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◆会報第24号より-02 神仏習合④

シリーズ「八幡神と神仏習合」・・・④
石清水八幡宮の創建

 土井 三郎 (会員) 


 昨(2011)年の3月12日。この日は忘れられない日となりました。探究する会の例会日で、文化財保存課の小森俊寛さんに石清水八幡宮における仏教遺跡等の発掘現場を案内して頂き、その後会場を研修センターに移して八幡宮の西中道(にしなかみち)禰宜(ねぎ)に「石清水八幡宮と神仏習合」と題してご講演いただいた日です。だが、それにもまして、その前日、東北地方が大激震に見舞われ目を覆うような惨状が刻々テレビの画面から流れ、のん気に例会なんかやっていていいのかといった声も聞かれる中での開催であったのです。
 そんななか、登壇した西さんが、開口一番に東北・関東の大地震に触れ、罹災された方々が一刻も早い回復を願うと同時に、祭祀を司る者として責任を感じざるを得ないといった趣旨の発言をされたことも記憶に新しいところです。

平安新仏教の流れの中で

 その西氏の講演は、初めに神仏習合の歴史をひもとくものでした。その詳細は会報12号に概略を掲載していますが、石清水八幡宮の鎮座は「平安時代になり、最澄と空海によって平安仏教が開かれ、朝廷から庇護を受けるが、その流れにそった」ものであるという指摘は印象深いものでした。
どういうことなのか、空海と最澄の八幡神との関わりからみてゆきましょう。
 真言宗を開いた空海(774~835)は、804年の入唐に際して八幡宮に祈請したとされます。南北朝期に書かれた『大師御行状記』によれば、僧形の八幡が空中に現れ、東寺草創の時から帝都鎮護の儀があったとのことです。事実、京都の東寺に八幡大菩薩を勧請したのは弘仁元年(810)のことです。天台宗を開いた最澄(767~822)も、弘仁5年(814)に八幡宮を詣で法華経を講じたとされます。
 いずれにせよ彼らの行動もあって、宇佐に参詣する仏僧が多くなりました。つまり、平安新仏教が八幡大菩薩の信仰に意を注ぐ者が多くなったということです。そんな仏僧の一人に大安(だいあん)寺の行教(ぎょうきょう、生没年不詳)がいます。彼もまた入唐し、帰朝の時、宇佐宮に参詣し、一夏九旬(90日間)の参籠をなし、大同2年(807)に八幡宮を大安寺鎮守として勧請したというのです。

男山遷座にいたる経緯

 天安2年(858)10月頃に、行教は大僧都真雅(だいそうずしんが)の推薦により宇佐に派遣されることになりました。天皇即位に関してのことであるといわれています。太政大臣である藤原良房(よしふさ)は文徳(もんとく)天皇の第四皇子惟仁(これひと)親王(母親が藤原明子)が無事皇位継承できるように願っており、その祈念のためです。いわば私的な勅使でした。
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清和天皇は未だ9歳で、年上の惟喬(これたか)皇子(母親が紀静子)をさしおいて即位すれば非難されるので、道鏡事件以来、皇位継承では絶対的な権威をもつ八幡大菩薩の託宣が下されることを願ってのものだとされます。同年11月に惟仁親王は無事に即位。行教の宇佐派遣はその必要がなくなりました。
 但し、行教は翌年、別の目的で宇佐に派遣されます。幼少の天皇のために宇佐で祈請するよう宣旨(せんじ)を蒙ったのです。行教は再び一夏九旬の参籠(さんろう)を実施。そこで神託を得て、貞観(じょうがん)元年(859)7月20日に京に上り、8月23日に山崎離宮辺りに寄宿し、そこで示現(じげん)を得て石清水男山の峯に神体を安置するのです。
 朝廷の対応もすばやく、行教が示現を得て程なく朝廷から勅使が男山に向かい、ついで木工寮(もっこうりょう)が神殿の用材を調達し建設が始まります。翌貞観2年(860)には宝殿を造立し、御像を安置し祭祀祈祷が行われたといわれます。(※1)
 「石清水八幡宮の勧請は勅命とはいえ、太政大臣藤原良房が主体性をもち、宇佐宮がこれに呼応し、南都大安寺の行教がその間を調停してでき上がった」(※2)との解釈がありますが、妥当な見解だといえるでしょう。
 ところで、飛鳥時代に起源をもつ大安寺は、天武朝の時代に「大官大寺」と改称されます。天皇が寺の願主となる仏教興隆と統制を掌握する大寺の意味をもつ寺であったのです。そのため為政者との関わりも深く、藤原良房はこの寺の大僧都真雅を通じて行教に渡りを付け宇佐に派遣させたのでしょう。そして行教といえば紀氏出身の僧です。皇位継承を巡って、藤原氏とはいわばライバル関係にある紀氏出身の彼が、なぜ惟仁擁立に手を差し伸べたのか。疑問が持たれるところですが、古代の大豪族とはいえ藤原氏に圧倒され、何とか名門の命脈を保つためにあえて藤原氏に協力したという解釈も成り立つようです。

幼帝護持というコンセプト

 藤原良房は辣腕の政治家でした。幼帝が出現してしばらく経った貞観8年(866)応天門の変が勃発します。平安宮大内裏に通じる応天門が何者かによって放火され炎上するのです。事件の真相は不明のまま結局大納言伴善男(とものよしお)父子が犯人であるとされ配流されます。
 古代の名門大伴氏が失脚するのです。翌年には、良房の義理の娘(良房の兄長良の娘)高子(たかいこ)が清和天皇のもとに入内し、後に貞明親王(後の陽成天皇)を生むことになります。「(応天門の変は)良房が仕組んだ事件であったと考えることも十分可能であろう」(※3)との見解は的を射たものでしょう。
 ところで、清和も陽成もともに9歳で即位した幼帝で知られています。これまでにないことです。奈良時代では、直系男子で天皇になれる資格をもつ親王が生まれても、幼い間は女帝が中継ぎをするのが慣例でした。天皇の位置づけが奈良時代と大きく様変わりしたといえるでしょう。位置づけだけでなく天皇の性格付けにも大きな影響を与えたとする考えがあります。「幼帝には、神聖・無垢、そして政治的に中立というイメージが付与され、引いては、天皇自体にも聖性がそれまで以上に付け加わった」(※4)というのです。
 つまり、石清水八幡宮の創建は、西氏が語るように「平安仏教の影響」と同時に、平安前期の幼帝の誕生=天皇制の変質という政治的な動向と関わって成立したと捉えられるのです。
八幡信仰の発展

 八幡大菩薩の信仰は宇佐に生まれたが、完成した所は石清水であるといわれます。その後、石清水は朝廷の崇敬ますます篤く、天下第二の宗廟(そうびょう)として発展していきます。その経過を追ってみましょう。
 貞観7年(865)に初めて正式奉幣(ほうへい)を受け、同12年(870)には賀茂・松尾・稲荷などの大社とともに新銭の頒布を受けます。そして、承平天慶の乱(935~941)に対して、石清水への祈祷は殊に深く、乱平定後の石清水の勢力は著しく増大しました。天慶5年(942)には臨時祭が始まります。石清水の臨時祭は賀茂神社の北祭に対し、これを南祭というほどのもので、様々な儀式が執り行われ大層にぎわったようです。
 天元2年(979)からは、一代一度の行幸が定例化され、延久2年(1070)には、それまでの放生会の神幸を行幸に擬し、勅祭として行われるようになります。このころから、石清水の体制が完備し、康保2年(965)の一六社奉幣では伊勢につぎ賀茂社の上位におかれるまでになるのです。
 更に、石清水と皇室の関係が強くなるのは白河天皇以後のことです。白河天皇は毎年行幸し、仏事・法施につとめ堂塔を造らせました。昨年秋、発掘で話題を呼んだ大塔は嘉祥元年(1106)白河上皇の御願と平正盛(清盛の祖父)の造営によって建立されたものとされます。そして、初めて鳥羽天皇の皇后宮に女房として石清水25代別当光清の娘(小侍従・美濃局)が出仕するのです。また、光清の頃から石清水八幡宮は、各地の宮・寺から荘園の本家職を寄進されて全国的な荘園領主になるのです。
 ここで指摘されることは、社領の増大が神事の充実につながっていることです。石清水の場合、臨時祭あるいは放生会など祭事の増大・拡充が神社としての経済的基盤の拡大と密接な関連を持っていたとのです(※5)。

8~12世紀の国家と神社

 さて、男山に勧請されて以来の石清水八幡宮の発展ぶりをみてきましたが、ここで、8世紀の律令体制の確立から院政期(12世紀)にいたる、国家と神社の関係を概観してみたいと思います。朝廷が石清水など諸社に何を願ったのか。そんな中、神社がどのように変容していったのかをみておくことが重要だと思われるからです。中世以降に活躍する神人(じにん)が国家と神社の関わりからどのように発生してくるのかをとらえるためでもあります。
 以下の箇条書きは、山本信吉「神人の成立」の「むすびにかえて」を私なりにコンパクトにまとめたものです。
  ① 律令体制が確立する時期(701年~)
    官社の制度が確立
  ② 聖武天皇の時代(724年~)
    旱魃・疫病の流行―名神の選定、神位の授与
  ③ 清和・陽成天皇の時代(858年~)
    幼帝の安泰を願った藤原氏。神位の一斉授与。神職への大量
    叙位
  ④ 天慶の乱の平定(942年~)
    朱雀帝、円融帝、一条帝による神社行幸の常態化。神領・封戸
    の寄進
  ⑤ 神社の荘園領主化(10世紀末~)
    他の勢力(寺院・国司層)との摩擦が発生。
    神人身分(一般行政の枠外扱い)の成立
  ⑥「保元の新政」(1156年)―後白河天皇によって、有力神社・寺
    院の横暴の抑止を図らねばならないほど有力社寺が特権化し
    た。

※1、宇佐から男山への八幡遷座については、『石清水八幡宮境内調
   査報告書』(八幡市教育委員会編)を参照した。そこでは異説も
   紹介されている。
※2、『八幡信仰』中野幡能(はなわ新書)
※3、4『平安京遷都』河尻秋生(岩波新書)
※5、「神人の成立」山本信吉(『神主と神人の社会史』所収)

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by y-rekitan | 2012-03-28 11:00
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