◆会報第28号より-03 茶久蓮寺

シリーズ「八幡に残る昔話と伝承」・・・③
湯濁山茶久蓮寺(ゆだくさんちゃくれんじ)

丹波 紀美子 (会員) 


 今は橋本駅の軌道の中にすっぽりと入ってしまって電車の通過音と発着音が狭い構内に轟いているが、ここには文化10年(1813)正月7日の火事に遭うまでは「常徳寺別名湯澤山茶久蓮寺」というお寺がありました。現在は西遊寺の前に「三宅碑」が建っていて、寺のあったことを伝えています。

 天正10年(1582)6月2日早朝、明智光秀は主君である織田信長を本能寺で討ち果たす、いわゆる「本能寺の変」がありました。羽柴秀吉は毛利攻めで備中高松城の清水宗冶を攻めていたが、その知らせを受け、宗冶には切腹をさせ、中国大返しという機敏さで山崎へ帰って来ました。12日、13日と戦は続いたが光秀は援軍の少なさと士気の低下と脱走者の多さに敗戦を悟り、密かに夜に乗じて勝竜寺城を脱出し坂本に向かって逃げる途中に小栗栖で農民の落ち武者狩りにあって亡くなりました。これが「山崎の戦い」です。

 戦に勝った羽柴秀吉は家来数人を連れて「石清水八幡宮に詣でて戦勝報告をして来る」と渡し船に乗った。川の流れに揺られながら橋の無い不便さを考えていたであろうか?そのうちに橋本に着いた。
 「おお!ここに常徳寺がある。常徳寺なる寺は、昔、足利義尚(よしひさ)公の陣僧〈室町幕府は出陣の際、僧侶を連れて行く。死者の弔い、軍師として敵方へも派遣〉であった春庭が開基した寺である。義尚公は茶人である義政公の息子故、茶にも通じていたであろう。陣僧であった春庭も中々の茶人だったと聞く、この寺は代々茶が盛んであろうかのう?茶を所望しよう」お茶に眼の無い秀吉は早速、寺に入って行った。家来が「茶を一服頂きたい」出てきた住職はびっくり……。
目の前に立派な大将が立っている。その大将はついこの間まで川向こうで戦争していた羽柴秀吉様と聞く。
 「はい!ただいま」と言いながら、奥に行き、「どうしよう!茶をよくご存知で造詣の深い羽柴様に差し上げるような茶が点てられない。困った!どうしよう!ええっい!暑いので喉も乾いていらっしゃることだろうから白湯を差し上げよう」と、ぬるめの白湯を茶碗に一杯入れて秀吉に差し出した。秀吉は「喉が渇いているので丁度よい」と、うまそうに一気に飲み干した。「今度は茶を所望したい」また持って出たのは白湯であった。何度、茶を頼んでも白湯ばかり出てくるので、そのうち秀吉も相手が茶人である自分のお茶に敬意を示しているのだと分かり、突然、大声で笑い出した「ワッハッハハ!分かった、分かった、そちの寺は湯を澤山くれて茶をくれん寺である故、湯澤山茶久蓮寺にするがよい」
 f0300125_18172100.jpg秀吉の奇知に富んだ寛大な措置に寺一同感激をして後世まで秀吉様を祀ろうとその後、木像の秀吉像を造った。秀吉が天下をとった後、20石の寺領も頂いた。また秀吉は天正20年には山崎橋の架橋にも着手した。秀吉と常徳寺との関係はこんな出会いだったのでしょうか???
 

 「秀吉と湯澤山茶久蓮寺」の話は橋本だけではなく、京都の「浄土院」や姫路の「法輪寺」にもあります。いずれも白湯が出てお茶が出ない話です。
 浄土院は北野大茶会の準備の時に名水が湧く寺だと立ち寄って白湯ばかり出た話。法輪寺は英賀城を攻めるときに立ち寄って秀吉が軽装のため間違えられて白湯しか出て来なかった話です。どれも秀吉が大笑いをして付けた名前といわれています・・・・・・。


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by y-rekitan | 2012-07-28 10:00 | Comments(0)
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