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◆会報第42号より-04 エジソン碑⑦

シリーズ「石清水八幡宮覚書」・・・⑦
御文庫とエジソン碑⑦

 石清水八幡宮 禰宜  西  中 道


 エヂソン記念碑の除幕式から、ほぼ4ヶ月が過ぎた昭和9年9月21日金曜の朝、後に「室戸台風」と名付けられた超大型台風が、近畿地方を直撃した。四国の室戸岬に上陸した時の911.6 hPa という気圧は、参考記録ながら日本本土への上陸時としては史上最低、即ち史上最強の台風であったことを示し、その記録は今も破られていないそうである。
 特に最大瞬間風速60㍍(毎秒)以上とされる想定外の暴風が、京阪神の人口稠密地帯に、しかもちょうど職場や学校の始業時と重なる午前8時~9時頃に襲いかかったから、被害は一層拡大した。この台風による死者・行方不明者は3千人を超え、当地でも八幡尋常高等小学校の校舎が強風により全壊し、犠牲となった校長・訓導・児童合わせて34人の名前が、今も善法律寺境内の慰霊碑に刻まれているのは、周知の通りである。
 石清水八幡宮をはじめ神社仏閣にも相当の被害があり、当時の境内被害状況を記録した写真などを見ると、あまりに破壊の跡が凄まじく、一見しただけでは何処を撮影したものか見当もつかない。倒れたり折れたりした樹木の幹や枝、吹き飛ばされた建物の残骸らしきものが散乱し折り重なって、それこそ無茶苦茶な状態になっている。本殿の損壊も甚だしく、部分的修理で間に合うような程度のものでないことは、誰の目にも明らかだった。
 男山展望台のエヂソン記念碑も、台風通過後は木々の枝葉に覆われ、半ば埋もれた状態になっていたのだが、今やエヂソン碑の話など、どこかへ吹き飛んでしまっていた。田中宮司は、本殿以下諸建物の修復のため、最後の御奉公という覚悟をもって粉骨砕身、ようやく翌年5月13日、本殿半解体修理のため仮遷座祭を執り行うところまで漕ぎつけた。
 しかし、工事半ばの昭和12年8月27日、数え70歳、古希の年を迎えた田中宮司は、もはや精も根も尽き果てたということか、遂に石清水八幡宮宮司の任を退く。振り返れば、明治34年12月の宮司就任以来、35年余りの歳月が流れていた。翌日赴任してきたのは、佐賀県出身、明治7年生まれの前橿原神宮宮司・副島知一氏である。    (つづく)

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by y-rekitan | 2013-09-28 09:00
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