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◆会報第43号より-06 大谷川散策⑥

シリーズ「大谷川散策余話」・・・⑥
 第6章 戸津(とうづ)の地名考察

 野間口 秀国 (会員)


 八幡市図書館で出会った一冊の本に下記の一文を見つけたことが表記の題名で書くことを後押ししてくれました。曰く、「・・・むかしの水害のまえそのまた水害のまえは 川はべつの姿をし べつの場所を流れていた 水の交通整理をしながら人間がつくりかえてきたのが今の川」と(*1)。他にも当会の複数の会報や諸資料からも、木津川の流れは長い年月の間には変化していた、であろうと思えてきます。とは言え、「どの時代にどのような流路であったか」を正確に把握して書いたもので無いことを最初にお断りさせて頂きたいと思います。
 ◆会報第43号より-06 大谷川散策⑥_f0300125_2138835.jpg平成25年7月9日の京都新聞山城版に「木津の文化財と緑を守る会」の岩井照芳氏が「木津川は奈良時代から都に近い河川港として発展した。木材を扱う港(津)という意味で、江戸時代には木津と呼ばれるようになった。」と述べておられます。戸津の「津」が港を意味する事は上記からも理解頂けると思います。残りの一文字、「戸」は江戸や水戸を参考にしてみたいと思います。江戸はご存じの通り東京の旧称で、地名の由来は諸説があると言われており「江」は川あるいは入江であり、「戸」は入口を意味することより「入江(川)の入り口」に由来したと考える説が有力なようです。同様に水戸の「戸」も出入り口を意味し、水戸は大海(水)への出入り口と解することができることより、「戸津」は「木津川の入り口の港」との理解が可能と考えます。

 先ず文字で戸津を考えてみましたが、次に八幡市の地図を見てみましょう。木津川大橋の架かる木津川左岸上流側に上奈良、下流側に下奈良の地名があり、両地区の中ほどには奈良元、奈良里の名があります。同様に新木津川大橋の南北に上津屋(八幡市域)と下津屋(久御山町)の地名があり、「津屋」の地名を考える時、私は大阪府寝屋川市の「寝屋」と類似した意味合いを持つと考えます。その理由は、寝屋川市にはかって官営の牧場があり、そこで働く人達の宿舎(建物=寝屋)があったこと、そこに源を発する川が寝屋川と名付けられた、と書かれているものを読んだことがあったからです。

 他にも屋を含む番屋(バンヤ)、上屋(ウワヤ)、苫屋(トマヤ)なども建物であり、そう考えると「上津屋」は津の上流の建屋集落で、「下津屋」は下流側の、と理解出来るようです。更に、川上と川下の「津屋」の間に港(津)が有り、その地名こそ「戸津」であったのではと考えてみたのですが、少なくとも現在の地図では三者の位置関係はそうでは無く、この考えは少し無理でしょうか。

 さて、現在の地図上では多少無理でも話を前に進めましょう。古代より港(津)は重要な社会基盤の一つであり、当会の土井三郎事務局長は自らの著書『百花繚乱 私のうた紀行』で、孝徳天皇(645-654年)が飛鳥から難波の地へ遷都された理由の一つに「難波の地が大陸と海でつながる港津であったからに他ならない」と述べておられ、桓武天皇(781-806年)による長岡への遷都の理由も「水陸交通の要衝が一要因」と『京都府の歴史』に見えます。

 戸津の港としての機能を考える時、北隣の「川口」の地にも触れておきたいと思います。文字通り川の入り口を意味する地名と理解できますが、川口の集落は港とは少し異なり、周囲に堀をめぐらせた環濠集落であっただろうことです。現在の川口に今も残る「堀之内」の地名は、周囲が堀であったことの証しと思えますし、また環濠集落には防御と拠点の機能を有する特色も見られることより、木津川と蜻蛉尻川の接点でもあった地なのでしょう。川口は河内、摂津との国境も近いこの地域での重要な交流の拠点的集落の一つであったと思われます。
◆会報第43号より-06 大谷川散策⑥_f0300125_21312063.jpg このように、戸津は環濠集落の川口に北側を守られた港であり、安全な環境下でその機能を十分に発揮していたのではないのでしょうか。木津川を僅かに下れば淀津に至り、淀川を下れば瀬戸内海に、一方、木津川、宇治川、桂川を上ればそれぞれ大和、近江、丹波へと繋がっており三川合流地に近いこの地は淀川舟運の要衝の地であります。このように考えてみると、戸津は経済的にも政治的にも重要であり、橋本、山崎、淀、一口(イモアライ)(大池 = 巨椋池の入り口)などと共に周辺の複数の津と共に港の機能の一翼を担っていたと考えられるのではないでしょうか。

 さて、ここで木津川の現在の流れを地図で確認いただくと、やっぱり「戸津の位置の説明が付かない」と思われるのが当然のような気がします。そこで少しでも納得いただける資料を、と探した結果の1つが冒頭の一文です。著者の富山氏の考えを補強するように、当会会報にも先輩諸氏の活動報告が複数あり、最初の一つが出口修氏の「地名で学ぶ八幡の歴史」講演記録(*2)です。内容は多岐にわたり、時代は大宝律令の頃(702年)にまで遡りとても分かり易く、戸津に水害と移転の歴史があることがわかりました。富山氏のことばをさらに視覚的に著わしたものが、大洞真白氏の講演資料「八幡市域の古代地図」に描かれた木津川の流路の図に(*3)、また中川学氏の講演資料に残る旧木津川の流路の図に(*4)、更に第124回埋蔵文化財セミナー講演(2013.5.25)での小森俊寛氏の資料に見える「木津川の古代~中世の流路跡」の図などに見出すことが出来ました。
◆会報第43号より-06 大谷川散策⑥_f0300125_21503439.jpg
古くは奈良時代前半(715~750年)頃に創建されたと考えられる美濃山廃寺など、その時代の社寺建立に使用された諸資材の運搬にも舟が活躍したのかも知れません。『類聚雑要抄』や『延喜式』に那羅郷(前述の奈良元、奈良里か?)で採れた「雑菜」が川船によって與等津(淀津)まで運ばれた・・・と大洞氏は述べておられます(*3)。木津川沿いには島畑(しまばた)も多く有り(*5)、武家領と非武家領がジグソウパズルのように複雑に存在する山城の地の浜出し荷物は先の雑菜類の他にも、年貢米、菜種、綿の実、さつま芋等々が考えられます。一方、浜揚げ荷物は都や他国からの珍しい産物のみならず、今では想像できないでしょうが下肥などの肥料類や塩などがあったようです(*5)(*6)。

 戸津の港としての機能について考える時、木津川を上り下りした舟の大きさを考えても港の規模は決して大きなものではなかったと思われますが、それは瀬戸内海から上って来た大型船の積み荷は一旦大池(巨椋池)で小型の舟に積み替えられた様子からも窺えます。また、これは淀津より上流の大型船の航路の問題に加えて船荷の扱いに関する権益の問題もあったようです。江戸時代の淀には507艘の20石船が存在し、「淀二十石船株札」をいただいた船のみが営業を許されたことを、この春、山城郷土資料館の常設展示から学び、『けいはんな風土記』(関西文化学術研究都市推進機構編・門脇禎二氏監修)からも近世の淀川・木津川水運について多くを学べました。戸津の規模は決して大きくは無かったかも知れませんが重要な港であっただろうことは想像できます。
◆会報第43号より-06 大谷川散策⑥_f0300125_2224915.jpg 木津川沿いでは無く、川から離れた市のほぼ中央に津の付く戸津の地名を見つけて、「なぜ?」と疑問を持ち、少しづつ調べ始めてやっとここまでたどり着きました。「人間が造り変えてきたのが今の川」との富山氏の言葉の意味を思う時、戸津は現在の木津川の流れから少し離れ、正確な時代も流路も特定は出来ませんが、かっては木津川の流れと共にあった地名と言えるのではないのでしょうか。戸津がいつ、どこに、規模は、流路は、などの疑問には、この10月6日に開催された出垣内遺跡の説明会や今後も続くであろう木津川河床関連の遺跡発掘の成果や流れを示す古文書の出現を待ちたいと思います。

 改めて八幡市の地図に目を向けてみると、美濃山の北西部にとても気になる「戸津奥谷」の飛び地(パズルの1片)があることに気づきました。この飛び地はかっての港の有力者の持ち山か別荘地だったのでしょうか。三重県桑名市にも戸津の地名があり、ここはトヅと読むと桑名市観光協会の方から学びました。江戸も水戸も、長崎の平戸も、桑名の戸津(トヅ)も、ここ山城の戸津(トウヅ)も昔から川や海で繋がっていた、そう思うと戸津という地名に親しみが湧いてくるのですが、国道1号線の八幡戸津交差点の標識の戸津(トウヅ)に相当する部分の英文表記が TOTSU であるのは今でも気になっています。

次章は「田園区・流れに四季を感じて」を書きます。

【参考図書、会報、資料、写真など】
 (※1) 『川はいきている』富山和子氏著(講談社刊)
 (※2) 『会報』16号(2011.8.2発行)
 (※3) 『会報』27号(2012.6.24発行)
 (※4) 『会報』28号(2012.7.25発行)
 (※5) 下水主遺跡・水主神社東遺跡現地説明会(2013.8.3)資料
 (※6) 『会報』42号(2013.9.25発行) 三桝佳世氏の講演記録
     他に 『八幡市誌 第2巻』
   ※写真2と写真4は、久美浜町の栃谷川河口付近にて撮影。

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by y-rekitan | 2013-10-28 07:00
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