで連続参照して頂けます。

  《歴探散策》 92号 2019年06月 平城宮跡歴史公園巡りと大安寺を訪ねて
  《歴探散策》 89号 2018年12月 八幡の古寺巡礼 第6回
  《歴探散策》 86号 2018年06月 小堀遠州の菩提寺、五先賢の館等を訪ねて

  《歴探散策》 83号 2017年12月 八幡の古寺巡礼 第5回
  《歴探散策》 80号 2017年06月 東山寺と伊弉諾神宮を訪ねて(バスツアー)
  《歴探散策》 77号 2016年12月 八幡の古寺巡礼 第4回
  《歴探散策》 74号 2016年06月 丹後を訪ねてのバスツアー報告
  《歴探散策》 72号 2016年03月 石清水八幡宮 山上伽藍の探訪
  《歴探散策》 69号 2015年12月 八幡の古寺巡礼 第3回
  《歴探散策》 64号 2015年07月 長岡宮を訪ねてのバスツアー報告
  《歴探散策》 60号 2015年03月 橋本の歴史(2)「平野山・西山を歩く」
  《歴探散策》 57号 2014年12月 八幡の古寺巡礼 第2回
  《歴探散策》 52号 2014年07月 対岸の町「山崎・大山崎」を訪ねる

  《歴探散策》 48号 2014年03月 橋本の歴史(1)「京街道を行く」
  《歴探散策》 45号 2013年12月 八幡の古寺巡礼(第1回)
  《歴探散策》 40号 2013年07月 二つの資料館をめぐる
  《歴探散策》 36号 2013年03月 春爛漫の歴史探訪ウォーク
  《歴探散策》 33号 2012年12月 男山参詣路を歩く
  《歴探散策》 31号 2012年10月 八幡の古建築の探訪
  《歴探散策》 25号 2012年04月 歴史探訪「男山参詣路を歩く」
  《歴探散策》 15号 2011年06月 東高野街道を歩く
  《歴探散策》 07号 2010年10月 上津屋の名所をめぐる
  《歴探散策》 03号 2010年06月 八幡の名所・旧跡を歩く

なお歴探ウォークの自転車版、サイクリングツアーについても概要を連載記事として掲載していますので、併せてご参照ください。
《連載記事》 “自転車で巡る名所案内 ”

# by y-rekitan | 2020-12-31 16:00 | Comments(1)

◆コーナー・新しい集いのご案内

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本会では八幡の歴史の探究と共有を目指して、講演会や歴探ウォーク等の集いを定期的に催しておりますが、このコーナーではそのスケジュール等を掲載しております。
併せて本会のトピックスや出版物等についても掲載しておりますのでご参照ください。

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---2019/8/24更新------ 2018/11/1新着---  2019/1/17更新

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ただ今、以下の集いやイベントを案内中です。詳しくはリンクのパンフレットをご参照のうえ、ご参加ください。 8/24更新


f0300125_1833548.jpg◆会員研究発表(2019年10月)

   ・概要  奈良・魅力の神社を訪ねて
            松花堂昭乗「奈良吉野記行」
   ・日時  2019年10月17日(木) 午後2時 ~ 4時
   ・場所  八幡市文化センター 3階 第3会議室 



f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(2019年8月)

《終了しました》 参加者は26名でした。
   ・概要  忘れられた荘園-陸奥の国の石清水八幡宮領「好嶋荘」
   ・日時  2019年8月24日(土) 午後2時 ~ 4時
   ・場所  八幡市文化センター 3階 第3会議室 



f0300125_1833548.jpg◆2019年度 八幡の歴史を学ぶ連続学習会
 
次回は11月13日の開催です。
   ・概要   2019年度 八幡の歴史を学ぶ連続学習会(隔月開催)
   ・日時   2019年 5月 8日(水) 「八幡の歴史散歩」
《終了しました》 参加者は28名でした。 空白空
         2019年 7月10日(水) 「八幡の古寺」
《終了しました》 参加者は27名でした。 空白空
         2019年 9月11日(水) 「石清水八幡宮と相撲」
《終了しました》 参加者は25名でした。 空白空
         2019年11月13日(水)  「松花堂あれこれ」
         2020年 1月15日(水) 「八幡の古墳と卑弥呼の鏡」
         2020年 3月11日(水)  「八幡の銅鐸」

         ※何れも午前10時~11時半
   ・場所  ふるさと学習館2階研修室



f0300125_1833548.jpg◆歴史探訪バスツアー(2019年6月)

《終了しました》 参加者は21名でした。
   ・概要  歴史探訪バスツアー
   ・日時  2019年 6月5日(水) 午前8時10分 ~ 午後17時50分ごろ
   ・場所 《訪問先》バスで奈良に向かいます
          平城宮跡歴史公園(昼食:朱雀門広場の天平うまし館)
          ⇒ 大安寺 ⇒ 元石清水八幡宮
             ー詳細はバスツアーのパンフレット参照ー



f0300125_1833548.jpg◆年次総会及び講演と交流の集い(4月)

《終了しました》 参加者は32名でした。
   ・概要 (八幡の歴史を探究する会) 年次総会
        (講演と交流の集い)「南山城の横穴墓と被葬者像を巡って」
   ・日時  2019年 4月20日(土) 年次総会:午後1時20分~2時
                    講演と交流の集い:午後2時~4時
   ・場所  八幡市文化センター3階 第3会議室



f0300125_1833548.jpg◆2018年度 八幡の歴史を学ぶ連続学習会
       
   ・概要  2018年度 八幡の歴史を学ぶ連続学習会(隔月開催)
   ・日時  2018年 5月17日(木) 「八幡八景と直條」
《終了しました》 参加者は38名でした。空白空白
        2018年 7月19日(木) 「江戸時代の村の暮らし」
《終了しました》 参加者は36名でした。空白空白
        2018年 9月20日(木) 「宿場町 橋本」
《終了しました》 参加者は40名でした。空白空白
        2018年11月15日(木)  「二宮忠八と飛行神社」
《終了しました》 参加者は27名でした。空白空白
        2019年 1月17日(木) 「吉井勇と八幡」      
《終了しました》 参加者は25名でした。空白空白
        2019年 3月14日(木)  「八幡の銅鐸」
《終了しました》 参加者は37名でした。空白空白
 
         ※何れも午前10時~11時半
   ・場所  ふるさと学習館2階研修室



f0300125_1833548.jpg◆会員研究発表(2019年2月)

《終了しました》 参加者は39名でした。
   ・概要  下向する昭乗
   ・日時  2019年 2月23日(土) 午後1時30分~4時
   ・場所  松花堂美術館 1階 講習室



f0300125_1833548.jpg◆歴史探訪ウォーク(2018年12月)

《終了しました》 参加者は39名でした。
   ・概要  八幡の古寺巡礼
        ー第6回:杉山谷不動堂~神應寺を巡るー
   ・日時  2018年 12月6日(木) 午後1時30分~4時頃
   ・場所  石清水八幡宮一の鳥居→杉山谷不動堂→神應寺→単伝寺



f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(2018年10月)

《終了しました》 参加者は44名でした。
   ・概要  馬場遺跡の発掘調査を終えて
          -善法寺邸宅跡地ー
   ・日時  2018年10月13日(土) 午後1時30分~4時
   ・場所  八幡市文化センター 3階 第3会議室



f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(2018年8月)

《終了しました》 参加者は39名でした。
   ・概要  石清水八幡宮の牛王宝印印章(印影)について
   ・日時  2018年8月25日(土) 午後2時~4時
   ・場所  八幡市文化センター 3階 第3会議室



f0300125_1833548.jpg◆歴史探訪バスツアー

《終了しました》 参加者は36名でした。
   ・概要  歴史探訪バスツアー
   ・日時  2018年 6月14日(木) 午前7時50分~午後5時頃
   ・場所 《訪問先》バスで北近江方面に向かいます
         近江弧蓬庵⇒五先賢の館(昼食:仕出し弁当)⇒渡岸寺
        ー詳細はバスツアーのパンフレット参照ー

 

f0300125_1833548.jpg◆年次総会及び講演と交流の集い(4月)

《終了しました》 参加者は44名でした。
   ・概要  (八幡の歴史を探究する会) 年次総会
         (講演と交流の集い) 「久世郡上津屋村を探究する」
   ・日時  2018年 4月22日(日) 年次総会:午後1時~1時40分
                   講演と交流の集い:午後2時~4時
   ・場所  八幡市文化センター3階 第3会議室



f0300125_1833548.jpg◆会員研究発表(2018年2月)

《終了しました》 参加者は52名でした。
   ・概要  八幡の道の歴史
         -江戸時代の道標調査を終えてー
   ・日時  2018年2月22日(木) 午後1時30分~4時
   ・場所  八幡市文化センター3階 第3会議室



f0300125_1833548.jpg◆2017年度 八幡の歴史を学ぶ連続学習会

   ・概要  2017年度 八幡の歴史を学ぶ連続学習会(隔月開催)
   ・日時  2017年 5月18日(木) 「八幡神と男山遷座」
《終了しました》 参加者は47名でした。 空白空白
        2017年 7月20日(木) 「元寇から南北朝の争乱まで」
《終了しました》 参加者は43 名でした。 空白空白
        2017年 9月21日(木)  「天下人と八幡」
《終了しました》 参加者は34 名でした。 空白空白
        2017年11月16日(木) 「鳥羽伏見の戦いと八幡・橋本」
《終了しました》 参加者は33 名でした。空白空白
        2018年 1月18日(木)「八幡東部の神社(川口天満宮、内神社)」
《終了しました》 参加者は36 名でした。空白空白
        2018年 3月15日(木) 「近代化の八幡と戦時下の八幡」 
《終了しました》 参加者は30 名でした。空白空白
         ※何れも午前10時~11時半
   ・場所  ふるさと学習館2階研修室



f0300125_1833548.jpg◆歴史探訪ウォーク(2017年12月)

《終了しました》 参加者は39名でした。
   ・概要  八幡の古寺巡礼 ー第5回:男山南部の寺を巡るー
   ・日時  2017年12月7日(日) 午後1時10分~4時頃
   ・場所  松花堂庭園前の昭乗広場



f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(2017年10月)

《終了しました》 参加者は47名でした。
   ・概要  森本家文書からみた近世石清水の神人構成と身分
   ・日時  2017年10月15日(日) 午後1時30分~4時
   ・場所  八幡市文化センター3階 第3会議室



f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(2017年8月)
 
《終了しました》 参加者は40名でした。
   ・概要  石清水八幡宮の牛王宝印
   ・日時  2017年8月26日(土) 午後2時~4時
   ・場所  さくらであい館 イベント広場「淀」



f0300125_1833548.jpg◆歴史探訪バスツアー

《終了しました》 参加者は39名でした。
   ・概要  歴史探訪バスツアー
   ・日時  2017年 6月15日(木) 午前7時50分~午後6時頃
   ・場所 《訪問先》バスで淡路島に向かいます
         伊弉諾(いざなぎ)神社⇒(昼食:海鮮料理)⇒東山寺
        ー詳細はバスツアーのパンフレット参照ー



f0300125_1833548.jpg◆年次総会及び講演と交流の集い

《終了しました》 参加者は58名でした。
   ・概要 (八幡の歴史を探究する会) 年次総会
        (講演と交流の集い) 「淀川・三川合流の歴史とその周辺」  
   ・日時  2017年 4月23日(日)年次総会:午後1時30分~2時10分
                講演と交流の集い:午後2時30分~4時30分
   ・場所  さくらであい館(イベントホール)



f0300125_1833548.jpg◆八幡の歴史を学ぶ連続学習会>

《終了しました》
   ・概要  八幡の歴史を学ぶ連続学習会(隔月開催)
   ・日時  2016年 5月19日(木) 「大むかしの八幡」(29名参加)
        2016年 7月14日(木) 「町の成り立ちと神人の活躍」
                             (37名参加)
        2016年 9月15日(木)  「松花堂昭乗という人がいた」
                             (32名参加)
        2016年11月17日(木) 「淀屋と八幡」(34名参加)
        2017年 1月19日(木) 「河川と歩んだ八幡」(30名参加)
        2017年 3月16日(木) 「昭和から平成へ」(28名参加)     
        ※午前10時~11時半
   ・場所  ふるさと学習館2階研修室



f0300125_1833548.jpg◆会員研究発表

《終了しました》 参加者は40名でした。
   ・概要  謡曲から見た八幡
   ・日時  2017年 2月15日(水) 午後1時30分~
   ・場所  松花堂美術館 講習室



f0300125_1833548.jpg◆歴史探訪ウォーク

《終了しました》 参加者は46名でした。
   ・概要  八幡の古寺巡礼
        ー第4回:男山山麓の寺を巡る(Partー3)ー
   ・日時  2016年 12月8日(木) 午後1時~4時頃
   ・場所  京阪八幡市駅→法園寺→正福寺→単伝寺



f0300125_1833548.jpg◆「八幡の道探究部会」の展示発表

《終了しました》2日間とも多くの来場者がありました。
   ・概要  「八幡の古道」展示発表(八幡市民文化祭)
   ・日時  2016年 10月29日(土) 午前10時~午後5時
        2016年 10月30日(日) 午前10時~午後4時
   ・場所  第44回八幡市民文化祭
         八幡市文化センター 3階エレベーターホール



f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(10月)

《終了しました》 参加者は33名でした。
   ・概要  八幡の古代遺跡と道
   ・日時  2016年 10月16日(日) 
   ・場所  八幡市文化センター第3会議室



f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(8月)

《終了しました》 参加者は42名でした。
   ・概要  石清水八幡宮の別宮の成立と機能
   ・日時  2016年8月27日(木) 午後2時~4時半
   ・場所  八幡市文化センター 第3会議室







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# by y-rekitan | 2020-12-31 15:00 | Comments(0)

◆コーナー・トピックス & 出版活動

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◆2018年10月27日~28日 第46回八幡市民文化祭に出展 
 2018年の文化祭は、昨年に引き続き「江戸時代の八幡道標」及び「八幡の古墳と鏡」の2テーマを展示発表しました。(出展会場は、例年通り八幡市文化センター3階ロビーでした。)
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 「江戸時代の八幡道標」(4パネルに展示)コーナーでは、昨年販売の冊子“石清水八まん宮に誘う道標群”の読者等から相次いで情報を寄せて頂き、再調査の結果、新たに確認の21基の道標を紹介した。昨年紹介76基に追加し合計97基を掲載の冊子(増補版)は、多くの方の購入していただきました。
また、会で再設置した[八幡宮道道標]をパネルに写真を掲示し紹介しました。
 「八幡の古墳と鏡」(2パネルに展示)コーナーでは、来場の皆さんは熱心に説明を聞かれていました。八幡の古墳から30数枚の鏡が出土していますが、八幡市が所蔵・保管の鏡は数枚です。他は市外に流出または行方不明で現物は確認できません。なお、会場で販売の「八幡の古墳と鏡」資料は好評で準備した30部を完売しました。
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◆2017年10月28日~29日 第45回八幡市民文化祭に出展
 八幡市民文化祭には例年通り出展会場は、八幡市文化センター3階ロビーでした。今年は専門部会「八幡の道探究部会」が2年間かけて現地に出向き調査した八幡市内(22基)及び市外(54基)の『江戸時代の八幡道標(みちしるべ)』をパネル5枚に掲示しました。
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 2日とも台風接近の影響による生憎の雨天のために屋外の展示は中止になり来場者も例年より少なかったですが、来場の皆さんは江戸時代に設置され今に残る八幡道標に興味をもたれてパネルに展示の道標写真や設置場所を地図で確認されていました。また、会場で販売した調査結果を纏めた『「石清水八まん宮道」に誘う道標群”ー江戸時代の八幡道標ー』の本は、予想より遙かに多くの方に購入していただきました。
 展示パネル前のテーブル上には、本と共に「八幡の歴史カルタ」や会報(2年間のバックナンバー)、例会や連続学習会のチラシ等も並べました。
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◆2016年10月29日~30日 第44回八幡市民文化祭に出展
 今年の文化際には、昨年10月発足した専門部会『八幡の道探究部会』の1年間の活動成果を展示発表しました。展示のテーマは「八幡の古道」で、①古地図(6枚)、②古道の作製地図(2枚ー写真6点)、③江戸時代の道標地図(2枚ー写真27点)などを展示しました。
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 展示会場の八幡市民文化センター3階ロビーには、2日間で約200人の大勢の方が訪れられ、展示物を見ていただきました。また、部会員の説明を熱心に聞いておられました。今回の展示発表は当初予想より皆様の古道や古い道標への関心は高くて、準備していた古道や道標地図及び道標リストは多くの方が求められてたので途中で増刷しました。中には関心のある道標を今から見に行くと仰る方も居られました。
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◆2016年6月12日 『八幡の歴史カルタ』の関連史跡めぐり
 「安居塚ブロック福祉委員会(ふれあいサロン)」の皆様が本会制作の『八幡の歴史カルタ』に詠まれている史跡巡りをされている様子が、八幡市社会福祉協議会の広報誌「やわたし社協だより」第108号(2016年6月1日発行)に紹介されました。
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 催しを主催された福祉委員会の安居塚ブロック長 中崎幸子様から「八幡の歴史カルタ等に紹介されている名所巡りを今年3月と5月実施しましましたが、皆様に好評なので11月にも計画しています」と伺いました。

◆2016年6月12日 カルタ資料館に『八幡の歴史カルタ』を寄贈
 この度、福岡県大牟田市立三池カルタ・歴史資料館から、当会制作の「八幡の歴史かるたカルタ」の寄贈依頼があり1セットを寄贈しました。f0300125_1521852.jpg この資料館は日本及び世界のカルタ(歌カルタ・いろはカルタ・トランプ・タロットなど)を専門に収集・展示・研究をする日本で唯一の資料館です。
(注記)
 日本のカルタは、ポルトガルからの影響を受け、16世紀末頃、筑後の三池地方で作り始められたと言われている。その関係で大牟田市が1991(平成3)年に日本で唯一のカルタ専門館を開館した。

2015年10月31日~11月1日第43回八幡市民文化祭に出展
 今年も八幡市文化センターでの市民文化祭に出展しました。「八幡の歴史クイズ」の実施と「歴史カルタ」及び「歴史たんけんマップ」を掲示しました。約100名の方が歴史クイズに挑戦されました。
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◆2015年9月27日 「歴史たんけん八幡」出版記念の集い
 松花堂庭園・美術館別館において実施された、第Ⅰ部記念講演、第Ⅱ部「出版記念」交流の集いは、堀口八幡市長をはじめ多くの方が参加されて盛況でした。
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 ◆2015年5月9日 八幡市生涯学習センター「わくわくドキドキ縁日」に出展。
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 ◆2015年04月18日 発足5周年記念で会の旗製作の記事が京都新聞に。
 ◆2015年02月13日 2月例会「二宮忠八と飛行神社」が京都新聞に掲載。 
 ◆2014年12月23日 「やましろのタカラフェステバル」(文化パルク城陽)に出展。
 ◆2014年11月1~2日 第42回八幡市民文化祭に出展
 ◆2014年08月15日 会報50号達成記念(バックナンバー増刷)が京都新聞に掲載。
 ◆2014年06月09日 KBS京都ラジオで本会活動紹介の放送がありました。
 ◆2014年06月01日 八幡山柴公民館フェスティバルで、歴探クイズ展示。
 ◆2014年05月28日「歴史探訪サイクリング」が京都新聞で紹介されました。


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《NEW》『石清水八まん宮道』に いざな道標みちしるべ―江戸時代の八幡道標―

2018.10.25 新たに21基の道標を追加した増補版を発売しました。
2019.01.17 好評につき増刷し第2刷として販売を開始。併せて更に道標1基を追加しております。

先に「石清水八まん宮道に誘う道標群」の冊子を発行したところ、多くの皆さんに関心を持って頂き、また、相次いで貴重な情報を寄せていただきました。そこでお寄せ頂いた情報をもとに調査を実施し確認された道標21基を追加した増補版を発行しましたが、この度その第2刷を発行するに伴い更に1基を追加、新刷では計98基を掲載しております。

「八幡道標」ともいうべき貴重な道標群を「昔と今を結ぶ掛替えのない歴史遺産」として保護するとともに、誇りを持って「後世に引き継ぎたい」との思いを強くしています。

出版冊子の概要
 A5版フルカラーで120ページです。また、掲載している地図は、現地で迷わないように道標設置の場所をピンポイントで示しています。本書は極力廉価で皆様にご提供できることを目指し、すべて本会で自家編集し、それをそのままネット印刷で本にしました。

主な内容
1.江戸時代の八まん宮道のエリア区分地図(京都市北区~大阪府松原市)
2.道標群の紹介―合計98基
f0300125_10184039.jpg ・八幡市 ;23基
 ・京都市内:10基
 ・長岡京市:1基
 ・大山崎町:2基
 ・宇治市 :1基
 ・京田辺市:3基
 ・精華町 :1基
 ・島本町 :1基
 ・高槻市 :3基
 ・茨木市 :1基
 ・枚方市 :28基
 ・交野市 :4基
 ・寝屋川市:3基
 ・四條畷市:4基
 ・大阪市 :1基
 ・大東市 :2基
 ・東大阪市:8基
 ・松原市 :2基

本書の販売について
・販売価格 : 1,000円(会員価格)
・販売場所 : 本会の行事や催し物会場などで都度販売します。
       
・委託販売所: 松花堂ミュージアムショップ
        石清水八幡宮(本殿)授与所
        
・本会での販売について
   事務局  高田昌史 宛に連絡ください。
   電 話   090-2011-7503
   メール  takata@cd6.so-net.ne.jp
   または、お近くの本会の幹事までお願いします。

・郵送販売について
   販売価格+郵送料(180円)をいただきます。
   お支払方法は下記口座あての郵便振り込みを願いします。
    申し込み: 歴探事務局 takata@cd6.so-net.ne.jp
    支払振込: 郵便振込口座番号:00970-2-322353
         (加入者名:八幡の歴史を探究する会)
    ・お願い ー 振込前にご一報下さい、早くお送りできます。

 江戸時代の八幡道標をとりまとめた冊子の発刊に併せて、冊子で取り上げている全ての道標位置をグーグル地図上に正確にプロットした専用のマップを用意しています。道標の位置や設置場所の様子を確認する補助ツールとして、冊子と共にご利用いただければ幸いです。
 グーグル“江戸時代の八幡道標”マップへ⇒
 道標マップの御利用法はこちらに⇒



《初版》『石清水八まん宮道』に いざな道標みちしるべ群―江戸時代の八幡道標―

江戸時代の76基の道標を紹介した《初版》は2017/10月の発刊以来、好評につき増刷を重ねてまいりましたが《増補版》の発刊に伴い販売を終了しました。 

f0300125_21252046.jpg 本書は150年以上前の「江戸時代」に建立された八幡市内及び市外の「八幡道標」ともいうべき道標群を「昔と今を結ぶ掛替えのない歴史遺産として保護する」とともに「後世に引き継ぎたい」との強い願いから、専門部会「八幡の道探究部会」の会員が二年間に渡り自分の足で調査した結果をまとめたものです。
 多くの方々に感心を持っていただくことが道標の保護につながると確信し、是非この冊子を片手に各地の江戸時代と現在を結ぶ八幡道標を訪ねられることを願って出版致しました。

出版冊子の概要
 A5版フルカラーで96ページです。また、掲載している地図は、現地で迷わないように道標設置の場所をピンポイントで示しています。
主な内容
1.刊行にあたって
2.江戸時代の八まん宮道 エリア区分地図
3.「八幡道標」の紹介―以下の合計76基
   ・八幡市 :22基
   ・京都市内:8基
   ・長岡京市:1基
   ・大山崎町:1基
   ・高槻市 :3基
   ・茨木市 :1基
・枚方市 :26基
・交野市 :2基
・寝屋川市:2基
・四條畷市:3基
・大東市 :2基
・東大阪市:5基
4.八幡道標の調査を終えて
5.編集後記

この本の発行がニュースとして京都新聞に掲載されました。




◆歴史と文化の本、『歴史たんけん八幡』は好評のうちに完売。

2015.9.1 大人も子供もこの一冊で、八幡の歴史と文化がよくわかる本、『歴史たんけん八幡』が発刊されました。
 発行日の9月1日にはこの本を八幡市に贈る贈呈式が行われ、その後ミュージアムショップやイベント会場で販売を行ってまいりましたが、好評のうちに販売を完了しました。
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『歴史たんけん八幡』、発刊よもやま話

f0300125_0485928.png 本会ではこの本の一年半にわたる企画から編集、発刊に至る経緯や本の概要を、シリーズ記事として会報で紹介してまいりました。
以下にその記事をリストアップしていますのでご参照ください。
(写真は制作委員会の風景です)


発刊に向けて ▼『歴史たんけん八幡』の発行にむけて
 ▼本の紹介として「特別連続講座」を開設
 ▼本の紹介としての「特別連続講座②」を開催
 ▼いよいよ『歴史たんけん八幡』の発行が迫る

発刊に寄せて ▼刊行に寄せて・・・『歴史たんけん八幡』と私
 ▼『歴史たんけん八幡』が発行されました
 ▼八幡の歴史にこの本の刊行が刻み込まれた
 ▼出版記念の集いが開かれました!
 ▼『歴史たんけん八幡』の普及と活用 / 読書感想

                    


◆本会制作の 『八幡の歴史カルタ』 を販売中です。
2013年2月に発売した《初版》は好評のうちに完売しました。現在は装いを新たにした改訂版を販売中です。

発行:2013年5月25日
販売価格:1,000円
制作:八幡の歴史を探究する会
絵札:森川 修
ケース:石瀬謙三
句:歴探会員応募作より
句の解説:歴探会員有志 (読み札の裏はその句の歴史的な解説になっています)
       
販売所:松花堂ミュージアムショップ、
・歴探事務局 takata@cd6.so-net.ne.jp
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◆本会の会報のバックナンバーを販売しています。
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  • 各号とも1部100円です。
  • 体裁は白黒A4版で、各号ともおおむね10~30ページの構成となっております。(但し古い号では10ページ未満のものもあります)
  • ご希望の方は八幡市民文化祭の展示販売時にお求めください。または弊会の幹事に連絡ください。
  • また郵送をご希望の方は、下記「歴探事務局」まで希望会報の号番号、送付先等の必要事項をメールでご連絡ください。郵送料はご負担をお願いします。

    なお、お支払方法は下記口座あての郵便振り込みとさせていただきます。
       申し込み: 歴探事務局 takata@cd6.so-net.ne.jp
       支払振込: 郵便振込口座番号:00970-2-322353
              (加入者名:八幡の歴史を探究する会)
       

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# by y-rekitan | 2020-12-31 14:50 | Comments(0)

◆統合版・・・集いのパンフレット

新しい集いのご案内 パンフレット集



◆会員研究発表(2019年10月)

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《終了》◆講演と交流の集い(2019年8月)

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《終了》◆歴史探訪バスツアー(6月)

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◆(2019年度)八幡の歴史を学ぶ連続学習会

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《終了》◆年次総会(2019年度)及び講演と交流の集い

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《終了》◆会員研究発表(2019年2月)

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《終了》◆歴史探訪ウォーク(12月)

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《終了》◆講演と交流の集い(10月)

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《終了》◆講演と交流の集い(8月)

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《終了》◆歴史探訪バスツアー

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《終了》◆(2018年度)八幡の歴史を学ぶ連続学習会
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《終了》◆年次総会及び講演と交流の集い(4月)

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《終了》◆会員研究発表(2月)

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《終了》◆歴史探訪ウォーク(12月)

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《終了》◆講演と交流の集い(10月)

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《終了》◆講演と交流の集い(8月)

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《終了》◆歴史探訪バスツアー

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《終了》◆(2017年度)八幡の歴史を学ぶ連続学習会

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《終了》◆年次総会及び講演と交流の集い

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《終了》◆会員研究発表

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《終了》◆歴史探訪ウォーク

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《終了》◆「八幡の道探究部会」展示発表

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《終了》◆講演と交流の集い(10月)

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《終了》◆講演と交流の集い(8月)

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《終了》◆歴史探訪バスツアー(6月)

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◆八幡の歴史を学ぶ連続学習会

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《終了》◆年次総会及び講演と交流の集い(4月)

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《終了》◆講演と現地探訪の集い(3月)

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《終了》◆男山考古録を読む会パートⅢ第4回

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《終了》◆講演と交流の集い(2月)

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《終了》◆講演と交流の集い(1月)

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《終了》 ◆男山考古録を読む会パートⅢ第3回(通算第11回)

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# by y-rekitan | 2020-12-31 14:00 | Comments(0)

◆コーナー・本会の概要と入会のご案内

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このコーナーでは「八幡の歴史を探究する会」の概要紹介や、入会のご案内を掲載しております。
2015.09.10 本会の沿革コーナーに追記    2015.04.21 本会の会則を更新
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 「八幡の歴史を探究する会」は2010年4月に 発足しました。
 八幡は、弥生時代の遺跡をはじめ、さまざまな古墳や、石清水八幡宮、善法律寺、正法寺、松花堂などすぐれた文化遺産に恵まれています。ところがその歴史的意義や文化的価値が必ずしも明らかにはされておらず、そこに暮らす私たち自身もその存在にすら気づいていないという現実があります。 

 そうした中で私たちは「八幡の歴史を探究する会」を設立し、①講演会、②現地見学会、③会員の研究発表、を事業の3本柱として各種イベントを開催するとともに、その活動内容を市民内外に広く知ってもらうために、「会報」を発行しております。
 私たちは関係団体や機関とも連携しながら、歴史探究の活動を通して市民の誰もが郷土の歴史と文化に誇りをもち、未来の町を築いていくことに貢献できればと願っております。
 「八幡の歴史を探究する会」 代表幹事 安立 俊夫空白

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 本会の概要や会則にご賛同いただき、ともに活動して頂ける会員を募っております。
  • 八幡市以外にお住まいの方も会員になれます。
  • 会員には、「会報」及び例会案内チラシ等を郵送いたします。
  • 会費:年会費は(4月~3月締めで)1,500円  
      10月以降入会は、1,000円、
  • お申し込みは下記の事務局までメールで、また会費の振込は下記の郵便振込みをご利用ください。
       申し込み: 歴探事務局 takata@cd6.so-net.ne.jp
       支払振込: 郵便振込口座番号:00970-2-322353 
             (加入者名:八幡の歴史を探究する会)
     

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 以下の会則(2改)は、2015年4月19日の総会にて承認された。

第1条 名称
本会は「八幡の歴史を探究する会」と称する。

第2条 目的
八幡の歴史を探究し、事業を通じて会員相互の交流を深めるとともに、地域文化の進展と次世代への継承に貢献する。

第3条 事業
1、講演会の開催
2、現地見学会の開催
3、会員の研究発表
4、会報を発行し,会員の情報交換・投稿の場とする。
5、その他第2条の目的を達成するための事業

第4条 会員
前条の趣旨に賛同する人々をもって構成する。

第5条 幹事及び幹事会
1、会員中より選任された幹事により幹事会を構成する。
2、幹事の任期は設けない。

第6条 代表幹事
幹事の中から互選により代表幹事、副代表幹事を選任する。

第7条 事務局長
1、幹事の中から互選により事務局長を選任する。
2、事務局長は幹事会を主宰する。

第8条 会議
この会の活発かつ円滑な運営を図るために、次の会議を開催する。
1、総会
   年1回開催し、会務・会計を報告するとともに必要
   事項を審議する。
2、幹事会
   必要に応じ開催し重要事項を審議する。

第9条 会費及び会計年度
1、会の運営のための年会費を徴収する。額については
  幹事会で決定する。   
2、会計年度は毎年4月1日より翌年3月31日までと
  する。 
3、会計監査は会員の中より選出し、総会にて会計監査
  報告を行う。

第10条 その他
本会則に定める以外の必要事項は幹事会で協議し、本会の必要な場合は細則を別に定める。

第11条 付則
この会則は2011年度(平成23年度)総会開催後から施行する。
   1改)2012年度(平成24年度)総会にて一部改訂。
   2改)2015年度(平成27年度)総会にて一部改訂。

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本会の沿革に代えて、ここに代表の折々の年次総括やイベント報告の記事を紹介させて頂きます。
        2018年10月 増補版『石清水八まん宮道に誘う道標群』発刊 
        2017年10月 『石清水八まん宮道に誘う道標群』を発刊! 
        2015年09月 『歴史たんけん八幡』を発刊しました!
        2015年04月 2015年度の総会が開かれました
        2015年04月 発足からの5年を振り返る
        2015年03月 発足5年周年を記念し、会の旗が出来ました
        2014年06月 会報50号 発行の節目を迎え
        2014年01月 新年を迎え、5年目の節目を大切に
        2012年04月 発足以来 3年目の節目を迎えて
        2010年04月 なごやかに、探究する会が発足


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このサイトへの来訪者は先月(8月)末で67,246人でした。
併せて記事別のアクセス数もご参照ください。
▼毎月の記事別アクセス数 top3は サイトトップ画面に掲載
▼直近1年間の記事別アクセス数 top10は ⇒こちらに掲載


----------------------------

2018.12.20…お蔭様でこのサイトへの来訪者がのべ6万人を超えました。
2018.01.30…お蔭様でこのサイトへの来訪者がのべ5万人を超えました。
2017.08.06…お蔭様でこのサイトへの来訪者がのべ4万人を超えました。
2017.01.10…お蔭様でこのサイトへの来訪者がのべ3万人を超えました。
2016.02.26…お蔭様でこのサイトへの来訪者がのべ2万人を超えました。
2015.06.10…お蔭様でこのサイトへの来訪者がのべ1万人を超えました。
2014.12.01…併設の歴探掲示板をリニューアルし、画像やリンクの投稿が容易になりました。
2014.11.05…開設一周年を迎え関連サイトリンクのコーナー新設、歴探掲示板へのリンク等の機能アップを実施しました。
2014.07.07…本会概要紹介やイベント案内等、本会の活動を総合的に紹介するサイトとしてリニューアルしました。
2013.11.01…本会の会報記事を紹介するブログとして発足しました。

《備考》 来訪者数は、携帯やスマートフォンを除きパソコンからの来訪のみをカウントしたものです。また同じ人が一日に何回訪れてもその日は1 回としてカウントする方式としています。

《改定》 2016.11.15よりアクセスカウントにモバイル端末からのアクセスも加えることになりました。これにより今後はカウント値が3割ほど大きくなる見込みです。

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f0300125_1548513.jpg この歴探サイトではH26年10月から「先月の記事別アクセスtop3」と称するコーナーを設け、会員の方だけでなく全国からの検索来訪を含めて1か月間のアクセスが多かった記事を紹介させて頂いております。

 おかげさまでこのサイトの掲載記事数は順調に増え続けておりますが、せっかくの熱のこもった会報記事も数が多くなり時間を経ると、昔の記事を改めて読み返す機会は少なくなるものと思われます。そこで月替わりのアクセスランキングに名を借りたこのコーナーを設け、クリックして頂くことで毎回3件のなつかしい力作記事を改めて味わっていただく機会になれば・・・ そんな思いでこのコーナーを設けておりますので、ぜひご利用ください。

《追記》 H29年1月より、アクセスtop3欄の下に“人気タグtop3”のコーナーを付設しました。毎月のアクセスが多かったタグ(キーワード)のtop3です。合わせてご利用ください。

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# by y-rekitan | 2020-12-31 13:00 | Comments(0)

◆記事別アクセス数の集計状況

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このサイトでは毎月の記事別アクセス数を集計し、種々の形で分析しています。


この一年間のアクセス数 top10
H30/8月~R01/7月
第64号:光格天皇の生母大江磐代君とその母 877
第75号:石清水八幡宮の別宮の成立と機能 187
第29号:相槌神社と二振りの刀 171
第73号:石清水八幡宮の由緒と建築様式 166
第90号:下向する昭乗 163
第47号:遊女 江口の君 159
第37号:南山城の地域史を学んで 119
第16号:地名で学ぶ八幡の歴史 114
第88号:お亀の方について 114
第79号:『太平記』八幡合戦の石碑を訪ねる 105

▼記事名末尾の数字は1年間のアクセス数です。
“光格天皇の生母~”は5月の天皇
生前譲位前後で急増しました。

▼この項は次回から四半期ごとに更新します。


毎月のアクセス数 top3の記録です

記事名をクリックしても記事には飛べませんが、隣の会報号番をクリックして頂くと該当記事に飛ぶことができます。
2019年の記録
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 第81号⇒
 第34号⇒
 第68号⇒
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 第52号⇒
 第76号⇒
 第71号⇒
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 第64号⇒
 第83号⇒
 第45号⇒
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 第76号⇒
 第80号⇒
 第84号⇒
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 第47号⇒
 第73号⇒
 第51号⇒
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 第41号⇒
 第39号⇒
 第84号⇒
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 第79号⇒
 第77号⇒
 第79号⇒


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# by y-rekitan | 2020-12-31 12:30 | Comments(0)

八幡歴探 リンク集

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このコーナーは八幡の歴史にかかわる情報が網羅的に閲覧できるサイトや、本会に縁の深いサイトのリンク集です。


f0300125_063725.jpg石清水八幡宮
860年に都の裏鬼門を守護する鎮護の神として創建されました。
f0300125_21374037.jpg八幡市公式サイト/観光情報のコーナー
八幡の名勝の情報が満載。また、祭り等の動画も見られます。

f0300125_2543626.jpg枚方市公式サイト/文化財のコーナー
枚方の文化財や歴史に関する催しの情報が満載です。

f0300125_2244728.jpg城陽市教育委員会公式サイト/文化財のコーナー
市内にある国、府、市の史跡、文化財が網羅され、史跡マップも。

f0300125_246395.jpg久御山町公式サイト/文化財のコーナー
久御山町の文化財が写真、解説付きで閲覧できます。

f0300125_23464785.jpg宇治市公式サイト/文化財のコーナー
 世界遺産を含め市内にある国、府、市の史跡、文化財の一覧です。

f0300125_23474058.jpg松花堂庭園・美術館
松花堂昭乗のデータベース、催し物案内等が掲載されています。

f0300125_14255811.jpg八幡市観光協会
八幡市の観光情報が、広範囲に網羅されています。

f0300125_21385651.jpgサイト「八幡散策」の “八幡ぶらりゆく”
神社仏閣、伝説、道標等、広範囲に網羅されています。
f0300125_12541653.jpgサイト “江戸時代の八幡道標”マップ
『石清水八まん宮道』に誘う道標、98基のグーグルマイマップです。

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# by y-rekitan | 2020-12-31 12:00 | Comments(0)

◆スポット記事インデックス《続》

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60号以前の会報のスポット記事は以下の通りです。クリックで直接お読み頂けます。

“八幡の京街道は川底に沈んだ " (第80号)
“消えた踏切道に思う " (第80号)
“今年白寿を迎えました " (第80号)
“『太平記』 八幡合戦の石碑を訪ねる " (第79号)
“「八幡の歴史を学ぶ連続学習会」2016年 " (第79号)
“石清水八幡宮を指し示す「八幡宮道」の道標の数々 " (第78号)
“大阪府下の東高野街道に「やわた道」の道標を訪ねて" (第77号)
“歴探サイト(ホームページ)の現況報告" (第77号)
“第44回八幡市民文化祭展示発表を終えて" (第76号)
“御幸橋南詰「石清水八幡宮鳥居通」道標は何処に?" (第75号)
“『茶揉み歌』を復活"  (第73号)
“「八幡大縁起」に参加して"  (第71号)
“上津屋橋(流れ橋)の復旧に向けて"  (第71号)
“新刊案内「戦国大名の正体"  (第70号)
“本妙寺文書「沢庵の書状」と紫衣事件"  (第69号)
“「古寺巡礼」で出会った仏さま"  (第69号)
“八幡の文化財(国宝指定)"  (第69号)
“国宝指定の答申に思う"  (第69号)
“京の街角の「湯たく山茶くれん寺"  (第69号)
“旅人は何故片手を挙げているのか"  (第67号)
“「八幡の道 探究部会」が発足しました"  (第67号)
“石清水八幡宮が国宝に!"  (第67号)
“第119代光格天皇と大江磐代君とその母"  (第64号)
“クイズ「私は誰でしょう」"  (第62号)
“西国三十三所観音石仏群の墓所"  (第61号)
“陸橋の名前"  (第61号)
“九州の横穴・近畿の横穴"  (第60号)
“二宮忠八掌話"  (第60号)
“会の旗が出来ました!"  (第60号)
“松井横穴群に学ぶ"  (第59号)
“平野山・西山はミステリー"  (第59号)
“ずいき祭り"  (第58号)
“小特集: わがまち 八幡"  (第57号)
“流れ橋存廃の意見表明"  (第56号)
“磯田道史氏の講演に学ぶ"  (第56号)
“代々つづく神原の講 =秋編="  (第55号)
“八幡森の石仏と地蔵盆"  (第54号)
“お気軽歴史講座に行きました"  (第54号)
“ひょっこり訪問記  木田醤油㈱社長”  (第53号)
“地誌には、どんなものがあるか?"  (第53号)
“松花堂庭園とその魅力"  (第52号)
“島崎藤村と八幡"  (第52号)
“神領墓地は何を語るか”  (第49号)
“水月庵 藪を抜ければ円福寺”  (第49号)
“変わりゆく橋本”  (第48号)
“芭蕉と遊女との巡合い”  (第48号)
“遊女 江口の君”  (第47号)
“八幡の浄土宗寺院にみる地蔵菩薩 ”  (第45号)
“ 三昧聖と八幡の墓地  ”  (第45号)
“ 五榜の掲示  ”  (第44号)
“個人所有重文民家の課題について ”  (第43号)
“重文「伊佐家住宅」について ”  (第43号)
“ 昭乗の下馬碑を探る ”  (第42号)
“ 京大博物館にある八幡の遺跡・遺物 ”  (第40号)
“ヌートリア考、そして「郷土囗史物語」”  (第37号)
“ 狛 犬 考 ”  (第37号)
“ 探訪会のしおりを作成して ”  (第36号)
“歴史探訪ウォーク参加記”  (第36号)
“代々続く神原の「講」”  (第36号)
“「八幡の歴史カルタ」に驚く”  (第36号)
“女坂・荒坂横穴古墳群から学んだこと”  (第35号)
“魅力的な八幡東部の集落と神社”  (第34号)
“ 二宮忠八翁と飛行神社 ”  (第31号)
“ 石清水臨時祭と平清盛 ”  (第31号)
“「八幡椿は」何処に”  (第24号)
“陣屋と鳥羽伏見の戦い”  (第22号)
“八幡八景解説奮戦記”  (第20号)
“色恋に愛づる花心ー謡曲「女郎花」”  (第20号)
“俄神人ニ成候”  (第18号)
“八角院地蔵尊の碑文を読む”  (第15号)
“長宗我部盛親が潜んだ家”  (第15号)
“「やわたものしり博士」検定にチャレンジ!”  (第10号)
“木津川・宇治川沿いの屋並みを巡る”  (第9号)


ブログトップの《スポット記事一覧》に戻ります。

# by y-rekitan | 2020-12-31 08:00 | Comments(0)

◆会報第93号より-top <スクロールだけで全記事が読めます>

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
このまま下にスクロールして頂くと順次連続してご参照頂けます。

この号はただ今準備中です。

◆シリーズ:“心に引き継ぐ風景” ㉔◆
◆《講演会》忘れられた荘園◆
◆シリーズ:“閼伽井のこと” ①◆
◆シリーズ:“私の歴史散歩” ④◆
10周年記念誌「八幡の歴史を探究して10年」を発行しました



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ご意見は各記事下端のcomments欄をクリックしてお寄せください。

# by y-rekitan | 2019-09-22 15:00 | Comments(0)

◆会報第93号より-01 腰折坂

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心に引き継ぐ風景・・・㉔

腰 折 坂
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 腰折坂については会報90号「御本社道」の中で詳しく報告しましたが、初めて知ったという読者も大勢いました。「鳥羽伏見の戦い」の決戦は八幡が舞台となりました。八幡の住民にとっては大変な被害を被ったものでしたが、わずか150年前の歴史であっても、住民には殆ど知られない歴史となっています。
 「鳥羽伏見の戦い」を題材にした歴史書を読むと、「劣勢になった幕府軍が淀まで後退した時に入城を拒絶されてやむなく八幡・橋本に後退し、大坂へ敗走した」と書かれたものが多く、淀までは詳しく書かれるものの、八幡・橋本の様子は詳しく触れられないケースが目に付き、いつもがっかりします。
 楠葉からの八幡宮参詣道である「御本社道」の途中、橋本東浄土ヶ原に「腰折坂」はありますが、薩摩兵が八幡山の御本社道を通って楠葉方面に向かう時、腰折坂に「賊兵三十余人山中に番兵たるを見、これを急襲した」との記録が残っています。新政府軍本隊も八幡での戦闘は激しく、多くの寺や旧家、民家を焼き尽くしました。新選組二番隊組長の永倉新八が残した『浪士文久報告記事』にも八幡・橋本の戦いや橋本陣屋への引き揚げの様子などが記録されています。八幡に多くの史跡が残るものの、石碑や案内板を建てようとする土地柄ではない。しかし、歴史好きだけには、なぜか八幡は垂涎の地であるらしい。
(文と写真 谷村 勉)空白




<<< 連載を抜けてTOPへ        この連載記事の続きは⇒⇒

# by y-rekitan | 2019-09-22 12:00 | Comments(0)

◆会報第93号より-02 好嶋荘

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《講演会》
忘れられた荘園
-陸奥国の石清水八幡宮領「好嶋庄」-

2019年8月 
八幡市文化センター第3会議室にて

鍛代 敏雄 (東北福祉大学教育学部教授)
    (石清水八幡宮研究所主任研究員)
 
 今夏も、猛暑、台風、大雨と例年と相変わらずの天候でした。皆様にもご自愛頂いているものとお喜びしております。
 さて、恒例となっております鍛代敏雄教授による当会夏の例会「講演と交流のつどい」を、表題の通り、令和元年8月24日(土)午後2時より、八幡市文化センター3階にて開催させていただきました。
 鍛代先生には、毎年の石清水八幡宮での夏の曝涼行事のお忙しい中で、最新の研究成果をダイナミックに、我々にご教示いただいています。今回も驚きと「目から鱗」の連続でありました。先生に御無理をお願いして、当会報の発行に間に合うように講演要旨のご報告もいただきました。なお、当日の参加者は26名でした。

 今回、石清水八幡宮領陸奥国岩城郡好嶋庄(よしまのしょう・福島県いわき市)について、論題を「忘れられた荘園」とした理由は、第一に現在の石清水八幡宮にまったく史料がのこっていない点、第二に『国史大辞典』(吉川弘文館)の「石清水八幡宮領」(竹内理三氏執筆)の荘園一覧表には掲載されなかった点から、ほとんど注意されてこなかったからです。f0300125_12224329.jpg
 しかし、昭和10年(1935)に石清水八幡宮社務所が発行した『石清水八幡宮史』(第5輯、165頁)には、東京大学史料編纂所架蔵影写本「飯野(いいの)八幡社古文書」6点(直接関連する史料は5点)が収載され、同14年の同書首巻には善法寺坊領(これは誤認。正しくは社務領)として「陸奥国 好嶋庄」と見えます(92頁)。したがって、陸奥国内における「石清水八幡宮領」の存在は、戦前すでに確認されていたことになります。

 もっとも、その後、石清水八幡宮寺と好嶋庄との関係について、本格的に論証されることはありませんでした。好嶋庄関連の史料は「飯野八幡宮文書」および「飯野家文書」(以下飯野文書)に収載されています。自治体史では、『福島県史』第7巻資料編2古代・中世資料(福島県編集・発行、1966年)や『いわき市史』(第8巻原始・古代・中世資料、1988年)が史料を蒐集しています。また、玉山成元氏校訂・解題『飯野八幡宮文書』(史料纂集〔古文書編〕、続群書類従完成会、1983年)によって、文書群として一括公開されています。さらに近年では、飯野文庫から発行された『定本 飯野家文書 中世編』(CD-ROM版、2002年)が発行され、新史料をあらたに加えて、活用の便宜がはかられました。
 しかしながら、石清水荘園の史料調査や研究の立ち遅れもあって、これらの史料紹介の成果を得ながらも、石清水にかかわる基本的な文書名などを含め、誤った歴史情報に関しいまだ修正されていないのが現状です。
 本報告では、石清水関連の古文書を読み直しながら、石清水八幡宮寺の検校職について改めて見直し、好嶋庄と石清水八幡宮寺領の特質について、私見を提示しました。
 飯野文書の史料にもとづいた論証の過程は割愛します。ここでは先行の基盤研究を踏まえた上で、新たに究明できた諸点を中心に、本報告のまとめを掲示しておきたいと思います。

 飯野文書において、石清水八幡宮寺に関する史料は12点、関連する参考史料は2点あります。石清水側からの発給文書は、鎌倉末期の石清水八幡宮検校の壇朝清、善法寺通清の年貢請取状、南北朝期の平等王院曩清宛ての光厳上皇院宣案(検校の転任を通知するために案文が送付されていた)、雑掌光智申状、社務検校竹朗清代朝円年貢請取状などが確かめられます。
 これまで、好嶋庄(西方)が鎌倉幕府の関東御領(将軍直轄地)かつ石清水八幡宮領、ついで、室町幕府将軍家の御料所となった点は指摘されてきましたが、石清水八幡宮寺の社務検校が直接、預所の伊賀氏に年貢請取状を発給し、検校職が祈祷料所(将軍家の祈祷所)として直務支配し、それが鎌倉から南北朝期、史料上は25年余の間続いた点は、再発見の新しい歴史情報として重要です。また、石清水検校は社務と称され、本宮と護国寺の宮寺を統括する最高の職階でしたが、とくに祭祀の裁量権を掌握し、祭祀料や祈祷料の所領および別宮からの年貢に関する収取権を支配し、なお、宮寺内における下行(祈祷・祭祀奉仕者への謝金)の権限をもっていた点が明らかになりました。
 いっぽう、好嶋庄の成立については、鎌倉の鶴岡八幡宮寺の創建とひとしく千葉常胤の影響が大きかったといえます。石清水八幡宮寺の御分霊を勧請し、好嶋庄の八幡宮を創建、自らは預所職になり、関東御領に組み込んだ可能性があります。
 荘園としては、鎌倉幕府(実朝将軍期)と後鳥羽上皇との公武融和政策を背景にして、好嶋庄の八幡宮を石清水八幡宮の別宮(末社)とし、将軍家の祈祷料所としました。石清水八幡宮寺を本家と仰ぎ、石清水検校職(社務代官・雑掌の存在が確認した)に、史料上、鎌倉末期から南北朝期においては、確実に年貢が上納されていました。したがって、鎌倉末期の欠史時代はありますが、先行研究が説くように南北朝期に突然、再興されたとの指摘は妥当ではありません。
 鎌倉幕府の関東御領から室町幕府将軍家の御料所への転換、および石清水社務職による年貢所務の裁量権に鑑みますと、預所職の安定をはかった伊賀氏によって好嶋庄は将軍家御祈祷料所として再寄進され、石清水八幡宮寺を本宮(本社)に、好嶋庄の八幡宮を別宮(末社)とし、好嶋庄の本所として石清水八幡宮寺を奉戴したことは明白です。f0300125_12292990.jpg
 地域史の推移としては、その後、預所職を喪失した伊賀氏が「社家別当」「神主」の飯野氏を称するようになり、好嶋庄の飯野八幡宮は石清水八幡宮寺の別宮(末社)の立場から離れます。京都に本所をあおぐ荘園としての機能が消滅したことを意味します。14世紀後半、石清水八幡宮寺を本所(将軍家御祈祷料所)とする旧来の枠組みは、鎌倉府の東国統治、地頭国人の地域支配が深化することで解体されました。とくに観応の擾乱期を分水嶺として、石清水八幡宮寺と飯野八幡宮との本末関係(本宮と別宮)は史料の上でも、実質的にも断絶したと見なされます。

 今回、あらためて石清水八幡宮の地方荘園について考えてみましたが、400箇所を超える荘園や70数か所の別宮についての本格的な研究の必要性を痛感いたしました。石清水八幡宮を主とした課題であるとともに、中央政界(公武(こうぶ)政権)と地域社会がダイナミックに連動しながら進運する日本の全体史を理解するためにも、重要なテーマになるものと確信いたしました。
(2019年8月26日 鍛代敏雄記)

『一口感想』より

中世期における武家・公家・社寺・国人等の複雑な相互関係と、八幡宮ゆかりの荘園を通してご説明があり、興味深く聞かせて頂きました。(B・K)
石清水八幡宮について理解するということで参加させて頂いて、平安から江戸にかけての長い歴史の中の荘園や、別宮の意味がほんの少しわかった気がいたします。聞き慣れない言葉が沢山でしたが、歴史の中の経済・年貢のしくみが巧みに作られていたということですね。楽しく聞かせて頂き、ありがとうございました。(F・M)
石清水八幡宮の荘園が今回具体的に東北の果てにまで確認できたことを教えて頂きました。証拠(古文書)が存在していたにも関わらず、誤解されていたことを見事に解き明かして頂いたことに驚きを禁じ得ません。さらに、社務検校とその権力の大きさ、更には公家・武家とのつながり等々、興味の尽きないお話でした。ありがとうございました。(A・T)
講演の案内チラシは難しい内容で心配しましたが、講演をお聞きしてよく解りました。鎌倉~室町時代の石清水八幡宮の遠く陸奥の荘園までにも至る経済活動には驚きました。ありがとうございました。(T・M)
毎年この季節に石清水八幡宮に係わる新しい知見馬増えることは楽しみです。来年も期待いたしております。(N・H)
陸奥国好嶋庄の荘園の成立と消滅の間に石清水八幡宮が深く関わって、我々がよく知る鎌倉幕府や、室町幕府の将軍や武将の固有名詞が頻繁に出てきた。朝廷より発給された官符から検校補任状による石清水八幡宮検校への荘園年貢収取権の仕組みが明らかになるなど、中世独特のダイナミックな歴史の変遷には改めて興味を持ってしまった。失礼ながら「忘れられた荘園・・・」のタイトルから地味な講演かと思って足を運んだら、とんでもない。八幡の歴史の奥深さを再発見する次第となり、文句なしに刮目すべき素晴らしい講演内容であった。次回も今から大いに楽しみ。(T・T)
石清水八幡宮の荘園が陸奥国にあるということ自体驚きでしたが、飯野八幡宮に残っている文書が石清水八幡宮検校の出した文書であること、なぜそういう文書を出したのかもわかりやすく話してくださり、楽しかったです。当時の荘園の仕組みもわかり、知識が増えた感じです。ありがとうございました。(H・H)




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# by y-rekitan | 2019-09-22 11:00 | Comments(0)

◆会報第93号より-03 閼伽井①

石清水五水の閼伽井あかいのこと
―その1―

 野間口 秀國 (会員) 


男山にある三つの頂(いただき)

 大阪と奈良の府県境にある生駒山は標高が642mあり、生駒山系の最高峰です。ここから標高を低くしながら北になだらかに延びて、最北端の八幡市までつながっている様子が大阪市内から見ると良く分かります。八幡市の域内に入ると男山丘陵とも呼ばれますが、その最北端が石清水八幡宮のある男山です。向かい合う天王山との間に陸の狭窄部を造り、桂川、宇治川、木津川の流れを一つにまとめる役目を果たしているようです。
 ところで、この男山には「男山(オトコヤマ)」と呼ばれる頂(いただき)はありません。代わりに個別の名前を持つ三つの頂があり、東側の頂が「香爐峰(コウロミネ)」と呼ばれ、標高は123.8mで、『男山考古録 第二巻』に、「・・・ 唯大宮の御座所より南馬場前の形容を見渡して僧徒のいひ初めしならむ、・・・」等とあり、形が香呂(焼香の器)に似ていることによるものと書かれてあります。東西方向の中央の峰が「鳩ヶ峰(ハトガミネ)」(「科手山(シナデヤマ)」とも呼ばれる)で、三座の中で最も標高が高くて142.5mを数えます。この山頂からは天徳4(960)年と書かれたお経が書いてある瓦が出てきており「経塚」とも呼ばれており、鳩ヶ峰の名を校歌に取り入れている市内の小学校もございます。これら二つの名前は江戸時代に関する書籍や絵図などに記載されている名称で、八幡市文化財保護課の展示室と八幡市図書館入り口左の壁面の絵図(八幡山上山下惣絵図 江戸時代中期)にはそれぞれ、異なる表記で、香炉峯、鳩ノ峯の名が確認できます。 さて残る一座ですが、西側の頂が「閼伽井山(アカイヤマ)」と呼ばれていた山で、標高は134.2mであったようです。「阿迦井山」と書かれた書籍や史料もございますが、この山の名前は前述の惣絵図には見出せません。惣絵図の男山の西側一帯には複数の頂が描かれており、正確に同定はできませんが、狩尾社と鳩ヶ峰の間に描かれた頂がそうではないかと思われます。
 一般的に知られる山(連山や山地、山塊など)の名前と、そこにある頂の名前が異なる例は長野・山梨両県境の「八ヶ岳」や鹿児島・宮崎両県境の「霧島山」など(他にも多く)ありますので、特に断りのない場合にはこの辺り一帯の山を「男山」と呼んでも問題はないと思われます。今回はこれら三つの頂のうち西側の「閼伽井山」に少しこだわってみたいと思います。とは言え、ご本殿などのある香爐峰や経塚のあった鳩ヶ峰(科手山)とは違い、何かが残っている訳でもないのですが、かなり前から「閼伽井」の文字が気になっていたからです。

閼伽井とは何

 そもそも「閼伽井」とはどのような意味を持つ言葉なのかに疑問を持ったのが調べるきっかけでした。昨年の会報88号(2018年11月19日発行)にて狩尾神社のお祭りについて書いた際には、まだ「閼伽井」についての調べは出来ておらず、この春から少しずつ調べているうちに、解かった事、分からない事が少し見えてきました。先ず、「閼伽井」を辞書で引くと、岩波書店の『広辞苑 第三版』には; 「閼伽の水を汲む井」とあり、引き続き、「閼伽」とは; 「貴賓または仏前に供えるもの。特に水をいう。また、それを盛る容器。」とあります。仏前とありますので、仏教用語であり寺院で使われる用語とも理解できますが、貴賓ともありますので神前(神社等)でも使えるとも、また神仏習合の時代では共に使われたのであろうとも思われます。かつて参詣した高尾山神護寺の栞に「閼伽井」の表記を見つけて、今でも水を汲まれているのかをお伺いいたしましたところ、ご親切に現在でも法要などで水を汲んでおられるとのことを同寺の方より教えていただきました。
 続いて、八幡の事はこの本で、と言われる『男山考古録』で「閼伽井」(P258)を調べると、どのようなものか、どこにあるのか、などに加えて石清水五水の一つでもあることが書かれてあります。f0300125_16204377.jpgここで石清水五水(石清水五井とも)について書いてみたいと思います。五水を順不同に挙げると、筒井、石清水井、藤井、福井、閼伽井の五つです。筒井に関しては、『男山考古録』 (P386)には、“五水と称する名水の中にて第一の清水”とあります。また筒井および藤井は「石清水放生会絵巻」(石清水八幡宮蔵)に、石清水は「都名水視競相撲(みやこめいすいみせくらべずもう)」、(共に『京都二 江戸時代図誌2』 筑摩書房刊 図番255 & 262)に見えます。ちなみに石清水は、番付表に “享和二戌(1802)年六月新板 東(東南)之方に 前頭 八幡 石清水” と書かれてあります。なお、石清水より番付上位の小結、関脇、大関の名水についてはあえて割愛いたします。 このような中、福井は 『男山考古録』にも『京都二 江戸時代図誌2』 にも掲載が無く、どこにあるのかも定かではないようです。ある方に聞いたところによると、石清水八幡宮の二の鳥居付近だったらしいのですが正確な場所は不詳のようです。

絵図に見える狩尾社傍の赤井水

 最後に残るのが「閼伽井」ですが、『男山考古録』の前述の記載に加えて、“御本宮ヨリ七八町西在”、“科手山赤井ヶ原谷間云々”、“舊は狩尾社に獻備の閼伽井なるへし” などの記載があり閼伽井の存在がかなりはっきりとしてきたようです。それにしても、御本宮ヨリ七八町西(1町は109m強として763~872mくらい西)からは大体このあたりとしか分からないです。市内地図を広げて、おおよその箇所を記してみました。
 さらに調べを進めると、前述の図書館などの惣絵図で、相当すると思われる個所に 「赤井水」の表記があることに気づきました。その場所は狩尾社にも近く、市内地図に記したあたりとも一致することがわかりました。『男山考古録』で「閼伽井」の項を読んでいると、さらに眼を引く内容が以下のように書かれてあります。 引用すると 「・・・橋本町に赤井黨(あかいとう)とて五名の民あり、各赤井を名乗る、此邊の山を傳て預り領す、・・・」 引用終わり。 黨は党と同意文字で、郷里の仲間(親類縁者)との理解ができます。書かれているように、現在でも橋本奥ノ町には十軒を超す赤井姓の方々が住まわれております。
f0300125_16301352.jpg さて石清水五水の閼伽井に戻りますが、『男山考古録』に書かれた “御本宮より狩尾社へ詣る道の北へ少しく入細道の傍に六尺許の井在り・・・・” をたどり、前述の “御本宮ヨリ七八町西” を目途にそれらしき小さな池(井)を見つけることができました。それは粘土質の地に、“六尺許”と書かれてあるように、長さ方向が約2m(幅は狭い方が1.2mほどで、他の一端が2mほど)の茄子のような形をした小さな池(井)が静かにたたずんでいるといった風情で存在しました。誰かが放したのでしょうか、四五匹の小さな金魚が泳いでいるのが印象的でした。

 果たして上記の「小さな池(井)」が閼伽井なのか、赤井姓の方との関連があるのかを知りたくて、長年にわたり橋本にお住まいで、地元のことに詳しいT氏を訪ねました。いろいろなお話を聞くうちに、T氏より氏の知人のお一方に電話をおかけいただき、以下のような貴重なお話(言い伝えが残っていることなど)を聞かせていただきました。
1)「閼伽井」のあった場所は確認できた箇所で間違いないでしょう。
2)もとは小さな川(沢)があり、その一部が取り残されて現在の形のようになった。
3)明治の初めまではこの場所から水を汲んで狩尾社に供えていた。
上記に著者の現地確認での気づきなどを少し加えてみたいと思います。
上記2)は、河跡湖(三日月湖)のようなものと思われる。
『男山考古録』にある石碑や周囲を囲った岩などは現存しないが、場所や大きさは書かれたものとほぼ一致するようだ。
池の傍に高さ70~80cmほどの杭が1m足らずの間隔で2本残るが、おそらく何年か前までは何らかの説明板があったと思われる。
粘土質の小さな池であるが、金魚が数匹泳いでいることから、常に一定量の水が湧いていることが伺える。 また、水は池から流れ出してはいなかった。
ほぼ自然の中にあって、現在では管理されている様子は見られない。
粘土質の色合いによって、他の五水(井)とは異なり「赤い水」の様相を呈していたので「赤井水」と惣絵図には記されたのではないのだろうか。 ちなみに惣絵図(中央部に)には「閼伽井坊」の記しも見られるが「赤井水」とは関係なさそうである。
 
 最後に「閼伽井山」の頂の位置について今一度思いを巡らしてみたいと思います。御本宮から西へ、橋本道(狩尾道)を経由して、鳩ヶ峯の西にあり、狩尾社に近い池(井)をその麓に持つようなところは、惣絵図の中で鳩ヶ峰と狩尾社を結んだ真ん中あたりに描かれた頂であろうと、自分なりに理解しております。私の個人的な興味にご親切にお付き合いいただきましたT氏に深謝申し上げます。

関連史料及び関連書籍等

『文化燦燦 第一号』  石清水八幡宮刊 
『男山考古録』 永濱尚次
『京都二 江戸時代図誌2』 筑摩書房刊 図番255 & 262
「八幡山上山下惣絵図」 江戸時代中期 国立公文書館内閣文庫蔵
「石清水八幡宮全図」 中井家文書 京の記憶アーカイブ



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# by y-rekitan | 2019-09-22 10:00 | Comments(0)

◆会報第93号より-04 歴史散歩④

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シリーズ「私の歴史さんぽ」・・・④

私の身近な歴史散歩
―路傍の石仏や石塔などを巡る―

           高田 昌史 (会員) 


はじめに

 約40年以上前に八幡川口の梨園が宅地に転用され販売された。私は勤務地が川向いの大山崎だったのでその第一期分譲で移り住んだ。周辺は田園で木津川にも近くて、環境面で大変気にいっていたが、当時は高度成長期で会社では異常に忙しく帰宅は毎日遅くなり休日も出勤することが多く自宅と会社を往復の毎日であった。
 その頃、退職後は晴耕雨読が理想との風潮もあったが退職して落ち着いた頃、近所を散歩した時に住宅地外周の排水溝の上に小さな石仏と一石五輪塔が置かれていたので、お聞きすると宅地開発時に地中から出てきたのでお祀りしているとのことでした。f0300125_1212345.jpg
それで、八幡市の遺跡地図(2005年版)を調べるとこの付近一帯は「川口扇遺跡」地域であることを知った。
 私は小学5年の頃に学校近くの古墳と言い伝えられていた小山の中腹から土器を掘りだして、学校に持って行き教師から大変怒られて元の場所に埋め戻しに行った経験があり歴史に興味があった。就職後は担当の商品開発競争に明け暮れたが、フリーな身となったので、少なくとも終の棲家となる地域の歴史を知りたいと思い、発足間もない歴史好きのグループ「八幡の歴史を探究する会」に入会した。それからは歴史の宝庫ともいえる八幡の歴史の調査や探究をしているが、今回は身近な場所の「歴史さんぽ」をする。

田園地帯の巡検道散歩

 住宅地の排水溝の橋を渡り水田の中の農道を約100m行くと江戸時代の旧道「巡検道」と合流する。この巡検道は八幡神原から大谷川を渡り田園地帯を通り下奈良までの約2㎞の道のりであり、江戸時代を通じて神領内における社務家領や僧坊領などの当番役が検見や収穫の管理にあたっていた道のようである。現在は農道として管理されている巡検道を散歩しながら、その周辺の遺跡や路傍の石仏巡りをする。
(1)獅子塚跡
 その水田に沿って曲がりくねった巡検道を行くと田んぼの一角に「獅子塚跡」の三宅碑があり、その奥には小さな阿弥陀如来の石仏と破損した五輪塔の一部が祀られていた。
f0300125_12235626.jpg
この場所は、「男山考古録」によると下奈良に居住した八幡宮獅子座神人ゆかりの獅子 降りたる跡と伝えている。地元住人もこの一角には作物は栽培しないで大事にされていると伺った。その奥には小さな阿弥陀如来の石仏と五輪塔の一部が祀られており、この空き地には草花を栽培してこの一角は守られている。
(2)今里遺跡の発掘調査地
 獅子塚跡から暫らく行くと下奈良の国道1号に通じる車道と合流する地点が巡検道の終点であるが、その手前左側に見える隅田墓地の西側は、平成25年(2013)から八幡市が発掘調査を実施し、現在は埋め戻されて市道建設中(二階堂川口線バイパス)である。f0300125_12313427.jpgこの発掘調査では、室町時代の火葬炉(平石に三(さん)茎(けい)蓮(れん)が彫られている)や一石五輪塔などの石塔類、それに墓の供献品(六道銭と土師器)などの多くの遺構や出土品があった。【自宅近くだったので発掘調査中は何度も訪れて当時の文化財保護課の調査担当者の説明をお聞きした、その概要は会報49号で報告】
 ただ、その発掘調査報告書が、まだ八幡市から発行されていないことが大変気になる。
(3)井関経塚(きょうつか)
 その遺跡調査地の道を右前方の駐車場の奥に直径5m程度の小さな小山がf0300125_13294790.jpg「井関経塚」である。男山考古録には“桃井塚(或は経塚)”「寛保3年(1743)の註進記に行基之経塚とあり」と書かれている。

経塚:仏教の経典を地下に埋め、土を盛ったものです。末法の世に経典がなくなることをおそれ、末法が終わるまで保管することが目的でしたが、次第に極楽に行けるようにというお祈りや死者の供養目的に変わっていきます。(防府歴史用語辞典)

(4)路傍に置かれている多くの石仏や石塔
f0300125_13365731.jpg 巡検道の終点の車道と交差する向い側の水田との狭い空き地には約百体の比較的小さい石仏や石塔が並べられている大変珍しい光景を目にする。石仏の前にはお供えもされている。これらの石仏類は主に道路下の水田や畑などを耕作中に出土したもので、中にはお坊さんにお経をあげてもらい供養してから置かれた石仏もあるとお聞きした。この狭い一角の下が水田で保全されたような場所だったが、今年に入り水田が運送会社の用地に転用されるために、地上げ整地の工事中なのでこの場所が今まで通りに残されるか心配になる。
(5)隅田墓地に集められた多くの石仏
 巡検道の終点の左側は川口・下奈良・二階堂の三集落の隅田墓地であるが、墓地南東隅の道路側ブロック囲い内の無縁墓の後方には墓地内や周辺から出土した数百体の石仏や石塔・石碑類が集められている。
f0300125_1344393.jpg なお、この隅田墓地の入口には『学術データベース「近世以前の土木・産業遺産」』では、京都府下の道標で初めてAランクに登録された嘉永4年(1851)に建立の「往生礼讃道標」がある。この道標は2017年10月編集発行した『「石清水八まん宮道」に誘う道標群』には、“◇正面の「往生礼讃像」は風化していなく鮮明“と記載した。しかし、今回確認すると鮮明だった“往生礼讃像(7体)”は、2年前に撮影した時と比較すると急速に風化が進んでいることに驚いた。この風化の進行はこの道標だけでなくすべての道標の碑文が最近急に風化が進んでいるように感じる。前述の「獅子塚跡」の三宅碑の碑文も同様の傾向である。この数年の異常気象の影響か?

おわりに

 以上、自宅近くに水田地帯の農道(巡検道)の約1㎞散歩だったが、 f0300125_1347410.jpg道の傍らには多くの石仏や石塔が大事にされ祀られていることには、石清水八幡宮神領の「外四鄕(そとよんごう)」に位置する川口~下奈良地域の長い歴史を感じる。なお、巡検道終点の下奈良から北方向になる「川口環濠集落」南入口の道路ガードレール前にもお地蔵さんが祀られていて、いつも花を添えられている。
 この集落の中央道を北に抜け府道22号(八幡木津線)を渡ると木津川堤防である。

【参考資料】

(1)「男山考古録」巻第十五 長濵尚次著
(2)八幡市誌 第二巻
(3)八幡の歴史を探究する会「会報49号」記事
       ―今里遺跡の発掘調査報告―(2014年4月発行)




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# by y-rekitan | 2019-09-22 09:00 | Comments(0)

◆会報第93号より-05 10周年記念誌

     10周年記念誌

『八幡の歴史を探究して10年』
を発行しました


「10周年記念誌」編集委員会


 「八幡の歴史を探究する会」は2010年4月6日に設立し、活動がはじまりました。「歴史好き」の市民が集い、八幡の地域史を知って楽しみましょうとの思いで、講演会・現地見学会・会員研究発表・古寺巡礼・連続学習会・会報、冊子の発行・懇親会等々活動を続けてはや10年になりました。
f0300125_8102246.jpg 2019年4月20日に開催された「年次総会」の「活動方針」で「発足10周年記念誌」の発行が決議され、予算も承認されました。早速に「記念誌編集委員会」を立ち上げ、何度も会合を重ねて準備し、このたび発行のはこびとなりました。
 思い返しますと「知らない事を知る、それが地元地域の身近な事」で本当に楽しい事でした。編集会議では、表紙・写真・文章・校正等多難な事ばかりでしたが、その結果がこのような「八幡の歴史を探究して10年」として纏まり、目にする事が出来ました。本当に嬉しく思います。
 ありきたりの「記念誌」ではなく、「記念特集」として10年間の軌跡とともに様々な分野の記念投稿文にも注力いたしました。
 この会は市民の方々の思いで出来上がったものであり、今後ともこの初心を大切にして活動して行きたいとと思っております。

 記念誌は、会員の皆様には2019年9月発行の会報93号と共にお届けします。また、今までお世話になった諸先生方や団体の皆様に謹呈いたします。それにくわえて市内や近隣の図書館などに寄贈し、国会図書館にも納本いたします。
記念誌編集委員 

    倉田 美博  高田 昌史   滝山 光昌 
    谷村 勉   野間口 秀國  村山 勉

10周年記念誌『八幡の歴史を探究して10年』の主な記事 

   Ⅰ.八幡の歴史を探究する会の10年間
    ・「八幡の歴史を探究する会」の発足から発展へ
    ・10年間の活動概要
   Ⅱ.10周年記念特集
    ・設立10周年記念特集について
    ・八幡の古寺
    ・エジソンと八幡の竹
    ・式部谷銅鐸とその時代
    ・松花堂昭乗書状
    ・八幡宮道と道標
      ―歴史を探究する、伝える、残す―
    ・淀屋の謎に魅せられて
    ・「鳥羽・伏見の戦い」雑感
    ・石清水八幡宮と相撲
   Ⅲ.資料編
    ・「八幡の歴史を探究する会」10年間の軌跡
    ・会 則

記念誌の体裁と配布について

 A4版で表裏表紙と中表紙はフルカラーとし、記事はモノクロで76ページに仕上げました。記念誌印刷原稿はpdfファイルとし、ネット印刷で製本したので費用は安価に抑えることができました。
会員の皆様には前述のとおり、無償にて1冊お届けいたします。
 また、追加のご注文や非会員の方々へは有償(1冊300円の予定)にての配布とさせていただきます。

これからの「八幡の歴史を探究する会」の活動

 お陰様で会員の皆様のご協力により、計画通りに「10周年記念誌」を発行することができたことは嬉しい限りです。
今後も「八幡の歴史を探究する会」の会則の通り、八幡の歴史についての探究と共有を目指して、三本柱の活動(研究者講演・現地見学/探究・会員の研究発表)を継続していく所存です。
 “八幡の歴史や文化を、一緒に学びませんか”をテーマに年間6回開催している「八幡の歴史を学ぶ連続学習会」も今年で4年目ですが、定例の学習会として皆様と一緒に八幡の歴史を学んでいきたいと思います。
 引き続き、会員の皆様のご支援・ご鞭撻をよろしくお願いします。
f0300125_8191843.jpg

# by y-rekitan | 2019-09-22 08:00 | Comments(0)

◆会報第93号より-end

この号の記事は終りです。


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# by y-rekitan | 2019-09-22 01:00 | Comments(0)

◆会報第92号より-top <スクロールだけで全記事が読めます>

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
このまま下にスクロールして頂くと順次連続してご参照頂けます。

この号が最新号です。

◆シリーズ:“心に引き継ぐ風景” ㉓◆
◆《歴史探訪バスツアー》◆
-平城宮跡歴史公園巡りと大安寺を訪ねて-
◆美味しいトマト◆
◆講演と交流の集い(4月例会 その2)◆
-南山城の横穴墓と被葬者像を巡って(後編)-
◆シリーズ:“御本社道を探る” ③◆
◆本会発行冊子の道標記事が「学術データベース」に掲載されました◆



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# by y-rekitan | 2019-07-24 15:00 | Comments(0)

◆会報第92号より-01 中村久越

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心に引き継ぐ風景・・・㉓

八幡市誌、中村久越の事
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 八幡市誌第二巻『近世八幡の文化人たち』の中で「八幡の文化面では、松花堂昭乗の影響は極めて大きい。中村久越は八幡宮社士で、昭乗門下でも特に書にすぐれた才能を持ち、能書によって将軍家から禄をもらったとされるが、その記録も明治初年の兵火によって、全て焼け、全く伝わっていないという」と本文3行の記述がある。八幡市誌の「将軍家から禄をもらった」との記述は間違いで、警固職神人、侍身分であった「中村久越は加賀三代藩主前田利常公の祐筆として禄を得て、禄は幕末まで代々続いた」とするのがより正確な記述です。
 一世代前までの八幡には「歩く辞書」と呼ばれる人々が大勢居たが八幡市誌執筆当時、すでに伝承の断絶は始まっていたか? 中村久越は江戸時代初期にして八十八歳の長寿を全うしている[天正18年(1590)~延宝5年(1677)]。先年、中ノ山墓地に中村久越の墓石を発見した折、不明であった没年月日が初めて公になった(歴探会報35号「墓石をたどる②」に報告)。前田利常公が参勤交代で江戸に在るときは、利常公の命により、久越は八幡に帰り中院通村公、水無瀬氏成卿、小堀遠州、佐川田喜六らと詠歌喫茶を通じて親しく交遊していた。もちろんそれが久越の仕事にも生かされている。寛永九年(1632)十一月十五日の「松花堂茶会記」に中村久越参加の茶事が記録されている。
(文と写真 谷村 勉)空白



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# by y-rekitan | 2019-07-24 12:00 | Comments(0)

◆会報第92号より-02 平城宮跡

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《6月例会 歴史探訪バスツアー》

平城宮跡歴史公園巡りと大安寺を訪ねて

  滝山 光昌 (担当幹事)







日時: 2019年6月5日(水)
訪問場所:奈良市平城宮跡歴史公園、大安寺、元石清水八幡宮
行程:八幡市駅前出発→平城宮跡歴史公園(朱雀門広場)→ 【朱雀門及び各展示館等見学後に昼食】→ 資料館着 → 【第一大極殿→遺構展示館見学等】→大安寺→元石清水八幡宮→八幡市駅着
参加人数: 21名

 バスは参加人数の減少で大型から中型に変更し、8時30分に八幡市駅を出発しました。往道は高速道路を使うことなくのんびりと。10時少し前に奈良市平城宮跡歴史公園に到着した。午前中は曇っていましたが、午後は晴れて蒸し暑い1日になりました。帰路は高速道路を使い、午後5時半頃八幡に着きました。以下、ツアーの概要を報告します。


1.平城宮跡歴史公園

 平城宮跡歴史公園は、奈良市内に広がる特別史跡平城宮跡を計画地とした国営公園です。(国営公園区域約122ha、その他区域約10ha 合計で約132ha)

平城京の歴史
 f0300125_1111818.jpg710年( 和銅3年) 藤原京( 奈良県橿原市)から奈良盆地の平城京に都が移された。
 南北約5km、東西約6km、中央北端には「平城宮」が造られた。平城宮は約1km四方の広さで、大極殿などの宮殿や天皇の住まいである内裏が造られた。
 聖武天皇は740年~745年恭仁京や難波京Iに都を移すが、再び平城宮に帰ってきた。その前後で平城宮の建物は大きく造りかえられた。
 平城京は784年京都(長岡京)に都が移ったのち、放置されその姿を地上から消えてしまっていた。710~784年の74年間を奈良時代と称する。(平城宮跡クイックガイド参照)

(1) 朱雀のひろば・ 平城宮いざない館・天平うまし館
 10時前に朱雀ひろばの駐車場でハスを降り、昼食まで自由行動。
 まず、参加者が向かったのは朱雀門。ここは1998年(平成10年)に復原された。
 平城宮の正門であり、その前では外国使節の送迎を行ったり、大勢の人達が集まって歌垣などを行ったりし、正月には天皇がこの門まで出向き、新年のお祝いをすることもあった。
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 次に、奈良時代の平城宮を体感し、出土品や資料のよみときできる、平城宮いざない館へ。
 展示室「平城宮跡のいま」は、平城宮跡の全体像と注目ポイント、四季を彩る豊かな自然、進行中の復原工事情報など公園をしるための各種情報・最新情報を展示。
 展示室「時を越えて」は、奈良文化財研究所による継続的な発掘調査・研究により明らかになってきた平城宮・平城京の姿。現代人に共感できる視点で出土品や資料を紹介展示室「平城宮のようす」は、平城宮全域の復原模型(1/200) や大型映像、平城宮一日絵巻など、往時の平城宮に入り込んだような空間中で、奈良時代の雅な世界が理解できるように。
 展示室「往時のいとなみ」は、第一次大極殿復原にあたり製作された構造模型(1/5) を間近に見ながら、組物・瓦葺き・木蘭文書づくりなどさまさまな体験ができる。
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 昼食は、天平うまし館で野菜を中心とした定食(メインディッシュは素魚のフライ)を頂いた。館の前には復原された遣唐使船がつながれている。
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(2) 平城宮跡資料館・第一次大極殿・遺構展示館
 昼食後、バスで平城宮跡資料館駐車場まで移動。ここからは奈良文化財研究所のガイドさんの案内があった。
 まず、平城宮跡資料館は奈良文化財研究所が1960年代から行ってきた平城宮の調査をもとに、平城宮跡のことを分かりやすく解説する施設。奈良文研は、木商の研究で有名なようだ。
新聞の土曜番に最近までここの研究者が木簡についての記事を連載されていたことを覚えている方もいるだろう。ガイドさんによると、一部の木簡は国宝に指定されたとのこと。
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 第一次大極殿は2010年正殿の復原が完成した。
 古代の宮都における中心施設で。元旦朝賀や天皇の即位など国家儀式の際に天皇が出御する場所。
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 遺構展示館は発掘調査で見つかった遺構をそのまま見ることができるほか、第一次大極殿や内裏の復元模型を展示している。
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2. 大安寺

 大安寺には、午後3時過きに到着した。
 直ぐ本堂に案内され、お香で掌を清め、河野良文貫主様のお勤めのあと、大安寺の栄枯盛衰についてお話を伺った。本堂は全面格天井の造りで、天井付近は、最近建立された普通のお寺の本堂には見られない丁寧で複雑な造作がなされていて、往時の繁栄が偲ばれた。
 お話によると、聖徳太子により、飛鳥の藤原京に建立され、平城京遷都に伴い今日の地に移された。奈良時代は七重の塔を持つ当時最大の大規模な伽藍であった。当時は800名以上の学僧を擁し、仏教の総合大学となっていた。空海、最澄等の名僧もここで修行されている。宇佐八幡宮からご祭神を勧進し、石清水八幡宮の建立に携わった行教(空海の孫弟子)は大安寺の修行僧である。
 都が平安京に移ると、旧都は次第に寂れてきた。本寺も度重なる災禍により、大伽藍も全て失われ、江戸、明治期は廃寺のようなであったが、九体の天平仏のみ難を逃れ、今も残った。
 現在境内の広さは最盛期の約1/25となり、南都七大寺の中では逆に一番小さいお寺となってしまった。お話の中で、先日東京から団体の参拝があったが、「奈良の隠れた古寺巡り」のような名称がツアーに付いていたのにはがっかりしたとおしゃっていた。
 大安寺は近年「がん封じ」の祈願寺として知られるようになっており、1月23日に行われる。
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 大安寺は真言宗の寺院で、こ本尊は十一面観音立像(重文)。この他に宝物殿に七体の仏像が安置されいずれも重文に指定されている。又、噺(いななき)堂には馬頭観音(重文)祀られているがこれは、通常非公開で、3月1日~31日に特別公開されている。今回宝物館の表扉を開放して頂いており、明るい中で仏様を拝することができた。本尊様も通常御簾に隠れていらっしゃるが、10月1日~1月30日に特別公開されている。

3. 元石清水八幡宮

 元石清水八幡宮は大安寺の南徒歩5分の所にあり、以前は大安寺の境内であり、 f0300125_81372.jpg南隣には大安寺の大塔の遺跡がある。
 807年(大同2年)に「大安寺」の僧行教により、大分の宇佐八幡宮より勧進され、大安寺の鎮守とされていて戦国時代末には廃絶状態になったが、地域の人々の鎮守として再興された。
 また、「行教和尚は夢の中で京都の男山に八幡大神(応神天皇)を祀れというこ神託を受け、859年(貞観元年)京都府八幡市に山城石清水八幡宮(男山八幡宮)が建立されます。」とも伝わっている。御祭神は仲哀天皇、応神天皇、神功皇后を祀る。
 この神社は今、神社修復事業を行っており、参詣したときは中門は工事中だった。

4. おわりに

 平城京は710年~784年の74年間で平安京に遷都した。平城京は地上から跡形もなく消滅した。しかし、神社・寺院は現在まで残っている。行政に携わる人々は平安京に移ったが、桓武天皇は寺社勢力の政治への不当介入を阻止するため寺院の平安京への移転を禁止した。

 午後からは暑い中、2班に分かれて奈良文化財研究所のガイドの方に熱心に案内して頂いた。後日、文化財研究所にお礼の電話をしましたが、当日担当された2人のガイドさんからは「楽しくガイドできました」との報告が入っている、と伺いました。
 また、大安寺の本堂では、河野貫主にはお勤め後の講話の中で「石清水八幡宮を勧進した大安寺の僧行教」のお話をして頂きました。
 以上、今回のバスツアーは、快晴の中、盛り沢山のスケジュールでしたが、参加の多くの方から「しんどかったが、楽しかった」との感想をお聞きして、担当幹事一同安堵しました。
 また、来年度も歴史探訪をツアーを計画したいと思います。


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# by y-rekitan | 2019-07-24 11:00 | Comments(0)

◆会報第92号より-03 美味しいトマト

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美味しいトマト

木津の流れと八幡の農

倉田 美博(会員)


●美味しいトマトは・・・

 先日、友人が自分で育てたというトマトを1個くれた。食べろ、食べろと言うので食べてみた。これが実にうまい。
 本当に自分で育てたトマトかと、問いただしてみたが、なかなか本当のことは答えなかった。
彼の実家は農家だった。すでに実家は廃虚となり誰も住んでいない。ただ、所有していた田畑は売るに売れず残っている。
 このように耕作放棄地は彼のところだけではない。全国いたるところに点在している。だけど、そのまま放置しておくと近所にも迷惑が掛かるので、彼は数カ月に一度草刈に帰郷している。もうそのような生活を始めてから何年になるのだろう。
 まだ、屋敷もそのままにしてある。だけど建物は誰も住まなくなると朽ちるのも早い。すでに廃虚に近い状態。彼にはもう帰って新しい生活を始めようとは思っていない。今は帰郷した時に寝泊まりするのがやっとだ。家族に一緒に行こうなどとは言えたものではないとのこと。
 何時ものように畑の草刈りをしていた時、お腹がゴロゴロと。屋敷まで持たないかもしれない。作業の途中だしやり始めた作業を中断しなくてはならない。まわりを見渡しても誰もいない。それをよいことに畑の端にシャベルで穴を掘り、しゃがみこんだ。
 彼は草刈りに行く時にはいつもクーラーボックスに冷たい飲み物や食べ物、それにトマトを入れて置く。よく冷えたトマトはひと汗かいた後には何よりのご馳走だ。トマトに含まれているクエン酸が疲労回復に効果があると言われている。
 梅雨も明け、さぞかし草も茂っているだろうなと思いながら、例の場所に草に絡まるようにして、何か赤いものが、それは赤く熟したトマト。見るからにおいしそう。一つもぎ取り、口に入れようとしたがどこか抵抗がある。そこは以前にもよおした場所のようだ。便にトマトの種が消化せずにいたようだ。
 それを私にくれたようだった。
だけどおいしかった。以前に農家の方が夏作には動物由来の肥料を施すと味が濃くなると、言われていた。

●水洗トイレはいつ頃から・・・

 私の記憶は定かではないが。そう遠くない過去のような気がする。
 私の家は子供のころ。いいや、大人になってからも、便所はすべて汲み取り式だった。
 私の生まれ育ったところは京都市内の郊外、近隣の農家の方が、汲み取りに来てくれ、その度に自家製の野菜を置いて行ってくれていったように記憶する。
 人間も含めて動物たちは生きていくためにはものを食べなくてはならない、食べれば必ず排泄しなくてはならない。人間にとって最も大切な生理行為のひとつだ。その排泄物はすべて大切な資源となって、循環型の経済活動として繋がっていった。
 ところが糞尿も台所や洗面・風呂などと同じように生活排水となり、川へ流されて環境汚染を引き起こした。
 水洗便所の普及に合わせるように肥料として利用されることが少なくなり、今では皆無に近い。
f0300125_23412661.jpg 右の表(表1)は昭和6年(1931)の京都市の汲み取り量だ。すでにほんの一部ではあるが水洗便所が存在していた。
 しかし、大部分は汲み取り式の便所で、その多くは農家がくみ取っていたことが判る。
化成肥料が普及するまではたい肥、家畜の糞尿などと共に人間の屎尿も欠かせないものであった。屎尿の汲み取り量は昭和46年(1971)の511,164klをピーク に、その後は減って行った。下水道の整備が進み、汲み取らずに下水道に流される屎尿の量が増えたからである。要するに水洗が増加したからである。

●八幡は奈良時代から野菜の産地・・・

 わが国で農業(植物の栽培)が始まったのは縄文時代末期と言われている。やがて我が国の政治、経済の中心が畿内(大和、山城)となった。
 我々が生活する山城南部は大きく分けて都(都市部)、大和に近い相楽、そして都や大坂にも近い、八幡などの綴喜・久世にわけることができる。
 特に綴喜は京大坂などの大都市消費地に近く、古くから大都市近郊農村として、野菜などの供給地として換金作物の栽培が盛んであった。
 ふるくは大量輸送には船が重要な役割を果たし、山城南部の中心を流れる木津川(淀川水系)がその収穫物などの輸送に重要な役割を果たしていた。
 八幡には奈良時代「長屋王」の荘園の存在がおおきく、八幡にあった荘園では長屋王の家内で用いる野菜が栽培されていたとの記録があるという。ある大学教授は京野菜の高度な栽培技術の原点になったと考えられると。
 品質の良いものを多収するには栽培環境もさることながら、その卓越した肥培管理が重要なポイントとなる。歴史の中ではぐくまれた高度な栽培技術、適切な肥培管理が生かされているとわたしは思う。

●肥料といえば・・・

 我々は肥料といえば顆粒状や固形になった化学肥料しか思い浮かべない人が圧倒的多いのではないだろうか。
 一般的に化学肥料といわれるものは約100年前の1913年に工業的アンモニア合成に始まる。
それまである程度広く使われていた化学肥料といえば、1842年にローザ ムステッドのローズ(J.B. Lawes)が動物の骨(後にはリン鉱石)を硫酸で処理して製造した過リン酸石灰だけであったといってもよい。
 化学肥料が導入されるまでわが国で肥料といえば農家が自給する堆肥、厩肥、草木灰、刈り草などの緑肥。
 農作物の肥料として農家が対価を払って入手した金肥は菜種油粕、大豆粕、過リン酸石灰などで、これらも利用されていたが、効果と費用のことを考えると、屎尿の方が有利であった。
 ただ、農芸化学が証明するとおり屎尿の施肥は、土壌微生物による屎尿の無機化するために発酵させねばならなかったし、屎尿の汲み取りには手間がかかる重労働であった。
 わが国における農業でどんな形であれ施肥が始まったのは何時ごろからだろうか。また、下肥の農業利用も、それを窺わせる史料は古くから見られるが、明確な記述はやはりかなり時代を下ってからでないとみられない。
 どのような肥料であったとしても栽培作物への施肥は弥生時代、農業が始まって早い時期までさかのぼらねばならない。
 農業は当初、焼ばたや転作から始まった。食料が安定的に供給され始めると定住化が進み、人口の急激な増加をもたらしさらなる食料の確保が要求され始め、同じ耕作地での栽培を余儀なくされた。繰り返し、作物を栽培することにより、その耕作地の地力が失われて生産力を低下がみられるようになった。さらに人口増加はさらなる問題が生じ始め、生活汚物など環境が悪化をもたらした。その対策としても堆肥、下肥を植物の栽培のための肥料として利用されるようになったと考えられる。
しかし、洛外(都市近郊農家)では、屎尿は農業に利用されること、施肥技術の向上で良質な作物を育てることができるようになり、特に、トマト、キュウリなど果菜類の栽培には欠かせない肥料として、珍重されてきた。
 これからの農業は糞尿に頼ることがほぼなくなり、化学肥料への依存度はますます高くなり、食品の清潔感は増していくが、その将来を考えると肥料資源、中でもリン酸資源の有限性が大きな影を落としている。
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●衛生都市洛中・・・
 
 都市部としての洛中であり、概算すると南北に 6km、東西に3.5kmの広がりを持つ.洛中の面積は、現上京区・中京区・下京区の合計面積約20㎢ にほぼ一致する。
 洛中の人口は約25万~30万人(時代による人口の増減はあまり見られない)。
 そこから排出される屎尿は総排出量もおおよそ年間43万石(約77,000㎘・天明8年(1788))と試算されいる。
 もし、これだけのものが回収されなかったら、洛中はどうなっていただろう。まず、衛生面で都市機能はマヒしてしまっていたと考えられる。
 喜田川守貞(19世紀半ば)の随筆『守貞謾稿』によると、京大坂の「巨戸」や「中戸」と呼ばれた邸宅には「雪隠」が、「小戸」と称されたいわゆる長屋には共同便所(惣雪隠)が,それぞれあり、住宅規模の大小や便所の形状に関わらず屎尿は蓄えられていた。それを農家が汲み取り利用していた。
 さらに、小便に関しても、もっぱら溝に棄てたといわれる江戸と異なり、京大坂では公道で放尿することは禁じられ、一種の公衆便所が「尿(にょう)桶(おけ)」道端の至るところに置いて、通行人の尿までをも蓄えられていた。すでに衛生に配慮した都市となっていた。
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●商品としての屎尿・・・

 京大坂など、大都市近郊の八幡をはじめとする山城南部は京大坂、奈良や八幡の山下なども含めた大消費地をひかえた都市近郊農村として、野菜などの栽培も盛んだった。その主要な肥料としての屎尿の供給を京都・洛中より受けていた。
 屎尿の多くは農家によって汲み取られ農作物の肥料となっていた。しかも農家はその糞尿に代価を支払って汲み取らせてもらったのだ。
 農作物の肥料として菜種油粕、大豆粕、過リン酸石灰なども対価を払って入手した金肥であるが、費用対効果のことを考えると屎尿の方が有利であった。
 ただし屎尿の汲み取りには手間がかかり、いかに費用面、効果面ですぐれていても汲み取りに手間がかかりすぎれば肥料としての価値は下がってしまう。
 洛外の農家が利用する量からみると大量の屎尿が必要で、とうてい農家だけでくみ取ることは不可能と言わざるをえない。
 そのために肥料問屋と言われる商人が介在し、やがて公的な機関も乗り出すこととなった。
商品として取引されるようになり、都市住民と農家との間をスムーズに取り持っていた。
 やがて農家の肥料として利用限度を超え、それまで農家が支払っていた対価を、都市住民が汲み取り料として支払わなくてはならなくなった。
 糞尿は蔬菜栽培だけでなく、タケノコ、お茶や米麦栽培などあらゆるものに使用されて良質な作物を育てて、得るものも多くなった。特に、トマト、キュウリなど果菜類の栽培には欠かせない肥料のひとつだ。

●屎尿の輸送は・・・

 大量の糞尿は水運,つまり高瀬船によって,洛中から農業が盛んであった京都南部の農村へ向けて輸送されていた。
f0300125_1750388.jpg 高瀬川運河は慶長17年(1612)から同18年(1613)にかけて開削され、大坂方面から洛中への物資の輸送を目的として、米・塩その他食料品や材木・薪炭などを過書船や淀船で搬入するのに用いられた。その下り便を屎尿運搬に有効活用したものである。
 高瀬船は1日当り200艘近くも就航できる状態で、洛外への廃物の搬出にも貢献し,洛中と洛外のあいだの物質循環をよりいっそう活発化させていた。
 洛中の高瀬川沿いから積み込まれた屎尿は水上運輸の拠点である伏見まで運搬され、「伏見屎や勘兵衛」といった屎尿商売人を介して京都に隣接する 大坂の農村にまでも販売されたものもあった。
 屎尿は、その成分価に比べて容積が極めて大きいため、運搬に多くの労力を必要とし、供給地である洛中からの距離が遠くなるにつれ価値は小さくなっていく。
 それゆえ、洛南、綴喜の近郊蔬菜栽培地域での施用が多く、稲作、麦作、菜種や果樹、桑、栗その他の栽培に多く施肥されていた。
 綴喜でも八幡近辺の有智郷や大住などでも蔬菜栽培のほか竹林などに多用されており、上津屋村も伏見の屎尿問屋から購入していた。
 孟宗畑では反当施肥量は約150貫から1000貫と言われている。もちろん、米麦類、穀類の栽培にも利用されている。
 又、町場からの排出されるものは安価に入手できるとして珍重された。淀川の舟運が盛んな時は下り便を利用出来たが、船便もなくなり、片引車、牛引車などで、やがてトラックが普及するとトラック輸送も始まった。
 京都府下で主としてトラック輸送は昭和初めころよりで、京都市の屎尿が運ばれた地域は、南桑田郡吉川、綴喜郡大住、有智郷、久世郡御牧、相楽郡相楽地域だった。
 糞尿だけでなく、綿花栽培が盛んになってくると、干鰯や油粕などの金肥の使用が一般化してくる。
 その後、東京オリンピックの頃からは化学肥料が主流となり、現在に至っている。
 今後、農業も水耕栽培など土壌を用いない栽培方法が多くなり、人工知能による無人栽培などが普及すればますます化学肥料を中心とした農業経営となっていくのではないかと考えられる。

【参考資料】 
農業に於ける下肥(ナイトソイル)の利用
都市と農村がはぐくむ物質循環
 ―近世京都における金銭的屎尿取引の事例―
京都市における屎尿の処理と環境問題
 ―昭和30年代までの肥料からそれ以後の廃棄物へ―
肥 料 の 歴 史
 ―人間活動とのかかわり合い-
久馬 一剛
三俣 延子

中村 治

高橋 英一
歴史たんけん八幡         発行 八幡の歴史を探究する会

# by y-rekitan | 2019-07-24 10:00 | Comments(0)

◆会報第92号より-04 横穴墓②

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《講演会》
南山城の横穴墓と被葬者像を巡って(後編)

2019年4月 
八幡市文化センターにて

岩松 保(京都府埋蔵文化財調査研究センター)


 4月20日の講演会での配布資料を 前号の会報91号に引続き、講師の岩松氏の同意のもとに後編として掲載します。

5.横穴の造営主体に関わる評価

 以上のように、南山城地域の横穴墓は隼人の墓ではない、という根拠を示しました。それ以外にも、横穴墓=隼人の墓と考えた場合、辻褄の合わない事実が認められます。
f0300125_21492844.jpg 南山城地域の横穴墓が隼人の故地の地下式横穴墓を真似て造られたとすると、南九州地方で見られる墓制が、隼人が移住させられた畿内及びその周辺の地に分布していないことの説明がつきません(第6図)。同じく、南山城地域以外の地域――第3図に示した九州中・北部、山陰、畿内(京都南部・大阪東部・奈良)、北陸、東海、関東、南東北地方における横穴墓の出現も、“隼人や九州中・北部地方の人々が移住し、故地の墓制を持ち込んだ”と説明されないのでしょうか。
 先述のように、古墳時代後期の墓制としての横穴式石室墳と横穴墓のそれぞれに葬られた人々には何らかの違いがあると考えられています。そうすると、南山城地域の横穴を隼人と結びつける考えは、古墳時代後期の墓制の中に横穴墓をどのように位置づけるか、という問題に対する、南山城地域に限っての解答であった、と言えます。
 南山城地域の横穴墓は、隼人が造った墓ではないと否定しても、結局のところ、横穴墓を古墳時代後期の墓制の中でどのように評価するか、という問題に立ち返るのです。

6.横穴墓の被葬者像の研究


 横穴墓に対して、様々な被葬者像が提出されています。先に見たように、森浩一や『八幡市誌』では南山城地域の横穴墓を隼人が造った墓と理解したように、特定氏族との関連で捉える考えがあります。
 また、横穴墓の被葬者が横穴式石室墳の被葬者と較べてランクが低いことを重視し、それぞれの地域の実状と横穴式石室墳との関係を考慮して、その性格を推定する方法が採られています。松村隆文は、畿内における横穴墓の特色(第3節参照)をまとめた上で、横穴墓の被葬者像は、「少なくとも横穴墓の被葬者が古墳を築きえた人々から区別された集団であったことは間違いなく、彼らの社会的地位が相対的に劣勢であったことも容易に推定できる」とし、その階層は「ヤマト政権への従属度が強く、かつ一般的な群集墳のそれより低い身分集団」としました(松村1988)。被葬者集団の具体的な復元は困難としながらも、奈良市・河内の横穴墓に陶棺が採用されていることから土師部を、南山城の横穴墓を隼人の墓と想定しました。
 横穴墓に副葬された品々が必ずしも劣っているばかりではなく、特徴的な優品が納められている点を重視した視点があります。新納泉は、横穴墓から装飾太刀が出土する例が少なくないこと、石棺や豊富な副葬品を伴っていることを指摘した上で、「何らかの意味で伝統的な在地首長層とは異質な集団の墓と考えることができる」とし、その集団の中に装飾付太刀を持つものがいることは、畿内政権が「伝統的な在地首長の権力を弱体化させる」ために優遇した集団であり、「伝統的な在地首長の権力を弱体化させるために畿内政権が打ち込んだクサビ」のような集団と考えました(新納1983、p.66)。
 茨城県十五郎穴横穴墓群は7世紀中葉~9世紀前葉の間に利用された横穴墓群で、稲田健一はこの横穴墓群を対東北政策に関連した遺跡と捉え、「水上交通を担う集団や兵士といった対東北政策に深く関わった人物、またはそれに貢献した人物」を想定しました(稲田2016)。
 以上、簡単に横穴墓の研究を振り返りましたが、共通しているのは、横穴墓の被葬者を横穴式石室墳の被葬者よりも下位に置き、地域の中で被葬者像を捉えようとしていると言えます。
 しかし、なぜ横穴墓が横穴式石室墳の被葬者よりも低いランクの集団の墓として採用されたのかという議論がなされていません。そしてなぜ、全国に広まったのでしょうか。

7.墳丘のない古墳としての横穴墓


1)墳墓による身分の表象
 小林行雄は、古墳から出土する三角縁神獣鏡を研究し、同笵鏡や同形鏡の分布状況には中央と地方の関係性が反映されていることを指摘しました(小林1961)。
西嶋定生は、前方後円墳や円墳、方墳といった墳形の古墳が各地域・各時期に継続的に造営されている点を重視し、「各地域の墳形を規制する統一的契機」が存在したと捉え、地方の首長は「大和政権との政治的関係を媒介としたばあいのみ」に古墳を築造し得たと考えました。古墳を造営するためには大和政権を中心とする国家秩序に参入することが不可欠であると断じ、古墳の墳形の違いはカバネ制度という身分制に基づいていると論じました(西嶋1961)。
 都出比呂志は、前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳といった“墳形”とその“規模”の二側面でその古墳を築造した氏族の格が決められていたと考え、前方後円墳という墳墓形態がその頂点にあることから、当時の社会体制に「前方後円墳体制」という名称を与えました(都出2005)。中央政権の中での首長の「格」に応じて古墳の墳形・規模・内容が決められると指摘しました。
 これらの論考で重要なのは、中央・地方の首長が前方後円墳、前方後方墳などの墳墓を造るにはその古墳秩序を形成している集団関係に参画している、という点です。このことを理解して初めて、“古墳時代の開始と共に広範囲に古墳がほぼ一斉に造られる”ことや、“最初期から画一的な墳形と祭式(副葬品・主体部)を有する”こと、“時代と共に全国的に同一の様式で推移していく”ということが了解できるのです。

2)大化薄葬令における墳墓の秩序
 古墳秩序を示す史料として大化薄葬令があります。これは、大化元(645)年に孝徳天皇により出された改新の詔の中で示されています。それまでの厚葬を改めて、葬送を簡素化することを目的としたもので、身分(冠位)に応じて、埋葬施設(石室)と墳丘の規模、役夫の人数と使役する日数、葬具の内容が定められています(付表)。
 7世紀中葉以降の古墳を調査しても、こういった基準に基づいた古墳は皆無で、ここに記された内容や数値が、古墳時代後期~終末期における古墳の実態を表しているとは言えない状況です。
しかしこれらの記事は、8世紀初頭の『日本書紀』編纂時において、約半世紀前の“妥当な歴史”として認識された範疇を超えるものではなかったと考えられる記事なのです。そして、その後の数十年の間に古墳の規模や築造数が大幅に減じられている事実を考えると、史料に残るような大化薄葬令は施行されなかったかも知れませんが、7世紀中葉以降に厚葬から薄葬に向かうという政策が押し進められたことは否定しがたいと言えます。

 そうすると、大化薄葬令に見られるように、7世紀中葉にあっても墳墓=古墳は中央政権が管轄しており、墳丘や埋葬施設の規模、葬具などが身分を表象するものとして規制の対象にされていたと言うことができます。
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 大化薄葬令では、墳丘の大きさだけではなく、墳丘の有無も規制しており、墳丘の無い墳墓は墳丘のある墳墓よりも下位にランクされています。横穴墓は墳丘の無い墳墓として、横穴式石室墳よりも下位に位置づけられていたのです。
 このように了解すると、横穴墓は横穴式石室墳の下位の墓として、古墳時代後期における古墳秩序の中に位置づけることができます。そして、横穴墓という墓制が九州中部から東北南部まで広く分布することも、それが盛行し廃絶する時期が全国的にほぼ同じであることも、その分布に偏りが認められることも、副葬品が概して貧弱であることも理解できるようになります。横穴墓を築造することは、地域首長が前方後円墳・方墳を築造したり、下位の階層が横穴式石室墳などの群集墳を築造するのと同じく、身分制に基づいた中央政権の承認・関与があったためであり、横穴墓は墳丘のない墳墓として横穴式石室墳よりも下位にランクされたため、と言えるのです。

3)屯倉の分布と横穴墓
 かつて私は、横穴墓を造営するような新たな階層が出現した契機として、屯倉(みやけ)の設置を考えました(岩松2007)。しかし、現在ではこの考えは成り立たないと考えています。
屯倉とは、地方首長による地域支配に対抗するため国内外に置かれたヤマト王権直轄の農業経営地や直轄領のことで、政治的・経済的基盤をなしていたと考えられています。その名称は、王権が領有するミタ(屯田)から収穫された穀物を収納する倉に由来します。屯倉は、国内では東は上毛野国から西は火(肥)国にまで分布していますが、特に畿内から吉備にかけて多く認められ、『記紀』や『風土記』の記載から、国内外に90か所程度置かれていたことが知られています。それ以外にも多くの屯倉が設けられていたようで、大化2年3月に皇太子中大兄皇子が「屯倉一百八十一所を獻る」と屯倉を天皇に返していることから、180を越える屯倉が存在したことが窺えます。
 第7図は文献で知られる屯倉の推定地と横穴墓の分布を重ね合わせたものです。九州や南関東で屯倉と横穴墓の分布が一致するところも見受けられますが、基本的には合致していません。史料に残る屯倉は実際に設置された屯倉の一部ですので、必ずしも両者の分布が一致する必要はありません。稠密に横穴墓が分布する地域、たとえば出雲地方に史料に残らなかった屯倉が設置された可能性があるからです。しかし、逆は明らかに不都合です。瀬戸内や和歌山・滋賀などには屯倉が置かれているのに、横穴墓は分布していません。このことは、屯倉の設置と横穴墓の築造がストレートに結びつかないということを示していると言えます。
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8.横穴墓の分布と地方制圧

1)横穴墓の分布が示すもの
 横穴墓を玄室・墓道を備えた“墳丘の無い墳墓”と規定すると、古墳秩序の中でどのように位置づけられるのでしょうか。
横穴式石室墳が全国に遍く築造された背景については、次のように考えられています。“古墳時代を通じた社会の発展により新たな階層の人々が経済的な力を持ち社会的に台頭するとともに、追葬意識の高まりと追葬が容易な横穴式石室が列島で造られるようになると、ヤマト政権は新たに台頭した階層を古墳序列の中に組み込むために横穴式石室墳を造ることを承認した”、と。そうすると、汎日本的に横穴墓が分布しているという背景も、“無墳丘墓しか造り得ない階層に追葬が可能な無墳丘墓を造ることをヤマト政権が認めたため”と捉えられるでしょう。
 墳丘墓を造り得る身分集団の中で新たに台頭した階層が築造したのが横穴式石室墳であり、墳丘墓を造れない身分集団の中で新たに台頭した階層が築造したのが横穴墓であると言えるでしょう。横穴式石室墳と横穴墓は、墳丘墓を造れる集団と造れない集団のそれぞれにおいて新たに台頭した階層に対して、ヤマト政権が彼らを取り込むために築造を認めた墓と捉えられるのです。
 前方後円墳体制に続いて、飛鳥・奈良時代には中央集権化が進められ隋・唐国を範にした律令制が執り入れられますが、そういった日本史の流れを考慮すると、その背景は、中央集権的な政治体制を指向するような施策が採られたためと推定できます。その施策の結果、それらの地域に新たな階層の人々が出現し、横穴墓が造営されたと考えられるのです。

2)中央政権による地方制圧
 こういった施策はどういったものであったのでしょうか。やや唐突ですが、中央から地方へ派遣された征討軍のルートが、横穴墓の分布と近似しています。以下、中央政権による地方制圧の記事を『日本書紀』『古事記』から見ていきたいと思います。
 九州島は横穴墓が広範囲に分布していますが、景行天皇の九州行幸ルートとほぼ合致します(第8図)。『日本書紀』には、景行天皇12年7月に熊襲が朝貢しないため、景行天皇は九州行幸(西征)に発っています。その経由地・滞在地を記すと、娑麼(さば)から、豊前国長峡縣(ながをのあがた)、碩田国(おほきたのくに)、速見邑(はやみのむら)、來田見邑(くたみのむら)、日向国高屋宮(たかやのみや)に移り、そこに留まって襲国(そのくに)の熊襲梟帥(くまそたける)を討ち、その後、子湯縣(こゆのあがた)、夷守(ひなもり)、熊縣(くまのあがた)、葦北(あしきた)から海路で、八代縣の豊村、高來縣(たかくのあがた)、玉杵名邑(たまきなのむら)、阿蘇国、御木(みけ)、八女縣(やめのあがた)、的邑(いくはのむら)を経て大和に還っています。第8図のように、横穴墓の分布とほぼ一致しています。しかも、佐賀県や長崎県、宮崎県以南に横穴墓が分布しないという点でも合致しています。

 東海道から東山道の太平洋側の横穴墓の分布は、日本武尊の東征ルートと合致しています(第9図)。若干の異同はありますが、『日本書紀』『古事記』共に記されています。『日本書紀』で見ますと、日本武尊は景行天皇40年10月に都を出て、伊勢神宮から駿河の焼津、相模を経て馳水(はしるみず)を渡り、上総国に入り、海路で葦浦、玉浦を巡り、「蝦夷の境に至」っています。陸奥国の竹水門(たたのみなと)で蝦夷の賊首(ひとごのかみ)、嶋津神・國津神等を制圧・虜とし、日高見国で転じて常陸に戻り、新治(にひばり)・筑波を経て、甲斐国酒折宮(さかおりのみや)に入っています。そこから北に向かい武蔵国、上野国を経て碓日坂(うすひのさか)から信濃国に入り、信濃坂を越えて美濃国・尾張に還っています。

 このルート上では、静岡県の焼津から甲斐国酒折宮の間が、横穴墓が稠密に分布する地域となります。焼津は最初の戦闘地域であるのに対して、酒折宮で日本武尊は「蝦夷の凶(あ)しき首(ひとども)、咸(ことごとく)に其の辜(つみ)に伏(したが)ひぬ」と当初の目的が達成したと述べています。このように、焼津から酒折宮までの間で征討行為がなされていたと考えられ、横穴墓が稠密に分布しているのです。
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 北陸道および山陰道東部の横穴墓の分布は、いわゆる四道将軍の派遣先と合致します(第10図)。『日本書紀』では崇神天皇10年10月に大彦命(おおびこのみこと)を北陸(くぬがのみち)に、武渟川別(たけぬなかわわけ)を東海(うみつみち)に、吉備津彦を西道(にしのみち)へ、丹波道主命(たにはのちぬしのみこと)を丹波(たには)に派遣しています。翌年の11年4月には各地の賊を平定したことを天皇に奏じています。西道以外の派兵先は横穴墓が造られた地域となっています。
f0300125_21595221.jpg 横穴墓の分布が見られない西道への派兵は『日本書紀』にだけ記されており、『古事記』には記されていません。『古事記』では、大毘古命(おおびこのみこと)を高志道(こしのみち)に、建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)を東の方十二道に遣わされ、日坐(ひこいます)王は旦波(たには)国へ派遣されています。『古事記』の記載を見ますと、旦波国に派遣された日子坐王に「玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)を殺さしめ」とあることや、高志に派遣された大毘古命はその後、会津に向かい建沼河別命と落ち合うなど、記事の内容が具体的なものとなっています。この点で『古事記』の内容が本来の史料に近いものとするならば、東の方十二道、高志、旦波国の三方にだけ派兵されたと考えられ、横穴墓の分布と一致することとなります。
 山陰道中央部にも横穴墓が稠密に分布していますが、この方面にも派兵がなされています。『日本書紀』崇神天皇60年に、出雲振根(いずものふるね)が弟の飯入根(いひいりね)を殺したことに対して、吉備津彦と武渟川別を遣わしています。『古事記』にはこの記事はありませんが、倭建命が熊襲を平定した帰途に出雲に立ち寄り、出雲建(いずもたける)を誅したとしています。
このように、中央から地方にたびたび征討軍が派遣され、征討軍が派遣されたルート上や目的地に横穴墓が濃密に分布しています。両者には何らかの関係があったと想定されます。中央から地方へ征討軍が派兵された結果、新たな階層が生み出されたと考えられるのです。

9.横穴墓出現の契機国造のカバネの分布


 ヤマト政権による中央集権化が進められる中で、地方には国造が置かれていきます。国造とは、ヤマト政権が地方に設置した地方官のことで、その地方の有力な豪族が就いた場合が多く、中央から派遣されたこともあったようです。成立の時期は諸説あり、遅くとも7世紀初めには制度的に整ったと考えられています。
 律令制以前の政治体制は、氏族を基礎とした姓(かばね)によって秩序づけられていました。これを氏姓制度と言います。八木充は、国造のカバネの種類と地域的な分布を検討し、国造のカバネの分布には、ヤマト政権が地方を統合していく過程が反映していると考えました(八木1975)。以下、八木の論考を見ていきます。
 八木は、全国の国造のカバネの分布をA・A'~Dの5地域に分類しました。Aは地名+直(あたい)のカバネを有する国造が分布する地域で、ヤマト政権の中枢をなす大和とその周辺地域となります。A'は臣(おみ)・連(むらじ)のカバネを持つ国造が多い地域で、Aの外域に位置し、「吉備臣・出雲臣など、地域的統一体としての独立性を強固にとどめ」る地域としました。B・CはA・A'の東西に隣接し、Aと同じく直のカバネを持ちますが、Aが地名+直であるのに対して、Bは地名+凡直(おおしあたい)を持つ国造が分布する地域で、Cは部+直または舎人(とねり)(直)のカバネを有する国造が分布する地域となります。Dは君をカバネに持つ国造が分布する地域で、東西の辺境に位置します。A・A'の地域は、それぞれの国造の支配領域が令制国の範囲と合致するものが多いことから、統治組織や領域の統合が早くから進んでいたと考えられています。そして、地域名に直のほか臣・連といったヤマト政権の中で重要な姓が付されている点で、早い段階からヤマト政権の中枢を構成した首長がいた地域と言えます。
 Bの凡直国造は、“凡(おおし)”という語から、小規模な国造を統合して大きな範囲を治めた国造が配置されたと考えられています。Cの部直・舎人国造はウジ名の多くが、名代・子代と関係しており、「王族部民の管掌者となって、王族との強固な貢納関係を形成した」と推測される地域となります。以上のことから、B・C地域は、「より従属関係を強めた国造支配の段階」に、二次的に編成された地域と考えられています。両地域は大和を中心に東西に対称的に位置しています。
 Dは公(きみ)姓国造で、ヤマト政権の版図の東西の両端に位置しており、地域首長が中央政権に服属して国造となりながらも、直を称しない点で、他の国造と較べてかなりの自立性を有したと考えられる地域と言えます。
 第11図は、横穴墓の分布と国造のカバネ分類を重ねたものです。両者の分布を比較すると、C・D地域に横穴墓が多く分布しています。A・A'の地域は、日本海側を除いて横穴墓は部分的にしか分布しておらず、B地域にあっては横穴墓の分布は皆無と言えます。
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国造のカバネの分布と横穴墓の分布、ヤマト政権の地方への派兵先・ルートがほぼ一致することから、地方への征討軍の派遣の契機は、主としてC・D地域、部分的には山陰、丹後・但馬、北陸地域での国造設置という施策の実現であったと考えられるでしょう。征討軍の派遣は、国造設置に反対する地方の勢力を武力で屈服させて国造設置を受け入れさすためであり、その結果、新たな階層が台頭し、横穴墓が築造されたのでしょう。

10.横穴墓を造った人々

 国造は、ヤマト政権の地方官としての性格が付与され、部民などの掌握や貢納、伴造の出仕など、中央から課せられた職務が多く、それを処理するために国造直属の新たな集団が必要であったことは想像に難くありません。そういった新たな集団は従来の古墳秩序の枠外にあったため、新たな墳墓として、墳丘のない墳墓である横穴墓の築造を許したのではないでしょうか。
 横穴式石室墳は7世紀末にほぼ全国的に造営されなくなるのに対して、横穴墓は横穴式石室墳よりも新しい時期まで存続し、東北地方では平安時代初頭まで造墓され、追葬もされています。国造直属であるがゆえに、中央政権の取り決める制度とは別にあり、それゆえ横穴墓の築造は横穴式石室墳が造られなくなった後にも存続し得たと言えます。
 以上の議論から、横穴墓の被葬者に特定の氏族や職能を与えることは困難です。横穴式石室墳の被葬者は、鍛治や海人などの専門集団、渡来人や武人、有力農民層など、多様な集団が想定されており、全国的に単一の性格の集団を想定することができません。一括りに“新たに台頭してきた階層”としか言いようのないものです。横穴墓の被葬者もまさにそのような性格であったと言え、地域毎に様々な顔を持っていたのでしょう。中央軍が派遣されていない畿内、東山道、山陽道の山間部などでも横穴墓の築造が認められていますが、これらは、その地域の国造もしくは中央政権が直接的にその地域の人びとに、横穴墓の造墓を承認した結果と考えられるのではないでしょうか。
 横穴墓の分布から見えてくる集団は、古墳秩序から律令制へと転換していく社会の中で、新たに形成された階層に属した人びとであり、律令制が地方に浸透し確立していくとその中に取り込まれ、次第に消えていく集団であったと考えられます。

参考文献
 
稲田健一「総括 奈良時代以降の十五郎穴横穴墓群」『十五郎穴横穴墓群』ひたちなか市教育委員会、公益財団法人ひたちなか市生活・文化・スポーツ公社 2016
岩本次郎「隼人の近畿地方移配地について」『日本歴史』第230号 吉川弘文館 1967
倉野憲司校注『古事記』岩波文庫 1963
小林行雄『古墳時代の研究』青木書店 1961
都出比呂志『前方後円墳と社会』塙書房 2005
西嶋定生「古墳と大和政権」『岡山史学』10 1961(『中国古代国家と東アジア世界』東京大学出版会1983再掲録)
新納 泉「装飾大刀と古墳時代後期の兵制」『考古学研究』第30巻第3号 考古学研究会 1983
松村隆文「畿内の横穴墓」『研究紀要』1 (財)大阪府埋蔵文化財協会 1988
八木 充「国造制の構造」『岩波講座 日本歴史』2 岩波書店 1975
『岩波古典文学大系 日本書紀』上・下 岩波書店 1965・1967


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# by y-rekitan | 2019-07-24 09:00 | Comments(0)

◆会報第92号より-05 御本社道③

御本社道を探る
―その3―

 谷村 勉 (会員) 


起点の楠葉から橋本腰折坂へ

 河内や摂津あるいは対岸の高浜から八幡宮に参詣する道として、町楠葉から橋本南西部の腰折坂を経由して八幡宮に向かう「御本社道」という近道があった。
文久元年(1861)に刊行された『淀川両岸一覧』楠葉の項に「当村中に、男山八幡宮へ参詣の道あり」とあり、楠葉からの参詣道を示している。枚方市町楠葉二丁目9の京街道沿いの民家南西角に数年前まで「右八幡宮/是より/ちか道/二十三丁」の古い道標(明治六年再建の銘あり)があった。
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 この道標は民家の改築工事により撤去され、礎石跡が残るのみとなっているが、江戸時代に作成された「東海道分間延絵図」にも「道印」として描かれているが、これが「八幡宮近道」の道標(再建前)と考えられる。この道標は現在、少し離れた民家内に移設され、歴史遺産として大切に保管されている。なお、同じ町楠葉二丁目4の「長福寺」境内にも「右八幡宮/二十三町」の地蔵菩薩座像が彫られた花崗岩の美しい角柱道標が残っている。「御本社道」とは枚方市町楠葉から橋本の南西方面、腰折坂を通って八幡宮に至る大阪方面からの近道であった。江戸時代の石清水八幡宮全図(中井家文書)の上部に「御本社道」と記載されている。

御本社道 楠葉

 京街道の「右/八幡宮/ちか道」の道標が立つ町楠葉二丁目の分岐点から東に進み、楠葉野田一丁目の天満川南端付近から、西山、腰折坂を目指すルートである。
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 住宅地の間を通るこの道も、宅地開発で道筋は変わっており、中楠葉集会所(楠葉中町62-13)辺りまでの道ははっきり残っていない。中楠葉集会所から東の道は住宅内で唯一「御本社道」の面影のある道がしばらく続く。集会所から東に100m進んだ3差路の西角辺りに「正面/右/やなぎ谷/はし本」、「左側面/☞右/八まん宮」の道標がかつてあった。しかし住宅の新築に伴い撤去されてしまい、所在不明になっている。この住宅のすぐ東側には野田大師堂があり、大子堂前のやや緩い坂道を登って行き、三叉路を左に行くと2基の道標に当たる。天満川緑道の南端に当たるが、天満川の川筋は暗渠化されてはいるが旧登池(現樟葉北小学校)からの川筋は昔のままである。f0300125_10072996.jpg 
 三叉路にある文久二年再建の「右/志みつ道、左/八まん宮道」の道標は本来はもっと東の地図上の四つ角の辺りに立っていたと思われるが、
住宅・道路整備工事の為、一旦野田大師堂隣の民家で預かり、その後現在の地に設置されたと推定される。樟葉から八幡市橋本への入口に差し掛かり、坂を上り始めて、右に志水道を見て、左の御本社道を八幡宮の参詣道へとつながって行く。しかし、実際にはこの2基の道標から腰折坂までの間は整然と区画された住宅街となっていて道は判別できない。

御本社道(脇道) 西山

 昭和49年(1974)に設立された橋本小学校の東側に位置する橋本東刈又、橋本西刈又の集落に御本社道の脇道が残っている。町楠葉から腰折坂までの御本社道ルートの多くが開発のために不明となっているが、唯一旧来の風情を残しているのが脇道である。
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  石清水八幡宮全図にも載る「稲荷神社」参道の前を東に登るとT字路に当たり、その右側奥に「毘沙門天像」が祀られて、旧来の里山の風景に溶け込んでいる。
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 脇道と本来の御本社道とは腰折坂の手前で合流する。     (おわり)


この連載記事はここで終りです。       TOPへ戻る>>>

# by y-rekitan | 2019-07-24 08:00 | Comments(0)

◆会報第92号より-06 学術データベース

本会発行冊子の道標記事が
「学術データベース」に掲載されました


「石清水八まん宮道」に誘う道標群-江戸時代の八幡道標-
:増補版製作委員会


 2019年4月22日に本会宛に岡山大学名誉教授 馬場俊介氏から、下記の依頼があり対応しましたので、その概要を報告します。
“学術情報データベース「近世以前の土木・産業遺産」の作成者です。協力者の方より連絡があり、貴会で出版された『石清水八まん宮道に 誘う 道標群』に、本データベースの「交通(道路)」部門の中の「道標」のリストに含まれていない情報が数多く含まれているとの指摘がありました。つきましては、情報や画像の提供をお願いします。”
f0300125_19584981.jpg このデータベースは2008~15年の研究をもとに、「文化財行政から無視された江戸期の忘れられた遺産群」の再認識を目的に立ち上げられたもので、右図はデータベースのトップページ部です。

 5月24日に依頼の42基の「江戸時代の八幡道標」の情報や写真等を提供しました。その結果、学術データベースに京都府15基、大阪府25基の合計40基が掲載されました。

f0300125_2012874.jpg 提供の写真には(提供:八幡の歴史を探究する会)と記載されています。また、出展の詳細ページには(江戸時代の八幡道標: 『増補版 「石清水八まん宮道」に誘う道標群-江戸時代の八幡道標-』,八幡の歴史を探究する会,2019)と載っています。
 右図は「学術データべ―ス」の京都府下の道標で初めてAランク登録された本会提供「下奈良隅田の往生礼賛像道標」(冊子p28掲載)の道標写真で、左下には“提供:八幡の歴史を探究する会”との記載が確認できます。
 このデータベースは下記のリンクで参照して頂けますが、その中の“都道府県別データ一覧”内にある大阪府、京都府のコーナーに収納されています。
     http://www.kinsei-izen.com/  大阪府  京都府

 なお、馬場俊介氏には本書を贈呈しましたが、「全ページカラーで素晴らしい出来栄えですね。地図には感心致しました。」とのコメントがありました。
 本冊子は本会の例会や行事の会場などで都度販売し、石清水八幡宮(本殿)授与所や松花堂ミュージアムショップでは委託販売をしていますが、遠方の方には郵送での注文も受けております。
# by y-rekitan | 2019-07-24 07:00 | Comments(0)

◆会報第92号より-end

この号の記事は終りです。


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# by y-rekitan | 2019-07-24 01:00 | Comments(0)

◆会報第91号より-top <スクロールだけで全記事が読めます>

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
このまま下にスクロールして頂くと順次連続してご参照頂けます。


◆シリーズ:“心に引き継ぐ風景” ㉒◆
◆《講演会》南山城の横穴墳と被葬者像を巡って◆
◆シリーズ:“御本社道を探る(その2)” ②◆
◆シリーズ:“四條隆資卿物語(その5)” ⑤◆
◆「八幡の歴史を学ぶ連続学習会」2018年度実施報告◆



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# by y-rekitan | 2019-05-27 15:00 | Comments(0)

◆会報第91号より-01 八幡の石仏

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心に引き継ぐ風景・・・㉒

八幡の石仏さん・毘沙門天像
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 江戸時代に「御本社道」と呼ばれた古い道を歩いた。文久元年(1861)刊行の『淀川両岸一覧』楠葉の項に「当村中より、男山八幡宮へ参詣の道あり」とあり、町楠葉の京街道沿いに数年前まで「右八幡宮/是よりちか道/二十三丁(約2.5㎞)」の古い道標があった(今、少し離れた民家に大事に保存される)。「御本社道」とは現枚方市町楠葉から橋本の南西方面を通って八幡宮に至る大坂方面からの近道であった。江戸時代の山上山下惣絵図(石清水八幡宮全図)の上部(西)に「御本社道」と記されている。町楠葉から歩くと、途中、楠葉野田にある「右志みつ/左八幡宮道」の道標(本会の発行冊子”「石清水八まん宮道」に誘う道標群”より)辺りから腰折坂までの道は、整然と区画された住宅街になっていて判別できない。
 だが幸いにも橋本小学校東方面から入る脇道が残っている。橋本西刈又の通りに面して「稲荷神社」が今も残り、神社前の坂を登るとやがて腰折坂の手前で本来の「御本社道」と合流し、腰折坂から竹林の谷を越えて八幡宮に至る。但し竹林の道は荒れ放題で歩くには難儀だ。さて、西刈又の「稲荷神社」の先、T字路右の空き地の奥に石仏が見えた。何と毘沙門天像だ!高さ70cm横43cm、甲冑を着て、右手に仏敵を打つ宝棒を、左手に宝塔を持ち、キョロ目の邪鬼を踏みつけていた。
(文と写真 谷村 勉)空白



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# by y-rekitan | 2019-05-27 12:00 | Comments(0)

◆会報第91号より-02 横穴墓①

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《講演会》
南山城の横穴墓と被葬者像を巡って(前篇)

2019年4月 
八幡市文化センターにて

岩松 保(京都府埋蔵文化財調査研究センター)

 
 4月20日(土)に八幡市文化センターにて当会年次総会を開催し、引き続き”講演と交流の集い”が行われました。
 講演は「京都府埋蔵文化財調査研究センター」の岩松保氏に表題のお話をしていただきました。概要を報告します。
 なお今回の報告は、講演会で配付された講演資料を基に若干の語句を加え、編集担当がホームページ掲載用に画像の挿入やルビを入れ、講師の岩松保氏の同意のもとに次号と2回に分けて掲載するものです。
当日の参加者は32名でした。
 
1.はじめに、問題点

 京都府南部の八幡市~京田辺市にかけては、横穴墓が密に分布しています。南九州地方の隼人が京田辺市大住周辺に移住させられたと考えられていることから、隼人が故地の墓を造ったのが横穴墓であると捉えられています。f0300125_104939100.jpg
 第二京阪自動車道路の建設に先立ち、平成12~14年(2000~2002)にかけて八幡市女谷・荒坂横穴群の発掘調査を担当し、その後、南山城地域の横穴墓、ひいては横穴墓の被葬者像、横穴墓の成立の意味について考えをまとめました(岩松保2007、岩松保2018)。
 今回はそれらの論考に基づいて、南山城地域の横穴墓の被葬者について考察を加え、古墳時代後期の中で横穴墓が成立した歴史的な背景について検討したいと思います。
2.横穴墓の調査

 横穴墓は横穴式石室墳と共通する墓制と捉えられています。両者の大きな違いは、横穴式石室墳は石で室を造り土を盛り上げているのに対して、横穴墓は丘陵や崖面を横方向に穴を穿って室を造っています。ともに追葬が容易な構造となっており、実際に複数の遺骸が納められており、家族墓の様相を呈しています。また、土器や鉄器、玉類などの副葬品が納められている点も共通しています。そして、古墳時代後期を中心に造られ、それぞれが密集しており、群集墳としての性格を有している点でも共通しています。
 まず、女谷・荒坂横穴群の発掘調査から、横穴墓の具体的な様相を見ていきたいと思います。f0300125_10583133.jpg
 荒坂横穴A支群41 号横穴を例に見ていきます(第1図;奈良2014)。横穴墓は遺骸を納める玄室とそれに取り付く墓道とに分かれます。玄室と墓道の間に羨道(せんどう)が設けられる場合があります。墓道のうち天井がある部分が羨道となります。玄室は長さ2.9m、玄門部の幅1.1m、奥壁部の幅1.6mで、床面はほぼ水平に造られています。玄室の断面形は三角形で、天井高は1.7mを測ります。羨道・墓道は玄室からやや下る傾斜で溝状に掘り込まれています。規模は、長さ11.4mで、幅0.4m、上場の最大幅2.2mとなります。羨道は全長2.2m、幅1mを測ります。また、土層の観察より、横穴は玄室から退出する毎に玄門部分を土砂で埋めて閉塞しており、墓道もまたそのほとんどが埋め戻されていたと推定されます。
 横穴墓は現在まで玄室内の空間が保たれている場合が多いため、横穴式石室墳よりも人骨が遺存している例が多く認められます。私が調査した女谷・荒坂横穴群の調査では、骨の配置が分かる人骨21体すべてが多少なりとも移動させられていました。これらは二態に分けることができます(第2図;岩松ほか2004)。

 f0300125_1122076.jpg集骨A 人骨がバラバラになって一か所に集められているもの。長管骨を集めたり、束ねたりする場合が多く見られる。
 集骨B 全身骨格がほぼ揃っており、一見すると伸展位に置かれているように見えるが、詳細に見ると、部位毎もしくは大きく骨が動かされているもの。交連状態を残す部分がある。
 これら二様の人骨の状況は、一連の葬送儀礼の中で執り行われた儀礼の段階差と捉えられ、骨を動かす度合いの大きさから、集骨Bから集骨Aへと、横穴内で骨寄せが行われたと考えます。それぞれの骨の状況から、集骨Bは横穴墓への埋葬直後に“断体儀礼”として骨・肉が切り刻まれ、集骨Aは横穴墓に埋葬して数年を経たのちに骨が集められたと考えられます。

3.横穴墓の特色―横穴式石室との比較

 横穴墓と横穴式石室墳との大きな違いは、墳丘の有無という点が挙げられます。墳丘のある横穴墓も散見されますが、ほとんどの横穴墓には墳丘が認められませんので、例外的なものと言えます。玄室・羨道・墓道からなる点は同じですが、横穴式石室は石で構築されているのに対して、横穴墓は丘陵斜面や崖面を刳り抜いています。この点で、横穴墓は横穴式石室墳よりも少ない労働力で築造できると考えられています。
 横穴墓の副葬品は横穴式石室墳のものと比べて、質・量共に劣っている場合が多く認められます。しかし横穴墓の中には、横穴式石室墳の副葬品を凌駕するものも散見されます。
 それぞれが造られた地域も異なっています。横穴式石室墳がほぼ全国に遍く分布しているのに対し、横穴墓は限られた地域にしか分布していません。第3図は横穴墓群の分布を示したものですが、南から見ると、九州中・北部、山陰、山陽山間部、近畿中央部・北部、北陸、東海、南関東、北関東~東北南部の太平洋側となっています。横穴式石室墳と横穴墓の分布が異なると言っても、それぞれが地域を分けて造られているのではなく、隣接したり重複したりしています。
 築造された時期を見ると、横穴墓の初現・盛行・途絶の時期は、大半の地域で横穴式石室墳に後出し、横穴式石室墳よりも新しい時期まで利用されています。京都府北部や東北地方では奈良時代まで造られている場合があります。
 横穴墓と横穴式石室墳にはこのような違いが認められるため、横穴式石室墳を造営し葬られた人々と、横穴墓を造営して葬られた人々の間に、何らかの違いがあると考えられています。
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4.南山城地域における隼人と横穴墓

1)隼人とは
 南山城地域の横穴墓は隼人の墓という説について検討したいと思います。 隼人は古代日本において、ヤマト政権や律令政府から、南九州地方に住まう“異民族”とみなされた人々と言われています。早くから畿内の各地に移住させられ、天皇や皇族の近習として仕えており、律令体制の整備が進むにつれて、朝廷の警護役や儀礼のための奉仕人としての役割が与えられました。隼人を異民族視して朝貢をさせる一方で、畿内への移住が進められていきます。南山城地域のその移住先の一つと考えられており、西田直二郎は、正倉院文書の「隼人計帳」段簡は南山城の大隅の地に住まう隼人の戸籍であると論じ、少なくとも奈良時代前半までに隼人がこの地に移住していたと考えました(西田1951)。
 その後、隼人は畿内でも有数な氏族となっていったようで、天武紀14(685)年6月には、大倭連、葛城連、山背連などの10氏の連とともに、大隅直(おおすみのあたえ)に忌寸(いみき)の姓が与えられています。この時の連の10氏はすべて畿内に本拠を持つ豪族であることから、大隅直もまた畿内に移住していたと考えられています。
 隼人は畿内とその周辺に住まわっていましたが、その居住地がわかるのは、山城国大住郷(京田辺市)、近江国古市郷(滋賀県大津市膳所、石川周辺)、大和国阿陀郷(奈良県五條市阿田地区周辺)、近江国龍門(滋賀県大津市大石龍門周辺)、山城国宇治田原郷(宇治田原町)、同西京隼人町(京都市上京区下横町付近)、河内国萱振保(大阪府八尾市萱振町周辺)、丹波国佐伯郷(亀岡市稗田野町佐伯・大田)があります。

2)南九州地方における古墳時代の墓制
 隼人の故地にあたる南九州地方(宮崎県南部・熊本県南部~鹿児島県)における古墳時代の墓制 には、前方後円墳や円墳といったいわゆる畿内型の高塚古墳と南九州にだけ認められる地下式横 穴墓・地下式土壙、地下式板石積石室墓、土壙墓・立石土壙墓があります。
 地下式横穴墓・地下式土壙は、竪穴を垂直に掘り込んだ後、横方向に水平に掘り広げて、墓室 を造ったものです。最も古いもので4世紀末頃の土器を出土するものがあり、5~6世紀に築造 の最盛期があり、7~8世紀頃まで存続して造られています。
 宮崎県西諸県郡高原町の旭台2号墳の地下式横穴墓では、竪坑の床面は1.1m×1.4 m、玄室は奥行1.6m、幅1.95mの隅丸方形で、玄室の長辺側に入り口が設けられています。羨道は長さ30~35cm、幅65cmで、羨門に岩塊を積み上げています。
 地下式板石積石室墓は、地表下1~2mのところに数10cmの大きさの板石を立てて、直径1~2m程度の石室を築き、この石室の上に数十枚の板石を持ち送り式に積み重ねて覆うもので、断面で見ると、中央部がドーム状になっています。4世紀後半から7世紀後半。

3)南山城地域における横穴墓と地下式横穴墓の構造
 南山城地域における横穴墓は隼人が造った墓と論じたのは、森浩一です(森1975)。
彼の論に沿って、横穴墓=隼人の墓の論拠を見ていきます。
 第1に、八幡市南部から京田辺市北部に横穴墓が集中していますが、その分布が大隅氏の本貫とされる大住郷に近接している点があります。
 第2に、地下式横穴墓と南山城地域の横穴墓の構造が近似している点を掲げています。森は、京田辺市の堀切谷6号横穴墓の調査成果に着目し、堀切谷6号横穴墓は「玄室だけがのこっていたので、自然の地形にたいしてどのような角度で羨道を掘込んだかはわからない。これは堀切横穴に限らず、この辺の横穴は県室の位置が深く、どうやら羨道と玄室の底が水平になるのではなく、崖面から羨道を斜めに掘り込んだ、つまり地下式横穴の伝統を保っている可能性がつよい」とまとめました(同p.185)。
 第3に、堀切谷6号横穴墓出土の改葬人骨は、「白骨化したものを動かしてきたか、それともこの場所で白骨化したものを、何らかの理由でおき直している」(同p.188)ものであり、近畿地方の後期古墳における追葬時の後片づけに伴う遺骨の動かし方や集積方法とは異なっているとする一方で、南九州地方の地下式横穴墓では認められるものであるとしました。 
 第4に、南山城地域の地盤は横穴を掘り込むのに適さない砂礫層であるにも関わらず横穴が造営されている点を強調し、その背景として、墓制の強い伝統を想定しました。

 森浩一の考えを承けて、『八幡市誌』第一巻でも横穴=隼人の墓と論じています。f0300125_18194636.jpg 第4図は『八幡市誌』所収の荒坂横穴の模式図で、「昭和五二年竹藪の土取りの際発見されたものは比較的完全な形で残っており、すでに破壊されたものも含め他の横穴も同様の構造では なかったかと推定される。その構造は、地上からまず直径〇.九メートルの穴を深さ三メートルほど掘り、底部から横に向って奥行二.五メートル、幅一.五メートルの古墳玄室を形成している」(同p.120)とまとめています。ここに示された形状は、まさしく、宮崎県から鹿児島県にかけて分布する地下式横穴墓と同じものです(第4図参照)。
 しかし、これらの知見は、南山城地域の横穴墓の調査がほとんどなされておらず、その構造がよく分かっていない段階の見解でした。その後、八幡市狐谷横穴群や女谷・荒坂横穴群が調査されるにいたって、南山城地域における横穴墓の構造が明らかとなり、この地域の横穴墓は、第4図に掲げたのとは全く異なっていることが判明しました(第1図参照)
 そうすると、地下式横穴墓に類似すると紹介された南山城地域の横⽳墳はどのように理解できるのでしょうか。
 森浩一が紹介した横穴墓の構造は、墓道が埋まりきった横穴墓を、玄門部の開口部から玄室内を観察したものと考えられます。(第5図a)先にふれたように、玄門より外側の墓道は玄室閉塞時にほぼ全体を埋め戻されていますので、現地表面では墓道の存在を認識することができません。そのため、開口部から玄室に下る空間を認め、縦方向の墓道と認識したと推測できます。f0300125_16174876.jpg
 一方、『八幡市誌』所収の荒坂横穴墓はどのように理解できるのでしょうか。南山城地域の丘陵は大阪層群と呼ばれる砂礫で覆われており、極めて軟弱な地盤となっています。そのため、横穴墓の玄室部の天井が落盤している場合が多く認められます。そして、墓道はそのほとんどが埋まっていますので、地表面からは墓道の存在は全く認識できません。おそらく、玄室の天井部が落盤し、玄室の空間の一部が残っている横穴墓を観察したものと考えられます。天井部の陥没坑を入り口の竪坑と誤認して、地下式横穴墓状の形態を有すると認識したのでしょう(第5図b)。
 このように、南山城地域の横穴墓は南九州地方で認められる地下式横穴墓と全く異なる形状であり、天井が崩落したり開口した横穴墓をそれと認識したものと推測されるのです。
 また、堀切谷6号横穴墓の人骨は、近畿地方で認められる骨の出土状況と異なるとしていますが、実は女谷・荒坂横穴群の出土人骨21例はすべてが意図的に動かされています。ここでは詳しく述べませんが、古墳時代後期の横穴墓や横穴式石室の中では、追葬に伴って先葬者の骨を一か所に集めるという“後片づけ”が行われたのではなく、骨を動かし置く行為もしくは改葬が行われています。ですので、堀切谷6号横穴墓の改葬骨は、決して、南九州の墓制と強く結びつくものではないのです。
(次号に続く)

参考文献
岩松保ほか『女谷・荒坂横穴群京都府遺跡調査報告書』第34冊 (財)京都府埋蔵文化財調査研究センター 2004
岩松 保「南山城地域の横穴と隼人、その被葬者像を巡って―横穴の系譜との関わりから(予察)」『南山城地域における文化的景観の形成過程と保全に関する研究 平成18年度京都府立大学地域貢献型特別研究成果報告書』櫛木謙周代表2007
岩松 保「古墳秩序の中の横穴墓、その分布と意味」『待兼山考古学論集』Ⅲ 大阪大学考古学研究室編 2018
奈良康正「女谷・荒坂横穴群第13次調査 新名神高速道路整備事業関係遺跡平成23・24年度発掘調査報告」『京都府遺跡調査報告書』157冊 公益財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センター 2014
森浩一「近畿地方の隼人――とくに考古学の視点から――」『日本古代文化の探求・隼人』社会思想社 1975
高橋美久二「堀切横穴群発掘調査概要」『埋蔵文化財発掘調査概報(1969)』京都府教育委員会 1969
『八幡市誌』第1巻 八幡市誌編纂委員協議会 1986
西田直二郎『洛南 大住村史』京都府綴喜郡大住村 1951

『一口感想』より
大変興味深いお話でした。隼人との関わりもわかり易く理解できました。(I・T)
古墳秩序の枠外にあるものが横穴墓だと。そしてその分布が中央集権化のルートに合致するという興味が興味深かったです。国造は古墳秩序にあり、その部民(隼人も一部それに該当するであろう‥先生)が横穴墓だというように理解しました。
 質問で国造の古墳はとの問いに、6世紀中葉、国造の「前身」と思われる古墳は存在したとありました。秩序が古墳から寺院に移ろうとする中で国造を含めた上層支配層が寺院に、その支配下では横穴墓が存続するとなると、寺院と横穴墓の関係はどうなるか、興味が尽きませんでした。  (B・K)
八幡の近辺に横穴墓というものがあることに気付きました。被葬者が庶民に近いということで身近に感じました。
古墳時代から奈良時代前後の歴史考証が詳しく説明されており、説得力のある講演会でした。(全国規模の分析で素晴らしい研究だと感心いたしました。)
とても興味深かったです。
横穴墓のようなものが故郷に2ケ所ありました。はたして、横穴墓かどうか興味が尽きません。   (O・S)


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# by y-rekitan | 2019-05-27 11:00 | Comments(0)

◆会報第91号より-03 御本社道②

御本社道を探る
―その2―

 谷村 勉 (会員) 


御本社道三叉路から腰折坂方面へ

 腰折坂から八幡宮への道は現在は使われず、荒れるにまかされている。
腰折坂を越えて右側の資材置き場を通り過ぎ20m程ゆくと竹林の境目に下に降りる道がある。
 しかし、今は古竹の倒木などで道が判別できない。実際にこの「荒れ道」を確認するには八幡宮方面から歩くのが解りやすい。
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 そこで、橋本道を歩き興正谷不動道と合流する地点にある筍の季節販売小屋やその向かい側にある「八幡大谷山上の道標」(注1)のある三叉路から出発した。
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 慶応2年(1866)の城州八幡山案内絵図(部分)には、最上部に三叉路が描かれ「右はし本道、左楠葉道」の道標(矢印)があった。八幡山名所案内記(注2)の記述に、「右は狩尾から橋本へ、左は足立寺より楠葉郷に至る」、とあり、左は楠葉への「御本社道」を案内している。(現筍販売小屋付近に道標があったことになる。)
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 三叉路から興正谷不動道を凡そ100m程下ると、右側にクヌギのやや大きな木が見え、根元に小道が見えてくる。右の小道が「御本社道」である。
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 藪中の小道を暫く下るとやがて石橋跡に到着する。昔は数本の石が架けられていたが、大雨の水流に土手がえぐられ、今では1本が架かるのみとなっている。石橋を渡るのは危険で、必ず右側から遠巻きして対岸に渡る。対岸に渡って歩き出すと、道には石で補強された痕跡があったが、これもかなり崩れていた。そこからは大きく荒れた道を倒木(竹)を踏み分けてやや急な登りを行くが、本来の道と思われる所は荒れて歩けない。左の土手沿いを登って、平坦な台地に出れば、この辺りから配水池の景色も見えてルートは明かになる。今の状態で実際に歩くには大変困難であるので、気軽な散策道としてはお勧めできない。
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 御本社道ではないが、男山団地に小学校ができるまで、橋本の小学生は京阪電車で八幡小学校に通う生徒もいた。しかし、腰折に近い小学生は腰折坂から興正谷不動の横道を抜けて八幡小学校に通った。小屋の左の道が当時のまま今も残っている。この道を登り、谷の北側台地から腰折に至る道が通じていたが、僅かな距離ながらも途中、道が崩れて歩けない。
 不動堂北側の竹林作業用の道が唯一の道となる。聞き取りにより、通学路の証言を得ると共に興正谷不動を裏不動と言い、神應寺の杉山谷不動を表不動と呼んでいたことも確認できた。
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 地図には石不動堂から北に進む現在の道は「新道」とある。当時、志水から八幡宮へは、石不動堂の北側から左に回り、腰折経由で八幡宮に向かったようだ。
(つづく)



(注1)「八幡の歴史を探究する会」から平成31年(2019)1月に刊行された『増補版「石清水八まん宮道」に誘う道標群』p15に「八幡大谷山上の道標」として紹介されている。興正谷不動道と狩尾社からの橋本道の合流点にある宝暦四年(1754)建立の道標。
(注2)慶応2年(1866)長濱尚次によって刊行された「八幡山名所案内記」、「城州八幡山案内絵図」と項目が一致する事から、どちらも慶応2年の刊行と推定できる(京都府立大学文化遺産叢書第3集・近世から近代の八幡宮案内図と案内記より)


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# by y-rekitan | 2019-05-27 10:00 | Comments(0)

◆会報第91号より-04 四條隆資⑤

シリーズ「四條隆資卿」・・・⑤

四條隆資卿しじょうたかすけきょう物語  その5
隆資卿の娘のその後  ~その血は天皇家へ ~

 大田 友紀子(会員) 


はじめに

 2017年5月15日に発行された会報第75号から連載した「四條隆資卿物語 その1」から、2年ぶりに「その5」として隆資卿の娘のその後を書きたいと思います。本当は、「その4」を書いた2018年1月発行の第83号に続けて書くつもりでしたが、同年6月24日に開催する事となった『四條隆資卿慰霊祭』、そのために組織された「四條隆資卿慰霊祭実行委員会」のメンバーとなり、大忙しでいつの間にか忘れてしまっていたのです。
 その前に、少し長くなりますが、京都の諺にある「公家の蜘蛛の巣」という諺について、書かせていただきます。その意味は「得意先の公家の家々で見聞きしたことや噂話を決して他家で話してはいけない。今は関係がないように見える家々でも昔は婚姻関係などがあり、そのような関係を知らずに話したりすると、口の堅い公家の家々から店の信用を失いかねない。」と、丁稚奉公に来た幼い子どもたちに繰り返し教えたと言います。この諺には、400年近く同地で暮らす公家の家々はいわば遠近に関わらず、親類みたいなもので、その根っこでは繋がっている、なにしろ、京都から外へ出ることを極端に恐れ、嫌がった公家たちは出来得る限り京都に留まる事を選んだからなのです。

西園寺家と四條家の縁(ゆかり)

 そもそも西園寺家と言えば、藤原氏北家閑院流の家で、家格は摂関家に次ぐ清華家で、4代目の公経が京都北山に邸と西園寺と言う寺を建立し、その寺の名を家名としたことに始まる家です。歴史的に見ると、公経は源頼朝の姪全子を妻に迎えて、鎌倉幕府の力を背景に太政大臣にまでなりました。そしてその後は、公経から公宗までの7代は朝廷・幕府間の交渉役である関東申次(かんとうもうしつぎ)を勤め、また代々娘を天皇に入内させて后とし、天皇の外戚として権勢を振るった家です。その中でも、5代目の実氏は四條隆衡の娘貞子を娶り、2人の娘を持ちます。長女の姞子(きっし、後の大宮院)を後嵯峨天皇に入内させ、後深草・亀山両天皇を生んでいます。次女の公子(こうし、後の東二条院)は後深草天皇の皇后となり、『とはずがたり』においては作者の後深草院二条を御所から追い出した嫉妬深い一面が垣間見える描写があります。実氏の娘大宮院が、次男の亀山天皇の即位を望み、兄弟が天皇となった結果、皇統の分裂を招き、南北朝時代の到来する萌芽となった事は、何度か書いて来ました。
 それから、後深草院二条の母典侍大(すけだい)は、貞子の弟隆親の娘で、隆資卿の祖父である隆顕の同母姉妹で、その縁から二条の後見を務めています。生母は足利義氏の娘能子で、夫の隆親と共に後嵯峨天皇の乳母を勤めていました。昔々の遠いところで隆資卿と足利尊氏との血が繋がっていたのです。
 話を戻して、隆資卿の娘が生んだ12代・公永からしばらくの間は他家から嫁を娶らずに17代・実宣は、正親町三条実望の娘が妻となり、18代・公朝が生まれ当主となります。その公朝の妻には万里小路秀房の娘が、19代・実益を生みました。なぜ、しばらくの間他家から室を迎えなかったのか、たぶん迎える事が出来ない状態であったのでは、と思われます。7代もの長きに渡って「関東申次」という役職を勤めていた地位に返り咲くまでの雌伏の時代だったのです。
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 正親町三条家は藤原北家(閑院)流で、家格は三大臣家で、江戸時代には大臣にまで昇進しました。清華家のすぐ下です。その次の公朝の妻の実家は万里小路家です。名家の中の藤原北家日野流で、12の家があります。名家は、羽林家と同列で序列でいえば、最下位の家格である半家の上となり、大納言を極官とするところは同じですが、武官系の羽林家に対し、名家は侍従、弁官などの文官・事務系職を経て大納言に進みましたが、例外として、日野家は左大臣、烏丸家と万里小路家は内大臣に進んだ者もあり、昇進については各家により差異が生じた事がありました。中でも、日野流と勧修寺流が重きをなしました。
 西園寺家に清華家としての対面を保つ力が徐々に戻りつつあった事が、妻として迎える娘の家の家格によって分かって来るのです。
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 この系譜②では、同じ清華家である久我家より妻を迎えている19代・実益、妻の父である久我晴通は主に105代後奈良天皇に仕えています。正法寺に伝わる宸翰を取り次いだ可能性も考えられます。久我晴通の娘が生んだ公益、そして次の実晴に至っては、細川忠隆の娘である徳姫を迎えています。徳姫の生母は前田利家の娘で、徳川将軍家への忖度から、父忠興は「妻を前田家へ帰せ」と命じますが、忠隆はその命に叛き廃嫡される道を選びます。廃嫡後は、長岡休無と号して京都で茶人として余生を送りました。その休無から娘の徳姫には毎年助成金が贈られ、休無の没後は遺産として500石を徳姫が相続して西園寺家の財産基盤となったと言われています。徳姫との婚儀は、公家と大名家との間で行われていますが、徳川将軍家が口出しを出来ないほどの実力を細川家が持っていた事が知られます。忠隆自体が母の愛を受けて育ったことの証を見るようで、その愛情の深さに母であるガラシャの思いを垣間見えてきます。
 22代・公満も松平康重の娘を娶り、父子共に大名家との縁を選んでいるところにも、当時の公家の家の事情が察せられて、興味深いです。その娘は久我家に嫁ぎ、豊忠を生みますが、その豊忠にはさらなる数奇な運命が待ち構えていました。
 その頃、正親町天皇の孫である智仁(としひと)親王は初め跡取りの無い豊臣秀吉の猶子となりますが、秀吉に秀頼が出来た事から猶子を取り消された時、新しく設けられた八条宮家の初代となりました。智仁親王は父子2代で桂離宮を造った事で有名な方ですが、3人の息子を持ち、嫡男智忠(としただ)親王は八条(桂宮)家2代目となり、良尚親王は曼殊院の門跡、そして臣籍に下った源忠幸は3男でした。忠幸は尾張藩主・徳川義直の長女・京姫と婚約し、同時に徳川義直の猶子となります。慶安3年(1650)2月9日に京都を出発、同月28日に京姫と結婚して、以後、名古屋城で暮らしますが、その後帰洛し、朝廷に対し松殿家(正保3年(1646)に断絶)を再興するなどして、公家に戻る事を願いましたが、その一方で実兄の八条宮智忠親王は皇族になる事を進言されておられます。寛文3年(1663)11月、霊元天皇より源姓が下賜され臣籍に降り、12月には「広幡」の家号も与えられ、新たに家を興す事が許されました。家格は清華家で正親町源氏です。
 説明が前後しましたが、久我家は村上天皇の第8皇子具平親王の息子である右大臣源師房を祖とする村上源氏の嫡流で、源氏長者を勤めて来ました。曹洞宗の宗祖である道元も久我家の出で、久我りんどうと呼ばれる五つ竜胆車を宗紋としています。正親町源氏の広幡家は、醍醐家と共に江戸時代になってから興った家で、宮家の血筋を重んじた事から、家格は清華家となりました。
 広幡忠幸の猶子となったのが、西園寺公満の娘が生んだ豊忠だった事から、皇統へと血脈が繋がって行く事となりまいた。
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 西園寺公満の娘が正親町家に嫁ぎ、そのひ孫になる雅子(なおこ)は仁孝天皇の後宮に典侍として入り、仁孝天皇の寵愛を受けて、孝明天皇をお生みになられ、最後の女院号をお受けになられました。女院号は、新待賢門院です。雅子は広幡豊忠の玄孫にあたります。孝明天皇は明治天皇の父であられますので、今上天皇は末裔と言う事になります。
 このように西園寺家は歴史を動かしてきた事が多々あり、8代目公衡の娘寧子(ねいし、後の広義門院)は後伏見天皇の女御となり、寧子が皇子を生む事を祈願して、父公衡は「春日権現験記絵」を徳治元年(1306)に春日社へ奉納しました。その祈願は叶えられ、寧子は光厳・光明両天皇を生み、足利幕府によって建てられた北朝の天皇となりました。
 春日権現はその祈願に答えたのですが、もし、寧子が2人の皇子を生まなければ、南北朝時代は興らなかったのでしょうか。
 八幡では、南北朝の戦いなどで世を儚み(はかなみ)出家した寧子の末弟中納言宗時が「天照山光明院念佛寺」を拝受し、念佛寺を再興させたと言われています。

隆資卿の子どもたち

 隆資卿の前半生は不明で、参議となった嘉暦2年(1326)の『公卿補任』(尻付にはそれまでの任官記録をまとめて記す)に初登場するように、同じく隆資卿の子どもたちの生い立ちなども不詳ですが、上記した少納言内侍(隆資卿の長女)は、20歳までの若い時の子で、大塔宮護良親王に仕えた隆貞は同母兄弟かも知れません。ただただ推測の域を出ませんが。
何度も言いますが、隆資卿の子どもたちについては不明な点が多く、息子たちは皆、生涯を南朝一筋に仕えた父に従い、北朝軍との戦闘中に亡くなっています。建武元年(1334)10月、長子の隆貞は仕えていた大塔宮護良親王が拘引され鎌倉に配流されるや否や粛清されます。その頃、一時的ではありますが隆資卿は官職を辞します。その隆貞は「公家大将」の先駆けと言われ、その次は元弘の乱で捕らわれた隆量(たかかず)、嫡男であるとされる隆俊は4男です。因みに、公家大将とは「一軍を率いて軍事的指揮を執った公家のこと」(Wikipedia)で、南北朝時代限定とされる武闘派公家とされています。f0300125_20392012.jpg
 隆資卿の娘となると2人です。元々、女性の実名は秘名であり、「名を教えると他人によって使われ、利用され、使った人に支配される、だから教えない」という実名敬避の習俗があり、女房名などしか分かりません。北畠親房が著した『皇胤紹運録』に載っている「少納言内侍」は「後醍醐天皇の宮人。左大臣四条隆資の娘。尊真法親王を生む。」とあります。その後の消息は不明ですが、宮中から退出後、いずれかの公家に嫁したのでは、と考えられます。
 この長女の宮中時代の時の繋がりから、西園寺実俊の母である日野名子と知り合いであった事が大きく働いていたのではと想像しています。
 当時の公家の家々は一応に微妙な立ち位置にあり、一族の中で両朝に仕える者に分かれていました。四條家でも北朝に仕える房名(1229-1288)が後には嫡流になっています。
 そして、代々関東申次を勤めていた西園寺家では、家督を継いだ公宗がもう一度鎌倉幕府の時代に戻そうとして、北条氏の遺児と結び、後醍醐天皇の暗殺計画を計りますが、庶流出の弟公重に密告され命を落としています。公宗の子を身ごもり探索の眼を逃れて出産、養育した日野名子(資朝の兄の娘)はこの事件で、夫と実父等を失っています。兄を密告して家督を奪った西園寺公重などは、この時代を象徴する人物でしょう。 
 この系譜が史実であれば、四條隆資卿の存在意義はその娘を通して大きくなり、「蟷螂山由来記」に言う、「前述の田知麻守系譜の応神天皇と橘の君、寄進者の徳川家光と龍と橘、家光の母は浅井家の出であり、浅井家は正親町三條実雅に遡り、正親町家は藤原北家を祖にしていることは浅井家の系図で明らかである。(後略)」が肯定されてくるのです。
 最後に、正親町雅子の実家である正親町家について書いて終わりにします。
 正親町家は羽林家で、藤原北家閑院流の洞院公守(1249-1317)の次男実明(1274-1351)を祖として、鎌倉後期に始まった家です。洞院家は西園寺家4代目当主である公経の次男実雄(さねお)から始まり、異母兄の西園寺実氏と共に後宮に娘を入れて競い合っていた時期もありました。実雄の息子公守の長男実泰は洞院家の当主となり、その息子が『園太暦』の著者で、南北両朝に有職故実の大家として重んじられた洞院公賢です。同じ羽林家でも毛色の違う公賢と隆資卿、建武の新政の時、どんな思いを抱いて付き合っていたのでしょうか。
 正親町家の江戸時代の家禄は352石。雅子の祖父である正親町公明(きんあき)は武家伝奏の在任中に光格天皇の父閑院宮典仁(すけひと)親王の尊号問題で徳川幕府によって処罰されています。そんなところにも、宿命を感じてしまうのは、私一人でしょうか。
(おわり)
参考資料
 「内乱のなかの貴族」林屋辰三郎著 角川書店
 「八幡の歴史を探る」第80号ー『四條隆資卿物語』その2

  
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# by y-rekitan | 2019-05-27 09:00 | Comments(0)