◆会報第12号より-02 古歌の南山城②

シリーズ「古歌に詠われた南山城」・・・②
『万葉集』と八幡

八木 功 (会員)


  今回も「『万葉集』と八幡」の話ですが、八幡宮創建以後何年か経って「八幡」という呼称が生まれたのですから、「八幡」は当然のことながら、さらに「淀川」という呼称が現れてほしいのですが、両方とも『万葉集』には現れません。
 古代万葉時代、なにかと女性に関する話題の多い仁徳天皇も、政治面では課税免除や山代河(淀川)などの治水土木事業に取り組む善政により「聖帝」と讃えられていました。例えば、洪水を防ぐための茨田(まむだ)堤(寝屋川近郊)の築堤、難波(なにわ)の堀江の掘削など数々あり、前者は記録に残る日本最初の堤防工事ですが、その後も、大雨毎に淀川の洪水氾濫はどこかで起こりました。
人々を苦しめたこの恐ろしい淀川に山崎橋を架橋し、楠葉に久修園院(くずおんいん)を開き仏の道を説いたのは僧行基(ぎょうき)(668~749)であり、いずれも725年、つまり八幡宮創建(859)より約130年前の事業でありました。

 さて、「山崎より淀川を渡り、交野を経て、茨田堤より淀川を下り、難波の堀江」に到達されたのは、他でもない聖徳太子(574~622)であります。これは、山崎橋架橋の約100年前(619)の真冬の一月、太子薨去(こうきょ)(622)の3年前の話ですが、磐姫にとり単なる通過点であった八幡の地を、太子が実際お進みになったということは非常に興味深い事実です。どのような様子で、何のために、この地を・・・と想像は展開します。40歳を越えられてからの太子は、政治的な動きは殆どなく、専ら夢殿にこもり、国史編纂や仏典に関する著述に専念されていたので、山崎巡行の目的は政治的なものより、むしろ宗教的な意図があったのではないかと想像したくなります。
 616年に、太子は新羅からの献上仏像を、信任の厚かった京・太秦(うずまさ)の豪族秦川勝(はたのかわかつ)に下賜され、川勝は蜂岳の宮を寺とし、そこに安置していたので、太秦を訪れようとされたが、真冬のことで体調をくずされ、山崎から引き返されたのでは、と想像したりしています。ちなみに、621年12月に太子の生母である穴穂部真人(あなほべのはしひと)大后が薨去、翌622年1月22日に太子病臥、妃の膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)も看護の疲労、心労で病臥され、2月21日には妃が、そして翌日には太子が亡くなられました。さらに、約20年後の643年11月、斑鳩を襲った蘇我入鹿により太子の子孫は絶滅しました。これが、後世、仏教の「聖者」として敬慕されるようになった太子の悲劇の現実でありました。

 『万葉集』には、太子が大和の竜田山(たつたやま)で、死人を見て詠われた歌一首のみ見られます。

    家ならば妹(いも)が手まかむ草枕
          旅に臥(こ)やせるこの旅人(たひと)あはれ(418)

    (家だったら愛の手を交わすであろうに、旅路で死んでいるあわれな旅人よ)

 同じく、飢え死にしそうな旅人を憐れむ太子の歌。
 しなてる 片岡山に 飯(いひ)に飢(ゑ)て 臥(こや)せる 
   その旅人(たひと)あはれ
    親無しに 汝(なれ)生(な)りけれめや さす竹の 君はや無き
     飯に飢て 臥せる その旅人あはれ  (『日本書紀』104)
 

 ・しなてる 片岡山の枕詞、 汝生りけれめや 親があればこそ
  生まれてきたのであろう、
 ・さす竹の 君(ここでは領主)にかかる枕詞
 ・君はや無き お前には面倒をみてくれる主君はいないのか
 
 いずれも、路傍の生き倒れの人への、自然な人間愛の歌でありますが、仏教の聖者の面影が浮かんできます。氏族制の厳しい時代に、太子が社会から無視されているような庶民に上着を与え、歌を読まれるという行為は、氏族的秩序を乱すという批判もありましたが、太子の深い慈愛の自然な発露であったと思います。
 今回も、「『万葉集』と八幡」と題しながら、八幡を通過、あるいは八幡の地を進まれた「聖帝」「聖者」の、八幡とは明確な関係のない歌の紹介に終わりましたことを申し訳なく思っています。幸い、是枝さんがお書きになった「御薗神社のずいき祭り」(会報第7号)の中に、「久世郡奈良園」への言及があります。天皇家の野菜畠である山城の奈良御園が上奈良(那羅郷(ならごう)の御園神社の近くにあったとして、考古学者森浩一氏は『京都の歴史を足元からさぐる』(宇治・筒木・相楽の巻)の中で、京野菜の話を交え、興味深く推論され、「妖艶な歌」と評し次の歌を引用されていますので、紹介させていただきます。

  つぎねふ 山代女の 木鍬持ち 打ちし大根(おほね)の
     根白の白腕(しろただむき) 枕(ま)かずけばこそ 
       知らずとも言はめ   (『古事記』61 『日本書紀』58)

(木鍬で耕した畑で取れた根の白い大根のような腕を枕としなかったら、私を知らないといってもよかろう)

 磐姫がどうしても会おうとしない時、仁徳天皇が詠まれたとされている伝承歌謡であります。

◎歴史短歌 三首
  ① 民草のかまどのけむりなきを見て 免税なされし「聖帝」仁徳
  ② み仏に帰依ふかかりし太子なれど 不運重なり王家絶滅
  ③ 僧行基仏ごころを活かさんと 近畿各地に足跡残せり 


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by y-rekitan | 2011-03-28 11:00 | Comments(0)
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