◆会報第23号より-03 神仏習合③

シリーズ「八幡神と神仏習合」・・・③
八幡大菩薩の誕生

土井 三郎 (会員) 


 前回、宇佐八幡宮が聖武天皇による大仏造立の祈願に対し、「われ天神地祇(あまつかみくにつかみ)を率いて必ず成し奉らん」との託宣を出すばかりか、大仏塗料に使う黄金が不足し、朝廷が唐に使いを遣わそうとすると「その必要なし」と予言し、陸奥から黄金がもたらされるなどして、大仏造立の事業を援けたことで、朝廷から深く崇敬されたことを紹介しました。また、道鏡が皇位を我がものにしようとした際にも、それを阻止する託宣を出すなどして皇統を守護する神として、いっそう宮廷人にその存在が知られるようになったことも述べました。
  一地方神の存在に留まらず、八幡神が中央にその名を轟かせることになったのです。そんな宇佐八幡の特性を田村圓澄は三つにまとめています。
   ① 仏教に対する親近性が強い。
   ② 在地性・土着性が希薄である。
   ③ 託宣をくだす神である。
        (『仏教伝来と古代日本』講談社学術文庫)
 その第一にあたる仏教への親近性では、八幡神が神の称号ではなくて、解脱して「八幡大菩薩」と名乗るようになったことによく表れています。
 その辺りの経過を例によって朝日百科・日本歴史『大仏建立と八幡神』の村山修一の論考「八幡神と神仏習合」から拾ってみたいと思います。
「奈良朝のはじめ、当時近江守であった藤原武智麻呂は、その伝記にこう記している。夢の中で越前国気比神宮の神託をうけて神宮寺を建てたが、夢のお告げでは、神が煩悩の神の身分を去って早く仏道に入りたいというものであった。同じころ、若狭比古神社に神宮寺が建てられたのも、神が神主和(やまと)朝臣赤麻呂に、神身の苦悩を離れ、解脱して仏法に帰依したいと託宣を発したのに基づくと『日本後紀』に記されている。神は、仏からみると人間と同じく遥かに劣った煩悩に苦しむ衆生とみなされ、読経、法会等を行うことによってその地位を高め、仏に近づくとされたことがわかる。」
仏になりたがる神

神宮寺と云えば、宇佐八幡宮でその成立が最も早く、会報22号で記した虚空蔵寺(こくうぞうじ)や法鏡寺は7世紀後半に創建されます。そして、それら神宮寺の住僧たちが、宇佐八幡と仏教との習合関係の設定について重要な役割を果たすのです。
ところで、左記にもあるように、8世紀から9世紀にかけて諸国の神社に神宮寺が併設されるようになります。それをまず概観してみましょう。

     神宮寺名        創建時期
   気比神宮寺(越前)    715年
   若狭比古神宮寺(若狭) 717-723年
   宇佐弥勒寺(豊前)    725年
   鹿島神宮寺(常陸)    749-756年
   多度神宮寺(伊勢)    763年
   伊勢大神宮寺(伊勢)   766年ごろ
   八幡比売神宮寺(豊前) 767年
   二荒山神宮寺(下野)   784年
   三輪神宮寺(大和)    788年
   高雄神願寺(山城)    782-806年

 それらの神社の神々は、おしなべて仏教帰依の願いを表明し、故に神社の境内や周辺などに仏堂や三重塔、釣鐘堂などが建つようになったものと思われます。
伊勢の多度(たど)大神も次のような託宣を下しました。
「我れは多度の神なり。吾れ久劫(きゅうごう、長い時間)を経て、重き罪業(ざいごう)をなし、神道の報いを受く。いま冀(こいねがわく)ば永く神の身を離れんがために、三宝(仏教)に帰依せんと欲す。」
 この神の告白は一体何を表しているのでしょうか。何故神であることの苦痛を語り、仏教に救済されることを願うのでしょうか。
 義江彰夫は「多度大神の願いは(多度神社の神主クラスの)地方豪族たちの願いであり、・・・多度大神が下した託宣じたい、彼ら豪族たちがしくんだ可能性がきわめて高い」と述べています(『神仏習合』岩波新書)。
以下、同書第1・2章の叙述に依拠しながら、8~9世紀の神仏習合の諸相を紹介します。
多度神以外でも、常陸国鹿島大神では、鹿島郡の郡司の長官が鹿島の宮司を抱き込み、修行僧に働きかけて神宮寺の創建にいたり、若狭国若狭比古大神の場合は、それを祀る豪族和(やまと)赤麿が神の願いを聞き入れて仏道に入り、神宮寺を建立したといいます。
 つまり、仏になろうとする神々の願いは、神々を祭祀する地方豪族の願いに他なりません。いずれにせよ、彼らがこのような動向を示す背景は何でしょうか。
義江は、奈良時代半ばまでの村の祭りのありさまから解きほぐします。それまでの村ごとの神祭りは、村人全員が一丸となって共通に祭る神々の霊力を浴び、その霊力で共同体をくりかえし再生し、村人すべてがそれにとけこむことで、生産と社会活動を維持してゆくものであったとします。そして、村の祭りをとりしきる神主は、通常村長であり、村政をとりしきるとともに、祭り場に国・郡・郷などの下級役人を呼びいれて律令法にある租税法の意義を初穂の延長に捉えて説明させていたというのです。
 ところが、8世紀の後半、奈良時代の半ば頃から村の構造的な変化が起きました。
 律令国家の組織力が発揮され、条里制の整備、用水路の確保、山野の開発などが推進され村内部に余剰が生じ、村長や富農層による私富形成につながったと述べるのです。8世紀半ばからの生産力の向上は史料的にも明らかなことです。
 その中で、共同体的司祭者から私的領主に変貌しつつある当時の地方支配者に価値観の変動が生まれてきたのです。
 それは罪の意識と呼べるものです。
 彼らは、長きにわたって神を祭る者としての立場を最大限利用してきました。だが、その勢いがあまりに急速なため、このギャップにとまどい、私腹を肥やすという自らの行為が神の道に背く罪であり、神と村人の報復を受けて当然であるという自覚が芽生えてきたというのです。
 私的な欲望に目覚めた者のジレンマを救う新たな価値観、それが「三宝に帰依する」ことでした。三宝=仏教こそが彼らの苦悩を癒(いや)し新しい支えを与えてくれる論理であり価値観だったというのです。しかも、当時の大乗系仏教は、贖罪のための苦行と悟りという究極の課題を出家した僧侶の課題に限定し、この僧侶を供養し布施さえすれば贖罪と救済が保障されるというものでした。私的領主化しはじめた地方の豪族にとってなんと都合のよい論理と価値観であったことでしょう。ちなみに「三宝」とは仏像・僧侶・仏法(仏の教え)との解釈もあります。仏像を拝み、僧侶に布施をし、お経を唱えさえすれば罪の意識から解放されるというのです。
 尤も、そのような解釈が成り立つ前提として、8世紀半ばには、仏教の理念やその具体的な様相が彼ら地方豪族にまで認識されるようになったという社会的背景があります。律令体制は、神の存在をアピールする神祇イデオロギーだけでなく、鎮護国家を標榜する国家仏教によって支えられていたという側面を見ないといけないと思うのです。聖徳太子が活躍した飛鳥時代の寺院数がわずか46なのに、律令法が準備された天武・持統天皇の白鳳期にはその10倍の480余の寺が建つのです。(田村圓澄、前掲書)美濃山廃寺もその一つなのかもしれません。いずれにせよ爆発的な寺院数の増加です。
 国家的な仏教文化と思想が社会に広がるなかで、地方豪族の「罪の意識」が芽生え、だが仏教それ自体が彼らの悩みを払拭してくれるという論理構造の中で、仏教が村の鎮守の社にまで浸透してきたという事なのでしょう。

雑密から大乗密教へ

 その際、密教が重要な働きをするようです。罪の意識に悩む地方豪族の動きを積極的に受けとめて、彼らを仏教の世界に誘ったのは、民間を遊行する密教僧侶でした。
 そもそも密教は、呪術的な修法と修業によって、僧みずからが超越的な神通力を身につけ、その力で贖罪を行い、悟りに到達する宗教です。インドで紀元前2-1世紀に大成されたものですが、価値観が異なる世界の諸民族のなかに拡げるために極端なまでの具体的な累積を行い、そのため、悟りの道を示す論理は逆に極度に普遍化され抽象化されたといいます。
 その密教は、日本では基層信仰(神祇)のゆきづまりを仏教化された秘儀で強化、再生させる面に力点が置かれ、大乗仏教が達成した普遍性や抽象性は逆に後退していったとのこと。これが一般に雑密と呼ばれるものです。
 そんな遊行僧の一人として満願禅師がいます。彼は多度神宮寺の基礎を築き、常陸国鹿島神宮寺も建てており、箱根三所権現も彼の建立になるとのことです。満願はまさにこの道のパイオニアとして、全国各地を巡り、ゆきづまった神々を仏教の世界に誘ったとされます。
 但し、地方の神宮寺が地方の豪族層や民衆に支えられるだけで満足することはありませんでした。神宮寺の多くは、9世紀半ばごろまでに、延暦寺や東寺、石清水八幡宮寺、興福寺といった国家的規模の大寺院の別院=末寺となるという動きをとります。多度神宮寺は、当初(839年)、天台延暦寺の別院となることを朝廷から認められますが、翌年解消。849年(嘉祥2)には真言東寺に接触し、東寺別院の地位を得ます、神宮寺みずからが鎮護国家の寺院東寺の別院になって鎮護国家の働きをすると宣言したに等しいことです。 
 一地方の神宮寺が鎮護国家の大寺院に結びつく。それは朝廷自身が大いに望むところでした。何より地方豪族の心を国家の側に繋ぎとめることになるからです。そして、そんな働きを自ら担った僧侶がいます。空海(774~835)その人です。
 空海は、唐に渡り大乗真言密教のすべてを伝授され帰国します。帰国後嵯峨天皇に接近し、大乗真言密教を護国の教えとさせ、神宮寺などの動きを自身の教理と教団(真言宗)のもとに編成することを認めさせようとします。そのことは直ぐに認められることはありませんでしたが、高野山の金剛峯寺を拠点に教団を育成し、やがて嵯峨帝から東寺が与えられ、淳和天皇によって東寺が真言専修の護国寺となるのです。
神宮寺を統轄しようとする真言密教は、王権鎮護の教団となることで、王権の保護を求める諸国神宮寺をさらに強く引き入れる条件を整えるのです。そんな意味で空海が、「雑密の大乗密教化と王権による庇護と王権擁護という課題を実現した、まさに日本宗教史上の巨人というにふさわしい」と義江が評価するのも尤もだと思われます。

8~9世紀における諸国の神仏習合の動きを見てきましたが、ここで、再び宇佐八幡宮に戻り、八幡神が「八幡大菩薩」と呼ばれるようになった事情を先の村山論文から確認し、今回は筆を擱くこととします。
「宇佐八幡宮では託宣が下ったとして、延暦2年(783)、神を「護国霊験威力神通大自在王菩薩」と称することになった。これは神が人間の迷いの世界に化身して現れ、衆生(すじょう)を救済すべくこの号を名のると告げたことによるもので、人間を救う程に八幡神は解脱して菩薩に上昇したことを示したのである。おそらくこの神託を考えたのは宇佐の神宮寺の社僧である。神号に使われた「神通」や「自在」の文字は、法華経の文句からとったもので、末法の世に入っても融通自在に衆生救済の神通力を発揮する霊験すぐれた神である、という意味をこめている。一般にはこれを八幡大菩薩と呼ぶ慣例になった。」

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by y-rekitan | 2012-02-28 10:00 | Comments(0)
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