吉井勇歌碑(松花堂庭園) やわた市民文化事業団常任理事 垣内 忠 八幡市内には、市によって建立された文学碑が5基在ります。自治体が文学碑を建立することは、珍しいことではないかと思います。 昭和58年11月3日の文化センター開館に際し各界から市に計1,000万円余の祝金が寄せられました。 市では、この祝金を文化振興に役立てるため、文化振興基金を創設しました。当時は預金利率が 良く、利息が年60万円余り付きました。 文化行政を担当していた者として、せっかくの篤志を有効に活用するため、元金には手を付けず、利息の活用で実施可能な事業を模索しました。その中で、本市には古来、ゆかりの文学作品が多くあるのを知り、これを顕彰する「やわた文学碑建立事業」の実施を提案しました。当時の市長は、文学好きで、自らも短歌を詠まれていた故西村正男氏で、快く認めていただきました。 昭和60年10月、松花堂庭園に吉井勇歌碑を建立以降、与謝蕪村句碑(さくら公園)、谷崎潤一郎「蘆刈」碑(男山展望台)、能蓮法師歌碑(さざなみ公園)、其角・荷兮(かけい)句碑(背割堤)が順次建立されました。 昭乗といへる隠者の住みし盧(いほ) 近くにあるをうれしみて寝る 最初に取り上げるのは、「ゴンドラの唄」の作詞で知られ、男山地域の地名ともなっている吉井勇の短歌です。 勇は、昭和20年10月から23年8月まで、月夜田の宝青庵に孝子夫人と共に寓居しました。終戦によって出版業界も息を吹き返し、勇の創作意欲は大いに高まり多数の著作を発表しました。中でも、歌集「残夢」は八幡の風景や人々の暮らしを詠んだ特筆すべきものです。歌碑の短歌は、この「残夢」に収められています。 勇は、明治維新の功労により伯爵になった吉井幸助の孫として、明治19年10月8日に生まれました。42歳の時、父幸蔵の死により家督を相続し伯爵となっています。しかし、吉井家は幸蔵の事業破綻により没落の一途を辿り、勇は全国各地を転々とする「放浪の歌人」とも言われる状態でした。 妻と離婚し、爵位を返上して世捨て人同然となり、四国の山奥に隠棲していた勇を甦らせたのは、再婚相手の孝子でした。孝子は、若い頃「浅草小町」と言われた美しく闊達な女性で、勇を支え続けました。 歌碑の建立には、著作権者の承諾が必要なため、銀閣寺前の吉井邸に孝子夫人を訪ねました。夫人は快く歌碑建立を承諾のうえ、生前のままに保たれていた勇の書斎に案内し、八幡での思い出話しを聞かせてくださいました。 宝青庵の所有者で、当時松花堂庭園に居住されていた西村大成氏夫人の静子さん(故人)の話では、大成氏は、勇に「元伯爵様といっても特別扱いはしません。」と言われたそうです。そのことが勇にとってはかえって嬉しかったようです。 「お風呂が焚けると拍子木を鳴らして報せた。」と静子夫人が語ったように、宝青庵と松花堂庭園は200メートル弱しか離れていません。八幡在住の間、勇は頻繁に西村家を訪れて大成氏と酒を酌み交わしたそうです。勇は、歌碑の短歌が表すように、松花堂を見て昭乗の生き様を偲び、深く追慕したと思われます。 歌碑は、奈良県の吉野石を使用し、文字は勇の書から拾い出して構成しました。ちなみに、末尾の「寝る」は、祇園の「かにかくに碑」から写しました。碑の除幕は、勇の誕生日に孝子夫人の手で行っていただき、完成記念に書斎にある遺品をお借りして「吉井勇展」を現松花堂美術館別館で開催しました。 なお、明くる昭和61年に、勇ファンで組織された「吉井勇翁生誕百年記念会」により、宝青庵に次の歌碑が建立されています。 ここに住みしかたみにせよと地蔵佛 われに呉れたり洛南の友
by y-rekitan
| 2012-01-28 12:00
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