第五章 公園区・隠れた桜の名所 野間口 秀国 (会員) この区の特徴はその名の通り大谷川の両岸に沿って平成8年11月に完成した大谷川公園(男山東中学校正門前の五月橋左岸下流側より入り2 0 m ほど)です(※1)。この公園区に架かる橋は(旧)内戸美橋から男山東中学校前の五月橋を経て国道1号線に架かるあけぼの橋手前までの6本です。 区間の上流側約1/3ほど、内里池傍の(旧)内戸美橋から男山東中学校前の五月橋までは公園区より学園区と呼ぶにふさわしいかも知れません。流れの左岸には京都八幡高等学校(南キャンパス)と八幡支援学校が、右岸の五月橋近くには昭和61年4月開校の男山東中学校などの校舎が続きます。朝の通学時間帯には登校する生徒の皆さんの若い息吹が感じられ、放課後にはクラブ活動で楽しんでいる姿があります。 ![]() ![]() ここで公園に隣接する左岸の戸津池ゴルフ練習場にも目を向けてみましょう。次々と打ち出されたボールが落ちて小さな波紋を作る池の水面には、時折ユニークな舟が見られますがお気づきでしょうか。この舟は次々と放たれるボールを拾い集めているのです。その構造と働きはとても良く工夫されており、水に浮くボールを次々と拾い集めては舟上のカゴにきれいに納めてくれます。無人の舟ではありませんので船長さんが右に左にとても巧みに操縦しておられます。広々とした戸津池の水面と、このユニークな舟は公園を訪れる人々に穏やかなひと時を提供してくれているのだと思います。 ![]() 公園中央部にある無名のコンクリート橋を渡って下流方向に進むとちょっとした芝生の多目的広場があります。お子様連れには車などを気にしないで安全に楽しめる場所と言えそうです。また、夏場には水辺に降りて川の流れに触れることが出来る階段状(雁木)堤防で休んでいると、親水性にも配慮されていることが実感できますが、水量の多い雨上がり時には水辺に降りることはお止めください。 緩やかな流れのこのあたりは大谷川でメダカが見られる貴重な場所でもありますし、芝生の多目的広場横にはパーゴラと呼ばれる御影石の現代彫刻もあります。 さて、今一度中央部の無名のコンクリート橋のところまで戻ってみましょう。このコンクリート橋に隣接して、これまた無名の木製の橋が架かっていますが、美濃山を抱くように、山の東側を流れる大谷川本川と西側を下った御幸谷川がこの2本の橋の箇所(戸津谷ノ口)で合流しています。ここで少しだけ大谷川の本川を離れ御幸谷川の流れ下る美濃山についてふれてみたいと思います。 生駒山系より連なる標高40~50mのここ美濃山丘陵地では、遥か旧石器時代の石器が採集されており、市内で最も古くから人類が活動した痕跡が残る地域と言われております。弥生時代中期の集落が形成されたと見られる跡も金右衛門遺跡で確認されています。八幡市誌の第1巻では、美濃山でナイフ形石器が複数発見されたこと、それらが大阪・奈良府県境の二上山から運ばれたであろうサヌカイト(讃岐岩=さぬきがん)製であることなども書かれてます。歴探会員諸氏には既にご存じのように周辺では近年多くの遺跡が発掘されております。 石器の時代からは一気に下りますが、京都府教育会刊『山城綴喜郡誌(全)』には「大谷川は有智郷村字美濃山より発し……」と書かれております。これはこの戸津谷ノ口で合流する御幸谷川の源流のことを意味するものと考えても間違いではないと思われます。また、八幡市教育委員会刊の『男山で学ぶ人と緑の歴史』には御幸谷川のこと、かっての美濃山や戸津の地域の暮らしの様子が手に取るように書かれておりとても興味深いものがあります。明治期にはお茶が、その後は筍や芋(サツマイモ)の生産や養蚕業が盛んであったこともこの本は教えてくれます。柿の木や桐の木が多く植えられていたことも分かりますが、美濃山井ノ元地区に今も残る柿の古木などを見る時に、里山がその本来の役目を果たしていた頃を彷彿とさせてくれます。ゴルフ練習場として多くの愛好家の皆様に利用されている現在の戸津池で、かってはウナギや川魚の養殖がなされていたことも本には書かれています。 ![]() 次章では、市のほぼ中央部に位置し、以前から何故か気になっていた地名、戸津についとうづて私なりの考察を試みてみたいと思います。 (※1)国道1号線の八幡検問所近傍、戸津池北西部の信号からも可能です。
by y-rekitan
| 2013-09-28 10:00
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