◆八幡の歴史を探究する会

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 本会では、2010年より京都府八幡の歴史についての探究と共有を目指して、講演会や歴探ウォークの開催、会報の発行等の活動を積極的に続けています。

冊子:“『石清水八まん宮道』に誘う道標群”を、再度増刷し販売中です! ⇒


 7/1 アクセスtop3を更新、 6/21 新掲示板に投稿が1件、6/15 新しい集いの案内が1件 、5/28 新しい会報記事が4件、 追加されています。

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お急ぎの方は 最新の 《会報記事集いの案内》 に直行 できます。
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本会では定期的に会報を発行し現在 85号 を数えていますが、このサイトには
そこから 398件 の記事を掲載しております。

f0300125_2244203.jpgf0300125_22451246.jpg"6月度の記事別アクセス数 TOP3"
第71号:中世都市 八幡
第64号:光格天皇と大江磐代君とその母
第71号:流れ橋の復旧に向けて
6月度の人気タグ top3⇒  石碑と由来  東高野街道  石清水八幡宮

“アクセスtop3” コーナーについての 《解説とご案内》をこちらに 入れております。

なお個々の記事には以下の四つのルートから簡便にアクセスして頂けます。f0300125_20584995.jpgf0300125_20591768.jpgf0300125_20594243.jpgf0300125_210420.jpg

5/28 以下の朱書き部の連載や個別記事を追加掲載しました。
(前回更新日は 3/26)

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会報号番をクリックして頂くと、後はスクロールのみでその号の記事を一気にお読みいただけます。
なお朱書きが追加された号を示しております。

ブログ管理会社のシステム変更の影響で、現在以下をクリックすると、各号報のトップではなく記事一覧が出ます。お手数ですが その一覧ではクリックせず、そのまま下にスクロールしてご参照ください。
(各号のトップやエンドから前後の号報に移る場合も同じです)

《お知らせ》 第73号より会報は奇数月の隔月発行となっています。

2018年05月 第85号
2018年03月 第84号     2018年01月 第83号
2017年11月 第82号     2017年09月 第81号
2017年07月 第80号     2017年05月 第79号
2017年03月 第78号     2017年01月 第77号
2016年11月 第76号     2016年09月 第75号
2016年07月 第74号     2016年05月 第73号
2016年03月 第72号     2016年02月 第71号

2016年01月 第70号     2015年12月 第69号
2015年11月 第68号     2015年10月 第67号
2015年09月 第66号     2015年08月 第65号
2015年07月 第64号     2015年06月 第63号
2015年05月 第62号     2015年04月 第61号

2015年03月 第60号     2015年02月 第59号
2015年01月 第58号     2014年12月 第57号
2014年11月 第56号     2014年10月 第55号
2014年09月 第54号     2014年08月 第53号
2014年07月 第52号     2014年06月 第51号

2014年05月 第50号     2014年04月 第49号
2014年03月 第48号     2014年02月 第47号
2014年01月 第46号     2013年12月 第45号
2013年11月 第44号     2013年10月 第43号
2013年09月 第42号     2013年08月 第41号

2013年07月 第40号     2013年06月 第39号
2013年05月 第38号     2013年04月 第37号
2013年03月 第36号     2013年02月 第35号
2013年01月 第34号     2012年12月 第33号
2012年11月 第32号     2012年10月 第31号

2012年09月 第30号     2012年08月 第29号
2012年07月 第28号     2012年06月 第27号
2012年05月 第26号     2012年04月 第25号
2012年03月 第24号     2012年02月 第23号
2012年01月 第22号     2011年12月 第21号

2011年11月 第20号     2011年10月 第19号
2011年09月 第18号     2011年08月 第17号
2011年07月 第16号     2011年06月 第15号
2011年05月 第14号     2011年04月 第13号
2011年03月 第12号     2011年02月 第11号

2011年01月 第10号     2010年12月 第09号
2010年11月 第08号     2010年10月 第07号
2010年09月 第06号     2010年08月 第05号
2010年07月 第04号     2010年06月 第03号
2010年05月 第02号     2010年04月 第01号

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連載企画の記事はこちらから直接初回記事に入り、以降は文末でクリックすることで
連続参照して頂けます。 今回の号では朱書きの連載記事が追加 されています。


《連載》 “四條隆資卿物語” (第79号~第83号)
《連載》 “八幡の古墳と鏡” (第77号~継続中
《連載》 “八幡に見る古代植物” (第74号~第77号)
《連載》 “詩歌に彩られた八幡の歴史” (第73号~第77号)
《連載》 “宮廷と歌合、そして石清水宮寺” (第71号~第72号)
《連載》 “心に引き継ぐ風景” (第70号~継続中
《連載》 “五輪塔あれこれ” (第70号~第79号)
《連載》 “『三宅安兵衛遺志』碑と八幡の歴史創出” (第70号~継続中)
《連載》 “八幡の道を「高野街道」となぜ呼ぶのか?” (第67号~71号
《連載》 “松花堂昭乗が詠んだ八幡の町"  (第63号~第68号)
《連載》 “川の旅日記"  (第62号~第64号)
《連載》 “八 幡 八 景”  (第58号~第60号)
《連載》 “『歴史たんけん八幡』の発行"  (第56号~第68号)
《連載》 “御園神社考”  (第55号~第58号)
《連載》 “古代の声を聞く ”  (第53号~第54号)
《連載》 “自転車で巡る名所案内 ”  (第52号~第56号)
《連載》 “ 物語はどのように生まれたか ”  (第51号~第56号)
《連載》 “ 石清水八幡宮の歴史Q&A ”  (第50号~第57号)
《連載》 “ 伊佐家のしきたりとくらし ”  (第48号~第51号)
《連載》 “ 謡曲のふるさと八幡 ”  (第41号~第43号)
《連載》 “ 大谷川散策余話 ”  (第38号~第50号)
《連載》 “ 御文庫とエジソン碑 ”  (第36号~第45号)
《連載》 “ 墓石をたどる ”  (第33号~継続中)
《連載》 “ 八幡の歴史スポット ”  (第30号~第32号)
《連載》 “わが心の風景 ” (第28号~第69号)
《連載》 “八幡太鼓祭り ”  (第28号~第29号)
《連載》 “八幡に残る昔話と伝承 ”  (第26号~第30号)
《連載》 “ 八幡文学碑巡り ”  (第22号~第26号)
《連載》 “八幡神と神仏習合 ”  (第21号~第25号)
《連載》 “ 一枚の写真から ”  (第16号~第19号)
《連載》 “ 八幡の歴史の謎とは何か”  (第15号~第16号)
《連載》 “古歌に詠まれた南城山”  (第11号~第15号)
《連載》 “八幡の祭りについて”  (第5号~第17号)
《連載》 “八幡の歴史を彩る文化”  (第4号~第9号)
・・・
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現在掲載しているスポット記事は以下の通りです。クリックで直接お読み頂けます。

“八幡の歴史を学ぶ連続学習会」2017年 " (第85号)
“八幡市誌の高野街道 " (第84号)
“台場跡講座から学んだこと " (第84号)
“石清水八幡宮と松本神社の絵馬 " (第83号)
“勅祭・石清水祭に学ぶ " (第82号)
“第45回八幡市民文化祭展示発表報告 " (第82号)
“高良神社の太鼓祭りを楽しむ " (第81号)
“「石清水八まん宮道」に悠久の歴史がある " (第81号)
“「『石清水八まん宮』に誘う道標群」の発刊にむけて " (第81号)
“八幡の京街道は川底に沈んだ " (第80号)
“消えた踏切道に思う " (第80号)
“今年白寿を迎えました " (第80号)
“『太平記』 八幡合戦の石碑を訪ねる " (第79号)
“「八幡の歴史を学ぶ連続学習会」2016年 " (第79号)
“石清水八幡宮を指し示す「八幡宮道」の道標の数々 " (第78号)
“大阪府下の東高野街道に「やわた道」の道標を訪ねて" (第77号)
“歴探サイト(ホームページ)の現況報告" (第77号)
“第44回八幡市民文化祭展示発表を終えて" (第76号)
“御幸橋南詰「石清水八幡宮鳥居通」道標は何処に?" (第75号)
“『茶揉み歌』を復活"  (第73号)
“「八幡大縁起」に参加して"  (第71号)
“上津屋橋(流れ橋)の復旧に向けて"  (第71号)
“新刊案内「戦国大名の正体"  (第70号)
“本妙寺文書「沢庵の書状」と紫衣事件"  (第69号)
“「古寺巡礼」で出会った仏さま"  (第69号)
“八幡の文化財(国宝指定)"  (第69号)
“国宝指定の答申に思う"  (第69号)
“京の街角の「湯たく山茶くれん寺"  (第69号)
“旅人は何故片手を挙げているのか"  (第67号)
“「八幡の道 探究部会」が発足しました"  (第67号)
“石清水八幡宮が国宝に!"  (第67号)
“第119代光格天皇と大江磐代君とその母"  (第64号)
“クイズ「私は誰でしょう」"  (第62号)
“西国三十三所観音石仏群の墓所"  (第61号)
“陸橋の名前"  (第61号)

これより古い号の個別記事インデックスはこちらに

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◆八幡のおすすめキーワードで関連記事を◆
この画面の右上の “タグ” 欄のおすすめキーワードをクリックして頂くと、ブログ内の
関連記事をまとめてご参照頂けます。
最初に記事一覧が出ますが、そこではクリックせずスクロールでお読みください。
なおタグ記事閲覧後に元に戻る場合は、一旦上端までスクロールし画面左上隅の
“Y-rekitan八幡”の文字をクリックしてください。

任意のキーワードで記事を検索
右上の “検索ボックス” に八幡に関わる任意のキーワードをセットして頂きますと、
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# by y-rekitan | 2018-12-31 20:00 | Comments(0)

◆コーナー・講演会の記録

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「八幡の歴史を探究する会」では、定期的に講演会や歴探ウォーキングの集いを実施していますが、このコーナーでは、その講演会のレポートを紹介しております。

 5/28 朱書きの記事を追加掲載しました。 現在の記事数は 61件です。 

下記の任意の記事をクリックして頂くと、それ以降は記事下端で“次のレポート”をクリックして頂くことで連続参照して頂けます。 

  《講演会録》 85号 2018年05月 久世郡上津屋村を探究する

  《講演会録》 84号 2018年02月 八幡の道の歴史―江戸時代の道標調査を終えて
  《講演会録》 82号 2017年10月 森本家文書からみた近世石清水の神人構成と身分
  《講演会録》 81号 2017年08月 石清水八幡宮の牛玉宝印
  《講演会録》 79号 2017年04月 三川合流の変遷と周辺都市
  《講演会録》 78号 2017年02月 謡曲から見た八幡
  《講演会録》 76号 2016年10月 八幡の古代遺跡と道
  《講演会録》 75号 2016年08月 石清水八幡宮の成立と機能
  《講演会録》 73号 2016年05月 石清水八幡宮の由緒と建築様式
  《講演会録》 71号 2016年02月 中世都市 八幡
  《講演会録》 70号 2016年01月 『三宅安兵衛遺志』碑と八幡の歴史創出

  《講演会録》 68号 2015年11月 継体大王の謎を追う
  《講演会録》 67号 2015年10月 弥生時代の八幡市とその周辺
  《講演会録》 66号 2015年09月 江戸時代の村の暮らし
  《講演会録》 63号 2015年06月 酒麹作りがビジネスの八幡神人がなぜ奉納詩歌に
  《講演会録》 62号 2015年05月 知っているようで知らない松花堂昭乗のこと
  《講演会録》 61号 2015年04月 幕末政治と攘夷―長州・京都・八幡
  《講演会録》 59号 2015年02月 二宮忠八と八幡
  《講演会録》 58号 2015年01月 史跡 松花堂庭園の成立
  《講演会録》 57号 2014年12月 中村家住宅の国登録有形文化財指定
  《講演会録》 56号 2014年11月 中世大山崎の商業活動について

  《講演会録》 55号 2014年10月 「安居頭諸事覚」を読む
  《講演会録》 54号 2014年09月 地誌に見る八幡
  《講演会録》 54号 2014年08月 神国論の系譜
  《講演会録》 51号 2014年06月 八幡を掘る
  《講演会録》 50号 2014年05月 門前町の八幡「今」「昔」
  《講演会録》 49号 2014年04月 石清水八幡宮の年中行事と庶民信仰
  《講演会録》 47号 2014年02月 松花堂昭乗の茶の湯
  《講演会録》 46号 2014年01月 歌人吉井勇の歌行脚
  《講演会録》 44号 2013年11月 八幡の歴史と土器
  《講演会録》 43号 2013年10月 八幡における浄土信仰

  《講演会録》 42号 2013年09月 江戸時代の村の暮らし
  《講演会録》 41号 2013年08月 武家政権と石清水八幡宮
  《講演会録》 39号 2013年06月 八幡社士総代「江戸尾張年頭御礼日記」
  《講演会録》 38号 2013年05月 天下人の時代と八幡
  《講演会録》 37号 2013年04月 南山城の地域史を学んで
  《講演会録》 35号 2013年02月 松花堂昭乗の江戸下向
  《講演会録》 34号 2013年01月 八幡・山崎の警備体制と鳥羽伏見
  《講演会録》 32号 2012年11月 松花堂昭乗と近世前期の文芸
  《例会報告》 30号 2012年09月 「八幡歴史カルタ」読み札の決定
  《講演会録》 29号 2012年08月 石清水際と神人の経済活動

  《講演会録》 28号 2012年07月 良いまちには良い川がある
  《講演会録》 27号 2012年06月 八幡の町の成り立ち
  《講演会録》 26号 2012年05月 庶民信仰と八幡大菩薩
  《講演会録》 25号 2012年04月 男山文化園の中心・八幡
  《講演会録》 23号 2012年02月 古代の八幡を探る
  《講演会録》 21号 2011年12月 高度経済成長期の八幡を語る
  《講演会録》 20号 2011年11月 八幡八景の成立とその背景
  《例会報告》 19号 2011年10月 八幡の歴史を次代に遺そう!
  《講演会録》 18号 2011年09月 墓地で探る八幡の歴史(1)
  《講演会録》 18号 2011年09月 墓地で探る八幡の歴史(2)

  《講演会録》 16号 2011年07月 地名で学ぶ八幡の歴史
  《講演会録》 14号 2011年05月 中世都市橋本を学ぶ
  《講演会録》 13号 2011年04月 八幡の古墳とその特徴を学ぶ!
  《講演会録》 12号 2011年03月 神仏習合の実像に迫る
  《講演会録》 11号 2011年02月 近代の門前町と参詣路を語り合う
  《講演会録》 10号 2011年01月 南北朝の争乱と八幡
  《講演会録》 08号 2010年11月 淀屋の歴史をたどる!
  《講演会録》 06号 2010年09月 石清水八幡宮の絵図を読み解く!
  《講演会録》 04号 2010年07月 松花堂昭乗の出自を追う!
  《講演会録》 02号 2010年05月 古代の遺跡から八幡の歴史を学ぶ

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# by y-rekitan | 2018-12-31 18:00 | Comments(0)

◆コーナー・歴探ウォークの記録

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「八幡の歴史を探究する会」では、定期的に講演会や歴探ウォーキングの集いを実施していますが、このコーナーでは、その歴探ウォークのレポートを紹介しております。

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 1/26 朱書き記事を追加掲載しました。 現在の記事数は 20件です。 

下記の任意の記事をクリックして頂くと、それ以降は記事下端で“次のレポート”をクリックして頂くことで連続参照して頂けます。

  《歴探散策》 83号 2017年12月 八幡の古寺巡礼 第5回
  《歴探散策》 80号 2017年06月 東山寺と伊弉諾神宮を訪ねて(バスツアー)
  《歴探散策》 77号 2016年12月 八幡の古寺巡礼 第4回
  《歴探散策》 74号 2016年06月 丹後を訪ねてのバスツアー報告
  《歴探散策》 72号 2016年03月 石清水八幡宮 山上伽藍の探訪
  《歴探散策》 69号 2015年12月 八幡の古寺巡礼 第3回
  《歴探散策》 64号 2015年07月 長岡宮を訪ねてのバスツアー報告
  《歴探散策》 60号 2015年03月 橋本の歴史(2)「平野山・西山を歩く」
  《歴探散策》 57号 2014年12月 八幡の古寺巡礼 第2回
  《歴探散策》 52号 2014年07月 対岸の町「山崎・大山崎」を訪ねる

  《歴探散策》 48号 2014年03月 橋本の歴史(1)「京街道を行く」
  《歴探散策》 45号 2013年12月 八幡の古寺巡礼(第1回)
  《歴探散策》 40号 2013年07月 二つの資料館をめぐる
  《歴探散策》 36号 2013年03月 春爛漫の歴史探訪ウォーク
  《歴探散策》 33号 2012年12月 男山参詣路を歩く
  《歴探散策》 31号 2012年10月 八幡の古建築の探訪
  《歴探散策》 25号 2012年04月 歴史探訪「男山参詣路を歩く」
  《歴探散策》 15号 2011年06月 東高野街道を歩く
  《歴探散策》 07号 2010年10月 上津屋の名所をめぐる
  《歴探散策》 03号 2010年06月 八幡の名所・旧跡を歩く

なお歴探ウォークの自転車版、サイクリングツアーについても概要を連載記事として掲載していますので、併せてご参照ください。
《連載記事》 “自転車で巡る名所案内 ”

# by y-rekitan | 2018-12-31 16:00 | Comments(1)

◆コーナー・新しい集いのご案内

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本会では八幡の歴史の探究と共有を目指して、講演会や歴探ウォーク等の集いを定期的に催しておりますが、このコーナーではそのスケジュール等を掲載しております。
併せて本会のトピックスや出版物等についても掲載しておりますのでご参照ください。

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ただ今、以下の集いやイベントを案内中です。詳しくはリンクのパンフレットをご参照のうえ、ご参加ください。 6/15更新


f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(2018年8月)
 

   ・概要  石清水八幡宮の牛王宝印印章(印影)について
   ・日時  2018年8月25日(土) 午後2時~4時
   ・場所  八幡市文化センター 3階 第3会議室



f0300125_1833548.jpg(2018年度)八幡の歴史を学ぶ連続学習会

   ・概要  2018年度 八幡の歴史を学ぶ連続学習会(隔月開催)
   ・日時  2018年 5月17日(木) 「八幡八景と直條」
《終了しました》 参加者は38名でした。 空白空白
        2018年 7月19日(木) 「江戸時代の村の暮らし」
        2018年 9月20日(木)  「二宮忠八と飛行神社」
        2018年11月15日(木) 「宿場町 橋本」
        2019年 1月17日(木) 「吉井勇と八幡」
        2019年 3月14日(木)  「八幡の銅鐸」

         ※何れも午前10時~11時半
   ・場所  ふるさと学習館2階研修室



f0300125_1833548.jpg◆歴史探訪バスツアー

《終了しました》 参加者は36名でした。
   ・概要  歴史探訪バスツアー
   ・日時  2018年 6月14日(木) 午前7時50分~午後5時頃
   ・場所 《訪問先》バスで北近江方面に向かいます
         近江弧蓬庵⇒五先賢の館(昼食:仕出し弁当)⇒渡岸寺
        ー詳細はバスツアーのパンフレット参照ー

 

f0300125_1833548.jpg◆年次総会及び講演と交流の集い(4月)

《終了しました》 参加者は44名でした。
   ・概要  (八幡の歴史を探究する会) 年次総会
         (講演と交流の集い) 「久世郡上津屋村を探究する」
   ・日時  2018年 4月22日(日) 年次総会:午後1時~1時40分
                   講演と交流の集い:午後2時~4時
   ・場所  八幡市文化センター3階 第3会議室



f0300125_1833548.jpg◆会員研究発表(2018年2月)


《終了しました》 参加者は52名でした。
   ・概要  八幡の道の歴史
         -江戸時代の道標調査を終えてー
   ・日時  2018年2月22日(木) 午後1時30分~4時
   ・場所  八幡市文化センター3階 第3会議室



f0300125_1833548.jpg(2017年度)八幡の歴史を学ぶ連続学習会

   ・概要  2017年度 八幡の歴史を学ぶ連続学習会(隔月開催)
   ・日時  2017年 5月18日(木) 「八幡神と男山遷座」
《終了しました》 参加者は47名でした。 空白空白
        2017年 7月20日(木) 「元寇から南北朝の争乱まで」
《終了しました》 参加者は43 名でした。 空白空白
        2017年 9月21日(木)  「天下人と八幡」
《終了しました》 参加者は34 名でした。 空白空白
        2017年11月16日(木) 「鳥羽伏見の戦いと八幡・橋本」
《終了しました》 参加者は33 名でした。空白空白
        2018年 1月18日(木)「八幡東部の神社(川口天満宮、内神社)」
《終了しました》 参加者は36 名でした。空白空白
        2018年 3月15日(木) 「近代化の八幡と戦時下の八幡」
 
《終了しました》 参加者は30 名でした。空白空白
         ※何れも午前10時~11時半
   ・場所  ふるさと学習館2階研修室



f0300125_1833548.jpg◆歴史探訪ウォーク(2017年12月)

《終了しました》 参加者は39名でした。
   ・概要  八幡の古寺巡礼 ー第5回:男山南部の寺を巡るー
   ・日時  2017年12月7日(日) 午後1時10分~4時頃
   ・場所  松花堂庭園前の昭乗広場



f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(2017年10月)

《終了しました》 参加者は47名でした。
   ・概要  森本家文書からみた近世石清水の神人構成と身分
   ・日時  2017年10月15日(日) 午後1時30分~4時
   ・場所  八幡市文化センター3階 第3会議室



f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(2017年8月)
 
《終了しました》 参加者は40名でした。
   ・概要  石清水八幡宮の牛王宝印
   ・日時  2017年8月26日(土) 午後2時~4時
   ・場所  さくらであい館 イベント広場「淀」




f0300125_1833548.jpg◆歴史探訪バスツアー

《終了しました》 参加者は39名でした。

   ・概要  歴史探訪バスツアー
   ・日時  2017年 6月15日(木) 午前7時50分~午後6時頃
   ・場所 《訪問先》バスで淡路島に向かいます
         伊弉諾(いざなぎ)神社⇒(昼食:海鮮料理)⇒東山寺
        ー詳細はバスツアーのパンフレット参照ー



f0300125_1833548.jpg◆年次総会及び講演と交流の集い

《終了しました》 参加者は58名でした。
   ・概要 (八幡の歴史を探究する会) 年次総会
        (講演と交流の集い)   「淀川・三川合流の歴史とその周辺」  
   ・日時  2017年 4月23日(日) 年次総会:午後1時30分~2時10分
                   講演と交流の集い:午後2時30分~4時30分
   ・場所  さくらであい館(イベントホール)



f0300125_1833548.jpg◆八幡の歴史を学ぶ連続学習会>

《終了しました》
   ・概要  八幡の歴史を学ぶ連続学習会(隔月開催)
   ・日時  2016年 5月19日(木) 「大むかしの八幡」(29名参加)
        2016年 7月14日(木) 「町の成り立ちと神人の活躍」
                             (37名参加)
        2016年 9月15日(木)  「松花堂昭乗という人がいた」
                             (32名参加)
        2016年11月17日(木) 「淀屋と八幡」(34名参加)
        2017年 1月19日(木)  「河川と歩んだ八幡」(30名参加)
        2017年 3月16日(木) 「昭和から平成へ」(28名参加)     
        ※午前10時~11時半
   ・場所  ふるさと学習館2階研修室



f0300125_1833548.jpg◆会員研究発表

《終了しました》 参加者は40名でした。
   ・概要  謡曲から見た八幡
   ・日時  2017年 2月15日(水) 午後1時30分~
   ・場所  松花堂美術館 講習室



f0300125_1833548.jpg◆歴史探訪ウォーク

《終了しました》 参加者は46名でした。 
   ・概要  八幡の古寺巡礼
        ー第4回:男山山麓の寺を巡る(Partー3)ー
   ・日時  2016年 12月8日(木) 午後1時~4時頃
   ・場所  京阪八幡市駅→法園寺→正福寺→単伝寺



f0300125_1833548.jpg◆「八幡の道探究部会」の展示発表

《終了しました》2日間とも多くの来場者がありました。
   ・概要  「八幡の古道」展示発表(八幡市民文化祭)
   ・日時  2016年 10月29日(土) 午前10時~午後5時
        2016年 10月30日(日) 午前10時~午後4時
   ・場所  第44回八幡市民文化祭
         八幡市文化センター 3階エレベーターホール



f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(10月)

《終了しました》 参加者は33名でした。
   ・概要  八幡の古代遺跡と道
   ・日時  2016年 10月16日(日) 
   ・場所  八幡市文化センター第3会議室



f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(8月)

《終了しました》 参加者は42名でした。
   ・概要  石清水八幡宮の別宮の成立と機能
   ・日時  2016年8月27日(木) 午後2時~4時半
   ・場所  八幡市文化センター 第3会議室



f0300125_1833548.jpg◆歴史探訪バスツアー(6月)

《終了しました》 参加者は38名でした。 
  ・概要  丹後を訪ねて
  ・日時  2016年6月9日(木) 午前8時~午後6時頃
  ・場所  《訪問先》 丹後郷土資料館 ⇒ 籠神社 ⇒ ちりめん街道
       ―バスツアーの詳細はパンフレット参照―



f0300125_1833548.jpg◆年次総会及び講演と交流の集い(4月)

《終了しました》 参加者は38名でした。 
   ・概要 (八幡の歴史を探究する会)年次総会
       (講演と交流の集い)  「石清水八幡宮の由緒と建築様式」  
   ・日時 2016年4月21日(木)  年次総会:午後1時~1時40分 
                   講演と交流の集い:午後2時~4時
   ・場所 石清水八幡宮研修センター(男山山上)


f0300125_1833548.jpg◆講演と現地探訪の集い(3月)

《終了しました》 参加者は52名でした。 
    ・概要  石清水八幡宮 山上伽藍の探訪
    ・日時  2016年3月13日(日) 午後1時~4時頃
    ・場所  石清水八幡宮研修センター(講演)及び男山山上探訪


f0300125_1833548.jpg◆男山考古録を読むパートⅢ(第12回)

《終了しました》 参加者は23名でした。 
    ・概要  男山考古録」を読む パートⅢ第4回(通算:第12回)
    ・日時  2016年2月17日(水) 午前10時~11時30分
    ・場所  八幡市立生涯学習センター 会議室

f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(2月)

《終了しました》 参加者は58名でした。 
    ・概要  中世都市 八幡
    ・日時  2016年2月14日(日) 午後1時30分~4時
    ・場所  松花堂美術館 講習室


f0300125_1833548.jpg◆講演と交流の集い(1月)

《終了しました》 参加者は78名でした。 
    ・概要  「三宅安兵衛遺志」碑と八幡の歴史創出
    ・日時  2016年1月17日(日) 午後1時30分~4時
    ・場所  八幡市文化センター第3会議室




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# by y-rekitan | 2018-12-31 15:00 | Comments(0)

◆コーナー・トピックス & 出版活動

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◆2017年10月28日~29日 第45回八幡市民文化祭に出展
 八幡市民文化祭には例年通り出展会場は、八幡市文化センター3階ロビーでした。今年は専門部会「八幡の道探究部会」が2年間かけて現地に出向き調査した八幡市内(22基)及び市外(54基)の『江戸時代の八幡道標(みちしるべ)』をパネル5枚に掲示しました。
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 2日とも台風接近の影響による生憎の雨天のために屋外の展示は中止になり来場者も例年より少なかったですが、来場の皆さんは江戸時代に設置され今に残る八幡道標に興味をもたれてパネルに展示の道標写真や設置場所を地図で確認されていました。また、会場で販売した調査結果を纏めた『「石清水八まん宮道」に誘う道標群”ー江戸時代の八幡道標ー』の本は、予想より遙かに多くの方に購入していただきました。
 展示パネル前のテーブル上には、本と共に「八幡の歴史カルタ」や会報(2年間のバックナンバー)、例会や連続学習会のチラシ等も並べました。
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◆2016年10月29日~30日 第44回八幡市民文化祭に出展
 今年の文化際には、昨年10月発足した専門部会『八幡の道探究部会』の1年間の活動成果を展示発表しました。展示のテーマは「八幡の古道」で、①古地図(6枚)、②古道の作製地図(2枚ー写真6点)、③江戸時代の道標地図(2枚ー写真27点)などを展示しました。
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 展示会場の八幡市民文化センター3階ロビーには、2日間で約200人の大勢の方が訪れられ、展示物を見ていただきました。また、部会員の説明を熱心に聞いておられました。今回の展示発表は当初予想より皆様の古道や古い道標への関心は高くて、準備していた古道や道標地図及び道標リストは多くの方が求められてたので途中で増刷しました。中には関心のある道標を今から見に行くと仰る方も居られました。
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◆2016年6月12日 『八幡の歴史カルタ』の関連史跡めぐり
 「安居塚ブロック福祉委員会(ふれあいサロン)」の皆様が本会制作の『八幡の歴史カルタ』に詠まれている史跡巡りをされている様子が、八幡市社会福祉協議会の広報誌「やわたし社協だより」第108号(2016年6月1日発行)に紹介されました。
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 催しを主催された福祉委員会の安居塚ブロック長 中崎幸子様から「八幡の歴史カルタ等に紹介されている名所巡りを今年3月と5月実施しましましたが、皆様に好評なので11月にも計画しています」と伺いました。

◆2016年6月12日 カルタ資料館に『八幡の歴史カルタ』を寄贈
 この度、福岡県大牟田市立三池カルタ・歴史資料館から、当会制作の「八幡の歴史かるたカルタ」の寄贈依頼があり1セットを寄贈しました。f0300125_1521852.jpg この資料館は日本及び世界のカルタ(歌カルタ・いろはカルタ・トランプ・タロットなど)を専門に収集・展示・研究をする日本で唯一の資料館です。
(注記)
 日本のカルタは、ポルトガルからの影響を受け、16世紀末頃、筑後の三池地方で作り始められたと言われている。その関係で大牟田市が1991(平成3)年に日本で唯一のカルタ専門館を開館した。

2015年10月31日~11月1日第43回八幡市民文化祭に出展
 今年も八幡市文化センターでの市民文化祭に出展しました。「八幡の歴史クイズ」の実施と「歴史カルタ」及び「歴史たんけんマップ」を掲示しました。約100名の方が歴史クイズに挑戦されました。
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◆2015年9月27日 「歴史たんけん八幡」出版記念の集い
 松花堂庭園・美術館別館において実施された、第Ⅰ部記念講演、第Ⅱ部「出版記念」交流の集いは、堀口八幡市長をはじめ多くの方が参加されて盛況でした。
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 ◆2015年5月9日 八幡市生涯学習センター「わくわくドキドキ縁日」に出展。
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 ◆2015年04月18日 発足5周年記念で会の旗製作の記事が京都新聞に。
 ◆2015年02月13日 2月例会「二宮忠八と飛行神社」が京都新聞に掲載。 
 ◆2014年12月23日 「やましろのタカラフェステバル」(文化パルク城陽)に出展。
 ◆2014年11月1~2日 第42回八幡市民文化祭に出展
 ◆2014年08月15日 会報50号達成記念(バックナンバー増刷)が京都新聞に掲載。
 ◆2014年06月09日 KBS京都ラジオで本会活動紹介の放送がありました。
 ◆2014年06月01日 八幡山柴公民館フェスティバルで、歴探クイズの展示。
 ◆2014年05月28日 「歴史探訪サイクリング」が京都新聞で紹介されました。


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◆『石清水八まん宮道』に いざな道標みちしるべ
     ―江戸時代の八幡道標― を発刊しました

 好評につき、再度増刷し販売を継続中です! 

 専門部会「八幡の道探究部会」の立上げ後2年間で、の江戸時代の道標調査結果を取りまとめて予定通り2017年10月12日に冊子を発刊しました。

 本書は150年以上前の「江戸時代」に建立された八幡市内及び市外の「八幡道標」ともいうべき道標群を「昔と今を結ぶ掛替えのない歴史遺産として保護する」とともに「後世に引き継ぎたい」との強い願いから、76基の道標を会員が自分の足で調査した結果をまとめたものです。
 多くの方々に感心を持っていただくことが、道標の保護につながると確信しています。
 是非この冊子を片手に各地の江戸時代と現在を結ぶ八幡道標を訪ねられることを願って出版致しました。

出版冊子の概要
 A5版フルカラーで96ページです。また、掲載している地図は、現地で迷わないように道標設置の場所をピンポイントで示しています。本書は極力廉価で皆様にご提供できることを目指し、すべて本会で自家編集し、それをそのままネット印刷で本にしました。

主な内容
f0300125_21252046.jpg1.刊行にあたって
2.江戸時代の八まん宮道 エリ
  ア区分地図
3.「八幡道標」の紹介―以下の
  合計76基
  ・八幡市 :22基
  ・京都市内:8基
  ・長岡京市:1基
  ・大山崎町:1基
  ・高槻市 :3基
  ・茨木市 :1基
  ・枚方市 :26基
  ・交野市 :2基
  ・寝屋川市:2基
  ・四條畷市:3基
  ・大東市 :2基
  ・東大阪市:5基
4.八幡道標の調査を終えて
5.編集後記

本書の販売について
・販売価格 : 900円(会員価格)
・販売場所 : 本会の行事や催し物会場などで都度販売します。
       
・委託販売所: 松花堂ミュージアムショップ
        石清水八幡宮(本殿)授与所
        
・本会での販売について
   事務局  高田昌史 宛に連絡ください。
   電 話   090-2011-7503
   メール  takata@cd6.so-net.ne.jp
   または、お近くの本会の幹事までお願いします。

・郵送販売について
   販売価格+郵送料(180円)をいただきます。
   お支払方法は下記口座あての郵便振り込みを願いします。
    申し込み: 歴探事務局 takata@cd6.so-net.ne.jp
    支払振込: 郵便振込口座番号:00970-2-322353
         (加入者名:八幡の歴史を探究する会)
    ・お願い ー 振込前にご一報下さい、早くお送りできます。

この本の発行がニュースとして京都新聞に掲載されました。
 江戸時代の八幡道標をとりまとめた冊子の発刊を記念し、冊子で取り上げている全76基の道標位置をグーグル地図上に正確にプロットした専用のマップを作成しました。道標の位置や設置場所の様子を確認する補助ツールとして、冊子と共にご利用いただければ幸いです。
 グーグル“江戸時代の八幡道標”マップへ⇒
 道標マップの御利用法はこちらに⇒
  


◆歴史と文化の本、『歴史たんけん八幡』は好評のうちに完売。

2015.9.1 大人も子供もこの一冊で、八幡の歴史と文化がよくわかる本、『歴史たんけん八幡』が発刊されました。
 発行日の9月1日にはこの本を八幡市に贈る贈呈式が行われ、その後ミュージアムショップやイベント会場で販売を行ってまいりましたが、好評のうちに販売を完了しました。
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『歴史たんけん八幡』、発刊よもやま話

f0300125_0485928.png 本会ではこの本の一年半にわたる企画から編集、発刊に至る経緯や本の概要を、シリーズ記事として会報で紹介してまいりました。
以下にその記事をリストアップしていますのでご参照ください。
(写真は制作委員会の風景です)


発刊に向けて ▼『歴史たんけん八幡』の発行にむけて
 ▼本の紹介として「特別連続講座」を開設
 ▼本の紹介としての「特別連続講座②」を開催
 ▼いよいよ『歴史たんけん八幡』の発行が迫る

発刊に寄せて ▼刊行に寄せて・・・『歴史たんけん八幡』と私
 ▼『歴史たんけん八幡』が発行されました
 ▼八幡の歴史にこの本の刊行が刻み込まれた
 ▼出版記念の集いが開かれました!
 ▼『歴史たんけん八幡』の普及と活用 / 読書感想

                    


◆本会制作の 『八幡の歴史カルタ』 を販売中です。
2013年2月に発売した《初版》は好評のうちに完売しました。現在は装いを新たにした改訂版を販売中です。

発行:2013年5月25日
販売価格:1,000円
制作:八幡の歴史を探究する会
絵札:森川 修
ケース:石瀬謙三
句:歴探会員応募作より
句の解説:歴探会員有志 (読み札の裏はその句の歴史的な解説になっています)
       
販売所:松花堂ミュージアムショップ、
・歴探事務局 takata@cd6.so-net.ne.jp
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◆本会の会報のバックナンバーを販売しています。

f0300125_15224688.jpg  ご要望が多いこともあり、会報50号を発行した記念にバックナンバーを増刷し販売しております。
  • 各号とも1部100円です。
  • 体裁は白黒A4版で、各号ともおおむね10~20ページの構成となっております。(但し古い号では10ページ未満のものもあります)
  • ご希望の方は講演会等の例会の際にお買い求め下さい。
  • また非会員の方を含め郵送をご希望の方は、下記「歴探事務局」まで希望会報の号番号、送付先等の必要事項をメールでご連絡ください。会報を10号分(部)以上まとめて購入される方の郵送料は、当会で負担させて頂きます。

    なおお支払方法は下記口座あての郵便振り込みとさせていただきます。
       申し込み: 歴探事務局 takata@cd6.so-net.ne.jp
       支払振込: 郵便振込口座番号:00970-2-322353
              (加入者名:八幡の歴史を探究する会)
       

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# by y-rekitan | 2018-12-31 14:50 | Comments(0)

◆統合版・・・集いのパンフレット

新しい集いのご案内 パンフレット集


◆講演と交流の集い(8月)

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《終了》◆歴史探訪バスツアー

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◆(2018年度)八幡の歴史を学ぶ連続学習会

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《終了》◆年次総会及び講演と交流の集い(4月)

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《終了》◆会員研究発表(2月)

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《終了》◆歴史探訪ウォーク(12月)

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《終了》◆講演と交流の集い(10月)

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《終了》◆講演と交流の集い(8月)

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《終了》◆歴史探訪バスツアー

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《終了》◆(2017年度)八幡の歴史を学ぶ連続学習会

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《終了》◆年次総会及び講演と交流の集い

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《終了》◆会員研究発表

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《終了》◆歴史探訪ウォーク

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《終了》◆「八幡の道探究部会」展示発表

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《終了》◆講演と交流の集い(10月)

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《終了》◆講演と交流の集い(8月)

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《終了》◆歴史探訪バスツアー(6月)

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◆八幡の歴史を学ぶ連続学習会

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《終了》◆年次総会及び講演と交流の集い(4月)

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《終了》◆講演と現地探訪の集い(3月)

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《終了》◆男山考古録を読む会パートⅢ第4回

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《終了》◆講演と交流の集い(2月)

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《終了》◆講演と交流の集い(1月)

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《終了》 ◆男山考古録を読む会パートⅢ第3回(通算第11回)

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# by y-rekitan | 2018-12-31 14:00 | Comments(0)

◆コーナー・本会の概要と入会のご案内

f0300125_22184286.jpgf0300125_22281913.jpgf0300125_2219582.jpgf0300125_2202298.jpgf0300125_1739442.jpg
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このコーナーでは「八幡の歴史を探究する会」の概要紹介や、入会のご案内を掲載しております。
2015.09.10 本会の沿革コーナーに追記    2015.04.21 本会の会則を更新
f0300125_2038422.jpgf0300125_20384428.jpgf0300125_20395777.jpgf0300125_204039100.jpgf0300125_1334933.jpg
   

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 「八幡の歴史を探究する会」は2010年4月に 発足しました。
 八幡は、弥生時代の遺跡をはじめ、さまざまな古墳や、石清水八幡宮、善法律寺、正法寺、松花堂などすぐれた文化遺産に恵まれています。ところがその歴史的意義や文化的価値が必ずしも明らかにはされておらず、そこに暮らす私たち自身もその存在にすら気づいていないという現実があります。 

 そうした中で私たちは「八幡の歴史を探究する会」を設立し、①講演会、②現地見学会、③会員の研究発表、を事業の3本柱として各種イベントを開催するとともに、その活動内容を市民内外に広く知ってもらうために、「会報」を発行しております。
 私たちは関係団体や機関とも連携しながら、歴史探究の活動を通して市民の誰もが郷土の歴史と文化に誇りをもち、未来の町を築いていくことに貢献できればと願っております。
 「八幡の歴史を探究する会」 代表幹事 安立 俊夫空白

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 本会の概要や会則にご賛同いただき、ともに活動して頂ける会員を募っております。
  • 八幡市以外にお住まいの方も会員になれます。
  • 会員には、「会報」及び例会案内チラシ等を郵送いたします。
  • 会費:年会費は(4月~3月締めで)1,500円  
      10月以降入会は、1,000円、
  • お申し込みは下記の事務局までメールで、また会費の振込は下記の郵便振込みをご利用ください。
       申し込み: 歴探事務局 takata@cd6.so-net.ne.jp
       支払振込: 郵便振込口座番号:00970-2-322353 
             (加入者名:八幡の歴史を探究する会)
     

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 以下の会則(2改)は、2015年4月19日の総会にて承認された。

第1条 名称
本会は「八幡の歴史を探究する会」と称する。

第2条 目的
八幡の歴史を探究し、事業を通じて会員相互の交流を深めるとともに、地域文化の進展と次世代への継承に貢献する。

第3条 事業
1、講演会の開催
2、現地見学会の開催
3、会員の研究発表
4、会報を発行し,会員の情報交換・投稿の場とする。
5、その他第2条の目的を達成するための事業

第4条 会員
前条の趣旨に賛同する人々をもって構成する。

第5条 幹事及び幹事会
1、会員中より選任された幹事により幹事会を構成する。
2、幹事の任期は設けない。

第6条 代表幹事
幹事の中から互選により代表幹事、副代表幹事を選任する。

第7条 事務局長
1、幹事の中から互選により事務局長を選任する。
2、事務局長は幹事会を主宰する。

第8条 会議
この会の活発かつ円滑な運営を図るために、次の会議を開催する。
1、総会
   年1回開催し、会務・会計を報告するとともに必要
   事項を審議する。
2、幹事会
   必要に応じ開催し重要事項を審議する。

第9条 会費及び会計年度
1、会の運営のための年会費を徴収する。額については
  幹事会で決定する。   
2、会計年度は毎年4月1日より翌年3月31日までと
  する。 
3、会計監査は会員の中より選出し、総会にて会計監査
  報告を行う。

第10条 その他
本会則に定める以外の必要事項は幹事会で協議し、本会の必要な場合は細則を別に定める。

第11条 付則
この会則は2011年度(平成23年度)総会開催後から施行する。
   1改)2012年度(平成24年度)総会にて一部改訂。
   2改)2015年度(平成27年度)総会にて一部改訂。

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本会の沿革に代えて、ここに代表の折々の年次総括やイベント報告の記事を紹介させて頂きます。
        2015年09月 『歴史たんけん八幡』を発刊しました!
        2015年04月 2015年度の総会が開かれました
        2015年04月 発足からの5年を振り返る
        2015年03月 発足5年周年を記念し、会の旗が出来ました
        2014年06月 会報50号 発行の節目を迎え
        2014年01月 新年を迎え、5年目の節目を大切に
        2012年04月 発足以来 3年目の節目を迎えて
        2010年04月 なごやかに、探究する会が発足


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このサイトへの来訪者は先月(6月)末で54,830人でした。

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2018.01.30…お蔭様でこのサイトへの来訪者がのべ5万人を超えました。
2017.08.06…お蔭様でこのサイトへの来訪者がのべ4万人を超えました。
2017.01.10…お蔭様でこのサイトへの来訪者がのべ3万人を超えました。
2016.02.26…お蔭様でこのサイトへの来訪者がのべ2万人を超えました。
2015.06.10…お蔭様でこのサイトへの来訪者がのべ1万人を超えました。
2014.12.05…併設の歴探掲示板をリニューアルし、画像やリンクの投稿が容易になりました。
2014.11.05…開設一周年を迎え関連サイトリンクのコーナー新設、歴探掲示板へのリンク等の機能アップを実施しました。
2014.07.07…本会概要紹介やイベント案内等、本会の活動を総合的に紹介するサイトとしてリニューアルしました。
2013.11.01…本会の会報記事を紹介するブログとして発足しました。

《備考》 来訪者数は、携帯やスマートフォンを除きパソコンからの来訪のみをカウントしたものです。また同じ人が一日に何回訪れてもその日は1 回としてカウントする方式としています。

《改定》 2016.11.15よりアクセスカウントにモバイル端末からのアクセスも加えることになりました。これにより今後はカウント値が3割ほど大きくなる見込みです。

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f0300125_1548513.jpg この歴探サイトではH26年10月から「先月の記事別アクセスtop3」と称するコーナーを設け、会員の方だけでなく全国からの検索来訪を含めて1か月間のアクセスが多かった記事を紹介させて頂いております。

 おかげさまでこのサイトの掲載記事数は順調に増え続けておりますが、せっかくの熱のこもった会報記事も数が多くなり時間を経ると、昔の記事を改めて読み返す機会は少なくなるものと思われます。そこで月替わりのアクセスランキングに名を借りたこのコーナーを設け、クリックして頂くことで毎回3件のなつかしい力作記事を改めて味わっていただく機会になれば・・・ そんな思いでこのコーナーを設けておりますので、ぜひご利用ください。

《追記》 H29年1月より、アクセスtop3欄の下に“人気タグtop3”のコーナーを付設しました。毎月のアクセスが多かったタグ(キーワード)のtop3です。合わせてご利用ください。

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# by y-rekitan | 2018-12-31 13:00 | Comments(0)

八幡歴探 リンク集

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このコーナーは八幡の歴史にかかわる情報が網羅的に閲覧できるサイトや、本会に縁の深いサイトのリンク集です。


f0300125_12175720.jpg八幡市観光協会
“みどころ”コーナーの各スポットの写真と解説は圧巻です。

f0300125_21374037.jpg八幡市公式サイト/観光情報のコーナー
八幡の名勝の情報が満載。また、祭り等の動画も見られます。

f0300125_2543626.jpg枚方市公式サイト/文化財のコーナー
枚方の文化財や歴史に関する催しの情報が満載です。

f0300125_2244728.jpg城陽市教育委員会公式サイト/文化財のコーナー
市内にある国、府、市の史跡、文化財が網羅され、史跡マップも。

f0300125_246395.jpg久御山町公式サイト/文化財のコーナー
久御山町の文化財が写真、解説付きで閲覧できます。

f0300125_23464785.jpg宇治市公式サイト/文化財のコーナー
 世界遺産を含め市内にある国、府、市の史跡、文化財の一覧です。

f0300125_21385651.jpgサイト「八幡散策」の “八幡ぶらりゆく”
神社仏閣、伝説、道標等、広範囲に網羅されています。

f0300125_23474058.jpg松花堂庭園・美術館
松花堂昭乗のデータベース、催し物案内等が掲載されています。

f0300125_063725.jpg石清水八幡宮
860年に都の裏鬼門を守護する鎮護の神として創建されました。

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# by y-rekitan | 2018-12-31 12:00 | Comments(0)

◆スポット記事インデックス《続》

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60号以前の会報のスポット記事は以下の通りです。クリックで直接お読み頂けます。

“九州の横穴・近畿の横穴"  (第60号)
“二宮忠八掌話"  (第60号)
“会の旗が出来ました!"  (第60号)
“松井横穴群に学ぶ"  (第59号)
“平野山・西山はミステリー"  (第59号)
“ずいき祭り"  (第58号)
“小特集: わがまち 八幡"  (第57号)
“流れ橋存廃の意見表明"  (第56号)
“磯田道史氏の講演に学ぶ"  (第56号)
“代々つづく神原の講 =秋編="  (第55号)
“八幡森の石仏と地蔵盆"  (第54号)
“お気軽歴史講座に行きました"  (第54号)
“ひょっこり訪問記  木田醤油㈱社長”  (第53号)
“地誌には、どんなものがあるか?"  (第53号)
“松花堂庭園とその魅力"  (第52号)
“島崎藤村と八幡"  (第52号)
“神領墓地は何を語るか”  (第49号)
“水月庵 藪を抜ければ円福寺”  (第49号)
“変わりゆく橋本”  (第48号)
“芭蕉と遊女との巡合い”  (第48号)
“遊女 江口の君”  (第47号)
“八幡の浄土宗寺院にみる地蔵菩薩 ”  (第45号)
“ 三昧聖と八幡の墓地  ”  (第45号)
“ 五榜の掲示  ”  (第44号)
“個人所有重文民家の課題について ”  (第43号)
“重文「伊佐家住宅」について ”  (第43号)
“ 昭乗の下馬碑を探る ”  (第42号)
“ 京大博物館にある八幡の遺跡・遺物 ”  (第40号)
“ヌートリア考、そして「郷土囗史物語」”  (第37号)
“ 狛 犬 考 ”  (第37号)
“ 探訪会のしおりを作成して ”  (第36号)
“歴史探訪ウォーク参加記”  (第36号)
“代々続く神原の「講」”  (第36号)
“「八幡の歴史カルタ」に驚く”  (第36号)
“女坂・荒坂横穴古墳群から学んだこと”  (第35号)
“魅力的な八幡東部の集落と神社”  (第34号)
“ 二宮忠八翁と飛行神社 ”  (第31号)
“ 石清水臨時祭と平清盛 ”  (第31号)
“「八幡椿は」何処に”  (第24号)
“陣屋と鳥羽伏見の戦い”  (第22号)
“八幡八景解説奮戦記”  (第20号)
“色恋に愛づる花心ー謡曲「女郎花」”  (第20号)
“俄神人ニ成候”  (第18号)
“八角院地蔵尊の碑文を読む”  (第15号)
“長宗我部盛親が潜んだ家”  (第15号)
“「やわたものしり博士」検定にチャレンジ!”  (第10号)
“木津川・宇治川沿いの屋並みを巡る”  (第9号)


ブログトップの《スポット記事一覧》に戻ります。

# by y-rekitan | 2018-12-31 08:00 | Comments(0)

◆会報第85号より-top <スクロールだけで全記事が読めます>

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
このまま下にスクロールして頂くと順次連続してご参照頂けます。

この号が最新号です。

◆シリーズ:“心に引き継ぐ風景” ⑯◆
◆《講演会》久世郡上津屋村を探究する◆
◆シリーズ:“八幡の古墳と鏡” ⑨◆
◆八幡の歴史を学ぶ連続学習会」2017年◆



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ご意見は各記事下端のcomments欄をクリックしてお寄せください。

# by y-rekitan | 2018-05-28 15:00 | Comments(0)

◆会報第85号より-01 石清水八幡宮碑

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心に引き継ぐ風景・・・⑯

西村芳次郎直筆の「石清水八幡宮碑」
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 八幡宮参拝を終えて東参道からケーブル乗り場へ歩き、展望台に差しかかると、参道鳥居や燈籠と共に『石清水八幡宮碑』が見える。
 知る人ぞ知る、西村芳次郎直筆の「三宅安兵衛遺志碑」で、裏面に「昭和三年十月 京都 依三宅安兵衛遺志建之 西村閑夢書之」の建設過程が銘記されている。「閑夢」とは西村芳次郎の号で、氏の墓石(円福寺・宝篋印塔)にも「閑夢塔」と刻まれている。西村芳次郎は「三宅安兵衛遺志碑」建立に多大な貢献を為し、当時の三井財閥本社三井合名会社顧問で近代数寄者の雄、益田孝(鈍翁)らと共に松花堂昭乗の顕彰や茶会を開くなど八幡の文化・気風を引継ぎ、泰勝寺の創建にも尽力した。
 三宅安兵衛の長男清治郎は写真に見える「参道鳥居」を建立している。一連の「安兵衛遺志碑建碑活動」を終えてから「永楽屋十代、細辻伊兵衛」らと共に建立、清治郎達の名前と「昭和十二年六月建之」の銘記を刻む。 
 八幡市駅近くピンコロ石舗道の『御幸道』を石清水八幡宮一の鳥居に至ると、「石清水八幡宮」の大石碑が目に入る。三宅安兵衛本人が生前に建立した大石碑で、西陣織物業の内藤小四郎らと共に「大正七戌午(1918)年一月建之」とある。
 悠久の歴史に誘う「三宅碑」に安兵衛、清治郎、芳次郎三人の語り草あり。

(文と写真 谷村 勉)空白



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# by y-rekitan | 2018-05-28 12:00 | Comments(0)

◆会報第85号より-02 上津屋村

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《講演会》
久世郡上津屋村を探究する

2018年4月 
八幡市文化センターにて

田中 淳一郎(京都府立山城郷土資料館)

 
 4月22日(日)当会年次総会を開催し、終了後に「講演と交流の集い」が行われました。「京都府立山城郷土資料館」にお勤めの、田中淳一郎氏に表題のお話をしていただきました。講演は午後2時から、八幡市文化センターで行われ、参加者43名で、講演後の質議応答も多く大変に盛り上がりました。やはり地元の皆さんもお住いの歴史には興味がおありだなと感じました。
田中様のご自身のご講演メモを頂きましたので、以下に掲載させて頂きます。
          
はじめに

 前世紀の終わりころ、城陽市の仕事で城陽市内をあちこちまわっていると、気になることがあった。一つは水主(みずし)地区で、一つは東上津屋(こうづや)地区である。水主は、久世郡だったり綴喜郡だったり、江戸時代以降は綴喜郡で、明治の初めは、学校も田辺に通学していたそうだ。東上津屋は、八幡市の里・浜を本村とする上津屋村の一部であり、村全体が久世郡に属していた。なにか木津川の流れと、綴喜郡と久世郡との境界との間に関係がありそうな気がしてきた。
 水主については、水主と枇杷庄の間、両地区の墓地の中央を郡界が通ること、郡界附近で木津川が決壊することなどから、説明できると思われるが、今日は触れない。
 東上津屋については、川の東側を開発するためにできた出垣内集落であるかのような話しがされていた。が、私は違和感を覚えた。それは木津川のような大河を越えて、田畑の開墾に行くだろうか。大雨や増水、危険も多い。それよりも西側の平野部を拓いたほうがいい、と感じたからだ。
 また、上津屋が一貫して久世郡であるということは、もともと木津川が村の西を流れていたと考えるほうが自然ではないか、と思った。また、木津川と綴喜・久世両郡の郡界についても考えてみなければいけないと思うようになった。

1 久世郡と綴喜郡の郡界について

 久世郡と綴喜郡の郡界については、いまだにはっきりしていない。男山の頂上を通る東西の線が境界であったことは昔から言われているが、どのように伸びていくのかは不明である。種々の資料を探索して、少しずつ見えてきたものがある。f0300125_9222133.jpg
 その一つが条里制である。条里は郡単位で施行されたので、条里をたどると郡界もわかるということである。久世郡条里と綴喜郡条里を検討する。 
 たとえば石清水八幡宮の資料から、本宮は綴喜郡、若宮は久世郡であることがわかる。若宮は今の若宮でいいのか検討の余地があるが、本社は綴喜郡で動かない。
 科手は久世郡、八幡のなかにある家田や常磐も久世郡である。中学校の東にある春日部も久世郡であることがわかっている。
 また、『和名抄』の記載により、「那羅郷」、現在の下奈良・上奈良は久世郡などと決まっていく。かつての郡界は、男山山頂から真東に向い、ほぼ現在の大谷川、防賀川・蜻蛉尻川のライン。したがって、上奈良、下奈良、上津屋、岩田は旧久世郡になると想定される。内里(有智)は綴喜郡である。
 木津川と郡界の関係をみれば、郡界に沿って木津川が流れていた時代があったのではないか。と想定している。ただし、かなり階段状の境界なので、他の説もあるだろう。

2 上津屋・下津屋の位置

 上津屋、下津屋の位置を考えるときに、木津川は外せない。木津川を木津から船で下るときの、船着き場であった。京都に行くときは、鳥羽付近まで船で行くのが普通である。下津屋で下船するときは、西へ向かうときだ。石清水八幡宮やさらに西の有馬温泉とかに行く場合に、下津屋で下船していることが史料からわかっている。上津屋・下津屋あたりが木津川交通上の要所であったのだろう。
 また、八幡の正法寺文書には、室町時代、馬借が上津屋に乱入したということが書かれている。ちょうど山城国一揆が起きた年の文書である。土地を売買した証文が、馬借乱入により紛失したというのだから、土一揆が起きて、借金証文を持ち出したのだろう。上津屋あたりには、馬借と呼ばれる運輸業者や、一揆の対象となる高利貸とかも居たのだろう。上津屋・下津屋は木津川水運と陸路の接点、東西・南北交通の要衝だった。それは、江戸時代のものであるが、浜から木津川に出るところにある道標からうかがえる。宇治、奈良、枚方、八幡といった都市を結節する位置にあったのだ。木津川堤防が街道筋であったことも、この道標からわかる。

3 江戸時代の上津屋村の構造

 さて、今日の本題である江戸時代の上津屋村の構造を考える。
 領主は、幕府領と三条家、大炊御門家である。幕府領が里株と浜株に分かれているので、4領主株になる。株とは領主ごとのまとまりである。f0300125_1718658.jpg
 「方角」と称する里方(里村)、浜方(浜村)、東向(東方)の3つの集落がある。領主と方角との関係は、きれいに別れるわけではなく、それぞれの株にそれぞれの集落の家が含まれていた。また土地も浜方の耕地が川の東にも広くあるなど、きれいに整理されているわけではなかった。
 すこしわかりにくいが、江戸時代の村は、「村請け制」といって何事も村単位で行った。年貢も戸別に納めるのではなく、村でまとめて納めた。たとえばAさんが全部で10石の田畑を持っており、年貢が4割なら4石の米を村に納め、それを庄屋が各株ごとに仕分けして、集め直して納めたのだろう。庄屋の役割が大きかった。かえってわかりにくいかもしれないが、一端、村でまとめて、それぞれの領主に納めるということである。
 庄屋は各領主株ごとに置かれ、村全体に関わることは、諸事合議制で決めたようだ。しかし、里方、浜方からは庄屋が出たが、東向から選ばれることは少なかったようだ。おそらく、集落の成立事情を反映しているのだろう。

4 上津屋村の村落運営をめぐって

 では、具体的に村落運営の在り方をみていこう。
 上津屋には、村の休み日を定めた文書が残っている。一年を円で示したもので、年は循環するという考え方があったのであろうか。f0300125_16121639.jpgこれを見ると、冬場の農閑期を除いて、休日があった。「一、雨悦びの休み、その外の休みとも、三か村同時に致すべき事」(「村中永代用品書留帳」石田神社文書)とあるように、休みは各方角とも同時に取ることが決められていた。
 ところが、「去る午年(天保5年)より船一件にて四株何事に寄らず示談出来せず」と書かれた文書(「要用記」個人蔵)がある。これにより「休日も三か郷思ひ思ひに休日」にするようになった。
 では「船一件」とはどういう問題だったのか。次に渡し船の問題をみていこう。
 上津屋村は、両岸に集落があることから、耕作や寺社参詣など往来のために、渡し船1艘があった。維持費用は村民の頭割りで均等に負担していた。その渡し船の船頭は、浜方の者から3人から4人が選ばれ、細かな勤め方が定められていた。また、村から給米を貰う、あるいは乗客から船賃を貰う、という収入があった。
 天保2年(1831)になり、東向から、船頭のうち一人は東向から出したいと主張した。これは、東から西へ行きたいときの便宜のためという。
 しかし、認められなかったことから、天保5年になると東向の者が渡し船を奪い取り、勝手に運航するという事態になった。浜方もこれに対抗して、取り返すと騒ぎ立て、村中、人気(ひとけ)(殺気)立つ状況となったことから、間に代官所の役人が入り、事態は和談に向う。その中で明らかになってきた論点は、
 
船頭は困窮の者の助成のためのものであること。
里と浜の役人たちは、「古来仕来り通り」と主張すること。
浜方は東向の出銀を立て替えるとまで言って、事を納めようとする、あるいは船頭の権利を譲る気がないこと。
浜方は、東向と不和になれば農業耕作に影響がでると判断していること。
 
などであった。船頭職は、困窮百姓が没落していかないためのセーフティネットだった。領主の関心は百姓が成り立っていくことであり、百姓が減るのは領主の責任であった。将軍から預かっている「御百姓」という考え方があったとされる。
 残念ながら、この一件の結論はわからないのだが、村の構造の特殊性がもたらす課題があったことがうかがえる。船頭職には、船賃という現金収入が伴うことから、新規に参入したいとの動きがでたと思われる。この事件で、四株破談となり、庄屋の合議も行われなくなり、休み日もばらばらとなっていく。
 最後に、破談となる以前の話であるが、木津川の洪水を予防するための杭の分担の例を紹介したい。f0300125_9191654.jpg木津川堤には、洪水予防のために杭が準備されていた。全部で600本用意するにあたり、3方角での分担割合をどのように調整したのか。単純に村高で分ける、人口・家数でわける、堤の長さで分けるなどが考えられる。おそらくひとつの基準で分担すると、不公平が生じると判断したのだろう。石高と堤長と家数という3つの基準を組み合わせて、各方角ごとの分担数を決定したのである。 たとえば堤の長さだけを基準にすると、東向が相対的に多くなる、あるいは家数だけを基準にすると里方が多くなる、ということが起こるので、いくつかの原則を組み合わせて、3方角ができるだけ均等になるような案を考えたと思われる。おそらく4株庄屋の合議が繰り返されたのだろう。
 上津屋村は、中央を木津川が流れるという特異な村落形態をとることから、渡し船で耕作に行くという事態になり、船をめぐる争いが起き、村内不和になる。逆にみると、船頭職を与えることにより、百姓が衰退していくことを止めるセーフティネットとしての役割も果たした。しかし、それが特定の「方角」に限られていることが問題視されるようになる。やはり、村の休日であるとか、堤の杭とかのように、何事も3村が協議して決定していくのが、本来の在り方だったのだろう。
 江戸時代を通した流れでみると、里方や浜方が本村という意識が強く、東向が新しい集落という位置付けで、3「方角」4株の協議ができていたころは、村内も落ち着いていたのだろうが、庄屋の問題、船頭の問題等、東向が対等の権利を主張し始めると、段々と旧来の仕来りではやっていけなくなっていく。それが渡し舟の問題で頂点に達したと思われる。

おわりに

 元来、木津川が村の西を流れていたときに集落(里、浜)が形成されはじめ、その後木津川が村の中央を流れるようになったため、川の東に耕地を多く有する人が移住して東向集落を作ったのではないだろうか。上津屋村は、江戸時代の村落の在り方を考える上で、いろいろなことを考えさせてくれる村である。
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『一口感想』より

木津川を挟み、村人の工夫を凝らした村落形式や組織化が感じられ、大変楽しい興味深い講演会でした。(F・M)
上津屋村の村落運営をめぐって、とても興味深い話が聞けて有意義だった。(F・F)
古文書から読み解く昔の人その生き生きとした暮らしぶりが伺えて、楽しく拝聴致しました。(O・F)
私は現在上津屋里垣内に住んでいますので、大変楽しく聞かせていただきました。(K・M)
上津屋村洪水予防杭の算出方は、随分苦労している様子が分かりました。真剣に一生懸命日々を送っていた様子が偲ばれました。群界線を見て、綴喜郡という名の因が分かった気がします。(J・S)
①川の流れが村落の成り立ちや歴史に影響を与えたことが良く分かりました。
②防水用杭の準備数分割の方法は良く工夫されたことが理解出来ました。(N・H)
八幡の事は知らない事ばかりで、面白く拝聴しました。どの時代も庶民の暮らしがあったという事が分かり、人間の歴史が繰り返されている事が分かり良かったです。(S・S)
大変面白かった!!質問時間あればしたい!!(U・N)
興味深い内容でした。江戸時代の村人の暮らし、村人の知恵、人間関係まで理解できることが出来、楽しい時間でした。有難うございました。(F・T)
3つの集落がどのように障害を乗り越えて一体感を維持してきたか。わかりやすくて説明いただいた。(H・S)
上津屋村のお話、現代の身近に感じること多く興味深い。古文書、古地図等、歴史を読み取れもので大切な文化遺産と感じました(Y・H)
群界のお話にはじまって興味深くお聞きしました。内里が大谷川―蜻蛉尻―防賀川に囲まれて、それが郡界と知り、八幡の古くからの歴史と地理の関連が良く理解出来ました。(B・K)
村の歴史の変遷につき、ユニークな視点から研究されているのは興味がわきました。木津川の流れが変わる事により、寸断されたときの種々の問題が発生、又解決のための苦労が偲ばれました。古文書の分析はコツコツと大変な作業と思いました。(O・S)


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# by y-rekitan | 2018-05-28 11:00 | Comments(0)

◆会報第85号より-03 古墳と鏡⑨

シリーズ 「八幡の古墳と鏡」・・・⑨


八幡の古墳と鏡(9)

ー横穴墓と鏡ー

濵田 博道 (会員)


はじめに

 八幡市美濃山一帯から京田辺市北西域――狐谷・美濃山・女谷・荒坂・松井・堀切にかけては古くから横穴(墓)の存在が知られていました。1920年(大正9年)発行の『京都府史蹟勝地調査会報告第二冊』「美濃山ノ古墳」の中で、梅原末治氏は「横穴また字荒坂その他高台側の斜面に開口す。」と述べ、末永雅雄氏も「昭和二年(1937)、京都府山城八幡付近の横穴調査の実習に出かけたことがあった。(注1)」と言っています。佐藤虎雄氏は「木津川の宇治川に合するあたり、その内湾に南方より男山八幡へ連互する丘陵およびこの付近には古墳多く、高野街道に沿いても数基を数うべし。また有智郷は和名抄(わみょうしょう)綴喜郡に載せられたる所なるが、この村の西南部美濃山を中心として荒坂、松井にわたり、丘陵竹林には古墳横穴多く存在しこれら既に開発せるもの多く、後人の鍬害を免れたるものは少なし。(注2)」と失われた横穴も多かったことを述べています。古代において、美濃山一帯から京田辺市北西域は文化・風習・生活圏で連続しており、現在の行政地域単位に限定して考えることは適当といえません。そこで、ここでは八幡の横穴を中心にしながらもその範囲に限定しないで考えていきます。

1、府下最大級の横穴群密集地

(1)1990年台から多数の横穴発見・発掘
 大正や昭和の中期にかけて横穴の存在が知られていたとはいえ、1980年台までに発見されていた横穴の数は美濃山から京田辺市にかけてのものを含めて40~50基程度でした。しかし1990年代に入り、京都南道路・第2京阪高速道路建設、2008年からの新名神高速道路整備事業に伴う遺跡発掘調査により、新たに多くの横穴が発見されました。2016年4月23日付けの京都府埋蔵文化財調査研究センター「女谷・荒坂横穴群第14次 現地説明会資料」には次のように書かれています。
f0300125_102337.jpg 「女谷・荒坂横穴群は横穴が途切れることなく造られていることが確認されました。女谷・荒坂横穴群には少なくとも300基程度の横穴が造られていると推定されており、今回の調査ではそれを追認することができました。周辺の松井横穴群などを含めると、八幡市~京田辺市には600~700基の横穴が存在していることが推定され、近畿地方でも最大級の横穴密集地といえるでしょう。」(注3)
 2018年には、大阪府枚方市上野・アゼクラ遺跡・甲斐田川の肩部で横穴墓が3基発見され、さらに「調査区外に延びる斜面にも横穴墓が広がっていたことが推測できる」と報告があり、今まで横穴(墓)が発見されていなかった隣の北河内にも造営されていることが明らかになりました。「このことは北河内の墓制についても根本的に考え直すことを迫る重要な発見」と現地説明会資料(2018年2月、枚方市文化財研究調査会)で述べており、面的にも広がりを見せています。発掘調査の結果、これらの横穴はいずれも6世紀後半から7世紀前半のごく短い期間に造られたものでした。

(2)南山城地域の横穴(墓)集計
 八幡市~京田辺市にかけての横穴の数について、わかる範囲で集計しました。
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 このように横穴はこれまでみてきた首長墓としての古墳とは明らかに様相が違います。首長墓としての古墳は、首長一人のためにとてつもない時間と労力をかけて一つの墳墓を築造し、豪華な品を副葬します。一方、横穴は土を盛って墳丘を造るのではなく(全国の横穴の中には墳丘のある横穴もありますが)、丘の斜面などに横に穴を掘り、一基ではなく群をなして造るのです。ですから横穴は首長墓とはいえません。

〇横穴墓は古墳か?
 そこで気になるのは、横穴墓は古墳か?という問題です。大塚初重氏の『古墳に秘められた古代史の謎』(宝島社,2014)によると「『古墳』の考古学的定義は研究者により異なり、明確にひとつに決められるものではない。『墳』の字は『墳丘』を表し、盛り土をした塚をもつ墓のことを指す。それが古代のものであるから『古墳』で、同様の形状のものでも時代が違えば古墳とは呼ばれない。また、その内部に棺をもち、一般人ではないある程度の権力者を葬るためのものであることも、ひとつの古墳の条件である。つまり、古墳とは、『いわゆる古墳時代、3世紀半ばから7世紀にかけて造られた、墳丘を有する権力者の墓である』」とされています。しかし一方、永原慶二監修『日本史辞典』(岩波書店,1999)で「横穴(よこあな)」を引いてみると「古墳の埋葬施設の一種。」とあります。岩松保氏は「横穴=墳丘の無い古墳」と述べています(注4)。ここでは古墳の仲間に入れて話を進めていきます。
 八幡市で発見されている横穴は現在130基を超えています。他に(墳丘をもつ)古墳は30基近くあります。八幡市の古墳は地図に載っていないことが多いですが、たくさんあったといえます。

2、横穴墓の副葬品

 6世紀前半から始まる後期古墳の副葬品について、森浩一氏は次のように述べています。f0300125_10221279.jpgf0300125_10223880.jpg「後期の視覚的な特色としては、群集墳形態をとる古墳群の出現、家形石棺や箱形木棺を蔵する横穴式石室の普及、さらに古墳の副葬品として須恵器(注5)・馬具・金銀の装身具、とりわけ耳飾が普通に見られるようになったことなどがあげられる。(注6)」
 6世紀後半の八幡市・京田辺市の横穴群の副葬品はというと、須恵器・土師器(注7)・刀子(とうす)・鉄製品・耳飾・瓦器・ガラス玉などが出土しています。中でも多いのは須恵器です。その中でも杯、杯蓋(はいがい)、高杯(有蓋・無蓋)(蓋は「ふた」のこと)、壺、甕(かめ)などが多いです。しかし現在発掘された横穴の数は200基を超えますし、横穴は群により副葬品の特徴が変わります。
 また同じ群中の横穴でも立派な副葬品のある横穴もあれば、ほとんど何もない横穴もあり、かなりの差があります。ですから、横穴の副葬品をまとめて論じ難いです。ここではすでに発表された報告の中から副葬品として注目すべきものを2,3紹介したいと思います。

(1)埴輪の出土
 女谷B支群9号墓からは朝顔形埴輪、荒坂B支群5号墓からは円筒埴輪が出土しています。中でも後者の円筒埴輪は東海系埴輪(普通の茶褐色の円筒埴輪とは違い、色は灰色で、ろくろを使い倒立技法でつくる。)とされるもので、この地域と東海地方との関わりのあったことを示しています。(八幡市・ふるさと学習館にその円筒埴輪が展示されています。)東海地方といえば、6世紀前半の継体天皇の妃・目子媛(めのこひめ)の出身地です。継体天皇は507年に樟葉宮で即位し、その後筒城宮・乙訓宮へと遷りますから、南山城に東海地域と関係のある人々がいて円筒埴輪を作ったと考えても不思議ではありません。京田辺市の堀切古墳群7号墳(円墳)から東海系円筒埴輪が(と共に刺青文様をもつ人物埴輪も)出土しています。2埴輪とも淀川水系における東海系埴輪の使用例として注目される資料です。

(2)石棺の出土
 荒坂A支群34号横穴から組合せ式石棺が出土しています(2000年)。「石棺は蓋石及び底石が3石ずつ、小口と側石は2石ずつの計10石で構成されており、初葬時の副葬遺物が埋没したのちに横穴内に運び込まれ、据置かれたと考えられる。内法が小さく、伸展での埋葬が困難であると考えられることから、改装骨を納めた可能性が高い。(二上山石で)本来とは異なった位置で使用され、石材に施された刳り込み、切り欠きなどは整合していないことから、他からの転用をうかがわせる資料である。(注8)」とのことです。また、京田辺市・堀切6号横穴からも竜山石の凝灰岩製組合式家形石棺が出土し、棺内から改葬人骨1体(壮年前半の女性)と金環1対、刀子などが出土しています。

(3)鏡の出土
 2009年(平成21年)の女谷・荒坂横穴群の発掘調査で、D支群4号横穴から鏡(以下、女谷鏡と呼ぶ。)が1枚出土しています。

3、瑞雲双鸞八花鏡(ずいうんそうらんはっかきょう)とは

 鏡の名は瑞雲双鸞八花鏡といいます。唐式鏡(とうしききょう)です。瑞雲というのは鏡の中央上部に描かれた吉祥を表す雲で、双鸞というのは左右に彫られた二羽の鳥(鳳凰か?)です。唐式鏡とは唐の様式の鏡のことですが、直接、中国の唐(618~907)から日本に輸入された唐鏡、それを原型として日本で鋳造した鏡[踏み返し鏡、同型鏡]、唐鏡を模して日本で作った鏡など、日本で確認される唐鏡と同じ型式の鏡すべてを含んでいいます。
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 唐式鏡には瑞雲双鸞八花鏡をはじめ螺鈿(らでん)鏡、七宝(しっぽう)鏡などいろいろな種類の鏡があります。多様性に富んでおり、鏡の平面形・文様・装飾技法のどれをとっても、他の時期に見られない種類が複雑に組み合わさっているといいます(注9)。鏡の形は円鏡を一般的としながらも、花鏡・稜鏡・方鏡があります。女谷鏡は花鏡です。外周に8の円弧を連ねた花形の鏡なので八花鏡です。このような奈良・平安時代の鏡には、弥生時代の内行花文鏡や方格規矩鏡のような幾何学的な文様や、古墳時代の三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡のような神獣を中心とした文様は見られません。替わって写実的で絵画的な文様が主流となっています。古墳時代が終わり遣唐使や渡来人により国際性豊かな文化が花開き、寺院が多く建てられた時代の鏡です。

(1)瑞雲双鸞八花鏡の分布とその出土地
 瑞雲双鸞八花鏡は全国で20枚確認され、その分布範囲は、東は千葉県香取市の香取神宮から、西は宮崎県の本庄古墳群まで広く分布しています。出土・伝世地点は全部で13。不明になったり焼失したりして実際に現物が確認できるのは14枚です(注10)。興味深いのは出土地・伝世地が古墳(宮崎県本庄古墳群・長野県大久保2号墳・兵庫県湯舟口金谷1号墳・女谷横穴)・寺(跡)(奈良県霊山寺2枚・奈良県坂田寺・京都府周山廃寺2枚・三宝院)・神社(宮崎県神門(みかど)神社3枚・千葉県香取神宮・三重県山の神跡)・都城(平城京)など多様であることです。寺を造る時の鎮壇具(堂塔伽藍の地下に埋納した七宝・武具・器の類。)として使用された場合もあるし、神社の宝物・ご神体として伝世している場合もあります。平城京では大路の側溝から、近江神宮が所蔵している鏡は南滋賀(近江の都近く)から出土しています。538年『記』(552年『紀』)に公伝した仏教は6世紀後半に政権に受容され、7世紀中ごろから寺院が全国に建立されていきます。神社も自然そのものを祀ることから神社建築へと変化し、鏡もご神体になったりします。

(2)女谷鏡の謎
 女谷鏡は横穴の再利用時の埋葬面から出土しています。現存する瑞雲双鸞八花鏡の中でも、面径が小さいので唐から輸入された鏡を日本で踏み返して作られた同型鏡と考えられています。(踏み返して作られた鏡は元の鏡より少しだけ縮小します。)原型と考えられる鏡や美濃山廃寺跡の溶解炉からの銅塊との元素比成分も分析されましたが、結局この鏡がどの鏡を原型として、どこで作られたか、どういう経路をたどってきたのかなど、よくわかっていません。

4、群集墳・横穴墓について

 先述の枚方市の資料に「横穴墓は、群集墳の1つの形式とも考えられる墓制」とあります。群集墳とは「多数の小型の古墳が密集群在しているもの」(『広辞苑』)ですが、小円墳、方墳、前方後円墳、横穴など多様な形態があります。墳丘があり、かつ横穴式石室を有している円墳・方墳群もあれば、そうでない横穴群もあるので複雑です。横穴(墓)については辞典で次のように説明されています。

(1)横穴墓とは
 「凝灰岩や砂岩質の比較的軟質の岩石で形成されている丘陵や台地の斜面を利用して掘り込まれた横穴の墓で、古墳時代後期に盛行した。おうけつぼともいう。また横穴古墳・横穴墳・横穴など研究者によって種々の用語が使用される。横穴墓は構造上、墳丘を有しないことが、同時代に存在した高塚古墳との最大の相違点である。しかし、その内部構造は、高塚古墳に採用された横穴式石室と類似し、玄室(げんしつ)・羨道(せんどう)をもち、前庭部を付設する例も多くみられる。玄室は、正方形・長方形・隅丸方形・徳利型などの平面形を呈し、天井はドーム形や家形のものなどがある。床面には遺体を安置するつくりつけの棺代や棺床を設けたり、敷石や排水溝をもつものもある。」(注11)
横穴は階層的には横穴式石室をもつ古墳の下位に位置づけられることが一般的です。しかし、内部構造や形態が地域の特質を反映していること、全国的に分布していることなど、横穴式石室の古墳とほぼ共通しています。また地域によっては、首長墓クラスに匹敵する副葬品をもつ横穴の例も確認されています。

(2)横穴墓の歴史
 横穴墓の歴史を全国的にみると
そのはじまりとして、北部九州で5世紀後半に展開した初期横穴式石室または南九州に展開する地下式横穴から派生した墓室が考えられ、
6世紀に入ると横穴は本州各地に広まり定着し、(ただし、四国、山陽などには認められず、分布に偏りが認められる点が大きな特徴)
6世紀後半代に(王権により)制度的に採用され(広く分布)、
7世紀前半代に変容し(特定の副葬品に集中、東日本への広がりなど)、
7世紀後半代以降の変質(家族の成員まで葬る)へと続く、
  
とされています(注12)。
 八幡地域の横穴は③の時期に造られ、④の時期に終焉しています。

(3)前方後円墳の終焉と横穴墓
 横穴墓が造られはじめるには中央政権の明確な意図があります。次のように解説されています。「(畿内などでは6世紀の末ころ、それ以外の地域でも7世紀初頭になると)前方後円墳の造営が一斉に停止される。この前方後円墳の終焉は日本列島の各地でほぼ時を同じくしており、中央政権による強力な規制の結果と考えるほかない。それは明らかに推古朝の早い段階の出来事であり、当時の為政者が3世紀以来の古い首長連合体制を象徴する前方後円墳と決別し、中央集権的な新しい政治体制を目指したことを何よりも明白に物語るものであろう。(注13)」6世紀後半から7世紀前半に築造される大王墓は方墳や円墳です。用明(~587)陵[方墳]・推古(554~628)陵[長方墳]・聖徳太子(578~622)墓[円墳]です。墳はいずれも一辺(または直径)が50m以上、高さも10mを超えるものもあります。石室は巨石積み横穴式石室です。このことは、大王を中心としたグループがこれまでの前方後円墳に代わる大型の方墳や円墳をつくりだしたことを示しています(注14)。これを主導したのが蘇我氏だといわれており、蘇我氏の墓も石舞台古墳などにみられるように方墳です。このように前方後円墳の造営は規制され、方墳や円墳の大王墓以外で群集墳や横穴墓が広がっていきます。

5、横穴墓の被葬者像

 1970年代半ば頃から次の観点で横穴墓の被葬者像の研究が進められてきました。
地域に即した特定の職掌を担う集団の想定(例、大阪府高井田横穴墓群・部民)
特徴的な遺物研究よりの想定(横穴に副葬された装飾付き大刀などから考察)
いわゆる群集墳としての位置づけ(爆発的に古墳が形成されてくるのは何らかの政治的要因とみる)
特定氏族との関連想定(南山城においては隼人との関連など)
 南山城では「大住」という地域があり、「大住」は南九州の大隅に由来し、『正倉院文書』山城国隼人計帳、『和妙類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』「大住郷」の記述、荒坂横穴と南九州の地下式横穴との類似性(『八幡市誌』)などから、南山城に移住させられた隼人が故地の墓制を踏襲して横穴を造ったのではないかと言われてきました。しかし最近の発掘調査で横穴は九州の地下式のものでないことが判明し、また隼人は畿内の要衝のあちこちに移配されているのに南山城だけ横穴を造ったのはどうしたことか、隼人の墓にしては横穴の数が多すぎる、という疑問もおこり、被葬者像の再検討がされてきました。
 その結果、横穴の被葬者像について岩松保氏は次のように述べています。“〔一般的に言えば〕中央〔ヤマト王権〕が直接的地方を支配していく過程で、造墓を認めたのが横穴で、具体的には、屯倉(みやけ)〔=ヤマト政権の直轄領・倉・官家〕に関連する集団が想定できる。また、中央から派遣された、もしくは地方にあって任命された初期官人層や武人もまた、横穴の被葬者像と重なってくる。中央政権の意向の下に移配された集団も、何らかの役割を期待されている場合には、横穴を造ることを認められたであろう。横穴のある地域は、中央政権とのつながりが強い地域ということができる。〔南山城についていえば〕なぜ南山城地域に横穴が造られたか。それは南山城地域に隼人が移住させられたという契機がもっとも確からしく、隼人を中央政府が直接的に支配する必要があったがゆえに、墳丘のない古墳=横穴を造ることを承認したと考えられる。(注4)”(要約、〔 〕内は濵田)と。また、地域を束ねた農業に従事していた有力者の墓という説もあります。京都府埋蔵文化財調査研究センターで話を伺うと、八幡・京田辺市の横穴の被葬者は木津川左岸地域だけでなく、南山城のより広い範囲の有力な人々が埋葬された可能性があるとのことです。内里八丁遺跡出土の土師器椀と狐谷横穴出土の椀との類似性(注15)、八幡~京田辺市にまたがる新田遺跡から古墳時代後期~飛鳥時代の多くの建物跡発見(注16)によりこれらの集落と横穴の被葬者との関連が考えられています。
 次回は「埋没古墳と埴輪について」考えてみます。

(注1)『末永雅雄著作集5 遺跡調査と大和・河内』,雄山閣,1990
(注2)佐藤虎雄「美濃山の横穴」『京都府史蹟名勝天然物調査報告第十冊』,1983
(注3)女谷・荒坂横穴群、松井横穴群の発掘については、会報35号・59号の野間口秀國氏の報告を参照してください。
(注4)岩松保「南山城地域の横穴と隼人、その被葬者像を巡って」『南山城地域における文化的景観の形成過程と保全に関する研究』,京都府立大学,2007
(注5)古墳時代中期から平安時代にかけて作られた灰色の土器で1200°C前後の高温で焼成。
(注6)森浩一「群集墳と古墳の終末」『岩波講座日本歴史2古代2』,岩波書店,1975
(注7)古墳時代から平安時代にかけて用いられた素焼の赤褐色の土器。模様は少ない。
(注8)京都府埋蔵文化財調査研究センター『京都府遺跡調査報告集第157冊』,2014
(注9)監修文化庁等「日本の美術393古代の鏡」,至文堂,1999
(注10)京都府埋蔵文化財調査研究センター『京都府埋蔵文化財情報第124号』,2014
(注11)大塚初重・戸沢允則『最新日本考古学用語辞典』,柏書房,1996
(注12)池上悟「横穴墓の被葬者と性格論」『論争・学説日本の考古学5古墳時代』,雄山閣,1988
(注13)白石太一郎『ふたつの飛鳥の終末期古墳 河内飛鳥と大和飛鳥』図録,近つ飛鳥博物館,2010
(注14)『日本全史ジャパン・クロニック』,講談社,1991
(注15)京都文化博物館『京都文化博物館研究報告第13集内里八丁遺跡』,1998
(注16)京田辺市教育委員会『京田辺市埋蔵文化財調査報告書第37集堀切古墳群調査報告書Ⅲ』,2010


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# by y-rekitan | 2018-05-28 10:00 | Comments(1)

◆会報第85号より-04 連続学習会

「八幡の歴史を学ぶ連続学習会」
2017年度実施報告

野間口 秀國 (八幡の歴史を探究する会 幹事)


 2017年5月15日発行の会報第79号にて “八幡の歴史を学ぶ連続学習会」2016年度実施報告” と題し、初回から第6回までの活動結果を報告させていただいてから早くも1年近くが経過いたしましたが、ここにその後1年間(第7回から第12回)の活動結果報告が出来ることを嬉しく思います。報告に併せて紙面をお借りいたして、都度の学習会に参加いただきました皆様方、および運営に協力いただきました皆様方にありがたく感謝申し上げます。

 さて、2017年度の活動の着手時を今少し振り返ってみたいと思います。2016年度の活動予定の半分を経過した一昨年の秋ごろ、月例の幹事会にて「連続学習会をこのまま1年で終えることはもったいない」との意見があがり、引き続きの幹事会における協議の結果、2017年度も継続することが確認されました。学習会のテキストとして活用いたしております。『歴史たんけん八幡』には、2016年度の学習会にて取り上げられていない章やコラム“なるほど” なども多く残されており、それらの中から連続学習会の推進担当メンバーにて2017年度に取り上げる項目および各回の担当者選定に着手し、新年度推進計画案をまとめました。

 連続学習会の推進は、偶数月に実施しております外部より講師をお招きしての「講演と交流の集い」や「現地見学会」などの進め方とは異なり、当初より会員自身が各開催回の分担を担当する進め方を採用いたしました。開催回毎のテーマによっては、担当者が必ずしも前述のテキストの執筆者では無いことが生じますが、そのことによって担当者自身が改めて担当項目を学ぶ機会にもなっていることです。また、学習会の名前の通り、会の最後には参加された方々と担当者間での質疑応答の時間を設けて、お互いにテーマに対する更なる理解が深められることに留まらず、新たな情報や知識も共有できる学習会になっているのではないかと考えております。また、都度の開催の最後に、参加者の皆様に「一口感想」をいただくようにお願いいたしておりますが、頂戴いたしました感想の中に “少なからずお役立ち出来ている” ことを感じることのできる文言に触れると学習会開催の意義を再認識できるようです。以下に、その一例を挙げさせていただきたいと思いますが、そこには 「ふるさと学習館でふるさとを学ぶ事は幸せであります。レベルの高い歴史の事実から身近に感じる歴史まで大いに興味が持てます。来年度もよろしく楽しい課題を期待しております」と書かれてありました。

 下表が2017年度の活動実績(第7回~第12回)であり、去る3月15日に無事に当初計画の全日程を終えることができました(担当者名は敬称を略します)。
f0300125_10205825.jpg
 2017年度開催の全6回の学習会に参加いただきました方々の延べ人数は223を数え、それぞれの回ごとの参加者数の増減はあるものの平均で37名との結果となりました。f0300125_9372530.jpg2017年度も当初の思いは一定程度果たせたのではないかと考えております。とは言え、前述の参加者の感想のように嬉しい言葉もございます反面、ご提出いただきましたご感想の中には、まだまだ改善すべきこともございました。そのようなお言葉には真摯に耳を傾けて、今後の運営の中で都度の担当者とも話し合いながら可能なことは一つずつでも改善して行きたいと思います。

 最後に、この活動の推進全般に対しましては八幡市教育委員会の後援をいただき、また都度の開催におきましては文化財保護課のご協力をいただきましたことを記し、紙面よりありがたく感謝申し上げます。全6回(前年度含めると全12回)の学習会に参加いただきました方々はもとより、ご都合で1回のみの参加に留まられた方まで、これまでに参加いただきました全ての皆様に改めてお礼を申し上げます。この報告が掲載される会報がお手許に届きます日時には、既に2018年度の活動も開始されておりますが、別途ご案内の2018年度の活動にも変わらぬご支援をお願いいたし、2017年度の実施報告とさせていただきます。 (2018.4.8)
# by y-rekitan | 2018-05-28 09:00 | Comments(0)

◆会報第85号より-end

この号の記事は終りです。


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# by y-rekitan | 2018-05-28 01:00 | Comments(0)

◆会報第84号より-top <スクロールだけで全記事が読めます>

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この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
このまま下にスクロールして頂くと順次連続してご参照頂けます。


◆シリーズ:“心に引き継ぐ風景” ⑮◆
◆《会員研究発表》八幡の道の歴史◆
―江戸時代の道標調査を終えてー
◆シリーズ:“八幡の古墳と鏡” ⑧◆
◆八幡市誌の高野街道◆
◆台場跡講座から学んだこと◆



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# by y-rekitan | 2018-03-26 15:00 | Comments(0)

◆会報第84号より-01 叡尊

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心に引き継ぐ風景・・・⑮

その後の叡尊 宇治・八幡
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 弘安4年(1281)の蒙古襲来の時、奈良西大寺の叡尊は京・奈良の僧560余人と石清水八幡宮宝前にて国家鎮護の祈祷を行った。その祈祷によって神風を吹かせ、元軍を撃滅したという。
 弘安9年(1286)宇治川の網代撤廃による殺生禁断により漁具の一切を浮島に埋めて、その上に壮大な「十三重石塔婆」を建立した。当時大和、山城地方で活躍した叡尊率いる伊派の石工集団によるもので、各地に2mを超す大五輪塔や石碑を多数建立したが、八幡の大石塔もその一つと考えられる。
 宇治川の殺生禁断と共に「宇治橋修復」も行い弘安9年11月に完成させた叡尊は漁師たちに曝し布の業を与え、また「茶」を植える事を勧めて生業とさせ、今日の宇治茶の盛業となったと伝えられている。
 また、叡尊の「橋寺放生院」再興時に安置したといわれる高さ1.9mの地蔵菩薩立像は全身に金泥を塗りその上に彩色を施した美しい像で、その前傾姿勢は今にも救済に踏み出そうとする姿と云われている。
「橋寺」の近く明治まで二社一体であった「宇治上神社」と「宇治神社」には石清水八幡宮の祭神・応神天皇や子の仁徳天皇・菟道稚郎子命が祀られている。大吉山展望台に登れば「奈良街道宇治橋」の先に「八幡宮の男山」を眼下に遥拝する。
(文と写真 谷村 勉)空白



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# by y-rekitan | 2018-03-26 12:00 | Comments(0)

◆会報第84号より-02  八幡の道

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《会員研究発表》
八幡の道の歴史 
―江戸時代の道標調査を終えて―


2018年2月  八幡市文化センターにて

谷村 勉(会員)

 2月22日午後1時30分より、八幡市文化センター第3会議室で表題の会員研究発表がありました。八幡宮勧請以前の道はどうであったか、勧請以後はどの様に発展して、現在に至っているのかなど、八幡の道の歴史および江戸時代の「八幡道標」の調査結果の発表でした。
  当日の参加者は52名。(会報編集担当)

八幡の道

 八幡には凡そ以下のような道があります。
京街道(大坂街道)が走りますが「東海道57次」とほぼ同じ道です。
八まん宮道、具体的には御幸道、常盤道、科手道、志水道など。
奈良道 〇河内道 〇山根道などがありますが、
主に京街道、八まん宮道、東高野街道、八幡道標について述べます。
 
八幡市内の東麓を走る「道」の名称?

 八幡宮遷座以来、八幡の道には八幡宮参詣道としての歴史があります。
 近世、江戸時代には守護不入・検地免除の神領自治組織が確立していましたので、八幡の地に他の宗教施設を連想させる街道名は存在しませんでした。
八幡における高野街道とは洞ヶ峠が起点の歴史的認識があります。八幡に入れば「やわた道」・「八まん宮道」と呼ばれ、大勢の八幡宮参詣者が行き来する道との歴史的感覚もあります。
 今回、江戸時代の「やわた道標」の調査から近隣自治体を含め76基もの道標が発見されていることからも「八まん宮道」の歴史的事実が証明されていると思います。八幡の道が「八幡宮参詣道」として発展してきた歴史を正しく伝えてゆきたいという想いがあります。

山崎橋の造立

 橋本から楠葉を抜ける高野道が存在します。神亀2年(725)行基によって山崎橋が造立されるが、7世紀後半に奈良元興寺の道昭が架橋した位置に掛けたものであったと云います。江戸時代の絵図から山崎橋が現橋本奥ノ町にあった橋本寺辺りに架橋されていたと推定されるものの、何度も淀川に流され凡そ200年間程で無くなったようです。天正20年(文禄元年・1592)秀吉によって山崎橋は再び掛けられたがその存続期間は短かったようです。
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 石清水八幡宮全図の橋本の部分に橋本寺旧跡と書かれたところがあります。これは豊臣秀吉の御連衆の一人であった「橋本等安」によって建立された寺で、秀吉の「湯だくさん茶くれん寺」の故事で有名な「常徳寺」も江戸時代の中頃にはこの辺りにあったことが判ります。記録には文化10年(1813)西遊寺の隣の「常徳寺」が焼失とあり、寺が移動したことが判りますが、その場所には今も「常徳寺」の石碑が残っています。
 古くから大阪との行き来には淀川の水運が利用され、人や物資が大量に運ばれましたが、港としての機能を持った「橋本の津」は大いに賑わったようです。橋本で舟を降りた八幡宮詣りの人々は「八幡宮道」(京街道)を通り狩尾社を経由して石清水八幡宮を目指しました。

橋本の高野道

 山陽道(西国街道)から山崎橋を渡り橋本から楠葉に続く高野道があります。南の方向に烏帽子を置いたような特長のある交野山をめざして歩きました。弘法大師空海も歩いた道と考えています。今回、江戸時代の道標調査でも「高野道」の存在を証明する「地蔵道標」が発見されました。地蔵菩薩立像を挟んで左右に「すく八まん宮・右かうや 左はし本道」とありました。紛れもなく高野道を案内しています。“すく”とは“まっすぐ行けば”の意味になります。
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写真(上)の道標2基はどちらも久親恩寺内(楠葉中ノ芝)にあります。
中ノ芝から北楠葉を通過し、野田1丁目辺りに来ると野田大師堂があります。
 大師堂から少し離れた野田1丁目の「左八まん宮道・右志みつ道」の道標も元々この大師堂付近にありました。(写真下)
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 大師堂からさらに南方向に進み僅かに古道の面影を残す畦道等を通り、f0300125_1618531.jpg楠葉朝日自治会館を抜けて招堤の町を目指します。整然とした招堤屋敷街を過ぎると「日置天神社」です。この辺りは古くから高野道に沿って大変賑わった所ですが、一帯は南北朝の動乱に巻き込まれて灰燼に帰した歴史があります。日置天神社から近くの穂谷川を越えるとすぐ出屋敷の高野道へと続きます。

京街道

 京街道は文禄堤ともいい、文禄年間に豊臣秀吉が諸大名に命じて建設した淀川左岸の堤防道で比較的新しい街道です。文禄3年(1594)に淀川の改修工事を命じて建設、慶長元年(1596)に完成しました。この文禄堤は淀川が氾濫するのを防ぎ、大坂と京都を結ぶ最短の道として重要な街道となりました。また、秀吉の伏見城築城も文禄3年正月から始まり、文禄4年3月に竣工しました。
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 この時現在の下鳥羽・納所間の大坂街道が開通し、同時に淀・伏見間にも淀堤を築き、巨椋池は横大路沼と南北に分離しました。江戸時代、2代将軍徳川秀忠の時に京街道は「東海道57次」に編入され、伏見、淀、枚方、守口を宿場としました。
 大坂からの京街道に初めて八幡道標が現れるのは枚方市「宗左の辻」道標です。次は京阪牧野駅近くの「前島街道の道標」(明治時代の参考道標)で、八幡道標ではありませんが、これは高槻からの道で淀川を舟で渡って牧野から京街道に入るルートを示しています。f0300125_16303455.jpg牧野から楠葉方向に進み上島町の船橋川堤に当たれば「八幡宮参詣道の道標」が目に入ります。2mの道標の上部の地蔵像をよく見ると、かつて石清水八幡宮の祭神であった「八幡大菩薩像」が彫られた貴重な道標です!楠葉に入ると長福寺の美しい地蔵道標を経て久親恩寺に枚方市最後の道標群を見ると、橋本に入ります。
 小金川の境界を越えて橋本に入り、道なりに進んでゆくと中ノ町のT字路にある「八まん宮道」道標を左に進めば、北ノ町の「八まん宮山道」の道標に到達します。この道標を右折し、狩尾社から八幡宮に向かうルートが橋本からの参詣道です。
「八まん宮山道」の道標を右折せずに、さらにまっすぐ進めばかつての京街道と科手道の分岐点の大楠木辺り(楠木は現在、他の場所への移植準備中)に出ますが、ここから現在、美豆に向かう京街道はありません。木津川、宇治川の付け替え工事で分断されましたので、科手道を進むしかありません。
 分断された京街道は現在、伏見区淀美豆町の松ケ崎記念病院辺りから淀の方面に向けて進む道が残っていて、かつての八幡神領内京街道の面影を残す道となっています。
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御幸道と常磐道
    
 木津川の付け替え工事以前、主に京都から京街道を通って八幡に入る南北の道には常磐道と御幸道がありました。現在、御幸橋の南詰から一の鳥居までの御幸道は大部分が残り、御幸橋南詰の一角に「石清水八幡宮鳥居通御幸道」の道標も残っていますが、御幸橋付け替え工事により八幡宮頓宮内に保管されています。この道標は300年前の江戸時代、正徳3年(1713)に八幡宮検校新善法寺行清によって建立されたものです。しかし幹線道路であった常磐道は付替え工事によって大部分がなくなりました。
 八幡宮一の鳥居手前を右へやや細い道を行くと神應寺の山門に至ります。八幡宮を勧請した行教が創建した由緒ある寺院です。山門を過ぎたところに巨大五輪塔が見え、五輪塔の真向い八幡宮頓宮の西出入口手前に「左 八幡宮道」と彫られた全長280cm、正面幅24㎝、横幅24㎝の立派な道標が横たわっています。
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裏面には「是より北荷馬口付のもの乗へからず」と彫られているようです。一人ではこの道標は動かず、一部の文字しか確認できませんでしたが、京都市内に今も残る「是より洛中碑」と同じ意味のもので、いわば「是より八幡宮碑」とでもいえましょう。
 「是より洛中碑」とは洛中へ入る際には、馬の背に乗らず馬の手綱を引いて歩いて入る事、という意味です。京都町奉行より享保2年(1717)洛中の入口30カ所に石碑が建てられたもので、現在も11本残っているとの報告があります。「左 八幡宮道」の道標も恐らく同時代のものと見て間違いなさそうです。

男山東麓の道の「八まん宮道」
 
 御幸道の一の鳥居付近から南へ安居橋を左に見ながら奈良街道との分岐点である八幡橋を過ぎ、平谷町を左に曲がり松花堂昭乗の墓のある泰勝寺を過ぎると嘗ての幹線道路であった常磐道から南下する道と買屋橋辺りで合流し、「八まん宮道」となって男山東麓の道を南下すれば洞ヶ峠まで凡そ4kmの道程となります。買屋橋から南下し八幡山本で図書館方面に左折し旧道を歩けば、外郎(ういろう)で知られる「じばん宗」の前を通り抜け、突き当りの中央図書館から道なりに南方向に進みます。途中天理教教会を過ぎたあたりで右折すれば紅葉で知られる善法律寺に出られますが、古来八幡の道は南北よりも東西の道から発展した面影が残っています。善法律寺の前を南北に走る道路は新しい道で「新道」と呼びます。昭和30年代頃、田圃や畑だらけでしたが、昭和54年にようやく「認定道路」となった歴史があります。新道は直線的な道路なっていますが、近世までの道は戦略上、必ずと言ってよいほど曲っています。
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「旧道」と呼ばれている元来の道を南に進むと「走上り道」に突き当たり、すぐ右の神原交差点(近くに興正谷入口あり)を左へと進んでゆく。少し歩くと「正法寺」が右に見えます。鎌倉時代に正法寺は開創されたが、現在の伽藍は相応院(お亀)によって寄進されたものです。正法寺はもちろん近世八幡に大きな足跡を残した「お亀」は文禄3年(1594)徳川家康の側室となり、御三家尾張藩祖の徳川義直を生みます。八幡に361通の「領知朱印状」の発給を家康に促し「安居神事」を復活、「検地免除」・「守護不入」の地と確定しました。「検地免除」とは要するに年貢を納めなくてよい訳で、石清水八幡宮を中心とした自治組織体が確立しました。『奈良、大坂からの石清水八幡宮参詣道沿いの正法寺が都名所図会に紹介されるなど門前市をなすほどの賑わいであった』(正法寺栞より)。「八幡宮道」の志水道辺りを歩くときは正法寺惣門をくぐり南門から裏通りののどかな道を時々歩くと、車も殆んど出会うことなく松花堂庭園に辿り着きます。松花堂庭園の東に八角堂がありますが、この前の道が本来の道です。ここから中ノ山墓地の東入口の前を通り、洞ヶ峠を目指します。現在の松花堂庭園横のバスや車が走る南北の道は昭和40年前後に出来た「新道」と呼ぶものです。小高い丘 (西車塚古墳)の八角堂の前には役行者像が彫られた「すく八幡宮」の道標があります。
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安居塚から右に折れると洞ヶ峠に向かいます。今は右折して真直ぐの坂道ですが、以前は左から登る坂道が洞ヶ峠道でしたが、現在は分断されて通れません。いよいよ洞ヶ峠を越えると枚方市の高野道に入ります。
 また、八幡の安居塚のT字路から南に直進すれば「山根道」に入り、長尾、藤阪、津田、倉治を通って私部で東高野街道に合流します。

大阪府下・東高野街道の「やわた道標」

 八幡の道に江戸時代の「やわた道標」は22基存在します。江戸時代以前の高野道の道標を見たことは在りません。見るのは最近建てた新しい道標?ばかりです。そこで大阪府の東高野街道に八幡道標の存在を何度も訪問して確認しましたところ、東大阪市の2基を始め枚方市との間に何と12基の「八幡道標」がありました。奈良、大坂の八幡宮参詣者を八幡宮に導く道標群です。指差し道標や地蔵道標、観音菩薩道標、相撲取りの大井川万吉道標など個性的な道標ばかりです。如何に八幡宮への参詣者が多く河内の高野道を利用したかを物語るものですが、交野や星田の住民にとっては「やわた道」・「京やわた道」であったのです。枚方市出屋敷に明治33年建立の東高野街道碑がありますが、洞ヶ峠から一里の距離を現わしています。なお枚方市全体に存在する「八幡道標」は26基もあり、八幡よりも多くの道標が存在しました。

奈良時代の古道

 八幡の道は石清水八幡宮が貞観元年(859)に勧請されてから整備されてきたと考えます。f0300125_20402647.jpgそれ以前に官道として整備されていた道とは、まず山陰道と山陽道で、奈良から現在の京田辺市大住を通り、手原川に架かる関谷橋で別れて、淀方面へ向かう山陰道と美濃山廃寺、志水廃寺、足立寺、楠葉中之芝を通り八幡の橋本から山崎橋を渡って対岸の山崎へと入る山陽道でした。図は平城京時代、長岡京時代、平安京時代の男山周辺の古代官道図です。石清水八幡宮の創建以前の人の居住は、当然山陰道沿いや山陽道沿いに集中し、古墳や古跡も概ね古代官道沿いにあります。現在の常磐道や志水道など八幡宮創建以前に南北を縦貫する「八幡宮道」は整備されず、むしろ山陽・山陰道から派生した東西の道が中心であったと思われます。

「やわた道標」はまだまだ存在する

 江戸時代のものと思われる「八幡道標」は京都市、長岡京市、大山崎町、高槻市、茨木市、交野市、寝屋川市、四條畷市、大東市、東大阪市、枚方市におよび、八幡市の22基を含めて総計76基に至りました。その後、冊子を刊行することができ、読者から沢山の情報を頂き、未だ我々が知らない「八幡道標」がある事も解りました。例えば大阪府松原市に2基の「八幡道標」を発見しました。
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松原市には中高野街道が走ります。守口市から松原市を経て河内長野市に入るルートです。淀川を越えた島本町にも道標が見つかりましたし、先般刊行した冊子の読者から京都市内北野天満宮近くに建つ道標の紹介がありました。

八幡東麓の街道名の経緯

八幡の道をいわゆる東高野街道などと最近まで呼んだことはなく、八幡の道は八幡宮の遷座(859年)以来八幡宮参詣道として整備されてきたものであって、高野山参詣道として整備されたことはないと思います。
東寺や高野山に通じるというだけで、高野街道と云うのはおかしな話で全国の道が高野山に通じていたらすべて高野道になる訳でもないと思います。弘法大師が歩かれた道は奈良時代の官道である古山陽道、あるいは南海道と呼ばれる橋本から楠葉を経由して枚方の招堤を抜け交野の道を目指した道だと思います。八幡宮が遷座(859年)され、南北の道が整備される以前に弘法大師は入定(825年)されています。
「男山考古録」には、志水町から南半里許、万称寺在所より五町許南を俗に高野道と云う、と記載されています。山上山下惣絵図等にもその通り図示されています。八幡神領には男山独自の歴史や文化が溢れており、高野道に八幡宮や神應寺や正法寺が建立された訳では決してありません。
明治14年(1881)頃の「京都府地誌 荘誌(八幡荘)」に初めて“高野街道”の名称がでてきます。その後明治18年頃の陸軍仮製図には現在の松花堂庭園前の八幡城陽線交差点あたりから“自京都至和歌山道”とあり、明治42年(1909)頃の陸軍地図に洞ヶ峠付近に“東高野街道”とあります。これらの名称は行政や国防上の区分で、一般住民には周知されてないと思います。
 
歴史街道運動

平成になってからの歴史街道運動により、ルートを決めて、現在の「いわゆる東高野街道」の道標が多く設置されてしまいました。単に観光集客目的のための名称であることは明らかです。
 しかし、なぜ八幡固有の歴史的名称を生かそうとしないのでしょう、そうでなければ、八幡の正しい歴史が後世に伝わるものかどうか大変な危惧を持ってしまいます。他の自治体が血眼になって江戸時代の歴史を捜して何とか観光客誘致をと頑張っている姿よく目にしますが、八幡は一体何をやっているのでしょうか?何度も繰り返しますが八幡の道は八幡宮参詣道として機能していることが重要な歴史的事実で、それを示す八幡周辺の道には江戸時代の「京やわた道」の道標や八幡宮に近くなれば「八幡宮道」と刻まれた道標が沢山確認できます。大層重要な文化財としての道標群だと思います。
河内の星田や交野地方では高野道ではなく、「京やわた道」と呼び多くの住民が八幡宮を目指しました。
高野道だという人々は八幡の歴史を探究したでしょうか、歴史を知れば高野道沿いに八幡の町が発展してきたかのように言ったり、松花堂昭乗が男山東麓の東高野街道を歩いたなどとは言えません。小説の世界ならまだしも、歴史を語る場合は当時の仕組み、スタンダードで語るのが筋で、仮に現在のスタンダードで語れば歴史はいくらでも捏造されると思います。男山の東麓に当時「八まん宮道」はありましたが「東高野街道」はなかったはずです。
 歴史を知るうえで綿密な調査も行なわず、八幡の歴史を知らない官僚がまず地元の住民の意識を全く考慮せず勝手に名付けてしまった感があります。

八幡にある新しい「東高野街道碑」とは!?

 なぜ今「東高野街道」なのか、いつ「東高野街道」になったのか詳しい方があれば是非一度原稿に書いて教へて欲しいと思っています。昭和2年から4年頃には「三宅安兵衛遺志碑」が八幡の地に凡そ100基程建立されたと聞いていますが、現在、実際に八幡で確認されているのは91基だったと思います。
 「三宅安兵衛遺志碑」建立の歴史は中村武生氏(京都女子大学非常勤講師)の論文によってよく知られるところですが、松花堂の所有者であった西村芳次郎の進言や協力が大であった事を知りました。その西村芳次郎が進言して建てたとも思われる「高野街道碑」が松花堂庭園近くの月夜田交差点にあります。西村芳次郎は男山東麓の道を「高野道」にして八幡観光につなげたいとの思いもあって建碑を思い立ったものの洞ヶ峠から志水の離れ「中ノ山墓地」の近くに立てるのが精一杯の様でした。以前90歳を超えた古老に高野道の所在を聞いたところ、“志水の離れでしょ”と即座に返ってきました。洞ヶ峠が志水の離れにあるとの感覚だったと思えてなりません。一般に志水の離れに当たる「中ノ山墓地」のように、墓地は大概が地区の離れや境界の地に多く存在します。
 さて、男山東麓の道に「東高野街道」と称する石碑が13基も建立されて一種の異様さを感じます。昭和30年代後半か40年頃に開通した「新道」にも数基建立されています。丁寧さも限度を超えている感があります。近年俄かに建立された「東高野街道」の道標をよく観察すれば、建立年月日や建立主体が記されていません。常識では考えにくいことですが、そこには何か意図があるのでしょうか、考えが及ばなかったのでしょうか?f0300125_19194589.jpg
 石碑・道標に興味を持ってから、いつもその意味について思い出す文章があります。=歴史的な石碑や道標が指し示す「史蹟」は、『あたかもその地域の唯一の歴史のように、旅行者のみならず、住民にさえ認識され出すのである。石碑が後世にこのような影響を与えるものである以上、その建設過程は追及されなくてはならない』(中村武生『花園史学』2001.11) 建設過程とは個々の石碑
がいつ、誰によって、何の目的によって建立されたか等を石碑に銘記する事であります。それによって現在の我々にとって郷土の文化財研究の貴重な遺産となっています。また石碑や道標が観光客に役立つのも表だけでなく裏や側面に書かれた意味を理解し、設置の背景をも読み取ろうとするからです(中村武生監修『中村武生とあるく洛中洛外』2010.10・京都新聞出版センター)=
以上一一
 
     
『一口感想』より

道標について、大変研究(調査)されていて、八幡について正しく伝えていくことが大切だと思います。谷村さんの研究姿勢に感動しました。大変勉強になりました。色々とお尋ねすることがあると思いますが、今後共に宜しくご指導くださいませ。(S.Y.)
現場を観ての説明で非常に説得力があり、よく分かりました。(G.K.)
本日はありがとうございました。東高野街道が、まったく別のものであるという事実を知り、びっくりしました。精密な調査の中、わかりやすく説明していただきとても勉強になりました。(M.Y.)
各地の道標を現地で確認され、江戸時代以前の八幡の及び八幡へ向かう道が人々にどの様に呼ばれ見られていたかが判りました。また、お地蔵さんが道標にもなっていたことを初めて知りました。(T.Y.)
大変ていねいに説明されており、おどろきました。(S.K.)
古道や道標が整備され、話題性のある様なものがつくりだせたらいいなぁと思いました。(T.M.)
大変多くの資料を準備され、詳しく分析されており感心いたしました。(K.K.)
 
                                
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# by y-rekitan | 2018-03-26 11:00 | Comments(0)

◆会報第84号より-03 古墳と鏡⑧

シリーズ 「八幡の古墳と鏡」・・・⑧


八幡の古墳と鏡(8)


ー八幡茶臼山古墳と石棺せっかんの謎ー


濵田 博道 (会員)


はじめに

 八幡茶臼山古墳は1960年代(昭和40年代)からの日本住宅公団による八幡丘陵大規模開発に伴い峰もろとも消滅しました。f0300125_93738100.jpg現在、古墳のあった場所から約100m東方「男山第三中学校グランド」南東の道端に「茶臼山古墳跡」の石碑(三宅碑)が移築されています。それが古墳のあったことを示す現地での唯一のあかしです。古墳の最初の学術的発掘は1915年に行われました。すでに盗掘されており石棺(=死者を葬るのに用いた石製の施設。現在京都大学文学部に屋外展示。)も穿(うが)たれていました。八幡の他の古墳の副葬品から推察すると鏡も副葬されていたと考えられますが、副葬品はほとんどすべて持ち去られていて、鏡は出土していません。ですから今回の「古墳と鏡」いうテーマには合わないかもしれません。しかし、残されていた石棺は特筆すべきもので、八幡ではこの古墳を抜きに古墳時代は語れないと思いますので、取り上げました。

八幡茶臼山古墳とは

 梅原末治氏は『京都府史蹟勝地調査会報告 第四冊(1923)』の中で、次のように述べています。“この古墳は大正4年(1915年)5月、偶然の機会に発掘、竪穴式石室内に珍らしい石棺があったことで知られている。茶臼山古墳は淀川の南岸にそびえて京都西の要衝を占める男山鳩ケ峯の南方山続きにある。f0300125_10372764.jpg その位置は鳩ケ峯に接して山勢が著しく狭まったところを切り通して八幡市から枚方市楠葉に通じる道路の南側にある峰の最高部にあたり、標高82.8m(住宅公団調査:88m)を示している。東西は遮るものがない。南は遠く甘南備山に対し山城・摂津・河内の平野を見下ろす形勝の地を占めている。”(要約)。

古墳発掘に到る経過

 古墳は1915年と1965~66年の二回にわたり発掘されています。一回目の発掘のいきさつについて前掲書では、
 “この土地所有者・八幡市字志水の祝井源太郎氏の話によると、もとは塚の頂上に一老松があったが、国の陸地測量部が地形測量を行った際、測地の基点を定める必要があって伐採した。その樹の根が枯れたので薪にしょうと思い、掘り起こそうとしたところ、表面下約1.8mのところで偶然一大平板石を掘り当て、除いたところ、下に一つの大きな石棺があった。それで警察官立合の下、発掘し、天井石を除いて内部に入ったが、室はすでに盗掘に遭い、石棺のような蓋には身体が入るような穴が穿たれており内部には一つも遺物がなかった。棺の東側の土砂中から刀身、石釧等を発見しただけだった。よって石室も棺も原形を保っていない。”(要約)と述べています。

石室の構造

 古墳の主体部は石不動古墳・東車塚古墳・美濃山王塚古墳のような粘土槨と違い、石室でした。八幡では茶臼山古墳と西車塚古墳の二基が竪穴式石室です。茶臼山古墳はこれに加え葺石・埴輪を備えていることから被葬者の格は高かったといえます。この竪穴式石室については、次のように記述されています。
 “方向は山軸の方向と一致。頂部表面から約2mで天井石の部分に達する。天井石は全て取り除かれ、側壁はほとんど破壊せられて原形を残している部分は少なかった。残存部に8cmほどの小丸石を敷いて棺を置き、その周囲に長さ20cm内外の水成岩の小平板石を煉瓦状に積み重ねている。各石の空所には径1.5cm強の白色丸形の河石を加えて、4.3m×2m(他端1.5m)×高さ1.2m余の石室を作り、上部は凝灰岩の天井石4枚で覆って、さらに3cm弱の粘土で包んでいる。壁面及び天井石の内面には朱を塗っている。天井石の内面に朱がやや多量に付着。向日市の妙見山古墳の石室、寺戸大塚前方部発見の小石室と全く同式。同種の石室の例としては大阪府藤井寺市の津堂城山古墳がある。それらの古墳は年代が推定可能なので茶臼山古墳も推定可。天井の板石の一つは長さ1.8m×1m×10.6cm。原位置の順序は不明。”(前掲書要約)。現在、古墳築造年代は4世紀後半と推定されています。1990年頃までは八幡で一番古い古墳という説が有力でしたが、西車塚古墳・ヒル塚古墳の埴輪・副葬品などの研究が進み、現在では複数説あります。しかし古墳時代前期後半の八幡の中では古い古墳であったことは間違いありません。

石棺の形式

 “この石室内の石棺の位置は少し西北に偏り、西壁に接してあった。上部また天井石と非常に接近してその間はわずかに20cm弱。f0300125_10155100.jpg
 棺は凝灰岩で作られ大形。身と蓋との二部から成っており共に一石を彫り抜き作られている。形式は身・蓋共に割竹形に近い。身は290cm×98cm(同他端63.6cm)×高さ54.5cm。内に250cm×70cm(同尾部42cm)×高さ44cmの遺骸を容れる部分を穿つ。大体の形状は河内玉手山安福寺の手洗鉢となっている割竹形石棺に似ているが、6個の縄かけ突起は茶臼山のものにはない、また安福寺石棺の側面下周の界線小突起は茶臼山石棺では著しく増大。長さ6.4cm、厚さ6.7cmの大形の突帯となって周りをめぐる。大形突帯は縄掛け突起の用途と異なる。身の外側と接する部分に前後各2、側4個の4.5×2.1cmの小穴を穿つ。この穴の配列は前後左右でその距離は異る。
 蓋は2.9m×1m(尾部70cm)×46.4cm。内面は身の掘込みに対応する精巧な湾曲の彫抜きを加え、外面には前後に各1個の長い縄掛け突起を造り出している。身と合わせて、現存する遺品中特殊な形式と云うべき。割竹形と家形棺との中間型を示しているのは、石棺発達の研究上重要。”(前掲書要約)。

遺物

 遺物については、「わずかに取り残した石釧(いしくしろ)等12の装飾品が酸化した刀身などと混じって雑然と棺の東側に散在していただけで、副葬品の原配列は不明。」です。発見の品目は次の通りです。
“一、石棺東側よりの発見品
石釧   完全なもの2個   破片2個分
刀身   ほぼ形が完全なもの2口
断片   十数口分
鉄族   数個
二、棺の西側の土砂中から発見
金薄片  1片
三、石室上部の封土中から
和同開珎 1個

 これらのうち、石釧はいずれも碧玉製で、一つは径7cm、厚さ1.2cm。表面に放射状の彫刻。もう一つは径7.9cm、厚さ1.5cm、表面に三重の突帯を巡らしている。
f0300125_1114223.jpg  破片の一つは現在の神戸市東灘区岡本町発見の釧と同式。その放射状の彫刻は表裏の両面にあって精巧なもの。他の3片は合してほぼ1個の釧の大部分にあたる。石質はなはだしく分解。同一の釧は八幡市西車塚古墳からも出土。
 刀身は破砕したものを合すれば十数口分。いずれも直刀。一つは長さ1m。他は鋒の部分が欠。さや以下79.4cm。
 和同開珎1個は壊れて2片。その発見の位置から考えると、石室の副葬品ではない。後代のもの。”(前掲書要約)と述べています。
 1969年の再調査では、“北面する全長50mの前方後方墳であること。主体部の墓壙は9.4m×6mの長方形で深さは3.2m、その南辺にU字形に彫り込まれた排水溝があり、南へ16m続き、その端末は墳丘斜面に露出して消滅している。古墳の前方部前面で径10cm~30cmの川原石、割石による葺石を確認。出土遺物は、墓壙主体部上面から埴輪5個、土中から埴輪片、鉄器片。古墳とは無関係の寛永通宝2個、前方部葺石上部から検出。(注1)”とあります。

埴輪について

 1915年の調査で“破壊された古墳の中腹の部分に円筒埴輪の破壊破片が無数に散在”とありましたが、1969年の調査報告では、“原位置を保った埴輪を5個検出し、墓壙上部に方形に並べられていたと推測される”と述べています。この残された埴輪がその後の円筒埴輪編年研究や古墳の築造年代研究に役立ちました。
 筑波大学教授川西宏幸氏は山城地域を中心とする円筒埴輪を研究し、その成果を1978年(昭和53年)『考古学雑誌』第64巻2号に「円筒埴輪総論」として発表しました。(注2、この論文の中に八幡茶臼山古墳埴輪名もみえます。)そこに掲載された古墳の編年表は、全国の古墳研究者を驚かせました。それまでの研究では、大阪府羽曳野市の誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳(応神天皇陵)、堺市の大山(だいせん)古墳(仁徳天皇陵)は、古墳名と被葬者が確実に一致する古墳として、それぞれ4世紀末と5世紀初頭の基準古墳とされてきたのですが、川西教授の円筒埴輪研究によれば、両古墳に使われている円筒埴輪は5世紀中葉をさかのぼることはないというのです。当時、川西論文に接した古墳研究者の反応は、無視しようとする者、学問的な手続きに誤りがあると主張する者、諸手を挙げて賛同する者、そしてその内容をより精緻に深化させようと試みる者、と様々でした。その後、川西教授の提唱した円筒埴輪編年は、全国各地の円筒埴輪研究の中で検討され、その大綱の正しさが立証されることになります。円筒埴輪を古墳の築造年代を計る物差しに利用することができれば、これまで古墳の形や陵墓名を頼りに年代を求めていたのが、より確実な年代を与えることが可能となります(注3)。
 川西氏は円筒埴輪を「ハケ」「突帯」「焼成」「透かし孔」に四分類し、それらのポイントを組み合わせて、三世紀後半から六世紀までをⅠ~Ⅴ期の五期に区分しています。
   埴輪Ⅰ 3世紀後半~4世紀
   埴輪Ⅱ 4世紀中葉
   埴輪Ⅲ 4世紀後葉
   埴輪Ⅳ 5世紀前~中葉
   埴輪Ⅴ 5世紀後葉~6世紀
 その研究成果を山城周辺の地域の埴輪にも当てはめて考えることができるとし、同じ古墳から出土した須恵器や副葬品と比較することによって、その編年観を補強しました。川西氏によるこの研究は、製作技法から形式編年を確立したといえ、現在の円筒埴輪研究の基礎となっています(注4)。八幡市や京都府の『埋蔵文化財発掘調査概報』、埴輪関係の書物には、八幡の古墳出土の埴輪の年代を決定するのに「Ⅱ期」「Ⅲ期」「Ⅱ-B形式」などの言葉が出てきます。それは川西氏の編年表によるものです。茶臼山古墳出土の埴輪は「川西編年Ⅱ」です。

石棺

 先に茶臼山古墳の石棺について凝灰岩とありましたが、これは九州の阿蘇山の噴火によってできた石(阿蘇石)ということがわかっています。阿蘇石石棺の第一人者で宇土市教育委員会の高木恭二氏は次のように述べています。「遠距離を移動して畿内に持ち込まれた石棺は、すでに四世紀後半の段階から知られており、(中略)阿蘇石(阿蘇溶結凝灰岩)製舟形石棺が京都府八幡市茶臼山古墳、そして若干遅れた五世紀初め頃には兵庫県御津町中島石棺が持ち込まれている。この阿蘇石は基本的には九州にしか分布しない石であり、当然、遠路九州から運ばれたものである。(注5)」。畿内に持ち込まれた阿蘇石石棺は21例あり、それらすべてが西九州の有明海沿岸部の熊本県内で製作されています(1993年現在)。その中で、茶臼山古墳の石棺は最も早く畿内に運ばれています。高木氏はさらに“阿蘇石の石棺には3種類、製作地も3カ所ある。それらは①熊本県北部菊池川下流域②中部の宇土半島③南部の氷川流域である。そして製作された場所によって石棺の形態に相違が見られ、色調の違いなども製作地推定の根拠となる場合がある。”(要約)と述べています。茶臼山古墳の石棺は氷川下流域から運ばれた石材です。この石材は畿内では茶臼山古墳を含めた先の2例に加え、和歌山県大谷古墳石棺の計3例が報告されています。これらはすべて水運の要衝の地にあります。これに対し、継体天皇の陵墓とされる高槻市の今城塚古墳から発見された石棺は宇土半島製の阿蘇石で、ピンク色をしており、「大王の棺」といわれています。畿内には最多12例あります。

割竹形石棺と舟形石棺

 梅原氏は茶臼山古墳の石棺を割竹形石棺と述べていますが、現在では舟形石棺とされています。二つの石棺はどう違うのでしょうか。
 石棺は身を一石からくりぬいてつくった刳抜式(くりぬきしき)石棺と複数の部材を組み合わせてつくった組み合わせ式石棺とに分けられます。両方とも首長の石棺として用いられました。その中で刳抜式には断面が正円形に近い割竹形石棺と断面が扁平で両端が舟の舳先(へさき)のような弧状の舟形石棺に分けられます。舟形石棺は4~6世紀に熊本、佐賀、大分、島根、京都北部、福井、群馬、茨城、宮城など、王権から政治的に遠い地域で在地の石材を用いてつくられたとされています(注6)。

石棺の輸送手段とルート

 石棺は九州・熊本から1000km以上も離れた八幡までどのように運ばれたのでしょうか。
関西大学教授繭田香融氏は「(三世紀から四世紀初めにかけて)その時代の陸上交通は、樹木の繁茂、河川の氾濫、野獣・毒蛇の棲息などの自然条件によって阻害されていたばかりでなく、道路の開発や橋・渡しの設備も十分でなかったし、さらに『魏志倭人伝』に物語れたような小国の分立という政治的条件が、これをいっそう困難なものとしていた。したがって、人物の移動や物資の流通も、多くのばあい、海上もしくは河川を利用する水運によらねばならなかったであろう。(注7)」と述べています。高木氏は次のように言います。「西九州の有明海沿岸から東シナ海・玄界灘を通って瀬戸内海に入り、そして畿内まではかなりの距離がある。その距離を石棺という重量物を運ぶには海上輸送以外には考えられない。律令期における官物輸送が、大宰府から都まで約三十日かかり、それより長い距離でしかも二、三百年も前の時代において石棺を海上輸送するにはやや多めに見積もって四十日ぐらいはかかったであろう。
 古代の海上輸送においては、夜間の陽が出ていないときに航行したとは考えられない。そこには、当然泊りによって、しかも海岸にそって航行するいわゆる地乗り航法がとられたであろうから、船は必ず港に寄港したり、停泊したであろう。そうなれば当然、泊りや停泊地での水や食糧の調達が行われたであろうし、そこに人々の交流が必然的に生まれたものと思われる。単純に計算すれば、三、四〇カ所の地域と西九州の地域の人々との友好的な交流が生まれたのは当然のことで、そこに婚姻や養子等の、同族関係が生まれたとしても不思議ではない。そして、寄港地に近い海が見える丘の上に古墳が築かれ、そこに西九州地域と同族関係を結んだ人が葬られ、そこに石棺が使われたのではなかろうか。石棺が移動するという過去の出来事を調べることによって、古墳時代における地方と畿内との文化交流がいかに活発であり身近であったかがよくわかる。このような個々の現象を詳細に検討することが、古代社会の復元に近づく一歩となるのではなかろうか。(注5)」。

石棺の海上輸送実験と修羅しゅら引き

 石棺は本当に海上輸送によって九州から畿内に運ばれたのでしょうか。それを確かめる実験航海が2005年7月24日から行われました。熊本県宇土市から7トンの石棺を載せた台船を曳いて、手漕ぎの古代船が大阪に向けて出発したのです。漕ぎ手や伴走船は水産大学校に協力してもらい、途中22の寄港地を経て1か月以上をかけ、8月26日に大阪港に入港し実験は成功しました。漕ぎ手はたいへんな労働だったようです。今城塚古墳の石棺を運ぶ実験では陸上は修羅と呼ばれるそり状の運搬用具を用い、150人以上で石棺をひきました。これにより石棺が陸上では修羅によって運ばれることが証明されました(注8)。現在、古代の修羅はいくつかの遺跡から発掘されていますが、中でも1978年大阪府藤井寺市の三ツ塚古墳の周溝から見つかったものが最大で全長8.8m、最大幅1.9m、重さ3.2トンを測り、二股に枝分かれしたアカガシの一木から作り出されています。(実物が大阪府立近つ飛鳥博物館に展示されています。)
 茶臼山古墳の石棺はどの地で降ろされ、古墳の場所まで引き上げられたのでしょうか。最近の研究で、修羅で運ぶには最低4mほどの道幅が必要ということがわかってきました。ということは川津から茶臼山古墳がある峰の頂上まで修羅の通った跡には4m以上の道が通じていたことになります。150人ほどの人力を使って石棺を引き上げ、そこに道ができていったのです。この地には6世紀初め継体天皇が樟葉宮で即位したとの『日本書紀』の記述があります。また7~8世紀にかけて楠葉平野山瓦窯で瓦が焼成され、楠葉(樟葉)の津から水上輸送で大阪四天王寺まで瓦が運ばれていったことを考えると、男山から楠葉にかけた地域は、古代において興味深い地であったといえます。

石棺を輸送した人物・被葬者像

 このように多大な日数、人員、労力を使って九州から石棺を運ばせ、茶臼山古墳に葬られたのはどのような人物だったのか。大阪教育大学の江谷寛氏は次のように述べています。
「(茶臼山古墳の石棺は)九州の阿蘇溶岩で作られた舟形石棺である。舟形石棺は有明海沿岸を中心に西九州に最も多く、やがて各地の豪族層にとり入れられ、短期間のうちに広まったものである。(中略)水運を考えれば南山城でも南河内も九州とは直結していたということができる。とすれば、茶臼山古墳の被葬者と関連のある四世紀の豪族とは誰であったのだろうか。現在の京都市伏見区は古代の紀伊郡であり、これが紀氏と関連のあるものと考えるならば、大和政権を支えた水軍の紀氏の活躍は(中略)明らかである。(中略)茶臼山古墳に九州の阿蘇溶岩製の舟形石棺を運び込めるのが紀氏以外にないことが推定できる。(注9)。」「木津川、大和川、紀ノ川などが紀氏によって支配されていたとすれば、九州の阿蘇溶岩の石棺材は容易に運ばれたに違いない。(注10)」
 『播磨国風土記』(715年頃成立)に、景行天皇(第12代)が印南(いなみ)の別嬢(わきのいわつめ)に求婚しに行こうとして高瀬(大阪府守口市高瀬)の渡しにさしかかったところ、渡し守の紀伊国の小玉(おたま)が「私は天皇の家来ではない。渡りたければ舟賃を払いなさい。」といったので、天皇は頭の弟縵(おとかずら)を賃にすると舟の中は縵の光明で満ち満ちたという話があります。大阪府茨木市の将軍山古墳(古墳時代前期、前方後円墳、107m)の石室は紀の川の結晶片岩、海北塚(かいぼうづか)古墳(古墳時代後期)も緑泥片岩を用いており、淀川水系と紀伊との関係を示しているといわれます。紀氏の紀伊国は「木の国」とも書かれ、すぐれた木材を産出するところから名付けられています。船材の楠を求めて九州方面にも出かけ、造船技術が発達しており、同族が瀬戸内各地に点在し、内陸航路のみならず朝鮮半島にまで力をのばしていたとのことです(注11、注7)。茶臼山古墳の被葬者は誰か、他にも九州と深いかかわりを持つ豪族説、在地の豪族説などがあり、今後の研究が期待されます。
 次回は、「横穴墓と鏡」について考えてみます。
つづく一一

(注1)京都府教育委員会『埋蔵文化財発掘調査概報』,1969
(注2)論文は川西宏幸『古墳時代政治史序説』,塙書房,1988に再録されています。
(注3)大阪府藤井寺市教育委員会 教育広報『萌芽』第6号,1993
(注4)関本優美子「百舌鳥・古市古墳群と円筒埴輪研究」『百舌鳥・古市の陵墓古墳』,大阪府立近つ飛鳥博物館,2011
(注5)高木恭二「石棺の移動は何を物語るか」白石太一郎編『新視点日本の歴史2古代編』新人物往来社,1993
(注6)『日本歴史大辞典』小学館より抜粋
(注7)繭田香融「古代海上交通と紀伊の水軍」『古代の日本 第5巻』,1970
(注8)読売新聞西部本社編『大王のひつぎ海をゆく』海鳥社,2006
(注9)江谷寛「畿内隼人の遺跡と伝承」『舟ヶ崎正孝先生退官記念畿内地域史論集』,大阪教育大学歴史学研究室,1981
(注10)江谷寛「畿内隼人の遺跡」『同志社大学考古学シリーズⅠ 考古学と古代史』,1982
(注11)岸俊男「紀氏に関する一試考」,『近畿古文化論攷』,橿原考古学研究所,1963(注7)参照


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# by y-rekitan | 2018-03-26 10:00 | Comments(0)

◆会報第84号より-04 高野街道

八幡市誌の高野街道

田中美博(会員)


1.はじめに

 昭和55年に発行された「八幡市誌」(※1)は戦後に編集された八幡地域の歴史を表す本である。しかしながらその第二巻に疑問のある箇所があり調査したので報告したい。それは、第二巻p13~14の高野街道の項にある記述である。その文章は「建久六年(1195)十月二十九日・・・大炊殿に集まった公卿達は、暁の鐘が鳴ると同時に、唐車と騎馬で奈良春日社へ参詣のため出発した。・・・九条から伏見を通り、宇治津から船に乗り、巨椋池を渡って、美豆辺に上陸し、八幡宮に参拝して後、高野街道を経て南都佐保殿へ着いたのは己始刻(午前十時頃)であった。明月記(めいげつき)」との記述である。これは鎌倉時代の公家で歌人であった藤原定家の日記である明月記からの引用とされている。

2.最初の疑問

 八幡市誌の上記の記述を読んで最初に不思議に思ったのは、f0300125_21501745.jpg➀所要時間が不足ではないか、また、②八幡から奈良へ行くのになぜ高野街道を利用したのか、の2点でした。
 佐保殿の場所は明確ではないが、南都奈良の市中にあったとされている。八幡市誌では京都中心部を出て宇治津から巨椋池を船で渡り美豆辺りに上陸して八幡宮に参拝し、そのあと高野街道を経由して奈良まで行ったとしている。たとえ八幡からは最短の田辺、木津を経由しても、京都中心部-宇治-八幡-奈良までの全行程はおよそ58kmある(地図参照)。さらに八幡宮に登山し参拝する時間も必要である。唐車と舟に騎馬も合わせて時速6km出たとし、暁の鐘がたとえ午前0時だったとしても午前10時頃に佐保殿に着くのはまず無理ではないか。
 もう一点は、八幡宮に参拝ののち奈良へ行くのに高野街道を通ったとしていること。添付の地図を見てわかる通り、八幡から奈良へ行くなら田辺、木津を経由するのが最短で、洞ヶ峠を越え河内の側へ遠回りした理由がわからない。

3.原本の記述

  では明月記の原本の翻刻版を見てみよう。明月記の翻刻は国書刊行会発行(※2)が一般的であるが、建久六年分はほとんどが欠本で、建久六年十月二十九日分は記載がない。十月二十九日分は彰孝館所蔵を底本に補遺として群書類従完成会が翻刻を発行(昭和46年・1971)していた(※3、添付資料参照)。添付翻刻のとおり、宇治から佐保殿までの記述は「於宇治乗御御船、(源)顕兼拝儲北辺、即御車於八幡伏拝下御如例、献御沓、巳始剋着佐保殿、大将殿別御宿所・・」となっている。すなわち、宇治で船に乗りまた車に乗っている。
 さてここで大切なことは、八幡市誌にある、「巨椋池を渡って美豆辺に上陸」、「高野街道を経て」を意味する言葉が明月記に無いことである。これは市誌執筆者による根拠のない飛躍ではないか。
 では「八幡宮に参拝」はどうか?この根拠になっているらしい「於八幡伏拝下御如例」という言葉があるがこれは何を意味するのだろうか、次の項で述べる。


 
4.於八幡伏拝

 明月記の他の日に「於八幡伏拝下御如例」と同様の記述がないか調べた。
先ほどの時から30年以内に3つの例があった(※2)。これらはいずれも京都から南都奈良へ向かった時の記述である。
於宇治橋下馬渡之、於八幡伏礼下馬、入丈六堂休息、・・、於泉木津乗船渡之、」
正治元年(1199)2月22日
儲宇治船津・・下船騎馬於八幡伏礼、又候御沓、自是前陣於贄野池乗輿、」
建仁3年(1203)7月16日
宇治橋以西、建久元久之往時如浮眼、奉礼八幡、伏拝過贄野池、」
寛喜3年(1231)8月19日

 原文には読点はなかったことを考えれば、これらはすなわち、宇治川を渡って奈良へ向かう途中に八幡伏拝あるいは八幡伏礼という場所があり、そこで乗物から降りて八幡宮に向かって拝む、というのが通例だったことを示している。また、➀では木津で川を渡った、②と③では井手町多賀にあったといわれる贄野池のそばを通ったことから木津川の東側を奈良に向かったことに間違いがない。もし石清水八幡宮に来て参拝したなら、建仁三年八月十五日の放生会へ参列のように詳細な記述があるはずで、「於八幡伏拝下御如例」など短い言葉で済ませる事柄ではない。f0300125_21414647.jpg
 今でも宇治市と城陽市の境界にあたるところの道の西側に伏拝八幡宮(別名御拝(おがみ)茶屋八幡宮)という小さな神祠がある(写真参照)。ここは小高く、石清水八幡宮のある男山を望見できたので、旅人はここから八幡宮を遥拝していた。このあたりを古くから「伏拝(ふしおがみ)」と呼んでいたと宇治市史巻6に記されている(※4)。
 以上のことから、京都からまっすぐ南都奈良へ行く途中で八幡宮をおがんだことは明らかである。なお、前述の行列の速度や所要時間についてはさらに研究が必要であろう。

5.公衡公記きんひらこうき

 八幡市誌には西園寺公衡の書いた公衡公記の記事が引用されている。そこでは、「三日(弘安十一年=1288=正月)今日還御也、家君・予(西園寺実兼と筆者西園寺公衡父子)等申暇、直可参春日社 自生津乗舟、可着木津、自木津可乗車、之支度也」とあることで、前項の明月記と共に八幡が京―八幡―奈良の参詣コースの要点となりつつあるとの説の補強に使われている。
 まず、この日は弘安十一年正月三日としているが、翻刻(※5)では二月三日が正しい。
この記事は院政を行っていた後深草上皇の石清水八幡宮行幸のとき、参詣行事が終わったあと公衡達2人が別行動しようと計画した話である。八幡から奈良へ行くには美豆に近い生津から舟で木津川をさかのぼるルートがあったことを示しているのみである。京都―八幡―奈良の定例コースがあったとするにはこの例だけでは不足である。また高野街道はルートに入っていないのに「高野街道」の項の補強資料としている点にも疑問がある。

6.まとめ

 高野街道の項にある「巨椋池を渡って美豆辺に上陸」、「八幡宮に参拝して後」、「高野街道を経て」という記述は、引用された明月記の箇所には根拠がなかった。また、引用された公衡公記の記事も高野街道に関係のないものであった。

引用資料
(※1) 八幡市誌 第二巻 p13~14 発行 八幡市 昭和55年6月25日
(※2) 明月記 発行 国書刊行会 第一巻 明治44年9月30日、第三巻 明治45年2月29日
(※3)史料簒集〔期外〕明月記 第一 発行 ㈱続群書類従完成会 昭和46年8月25日
(※4)宇治市史6 宇治川西部の生活と環境  p713 発行 宇治市役所 昭和56年3月1日
(※5)史料簒集〔第一期〕公衡公記  第一 p101  発行 ㈱続群書類従完成会 昭和43年6月30日
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# by y-rekitan | 2018-03-26 09:00 | Comments(0)

◆会報第84号より-05 台場跡

「台場跡講座から学んだこと」

野間口 秀國(会員)


 人は何歳になっても新しい知見を得ることで、驚いたり、嬉しくなったり、「まさに目から鱗が落ちるとは・・」などと思うのは私だけではないだろうと考えております。日本近世史研究家の髙島幸次氏が 『月刊島民 中之島』(*1)にて私にとってとても興味あることを書かれていたので、そのまま引用させていただきます。曰く; 講義でも講演会でも、いつも「WAO」という話をしたいと思っているんです。「W=わかりやすい / A=新しい知見がある / O=おもしろい」。わかりやすくて面白いだけでなく、何か新しい知見を持って帰ってもらうことが大事じゃないかなと。= 引用終わり =

 今年の1月20日、高槻市立しろあと歴史館館長の中西裕樹氏による 「大阪周辺の台場と楠葉台場」 と題する講座に参加しました。 昨年の7月、9月、11月、そして今回と4回にわたり開催された “楠葉のお台場 – 激動の幕末と枚方 –“ シリーズの最終回でした。この回は私の日々の生活の場に近い楠葉台場跡に関する内容で、私にとっては前述の「WAO」のある講座でした。既に受講した3回の講座は、それぞれ、初回の家近良樹氏による “幕末維新期とはどういう時代であったか ~ペリー来航から西南戦争までを視野に入れて~ ”、続く第2回は笹部昌利氏より “勝海舟の政治抗争と「台場」の意義 ” を、更に第3回は冨川武史氏の “江戸湾防備から大阪湾防備へ ~台場築造にみる幕末の海防体制~” と題したお話しであり、台場の築造に関連する時代背景や政治的な動向と関わった人々、さらに幕末の海防体制など、台場に関しての多くの歴史的な事象や人との関わりなどを学べました。 従って第4回目は、そのような時代背景の中で造られた楠葉台場築造の目的や経過、存在意義、そして梶原台場との関連が良く理解できる「W=わかりやすい」講座でした。

 講座の中で、幕末の時代に京都を護るため、外国船の打ち払いを目的として、大阪湾岸に沿って、南は和歌山から西は明石にいたっておよそ26カ所の台場が存在したことが話されました。それらの台場跡で、和歌山の友ヶ島の砲台跡、大阪・堺市の堺南台場跡、兵庫県明石市の砲台跡、和田山の砲台跡など、既に以前に足を運んだことはありましたが、いずれの場合も今回の一連の講座で学んだことに関係なく訪れたこともあり今思い返すととても残念な思いでありました。それらの中で興味深く思えた一つは堺南台場跡のことでした。昨年5月に訪れたこの堺港台場跡一帯は広い公園となっており、テニスコートや相撲場などもあります。話は少し脱線しますが、公園の一角に「蘇鉄(そてつ)山」 と呼ばれる山があります。山に興味のある方はお気づきかも知れませんが、この山は一等三角点のある標高6.96mの日本一低い山として国内でも有名な低山なのです。山登り好きの私は、この低い山に登ったあと、近くのお寺で志納金を納めてはがきほどの大きさの “「蘇鉄山」登山認定証” をいただいておりました。認定証にも書かれてあるように蘇鉄山山頂には一等三角点があることからも、改めてこの山(場所)が台場としての適地であっただろうことも素直に頷けるものでした。このことに気づかされたのも正に「A=新しい知見がある」講座となったのです。

 さて大阪湾から離れ、淀川を遡り、川の左岸の京都の入り口(現在の枚方市楠葉の地)に攘夷派や長州藩の入京を取り締まる目的で、文久3(1863)年、松平容保(かたもり)によって八幡への台場の設置が建白されました(*2)。八幡には設置に適した場所の確保が困難なことより、現在その跡の残る楠葉に台場は設置されました。楠葉台場は、前述の大阪湾沿岸の台場などとは設置目的が少し異なる事も興味のある点ではないかと思いました。今日では国指定史跡として整備されており、現地に建つ石碑や説明板を訪れる人の姿にふれることが以前に比べて増えたようです。この楠葉台場と目的を同じにして、同時期に川向かい(淀川右岸)の地に今一つの台場である梶原台場も建白され設置されました。f0300125_20535544.jpg建白時の設置予定地は山崎だったのが、(左岸の八幡と似たような理由で)狭い範囲に多くの家屋が並んでいた事や、地元の神社を避けて現・高槻市神内(こうない)の地に場所を移して設置されたのです。講義で「この台場跡は平成19年(2007)に構造と立地が判明したものである」とのことが話されましたが、現在ではこの地は「文化財包蔵地」となっており、残念ながら楠葉台場跡のようなものを見ることはできません。しかし現地に足を運ぶと、そのわずかな痕跡から当時を偲ぶことができます。

 ところで、私たちが今日理解している多くの歴史的出来事は、石文や古文書など、何らかの形で文字として残るものに準拠していること、もしくは発掘等によって発見された遺物などに依ってその根拠が明らかであることが求められます。私の手許には平成18年(2006)3月発行の 『史跡をたずねて 改訂版』(*3)があり、その中には、楠葉台場跡と淀川を隔てた島本町高浜の地に設置された「高浜砲台跡」(碑本体の地名表記は高濱)碑の説明が記載されています。f0300125_2103814.jpgそしてこの碑が昭和55年(1980)に建てられたことも分ります。また、実際には 「これより北東六五〇米のところ」の河川敷にあったことも碑の右側面に併せて書かれております。しかしながら、梶原台場の研究によってこの「高濱砲台跡」は『ヒストリア 第217号』 に掲載の地図(同紙の51頁)にも見られますように、実際には「高浜船番所」であった場所であり、地図には「高浜台場伝承地」と書かれております。

 私は昨年の8月5日に、三川合流の地にて開催された夏祭り行事の一環で、祭り会場近くの宇治川に架かる御幸橋付近の乗り場から、ゴムボートで島本町に渡るイベントを体験しました。ボートは岸を離れ、宇治川を背割提に沿って下るとほどなく木津川の流れと合流します。さらに下ると進行方向右からの桂川と合流して三川が一本(淀川)となります。ボートを右岸に漕ぎ寄せて島本町の高浜渡し場跡あたりに接岸し、振り向けば橋本の地が望めました。上陸して、かつてはゴルフ場のあった河川敷を横切り、阪急電鉄京都線の水無瀬駅に向かう途中の堤防近くに「高浜砲台跡」碑は建てられています。

 前述のように「高浜砲台跡」碑が建てられたのは昭和55年(1980)です。手許の本(*3)の巻頭には、初版本は昭和63年(1988)3月に発行されたことも書かれてあります。そののち、時を経た平成18年(2006)に改訂版が発行されており、梶原台場跡の構造と立地の判明がなされたのはその翌年、平成19年(2007)です。このように、改訂版が刊行された1年後に新事実が明らかになっており歴史の不思議さを感じずにはおれません。講座では「楠葉台場跡の研究に続く梶原台場跡の研究が従来の歴史の記述の一部を改めた」とのことが語られ、私にとってまさに「A=新しい知見がある」講座となりました。

 講座が終わっての帰り道、改めて樟葉駅で列車を降りて楠葉台場跡を訪ね、現場にある説明板や石碑を読み直してみました。f0300125_21145086.jpg説明板には、平成23年(2011)に国の史跡になったこと、また「陣屋のあった橋本集落の南方にあったことから橋本台場とも呼ばれていた」などについても書かれてあります。また説明板にある台場の図面には “河州交野郡楠葉村関門絵図一分計”(全体を10に分割した絵図の1つ)との説明もあります。以前から石碑を何回ともなく見ており分かってはいたのですが、現場に建てられた三宅碑には「戊辰役橋本砲臺塲跡」と刻まれています。「何故、橋本なのだろう」と私なりに改めて考えてみたのですが、その第1の理由は、松平容保(かたもり)によってなされた台場設置建白の地が「八幡」であったこと、第2に、関門絵図に「交野郡楠葉村」と書かれていた事実が、碑が建立された昭和3年(1928)の時点で公表されていなかったのではないだろうか、そして第3には、戊辰役は鳥羽、伏見、淀、八幡、そして橋本と戦いの場所が南へ移り、京都方から見ると戦いは河州交野郡楠葉では無くて城州域内の橋本(前述のように橋本陣屋あたり)で終えた、との理解で石碑は刻まれたのではないのか、などと勝手に思いながら家路につきました。歴史に関する事柄について探究することはとても楽しくて、かつ「O=おもしろい」ことと改めて思っています。この原稿をまとめるにあたり貴重な助言をいただきました中西裕樹高槻市立しろあと歴史館館長に紙面より感謝申し上げます。
(2018.2.6)


参考文献等:
(*1)『月刊島民 中之島』 Vol.114 2018 1/1 月刊島民プレス刊
(*2)『ヒストリア 第216~218号(2009年)』 大阪歴史学会刊
(*3)『史跡を訪ねて 改訂版』 島本町教育委員会刊
(その他)枚方市教育委員会・公益財団法人枚方市文化財研究調査会の共催による平成29年度 文化財連続講座 “楠葉の「お台場」--激動の幕末と枚方—” の第1~4回の配布資料を参照

# by y-rekitan | 2018-03-26 07:00 | Comments(0)

◆会報第84号より-end

この号の記事は終りです。


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# by y-rekitan | 2018-03-26 01:00 | Comments(0)

◆会報第83号より-top <スクロールだけで全記事が読めます>

f0300125_17261659.jpg
この号の会報からは現在、下記の記事が掲載されています。
このまま下にスクロールして頂くと順次連続してご参照頂けます。


◆シリーズ:“心に引き継ぐ風景” ⑭◆
◆《歴探ウォーク》八幡の古寺巡礼⑤◆
◆シリーズ:“八幡の古墳と鏡” ⑦◆
◆シリーズ:“四條隆資物語”④◆
◆石清水八幡宮と松本神社の絵馬◆
◆シリーズ:“「三宅安兵衛遺志」碑と八幡の歴史創出” ⑩◆



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# by y-rekitan | 2018-01-26 15:00 | Comments(0)

◆会報第83号より-01 地蔵菩薩

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心に引き継ぐ風景・・・⑭

あこがれの地蔵菩薩
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 地蔵菩薩の信仰は他の仏や菩薩を圧倒して広く大衆の「ほとけ」として拝まれている。その像は寺院境内、町の辻々、墓地、道路、山道、田畑などのいたる所に安置されている。先般、江戸時代の八幡道標を調査した際、地蔵菩薩が彫られた道標の数の多さに驚き、その存在感に圧倒されてしまった。
 八幡市美濃山井ノ元にめずらしい「指さし地蔵」があった。こんなお地蔵さんは滅多にあるものではないと思っていたら、奈良県大和郡山市の金剛山寺(本尊・地蔵菩薩)こと「矢田寺」にも「指さし地蔵」があると聞いて、飛んで行った。指は矢田寺の方向を示し「右 矢田道」と彫ってあった。
 京都寺町三条上ルに「矢田寺」がある。平安時代の初め現大和郡山市の「矢田寺」の別院として創建されたらしい。高さ2mの地蔵菩薩は開山の満米(まんまい)上人が地獄で出会った地蔵菩薩の姿を彫らせたものと云われ、地獄にまでも亡者を救いに来る唯一の菩薩として信仰されて来た。
 小野篁(おののたかむら)伝説で知られる六道珍皇寺の「迎え鐘」に対し、冥土への「送り鐘」を撞きに「矢田寺」に訪れる人は尽きない。
(文と写真 谷村 勉)空白


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# by y-rekitan | 2018-01-26 12:00 | Comments(0)

◆会報第83号より-02 八幡古寺巡礼5

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《歴探ウォーク》
八幡の古寺巡礼
―第5回:男山南部の寺を巡る―  

2017年12月 八幡市内 にて
高田 昌史 (会員)

 今年の八幡の古寺巡礼は「男山南部の寺を巡る」として、12月7日に第5回目を実施しました。
当日は晴天に恵まれ39名の方の参加がありました。その概要を報告します。

第5回古寺巡礼コース

f0300125_9181325.png 例年の集合場所は八幡市駅前でしたが、今年は松花堂庭園前の昭乗広場でした。受付後に、配布の「しおり」によるコースの概要説明と移動時の注意事項をお話してから出発しました。
 左図にコース図を示しましたが、今年の巡礼のコースは昭乗広場から南方向の2寺を巡ります。
 今回の全歩行距離は約4kmで、途中は35m程度アップダウンがあります。移動中は先頭と最後尾の担当幹事が会旗を持ち交通安全に注意しながら、最初の訪問先の宝青庵に向かいました。


1.宝青庵

 昭乗広場を出発してから、10分足らずで宝青庵に到着です。f0300125_933233.png入口の冠木門前の右側には「小野篁(おののたかむら)作 十王像 閻魔堂」、左側には「歌人吉井勇先生寓居の地」の石碑があります。
 宝靑庵に入ると手入れが行きとどいた苔のきれいな庭園があります。また、別名 “もみじ寺”とも呼ばれているだけあり、時期遅れでしたが紅葉もきれいでした。その奥に「お堂」があります。
 宝青庵は男山考古録(※1)には江戸時代の浄土宗36寺として紹介されています。また、宝青庵を管理されておられる西村安子様からは、もとは大阪の油問屋の隠居所として建てられたとお伺いしました。
 御本尊の阿弥陀仏は江戸時代後期まで八幡馬場ありましたが、この地に移されてお堂に祀られています。
 3班に別れて順番にお堂に入り、ご本尊と十王像(十三仏)を拝観しました。またご本尊右側の灯籠台座部に「城南八幡万称寺」の刻印があることから、この灯籠はお堂の後方にあって明治5年(1872)に廃寺になった万称寺から移されたものであることが確認できました。(万称寺については「会報第60号2015年3月―墓石をたどる⑧」記事で紹介されています。)(※2)
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 お堂左面の2段棚に十王像(十三仏)が置かれています。十王は冥土で死者を裁くという王様のことで初七日の秦広王(しんこうおう)から三回忌の五道転輪王(ごどうてんりんおう)まで死者を審判する10人の裁判官のことです。十三仏(じゅうさんぶつ)は、十王をもとにして、江戸時代になってから、七回忌、十三回忌、三十三回忌の3裁判官を日本で考えたそうです。
 また、本庵は〝放浪の歌人〟吉井勇が寓居(ぐうきょ)していたことでも知られています。昭和20年10月、勇は戦時中の疎開先であった富山県八尾から夫人孝子とともに移り住み、3年近くを八幡で過ごした。この間に作詞した「山城音頭」(現八幡音頭)は、八幡の風情を存分に歌いあげています。同庵付近の地名「男山吉井」は彼にちなんで付されたものです。
 お堂の拝観が終了後、西村安子様にお礼を申し上げてから、次の訪問寺の水月寺に向かいました。

2.水月寺(臨済宗)

 水月寺までは距離があり、しかも途中はアップダウンもありましたが、予定よりも早く着きました。f0300125_9431967.png山門前で概要を説明してから本堂に上がらせていただきました。
 水月寺は由緒が書かれた山門前の石碑によると、元は阿弥陀堂と称し、天明初年(1781年)のころ、越前(現・福井県)から霊宗尼が二人の弟子とともにこの地にやって来て、近くにある円福寺の住職、海門禅師について修行。やがて、尼僧の禅道場を開き、これが全国に流布したことで、全盛時には50~60人もの雲水が修行されていたが、円福寺に近いので尼僧道場に相応しくないとの事で、尼僧の修行道場は京都・一乗寺の円光寺へと移され、水月寺はその役割に終止符が打たれました。先代までは尼僧が住職を務める尼寺でしたが、現住職は男性です。
f0300125_9473493.png 本堂では椅子を準備していただき椅子に座り林拓龍住職の法話を拝聴しました。法話前、全員に前住職の林祖観尼の一代記「経よみて」の冊子をいただき恐縮しました。カラー版の立派な冊子で林拓龍住職は挿絵を描かれています。
 法話で水月寺は元は地域の集会場であり、念仏を唱える念仏道場でしたと説明がありました。
 また、水月庵には将軍家茂に降嫁した皇女和宮の深い悩みを慮った側女の一人が、和宮の死後、この庵で出家してその菩提を弔ったというエピソードが残っています。側女が和宮から賜ったという愛用の打掛けが寺宝として保管されていると事前にお聞きし、当日は見せていただく約束でしたが、見当たらないので心配していました。しかし、法話でその打掛けは屏風にされており、現物は祭壇の前に出されている屏風であるとの説明がありましたので、法話の後でじっくり拝見しました。f0300125_955574.png
 ご法話の後半では、和宮の許嫁だった有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)が、幼小の明治天皇とご一緒に水月寺に来られ、その時使われた御櫃(おひつ)があると伝えられています。その御縁で明治天皇の供養が行われています。それに、水月寺の寺紋として菊の御紋を賜っています。
 法話が終わり本堂を退出し、水月寺のお庭を通り円福寺までは林住職がわざわざ案内していただくことになり出発しました。

3.水月寺~円福寺

 竹林の中の切通し道を抜けると墓地があります。その墓地に南山焼の創始者の「浅井周斎」と明治の末に南山焼を再興した「帯山与兵衛」の墓があり、以前にその墓石を調査された会員の谷村勉氏にその場所に案内していただきました。(「シリーズ墓石をたどる⑥浅井周斎の墓石について」会報51号2016年6月参照)(※3)
 各ポイントでは林住職の説明をお聞きして円福寺に向かいました。f0300125_105441.png
 円福寺の手前で「達磨堂円福寺の栞」と「萬人講の案内」を配布していただきました。最初に見える円福寺境内の建物が先ほど法話で説明された有栖川宮家の東京別邸から移築された建物(有栖川宮旧御殿)であると教えていただきました。円福寺山門に近づくと、現在、円福寺修行僧は大接心(おおぜっしん)(※4)f0300125_1085365.pngの最中なので修行の邪魔にならないように「静かに!」との注意がありました。「江湖道場」の扁額が掲げられている山門前では、栞を見ながら境内の中を窺ってから円福寺を後にしました。洞ヶ峠と出発地の昭乗広場への分岐点で林住職にお礼を申し上げてからお別れして、この場所で解散としました。

3.水月寺~円福寺

 連続5年になる八幡の古寺巡礼」は、お陰様で無事終了しました。
 特に、水月寺の林拓龍住職には、ご法話の終了後にお庭を通り円福寺までご案内していただき大変お世話になり感謝致します。
 今回で八幡の古寺巡礼は5年間で12寺院を巡りました。次年度も「古寺巡礼」を継続開催して、八幡の歴史を探究して行きたいと思います。これからも八幡の古寺に関する情報等がございましたら、お寄せいただきたくお願いします。

(※1)石清水八幡宮叢書1男山考古録 巻第十四「寶青庵」の項目参照
(※2)会報第60号2015年3月「シリーズ」墓石をたどる⑧ 万称寺跡地の常念仏回向記念碑について(谷村勉)
(※3)会報51号2016年6月「シリーズ」墓石をたどる⑥ 浅井周斎の墓石について(谷村勉)
(※4)臨済宗の修行道場である円福寺では、十二月三日より十日の朝まで大接心(おおぜっしん)が行われます。この期間中は、ひたすらに坐禅・修行 をします。このような接心は年に6回行われます。

 
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# by y-rekitan | 2018-01-26 11:00 | Comments(0)

◆会報第83号より-03 古墳と鏡⑦

シリーズ 「八幡の古墳と鏡」・・・⑦


八幡の古墳と鏡(7)


-ヒル塚古墳と渦巻状装飾付き鉄剣-


濵田 博道 (会員)


はじめに

 秋が深まったころ、ヒル塚古墳を訪ねて歩きました。古墳の所在地は八幡市美濃山ヒル塚38番地です。しかしその場所に古墳の面影はありません。小字ヒル塚の国道一号線脇を歩いていると畑作業をしている老人に出会ったので古墳のあった場所について尋ねてみました。「ヒル塚古墳を探しているんですが、この道路前にある家具屋さんの辺りにあったんですか?」「そうそう。ここの前がヒル塚古墳。あそこに金森商店の看板が見えるやろ。あそこあたりから急にせりあがってきて、こんもりしとった。はっきり古墳の形はしとらんかったけどな。ここは竹やぶだったんよ。大がかりな(国道1号線の)工事もあって、すっかり変わってしまった。昔とは全然違うよ。この畑の縁も2mぐらいグッと落ち込んでいてね。土もりをして、畑にしたんだ。あそこの住宅の処も全部土もりしているんだよ。」ヒル塚古墳のあった場所は現在大型家具店になっています。案内板があればわかりやすいなと思いました。
 古墳の発掘は、1989年1月から半年をかけ八幡市教育委員会が主体となって本格的に行われ、2002年に再度範囲確認調査が行われました。
 最近ヒル塚古墳出土の埴輪の研究も進んできており、八幡地域と王権の関わりを示す重要資料とされ、注目を集めています。発掘調査の詳細は八幡市教育委員会発行『ヒル塚古墳発掘調査概報』(1990)に掲載されていますので、その報告書を中心に考えてみます。

ヒル塚古墳の調査経過

 ヒル塚古墳は中世以降に数度にわたる盗掘を受けています(注1)。梅原末治氏は美濃山田村喜太郎氏の話を聞いて次のように記述しています。「この塚、今より24,5年前(明治後期、1895年ごろ)に発掘して刀剣鋒などを出せりといい、今なお封土の中央に一大凹所を存す。(注2)」
ヒル塚古墳についてはこれまで何度か調査され記述されています。
 1919年(大正08年) 京都大学島田貞彦氏  前方後円墳として地図を作成。
 1923年(大正12年) 京都大学梅原末治氏  円墳と指摘。
 1928年(昭和03年) 『八幡名跡名勝誌』  前方後円墳と記述。
 1972年(昭和47年) 『京都府遺跡地図』  円墳と記述。
 1974年(昭和49年) 山城考古学研究会   方墳と指摘。
 1977年(昭和52年) 大阪教育大学江谷寛氏 「造り出しを持つ方墳」の
 1977年(昭和52年) 大阪教育大学江谷寛氏 可能性を指摘。
 そして1989年1月から半年をかけ八幡市教育委員会が主体となって本格的な発掘がされ、2002年に再度範囲確認調査が行われました。その結果、次のように報告されています。
 ”方墳。一辺52m以上(注3)。高さ7.5m、三段築成。一段目テラス上で葺石(ふきいし)・埴輪列検出。幅14mの周溝を持ち、方墳としては府下最大級。埋葬施設は2基の粘土槨〔礫床(れきしょう)、小石の床〕と円筒棺から成る。
f0300125_11241281.jpg 第1主体部は盗掘を受け、南半分の粘土施設は破壊されていた。墓壙は9m×12m・深さ3.5m。上面より1.5mのところにテラスを両側に設ける二段墓壙。礫床は50cmの厚さで敷設し、上面には赤色顔料が認められた。周辺から鏡と鎗・剣・刀等の鉄製武器類が出土。特に、粘土床側面出土の渦巻状装飾付き鉄剣(全長38.8cm)は、前例のない遺物として注目を集めた。盗掘坑からも、渦巻の一部が出土している。棺は外径が80cm、長さが推定で7m強の割竹形木棺である。
 第2主体部は第1主体部の東辺を切り込んで造られ、墓壙(ぼこう)は8m×4.5m・深さ2.5m以上。東側の長辺のみテラスを設ける。粘土槨であるが、第1主体部より一回り小さく、赤色顔料が散布されているが大幅に省略されている。盗掘などの攪乱は受けておらず、棺外より方格規矩鏡と鉄剣、周辺から短剣・工具類が出土。
 第3主体部の円筒埴輪棺は主軸が第1主体部と同方向。口縁部を北にして第1主体部の南東部に埋置。上面を粘土で被覆。棺の円筒埴輪は高さ1m・口径40cm・底径30cm。透かし孔は無いので、棺に使用するために作ったようだ。
古墳の築造年代は副葬品や埴輪等から考えて、4世紀後半~末と推定される。”(要約)(注4)。

ヒル塚古墳の名前の謎

 ヒル塚古墳と聞いて、まず気になるのはその名前です。前掲書『概報』で八幡市教育委員会の桝井豊成氏の解説によると、ヒル塚の地名の初見は1600年(慶長5年)の検地帳で、1588年(天正6年)には「ヒルツカ、ひるつか」という地名が使われていたとあります。ヒル塚の「ヒル」とは何を意味しているのでしょうか。江戸時代末期に書かれた長濵尚次『男山考古録』巻14の「月夜田」の項に「その所(=月夜田)の東南に比留塚というのがあり、うず高いところにある塚である、これは月夜見に対した名のようだ、長老の話ではここは昔、日孁命(ひるめのみこと)神社があったというが調べてみる必要がある。」とあります。月夜田は月見にいいところだが、その「月」(=夜)に対しての「ひる」というわけでしょうか。日孁命に関しては、西宮一民校注『古事記』(新潮社)の付録に381の神名とその説明がありますが、日孁命という神は載っていません。似た名前で、『古事記』にイザナギ・イザナミ二神の間に最初に生まれた子で(水)蛭子(ひるこ)がいますが、関連があるのかわからないです。名の由来をご存知の方がありましたら、教えていただきたいです。 

三段築成、葺石、円筒埴輪列の方墳の意味

 このシリーズでみてきた西車塚古墳・東車塚古墳・石不動古墳・美濃山王塚古墳は鍵穴のような形の前方後円墳でした。しかしヒル塚古墳は方墳(平面が方形の古墳)です。前方後円墳と方墳の違いについて大阪大学名誉教授都出比呂志氏は次のように述べています。
 「古墳時代になると地方の有力首長は、頂点に立つ中央政権の下で、権力構造に組み込まれ、身分が定まり、その定まった身分の表現が古墳の形で表現された。それは古墳時代を通じて墳形には前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳の4つの基本形があり、前方後円墳が最優位で、最後に方墳というような階層構造になっている。そして同じ墳形でも規模の差があり、大きいほど優位である。よって、被葬者の身分は墳形と規模との二重の基準で表現された。江戸時代の大名が徳川家との親密度を基準に親藩、譜代、外様と格付けされ、かつ実力は石高で表示されたこと、外様のなかにも伊達氏や前田氏のように大きな石高をもった大名がいたことと似ている。(注5)」(要約)。
 ヒル塚古墳は方墳ですから、4段階の最下層型式です。f0300125_11375435.jpg 当時の王権との結びつきはそれほど強固ではない。また地位もそれほど高くない、と推定されます。しかし、一辺50mを超す京都府下最大級の方墳で、全国で2例しか出土していない渦巻状鉄剣をはじめ、円筒棺、埴輪類、鏡、鉄製武器類が出土しています。「三段築成、葺石、円筒埴輪列」という“王者の墓”の三要素を備えた「想像以上の大規模な方墳」(京都府教育庁文化財保護課、久保哲正氏)(注6)ということを考えると、この八幡地域の首長(王)だったと考えられます。
 次に、副葬品について考えてみます。

方格規矩ほうかくきく (鳥文)(ちょうもん)きょう

 前掲の『概報』や『京都府埋蔵文化財論集第二集』によると、“埋葬施設第2主体部の頭側の棺外から長剣・短剣の下に鏡面を上にして出土。面径は14.4cm。鏡名は方格規矩鏡。銅鏡は全体に緑青におおわれており、剣類と接していた部分には鉄さびもみられたが遺存状態がよく、鏡背には繊維が付着している。鏡背の図像は、紐(ちゅう)を中心につぼみのような四葉座を配している。”(要約)とあります。方格規矩鏡について考古学辞典では、
 「中国において前漢末期から三国時代の頃(0~280年頃)に発達した鏡の型式。日本では弥生時代・古墳時代に見られる一種。大正から昭和の初頭にかけて、TLV式鏡といわれたもの。内区が方格と規矩文(規はT字形でコンパス・円・陽を表し、矩はL字形で定規・陰を表すとされる)によって分割されていることにより、方格規矩文と名づけられ、現代この名称で用いられている。方格と規矩そのほかに細線によって四神や霊獣や禽鳥〔きんちょう(鳥類)〕や渦文〔かもん(渦巻きの文様)〕が配されている。このような方格規矩の文様の間にほどこされた図文等の種類により方格規矩四神鏡・方格規矩獣文鏡・方格規矩鳥文鏡・方格規矩渦文鏡などにわけられている」〔(注7)、( )内は筆者〕とあります。また、元橿原考古学研究所所長の田中琢氏は次のように述べています。“方格規矩鏡は内行花文鏡とほぼ同じ時代に盛んに作られた漢鏡で、鏡の背面の図案は、当時の中国人のいだいた宇宙像を描きだしたものであり、内行花文鏡のもつ単純簡素な美しさとは対照的に、繊細華麗なものとなっている。(注8)”(要約)。八幡では方格規矩鏡は西車塚古墳から方格規矩四神鏡(仿製鏡)、(伝)美濃山王塚古墳から方格規矩四獣鏡(舶載鏡)、ヒル塚古墳からは方格規矩鳥文鏡(仿製鏡)が出土しています。ヒル塚古墳鏡の製作は4世紀と推定されています(注9)。f0300125_1243483.jpg
 京都府埋蔵文化財調査研究センター長だった樋口隆康氏はヒル塚古墳出土の方格規矩鏡について次のように述べています。“鏡の背面の方格内に12の小乳があり、それを円で囲んでいる。方格外では普通T・L・V形の3つがあるが、LとV形が省略されT形のみである。方格の四角の部分には乳座から小さな鳥の上半身が飛び出して、隣の鳥と向かい合い、T字形の外方にも側向きの小さな鳥が1羽ずつおかれている。外区は二つの鋸歯文〔きょしもん(のこぎりの歯の形をした紋様)〕の間に、一つの複波文帯〔ふくはもんたい(波のような形が複数帯のようになっている)〕がある型式である。”(要約)(注10)。
 ヒル塚からはもう1面、鏡の小破片が出土しており、これは画像鏡か獣帯鏡ではないかといわれています。

渦巻状装飾付き鉄剣(全長38.8cm)

 渦巻状装飾付き鉄剣は埋葬施設第1主体部棺床の東側、棺外の遺物の一群中央から出土しました。f0300125_1295811.jpg桝井豊成氏は次のように述べています。「最初はふつうの鉄剣かと思った。ところが、保存処理のために京都府立山城郷土資料館でX線写真を撮ったら、渦巻が出てきた」。全長38.8cm、刃部28cm、幅1.4cm、厚さ0.6cm。剣自体が細身で刃が薄く、まるでペーパーナイフのようで、とても武器として役立ったとは思われず、儀式用のものとみられています。(注6)。
 渦巻部は鉄をねじり、ゼンマイ状に巻き上げて作っており、直径は2.7cmあります。刃と非常に精巧に接着されており、高度な製作技法がうかがえます。これは当時、例を見ない非常に特殊な遺物でしたが、新聞各紙は記事としてほとんどとりあげませんでした。
 ところが、ヒル塚古墳鉄剣発見の7年後、1996年、長野県木島平村の桑畑から渦巻文の装飾のついた鉄剣が出土。鉄剣は長さ74cmもあり、弥生時代最終末(3世紀前半)のもので、これまで出土した弥生時代の鉄剣の中では最長でした。鉄剣は2本出土し、1本だけが渦巻鉄剣でした。木島平村教育委員会発行『根塚遺跡』(2003年)によると、“2号剣に渦巻文が三カ所にあることが判明し、その技法は柄の部分を3分割して棒状部分を作り出し渦巻を作っています。その割った分だけ、剣の身部に比べ把の部分が薄くなっています。渦巻文を有する鉄剣は、国内では京都府八幡市のヒル塚古墳(4世紀後半)に出土しており、2号剣のように把先に渦巻文をもち、ゼンマイ状に巻きあげています。”とあります。
 この渦巻状の装飾はもともと、2世紀から6世紀ごろにかけて、朝鮮半島の伽耶で流行し、鉄剣以外にも使われていました。韓国南部の良洞里墳墓群(日本の弥生時代後期にあたり400基以上)から2つの渦巻文が付いた鉄剣が出土しています。『報告書』はさらに “朝鮮半島南部に渦巻文をもつ鉄製品を求めると、慶尚南道金海市の良洞里古墳の出土品(19.5cmの一対の轡(くつわ)、48.1cmの鉄剣、116cmの鑿(のみ)頭形鉄器、120.1cmの鉄剣)などにいくつか見られ、2箇所から8箇所にいずれも左右対称に渦巻文が装飾されている。2番目の鉄剣には木島平村の鉄剣と同じ技法が用いられ、出土した遺構はいずれも2世紀後半~3世紀初めに比定されている。木島平村の鉄剣も朝鮮半島からの舶載品と考えられる。”(要約)
 大阪府教育委員会文化財保護課の三木弘氏も木島平村の鉄剣について「『渦巻状装飾付き鉄剣』の特徴的な形状や高度な製作技法から、朝鮮半島南東部で製作され、日本海ルートを通じて北信(北部信州)に招来されたとの見方が有力である。そうであれば、畿内圏を介さない流通ネットワークが存在していた可能性はいっそう高い。そして、そうした動向が弥生後期中葉~後半期にかけての状況であったといえる。(注11)」と述べ、鉄剣は朝鮮半島と信州との交流ルートがあったことを裏付ける遺品となっています。鉄剣は朝鮮半島からの舶載品と認定されています。これに対し、ヒル塚渦巻鉄剣は前期後半築造の古墳からの出土ですが、朝鮮半島製の可能性が高く、入手ルートが気になるところです。

ヒル塚古墳出土の埴輪

 八幡市内の古墳では東・西車塚古墳、石不動古墳、美濃山王塚古墳、八幡茶臼山古墳などで埴輪が出土していますが、破片や散逸してしまったものが多かったです。しかし、女郎花遺跡、大芝古墳や御毛通古墳での発掘、2005年からの美濃山王塚古墳での発掘、ヒル塚古墳の埴輪分析などにより埴輪の研究が進んできており、八幡の古墳の編年を考える基礎が出来上がりつつあります。
 埴輪は古墳の年代や編年、王権との関わりを推定する有力な遺物です。ヒル塚古墳からは墳頂部と一段目テラスで埴輪列を検出し、普通円筒埴輪、鰭付(ひれつき)円筒埴輪、朝顔形埴輪、囲形埴輪の4型式の埴輪が発掘されています。墳頂部のものは直径30cm~36.5cm、第一段目テラス状のものは約25cm~30cm弱で、その規格に差があり、また墳頂部出土の埴輪とそれ以外の埴輪はX線分析による元素比が異なり、埴輪の製作地が違っているようです。複数の型式が同一古墳内に樹立していた状態が確認できます。埴輪の高さは85cm内外と推定されています。墳頂部の埴輪列は、第二主体部の構築に伴う立て替えが見られるとのことです。一段目テラスでは1.5m間隔で埴輪が立てられていました。その中で注目されるのはまず鰭付(ひれつき)円筒埴輪です。この埴輪は奈良市北部の佐紀古墳群の前方後円墳でともなう場合が多く(佐紀陵山古墳など)、かなりの相関が認められるといいます(注12)。次に、囲形埴輪は家形埴輪の可能性が高く、通常より突帯の位置が高く、一条しか確認できない点など他の古墳ではあまり例を見ない囲形埴輪であるとのことです。ヒル塚古墳の埴輪は奈良県天理市の上の山古墳(渋谷向山古墳(景行天皇陵?)の陪塚といわれる)、大阪府八尾市の萱振(かやふり)一号墳の円筒埴輪と深い関連性があったと想定できるとの報告があります(注13)。
 埴輪の研究を通して、王権とのかかわり、八幡の古墳同士の関係解明へと繋がればいいですね。

ヒル塚古墳の被葬者像

 森浩一氏は著書で次のように述べています。「(ヒル塚古墳からは)渦巻状の突起を柄につけた鉄剣が出土した。このような鉄剣は朝鮮半島南部の伽耶(加羅)の古墳に多い。ところで古墳の所在地の有智郷は、律令体制下では綴喜郡内郷のことで、さらに古くは内村ともよばれた。味師内宿禰(うましろうちのすくね)から出た山城の内臣のいた土地であろう。(『古事記』孝元天皇条)(中略)応神天皇の9年に一つの事件が起こった。九州や三韓(韓国南部の三つの国、馬韓・弁韓・辰韓)をも巻き込んで、武内宿禰と味師内宿禰が対立した。一時は武内宿禰の旗色が悪く壱岐直(いきのあたい)の祖の真根子(まねこ)が武内宿禰の身代わりになって死んだ。そのあと探湯〔盟神探湯(くがたち)、神の手に誓って手で熱湯を探らせ正邪を判断する古代の裁判の一種。〕によって武内宿禰が勝利をおさめたという。(『日本書紀』)。このような八幡市南部の有智の地は、朝鮮半島南部や中部九州とも強い関係をもった地であった。のちに九州の宇佐八幡宮が男山の地に勧請され石清水八幡宮になることにも、このような前史があったのである(注14)。」桝井豊成氏は「内氏に関する一考察」の中で、「(内臣は)尾張連、紀直、紀臣、隼人と密接な関係をもち水上交通に関係した武人的な氏族」といい、「応神紀の記事は、畿内の水軍統率勢力が山城から河内をへて紀伊へ移ったことを示す史実性に富んだ伝承」と述べています(注15)。また、ヒル塚古墳の墳頂部の円筒埴輪列の中からは須恵器が8個体出土していますが、これは5世紀後半頃のもので、ヒル塚古墳第1主体部埋葬時から一世紀近く後の遺物です。古墳への埋葬が行われなくなってからも長期間、墓上祭祀が行われていた――このことも被葬者像を考えるヒントになるように思います。今後のさらなる研究が期待されるところです。

おわりに

 当時、森浩一氏はヒル塚古墳の埋葬施設について「これほど見事な複数の埋葬施設が現れた古墳は、最近の発掘調査では見たことがない。」と言い、「相当な紙面が割かれると予想していたが、たまたまその翌日が宇野内閣発足の日にあたったため、(略)どの新聞も一面はおろか社会面でも報道しなかった。(注6)」と重要度と注目度の差に危惧を表明しています。しかし最近、研究者の間で八幡の古墳群について関心が高まりつつあるようです。例えば、次のような記述です。「畿内の重要古墳群でありながら、それに見合うだけの注目を集めていない八幡地域の古墳群の解明は、畿内の古墳群の動態を考える上で極めて重要である。」(注13)。

 最後に私の感想を一つ。長野県木島平村の根塚遺跡を訪ねたとき、根塚遺跡の近くに大塚・小塚という墳墓があり、さらに村への入り口付近にはヒル橋がありました。偶然でしょうが、八幡古墳名と似ているので不思議な感じでした。そして村の若い学芸員さんの案内で実物の渦巻き鉄剣を見学できたことがいい思い出として残っています。
 次回は「八幡茶臼山古墳について」考えてみます。

(注1)八幡市教育委員会『ヒル塚古墳発掘調査概報』,1990
(注2)京都府『京都府史蹟調査報告第二冊』,1920
(注3)ヒル塚古墳の一辺は報告書により「45m,47m,40m,52m以上」といろいろありますが、ここでは最新の八幡市教育委員会『八幡遺跡地図(2005年版)』を採用。
(注4)(注1)参照。八幡市教育委員会『八幡遺跡地図(2005年版),2005
『京都府埋蔵文化財情報第33号』,1989
『日本考古学年報42』日本考古学協会,1991
(注5)都出比呂志『古代国家はいつ成立したか』,岩波新書,2011
(注6)『朝日グラフ新遺跡発掘VOL.5 ’88~’90』,朝日新聞社,1991
(注7)斎藤忠『日本考古学用語辞典』,学生社,1998
(注8)田中琢『日本の原始美術⑧ 古鏡』,講談社,1979
(注9)『京都 古代との出会い』,(財)京都府埋蔵文化財調査研究センター,1990
(注10)『京都府埋蔵文化財論集第二集』, (財)京都府立埋蔵文化財調査研究センター,1991
(注11)『二上山邪馬台国シンポジュウム14 邪馬台国時代の甲・信と大和』,2014
(注12)日本史研究会ら『「陵墓」からみた日本史』,青木書店,1995
(注13)北山大熙「埴輪からみた八幡市ヒル塚古墳」『畿内の首長墳』,立命館大学文学部,2017
(注14)森浩一『京都の歴史を足元から探る[宇治・筒木・相楽の巻]』,学生社,2009
(注15)同志社大学考古学シリーズⅤ『考古学と生活文化』,同志社大学,1992




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# by y-rekitan | 2018-01-26 10:00 | Comments(0)

◆会報第83号より-04 四條隆資④

シリーズ「四條隆資卿」・・・④

四條隆資卿しじょうたかすけきょう物語  その4
~中国の故事「蟷螂の斧」と隆資卿~

 大田 友紀子(会員) 


 前回は、『太平記』の中での四條隆資卿、その姿は儒教思想の正論を語る代弁者で、その当時の理想的な公卿そのものであり、その斃死の有り様が人々の共感をよび、一つの伝説が生み出された、ということを書きました。熙仁(ひろひと)親王(後の伏見天皇)の乳母であった四条識子が生んだ御子が隆資卿ではないかという御落胤説などもあり、その悲劇的な死は、いつしか英雄伝説へと昇華して行ったようです。それ故に、四条家の御所車にカマキリが乗るという志向が生まれて、西洞院に住む町衆の熱意に動かされた陳大年宗奇の援助のもと蟷螂山が創建されたのです。f0300125_20214723.jpg
 なぜ、カマキリだったのかというと、古代中国の梁という国の皇太子であった昭明太子(しょうみょうたいし)(501~531)が編纂した『文選』に載っている『蟷螂の斧』という故事からきているのです。『文選』とは、古代中国の周から梁までのおよそ1千年間にわたる作家131人や無名の人たちなどが詠んだ詩・賦(ふ)・文章763篇を納めた現存最古の一大詞華(しか)選です。「賦」とは「詩の六義の一つで、心に感じたことをありのままに詠うもの。」(「漢和中辞典」)とあります。「詩の六義」とは、賦、比(ひ)(比喩を用いて詠う)、興(きょう)(事物に感じて思いを述べる)、風(ふう)(庶民の歌謡)、雅(が)(宮廷歌謡)、頌(しょう)(祖先の徳を讃える詩)の六つで、漢詩の表現法の形態です。日本風には順番に「かぞえ歌」「なずらえ歌」「たとえ歌」「そえ歌」「いわい歌」「ただごと歌」といいます。『文選』の日本への伝来は古く、すでに『十七条憲法』(604)に本書からの引用が指摘されています。
 編纂者である昭明太子は、梁の武帝の長子簫統(しょうとう)で、謚名(おくりな)が昭明です。聡明で仁愛に富み、幼い頃より学問を好み、皇太子に立てられるも、父に先立ち死去しています。皇太子のままで逝去(せいきょ)したことから、聖徳太子のモデルではといわれています。
 「蟷螂の斧」の故事ですが、「平家物語・巻第七」では、挙兵する木曾義仲が「義仲其後胤として、首(かうべ)を傾て年久し。今此大功(たいこう)を発(おこ)す事、嬰児の貝をもッて巨海を量り、蟷螂が斧をいからして隆車(りゆうしや)に向がごとし。(後略)」と、願文にしたためています。その注釈に「文選四十四〔為袁紹檄州郡文〕」に、「(中略)よった句。かまきりが斧をふりあげて大きな車に立ち向かうの意で、身の程を顧みず無益な抵抗をすることを譬えたもの。」とあり、「太平記・巻第十」では、「(前略)鎌倉殿ヲ亡サントセン事蟷螂車ヲ遮(さ)ヘギリ、綪衞(せいえい)海ヲ塡(うず)メントスルニ異ナラズ。ト欺合(あざむきあへ)リ。」と、北条高時を攻め滅ぼそうとする新田義貞の軍を嘲り合ったことが書かれています。「綪衞」は中国の想像上の鳥で、夏を司る炎帝の女が東海に溺れ、化した名前で、西山の木石をくわえて東海を埋めようとしたが、出来なかったという話であり、「蟷螂の斧」と同話として列挙されています。
 このように、『蟷螂之斧』の話は当初、古代中国の斉の荘公を感歎させて、車を返しては勇敢さを讃えた話として伝えられていますが、注釈には自分の弱さを顧みず、強敵に挑むこと、はかない抵抗のたとえ、とあります。そのことから、自分の力を考えずに猛進する愚かしさをあざ笑う喩えとなり、南北朝期の終わりには、再び勇敢さを讃える話へと、三度も変わっています。慣用句とかは、その使われ方などやその意味あいが変わる事があり、時代の世相にも翻弄されてさらに変わって行くこともあります。『蟷螂之斧』の故事の場合は、その話自体が持つドラマ性に起因して変わって行ったように思われます。
 漢和辞典(旺文社)によると、「螳螂の衛」は「微弱な兵備のたとえ。」であり、『螳螂之斧』は「かまきりのかま、微力の者が、自分の力をはからずに、大敵に当たるたとえ、かまきりが前足を上げて、斉の荘公の車に立ち向かった故事による。」と解説されています。その出典は『韓詩外伝』です。それから、「蟷」は「螳」の別字体で、南北朝後期には、別字体の「蟷」の字が使われるようになり、『蟷螂之斧』の故事も日本風にアレンジされて、「衆寡てきせず」、つまり、「多勢に無勢であっても、引かずに果敢に戦う」というように、意味が変わって行ったのでは、と思われます。
 南北朝期には、「三種の神器」の本物を南朝が所持していると信じられていたので、南朝が正統だ、という風に思われていました。「三種の神器」の正統性についても、真偽不確かな風聞(=噂話)が巷(ちまた)にあふれていて、時の天皇でさえ見たこともない「三種の神器」なのにです。踏み込んでいえば、中身の存在自体も不確かなものが「三種の神器」なのです。その不確かなものによって保障される天皇の権威をめぐって戦われたのが、南北朝の戦乱であり、都の人々は南朝びいきであったようで、「正統な皇位継承者である方が、都を追われて、吉野の山中におられて、不自由な暮らしをされている。お気の毒なことだ。」という風に、人々の同情は、南朝に集まって行きました。よく誤解されていわれていることですが、当時の都の公家たちは飛び込んできた情報に一喜一憂し、翻弄されてはいましたが、どっちつかずで居ただけで北朝びいきというわけではありません。ただ、彼らは四神に護られた都から一歩も出たくない、というのが正直なところで、とにかく一日も早い戦乱の収束を願い、どちらかの天皇が帰還されて、すべてが元通りになり、よみがえった宮中に出仕したい、と思っていたのです。
 足利義詮軍(その中の赤松軍)との(石)清水合戦で勇敢に戦い、身に10数槍の手傷を負って戦死した隆資卿の公卿に稀な武勇への称賛と中国故事の蟷螂の生態とが似ているところから、陳大年(宗奇)と町衆が共に時の悪権力(勝利者である足利将軍家)に対するレジスタンスとして創建したのが、蟷螂山です。その後、祇園感神院の支配者である比叡山延暦寺の強訴などにより、幾度となく神事である神輿渡御が行われない事がありました。「神事なくとも」、山鉾巡行は行われて、そんな時の山鉾はいつも以上に拍手喝采を浴びたようです。f0300125_20272044.jpg祇園祭は庶民の祭りといわれる所以でしょうか。隆資卿の「稀な武勇」とありますが、この当時、羽林家の公家は武官として仕えていたので、武芸に優れているのは当たり前のことでした。彼らは、実際に検非違使の長官となって任務を担い、部下を指揮して都の警備を行っていました。現在人が思っている公家のイメージ、つまり、優美な装束に身を包んで出仕して、歌舞音曲に親しむという公家の姿は、徳川幕府によって武装を解かれて、それ以後は文化面での活動のみを行った江戸時代の公家の姿なのです。
 そして、祇園祭の山鉾巡行が、豪華絢爛な懸装品をまとい、年々派手になって行ったのも、不思議なことにその江戸時代なのです。そんな様子を知ることができるのは、数ある「洛中洛外図屏風」の内でも林原美術館本で、元和年間(1615-23)頃に描かれたと考えられています。この屏風には、長刀鉾に乗る女性が描かれていたり、鉾に付き従う人々の顔も楽し気です。そんな光景を二階建ての町家で見物をする人々の服装も華やかで、長かった戦国の世は去り、訪れた平和な時代の到来を楽しむ様子が随所に描かれています。 
(おわり) 空白

(京都産業大学日本文化研究所 上席研究員) 空白



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# by y-rekitan | 2018-01-26 09:00 | Comments(0)

◆会報第83号より-05 絵馬

「石清水八幡宮と松本神社の絵馬」

野間口 秀國(会員)


 新年にふさわしい題材はないものかと考えていると、自室の壁に昨年6月に当会の歴史探訪ツアーにて訪れた兵庫県淡路市の伊弉諾(いざなぎ)神宮で買い求めた手のひらサイズの絵馬が目に入りました。多くの神社ではご利益、由緒、言い伝えなどが描かれた絵馬が授与されており、境内の絵馬掛け棚などに結ばれております。石清水八幡宮でも同様です。今回は地元の石清水八幡宮の絵馬と、お隣の城陽市の松本神社に昨年から結ばれるようになった絵馬について書いてみたいと思います。

 石清水八幡宮の御本殿南総門をくぐると、右前方に「お札・お守り授与所」があります。授与された絵馬には願い事が書かれて近くの結び棚に結ばれており、その種類は本殿と鳩のイラスト、エジソンの肖像画、干支のイラストなどです。歴史的には新年度の干支の描かれたものが最も新しいと言えるでしょう。またエジソンの肖像画の描かれた絵馬は形が正五角形で名前もアルファベッドで書かれており、珍しい部類に属するのではないでしょうか。エジソンと石清水八幡宮のご縁は、「彼の発明した白熱電球のフィラメントに八幡産の真竹(まだけ)が使われたことによるもの」であることは良く知られているところです。エジソンの描かれた絵馬がいつから授与所に並び始めたかは不明ですが、昭和9年にエジソン記念碑が建立された(*1) ことから考えても、これ以降であることは間違いなさそうです。今一つは、鳩の描かれた絵馬です。鳩の由来について 『山城綴喜郡誌・第十一編 伝説』には “鳩を神苑に飼養する起源、何れの年代なるか詳ならずと雖も、鳩を詠せし詩歌少なからず、 云々” と書かれてあり、鳩は石清水八幡宮の歴史に古くから登場していることは否めないと思われます(*2)。
 しかし私が注目したいのは、このように授与所でお求めいただける種類のものでは無く、石清水八幡宮に所蔵されていると書かれた「群鳩図絵馬」についてです。平成28年10月に発行された 『国宝指定記念 特別展 石清水八幡宮をめぐる8つのエピソード』 と題する冊子(*3)に掲載されたその絵馬は、丸山応挙筆とあり、天明7年(1787)に薩摩藩第8代藩主、島津重豪(しげひで・1745~1833) によって奉納されたことが冊子の説明文から分ります。同様に写真の絵馬に残る<右端奉納銘>の釈文には “薩隅日三州主兼領琉球国従四位上行左近衛中将源朝臣重豪 天明七年正月吉日” とあり、冊子にはまた、近世の島津家は近衛家領島津荘の地方荘官であったことを発祥とすることから藤原姓、または源姓を称した、とのことや鳩に関する石清水八幡宮に伝わる逸話も書かれています。薩摩藩にあった4つ(加治木、重富、垂水、今和泉の各家)の最高家格の1つ、加治木島津家に生まれた重豪は五百万両という莫大な藩債を生み出した元凶との好ましくない評価と共に、後に訪れる時代の転換期に薩摩藩が勇躍する基礎を築いた藩主としても評価されています。「群鳩図絵馬」が石清水八幡宮に奉納された天明7年正月に重豪は既に隠居しておりますが、藩主として過ごした時期には江戸参府の行き帰りに、宇治、兵庫、大坂などをお忍びで何回となく訪れていますので、この絵馬奉納の背景もとても興味あることではあります(*4)(*5)(*7)。石清水八幡宮へも参詣したであろうとも思われますが、現在この絵馬は京都国立博物館に保管されており石清水八幡宮で見られないのは残念ではあります(*6)。f0300125_1003572.jpg
 このように、石清水八幡宮には近代の絵馬のみならず、古くからの絵馬もあったことがわかりましたが、お隣の城陽市にある松本神社の絵馬は最近できたばかりのものです。昨年5月の新聞記事に興味を持ったのは、「絵馬づくりの予定有り」とのこともさることながら、松本神社自体についてでした(*8)。メディアに取り上げられる規模や知名度の神社なら知る機会もあったでしょうが、この神社の所在地も知りませんでした。日をおかずに松本神社を探して訪れました。このあたりかな、と思う所で車を停め下校中の小学生に聞くととても親切に案内してくれました。知らないと通り過ぎてしまうほどの小さな規模で、社殿らしきものも無く「絵馬づくりの予定有り」とは想像できませんでした。

 話は変わりますが、読者の皆様で「松潤(まつじゅん)」と言って、ああ彼のこと、とお分かりになる会員の方はいかほどおられるでしょうか。松本潤さん、大人気のアイドルグループ「嵐」のメンバーの一人でファンの皆さんには略して松潤と呼ばれています。8月30日が彼の誕生日であり、その日に合わせて松本神社で絵馬を発売することになったようです。嵐のメンバー5名(大野智さん、二宮和也さん、相葉雅紀さん、櫻井翔さん、そして松本潤さん)にちなんだ同名の神社には嵐ファンが多く訪れているようです。彼等の姓を冠した神社のうちで、松本神社が最後に残った絵馬の無い神社だったようで、多くの嵐(松潤)ファンからの熱い要望を受けて、市政45周年の城陽市が積極的に絵馬作成に取り組まれた結果であっただろうことは同市観光協会の方のお話しから伺えました。予定通り絵馬の発売がなされたことは「松潤ファン 絵馬に行列 城陽の松本神社」と題した絵馬発売翌日の京都新聞記事にて確認できました。ちなみに、メンバーの一人、大野智さんの姓を冠した「大野神社」は隣の県、滋賀県(栗東市)にございます。

 松本神社についてもう少し書いてみたいと思います。道路に面した神社の規模は、左右幅が約6.5m、奥行きが約7.5mで、周囲を瓦葺の白壁で囲まれています。正面の入り口には鳥居が建ち、中央に「松本神社」の額字が見えます。向かって左側の柱には「昭和五十七年十月吉日建之」と刻されており、鳥居は思いのほか新しい時代に造られてのものです。他にも、その歴史を教えてくれる数点のものが確認できます。年月を判読できる最も古い時代の二基の常夜燈の背面には「文化十癸酉(ミズノトトリ)八月日」と読み取れました。ちなみに文化十癸酉は1813年、江戸時代後期です。その他にも柴を供える左右一対の石の壺の1つには「弘化四年〇〇八月日」と確認できます。弘化四(1847)の干支は丁未(ヒノトヒツジ)であることより、〇〇部分は丁未と思われます。このように江戸時代のものに加えて、私の興味を引いたのは「献燈」と刻まれた「昭和六十三年九月建立」の石造りの石碑(燈篭)でした。その右側面に6名(男性4名、女性2名)の名前が刻まれており、この6名の皆様方は同級生であり、内女性1名は現在(2017年6月6日・訪問日時点)でもご存命とのことをご近所にお住まいの方より教えていただきました。
f0300125_1075394.jpg
 松本神社は前述のように規模も小さくて神職さんも常在されず、管理は近くの加茂神社の宮司さんによってなされています。旧名島村の氏神である加茂神社は、社殿の案内板によれば、上賀茂神社の祭神を移し祀ったとされること、旧五月の上賀茂神社の競馬に村から参加させたことなど、上賀茂神社と深いつながりがあるようです。現在では風雨を鎮め豊作を願う「八朔祭」が九月一日に催されています。ところで、前述のように8月30日には予定通り2種類の絵馬が松本神社近くで発売されました。その様子は割愛いたしますが、私も1枚を買い求めた帰り道、加茂神社にも足を運びました。翌日の「八朔祭」に備えて社殿を清めておられた宮司さんに幸いにも以下のようなお話しを聞くことができました。その1)、松本神社は地元の人達によって建てられたが、誰を祀ってあるかは書かれたものが残っていないので不明である。が、住吉大社の末寺であるようだ。その2)、「十六の渡し」の守護であったことは事実であり、神社のある集落は、古くは「大字名島小字十六」と呼ばれていたが現在の住所には「十六」は使用されていない、と。発売翌日の新聞記事にあった「木津川の渡し場の守護神」の木津川の渡し場は、十六(現・城陽市奈島)から草内(現・京田辺市)を結んでいた「十六の渡し」であると思われます。

 最後に、松本神社の結び棚に結ばれている真新しい絵馬の多くは「コンサートチケット当たりますように」の願いとなっておりました。日本中の神社で見られる絵馬の1つ1つに、それぞれの持つ歴史が垣間見える少し楽しい学びの経験でした。本稿をまとめるにあたり色々とご教示いただきました皆様方に紙面より厚く感謝申し上げます。
(2017.12.27)

(*1)『八幡市誌 第三巻』 八幡市刊
(*2)『山城綴喜郡誌・第十一編 伝説』 1908年刊
(*3)『石清水八幡宮をめぐる8つのエピソード』 八幡市立松花堂庭園・美術館刊
(*4)『島津重豪』 芳則正(かんばし のりまさ)著 吉川弘文館刊
(*5)『鹿児島県の歴史』 原口泉・永山修一・日隈正守・松尾千歳・南村武一共著山川出版社刊
(*6)『甦る島津の遺宝 ~かごしまの美とこころ~ 黎明館企画特別展』
展示史料 (鹿児島県歴史資料センター黎明館 2010年)
(*7)『島津重豪と薩摩の学問・文化』 栗林文夫著 勉誠出版刊
(*8)京都新聞2017.5.24、8.31、10.31各日付記事、11.21日付朝刊コラム

 
# by y-rekitan | 2018-01-26 07:00 | Comments(0)

◆会報第83号より-06 三宅碑⑩

《続》 2016年1月度の講演会より

『三宅安兵衛遺志』碑と八幡の歴史創出
その10

―松花堂・東高野街道・天皇聖蹟・綴喜郡―

中村 武生  (京都女子大学、天理大学非常勤講師)


(3)明治天皇聖蹟
 八幡は南北朝期だけでなく、幕末期の古戦場でもあります。この付近は戊辰戦争の緒戦、鳥羽伏見戦争の決戦の地です。伏見で敗れた新選組など徳川方が最後に拠った楠葉台場(現大阪府枚方市)が、淀川対岸の梶原台場(現同府高槻市)から砲撃され、そのため戦意を失い徳川勢は、水路大坂城へ敗走します。その後一戦も行われず、前将軍慶喜は江戸へ退去し、西日本は明治新政府の手に落ちました。いわば明治天皇聖蹟です。そのため「戊辰役」を冠した三宅碑が計三基建設されています。「戊辰史蹟念仏寺」(1927年10月、現八幡市)、「戊辰役戦場址」(1928年春、現京都市伏見区)、「戊辰役橋本砲台場跡」(1928年11月、大阪府枚方市楠葉)です。すべて1928年(昭和3)か、その前年秋の建立です。この年の干支は維新から初めての「戊辰」でした。そのため全国的な維新ブームが起きました。それゆえの建碑でしょう。芳次郎が明治戊辰の生まれであったことにも注意すべきでしょう。ちなみに淀小学校にも「天皇御駐輦之趾」碑が建てられています。戊辰戦争後の行幸の地ですが、これも明治天皇聖蹟にちがいありません。
 ここで注目すべきは「橋本砲台場跡」碑です。さきに述べましたように現大阪府枚方市の楠葉台場跡に建てられています(1928年11月)。もちろん誤りです。橋本は京都府綴喜郡域(現八幡市)ですが、楠葉は大阪府交野郡(現枚方市)です。どうしてこのような混乱がおきたのでしょうか。
 馬部隆弘さんは安政5年(1858)に建設された橋本陣屋と混同したためと理解されていますが(『ヒストリア』206号所収論文)、前述の『山城綴喜郡誌』には「名趾城堡」のひとつとして「橋本陣屋」は立項されています。当然のことながら位置は「橋本」とあります(285頁)。『山城綴喜郡誌』を読んでいる西村芳次郎が、樟葉に「橋本砲台場」跡碑を建てるとは思いがたいです。
 真相は不明なのですが、可能性の一つとして指摘しておきます。当該事業の原則は京都府下への建碑です。樟葉は大阪府下であるため、建碑を憚られた。それゆえ至近である京都府下の橋本を冠して三宅清治郎の理解を得ようとしたのではないでしょうか。とはいえ天皇聖蹟として大阪府下に「樟葉宮」(1927年7月)や「水無瀬神宮」(建立年不明)などを建碑した例はあり、これらと同様に天皇聖蹟として理解を求められなかったのだろうかと思わなくはありません。

(五)自邸の由緒の創出

(1)継体天皇の遊宴地
 天皇聖蹟の顕彰は自邸にも及んでいます。少なくとも父井上伊三郎(忠継)時代までに当地は「月の岡」と呼ばれており、転じて「月の岡邸」と名づけられ、芳次郎はそれを刻んだ三宅碑を門前などに建設しています。「月の岡」の由来は、「継体天皇河内国交野郡樟葉にて御即位あって此地にて月見の御宴ありし」こととします。自邸を1400年以前、継体天皇由緒地と位置づけたのです。しかしその根拠は希薄で、地名「月夜田」以外にはありません。『男山考古録』や『山城綴喜郡誌』など先行する地誌にもかかる伝説は見いだすことができません。おそらく芳次郎の創作でしょう。その創作意図の考察は後述いたします。ここで想起されるのは樟葉宮跡の建碑です。同天皇の居所「樟葉宮跡」が碑によって現出され、「月の岡邸」の由緒は説得力をもつという効果が期待されたのではないでしょうか。

(2)「大筒木真若王御墓」と「参考地」
 前述しましたが、芳次郎の邸内には東車塚古墳が存在します。この被葬者を「記紀」伝承上の人物、開化天皇の孫山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)に治定し、それを示す三宅清治郎建立碑を建てています。ちなみにこれは事業終了後の行為のため、亡父安兵衛遺言による建碑の形を取りませんでした。「三宅清治郎建之」とあります。この建碑によって自邸の古墳を「陵墓」と位置づけたのです。現在でも被葬者の特定には墓誌の存在が不可分で、それがない以上、受け入れられることではありませんが、選ばれたのが山代之大筒木真若王であることに注意すべきです。芳次郎は「筒木、筒城、綴喜郡」などの地名がこの人物の名前から取られたものと判断するからです。すなわち自邸は「綴喜郡発祥」所縁の地と位置づけたわけです。なお同邸宅に西接する西車塚古墳にも、山代之大筒木真若王の妻「母泥之阿治佐波毘売(たにわのあじさわびめ)」墓と刻む清治郎建立碑が建てられています。
 あわせて注目すべきは、両碑には濱田青陵(耕作)の揮毫を得ていることです。濱田がこの治定を信じたとは思えません。両碑には「参考地」の文字が付記されているのはこれを意味しています。しかし京都帝国大学考古学教授の揮毫を得る目的として、「山代之大筒木真若王」墓に強い説得力を持たせようとしたと思われます。
 なお「参考地」を付した三宅碑が別に存在することを指摘しておきます。1929年春建立の「甕原(みかのはら)離宮国分尼寺遺阯参考地」です(現木津川市加茂町)。f0300125_1021571.jpgこれは三宅碑の存在を初めて広く紹介した岩永蓮代が、同碑に注目するきっかけとなった碑です。このことは最初のあたりでお話ししました。1960年代から80年代にかけて全国の国分寺・国分尼寺跡等の顕彰に尽力した岩永は、地名ていどの根拠しかもたない場所について、開発の危機から守るため自治体の協力をえて「参考地」と刻んだ建立を進めていました(兵庫県姫路市の播磨国分尼寺跡、群馬県前橋市の上野国分尼寺跡など)。そのさなかの1968年12月、訪れた京都府相楽郡加茂町法華寺野(当時)で「甕原離宮国分尼寺遺阯参考地」を確認、「参考地」建碑の先人の存在を知り感銘を受けるのです。碑銘にある建立者「三宅安兵衛」とはいかなる人物であろうかと捜索を開始し、7年後、平安博物館(当時)の大石良材の教示によって遺族と出会うことになります。この経過については岩永の著書『文化財保護ありのまま』に詳しいのですが、岩永は「甕原離宮国分尼寺遺阯参考地」建立の背景についてはふれていません。
 1926年、京都府が実施していた木津・加茂間の府道敷設工事中、法華寺野小字西ノ平の丘陵の桑畑を切り崩したところ、多数の古瓦が出土しました。これを受けて翌1927年7月および1928年1月から4月にかけて、京都帝国大学国史学教室の西田直二郎・佐藤虎雄をはじめとする京都府史蹟勝地調査会委員によって発掘調査が行われました。その結果、あらたな古瓦等が出土したほか、南北延長約55mの「遺壁」が検出されました。この遺構の性格は不詳ですが、佐藤虎雄はその報告「法華寺野の遺跡」に「甕原離宮或は国分尼寺に属するものなるかは将来の研究及び考古学的発掘を待ちて定め」るべきと記し、「此の遺蹟は古代の遺壁に属するものとして保存せられんことを希望する」と結びました。報告書は1930年3月刊行で、建碑以後です。報告書にはその後の建碑についてふれられていませんが、佐藤虎雄と芳次郎の関係を鑑みて無関係であるはずはありません。佐藤らの希望を受けて芳次郎が建碑地として選択したと考えられます。以上により当該碑に「参考地」とある事情は明らかでしょう。検出した「遺壁」は甕原離宮および国分尼寺に関わる可能性があるものの、確かなる根拠を得られなかった。そのため選んだ文言であったといえます。東車塚および西車塚両古墳に建てられた碑に濱田青陵が「参考地」と揮毫したのも同様の意図でしょう。確かなことは不明ですが、八幡の調査等で考古学教室および国史学教室はかなり芳次郎の世話になっています。両古墳を山代之大筒木真若王・母泥之阿治佐波毘売夫妻の墓に治定したい、芳次郎の希望を無碍にできなかった濱田の苦肉の処置だったのではないでしょうか。すなわち「参考地」文言は、安兵衛・清治郎父子はもちろん、芳次郎でもなく、濱田青陵や西田直二郎ら京都帝国大学の研究者によって付されたものと理解します。確実なこととそうでないことの区別を碑文で示そうとしたわけです。
 なお濱田や西田が揮毫したことを刻んだ三宅碑は四基現存していますが、f0300125_223042.jpgいずれも宮都や陵墓など天皇・皇族所縁の地であることを指摘しておきます。
 王塚について芳次郎は「宇智王子」の墓という「申伝」があると記しています。「宇智王子」とは大筒木真若王と同じく「記紀」伝承上の人物、味師内宿禰(甘美内宿禰)のことで、孝元天皇の孫(あるいは曾孫)です。武内宿禰の弟にあたります。f0300125_10534780.jpg「勅命ニ依リ南山城ヲ開拓シ此ノ所ニ住タマイ南山城ノ祖先タリ、又橘家武内家ノ先祖タリ、今ニ之ノ一族多し」と芳次郎は位置付けています。大筒木真若王とあわせて城南地域の「開拓」者である皇族への建碑を意識していることが分かります。なお井手町の橘諸兄(たちばなのもろえ)所縁の井堤寺跡、寿福寺等への建碑もこれに関わり選択されたのではないでしょうか。
 ちなみに『都名所図会』など近世の地誌のなかには、王塚の被葬者を「宇智王子」ではなく、継体天皇とするものがあることも注意すべきでしょう。継体天皇由緒地に三宅碑が多く建設されていることは前述しましたね。
(つづく) 一一ー




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◆会報第83号より-end

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