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◆会報第16号より-02 一枚の写真から①

シリーズ「一枚の写真から」・・・①
第1回 男山団地の誕生

 八幡まちかど博物館「城ノ内」館長 : 高井 輝雄 


「一枚の写真から」の執筆にあたって

 戦後、特に昭和29年、3町村が合併し八幡町になる前後から今日の八幡市が形成されるまで、その時々の先人達の量り知れない苦労や活動があったこと、為政者始め要路の指導者が数々の難局に際して勇気と決断を求められたことを、今つくづく思い返している。
 振り返り「文字」で起こすのは比較的安易であるが、その時々の臨場感は伝わらない。今このまちに住む者として、まちの来し方を知り、その時々の思いや状況の一端に触れ少しでも理解することも、これからの地域づくり、まちづくりに活かすために大事と思う。   
 そんな思いで、些かの体験と各当事者の声を引用させていただく等、「一枚の写真から」シリーズの筆を執った次第です。まだまだ最近のことであるが、何かのお役にたてば幸甚であります。不十分さは賢兄のご指導ご指摘をお願いします。

男山団地の誕生
―市民運動が公団住宅を誘致―
◆会報第16号より-02 一枚の写真から①_f0300125_2324230.jpg
 この写真の一コマが、「男山団地誕生」の原点だと思う。写真は何かの事案に賛成の挙手をしているようだが、後ろの垂幕を良く見るとそうではない。
 八幡の西部丘陵一帯(今の男山団地地域)を対象に出願された硅砂鉱区の設定反対、つまり硅砂採掘のための山砂利採取による公害発生を阻止するために開かれた地権者等の集まりで、強い反対の意思を示された瞬間の光景なのである。 
 八幡から枚方への山間でガラスの原料となる硅砂の試掘をしていた大阪の業者が、当時の通産省に本採掘の為の正式の申請をしたのである。昭和34年初頭のことである。これを許すと、旧市街地はまさに頭の上で山が削られ山砂利公害が起きることは必至であり、その上、地権者の了解なく地上権まで侵されるとあって、この年の12月以来、町ぐるみの反対運動がおこったのである。
 『市民運動』。当時は未だ、そんな言葉が一般化していなかったとき、八幡における市民運動として、町ぐるみ起ち上がったのである 
 この業者による申請を阻止するのには、公益としてこれを上回る対抗措置が必要であるため、昭和35年6月、町の工場等誘致審議会で、いわゆる「公団住宅(男山団地)」の誘致が決定された。

親より生まれる子が大きい

 それからが大変であった。何せ親(元の人口2万5千人)より大きい子供(男山団地の計画人口3万2千人)を産もうとする計画には、難題が多すぎたのである。400人に及ぶ地権者の協力と用地の買収価格から始まり、町の財政は大丈夫か、排水による内水害(5回のシリーズで扱う)の対策は、上水道の水源は、下水は何処で処理するのか、農地を失う農家の離農対策は、等々。また、団地計画の内容や在来地域との行政バランス等のソフト面のこと、公団住宅計画を実現するための前段階のハードルをクリアすることに議会たんびに議論は紛糾し、足踏みを重ねた。 
 限られた紙数のため深く記すことはできないが、何分町の将来を左右する大問題だけにあるときは町を二分するほど世論も沸立ち、これを纏めていくのに口には言い表せない当局の苦労が続き、「どうなるのかと案じて、眠れなかった夜の数は数えようもない」と、当時団地問題担当の幹部職員は後述されている。
 これら難問題は、所謂町の政局にも及ぶこと度々であったが、当局の粘り強い努力で、国や府から有利な財政制度の改善を引出し、内水害から町を守る施設増強を国によって主に施工できる等、実現に向け大きく前進し、一つ一つ解決の目途をつけられたのである。簡単な表現で全く片付けられないくらい長期にわたる出来事であった。
 地権者の同意を始め、当時の町当局の総力を挙げての努力、議会、市民の理解と協力あってのことである。また、団地開発に関する国の財政制度(地方交付税等)を何としても是正されるよう、町長と共に町の財政担当者が非常に重いタイガー計算機を東京の自治省まで持参、担当官の目の前で計算機を回し正論を主張、制度改正の実現に到ったエピソードもある。

高齢者人口今や4人に1人

 こうして、公団住宅(男山団地)の誘致決定以来10年目の昭和44年、漸く初めて開発工事の手が入れられた。この男山団地の計画概要は、面積56万坪(186㌶)、戸数8120戸、32000人(公共施設等省略)が予定計画であった。(事業実施にあたっては、多少変動した)。千里ニュータウンに次ぐ西日本2番目に大きい団地造成計画である。 
 男山団地の中央に建つ集合住宅の入居は、昭和47年から南部のA地区から始まった。その春、一挙に何と2150戸、6000人の新住民を迎え、団地の区画整理事業が終了する昭和52年迄、毎年多くの入居者迎えた。
 小さな町だけに、受入れ準備には大変なものがあった。<水際作戦>と銘打って、入居説明会から始まる手続き会のたびに役場の窓口は出前し、町の状況や入居手続き等について詳細に説明し、不安のないよう「温かく迎えよう」と毎日忙殺されていたことが、この間のように鮮明に思い返すことができる。このときの町には活気があり、「まちは動いていた」
 当時、男山団地は、年齢別人口の構造は、三角形が二つ重なるように20代から40代の親と0歳から10才位までの若年層が圧倒的に多い、若々しい世帯で溢れていた。それが約40年経った今はどうか、この3月末現在、65歳の人の占める割合は実に22、6%、凡そ4人に1人が高齢者なのである。
 
 新旧住民の憩いの場、交流の場にと設けられた「さくら公園」では、桜の季節に多くの人々を見るにつけ、何か安堵した気持ちになる。公園内にある竹のモニュメントの下へ完成記念(昭和52年)に埋めたタイムカプセル。いつか出されたとき、何と言うだろう。

《追記》
 もう一面の公団団地誘致の起因は、昭和30年代初頭から橋本地域で始まった民間による宅地開発にあった。 
 宅地開発に関する規制の法律のない時代で、大阪のドーナツ化により急に開発が市内に進行しかけ、無秩序な開発に町が対応しなければならなくなった。そんな宅地造成は雨が降るたび水害等の問題が発生し、道路や水道等の公共施設は継ぎ接ぎの整備で効率悪く、地元自治体の対応と負担は難儀を極めていた。 
 京阪間の八幡は、遅かれ早かれ今以上の激しく苦しい、開発の対応に迫られる。だとしたら、政府の資金が投入される公共施設の整った開発が見込める公団住宅を誘致して、計画的なまちづくりをしようと考えていたのが、先に述べた公団団地誘致の起因をなす同時期であったのである。 
            (元八幡市職員、前松花堂美術館館長)


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by y-rekitan | 2011-07-28 11:00
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