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◆会報第38号より-04 エジソン碑③

シリーズ「石清水八幡宮覚書」・・・③
御文庫とエジソン碑③

 石清水八幡宮 禰宜  西  中 道


 ヱヂソン碑の基礎工事を早々と進めてしまったのは、やはり少し勇み足だったというべきか。京都府から許可が下りたというが、それは府の社寺課レベルの話で、中央から正式の許可通知が届いたわけではなかった。聞けば東京の本局、内務省神社局長辺りが、本件に難色を示しているという。当時の神社局長は、昭和6年から10年までその任に在った山口県出身、東京帝大法科卒というバリバリの内務官僚・石田馨である。「官国幣社の境内に個人の、それも外国人の顕彰碑を建てるのは不相応」という見解のようで、しかも正式な許可を待たず、勝手に建設工事を始めてしまったことが、当局の心証をよけい悪化させてしまったらしい。自分も勅任官たる官幣大社の宮司である、との強い自負心をもつ田中俊清宮司にすれば、この話が頓挫すれば大誤算、まさにメンツ丸潰れである。
 石田馨といえば、数年前まで京都府内務部長の要職にあった人物。昭和3年に京都で行われた昭和天皇の即位礼では、御大礼事務委員長として存分に手腕を発揮し、田中宮司とも旧知の間柄である。しかも、明治元年生まれの自分より17も若い明治18年生まれ、まだ50歳にも届いていない。その辺りに、いささか油断もあったのだろうが、おそらく田中宮司にしてみれば、石田に裏切られたという思いが強かったのではあるまいか。

  昭和8年に「ヱヂソン記念碑建設会」という組織が作られ、会長に電気普及会の会長でもあった元首相の清浦奎吾伯爵が就任、顧問には鳩山一郎文部大臣、徳川家達公爵、金子堅太郎子爵など、錚々たる顔ぶれが名を連ねた。前回も述べたとおり、その会から依頼を受けて田中宮司が一肌脱ぐことになったのだが、それはあくまで表向きの話で、実は田中宮司本人こそ、「ヱヂソン記念碑誘致運動」の影の仕掛け人だったと見られなくもない。そういう、いわば事業家肌の宮司だったから、多分それなりの勝算もあり、すぐ認可が下りるものと高を括っていたのだろうが、筋金入りの内務官僚には、爵位も官社の威光も通じない。誰に何を言われようが駄目なものは駄目と、全く埒が明かない。  (つづく)

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by y-rekitan | 2013-05-28 09:00
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