◆会報第42号より-06 墓石をたどる③

シリーズ「墓石をたどる」・・・③
橋本家(等安)の墓石をたどる

 谷村 勉 (会員)


 「八幡市誌」 第二巻 第六章に「近世八幡の文化人たち」(P320) の冒頭で橋本等安が紹介され、かの里村紹巴に連歌を学び、豊臣秀吉の御連衆として活躍したことが記されています。先般、橋本で他の墓石を確認していたところ、少し離れたところに、偶然にも橋本等安一族の墓石群を発見しました。橋本北ノ町(京阪電車橋本駅京都寄り)の山腹に一族20数基の墓石が祀られてありました。
 
橋本等安一族の墓であることの確認

f0300125_23311785.jpg  まず男山考古録の橋本寺の項に、「今は絶えてなし、橋本町道の南側、今社士落合利經か隣地也と、法華宗にて、橋本當好か先祖等庵という人の一建立にて、彼家の頼み寺なるよし、・・・・・云々」とあります。
ここで判ったことは、まず橋本當好が等庵(等安)の子孫である事です。
 次に八幡市誌 第二巻には「橋本等安は、当好と称し、通称満介、他に不伯斎とも号し、橋本町に安居本頭神人として、朱印地五七石四斗七升を領し、居住していた」とあります。朱印地とは、慶長五年(1600)五月二十五日、徳川家康から五拾七石四斗七升を給付されたことを指し、ここに等安が家康から朱印状を給わっていたことも判りました。
 さて、明治五年(1872)、京都府に提出された橋本家由緒書によりますと橋本等安より数えて十二代目に橋本當好(男山考古録著者・長濵尚次とほぼ同時代)の名前が記され、慶長五年に朱印地五拾七石四斗七升を給わったことも記されていました。これらからこの墓石群が橋本家由緒書とも一致し、橋本等安一族のものと判りました。
 墓碑を読むと延宝・元禄年間(1672~1703)以降の歴代当主等の文字は判別できますが、それ以前は判り辛いところがあります。
 墓石の種類は板碑型、箱型、唐破風付等その変化によって、時代の変遷が判るようにも思えますが、はたして等安の墓石はどれなのか、古い花崗岩の墓碑は、それらしきものはありますが、風雪劣化により文字が判読できません。
 しかし、いつか拓本を取れば特定できるかも知れないと思いました。
今回も偶然発見した墓石群には何か因縁を感じつつ、二礼二拍一礼して、螢域を出ました。
いつか類縁の方にお逢いして、等安の事績等もお伺いしたいと思っています。

場 所

 京阪電車橋本駅から山側を京都方面に向かうと、右の登り坂に黄色の逆U字型の手すりが見えてきます。その手すりの間の民家を左に折れ路地を進みます。白い板壁の民家を右に回り、裏から狭い道を登りますと、道に沿って墓石群が見えます。その少し奥へ進むと右に登る階段があり、6~7m程登ると橋本家の墓石群です。(*他家の螢域に入る場合は余程ご留意願います)

 等安が秀吉の連衆として活躍したという逸話に、「音するはいつこの駒の轡虫」という句の付句に人々が窮した時、等安が「霧の中ゆく逢坂の関」とつけて、秀吉から賞詞を賜った、というのがある(八幡市誌 第二巻p320)  

なぜ秀吉が褒めたのか(私の解釈)

 音するはを「音する羽」と読みますと、秀吉が音羽川の流れを見て、京の地に入ったのはいつの頃であったか。馬上にあって蹄、鐙や馬具の擦れる音がまるで轡虫が羽を擦って音を出す様に似て、水の流れる音は、掻き消されたものだ。「音する羽」とすれば八幡の等安にとって、ごく自然に音羽山が連想できます。秀吉も戦略上の地理には極めて明るい。大津から初めて京に入る山が音羽山。音羽山の裾に逢坂の関があり、古歌に聞く、逢坂の関を再び帰ることができようか、関越えの後も戦の連続で、あの頃は先行き、さも霧の中をゆくようであった。秀吉も青雲の頃が懐かしい。

 ・等安作と伝えられる発句に次のものがある (八幡市誌 第二巻p321) 
        なひきあひて霞にねさす柳かな    
        梅が香や篠ぬけ出し袖の露        
        かりかねは霞にもれて山もなし    
        若草やつなきとめけむ放れ駒     
 ・和歌はわずかに一首伝わるだけである (前掲書)
        五月雨はをのが時ぞとをちかへり
        なくねもあかぬほととぎすかな 


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by y-rekitan | 2013-09-28 07:00 | Comments(0)
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