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◆八幡の歴史を探究する会

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 本会では、2010年より京都府八幡の歴史についての探究と共有を目指して、講演会や歴探ウォークの開催、会報の発行等の活動を積極的に続けています。

“『石清水八まん宮道』に誘う道標群” の増補版は第2刷で販売中です!


4/17 新しい集いの案内が1件、4/1 アクセスtop3を更新、3/26 新しい会報記事が5件、 2/10 新掲示板に投稿が1件 追加されています。

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お急ぎの方は 最新の 《会報記事集いの案内》 に直行 できます。
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本会では定期的に会報を発行し現在 90号 を数えていますが、このサイトには
そこから 428件 の記事を掲載しております。

f0300125_102141100.jpgf0300125_10225233.jpg"3月度の記事別アクセス数 TOP3"
第47号:遊女 江口の君
第73号:石清水八幡宮の由緒と建築様式
第51号:八 幡 を 掘 る
3月度の人気タグ top3⇒  八幡宮の神人  松花堂昭乗  墓地と墓石

“アクセスtop3” コーナーについての 《解説とご案内》をこちらに 入れております。

なお個々の記事には以下の四つのルートから簡便にアクセスして頂けます。f0300125_20584995.jpgf0300125_20591768.jpgf0300125_20594243.jpgf0300125_210420.jpg

3/26 以下の朱書き部の連載や個別記事を追加掲載しました。
(前回更新日は 1/28)

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会報号番をクリックして頂くと、後はスクロールのみでその号の記事を一気にお読みいただけます。
なお朱書きが追加された号を示しております。

ブログ管理会社のシステム変更の影響で、現在以下をクリックすると、各号報のトップではなく記事一覧が出ます。お手数ですが その一覧ではクリックせず、そのまま下にスクロールしてご参照ください。
(各号のトップやエンドから前後の号報に移る場合も同じです)

《お知らせ》 第73号より会報は奇数月の隔月発行となっています。

2019年03月 第90号     2019年01月 第89号
2018年11月 第88号     2018年09月 第87号
2018年07月 第86号     2018年05月 第85号
2018年03月 第84号     2018年01月 第83号
2017年11月 第82号     2017年09月 第81号

2017年07月 第80号     2017年05月 第79号
2017年03月 第78号     2017年01月 第77号
2016年11月 第76号     2016年09月 第75号
2016年07月 第74号     2016年05月 第73号
2016年03月 第72号     2016年02月 第71号

2016年01月 第70号     2015年12月 第69号
2015年11月 第68号     2015年10月 第67号
2015年09月 第66号     2015年08月 第65号
2015年07月 第64号     2015年06月 第63号
2015年05月 第62号     2015年04月 第61号

2015年03月 第60号     2015年02月 第59号
2015年01月 第58号     2014年12月 第57号
2014年11月 第56号     2014年10月 第55号
2014年09月 第54号     2014年08月 第53号
2014年07月 第52号     2014年06月 第51号

2014年05月 第50号     2014年04月 第49号
2014年03月 第48号     2014年02月 第47号
2014年01月 第46号     2013年12月 第45号
2013年11月 第44号     2013年10月 第43号
2013年09月 第42号     2013年08月 第41号

2013年07月 第40号     2013年06月 第39号
2013年05月 第38号     2013年04月 第37号
2013年03月 第36号     2013年02月 第35号
2013年01月 第34号     2012年12月 第33号
2012年11月 第32号     2012年10月 第31号

2012年09月 第30号     2012年08月 第29号
2012年07月 第28号     2012年06月 第27号
2012年05月 第26号     2012年04月 第25号
2012年03月 第24号     2012年02月 第23号
2012年01月 第22号     2011年12月 第21号

2011年11月 第20号     2011年10月 第19号
2011年09月 第18号     2011年08月 第17号
2011年07月 第16号     2011年06月 第15号
2011年05月 第14号     2011年04月 第13号
2011年03月 第12号     2011年02月 第11号

2011年01月 第10号     2010年12月 第09号
2010年11月 第08号     2010年10月 第07号
2010年09月 第06号     2010年08月 第05号
2010年07月 第04号     2010年06月 第03号
2010年05月 第02号     2010年04月 第01号

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連載企画の記事はこちらから直接初回記事に入り、以降は文末でクリックすることで
連続参照して頂けます。 今回の号では朱書きの連載記事が追加 されています。


《連載》 “御本社道を探る” (第90号~新規)
《連載》 “綿祔開(めんぷひらく)” (第89号~第90号 完)
《連載》 “柏村直條と鵬沢家家老の藪田重守” (第89号~第90号 完)
《連載》 “私の歴史さんぽ” (第86号~継続中
《連載》 “四條隆資卿物語” (第79号~第83号)
《連載》 “八幡の古墳と鏡” (第77号~第88号)
《連載》 “八幡に見る古代植物” (第74号~第77号)
《連載》 “詩歌に彩られた八幡の歴史” (第73号~第77号)
《連載》 “宮廷と歌合、そして石清水宮寺” (第71号~第72号)
《連載》 “心に引き継ぐ風景” (第70号~継続中
《連載》 “五輪塔あれこれ” (第70号~第79号)
《連載》 “『三宅安兵衛遺志』碑と八幡の歴史創出” (第70号~継続中
《連載》 “八幡の道を「高野街道」となぜ呼ぶのか?” (第67号~71号
《連載》 “松花堂昭乗が詠んだ八幡の町"  (第63号~第68号)
《連載》 “川の旅日記"  (第62号~第64号)
《連載》 “八 幡 八 景”  (第58号~第60号)
《連載》 “『歴史たんけん八幡』の発行"  (第56号~第68号)
《連載》 “御園神社考”  (第55号~第58号)
《連載》 “古代の声を聞く ”  (第53号~第54号)
《連載》 “自転車で巡る名所案内 ”  (第52号~第56号)
《連載》 “ 物語はどのように生まれたか ”  (第51号~第56号)
《連載》 “ 石清水八幡宮の歴史Q&A ”  (第50号~第57号)
《連載》 “ 伊佐家のしきたりとくらし ”  (第48号~第51号)
《連載》 “ 謡曲のふるさと八幡 ”  (第41号~第43号)
《連載》 “ 大谷川散策余話 ”  (第38号~第50号)
《連載》 “ 御文庫とエジソン碑 ”  (第36号~第45号)
《連載》 “ 墓石をたどる ”  (第33号~継続中)
《連載》 “ 八幡の歴史スポット ”  (第30号~第32号)
《連載》 “わが心の風景 ” (第28号~第69号)
《連載》 “八幡太鼓祭り ”  (第28号~第29号)
《連載》 “八幡に残る昔話と伝承 ”  (第26号~第30号)
《連載》 “ 八幡文学碑巡り ”  (第22号~第26号)
《連載》 “八幡神と神仏習合 ”  (第21号~第25号)
《連載》 “ 一枚の写真から ”  (第16号~第19号)
《連載》 “ 八幡の歴史の謎とは何か”  (第15号~第16号)
《連載》 “古歌に詠まれた南城山”  (第11号~第15号)
《連載》 “八幡の祭りについて”  (第5号~第17号)
《連載》 “八幡の歴史を彩る文化”  (第4号~第9号)
・・・
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現在掲載しているスポット記事は以下の通りです。クリックで直接お読み頂けます。

“お亀の方について" (第88号)
“「太西坊」碑発見と「西遊寺」の三宅碑" (第88号)
“狩尾神社のお祭り" (第88号)
“増補版「『石清水八まん宮道』に誘う道標群」" (第88号)
“八幡市民文化祭での展示発表" (第88号)
“他国の猪鼻坂はどこに" (第87号)
“天正の大地震" (第87号)
“江戸時代の「八幡宮道」道標の設置" (第86号)
“八幡の歴史を学ぶ連続学習会」2017年 " (第85号)
“八幡市誌の高野街道 " (第84号)
“台場跡講座から学んだこと " (第84号)
“石清水八幡宮と松本神社の絵馬 " (第83号)
“勅祭・石清水祭に学ぶ " (第82号)
“第45回八幡市民文化祭展示発表報告 " (第82号)
“高良神社の太鼓祭りを楽しむ " (第81号)
“「石清水八まん宮道」に悠久の歴史がある " (第81号)
“「『石清水八まん宮』に誘う道標群」の発刊にむけて " (第81号)
“八幡の京街道は川底に沈んだ " (第80号)
“消えた踏切道に思う " (第80号)
“今年白寿を迎えました " (第80号)
“『太平記』 八幡合戦の石碑を訪ねる " (第79号)
“「八幡の歴史を学ぶ連続学習会」2016年 " (第79号)
“石清水八幡宮を指し示す「八幡宮道」の道標の数々 " (第78号)
“大阪府下の東高野街道に「やわた道」の道標を訪ねて" (第77号)
“歴探サイト(ホームページ)の現況報告" (第77号)

これより古い号の個別記事インデックスはこちらに

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◆八幡のおすすめキーワードで関連記事を◆
この画面の右上の “タグ” 欄のおすすめキーワードをクリックして頂くと、ブログ内の
関連記事をまとめてご参照頂けます。
最初に記事一覧が出ますが、そこではクリックせずスクロールでお読みください。
なおタグ記事閲覧後に元に戻る場合は、一旦上端までスクロールし画面左上隅の
“Y-rekitan八幡”の文字をクリックしてください。

任意のキーワードで記事を検索
右上の “検索ボックス” に八幡に関わる任意のキーワードをセットして頂きますと、
このブログに収納している関連記事の一覧が出ます。合わせてご利用ください。



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# by y-rekitan | 2020-12-31 20:00 | Comments(0)

◆コーナー・講演会の記録

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「八幡の歴史を探究する会」では、定期的に講演会や歴探ウォーキングの集いを実施していますが、このコーナーでは、その講演会のレポートを紹介しております。

 3/26 朱書きの記事を追加掲載しました。 現在の記事数は 64件です。 

下記の任意の記事をクリックして頂くと、それ以降は記事下端で“次のレポート”をクリックして頂くことで連続参照して頂けます。 

  《講演会録》 90号 2019年02月 下向する昭乗
  《講演会録》 88号 2018年10月 馬場遺跡の発掘調査を終えて
  《講演会録》 87号 2018年08月 石清水八幡宮の印章
  《講演会録》 85号 2018年04月 久世郡上津屋村を探究する

  《講演会録》 84号 2018年02月 八幡の道の歴史―江戸時代の道標調査を終えて
  《講演会録》 82号 2017年10月 森本家文書からみた近世石清水の神人構成と身分
  《講演会録》 81号 2017年08月 石清水八幡宮の牛玉宝印
  《講演会録》 79号 2017年04月 三川合流の変遷と周辺都市
  《講演会録》 78号 2017年02月 謡曲から見た八幡
  《講演会録》 76号 2016年10月 八幡の古代遺跡と道
  《講演会録》 75号 2016年08月 石清水八幡宮の成立と機能
  《講演会録》 73号 2016年05月 石清水八幡宮の由緒と建築様式
  《講演会録》 71号 2016年02月 中世都市 八幡
  《講演会録》 70号 2016年01月 『三宅安兵衛遺志』碑と八幡の歴史創出

  《講演会録》 68号 2015年11月 継体大王の謎を追う
  《講演会録》 67号 2015年10月 弥生時代の八幡市とその周辺
  《講演会録》 66号 2015年09月 江戸時代の村の暮らし
  《講演会録》 63号 2015年06月 酒麹作りがビジネスの八幡神人がなぜ奉納詩歌に
  《講演会録》 62号 2015年05月 知っているようで知らない松花堂昭乗のこと
  《講演会録》 61号 2015年04月 幕末政治と攘夷―長州・京都・八幡
  《講演会録》 59号 2015年02月 二宮忠八と八幡
  《講演会録》 58号 2015年01月 史跡 松花堂庭園の成立
  《講演会録》 57号 2014年12月 中村家住宅の国登録有形文化財指定
  《講演会録》 56号 2014年11月 中世大山崎の商業活動について

  《講演会録》 55号 2014年10月 「安居頭諸事覚」を読む
  《講演会録》 54号 2014年09月 地誌に見る八幡
  《講演会録》 54号 2014年08月 神国論の系譜
  《講演会録》 51号 2014年06月 八幡を掘る
  《講演会録》 50号 2014年05月 門前町の八幡「今」「昔」
  《講演会録》 49号 2014年04月 石清水八幡宮の年中行事と庶民信仰
  《講演会録》 47号 2014年02月 松花堂昭乗の茶の湯
  《講演会録》 46号 2014年01月 歌人吉井勇の歌行脚
  《講演会録》 44号 2013年11月 八幡の歴史と土器
  《講演会録》 43号 2013年10月 八幡における浄土信仰

  《講演会録》 42号 2013年09月 江戸時代の村の暮らし
  《講演会録》 41号 2013年08月 武家政権と石清水八幡宮
  《講演会録》 39号 2013年06月 八幡社士総代「江戸尾張年頭御礼日記」
  《講演会録》 38号 2013年05月 天下人の時代と八幡
  《講演会録》 37号 2013年04月 南山城の地域史を学んで
  《講演会録》 35号 2013年02月 松花堂昭乗の江戸下向
  《講演会録》 34号 2013年01月 八幡・山崎の警備体制と鳥羽伏見
  《講演会録》 32号 2012年11月 松花堂昭乗と近世前期の文芸
  《例会報告》 30号 2012年09月 「八幡歴史カルタ」読み札の決定
  《講演会録》 29号 2012年08月 石清水際と神人の経済活動

  《講演会録》 28号 2012年07月 良いまちには良い川がある
  《講演会録》 27号 2012年06月 八幡の町の成り立ち
  《講演会録》 26号 2012年05月 庶民信仰と八幡大菩薩
  《講演会録》 25号 2012年04月 男山文化園の中心・八幡
  《講演会録》 23号 2012年02月 古代の八幡を探る
  《講演会録》 21号 2011年12月 高度経済成長期の八幡を語る
  《講演会録》 20号 2011年11月 八幡八景の成立とその背景
  《例会報告》 19号 2011年10月 八幡の歴史を次代に遺そう!
  《講演会録》 18号 2011年09月 墓地で探る八幡の歴史(1)
  《講演会録》 18号 2011年09月 墓地で探る八幡の歴史(2)

  《講演会録》 16号 2011年07月 地名で学ぶ八幡の歴史
  《講演会録》 14号 2011年05月 中世都市橋本を学ぶ
  《講演会録》 13号 2011年04月 八幡の古墳とその特徴を学ぶ!
  《講演会録》 12号 2011年03月 神仏習合の実像に迫る
  《講演会録》 11号 2011年02月 近代の門前町と参詣路を語り合う
  《講演会録》 10号 2011年01月 南北朝の争乱と八幡
  《講演会録》 08号 2010年11月 淀屋の歴史をたどる!
  《講演会録》 06号 2010年09月 石清水八幡宮の絵図を読み解く!
  《講演会録》 04号 2010年07月 松花堂昭乗の出自を追う!
  《講演会録》 02号 2010年05月 古代の遺跡から八幡の歴史を学ぶ

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# by y-rekitan | 2020-12-31 18:00 | Comments(0)

◆コーナー・歴探ウォークの記録

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「八幡の歴史を探究する会」では、定期的に講演会や歴探ウォーキングの集いを実施していますが、このコーナーでは、その歴探ウォークのレポートを紹介しております。

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 1/28 朱書き記事を追加掲載しました。 現在の記事数は 22件です。 

下記の任意の記事をクリックして頂くと、それ以降は記事下端で“次のレポート”をクリックして頂くことで連続参照して頂けます。

  《歴探散策》 89号 2018年12月 八幡の古寺巡礼 第6回
  《歴探散策》 86号 2018年06月 小堀遠州の菩提寺、五先賢の館等を訪ねて

  《歴探散策》 83号 2017年12月 八幡の古寺巡礼 第5回
  《歴探散策》 80号 2017年06月 東山寺と伊弉諾神宮を訪ねて(バスツアー)
  《歴探散策》 77号 2016年12月 八幡の古寺巡礼 第4回
  《歴探散策》 74号 2016年06月 丹後を訪ねてのバスツアー報告
  《歴探散策》 72号 2016年03月 石清水八幡宮 山上伽藍の探訪
  《歴探散策》 69号 2015年12月 八幡の古寺巡礼 第3回
  《歴探散策》 64号 2015年07月 長岡宮を訪ねてのバスツアー報告
  《歴探散策》 60号 2015年03月 橋本の歴史(2)「平野山・西山を歩く」
  《歴探散策》 57号 2014年12月 八幡の古寺巡礼 第2回
  《歴探散策》 52号 2014年07月 対岸の町「山崎・大山崎」を訪ねる

  《歴探散策》 48号 2014年03月 橋本の歴史(1)「京街道を行く」
  《歴探散策》 45号 2013年12月 八幡の古寺巡礼(第1回)
  《歴探散策》 40号 2013年07月 二つの資料館をめぐる
  《歴探散策》 36号 2013年03月 春爛漫の歴史探訪ウォーク
  《歴探散策》 33号 2012年12月 男山参詣路を歩く
  《歴探散策》 31号 2012年10月 八幡の古建築の探訪
  《歴探散策》 25号 2012年04月 歴史探訪「男山参詣路を歩く」
  《歴探散策》 15号 2011年06月 東高野街道を歩く
  《歴探散策》 07号 2010年10月 上津屋の名所をめぐる
  《歴探散策》 03号 2010年06月 八幡の名所・旧跡を歩く

なお歴探ウォークの自転車版、サイクリングツアーについても概要を連載記事として掲載していますので、併せてご参照ください。
《連載記事》 “自転車で巡る名所案内 ”

# by y-rekitan | 2020-12-31 16:00 | Comments(1)

◆コーナー・新しい集いのご案内

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本会では八幡の歴史の探究と共有を目指して、講演会や歴探ウォーク等の集いを定期的に催しておりますが、このコーナーではそのスケジュール等を掲載しております。
併せて本会のトピックスや出版物等についても掲載しておりますのでご参照ください。

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---2019/4/17更新------ 2018/11/1新着---  2019/1/17更新

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ただ今、以下の集いやイベントを案内中です。詳しくはリンクのパンフレットをご参照のうえ、ご参加ください。 4/17更新


f0300125_1833548.jpg◆歴史探訪バスツアー(6月)

   ・概要  歴史探訪バスツアー
   ・日時  2019年 6月5日(水) 午前8時10分 ~ 午後17時50分ごろ
   ・場所 《訪問先》バスで奈良に向かいます
          平城宮跡歴史公園(昼食:朱雀門広場の天平うまし館)
          ⇒ 大安寺 ⇒ 元石清水八幡宮
             ー詳細はバスツアーのパンフレット参照ー



f0300125_1833548.jpg◆2019年度 八幡の歴史を学ぶ連続学習会
       
   ・概要  2019年度 八幡の歴史を学ぶ連続学習会(隔月開催)
   ・日時   2019年 5月 8日(水) 「八幡の歴史散歩」
         2019年 7月10日(水) 「木津の流れと八幡の農」
         2019年 9月11日(水) 「八幡の古寺」
         2019年11月13日(水)  「松花堂あれこれ」
         2020年 1月15日(水) 「八幡の古墳と卑弥呼の鏡」
         2020年 3月11日(水)  「八幡の銅鐸」

         ※何れも午前10時~11時半
   ・場所  ふるさと学習館2階研修室



f0300125_1833548.jpg◆年次総会及び講演と交流の集い(4月)

《終了しました》 参加者は32名でした。
   ・概要 (八幡の歴史を探究する会) 年次総会
        (講演と交流の集い)「南山城の横穴墓と被葬者像を巡って」
   ・日時  2019年 4月20日(土) 年次総会:午後1時20分~2時
                    講演と交流の集い:午後2時~4時
   ・場所  八幡市文化センター3階 第3会議室



f0300125_1833548.jpg◆2018年度 八幡の歴史を学ぶ連続学習会
       
   ・概要  2018年度 八幡の歴史を学ぶ連続学習会(隔月開催)
   ・日時  2018年 5月17日(木) 「八幡八景と直條」
《終了しました》 参加者は38名でした。空白空白
        2018年 7月19日(木) 「江戸時代の村の暮らし」
《終了しました》 参加者は36名でした。空白空白
        2018年 9月20日(木) 「宿場町 橋本」
《終了しました》 参加者は40名でした。空白空白
        2018年11月15日(木)  「二宮忠八と飛行神社」
《終了しました》 参加者は27名でした。空白空白
        2019年 1月17日(木) 「吉井勇と八幡」      
《終了しました》 参加者は25名でした。空白空白
        2019年 3月14日(木)  「八幡の銅鐸」
《終了しました》 参加者は37名でした。空白空白
 
         ※何れも午前10時~11時半
   ・場所  ふるさと学習館2階研修室



f0300125_1833548.jpg◆会員研究発表(2019年2月)

《終了しました》 参加者は39名でした。
   ・概要  下向する昭乗
   ・日時  2019年 2月23日(土) 午後1時30分~4時
   ・場所  松花堂美術館 1階 講習室



f0300125_1833548.jpg◆歴史探訪ウォーク(2018年12月)

《終了しました》 参加者は39名でした。
   ・概要  八幡の古寺巡礼
        ー第6回:杉山谷不動堂~神應寺を巡るー
   ・日時  2018年 12月6日(木) 午後1時30分~4時頃
   ・場所  石清水八幡宮一の鳥居→杉山谷不動堂→神應寺→単伝寺



f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(2018年10月)

《終了しました》 参加者は44名でした。
   ・概要  馬場遺跡の発掘調査を終えて
          -善法寺邸宅跡地ー
   ・日時  2018年10月13日(土) 午後1時30分~4時
   ・場所  八幡市文化センター 3階 第3会議室



f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(2018年8月)

《終了しました》 参加者は39名でした。
   ・概要  石清水八幡宮の牛王宝印印章(印影)について
   ・日時  2018年8月25日(土) 午後2時~4時
   ・場所  八幡市文化センター 3階 第3会議室



f0300125_1833548.jpg◆歴史探訪バスツアー

《終了しました》 参加者は36名でした。
   ・概要  歴史探訪バスツアー
   ・日時  2018年 6月14日(木) 午前7時50分~午後5時頃
   ・場所 《訪問先》バスで北近江方面に向かいます
         近江弧蓬庵⇒五先賢の館(昼食:仕出し弁当)⇒渡岸寺
        ー詳細はバスツアーのパンフレット参照ー

 

f0300125_1833548.jpg◆年次総会及び講演と交流の集い(4月)

《終了しました》 参加者は44名でした。
   ・概要  (八幡の歴史を探究する会) 年次総会
         (講演と交流の集い) 「久世郡上津屋村を探究する」
   ・日時  2018年 4月22日(日) 年次総会:午後1時~1時40分
                   講演と交流の集い:午後2時~4時
   ・場所  八幡市文化センター3階 第3会議室



f0300125_1833548.jpg◆会員研究発表(2018年2月)

《終了しました》 参加者は52名でした。
   ・概要  八幡の道の歴史
         -江戸時代の道標調査を終えてー
   ・日時  2018年2月22日(木) 午後1時30分~4時
   ・場所  八幡市文化センター3階 第3会議室



f0300125_1833548.jpg◆2017年度 八幡の歴史を学ぶ連続学習会

   ・概要  2017年度 八幡の歴史を学ぶ連続学習会(隔月開催)
   ・日時  2017年 5月18日(木) 「八幡神と男山遷座」
《終了しました》 参加者は47名でした。 空白空白
        2017年 7月20日(木) 「元寇から南北朝の争乱まで」
《終了しました》 参加者は43 名でした。 空白空白
        2017年 9月21日(木)  「天下人と八幡」
《終了しました》 参加者は34 名でした。 空白空白
        2017年11月16日(木) 「鳥羽伏見の戦いと八幡・橋本」
《終了しました》 参加者は33 名でした。空白空白
        2018年 1月18日(木)「八幡東部の神社(川口天満宮、内神社)」
《終了しました》 参加者は36 名でした。空白空白
        2018年 3月15日(木) 「近代化の八幡と戦時下の八幡」 
《終了しました》 参加者は30 名でした。空白空白
         ※何れも午前10時~11時半
   ・場所  ふるさと学習館2階研修室



f0300125_1833548.jpg◆歴史探訪ウォーク(2017年12月)

《終了しました》 参加者は39名でした。
   ・概要  八幡の古寺巡礼 ー第5回:男山南部の寺を巡るー
   ・日時  2017年12月7日(日) 午後1時10分~4時頃
   ・場所  松花堂庭園前の昭乗広場



f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(2017年10月)

《終了しました》 参加者は47名でした。
   ・概要  森本家文書からみた近世石清水の神人構成と身分
   ・日時  2017年10月15日(日) 午後1時30分~4時
   ・場所  八幡市文化センター3階 第3会議室



f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(2017年8月)
 
《終了しました》 参加者は40名でした。
   ・概要  石清水八幡宮の牛王宝印
   ・日時  2017年8月26日(土) 午後2時~4時
   ・場所  さくらであい館 イベント広場「淀」



f0300125_1833548.jpg◆歴史探訪バスツアー

《終了しました》 参加者は39名でした。
   ・概要  歴史探訪バスツアー
   ・日時  2017年 6月15日(木) 午前7時50分~午後6時頃
   ・場所 《訪問先》バスで淡路島に向かいます
         伊弉諾(いざなぎ)神社⇒(昼食:海鮮料理)⇒東山寺
        ー詳細はバスツアーのパンフレット参照ー



f0300125_1833548.jpg◆年次総会及び講演と交流の集い

《終了しました》 参加者は58名でした。
   ・概要 (八幡の歴史を探究する会) 年次総会
        (講演と交流の集い) 「淀川・三川合流の歴史とその周辺」  
   ・日時  2017年 4月23日(日)年次総会:午後1時30分~2時10分
                講演と交流の集い:午後2時30分~4時30分
   ・場所  さくらであい館(イベントホール)



f0300125_1833548.jpg◆八幡の歴史を学ぶ連続学習会>

《終了しました》
   ・概要  八幡の歴史を学ぶ連続学習会(隔月開催)
   ・日時  2016年 5月19日(木) 「大むかしの八幡」(29名参加)
        2016年 7月14日(木) 「町の成り立ちと神人の活躍」
                             (37名参加)
        2016年 9月15日(木)  「松花堂昭乗という人がいた」
                             (32名参加)
        2016年11月17日(木) 「淀屋と八幡」(34名参加)
        2017年 1月19日(木) 「河川と歩んだ八幡」(30名参加)
        2017年 3月16日(木) 「昭和から平成へ」(28名参加)     
        ※午前10時~11時半
   ・場所  ふるさと学習館2階研修室



f0300125_1833548.jpg◆会員研究発表

《終了しました》 参加者は40名でした。
   ・概要  謡曲から見た八幡
   ・日時  2017年 2月15日(水) 午後1時30分~
   ・場所  松花堂美術館 講習室



f0300125_1833548.jpg◆歴史探訪ウォーク

《終了しました》 参加者は46名でした。
   ・概要  八幡の古寺巡礼
        ー第4回:男山山麓の寺を巡る(Partー3)ー
   ・日時  2016年 12月8日(木) 午後1時~4時頃
   ・場所  京阪八幡市駅→法園寺→正福寺→単伝寺



f0300125_1833548.jpg◆「八幡の道探究部会」の展示発表

《終了しました》2日間とも多くの来場者がありました。
   ・概要  「八幡の古道」展示発表(八幡市民文化祭)
   ・日時  2016年 10月29日(土) 午前10時~午後5時
        2016年 10月30日(日) 午前10時~午後4時
   ・場所  第44回八幡市民文化祭
         八幡市文化センター 3階エレベーターホール



f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(10月)

《終了しました》 参加者は33名でした。
   ・概要  八幡の古代遺跡と道
   ・日時  2016年 10月16日(日) 
   ・場所  八幡市文化センター第3会議室



f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(8月)

《終了しました》 参加者は42名でした。
   ・概要  石清水八幡宮の別宮の成立と機能
   ・日時  2016年8月27日(木) 午後2時~4時半
   ・場所  八幡市文化センター 第3会議室



f0300125_1833548.jpg◆歴史探訪バスツアー(6月)

《終了しました》 参加者は38名でした。 
  ・概要  丹後を訪ねて
  ・日時  2016年6月9日(木) 午前8時~午後6時頃
  ・場所  《訪問先》 丹後郷土資料館 ⇒ 籠神社 ⇒ ちりめん街道
       ―バスツアーの詳細はパンフレット参照―



f0300125_1833548.jpg◆年次総会及び講演と交流の集い(4月)

《終了しました》 参加者は38名でした。 
   ・概要 (八幡の歴史を探究する会)年次総会
       (講演と交流の集い)  「石清水八幡宮の由緒と建築様式」  
   ・日時 2016年4月21日(木)  年次総会:午後1時~1時40分 
                   講演と交流の集い:午後2時~4時
   ・場所 石清水八幡宮研修センター(男山山上)



f0300125_1833548.jpg◆講演と現地探訪の集い(3月)

《終了しました》 参加者は52名でした。 
    ・概要  石清水八幡宮 山上伽藍の探訪
    ・日時  2016年3月13日(日) 午後1時~4時頃
    ・場所  石清水八幡宮研修センター(講演)及び男山山上探訪






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# by y-rekitan | 2020-12-31 15:00 | Comments(0)

◆コーナー・トピックス & 出版活動

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◆2018年10月27日~28日 第46回八幡市民文化祭に出展 
 2018年の文化祭は、昨年に引き続き「江戸時代の八幡道標」及び「八幡の古墳と鏡」の2テーマを展示発表しました。(出展会場は、例年通り八幡市文化センター3階ロビーでした。)
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 「江戸時代の八幡道標」(4パネルに展示)コーナーでは、昨年販売の冊子“石清水八まん宮に誘う道標群”の読者等から相次いで情報を寄せて頂き、再調査の結果、新たに確認の21基の道標を紹介した。昨年紹介76基に追加し合計97基を掲載の冊子(増補版)は、多くの方の購入していただきました。
また、会で再設置した[八幡宮道道標]をパネルに写真を掲示し紹介しました。
 「八幡の古墳と鏡」(2パネルに展示)コーナーでは、来場の皆さんは熱心に説明を聞かれていました。八幡の古墳から30数枚の鏡が出土していますが、八幡市が所蔵・保管の鏡は数枚です。他は市外に流出または行方不明で現物は確認できません。なお、会場で販売の「八幡の古墳と鏡」資料は好評で準備した30部を完売しました。
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◆2017年10月28日~29日 第45回八幡市民文化祭に出展
 八幡市民文化祭には例年通り出展会場は、八幡市文化センター3階ロビーでした。今年は専門部会「八幡の道探究部会」が2年間かけて現地に出向き調査した八幡市内(22基)及び市外(54基)の『江戸時代の八幡道標(みちしるべ)』をパネル5枚に掲示しました。
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 2日とも台風接近の影響による生憎の雨天のために屋外の展示は中止になり来場者も例年より少なかったですが、来場の皆さんは江戸時代に設置され今に残る八幡道標に興味をもたれてパネルに展示の道標写真や設置場所を地図で確認されていました。また、会場で販売した調査結果を纏めた『「石清水八まん宮道」に誘う道標群”ー江戸時代の八幡道標ー』の本は、予想より遙かに多くの方に購入していただきました。
 展示パネル前のテーブル上には、本と共に「八幡の歴史カルタ」や会報(2年間のバックナンバー)、例会や連続学習会のチラシ等も並べました。
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◆2016年10月29日~30日 第44回八幡市民文化祭に出展
 今年の文化際には、昨年10月発足した専門部会『八幡の道探究部会』の1年間の活動成果を展示発表しました。展示のテーマは「八幡の古道」で、①古地図(6枚)、②古道の作製地図(2枚ー写真6点)、③江戸時代の道標地図(2枚ー写真27点)などを展示しました。
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 展示会場の八幡市民文化センター3階ロビーには、2日間で約200人の大勢の方が訪れられ、展示物を見ていただきました。また、部会員の説明を熱心に聞いておられました。今回の展示発表は当初予想より皆様の古道や古い道標への関心は高くて、準備していた古道や道標地図及び道標リストは多くの方が求められてたので途中で増刷しました。中には関心のある道標を今から見に行くと仰る方も居られました。
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◆2016年6月12日 『八幡の歴史カルタ』の関連史跡めぐり
 「安居塚ブロック福祉委員会(ふれあいサロン)」の皆様が本会制作の『八幡の歴史カルタ』に詠まれている史跡巡りをされている様子が、八幡市社会福祉協議会の広報誌「やわたし社協だより」第108号(2016年6月1日発行)に紹介されました。
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 催しを主催された福祉委員会の安居塚ブロック長 中崎幸子様から「八幡の歴史カルタ等に紹介されている名所巡りを今年3月と5月実施しましましたが、皆様に好評なので11月にも計画しています」と伺いました。

◆2016年6月12日 カルタ資料館に『八幡の歴史カルタ』を寄贈
 この度、福岡県大牟田市立三池カルタ・歴史資料館から、当会制作の「八幡の歴史かるたカルタ」の寄贈依頼があり1セットを寄贈しました。f0300125_1521852.jpg この資料館は日本及び世界のカルタ(歌カルタ・いろはカルタ・トランプ・タロットなど)を専門に収集・展示・研究をする日本で唯一の資料館です。
(注記)
 日本のカルタは、ポルトガルからの影響を受け、16世紀末頃、筑後の三池地方で作り始められたと言われている。その関係で大牟田市が1991(平成3)年に日本で唯一のカルタ専門館を開館した。

2015年10月31日~11月1日第43回八幡市民文化祭に出展
 今年も八幡市文化センターでの市民文化祭に出展しました。「八幡の歴史クイズ」の実施と「歴史カルタ」及び「歴史たんけんマップ」を掲示しました。約100名の方が歴史クイズに挑戦されました。
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◆2015年9月27日 「歴史たんけん八幡」出版記念の集い
 松花堂庭園・美術館別館において実施された、第Ⅰ部記念講演、第Ⅱ部「出版記念」交流の集いは、堀口八幡市長をはじめ多くの方が参加されて盛況でした。
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 ◆2015年5月9日 八幡市生涯学習センター「わくわくドキドキ縁日」に出展。
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 ◆2015年04月18日 発足5周年記念で会の旗製作の記事が京都新聞に。
 ◆2015年02月13日 2月例会「二宮忠八と飛行神社」が京都新聞に掲載。 
 ◆2014年12月23日 「やましろのタカラフェステバル」(文化パルク城陽)に出展。
 ◆2014年11月1~2日 第42回八幡市民文化祭に出展
 ◆2014年08月15日 会報50号達成記念(バックナンバー増刷)が京都新聞に掲載。
 ◆2014年06月09日 KBS京都ラジオで本会活動紹介の放送がありました。
 ◆2014年06月01日 八幡山柴公民館フェスティバルで、歴探クイズ展示。
 ◆2014年05月28日「歴史探訪サイクリング」が京都新聞で紹介されました。


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《NEW》『石清水八まん宮道』に いざな道標みちしるべ―江戸時代の八幡道標―

2018.10.25 新たに21基の道標を追加した増補版を発売しました。
2019.01.17 好評につき増刷し第2刷として販売を開始。併せて更に道標1基を追加しております。

先に「石清水八まん宮道に誘う道標群」の冊子を発行したところ、多くの皆さんに関心を持って頂き、また、相次いで貴重な情報を寄せていただきました。そこでお寄せ頂いた情報をもとに調査を実施し確認された道標21基を追加した増補版を発行しましたが、この度その第2刷を発行するに伴い更に1基を追加、新刷では計98基を掲載しております。

「八幡道標」ともいうべき貴重な道標群を「昔と今を結ぶ掛替えのない歴史遺産」として保護するとともに、誇りを持って「後世に引き継ぎたい」との思いを強くしています。

出版冊子の概要
 A5版フルカラーで120ページです。また、掲載している地図は、現地で迷わないように道標設置の場所をピンポイントで示しています。本書は極力廉価で皆様にご提供できることを目指し、すべて本会で自家編集し、それをそのままネット印刷で本にしました。

主な内容
1.江戸時代の八まん宮道のエリア区分地図(京都市北区~大阪府松原市)
2.道標群の紹介―合計98基
f0300125_10184039.jpg ・八幡市 ;23基
 ・京都市内:10基
 ・長岡京市:1基
 ・大山崎町:2基
 ・宇治市 :1基
 ・京田辺市:3基
 ・精華町 :1基
 ・島本町 :1基
 ・高槻市 :3基
 ・茨木市 :1基
 ・枚方市 :28基
 ・交野市 :4基
 ・寝屋川市:3基
 ・四條畷市:4基
 ・大阪市 :1基
 ・大東市 :2基
 ・東大阪市:8基
 ・松原市 :2基

本書の販売について
・販売価格 : 1,000円(会員価格)
・販売場所 : 本会の行事や催し物会場などで都度販売します。
       
・委託販売所: 松花堂ミュージアムショップ
        石清水八幡宮(本殿)授与所
        
・本会での販売について
   事務局  高田昌史 宛に連絡ください。
   電 話   090-2011-7503
   メール  takata@cd6.so-net.ne.jp
   または、お近くの本会の幹事までお願いします。

・郵送販売について
   販売価格+郵送料(180円)をいただきます。
   お支払方法は下記口座あての郵便振り込みを願いします。
    申し込み: 歴探事務局 takata@cd6.so-net.ne.jp
    支払振込: 郵便振込口座番号:00970-2-322353
         (加入者名:八幡の歴史を探究する会)
    ・お願い ー 振込前にご一報下さい、早くお送りできます。

 江戸時代の八幡道標をとりまとめた冊子の発刊に併せて、冊子で取り上げている全ての道標位置をグーグル地図上に正確にプロットした専用のマップを用意しています。道標の位置や設置場所の様子を確認する補助ツールとして、冊子と共にご利用いただければ幸いです。
 グーグル“江戸時代の八幡道標”マップへ⇒
 道標マップの御利用法はこちらに⇒



《初版》『石清水八まん宮道』に いざな道標みちしるべ群―江戸時代の八幡道標―

江戸時代の76基の道標を紹介した《初版》は2017/10月の発刊以来、好評につき増刷を重ねてまいりましたが《増補版》の発刊に伴い販売を終了しました。 

f0300125_21252046.jpg 本書は150年以上前の「江戸時代」に建立された八幡市内及び市外の「八幡道標」ともいうべき道標群を「昔と今を結ぶ掛替えのない歴史遺産として保護する」とともに「後世に引き継ぎたい」との強い願いから、専門部会「八幡の道探究部会」の会員が二年間に渡り自分の足で調査した結果をまとめたものです。
 多くの方々に感心を持っていただくことが道標の保護につながると確信し、是非この冊子を片手に各地の江戸時代と現在を結ぶ八幡道標を訪ねられることを願って出版致しました。

出版冊子の概要
 A5版フルカラーで96ページです。また、掲載している地図は、現地で迷わないように道標設置の場所をピンポイントで示しています。
主な内容
1.刊行にあたって
2.江戸時代の八まん宮道 エリア区分地図
3.「八幡道標」の紹介―以下の合計76基
   ・八幡市 :22基
   ・京都市内:8基
   ・長岡京市:1基
   ・大山崎町:1基
   ・高槻市 :3基
   ・茨木市 :1基
・枚方市 :26基
・交野市 :2基
・寝屋川市:2基
・四條畷市:3基
・大東市 :2基
・東大阪市:5基
4.八幡道標の調査を終えて
5.編集後記

この本の発行がニュースとして京都新聞に掲載されました。




◆歴史と文化の本、『歴史たんけん八幡』は好評のうちに完売。

2015.9.1 大人も子供もこの一冊で、八幡の歴史と文化がよくわかる本、『歴史たんけん八幡』が発刊されました。
 発行日の9月1日にはこの本を八幡市に贈る贈呈式が行われ、その後ミュージアムショップやイベント会場で販売を行ってまいりましたが、好評のうちに販売を完了しました。
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『歴史たんけん八幡』、発刊よもやま話

f0300125_0485928.png 本会ではこの本の一年半にわたる企画から編集、発刊に至る経緯や本の概要を、シリーズ記事として会報で紹介してまいりました。
以下にその記事をリストアップしていますのでご参照ください。
(写真は制作委員会の風景です)


発刊に向けて ▼『歴史たんけん八幡』の発行にむけて
 ▼本の紹介として「特別連続講座」を開設
 ▼本の紹介としての「特別連続講座②」を開催
 ▼いよいよ『歴史たんけん八幡』の発行が迫る

発刊に寄せて ▼刊行に寄せて・・・『歴史たんけん八幡』と私
 ▼『歴史たんけん八幡』が発行されました
 ▼八幡の歴史にこの本の刊行が刻み込まれた
 ▼出版記念の集いが開かれました!
 ▼『歴史たんけん八幡』の普及と活用 / 読書感想

                    


◆本会制作の 『八幡の歴史カルタ』 を販売中です。
2013年2月に発売した《初版》は好評のうちに完売しました。現在は装いを新たにした改訂版を販売中です。

発行:2013年5月25日
販売価格:1,000円
制作:八幡の歴史を探究する会
絵札:森川 修
ケース:石瀬謙三
句:歴探会員応募作より
句の解説:歴探会員有志 (読み札の裏はその句の歴史的な解説になっています)
       
販売所:松花堂ミュージアムショップ、
・歴探事務局 takata@cd6.so-net.ne.jp
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◆本会の会報のバックナンバーを販売しています。
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  • 各号とも1部100円です。
  • 体裁は白黒A4版で、各号ともおおむね10~30ページの構成となっております。(但し古い号では10ページ未満のものもあります)
  • ご希望の方は八幡市民文化祭の展示販売時にお求めください。または弊会の幹事に連絡ください。
  • また郵送をご希望の方は、下記「歴探事務局」まで希望会報の号番号、送付先等の必要事項をメールでご連絡ください。郵送料はご負担をお願いします。

    なお、お支払方法は下記口座あての郵便振り込みとさせていただきます。
       申し込み: 歴探事務局 takata@cd6.so-net.ne.jp
       支払振込: 郵便振込口座番号:00970-2-322353
              (加入者名:八幡の歴史を探究する会)
       

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# by y-rekitan | 2020-12-31 14:50 | Comments(0)

◆統合版・・・集いのパンフレット

新しい集いのご案内 パンフレット集



◆歴史探訪バスツアー(6月)

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◆(2019年度)八幡の歴史を学ぶ連続学習会

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◆年次総会及び講演と交流の集い(2019年4月)

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《終了》◆会員研究発表(2019年2月)

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《終了》◆歴史探訪ウォーク(12月)

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《終了》◆講演と交流の集い(10月)

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《終了》◆講演と交流の集い(8月)

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《終了》◆歴史探訪バスツアー

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《終了》◆(2018年度)八幡の歴史を学ぶ連続学習会
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《終了》◆年次総会及び講演と交流の集い(4月)

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《終了》◆会員研究発表(2月)

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《終了》◆歴史探訪ウォーク(12月)

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《終了》◆講演と交流の集い(10月)

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《終了》◆講演と交流の集い(8月)

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《終了》◆歴史探訪バスツアー

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《終了》◆(2017年度)八幡の歴史を学ぶ連続学習会

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《終了》◆年次総会及び講演と交流の集い

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《終了》◆会員研究発表

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《終了》◆歴史探訪ウォーク

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《終了》◆「八幡の道探究部会」展示発表

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《終了》◆講演と交流の集い(10月)

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《終了》◆講演と交流の集い(8月)

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《終了》◆歴史探訪バスツアー(6月)

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◆八幡の歴史を学ぶ連続学習会

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《終了》◆年次総会及び講演と交流の集い(4月)

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《終了》◆講演と現地探訪の集い(3月)

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《終了》◆男山考古録を読む会パートⅢ第4回

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《終了》◆講演と交流の集い(2月)

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《終了》◆講演と交流の集い(1月)

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《終了》 ◆男山考古録を読む会パートⅢ第3回(通算第11回)

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# by y-rekitan | 2020-12-31 14:00 | Comments(0)

◆コーナー・本会の概要と入会のご案内

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このコーナーでは「八幡の歴史を探究する会」の概要紹介や、入会のご案内を掲載しております。
2015.09.10 本会の沿革コーナーに追記    2015.04.21 本会の会則を更新
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 「八幡の歴史を探究する会」は2010年4月に 発足しました。
 八幡は、弥生時代の遺跡をはじめ、さまざまな古墳や、石清水八幡宮、善法律寺、正法寺、松花堂などすぐれた文化遺産に恵まれています。ところがその歴史的意義や文化的価値が必ずしも明らかにはされておらず、そこに暮らす私たち自身もその存在にすら気づいていないという現実があります。 

 そうした中で私たちは「八幡の歴史を探究する会」を設立し、①講演会、②現地見学会、③会員の研究発表、を事業の3本柱として各種イベントを開催するとともに、その活動内容を市民内外に広く知ってもらうために、「会報」を発行しております。
 私たちは関係団体や機関とも連携しながら、歴史探究の活動を通して市民の誰もが郷土の歴史と文化に誇りをもち、未来の町を築いていくことに貢献できればと願っております。
 「八幡の歴史を探究する会」 代表幹事 安立 俊夫空白

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 本会の概要や会則にご賛同いただき、ともに活動して頂ける会員を募っております。
  • 八幡市以外にお住まいの方も会員になれます。
  • 会員には、「会報」及び例会案内チラシ等を郵送いたします。
  • 会費:年会費は(4月~3月締めで)1,500円  
      10月以降入会は、1,000円、
  • お申し込みは下記の事務局までメールで、また会費の振込は下記の郵便振込みをご利用ください。
       申し込み: 歴探事務局 takata@cd6.so-net.ne.jp
       支払振込: 郵便振込口座番号:00970-2-322353 
             (加入者名:八幡の歴史を探究する会)
     

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 以下の会則(2改)は、2015年4月19日の総会にて承認された。

第1条 名称
本会は「八幡の歴史を探究する会」と称する。

第2条 目的
八幡の歴史を探究し、事業を通じて会員相互の交流を深めるとともに、地域文化の進展と次世代への継承に貢献する。

第3条 事業
1、講演会の開催
2、現地見学会の開催
3、会員の研究発表
4、会報を発行し,会員の情報交換・投稿の場とする。
5、その他第2条の目的を達成するための事業

第4条 会員
前条の趣旨に賛同する人々をもって構成する。

第5条 幹事及び幹事会
1、会員中より選任された幹事により幹事会を構成する。
2、幹事の任期は設けない。

第6条 代表幹事
幹事の中から互選により代表幹事、副代表幹事を選任する。

第7条 事務局長
1、幹事の中から互選により事務局長を選任する。
2、事務局長は幹事会を主宰する。

第8条 会議
この会の活発かつ円滑な運営を図るために、次の会議を開催する。
1、総会
   年1回開催し、会務・会計を報告するとともに必要
   事項を審議する。
2、幹事会
   必要に応じ開催し重要事項を審議する。

第9条 会費及び会計年度
1、会の運営のための年会費を徴収する。額については
  幹事会で決定する。   
2、会計年度は毎年4月1日より翌年3月31日までと
  する。 
3、会計監査は会員の中より選出し、総会にて会計監査
  報告を行う。

第10条 その他
本会則に定める以外の必要事項は幹事会で協議し、本会の必要な場合は細則を別に定める。

第11条 付則
この会則は2011年度(平成23年度)総会開催後から施行する。
   1改)2012年度(平成24年度)総会にて一部改訂。
   2改)2015年度(平成27年度)総会にて一部改訂。

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本会の沿革に代えて、ここに代表の折々の年次総括やイベント報告の記事を紹介させて頂きます。
        2018年10月 増補版『石清水八まん宮道に誘う道標群』発刊 
        2017年10月 『石清水八まん宮道に誘う道標群』を発刊! 
        2015年09月 『歴史たんけん八幡』を発刊しました!
        2015年04月 2015年度の総会が開かれました
        2015年04月 発足からの5年を振り返る
        2015年03月 発足5年周年を記念し、会の旗が出来ました
        2014年06月 会報50号 発行の節目を迎え
        2014年01月 新年を迎え、5年目の節目を大切に
        2012年04月 発足以来 3年目の節目を迎えて
        2010年04月 なごやかに、探究する会が発足


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このサイトへの来訪者は先月(3月)末で62,692人でした。
昨年末の12/20 ついに来訪者がのべ6万人を越えました!


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2018.01.30…お蔭様でこのサイトへの来訪者がのべ5万人を超えました。
2017.08.06…お蔭様でこのサイトへの来訪者がのべ4万人を超えました。
2017.01.10…お蔭様でこのサイトへの来訪者がのべ3万人を超えました。
2016.02.26…お蔭様でこのサイトへの来訪者がのべ2万人を超えました。
2015.06.10…お蔭様でこのサイトへの来訪者がのべ1万人を超えました。
2014.12.01…併設の歴探掲示板をリニューアルし、画像やリンクの投稿が容易になりました。
2014.11.05…開設一周年を迎え関連サイトリンクのコーナー新設、歴探掲示板へのリンク等の機能アップを実施しました。
2014.07.07…本会概要紹介やイベント案内等、本会の活動を総合的に紹介するサイトとしてリニューアルしました。
2013.11.01…本会の会報記事を紹介するブログとして発足しました。

《備考》 来訪者数は、携帯やスマートフォンを除きパソコンからの来訪のみをカウントしたものです。また同じ人が一日に何回訪れてもその日は1 回としてカウントする方式としています。

《改定》 2016.11.15よりアクセスカウントにモバイル端末からのアクセスも加えることになりました。これにより今後はカウント値が3割ほど大きくなる見込みです。

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f0300125_1548513.jpg この歴探サイトではH26年10月から「先月の記事別アクセスtop3」と称するコーナーを設け、会員の方だけでなく全国からの検索来訪を含めて1か月間のアクセスが多かった記事を紹介させて頂いております。

 おかげさまでこのサイトの掲載記事数は順調に増え続けておりますが、せっかくの熱のこもった会報記事も数が多くなり時間を経ると、昔の記事を改めて読み返す機会は少なくなるものと思われます。そこで月替わりのアクセスランキングに名を借りたこのコーナーを設け、クリックして頂くことで毎回3件のなつかしい力作記事を改めて味わっていただく機会になれば・・・ そんな思いでこのコーナーを設けておりますので、ぜひご利用ください。

《追記》 H29年1月より、アクセスtop3欄の下に“人気タグtop3”のコーナーを付設しました。毎月のアクセスが多かったタグ(キーワード)のtop3です。合わせてご利用ください。

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# by y-rekitan | 2020-12-31 13:00 | Comments(0)

八幡歴探 リンク集

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このコーナーは八幡の歴史にかかわる情報が網羅的に閲覧できるサイトや、本会に縁の深いサイトのリンク集です。


f0300125_063725.jpg石清水八幡宮
860年に都の裏鬼門を守護する鎮護の神として創建されました。
f0300125_21374037.jpg八幡市公式サイト/観光情報のコーナー
八幡の名勝の情報が満載。また、祭り等の動画も見られます。

f0300125_2543626.jpg枚方市公式サイト/文化財のコーナー
枚方の文化財や歴史に関する催しの情報が満載です。

f0300125_2244728.jpg城陽市教育委員会公式サイト/文化財のコーナー
市内にある国、府、市の史跡、文化財が網羅され、史跡マップも。

f0300125_246395.jpg久御山町公式サイト/文化財のコーナー
久御山町の文化財が写真、解説付きで閲覧できます。

f0300125_23464785.jpg宇治市公式サイト/文化財のコーナー
 世界遺産を含め市内にある国、府、市の史跡、文化財の一覧です。

f0300125_23474058.jpg松花堂庭園・美術館
松花堂昭乗のデータベース、催し物案内等が掲載されています。

f0300125_14255811.jpg八幡市観光協会
八幡市の観光情報が、広範囲に網羅されています。

f0300125_21385651.jpgサイト「八幡散策」の “八幡ぶらりゆく”
神社仏閣、伝説、道標等、広範囲に網羅されています。
f0300125_12541653.jpgサイト “江戸時代の八幡道標”マップ
『石清水八まん宮道』に誘う道標、98基のグーグルマイマップです。

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# by y-rekitan | 2020-12-31 12:00 | Comments(0)

◆スポット記事インデックス《続》

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60号以前の会報のスポット記事は以下の通りです。クリックで直接お読み頂けます。

“第44回八幡市民文化祭展示発表を終えて" (第76号)
“御幸橋南詰「石清水八幡宮鳥居通」道標は何処に?" (第75号)
“『茶揉み歌』を復活"  (第73号)
“「八幡大縁起」に参加して"  (第71号)
“上津屋橋(流れ橋)の復旧に向けて"  (第71号)
“新刊案内「戦国大名の正体"  (第70号)
“本妙寺文書「沢庵の書状」と紫衣事件"  (第69号)
“「古寺巡礼」で出会った仏さま"  (第69号)
“八幡の文化財(国宝指定)"  (第69号)
“国宝指定の答申に思う"  (第69号)
“京の街角の「湯たく山茶くれん寺"  (第69号)
“旅人は何故片手を挙げているのか"  (第67号)
“「八幡の道 探究部会」が発足しました"  (第67号)
“石清水八幡宮が国宝に!"  (第67号)
“第119代光格天皇と大江磐代君とその母"  (第64号)
“クイズ「私は誰でしょう」"  (第62号)
“西国三十三所観音石仏群の墓所"  (第61号)
“陸橋の名前"  (第61号)
“九州の横穴・近畿の横穴"  (第60号)
“二宮忠八掌話"  (第60号)
“会の旗が出来ました!"  (第60号)
“松井横穴群に学ぶ"  (第59号)
“平野山・西山はミステリー"  (第59号)
“ずいき祭り"  (第58号)
“小特集: わがまち 八幡"  (第57号)
“流れ橋存廃の意見表明"  (第56号)
“磯田道史氏の講演に学ぶ"  (第56号)
“代々つづく神原の講 =秋編="  (第55号)
“八幡森の石仏と地蔵盆"  (第54号)
“お気軽歴史講座に行きました"  (第54号)
“ひょっこり訪問記  木田醤油㈱社長”  (第53号)
“地誌には、どんなものがあるか?"  (第53号)
“松花堂庭園とその魅力"  (第52号)
“島崎藤村と八幡"  (第52号)
“神領墓地は何を語るか”  (第49号)
“水月庵 藪を抜ければ円福寺”  (第49号)
“変わりゆく橋本”  (第48号)
“芭蕉と遊女との巡合い”  (第48号)
“遊女 江口の君”  (第47号)
“八幡の浄土宗寺院にみる地蔵菩薩 ”  (第45号)
“ 三昧聖と八幡の墓地  ”  (第45号)
“ 五榜の掲示  ”  (第44号)
“個人所有重文民家の課題について ”  (第43号)
“重文「伊佐家住宅」について ”  (第43号)
“ 昭乗の下馬碑を探る ”  (第42号)
“ 京大博物館にある八幡の遺跡・遺物 ”  (第40号)
“ヌートリア考、そして「郷土囗史物語」”  (第37号)
“ 狛 犬 考 ”  (第37号)
“ 探訪会のしおりを作成して ”  (第36号)
“歴史探訪ウォーク参加記”  (第36号)
“代々続く神原の「講」”  (第36号)
“「八幡の歴史カルタ」に驚く”  (第36号)
“女坂・荒坂横穴古墳群から学んだこと”  (第35号)
“魅力的な八幡東部の集落と神社”  (第34号)
“ 二宮忠八翁と飛行神社 ”  (第31号)
“ 石清水臨時祭と平清盛 ”  (第31号)
“「八幡椿は」何処に”  (第24号)
“陣屋と鳥羽伏見の戦い”  (第22号)
“八幡八景解説奮戦記”  (第20号)
“色恋に愛づる花心ー謡曲「女郎花」”  (第20号)
“俄神人ニ成候”  (第18号)
“八角院地蔵尊の碑文を読む”  (第15号)
“長宗我部盛親が潜んだ家”  (第15号)
“「やわたものしり博士」検定にチャレンジ!”  (第10号)
“木津川・宇治川沿いの屋並みを巡る”  (第9号)


ブログトップの《スポット記事一覧》に戻ります。

# by y-rekitan | 2020-12-31 08:00 | Comments(0)

◆会報第90号より-top <スクロールだけで全記事が読めます>

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
このまま下にスクロールして頂くと順次連続してご参照頂けます。

この号が最新号です。

◆シリーズ:“心に引き継ぐ風景” ㉑◆
◆《会員研究発表》下向する昭乗◆
◆シリーズ:“綿祔開” ②◆
◆シリーズ:“柏村直條と柳沢家家老の藪田重守” ②◆
◆シリーズ:“御本社道を探る” ①◆



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ご意見は各記事下端のcomments欄をクリックしてお寄せください。

# by y-rekitan | 2019-03-26 15:00 | Comments(0)

◆会報第90号より-01 近江弧蓬庵

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心に引き継ぐ風景・・・㉑

「かくれ里」・白洲正子

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 最近、本を読み返す機会が増えている。確かに味わいに変化と発見がある。
 まず、白洲正子著「かくれ里」の一節を、『「かくれ里」と題したのは、別に深い意味があるわけではない。秘境と呼ぶほど人里離れた山奥ではなく、ほんのちょっと街道筋からそれた所に、今でも「かくれ里」の名にふさわしいような、ひっそりとした真空地帯があり、そういう所を歩くのが、私は好きなのである』
 昨年、「八幡の歴史を探究する会」のバスツアーで「近江孤篷庵」を訪ねた。「有名な大徳寺孤篷庵の前身も近江にある」と、「かくれ里」に紹介されている。湖北バスツアーを決めた理由の一つに松花堂昭乗生涯の友、小堀遠州出身地の「近江孤篷庵」で小堀遠州宛、松花堂昭乗筆の手紙が発見されたことにあった。
 当日は幸運にも実物の手紙を拝見する事ができた。遠州への返信に、三代将軍家光による「石清水八幡宮の造営」について、京都所司代板倉重宗、淀城主松平定綱(後に桑名藩主)、摂政一条兼遐(かねとお)公と折衝の事を記し、庭の紅葉ちり残り佳興心をそめし、などと結んでいる。松花堂昭乗の真髄は八幡を代表し、八幡宮、公卿 大名間の奔走にこそあって、その一端が垣間見える手紙であった。小堀定泰住職のご案内で池泉と枯山水の庭をゆっくり巡る。庭は湖水の風景を取り入れ、西向く舟石の奥には琵琶湖の「沖の白石」が浮かんでいた。
(文と写真 谷村 勉)空白


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# by y-rekitan | 2019-03-26 12:00 | Comments(0)

◆会報第90号より-02 松花堂昭乗

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《会員研究発表》
下向する昭乗

2019年2月  松花堂美術館講習室にて

奥山 邦彦(会員)

 2月23日午後1時30分より、松花堂美術館講習室で表題の会員研究発表がありました。松花堂昭乗と師瀧本坊実乗、その師乗裕、そして昭乗の兄中沼左京について語られ、東へ西へ下向する昭乗の活躍ぶりを多くの史料とともに紹介されました。講演の概要は発表者の奥山氏により直接執筆していただきました。    (参加者は39名) 

はじめに

 慶長17(1612)年9月29日八幡山の式部下る。八幡惣中の使として南禅寺の金地院崇伝のもとへ出向いたのである。昭乗はこのころより式部卿と称している。これ以後東へ西へ、そして北へと下向する昭乗を書状に散見する。そこで先ず慶長年間の終わり頃までの瀧本坊と昭乗とについて一考し、その後下向する昭乗を紹介します。

Ⅰ、瀧本坊乗祐・実乗・昭乗そして中沼左京

1、乗祐 
 大日本史料DBには、天正10(1582)年6月14日の条に「前太政大臣従一位藤前久 5月日辞、6月2日落飾、道號龍山、同14日出奔、違武命」〔公卿補任〕、「近衛相国(前久)、自三七殿(織田信孝)可有成敗之旨」の風説〔兼見卿記〕、「近衛殿御生害トテ」の風説〔多聞院日記〕等々と記されている。明智の乱(本能寺の変)の時、近衛前久の置かれていた状況である。この苦境から出奔して嵯峨に隠れ、その後遠江浜松へ遁れた前久は、天正11年9月4日家康の取成しにより京都へ戻る〔多聞院日記〕。後、慶長年間に前久が息子信尹に宛てた書状に、この乱の時に受けた瀧本坊(乗祐)の懇切に深く感謝し、その後社参するときは瀧本坊へ参り、自身遠州から上洛の刻には神馬一疋ひかせ瀧本房へ遣わし、また信尹薩州在国の砌立願に瀧本房へ神馬一疋をひかせたことなど、瀧本坊との関わりを書き送っている。(*1)
 この前久が瀧本坊乗祐へ寄せた深い信頼により、瀧本坊は五摂家筆頭である近衛家の徳択に潤いてこの後繁栄の道を歩むことになる。
天正14年上杉景勝 於瀧本坊御振舞有之(大日本史料DB)。
天正15年8月15日 豊臣太政大臣 宿坊瀧本坊 と刻まれた金銅釣灯籠(石清水八幡宮蔵)。
乗祐は茶人
・天正6年1月30日 津田宗及自会記に耳徳、瓦林越後、瀧本坊とある。
茶壷に関する書状
天正14年以前の4月7日 抛筌から瀧本坊へ 利休居士 壺之注文(八幡山瀧本坊珍蔵録、国会図書館蔵)。
天正15年7月初旬 津田宗及から瀧本坊へ 壺の保管を依頼(小松茂美『手紙:人と書』二玄社、1954年)。
 津田宗及は京都より取下してきた壺をもう少し涼しくなるまで預かってほしいと瀧本坊へ依頼している。津田宗及や千宗易の注文を受けて男山の瀧本坊では茶壷を保管していたのであろう。また、千宗易から瀧本坊乗祐へ宛てた書状「橋立の文」は、秀吉の仕置を批判する胸の内を乗祐にさらけ出したものであった(小田栄一『利休の文』求龍堂、2001年)。
 乗祐は天正19(1591)年2月22日に死去した(泰勝寺墓碑)。

2、実乗
 乗祐が死去したのちの瀧本坊を跡は小川の子実乗が継いだ。近衛家に少しの間手習いとして居たが、一門(一乗院尊勢)が小姓にと云ってきたので、それへやった。それ以後は不通である。つまり一門の小姓をしていた実乗が瀧本坊に移った(*1)。豫州7万石の大名小川土佐守裕忠の子であった。
「松花堂の師実乗師も殊外の高位也、松花堂とは年はあまりちかい不申よし(*2)」とつたえられる。この時の実乗はまだ10歳になろうかという少年だったことになる。小川家~近衛家~一乗院~瀧本坊へと居を移した。
以下はその後の小川家についての事である。
・天正18年 小川土佐守裕忠、従秀吉公、豫洲7万石
・慶長5(1600)年御家断絶
 「諸家没収之部、7万石 伊豫今治 小川土佐守裕忠」、「其重宝、國司茄子の茶入以下数多の名什を譲り受く、瀧本に名器あるは悉く此小川氏の所蔵なり」(*4)。
 「其時分は実子相続なけらは断絶する趣にて実乗還俗の事東照宮より被仰出候ことも御時誼被申に付神妙に思召、則其家財不残瀧本へ被下候、其悉売払一家中分相応にわかち外へ有付申様に被致候由」(*2)。

3、中沼左京と昭乗
 「昭乗の兄中沼左京(幼名は喜多川與作)5歳、昭乗(幼名は辰之助)3歳の時、近衛公へ其親父ひそかに託し奉られ陽明家にて成長した(*2)。
「與助は幼少より近衛信輔公の御前に侍り、信輔公は其聰明人に勝れたるを見給いて、中沼家の名跡を継がせ、一乗院御門主(尊勢)に仕ヘさせしめ給うべく思召さる。天正19年3月11日與助仰を受け賜わり、喜多川を改めて中沼與作と云う、時に年12歳、これより御門主の御前に候へり。時に信輔公より御門主ヘ進ぜられし御文に、
与作儀、御そばちかく参る者の事候間、中沼に被成候へく候、子細ある名字にて候はゝ、其御心得有べく候、
中沼は魚名公御眷属の末にて、御家門御累代御家来の由、御家の御記に見ヘたりとぞ、 かしく、
                     信輔
     一門様
御門主此御文御覧の後、これを與作に賜る。
御門主は近衛前久公の御子なり、御名を尊勢と申す」(*3)。
 天正19年(1591)は大きな変動の年となった。
乗祐の死後、実乗が一乗院尊勢の小姓から瀧本坊の住職になる。10歳になろうかという若さであった。一方、信輔(近衛信尹)に仕えていた喜多川與作は3月11日中沼姓を給わり中沼與作と名乗る、12歳、これより御門主(一乗院尊勢)の御前に仕えた。その後、慶長3年頃に昭乗が男山に上り鐘楼坊へ、瀧本坊実乗を師として仕へた。こうして陽明家で幼いころから手習いを受け文化教養を身につけた少年たちが、一乗院へ瀧本坊へと配置されていった。瀧本坊が陽明家の文化ネットワークに自然と組み込まれていったわけである。

Ⅱ、昭乗と芸術

 昭乗は陽明家に於いて筆法を近衛前久公・信伊公から学び入木の道を底を尽くして伝授された。また陽明家に所蔵する数多の典籍についても学んでいたことと思われる。慶長8(1603)年8月には『三部抄 未来記/詠歌大概』を書いている。近衛家所蔵の本を書写したものだという。慶長12(1607)年7月21日、「御口事集」を書いた。これは真言宗の秘事を書いたもので、智積院権僧正祐宜が所持していたものを実乗が昭乗に書写させたという。実乗とともに仏法の修行に励んでいたことが知れる。慶長18(1613)年には「弘法大師再遺告」(神護寺蔵)、「百人一首色紙帖」(八幡市松花堂美術館蔵)を書く(*5)。元和2(1616)年4月「三十六歌仙画帖」(泉屋博古館蔵・近衛家伝来)を描いた。”慶長年間後半頃までには相当の技量を備えていたものとみてよい。元和8(1622)年には「十六羅漢図」(龍光院蔵)を描く。若くから絵の修行をつんだ昭乗であれば、このような大作を描くことは十分に可能であった” (*6)とされている。また実乗は先師乗祐の跡を継いで瀧本坊の茶の湯を深めたことと思われるが、実乗も、実乗に師事した昭乗も共に陽明家で身につけたであろう公家様の茶の湯の影響もうけつつ稽古に励んだ茶の湯の名手であった。

Ⅲ、八幡山之式部下ル

 慶長17(1612)年9月29日、八幡山之式部下る。式部卿昭乗29歳の時であった。金地院崇伝のところへ八幡惣中の状を持参した。その後12月2日将軍様黒印状幷奉行書出両通を持参し、12月19日それが金地院崇伝のところで書写され、その返書を八幡惣中へ持ち帰った。公文所の所領が天正13年以来の通りと認められたのであった(*11)。
 この前後は八幡にとって重要な時期であった。
 先ず慶長3(1598)年10月28日付「瀧本坊宛浅野弾正書状」(大阪城天守閣文書)は「八幡宮御祈祷牛王御札、菖蒲革三枚の御礼、…御宮本知行物成事、八嶋九右衛門(増行)かたより相渡之由候、」と瀧本坊の大旦那でもあった浅野弾正長政から瀧本坊(実乗)へ御宮本知行物成について云い渡されたものであった。豊臣政権の浅野弾正と八幡惣中の代表である瀧本坊実乗が知行物成について交渉していたのである(*7)。
 当時八幡八郷は太閤御蔵入地として豊臣政権のもと直轄支配下にあったと思われる。
 その後慶長5(1600)年5月の徳川家康朱印状で検地は免除されたが、豊臣奉行衆よりは家康による内縁の馳走と批判されるものであった。
 慶長15(1610)年9月25日家康朱印状(*11)は、八幡八郷に対し「先年検地免許之神領之内、為地下人之役、安吾之神事相勤之間」、「検地令免許、守護不入之上者、神事霊地等、不可有油断、諸事社法之次第不可相背候」と定めた。
 地下人は:徳川将軍家に対する天下安全の祈祷、安吾頭役神人は地下人の神役として安吾頭役に勤仕する。
 将軍家は:検地免除と守護不入を保障、諸役負担の免除、山上山下の社法次第のもとで検断や自治を免許する。
 ここに豊臣期に一時停止されていたと伝えられる安吾神事は、石清水側の政治交渉の結果、家康によって再興された。
 領知安堵と安吾神事役を勤める奉公とで結ばれたところの、徳川将軍家と安吾頭役神人との個別の特殊な主従制的契約関係が確かめられる(*8)。
 慶長18(1613)年7月23日徳川秀忠八幡八郷に続目の条目を出す〔秀忠黒印状〕(*11)。

 『大日本古文書 家わけ四 石清水文書之三』(東京大学出版会)に[相応院様御文]が収録されている。慶長4~5年社務職改補に関して8通、慶長16年~18年検地免許、道二・忠右衛門闕所、八幡社務家知行ほか20通である。
 八幡のことで かめ(相応院)が大きく関わったことがわかる。八幡は大喜びであった。上(家康)様への御礼として菖蒲革10枚を八幡惣中(山上山下)より披露、御かめ様へも銀子3枚が進上された。道二・忠右衛門は慶長16年家禄家財を捨て八幡を脱走した。豊臣家支配下で八幡八郷において実務の中枢にあった人物と思われる。闕所地は豊蔵坊に付けられ、「よししま山いやしきなと」は廻職の社務家が使用することになった。

Ⅳ、下向する昭乗

1、広島へ
 ・元和5(1619)年11月24日、星野宗以宛式部卿書状(*14)
 広島から式部卿が宇治の星野宗以へ送った消息である。加増転封した広島城主浅野長晟に招かれたらしく、広島に下着した昭乗は御城で振舞をうけ首尾よく御祝儀の役目を果たした。弥介に合って移封後間もないこの地では、知行わりもまだの状態なので茶代も集まらないこと、道二は腫れ物の具合が悪く所むつかしく心配のことを伝えている。星野宗以は宇治の茶師の中でも上林味卜につぐ家柄で、昭乗の妹が「星野某ノ妻」(*3)とあることから昭乗とは姻戚関係にある。片岡道二は片岡弥吉のことであった(*12)。八幡を脱出した片岡道二は芸州へ下り潜伏、事件が落ち着いてから宇治へ、御茶御用を勤めた。
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「御扶助合力につき奉歎願口上書」における片岡道二(弥吉)(*13)
慶長度関東御朱印43石余拝領
雄徳三八幡宮神領本願地年預役を務めていた。
浅野長晟公は繁々道二宅へ来られ、一緒に鷹狩をしていた。
八幡神領は殺生禁制守護不入のところ、年預役を勤める身でありながら我侭の振舞は神領を穢すのみならず田畑を荒し難儀しているので、御制札を下し置かれるよう八幡惣中百姓共より関東へ願い上げた。守護不入の地へ初めて御制札建ててもらい、御文言初筆には鷹狩禁止を記してもらった。
それにもかかわらず弥吉は長晟公をお招きしては乱法するので八幡社務之者幷百姓どもは、公武へ長晟公をはじめ弥吉を訴えることに衆評一決した。
もはや容易ならざる場合に成り、長晟公様も殊の外御心痛の故弥吉一身に引受御指図に任せて、慶長16(1611)年家禄家財を捨置き八幡表を脱走、芸州へ罷下り潜伏。
漸事件が落着いてから芸州より宇治表へ家内引纏い住居し、其節御報謝として家屋敷茶園茶畑等御買上げ、其上年々御合力玄米百俵ずつ下し置かれ有難く茶業仕り御茶御用を勤めた。
弥吉は隠居して忰宗知に家督を譲り自分は芸州表へ下り御館様へ脇近仕した。
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2、南都一乗院へ
・元和4(1618)年12月13日付 瀧本坊宛式部卿書状(泰勝寺蔵)
 秀忠の第五女和子を後水尾天皇の女御として入内させることは家康の在世中慶長十九年三月朝幕間の約束事であった。同年末から翌元和元年にわたる大坂冬の陣・夏の陣、元和2年家康の死、元和3年後陽成上皇の死があり、諒闇明けを待つかたちでいよいよ和子入内は詰めの段階に入っていた。そこに およつ御寮人の一件 が起った。四辻公遠の女で宮中に仕え、およつ御寮人と呼ばれていたものが天皇の寵愛をうけて皇子を生んだのである。秀忠、幕府の面目は丸つぶれとなった。 
 元和4年6月、板倉伊賀守と広橋兼勝が入内のことで談合。その後8月、藤堂高虎は江戸を離れる。高虎は外様大名ではあるが、秀忠が最も信頼を寄せる側近の一人であった藤堂高虎は11月3日に上洛し、この緊迫した状況を収拾し、和子入内を成就するため奔走を始める。
 この書状は元和4年12月13日付で、16日に南都の一乗院で催される十宮(庶愛親王)得度式に関する状況報告である。式次第その前後の様子は『時慶卿記』に詳しく書かれ、上京して間もない高虎の馳走ぶりが見て取れる。高虎の目指す交渉相手は近衛信尋である。この江戸初期に起こった和子入内をめぐる朝幕間の紛争は、この後、秀忠上洛中の元和5年6月20日文智女王が誕生(母およつ御寮人)し、秀忠の怒りは頂点に達したことであろう。秀忠離洛の9月18日、秀忠の奏請により不行儀を理由に天皇近臣の公卿に流罪、出仕停止等の処分が下された。その後高虎の尽力により元和6(1620)年6月18日和子入内は成就、処分された公卿たちは同6月27日に赦される。後水尾天皇は寛永6年11月8日譲位し上皇となり、和子の子、興子(明正天皇)が即位したことで一応の決着を見ることになる。
 書状の追書で昭乗は「いらぬことをして、かけもの茶入れもちてまいり候事やと、くやしく御座候」と書いている。
自分も一席設けて御茶を披露するつもりでいたのであろう。茶の湯にも相当の自信がうかがえる。

3、江戸から尾張へ
・(年不詳)3月12日付 中沼左京宛式部卿書状(『昭乗と徳川家ゆかりの人々』八幡市松花堂美術館、2011年)f0300125_11391874.jpg 昭乗は江戸にて公方様御礼首尾よく申上げ、御ふくなど拝領した。その帰りに尾州を訪れ、義直から歓待された様子を報告、義直は昭乗を正客に招き名器を揃えて茶会を催して手厚くもてなした。この時に使われた茶道具は今も徳川美術館に収蔵されている。徳川義直が中納言であったのは元和3年7月19日から寛永3年8月18日まで、この書状は元和4年から寛永3年のものと考えられる。

4、江戸下向
 昭乗は将軍家書道指南の大役を果して寛永6年に帰山したという(*9)。
以前に『松花堂所蔵古文書集 全』(国立公文書館蔵)の分析を通じて、この書が将軍家書道指南に関係するものであることを考察した。(拙稿、歴史を探究する会八幡会報35号掲載)

5、賀州へ
・(年月不詳)26日付 中沼左京宛瀧本坊書状(*9)
・(年不詳)正月12日付、中村久越宛前田利常書状(※14)
 昭乗の第一の門弟、中村久越(本姓大江氏、始は久六と称す、諱直記、号卓斉)は八幡宮社人で住居は志水にあった。能書で前田氏へ祐筆として召し抱えられていた。後故郷へ帰る。前田肥前守利常、初めは筑前守と、後に小松中納言、加賀・能登・越中の守護。昭乗は賀州へ罷下り去14日に帰った。筑前守殿に書院にて度々御茶をいただき銀子や衣類など御振舞をうけ歓待された様子を伝える。
 書状は、久越が年頭の祝儀として筆一箱を差上げたことに対する肥前守利常の礼状である。

おわりに

 以上のとおり、昭乗は八幡惣中の使僧として南禅寺の金地院崇伝のもとへ出向き、南都の一乗院からは庶愛親王得度の事前の状況を実乗に報告、瀧本坊の大旦那である広島城主浅野成晟のところへ加増転封の祝儀に伺候し、また星野宗以へ八幡を離れ広島にいる片岡道二の様子も伝える。幼少のころから陽明家で成長し深い教養を身につけていた昭乗、書画芸術、密教、茶・歌の道などにいよいよ研きがかゝり、さぞ人々から尊敬の念をあつめたことであろう。将軍家・尾張・加賀・広島と幕府・雄藩で歓待される昭乗は人間性・芸術性あふれる魅力的な高徳の僧侶であった。他方、小堀政一・徳川義直・永井尚政・永井直清・板倉勝重・重宗など京を統治する幕僚たちと親しく交流する政治的な人物でもあった。ここに登場した乗祐・実乗・中沼左京そして昭乗、いずれも江戸時代初期の朝幕の間で男山に近衛家に関り活躍した人たちであった。

<参考文献>
(*1)橋本政宣「瀧本坊とその文化の源流」(『日本歴史』281号、吉川弘文館、1971年)。
(*2)細合半斎『男山栞』(国会図書館蔵)。
(*3)『中沼家譜』(八幡市松花堂美術館蔵)。
(*4)『近江神崎郡志稿』(滋賀県神崎郡教育会、1928年)。
(*5)山口恭子『松花堂昭乗と瀧本流の展開』(思文閣出版、2011年)。
(*6)門脇むつみ「松花堂昭乗筆『十六羅漢図』」(「南遊行」0号、龍光院発行、2014年)。
(*7)鍛代敏雄「石清水八幡宮の牛玉宝印について」(栃木史学、2013年)。
(*8)鍛代敏雄「中世移行期の石清水八幡宮寺と幕府・将軍―安吾神事をめぐる政治交渉」(戦国史研究61号、戦国史研究会編、2011年)
(*9)佐藤虎雄『松花堂昭乗』(河原書店、1938年)。
(*10)『寛政重修諸家譜』(続群書類聚完成会、1965年)。
(*11)『石清水八幡宮史 史料第六輯』(続群書類従完成会 1936年)。
(*12)『本光国師日記第八』(大日本仏教全書、仏教刊行会、1915年)。
(*13)『片岡道二家文書』(宇治市歴史資料館 2013年3月)。
(*14)『招堤村片岡家文書の研究』(枚方市立中央図書館市史資料室、2009年)。

『一口感想』より

多くの資料、古文書を時系列に並べ判りやすくまとめておられました。大変貴重な労作であると思います。日頃の研究熱心さが伝わりました。  (O.S.)
昭乗の詳細が解り、大変良かった。 (A.K.)
昭乗の活躍振りを詳しく紹介していただきました。それにつけても昭乗の出自が気になります。何故、近衛家に託されるようになった理由についても諸説ありますが、ご研究宜しくお願いします。  (T.N.)
久々の参加でした。奥山様に唯々感服致しました。有難うございました。
今日のテーマの中では、昭乗さんと浅野家(広島)との結びつき・交流がとても興味深かった。下向即ち交友力,政治力(文化力)行動力ある昭乗の更なる魅力発見です。  (T. K.)
興味深い内容でした。 (N.M.)
昭乗の人物像について、知りたいと思って参加しましたが、高尚過ぎて理解できませんでした。残念です。  (F.N.)
 


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# by y-rekitan | 2019-03-26 11:00 | Comments(0)

◆会報第90号より-03 綿祔開②

 綿 祔 開めんぷひらく(その2)
=木綿の伝来=

 倉田 美博(会員) 

綿の栽培

 綿の栽培は五月初旬(八十八夜前後)にタネを蒔き時期で、その時期はちょうど野良仕事・茶摘み・養蚕などで農家にとっては繁忙期にあたる。
 成熟期(九月末頃)に秋の長雨の時期と綿花の収穫時期と重なり品質低下を招き、農繁期ともかさなり、農家の過重な負担がかかり、綿の栽培がなかなか需要の増大には付いていけなかった。
 綿栽培には良質の綿花を多収するためには自家生産の堆肥だけでなく、干鰯や油粕等の金肥(お金で購入する肥料)の使用を必要とした。
 多く使われる干鰯はほかの畑作にも利用される主要な肥料のひとつだが、干鰯の主要な生産地は千葉県の九十九里浜で、船便にて大阪へ送られてくる。

f0300125_2335793.jpg 正徳4年(1714)大阪に入荷する銀高の大きい品目を並べてみると、米、木綿類、そして干鰯となる。
 綿畑1反からどれだけの白木綿ができるのだろうか。「綿圃要務(めんぽようむ)」より江戸後期、綿生産の先進地大和国では、田畑、1反当り50貫程度として、綿布1反あたりの実綿所要量は約800匁=繰綿200匁(実綿の25~30%)で算出すると白木綿約60反ができることになる。これは大和という先進地のことであり、地方ではこの半分も行かないところの方が多かったのではないだろうか。
 江戸時代、農家1戸当たりの平均の家族数を6人として、白木綿などを合わせて毎年1人当り3反の綿織物を自家消費すると仮定すると(実際はもっと少なかったと考えられる)年間綿布の所要反数は18反。これを生産するのに必要な綿畑は豊凶差も生じるが5畝で自家消費は賄える計算になる。農家の実際の作付け面積はそれにとどまらず、生じた余剰分は商品となり、市場に出回っていた。

輸入綿

 わが国で栽培されていた品種は「アジア綿」で綿実も小さく綿の果実が下向きで、旧来の糸紡ぎや機織りには対応できるが、明治以来主流の機械製糸紡績には対応することが不向きなこともあり、明治19年(1886)いわゆる企業勃興期に入ると、綿業近代化に伴い資本家たちはインド・中国からの輸入綿を原料として国内綿を切り捨ててしまった。大正時代には国内での綿花の栽培は見られなくなってしまった。f0300125_21491285.jpg 山城地域では消滅した綿作畑は、梨畑のほかナス・スイカ・早生甘藷などのほか、都市近郊の地の利を生かして菜種栽培に転換されていった。
 京都の経済の発展は茶の湯とそれに関連した産業の影響が大きいと聞くが、綿栽培とそれを取りまく産業も江戸時代の経済の発展や庶民生活の向上におおいに寄与していると言っても過言ではなかった。

綿が伝来までは

 綿が我が国に伝来するまでは我々庶民はどのようなもので作った衣服を着ていたのだろうか。
神話の世界になるが、大国主命とともに我が国を創ったとされる少彦名神(すくなひこなのかみ)が出雲の三保の松原にやって来た時、古事記の記述を借りれば、
『波の穂より天羅摩船(かがみふね)に乗りて、鵞(ひむし)の皮を内剥に剥ぎ、衣服に為て、・・・』
 羅摩船とはガガイモの殻でできた舟、鵞とは蛾のこと。少彦名神は後の一寸法師のモデルとなった神で、蛾の皮(正確には判らないが蛾の蛹(さなぎ)を覆っている繭ではないだろうか)に包まれてやって来たと記されている。少彦名神の大きさは手のひらに軽々と乗るくらいだっただろうと推測される。
まだ、織るという技術は確立されておらず、動物の革などをなめして、衣類として利用されることが多かったのではないかと考えられる。

 『綿』と言う文字は「わた」以外に「めん」や常用の読み方以外に「ベン」「つら(なる)」と読む。
 意味としては㋐繊維状(細い糸状の物質)のものが絡まりあってひとまとまりの状態になっているもの。㋑ワタ(アオイ科ワタ属の植物)から取れた細い糸状の物質。㋒蚕の繭(まゆ)を引き伸ばして作ったもの。㋓繊維状の植物の実を引き伸ばして作ったもの。だと言われている。
だから、『綿』は布状、あるいは糸状のものを表す文字だったとのこと。
 その内一つ気になるものがある。それは㋒蚕の繭(まゆ)を引き伸ばして作ったもの。だ、ということは、絹も『綿』もワタだったことになる。
 以前は植物としてのワタは『棉』と言う文字であらわされていたが、今ではすべて『綿』に統一されている。(本文も「綿」に統一して表記した)
植物から紡がれる綿を「木綿」といい、蚕から紡がれるものを「絹綿」という。

 神話の世界は別として、『日本書紀』持統天皇の7年3月の条には「天の下をして、桑・紵(カラムシ)・ 梨・栗・蕪菁(あおな)等の草木を勧め植ゑしむ」として、苧麻(ちょま)栽培が奨励されています。
 木綿が知られていなかった頃には庶民は麻布以外、肌につけるものを知らなかったからで、柔らかさ、肌触りのよさは抜群で、麻と比べると保温性に優れ山野、田畑で働くための作業着には最適だった。
 また、染色もたやすく、次々と新しいデザインが考案され、若者、や特に女性に好まれた。

 養蚕はいつごろから始まったのだろうか。纏向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)は巾着状の布が出土している。魏志倭人伝の邪馬台国と重なる3世紀ごろのものとなる。すでにその頃、纏向周辺では養蚕が行われていたのだろうか。もし、行われていたとすれば大陸から渡来した家蚕ではなく、我が国に自生している種(天蚕)ではなかったかと推測される。その頃にはまだ、家蚕の餌となる桑はわが国には伝えられていないといわれる。わが国に生息する、天蚕は桑だけでなく、我が国に自生する栃(とち)、橡(くぬぎ)、樫(かし)なども食するので飼育することも可能で、はじめは飼育するというよりも野生のカイコガがさなぎになったのを採取してきたのではないだろうか。
 さらに詳しく勉強してからでないと確証は得られないが、いずれにしても、わが国へは弥生時代前期(紀元前3世紀)に中国江南地方から朝鮮半島を経由して北九州へ伝来した稲作技術とともに養蚕技術が伝えられたようだとも言われている。
 f0300125_2254646.jpg古くからの繊維には、外来の麻(大麻、苧麻)、繭から紡ぐ絹や在来の楮(コウゾ)、科(シナ)、芭蕉(バショウ)、楡(ニレ)、藤(フジ)、葛(クズ)など国内に自生する植物の内皮の繊維を利用していた。これらの植物繊維で作られた布は、木綿の伝来により、主役の座を明け渡したが、さらに明治以降の羊毛の輸入、化学繊維の開発などにより多様化して、我々の選択性も広がり、種々の材料を組み合わせることによって、オシャレを楽しむことが出来るようになった。また、地域おこしとして古代布が見直され、異なった製品として、重宝されている。

 苧麻はイラクサ科の植物でイラクサのようなとげはないものと思えばよく、苧麻は東南アジアが原産地で繊維材料として、朝鮮半島経由で縄文時代(紀元前3000年以前)に、人の移住に伴って伝来し、栽培されてきたといわれており、弥生時代の遺跡からすでに苧麻の繊維で編んだ布が発見され、縄文土器の模様は麻類の縄を用いて付けられたのではないかと考えられる。

 古墳時代以降になると渡来人により種々の新しい技術が我が国に伝えられ、織物の技術も向上したが、絹織物など高級な布は一部貴族階級のみが用いており、一般的な庶民の普段着としては適さず、やはり在来種の植物繊維や麻類で織った布が使われていた。
綿が我が国で栽培が増大するに従い、今まで栽培されていたカラムシ(苧麻)は栽培放棄され徐々に雑草化してしまった。

 我が国の衣料もながい歴史のなかで、いろいろと新しい素材が使われるようになり歴史の中で変遷を見ることが出来る。

 柳田国男は「女性史学」の中で
 カゼは以前には流行病の一つ、または眼に見えぬ悪霊の所為とも想像せられていたことは、風邪という語からでもよくわかる。つまり今のように普通の病ではなかったので、この変遷と衣類とは関係があるらしいのである。我々の衣類はどう変わってきたかというと、是もやはり柔らかくなり、また糸が細く目がこまかくなっている。「木綿以前の事」という一文に、かって私はこの点を少しく考えてみたことがある。麻糸にも精粗(せいそ)の差はあるが、もともと手先の業だから常人の着物は糸が太く布が強くて突張っていた。
 まるまるとした人のからだの表面との間に、小さな三角形の空間が幾らでもできていた。日本は欧州とは反対に珍しい夏湿の国で、住民はまたおそろしい汗かきである。汗は放散して冷を取る。
 麻や栲(たえ)を着ていた時代には、その扇は使わずともすぐに蒸発したのだが、木綿になってそれをほとんど不可能にしたのである。だから夏分は肌がいつも沾(ぬ)れている。・・・

と、言っている。少し長文になったが原文のまま引用した。
 彼は木綿がすべてではない。それぞれに長所があり、短所がある。我々その長所、短所を上手に利用して使いこなすことが大切だと言っているのだと思う。

<参考資料〉
 tenki.jpラボ
 山城盆地南部における明治期の商業的農業はじめ    乾 幸次
 江戸時代綿作の分布と立地に関する歴史地理学的考察  浮田典良
 新・木綿以前のこと 苧麻から木綿へ         永原慶二 
 カイコガの種で見る日本の古代養蚕史         中沢 隆 
 木綿以前の事                    柳田邦男


この連載記事はここで終りです。       TOPへ戻る>>>

# by y-rekitan | 2019-03-26 10:00 | Comments(0)

◆会報第90号より-04 柏亭日記2

 柏村直條と柳沢家家老の薮田重守(白鴎)

ー(その2)薮田重守の縁戚関係と山田栄治郎先祖書ー


 田中 美博(会員)

5.山田栄治郎先祖書と源公実録

 大和郡山市教育委員会提供(所蔵)の山田栄治郎先祖書(資料2)を前号に示しました。薮田重守(白鴎)はこの山田栄治郎の父十左衛門を自分の甥と書いています。
 さて、源公実録(資料3)の183頁には柳沢家に仕えたことのある重守の縁戚の人々を列記しています。
養父 寄合席  薮田忠左衛門 (極人父)
実兄 同席   山田小右衛門 (小右衞門父)
甥  御納戸役 柏村勘左衛門 (元禄年中奉願御暇)
 同 御側御用役 山田新蔵  (正徳年中立退)
 同 町奉行  山田十左衛門 (享保年中御暇)
妻弟 御納戸御用役 安田三郎右衛門 (享保年中せかれ三郎右衛門立退)
 これらの中で山田を名乗るのは②、④、⑤の3人です。たしかに⑤の山田十左衛門を重守の甥としているが、源公実録の初めに掲載の薮田五郎右衛門略系の図にはそれらしい人物はなく、どのような縁戚関係かわかりません。

6.柏亭家譜から知る薮田重守と山田家の縁戚者

 西尾市岩瀬文庫所蔵の柏亭家譜(資料4)には京都八幡の柏村家の歴史が記載されています。この中に室町時代後期とみられる山田筑前守に始まり直條、重守や次の代に至る山田家の人々が書かれています。これを家系図に表すと図1になります。
 柏亭家譜に山田家の家系が記されているのは、山田小右衛門廣清の長男直能(なおよし)が京都八幡の柏村家の養子になったことによります。直能の子の直條は父と同様石清水八幡宮の神人であり相撲祢宜として、はじめに述べたように、直條は連歌・和歌に長けて公家や大名家と交際していた文化人でした。
 柏亭家譜によれば、直能と重守の父である山田廣清は戸田松平家に信州松本で仕官し、播州明石、美濃加納と移封に従った。10人の子供が生まれたが、大人になったのは長男直能、五番目の山田廣正、六番目の與之(玉生角太夫に嫁す)、七番目の澤幡廣通、八番目の起与(薮田忠左衛門重之に嫁す)、九番目の都知(山田三貞に嫁す)、そして十番目が姉起与の夫である薮田忠左衛門重之の養子となった重守でした。重守は美濃加納で生れて幼名は熊之助といい、高齢の父廣清は幼い重守をつれて江戸へ出ました。重守は初め大関信濃守増栄に、次いで那須与一に仕えたが那須家が断絶して浪人となり、元禄元年に柳沢出羽守保明に召抱えられました。
 なお柏亭家譜によれば、直條は元禄17年正月に江戸で将軍綱吉に拝謁しているが、これには叔父薮田重守の努力があったと考えられます。

7.栄治郎の祖父母と父

 図1の家系図の右上に先祖書の概要を示したが、両者を比べると1)山田筑前守、2)山田三喜、3)山田三貞のつながりが見えます。
f0300125_11223253.jpg
 ただし、先祖書には治部廣綱、および新蔵廣直は入っておらず、山田筑前守の経歴にも差異があります。また、子供がなかったと柏亭家譜に記述の惣兵衛廣好の子に作右衛門三貞を入れている。作右衛門三貞は重守の姉の都知の夫であるがその出自はわからず、先祖書によれば妻の伯父である廣好の跡を継いだことにしています。
 作右衛門三貞の子は柏亭家譜では重左衛門であるが松平甲斐守に仕えたとあり、先祖書の4)十左衛門と同一人物であろう。また柏亭日記にも山田十左衛門が出ている。よって、この十左衛門の子が先祖書にある5)栄治郎であろうと、これらを図1に付け加えました。

8.その他の人々

 柏亭家譜によれば、5.項で②の山田小右衛門とは重守の実兄の小右衛門廣正でその子は小右衛門廣喜であり、この父子が山田家の本家を継いでいます。③の柏村勘左衛門は直能の次男、即ち柏村直條の異母弟の尚誠のことです。④にある重守の甥の山田新蔵とは、玉生角太夫と重守の姉與之との間に生れた山田新蔵重祐であると考えられます。また、⑥の安田三郎右衛門は重守の妻の弟とあるが、柏亭家譜によれば、重守の妻吟(老名慈性)は池田帯刀長清の家臣安田三郎右衛門勝輔の娘とあり整合しています。
 家系図には柳沢家に仕えた人々に下線を付けていますが、この他にも安田三郎右衛門など数人あり、重守の縁戚者が多く柳沢家に仕官したことがわかりました。

9.まとめ

 薮田重守(白鴎)の実家である山田家の縁戚関係を柏亭家譜から把握し、栄治郎先祖書と比較検討した。その結果、重守の実姉都知と山田作右衛門三貞との子が山田十左衛門であり、さらにその子が山田栄治郎であることがわかった。また、柏村直能、直條を含む薮田重守(白鴎)の縁戚者の関係を知ることができました。
             :資料の出典は前号に記載 



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# by y-rekitan | 2019-03-26 09:00 | Comments(0)

◆会報第90号より-05 御本社道①

御本社道を探る
―その1―

 谷村 勉 (会員) 


御本社道を歩く

 平成22年(2010)、枚方市教育委員会が発行した「楠葉台場跡」の報告書は専門家のみならず郷土史家や歴史好きの人々にも大きなインパクトを与えた。読み進んでゆくと「かつて楠葉方面から石清水八幡宮へと通じる『御本社道』という登山道が男山南西斜面にあった」と記載されている(資料編p315)。
 聞いたこともない「道」の名前だった。江戸中期作成の「石清水八幡宮全図(中井家文書)」を調べると、絵図上部の橋本地区に「御本社道」とはっきり記載されていた。楠葉から橋本南西部にかけて、今ではすっかり開発されたこの地域に、その面影がどれ程残っているものか、八幡宮に通じる「御本社道」を中心に足で追いかけてみた。その結果を数回に分けて報告します。

まず橋本の戊辰の役2題から

1.腰折坂の警衛
 上記の「楠葉台場跡」資料編p185に腰折坂の記述が出てくる。
明治元年(1868)一月二五日、小泉藩(注1)が八幡腰折の警衛を命じられている。
『「片岡貞篤家記」正月二十五日 
一、太政官ヨリ御召出ニ付留守居罷出候処、穂波三位殿ヲ以テ御達左之通 
腰折地蔵辺見繕警衛可有之旨 御沙汰候事』
 八幡、橋本、洞ヶ峠の警衛の意味は分かるが、なぜ腰折坂の警衛が必要なのか、それは腰折坂が男山東麓の「八幡宮道」(注2)である志水道から楠葉へ通じる為であった。「薩摩兵が八幡山の山道を越えて橋本台場の後ろに向かう時、賊兵三十余人山中に番兵たるを見、これを急襲した」との記述がある(資料編p180)。橋本台場後方へは狩尾社経由ではなく腰折坂経由で向かう必要があった。対岸の藤堂藩からの砲撃と橋本台場の背後からの攻撃などによって、幕府軍はついに敗走した。
「八幡市誌第三巻」(p52)に腰折の警衛について、軍務官から西山腰折の見張番所での警固を社士が命ぜられた、との記載がある。警固社士が侍身分ではあるが、大名家以外に警衛を命じられるのは異例だった。これに対応する記事が「楠葉台場跡」資料編p201にある。「明治元年九月一四日八幡社司の八幡腰折の警衛が免じられ、代わりに柏原藩(かいばらはん)(注3)が命じられる。」

・腰折地蔵の事
 上記の「片岡貞篤家記」に「腰折地蔵辺見繕警衛可有乃旨…」とあるが、
腰折坂の解説は「男山考古録の腰折坂」p446に詳しい。「足立寺村より御本宮へ参る道の半途にて、東より西の方へ下る坂有、其坂の近辺に民家三軒計ありて、村名にも号せり、此所に在る石地蔵、道の少し北に小高き所にあり、…」ここ腰折坂に「石地蔵」のあったことを記している。周辺を実際に調査すると、北側の斜面は削られ、地肌がむき出しの形状に気がつく。配水地造成工事等により斜面が削られて直線道路になっている。結局あちこち探し回った結果、斜面上部に「石地蔵」こそなかったものの、記述の所に礎石跡を発見した。
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2.橋本北ノ町、久留米藩士の墓石
 京阪電車橋本駅東側に竹林が残り、中腹には橋本家墓所がある。更に上段に墓地があって、戊辰の頃、橋本警衛に当たった久留米藩士の墓石が残っている。
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【碑文】南筑米府之臣松原要定通称弥三郎為 其人温淳□行頗秀武枝矣干時慶応三丁卯歳八月属隊長吉田尋長諸 京師而衛今出川闕門同戊辰歳三月轉守 城州橋本関門而勉強其際俄抱病焉 父太平要通亦在隊中夙夜雖勞心医薬無寸驗矣 嗚呼人生之無常也夫無奈之何 遂其六月六日三十八歳而没 因葬於導壽山本祥寺片岡氏之塋側 謚曰誠心院日壽居士
【意訳】久留米藩の臣、松原弥三郎要定は慶応三年八月に京都御所今出川関門 の警衛についたが、慶応四年三月、橋本関門に転じて守りについた。しかし俄かに病に倒れ、薬石功無く遂に六月六日三十八才にして没す。因って導壽山本祥寺に於いて片岡氏の塋域(えいいき)の側に葬る。

「楠葉台場跡」資料編p192に 明治元年三月一九日、「金沢藩が橋本警衛を免じられ、代わりに久留米藩が命じられる」とある。
 なお、現在の寺院は法華宗「感応寺」であるが、当時は「本祥寺」であった。今も入口に法華宗「本祥寺」の大きな石碑【元禄三年(1690)建立】が残っている。また、片岡氏の塋域(えいいき)とは八幡宮巡検勾当「正四位紀正敬朝臣之墓」などの墓石が同所に残ることからその塋域であったことが分かる。
(つづく) 一一

(注1)小泉藩は現大和郡山市小泉町に在った一万一千石の大名、四代将軍家綱の茶道師範片桐石州の子孫が代々藩主として幕末まで続く。松花堂庭園には「片桐灯籠」と呼ばれる道導形石灯籠(四角柱)が今も残り、慶長、片桐などと彫られた文字が残る(凡そ40年前に筆者確認済)。
(注2)「八幡宮道」八幡宮遷座以来八幡宮参詣道として発展してきた男山東麓の道は「八幡宮道」と呼ばれ、江戸時代の「八幡宮道標」も数多く残ります。今、俄かに観光客向けにいわゆる「東高野街道」と呼んでいますが、地元住民は他の宗教施設を連想するような呼称は古来使用しませんでした。ここでは「八幡宮道」、「志水道」の本来の名称を使用しています。
(注3)柏原藩(かいばらはん)は現在の兵庫県丹波市柏原に在った。元禄八年(1695)、大和宇陀藩の織田信休が、2万石で柏原に入部したことに始まる。その祖先は信長の次男、織田信雄五男の織田高長に繋がる。 



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# by y-rekitan | 2019-03-26 08:00 | Comments(0)

◆会報第90号より-end

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# by y-rekitan | 2019-03-26 01:00 | Comments(0)

◆会報第89号より-top <スクロールだけで全記事が読めます>

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
このまま下にスクロールして頂くと順次連続してご参照頂けます。


◆シリーズ:“心に引き継ぐ風景” ⑳◆
◆《歴探ウォーク》八幡の古寺巡礼⑥◆
◆シリーズ:“綿祔開” ①◆
◆シリーズ:“柏村直條と柳沢家家老の藪田重守” ①◆
◆シリーズ:“私の歴史散歩” ③◆



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# by y-rekitan | 2019-01-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第89号より-01 本尊掛松

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心に引き継ぐ風景・・・⑳

茄子作なすづくりの出会い・石清水八幡宮社人 小川伊高
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 江戸時代、石清水八幡宮を目指して整備された道を人々が歩いた。京街道、奈良街道、高野街道、河内道などの道である。そこには必ず「やわた道」の道標があって、驚くほどの数が見つかった。ところが道標だけではなく八幡宮ゆかりの事蹟も沢山残っている。機会があるごとに紹介してゆきたい。
 枚方市茄子作南町の丘に「本尊掛松」の旧跡がある。弘化二年(1845)建立の高さ2m30cm幅1mの堂々の地蔵像も見える。昭和40年代頃は田畑と森しかなかった旧跡付近にも大きな道路が走り、住宅の中に取り込まれてしまった。
 鎌倉時代、八幡神の霊夢をうけて融通念仏宗を再興する法明上人は大坂深江から高野道を八幡宮へと向かった。ところが石清水八幡宮社人の小川伊高も期せずして同じ霊夢をうけ、預けられていた法宝物を持って「京やわた道」を歩いていた。この辺りは「京やわた道」とも呼ばれて「八幡道標」の多い所!
 霊夢をうけた二人はバッタリ此処で出会い、融通念仏宗の本尊「十一尊天得如来画像」を小川伊高から授かった法明上人は歓喜のあまり、松の木に本尊をかけて踊りだした。同宗踊り念仏の始まりだ。この松を「本尊掛松」と呼ぶが、「ホンゾンカケタカ」と杜鵑(とけん)が鳴くことからホトトギス松とも呼ばれている。
(文と写真 谷村 勉)空白


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# by y-rekitan | 2019-01-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第89号より-02 八幡古寺巡礼6

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《歴探ウォーク》
八幡の古寺巡礼
―第6回:杉山谷不動尊~神應寺を巡る―  

2018年12月 八幡市内 にて
高田 昌史 (会員)

 今年の「八幡の古寺巡礼」は、12月6日に貞観2年(860)男山北側山腹に石清水八幡宮本殿とほぼ同時に創建された神應寺を中心に巡りました。当日は生憎の天候で足元が悪かったために当初予定の神應寺墓地行きは中止しましたが、その代わり神應寺ではご住職の講話をゆっくり拝聴し、本堂内や書院を丁寧にご説明していただきました。その概要を報告します。
 参加者は39名でした。

第6回古寺巡礼コース
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 第6回古寺巡礼は、八幡市駅近くの神應寺を中心に巡りました。
一の鳥居近くで受付後に、配布の「しおり」によるコースの概要説明と移動時の注意事項をお話してから出発しました。
 左図はコース図で、急な登りがありますが全歩行距離は約2kmと短いので、小雨が時々降る中を周囲の鮮やかな紅葉を見ながらゆっくりと足元に細心の注意をしながら、最初の目的地の「ひきめの滝」に向かいました。

1.ひきめの滝

 神應寺の山門前では参道の石段を確認してから、五輪塔の横を通り比較的緩やかな谷筋の道を行きました。橋脚が日本一高い(50m)男山ケーブルを見上げながら、f0300125_17415127.jpg「大聖不動明王」の額が掲げている杉山谷不動尊の鳥居をくぐりました。すぐ左側に谷へ降りる道に小さな鳥居があり、その先に在るのが古来涸れることのない滝水「ひきめの滝」です。
 杉山谷不動堂は鎌倉時代から江戸時代まで続いた安居神事の祭りで、安居の頭役と呼ばれた神事の祭主が禊を行う所で、御師や壇所太夫が同道して塩湯掛を行いました。その日は正明寺(戊辰ノ役で焼失)から湯屋が運ばれ、不動堂の後ろ、「ひきめの滝」に設(しつら)えられたそうです。橋本から安居の頭役が出た時は、塩釜と呼ばれる所【塩垢離(こり)場】で塩湯掛を行ったと伝えられています。
 本道に戻り、「杉山谷不動堂」に向かいました。

2.杉山谷不動堂

 坂を上がると、杉山谷不動堂に到着です。
不動堂前で神應寺の大木祖浄住職に出迎えいただき恐縮しました。f0300125_17444377.jpg
 杉山谷不動は厄除け不動として信仰され、ご本尊の秘仏「不動明王像」は不動堂奥の厨子内に安置されています。この秘仏不動明王は60年に一度の開帳で、近年では平成22年(2010)春に開帳されました。
 通常は中央に前立不動尊が居られ、脇侍として右側に不動明王従者の衿羯羅童子(こんがらどうじ)、左側が制多迦童子(せいたかどうじ)です。両脇侍は等身大の木像で全国でも珍しく、八幡市の指定文化財(平成13年登録)です。この木像は南北朝から室町前期に製作されたと伝わり、その存在感は見事なものです。
 不動堂の左の十一面観音堂を拝観後、大木住職とご一緒に参道や下に見える建物等、台風21号による被害や復興状況を見ながら神應寺に向かいました。なお、厄除延命地蔵尊の隣で復興工事中の建物では、2月3日の節分に「厄除けぜんざい」が振る舞われると伺いました。          

3.神應寺

 杉山谷不動堂からの神應寺までの参道は、緩やかな登りで神應寺の鐘楼前に着きました。鐘楼前でご住職の説明をお聞きしてから、本堂に上がらせていただきました。f0300125_17564290.jpg
 神應寺は貞観2年(860)石清水八幡宮を勧請した僧行教が應神天皇の位牌所として開山し應神寺と称したが、後に神應寺と改めたとのことです。宗旨は初め法相宗、次いで天台宗、真言宗、そして禅宗となり四宗兼学の道場でしたが、現在は曹洞宗の寺院です。
 本堂で大木住職の講話を拝聴しました。f0300125_17594346.jpgご住職は昭和35~40年(1960~1965)永平寺で修学され、その後常昌院(八幡大谷)に来られて30年間復興に尽力され平成6年(1994)に落慶法要をされました。平成10年には常昌院から神應寺に移り神應寺50世住職になられてから、住職ご夫妻が整備されました。
 今では手入れが行き届いた「駅近の観光スポット:名刹神應寺」として多くの方が訪れます。中でも11月下旬の今年で15回目の「神應寺もみじ祭り」は、恒例の行事となり今年も初日に350人の方が訪れたと伺っています。
 「本堂正面」でご本尊の薬師三尊仏、日光・月光像等のご説明を拝聴して、f0300125_1821640.jpg引き続き本堂左の「分霊の間」に移りました。正面には行教律師座像(国指定重要文化財)、右側には秀吉の位冠束帯の像、左側は徳川家13代目までの位牌があります。なお、1月18日の行教律師の命日には、毎年八幡宮からのお参りがあると伺いました。  
 引き続き、本堂後方の「開山堂」に移動し、納められている多くの位牌や仏壇・頂相彫刻像などの説明を受けました。f0300125_18112633.jpg開山堂からは本堂右側「分霊の間」の文殊菩薩(獅子に乗っておられる)を拝観してから、本堂に掲げられている扁額や襖絵などを拝見し、伏見城の遺構と伝えられる書院に移動しました。
 書院手前の和室の眼下には二季咲桜の開花を見ることができました。
書院では、11月末のもみじ祭りで特別公開された「秀吉の朱印状」と「寒山拾得図」をご住職の特別なご厚意により展示説明していただきました。
① 秀吉の朱印状(3通):この朱印状は、昭和40年頃散逸したものを、大木住職が購入(買戻し)されたと伺いました。また、朱印状3通の横には翻刻文も展示されていました。なお、この翻刻は当時の八幡市の文化財担当者が行ったようですが、もみじ祭りでの公開初日に谷村氏(今回の古寺巡礼の担当幹事)が不明の個所が多いことに気が付き、差替えて体裁も整えられました。
② 寒山拾得図(かんざんじっとくず)(掛け軸):男山考古録の著者である長濵尚次の貴重な作品です。松花堂昭乗の寒山拾得図を参考にして描いています。 

神應寺の寺紋について
 豊臣秀吉が征韓の役に出陣するにあたり八幡宮に参拝した際に宿泊し200石を寄進しました。当時十二代住職の「弓箴善僵(きゅうしんぜんきょう)」は豊臣秀吉と同郷朋友であり、北政所も深く帰依しました。その後、徳川家も帰依するところとなり、f0300125_11441564.jpg神應寺の寺紋は豊臣家の「桐」(右側)と徳川家の「葵」(左側)です。
 神應寺は豊臣秀吉と徳川家康から共に120石の「領地朱印状」を給わりました。

 以上、今回の古寺巡礼は時々小雨が降る生憎の天気のために、当初予定の「神應寺墓地」巡りは中止して、神應寺ご住職の講話や仏像や展示物の説明を予定より長く拝聴しました。終了時間が予定の16時になったので、神應寺での流れ解散としました。

神應寺墓地

 なお、当日配布の「八幡の古寺巡礼のしおり」には、参拝予定だった神應寺墓地の各墓石の写真と説明を入れましたが、以下に行教の墓と各墓石のみ記載します。
f0300125_19464717.jpg
1.行教の墓
 神社には墓地がないので、行教の墓は神應寺墓地にあります。墓は平成16年に修復され墓の竿(柱)には、正面に【開山行教大和尚】、裏面に【平成16年吉日修復、石清水八幡宮 恆清、神應寺 五十世祖浄】と彫られています。



2.その他の主な神應寺墓地の墓
(1)右衛門佐の追悼墓
(2)淀藩 永井家一族の墓
(3)淀屋の墓
(4)二宮忠八の墓
(5)山本勘助(孫)の墓

おわりに

 連続6年になる「八幡の古寺巡礼」では、初めて天候が悪く心配でしたが、お陰様で無事終了しました。
 神應寺の大木住職には、杉山谷不動堂で参加者をお出迎えいただき、不動堂~神應寺までのご案内と神應寺本堂では、講話~各仏像や展示物の説明などを長時間にわたり、大変お世話になり、感謝と御礼を申し上げる次第です。
 今回で八幡の古寺巡礼は6年間で14寺院を巡りました。次年度も「古寺巡礼」を継続開催して、八幡の歴史を探究して行きたいと思います。これからも八幡の古寺に関する情報等がございましたら、お寄せいただきたくお願い致します。
▽訪問に際しての注意事項
 本堂での写真撮影禁止は、皆様ご承知と思います。本記事では本堂や開山堂などでご住職講話中の写真を掲載しますが、何れも事前に了解を得ています。
 また、今回中止になりましたが、神應寺墓地への立ち入りも事前許可が必要ですので申し添えます。

(参考資料)
・『男山考古録』  
・「神應寺 案内書」 
・「八幡の歴史を探る」(八幡の歴史を探究する会 会報)
 ◆会報第34号より-01  2013年1月
 ◆会報第71号より-01  2016年2月
 ◆会報第73号より-01  2016年5月
 ◆会報第80号より-01  2017年7月
・「八幡文化のふるさと」 1991年(八幡市教育委員会)
・「京都・山城寺院神社大事典」 1997年 平凡社

 
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# by y-rekitan | 2019-01-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第89号より-03 綿祔開①

綿 祔 開めんぷひらく(その1)
=木綿の伝来=

 倉田 美博(会員) 

木綿

 日ごろ我々の身近でお世話になっている繊維といえば木綿(もめん)だ。肌ざわりや通気性もよく、最高の繊維、日々の生活には欠かせられない繊維のひとつ。
 その木綿の原料は綿の実のガクがはじけて出てくる繊維。それを紡いだものが木綿そのもの。綿の花も見たことのない人にとっては実感がわきにくいかもしれないが、紡ぐ前の繊維は布団に入っている綿と同じです。
 綿は熱帯性の1年草。5月に種子をまき7月に花が咲く、そして9月の末から10月にかけてガクが弾けて綿が採れる。f0300125_10502574.jpg栽培もむつかしいものではなく、我々アマチュアでも栽培は可能です。
 現在綿花は100%外国産の輸入品だが、過去には100%国産品で賄われていた。現在では趣味や観光用に栽培されているだけで国内での栽培は皆無といっても過言ではない。私も何年か前までは知人に貰った種子で栽培していたが、何かの拍子に種子をまく時期を逸したのちは栽培しなくなった。
 綿の花はハイビスカスを少し小さくしたようなレモンイエローの可愛いく、美しい花を咲かせてくれますが、残念なことに一日で萎んでしまう儚い花。

綿祔開とは

 我が国のこよみでは1年を24に分割しそれを24節気という。さらに72に細かく区分してそれを72候といい、その季節を実感できる言葉で表す。綿祔開は処暑(秋の始まり)の初候で、太陽暦の8月23日ころから27日ころを指す。  
 ちょうど其の頃になると綿の実を覆っていたガクが弾けて、中から種子を抱いた綿毛が現れる。
 「綿祔開(めんぷひらく/わたのはなしべひらく)」と言われるようになったのは綿花栽培が盛んになってきた宝暦暦から以降で、それまでは「寒蝉鳴(ひぐらしなく)」といういかにも晩夏らしい呼び方をされていたとのこと。その方が現代人には実感があるのでは。

岩田帯

 どの地方から綿作がはじまったのかについては定かではないが、おそらく大和あるいは三河地方ではないかと言われ、それが河内、泉州をはじめとした畿内を中心に西日本全体で広く栽培されるようになった。
 岩田村(現在、八幡市岩田)にこんな逸話が伝えられている。
 綿栽培農家が綿の刈り取りに精を出していた秋晴れの昼下がり、お姫様の一行が岩田の村を通りかかった。お姫様が急に産気づき、それに気が付いた村人たちが、近くの野小屋に収穫したばかりの綿を敷き詰めて寝かせ、無事に赤ちゃんを誕生させた。その後「岩田帯」と呼ばれて安産のお守りとして、現在に伝えられている。
 安産祈願の帯は神功皇后が三韓征伐のおりにすでに利用しており、材料は別として古い時代からすでに使われていた。
 何時の時代から岩田帯と呼ばれるようになったかは定かではないが、なぜ改めて名付けられたのだろうか。

綿の伝来

 日本へのワタの伝来については、8世紀末の平安時代初頭(799)に三河の幡豆郡天竹村(現在・西尾市天竹町)に漂着した崑崙人(インド人)が綿の種子をもたらしたことが『類聚国史(るいじゅうこくし)』(菅原道真892)に記述がある。崑崙人がもたらした種子を朝廷が紀伊、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐、大宰府で栽培を試みさせてみたが、いずれも栽培することが出来なかった。この綿の種子はおそらく高温地適種(インド綿)であったためではないかと推測でき、日本では栽培は困難な種類だった。
 ただ栽培には至らなかったものの、綿の保温性や柔らかさなどが我が国においても理解されるようになり、その後はもっぱら朝鮮半島や中国からの輸入品がもてはやされる時代が続いた。
f0300125_1164922.jpg 応仁の乱(1467-1477)はその状況にいっそう拍車をかけ、幕府をはじめ各地の戦国大名たちが競って朝鮮から木綿を輸入するようになり、朝鮮半島でも品不足となったらしい。
 室町時代中期に入って兵衣として抜群の性能を持つことがいっそう認識されるようになり、我が国の木綿需要が急激に高まりだした。木綿のよさが一般に認識されるようになったのはこの時代だった。
 15世紀に入り、朝鮮から日本の気候・土壌に合った綿〈アジア綿〉の種子が日本に渡来し、戦国時代になるとわが国でも綿の栽培とともに木綿織物の生産が始まり、しだいに関東地方にまで広まった。
 「山科家礼記」明応元年(1492)8月3日の条には、「宇治よりいほ(魚)上候、わた(綿)のあふら(油)たる(樽)七十上候」とある。すでにその頃には綿実油を70樽も納めることが出来たということからもかなりの面積で生産されていたことが窺える。
綿栽培の広がり

 綿の栽培、織仕事は女性が主流となり行われてきた。そのために「女かせぎ」と呼ばれる地方が多くあったが、綿の播種、収穫から果実の種取り(繰綿)、糸紡ぎ、機織りと女性にはかなりの重労働と、負担が大きかった。
 江戸時代の綿花の商品生産としての栽培はおおむね中期以降となるが、畿内や東海などの先進地では江戸前期からその骨格が形成されていた。
 大坂では17世紀前半に実綿・繰綿や木綿織物に関係する問屋組織の原型が成立し、すでに寛文6年(1666)には「綿(繰綿)屋仲間」が起り、大坂に送られてくる畿内や西国の実綿、繰綿の仲買を本業として、江戸や北國筋へと繰綿を売り出していた。
 江戸時代中期には生産品の販売用作物として定着し、農村部にも貨幣経済を前提とした経済活動が定着していった。
 それらの地域から供給される白木綿は武士、民衆の肌着類として、縞木綿類は都市民衆の表着類として市場を広げていった。
水田で木綿を栽培するのは再三幕府が禁令を出したにかかわらず、例えば宝永3年(1706)の摂津平野郷の場合畑方総面積131町の中で木綿作付けが107町余り、田方総面積224町余の中では木綿作付けが116町と水稲作付けを浚篤するほど。それだけ商品として収益性が高かった。

 ところで先に少し述べた「岩田帯」の話は何時頃のものか判らないが、産気づいた姫を寝かせられるぐらいに綿を引き詰めたとするならば恐らく、江戸中期以降の綿の生産量が増大していったころの話だと推測される。物語時代設定などからどうもただの逸話ではないかと考えられるが、このような逸話が残されると言うことは、八幡の岩田などを中心に山城南部全体、広範囲で栽培されていたことを裏付けていると考えられる。
 山城盆地南部での木綿作は、おもに低湿地の旧木津川の自然堤防や島畑の砂壌土の肥沃な畑地で栽培され、山城綿として大阪などへ出荷している。
 山城盆地南部における綿花栽培は明治20年(1887)頃を頂点として,同25 年頃より衰退の段階に入り,明治35年頃より急速に減少してゆき、明治40年以降は消滅している。具体的にみると、八幡・都々域両村での明治27年の生産量は明治14年の約30%に減少し、やがて他産地とともに区内での栽培は消滅していった。
 江戸時代から明治前半期にかけては、当時の商業的農業の先端をゆくものとして、極めて大きな意義を担っていた。
 元文元年(1736)大阪市場に集荷された農産品のうち綿関係品が全体の12%を 占めており、米7%を凌ぐ最大の商品となっていた。
 積極的な農民の中には、経営規模を拡大して富農的成長をとげるものも出たが、半面、干鰯の購入価格の高騰や上昇する日雇い賃金の負担などのために経営困難に直面することも多かった。
 そのため富農層のなかには綿作経営の維持よりも土地を買い集め、地主として小作料を取っていく者も増えていった。
 木綿は庶民衣料として発展するには年月を要したが、それが経済発展に寄与してくると政治的な施策が絡みあってくる。

衣料として定着

 その頃はまだ、庶民の一般的な衣服は麻類や在来種の植物繊維であったが、木綿織物の普及するに従い、肌触り・保温に優れた衣服として戦国大名の軍事的需要が高まり、すでに江戸時代以前に畿内を中心に西は九州から東は関東に至るまで、綿栽培、木綿織は展開していったと考えられる。
 木綿の庶民衣料としての深く庶民の生活に浸透するのは江戸時代の元禄(1688~1703)に入ってからで、やっと国内需要を十分賄えるだけの生産量となった。その後、その製品の流通は産業構造や経済史的にも大きな影響をあたえることになった。
やがて、江戸時代には国内産だけで需要が賄えるぐらいの生産量になっていった。

 柳田國男は面白いことを「昔風と当世風」の中に書いている。少し主題から外れるかもしれないが、何かの参考にでもなればとご紹介しておきたい。
・・・女の内足風である。前年日本に遊びに来た某仏国人のごときは、私に向かって頻りにこれをほめ、あれ一つ見ても日本婦人の優雅なる心性が窺われるとまで激賞した。ところが、桃山時代の屏風絵、岩佐又平などの写生画は勿論のこと、西川、菱川の早い頃の作を見ても、女はみな外足でサッサと歩いている。多分二重に腰巻をして上の方が長く、且つ麻などのようなさらりとした材料を使わなくなった結果、足にからまって裾がうまく捌けなかった故に、こんなあるき方を発明して、それが美女の嬌態と認められることになったのかと思う。・・・
 木綿は日本人の生活をいろいろと変えた。女性のあのしなやかなしぐさにまで影響があったとは驚きである。
(次号に続く)空白

【参考資料】

 tenki.jpラボ
 「山城盆地南部における明治期の商業的農業はじめ」   乾 幸次
 「江戸時代綿作の分布と立地に関する歴史地理学的考察」 浮田典良
 壺齋閑話
 「新・木綿以前のこと 苧麻から木綿へ」        永原慶二 
 「カイコガの種で見る日本の古代養蚕史」        中沢 隆 
 「木綿以前の事」                   柳田邦男 
 「歴史たんけん八幡」 第11章      八幡の歴史を探究する会




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# by y-rekitan | 2019-01-28 10:00 | Comments(0)

◆会報第89号より-04 柏亭日記1

柏村直條と柳沢家家老の薮田重守(白鴎)
ー(その1)柏亭日記に見る柏村直條と薮田重守ー


 田中 美博(会員) 

1.はじめに

 江戸時代の中頃、石清水八幡宮の神人で八幡の薬薗寺に近い森に住んでいた柏村直條(かしむらなおえだ1661-1740)は連歌・和歌に長じ、京の公家や大名家と交際する文化人でした。八幡八景の選者でもある直條が書き残した柏亭日記(石清水八幡宮所蔵)を私達は最近翻刻し発行しました(資料1)。その日記に柏村直條の叔父で柳沢家の家老であった薮田重守(白鴎)とのやりとりが記されています。薮田重守は寛文4年生れ延享4年没(1664-1747)。すなわち直條の叔父ではあったが実は3歳年下で、同世代として親しく交際していました。
 
2.柳沢吉保に仕えた薮田重守(白鴎)

 薮田白鴎とは隠居後の名前で、その前は薮田五郎右衛門重守、阿波、柳沢市正などを称した。重守の父は山田小右衛門廣清という人で、その長男が直條の父で柏村家に養子に入った柏村直能、その10番目の子が薮田家に養子に入った重守でした。これらの詳細は後述する。
 知られているとおり、柳沢吉保は将軍綱吉に重用され、側用人から老中格さらに大老格までめざましい出世をした大名であった。
f0300125_10402325.jpg薮田重守は吉保(当時は保明)に元禄元年(1688)に五十石で召抱えられ、忠勤に励み元禄10年に家老となり、主人の出世に伴い知行三千石にまで取立てられた。さらに吉保の跡を継いだ吉里にも仕え、江戸、甲府での勤めののち、享保9年(1724)に大和郡山への柳沢家の移封にも従い、その翌年長男に譲って隠居を許された人である。

3.柏亭日記にある柏村直條と薮田重守(白鴎)の交際

 石清水八幡宮に所蔵されている柏亭日記は元禄9年(1696)、享保14年(1729)および17年(1732)の3年間分で、これを翻刻・発行しました。元禄9年では、1月15日に直條は柳沢出羽守に仕えている弟の柏村勘左衛門(尚誠)へ手紙を書き、放生会で相撲の会を再興できるようおじの薮田重守と相談してほしいと頼んでいます。しかし、これは実現していない。享保14年4月に薮田重守(白鴎66歳)は夫人の吟(老名慈性)を伴い八幡の直條(69歳)を訪れています。夫妻は4月11日に天神森(現京田辺市)に着き、翌日石清水八幡宮に社参し狩尾社にも参拝。13日に封戸(淀にあった木津川の渡場)から船で(巨椋池を経由か)宇治橋に至り、(直條とおちあって)宇治神社祠官の芝田家で茶菓子のもてなしをうけました。直條の長女おやすは芝田家当主の妻であった。そのあと興聖寺住職に会い、方々見物して船で美豆に帰着。14日は「於草庵終日馳走ス」(日記)と直條の自宅でもてなされた。15日から嵯峨・京都へ出かけ、18日に「白鴎御夫婦京ヨリ御帰」(日記)で直條方に逗留し、21日に封戸から木津川を船で上ってはぜ(旧吐師村、現木津川市)へと向かい、帰ったことが記されています。
 一方、直條は河内方面への旅の中で大和郡山へ行くことが多く、享保14年3月と9月の2度訪れて合わせて9泊し、享保17年では2度訪れて9泊しています。このほか書状や贈り物のやりとりも多く書き記されています。

4.山田栄治郎先祖書

 大和郡山市教育委員会に所蔵されている豊田家文書の閲覧・撮影の許可をいただき、その中に薮田重守(白鴎)が書いた山田栄治郎という人の先祖書(資料2)を見つけました。下図はその翻刻版です。
f0300125_10464021.jpg
 享保18年(1733)に書かれたこの先祖書は栄治郎の就職などのための推薦状であったと思われます。この先祖書は重守(白鴎)が甥の子にあたる山田栄治郎について、その先祖・家系を紹介している。しかし、柏亭日記に山田栄治郎は出てこない。重守は柳沢吉保に仕えた頃の主君の遺訓・見聞・感想を源公実録(資料3)に記しているが、これをみても栄治郎の親や縁戚関係はよくわかりません。一方、重守の縁戚関係は愛知県の西尾市岩瀬文庫所蔵の柏亭家譜(資料4)に記載があることを私達は柏亭日記翻刻の際に知りました。次号にこの先祖書と柏亭家譜の比較・検討結果を紹介します。
(つづく) 一一

(資料1)翻刻『柏亭日記』 発行:古文書の会八幡 平成30年4月吉日
(資料2)大和郡山市教育委員会提供(所蔵) 豊田家文書『山田栄治郎先祖書』文書番号214
(資料3)『源公実録』 薮田重守著 柳沢史料集成第一巻 発行:柳沢文庫保存会 平成5年3月20日
(資料4)『柏亭家譜』 西尾市岩瀬文庫蔵




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# by y-rekitan | 2019-01-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第89号より-05 歴史散歩

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シリーズ「私の歴史さんぽ」・・・③


「継体ウォーク」と「楠葉台場跡」

村山 勉 (会員)


 私は読書が趣味です。好きな作家のひとり、「浅田 次郎」氏の著作「中原の虹」の中に、東三省(満州地方)総督・趙爾巽の言葉に、「生きとし生きる者すべて、歴史を知らねばならぬ。なるべく正しく、なるべく深く。・・・
 では、いったい何ゆえ歴史を知らねばならぬのか。おのれの歴史的な座標を常に認識する必要があるからである。おのれがいったいどのような経緯をたどって、ここにかくあるのか。父の時代、祖父の時代を正確に知らねば、おのれがかくある幸福や不幸の、その原因も経緯もわからぬであろう。・・・人々がかくある幸福に心から謝することが叶うように、人々がかくある不幸を覆し、幸福を得ることが叶うように」とあります。
 私は他所から、この八幡市に転居してきました。全く八幡市の事を知りませんでした。65歳で定年退職し、「さてどうしよう、何をしたら」。妻から「読書ばかりで、ボケますよ」と言われましたが、外に趣味はありませんでした。
 歴史へのきっかけは「継体ウオーク」でした。淀川の大王「継体天皇」の「楠葉宮伝承地(貴船神社)」から「くすのき近隣公園」「円福寺」「洞ヶ峠碑」「欽明公園」「月読神社」「報酬庵(一休寺)」「酒屋神社」を経て京田辺市の同志社大学キャンパス内にある「筒城宮碑」へ至るものでした。
 なんと身近に歴史があるものだと感じました。私は三重県津市の出身で、伊勢に「伊勢神宮」があり、八幡市には、第二の宗廟といわれる「石清水八幡宮」があります。又、平野山の自宅裏に、枚方市楠葉「国史跡・楠葉台場跡」があります。f0300125_11351759.jpg
 津・藤堂藩(藤堂高虎)が鳥羽伏見の戦いで、川向うから幕府を裏切り銃撃を加え、戦いを終結させた所でした。なんの気も無く転居してきた所が、このように身近な歴史を持つ所として、がぜん八幡市の歴史に関して興味を持つに至りました。幸い「八幡の歴史を探究する会」に入会させて頂き、いろんな講演や催し物、会報記事等により八幡市を知る事が出来ました。
「知らなかったことを知る」「新しい事を学ぶ」、大変に面白く楽しいことです。
 地元、橋本にも「行基菩薩の山崎橋」「大谷川樋門」「橋本遊郭」「狩尾神社」「二宮忠八飛行器工作所跡」「橋本陣屋跡」「西遊寺」「常徳寺(湯沢山・茶久蓮寺)」「塩釜」「猿田彦神社・別峯での八幡合戦」「淀屋と講田寺」「平野山瓦窯跡」「和気清麻呂・西山廃寺」「茶臼山古墳」等々、沢山ありました。
 まだまだ勉強中で、詳しい事は理解できておりませんが、これからも八幡市の歴史を楽しみに進んでゆきたいとおもっております。



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# by y-rekitan | 2019-01-28 08:00 | Comments(0)

◆会報第89号より-end


この号の記事は終りです。


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# by y-rekitan | 2019-01-28 01:00 | Comments(0)

◆会報第88号より-top <スクロールだけで全記事が読めます>

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
このまま下にスクロールして頂くと順次連続してご参照頂けます。


◆シリーズ:“心に引き継ぐ風景” ⑲◆
◆《講演会》馬場遺跡の発掘調査を終えて◆
◆シリーズ:“八幡の古墳と鏡” ⑫◆
◆お亀の方について◆
◆「太西坊」碑発見と「西遊寺」の三宅碑◆
◆狩尾神社のお祭り◆
◆増補版「『石清水八まん宮道』に誘う道標群」◆
◆八幡市民文化祭での展示発表◆


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# by y-rekitan | 2018-11-30 15:00 | Comments(0)

◆会報第88号より-01 惺々翁

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心に引き継ぐ風景・・・⑲

惺々翁せいせいおう(松花堂昭乗)と「本阿弥行状記」

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 「本阿弥行状記」に松花堂昭乗が登場している! ある時惺々翁は、本阿弥光悦が新築した小屋を見て、「何と、粗壁の中に山水鳥獣あらゆる物が見えるではありませんか、…」と言い、一泊して一日中粗壁を見てはその中から色々な絵を写し、私にも下さった。古くから粗壁に絵姿が現れることは伝え聞いてはいましたが、目の当たりに惺々翁が描きとられる姿をみて疑いもはれ「何事も上達しなければその奥儀を悟れないものよ」と感服しました。是につき惺々翁と話す事がありました。「書、絵画などあらゆる芸には、天授というものがあって、どれ程精を尽しても群を抜いて上達することは普通はできぬ物なり、怠けていては猶行れず。其外どのような芸でも、それまでの決まりにからみ取られていては、却って成就しない」ということでした。―本阿弥行状記よりー
 己の独自な法を作り出してこそ一流の芸とする考えは現代も生きている!
大坂夏ノ陣直後、家康から鷹ヶ峯の地を拝領した光悦は「舟橋蒔絵硯箱」、「白楽茶碗・銘不二山」の国宝を世に出し、宗達が下絵を描き光悦が和歌を散らし書きした「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」に代表される圧巻の書蹟を残している。
 「世にいう琳派は茶人本阿弥光悦を源流としていて、彼の作品と並べれば光琳、乾山の素晴らしい創造も光彩を失う程である」と茶の本(岡倉天心)は伝えている。
(文と写真 谷村 勉)空白


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# by y-rekitan | 2018-11-30 12:00 | Comments(0)

◆会報第88号より-02 馬場遺跡

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《講演会》
馬場遺跡の発掘調査を終えて
-善法寺家邸宅跡地-


2018年10月 
八幡市文化センター第3会議室にて

        小森 俊寛 (京都平安文化財 顧問)
 
  10月13日(土)午後1時半より、八幡市文化センター第3会議室にて表題の講演が行われました。概要を報告します。
 講師の小森俊寛氏は、(財)京都市埋蔵文化財研究所にて長年京都市内の埋蔵文化財の発掘調査と研究に携わってこられました。そして、平成14年頃から八幡市における埋蔵物の発掘調査に関与し、同22年から5年間は八幡市教育委員会文化財保護課に在籍、馬場遺跡第1次~第6次の調査をされ、平成29年度に再びの要請を受け第9次調査及び発掘調査報告書の取り纏めをされました。
 本報告は当日の配布資料及び講演の内容を取りまとめ、講師の小森俊寛氏の同意のもとに掲載するものです。なお当日の参加者は44名でした。

1、馬場遺跡について

 馬場遺跡は、石清水八幡宮長官(社務)家のひとつ、f0300125_10393148.jpg善法寺家の邸宅がったことで知られている。
 遺跡は男山東麓沿いに南北方向に広がる石清水八幡宮寺の門前町〔現八幡市の市街地中心地域と重なる〕にあってその南半の北部に位置する平安時代から江戸時代(近代初め)の集落跡(門前町跡)とされる位置にある。地名をとり、「馬場遺跡」としているが、本来的には石清水八幡宮寺の4祠官家の一つである善法寺家推定台地と同家の氏寺でもある、その北東に現存する善法律寺を主体とし、その周辺に点在した同家関連宅地帯を一部含んだ遺跡である。
 小台地の高みに明治時代に菊大路家と名を変えた邸宅が残っていたことは、今も地域住民の記憶に残っており、4祠官家跡のなかで唯一良好な遺存状態にあると考えられた。このため、馬場遺跡とする前段の平成21年頃からすでに遺跡調査を意識した取り組みを始めていた。石清水八幡宮寺の国史跡化を目指すなかで、同宮寺の門前町遺跡調査の必要性に対する認識が各方面で高まってきた。そのような機運の中で、馬場遺跡遺跡として設定し、f0300125_10514278.jpg同遺跡内で邸宅推定地の確認調査を平成23年度(1次)から調査を開始し、国庫補助関連の発掘調査は一昨年度、平成28年度(第8次)に終了し、昨年度に報告書を作成するための整理作業を行い、年度末(今年3月)に報告書を作成した。    
 なお昨年度は、同遺跡内の宅地開発に関連した民間施主の協力を得た発掘調査(第9次)を実施したが、ここでもその成果の一部には触れるが、主な内容は後日に譲る。
 以下では、昨年度の報告書に掲載した調査に至る経過と最後に記した課題と調査成果をまとめた総括を合わせて資料として提示する。

2、善法寺家邸宅跡とは

 石清水八幡宮長官(社務)家のひとつ、善法寺家の16世紀前半以降の邸宅跡。f0300125_1101025.jpg長官は「検校」と称され、護国寺別当の上位の職として、鎌倉時代中葉以降常置となり宮寺の全権を掌握した。別当や検校は平安時代以来、宇佐八幡宮からの遷座を行った僧・行教律師の家系が勤めてきたが、鎌倉時代以降、田中(現在の宮司家の系譜)、善法寺両家が交替で社務につくこととなり、のちに両家から分かれて壇、新善法寺、東竹家等も起こり、家督相続でしばしば混乱も起きた。善法寺家は室町時代には将軍家の御師(祈祷師)を勤めた家柄で、善法寺通清の娘・紀良子は室町三代将軍・足利義満の母である。
 平安時代後期に娘を鳥羽天皇に嫁し、大きな権力をもった別当 垂井光清の子、成清が善法寺家の祖といわれる。『男山考古録』によると、光清の代より、科手(現木津川河川敷辺り)、家田、馬場(善法律寺東南)と邸宅を移すが、永正年間(1504~1521)頃から現在の地に居住したと推測されており、明治時代までこの場所で存続していた。
 その邸宅の場所は江戸時代中期の八幡山上山下惣絵図や石清水八幡宮全図にも描かれており、旧公図等の資料からも推測可能である。社務家の邸宅跡は、ほかに田中家、新善法寺家が知られるが、近年の宅地開発から免れている邸宅跡として唯一のものであった。
 北約100mにある善法律寺は、成清の子・宮清が13世紀中頃に私宅を僧坊として一山を開いた。

3.善法寺家邸宅跡地の発掘調査概要

(1)屋敷地の範囲
 今回の調査で、屋敷地の範囲はほぼ明らかになった。南限がほぼ判り、門跡を含む東限も明確に判ってきた。門跡は、f0300125_1161087.jpg現道路と重なる南北のほぼ中央付近で東限から東に張り出しており石垣に寄って支えられている状況である。東から登り門へ入る石の階段も想定される。門跡北側の門に近い部分に堆積岩(男山産出)石垣が残り、その北部は花崗岩(八幡では産出しない)主体の石垣に改変されている。
 四方の屋敷地境界がほぼ明らかになり、屋敷の大きさはほぼ判明した。東西幅が約60m、南北幅が68m程となる。中世段階では南側が谷地であり、屋敷地は約3,000㎡程であった。南に拡大した近世段階では、約4,000㎡(1,200坪)程となる。

(2)屋敷地内の建物等の配置
 調査中に母屋を想定していた付近に設けた第7次、第8次調査地では、大規模な錯乱により多くの遺構や整地層等が削平されていた。従って、中世末期から近世にかけての屋敷地や建物の痕跡が確認できていない。f0300125_11145189.jpg但し、屋敷地の東北部や北西部の第4次調査では、礎石の抜き取り穴や掘立柱建物の柱穴かと見られる痕跡が確認できたので、第7次、第8次調査区以外の第2次~第4次調査区及びそれら以外の未調査地については、善法寺家邸宅に係る全時期の遺構が遺存している可能性が高いと考えている。
 屋敷地南西部の第4次調査では、園池の一部と理解される近世以降の池状の遺構を確認している。よって近世の屋敷地配置については、屋敷地南西半には池があり、北半に主屋、その西側にはその離れ等の建物跡が展開したものと考えられる。

(3)出土遺物
 第4次調査(平成26年)の石垣の裾には、門に使用されていたと見られる瓦や、屋敷地内で使用されていた陶磁器類等を含む土が被っていた。陶磁器のなかには、中世~近世の天目茶碗や高麗茶碗とも見てよい高級な茶陶類が含まれていた。屋敷が栄えていた室町時代から桃山、江戸時代には屋敷内で茶の湯を含む喫茶が日常的に行われていたことを示している。
 また、16弁の菊文鬼瓦等もその付近から出土している。これと同様の菊文鬼瓦は北東隣地の現善法律寺の東正門の下り棟の先に飾られている。菊文鬼瓦は、同文を許可された足利家との関連の深さを窺わせる重要な物的資料である。この鬼瓦を製作した工房は、八幡志水の瓦屋であることも銘文から判明している。
f0300125_11202183.jpg
 これらの石垣や瓦屋根であったと見られる立派な門跡からは、善法寺家の江戸時代の邸宅が、小城郭あるいは寺院に比する格の高い大邸宅であったと見て良いだろう。
 また、一昨年度までの8次にわたる調査においては、土師器・須恵器を中心にした土器・陶磁器類や、各種の瓦類などの焼もの賓料が多数出土している。他に、鉄釘などの金屈製品、銅銭、石製品、土人形、土管等の土製品も少是ではあるが出土がみられた。最的にはコンテナ(整理箱)にして合計60箱程で、立当たり0.07箱が出土している。

4.門前町遺跡の保護について

 今まで残っていた遺跡を次の世代まで残さなくても良いのか、残すためには余程八幡の歴史を勉強して、その価値を評価する必要がある。今回のような行政発掘は、殆どが記録保存である(遺跡を潰すことと同じ)。このことは土地を持っている人の問題ではなく、八幡市全体の問題として捉えてほしい。保存方法は多様であり、遺跡を皆無に帰さないためにも、現在の開発には勝れて柔軟な学術的、行政的な対応が必要であるだろう。
 八幡は八幡宮の門前町であり、もっと以前から景観を保存していたら、宇治に負けない門前町として八幡宮と共にアピールできたと思う。
 京の表鬼門の比叡山は世界遺産に登録されている。裏鬼門の八幡も八幡宮を中心とした門前町として、京都文化を形成した(京都文化=日本文化)神仏習合の大きな存在であったので同様に世界遺産になれるはずである。
 これからは住民意識として、行政が「世界遺産を目指す」と宣言することを願っている。

『一口感想』より

小森先生、八幡の歴史を探究する会の皆様、ありがとうございました。大変勉強になりました。 (M.Y.)
善法寺家の遺跡が残せなくても、発掘されたら歴史が解明されるべき。遺跡がなくなったので、その機会が永遠に失われてしまった。我々が語り継げるよう善法寺家の探究を進めたい。 (D.M.)
大変楽しいお話をありがとうございました。小森さんのメッセージをひとつは受けとめられたと思います。八幡市民として足元の歴史を深く学び将来の町づくりへ展望をつかむことだと。 (F.N.)
遺跡の発掘調査は破壊であると聞き、なるほどと思う。文献上だけで残すほかないのは残念で、後世に残せば新技術によりさらに発見が出るのではないかと思われる。 (T.Y.)


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# by y-rekitan | 2018-11-30 11:00 | Comments(0)

◆会報第88号より-03 古墳と鏡⑫

シリーズ 「八幡の古墳と鏡」・・・⑫


八幡の古墳と鏡(12)

―伝えていきたい八幡の奥深い古墳時代(その2)―

濵田 博道 (会員)

6、横穴墓について

①被葬者像をめぐって
 「八幡の古墳と鏡(9)」で、近年発掘が進んだ八幡(近辺も含む)の横穴墓の数や、その被葬者像の説についてふれましたが、追加したいと思います。
 その一つは、横穴墓の荒坂5号墳から副葬品として継体大王の妃・尾張の目子媛(めのこひめ)に関わる東海系円筒埴輪(尾張型埴輪)が出土(それ以外にも京田辺市・堀切古墳群、八幡市・新田遺跡からも出土)していることから、横穴墓の被葬者の中に継体大王を支援した南山城勢力(その後裔)の可能性を指摘する説です。横穴墓が造られ始める50年ほど前の6世紀前半、近江・越前・美濃・尾張の勢力を基盤とし、河内の馬飼首荒籠(うまかいのおびとあらこ)(荒籠は人名)にいざなわれて継体大王が擁立されますが、その支援勢力として木津川・桂川・宇治川・淀川水系の勢力が考えられています。継体大王の宮が樟葉宮・筒城宮・乙訓宮へと遷り(『日本書紀』)、河内・山城地域に宮をおいていること、9人(あるいは7人)の妃の中にこの地域の出身の女性がいること、陵墓が三島・摂津の地域にあることなどがその根拠です。八幡・京田辺地域の横穴墓推定数は600~700基と京都府下最大級。従来の隼人の墓説では説明しきれないほど多く、また隼人の墓であることを証明する墓の構造や遺品の決定打が見当たりません。南山城の広い範囲の勢力が継体大王支援にまわり、継体大王没後もかなりの勢力を保っており、王権からその墓域として八幡・京田辺の地域を指定され、須恵器などの供給を受けたと考えればつじつまが合います。
 次に、二つ目の説として加藤雅士氏は「南山城の横穴墓群」(注10)で次のように述べています。“八幡市から京田辺市の横穴群の周辺には隼人や土師氏、渡来系の松井氏がおり、いずれの氏も中央との関わりが考えられ、これらの有力家長層の墓ではないかという説です。また横穴墓が集中する一帯は古山陰・古山陽道と河内への峠越えが交差する交通の要衝であることから中央政権が大規模な横穴群の造営に関わっていた可能性がある。それまで地域の有力者を通じて間接的な支配だったものが、中央政権の掌握が一般民衆まで直接的に及ぶようになり、古墳に埋葬されなかったこれらの有力家長層が古墳(横穴墓)に埋葬されるようになった。中央政権による南山城地域の掌握を伺うことができる。”(要約)(注11)というものです。
 以上を含め横穴墓の被葬者像として①地域の有力家長層②広範な近隣の有力農民層③隼人④継体大王支援勢力(後裔)⑤これらの人たちの複合墓などの説が挙げられるのではないでしょうか。いずれにしても大和政権直轄支配が考えられ、今後横穴墓の被葬者像説がどう展開・収束していくのか、注視していきたいと思います。

②埼玉県の横穴墓群「吉見百穴」を見学して
 横穴(墓)の知識を広げようと、埼玉県比企郡吉見町に所在する国指定史跡の吉見百穴(よしみひゃくあな)横穴墓群(現在総数219基)を訪ねました。f0300125_12312269.jpgここは元々横穴墓が230基以上ありましたが、戦時中、この岩山に地下軍事工場が建設され、10数基の横穴墓が壊されてしまいました。吉見町では横穴墓を「おうけつぼ」といわず、「よこあなぼ」といっています(吉見町教育委員会「古墳の里 吉見町の文化財」)。案内の横幕には「横穴古墳群(よこあなこふんぐん)」と書かれています。この横穴墓群と八幡の横穴墓群との違いとして気づくことは、その作り方として凝灰岩質砂岩という掘削に適した岩盤に、あたかもマンションのように築かれていることです。大分県の「滝尾百穴横穴古墳群」(6世紀後半~7世紀)もマンション状に造られており、崩れやすい質の土・岩かどうかによってマンション状、あるいは八幡のように一列状に横穴墓が造られているようです。他に、南九州に隼人の墓制として地下式の横穴墓もあります。第二の相違点として横穴墓の壁際に棺台(ひつぎだい)と呼ばれる10~20cm程の段が作られており、ここに死者を安置する構造をしています。八幡の横穴墓には棺台は見当たらないです。第三に八幡の横穴墓は羨道(せんどう)入り口を土・小石で蓋をしていますが、吉見町の横穴墓では立石の「緑泥片岩(りょくでいへんがん)」の蓋です。岩と土の違いはありますが蓋をしている点は同じです。第四に、築造時期は古墳時代後期(6世紀末~7世紀末)で、八幡の横穴墓より新しく(遅れて)始まり、その終わりも数十年新しいです。九州から築造が始まった横穴墓の築造が次第に東方に広がっていったので、近畿より新しくなっているとのことです。複数の死者を葬る追葬の方式は古墳時代の石室構造(横穴式石室)や八幡の横穴墓と同じですが、違うのは追葬が古墳時代で終わり、奈良・平安初期には再利用されていないことです。
 吉見町の横穴墓は1887(明治20)年に発掘調査が行われていて、須恵器[平瓶、短・長頸壺(たん・ちょうけいつぼ)、高杯、はそう、堤瓶(さげべ)]、耳環(じかん)、鉄鏃(てつぞく)などが出土しています。これらの副葬品は八幡の横穴墓と大差ありません。他に直刀、玉類(勾玉・管玉)、金銅金具なども出土しています。須恵器は畿内で造られたものだと思われますが、その流通経路などは不明です。被葬者について吉見町埋蔵文化財センターで尋ねると、横穴墓が多数なので被葬者は地域の王ではないが、須恵器・耳環・玉類など貴重なものを副葬している点などから庶民ではなく、王に仕える高官であったと考えられる、子供用としか考えられない小さな棺台もあり、有力者の家族墓である可能性も残している、また周辺ではこの地域に限って横穴墓が存在するとのことでした。
 吉見町役場発行の『吉見の百穴』(2006)によると、“横穴墓を穿った工具として天井や側壁に残る跡から側壁は手斧(ちょうな)、「側壁と床に接した部分は、細くとがったヤリガンナでしょうか”と記されています。手斧、ヤリガンナは木工具と理解していたのですが、この記述から岩を削るのにも使用されていたようです。

③韓国での横穴墓の発見
 最近、韓国公州市(古代百済・2番目の王都)付近のいくつかの遺跡で横穴墓群が発見されています(計36基)。築造時期は5世紀末~6世紀前葉とされていて、八幡市で発掘されている横穴墓のルーツはどこにあるのかと気になります。最も横穴墓の多い公州市丹芝里(たんじり)の調査で韓国・慶北大学の朴天秀(パクチョンス)教授は「三国(高句麗・新羅・百済)時代における墓制の中でその(=横穴墓群の)系譜がたどれないこと、九州の周防灘沿岸と遠賀川流域の横穴墓と類似し、また須恵器あるいはそれの模倣土器が副葬されていることから北部九州地域の倭人と考えられる」と述べています(注12)。475年、高句麗に王が殺され危機に陥った百済に対し、日本にいた王子・東城王の帰国を筑紫国軍士500名に護衛させ随行させた旨の記事(『日本書紀』雄略23(479)年)もあり注目されます。
 最近の調査では日本の横穴墓の始まりは5世紀の前葉まで遡るとされている【鹿児島県鹿屋(かのや)市岡崎18号墳】ことなどから、横穴墓のルーツは日本の九州にあるといえそうです。

おわりに

 近年、古墳に対する関心は全国的にみて、高くなってきていると感じています。例えば、2017年、「宗像・沖ノ島と関連遺産群」(福岡県)が世界文化遺産に登録され、その中に「新原(しんばる)・奴山(ぬやま)古墳群(6世紀)」が含まれています。また2010年、「百舌鳥・古市古墳群」(大阪府)が「世界遺産暫定一覧表」に記載されました。京都府内では、2016年向日市・長岡京市・大山崎町所在の11基の古墳が乙訓古墳群として、国指定史跡になりました。国指定史跡とは「貝塚、集落跡、城跡、古墳などのうち歴史、学術上価値の高いものを指し、国によって指定されたもの」です。保存され、地域の中に息づき、住民の憩いとなる場としての史跡が目指されています。
 最近保存されることが決まった古墳もあります。f0300125_924236.jpg静岡県沼津市の高尾山古墳(前方後方墳,62m,230年頃築造)がその例の一つです。(弥生時代の墳墓ですが、現地の呼び方に従い古墳と呼びます)。2005年から市の教育委員会が調査を続けてきましたが、古墳を削って道路を建設する計画が浮上しました。この古墳から後漢時代の獣帯鏡・勾玉・槍(やり)(2点)・鉄鏃(32点)、それに今回話題の「鉇(やりがんな)」も出土しています。2008年の調査でこの古墳が東日本最古・最大級であることが明らかになり、市民からも「1800年も前に造られ、祖先が守ってきた古墳を、今、道路を作るからというので壊していいのか」と保存運動が起こりました。その後、古墳の重要性が認められ、計画を変更。残しながら道路を建設することになりました。沼津市教育委員会・沼津市文化財センターが発行した『スルガの王ここに眠る 高尾山古墳』(2017)には「沼津には、こんなすごい古墳が眠っていたんだね。高尾山古墳の大切さをしっかり学び、沼津だけでなく日本の貴重な遺産としてこの先もずっと大切に守っていきたいね。」と書かれ、現在、市も市民も古墳を保存することで一致し、その方向で進んでいます。

 八幡にも古墳時代の先人の確かな営みがあり、九州地域や朝鮮半島を含めた他地域との交流がありました。次代に伝えたい奥深い歴史・文化をもっています。これからもその歴史や文化について学んでいきたいです。(完)

(注10)加藤雅士「南山城地域の横穴墓群」『京都府の横穴墓-横穴墓に葬られた人々』,京都府教育委員会・京都府埋蔵文化財調査研究センター,2018
(注11)『内里八丁遺跡Ⅱ』,京都府埋蔵文化財調査研究センター,2018及び(注10)によると、




隼人-九州南部の人々が連れてこられ、朝廷の儀式・警護などに関わっていた集団(の末裔)。主に大住に居住。
土師氏-土器、埴輪づくり、天皇家の食膳を司る役目、葬送儀礼に関連する集団。内里に居住。
松井氏-渡来系の集団。
(注12)朴天秀『伽耶と倭』,講談社,2008


この連載記事はここで終りです。       TOPへ戻る>>>

# by y-rekitan | 2018-11-30 10:00 | Comments(0)

◆会報第88号より-04 お亀の方

お亀の方について

丹波 紀美子(会員)


「家康の側室お亀の方が2度結婚して2人の子供を持って3度目に家康の側室になった」という話をI氏から聞いて、びっくりして、そして調べることにした。
お亀さんに関する講演会資料や正法寺所蔵『志水家系』、正法寺の名宝展、私の住んでいる近辺裏話、ネットで探したお亀さんやその周辺に関する話を駆使しながら記してみようと思う。

 f0300125_14201875.jpgお亀さんの出生は天正4年(1576)(志水家系)と天正元年〈1573〉(徳川美術館参与・佐藤豊三・・尾張説)の二通りあるが、この度は正法寺所蔵「志水家系」の天正4年説とする。死亡は寛永19年〈1642〉9月16日 享年67歳。

☘ 亀女の父・志水宗清

 作家の津田三郎氏の『京の町に史実を追って』の一文ではお亀さんの父・志水宗清のことを家康から尋ねられた亀は、「父は石清水八幡宮の修験者です」と答えると、家康は「そのことは今後一切他言せず、直ちに父を還俗させ頭髪を伸ばすように」と厳命した。出典は『柳営婦女伝系』だろうか?
 正法寺を開創した高田忠国の子孫(後に志水と改姓)が何故石清水八幡宮の修験者なのだろうか?八幡宮の社家であり正法寺の大旦那であるはずだが・・・。
〇志水宗清は石清水八幡宮祠官家の東竹甲清(田中の分家系)の娘と結婚し亀女が生まれた。東竹甲清の孫が亀女ということである。
〇亀女の母は宇治の茶師・尾崎坊家の尾崎坊永教の姉・花月院で八幡志水家に嫁ぎ相応院を生んだ。尾崎坊家も後にお亀の方のお取り立てで尾州にも出入りするようになったと宇治市歴史資料館にある「尾崎坊家文書」に記されている。
 ※このように亀女の出生には、二つの説が存在していて亀女の出生も謎の様だ。

☘ 亀女の結婚

 亀女が最初に嫁いだのは竹腰定右衛門正時という。竹腰氏の出自は江州大原荘(現在の米原市辺り)を領し、大原氏と名のっていたが、後に尾張国中島郡竹腰村に移住し、竹越と名のった。その後、美濃にも進出し美濃の斎藤氏に仕えた。正信の3代前の重綱〈道鎮〉は斎藤道三に仕えたという。道三と息子の義龍との戦の時には義龍につき、その後、道三の孫の龍興は家臣の人望がなく離反者が相次ぐ。親戚の朝倉家へ逃れ、朝倉家滅亡の時に龍興も戦死し天正元年〈1573〉斎藤家は滅んだ。
 或いは竹腰家は金森氏(飛騨国高山城主)の一族、土岐源氏の一族ともいう。
 これも謎であり定かではない。 
 以後の竹腰家の足取りは分からないが、亀女の夫・竹腰正時は八幡宮に寓居していたともいわれている。
 竹腰正時と亀女の間に正信が天正19年〈1591〉1月21日に誕生した。亀女15歳の時であったという。
 後に尾張大納言徳川義直の御附家老・今尾3万石の城主である。父の正時は討ち死にとも切腹ともいわれている。f0300125_14324719.jpgまた正信がお腹にいる時に離別したとも、後に定右衛門が亡くなったので離縁したとも伝えられている。
 次の結婚は、石川光元・龍野城主(豊臣秀吉家来)の側室として光忠(文禄3年・・1594)を生む。しかし光元の正室(浅井井頼の娘)の嫉妬によりお亀の方は程なく実家へ帰された。

※浅井井頼・・・浅井長政の家臣の浅井井規の子とも長政の次男、三男とも、との説もあるが浅井氏庶家の出。
その後お亀の方は奥務めに入り、徳川家康に見初められ、家康の側室となる。文禄3年〈1594〉18歳の時であった。

☘ 逸話

 亀女が家康の側室になった時の逸話が地元には伝わっている。
亀女が正信を木陰で行水をさせていたところ、誰か人の近づく気配があったので、子どもを水の入ったタライごと抱えて運んで行ってしまった。
殿様行列の前を子どもが横切ろうとしたので、驚いた彼女は子どもを軽々と抱きかかえて連れ戻し,事なきを得た。
 この亀女の怪力を目の当たりにした家康は,元気な子どもを産んでくれるのは、こういう女性だと考えた。
 逸話はともかくとして、彼女は美人で、ふくよかで聡明な女性であったと伝わっている。

☘ 家康とお亀の方との子ども

 家康とお亀の方の間に文禄4年(1595〉3月13日、仙千代を出産(家康の八男)。家康の重臣平岩親吉には嗣子が無かったため家康は仙千代を平岩親吉の養嗣子として与えた。しかし仙千代は慶長5年〈1600〉2月7日に6歳で早世した。
 その後、生まれ変わりのように家康の九男・五郎太丸(徳川義直)が慶長5年〈1600〉11月28日に伏見区大亀谷の清涼院で生まれた。f0300125_14562885.jpg今でもこの辺りの町名を五郎太丸町という。辞典類には概ね義直は大坂城西の丸で生まれたと書かかれているが、家康は身重のお亀の方をわざわざ風雲厳しい大坂城に残して江戸へ帰国するのだろうか?石田三成は武将の奥方を人質に取ったと言われた大坂城である。細川忠興の妻ガラシャは人質になるのを拒み家に火を放って死んだ話も残されている。家康が関ケ原の戦いに勝って大坂城に入城したとしても大きなお腹のお亀の方を大阪城に連れてくるのか?考えにくいことである。

☘ 徳川義直の兄弟

 次に義直の兄たちの話に移ってみよう。
 竹腰正信は良く知られているが、石川光忠のことを私は全く知らなかった。
 石川光忠は文禄3年〈1594〉豊臣秀吉の家臣で播磨国龍野城主石川光元とお亀の方の間に生まれた。父の光元は慶長5年関ケ原の戦いで西軍に属し改易され領地を失ったが、藤堂高虎のとりなしにより助命された。翌年の慶長6年〈1601〉6月19日没。子供の光忠〈1694生まれ〉は母が家康の側室だった関係で慶長13年〈1608〉に召し出され、慶長15年〈1610〉美濃国と摂津国に合計13000石の知行を受ける。慶長17年〈1612〉家康の命で尾張藩主徳川義直の城代家老で御付家老になる。
 後に石川家は4代目の正章から石河(いしこ)に改姓している。系図を見ると竹腰家と石川家〈石河家〉は婚姻関係を何度か結んでいるのに対し兄の志水家では見当たらない。
 因みに竹腰家は今尾30000石の御付家老。石河家も美濃駒塚10000石の御付家老である
志水家は大高城10000石の城代家老である。
御付家老・・・徳川幕府初期、将軍家血筋が藩主になった際に将軍家より直接命を受け付属させた家老。将軍家から徳川御三家に遣わした御付家老は幕府と藩の双方から家禄を受けていた。
城代家老・・・城主の留守中代理として城を管理する。


☘ 近辺裏話
 
 私が住まいをしている近辺の一寸不思議な話を紹介してみよう。
 近所には7軒の〇〇家あり、毎月8日の夜には〇〇家の家長が集まって志水亀女の守り本尊とされている薬師如来像を中心に日光菩薩,月光菩薩その両端に12神将に燈明を上げてお祀りをしておられる。本尊の薬師如来像は松花堂美術館で平成23年10月19日から12月4日に開催された「昭乗と徳川家ゆかりの人々」の展覧会に相応院「お亀の方の念持仏」として出展されていた。
 f0300125_158944.jpg桃山時代末期、〇〇家の親族といわれる志水家の娘・亀女が家康の側室に上がるとき、守り本尊を地元の〇〇家に置き、祀ってほしいとの要望で〇〇の本家を中心に分家を合わせ計7家で祀っているという。江戸時代から延々と今日に至っている不思議な「一族」である。
 江戸時代、この7〇〇家は20町歩(200反)の土地を安堵されていたという。石高に換算すると正法寺が500石で40町歩ということだから20町歩は250石の石高を示している。        る。
 明治になり政府の通達で20町歩(200反)の田地を7軒に分割され各々が所有したそうである。しかし戦後の農地解放により、農業をしている〇〇家には田地が残り、非農家は没収された。〇〇家のある関係者は「ただ同然でとられてしまった」と嘆いていたと聞く。
 亀女は「この薬師如来像を私だと思って祀ってほしい」と頼んで家康の元に上がったという言い伝えを守り、〇〇家代々の人たちは、心のよりどころとして祀ってきたそうである。そんなこともあって〇〇家の人たち中には亀女の本当の出自は〇〇家ではないだろうか?と、家康に見初められ側室に上がるときに志水家の養女になったのではないだろうか?と疑問を持った人たちがいる。しかし確固たる証拠もなく憶測として口から口へと半信半疑で伝わってきたようだ。
 この話はある故人になられた〇〇家の人から聞いた話で、その話に大変興味を持ち、ず~っと前から〇〇家の他の人たちから聞き合わせ、時には8日の夜お邪魔して調べて温めてきたものである。
 お亀の方は出生も二通りあり、彼女の母の出自も二通りあり、謎が謎を呼ぶミスティリアスなお亀の方ではあるが、400年間ひっそりと守って来られた〇〇家に対して掲載することに抵抗をお持ちの方もいらっしゃる様でご迷惑をかけるとしたら心からお詫び申し上げます。

参考資料
正法寺所蔵「志水家系」
正法寺の名宝展 (於・松花堂美術館) 随感 お亀の方 あとがきにかえて 元松花堂美術館学芸員・関河礼子
石清水八幡宮祠官家資料
京都残照(一)
ウイキペディア・・名古屋市史。尾張藩諸家系譜

# by y-rekitan | 2018-11-30 09:00 | Comments(0)

◆会報第88号より-05 三宅碑


「大西坊跡」碑の発見と「西遊寺」の三宅碑

谷村 勉(会員)


 最近、道標や石碑の話題に事欠かない。八幡の道が「八幡宮参詣道」として利用、発展して来たことを物語る江戸時代の「八まん道」や「八幡宮道」などと彫られた道標が近隣自治体を含めて実は100基以上確認されている。本会から出版された『増補版「石清水八まん宮道」に誘う道標群』にも97基が紹介されている。これほどの数の「八幡道標」の存在は、多くの人々が八幡を目指して「八幡宮道」を行き交った記録であり、一つ一つの道標が実に得難い我々の歴史遺産といえる。道標巡りのファンからは色んな情報を頂くようになった。“掛け替えのない江戸時代の道標を探し当てて感動した”という便りも届いた。

「太西坊跡」の三宅碑発見

f0300125_2147878.jpg 熱心な道標マニアから「大西坊跡」の三宅碑がある! との連絡を貰い、現地に走って捜し回ると、ついに藪に寝ている三宅碑を発見した。
 正面「大西坊跡、右隣萩坊跡 左隣護国寺跡」、裏面「昭和二年九月 京都三宅安兵衛依遺志建之」とあった。『昭和3年八幡史蹟名勝誌』項目一覧(会報第79号/中村武生)に「13大西坊跡」と掲載される、知る人ぞ知る三宅碑である。
 この三宅碑には「右隣萩坊跡、左隣護国寺跡」と書かれていることから「護国寺跡」の東側にある「太西坊高灯籠(明和九年・1772建立)」の下り階段側の電柱付近に建っていたと推定される。しかし実際の「太西坊跡」の場所はこの「太西坊高灯籠」の横から、今は誰も歩くことはない「護国寺跡」北側の坂道を登りきって、東参道鳥居を抜けて展望台のそばから入った本殿北面の麓にある。(下記地図参照)
f0300125_2121977.jpg

橋本「西遊寺」の三宅碑

 橋本「西遊寺」の正面玄関左側に横長の「是山崎名勝古蹟至」の石碑がある。この石碑が「三宅碑の道標」であることを知る人は意外に少ない。三宅碑と言えば大抵四角い縦長の石碑を思い出すが、この道標は横長であることと、後ろの壁との間に余裕がない為、三宅碑とは気づかれないようだ。
f0300125_21562395.jpg
 裏面に「昭和三年一月 京都三宅安兵衛遺志建之」とある。昭和3年当時、橋本から山崎へ舟で渡り、離宮八幡宮や妙喜庵、水無瀬宮などの古蹟に至る距離を示している。
                   
# by y-rekitan | 2018-11-30 08:00 | Comments(0)

◆会報第88号より-06 狩尾神社

狩尾とがのお 神社のお祭り

野間口 秀國(会員)


狩尾神社のその日の様子

 祭りの当日、2018年10月25日はTVの天気予報でも「日本全国殆ど晴れマーク」の晴天に恵まれました。その日の午前中、男山の西端に位置する橋本狩尾にある狩尾神社で地元の人達や関係者が集まり例祭が催されました。今年は大阪北部地震が発生し、震源からそう遠くないこの橋本地区もかなりの揺れが発生しました。そして秋には立て続けに近畿地方を襲った台風、21・24・25号によって神社の杜でも一部の樹木が倒れたり枝が折れたりと、他の多くの神社仏閣でも見られたように被害から逃れることは出来なかったようです。そんな自然の猛威にも長年耐えてきた、決して大きいとは言えない社殿もひと頃に比べると傷みが目を見張るばかりです。

 社殿の建つ場所は小さな山の頂上部分にあたり、そこからは淀川を挟んで天王山などが展望できます。社殿へと登る階段のある場所には大きな石の鳥居が建っており、その右側の柱には奉納者のお名前が、左側の柱には「紀元二千六百年建之」と刻まれています。また、この鳥居は以前この地より少し離れた、かつての京街道から石清水八幡宮への参詣道を少し入ったところに建っていたものが、昭和40年代以降の住宅地開発によって現在の地に移されたようです。鳥居の前(正確には下)に立つと、目の前にかなり急な傾斜の石段が、まるで登ることを阻む壁のように迎えてくれます。この階段を休みなく33段登ると踊り場にたどり着きます。少し息を整えて引き続き後半の33段を登ると頂上部に到達し、そこが神社の入り口です。振り向くと少し怖いほどの急な階段であることが登ってみると実感できますが、神社へは南東側に階段ではない坂道がありますのでそちらから登られることがお勧めです。社殿に続く短い参道の左右には二対の石燈篭がありますが、この秋のいずれかの台風のせいでしょうか、灯籠の最上部を失ったり、また上部の三分の一が落下していたり、破損したものがあったりと、台風の被害の様子がここでも確認できます。

湯立神事は祭りの見もの

 さて社殿に目を向けると、奥の神殿との間には東屋風の舞台があります。その舞台の近くに直径五六十センチほどの釜がしつらえてあり、お湯が沸かされて白い湯気がたっているのが分かります。舞台には、神殿に向かって左右2組の神饌が準備されており、それらは季節の果物や野菜、お神酒徳利、昆布、米などなどです。進行役のご発声にて祭りが始まり、全員低頭してお祓いが行われ、引き続き神饌が奉献されました。神職さんたちによって、準備された2組の神饌が手渡しで次々と神殿に運ばれ、引き続き祭主の祝詞が奏上され、巫女による神楽が奉納されました。
 祭りの見ものである湯立神事がこの後に続きます。氏子さんと思われる男性が、八幡宮から切り出された竹から、笹の付いた枝を三四十センチほどの長さに切りそろえて束にされたものが釜の近くの台に置かれました。最初に巫女が鈴と御幣をかざして湯の沸いた釜の前で舞を舞います。舞が終わると釜の湯を櫂で混ぜ、塩を掴んで撒き、四方にかざしたのち塩を釜に入れます。続いて米を撒き、米を四方にかざして釜に入れます。同様にお酒を撒いて釜に入れます。これらの物を釜に入れた後、今度はお湯を手桶にくみ取って舞台上の神官に渡し、神官は受け取ったお湯を神殿に奉納します。f0300125_911885.jpgこの後、巫女は既に準備された笹の束を沸き立つ釜にしたし四方にかざします。お湯で濡れた笹を、巫女は左右に振り回すように祭りに集う関係者や地元住人の皆さんにお湯を数回にわたって撒きかけます。最後に巫女は鈴と御幣で皆さんをお祓いします。この後、祭主が玉串を奉納し拝礼、続いて宮総代会長、町内会などの各代表が拝礼されます。最後に神棚が整えられ、祭主が一拝して祭りは終わりとなります。

狩尾神社に関わることなど

 ところで、橋本地区には「橋本塩釜」という町名があります。この町名の由来は、先に書きました巫女が笹の葉で参集者に湯を振りかける神事にちなんでおり、その湯が塩釜あたりまで飛び散ったことから「塩釜」という伝承となったと言われております。「そうなのか」と素直に思う一方、「そこまでは届かないだろう」とも思える内容ではあります。
 ちなみに神社から塩釜までは直線距離でも800m近くはあろうかと思われるからです(*1)。塩釜にある「塩釜」バス停近くの駐車場の一角には「鹽竈」と刻された石柱が建っており、隣には「塩竈古跡」と刻まれた三宅碑を見ることができます。f0300125_973169.jpgこのシオガマの地名について、長濵尚次は『男山考古録』第十二巻で「鹽(しお)ゴリバの言転訛して、鹽ガマと称せしならむ、又當山に鹽を焼たる事有へくもあらす、又古代山崎津迄潮さしのほるという説も信しかたし」と、彼自身は信じがたいことと述べております。また尚次は同書で「安居神事、其年の祭主の地より最西に當る所にて鹽をかかりて。其式を行ふ」とも述べて、ここで「鹽垢離」がなされていたと述べております。(*2)
 そして、今一つ狩尾神社に関わる近年のできごとがあります。それは、この神社がNHK BSの番組で取り上げられて一時的とは言え全国に知られたと思えることです(放送日は2013年5月14日でした)(*3)。番組は視聴者よりの「心に残る場所」の便りをもとに、筆者と同年生まれの俳優、火野正平さんと彼のチームが自転車でその地を訪れる「にっぽん縦断こころ旅」です。橋本地区にお住まいのご婦人の要望がまさにこの狩尾神社であり、枚方大橋傍の公園から自転車を走らせて橋本へ。京阪電車橋本駅近くの急坂を(ここでは自転車を降り、押して)上り、神社へと向かいました。神社は山の頂上にありますが、これは住宅開発によって神社の周囲が円錐状に近い形で削り取られた結果なのです。見た目にはプリンを容器から取り出して皿に置いたような形となっており、誰が名付けたのかは定かではありませんが地元の人達には「プリン山」と呼ばれています。しかし、この名前には、形だけでは無く、開発によってこのような形になってしまったことに対する非難の意味も少なからず込められているようです。近くで見るとなぜかそう見えるのですから面白い名前がついたものだとは思いますが・・。
 祭りの最後に祭主は挨拶にて、「この狩尾神社は石清水八幡宮の本殿建立よりもっと昔に、当時の天皇がこの地を訪れて狩りをされた時にこの神社に参られた古い歴史を有する神社であること、狩尾神社がこの地の鎮守の神、産土の神、であると共に地政学的にも重要な位置である」ことなどを話されました。祭りを見学して地元に住む者として狩尾神社への愛着を深めると共に学びの一日となりました。
(2018.10.28)

参考文献等;
(*1)『都市地図 八幡市久御山町』 昭文社刊
(*2)『石清水八幡宮叢書一 男山考古録 巻第十二』 石清水八幡宮刊
(*3)NHKふれあいセンター(放送)「にっぽん縦断 こころ旅」担当に確認

# by y-rekitan | 2018-11-30 07:00 | Comments(0)